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  07 ,2019

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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06

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(21)
■2013年3月15日(金)晴「大船渡→三沢」292キロ(その1)

 富山温泉「沢乃湯」の朝湯に入ってから出発。大船渡から県道9号で綾里へ。
 綾里漁港では漁民総出といった賑わいで収穫したワカメを岸壁に揚げていた。活気に満ちあふれた漁港の光景。水揚げされたワカメはすばやく大釜でゆでられる。
 三陸鉄道南リアス線の綾里駅前には明治三陸大津波と昭和三陸大津波の被害状況が克明に記されている。それには「津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください」と書かれている。
 綾里は今回の「平成三陸大津波」でも40・1メートルの最大波高を記録したが、「津波教育」が徹底しているおかげで死者は30人ほどですんだ。ちなみに明治三陸大津波(1896年6月15日)では、旧綾里村では1269人もの死者を出している。
 越喜来で国道45号に合流し、羅生峠を越え、吉浜湾の吉浜へ。ここまでが大船渡市になる。吉浜からは鍬台峠を越え、釜石市に入った。
 国道45号の峠はすべて長いトンネルで貫かれているが、峠を越えると海が変る。鍬台峠を越えると唐丹湾になるが、湾岸の小白浜は巨大防潮堤がなぎ倒された現場。破壊された巨大防潮堤はそのままの姿で残っていた。この小白浜の巨大防潮堤の半分は破壊されたが、もう半分は無傷で残っている。
 釜石市内に入る。震災2年後の釜石の目抜き通りは、ずいぶんときれいになっていた。釜石の中心街を走り抜け、釜石港へ。ここでは港の防潮堤を突き破って5000トン級の大型貨物船が乗り上げた。その船は日本最大級のクレーン船によって吊り上げられ、海に戻されたが、船が突き破ってできた防潮堤の破壊箇所はそのまま残っていた。
 釜石を出発。国道45号を行く。大槌の手前が鵜住居で、ここまでが釜石市になる。
 鵜住居は釜石市最大の被災地。ここだけで1000人もの犠牲者が出た。悲劇だったのは津波の避難訓練に使われていた鵜住居地区防災センターに避難した100人以上もの人たちが亡くなったことだ。その防災センターは廃墟と化した町並みの中にポツンと残っていた。
 釜石市から大槌町に入る。
 大槌町では、地震発生時、町役場前で防災会議を開いた当時の町長や町役場の職員40人が亡くなるなど1300人が犠牲になった。すさまじい数字だ。町役場はまだ残っているが、「平成三陸大津波」のメモリアルとして残そうという意見と、「もう見るのもいやだ、すぐに撤去して欲しい」という意見に割れ、町を二分した。その結果、一部を残すことに決まった。町としては広島の「原爆ドーム」をイメージしているようだ。大槌の町中には1344人の犠牲者を悼む「慰霊1344広場」が開設されていた。その前で手を合わせた。
 大槌町から山田町に入る。
 山田も大津波に襲われて大きな被害を受け、700人以上もの犠牲者が出た。鵜住居、大槌、山田と、三陸海岸のこの狭いエリアだけで3000人以上もの多くの命が奪われた。鵜住居から山田までは20キロほど。ビッグボーイで走れば30分ほどの距離でしかない。
 壊滅的な被害を受けた山田だが、隣合った2つの町、大槌と山田には大きな違いがある。それは町役場だ。大槌の町役場は津波の直撃を受けて全壊。それに対して山田の高台にある町役場は残った。司令塔を失った大槌と、司令塔の残った山田、この隣合った2つの町は対照的だ。
 山田の町役場の隣には八幡宮があり、参道の入口には「津波記念碑」が建っている。それは1933年3月3日の昭和三陸大津波の後に建てられたものだ。
 山田の「津波記念碑」には次のように書かれている。
  1、大地震のあとには津波が来る
  1、地震があったら高い所に集まれ
  1、津波に追われたら何所でも此所位高い所へ登れ
  1、遠くへ逃げては津波に追い付かれる。近くの高い所を用意して置け
  1、県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな
 山田の町役場は「津波記念碑」の教えを忠実に守り、それと同じ高さのところに建っているので無事だった。それに対して山田の町並みは「津波記念碑」の教えを無視し、それよりも下に町並みを再建したので、明治三陸大津波、昭和三陸大津波にひきつづいて今回の平成三陸大津波でも、町が壊滅状態になってしまった。
 山田の町から船越半島に渡ったところには「カキ小屋」がオープンしていた。そこで「カキフライ定食」(900円)を食べた。うまい山田湾産のカキだった。
 山田湾の青い海には大分、養殖用の筏が見られるようになった。山田漁港に行くと、ずいぶんと活気が戻っていた。おびただしい数のカモメが、山田漁港に水揚げされる漁獲量の増えていることを証明しているかのようだった。

05

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(21)
■2013年3月14日(木)晴「宮戸島→大船渡」212キロ(その2)

 気仙沼を出発。ビッグボーイを走らせ、国道45号で岩手県に入る。最初の町が今回の「平成三陸大津波」で一番大きな被害を出した陸前高田だ。かつての町並みは消えたままで、いまだに復興の芽すら見られないが、枯れた「奇跡の松」の復元工事はほぼ終ろうとしていた。「日本三大松原」に次ぐくらいの高田松原は全滅し、7万本以上もあった海岸の松はすべて流された。その中でかろうじて残ったのが「奇跡の松」だった。
 陸前高田の海岸は地形が変わり、高田松原海水浴場の長い砂浜は消えた。家族連れで賑わった夏の海水浴場のシーンが、しきりに目に浮かんでならなかった。
 国道沿いの高層ホテルは取り壊されたが、道の駅「高田松原」の建物は無惨な姿をさらして残っていた。その前には屋根つきの建物の中に、新しい慰霊碑が出来ていた。建物の壁には震災前の陸前高田の駅前通りの写真が貼られてあったが、その1枚の写真に胸が熱くなり、ジーンとしてしまう。
 陸前高田から通岡峠を越えて大船渡市に入っていく。JR大船渡線の線路はJRバス専用の舗装路に変わり、赤いハイブリッドバスのBRTが走っている。活気を取り戻した大船渡漁港から、かつての大船渡の中心街へ。瓦礫は完全に取り除かれている。そして大船渡線の終点の盛駅に到着。盛駅の周辺は大津波の影響をほとんど受けていない。ここでもわずかな高さの違い、地形の違いによる大津波の被害の有無、被害の濃淡を見せつけられるのだった。
 大船渡郊外の富山温泉「沢乃湯」に泊まった。ここは宿泊可。それも1泊3000円という安さ。東北の太平洋岸にはほとんど温泉がないので、富山温泉は貴重な存在だ。湯から上がると夕食。部屋で国道45号沿いのローソンで買ったコンビニ弁当を食べた。「十和田バラ焼き弁当」と「納豆巻」だ。

04

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(19)
■2013年3月14日(木)晴「宮戸島→大船渡」212キロ(その1)

 宮戸島の民宿「桜荘」の朝食を食べ出発。もう一度、宮戸島をまわり、東松島市の中心、矢本へ。JR仙石線の矢本駅前でビッグボーイを止めた。仙石線は鳴瀬川を渡ったところにある陸前小野駅から石巻駅までは再開されている。
 陸前小野駅から松島に近い高城町駅の間は不通のままで、JRの代行バスが走っている。その不通区間に野蒜駅と東名駅がある。この2つの駅を内陸側に移し、新たに新野蒜駅と新東名駅をつくり、2015年には仙石線の全線を開通させるという。そのときは仙台から石巻まで、仙石線の全線に乗ってみたいものだ。頑張れJR、頑張れ東北!
 矢本からは国道45号→国道398号で石巻の町に入っていく。石巻でも石巻駅の駅前でビッグボーイを止めた。
 石巻駅を起点にして石巻をまわる。ゴーストタウン化した旧北上川の川沿いはそのままの風景だが、道をふさいでいた乗り上げ船は撤去されていた。川岸から日和山に登り、展望台から旧北上川の河口と石巻漁港を見下ろした。山裾と海の間は瓦礫が撤去され、更地になっている。
 日和山からの眺めを目に焼き付けたところで、石巻漁港へとビッグボーイを走らせた。 遅々として復興の進まなかった石巻漁港とその周辺だが、やっと動き出した。漁港の岸壁はかさ上げされ、漁船が接岸している。仮設の魚市場も完成した。水産加工場も次々に完成している。東北太平洋岸有数の漁港、石巻港が復興すれば、石巻の町全体が活気づく。1日も早い復興を願うばかりだ。
 うれしかったのは仮設の市場食堂、「斉太郎食堂」の営業再開だ。
 以前の「斉太郎食堂」と比べるとずいぶん狭くなったが、食堂内はほぼ満員という盛況ぶり。すこし早めの昼食にし、「海鮮丼」(1000円)を食べた。
 石巻漁港の魚市場内にあった頃の「斉太郎食堂」はほんとうによかった。ぼくは日本一の市場食堂だと評価していた。早朝から営業していたし、メニューは多彩で料金は安く、ボリュームも満点。魚介類の新鮮さは群を抜いていた。ゆったり気分で食べられる広い食堂で、三陸の「海の幸」を味わいながら漁業関係者の会話をそれとなく聞くのが大きな楽しみだった。客の大半は漁業関係者だった。
 石巻からは国道398号で女川へ。万石浦沿いに走り、女川町に入る。万石浦沿いの女川は大津波の被害をまったく受けていない。ところがJR石巻線の浦宿駅前を過ぎ、ゆるやかな峠を登り、峠上の女川高校を過ぎると風景は一変し、全滅した女川の中心街が眼の中に飛び込んでくる。被災地の瓦礫は撤去されていたが、倒壊してひっくり返ったビルはそのまま残されている。ここで驚かされたのは、町中を貫く新しい国道だ。計画路線は見上げるような高さを通ることになっている。
 女川から国道398号で三陸のリアス式海岸を行く。ふたたび石巻市に入り、雄勝へ。 大津波のメモリーだった公民館の屋根上に乗ったバスは3・11から1年を機に下に降ろされたが、その公民館も取り壊されていた。雄勝湾の一番奥の雄勝には何も残っていない。ひとつの町が完全に消えた。復興の芽すら見えない。
 雄勝から釜谷峠を越えると東北一の大河、北上川の河畔に出る。そこには新北上大橋がかかっている。橋の一部が流されたので、長らく通行止になっていたが、今はその区間に仮橋がかかっているので何ら問題なく通行できる。
 新北上大橋のたもとの右手には、今回の大津波では一番の悲劇の舞台になったといっていい大川小学校がある。ここでは78人の生徒と11人の職員が大津波に流された。そのうち助かったのは4人の生徒と1人の職員だけだった。ここは北上川河口から約5キロの地点。太平洋から5キロも離れた内陸まで、これだけの大津波が押し寄せるとは誰も想像もしなかったのだろう。大川小学校の校舎はまだ残っていた。
 新北上大橋を渡り、旧北上町に入っていく。北上川の川沿いには吉浜小学校がある。この吉浜小学校にも大津波が押し寄せた。3階建校舎の3階までが浸水した。校舎の正面にある時計は地震発生時の14時46分で止まっている。この時、吉浜小学校はすでに放課後で、49人の生徒のうち、卒業式の準備で残っていた6人の生徒と教職員は校舎の屋上に逃げて助かった。
 吉浜小学校のすぐ近くには避難所になっていた石巻市北上総合支所がある。ここでは悲惨を極め、避難してきた57人の内、何と54人もの人たちが亡くなった。その中には吉浜小学校の生徒が7人もいた。
 白浜岬で北上川の河口を見たあと、相川漁港に行く。ここには相川小学校がある。海岸のすぐ近くにあるのにもかかわらず、70余名の生徒、全員が無事だった。地震発生と同時に生徒たちは教職員と一緒に小学校の裏山を駆け登った。その3日前に相川小学校では津波の非難訓練がおこなわれた。先生や生徒たちは避難訓練通り、迷うことなく裏山に登った。相川小学校の裏山というのは、大川小学校の裏山よりもはるかに急な登りだ。
 同じ石巻市内にある大川小学校と吉浜小学校、相川小学校の3校はれぞれの明暗を分けてしまったが、とくに大川小学校と相川小学校の違いはただひとつ、常日頃から津波の避難訓練をしていたかどうか、ということである。
 国道398号を北へ、石巻市から南三陸町に入る。三陸屈指の海岸美を誇る神割崎の真っ二つに割れた「神割伝説」の大岩を見、大津波を連想させる「波伝谷」を通り、国道45号に合流する。以前は「海の畑」を思わせる志津川湾だったが、養殖筏は大津波で根こそぎやられ、まる裸にされたような海になってしまった。そんな志津川湾にもかなりの養殖筏が見られるようになっていた。
 志津川の町中に入っていくと、震災から2年が過ぎたというのに、復興にはほど遠い光景がひろがっている。志津川漁港に行くと大津波によって破壊された防潮堤はそのままだが、造船所が仕事を再開し、新しい漁船を造っていた。
 志津川につづいて歌津の町に入っていく。ここも壊滅状態。海沿いを走る国道45号の橋は落ちたままだ。そんな歌津の町並みをJR気仙沼線の歌津駅から見下ろした。線路が流された気仙沼線の開通の見込みはまったくたたず、代行バスが走っている。
「南三陸町」というのは2005年10月に志津川町と歌津町が合併して誕生した町。震災前はほとんどの人が知らなかったような町名だが、今回の大津波で全国に知られるようになった。
「三陸」も同じことがいえる。
 明治29年(1896年)6月15日の「明治三陸大津波」は、死者2万1959人、行方不明者44人という未曽有の大災害になってしまったが、この大津波で「三陸」の名は日本全国に知れ渡り、その名が定着した。
 国道45号で南三陸町から気仙沼市に入っていく。気仙沼では潮吹岩で知られる岩井崎に寄り道した。国道45号から岬までの道沿いは大津波にやられ、すさまじい惨状を見せていた。これが震災から2年という時間のすごさとでもいおうか、瓦礫はきれいに取り除かれ、不思議なほどの落ち着きを見せていた。
 岩井崎の食堂や土産物店、旅館はすべて大津波によって破壊された。それが何とも不思議なことに、岬の突端に建つ第9代横綱の秀ノ山像は無傷で残った。ここも「奇跡のポイント」。なお秀ノ山は両国国技館入口の壁画で大きく描かれている横綱だ。
 岩井崎をあとにし、気仙沼の中心街に入っていく。
 JR気仙沼線の南気仙沼駅周辺は大津波に激しくやられたところだが、大震災から2年がたち、浸水した水は完全に引いていた。手つかずだった瓦礫も大半が撤去されている。それが気仙沼線の終点の気仙沼駅周辺になると、ほとんど大津波の被害を受けていない。わずかな高さの違い、地形の違いによって、これほどまでの差が出るのが「津波被害」なのである。
 気仙沼湾は奥深くまで切れ込んだ海。その海を突っ切って何隻もの大型漁船が陸地に乗り上げた。震災直後は折り重なった乗り上げ船の下をくぐり抜けていく迷路のような道もあった。それが、今では大型漁船1隻を残して、すべての乗り上げ船は撤去された。残った乗り上げ船をめぐって保存か撤去かで今、気仙沼は議論の最中だ。
「東日本大震災」からから2年がたって、石巻の「鯨大和煮」の缶詰型大看板や雄勝の公民館屋上に乗り上げたバスなど、大津波のシンボル的なものはすでに撤去されてなくなっている。この気仙沼の乗り上げ船などが保存の方向に動いているが、今回の大津波のすさまじさを後世に伝える3・11の記念碑的なものは「復興」とともに必要なことではないかと感じるのだった。