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日本列島岬めぐり:第24回 立石岬(たていしみさき・福井)

2009.07.04 Sat
(共同通信 1990年)

 福井県は日本海に落ち込む大山塊を境に嶺北と嶺南に分かれるが、嶺南の中心が敦賀である。
 古くから北陸道の玄関口として栄えてきた。町中にある気比神宮は越前の一の宮だが、北陸道の総鎮守にもなっている。

 日本三大松原のひとつに数えられる気比の松原を歩いたあと、敦賀半島北端の立石岬に向かった。岬は若狭湾東部に突き出ており、このおかげで北西の季節風が遮られ、敦賀は昔も今も天然の良港になっている。

 江戸期から明治にかけては日本海航路の千石船、北前船が頻繁に出入りし、帆船から汽船へと時代が変わっても敦賀の繁栄はつづいた。市内で見学した「歴史民俗資料館」の昭和初期の絵図が印象深い。

 敦賀港の岸壁には大型船が何隻も接岸し、航路を示す線が樺太の大泊、真岡、ロシアの浦潮斯徳(ウラジオストック)、中国の大連、朝鮮半島の元山、清津、釜山へと延びていた。東京からはこれら外国航路の船に接続する国際特急列車が出ていた。敦賀は日本海の玄関口でもあった。

 敦賀半島の行き止まり地点は立石という漁村。このあたりは磯釣りとダイビングのメッカのようなところで、釣り人やダイバーの姿が多く見られた。

 立石の集落から立石岬の灯台まで歩いていく。高さ100メートルほどの山上にあるので、かなりきつい登りだ。山道を登りつめ、最後は石段を駆け上がって灯台に着く。古びた石造りの白い灯台で、「1881年7月20日初点灯」と英文で書かれていた。

日本列島岬めぐり:第23回 禄剛崎(ろっこうざき・石川)

2009.07.01 Wed
 (共同通信配信 1990年)

 能登半島を3つに分けて口能登、中能登、奥能登と呼ばれているが、奥能登の東北端の岬が禄剛崎である。

 奥能登の日本海に面した外浦は見所が多い。
 白米の千枚田は山の上から海岸まで段々になった2000枚以上の田がつづいており、目を奪われてしまう。正確には2092枚あるという。

 どれもチマチマした田で、1枚の田は平均すると2坪(約6・6平方メートル)にも満たない。米作りに執念を燃やし、懸命に生きてきた日本人の姿、歴史を白米の千枚田は見事に描き出していた。

 つづいて上時国家、下時国家の両豪農の家、曽々木海岸、日本に残された唯一の揚浜塩田を見てまわり、日本海に突き出た禄剛崎に立ったのだ。

 禄剛崎は新第三紀層の泥岩から成る海岸段丘で標高46メートル。切り立った岬先端の断崖上に立つと、目の前には日本海の大海原が広がっている。水平線上に佐渡が見える日もあるという。断崖下の千畳敷と呼ばれる岩礁地帯には荒波が打ちつけ、白い波が砕け散っていた。

 禄剛崎は古くから日本海航路の重要な地点で、この辺りの地名が狼煙であることからもわかるように、海岸防備の拠点とされてきた。奈良時代にはすでに狼煙台が置かれていたという。

 岬の先端には明治16年に完成したフランス人の設計による灯台。その手前には「日本列島ここが中心」の碑が建っていた。なるほど禄剛崎を中心にして円を描くと、日本本土最北端の宗谷岬と最南端の佐多岬が同心円上にくるのである。

「軽岡峠」カソリからの補足メール届きました。

2009.06.30 Tue
コメントの返信にもしておりますが、カソリから軽岡峠についてメールが届きましたので転載しておきます。

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 ぼくが国道158号の軽岡峠を初めて越えたのは、1979年8月8日のことでした。その当時の軽岡峠はトンネルではなく、つづら折りの峠道で峠を越えていきました。車1台が通れるくらいの道幅の狭い道で、峠の頂上には「軽岡峠 頂上」と書かれた木標識が立っていました。白いペンキで塗られた木標で、それに黒字でそう書かれていたのたのです。

 その後、トンネルが開通し、新軽岡峠となり、さらに今のトンネルへとつづいていきます。今のトンネルはそれ式でいうと新新軽岡峠ということになります。さらにその後、東海北陸自動車道のトンネルが完成しましたが、それは新新新軽岡峠ということになります。

 一番北に新軽岡峠のトンネルがあり、その南に現在の国道158号の新軽岡峠のトンネルがあり、その南に東海北陸道の新軽岡峠のトンネルがあり、さらにその南に軽岡峠の峠越えの旧道があります。軽岡峠はこんな図式になっています。

「カソリと走ろう!」第10回:「サハラ砂漠縦断」

2009.06.29 Mon
※管理人注:この記事にはライダーの事故死についての記述があります。読み進める上で読者のご判断をお願いいたします。
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 (『バックオフ』2005年4月号 所収)

「チュニス→タマンラセット」
 今回の「サハラ砂漠縦断」の出発点はチュニジアの首都、チュニス。まずはアフリカ大陸最北端の地中海に突き出たブラン岬に立ち、我ら「ホガール軍団」は2004年12月4日、15台のバイクを走らせ、チュニスから南へ。

 北アフリカ最古のイスラムの町、カイロワンを経由し、チュニジア南部のサハラ砂漠に入っていった。サハラの乾ききった空気を切り裂きながらスズキDRーZ400Sを走らせるていると、
「おー、これぞ、我が世界!」
 と叫びたくなってくる。

 サハラのオアシス、トゥズールからアルジェリア国境へ。国境越えが大きな難関。アルジェリアは1990年代に入るとイスラム原理運動の嵐が吹き荒れ、内戦同様の状態に陥った。そのためサハラ砂漠縦断など、とてもではないができるような状態ではなかった。
「パリ・ダカール・ラリー」にしてももう10何年もアルジェリアをコースには組み入れられないでいる。

 アルジェリア情勢が急速によくなったのを見極めての、今回の我々の「サハラ砂漠縦断」。「ホガール軍団」は新たなサハラ砂漠縦断の歴史を切り開こうとしているのだ。なにしろアルジェリアのサハラ砂漠といったら「サハラの中のサハラ」なのである。

「道祖神」の菊地優さんの獅子奮迅の活躍のおかげで、1日がかりになったが、我々全員の入国手続きと15台のバイクの通関が終わった!

 エルウエッド、トゥグール、ワラグラのオアシスを通り、ガルダイアの南でアルジェリアを縦貫するN1(国道1号)に合流。このN1こそ、サハラ砂漠縦断の一番の幹線の「ホガール・ルート」なのだ。サハラ砂漠の中心部のホガール山地を越えていく。

 世界でも最大級の砂丘群、グラン・エルグ・オクシデンタル(西方大砂丘群)の東端を走り、エルゴレア、インサーラのオアシスを通り、北回帰線を越え、12月10日、サハラ砂漠最奥のタマンラセットに到着した。

「タマンラセット→アガデス」
 チュニスからタマンラセットまでは2400キロ。ここはまさにサハラ最奥のオアシス。北の地中海からも南のギニア湾からも海からは限りなく遠い。
「キャラバンサライ」に泊まり、タマンラセットとその周辺をまわる。圧巻は北85キロの「アセクラム」。標高2585mのこの地点はホガール山地のメインスポットといってもいい。

 山上には「フーコー神父」のエルミタージュ(隠遁所)がある。その前に立つと、ホガール山地の奇峰群を一望する。地球とは思えない別世界の風景。反対側に立つと、ホガール山地の最高峰タハト山(2908m)を間近に眺める。やがてタハト山から南へとつづく山並みに大きな夕日が落ちていく。日が落ちると、急激に気温が下がる。ここには宿舎がある。7人用と8人用の2部屋。夕食後、我ら「ホガール軍団」の面々はベッドの上に敷いたシュラフにもぐり込んで眠った。

 翌朝は夜明け前に「フーコー神父」のエルミタージュに登る。ものすごい星の数。スースーッと流れ星が満天の星空を横切っていく。1分間に2、3個は見える。遠くにはタマンラセットの町明かり。やがて夜明けを迎える。東の空が白みはじめ、みるみるうちに空全体が橙色に染まり、奇峰群の向こうに朝日が昇る。あまりにも神々しい朝日に思わず手を合わせてしまう。

 タマンラセットに戻ると、我ら「ホガール軍団」は砂道走行の練習をする。ワジ(涸川)の中につづく砂道を走り、そしてニジェールのアガデスへ。チュニスからつづいた舗装路はタマンラセットの南、28キロ地点で途切れ、いよいよ最大の難所に突入。一面の砂の海の中に幾筋もの轍がついている。比較的走りやすそうな轍をみつけ、それをフォローしていくのだが、砂深い轍になると転倒する人が続出。きつい砂道との闘いがはてしなくつづく。

 タマンラセットから110キロ地点で事故発生。BMWのGS1200に乗る大家央(ひさし)さんがギャップにはまり前転宙返りするような格好で吹っ飛ばされた。段差の下がフカフカの砂溜まりになっていた…。

 我々にとってものすごくラッキーだったのは、参加者の中に福岡市の救急車に乗務している栗木邦正さんがいてくれたこと。栗木さんは「ファラオ・ラリー」や「パリ・ダカール・ラリー」の海外ラリーの経験もある。栗木さんはすぐさま大家さんをみてくれた。鎖骨が折れているとのことで、手際よく三角巾で応急処置をしてくれた。

 事故現場近くでキャンプ。夕日がサハラの地平線に落ちていく。そこからタマンラセットに携帯で電話すると、夜の10時過ぎになってトアレグ族のタトゥーが運転するランドクルーザーが来てくれた。「キャランバンサライ」のオマールも一緒だ。そのランクルの屋根に事故車のBMWを乗せるつもにしていたが、重すぎてうまくいかない。そこで急きょ、BMWにはぼくが乗り、タマンラセットの病院に向かった。

 夜の砂漠を走り出した瞬間、ぼくは凍りついた。BMWは事故のダメージでヘッドライトの光軸が下がり、ハイビームにしてもほんの目の前を照らす程度。高速で走れば何なく突破できる砂道も、暗い中でヨタヨタ走ると、やたらと転倒してしまう。そのたびに渾身の力をこめてGS1200を起こすのだ。もうヘトヘト。

 全部で7回も転倒し、夜中の3時前にタマンラセットに到着。大家さんの収容された総合病院はしっかりとした設備でひと安心。救急病棟ですぐさまレントゲンをとってもらうとやはり鎖骨が折れていた。大家さんは残念ながら日本に帰国することになった。

 翌日、キャンプ地に戻ると、国境のオアシス、インゲザムを目指して南下。見渡す限りの平坦な砂漠では自由自在にどこでも走れる。砂もそれほど深くないので高速走行ができる。DRのアクセル全開で走っていると、風間深志さんと一緒に走った「パリ・ダカ」のシーンが思い出された。砂嵐にも遭遇。視界がゼロになるほどではなかったが、ザーザー吹きつける砂の中で写真をとったら、一発でカメラがやられた。シャターが下りなくなってしまったのだ。

 タマンラセットから400キロ走り、インゲザムに到着。ホガール山地を下りきったところなので強烈な暑さ。それまでが寒いサハラだったので、あまりの暑さに頭がクラクラしてしまう。
 インゲザムの町から10キロ走ったまさに砂の海の中に、ポツンとアルジェリア側の国境事務所がある。そこででひと晩キャンプし、翌日、出国。アルジェリアからニジェールに入った。

 ニジェール側国境事務所のあるアッサマカから180キロ走り、アルリットに到着。ここから舗装路になる。我ら「ホガール軍団」は、これで「サハラ砂漠縦断」を達成したという喜びで、みんなで握手をかわした。アルリットの町中の食堂で食べたサラダつきの昼食がとびきりうまかった。そして12月18日の夕刻、アガデスに到着した。

「アガデス→アクラ」
 ニジェールのアガデスはサハラ砂漠を海にたとえれば港のようなところ。ここで準備を整え、サハラ砂漠縦断の車やトラックは960キロ北のアルジェリアのタマンラセットや1700キロ北東のリビアのセブハなどへと向かっていく。そんなサハラ砂漠南端のオアシスで1日、ゆっくりと過ごした。

 その夜、驚いたことに鎖骨を折った大家さんがタトゥーの運転するランクルにGS1200を積んでアガデスにやってきた。これから先、鎖骨バンドをしてバイクに乗り、ガーナのアクラまで走るという。ツワモノだ!

 翌12月20日、腕におぼえのある8名は、アガデスの東側に広がるテネレ砂漠を目指した。午前9時に出発。先頭をDR−Z400Sの黒岩文雄さんが走り、ぼくが最後尾を走ってみなさんを間にはさんでフォローするような形にした。それにサポートカーのランクルが2台ついた。

 土漠の細かな土が溜まった道も、砂深い轍も快調に走り抜け、波のように次々と押し寄せる砂丘群を越えていった。テネレの砂丘群の美しさは話には聞いていたが、想像以上のものだった。

 そんな砂丘越えでリザーブになった。コックの切り換えに手間取り、スピードが落ち、スタックしてしまった。痛恨のリザーブだ。高速で走行しているときはおもしろいように砂丘を登れるが、いったんスピードが落ちると、あっというまに砂にめりこんでしまう。砂丘の頂上まで半クラを使ってバイクを押し上げ、そこから全速力で「テネレ組」を追ったが、すでにその姿はまったく見えない。一刻も早く追いつこうとアクセル全開で飛ばした。

 大砂丘を飛び越えたときは、
「やったー!」
 と、思わず目をつぶる。砂丘を越えた向こう側が急傾斜で落ちていたからだ。たたきつけられ、バウンドしたが、かろうじて転倒をまぬがれた。

「テネレ組」に追いつけないまま「テネレの木」に着いてしまった。
 かつては砂丘群を抜けたこの平坦な砂漠に、どこからでも目につく木が1本、あったという。だが今は枯れ、それに代わって鉄製のポールが立っている。「サハラで遭難か…」と体が震えてくる。

 夕日が地平線に近づいたころ、サポートカーが来てくれた。助かった!
 それにはサハラを知り尽くしているミッシェルが乗っていた。彼はアガデス方向に戻り、8台のバイクのタイヤの跡を確認すると、1本だけ離れていったタイヤの跡を追ってここまで来たという。なんとも不運なことだったが、砂丘群を間に置いてルートが2本に分かれてたのだ。

 ぼくはその右側を走り、「テネレ組」は左側を走った。サポートカーはぼくが来ないのに気がつき、2本のルートが合流する手前の、分かれている地点で止まったのだという。 サポートカーはぼくを残し、「テネレ組」のいる地点に戻っていった。すぐに全員を連れてくるからと言い残して。

 ところがいつまでたっても戻ってこない。
 日が落ち、暗くなりはじめたころになってサポートカーが戻ってきた。なんと黒岩さんが事故を起こしたという。

 すぐさま現場に急行。するとすでに黒岩さんの息はなかった。栗木さんが懸命になって人口呼吸をほどこしていたが、ほぼ即死状態で、黒岩さんの息は戻らなかった。

 黒岩さんはルートが2本に分かれた間の砂丘をバイクで飛び越えようとしたという。
 全速で砂丘に突っ込み、バイクから体が離れ、なんと砂丘のてっぺんから60メートルも飛んで砂の大地に頭から突っ込んだ。
 栗木さんの見立てでは脳挫傷だという。

 すでに携帯でアガデスに連絡がいき、道祖神の菊地さんと医師の乗ったランクルが真夜中に事故現場に到着した。医師の検視の結果も栗木さん同様、脳挫傷で即死というものだった。黒岩さんの遺体はアガデスに送られていった。

 翌朝、「テネレ組」はテネレの木まで行った。
「日本人ライダー黒岩文雄、この地に死す」
 モニュメントに英語で書き、カンビールやビスケットなどをそなえて全員で手を合わせ、黒岩さんの冥福を祈った。

 12月22日、アガデスを出発。
 南下すると、みるみるうちに緑が増してくる。砂漠からステップ、サバンナ、熱帯雨林と鮮やかな植生の変化が見られる。ついにギニア湾岸に出て12月31日、ガーナの首都、アクラに到着。チュニスから6763キロの「サハラ砂漠縦断」だった。

うわ、決勝は今日というか明日の明け方ですか!

2009.06.28 Sun
03:20サッカー・コンフェデレーションズカップ2009・決勝「ブラジル×アメリカ」(最大延長6・30まで)清水秀彦青島達也ジョン・カビラ本田朋子

やばいです。月曜日の仕事に影響が・・・てか、起きられるかな?
チベット出発前のカソリもこれは見るんじゃないかな???