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「カソリの全・国道走破行」

 ぼくが日本のすべての国道を走破しようと思いたったのは「30代編日本一周」を終えた1978年のことだった。それ以降、1本の国道に焦点を当て、起点から終点、もしくは終点から起点まで走った。
 相当数の国道を走破した1993年、頭をガーンと殴られるような衝撃を受けた。

 何と1993年4月1日をもって日本の国道がガラッと変ったのだ。53路線の国道が区間を延長するなどして変更になり、58路線が国道に昇格して新規の路線になった。
 ほんとうに頭に来たが、それまでやってきた「国道走破行」がまったく無意味になってしまったことだけはよくわかった。

 いったんはもう「国道走破行」はやらないと決めたが、時間がたつにつれて、もう一度、気分を新にして挑戦しようという気になったのだ。そして大幅な変更から半年後に、「カソリの全・国道走破行」を再開したのだった。

 現在、日本には国道1号から国道58号までのルートナンバーが1桁、2桁台の国道が58本、国道101号から507号までの3桁台の国道が401本(407本にならないのは109、110、111、214、215、216の6本が抜けているため)ある。
 あわせて459本の国道がある。

「国道走破行」を再開した1994年から昨年までの15年間で122本の国道を走破したが、一部区間を走った国道をあわせれば400本ほどにはなる。
「国道走破行」の難しさは、本気になって立ち向かっていかないと、なかなかできないということだ。

 例えば国道252号。この国道はよくは走るが、たいていは関越道の小出ICから国道252号に入り、六十里越を越えて福島県に入り、只見川沿いに会津若松へというもの。ところがこの国道252号というのは起点が柏崎で終点が会津若松になる。柏崎→小出間は走ったことはあるが、なかなか全線を通しては走れない。

 同じような例が国道294号だ。この国道もよく使う。東北道の白河ICから勢至堂峠を越えて会津若松へ。ところがこの国道294号の起点は千葉県の柏なのだ。同じように柏→白河→会津若松と通しては走れないでいる。
「全・国道走破行」は分割してつないで全線を走っても、おもしろくはない。一度に通して起点から終点へ、もしくは終点から起点まで走るところにおもしろさがあると思っている。

 今年(※2010年)は1本でも多くの国道を走破することはもちろんのことだが、日本の幹線の1桁国道、2桁国道をもう一度、走ってみようと計画している。


■カソリの「国道走破行」一覧
001、1994年10月11日 国道335号(北海道)
002、1994年10月12日 国道272号(北海道)
003、1994年11月12日 国道144号(関東・中部)
004、1994年11月15日 国道148号(中部)
005、1994年11月15日 国道147号(中部)
006、1994年12月11日 国道493号(四国)
007、1994年12月13日 国道193号(四国)
008、1994年12月14日 国道194号(四国)
009、1994年12月15日 国道440号(四国)
010、1995年2月4日   国道20号(関東・中部)
011、1995年3月5日   国道135号(関東・中部)
012、1995年10月14日 国道300号(中部)
013、1995年10月17日 国道1号(関東・中部・関西)
014、1995年11月22日 国道9号(関西・中国)
015、1995年11月23日 国道21号(中部・関西)
016、1995年11月23日 国道142号(中部)    
017、1996年8月10日  国道286号(東北)
018、1996年12月20日 国道267号(九州)
019、1997年7月22日  国道45号(東北)
020、1998年4月19日  国道2号(関西・中国・九州)
021、1998年4月20日  国道3号(九州)
022、1998年4月21日  国道10号(九州)
023、1998年4月24日  国道18号(関東・中部)
024、1999年4月10日  国道26号(関西)
025、1999年4月17日  国道55号(四国)
026、1999年4月21日  国道196号(四国)
027、1999年4月24日  国道185号(中国)
028、1999年4月24日  国道31号(中国)
029、1999年4月25日  国道188号(中国)
030、1999年4月26日  国道190号(中国)
031、1999年4月27日  国道213号(九州)
032、1999年5月7日   国道251号(九州)
033、1999年6月13日  国道33号(四国)
034、1999年9月13日  国道279号(東北)
035、1999年9月14日  国道278号(北海道)
036、1999年9月22日  国道44号(北海道)
037、1999年9月25日  国道244号(北海道)
038、1999年9月28日  国道238号(北海道)
039、1999年10月2日  国道231号(北海道)
040、2000年8月17日  国道232号(北海道)
041、2000年12月28日 国道49号(中部・東北)
042、2000年12月28日 国道17号(関東・中部)
043、2001年5月10日  国道14号(関東)
044、2001年5月25日  国道350号(中部)
045、2001年6月26日  国道228号(北海道)
046、2001年9月16日  国道260号(関西)
047、2001年10月15日 国道250号(関西・中国)
048、2001年10月25日 国道485号(中国)
049、2001年10月28日 国道160号(中国)
050、2001年11月14日 国道436号(関西・四国)
051、2001年11月20日 国道378号(四国)
052、2001年11月30日 国道134号(関東)
053、2001年12月12日 国道495号(九州)
054、2001年12月14日 国道382号(九州)
055、2001年12月15日 国道383号(九州)
056、2001年12月17日 国道384号(九州)
057、2001年12月18日 国道499号(九州)
058、2001年12月18日 国道324号(九州)
059、2002年1月6日   国道127号(関東)
060、2002年1月23日  国道224号(九州)
061、2002年3月6日   国道449号(沖縄)
062、2002年3月6日   国道505号(沖縄)
063、2002年3月7日   国道58号(九州・沖縄)
064、2002年3月10日  国道329号(沖縄)
065、2002年3月10日  国道331号(沖縄)
066、2002年3月10日  国道332号(沖縄)
067、2002年4月12日  国道19号(中部)
068、2002年9月11日  国道101号(東北)
069、2002年9月19日  国道112号(東北)
070、2002年9月20日  国道47号(東北)
071、2003年3月28日  国道195号(四国)
072、2003年4月2日   国道439号(四国)
073、2003年5月5日   国道246号(関東・中部)
074、2003年5月11日  国道362号(中部)
075、2003年5月12日  国道138号(関東・中部)
076、2003年5月12日  国道137号(中部)
077、2003年5月12日  国道412号(関東)
078、2003年5月13日  国道15号(関東)
079、2003年5月13日  国道130号(関東)
080、2003年5月13日  国道131号(関東)
081、2003年5月13日  国道132号(関東)
082、2003年5月13日  国道133号(関東)
083、2003年5月14日  国道467号(関東)
084、2003年5月17日  国道129号(関東)
085、2003年5月17日  国道413号(関東・中部)
086、2003年5月17日  国道469号(中部)
087、2003年5月17日  国道149号(中部)
088、2003年5月17日  国道150号(中部)
089、2003年5月18日  国道23号(中部・関西)
090、2003年5月21日  国道271号(関東)
091、2003年5月21日  国道255号(関東)
092、2003年5月23日  国道16号(関東)
093、2003年6月6日   国道414号(中部)
094、2003年6月6日   国道136号(中部)
095、2003年6月7日   国道466号(関東)
096、2003年7月13日  国道284号(東北)
097、2003年8月2日   国道411号(関東・中部)
098、2003年8月14日  国道5号(北海道)
099、2004年6月14日  国道367号(関西・中部)
100、2004年6月16日  国道177号(関西)
101、2004年8月7日   国道37号(北海道)
102、2004年8月11日  国道280号(東北)
103、2004年8月13日  国道48号(東北)
104、2005年4月19日  国道229号(北海道)
105、2005年4月23日  国道235号(北海道)
106、2005年4月23日  国道336号(北海道)
107、2005年7月24日  国道338号(東北)
108、2005年9月13日  国道52号(中部)
109、2006年3月16日  国道126号(関東)
110、2007年2月9日   国道189号(中国)
111、2008年10月9日  国道174号(関西)
112、2008年10月11日 国道199号(九州)
113、2008年10月12日 国道204号(九州)
114、2008年10月13日 国道206号(九州)
115、2008年10月14日 国道266号(九州)
116、2008年10月16日 国道226号(九州)
117、2008年10月23日 国道507号(沖縄)
118、2008年10月30日 国道448号(九州)
119、2008年11月5日  国道178号(中国・関西)
120、2008年11月23日 国道124号(関東)
121、2008年12月23日 国道145号(関東)
122、2009年5月4日   国道321号(四国)

※以上、1993年4月1日以降の一覧

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

アフリカ縦断2013-2014(その32)

「ナイロビ→ケープタウン編」(32)


 1月14日、6時、朝食。マヨパンとトマト、缶詰のビーン(豆)を食べ、8時、出発。N1(国道1号)のウースターからはグレートカルー、リトルカルーの丘陵地帯を豪快なアップ&ダウンの連続で一気に越えていく。

 そして南アフリカのインド洋岸の港町、ダーバン、イーストロンドン、ポートエリザベスを結び、ケープタウンに通じるN2(国道2号)に出た。その間はケープワインの一大産地。丘陵地帯の斜面にはブドウ畑が広がり、ワイナリーをあちこちで見た。かんきつ類やスモモなどの果樹園も見た。

 N2(国道2号)を横切り、ブレダスドルプの町へ。その間もアップダウンの連続。セローに乗る栗山さんは「北海道よりも1000倍も2000倍も大きい風景!」と感動した面持ちで言った。

 ブレダスドルプの町を過ぎると、風景は一転して大平原に変わった。

 12時、アフリカ大陸最南端のアグラス岬に着いた。岬には赤白2色の灯台。岬の突端には「アフリカ大陸最南端」の碑。それには「あなたは今、アフリカ大陸最南端の地に立っています」と、英語とアフリカーンスで書かれている。

 目の前の青い海に別に線が引かれている訳ではないが、ここで右手の大西洋と左手のインド洋の2つの大洋に分かれる。アグラス岬に立っていると、まるで地球を手玉にとっているかのような壮大な気分を味わうことができた。

 アグラス岬に立つのは「南部アフリカ一周」(1973年~74年)と、道祖神のバイクツアー「目指せ、アグラス岬!」(2003年~04年)に次いで3度目のことになる。中でも「目指せ、アグラス岬!」は忘れられない。アグラス岬に立った日の夜はブレダースドルプの町のキャンプ場に泊まった。我ら「アグラス軍団」は大晦日の町に繰り出し、レストランで盛大な宴会を開いた。特産のケープワインを何本もあけ、「乾杯!」を何度も繰り返し、アグラス岬到着を祝った。

 翌朝は2004年の元日。我々はブレダースドルプのキャンプ場で初日の出を見た。一片の雲もない快晴の空に昇る朝日は神々しいばかりで、思わず手を合わせた。真夏のアフリカ大陸最南の地には正月気分はまるでなかったが、口々に「明けましておめでとうございま~す!」と新年の挨拶をかわしたのだ。それがつい昨日のことのように思い出されるのだった。

 そんな思い出の地、ブレダースドルプの町に戻ると、ゴールのケープタウンを目指した。カレドンでN2(国道2号)に合流し、ゆるやかな峠を越えると、喜望峰へとつづく海岸線を一望した。さらにN2を走ると、ケープタウンのシンボルのテーブルマウンテンがどんどん大きくなってくる。

 そしてアグラス岬から200キロほど走ってケープタウンに到着。ナイロビを出発してから28日目、7232キロを走ってのケープタウン到着だ。 ケープタウンでは町中の「ケープタウンロッジ・ホテル」に泊まった。

 夕食はケープタウン一番の繁華街、ロング通りのすし店「ミナト」で。

 まずはビールの「ウイントフック」で乾杯。味よりも名前で選んだビール。そのあとで食べた何種もの握りずしはうまかった。香港人の板前さんが握ったすし。ビールを飲み干すと、つづいて日本酒の「白鶴」を升で飲んだ。

 最高の気分で「ケープタウンロッジ・ホテル」に戻ると、ピーターとレナタのカップルが来てくれた。今度はホテルのバーで2人と一緒にケープワインを飲んだ。

 ナミビアのウイントフックで会い、次にアラスで会い、最後に南アフリカのケープタウンで会ったピーターとレナタ。「アフリカ縦断」での忘れられない人になった。

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一面のブドウ畑

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アグラス岬へ

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アグラス岬の灯台

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アフリカ大陸最南端の碑

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ケープタウンまであとわずか

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ケープタウンに到着!

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ケープタウンのロング通り

「南米・アンデス縦断」(47)

「ルカチェリ・ホテル」の朝食を食べ、バリローチェを出発。パタゴニア縦貫の国道40号(ルータ・クワレンタ)に入り、南へ南へと向かっていく。

「吠える40度」といわるとおりで、南緯40度以南のパタゴニアでは四六時中、猛烈な風が吹きまくっている。国道沿いには「烈風注意!」の標識が立っている。

 パタゴニアの風というのは、太平洋側から吹きつける偏西風。水分をたっぷりと含んだ風がアンデス山脈にぶつかり、チリ側は「地上最悪の気候」といわれるほどの暴風雨、暴風雪に見舞われる。年間の降水量は5000ミリを超える。

 それにひきかえアルゼンチン側というのは、すでに雨や雪を降らせた乾いた風が、アンデス山脈を越えて吹きおろしてくる。そのためアルゼンチン側のパタゴニアは砂漠同然で、年間の降水量は300ミリを割る。同じパタゴニアとはいっても、アンデス山脈をはさんだ東と西では、まったく違う世界になっている。

 国道40号はアンデス山脈の東麓を通っているが、そのルートはアンデス山脈に近寄ったり、遠ざかったりしている。アンデス山脈から離れると、四方を地平線に囲まれた大平原になる。トゲのついた草が、地平線のかなたまで地を這うようにはえている。かわいらしい白や紫の花を咲かせている草もある。

 国道40号を通る車はほとんどない。沿線には小さな町が200キロとか300キロといった間隔でポツン、ポツンとあるだけ。気が遠くなるほどの広大な原野が延々とつづいている。その大半は牧場になっているが、ウシやヒツジの姿を見かけることはほとんどない。チリ人の「島国人気質」とは対照的に、「大陸人気質」で他人には無関心のアルゼンチン人だが、このパタゴニアだけは別。ときたますれ違う車からは、身を乗り出して手を振ってくれることがよくある。

 それにしても、パタゴニアの風は猛烈だ。

 アンデス山脈から吹き下ろしてくる真横からの風に吹かれると、DRで道路の右端を走っていてもあっというまに左端までもっていかれ、あやうく路肩から飛び出しそうになってしまう。風が真正面から吹きつけてくると、アクセルを目いっぱいに開いてエンジンの回転を上げても、スピードが80キロから70キロ、60キロ…と、スーッと落ちてしまう。その反対に真後から吹かれると、まるで無風状態の中を走っているようで、それでいてアクセルから手を離しても80キロぐらいの速度をキープする。

 バリローチェから300キロ南のエスケルに到着。ここには我々の目指す世界最南の町、ウシュアイアまで1937キロと表示された道標が立っている。アラスカのアンカレッジまでは16360キロだ。

 エスケルの町の中心にある「ホテル・ソルデルソル」に泊まる。夕食は我々のつくった日本食。おにぎりと雑煮、それとワカメ、ナス入りの味噌汁。そのあと長谷川さん、斉藤さん、小林さんと町に繰り出し、バーでピスコサワーを飲んだ。

 すでに南緯40度線を越えた高緯度帯に入っているので、夜7時を過ぎても、8時を過ぎてもまだ明るい。地平線に近づいた夕日は金色の光を投げかけ、町を金色一色に染め上げる。自分自身の影がいよいよ長くなり、まるで宇宙からやってきた巨人のようになる。長かった夏のパタゴニアの1日も、夜の10時を過ぎると夕日が地平線のかなたに落ちて、やっと終わりを告げるのだった。

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「ルカチェリ・ホテル」の朝食

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アンデスの雪山を眺める

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昼食の「ミラネーゼ」

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パタゴニア縦貫の国道40号

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「烈風注意!」の標識

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エスケルの道標。ウシュアイアまで1937キロ

東アジア走破行(9) 韓国往復縦断(1)

「東アジア走破行」の第7弾目は2005年10月の「韓国往復縦断」。この年の5月1日、韓国へのバイク持込が解禁になった。「道祖神」はそれを記念して「賀曽利隆と走る!」シリーズの第11弾目として「韓国往復縦断」を企画した。
こうしてぼくは2005年10月8日、大きな期待を抱いて自宅前からスズキDR-Z400Sで走り出し、「韓国往復縦断」へと出発した。
「さー、釜山へ!」
 旅立ちで、これほど高揚した気分になることもそうはない。
 胸がいっぱいに膨れ上がり、秦野中井ICで東名に入っても、「釜山へ、釜山へ!」と何度も「釜山」を口にした。まわりを走っている車、1台1台に、「ぼくはこれから、釜山まで行くんですよー!」と、いいたくなるような気分だった。
 東名→名神と走りつないで大阪へ。大阪では鶴橋のコリアンタウンの食堂で冷麺を食べたが、「東アジア走破行」第2弾目の「韓国一周」(2000年)を思い出し、韓国ツーリングへの期待がいやがうえにも高まった。大阪南港19時10分発の名門大洋フェリー「ふくおか2」で新門司港へ。翌朝の8時には新門司港に着いた。
 まずは九州最北端の部崎に立ち、午前中は北九州をまわった。そして関門海峡を渡り、昼過ぎに関釜フェリーの出る下関港国際ターミナルに到着した。
 2005年5月1日に韓国へのバイクの持ち込みが解禁されたといったが、これは歴史的な出来事といっていい。韓国は「近くて遠い国」といわれてきたが、我らツーリングライダーにとっては「近くてとてつもなく遠い国」だった。韓国にバイクを持ち込むのは至難の技だったからだ。それがこの歴史的な解禁によってパスポートと国際免許証、バイクの国際登録証があれば日本のナンバープレートのままで、下関港から関釜フェリーに乗り、バイクともども韓国の釜山港に渡れるようになった。新たな海外ツーリングの幕開けといっていい。
 集合場所の下関港国際ターミナルには、参加者のみなさんが日本各地から次々にやって来た。最年長は73歳の松浦善三さん。山形県東根市からGL1500のサイドカーで1400キロ走っての到着だ。
「一生に一度は自分の家から海外にバイクで行くのが私の夢だったんですよ」
 と、松浦さんは熱く語った。
 マジェスティーの島田利嗣さんは62歳。一緒に「南部アフリカ」、「サハラ縦断」を走った仲間。東京から日本海ルートで、2泊3日のツーリングを楽しみながら下関までやってきた。
 旧車バハの新保一晃さんとは「ユーラシア横断」、「アラスカ縦断」、「南部アフリカ」、「サハラ縦断」を一緒に走っている。通称「新ちゃん」。バイク大好き人間だ。
 XRバハの伴在哲さんとは「サハリン縦断」、「ユーラシア横断」、「南部アフリカ」を一緒に走った。通称「伴ちゃん」。やさしい性格をしている。
 セローの椋原眞理さんは母親だとは思えないほど若く見える。
 児玉真喜子さんはタンデムでの参加。
 こうして全部で11台のバイクと「道祖神」の菊地優さん、女性通訳の国定富さんの総勢13名で「韓国往復縦断」を走るのだ。
 下関港での出国手続きはスムーズに終わった。関釜フェリーの職員が我々につきっきりで案内してくれたおかげだ。
 イミグレーションではパスポートに「KANMON(関門)」の出国印が押され、カスタム(税関)ではバイクの一時輸出入申告書に下関税関の輸出許可印が押された。
 いよいよ関釜フェリーの「はまゆう」(1万6187トン)に乗船。「はまゆう」は定刻の19時に下関港のフェリー埠頭を離れていく。さっそく自販機の500㏄の缶ビールで参加者のみなさんと乾杯。下関港を出ると缶ビールは無税になるので1本220円。そのあと船内のレストランでみなさんと一緒に夕食。ぼくは「豚カルビー定食」(1000円)を食べた。
「はまゆう」は釜山港を目指し、玄界灘を北西へと進む。冷たい風に吹かれながら甲板に立っていると、暗い波間に漁火が点々と見えた。「おー、何だ何だ、あれは」と声が出るくらいの異様な明るさ。波の荒い玄界灘なので船はけっこう揺れた。
 まったく船酔いしない「船旅大好き」のカソリ、その揺れはなんとも心地のよいものだった。船の揺れがおさまったころ目がさめた。時間は午前2時。まばゆいばかりの釜山の町明かりが見えていた。「はまゆう」は釜山港の港外に停船。すぐ近くには五六島の灯台の灯が見える。関釜フェリーの下関から釜山までの正味の航行時間は8時間ほどでしかない。
 2005年10月10日8時、関釜フェリーの「はまゆう」は釜山港のフェリー埠頭に接岸。岸壁にDR-Z400Sで降り立ったときは「やった、ついに釜山に着いた!」
という気分。釜山港でもそれほど時間がかからずに入国手続きを終えた。
 税関を出て、釜山港の国際フェリーターミナル前に11台のバイクをズラズラッと並べたときは、何ともいえず晴れがましい気分になった。
「道祖神」の菊地さんと通訳兼ガイドの国定さんの乗った車の先導で、我々は釜山の町を走り始めた。バイクに乗りながら、大通りのハングルの看板やヒュンダイ、デーウ、キアなどの韓国車を見ていると、海を渡って韓国にやってきたという実感がする。
 釜山名物の渋滞にはまると、手を振ってくれたり、
「イルボン(日本)か?」
 と、声をかけてくれる人もいるほど11台のバイクの車列は目立った。
 韓国第2の都市、釜山を走り抜け、国道14号に入ったところでぼくが先頭を走り、車が最後尾についた。バックミラーに映る10台のバイクの長いラインには胸がジーンとしてしまう。
 国道沿いの食堂で昼食。記念すべき「韓国往復縦断」の第1食目だ。ここでは「ソモリ・クッパ」を食べた。牛の頭でダシをとったという白っぽい色のスープ。その中にご飯が入っている。辛味はまったくない。濃厚な牛のエキスが舌に残る。日本でもおなじみのクッパだが、これはまさに韓国食。韓国ならではのクッパにうれしくなってしまう。金属器の箸と匙。これもまさしく韓国の食文化だ。
 釜山から国道14号で韓国の大財閥、「現代」の企業城下町、蔚山へ。バイクで走りながら「現代」の工場群を見る。その中でも、急成長をとげている現代自動車の工場が目立った。工場の近くには完成車がズラーッと並んでいた。壮観な眺めだ。
 蔚山からは国道7号を北上し、慶尚南道から慶尚北道に入り、「新羅千年の都」慶州に到着。新羅の歴史は次のようなものだ。
 660年に百済を滅ぼした新羅は、668年には高句麗を滅ぼし、「三国時代」にピリオドを打って朝鮮半島統一を成しとげた。しかし8世紀の後半になると、王位継承争いや農民の反乱などで国が乱れてしまう。9世紀末には西部に後百済が、北部には後高句麗が建国され、朝鮮半島は混乱の「後三国時代」に突入する。918年になると開城の豪族だった王建が後高句麗を倒し、国号を高麗と改めた。935年に新羅はその高麗に倒されてしまう。伝承によれば新羅の建国は紀元前57年なので、高麗に滅ぼされるまでの1000年間、慶州は新羅の都だったことになる。なお高麗は翌936年に後百済を倒して朝鮮半島を統一。高麗時代はその後、1392年に李朝の祖、李成桂に滅ぼされるまでつづく。ちなみに英語の「KOREA」は高麗に由来している。
「さー、慶州めぐりの開始だ!」
 まずは慶州郊外の吐含山中腹にある世界遺産の仏国寺に行く。
 新羅時代の751年に創建された古刹だが、1593年の壬辰倭乱でほとんどの木造の建造物が燃えてしまった。その後、何度か再建された。1970年から73年にかけては大規模な修復工事がおこなわれ、その直後の1995年に世界遺産に登録された。
 入口の一柱門で拝観料の4000ウォンを払い、大伽藍の寺の境内に入っていく。四天王像が立つ天王門をくぐり抜け、まっすぐ歩いていくと正面には石垣の上に建つ紫霞門が見えてくる。その左手には安養門。城壁を思わせるような堂々とした石垣。寺全体が要塞のようにも見える。
 紫霞門の奥に大雄殿、安養門の奥には極楽殿。本殿のそり上がった屋根の大雄殿には、本尊の釈迦牟尼像がまつられ、その左右には弥勒菩薩像と羯羅菩薩像が並んでいる。
 紫雲門と大雄殿の間には、石造りの相塔、釈迦塔と多宝塔が立っている。大雄殿に向かって左側に3層の石塔の釈迦塔、右側には手のこんだ造りの多宝塔。さすがに新羅仏教美術の極致といわれる国宝の多宝塔と釈迦塔だけのことはあって、この双塔には目を吸い寄せられてしまう。何人もの人たちが双塔の下で記念撮影している。
 仏国寺から慶州の市内に入っていく。慶州は回りを山々に囲まれた盆地の町。東に吐含山、北に玉女峰、南には南山があり、兄山江が西側を流れている。慶州は四方を天然の砦に囲まれた要害の地だ。古墳公園を歩く。新羅王朝の王族の古墳群で、7基の王陵をはじめとして全部で23基の古墳が復元保存され、地下にはなお250基もの古墳が眠っているという。宮崎県の西都原古墳群とよく似た風景の古墳公園だ。
 次に640年前後に建てられたという東洋最古の天文台で知られる石造りの瞻星台を見る。高さ9メートル。上部がすぼんだ円筒形をした瞻星台は、まさに慶州のシンボルといっていい。土台となっている礎石は4方向に3つずつ計12個が置かれ、これが4季と12ヵ月を表し、361個の花崗岩を28段に積み上げたその数は太陰暦の1年の日数を意味している。新羅時代の占星学者は塔中央部の窓から入る光の長さや、塔内側の底部の水鏡に映る星の動きなどから天体観測をしていたという。「新羅千年の都」だけあって慶州は心に残った。
 そんな慶州に別れを告げ、釜山から150キロの浦項へ。町中の「ラマダ・アンコールホテル」に泊まった。ホテル近くの「太白山」という店で焼肉パーティー。韓国ビールで乾杯。そのあとは焼酎を飲みながら焼肉を腹いっぱい食べた。さすが韓国、メチャクチャうまい焼肉だ。飲みながら、食べながらのみなさんとの話はおおいにはずんだ。
 翌朝はホテル6階の部屋からすばらしい日の出を見た。浦項は製鉄の町。世界でも最大級の製鉄所(POSCO)の高炉を赤々と染めて朝日が昇った。
 浦項からは国道7号を北上。平海の町の手前で、釜山を出発して以来、初めて日本海を見た。我々は海岸にバイクを停め、「おー、日本海だ!」と、喜びの声を上げた。
 国道7号で東海岸を行く。山々が海まで迫る東海岸は、平野の広がる西海岸に比べると、国道の交通量が全然、違う。ガクンと少なくなり、通り過ぎていく町々の数も少なくなる。地図を広げてみればすぐにわかることだが、韓国の背骨となる太白山脈の山々は、東海岸のすぐ近くを南北に連なっている。半島の脊梁山脈があまりにも東海岸にかたよりすぎているのだ。その太白山脈に北から金剛山、雪岳山、王台山、太白山といった高峰群がそびえている。この太白山脈の東側は急傾斜で流れ出る川は距離も短く、平野をつくる間もなく、すぐに日本海に流れ出る。ところが西側はゆるやかな傾斜で、そこから流れ出る韓国の三大河川、漢江、錦江、洛東江は流域には幾つもの盆地をつくり、下流には穀倉地帯の平野をつくって黄海や朝鮮海峡の海に流れ出る。国道7号の交通量が少なく、国道沿いに町や村が少ないのは、このような地形的な理由によるところがきわめて大きい。
 蔚珍を過ぎたところで慶尚北道から江原道に入った。国道沿いの食堂で昼食。ビビンバを食べた。日本と違うところは具の入った器とご飯の入った器が別々に出てくることで、自分でご飯を入れ、かきまぜて食べる。器も箸も匙もすべて金属。先にもふれたことだが、この金属製3点セットが韓国の食文化を象徴している。
 国道7号をさらに北上し、東海岸を行く。海岸線には途切れることなく鉄条網のフェンスが張られている。ところどころには監視所があり、銃を構えた兵士が監視している。国道7号には突然、滑走路に変わる区間もあった。
 三陟、東海と通り、江陵と通り過ぎた海岸には北朝鮮の潜水艦が展示されていた。1996年9月18日、この地で座礁した北朝鮮の潜水艦だ。武装スパイや乗組員ら39名が上陸したとみられ、11月7日に大規模な捜索を終了するまで、北朝鮮人民軍上尉1人を逮捕、その他は全員が射殺、または死体で発見された。韓国軍に射殺されたり、仲間内での射殺だという。韓国側も反撃を受けたり、誤射などで兵士、民間人合わせて16人が犠牲になった。北朝鮮は9月22日に「訓練中に機関故障で漂流」と発表して以降、潜水艦と乗務員、遺体の無条件返還を求め、報復を示唆する声明なども出して南北関係は険悪化した。この地は韓国現代史の舞台なのだ。
 ほぼそっくりそのまま残った北朝鮮の潜水艦は見学できる。艦内には日本製の機器も使われている。はたしてどの程度のレベルの潜水艦なのか。潜水艦のあとは朝鮮戦争の資料館を見学した。
 江陵から襄陽に向かっていく途中の大明で、38度線を通過。そこには「北緯38度線碑」が建っている。「大明38度線休憩所」の「38度線レストラン」で「38度線の日本海」を見ながらコーヒーを飲んだ。38度線というと朝鮮半島の軍事境界線だが、西海岸の板門店あたりでは38度でも、東海岸では38度30分あたりが軍事境界線になっている。それはおいて「38度線越え」はハラハラドキドキするものだ。第2次大戦後、ベトナムの北緯17度線、ベルリンの壁、朝鮮半島の38度線と、戦争の遺物のような境界線が残ったが、最後まで残り、いつ解決するのかわからないのが朝鮮半島の38度線。朝鮮民族の悲劇を象徴している38度線を越え、襄陽の町を通り過ぎ、釜山から450キロの束草に到着。海辺の「シップホテル」に泊まった。
 夕食は海鮮料理店で。ワカメスープ、アサリスープ、煮魚、刺身の盛合わと海鮮三昧の食事。最後はチゲ鍋。食後はメンバーのみなさんと漁港近くの露店を歩き、イカやエビのフライを肴に焼酎を飲んだ。
 翌朝は夜明けとともに海岸を歩き、日本海の水平線に昇る朝日を見た。
 朝食はホテルの近くの食堂で。ご飯と干しダラ入りの味噌汁のほかに、キムチやメンタイコ、塩辛、ノリなど全部で9品のおかずが出た。これらは食べ放題。何度でもおかわりできる。最高にうまい白菜のキムチを腹いっぱい食べられるのが韓流だ。
 午前中は束草をめぐる。漁港に行き、手動の渡し舟で対岸に渡り、市場を歩いた。熟柿や栗が韓国の秋を感じさせる。キムチを漬ける甕が山積みにされて売られている。もうじき、キムチを漬ける「キムジャン」の季節がやってくる。韓国ではキムチを漬け込む季節をキムジャンと呼んでいるが、その季節になると市場には白菜や大根が山積みにされ、このようにキムチを漬ける甕が売られる。この甕をオンギといっている。
「キムジャンのキムチでないと、ほんとうの味がでないのよ」
 といって、韓国の主婦たちはこの季節にこぞってキムチを漬ける。
 キムジャンになると、日本で冬のボーナスが支給されるのと同じように、韓国ではキムジャン・ボーナスが支給される。それこそ一家総出でキムチを漬けるので、学校や会社ではキムジャン休暇があるという。韓国人にとってのキムチの漬け込みは早春のジャン(味噌と醤油)の仕込みとともに、「人家二大行事」といわれるほど重要なことなのだ。
 束草の「シップホテル」に戻ると、韓国最北の地、高城の統一展望台を目指して出発。杆城を通り、韓国最北の町、巨津へ。この間の海岸地帯には白鳥、金剛山、三浦、松池湖、巨津といった海水浴場があるが、38度線以北の海岸ということで、国道7号沿いや海岸線には2重、3重の有刺鉄線が張られている。厳重な警備網とそのなかにある海水浴場のアンバランスさが軍事境界線に近い韓国北部の日本海岸をよく表してしている。
 巨津からさらに北へ。最後の海水浴場の花津浦に立ち寄る。海水浴の季節はとっくに終わっているので、砂浜に人影はない。北朝鮮国境近くの村の食堂で昼食。この地方独特の細麺の冷麺を食べる。ソバ粉の素麺といったところ。それにゴマ油と酢、砂糖をふりかけて食べるのだ。
 束草から70キロ、釜山から520キロ走り、ついに韓国最北端の高城統一展望台に到着した。すばらしい天気で展望台からは朝鮮半島第一の名山、金剛山の峰々が一望できた。澄みきった秋空を背に、主峰群がくっきりと見えた。金剛山の分水嶺を境にして西側は外金剛、東側は内金剛といわれ、その山並みが海に落ちたところが朝鮮半島随一の海岸美を誇る海金剛になる。これらはすべて北朝鮮領内になるが、「東アジア走破行」の第3弾目、2001年の「ソウル→北朝鮮」で見た海金剛の海岸美や金剛山の山岳美が目に浮かんでくるのだった。

カソリの峠越え(33) 中国編(16):江川の峠(パート1)

(『月刊オートバイ』1992年10月号 所収)

 今回の「峠越え」の舞台は、中国地方最大の河川、江川(江の川)だ。この川はきわめて特異な流れで、中央分水嶺の中国山地を突き破り、瀬戸内海側から日本海に流れ出る。このような川は日本中を探しても、ほかにはない。あえて言えば、四国の吉野川があるくらいだ。吉野川も四国山脈の南側から北側へと、四国の脊梁山脈をブチ破って流れている。さて今回から3回にわたって、江川をとりまく山並みの峠を越えていく。中国山地は全体にゆるやかで越えやすく、そのため峠の数も多いが、それらの江川を峠をひとつ、またひとつと徹底的に越えてやろうと思っている。

まずは「地球元気村」だ!
「江川の峠」に出発したのは1992年5月16日。目的地の中国地方の江川に行く前に、山梨県早川町の「地球元気村」に寄っていく。
 神奈川県伊勢原市の自宅から峠越えの相棒のスズキDR250Sを走らせ、相模湖ICで中央道に入り、甲府昭和ICで高速を降りる。まっすぐ早川町に行くのではおもしろくないので、櫛形山林道→丸山林道と、林道経由で行くことにした。
 櫛形山林道入口近くの自販機でカンコーヒーを飲んでいると、なんとワンダバダ長沢さんのヤマハのDTが止まる。驚いたことに『オートバイ』誌の本多さんやカメラマンの落合さんもやってくる。みなさんも地球元気村に行くところだった。
「旅は道連れ」とばかりに、一緒に櫛形山林道→丸山林道を走り、夕闇が迫るころ早川町の地球元気村の会場に着いた。
 じつはぼくは講師ということで呼ばれていたのだが、1時間あまりの話を終えたあとは参加者のみなさんと焚火を囲んで大宴会。あっというまに日付が変わり、大宴会がお開きになったのは夜が白々と明けかかるころ。それから1時間、焚火のわきでゴロ寝。目をさますとキャンプ仲間の田崎さんと連れだって、目の前を流れる早川で「渓流浴」。身も心もさっぱり。朝食を食べると、20人あまりの参加者のみなさんと一緒にロングダートの雨畑井川林道を走った。山梨・静岡県境の山伏峠ではズラリとバイクを並べて昼食。弁当を食べながら、話はおおいにはずんだ。静岡県側の井川で折り返し、もう一度、山伏峠を越えて夕方、地球元気村に戻った。そこで連泊するみなさんと別れ、R52で韮崎へ、韮崎ICから中央道→名神→中国道と夜通し、高速道を走った。猛烈な睡魔との戦だ。

真っ平なR54の上根峠
 三次ICで中国道を降りると、「江川の峠」の拠点となる三次の町に入っていく。眠くて、眠くて死にそうになるくらい眠い思いをして三次まで走りつづけたが、
「いよいよこれから、峠越えがはじまる!」
 と思うと、眠気などいっぺんに吹き飛んでしまう。人間の体というのは不思議なものだ。
 三次盆地の中心地、三次はまさに「江川の町」。ここで江川の本流と、支流の神野瀬川、西城川、馬洗川が合流する。まるであっちからも、こっちからも…という感じで大きな川が三次に流れ込んでくる。それだけに三次は昔から、大水害に泣かされてきた。
 ところで全長194キロの江川は中国地方最大の河川だが、三次よりも上流は可愛川(えのかわ)と呼ばれている。この可愛川に沿ってR54を走りはじめる。
 R54は太平洋(瀬戸内海)側の広島と、日本海側の松江を結ぶ幹線で、交通量が多い。天気は晴天。DRのエンジン音も快調だ。可愛川の流れを見ながら気分よく走れる。
 甲田、吉田と通り、八千代町に入る手前で可愛川と別れ、R54は支流の簸ノ川沿いの道になる。そのまま簸ノ川に沿って走る。簸ノ川は次第に小さな流れになり、やがて上根峠に到達。そこには大きな「分水嶺」の案内板が立っている。日本海に流れ出る江川の水系と瀬戸内海に流れ出る大田川の水系を分ける分水嶺だ。
 上根峠は本州を二分する中央分水嶺の峠なのに、ほぼ真っ平な地形をしている。
「えー、ここが峠?」
 と、首をかしげたくなるほど。
「ここが峠ですよ」
 と教えてもらわないことには気がつかないまま、スーッと下っていってしまう。
 平坦な峠の風景を目に焼き付け、可部へと下っていく。広島側の下りは急勾配。可部の町を走り抜け、広島の中心街まで行ったが、上根峠から広島の中心街までは20キロもない。日本海に流れ出る江川の水系は、広島のすぐ近くまで来ていることに驚かされてしまう。

江川支流の峠越え
 広島の中心街から可部まで戻ると、JR可部線の可部駅近くの食堂で昼食。カソリの定番「ラーメン・ライス」を食べ、R54を引き返し、再度、上根峠を越える。
 八千代町の中心、佐々井を過ぎたところでR54を左折し、江川本流の可愛川に沿って走る。土師ダムのわきを通り、千代田町に入る。同じ「えのかわ」でも、可愛川から江ノ川に名前が変わる。
 千代田でいったん江川の本流を離れ、支流の峠を越えていく。
 まずは支流の冠川に沿ってR261を南下し、明神峠を越える。峠のあたりだけがスポーンと抜けたような地形で、ゆるやかな登り。中国道も国道のすぐわきを通っている。峠が千代田町と広島市の境。さすが100万都市の広島だけあって、広島市に入ると急に交通量が増える。急勾配の峠道を下るとR191に出た。大きく蛇行して流れる大田川に沿ってR191を走り加計へ。険しい山並みが町の背後まで迫っている。
 加計で大田川の本流を離れ、R433で千代田に向かう。加計の町を出るとすぐに山中に入り、国道とはとても思えないような狭い道を走る。
 豊平町に入り、ひとつ目の峠を越えると道幅は広がった。
 豊平町の中心地を過ぎると、2つ目の峠を越える。国道のわきには「分水嶺」と彫り刻まれた立派な石碑が建っている。それには「山県郡豊平町中原 標高509m」とある。それとは別に、「陰陽分水嶺」と表示されたポールの立っている。陰陽分水嶺というのは、日本海側の山陰と瀬戸内海側の山陽を分ける分水嶺という意味だ。
 これらR433の2つの峠には名前はついていない。
 2つ目の峠を下っていくと、江川本流の江ノ川の支流、志路原川の流れに出る。志路原川の流れに沿って下り、千代田に戻った。

広島・島根県境の峠
 千代田では中国道の千代田ICにも近い千代田温泉に泊まった。ここは日本一の温泉。何が日本一かというと、信じられないのだが1泊2食2700円で、ぼくの知るかぎりでは「日本一安い温泉宿」なのだ。
 それもただ安いだけではない。温泉は黄土色した鉄分を多く含んだ放射能泉で、みるからに体に効きそう。地元の人のみならず、遠方からの人もやってくる。食事にしても夕食には5品の料理が出たし、部屋も大部屋でゴロ寝というのではなく、一人一人の個人用の部屋で気分よく眠れた。
 翌朝は朝湯に入り、朝食を食べて出発。千代田からR261を北へ、広島・島根県境の中三坂峠に向かった。
 その前に、R261を右折し、R433で千代田町と美土里町の境の峠まで行ってみる。深い森の中を曲がりくねって登っていくR433は、とても国道とは思えないような狭い道。交通量もほとんどなく、時たまブラインドのコーナーで対向車とすれ違った時などはヒヤッとした。名無しの峠まで登ったところで引き返し、R261に戻った。
 ふたたびR261を北へ、千代田町から大朝町に入る。浜田道の大朝IC入口の交差点を右折。そこで江川本流と別れ、中三坂峠に向かっていく。峠近くの鳴滝温泉(入浴料700円)に入ったあと、広島・島根県境の中三坂峠を貫くトンネルを抜けて島根県に入った。
 島根県側を下り、JRバスの田所駅まで下ったところでR261を右折し、もうひとつの島根・広島県境の峠、亀谷峠を登っていく。
 亀谷峠を越える道は亀谷林道なので、
「よーし、これでダートを走れるぞ!」
 と期待したが、残念ながら全線が舗装されていた。
 島根・広島県境の峠には「従是南 安藝国」と彫られた石碑が建っている。R261の中三坂峠にしても、この亀谷林道の亀谷峠にしても、旧国名でいうと安芸国(広島県の西半分)と岩見国(島根県の西半分)の国境の峠ということになる。
 広島県側へと亀谷峠を下り、杉林を抜け出ると、谷間の水田地帯に入った。田植えの終わった水田の美しさといったらなく、「おー、これぞ日本!」と、思わず声が出た。

江川源流の三坂峠
 中三坂峠、亀谷峠と2つの広島・島根県境の峠を越え、ふたたびR261の大朝IC入口の交差点に戻ってきた。今度はその交差点を直進し、県道5号を行く。いよいよ、三次からずっと追いかけてきた江川源流の三坂峠に向かうのだ。大朝の町並みを抜け、江ノ川の流れに沿って走る。江ノ川の流れはみるみるうちに小さくなり、サラサラと水音をたてて流れる小川に変わる。
 谷間に点々とつづく集落が途切れると山中に入り、やがて三坂峠への登りがはじまる。そして標高555メートルの三坂峠に到達。峠はスノーシェルターで覆われている。冬にはかなりの雪が降るという。この三坂峠こそが中国地方第一の大河、江川の源なのだ。
 今でこそ時代から取り残され、忘れられてしまったような峠だが、かつてはこの地方では一番重要な峠だった。江戸時代、岩見の浜田藩の大名行列はこの三坂峠を越えていた。 ところでR261の中三坂峠と亀谷林道の亀谷峠、県道5号の三坂峠のこれら広島・島根県境の3峠は「三三坂」と呼ばれていた。
 安芸と岩見を結ぶ3つの三坂峠という意味だ。
「三三坂」を区別するために、県道5号の三坂峠は「市木三坂」、R261の中三坂峠は「中三坂」、亀谷林道の亀谷峠は「亀谷三坂」と呼ばれていた。
「市来三坂」は島根県側の峠下の集落が市木、「亀谷三坂」の島根県側の集落が亀谷、「中三坂」は「三三坂」の真ん中なのでそれぞれの名がある。

三坂峠の「お蓮と勘兵衛の墓」
 三坂峠を越え、島根県側の瑞穂町を下ったところには、「お蓮と勘兵衛の墓」がある。そこに立つ案内板には次のように書かれている。
「浜田藩下役人同心某の妻、お蓮と、使用人の勘兵衛が恋仲になり、駆け落ちして三坂峠を越え、芸州の大塚(三坂峠の峠下の集落)まで逃げたが、後を追う夫某に捕まってしまう。2人は晴れて夫婦にしようという夫某の甘言にだまされ、この関所まで連れ戻されたが、それぞれ首を切られてしまった。夫某はその首を持って市木の代官所に立ち寄り、弔料を置いて浜田に帰った。お蓮と勘兵衛を哀れに思った市木の庄屋は、村人たちとともに2人を手厚く葬ったという」
 三坂峠を舞台にした男と女のなんとも悲しい物語だが、それとともに三坂峠を越える街道が関所を置くほど重要だったことがわかる。
 三坂峠を下り、峠下の市木の集落に入っていく。街道沿いには古い家並みがつづく。それとは対照的に、集落のすぐ後には浜田道の巨大な橋脚が林立している。
 市木からR261に出ると、国道沿いのねこ湯温泉でひと晩、泊まった。ここはおじいさん、おばあさんの老夫婦が細々とやっている一軒宿の温泉だ。
 老夫婦の話が心にしみた。
「ここは山の中ですから、いろいろな動物がやってきます。キツネ、タヌキ、イノシシ、そしてクマもすぐ近くまで来ます。サルも。サルは私たち夫婦をバカにして、悪さをするのですよ。ニワトリは放し飼いにしています。夜は木に止まって寝ています。生んだタマゴを集めるのはちょっと大変…」
 朝食には、その放し飼いにしているニワトリの生んだタマゴが出た。自然そのまんまのタマゴといった感じで、感動も一緒に味わった。
「今ではすっかり村の人口も減りました。年寄りの一人暮らしが増えました。昔は年寄夫婦と子供夫婦、孫たちが一緒に住むのがあたりまえだったのだけど、時代がすっかり変わってしまいました」
 ねこ湯温泉を出発する時、おばあさんはマタタビ酒を持たせてくれた。
「これはね、とっても体にいいのよ。元気が出ます。昔からまた旅(マタタビ)に出られるなんていいますよ」
 ねこ湯温泉の老夫婦に別れを告げ、R261で中三坂峠を越えて千代田へ。こうして江川本流の峠越えを終えると、R54で出発点の三次に戻るのだった。 

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