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①「300日3000湯」(2006年~2007年)の「ゆーゆーさん」

 8パートに分けてまわった「300日3000湯」の「温泉めぐり日本一周」の第6弾目、「本州東部編」の第1日目のことだ。
 
 2007年6月20日、東京・日本橋を出発。千葉県に入り、君津ICで館山道を降り、国道127号で房総半島の内房海岸を南下した。第1湯目はかなや温泉の日帰り湯「海辺の湯」。第2湯は岩井海岸から内陸に入った岩婦温泉の「岩婦館」。よっぽどの温泉好きの人でしか、行かないようなところ。初めての人にとってはみつけるのも難しい。そんなところに美人で温泉大好きな「ゆーゆーさん」が来てくれた。「ゆーゆーさん」はぼくの入りそうな温泉をリストアップし、岩婦温泉にネライをつけて来てくれたのだ。

 ここから「ゆーゆーさん」との温泉めぐりがはじまった。なんともラッキーだったのは第4湯目の石塚温泉「古原屋香館」。浴室はひとつで女将さんはちょっと困った顔をしていたが、「ゆーゆーさん」は混浴でかまわないといってくれる。明るい浴室の無色透明の湯に2人で入った。「ゆーゆーさん」は正真正銘の「温泉人」なので、女性がよくやるようなタオルをつかったり、バスタオルを巻いての入浴はしない。ぼくが先に湯から上がったが、女将にはいわれてしまった。「お仲のよいこと!」。そこでカソリ、すっとぼけて、涼しい顔でいった。「ええ、そうなんですよ、とってもいいんです!」(ゴメンナサーイ、ゆーゆーさん、なにとぞお許しのほどを…)。

「ゆーゆーさん」が湯から上がると、女将さんに案内されて我々は庭の鈴なりになっているすももの木につれていかれた。甘酸っぱいすももが食べ放題。そこで食べたすももの味も忘れられないものとなった。

「ゆーゆーさん」との温泉めぐりはさらにつづいたが、第7湯目の太海温泉「こはら荘」でもうれしい混浴。ここも浴室はひとつで、女将さんは我々を2階の浴室に案内すると、さっさと入口には「男性入浴中」、「女性入浴中」の2枚の札をかけた。熱めの湯で色白の「ゆーゆーさん」の肌はみるみるうちに桜色に染まっていく。

 ぼくが先に出たが、脱衣所の磨りガラス越しに、湯船から上がった「ゆーゆーさん」のきれいな体の線がはっきりと見えてしまった。「見てはいけない、見てはいけない!」と自分で自分にいいきかせるのだが、どうしても目はそっちの方にいってしまう(ゴメンナサーイ、ゆーゆーさん、なにとぞお許しのほどを…)。

 最後は第9湯目の青堀温泉。ここは「ゆーゆーさん」に教えられたところ。ぼくはここでの宿泊だったが、「ゆーゆーさん」は夜道を横浜目指して帰っていった。車のテールランプが見えなくなったとき、胸の中にぽっかりと大きな穴があいたような気分に襲われた。それを埋めるのは大変なことだった…。

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テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

②「50㏄バイク世界一周」(1990年)の「ミヤザワさん」

 1990年9月20日、オーストリアのウィーン滞在中のことだ。ハンガリー大使館でビザを申請したあと旧市街を歩き、ホーフブルグ宮殿などを見てまわる。午後はシェーンブルイン宮殿に行った。

 シェーンブルン宮殿はハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアによって18世紀に建てられた豪華きわまりない宮殿で、豪華さではフランスのベルサイユ宮殿と競い合っている。部屋数がなんと1441もあるという。宮殿内は自由には見てまわれない。ガイドつきのツアーのみ。ドイツ語のツアーは次々に出ていくのだが、どうせ見学するのならすこしでもよくわかったほうがいいと、1時間あまり待って英語のガイドツアーに加わった。全部で40人ぐらいの、いろいろな国籍の人たちが女子大生風のガイドの案内で、宮殿内を見てまわった。

 ガイドツアーがはじまって30分ほどたったころ、何気なく後を振り向くと、目のとってもきれいな日本人女性が立っていた。まるで空から舞い降りてきた天女のような、突然の彼女の現れ方だった。ジーンズにパッチワーク風な模様のセーターを着、バッグを右肩にかけ、右手にシェーンブルン宮殿の日本語の案内書を持ち、左手で赤いジャケットをかかえていた。

 そんな彼女を一目見た瞬間、キューンと胸が痛くなるくらいに魅かれ、「あのー、その案内書、ちょっと…、見せてもらえます?」と声をかけてからというもの、宮殿内のツアーが終わるまでの30分間、彼女とつかず離れずといった距離で見てまわった。

 ガイドツアーが終わってからも、彼女と一緒に絵のようにきれいな宮殿内の庭園を歩いた。現実なのか、夢なのか、わからなくなるようなフワフワした気分だった。「ミヤザワです」と、彼女は自己紹介した。「カソリです」と、ぼくも自己紹介した。

 ミヤザワさんはスチュワーデス。ドイツのデュッセルドルフを拠点にしていた。
「みなさん、たくさんのお金を使ってヨーロッパを旅行されるのに、わたしはお仕事であちこち見てまわっているのが何か、申し訳なくって…」

 ミヤザワさんは雪のような白い肌をしていた。はにかみ屋さんで、すぐに恥ずかしそうにポッとほほを染める。笑顔のきれいな人で、スーッと吸い込まれそうになる。そんなミヤザワさんとウィーンの町を歩いた。市民公園のベートーベンやシューベルト、ヨハンシュトラウスの樂聖たちの銅像を見、夕暮れのベルベデール宮殿に行った。宮殿前からは、夕焼けに染まったウィーンの町並みを見下ろした。

 夜は旧市街の洒落たレストランで夕食をともにした。ドナウ産の白ワインを飲みながら彼女の故郷、信州の話を聞いた。スキーが大好き。ぼくが一度もスキーをしたことがないというと、「エー、そんな人、いるんですか…」といわんばかりの顔をして、おかしいといって笑った。ワインを飲みながらメインディッシュのサーロイン・ステーキを食べる。彼女の透き通るような目をみつめながらの夕食。それはまさに至福の時だった。

 食後の紅茶を飲みながら、またひとしきり、旅の話に花を咲かせた。彼女の大好きなイギリスの話、ドイツの古城めぐりの話…。
「わたし、ノールカップ(ヨーロッパ最北端の岬)に行ってみたいな。インドのタージ・マハルにも…」

 そんな話をしているうちに、あっというまに11時過ぎになっていた。彼女が予約を入れてる中央郵便局前の「ホテル・ポスト」まで送り、そこで握手して別れた…。

 翌朝、8時半にハンガリー大使館に行き、ビザを受け取ると、そのままハンガリー国境に向かうつもりにしていた。だがもう一度ミヤザワさんに会いたい、「さようなら」をいって出発したい…とそう思うと矢も盾もたまらず、彼女の泊まっている「ホテル・ポスト」に50㏄バイクのスズキ・ハスラー50を走らせた。彼女がすでにチェックアウトしていたら諦めるつもりにしていた。

 ホテルに着くと、フロントの年配の女性に、「ミヤザワさんは?」と聞くと、まだ部屋にいるという。301号室だという。すぐさまフロントから電話した。受話器からは彼女の明るい弾んだ声が聞こえた。

「今、ちょうど出ようとしたところなんです」といって、すぐさま、階段を駆けおりてきた。2度、3度と握手する。彼女のやわらかな、あったかな手の感触が伝わってくる。表情を崩し、顔いっぱいで喜んでくれたミヤザワさんを見て、「あー、来てよかった!」と思うのだった。

 手を振りつづけてくれるミヤザワさんの見送りを受け、今度こそはという気持ちで走り出す。リング(環状線)からハンガリー国境に通じるR10(国道10号)に入っていく。だが、どうにもこうにも体に力が入らない。すぐさまコーヒーブレイク。カフェでコーヒーを飲みながら、1時間以上もボーッとしてしまった。もう、重症…。彼女の面影がちらついて…。

 結局、その日は1日走って、たったの70キロ…。アメリカ横断では1日で600キロ以上も走った日があったというのに。まだ十分に明るいうちにガストホフ(民宿)に泊まった…。

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テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

③「50㏄バイク日本一周」(1989年)の「ルミちゃん」

 1989年10月14日、沖縄の石垣島から福山海運の「フェリーよなくに」で与那国島に渡った。この「フェリーよなくに」で3人のライダーに出会った。ホンダXR600の「マサワン」、カワサキKLR250の「ヤマサン」、それとホンダVT250Zの「ルミちゃん」だ。「ルミちゃん」はスマートでチャーミングな看護婦さん。目がやさしくて愛くるしい。仕事をやめて日本一周に旅立ち、すでに4ヵ月、2万キロ以上走っている。「マサワン」、「ヤマサン」も日本一周中だ。

 石垣港を発ってから4時間後、「フェリーよなくに」は与那国島の久部良港に到着した。目の前にそそり立つ断崖の突端の岬が日本最西端の西(いり)崎。下船するとさっそく我ら「日本一周組」の4人は西崎に行った。岬には「日本国最西端之地」碑が立ち、灯台と展望台があった。断崖の先端に立ち、目をこらしたが、台湾は見えなかった。

 石垣島で出会った与那国島出身の人は、「新高山(台湾の最高峰、玉山。標高3997m)がこんなに大きく見えますよ」と、両手を広げた。その人にいわせれば台湾は島ではないという。4000メートル近い台湾山脈の峰々が水平線上にズラズラッと一列に連なって見え、まさに大陸そのものだという。

「なんとしても、ここから台湾を見よう!」ということで我ら「日本一周組」の意見は一致し、夕方の再会を約束して別れた。
 ぼくはスズキ・ハスラー50を走らせ、島の反対側、東端の東(あがり)崎まで行った。距離は10キロほど。東崎は西崎以上の断崖で、海に突き出た細長い岬は牧場になっている。牛のほかに与那国島特産の小柄な与那国馬が草を食み、たてがみを風になびかせていた。

 夕焼けに染まる台湾を見ようと、西崎に戻る。「ルミちゃん」らもすでに戻っていた。水平線上には雲が多く、夕日はその中に隠れてしまった。その直後、ほんの数分間だったが、台湾の島影が薄暮の中に浮かび上がって見えた。その夜は満月。我々は月夜の野宿。「ルミちゃん」が酒のつまみをつくってくれる。全員で与那国島にしかない度数60度の泡盛「どなん」を飲みながら夜中まで大騒ぎした。一年に一度の祭りの夜…、そんな気分だった。

 翌日は与那国島を一周し、夕方、西崎に戻った。我ら「日本一周組」は連夜の野宿。この日は「ルミちゃん」らがでかした。泡盛「舞富名」の工場を見学し、なんと6本もの泡盛をもらって帰ってきた。十六夜の、満月と全くかわらない月明かりのもとで、連夜の酒宴になった。同じことをやっている者同士、話題にはこと欠かない。さらに美人の「ルミちゃん」がいるものだから、おおいに盛り上がり、なんと明け方の4時過ぎまで飲みつづけ、4本の泡盛を空にした。

 我々はその日、「フェリーよなぐに」で石垣島に戻った。
 ぼくはそのあと波照間島をまわり、ふたたび石垣島に戻った。ひと晩、泊まろうと米原キャンプ場に行くと、「ルミちゃん」も「マサワン」も「ヤマサン」もいた。つい2、3日前に別れたばかりなのに、「ヤアー、しばらくぶり。どう、元気?」などとおどけあって、再会を喜びあった。

 その夜は米原キャンプ場の中央炊事棟を宴会場にし、滞在しているキャンパー全員が集まり、大宴会となった。10人ほどだったが、全員がライダーで、全員が日本一周中だった。那覇からのフェリー「飛龍3」で一緒だった「赤池クン」と「細川クン」、すし屋をやめて日本一周に出た「イタサン」、北海道から「ルミちゃん」を追いかけてきたという「アキラクン」、写植(写真植字)のオペレーターに見切りをつけて旅立った人…。ここで「越冬するんだ」という人もいた。「イタサン」の大盤振る舞いで一升びんを何本も差し入れてもらったので、大宴会はまたしても夜明けまでつづいた。「ルミちゃん」は最後まで付きあってくれた。

 その日、米原キャンプ場の気のいい面々に別れを告げ、「飛龍3」で那覇港へ。石垣港の岸壁には「ルミちゃん」、「マサワン」、「ヤマサン」が見送りに来てくれた。「飛龍3」は「ボーッ」と汽笛を鳴らし離岸していく。「ルミちゃん」には「愛してるよ~!」と大声で叫び、投げキスを送る。「ルミちゃん」は平気な顔して「私もよ~!」といって投げキスを送り返すのだった。岸壁で手を振りつづけている「ルミちゃん」らの姿はあっというまに小さくなり、そして豆粒のようになった。

 その後「ルミちゃん」は「アキラクン」と結婚したが、「美人薄命」のたとえ通り、若くして病気で亡くなった…。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

④「世界一周」(1971年~1972年)の「ベチャ」

 1972年6月21日、毎日見慣れたイギリス・ノーベリーの町をあとにし、A23でロンドン市内へ。シートラベルセンターで、電話で予約を入れておいた船(イギリス→カナダ)のチケットを買い、A13でテムズ川河口のティルベリーに向かう。港に着くと、すでにカナダのモントリオールまで行くロシア船「アレクサンドル・プシュキン号」は埠頭に接岸していた。すぐさま船のクレーンでぼくのハスラーが甲板につり上げられた。

 午後8時、「アレクサンドル・プシュキン号」は汽笛を鳴らし、テムズ川の川岸を離れていく。ぼくは甲板に立ちつくし、夕暮れの中に沈んでいくイギリスを眺めつづけるのだった。

 ティルベリーを出港した「アレクサンドル・プシュキン号」は、フランスのルアーブル港に寄ったあと、大西洋を西へ、西へと進んだ。

 バルチック・シッピング・カンパニーのこの船は、1965年に建造された2万トンの客船。船の料金は10段階に分かれていたが、ぼくはもちろん、一番安いクラス。どんなにひどいところに連れていかれるのだろうか‥‥と、なかばあきらめ気味だったが、自分の船室に案内されて驚いた。冷暖房完備の4人用の部屋で、応接セットがあり、ベッドのシーツと枕カバーの白さが目にしみる。備付けのラジオからはロシア音楽が流れてくる。ドアの前には1日の船内の行事が書かれたきれいな表紙のプログラムが置かれている。ほかに乗客はいないので、ぼく1人でこの部屋を使えるのだ。

 船内のあらゆる施設に、差別はない。どのクラスの乗客でも自由に使えた。船内ではロシア語講座が開かれ、ぼくも受講したが、アルファベットに始まり、あいさつ、簡単な日常会話、名詞と、毎日1時間の授業だった。

 楽しいのは食事だ。大食堂に乗客、全員が集まる。東洋人の乗客というとぼく1人だったので、もの珍しさも手伝って、けっこういろいろな人たちに話しかけられた。単調な船内の生活、ほかにすることもないので、みんな時間をかけてゆっくりと食べる。食事は食べ放題。入口のテーブルに並べられたものの中から好きなものだけを取って食べ、そのあとメニューを見ながらメインディッシュの料理を頼むのだ。

 ルアーブルを出た次の日、いつものように甲板で海を眺めていると、若い女性に声をかけられた。
「すこし、お話ししてもいいかしら‥‥」
 なんともラッキーなことだったが、それがベチャ(エリザベス)との出会いであった。 彼女は23歳。イギリス生まれのポーランド人で、国籍はカナダ。髪の長い、スラッとした美人だ。彼女はロンドンのアメリカンスクールで子供たちに英語を教えていたが、3年ぶりに母親のいるモントリオールに帰るところだった。

 ベチャと出会ってからというもの、船旅はこの上もなく楽しいものになった。朝早く起きると、ベチャと一緒に裸足になって甲板を走る。水平線に昇る朝日を眺め、胸いっぱいに朝のすがすがしい空気を吸う。ベチャの髪は汗でキラキラ光っている。甲板を走り終わると、ジムで自転車をこぐ。それにはスピード・メーターがついていて、
「ほら、タカシ見て、30キロよ!」
 ベチャは時速30キロになったといって無邪気に喜んだ。

 日中は甲板にバスタオルを敷き、とりとめもない話しをしたり、トランプをしたり、図書館で借りた本を読みながら日光浴をした。ベチャのなんともいえないあまずっぱい匂いが漂ってくる。そのまま眠ってしまったこともあった。

 ティルベリを出てから7日目、「アレクサンドル・プシュキン号」は、大西洋からセントローレンス川に入っていった。広々とした川の両側には、緑豊かなカナダの自然が広がっている。ところどころにポツン、ポツンとカラフルな家が見える。川幅はいつしか狭くなる。ベチャと甲板の一番後ろに座り、流れていくカナダの風景に目をやった。

 最後の日だからと、ウィスキーを買い、ビンごとかわるがわるに飲んだ。北国の夏の日は、なかなか沈まない。西の空はいつまでも赤く染まっていた。

「タカシ、あなたにはじめて声をかけたときは、とってもドキドキしたわ。ほら、おぼえている? ティルベリーで船が出るまで、ずいぶんと時間があったでしょ。あのときも私たちはすぐそばにいたのよ。あのとき、ひとこと、タカシに声をかけたかった。でも、できなかった‥‥」

 ベチャはすこし酔っているようだった。色白のベチャのほほがほんのり赤く染まっている。ぼくは思わずベチャを抱きしめた。彼女の体の暖かさがぼくの体にもろに伝わってきた。

 翌朝、目をさますと「アレクサンドル・プシュキン号」は、モントリオール港に着いていた。
「もう、モントリオールなのね‥‥」
 ベチャはいつになく沈んだ表情で3年ぶりのモントリオールの町に見入った。

 船内での入国手続きが終わり、下船となる。港にはベチャのお母さんと妹が迎えにきていた。妹はベチャに負けず劣らずの美人。
「ジンドーブレ(こんにちは)、ヤクシェマシェ(ごきげんいかかがですか)」
 ベチャに教えてもらったポーランド語であいさつすると、ふたりともびっくりしたような顔をする。それを見て、ベチャはおかしそうに笑った。
 モントリオール郊外の住宅街にあるベチャの家に連れていかれる。冷たい飲み物と昼食をご馳走になった。

「ねー、タカシ、空いてるお部屋があるの。2、3日は泊まっていってくれるでしょ」
「ごめん、ベチャ、行かなくては‥‥」
 お母さんと妹にお礼をいってベチャと一緒に外に出た。ベチャは目に涙をいっぱい浮かべていた。ぼくたちは手を握り合って歩道に立ちつくし、そっとベチャのくちびるにキスした。それがぼくたちの別れだった。

 ぼくには急ぐ理由など何もなかった。
 だが…、ベチャのことを好きになりすぎていた。もし彼女のいうように2日も3日も一緒にいたら、別れがよけいに辛くなることは目に見えていたし、もしかしたら一生、モントリオールから離れられなくなってしまうような予感すらしたのだ。

 ぼくはどうしても行かなくてはならなかった。まだ「世界一周」の旅は終わっていない。これからアメリカ大陸を縦横無尽に走りまくるのだ。

 ハスラーのエンジンをかける。「自分は旅人だ」と自分で自分にいいきかせ、ちぎれんばかりに手を振るベチャの見送りを受けて走り出す。モントリオールからは、カナダを横断するトランス・カナダ・ハイウェーを西へ、西へと走ったが、思い出すのはベチャのことばかり‥‥。ベチャの笑った顔、ちょっとはにかんだ顔、不満げなときの口をとがらせた顔、目に涙をいっぱい浮かべた顔‥‥。

 ベチャの様々な表情がよみがえってくる。
 キスしたときのベチャのくちびるのやわらかな感触がよみがえってくる。
「会いたいな。もう一度、ベチャに会いたいな…」
 カナダ横断の間中、ハスラーに乗りながら、何度、その言葉を口にしたか知れない。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

⑤「サハラ往復縦断」(1987年~1988年)の「フローラ」

 1987年12月21日、西アフリカ・マリのガオのキャンプ場にサハラ砂漠を越えてやってきた5台の車が到着。その中の1台はオランダ人女性フローラの乗ったフォルクスワーゲンのバンだった。うれしいフローラとの再会。

「ターキー(タカシのこと)、無事だったのね。おめでとう。あなたがマリに向かっていたって国境で聞いたときはうれしかったわ」
「フローラ、キミこそ。タネズロフをよく走りきったよね」
 といい合って、ぼくたちはキャンプ場のど真ん中で抱き合い、お互いの無事を喜びあった。フローラはTシャツ1枚でノーブラ。豊かな胸の感触と胸の熱さがモロに自分に伝わってくる。サハラ越えのキャンパーたちの視線を浴びながらの熱い抱擁なのだが、フローラはまったく気にしない。

 ギリシャ系オランダ人のフローラは20代後半のグラマーな美人。フォルクスワーゲンのバンでサハラ砂漠縦断中の彼女とは、アルジェリアのレガンのキャンプ場で知り合った。フローラはフランス語をほとんど話せない。お互いにフランス語を話せない者同士という仲間意識も手伝って仲よくなり、レガンのキャンプ場の星空のもとで、彼女と夢中になっていろいろな話をした。

 フローラは今回が3度目のアフリカだった。
「アフリカって、ほんとうに不思議な力を持っているのよね。わたしの一番最初の旅っていうと、ヒッチハイクで西アフリカをまわったときだわ。その旅が終わってオランダに帰っても、まるで磁石にでも吸い寄せられるように、またアフリカに戻ってしまったわ。3度目の今回はぜひとも自分の足でと思って、それで、この車を中古で買ったの」

 レガンのキャンプ場で、ガオまで一緒に走ってくれる車を待っていたフローラだが、フランス人やスペイン人、ドイツ人といった多国籍の面々の車4台と一緒に、サハラでも一番の難関、「砂漠の中の砂漠」といわれるタネスロフ砂漠を走りきったのだ。その間では650キロ間、まったくに無人のエリアもある。もちろんガソリンの手には入れられないし、水、食料も手にいれられない。ぼくはそのルートを40リッターのビッグタンクを搭載したスズキSX200Rで走破したのだった。

「ターキー、ちょっと待っててね」
 しばらくするとフローラは、ミニスカートにノースリーブという格好で、薄化粧して戻ってきた。砂まみれのサハラの女戦士がまるで別人のように一変し、まぶしくて、目をまっすぐには向けられないほどだった。

 見違えるほどきれいになったフローラと、まずはビールで「乾杯!」。我々は「サハラ縦断」で盛り上がった。夕食も共にした。さらに夕食後もビールを飲みながら話しつづけた。お互いに「サハラ縦断」という同じ体験を同じ時にしたので話題には事欠かなかった。 翌日、ぼくはフローラに別れを告げ、ガオを出発。南のギニア湾を目指した。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

⑥「サハリン」(1991年)の「キセニア」

 1991年8月14日、いよいよ迎えたサハリンへの出発の朝。気持ちが高ぶっている。午前10時、稚内港のフェリーターミナルで、出国手続き。“WAKKANAI”の文字の入った出国印が、ポンと、パスポートに押される。

「これで、日本を離れていくんだ」
 クレーン車が、サハリンを走るスズキDR250SHをロシア船「ユーリー・トリフォーノフ号」(4600トン)の甲板につり上げる。すぐさまタラップを駆け上がって甲板へ。持ってきたロープでDRを甲板の手すりにくくりつける。これで準備完了だ。

 稚内港が、稚内の町並みが、だんだん遠くなる。船は宗谷海峡に出る。左手に野寒布岬、右手に宗谷岬。2つの日本最北の岬も、いつしか水平線のかなたに消えていく。

 船内のレストランで昼食。グリンピースを添えたハム、サラミ、塩ゆでしたエビ、トリ肉つきのライス、それとスープといったロシア料理。船に乗ったとたんに異国の世界に入っていた。

 食べ終わって甲板に上がると、サハリンの山々が手の届きそうなところに見えている。船はサハリンの西海岸の海岸線に沿って北上する。夕暮れの迫るころ、ホルムスク(旧真岡)に到着。稚内から8時間の船旅だった。

 入国手続きにとまどり、サハリンに上陸したのは22時。それから出迎えてくれたサハリンの旅行社の車のあとについて夜道を走り、24時、サハリンの州都、ユジノサハリンスクに到着。「ツーリストホテル」に泊まった。

 サハリンツーリングの拠点は、サハリン州の州都ユジノサハリンスク。日本時代の、樺太庁が置かれた豊原だ。カメラマンの「クール向後」こと向後一宏さんが同行してくれる。

 人口18万人というサハリン第一のユジノサハリンスクは、街路樹の涼しげな町で、札幌や旭川などの北海道の町々と同じように、碁盤の目状の道路が交差している。湿気の多い、むせかえるような暑さの東京とは違い、空気がサラッとしていて、まったくべとつきがない。

 いよいよサハリンツーリングがはじまる。ユジノサハリンスクを拠点に、今日は北へ、明日は南へと走り、一日の行程を走り終わると、またこの町に戻ってくるのだ。

 とはいっても、ぼくたちだけで、自由に走ることはできない。ガイドの乗った車と一緒に走る。それがひとつ、気の重いところだった。だが、ガイドがホテルにやってきたとき、そんな気の重さなどいっぺんに吹き飛んでしまった。

 なんと、ガイドはハッと息を飲むような美人女子大生。名前はキセニア。大学で日本語を勉強しているという。透き通るような白い肌、明るいブルーの瞳、栗色がかった金髪のキセニアは、チャメッ気もあって、好奇心旺盛な女子大生なのだ。そんなキセニアの明るい笑顔を見た瞬間から胸が高鳴り、胸がキューンと痛くなるくらいに、彼女に一目惚れ‥。

 トマトとキューリのサラダ、ソーセージつきのライスといったホテルの朝食を食べ、オホーツク海に面したオホーツコエ(旧富内)に向かって出発。オホーツク海の砂浜に出た ハマナスの咲く砂浜で昼食にする。キセニアは黒パンを切り、ソーセージを切り、サケのカンヅメを開け‥‥と、かいがいしく食事の用意をしてくれる。リンゴジュースを飲みながら、黒パンにトマト、キューリ、ソーセージをのせて食べる。キセニアと一緒にピクニックを楽しんでいるかのような気分になった。

 コルサコフに着くと、高台に立ち港を見下ろした。このコルサコフこそ戦前までは稚内へ連絡船の出ていた港。日本時代の大泊だ。稚内と大泊を結ぶ稚泊航路は、日本の北の海のゴールデンルートになっていた。

 コルサコフでは、キセニアの案内で町を歩いた。市場にも連れていってもらった。そこでキセニアは、「どうぞ」といって、アイスクリームを買ってくれた。それがなんともいえない味で、トロッと、舌の上でとろけるようなアイスクリームなのだ。
「どう、おいしい?」
「とっても」

 サハリンの第2日目。
 ぼくたちのサハリンツーリングに女子大生のジーニャが加わった。ジーニャはキセニアの同級生で、同じく日本語の勉強をしている。キセニアの将来の夢は、日本語か英語の先生になることで、ジーニャの夢は、日本語の通訳になること。

 うれしくなってしまうのは、ジーニャはキセニアに負けず劣らずの美人。キセニアとジーニャは美人なだけでなく、とっても気持ちがやさしい。2人は控え目で、それでいてよく気がつくし、かわいらしいチャメッ気もある。体を動かすことを少しもいとわない。

 ユジノサハリンスクからホルムスクへ(旧真岡)へ。距離は100キロ。途中で舗装は切れ、ダートに入り、そして峠を越える。峠はロシア語で“ペリェバオ”。この峠はホルムスク峠で、日本時代には熊笹峠と呼ばれていた。熊笹峠の名前どおり、峠の周辺は一面、クマザサで覆われている。見晴らしのいい峠で、日本海の大海原が見渡せた。

 ユジノサハリンスクへと引き返す。そこで好奇心あふれるキセニアとジーニャは、一瞬恥ずかしげな表情を浮かべながらいった。
「バイクに乗せてもらいたいの‥‥」
「喜んで!」
 ぼくがキセニアを、クール向後がジーニャを後に乗せる。キセニアはバイクに乗るのが初めてだという。ちょっぴり緊張した表情だ。DRのリアのステップを降ろしてあげる。彼女がリアシートにまたがる。

 ぼくだってタンデムの経験などほとんどなく、ましてや女性を乗せるのは初めてのこと。キセニア以上に緊張する。

 走りはじめる。キセニアは怖いのだろう、体を固くし、ギュッとぼくにしがみついてくる。彼女の胸のふくらみを背中で感じながら走る。これが…、これがたまらない。

 その翌日は、オホーツク海の砂浜での昼食のあと、すっかりバイクが好きになったキセニアとジーニャを乗せ、海岸を走りまわる。ぼくがキセニアを、クール向後がジーニャをのせる。波打ちぎわを走る。パーッと、波しぶきが飛ぶ。
「キャーッ!!」
 と、キセニア。そんな彼女の華やいだ声がオホーツクの波の音に混じり合う。

 あっという間に過ぎていったサハリンでの日々。ホテルのレストランで、キセニア、ジーニャと一緒に、最後の食事。ぼくたちのお別れパーティー。2人との別れが辛い…。 キセニアもジーニャも、ユジノサハリンスク郊外の団地に住んでいる。そんな2人をバス停まで送っていく。

 別れぎわ、キセニアに、
「ヴィ ムニュ スラビーチシ」
 と、一言いうと、彼女は赤くなってうつむいた。それは、オホーツクの浜辺で、昼食を食べながら彼女に教えてもらったロシア語。
「私は あなたが 好きです」の意味。
 バスが来る。2人が乗る。
「ドスビダーニア(さようなら)」

 これは後日談になるが、サハリンから小包が届いた。キセニアからで、中にはきれいな刺繍のテーブルクロスと木製のスプーンが入っていた。

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ジャンル : 旅行

⑦「秘湯めぐりの峠越え」(1994年~1995年)の「錦戸陽子さん」

 1995年6月10日、大分県の長湯温泉「丸尾旅館」に泊まった。
 翌朝は、宿の湯に入ったあと、芹川の河畔にある無料湯の混浴露天風呂「カニ湯」に入る。川の流れを目の前に見、対岸に旅館街を眺める湯だ。早めにしてもらった朝食を食べ、7時30分に長湯温泉を出発。梅雨のさなかにもかかわらず、朝から上天気。四ッ口峠を越えて竹田に行き、岡城址を見てまわる。本丸跡に立ち、九重連山を眺めた。

 竹田から国道57号を走り、大分県から熊本県に入る。阿蘇の外輪山を越え、一宮を通り、午前10時、JR豊肥線の立野駅に到着。そこで、一緒にオーストラリアをバイクで走った仲間「豪州軍団」のメンバーの錦戸陽子さんと落ち合った。

 前夜、長湯温泉から電話を入れたのだ。さらに、錦戸さんのバイクの師匠で、ヤマハのDT200WRに乗る小笠原隆一さんと、ホンダのXLR125Rに乗る小林良彰さんもやってくる。みんなで近くの喫茶店「とちのき」に行き、コーヒーを飲みながら話した。

 小笠原さんは、熊本市内で「小笠原写真館」という写真館をやっている。休みというと、日帰りで九州内の林道を走っている。フェリーを使って、日帰りで四国の林道を走ったこともあるという。小林さんは大学生で、すっかりバイクのおもしろさにはまりこみ、これから2人で熊本北部から大分、福岡にかけての林道を走りに行くという。

 熊本市内の病院で看護婦さんをしている錦戸陽子さんは、素敵な肥後美人。彼女からは、“肥後モッコス”で知られる肥後の男について聞くと、よくいえば芯が通っていて、意思強固なのだが、悪くいえばいこじな頑固男ということになるらしい。

 ヤマハのセローに乗ってきた錦戸さんは、ぼくの阿蘇の温泉めぐりにつき合ってくれるのだ。小笠原さんと小林さんも、最初の温泉には同行してくれるという。

 第1湯目は、栃木温泉。喫茶店「とちのき」のすぐ近くにある「荒牧旅館」(入浴料400円)の湯に入る。大浴場の湯につかりながら、目の前の、阿蘇の外輪山を眺める気分は最高。湯から上がると、小笠原さんと小林さんは、林道を走りに小国へと向かっていった。

 第2湯目は、栃木原温泉。ここでは「いろは館」の湯にはいった。入浴料は500円なのだが、ここで食事をすると300円になるというので、昼食に高菜定食を食べた。高菜飯、団子汁、馬刺し、芥子蓮根と、熊本の郷土料理がひととおり食べられる定食だ。

 第3湯目は、湯ノ谷温泉。「阿蘇観光ホテル」の奥にある露天風呂(入浴料200円)に入る。青空を見上げながら、気分よく湯につかれる露天風呂だった。

 湯ノ谷温泉からは、有料の阿蘇登山道路を登っていく。その途中では、米塚の前でバイクを止め、ハーハー息をきらして米塚を登る。あちこちの山をのぼっている錦戸さんは、息も乱さず、平気な顔をしている。米塚の頂上からの眺望は抜群! やわらかな牧草の緑につつまれた阿蘇を一望する。阿蘇カルデラ内の町や村がよく見える。阿蘇外輪山の向うには、たなびく雲の上に、九重の山々がつらなっていた。

 阿蘇山上のドライブインでコーヒーを飲んでいるうちに、空はあっというまに黒雲に覆われ、ザーッと雨が降りだす。なんともラッキーな雨! この雨のおかげで、錦戸さんと一緒に、阿蘇の名湯、地獄温泉に泊まることになったのだ!

 阿蘇中腹の一軒宿「清風荘」の夕食はイロリ焼き。スズメやウズラ、シシ肉、カモ肉などを串刺しにして、焼いて食べる。そのあと、混浴の露天風呂「すずめの湯」に入る。灰色をした湯なので、女性の入浴客も多い。温めの湯なので、長湯できる。何とも至福の時だったが、錦戸さんと露天風呂の消灯時間の12時になるまで入っていた。

 翌朝は、5時、起床。朝風呂に入り、6時、出発。阿蘇外輪山の俵山峠まで錦戸さんと一緒に走り、そこで、熊本市内へと下っていく彼女と別れた。
「カソリさん、私、ここからの阿蘇の眺めが一番好きなの」
 と、錦戸さんがいうほどの、俵山峠からの眺めだった。

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⑧「秘湯めぐりの峠越え」(1994年~1995年)の「藤七温泉のバイクの彼女」

 1993年7月25日、盛岡を出発点にして八幡平の温泉をめぐった。
 無料化されてまもないアスピーテラインで八幡平を登っていくと、数メートル先も見えないような濃霧の中に突入。ところが海抜1000メートルの御在所温泉まで登ると、雲海の上に出た。

 上空はまっ青な青空。目の前には、雲海を突き破って岩手山がそびえている。
「うーん、すごーい!」
 と、思わずうなってしまうほどの光景だった。

 御在所温泉では「八幡平観光ホテル」(入浴料500円)の湯に入り、見返峠を登っていく。
 岩手・秋田県境の、八幡平の見返峠に到着。この見返峠は、あまりなじみのない峠名。八幡平が高原状の地形なので、峠という意識が薄いからなのかもしれない。いっそのこと「八幡平峠」とでもしてくれれば、もっと知られる峠名になったはずだ。

 見返峠からの展望は抜群! 岩手県側では雲海の上に突き出た岩手山を眺め、秋田県側では夕日に染まって赤々と燃える山々を一望する。山あいでキラキラ光っているのは、完成まもない玉川ダムだろうか‥‥。胸を熱くして、峠からの夕暮れの風景に見入った。

 八幡平の見返峠から、松川温泉に通じている樹海ラインを2キロほど下ると藤七温泉。ここには「彩雲荘」と「蓬莱荘」の2軒の温泉宿があるが、そのうち「彩雲荘」に泊まる。浴衣に着替え、ひと風呂浴びて大広間に行くと、すでに夕食がはじまっていた。泊まり客全員が、一緒になって夕食をとるのだ。ぼくの隣りは一人旅の女性。イワナの塩焼きをつつきながらビールを飲んでいると、彼女に話かけられた。

「あのー、バイクで旅しているのですか?」
「彩雲荘」の前には、もう1台バイクが止まっていたが、それが彼女のもので、夏休みをとって一人で東北各地をまわっているという。東京のOL。ツーリングライダー同士の連帯感とでもいおうか、彼女とは以前からの知り合いであるかのように、ビールを飲みながらおおいに話しが盛りあがる。

 夕食後、もっと飲もうよ、ということになった。
「8時になったら、あなたのお部屋に行くわ」
 と、彼女はなんともうれしいことをいってくれる。東北の秘湯の宿で、若い女性と向かいあって飲むなんて‥‥。部屋に戻っても、8時になるのが待ち遠しくて、胸をときめかせてしまった。

 8時ジャストに、コンコンとノックの音。彼女がやってきた! ビールを飲みながら、東北の地図を広げ、ああだ、こうだと話がはずみ、またしても盛りあがる。バイクという共通点があるので、話がつきない。窓を開けると、降るような星空。糸のように細い三日月が山の端に浮かんでいた。

「彩雲荘」には、混浴の露天風呂がある。
「ねー、一緒に入ろうよ~」
 と誘うと、
「だーめ。だって‥‥、わたしの小さな胸を見られてしまうでしょ」
 といって、浴衣の上からでもはっきりとわかるくらいの豊かな胸を揺らすのだ。

 あっというまに、12時が過ぎた。ビールの空きビンだけが、ズラズラズラッと並んでいく。彼女は強い! 
 またしてもぼくが誘う。
「ねー、ここのまま布団を並べて一緒に寝ようよ~」
「だーめ。だって‥‥、あなたは大丈夫かもしれないけれど、わたしがあなたのお布団にもぐり込むかもしれないでしょ」

 東北一人旅の“バイクの彼女”は、ほんとうにいいノリをしている。2人っきりの宴会がお開きになったのは午前1時過ぎ。
 翌朝、朝食を一緒に食べ、食べ終わると“バイクの彼女”と握手をかわして別れた。ぼくが先に出発し、見返峠へ。藤七温泉が見えなくなると、後髪が引かれるようで、胸がジーンとしてしまうのだった。

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⑨「オーストラリア2周7万2000キロ」の「カレン」

 南のアデレードから北のダーウィンを目指して大陸を縦断したときのことだ。
 キャサリンではバックパッカーズ、「クックバラロッジ」に泊まった。ここは男女同室のバックパッカーズなのだが、なんと8人用の部屋に女の子が4人、男はぼくだけというまるで花園状態。大陸縦断の“一気走り地獄”のあとの”花園天国”といったところなのだ。

 オーストラリア人の女の子2人、ドイツ人の女の子1人、イギリス人の女の子1人の花園に入ると、若い女性特有の匂いが部屋中に満ち満ちていて、頭がクラクラッとしてしまった。

 この4人のうち、イギリス人女性とはダーウィンで会ったことがある。
 毎週水曜日におこなわれる「ビクトリア・ホテル」のフリーバーベキュー(ただでバーベキューが食べられる)で一緒の列に並んだのだことがあるのだ。ぼくのすぐ後が彼女だった。なにしろプロポーション抜群なので、目に焼きつくほどに、しっかりと彼女をおぼえていた。

 旅での出会いというのは、そんなちょっとしたきっかけでも、「やー、あのときの」で、すぐに仲良くなれるもの。
 彼女の名前はカレン。20歳。マンチェスターの女子大生で、大学を1年間、休学して旅に出た。オーストラリアをバスでまわっている。このあと、東海岸のブリスベーンからニュージーランドに飛ぶという。

 食事を終えると、オーストラリア産ワインを飲みながら話をした。彼女は毎日、日記をつけているが、その日記帳に、彼女の名前の「カレン・ウッドハウス」をカタカナで書いてあげると、すごく喜んだ。

 11時近くなったところで、「おやすみ」といって、ぼくが先に寝る。すでに部屋の電気は消え、ほかの3人の女のコたちはスヤスヤと寝息をたてている。ぼくは2段ベッドの上段で寝た。

 しばらくするとカレンが部屋に入ってきた。彼女のベッドは狭い通路をはさんだ下段。なんとカレンはその通路で着替えるのだ。着ているものを全部脱ぎ、パンツをはきかえる。薄明かりのなかで、その一部始終がまる見え。彼女はパンツの上にパープルの薄地のランジェリーを着ると、ベッドに横になった。

 彼女のズッシリと重そうな胸のふくらみが目の底にこびりつき、寝ようとしても、目がさえてなかなか寝つけない。眠くて眠くてどうしようもなかった一気走りのときとは、えらい違いだ。

 翌朝は、ぼくが一番最初に起きた。目がはれぼったい。
「クックバラロッジ」はすごくいいのだが、各ドミトリーごとにシャワールームとキッチンがついている。

 シャワーを浴び、キッチンでコーヒーを沸かしていると、カレンが起きてきた。なんとカレンは、パンツとランジェリー、そのまんまの格好で朝食の準備をはじめるではないか。パープルのランジェリーは薄地のものなので、光の当たる角度によっては、透けて乳房ははっきりと見えるし、乳首まで見えてしまう。また、ランジェリーはミニなので、すこし前かがみになるだけで、チラッチラッと白いパンツが見えてしまう。

「おい、おい、カレンよ、キ、キミは、ぼくを誘惑しようとしているのかい?」
 そんな下着姿のカレンと握手して別れ、「クックバラロッジ」の花園を出発。北へ、ダーウィンへと向かったのだ。

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(10)「オーストラリア2周7万2000キロ」(1996年)の「トトロちゃん」

 国道1号での「オーストラリア一周」中でのことだ。
 北部オーストラリアのブルームを出発。猛烈な暑さの中をダービーに向かう。その間は240キロ。昼過ぎ、ダービーに近づいたときのことだ。町まであと10キロぐらいのところを、何と、日本人女性が歩いているではないか。てっきり、彼女がヒッチハイクしているものだとばかり思った。色白のかわいらしい女の子で、小さなザックを背負っていた。

 彼女のかわいらしさに心ひかれ、
「ガンバッテね」
 と、ひと声かけようとUターンした。

「こんにちは~ぁ」
 とあいさつすると、彼女はニコッとほほえんでくれた。
 その笑顔に胸がキューンとしてしまう。

 彼女はヒッチハイクしているのではなく、どうしても見たいものがあるので、この炎天下、ダービーの町から歩いてきたのだという。彼女をそこまで駆り立てたものとは、宮崎駿原作の『となりのトトロ』に出てくる木のモデルになったボーブの大木なのだという。「どうぞ、どうぞ、乗ってくださいよ」

 と、なかば強引にスズキDJEBEL250XCのリアに彼女を乗せ、そのボーブの大木までタンデムで行った。ボーブとはアフリカのバオバブと同じで、世界でもアフリカのサバンナ地帯とオーストラリアのこの地方にしかない。

「オーストラリア一周」で、まさか美人とタンデムするだなんて…、夢にも思わなかった。遠慮がちに、ぼくの肩に、そっとのせた彼女の手のあたたさが、自分の肌に伝わってくる。 そのボーブは“プリズン・ボーブ・トゥリー(牢屋のボーブの木)”と呼ばれる大木で、幹には洞があり、人が楽に入れるほどの大きさなのだ。

“トトロの木”のボーブを見たあと、彼女とふたたびタンデムでダービーまで行き、レストランで食事した。なんとも楽しいひとときだった。食後のコーヒーを飲みながら彼女といろいろな話をした。つい今しがた出会ったばかりだとはとても思えないような、まるで恋人と話しているかのような気分になった。いわゆる「一目ぼれ」というヤツだ。

 彼女は「バスダー」(バスでまわる旅人のこと)で、4ヵ月がかりでグレハン(グレイハウンド)を乗り継ぎ、オーストラリアを一周中。だが、とてもそんな長旅をしているようには見えず、清楚な美しさを保っていた。花でいえば、白いナデシコといった風情なのだ。それがたまらない。

 あっというまに時間が過ぎ、夕方、彼女と握手して別れた。何とも名残おしい別れ…。

 彼女は夜の便のグレハンに乗り、ぼくはナイトランで560キロ先のホールスクリークに向かう。お互いに名前も知らないまま別れたが、彼女のことを「トトロちゃん」と呼ぶことにした。満天の星空の下を走りつづけたが、何度も「トトロちゃん」の笑顔が目に浮かび、ナイトランの辛さをやわらげてくれるのだった。

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