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『忘れられた日本人』再び:第1回

 (初出:「ゴーグル」2006年5月号)

ライター、カソリの誕生
 1968年4月、ぼくは2サイクル250㏄バイクのスズキTC250とともに、横浜港からオランダ船「ルイス号」に乗り込んだ。「アフリカ一周」を目指しての20歳の旅立ちだ。「日本を飛び出したい!」、「広い世界を自由自在にバイクで駆けめぐりたい!」という燃えるような想いでの旅立ちだった。

 アフリカ南部、モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)で下船し、そこを出発点に20ヵ月をかけてアフリカ大陸を一周した。日本に帰ってきたのは1969年12月。そのときぼくは「よーし、これからはトコトン、世界を駆けるゾ!」と固く決心した。カソリ、「22歳の誓い」だった。

「サハラ砂漠縦断」を一番の目的で「世界一周」を計画しているときに、『週刊朝日』に取材された。東京の阿佐ヶ谷駅近くの喫茶店で編集部の川本三郎さんに「アフリカ一周」についていろいろと聞かれた。それから何日かたって、「アフリカ一周」が『週刊朝日』に記事となって出た。ほとんどの人が見過ごすくらいの小さな記事だった(なお川本三郎さんはその後、若くして朝日新聞社を退職し、今では様々なジャンルでの評論活動をつづけているのはよく知られているところだ)。

 その『週刊朝日』の小さな記事が『月刊オートバイ』(モーターマガジン社)編集部の目に止まり、若手編集部員の小川孝さんが訪ねてきてくれた。今のような情報過多の時代では、まず考えられないようなことといっていい。

 小川さんはいきなりいった。
「カソリさん、オートバイでアフリカ大陸を一周したそうですね。すごいなあ。ところでそのときのことをウチで書いてもらえませんか?」

 正直いってぼくはビックリした。それまでに何か雑誌に文章を書いたことは一度もないし、高校時代の国語の成績などは惨憺たるもので、自分に文章を書く才能があると思ったことは一度もない。だが、小川さんは「カソリさんなら、きっとできますよ」と、いとも簡単にいう。小川さんのその一言で、ありがたくやらせてもらうことにした。ライター、カソリの誕生だ。

『月刊オートバイ』での連載は16回にも及び、1回ごとにいただいた高額の原稿料はそっくりそのまんま貯め込み、「世界一周」の資金にすることができた(小川さんのおかげで「世界一周」も『月刊オートバイ』で連載させてもらった。なお小川さんはその後『月刊オートバイ』の編集長を長く勤め、現在は『二輪車新聞』の編集長として活躍されている)。

宮本常一先生との出会い
 この時期、すごくラッキーだったのは『現代の探検』(山と渓谷社)編集長の阿部正恒さんに出会ったことだ。『現代の探検』には「アフリカ一周」のうちの「ソマリア横断」を書かせてもらった。題して「灼熱の岩砂漠を突っ走る--ソマリア横断3500キロ」(阿部さんはその後、山と渓谷社刊の単行本、「現代の旅シリーズ」を担当されたが、壇一雄氏の『風浪の旅』や佐貫亦男氏の『旅の発想』などとともに、ぼくの「世界一周」を書いた『極限の旅』をもその中の1冊に入れてくれた。阿部さんは現在、「樹の森出版」の代表として出版には変わらぬ情熱を傾けられている)。

 そんな阿部さんには「カソリ君、ぜひとも会ったらいいよ」といわれて宮本千春さんと向後元彦さんを紹介された。宮本さん、向後さんは当時の日本の冒険、探検をリードされている方々だった。宮本さんは冬期間のカナダ北極圏での越冬生活を体験し、向後さんはヒマラヤ探検のパイオニア。

 2人を訪ねた先が、東京・秋葉原にある大手旅行社「近畿日本ツーリスト」本社ビル7階の「日本観光文化研究所」(通称・観文研)だった。真下に首都高速を見下ろす眺めの良い部屋の片隅にはスプリングの飛び出したソファーがあって、それに座って宮本さん向後さんの話を聞いた。ぼくはすっかり2人に魅せられ、その後、足しげく観文研に通うようになった。

 そんなある日、観文研で小柄な、ヨレヨレの背広を着た年配の方に会った。その方が宮本常一先生だった。宮本千春さんに「親父だよ」と紹介されたときは「宮本常一」をまったく知らなかったので、「あ、千春さんのお父さんですか」と何とも失礼な挨拶をしてしまった。それがぼくにとっての宮本先生との出会いだった。宮本先生は観文研の所長をされ、息子の宮本千春さんが観文研の事務局長をしていた。

世界から日本へ
 ぼくは「アフリカ一周」の後、1971年から72年にかけてはスズキ・ハスラーTS250を走らせて「世界一周」をし、1973年8月にはバイクとヒッチハイクで「六大陸周遊」の旅に出た。

 1974年11月、「六大陸周遊」から帰国すると、すぐに観文研に行った。20代の大半を費やして世界を駆けめぐった反動とでもいおうか、無性に日本をまわりたくなったのだ。宮本千春さんに「これからは日本をまわりたいのですが…」と相談すると、宮本常一先生の一番弟子といってもいい神崎宣武さん(現「旅の文化研究所」所長)と工藤員功さん(現「武蔵野美術大学民俗資料室」室長)の2人について日本各地をまわれるようにしてくれた。

 宮本先生はそれを聞いて喜んで下さり、「カソリ君、世界を見た目で日本を見るのはいいことだ。とにかく色々な所に行ってみなさい。その中でいろいろなものを見て、いろいろな人たちに出会って、いろいろな話を聞いて、何かを感じ、自分の頭で考えてみたらいい」というアドバイスをして下さった。

 観文研はじつにユニークな組織で、宮本常一先生の教えに興味を持ったり、共感した人は誰でも自由に所員になれた。といっても給料が出るわけでもなく、拘束されることもなかった。だが、すごくありがたかったのは、「君らを食わせてあげることはできないが、君らを歩かせてあげる」という宮本先生の方針どおり、様々なテーマで日本各地を旅する旅費をもらえたことだ。観文研のプロジェクトで日本各地をまわることによって、ぼくは日本を知るようになった。

時速200キロでも見える!
 1975年3月には結婚した。自慢にもならないが、結婚資金などは一銭もない。で、どうしたかというと、1万円で保育園を借り、全費用が1万円という結婚式をあげたのだ。宮本先生ご夫妻が仲人をしてくださり、神崎さんが神主をしてくれた。観文研の仲間たちが会場の飾りつけをしてくれ、豪勢な料理をつくってくれた。本職の神主でもある神崎さんが祝詞をあげている結婚式一番のハイライトシーンでは、「石焼きーいも、焼きいもー」と、焼きいも屋の軽トラックがスピーカーのボリュームをいっぱいに上げて通り過ぎていった。そのとき宮本先生は懸命に笑いをこらえておられた。

 1977年6月には女房と生後10ヵ月の赤ん坊を連れて世界に旅立ったが、出発直前には東京・府中の宮本先生のお宅を訪ねた。そのとき先生は「世界中、どこでも子供は育っている。旅していく中で子供を育てていけばいいのだよ」といって下さったが、そのお言葉が赤ん坊連れの旅の大いなる心の支えになった。

 そんな宮本先生だったが、1981年1月に亡くなられた。享年73歳。観文研の月刊誌「あるくみるきく」では「宮本常一追悼特集号」(第174号)を出そうということになり、先生の遺稿となった「車窓の風景から」の手書きの原稿を持って、ぼくが写真を撮りにいった。先生の郷里に近い山口県の大畠駅から岡山駅までの車窓の風景。新幹線からの車窓の風景も写真にとった。「時速200キロの新幹線の車窓からでも見えるものは見える。何も見えないというのは、見る目を持っていないからだ」といわれた宮本先生のお言葉を何度も思い出しながら写真を撮りつづけたのだ。それから8年後の1989年3月、「日本観光文化研究所」は解散した。「あるくみるきく」の最終号は263号だった。
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『忘れられた日本人』再び:第2回

 (初出:「ゴーグル」2006年7月号)

「偉大なる旅人」誕生の10ヵ条
 宮本常一先生は瀬戸内海に浮かぶ周防大島に生まれた。1907年(明治40年)の8月1日生まれで、来年は生誕100年になる。先生が生まれたのは周防大島東部の旧家室西方村で、戦時中に白木村と改称し、1955年(昭和30年)には東に続く森野、和田、油田の3村と合併し、東和町になった。さらに2004年(平成16年)には周防大島の久賀町、大島町、橘町、それと東和町の4町が合併し、1島1町の周防大島町になっている。

 宮本先生は16歳のときに故郷を離れ大阪に出るが、そのときお父さんの善十郎さんからいろいろなことを教えられた。それは次のようなことだった(文藝春秋刊の『民俗学の旅』より)。

1、汽車へ乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何がうえられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

2、村でも町でもあたらしくたずねていったところはかならず高いところへ上がって見よ、そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見下ろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

3、金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

4、時間のゆとりがあったらできるだけ歩いて見ることだ。いろいろのことを教えられる。

5、金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

6、私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。三十すぎたら親のあることを思い出せ。

7、ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い、親はいつでも待っている。

8、これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

9、自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからと言って親は責めはしない。

10、人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかりあるいていくことだ。

 ぼくはこれは「偉大なる旅人、宮本常一」誕生の10ヵ条だと思っている。宮本先生のお父さんのお言葉は胸にしみるものがあり、親が子に送る最高の言葉だと思うし、とくに前半の1から4までの項目はぼく自身、長年に渡って実践していることでもある。まさに旅の基本といっていい。


聖地巡礼
 宮本常一先生の故郷、周防大島はぼくにとっては聖地のようなもの。いままでに4度、バイクで「日本一周」をしているが、そのたびに周防大島には立ち寄っている。

 一番最初の「日本一周」は1978年。空冷エンジンのスズキ・ハスラーTS50でまわった。先生の故郷は御子息の宮本光さんと紀子さん夫妻がしっかりと守っていた。光さんは「農業こそ人間にとって一番大事な仕事!」と東京農業大学卒業後、農業の実習を積み重ね、故郷の周防大島に戻ってミカンづくりをしていた。奥さんの紀子さんは武蔵野美術大学の出身で宮本先生の教え子。11月5日に有料の大島大橋で周防大島に渡り、宮本家に行った。光さんとは「ヤーヤーヤー」と久しぶりの再会を喜び合い、何度も握手をかわしたが、お2人のしっかりとしたユニークな生き方に心を打たれた。

 その夜は宮本家で泊めてもらった。腹いっぱい夕食をご馳走になったのだが、その中で出たソーメンウリが珍しく、またおいしく、遠慮もせずに丼1杯、食べた。その名の通り、煮るとソーメンのように細長くほぐれてくる。食後は大島の話、大島の農業の話、島の青年たちの話、さらには光さんの大好きな時刻表や地図の話…と、夜遅くまで光さんの話を聞くのだった。

 翌日は宮本夫妻についてミカン園に行った。仕事は肥料の鶏糞をまくことだった。軽トラックの荷台に鶏糞の入った袋を満載にし、山道を登っていく。周防大島は島全体が山がちで、平地が少ない。そんな山々の斜面を耕しているので、決して楽な農業ではない。道が行き止まりになると、そこから先は「ネコ」と呼ばれるエンジン付きの一輪車と、背負子に袋を積み替え、急な山の斜面を登っていった。

 ミカンの木には鈴なりのミカンが成っていた。もう半月もすれば収穫が始まり、そうなると猫の手も借りたいほどの忙しさになるという。宮本夫妻の手伝いをし、一緒になって鶏糞をまいた。休憩時間になると光さんには「カソリさん、食べたいだけ食べていいよ」といわれ、大粒のミカンをもぎとり食べまくったが、周防大島のミカンの甘さといったらなかった。瀬戸内海を見下ろし、海を渡って吹いてくる風に吹かれながら食べるミカンの味は格別だった。

 午後は宮本夫妻と一緒に白木山に登った。白木山は標高377メートル。山頂まで自動車道がついている。中腹まではミカン園が続き、その上は森林。松の木が多いのだが、すっかり松くい虫にやられ、無残にも赤茶色に枯れていた。白木山の山頂からの眺めはすばらしいもので、宮本先生の故郷の集落を眼下に見下ろし、周防大島の海岸線を一望できた。まるで地図を見ているかのようで、周防大島の概観が一目でわかった。

 翌日はハスラーで周防大島を一周。もうひと晩、宮本家で泊めてもらい、伊保田港から四国の松山にフェリーで渡った。四国を一周したあと、11月11日に周防大島に戻ってきた。再度、宮本家に泊めてもらい、翌日は地元の東和中学校で話をすることになった。光さんがすべて段取りしてくれたことだった。1年生2クラスの生徒80名を前にして、アフリカ大陸をオートバイで旅したこと、今こうして50ccバイクで日本一周をしていることなどを話した。45分の授業だったが、最後の10分間は質問の時間。どのようにしてアフリカの人たちと話したのか、毎日何を食べていたのか、病気になったときはどうしたのか、動物は怖くなかったのか…と、次々に質問が飛んできた。

 大汗をかいた授業だったが、誰もが行儀よく、生徒たちの澄んだ目に圧倒されてしまった。そのあと宮本夫妻と固く握手をかわして別れ、周防大島を離れ、こうしてぼくの最初の「聖地巡礼」は終わったのだ。

「日本一周」を終えて東京に戻ってからのことだが、日本観光文化研究所で宮本先生にお会いしたとき、周防大島に立ち寄り、光さん夫妻にすっかりお世話になったことを伝えた。すると先生は「そうか、それはよかった!」といってたいそう喜んで下さった。

 前出の『民俗学の旅』(文藝春秋)で宮本先生は次のように書かれている。

「私の若いときからの一つの夢は六十歳になったら郷里へ帰って百姓をすることであった。そして地域社会の持っている問題を郷里の人たちと考えて見たかった。ところが隠居する年になって学校へ勤めるようになった。勤めているうちに十年余りたってしまった。帰住するために、古くなった家を建てなおしたら次男が郷里へ帰って百姓することになった。私の郷里は昭和三十二年頃からミカンの植栽が進んだ。米や麦を作るよりはミカンを作る方が経済的にも安定するし苦労も少なくなると思ったが、生産過剰になって、ミカン作りでは生活がたちにくくなった。そしてミカンを作っていた若い者は都会へ出てゆくか、役場や農協へ勤めるようになった。そして人口7000余の町で二十歳台で百姓をしている者は一人もいなくなった。そうしたところへ帰ってミカンを作っても生活のたつ道を見つけたいと努力している。ミカンを台木にして、新しい品種の穂木を接木している。私にできなかったことをやってくれるのではないかと期待しているけれど、人間のあるいてゆく道の長さを近頃思い知らされることが多い。人の生きてゆかねばならない道は無限につづいているのである。」

 宮本先生はこのように書かれているが、その行間には光さんが先生の故郷をしっかりと守り、先生の夢を受けつないでくれたことへの感謝の気持ちと喜びが満ちあふれているように思えてならない。


カソリの「聖地巡礼」はつづく
 第2回目の「聖地巡礼」は宮本先生が亡くなられてから8年後の、1989年のことだった。その年の3月31日には先生のつくられた日本観光文化研究所が閉鎖され、一切の活動を停止した。ぼくが水冷エンジンのスズキ・ハスラーTS50で「日本一周」に出発したのは8月17日。有料の大島大橋を渡って周防大島に入ったのは、東京を出発してから72日目の10月27日のことだった。

 まずは宮本先生の故郷の神宮寺に行き、先生の墓参りをしたあと宮本家へ。光さんはぼくと顔を合わせるなり、「カソリさん、ちょうどよかった。明日、明後日の2日、山口の農業祭なんですよ。一緒に行きましょう」と誘われる。その農業祭で光さんは自分でつくった自慢のサツマイモ、「東和きんとき」の焼きいもを売るというのだ。光さんはミカンからサツマイモへと比重を移していた。農閑期には何かイベントがあると、焼きいもの道具一式を軽トラックに積んで出かけているとのことで、それがまた光さんにとっては「ハレの日」にもなっていた。

 ひと晩、宮本家で泊めてもらい、翌朝、宮本夫妻はまだ暗い午前5時30分に軽トラックで出発。ぼくも同乗させてもらう。光さんの運転で120キロの距離を走り、山口市郊外の農業試験場内の農業祭会場へ。山口県下の農協婦人部の「ふれあい喫茶」の隣りが光さんの「石焼きいも」のコーナーだった。さっそく石焼きいものカマをセットする。マキを焚いてカマの底に敷きつめた土佐産の小石を熱し、その上にサツマイモをのせていく。1時間半ほどたつと、焼き上がりはじめる。
「さー、いらっしゃい、いらっしゃい。おいしい、おいし~い大島の東和きんときの焼きいもですよ~!」
 と声を張り上げる。光さんの石焼きいもの人気は上々で、行列ができるほどの盛況ぶりだった。

 農業祭の2日目は光さんにかわってぼくが客を呼び込んだ。
「光クン、これなら焼きいもを売りながら、日本一周できるよ」
 ぼくが冗談半分にいうと、
「それはいいアイデアだ。カソリさん、やろう、やろう!」
 と、光さんは相槌を打ってくれた。

 2日間の農業祭を終え、周防大島に戻ると、宮本家で泊めてもらった。そして宮本夫妻の見送りを受けて四国に向かったのだが、周防大島の伊保田港からのフェリーがなくなっていたので、柳井港から松山行きのフェリーに乗った。

 第3回目の「聖地巡礼」は1999年。このときはスズキDJEBEL250GPSバージョンを走らせての「日本一周」だった。4月26日、無料化された大島大橋を渡って周防大島を一周し、その途中で宮本家に立ち寄った。農作業で忙しい時期だったのにもかかわらず、光さん、紀子さんはぼくを待ち構えてくれていて、お昼をご馳走になった。光さんは次の日は高知へサツマイモの苗を仕入れに行くことになっていて、地図を見ながら、
「竹原から今治にフェリーで渡って、そこから寒風山トンネルを通って高知まで行くんですよ」
 とうれしそうに話してくれた。完成したばかりの国道最長トンネルの寒風山トンネルを通るのをすごく楽しみにしているようだった。

 第4回目の「聖地巡礼」は2001年。このときはスズキSMX50でまわった。

「日本一周」の66日目、10月20日に周防大島に渡った。そして「周防大島一周」の途中で宮本家に立ち寄った。隣の平郡島へのフェリーの時間があったのでなんともあわただしい訪問になってしまい申し訳なかったが、わざわざ待ってくれていた光さん、紀子さんに挨拶し、光さんとひとしきり話をして出発しようとした。すると「カソリさん、途中でこれを食べて下さい」と、紀子さんから宮本農園産のミカンと蒸かしたサツマイモを手渡された。神宮寺の宮本先生のお墓に手を合わせたあと、周防大島のキラキラ光る海を見ながらホカホカのサツマイモを食べたのだ。

 このときの「日本一周」は島めぐりが一番の目的で、154日間で188島をまわった。島といえば宮本先生のまさにフィールド。全45巻の『宮本常一著作集』(未来社)の中でも『日本の離島』は第1集、第2集と2巻を占めている。「島めぐり」の日本一周では、宮本先生の世界に一歩でも足を踏み入れたいという強い思いもあったのだ。

 こうしていままでに4度の「日本一周」をなしとげ、そのたびに宮本常一先生の故郷の「聖地巡礼」をしてきた。カソリの「聖地巡礼」は、これから先もまだまだ、ずっとつづく。「聖地巡礼」というのは「熊野巡礼」や「メッカ巡礼」などの例を上げるまでもなく、回数を重ねれば重ねるほどいいものなのである。

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『忘れられた日本人』再び:第3回

 (初出:「ゴーグル」2006年9月号)

観文研の共同研究と共同調査
 今年の1月30日、東京・西国分寺の東福寺で宮本常一先生の26回忌がおこなわれた。宮本先生が1981年1月30日に亡くなられてから25年間、1度も欠かさずにおこなわれている。宮本先生が所長をされていた日本観光文化研究所(通称・観文研)の所員だった山崎禅雄さんが島根県の谷住郷(江津市)から駆けつけ、東福寺の本堂で読経してくれる。これも毎年のことだ。

 山崎さんは山陰の曹洞宗の名刹、日笠寺の住職をしている。読経が終わると場所を変え、宮本先生の遺影の前で献杯し、飲みながら宮本先生の思い出話に花を咲かせるのだ。東福寺での集まりはビールにはじまり、日本酒、焼酎、泡盛…とさしつさされつで飲みつづけ、だいたい呂律がまわらなくなるころにお開きとなる。

 今でも、宮本常一先生の存在というのはこれほどまでに大きなものなのだが、先生が亡くなられた直後から、観文研では先生の学問的体系・思想の継承、発展を目指して「宮本常一研究」を開始した。その成果は観文研発行の『研究紀要』に発表された。1989年の観文研閉鎖までに全部で11巻の『研究紀要』が出たが、そのうち「宮本常一研究」は5巻を占め、第5巻目は先生の膨大な著作の目録になっている。これら5巻の『研究紀要』は、今ではほとんど手に入らない非常に貴重な宮本常一研究の資料になっている。

 宮本先生の死後、日本観光文化研究所では共同研究とともに共同調査も開始した。1983年4月には先生の故郷、周防大島の旧久賀町椋野(むくの)という地域を舞台にして、共同調査が行われた。宮本先生の後をついで所長になられた高松圭吉先生(故人)や事務局長の神崎宣武さん(現「旅の文化研究所」所長)、前出の山崎禅雄さん、そしてカソリらの所員が椋野に入った。宮本先生の故郷ということもあって、ぼくには「よ~し、宮本先生の教えをここで実践してやろう!」といったような強い意気込みがあった。

 周防大島の北側に位置する椋野は江戸期から明治初期までは椋野村として一村を成していた。国道437号沿いにあるが、ツーリングで周防大島にやってきても、まず立ち止まるようなところではない。100人が100人、まったく気にもとめずに走り過ぎてしまうようなところだ。そんな椋野にくらいついていろいろなことを見てやろう、いろいろな人たちの話を聞いてみようという高揚した気分だった。

 椋野には昭和29年(1954年)発行の『山口縣久賀町誌』を持っていった。この町誌は宮本先生が責任編集されたもの。久賀町の「地理的条件」、「歴史的展開」、「現在の久賀」、「人と伝承」の4編から成っている。

「瀬戸内海の地図をひらいてじっとみつめていると、一見不規則にばらまいたような島々のたたずまいにも、何らかの秩序がひそんでいるように思えてくるだろう。もう少し具体的にいうと、場所によって島々の疎密の状態がまるで違っているし、また島がたくさん寄り集まったところにしても、その並び方が勝手気ままではなくて、或る目に見えない何かの意志によって、作為的に並べられたような気配を感ずるのである。さらに詳しく見てみると、島々の一つ一つの形や、これらの島と島とを区切っている瀬戸(海峡)の形までから、こうした自然の意志を汲みとれるようにさえ思えてくることだろう」。

 このような宮本先生の書き出しで始まる久賀町誌をいつもそばに置き、何度も目を通しながら、椋野の全集落をひとつ残らず歩きまわったのだ。


周防大島の漁民の話
 椋野では何人もの人たちから話を聞かせてもらったが、その中でもとくに、漁民の話はおもしろいものだった。

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「椋野の漁家は全部で13軒。昔は18軒ありました。椋野の漁業というとタコ漁が中心で、タコツボを使ってのタコ漁です。期間は4月初旬から8月まで。7、8月が最盛期。獲るのはホンダコ。1本の綱に120個から150個ぐらいのタコツボをつけるけど、だいたい1軒の漁家でこの綱を10本から12本ぐらいは持っているね。タコツボは1個150円します。ふつうは250円。それを安くしてもらっている。末田(山口県防府市)のタコツボを使っている。獲ったタコは岩国と広島の市場に出している。タコの漁期の間は、ほとんどといっていいくらいにタコだけで、ほかの漁はまずできないね。

 タコ漁が終わると網漁になる。刺網です。9月、10月がアブラメ漁、正月から4月ごろまでもアブラメ漁がつづくのだけど、2月、3月はメバル漁が中心だね。コノシロやカレーも獲る。カレイは正月前が一番安くなってしまうので『師走ガレイに宿かすな』なんていってますよ。そのほかギザメとかチヌだね。

 1年を通して2月、3月が一番ひまです。反対に一番忙しくなるのは梅雨が明けてから盆が過ぎるころまで。漁を休む日といったら近所で不幸があったときとか、盆、正月、祭りの日ぐらいだね。釣漁は5、6年前までは2ハイの釣船があったのだけど、今はやってない。大島でも釣漁の盛んなところはありますが、椋野には釣漁は合わないようだ。

 かつての網漁というと終戦後の一時期、サヨリ網をやったことがある。10人から20人ぐらいでやるのだけど、分け前は平等だった。丈は3尺(約90センチ)、長さが200メートルから300メートルぐらいある網で、このサヨリ網ではずいぶんともうけさせてもらいましたよ。ゴチ網も終戦後の一時期、やったことがある。タイを獲る網。ローラーゴチといって機械で巻き上げる網もあった。それとイワシ網。地引網のことだな。

 私は高等科を出るとすぐに海に出るようになった。高等科の卒業というと15、6歳のころ。漁師としては3年くらいやって、はじめて一人前になったような気がした。船に動力をつけるようになったのは終戦後のこと。それ以前は船に帆を立てていた。

 私たち椋野の漁師は北風をすごくいやがります。北風のことは『キタ』といってます。南風が『マジ』、南西の風が『ヤマジ』、北西の風が『アナジ』、東風が『コチ』、西風が『ニシ』になる。『冬のアナジがニシになる』といえば、冬の北西の季節風から春の西風へと季節が変わったということです」(浜野重一さん 明治40年生まれ)

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「私はタコツボの綱は全部で12本持ってます。1本の綱に100個のタコツボをつけてます。漁の中心はタコ漁。タコの産卵期は9月初旬から中旬で、この期間、タコはまったく動かない。そのため漁は休み。今年から9月1日から10月20日までは、タコの休漁期間にしようと組合で決めました。この期間にタコツボを上げ、タコツボの掃除をします。それを『カキオトシ』といっている。タコは魚でもアナゴでも貝でも何でも食べます。

 タコツボは末田(山口県防府市)から買ってます。田中とか安田という専門の業者がいる。一級品のタコツボが1個240円、二級品が160円。1年間に500個から600個は使いますね。タコツボをつけるロープは1巻が10000円から15000円。タコツボの綱1本で5巻のロープが必要になる。

 風については『寒いキタ(北)風、冷たいアナジ(北西の季節風)、吹いてぬくいマジ(南)の風」なんていいますよ。また潮については『5日、20日は真昼がダタエ(満潮)、朔日(1日)、中道(15日)、4ツ巳刻(午前10時)がダタエ』っていってます。漁には今でも旧の暦(旧暦)を使っています。

 これも潮のことですが、『讃岐3合、興居島(松山沖)5合、お花の瀬戸(豊予海峡)で手いっぱい(満潮)』などいわれていますよ。これは漁師ではなくて、気帆船の船乗りたちがいったということで、同じ時刻の瀬戸内海でも場所によってはこれだけ潮が違うということです。漁を旧(旧暦)でやっているといったけど、そうすると1日、15日が大潮で、7日、13日が小潮になります。網代(漁場)によっては大潮がいい場合もあるし、小潮がいい場合もある。

 久賀(旧久賀町久賀)にはアナゴ漁専門の人がいますよ。タコ漁には餌はいらないけれど、アナゴ漁には餌が必要でイワシを使っています。マジメ(日が落ちるころ)にアナゴカゴを海に入れ、2時間ぐらいで引き上げます。椋野でも終戦後の2、3年はアナゴ漁をやる人がいたけれど、今では誰もやってません。そのほか久賀には10月1日から11月20日までワタリガニを専門に獲る人がいる。

 椋野の網代というとハダ、シモズ、ナカデ、タカマワシ、フジノウチ、ホンデト、イシノナカ、フカリ、オキノハナ、シオザカイ、ミナミノカマチ、ハシマミド、コンマ、スノウエ、トンネルぐらいですかね。よく獲れたときは、どこで獲れたのか、ほんとうの網代をいう漁師はまずいない。たいてい反対の場所をいいますね。

 タコツボの綱は浮きなしで海に落としていきます。ですから見た目には、どこにタコツボがあるのか、まったくわからない。それを毎日、拾い上げてタコを獲るわけです。タコツボの綱を拾い上げるのは『ヤマグイヤ』で場所を確かめ、サグリを入れて引き上げます。『ヤマグイヤ』というのは『山が喰いあう』といった意味でしょうか。直角を使ってヤマを立てます。なるべく近くのヤマ(目標物)と、それに直角になるような山との線を交差させたところにタコツボの綱があるというわけです。近くのヤマには岬をそれと直角になるようなヤマには島を使うことが多いね。ヤマの立て方というのは、今までの経験によるところが大きい。失敗してタコツボを引き上げられなかったことはない。コツとしてはなるべく近くのヤマを使うことです。

 タコツボの綱に浮きをつけないで海に落とすのは、このあたりは潮が速いので、浮きをつけていると綱ごともっていかれてしまうことがあるからです。それとこのあたりは航行する船舶がきわめて多いので、船にひっかけられてしまう危険性がきわめて高いという理由もある。網代の中でも岸に近いところだと、浮きをつけることもありますよ」(浜野慶一さん 明治44年生まれ)

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 タコ漁について詳しく話してくれた浜野さんは、「自分の目で見るのが一番」といって翌日のタコ漁に一緒に連れていってくれた。漁から戻ると、奥さんはタコ飯を炊いてくれた。獲れたてのタコを細かく刻んで混ぜ合わせた炊き込みご飯なのだが、タコの味とほのかな潮の香りがご飯にのり移っていて何ともいえない味のよさ。「海の幸」を感じさせてくれるものだった。


周防大島での奇跡の再会
「私は大正7年に椋野で生まれました。天浄寺が生家です。昭和6年に椋野の尋常小学校に入学。尋常小学校のあとは2年間、三蒲の高等小学校に通いました。椋野と三蒲の境の峠、サヤノカミを越えて学校まで1時間、毎日歩いて通いました。あの当時、尋常小学校から中学校や女学校に進学するのはほんとうに限られた家の長男や長女だけで、34、5人のクラスのうち4、5人でした。

 三蒲の高等小学校のあとは小松(旧大島町)の商船学校に入りました。私が小松の商船学校に入ったのは、船乗りになりたいという気持ち以上に、あのころよくいわれた『海外雄飛』への憧れがあったからです。船乗りになって、世界を駆けめぐりたいという思いが強かったですね。小松の商船学校は私が入った年に県立から国立になりました。設備は充実するし、学校の格は上がるし、学費は安いということでほんとうにありがたかった。学生は大島郡よりもよそからの人たちのほうがはるかに多かった。

 小松の商船学校の卒業は昭和19年。戦争が激しくなり、船員が足りなくなって、くり上げの卒業でした。三井船舶に入社したのですが、乗る船がなくて自宅待機。もしあのときに輸送船などに乗っていたら、おそらく生きては帰れなかったことでしょうね。一時期、内地まわりの船に乗ったこともあります。

 戦後は国家管理の船舶運営会社の船に乗りました。進駐軍の物資を運ぶ船。昭和22年から23年にかけては再教育を受けましたよ。戦時下でくり上げ卒業したものですから、国が希望者だけに再教育をほどこしたのです。その間は国から月給をもらいながらの勉強でした。三井船舶に復社したのは昭和26年。昭和39年には三井船舶は大阪商船と合併し、大阪商船三井船舶という新しい会社になったのです。昭和41年に船長になり、それ以来、三井OSKラインの貨物船の船長として世界の7つの海をめぐってきました」

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 このように話してくれた松岡睦男さんとは、周防大島での奇跡の再会となった。

 ぼくは1968年、20歳のときに日本を飛び出し、スズキTC250を走らせ、友人の前野幹夫君と1年がかりで東アフリカ経由でアフリカ大陸を縦断した。アフリカとヨーロッパを分けるジブラルタル海峡を目の前にするスペイン領セウタまで来たとき、ぼくは相棒の前野君に無理をいって彼と別れ、ヨーロッパで資金稼ぎのバイトをしたあと、ふたたびアフリカに戻り、今度は西アフリカ経由で大陸を南下した。大きな難関のコンゴとアンゴラの国境を突破し、アンゴラの首都ルアンダまでやってきた。ゴールの南アフリカのケープタウンが目前だった。

 ところがルアンダでは南アフリカのビザが取れなかった…。前に進むこともできず、かといって戻ることもできず、にっちもさっちもいかない状態に陥った。そんなときにルアンダ港に日本船が入港した。大阪商船三井船舶の「ぶえのすあいれす丸」。その船の船長が松岡睦男さんだった。

 日本人のみなさんに会いたくて、日本語を話したくて港まで行くと、松岡さんをはじめ乗組員のみなさんには大歓迎された。船内ではなんともおいしい日本食をご馳走になった。「ぶえのすあいれす丸」は3日間、ルアンダ港に停泊したが、その間は船内で泊めてもらい、松岡船長や乗り組み員のみなさんと一緒に食事した。夜はさんざん飲ませてもらった。松岡船長らと過ごした3日間というものは地獄で出会った極楽のようなもので、この上もなく楽しいものだった。

 そんな松岡さんと宮本先生の故郷の周防大島で再会したのだ。これはもう奇跡の再会としかいいようがない。そのときぼくの頭の中では宮本先生と松岡さんがしっかりと結びつき、心底、思ったものだ。
「(この奇跡の再会は)宮本先生のおかげだ!」

 宮本常一先生以降の日本観光文化研究所の共同調査は周防大島の「椋野」のほかに九州山地の「米良」、下北半島の「佐井」をフィールドにしておこなわれた。これら「椋野」「米良」「佐井」で過ごした共同調査の日々というものは宮本先生への想いとともに、今でもぼくの胸の奥底深くに色濃く残っている。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

『忘れられた日本人』再び:第4回

 (『ゴーグル』2006年11月号、所収)

東米良の焼畑
 宮本常一先生は日本の焼畑農耕には深い関心を持っておられた。
『日本文化の形成・下巻』(そしえて)の「焼畑」の項では、「戦前旅の途中で焼畑をしばしば見る機会を持ったし、宮崎県東米良、椎葉、高知県寺川、石川県白峰、能登門前、山梨県棡原などではかなりくわしい聞き取りをおこなうことができた。そして焼畑は狩猟・採取の延長として発生したものではないかと考えるようになった」と書かれている。

 日本観光文化研究所(観文研)の「東米良」での共同調査(1982年~83年)でぼくは焼畑を追った。焼畑の重要性は宮本先生を通して、観文研で徹底的に教え込まれていたからだ。九州山地の東米良は現在は宮崎県西都市の一部になっているが、かつては東米良村として1村を成していた。焼畑を見聞きするのには最適なフィールドだった。

 焼畑は今の日本ではほとんど見られなくなってしまったが、つい3、40年ほど前までは日本の広範な地域、とくに山地でおこなわれていた。東米良では焼畑のことを「コバ」と呼び、コバを切る作業をコバキリといっていた。コバには秋にコバキリをして春に焼く「秋コバ」と、夏にコバキリしてその後で焼く「夏コバ」があった。焼畑の中心になるのは「秋コバ」で、そこではかつての主食だった雑穀のヒエが栽培された。

 秋コバにする山はなるべく年数のたった樹木のはえている山がよく、とくにモミの大木がはえているような場所が秋コバをするのには最適な場所だったという。

「モミの下でトーラ1俵(トーラで1俵、ヒエがとれるという意味)」といわれたほどで、モミの木のはえているあたりは地力があり、ヒエの成りがよかった。反対にコウヤマキやマツのはえている場所は土地がやせていてヒエの成りが悪かった。「千年ブロシ」ともいわれるが、有史以来、初めて斧を入れるような原生林のコバほど、ヒエの成りがよかったという。長年にわたる落ち葉などの堆積で、土壌が有機質に富んでいるからだ。東米良では標高1000メートルぐらいまでの高地で焼畑がおこなわれた。


「コバキリ」
 秋コバのコバキリは9月から11月にかけておこなわれた。斧、鉈、鎌を使ってのコバキリで、鋸を使うようになったのは新しいことだという。

 樹木を切り倒し、それをさらに小さく切っていく。柴を刈り、木ぎれなどとともに地面に広げていく。下草や蔓などを刈り払い、柴の上にまきちらし、乾燥させる。大木は伐り倒さずに、長さが3、4メートルほどの棹の先に鉤をつけたキオロシザオを使って木から木へと飛び移り、枝を下ろしていく。それを「キオロシ」といった。

 キオロシはまさに命がけの仕事だった。そのためキオロシに出かける朝にはいくつかのしてはいけない掟があった。
一、女の炊いた飯は食べない。
一、朝食ではあえものは食べない。
一、欠けた茶碗は使わない。
一、普段、使う箸は使わない(山で伐ったものを使う)。
一、サルの話をしない。

 キオロシの作業中、木から下りるのは昼食のときだけだった。その昼食も木の上で食べることもあった。キオロシは落葉樹の落ち葉が落ちる前に終わらせなくてはならなかった。落ち葉が積み重なってからキオロシしたのでは、下の落ち葉は乾燥せず、焼いたとき、地面がよく焼けないからだ。焼畑で一番重要なことは、いかに地面をよく焼くか、なのだ。

 キオロシの際には「キオロシの唄」を歌った。それは山ノ神への作業の安全を祈るものであり、自分自身の心の安定を計るものであり、家族への無事を知らせる通信の役割もはたしていた。山ノ神の加護を願う唄からはじまり、キオロシの作業上の注意・要領など全部で「四十八流れ(番)」あったという。

 そんなキオロシの唄の一部を東米良・上揚の河野開(大正7年生まれ)さんに聞いた。その中には「登り木の 高木のせびより ながむれば 星こそ見えたと はるばると」という唄があったが、まっすぐ、スーッと伸びる大木は木の先端の「せび」を残した。その理由はせびを切り落とすと、木の揺れが大きくなるからということだが、山ノ神の依代(神の宿る場所)といて残しておくという信仰上の理由が大きかったようだ。

 また根元近くに大きな洞があって、くぐり抜けられるような大木には山ノ神が宿っているといわれ、「ヤマガミノアソビ」といって伐り倒してはいけないものとされていた。それを伐り倒したばかりに思わぬ災難に見舞われたという話がいくつもいい伝えられている。キオロシをし、伐った木をヨコシ(横)に並べた。そうすると、地面がよく焼けるからである。こうしてコバキリを終えた焼畑は、春までそのまま放っておく。その間に、樹木や柴、草、落ち葉などは十分に乾燥し、焼くのを待つばかりになる。


「コバヤキ」
 東米良には「コバヤキ日和」という言葉が残っているが、コバヤキするのは3月から4月にかけての異常乾燥注意報が出るような頃がいい。天気つづきで、春霞が立つような日だ。この季節は山火事が多く発生するころでもあり、コバヤキと山火事はまさに紙一重。一番危険な時期に山を焼くのだから、細心の注意と火を扱う技術、それとなによりも度胸が必要だという。

 なぜこのような最も危険な時期に山を焼くかというと、「ジヤキ(地焼)」といって、いかに地面をよく焼くかが、焼畑の生命になってくるからだ。うまくジヤキできたコバだと、作物が病気にかかりにくく、雑草がはえにくく、そして作物がよくできるのである。「今年できないコバは来年もできない」とか「焼けないコバは一生の不作」といわれるほどで、コバの出来、不出来はコバヤキによるところが大きい。そのため一番よく焼ける時期に火を放つのである。

 コバのまわりには「カダチ」と呼ぶ幅3メートルほどの防火線を切る。コバの地形によって違いはあるが、傾斜がゆるやかだと、それほど広くとる必要はない。コバの上部をヨッカシラとかクチモトといっているが、その部分のカダチは幅4、5メートルと広くとる。なお上部のヨッカシラに対して横の部分をヨコジリといっている。カダチの落ち葉はきれいに掃き清め、燃えるものが何もないようにしておく。さらに火が燃え移った時に消すためのヒボティを用意しておく。ヒボティはツバキやサカキなどの生柴を束ねたもので、それで火をたたいて消す。防火祈願に東米良の北、北郷村(現美郷町)の宇間納地蔵の御札をカダチに立てておく。

 さて、いよいよコバヤキだ。晴天の無風の日を選んで焼く。コバヤキは男の仕事。午前中に火を入れる。上部のヨッカシラから1間(約1・8m)間隔で火をつけていく。タイマツで火をつけていくのだが、その火をコバの中央へと、うまく下ろしていく。コバヤキの炎はすさまじい。高さが10メートルを超えるような火柱が立つ。無風の日でも炎と熱とで、熱風が渦を巻く。火は上から下に下ろすだけでは時間がかかりすぎるので、ある程度焼けると、コバのまわりのヨコジリにも火を入れる。しかしヨコジリに入れる火が早過ぎると、地面のシン(芯)が焼けないという。つまりジヤキ(地焼)しないのである。1町歩(約1ヘクタール)ほどのコバだと、焼くのに3、4時間、かかる。できるだけ手間をかけて焼いたほうが、当然、よくジヤキする。

「火もようたかんモンはヒトリマエではない」といわれたほどで、コバヤキを上手にできない男は一人前とはみなされなかった。
 翌日、燃え残りを焼いた。それを「キヤキ」といった。あまりジヤキしていないようなところに燃え残った木を集め、キズカ(木塚)を築いた。山のように積み上げたところで火をつけたので、これもやはり大きな火になった。そのようなところから、大きな火のたとえとして、東米良では「キズカを焼くような」といういい方をする。たとえば、ジロ(囲炉裏)を使っていたころは、薪をくべすぎて大きな火にしてしまったときは、「キズカの火のごとく…」といったような注意をされたという。

 キヤキしたあと、木の切り株に焼け残りの木を渡して土止めにした。それを「オモノリ」といった。オモノリの上には表土がたまるので、作物の成りがいい。反対にオモノリの下は表土が流れ落ちてしまうので、作物の成りが悪い。オモノリをはさんで上と下とでは収量がかなり違ったという。

 このようにして焼いた最初の年、第1年目のコバを「ニコバ」といった。ニコバではヒエをつくった。そのためヒエコバともいった。ニコバは毎年、切り開かれていった。東米良には「千貫コバ」という言葉が残っている。それは1町歩(約1ヘクタール)以上の大きなコバで、そこでのヒエの収量は千貫(約3750キロ)以上あった。そのような千貫コバが上揚の古穴手(ふらんて)地区だけで3、4ヵ所にあったという。


焼畑でのヒエ栽培
 コバヤキしたあとのヒエの種蒔きは4月。雑草の芽吹きはじめるころを「キャヘイ」というが、その頃を目安にした。ツナブクロとかタナブクロと呼ぶ木綿の袋にヒエの種を入れ、おおよそ1反(約1000平方メートル)に1・5合(約0・27リットル)の割合で種をまいた。直播きなので、この種まきが難しい。下手な人がやると、どうしても厚くまいてしまう。そうするとヒエは密植し、成長が悪くなり、病虫害にもやられやすくなり、穂も小さくなってしまう。「千振れ、千振れ」といわれるが、手を千回も、つまり数多く振るようにして種を薄くまいていく。コバの下から上へ、ジグザグ登りながら何ヵ所かに立てたタナジルシ(種印)を目安にまいていく。まき終わったあとは、刃幅の狭いヤマグワで軽く表土をかけておく。種はなかば見えるくらいでかまわないという。

 ヒエは種をまいてから1週間ぐらいで発芽する。いったん種まきをしてしまうと、あとは草むしりをするくらいで、ほとんど手をかけない。肥料を施すこともない。これが焼畑の大きな特徴だ。最初の草とりはヒエが10センチ程度に伸びたとき。2度目が盆前の頃。道具を使わずに手でむしりとる。

 8月から9月にかけてヒエは穂を出す。この時期、神主に「ムシヨケ」に来てもらった。ヒエに虫がつかないよう、病気が発生しないように、呪文を唱えながらコバのまわりをまわってもらうのだ。そして10月の下旬から11月にかけて収穫した。

 1年目のコバを「ニコバ」というといったが、2年目のコバは「キャギャシ」になる。「キャギャシ」ではヒエとアワを栽培した。ヒエとアワの種を混ぜてまくこともあった。3年目のコバは「ナツウチ」で、マメとアズキをまいた。東米良でマメといったらダイズのことで、マメとアズキを混ぜてまくこともあった。4年目のコバは「コナ」とか「コナウチ」、「コナカキ」と呼び、ヒエやアワの雑穀類をまくこともあり、3年目の「ナツウチ」同様にマメやアズキの豆類をまくこともあった。

 こうして使い終わったコバは自然に帰してあげるのだ。東米良の人たちはそれを「山ノ神に返す」といっている。みなさんは山ノ神に対して「畏れ」とか「敬い」の気持ちを誰もが強く持っている。山を生活の舞台にして日々、無事に生きていかれるのも、かぎりない自然の恵みを受けられるのも、すべて山ノ神のおかげだと信じている。それだから、たとえばコバヤキをする前には、コバには必ず御神酒を供えた。地力の衰えた焼畑地はひとまず休閑地にするが、20年とか30年たって焼畑の跡地に樹木がおい茂るようになると、また焼畑地として利用するのだ。

 東米良の人たちの言葉を借りれば、また「山ノ神から自然の恵みを与えてもらう」ことになる。これはたんに東米良にとどまらない。東米良の焼畑のサイクルを通してぼくは日本の山地民と、山との息の長いつきあいの一端を見る思いがした。


カソリの「日本焼畑行」
 東米良の焼畑のうち、秋にコバキリして春に焼く「秋コバ」はヒエコバともいわれるように、ヒエをつくるための焼畑といった色彩がきわめて強かった。それに対して夏にコバキリし、その直後に焼く「夏コバ」は菜園的な焼畑といっていい。大規模な焼畑の秋コバに対して、夏コバは小規模な焼畑になる。オクヤマ(奥山)とかミヤマ(深山)でおこなう秋コバに対して、夏コバはアサヤマ(浅山)でおこなった。アサヤマというのは家に近い山で、それほど年数のたっていない森林、せいぜい樹齢が14、5年の山をいった。秋コバをヒエコバといったように、夏コバはダイコンコバとかソバコバといった。その呼び名の通り、夏コバでは主にダイコンとソバをつくった。

 夏コバは梅雨が明けた直後の7月初旬にコバキリし、伐った樹木や柴、刈った草などを夏の強い日差しで乾かし、8月初旬にコバヤキした。8月中旬にはダイコン、下旬にはソバの種をまいた。ダイコンもソバも11月の降霜前には収穫した。

 2年目の夏コバではイモ、もしくはマメ、アズキを栽培した。東米良でイモといえばサトイモのことであり、マメといえば先にもふれたようにダイズのことである。イモは3、4月に植え付けし、10月下旬には収穫する。マメ、アズキは7月初、中旬に種をまき、同じく10月下旬には収穫した。3年目の夏コバは2年目と同じか、もしくは茶園にした。夏コバの跡地には無数の山茶がはえてくる。また夏コバに肥料を施し、焼畑から常畑にするようなこともあった。そこではノイネやイモ、カライモ、トウモロコシをつくった。ノイネとは陸稲、カライモとはサツマイモのことである。

 東米良では秋コバは昭和20年代から30年代の前半で終わってしまったが、夏コバは観文研の共同調査のおこなわれたころまで細々とではあるがつづいていた。なんともラッキーなことに、そんな焼畑の現場を自分の目で見ることができたのだ。さらに冒頭の宮本先生のお言葉ともかかわってくることだが、ここでは狩猟(猪狩り)についてもいろいろと見聞きすることができた。

 東米良のあとはバイクを走らせ、自分一人で焼畑を盛んにおこなっていた地域に行ってみた。「日本焼畑行」だ。宮本先生の足跡を追うようにして宮崎県の椎葉、石川県の白峰、山梨県の棡原、さらには滋賀県の姉川流域、静岡県の大井川流域、長野県の秋山郷、新潟県の三面…と。それら地域では焼畑の経験者に焼畑にまつわる話をいろいろと聞かせてもらった。宮本先生は日本の焼畑は畑作の前形式になるものだといわれたが、そのような長い歴史を積み重ねてきた日本の焼畑がまさに消え去ろうとしている時に、それを見聞きすることができたのはものすごくラッキーなこと。それができたのはまさに宮本先生のおかげだった。

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『忘れられた日本人』再び:第5回

 (『ゴーグル』2007年1月号、所収)

『食生活雑考』
 宮本常一先生の著作集、全45巻の『宮本常一著作集』(未來社)の中でも、ぼくが何度となく繰り返し読んでいるのは第24巻目の『食生活雑考』だ。この本の第2章が「食生活雑考」になっている。

「ご飯のことをメシといいます。メシというのは召すものという意味です。もともとはイイといっていました。われわれが日常食べる主食のことです。ところでたべるというのは、賜るということばからきたものです。『何々してください』というところを、昔の貴族の女たちは『何々してたべ』といっていましたが、そのたべとおなじことばなのです。飯を食うことを、メシだのタベルだのと敬語をつかわねばならぬことは、飯を食う場合にはいろいろな作法があったからであり、日本人は毎日三度の食事のおり、飯ばかり食うていたものではなかったのです」

 このような書き出しの「飯のいろいろ」の項からはじまり、「おぜん」「食事の回数」「五徳と自在鉤」「モチとダンゴ」「魚を食べる」「みそ、しょうゆ」「酒もり」「酒の歴史」「お茶」「くだもの」「大みそかから元日へ」と、なんとも読みやすく、わかりやすく書かれた「食生活雑考」は全部で12項から成っている。この本は日本の食文化研究の絶好の入門書。宮本先生の食文化に対する豊富な知識、視点の鋭さ、旺盛な好奇心が随所に見られ、食文化のさまざまなヒントを我々に与えてくれる。

 ということで1984年から85年にかけておこなわれた日本観光文化研究所の下北半島「佐井」の共同調査では、ぼくは宮本先生の『食生活雑考』を念頭に置き、佐井の「食」を見てまわり、「食」にまつわる話を聞いてまわった。


「海の幸」と「山の幸」
 青森県佐井村は下北半島の西部に位置し、津軽海峡に面している。このあたりは奥羽山脈の延長線上にあり、山地は海に落ち込み断崖をつくり、奇岩の連なる仏ヶ浦のような名所もある。海岸線に平地はほとんどない。このような海と山とが接している佐井では海の幸を取り入れた食生活と山の幸を取り入れた食生活の両方を同時に見ることができた。

 まずは「海の幸」だが、佐井の漁業を大きく分けると、磯での海草の採取、海岸近くでの貝類やウニなどの採取、比較的海岸に近い地先の海でのタコ漁やヤリイカ、魚類の網漁の3つから成っている。

 海草の採取は3月のフノリ、4月のコンブ、ヒジキ、4月から6月にかけてのワカメ、6、7月のテングサ、7、8月のモズク、7月から11月にかけてのコンブ、冬の間のイワノリと見事なローテーションでつづき、年間を通して磯では何らかの海草を採っている。
 
 フノリは味噌汁の具にし、ヒジキは油炒めにしたり、飯に混ぜてヒジキ飯にし、テングサからはトコロテンやカンテンをつくる。4月のコンブ漁では「ワカオイ」(若い時期のコンブ)を採るが、この時期のものはコブ巻きに使われ、7月から11月にかけて採る「アツコンブ」はダシコブとして使われる。貝類にはアワビ、サザエ、シュリガイ、ツブガイ、魚類にはカレイ、ヒラメ、タイ、サケ、マス、タラなどがある。

 佐井では「すし」づくりが盛んだ。タナゴ、カワハギ、ホッケなどをなれずしにしているが、たなごずしのつくり方は次のようなものだ。

 タナゴは産卵前の5月、体長10センチにも満たない小さなころが、身が固くしまってすしづくりにはいいという。まずタナゴのウロコを取り、エラとハラワタを取る。よく洗い、ひと晩くらい弱い水、たとえば水道をタラタラたらすような感じで流れ水に打たせる。そして水切りしたあと、同じくひと晩くらい酢に浸す。

 下準備としてダイコン、ニンジン、ハクサイ、キャベツなどの野菜に塩をし、それを硬めに炊きあげた飯に混ぜ合わせ、さらにショウガやサンショの実を混ぜ合わせる。

 魚を漬け込むすし桶に具の混ざったすし飯を敷き、その上に酢に浸したタナゴを並べ、その上にまたすし飯を敷き…と、交互に重ねていく。一番上にはササの葉を敷きつめ、すし桶にぴったり合う蓋をし、その上から重石をかける。1週間ほど重石をかけておくと水気が上がってくるが、それは捨てる。さらにそのあと3日ほど重石をかける。

 このようにしてつくる「たなごずし」は10日ほどで食べられるようになる。ご飯のおかずにするだけでなく、絶好の酒の肴にもなる。また「カヤキ煮」といって、すし桶の中のすし飯をさっと煮たてたものが好まれている。

 次に「山の幸」だが、佐井で食用にされている野草や山菜の類はきわめて多い。野草だとアザミ、ミツバ、ミズ、ワサビ、アカハギ、ヨモギ、セリ、ボウナ、カリグサ(アイコ)、カタクリ、ウド、ツトビル(アイヌネギ)、ニオなど。山菜だとゼンマイ、ワラビ、コゴミ、ヤマウド、フキ、シドケ、タラボ(タラノメ)、タケノコなどである。4月の雪どけと共にコゴミ、ミツバを採りはじめ、ワサビ、アザミ、タラボ、シドケ、ワラビ、フキとつづき、6月中旬のタケノコが最後になる。アザミ、セリ、ミツバなどは家のまわりで採り、フキ、タケノコは奥山で採る。

 フキ、ワラビ、アザミが佐井の「三大野草・山菜」といったところで、それほどよく採られ、またよく食べられている。これらは日常の食事だけでなく、盆や正月、冠婚葬祭には必ずといっていいほどつくられる「煮しめ」の食材になる。

 野草・山菜の類は主に茎の部分が塩漬けにされ、長期間、保存される。かつては7、8年くらい漬け込んだものが普通で、10年以上置くようなこともあったという。北国の冬の厳しさとあいまって、それほどまでに、いざというときに備えた。塩漬けにした野草・山菜は食べるときには水に戻し、ゆでておひたしにしたり、味噌汁の具にする。先にもふれたように、ハレの日の料理にも欠かせない。

 なおタケノコはササダケのもので、鉛筆のように細い。6月にはいってから、フキが終わったあと、奥山に入って採る。タケノコのよく採れるような場所はクマのよく出る場所でもあるので、タケノコ採りというのはクマと出くわす危険性がきわめて高いという。

 佐井では野草・山菜類だけではなく、食用にしているキノコの種類も多い。主な食用のキノコとしては次のようなものがある。シイタケ、ナメコ、マイタケ、ハバキダケ、マスダケ、キクラゲ、シロシメジ、ムラサキシメジ、カスカ、ヤナギダケ、ハツタケ、タムギ、シモダケ…と。キノコも塩漬けにして長期間、保存される。佐井でのキノコ採りは8月中旬のタムギにはじまり、主なものとしては9月のマイタケ、10月のムギタケとつづき、11月中旬のナメコで終わる。なお、シイタケとハバキダケは春、秋の2回、採りにいく。そのうちシイタケは採取から栽培へと変わりつつある。


「ノシモチ」と「ハタキモチ」
 佐井では1年を通して何かというと、餅をつくる。その餅には大きく分けると、2種類ある。ひとつは糯米(もちごめ)を蒸籠(せいろ)で蒸し、横杵(よこぎね)を使って臼でついた餅。それを「ノシモチ」と呼んでいる。もうひとつは粳米(うるちまい)を糯米に混ぜ、竪杵(たてぎね)を使って臼でついて粉にし、それを湯で練り固め、蒸籠で蒸した餅。それを「ハタキモチ」と呼んでいる。

「ノシモチ」は正月用につく。元旦には雑煮を食べるが、餅はノシモチを長方形に切った「キリモチ」で、雑煮の汁はあっさりした味。神棚に供える雑煮はコブ、シイタケでダシをとり、醤油で味付けした汁に焼いたキリモチを入れる。それに刻んだシイタケを入れ、その上からノリをふりかける。家中の者が食べる雑煮は鶏や煮干しでダシをとり、醤油味の汁の中には焼いたキリモチを入れ、鶏肉を入れ、その上からノリをふりかける。

 そのほか小正月の行事として「ホモチ」をつくる。これはノシモチを小さくまるめ、それをアカギ(ミズキ)の木の枝先にたわわに付けたもので、神棚に供える。3月3日の節句にもノシモチをつく。このときはノシモチをひし形に切った「オニノシタモチ」や餡を入れて三角形に切った「フロシキモチ」をつくる。

「ハタキモチ」は春の彼岸につくる(なお佐井では秋の彼岸には墓まいりしないので、秋の彼岸にはつくらない)。その両面に餡をつけた「ビタリモチ」にする。4月8日の花祭りは月遅れの5月8日におこなうが、この日はハタキモチに餡をいれた「ハタキマンジュウ」をつくる。5月5日の節句も月遅れの6月5日におこなわれるが、この日は「ピコモチ」をつくる。

 ピコモチはハタキモチの一種で、金太郎あめのように、どこを切っても同じ色模様になる餅。松、桜、菊、あやめ、あさがおなどの花模様がある。またこの日は「ササモチ」をつくる。練り固めた米粉をササダケの葉に包み、蒸籠で蒸したものである。そのほか祭りの日にも、ハタキモチをつくる。神棚には元々はノシモチを供えていたが、それがハタキモチやハタキマンジュウの変わってきている。

 このように佐井では糯米をついてつくるノシモチよりも、粳米の米粉からつくるハタキモチの方がより多くつくられ、食べられている。水田のほとんどない佐井では飯に炊く粳米こそよそから入ってきたが、より高価な糯米はかつてはそうたやすく手に入るものではなかった。そのような理由からハタキモチが発達したようだ。

 ノシモチの臼(モチツキウス)とハタキモチの臼(ハタキウス)では外観が違う。モチツキウスはずん胴で、ハタキウスは胴がくびれている。モチツキウスはおおよそ5、6軒でひとつを持っている。その5、6軒が組になってノシモチをついている。それに対してハタキウスはほぼ全戸が持っている。それだけハタキモチはよくつくられるということになる。もっとも最近では製粉所に頼むことが多くなっているとのことだが…。

 ノシモチとハタキモチのほかに、佐井ではシトギもつくっている。9月15日の八幡宮の祭りや12月12日の山神の祭り、12月17日の木挽きの祭り、そのほか弁天様や恵比須様、大黒様の祭りなどではシトギを供える。家の建前にも欠かせない。シトギはひと晩水に浸した粳米を臼でつきつぶし、人肌よりも若干熱い湯で練り固めたもの。それを神棚などに供える。食べるときは焼いたり、ゆでたりすることもあるが、そのまま生で食べることが多い。

 宮本先生の『食生活雑考』の「モチとダンゴ」の項には次のように書かれているが、それを読むと、佐井でのノシモチとハタキモチやシトギのことがじつによくわかる。

「日本人はたいへんなモチ好きです。何か特殊な祝いごとがあると、かならずといっていいほどモチをつきます。そしてしらべてみると一年中多いところでは10回以上もついているのです。どうしてこんなにモチをたべるようになったのでしょうか。また今日のようなモチは昔からあったのでしょうか。どうもそうではないのです。古い書物を読んでいると餅ということばは出てきませんが、粢という字が出てきます。シトギと読むのです。シトギというのは米を水につけておいてやわらかくしたものをうすに入れてキネでつぶしたものを、まるめて固めたものです。これを神様にそなえたのです。(中略)モチは秋から春までの冬の間に多くついたものですが、ダンゴの方は夏多くつくっています。五月のちまきのモチなど、米の粉を水で練ってかためたものを蒸すのですからあきらかにダンゴです。そのほか田植えのすんだあとのサナブリダンゴやシロミテダンゴ、半夏生のハゲダンゴ、お盆にもダンゴをつくります。そして秋祭りからモチになります」

 宮本先生はこのようにいわれており、佐井のシトギも餅以前の古いものであることが推測できる。宮本先生はまた、「生米をつきつぶしてまるめたものを蒸したり煮たりしたものをダンゴといいました」といわれている。先生のこのお言葉からすると、佐井のハタキモチは餅とはいっているが、正確にいえば団子の範疇に入る。

 餅と団子の区別は難しいもので、たとえば誰もが知っている端午の節句につくる柏餅は餅ではなくて団子になる。宮本先生は「モチとダンゴ」の項では、最後に「仏教関係の行事のときはダンゴが多くつくられています。なぜそうなのかよくわかりませんが、とにかく、穀物をつきつぶして大きくかためてたべるたべ方が粒のまま食べる方よりも重んぜられていました」と団子の重要性を書かれているが、「餅と団子と粢」は日本の食文化のキーワードなのである。


世界につながる佐井の食文化
 佐井の餅にはジャガイモからつくる「イモモチ」もある。佐井ではイモといえばジャガイモのこと。サツマイモはわずかにあるが、サトイモはまず見かけない。前回ふれた九州山地の「東米良」ではイモといえばサトイモのことで、日本各地で「イモ」がどのイモを指すのかみていくのはおもしろいことだ。

 それはさておきイモモチのつくり方だが、まずはジャガイモを薄く切って1週間ほど水に浸し、干す。それを臼でついて粉にし、湯で練り固め、蒸籠で蒸す。ゆで上げることもある。それだからイモモチはハタキモチの1種になる。

 イモ粉のつくり方には、別な方法もある。それはいったん凍らせる方法だ。小さなジャガイモを集めると袋に入れ、冬の間中、外に出しておく。するとジャガイモは凍りつく。春になり、気温が上がり、溶けてきたところで皮をむく。それを水にさらしたあとで干す。カチンカチンに固くなり、水分が抜けてより小さくなったものを粉にする。

 この方法は南米のアンデス高地に住むインディオの「チューニョ」のつくり方によく似ている。インディオのチューニョの場合は、季節の気温の差ではなく、1日の気温の差を使う。佐井では冬と春の気温の差を利用するが、アンデス高地では気温の日較差がきわめて大きいので1日でやってしまう。夜間に凍らせ、昼間に干し…と、それを10日ほど繰り返すのだ。

 ジャガイモは「ジャガタライモ」からきた言葉。ジャガタラは今のインドネシアのジャカルタのこと。ジャガタラからやってきたオランダ船がジャガイモを日本に伝えたところから「ジャガタライモ」になり、それが「ジャガイモ」になった。だがジャガイモの原産地は南米のアンデス高地。それが大航海時代に新大陸からヨーロッパに伝わり、さらに喜望峰、インドネシア経由ではるか極東のかなたの日本に伝わった。そんなジャガイモの伝播ルートの先端、下北半島の佐井でアンデス高地と同じようなジャガイモの処理方法が見られることはなんとも興味深いことだった。ぼくは佐井で「世界を駆けめぐる食文化」の現場を見る思いがした。

 東北はぼくが今、一番興味を持ってバイクで走りまわっているエリア。そのため下北半島の佐井も、観文研の共同調査以降、毎年のようにバイクでめぐっている。そのたびに何度かの共同調査で過ごした日々がなつかしく思い出されるのだった。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

『忘れられた日本人』再び:第6回目

 (『ゴーグル』2007年3月号 所収)

「300日3000湯」計画
 ぼくは今、「温泉めぐりの日本一周」の真最中。2006年11月1日午前6時30分、東京・日本橋を出発した。バイクはスズキGSR400。「ツーリングマップル」でおなじみの昭文社の桑原和浩さんが、スズキバンディット1200Sで同行してくれる。

 みなさんの見送りを受け、「さー、行くぞ!」といった気分で走り出す。国道17号(中山道)から国道254号(川越街道)に入っていく。東京都から埼玉県に入ったところで、国道沿いの「ガスト」で朝食。「和風ハンバーガー」の朝食を食べながら、桑原さんとおおいに話がはずむ。

 日本を8分割にしての「温泉めぐりの日本一周」。300日間で3000湯の温泉をめぐろうという計画。その第1弾の「関東編」に旅立ったのだ。

 記念すべき第1湯目は、関越道の鶴ヶ島IC近くのふるさとの湯温泉の日帰り湯「ふるさとの湯」(入浴料600円)。はやる気持ちをおさえきれずに大浴場と露天風呂の湯に入った。露天風呂には壺湯もあるが、それにもどっぷりと体をひたした。ザーッと勢いよく湯が壺湯から流れ出る。黄緑色がかった湯の色で、ナトリウム・塩化物泉。さらっとした肌ざわりの湯。温泉から上がったときの気持ちよさといったらない。「温泉パワー」をもらったとでもいおうか、「これで3000湯をめぐれる!」といった自信を得た。

 ぼく自身にとっては5度目の「日本一周」となる今回の「300日3000湯」では、峠にこだわっている。カソリといえば「峠越え」。いままでに日本中の1600余の峠を越えているが、今回は「峠越え」ではなく「峠返し」なのだ。どういうことかというと、峠を越えて、峠の向こうの世界に行くのではなく、峠で折り返して峠へのルート沿いの温泉をめぐろうとしているのだ。そうすることが温泉をひとつもらさず入るのには、すごくいい方法だと、計画段階で気づいたからだった。

 で、奥武蔵の「絶景峠」、顔振峠に立った。峠からは奥武蔵の山々を一望。峠の茶屋「平九郎茶屋」では「しし鍋」(1000円)を食べた。地元の猟師さんが獲った地元産の猪肉もうまかったが、自家製のニンニク、ショウガ、トウガラシ入りの味噌もうまかった。「300日3000湯」では温泉のみならず、それぞれの土地に根づいた郷土料理を1食でも多く食べてみたいのだ。

 顔振峠で折り返し、来た道を引き返す。そして峠を下ったところで第2湯目、黒山温泉「東上閣」(入浴料1000円)の湯に入り、湯から上がると、すぐ近くの天狗滝、男滝、女滝の「黒山三滝」を見た。

 第3湯目は鎌北湖温泉「鎌北湖レイクビューホステル」(入浴料800円)の湯。このあと越生の日帰り湯「ゆうパークおごせ」に行ったが、残念ながら月1度の休館日。次の都幾川温泉「ゆずの湯」は入浴のみは不可。このように休館、休業だったり、長期間の休業だったり、すでに廃業していたり、入浴のみは不可だったり、時間が早すぎたり、遅すぎたり…で、温泉というのは行けば入れるというものではない。それが「温泉めぐり」をきわめて難しいものにしている。

 第4湯目は玉川温泉の日帰り湯「湯郷玉川」。ここの入浴料は700円だが、19時を過ぎていたので、夜間割引の500円。200円分、得した気分。湯から上がると食堂で「玉川御膳」(1500円)の夕食を食べた。このあと第5湯目、小川温泉の日帰り湯「花和楽の湯」(入浴料1050円)に入ったあと、国道254号に近い百穴温泉(吉見町)の「春奈」に泊まった。夕方、公衆電話の電話帳を見て電話した宿。

 到着は21時30分を過ぎていたが、女将さんはそれでも部屋に快く案内してくれた。
 まずは温泉だ。ひと晩、泊まる宿で入る湯(これを「宿湯」と呼んでいる)がこれまたいい。広々とした浴室はジャングル風呂の様相。浴室内にはバナナが青々と茂っていた。「東京のすぐ近くに、こんな温泉があるなんて!」と、桑原さんと2人して驚いた。

 湯から上がると、コンビニで買い込んだ缶ビールで乾杯!
「うまい!」
 500ml缶を次々と開け、こうして「300日3000湯」の第1日目の夜はふけていった。


「温泉を通して日本を見てみたい!」
 ぼくが「温泉めぐり」をはじめたのは1975年2月。今から30年以上も前のことになる。
 第1湯目は広島県の湯来温泉だった。「峠越え」をはじめたのもそのころで、「温泉めぐり」をはじめた翌月の3月には、奥武蔵の峠を越えた。第1番目の峠は国道299号の高麗峠だった。「温泉めぐり」をしながら、「峠越え」をしながら、日本という国を見てみたかったのだ。そのときカソリ、27歳だった。

 20歳のときに「アフリカ一周」に旅立ち、20代の大半を費やして世界を駆けめぐったが、「六大陸周遊」の旅から帰ったとき、ぼくは大きな壁にぶち当たった。それまで自分の命を張って世界を駆けめぐってきたことが無意味なことのように思え、なんとも虚しい気持ちに襲われた。「もっと、もっと世界を駆けめぐりたい!」という、あの焼けつくような気持ちも萎えていた。そんなぼくを救ってくれたのが日本であり、宮本常一先生だったのだ。

 宮本先生が所長をされていた日本観光文化研究所(通称観文研)に出入りするようになったのは「アフリカ一周」後の22歳のことだが、そのころのぼくは日本よりも世界だった。とくに「アフリカ」にしか目がいかなかった。「アフリカ一周」にひきつづいて、「サハラ砂漠縦断」を一番の目的にした「世界一周」、さらに「アフリカ大陸」を一番の目的にした「六大陸周遊」と世界をまわった。ぼくが大きな壁にぶつかったのは、「もう、世界中をまわってしまった…」といった気分があったのかもしれない。そのときぼくは無性に日本をまわりたくなった。

 観文研にはより足繁く通うようになり、宮本先生のお話を聞く機会も多くなった。研究所のあった秋葉原から新宿までの電車の中でも、何度となく先生のお話を聞かせてもらった。「観文研を足場にして日本をまわろう!」という気持ちが次第に強くなり、当時、観文研を取り仕切っていた宮本先生のご長男、宮本千晴さんに「宮本先生と一緒に日本を歩かせて下さい」といって頼み込んだ。すると千晴さんは即座に、「親父よりも神崎君と熊ちゃんがいい」といって、先生の一番弟子といっていい神崎宣武さん(現・旅の文化研究所所長)と熊ちゃんこと工藤員功さん(現・武蔵野美術大学民俗資料室長)と一緒に日本を歩けるようにしてくれたのだ。日本に目を向けたことによってぼくは生き返った。心の中に「旅をしたい!」という新たな気持ちがふつふつとわき上がってくるのだった。

 1975年2月21日、ぼくは工藤さんと一緒に広島に行った。広島駅からバスで湯来温泉へ。雪のぼそぼそ降る日だった。そこからは中国山地の山村、戸河内町(現安芸太田町)の那須という集落に向かった。大雪で1メートルを超える雪が積もっていた。那須への交通は途絶え、我々は雪をかき分けて歩いた。途中で出会った那須の人たちはユキワ(カンジキ)をはき、手には杖をもっていた。「よくもまあ、そんな恰好でここまで登ってこれたものだ」と地元のみなさんを驚かせたが、我々はかろうじて那須に着くことができた。ここではみなさんにあたたかく迎えられ、昼食を出してもらい、酒をふるまわれた。

「すごいなあ!」
 と感心してしまうのは工藤さん。つがれるままにかなりの量の酒を飲んでいるのだが、キチンと村人たちの話を聞いている。那須はかつては木地師の村。木は栃を使い、漆は中国製を使っていたこと。終戦後、しばらくして木地は止んだこと。栃の木地のみならず、ブナでは高下駄の歯をつくっていたこと。杉、檜では板箕(いたみ)をつくっていたこと…などなど、おもしろいように話を聞いていく。

 その間、工藤さんはほとんど口をはさむことなく、ただひたすらに聞いている。ぼくはそのとき、「おー、これが宮本流か」と、心底、感動した。ぼくはそのとき宮本先生から工藤さんへと、確実に伝わっていった宮本流の聞き取りの神髄を見た。日本をほとんどまわったことのないぼくにとっては、工藤さんと歩いた中国山地はまるで異国の世界だった。それだけに新鮮な目で見られ、深く自分の心の中にしみていった。まさに感動の旅だったのだが、このときぼくは「温泉めぐり」の第1湯目を湯来温泉にしようと決心した。

 ぼくが「温泉」に目をむけたのは、もちろん世界に冠たる「温泉大国」の日本だからという理由が大きい。だが、宮本先生の空白の世界を埋めてやろうという大それた気持ちも若干はあった。人生の大半をかけて日本をくまなく歩かれた宮本先生だが、温泉だけはスポッと抜けている。日本観光文化研究所は大手旅行社の「近畿日本ツーリスト」が研究所運営の資金の全額を出してくれていた。そんな近畿日本ツーリストと近畿日本ツーリストの協定旅館連盟の後援で、宮本先生は何冊かの本を出している。「伊勢参宮」「大名の旅」「庶民の旅」「旅の民俗」「海の道」「川の道」「山の道」「海と日本人」といった一連のシリーズものなのだが、その中に「温泉」本はない。

 宮本先生は著作集の第18巻目(未来社刊)、「旅と観光」の中で次のようにいっておられる。
「若いときから貧乏旅行をつづけて来た私はいわゆる観光を目的とした旅はほとんどしたことがない。旅の途中で人から招待されて温泉へとまわったり風光の美しいところをあるいたことはある。しかし自身ですすんでそういうところはあるかない。理由ははっきりしている。貧乏旅行して来た者には観光旅行ははれがましいし、また、貧しい人びとと生活をともにするような旅をしている者が、その人たちの群からはなれたとき、そっと一人で豪華な宿や奢侈の中にいることをゆるされない気持ちからであった。この気持ちはいまでもつづいている。」

 先生のそのようなお気持ちは痛いほどにわかるし、観文研内では温泉をテーマにしたプロジェクトはなかったし、「温泉めぐり」の話をすることもほとんどなかった。

 1975年にはじめた「温泉めぐり」だが、最初のころは意気込みだけはあったのだが、なかなか実績がともなわかった。温泉の入浴数が増えなかった。1975年は7湯どまり。 翌年の1976年はわずかに3湯。1977年は赤ん坊連れで「サハラ砂漠縦断」の旅に出たので0湯だ。

 1978年の「50㏄バイク日本一周」で何湯かの温泉に入ったが、それでもわずか8湯でしかない。
 1982年も「パリ・ダカール・ラリー」で大怪我をし、半年以上もバイクに乗れなかったので、ほとんど温泉には入れなかった。結局、1984年までの10年間で入った温泉は57湯でしかなかった。

 1987年2月12日は画期的な1日。観文研の山崎禅雄さんや西山昭宣さん、三輪主彦さんらと箱根の温泉のハシゴ湯をした。箱根湯本温泉から姥子温泉まで、1日で12湯の温泉をめぐった。このときも宮本先生に話はおよび、
「そういえば先生はあんまり温泉には入っていないよなあ」
 といった話になった。

 箱根ハシゴ湯の1ヵ月後、そのときに入り損ねた底倉温泉に入ったが、それが第100湯目。12年かかっての100湯達成。この100湯達成あたりをきっかけにして、カソリの温泉入浴数は一気に増えていった。1989年の「50㏄バイク日本一周」では、全部で78湯の温泉に入ったが、北海道の十勝川温泉で200湯目を達成。1991年以降は年間100湯前後の温泉に入っている。

 このころから共同浴場の入りまくりもしている。「共同浴場めぐり」というのはカソリの定番。ところでぼくの温泉入浴数の数え方は「温泉地」なので、たとえば下諏訪温泉(長野)や飯坂温泉(福島)などの何湯もの共同浴場をハシゴ湯しても、温泉の入浴数は増えない。ということで、実際に入っている温泉は入浴数の倍になっている。

 300湯目は1991年4月で菊池温泉(熊本)。
 400湯目は1992年11月で幕川温泉(福島)。
 500湯目は1993年10月で日景温泉(秋田)。
 600湯目は1994年6月で権現温泉(愛媛)。
 700湯目は1994年11月で木津ノ湯温泉(新潟)。
 800湯目は1ヵ月後の1994年12月で湯ノ平温泉(群馬)。
 900湯目は1995年5月で地元、伊勢原温泉(神奈川)だった。

 そして1995年6月24日、大間温泉(青森)で1000湯を達成した。このころが一番過激に温泉に入っていた。
 1100湯目は1996年3月で新居浜温泉(静岡)。
 1200湯目は1996年12月で般若寺温泉(鹿児島)。
 1300湯目は1997年10月で水沼駅温泉。
 1400湯目は1999年9月で三陸山田温泉(岩手)。
 1500湯目は2001年6月でサロマ湖温泉(北海道)。
 1600湯目は2002年9月で嶋田温泉(岩手)。

 1700湯目は2005年5月で海尻温泉(長野)ということで、2006年11月1日の「300日3000湯」の出発前までに1721湯の温泉に入っている。
 だが、ここ数年はなかなか数は増えない…。新しい温泉地に行けないからだ。
 2000年には169湯入ったが初めての温泉は33湯。
 2001年には199湯入ったが初めての温泉は96湯。
 2002年には148湯入ったが初めての温泉は63湯…といった具合だ。

 このような背景があっての今回の「300日3000湯」。ここで3000湯の温泉をめぐれば、ほぼ日本の「全湯制覇」になるだろうと考えた。なにしろ日本中の温泉に入るのはぼくの長年の悲願なのだ。さらに300日間という限られた期間で日本中の温泉をめぐることによって、今の日本の温泉の現状をリアルに知ることができると思っている。さらに日本人の生活と深くかかわっている「温泉文化」にも迫っていけるのではないかと期待している。地域による温泉の違いにも目を向けたい。

 2006年11月1日に出発した「300日3000湯」の「温泉めぐり日本一周」だが、8分割したエリアのうち、「関東編」と「甲信編」を終えた。49日間で8305キロを走り、419湯の温泉に入った。このあと「本州西部編」「四国編」「九州編」「本州東部編」「北海道編」とつづき、「伊豆初島編」を最後にし、2007年11月1日に東京・日本橋にゴールして終える予定だ。
「目指せ、3000湯!」

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「宮本常一」の故郷を訪ねて

 (『旅』1997年6月号 所収)

 1997年3月28日。東京駅7時07分発の「ひかり33号」博多行きに乗って、広島に向かった。柳田国男をしのぐともいわれるほどの民俗学者であり、また、生涯を通して4000日以上も日本国内を旅された偉大な旅人でもある宮本常一先生の故郷、周防大島を訪ねるのだ。

 ぼくにとっては、いつになく、不安を抱えての旅立ちとなった。というのは、その10日ほど前の3月17日に胸に出来た腫瘍の摘出手術を受け、出発の前々日に傷口の抜糸をしてもらったばかりだったからだ。腫瘍はかなり大きなもので、ゆで卵大ぐらいの大きさがあったという。

 東海大学病院で手術を受けたのは月曜日。
 その夜は集中治療で酸素マスクをかけられ、体には何本もの管がつけられ、自分が生きているのか死んでいるのか、わからないくらいの状態だった。それが火曜日になると酸素マスクが外され、管も次々に外され、一般病棟に移された。水曜日になると食事ができるようになり、それとともに38度あった熱は平熱に下がり、病院内の階段を登り降りできるようになった。

「あなたの体は、いったい、どうなっているの!?」
 と、看護婦さんにいわれたほどの急速な回復ぶりで、信じられないことだったが、なんと木曜日には退院となった。
 それというのも、「(またもとの体に戻たっら)旅に出たい!」という強烈な想いが、回復を早めたのだとぼくは確信している。

 この胸の腫瘍が見つかったのはその8年前。1989年の「50㏄バイク日本一周」に旅立つ直前のことで、そのときは目の前がまっ暗になり、「なんで、なんで自分が‥‥」と、天を恨んでしまったほどだ。

 そのときも東海大学病院で診てもらったのだが、先生はすぐに手術をいたほうがいいといった。だが、ぼくにとっては「日本一周」の方がよっぽど大事で、予定を変えずに旅立った。しかし、旅の間中、チラチラと頭をよぎる黒い死の影に怯えなくてはならなかった。これが何とも辛いことだった。

「50㏄バイク日本一周」を終えたあとも結局、手術は受けなかった。
 1990年には「50㏄バイク世界一周」、1991年には「東京-サハリン」、1992年~93年には「インドシナ一周」、1994年には「タクラマカン砂漠一周」、さらに1996年には「オーストラリア2周7万2000キロ」と、体の中に爆弾をかかえ込みながら世界を駆けめぐった。

 ついに観念して1997年、胸の腫瘍の摘出手術を受けたのだが、腫瘍は良性なもので肺も元どうりの形に戻り、ぼくは“闘病(逃病?)3000日”にピリオドを打つことができたのだ。

 自分の第2の人生がはじまったような晴れやかな気分。その出発点に宮本常一先生の故郷を訪ねるというのは、この上もない喜びを感じるのと同時に、人生の巡り合わせの不思議さをも感じるのだった。

 ぼくがはじめて宮本先生に出会ったのは、1970年のことだった。
 1968年の春に旅立ち、20ヵ月あまりをかけてアフリカ大陸を一周したのだが、帰国すると『旅』(JTB)、『現代の探検』(山と渓谷社)、『世界の秘境』(双葉社)の3誌で書かせてもらった。

 そのうち、『現代の探検』編集長の阿部正恒さん(当時『ポカラ』編集長)が、東京農大探検部OBの向後元彦さんを紹介してくれた。向後さんを訪ねていった先が、宮本先生が所長をされていた日本観光文化研究所(観文研)だった。そこで宮本先生の長男の宮本千晴さん(当時サウジアラビアに在住)に会うのだが、それはぼくにとっては、まさに運命的な出会いといっていい。千晴さんの自由な、悠然とした、幅の広い世界観にすっかり魅せられ、それからというもの、ひんぱんに観文研に足を運び、千晴さんの話を聞くようになった。

 そのような背景があっての宮本先生との出会だった。当時のぼくにとっては千晴さんがすべてだったので、「あ、千晴さんのお父さまですか」と、先生になんとも失礼なあいさつをしたのをはっきり覚えている。宮本常一がどのような人物であるのか、まるで知らず、ぼくにとってはたんに千晴さんのお父さんでしかなかった。

 その後、観文研にのめり込むのと同時に、さらに世界中を駆けまわり、27歳のときに結婚した。とはいっても結婚資金など、まったくない。で、どうしたかというと1万円の結婚式を挙げたのだ。1日1万円で保育園を借り、そこを式場にした。宮本先生御夫妻が仲人をして下さった。さらに所員の神崎宣武さん(現「旅の文化研究所」所長)が神主をし、観文研のメンバーたちが会場の飾りつけをし、料理をつくってくれた。午前中にはじまった結婚式は、延々と夜遅くまでつづいた。忘れることのできない、飲めや歌えの大宴会風結婚式だった。

 結婚すると、妻の洋子とせっせ、せっせとアフリカ行の資金を貯めた。1年が過ぎたところで長女の優子が生まれ、さんざん迷った末に、赤ん坊を連れて旅立つことにした。出発前に、東京・府中の宮本先生のお宅を訪ねると、先生は「子供を連れていくのはいいことだ。いままでのカソリ君の旅とは、きっと違う旅ができるだとう」といわれた。

 先生のその一言は、旅の間中の大きな励みになった。
 9ヵ月あまりの子連れの旅から帰ったころから、ぼくは観文研のプロジェクトで、本格的に日本を旅してまわるようになった。宮本先生の一番弟子といっていい田村善次郎さん(当時武蔵野美術大学教授)や、神崎宣武さん、工藤員功さん、山崎禅雄さん、三輪主彦さんらの諸先輩に教えを請いながら、日本各地を旅しつづけた。残念だったのは、宮本先生と一緒に歩く機会がほとんどないままに、1981年、先生が亡くなられてしまったことだ。それから8年後の1989年に日本観光文化研究所(観文研)は解散した。

◇◇◇

「ひかり33号」の広島到着は12時00分。すぐに山陽本線の下関行き電車に乗換え、大竹、岩国と通り、13時18分、山口県の大畠駅に到着。この大畠駅が、宮本先生の故郷、周防大島への玄関口になっている。大畠駅で下車し、
「さー、歩くゾ!」
 と、気合を入れる。これは“カソリ流”旅の仕方の儀式のようなものだ。

 まずは大畠港に行く。大島大橋が1976年に完成する以前は、ここから連絡船が対岸の周防大島の小松港に出ていた。橋の完成とともに旧国鉄の大島航路は閉航になったが、連絡船の桟橋はしばらくそのままの形で残っていた。だが、今はその跡形もない。

 全長1865メートルの大島大橋を歩いて渡る。前年から無料になったので、交通量が飛躍的に増えている。大島大橋は関門海峡、鳴門海峡とともに“日本三大潮流”のひとつに数えられる大畠瀬戸にかかっているが、その流れは速く、まるで渓流のように白く渦を巻いて流れている。橋の上から潮流を見下ろすと、スーッと吸い込まれそうになる。

 大島大橋を渡りきると、そこは周防大島。瀬戸内海では淡路島、小豆島に次ぐ第3の大きさの島。日本全国に何十という大島があるが、周防大島は奄美大島に次ぐ大きさ。伊豆諸島最大の伊豆大島よりも大きい。“日本三大大島”といえば、奄美大島、周防大島、伊豆大島になる。

 大島大橋のたもとに周防大島温泉がある。
「ホテル大観荘」(入浴料1000円)の湯に入る。「えん歌風呂」と名づけられた大浴場には、その名のとおり演歌が流れていた。名づけの親は、周防大島出身の作詩家、星野哲郎氏だという。大畠瀬戸を目の前にするここの露天風呂からの眺めは最高だ。柳井港から四国の松山・三津浜港に向かう防予汽船のフェリーが流れの速い瀬戸を通り過ぎていく。白い帆を立てたタイ釣りの漁船が2、30隻ほど見られた。大畠瀬戸は絶好のタイ釣りの漁場になっている。

 周防大島温泉は、ぼくにとっては1975年に入った広島県の湯来温泉から数えて1222湯目の温泉になるが、“闘病(逃病?)3000日”に決着をつけた直後の温泉なだけに,その感慨はひとしおだ。手術後の体には、温泉の湯がしみ込むように効いていく。これが、温泉効果! 

 湯から上がるころには、「もう、大丈夫」と、自分の体に自信を持つことができた。旅する体に戻ったのだ。

 周防大島温泉の湯で生き返ったところで、大島大橋のたもとの停留所、東瀬戸からJRバスに乗り、宮本先生の故郷の東和町(現周防大島町)長崎へ。穏やかな瀬戸内の海を眺めながら50分ほどバスに乗り、周防下田駅で降りる。あっと驚いたのは、先生の故郷の風景が一変していたことだ。海が埋め立てられ、観客席つきの陸上競技場ができていた。

 その先の堤防上に立ち、宮本先生を育んだ海を眺める。1キロほどの沖合には、椀を伏せたような形の我島が浮かんでいる。先生の長男の千晴さんも三男の光さんも、我島には泳いで渡ったことがある。いかにも“自分たちの島”といった感のある“我島”の名前がいいではないか。

 鬱蒼と樹木のおい茂る下田八幡宮に参拝し、神宮寺の宮本先生の墓前で手を合わせたあと、宮本家を訪問する。現在、この地には、先生の奥様のアサ子さんと光さん一家が住んでいる。

 ぼくは今回の宮本家訪問では、アサ子さんにいろいろとお話を聞かせてもらいたかった。宮本先生があれだけの日数を旅することができたのは、アサ子さんの支えによるところがきわめて大きいと思われるからだ。

 宮本アサ子さんは大正元年(1912年)に大阪市浪速区塩草町で生まれた。旧姓は玉田。今年(1997年当時)で85歳になられるが、すこぶるお元気で、記憶もしっかりとしている。アサ子さんは塩草尋常小学校を卒業したが、10年下の卒業生には、作家の司馬遼太郎さんがいる。宮本先生の著作の大半を読んだという熱烈な“宮本ファン”の司馬さんなだけに、人のつながりの不思議さを感じる。(司馬さんは宮本先生の死後、観文研に来て熱心に話をしてくれたこともある)

 アサ子さんの実家は理髪店で、お父さんは何軒かの店を持っていた。今風にいえばチェーン店だった。昭和8年(1933年)に大阪府立女子専門学校(現大阪女子大)を卒業し、小学校の教師になった。

 その2年後の昭和10年(1935年)4月に、大阪・天王寺駅前のレストランで宮本先生とお見合いをした。そのときの先生は熱をこめて奈良や京都の古寺めぐりの話をされたそうで、アサ子さんはその話にすごく魅せられた。その後、先生は何通もの手紙を送り、ほとんど日曜日ごとに、アサ子さんを連れだしては奈良や京都の古寺めぐりをしたという。

 当時の宮本先生はといえば、大阪に出て胸を病み、2年ほど故郷で療養し、ふたたび大阪に戻り、小学校の教師をしているころだった。アサ子さんとお見合いをしたのは、先生が生涯の師と仰ぐ渋沢敬三氏と初めて出会った直後のこと。先生はこの時期、渋沢敬三、玉田アサ子と、たてつづけにご自身の生涯を大きく左右する2人の人に出会ったことになる。

 この時代、肺病といえば、死を覚悟しなくてはならないほど恐れられた病気だったが、アサ子さんは先生の胸の病はすこしも気にならなかったし、怖くもなかったという。だがいざ結婚という段になると、アサ子さんのお父さんは、先生の家の田畑が少ないという理由で、結婚に反対したという。

 それを乗り越え、お見合いをしてから8ヵ月後の12月に宮本先生はアサ子さんと結婚した。先生が28歳、アサ子さんが23歳のときのことだった。最初は南海高野線の堺東駅に近い借家住まいで、次に阪和線の鳳駅近くに移り住み、昭和12年(1937年)には長男の千晴さんが生まれた。

 昭和14年(1939年)、先生は小学校の教師をやめ、渋沢敬三氏が主宰するアチック・ミューゼアムに入所した。これを機に、日本全国を民俗学的調査で歩かれるようになり、先生の言葉を借りれば、
「33歳になって、一つの視点をもって歩きはじめたのである」(文藝春秋刊『民俗学の旅』より)
 ということになる。そして昭和18年(1943年)には、長女の恵子さんが生まれた。

 昭和20年(1945年)7月のB29の空襲で堺周辺は火の海になり、宮本先生の家は一瞬のうちに焼けた。それとともに、あちこちで聞き取りをした調査用ノート約100冊と原稿1万2000枚、さらに写真などの貴重な資料も一瞬のうちに失った。大きな痛手を負ったのだが、先生はそれにもめげずに、すぐさまレンガやトタンなどを集め、6畳と4畳半、台所の半地下式の家をつくり上げたという。

 翌昭和21年(1946年)、宮本先生夫妻は帰郷し、アサ子さんは姑のマチさんと一緒に住むようになる。マチさんは心の広い、どっしりした人で、働き者。力も強く、何でもできた人だという。

 大阪の町場育ちのアサ子さんをあたたかく迎えてくれ、「慣れないところで大変だね」といっては、なにかと気をつかってくれた。
 マチさんのおかげで、畑仕事にも慣れ、半日がかりの白木山の共有林への薪拾いもできるようになったという。

 白木山というのは、下田や長崎の浜を見下ろすこのあたりの最高峰である。
 周防大島というのは、他所者をあたたかく迎え入れてくれる土地柄なので、アサ子さんは町からやってきた嫁といった白い目でみられることはなかった。それがずいぶんとありがたいことだったという。だが、この年に生まれた次男の三千夫さんを生後50日目で亡くしてしまう。

 昭和27年(1952年)には、三男の光さんが生まれる。
 昭和37年(1962年)にマチさんが亡くなると、アサ子さんはその前年に先生が買われた東京・府中の家に移り住むのだが、それまでの16年間というもの、アサ子さんは先生の故郷を守り通したのだ。

 この間、旅に明け暮れた先生だが、心おきなく旅に出ることができたのは、アサ子さんが姑のマチさんといい関係にあり、家をきちんと守ってくれたことが大きい。さらに、先生のお姉さんのユキさん(小学校の教師をしていた)とも一緒に住んでいたが、とても器用な人で、アサ子さんのために、よく縫い物をしてくれた。そのたびにユキさんは、「常一さんは大事な人だから」といった。

 アサ子さんは先生の弟の市太郎さんにもよくしてもらった。大阪の実家では感じられなかったような家族愛を宮本家では強く感じたとアサ子さんはいう。

 先生の家族を思う心、家族の先生を思う心、この「家族愛」こそ、宮本常一の旅の原動力であったとぼくは思うのだ。旅に出て留守にしていても、いつもアサ子さんのそばにいるような、そんな存在感のある宮本先生だったという。

 アサ子さんが東京に出た翌年に渋沢敬三氏が亡くなり、その翌年には宮本先生は武蔵野美術大学(武蔵美)の教授になり、さらにその翌年の昭和41年(1966年)に日本観光文化研究所(観文研)が誕生した。武蔵美&観文研時代の宮本先生は、それまでの人生とはまた違った強烈な閃光を放ち、多くの若者たちがその光りの影響をまともに受け、民俗学の枠をはるかに越えた“宮本学”への道を歩むようになった。先生の死後10数年がたった今(1997年当時)、若き門下生たちはさまざまな分野の第一線で活躍している。

 宮本家訪問では、先生の奥様のアサ子さんにお会いできたのと同じように、光さん夫妻との再会はうれしいものだった。ぼくは1978年と1989年の2度、50㏄バイクで「日本一周」をしているが、2度とも光さん夫妻にはずいぶんとお世話になった。夫妻は柑橘類とサツマイモの栽培をメインに農業で生計をたてているが、それは偉大な父親が夢みてできなかった生き方なのである。

「私の若いころからの一つの夢は六十歳になったら郷里に帰って百姓をすることであった」(『民俗学の旅』より)
 という先生の夢を息子の光さんがかなえてくれた。

 それはさておき、1978年のときは光さん夫妻のミカンの収穫を手伝った。1989年のときは、山口県の農業祭で光さんは味自慢の宮本農園産サツマイモの石焼きいもを売ったが、ぼくは「さー、いらっしゃい、いらっしゃい!」と、客の呼び込みをした。今回の1997年では、ビニールハウス内のサツマイモの苗挿しを手伝ったが、光さんは「カソリさんはいい手つきをしてますよ。ファーマーの称号を与えましょう!」と、冗談半分にいってくれた。

 宮本家では、2晩、泊めていただいた。最後の日は、光さんに車を借り、アサ子さんをお乗せして東和町内をまわった。そのあと、光さん夫妻と一緒に周防大島温泉「大観荘」の湯に入り、料理屋で瀬戸内の海の幸を存分に味わい、光さんに大畠駅まで送ってもらった。「また、今度、3度目の日本一周のときに来ますからねー!」と、光さん夫妻に別れを告げた。

 周防大島に来たときとは逆に、山陽本線の電車で広島まで行き、新幹線で東京に向かったが、ぼくは車中で宮本先生の『民俗学の旅』の本をあらためて読んだ。今までに何度か読んだが、今回はそれ以上に、夢中になって読んだ。東京に着く前に読み終え、それと同時に、自分自身の胸の中に熱い血が流れるのを感じるのだった。

「よーし、やってやろう!」。
 宮本先生は、生涯をかけて、4000日以上も日本国内を旅された。その足跡は、日本の国のすみずみにまで及ぶ。ぼくは20歳のときにアフリカに旅立って以来、49歳の今日(1997年当時)まで、4500日あまり旅してきた。

 しかし、日本に限っていえば、本格的にまわりはじめたのは27歳以降のことで、その日数は1800日ほどでしかない。あと、2200日、なんとしても、
「旅の日数だけでも宮本常一に追いつくゾ!」
 と、東京駅の新幹線ホームに降り立ったときにそう決心するのだった。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

カソリの「宮本常一研究」(8)

「宮本常一先生の29回忌」(2009年1月30日)

 東京・西国分寺の東福寺で、宮本常一先生の29回忌がおこなわれた。
 宮本先生が亡くなられたのは1981年1月30日。ここ東福寺で先生の葬儀は行なわれた。それ以降、毎年、先生の命日の1月30日には大勢の人たちが東福寺に集まり、先生を偲んでいる。その間、「宮本常一先生を偲ぶ会」は一度も欠いたことはない。

 先生が所長をされていた日本観光文化研究所(1989年3月31日に解散)の所員や先生が教えておられた武蔵野美術大学の教え子、先生の書かれた膨大な書物を通して「宮本常一」を知った熱烈な宮本ファンなど50人ほどの人たちが、今年も東福寺に集まった。

 山陰の日笠寺のご住職でもある「あるくみるきく」の元編集長、山崎禅雄さんがこれも毎年のことだが、駆けつけて東福寺の本堂でお経を上げてくれ、ありがたいご講話をしてくれる。

 それがすむと、先生に「献杯!」をし、東福寺内での飲食が始まる。
 これが何とも楽しいのだ。

 先生を偲ぶのと同時に、先生が亡くなられた以降の過ぎ去った30年近い年月はあっというまに吹き飛び、観文研(日本観光文化研究所)での様々な出来事、思い出が語られる。

 ぼくは20代の前半で観文研にかかわるようになり、観文研が解散した40代の前半まで所員だった。毎年の「宮本常一先生を偲ぶ会」に参加するたびに、あらためて日本観光文化研究所を通して見聞きした先生の教えが自分のバックボーンになっていることに気づかされるのだ。

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西国分寺の東福寺本堂で行なわれた宮本常一先生の29回忌

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山崎禅雄大師のご講話

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宮本先生を偲んでの飲食は楽しい!

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日本観光文化研究所の先輩、三輪主彦さんと。
地学者の三輪さんにはいろいろと教えられた

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日本観光文化研究所を支えたお二人。
元武蔵野美術大学教授の田村善次郎さん(左)と
元「あるくみるきく」編集長の山崎禅雄さん

テーマ : 国内旅行記
ジャンル : 旅行

カソリの「宮本常一研究」(9)

「日本観光文化研究所」(第1回目)
(『ツーリングマップルマガジン』2008年Vol1 所収)

「我に師なし 我に弟子なし」
 そういいつづけてきた一匹狼のカソリだが、じつは1人、師がいる。それは柳田国男をしのぐとさえいわれている民俗学者の宮本常一先生だ。

 宮本先生は生涯を通して4000日以上も旅された偉大なる旅人でもある。その足跡は日本国中に及ぶ。
 ぼくは宮本先生がつくられ、所長をされていた日本観光文化研究所の所員だった。
 通称「観文研」。

 ここはじつにユニークな組織で、宮本先生の教えに興味を持ったり、共感して「所員になりたい!」と思ったら、誰でも自由に所員になることができた。所員とはいっても、別に給料が出るわけでもなく、拘束されるわけでもなかった。

 何ともありがったのは、
「君らを食わせてあげることはできないが、君らを歩かせてあげる」
 という宮本先生の方針どおり、所員は様々なテーマで日本中を旅する旅費をもらえたことだ。

 観文研の資金は全額、大手旅行社の近畿日本ツーリストから出ていたが、ぼくは観文研のプロジェクトで日本各地を歩くようになり、日本を知るようになった。

 ぼくが観文研とかかわるようになったのは、スズキTC250を走らせ、2年あまりの「アフリカ一周」(1968年~69年)から帰った直後のこと。

 当時カソリ、22歳。
 それから1989年3月、観文研が閉鎖されるまでの18年間、ずっと所員だった。

 日本観光文化研究所では「あるくみるきく」という月刊誌を出していた。まさに観文研のシンボルで、宮本先生はあふれんばかりの情熱をこめて、毎号の「あるくみるきく」の監修をされていた。

 1967年3月に出た「特集国東」が記念すべき第1号。
 それ以降、毎号、特集形式で出していった。

「あるくみるきく」のタイトル名からもわかるように、とにかく自分の足で歩き、自分の目で見、いろいろな人たちに話を聞き、それを文章にまとめたのが「あるくみるきく」。「あるくみるきく」の1冊1冊には宮本先生の熱い思いがこめられていた。

「アフリカ一周」の旅から帰ったあと、観文研に出入りするようになったといったが、宮本先生はきわめつけの貧乏旅行だったぼくの「アフリカ一周」をおもしろがってくださり、「あるくみるきく」に書かせてもらえることになった。とはいっても、なにしろ文章を書く術も知らないカソリだったので、大変なことになった。

 そんなときに、宮本先生のご子息の宮本千晴さんがじつに良いアドバイスをしてくれた。
「なあ、カソリ、そんなに大げさに考えなくってもいい。原稿にまとめなくてもいいから旅の間で強く印象に残ったことをカードに書いてみたらいい」

 宮本千晴さんのアドバイス通り、全部で150枚のカードに思い出のシーン、印象深いシーンを書き込み、それを終えると日本人ライダー初となる「サハラ砂漠縦断」を一番の目的とした「世界一周」(1971年~72年)に旅立った。

 その150枚のカードを編集してくれたのは東京農業大学探検部OBの向後元彦さんと早稲田大学探検部OBの伊藤幸司さんだった。

 2人は当時の日本の探検、冒険の世界をリードするような人。向後さんと伊藤さんはその150枚ものカードをたんねんにつなぎ合わせ、「あるくみるきく」の1冊にしてくれた。書いた本人がいないのだから、向後さんと伊藤さんはさぞかし苦労されたことだろう。

 こうして完成したのが「あるくみるきく」第66号の「アフリカ一周」だった。それを「世界一周」の途中、資金稼ぎのバイトをしていたイギリスのロンドンに送ってもらった。異国の地で、「あるくみるきく」の「アフリカ一周」の号を手にしたときの喜びといったらなかった。

「あるくみるきく」第66号の「アフリカ一周」には、さらに後日談がある。
 それを目に留めてくれた人がいた。作家の坂口安吾や壇一雄らと懇意にしていた編集者の八木岡英治(故人)さん。ぼくが「世界一周」から帰るとまもなく、八木岡さんが訪ねてきた。会うなり、「あるくみるきく」の「アフリカ一周」はおもしろかった、ぜひとも本にしましょうと、そういってくれたのだ。信じられないような話だ。このようないきさつで、ぼくにとっては最初の本となる『アフリカよ』が出来上がった。

 ところでゲラ(校正)が出たとき、八木岡さんは壇一雄さんに読んでもらった。壇さんは一気に読み終え、すごくおもしろがってくれたという。そして、『アフリカよ』の前書きに、「ここに青年の行動の原型があり、純粋な旅の原型がある。何か途方もなく大きな希望があり、夢がある。ぼくが今、二十歳で、この著者と同じことが出来ないのが、唯一、残念なことである」と、書いてくれた。

 壇さんは『アフリカよ』のゲラを読み終えるとすぐに、ぼくに会いたいと言ったという。しかし、残念なことに、ぼくは壇さんに会うことなく、次の「六大陸周遊」(1973年~74年)に旅立った…。

テーマ : 国内旅行記
ジャンル : 旅行

カソリの「宮本常一研究」(10)

「日本観光文化研究所」(第2回目)
(『ツーリングマップルマガジン』2008年Vol.2 所収)

「六大陸周遊」(1973年~74年)の旅から帰ったときは、カソリ、大きな壁にぶち当たった。
 それまでの、命を張って世界を駆けめぐってきたことが無意味に思え、何とも虚しい気分に襲われた。20代の大半を費やしてやってきたことが、まるで一瞬の幻でも見たかのようにも思われた。あれは一体、何だったのか…。

「もっと、もっと世界を駆けめぐりたい!」
 という焼けつくような気持ちは萎え、旅への憧れも消えようとしていた。

 このときカソリ、27歳。我が旅人生、最大のピンチ。このピンチを救ってくれたのが日本であり、日本観光文化研究所(観文研)だった。
「よーし、今こそ、日本をまわろう!」
 と心に決めたとき、うそのように気持ちがスーッと楽になった。

 日本に目を向けたことによって、ぼくの体内にはまた新たな力が蘇ってきた。旅への意欲が湧き上がり、今度は無性に日本をまわりたくなったのだ。
 世界から日本へ!

 観文研にはより頻繁に出入りするようになり、所長の宮本常一先生のお話を聞く機会が多くなった。観文研のあった東京・秋葉原から新宿までの電車の中でも、何度となく先生のお話を聞かせてもらった。

 そんなこともあって観文研を足場にして日本をまわろうという気持ちが次第に強くなり、当時、観文研を取り仕切っていた先生のご子息の宮本千晴に頼み込んだ。
「宮本先生と一緒に日本を歩かせて下さい!」

 すると千晴さんは、
「なあ、カソリ、それだったら親父よりも神崎君と熊ちゃんがいい」
 といって宮本先生の一番弟子といってもいい神崎宣武さん(現・旅の文化研究所所長)と熊ちゃんこと工藤員功さん(現・武蔵野美術大学民俗資料室)と一緒に日本を歩けるようにしてくれたのだ。

 1975年2月21日、ぼくは工藤さんと一緒に広島に行った。
 広島駅からバスで湯来温泉へ。ぼそぼそと雪の降る日だった。

 湯来温泉の国民宿舎「湯来ロッジ」にひと晩泊まり、翌日は中国山地の山村、戸河内町(現・安芸太田町)の那須という集落に向かった。大雪で1メートルを超える雪が積もっていた。那須への交通は途絶え、我々は雪をかき分けて歩いた。途中で出会った那須の人たちはユキワ(カンジキ)をはき、手には杖を持っていた。

「よくもまあ、そんな格好でここまで登ってきたものだ」
 地元のみなさんを驚かせたが、我々はかろうじて那須の集落にたどり着くことができた。ここではみなさんにあたたかく迎えられ、昼食を出してもらい、酒をふるまわれた。

「すごいなあ!」
 感心してしまうのは工藤さんだった。つがれるままにかなりの量の酒を飲んでいるのだが、きちんと村人たちの話を聞いている。

 那須はかつては木地師の村だった。木は主にトチを使い、椀や盆などを作っていた。漆は中国産を使っていたとのこと。栃のみならず、ブナでは高下駄の歯を作り、スギやヒノキでは板箕(いたみ)を作っていたことなど、次から次へとおもしろいように話を聞いていく。その間、工藤さんはほとんど口をはさむことなく、ただひたすらに聞いている。
「おー、これが宮本流なのか!」
 ぼくは感動した。

 宮本常一先生から工藤員功さんへと、確実に伝わっていった「聞き取り」の真髄を見た。
 そのあと広島から岡山へと舞台を移し、神崎さんの故郷、吉備高原の美星町(現・井原市)を訪ねた。

 神崎さんの実家は何百年もの歴史を持つ宇佐八幡系の神社。ゆるやかな峠上に社がある。そのため神社のある峠は「宮んタワ」と呼ばれていた。「宮の峠」の意味。このあたりでは「峠」を「タワ」といっている。
 神崎さんには「岡山ではタワだけど、広島や山口あたりではタオになる。四国ではトとかトオといっている」という話を聞いた。

 ぼくは「宮んタワ」を知って、峠への猛烈な興味が湧き上がってきた。
「宮んタワ」はまさに「峠越えのカソリ」の原点。神崎さんに案内されてまわった吉備高原の村落の風景はいまだに目に焼きついる。

 工藤さんと歩いた中国山地、神崎さんと歩いた吉備高原は、ぼくにとってはまるで異国の世界だった。それだけに新鮮な目で見られ、自分の心の中に深くしみ込んでいった。
「日本はおもしろい!」

 東京に戻ったとき、ぼくはこれから先、どのようにして日本をまわろうかと考えた。
 観文研がらみでまわる日本とは別に、「バイクのカソリ」がバイクで日本をまわる方法を考えたのだ。
「何か、ポイントを持とう!」。
 その結論が「温泉めぐり」と「峠越え」。

「温泉めぐり」では日本の全湯制覇を目指し、工藤さんと一緒に入った広島県の湯来温泉を第1湯目にした。
「峠越え」をはじめたのはその翌月のこと。
 1975年3月28日に「奥武蔵の峠」で越えた国道299号の高麗峠(埼玉)を第1峠目とし、日本の全峠踏破を目指すようになったのだ。

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