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  10 ,2017

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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海を渡った伊万里焼を追って(1)
 (『海を渡った日本のやきもの』1985年・ぎょうせい、所収)

 江戸時代、日本の伊万里焼(有田焼のこと)は長崎からバタビア(現在のジャカルタ)、アフリカ南端のケープタウン経由でオランダへ、さらにはヨーロッパ各国へと送られた。それは「イマリ・ロード」といってもいいほどで、伊万里焼は鎖国・日本の花形的な輸出品であった。

 それとは別に、長崎→中国→東南アジア→インド→ペルシャ→アラビア→トルコというもう1本、別な「イマリ・ロード」があった。1985年、そのもう1本、別な「イマリ・ロード」を追ってみた。日本の有田からトルコのイスタンブールへ…。まず最初に、本来ならば中国の広州(広東)に行くべきであったかもしれない。

 なぜならば17世紀後半に鎖国を解いた清朝は、1684年にまず上海、寧波、チャンチョウ、マカオの4港を開き、海関(税関)を置き、外国貿易を再開した。それら4港にひきつづいて1724年には広東が開港された。

 それが1757年になると、外国貿易は広東1港にまとめられ、中国陶磁はすべて広東港から外国へ出ていった。それよりのち、西方諸国に送られた日本の「イマリ」も、この港で中国船(長崎から広東に入った中国船)からイギリス船などに積みかえられることが多かった。

 しかし、ここで考えなくてはならないのは、広東がただ単に積みかえ港であったのだろうか…、ということである。私は相当量のイマリがこの港にも陸揚げされたのではないかと推測している。
「世界最大の磁器生産国が、日本のイマリを輸入するはずがないではないか」
 といった反論の声が聞こえてきそうだが、それに対しては次のようにいえないだろうか。

 17世紀以降というもの、清の磁器生産では、初期イマリが盛んに「明」の写しを行なったのと同じように、精巧な「イマリ」の写しを行い輸出した。それはまた、後述するインド、ボンベイのプリンス・オブ・ウェールズ博物館の清代中国磁器のなかに、何点ものイマリ写しが見られることでもわかる。東南アジア各地に残る同期の中国磁器のコレクションを見ても同様のことがいえる。

 明末清初の一時期、輸出を中断した中国では、磁器の生産技術の衰えもあり、輸出の再開がイマリの写しからはじまったのも当然のことであった。それはイマリの輸出のはじめは、明朝磁器の「芙蓉手」の写しであったことと同様なことである。

 そのことについて、私は江戸期に海を渡っていったイマリと、現代の花形輸出品の自動車との類似性を強く感じる。昭和30年代、日本がイギリスのヒルマンやオースチン、フランスのルノーなどのコピー車を作っていた時代があった。そして同時に欧米車を輸入していた。

 その後、日本の自動車産業は急速な発展を遂げ、いまや世界一、二の自動車生産国になった。それと同時に日本は世界でも有数の自動車輸入国でもある。同じようなことは他の自動車先進国でもいえるのである。

 そうしたことから広州を中心にして、伊万里焼の残存例を調べてみたかったが、さまざまな制約があって実現できなかった。そのかわり、制約のない、自由なマカオに行くことにした。

テーマ : 海外旅行記    ジャンル : 旅行

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海を渡った伊万里焼を追って(2)
 (『海を渡った日本のやきもの』1985年・ぎょうせい、所収)

 日本とマカオの結びつきは深く、なおかつ古い。種子島に鉄砲を伝えたポルトガル船も、日本ではじめてキリスト教を布教したフランシスコ・ザビエルも、マカオを中継してやってきた。近世の初期、日本から南方の諸港に渡った朱印船も、マカオに寄港した。日本とマカオの間には、そのような歴史がある。

 香港島の澳門(マカオ)埠頭から水中翼船に乗ると、1時間あまりでマカオに着いてしまう。あまりにも近い香港とマカオの距離には、驚かされてしまうほどである。

 船がマカオに近づくと、海の色が変化し、黄土色に変わってくる。地図を見れば一目瞭然だが、マカオは大河、珠江河口の町。そのことを海の色が教えてくれた。

 中国・広東省中山県と細い廻廊でつながっている小半島のマカオは、16世紀の大航海時代に世界を制覇したポルトガルの東洋進出の拠点になった。それはちょうど、オランダがバタビアを拠点にして東洋進出を図ったのと同じと考えてよい。ただしマカオはポルトガルの東洋進出の拠点になったものの、ポルトガル領になったのはずっとあとの1887年のことである。

 小高い七つの丘に囲まれた街並み、石畳の坂道、セント・ポール寺院跡、錆びついた大砲が海を見下ろすモンテ砦…と、アジア特有の雑然とした空気の中に、いまもポルトガルの匂いが漂っている。

「イマリ」を探し求めて、マカオの町を歩きはじめた。まずはカモンエス公園の一角にある「カモエンス博物館」を見学した。

 カモエンス博物館の250点余りの展示品のうち、3分の1以上は陶磁器類。しかし、それらのコレクションは漢、唐、宋、元、明、清の中国陶磁と19世紀のポルトガルの陶器で、イマリは意外にも1点も見られなかった。

 それではと、繁華街のアルメイダ・リベイロ通りや、セント・ポール寺院跡に続く石畳の坂道の両側にある骨董屋を1軒残らず見てまわった。売られているのは大半が焼ものだたが、その大半は明末から清代にかけての中国陶磁で、ここでもイマリはほとんど見られなかった。

 全部で20軒以上の骨董屋をのぞいたが、イマリを置いてあったのはほんの数軒でしかなかった。色絵の大皿と円筒形の三段重ねの鉢などが目についたにすぎなかった…。

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海を渡った伊万里焼を追って(3)
 (『海を渡った日本の焼きもの』1985年・ぎょうせい、所収)

 マカオ滞在の最後の1日を使って、ワンデーツアーで中国に行った。アメリカ人やカナダ人、オーストラリア人などの観光客とともに、マイクロバスで広東省中山県をみてまわった。

 そのツアーの途中、戸数100戸ほどの村で停まり、1時間ほど自由に村の中を歩く機会を得た。村の中を歩いていると、ある家の勝手口で碾臼(ひきうす)をみつけ、写真をとらせてもらった。そのついでに、台所をのぞかせてもらい、台所用具をみせてもらった。

 見終わると、家の主人に居間に呼ばれ、お茶を出された。
「あっ!」
 そのとき私は思わず声を上げてしまった。

 調味料や塩辛の入った瓶類、ランプ、ラジオなどの置かれた棚に、高さ尺五寸(約45センチ)の首がすぼまり、口の開いたイマリの花瓶があったからだ。梅、椿の花柄の下に、着物を着た美男、美女が描かれた赤絵磁器。まさに18世紀から19世紀にかけて盛んに焼かれたイマリだった。

 ツアーには英語を流暢に話す青年が同行している。さっそく彼に来てもらい、通訳を頼んだ。すると家の主人はそれが日本の焼きものであることを知っていた。

 どのようにして手にいれたのかを聞くと、次のような答えが返ってきた。
「わからない。代々この家に伝わっているものだ」
 残念ながらそれ以上のことはわからなかったが、少なくとも戦時中や戦争直後に日本人から渡ったものでないことは確かである。

 そして、こうしたイマリを持っている人も、その家の主人以外に何人かいるとのこと。 この村はマカオからも広東(広州)からも近い。どのようなルートでこのイマリの花瓶が入ったのか定かではなかったが、この村にいくつかのイマリがあるということは事実であり、マカオか広東に陸揚げされたものの一部とみるのが自然であろう。

 あらためてそう考えると、私は中山県のその村で感動というか、興奮を覚えるのだった。

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海を渡った伊万里焼きを追って(4)
 (『海を渡った日本の焼きもの』1985年・ぎょうせい、所収)

 マカオに行ったあと、次にマレーシアに飛んだ。首都クアラルンプールからは乗り合いタクシーに乗って、マラッカ海峡に面した古都マラッカへ。緑濃い密林とゴム園、熱帯の強烈な赤色土壌のなかを5時間ほど走り、マラッカに着いた。

 マレー半島とインドネシアのスマトラ島の間のマラッカ海峡は、南シナ海とインド洋を結ぶ要衝と呼ぶにふさわしい海峡。マラッカはマカオがそうであったように、東洋と西洋を結びつける古くからの港町であった。

 マラッカは15世紀にはすでに港町として繁栄を謳歌していた。当時、カイロ、メッカ、アデン、ホルムルズ、アルメニア、グジュラート、ゴア、マラバル、ベンガル、セイロン、スマトラ、ジャワ、シャム、カンボジア、中国などから商人が集まっていた。トメ・ピレスの『東方諸国記』によれば、84もの異なる言葉がマラッカでは話されていたという。 マラッカが東西貿易の拠点としてヨーロッパの支配下に入ったのは、16世紀になってからのことである。最初にやってきたのはポルトガルだった。

 1511年、総督アルバケルケによって率いられたポルトガル軍はマラッカを占領し、東洋進出の拠点にした。その時代に築かれたサンチャゴ砦の一部がいまも残されている。だが、それだけではない。マラッカ郊外のマラッカ海峡に面した一角には、いまでも「ポルトガル人村」があり、ポルトガル人の血を引く1000人ほどの人たちが住んでいる。
「ボン・ディア(こんにちは)」
「オブリガード(ありがとう)」
 といったカタコトのポルトガル語が、いまもこの村では通用するのだ。

 1641年になると、マラッカはオランダの支配下に入った。この時期は日本が鎖国に入ったころで、マラッカ川河口のマラッカ港には、三色旗をなびかせたオランダの商船が盛んに出入りした。ただし、オランダ商船の日本への往来はバタビアを基地にしたもので、マラッカとの直接の関係は記録上ではみられない。

 18世紀後半になると、オランダ東インド会社の衰退に合わせるかのように、オランダのマラッカ支配は弱まった。すると今度はオランダに変わってイギリスの勢力が進出してきた。

 このように、東西貿易の拠点マラッカをめぐって、ポルトガル→オランダ→イギリスというめまぐるしいヨーロッパ勢力の変遷があった。マラッカ川の流れは、そんな時代の移り変わりを見つづけてきた。

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海を渡った伊万里焼を追って(5)
 (『海を渡った日本のやきもの』1985年・ぎょうせい 所収)

 マラッカ海峡に流れ込むマラッカ川は、下流でさえ幅が十数メートルほどの小流で、その河口にマラッカ港がある。現在のマラッカ港には、かつての東西貿易の拠点として繁栄を謳歌した面影はまったくない。ダイナミックな世界貿易にとり残された地方の一小港湾といった風情で、マラッカ海峡対岸のスマトラ島からやってきた帆船が港を埋めつくしていた。水深が浅いという致命的な欠陥が、マラッカを大型船舶が接岸できる近代的な港にしなかった。

 そんなマラッカ港の周辺には、時代の推移を感じさせる古い家並みが残っている。アジア的な景観の中に、そこはかとなくヨーロッパ的な雰囲気が漂い、マラッカ川にはオランダ式のはね橋がかかっていたりする。

 オランダ総督府の建物をそのまま利用した「マラッカ博物館」には、古代マレー王国からポルトガル、オランダ、イギリス統治時代、さらには太平洋戦争中の日本占領時代に至るまでの広範囲にわたる資料が展示されている。

 マラッカ博物館の一番奥の一室が陶磁室になっている。例によって、東南アジアの博物館のほとんどがそうであるように、ここでも明、清の染付磁器を中心にした中国磁器が大量に展示されている。そして、この地方では高名な陶磁コレクター、チャン・イェーフー(曾有孝)氏の中国陶磁のコレクションも一括して寄贈され、展示されている。

 そのような大多数の中国陶磁に混じって、イマリの染付大皿が数点、見られた。しかし、それらのイマリはマラッカの古い歴史に反し、鮮やかなコバルトを使った銅版転写の染付けで、明らかに明治以降のものと思われた。

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海を渡った伊万里焼きを追って(6)
 (『海を渡った日本のやきもの』1985年・ぎょうせい 所収)

 マラッカではハング・ジェバット通りの骨董屋街には何度となく足を向けた。
 思えば、博物館から骨董屋をまわるのは、この一連の取材行ではおきまりのコースになっている。
「能がない」
 といわれそうだが、イマリを探るためには定石も仕方ない。それにしても暑い。日中のマラッカのアスファルト道を歩くのは楽ではなかった。

 ところでハング・ジェバット通りだが、古い町並みを貫く通りの両側には10軒以上の骨董屋が軒を連ねている。
 仏像や金属器、古道具中心の店もあるが、大半の店は焼きものが主体の店頭だ。それも、東南アジアのほとんどの町がそうであるように、中心は中国の磁器。明や清の染付けや色絵の皿や壷に混じって、なかには宋や元のものもある。

 イマリの染付けもけっこう見られる。花鳥紋様の染付け皿、色絵の皿、赤絵の壷や瓶などだ。それらは染付けの藍色や色絵の赤色などから、私は18世紀から19世紀のイマリとみた。
 オランダ東インド会社が、「イマリ」を日蘭貿易の花形商品にして大活躍していた時代(17世紀~18世紀)とは少し、ずれているようだ。
 それに、博物館で見たのと同様の、銅版転写によるコバルト釉の染付け皿もある。これなどはさらに新しいもので、明治期のものである。

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海を渡った伊万里焼きを追って(7)
 (『海を渡った日本のやきもの』1985年・ぎょうせい 所収)

 マラッカの骨董街、ハング・ジェバット通りは何度も歩いたが、ここでは「イマリ」という言葉はじつによく通じる。
 とある店で私の求めに応じてイマリの赤絵の皿を見せてくれた青年は、流暢な英語で話してくれた。その話は興味深いものだった。

「イマリは中国系のちょっとした焼きもの通なら、みんな知ってるよ。
 ミン(明代の染付磁器)よりは新しくって、チン(清代の色絵磁器)よりは古いのが、イマリだ。
 ここの人たちはミン→イマリ→チンという流れで磁器の歴史をとらえている。
 だから中国もののコレクターでも、何点かのイマリを持っているんだよ。
 我々の店にでまわっているイマリは、中国人やイギリス人の富豪や高級官僚たちのコレクションくずれや、その後やってきた日本人の残したもの。18世紀以降のイマリがほとんどといっていい。17世紀のイマリを探すのは難しいね。
 今の日本の焼きものは、何たってノリタケが有名だ。クアラルンプールの首相官邸やヒルトンホテルの食器は、みんなノリタケだっていうよ。
 なに、ノリタケはイマリの系統ではないって。
 ナゴヤモノだって。
 それは初めて聞いた。我々にとって、日本の磁器はみんなイマリだからなあ…」

 結局、マラッカの骨董屋街では17世紀までさかのぼれるイマリを見ることはできなかった。18世紀から19世紀にかけての赤絵や19世紀の染付けがほとんどだった。

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カソリの焼きもの紀行(8)
海を渡った伊万里焼きを追って(8)

 1987年7月7日、「海を渡った日本の焼きもの」を追って、インドのボンベイに飛んだ。香港、マカオ、中国、マレーシア(マラッカ)にひきつづいてのインド・ボンベイになる。

 インドは共同通信文化部の土岐浩之さんと一緒だ。
 我々はボンベイの町を歩いたあと、一番の目的の「プリンス・オブ・ウェールズ博物館」に行った。そこでは思っていた以上の成果があった。

 その時の様子は『海を渡った日本のやきもの』(ぎょうせい・1985年刊)の土岐さんの記事でもって紹介しよう。
===
 雨上がりの朝、ムガール朝の細密画のコレクションで名高いプリンス・オブ・ウェールズ博物館で、別行動でやはり「イマリ」を探し歩いていた賀曽利君と待ち合わせる。

 二人して、博物館のガンジー氏を訪ねる。花壇の中にバスコ・ダ・ガマの銅像があり、その向こうにドーム形屋根の本館が見える。入口を入ると、中央の広間が吹き抜け吹き抜けとなっていて、塔屋のような天井を見上げることができる。

 陶磁器の陳列室は三階にある。エジプトの壁画やレリーフ、ネパールの曼荼羅、ムガールの細密画などを横目に見ながら階段を上がる。

「あった!」
 薄暗い陳列室のガラスのなかから、いきなり目に飛び込んできたのは、色鍋島の鮮やかな色彩だった。尺八寸(一尺八寸=約五五センチ)の大皿である。桜にまん幕、抱き茗荷紋、ぼたんの花をあしらっている。鍋島藩の紋所が、はるか西インドの港町まで来ていることに奇妙な感懐を覚えた。

 隣りには一尺の菊花文の深鉢がある。まぎれもなく江戸後期のイマリである。それも、かなりの逸品である。
 柿右衛門様式の耳付きの八角鉢(六寸)もある。これも江戸後期か幕末あたりの作品か。残念ながら、詳しい年代はガラス越しなので判定できない。

 窓絵の六寸鉢と秋草文様の六角の香炉は、一見、白薩摩のように見える。
「ふうん、これが粟田口(京都の古窯)の京薩摩か」
 と、思いながら、ガラス棚の表から裏からと眺めたが、やはりよくわからない。

 三葉葵の紋の入った香炉には『鬼山』の銘があり、水指の裏には『長州山 薩摩国錦谷 宝生院之印 義家画』の文字が読み取れた。

 清朝の中国製模造イマリもいっしょくたに並べてあり、九谷焼まがいの磁器もある。
『IMARI』とか『NABESHIMA』などと展示ケースの表示には書かれているが、あまりあてにはならない。

 だが、ヨーロッパに数多くのイマリが流出したことはよく知られているが、インドの西の果てであるボンベイで、これだけの数の古伊万里や色鍋島、柿右衛門を見ることができたのは、期待していなかっただけに喜びも大きかった。

===
 このあと土岐さんとはインドの大財閥、タタ財閥の本拠地を訪ね、タタ・コレクションの「海を渡った日本のやきもの」の数々を見せてもらった。

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プリンス・オブ・ウェールズ博物館

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博物館に展示されている「海を渡った日本のやきもの」

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カソリの焼きもの紀行(9)
海を渡った伊万里を追って(9)

 インドのボンベイに行ってから6年後の1990年、50㏄バイクで「世界一周」したが、そのときトルコのイスタンブールで「古伊万里」を見た。

『50ccバイク世界一周2万5千キロ』(JTB 1992年刊)では、イスタンブールでの「古伊万里」との出会いを次のように書いている。

2700年の都市の歴史
 ボスポラス海峡に面したイスタンブールの歴史は古い。
 紀元前7世紀に、ギリシャ人の植民都市ビザンチウムとして建設されたことにはじまる。それがイスタンブールの都市としての第一歩。今から二千数百年も前のことだ。

 西暦330年には、古代ローマ帝国の皇帝コンスタンチヌスが都をビザンチウムに移し、コンスタンチノポリスと名前を変えた。それがイスタンブールの旧称コンスタンチノープルのもとになっている。

 ローマ帝国の東西分立(395年)以降、1453年まで、イスタンブールは東ローマ帝国の首都。それ以降は、バルカン諸国、アラビア諸国、さらには北アフリカ諸国を含め、当時としては世界でも最大級の領土を支配したオスマントルコの首都となった。東ローマ帝国の旧勢力をこの地から一掃し、名前をコンスタンチノープルからイスタンブールに変え、イスラム文化圏の一大中心地になった。

 1923年にケマル・アタチュルクの革命によって共和国になり、首都はアンカラに移された。だがそれまでの二千数百年間というもの、イスタンブールは欧亜にまたがるこの地域の中心でありつづけ、現在でも人口300万人のトルコ最大の都市である。

 それにしても、「すごいなあ!」と感嘆してしまうのは、日本では考えられないような都市としての歴史の長さだ。

 日本の都市の歴史といえば、東京が500年(太田道灌の江戸城築城が1457年)、大阪が500年(蓮如の石山本願寺建立が1496年)、京都でさえ1200年(桓武天皇の平安京遷都が794年)でしかない。それにひきかえ、イスタンブールの2700年というのは、桁違いの長さだ。

 イスタンブールは、トルコ最大の都市だけあってにぎやか。人の波、車の波であふれかえっている。そんなメインストリートのORDV通りにある「KENT」というホテルに泊った。中級クラスのホテルだが、それでも宿泊費は5万リラ。日本円で2500円ほどだ。ただし、50㏄バイクのスズキ・ハスラーTS50をあずかってもらうためのガレージ代に1万リラを取られたのが痛かった。

 さっそく、町に出る。
 まずは昼飯だ。屋台をみつけ、ヨーグルトつきのピラフを食べ、すぐ近くのチャイハナ(カフェ)でチャイを飲む。水タバコを吸っている人を何人も見かける。

「古伊万里」のコレクション
 イスタンブールはボスポラス海峡南口のヨーロッパ側に位置している。金角湾(角のような形をして奥深くまで切れ込んだ湾。見た目には隅田川ぐらいの幅で、川のように見える)を囲む数個の丘の上に発展した都市。金角湾をはさんで北側が新市街、南側が旧市街になる。

 ということで、金角湾南側の旧市街を歩く。
 さすがにイスラム教文化圏の一大中心地だけあって、歴史の古いモスクがいくつもある。奈良や京都で寺社めぐりをするように、イスタンブールではモスクめぐりをする。

 最初はアヤ・ソフィア寺院。325年にローマ皇帝のコンスタンチヌスによって起工されたこの建物はギリシャ正教の本山だったが、1453年にオスマントルコが支配するようになってからというものイスラム教寺院に変り、今は建物全体が博物館になっている。

 次にスルタン・アフメット・モスク、通称ブルー・モスクに行く。17世紀につくられたモスクで、トルコでは唯一の6本のミナレット(塔)を持っている。なお、6本以上のミナレットというと、聖地メッカにあるカーバ神殿の7本だけである。ミナレットの数はモスクの格を表している。ブルー・モスクの中に入ると、天井一面に貼られたタイルの青さに目が染まりそうだ。

 モスクめぐりのあとはトプカピ宮殿。東ローマ帝国を滅ぼし、オスマントルコを打ち立てたメフメット王が、1564年から15年の歳月をかけて造った宮殿だ。それ以降、350年間、オスマントルコの王たちが代々住む宮殿となった。
 1923年のケマル・アタチュルクの革命後は博物館になっている。

 その展示がすごい。ダイヤを無数に散りばめた玉座や数多くの宝石類には目を奪われる。中国製陶磁器の収集も見事なものだ。が、なんと、それに隣り合って「古伊万里」のコーナーもあった。
 日本でもめったに見ることのできないような赤絵の大壷や大皿など、全部で200点あまりの「古伊万里」が展示されていた。

 そこには次のような説明があった。
「このコレクションは17世紀から19世紀にかけて日本から輸出されたもので、九州の有田でつくられました。伊万里焼で知られていますが、有田に近い伊万里港から船積みされたので、その名があります」

 鎖国体制化の江戸時代にあって、磁器の技術を飛躍的に向上させた有田は、17世紀の後半から19世紀にかけて、長崎・出島のオランダ東会社を通してヨーロッパ各地に伊万里焼を盛んに輸出した。当時の日本の、華やかな輸出商品だった。そのような江戸期の「古伊万里」がヨーロッパから、さらには欧亜の接点のイスタンブールまで入ってきていたのだ。

 ヨーロッパの古城などでは、中国製磁器とともに、「古伊万里」の装飾用の壷を飾っているところもある。
 有田の九州陶磁文化館や足利の栗田美術館にはまとまった「古伊万里」のコレクションがあるが、世界中を探しても、トプカピ宮殿ほどの「古伊万里」のコレクションはないだろう。あらためてオスマントルコの力のすごさを感じてしまう。

 薄暗い宮殿内を出、見晴らし台に立つと、目の前には真っ青なボスポラス海峡が広がっている。1隻の大型船が黒海から地中海へと進んでいく。海峡の対岸はアジア側のウスクダルの町並み。

 そんな欧亜を分ける海峡の風景を見ていると、たまらない気分になってくる。アジアの東端の日本と、アジアの西端のトルコ。その両者のつながりに思いを馳せる。

「古伊万里」は、はるか遠く喜望峰を越え、ヨーロッパ経由の「海上の道」でイスタンブールに入ってきた。このイスタンブールこそ、「陸上の道」シルクロードの終着点だった。いつの日か、シルクロードの全域を踏破してみたいぼくにとって、トプカピ宮殿から見下ろすボスポラス海峡は何とも刺激的で、
「また、きっと来るからな!」
 といった熱い思いで、海峡の風景を目の底に焼きつけるのだった。

 それから16年後の2006年、400㏄バイクのスズキDR-Z400Sで東京を出発し、神戸港から中国船に乗って天津に上陸。西安を出発点にし、イスタンブールへとシルクロードを横断した。2006年のときもイスタンブールの町を歩きまわり、トプカピ宮殿で同じように「古伊万里」を見た。(了)

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トプカピ宮殿から見るボスポラス海峡。対岸はアジア側のウスクダルの町並み

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トプカピ宮殿の「古伊万里」

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