「甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その1)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

雑穀の村
 今年(昭和61年)の5月中旬、私は山梨県西原(さいはら)に行った。西原は山梨県の北東部に位置している。現在の行政区分でいうと北都留郡上野原町西原になるが、かつては西原村として一村を成していたところである。

 私が西原に足を運ぶようになって、すでに数年がたつ。西原に目を向けたのは、ここではいまだに多種の雑穀類が栽培されているからである。

 日本の文化を「食」を通して探ろうと、私たちの日本観光文化研究所で、10年ほど前に「山地食文化」というテーマを立てた。山地にこだわったのは、平地に比べ、山地の方がはるかに伝統的な食文化が残されているであろうと考えたからだ。その「山地食文化」というテーマのもとで焼畑や狩猟、山菜・木の実・キノコ類の採取をおこなっている村々を訪ね歩き、自分の目でその実際を見てきた。

 はじめのうちは、特にこれといったポイントももたずに何でも見てやろうという見方をしていたが、やがて日本からまさに消えようとしている雑穀類に注目し、今も栽培している村をみつけ、そこを我がフィールドにしようと思うようになった。というのは日本人の主食になっている米以前を考える場合、雑穀類は欠かせないものだからである。

 何度も足を運べるようにと、東京周辺にフィールドを探した。バイクを走らせ、秩父や丹沢の山村をまわったが、わずかにアワやキビがつくられているだけで、これはというフィールドをみつけられなかった。それだけに西原で種々の雑穀類を見たときの驚きといったらなかった。

 昭和54年の秋のことだった。西原にやってきて村中を歩いていると、あちこちで雑穀の畑を見た。とはいっても1畝(約100平方メートル)とか2畝といった猫の額ほどの狭い畑ではあったが、まるで雑穀の展覧会のように各種の雑穀が栽培され穂を伸ばしていた。雑穀の穂が黄色く色づいている風景は、稲穂の広がる風景とはまた違うしみじみとした実りの秋を実感させてくれた。

 アワの穂はふさふさと頭を垂れ、黄金色に輝いていた。
 キビの穂は稲穂に似てだらんと重そうに穂先が垂れ下がっていた。
 ヒエの穂はキビとは逆に穂先を空に向けていた。
 モロコシは一見するとトウモロコシにそっくりだが、穂はまったく違う。丈の高い茎の先端にもじゃもじゃっとした穂をつけている。
 日本からはすでに消えてしまったのではないかといわれてるシコクビエもあった。シコクビエの穂は指をすぼめたような形をしている。

 それら雑穀類の収穫も見た。アワ、キビ、ヒエ、モロコシ、シコクビエと種類は違っても、すべて穂の下を鎌で刈り取る「穂刈り」なのである。それら雑穀の穂を軒下にぶらさげたり、莚(むしろ)に広げて干している光景は、「雑穀の村」を、強烈に印象づけるものだった。

 日本で古来から栽培してきたアワ、キビ、ヒエ、モロコシ、シコクビエと、これだけとりそろえてつくっているところは例をみない。
「よ~し、決めたぞ!」
 そのとき以来、私は西原に足を運んでいるのである。

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甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その2)

  (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

鶴川に沿って
 西原への玄関口は中央本線の上野原駅。駅に降り立つと、さわやかな5月の風がほほをなでる。上野原周辺は桂川の両岸に河岸段丘が見事に発達したところ。ホームからはまるで地学の教科書から抜け出たような、対岸の3段、4段となった階段状の地形が見られる。それぞれの段丘面には家々がかたまっていて、その周囲には田畑がある。ひとつの独立した生活空間を感じさせる景観だ。

 改札口を出て急な階段を登り、駅前広場に出る。広場といっても、上野原駅前自体も桂川左岸の狭い段丘面にあるので、バスが回転するのがやっとの広場。駅前広場に立って見上げると、段丘崖の急な斜面に駅前旅館が建っている。

 西原には富士急バスに乗っていくのだが、本数は1日6本と限られている。私が乗ったのは8時21分発の1番のバス。通学の高校生を乗せ、立錐の余地もないほど。満員のバスは段丘上にある上野原の市街地に向け、段丘崖の急坂を登っていく。

 まもなく平坦な台地が目の前に開けてくる。掘割になった中央高速道をまたぎ、甲州街道(国道20号)沿いに細長く延びる市街地に入っていく。

 上野原は甲州街道の宿場として発展をとげ、江戸時代の後期には250余軒もの商家が軒を連ねたという。その名残をとどめるかのように、何軒か見られる土蔵造りの商家が目を引いた。

 ここはまた郡内機業の中心地として栄え、谷村(現都留市)とともに絹市の立ったところ。今でも製糸工場が何軒かあり、町を歩いていると、カタカタカタと糸車のまわる音が聞こえてくる。「郡内(ぐんない)」とは山梨県の東部地方を指す呼び名で、大菩薩峠-笹子峠-御坂峠を結ぶ分水嶺で甲府盆地の「国中(くんなか)」と分けられている。

 上野原の町中で高校生が降りてしまうと車内はいっぺんに空き、乗客は私を含めて3、4人になってしまう。市街地を走り抜け、甲州街道と分れ、やがて桂川の支流、鶴川にかかる橋を渡る。

 鶴川はクラクラッと目まいをおぼえるほど深い谷をつくっている。まるでスパッと斧で断ち割ったような深さだ。この橋の上からは飛び降り自殺をする人がつづいた。それを防ぐために、橋の欄干の上にさらに何本かの鉄線と有刺鉄線が張られている。西原はこの鶴川のずっと上流に位置している。

 バスは鶴川に沿って走る。狭い曲がりくねった道。対向車とすれ違うたびに冷っとする。右手に見える山並みは甲武国境の山脈。山の向こうは東京の檜原村になる。

 5月の山々は新緑がまぶしい。萌木のやわらかな緑と、植林されたスギやヒノキのかたい緑が、まるでパッチワークのように入り混じっている。それに色どりを添えるかのように、ヤマフジやヤマブキが咲いている。

 ゆずり原に入る。ここも西原と同じように、かつては一村を成していた。以前はしばしばマスコミにも登場し、長寿村として脚光を浴びたこともある。そんな山村も今では年寄りを残して50代、60代の働き手が先に死んでしまうケースが増え、長寿村も色あせた。

 その理由として雑穀食や麦食が米食に変わり、それまでほとんど食べなかった肉類を食べるようになったという食生活の変化や、かつてはどこに行くのにも歩いたものが、今では隣の家に行くのにも自動車を使うといった生活環境の変化があげられている。

 バスはゆずり原のいくつかの集落を通り過ぎていく。鶴川のV字谷はいよいよ深さを増し、谷の両側の山々は垂直に近い角度でそそり立っている。

 初めて西原に行ったときのことを思い出す。バスがこのあたりまで来たとき、あまりの深山幽谷の地に足を踏み入れたので、
「ほんとうに、この奥に人が住んでいるのだろうか」
 と、不安にかられたほどである。それほど山は深く、谷は険しい。

 この道では崖崩れがひんぱんにおきる。いつ来ても、どこかで工事をしている。危険だからといってバスが通れず、歩いて西原に入ったこともある。

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甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その3)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号より)

西原に入る
 上野原駅前を出発して50分、峡谷を抜け出て、バスは初戸(はど)という停留所で止った。わずかに開けた小空間に20戸ほどの家々が寄り添っている。ここからが旧西原村。初戸とはいかにも村の入口らしい地名ではないか。

 初戸の立っているのも容易ではない急傾斜の畑では、コムギが勢いよく穂を伸ばしている。オオムギの穂も見える。麦類とまるでセットにでもなっているかのようにエンドウマメが赤紫や白い花をつけている。

 初戸では元気な声を張りあげて、保育園児が5人、おばあさんや母親の見送りを受けてバスに乗り込んできた。車内は急ににぎやかになる。

 初戸を過ぎると、バスは鶴川の本流を離れる。六藤(むそうじ)、上平(わったいら)、佐群(さむれ)入口という停留所に止まるたびに、保育園児が一人ずつ乗ってきた。

 車窓から眺める西原の山々は、大部分が植林されたスギやヒノキで覆われている。西原の全面積は3671ヘクタールになるが、そのうち2953ヘクタールが山林で、すべて民有林。山林の面積は8割を超える。ただし民有林とはいっても、大半は大山林地主の持山。終戦後、山を持つ家が増えたが、それでも西原全戸の3分の1あるかどうかである。

 林業はたしかに西原を支える主要な産業なのだが、近年の木材価格の低迷や、木材需要の落ち込みによって現状は厳しい。それに追いうちをかけるかのように、今年(1986年)の春先の大雪で、樹齢2、30年のスギやヒノキが次々に折れた。車窓から見える植林の山のあちこちには、折れた先を白く見せたまま、まるで槍先を天に向けるかのようにして立つスギやヒノキ…。その光景はなんとも無残だった。

 ゆるやかな峠を越える。

 峠上の集落は田和(たわ)という。峠の語源にはいくつかの説があるが、「タワ説」もそのひとつ。西日本では峠のことを「タワ」とか「タオ」という。東日本にも大垂水(おおだるみ)峠とか大弛(おおだるみ)峠といった峠名がある。ともに山の鞍部をいいあらわす「たわみ」もしくは「たわむ」からきているのではないか。そのように考えると、西原の田和も峠をいいあらわす「タワ」からきている可能性もある。

 峠の田和で一人、峠を下った扁盃(へはい)でさらに3人の保育園児が乗り、バス道路が再び鶴川本流と出会う下城(しもじょう)で園児たちは降りた。そこに保育園があるのだ。

 下城には旧西原村時代、村役場があった。現在でも上野原町(※その当時は上野原町)役場の西原支所があり、警察の駐在所や農協の事務所、小学校、中学校、ガソリンスタンド、雑貨店、酒店、理髪店、食堂、旅館などがバス道沿いに建ち並び、西原で唯一の町といえるような集落になっている。

 下城で再び、ガラ~ンとした車内にとり残された。

 下城はごく小規模な盆地状の地形になっている。平地はほとんどない。道路沿いの家並みの背後はゆるく傾斜する畑。見上げると、かなり山の上まで家々が点在している。しかし鶴川の対岸には家は1軒もない。対岸は北向の斜面になり、山には一面、スギやヒノキが植林されている。

 バスは鶴川の河畔から山裾の台地上に登り、郷原、原の集落を通っていく。原を過ぎると再び鶴川沿いに走り、最奥の集落、飯尾が終点。道はその先、鶴峠を越えて小菅村へと通じている。

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甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その4)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号より)

西原の峠道と山上道
 バスで通ってきた初戸、六藤、上平、田和、扁盃、下城、郷原、原、飯尾のほかに、西原には甲武国境の山脈の中腹に位置する藤尾、佐群があり、鶴川の本流と支流にはさまれた島状の山塊上に中郡があり、初戸と下城の間の鶴川沿いには真野、腰掛、平野田、阿寺沢の集落がある。

 これら西原の集落は初戸、川通、藤尾、田和・上平、扁盃・下城、郷原、原、飯尾の8地区に分けられている。川通には中郡、真野、腰掛、平野田、阿寺沢が含まれ、藤尾には六藤が含まれる。西原の世帯数は386世帯、人口は1331人になる(1986年4月30日現在)。

 標高1000メートル前後の山々に囲まれた西原には、バスで通ってきた道のほかに、周囲をとりまく山並みを越える峠道が何本もある。自動車交通が全盛となった現在では、それらの峠道の大半は草に埋もれてしまったが、かつては峠道が交通路の主流であり、峠を越えて他所の広い地域と結びついていた。

 西原と他所を結ぶ峠をあげてみよう。次のようなものだ。

 三頭山(1528m)を最高峰とする甲武国境の山並みの向こうは東京都檜原村になるが、昔から西原と檜原の交流は密だった。西原の藤尾から檜原の数馬へ、田和・佐群から数馬へ、下城・郷原から数馬へと、数馬に通じる数馬峠(檜原では西原峠と呼んでいる)や、同じく檜原の笛吹(うずしき)に通じる笛吹峠など、西原-檜原間には何本もの峠道が開けていた。

 これらの峠を越えて西原から檜原へ、嫁入する光景がよく見られたという。
「ゆずり原の女はいい着物を着て、化粧もしているけど、ブッチャケた顔をしているからなあ。それに比べると、西原の女はボロを着ていてもいい顔をしている」

 西原の男たちはそういっているが、他村への対抗意識を差し引いても、なるほど西原には美人が多い。おまけに西原の女は評判の働き者なので、「西原の女を嫁に!」と、もらい手が多かったのに違いない。

 明治期あたりまでは五日市との結びつきが強かった。西原から数馬峠や笛吹峠を越えて檜原から五日市へと炭や木材を出荷した。スギ、ヒノキ、サワラなどの桶材や屋根材としての杉板も出荷していた。五日市には炭問屋や材木問屋があり、五と十の日には市が立ち、山と里の産物が取引された。

 西原から鶴峠(885m)を越えると、小菅村の中心地の川久保に出る。この峠道は、今は舗装された自動車道になっている。

 ところで甲州街道の裏街道ともいえる青梅街道は、古くは川久保を通っていた。その当時の青梅街道は東京の新宿で甲州街道と分かれ、青梅、氷川、川久保を通り、大菩薩峠を越えて塩山から甲府へと通じていた。今の青梅街道は大菩薩峠の北の柳沢峠を越えている。

 西原の酒屋は明治期には鶴峠を越え、大菩薩峠を越えて、塩山の造り酒屋から酒を仕入れていた。その当時、大菩薩峠には荷渡所があったという。塩山の造り酒屋は峠の荷渡所まで馬で酒樽を運び、伝票をつけて置いておく。それを西原から取りにいくのだ。酒樽の受け渡しは伝票だけで、人は立ち合わなかったという。そして1年に1度とか2度、造り酒屋の番頭が集金にやってきた。峠には無人の長兵衛小屋があり、戦前までは荷渡所の石囲いと朽ちた用材が残っていたという。この大菩薩峠越えの道も、戦後はほとんどつかわれなくなった。

 西原から旧七保村(現大月市)に通じる小佐野峠も、昔はよく使われた。西原ではほとんど米をつくっていなかったが、七保ではつくっていた。そのため西原の人たちは小佐野峠を越えて米や稲藁を買いにいった。稲藁は縄になったり、筵を編んだり、養蚕のまぶしにしたり、草履をつくったり、牛馬の飼料にしたり…と、日常生活には欠かせないものだった。

 また小佐野峠は富士登山をするための富士街道の峠でもあった。西原から小佐野峠を越えて七保に下り、大月、谷村を通って富士吉田へ。そして浅間神社に参拝し、富士山に登った。小佐野峠を越える参拝者は地元の西原の人たちのみならず、小菅や丹波、東京の奥多摩の人たちも多かった。峠には権兵衛茶屋という峠の茶屋があったという。

 なお西原からは講を組んで相模の大山や秩父の三峰、上州の榛名山、野州の古峰、木曽の御岳などに参っていた。近くの神々や遠くの神々に参ることによって旅を楽しみ、同時に他の世界を知る絶好の機会になっていた。この小佐野峠を越える道は昭和30年代の前半くらいまでは使われていた。

 小佐野峠から南東に延びる山並みは権現山(1311m)でぐっと高くなっているが、山頂を越え、旧甲東村(現上野原町)の和見に下る道もあった。

 権現山の山頂近くには大群権現がまつられており、祭りの日には屋台が並び、大きな賭場が開かれた。警察もさすがに権現山までは踏み込めなかった。賭場は祭り以外の日にも開かれていたという。

 その権現山を指して大群という。甲武国境の山並みの中腹には佐群という集落がある。両山地の中間に位置する丘陵上には中郡の集落がある。大群、佐群、中郡には何か関連があるように思われる。

 私は群・郡には牟礼と同様な意味があるように思われる。牟礼には丘とか山の意味がある。たとえば東京・三鷹市の牟礼には、周囲とは異相の南北600メートル、高さ15メートルの丘陵がある。

 西原の集落の中でも、尾根に近い集落は古くからあるといわれている。そのような集落と集落を結ぶ道が山並みの中腹を縫っている。ほぼ等高線に沿った道だ。そのような「中腹道」のさらに上には「山上道」といっていい尾根道があった。「山上道」は今でいうところのバイパスとしての色彩を強く持っていた。隣の集落への道というよりも、遠方に行くための道として使われた。

 西原では秩父の三峰神社のお札を玄関口に貼った家を多く見かける。「三峰さん」は火難、盗難を防いでくれると、西原では今でも厚く信仰されている。

 現在の交通路、鉄道や自動車道で考えると、西原から三峰山はきわめて遠い。しかし西原から数馬峠に登り、三頭山から雲取山へとつづく「山上道」を行けばじつに近くなる。西原から三峰山までは、まるで定規で線を引いたような直線ルートになり、歩いても十分に1日で行き着ける距離なのだ。

 同じような山上道をたどって奥多摩の御岳山にも参拝していた。その山上道というのは三頭山でもって三峰山に通じる道と分かれ、鋸山、大岳山を経て御岳山へとつづいている。このような山上道を歩いて、三峰山や御岳山への参拝が、戦前あたりまではごく普通におこなわれていた。

 今でこそ交通の便の悪い、閉ざされた山村としてのイメージの強い西原だが、かつては峠道や中腹道、山上道など、網の目のように張りめぐらされた山道でもって、四方八方に通じていた。「閉ざされた」どころか、おおいに「開けた」山村だった。

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甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その5)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

西原を見下ろす風景
 終点の飯尾で折り返し、原の停留所でバスを降りる。
 私の目の前には、甲武国境の山脈に向かって緩くせりあがっていく傾斜地の畑が一面に広がっている。

 クワ畑が目立って多い。若芽を伸ばしはじめたクワに混じって、茎の赤いナツソバが数センチほどになっている。雑穀類も芽を出している。コンニャクも芽を出している。オオムギやコムギは穂を伸ばしている。狭い畑をさらに細分化して、様々な作物が植えられている。

 オカボ(陸稲)も見える。だが、どこを見渡しても水田はない。原にかぎったことではなく、西原全体を見ても、水田は無いに等しいといえるほどなのである。

 西原の1戸あたりの畑は狭い。たんに狭いだけでなく、所有権が入り組んでいるので、ここの畑、あそこの畑、山の畑というように、1軒の家の畑が飛び飛びになっている。それらの畑を合わせた1戸当りの平均は3反(約3000平方メートル)程度でしかない。その狭い畑を1年中休ませることなく、倍の6反にも、1町歩(約1ヘクタール)分にも使い、雑穀類や麦類、芋類などの畑作物をつくってきた。

 狭い畑を休みなく使うために、西原の人たちは人一倍、よく働く。腰の曲がった老婆は堆肥の入った大きな背負籠を背負って畑に向かっていく。反対に山からは柴を背負ったこれまた老婆が降りてくる。耕運機を押したり、鍬を振って畑を耕しているのも年寄りだ。

 若い人たちの姿はまず見かけない。男たちは自家用車を走らせ、上野原や東京の高尾とか八王子、立川方面の勤めに出ている。女たちもマイクロバスが迎えにくるパートの仕事に出ている。そのため畑は残された年寄りたちの仕事場ということになる。

 原の火の見櫓に登った。
 原と郷原の集落が一望のもとに見渡せる。樹齢数百年の大杉がこんもり茂る一宮神社の森が見える。ひときわ目立つ大屋根は、臨済宗の宝珠寺。寺ほどではないにしても、大屋根の家が多い。20年ほど前までは、そのほとんどが茅葺だった。今でもまだ茅葺の家は残っているが、大半の家は造りをそのままにして、上からトタンをかぶせている。入母屋形式の屋根の破風が兜に似た形をした、山梨県に多く見られる兜造りの家も見られる。

 西原では中二階の家が圧倒的に多い。このような中二階の家が多いのは、養蚕と密接な関係がある。養蚕は炭焼きとともに西原に現金収入をもたらす二大生業だった。それが近年、ともに急速に衰退し、今では養蚕農家は全戸の1割にも満たないほど。それもまだクワ畑はいたるところにあり、春蚕(はるご)、夏蚕(なつご)、秋蚕(あきご)と年3回、養蚕をやっている。

 まもなく春蚕がはじまろうとしていた。

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甲武国境の山村・西原の「食」を訪ねて(その6)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

西原の民宿「中川園」の食事
 私は火の見櫓を降りると、今晩の宿となる民宿「中川園」を訪ねた。今では残り少なくなった茅葺屋根の家で、ご主人の中川勇さんは温厚な方。やさしそうな笑みを目尻にたたえている。小柄な中川さんだが、明治44年生まれには見えない元気さで、毎日、畑仕事に精を出している。

 西原ではめっきり少なくなった麦類だが、中川さんはまだ、オオムギとコムギを作っている。昼食の前に麦畑を見せてもらった。オオムギの穂はかなり伸びていたが、コムギはやっと穂が出たはじめたばかり。西原に来る途中で見たゆずり原のコムギと比べると、ずいぶんと生育が遅いようだ。

 原あたりの標高は500メートルから600メートル。標高350メートル前後のゆずり原よりもかなり高い。その200メートルあまりの高度差のために、西原とゆずり原では、コムギの生育ひとつをとってみても半月近いズレがあるという。また同じ麦類でも、オオムギとコムギではやはり半月ほどのズレがあり、同じ時期に種を播いてもオオムギは6月中旬に収穫できるが、コムギになると6月下旬から7月上旬の収穫になるという。昼食には中川さんの奥さんが「アワ飯」を炊いてくれた。アワ飯やヒエ飯などの雑穀飯はかつての西原での主食であった。

 とはいっても奥さんの炊いてくれたアワ飯は米6合にアワ1合の割合。米だけの飯に比べたらはるかに風味があり、白米の白さにアワの黄色が混ざって、見た目にもきれいなので食が進む。

 ところでアワ飯だが、それを毎日のように食べていたころは、米とアワの比率はまったく逆で、アワの中にパラパラッと米が混ざっているような飯だった。米のひと粒も入らないようなアワ飯やヒエ飯もあたりまえだったという。

 昼食のおかずは山で採ってきたばかりのフキの煮物と、フキを醤油で煮しめたキャラブキ、サンショの若芽を醤油で煮しめた佃煮、焼きシイタケ、塩ザケ。それと豆腐、油揚、冬菜の入った味噌汁。山里の味覚を十二分に堪能させてくれた昼餉の膳だった。

 塩ザケとアワ飯の米を除けば(厳密にいえば塩と醤油も)、昼食の膳に出たもののすべては、中川さん宅の自家製のもの、自給のものである。

 サンショは家まわりに植えられているし、シイタケは竹やぶに隣合った一角で栽培されている。味噌も自家製。このような自給自足の色彩の強い食生活はなにも中川家にかぎったものではなく、西原ではかなり一般的なものである。

 また、米を別にして、塩ザケが唯一、外から入ってきたもの。海から遠く離れた西原ではかつては塩イワシや目刺しがご馳走であった。もちろん塩ザケもそうである。客である私の膳に塩ザケがついたのも、その名残りといえるだろう。

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甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その7)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

 午後からは、中川さんにアワとキビの種まきを見せてもらった。じつはこれが今回の西原訪問の大きな目的だった。家の近くの2畝(約200平方メートル)ほどの畑を2分し、一方にアワ、もう一方にキビを播くという。

 中川さんはまず庭に腰掛を持ち出して座り、その前に箕を置き、ネズミにやられないように石油カンに入れて保存してあったアワの穂を箕の上でもみほぐす。イネやムギと違って脱粒性の高い雑穀類は、このように手でもみほぐすぐらいで簡単に種がとれるのだ。

 その後で箕を振ってゴミを飛ばし、飯碗くらいの大きさのカップに種を入れる。10本の穂からとった種はカップ半分くらいの分量になったが、それで十分なのだという。つづいて同じようにしてキビの種をとる。キビはアワよりもさらに脱粒性が高いので、ほとんど時間をかけないで種をとることができた。

 アワとキビの種を比較してみると、アワ粒はキビ粒よりもひとまわりほど小さい。
「粟粒のように」
 と小ささの形容に「粟粒」を用いられるが、実物を目の前にすると、なるほどとうなずける。米粒を十等分しても、まだアワ粒よりは大きいであろう。

 中川さんは種の入ったカップを背負籠に入れ、小型耕運機のエンジンをかけ、畑まで押していく。

 最初に耕運機で耕したあと、三本鍬で畑をならし、うねを立てる。うねとうねの間隔は50センチほどだが、鍬でうちかえした溝の部分に、ひと冬寝かせてつくった堆肥をまき、その上から腰をかがめて振りまくようにパラパラッと種を播いていく。播いたあとから足で種が隠れるかどうかぐらいに土をかぶせていく。

 土をうっすらとかけていくことなど、とても私にはできそうにもなかったが、種まきならなんとかできるのではないかと思い、ためしにやらせてもらった。

「下手な人が播くと、どうしても厚くなってしまう」
 と中川さんがいわれるように、畑に落ちた種を見てみると、種と種が重なりあい、ムラができてしまっている。

 アワもキビも2週間ほどすると芽が出はじめるが、そのあと別に間引きをするわけでもないので、種を厚くまくと苗が密生してしまうのだ。

 中川さんの畑の隣も雑穀畑だとのことだが、そこにはすでにキビとモロコシが播かれたという。また別隣りの畑では老夫婦がサトイモの植えつけをしていた。サトイモの種イモは秋に収穫した親イモのまわりについている子イモで、それを冬の間中、土の中に埋めておき、4月から5月にかけて植えつけるという。

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甲武国境の山村・西原の「食」を訪ねて(その8)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

夕食の煮込み
 雑穀の種まきを終えると、中川さんはいったん家に帰り、今度はツルハシを持ってモウソウの竹やぶに行く。タケノコ掘りをするのだ。片一方が尖った刃、もう一方が幅広い刃をしたツルハシで地面から顔を出したタケノコのまわりを掘り、とったタケノコを次々に背負籠に入れ、家に持って帰る。

 さっそく庭にしつらえたかまどの大鍋で、皮をむいたタケノコをゆでる。グラグラ煮立ったところで米糠を入れ、アク抜きをする。そのタケノコが夕食に出た。

 夕食はとれたてのタケノコと冬菜の入った「煮込み」。煮込みというのは甲州名物「ほうとう」のことで、国中では「ほうとう」といっているが、郡内では「煮込み」といっている。

 煮込みは小麦粉をこねて塊りをつくり、それをノシイタの上にのせ、ノシボウでのす。それを包丁で切り、ゆであげずに、そのままサトイモやダイコン、カボチャ、青菜などの季節の野菜類やタケノコ、キノコの入った味噌仕立ての汁に入れて煮込んだもの。煮干でダシをとっている。

 麺には具の味と味噌味がしみこみ、熱いのをフウフウいって食べるのは美味なもの。具のタケノコもたっぷり汁を吸ってやわらかくなっている。煮込みには季節の食材を入れてるので、季節感も味わえる。

 この煮込みは夕食に食べるものと決まっていて、毎日といっていいほど、ひんぱんに食べられる。このように煮込みはきわめて日常的な、主食的な食べものになっている。

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甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その9)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

馬方の時代
 5月とはいえ、高地の西原では、日が落ちると寒さをおぼえるほどである。
 夕食後、掘りごたつに足をつっこみ、お茶を飲みながら、中川さんの話を聞いた。
 
 中川さんは戦前、畑仕事の合間に馬方をやっていた。今でいうころのトラックを使っての運送業だ。当時、西原から上野原に、さかんに炭や材木を出していた。それら荷物を運ぶ馬方が、西原だけでも30人以上いたという。

 西原方面から見ると、上野原の市街地の入口にあたる新井に、荷受所の炭問屋や材木問屋があった。中川さんは当時、毎日のように西原と新井の4里(約16キロ)の道のりを往復していた。馬は自分の持ち馬で、中川さんは自営の運送業ということになる。険しい山道を行き来するので、1人の馬方が1頭の馬しか引けなかった。

 なお馬は西原の馬喰から買った。西原には昭和20年代まで3人の馬喰がいた。
 炭を運ぶときは馬の背に片側4俵づつ、計8俵の炭俵を積むのが普通だった。1俵の重さが4貫(約15キロ)で、強い馬だと10俵を積んだ。

 木材は丸太の場合もあり、製材した板の場合もあった。西原には2ヵ所に製材所があった。直径1尺(約30センチ)、長さ13尺(約4メートル)という太い丸太を積んだこともあった。

 西原と上野原の間を毎日2、30頭の馬が行き来していた。そのため狭い山道でのすれ違いは骨の折れるもので、向こうから来る馬の姿をみつけると、かなり手前で待たざるをえなかった。

 その話を聞いて、私は現在の道路状況を思わずにはいられなかった。というのは馬から車に変わっただけで、昔も今も、同じことをやっているからである。上野原から西原への自動車道は、冒頭でもふれたとおり、曲がりくねった山道で道幅が狭い。そのため、車のすれ違いは容易ではない。バスは対向車とすれ違うたびに停まるし、すれ違えなくてバックすることもある。見通しの悪いカーブでは、出会いがしらの事故も少なくない。

 話は横道にそれたが、そのような道なので馬の事故も少なくなかった。すれ違うときに足を踏みはずしたり、石につまずいたり、積荷が木にひっかかったり、冬の凍りついた坂道で滑ったり…。そのようにして谷底に落ちて命を落とした馬を供養するため、「馬頭観音」碑を立て、交通安全を祈願した。そうした「馬頭観音」碑は、今でも西原を歩いているとかなりの数が目につく。

 上野原に運び出す積荷には、季節によっては繭やコンニャクがあった。忙しい時期には臨時の人を含めると100人近い馬方が仕事に出、駄賃稼ぎに精を出したという。日銭をもらえる馬方はよい現金収入源であった。

 上野原からの帰りは空荷のこともあったが、米や麦、アワ、味噌、醤油、酒、塩などを運んでくることが多かった。

 1家族が7、8人から10人前後と大家族があたりまえであった当時は食料の自給が難しく、炭や木材、繭、コンニャクなどで現金収入を得、それでもって米や麦、アワなどの食糧を買っていたのである。西原での食糧の自給率はおおよそ6割から7割ぐらいでしかなかった。

 中川さんは戦後になってからはやらなくなったが、馬方の時代はもうしばらくつづいた。昭和24年前後には道路が整備され、荷馬車が通れるようになった。馬の背で運ぶと8表ほどの炭俵しか積めなかったものが、「馬力」と呼んだ荷馬車だと、30表の炭俵を積んで上野原まで行くことができた。

 さらに昭和27年になるとトラックが走るようになり、馬方の時代は終わった。そして昭和30年になると、バスが走るようになったのである。

 中川さんは若い血をたぎらせて馬方をやっていた時代をなつかしむように、時には茶をすすり、時には銀髪をかきあげ、夜がふけるまで話してくれた。

(※そんな中川勇さんだったが、2003年9月14日に92歳でお亡くなりになった)

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甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その10)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号所収)

再び西原へ
 5月中旬にひきつづいて5月下旬にも西原を訪ねた。その時は下城の「白芳館」に泊まった。白芳館は木造3階建の旅館で、それまでに何度か泊まっている。私の西原での定宿になっている。

 白芳館は白鳥太郎さん、定子さんの夫妻が昭和38年にはじめた。太郎さんは西原の扁盃の出身。定子さんはゆずり原の坂本の出身だ。

 白芳館に着くと、3階の部屋に通された。窓をあけると、すぐ下を流れる鶴川のせせらぎが聞こえてくる。それに混じってホウジロやウグイスの鳴き声が聞こえてくる。対岸のスギやヒノキが植林された山からは、木の香を運んでさわやかな風が吹き込んでくる。

 白鳥太郎さん、定子さん夫妻は花が好きで、いつ行っても庭先にはなにかしらの花が咲いている。そのときも色とりどりのサツキが咲き、白と紫のフジの花が見事な房を垂らして咲いていた。秋にはキクの大輪が見られる。

 白鳥さんは何ヵ所かに畑を持っているが、そのうち家まわりの畑が興味深い。全部合わせても2畝(約200平方メートル)ほどの狭い畑だが、それを細分化し、じつに多彩な畑作物をつくっている。

 これは何も白鳥さんの家にかぎったことではなく、どの家を見ても同じようなことがいえる。1種類の作物に頼るのではなく、多種多様な作物をつくり、それを食料にしてきた伝統が家まわりの畑には色濃く残っている。

 この白鳥さんの畑に今の時期、何が植えられているのかを見るのが、今回の西原訪問の一番の目的だった。

 畑に下りたついでに納屋をのぞかせてもらうと、中には畑仕事や山仕事の道具類のほかに、味噌桶や「コウコオケ」と呼んでいる漬物桶、さらにはワラビ、フキ、ウメ、タケノコなどを漬け込んだ桶が置かれている。 

 その中でもとくに大きいのは味噌桶。「八斗桶」という大きさで、昭和57年に仕込んだ桶と、今年(昭和61年)の春先に仕込んだ桶が並んでいる。今、使っている味噌は、昭和57年に仕込んだ味噌を「一斗桶」に小分けにしたもの。味噌は「三年味噌」で、今年仕込んだ味噌は3年後から使いはじめる。

 今でこそ自家製の味噌をつくる家は少なくなったが、以前はどの家でも春先に味噌をつくっていた。

 さて、畑である。この納屋に隣り合った一角は雑草がおい茂り、一見すると人の手が入っていないかのように見える。しかし、よく見ると、シソやニラ、ミョウガ、フキ、ウド、タラ、ネネンボウ(ヤマゴボウ)、コーレ(ヤマギボシ)などが半栽培的につくられている。

「半栽培」というと、耳なれないいい方かもしれないが、自生しているわけではないが、かといって手をかけて栽培しているわけでもない。そのような半栽培的な作物というのは、西原のみならず、山村の「食」を支える大きな要素になっている。

 さらに周囲の山々では、春にはワラビ、フキ、タラノメ、ウドなどの山菜類を、秋にはナガタケやキクラゲなどの茸類を採取している。なおかつ、このような半栽培的な作物を多く持っているということは、西原の人たちがそれだけ自然とともに生きていることの証明のようなものだ。




スーパーカブ50 ジーンファクトリー

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