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世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


著者・管理人

Author: 賀曽利隆
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Category: カソリと走ろう!

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カソリと走ろう! 第1回:「目指せ! エアーズロック」
 (『ゴーグル』2004年6月号 所収)

「人との出会い」、ぼくはこれがツーリングの最大の魅力だと思っている。いや、ツーリングのみならず、人生で一番おもしろいのが「人との出会い」といっても過言ではない。
 ぼくは今(※2004年)、56歳。20歳のときに日本を飛び出し、スズキTC250でアフリカ大陸を一周して以来、30数年間、「世界を駆けるゾ!」を合言葉にバイクで世界を駆けめぐってきた。その大半は一人旅で、「バイクは1人で走るもんだ」と20代、30代のころは固く信じきっていた。

 ところが40代の半ばになって、自分のそんな信念を根底から崩される1本の電話をもらった。その電話は東京の旅行社「道祖神」の菊地優さんからのもので、「カソリさん、もういいでしょう」といった意味のことを菊地さんはいった。「道祖神」主催のバイクツアーを「みんなと一緒に走りましょうよ」というものだった。

 菊地さんに初めて会ったのは、今からもう30年も前のことになる。「アフリカ大陸一周」を書いた「アフリカよ!」という本を出したとき、それを読んだ菊地さんから連絡をもらい、東京・秋葉原の「メトロ」という喫茶店で会った。友人のKさんも一緒だった。菊地さんは17歳。まだ高校生だった。
「ぼくたちもアフリカに行きたいんです」
 という若き2人と秋葉原駅構内地階の薄暗い喫茶店で夢中になってアフリカの話をしたのを今でも鮮明に覚えている。そのときカソリ、27歳。血気盛んで、
「アフリカはいいよ!」
 と、2人をおおおいにそそのかした。

 2人はほんとうにすごいのだが、そのあと19歳になったときにアフリカへの夢を実現させ、世界に飛び出していった。
 菊地さんは長い旅から帰ると、旅行社で仕事をするようになった。それが「道祖神」。社長の熊沢さんはぼくと同年代で、1960年代に「サハラ砂漠縦断」をなしとげたようなアフリカ大好き人間。ぼくはその後何度か「道祖神」で便宜をはかってもらい、航空券などを手配してもらったことがある。

 そんないきさつがあったので、さっそく菊地さんに会った。すると、「カソリさん、ダートコースでエアーズロックまで走りましょう」といわれた。「エアーズロック」の一言がぼくの胸を強烈にとらえた。バイクツアーがどういうものなのか、参加者のみなさんと一緒に走るのがどういうものなのか、そんなことは一切考えずに、
「行きましょう!」
 と、菊地さんに即答した。

 オーストラリアの中央部にそそり立つ世界最大の一枚岩の「エアーズロック」は今でこそ一大観光地になり、道路が整備されて行きやすくなっているが、ぼくが1973年にヒッチハイクとバイクでオーストラリアを2周したときは、そう簡単には行けるようなところではなかった。オーストラリアの中央部をアデレードからダーウィンへと南北に縦断する幹線のスチュワートハイウエイも、南半分の大半がダートだったような時代だ。

 そのときぼくはエアーズロックに行きたい一心で、ヒッチハイクのときはスチュワートハイウエイとの分岐点で24時間、寝ずに車を待った。その間にエアーズロック方面に行った車はわずか数台。で、結局、乗せてもらえないままにエアーズロックを諦めた。次にバイクでまわったときは北のテナントクリークからアリススプリングス経由でエアーズロックに向かおうとした。が、往復で2000キロ、その間のガソリン代を考えるとやはり、「無理だ…」
 で、断念した。なにしろそのときは宿泊費には一銭も使わないような極貧旅行で、それで「世界一周」を目指していたからだ。

 エアーズロックに行けずに悔しい思いをしてから20年後の1993年7月5日、ついにその夢を実現させるときが来た。「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第1弾となる「目指せ! エアーズロック」出発の日だ。
 参加者は13名。成田空港で出会ったときから大盛り上がりで13名のメンバーと「豪州軍団」を結成。成田からオーストラリア東海岸のブリスベーンに飛び、ブリスベーンを出発点にしてDR350やセローで西へ、大陸中央部のエアーズロックを目指した。

 大分水嶺山脈を越え、最初のダートに突入したときには、最高に気分が舞い上がった。「やったー!」という気分。先頭を走っていたぼくは走りやすいところをあえて外し、路肩近くの砂深いルートに突っ込んだ。
 気の毒だったのは参加者のみなさん。「カソリさんが選んだルートだから、きっと走りやすいに違いない」と砂道に突っ込み、砂にハンドルをとられて吹っ飛んだ。とくに「ターク」こと目木正さんや「お水」こと小船智弘さんはひどい打撲でサポートカーに乗ることになった。いやいや、ほんとうに申し訳ない。我々はすごくラッキーだったのだが、上原和子さん、増山陽子さん、錦戸陽子さんの3人の美人ライダーが参加していて、そのうち上原さん、錦戸さんの2人が看護師。そのおかげでタークとお水は美人看護師の手厚い看護を受けることができた。

 ダートに突入して目の色を変えたのは坂間克己さん。ぼくがDRのアクセル全開で走っても、すぐ後ろまで迫ってくる。120キロ以上で走っていたので、ギャップにはまったときなどは、
「ワーッ!」
 と、絶叫モードで吹っ飛びそうになる。それでもバトルをつづける2人。このバトルのせいで(おかげで)、後に坂間さんが結婚するときには仲人をすることになる。カソリ夫婦にとっては初めての仲人経験になった。

 530キロのロングダート、「バーズビルトラック」の入口、バーズビルの町に着いたときは、なんともいやなニュースを聞いた。砂漠同然のこのあたりで、記録的な大雨が降ったという。
 こういうときは瞬時の決断が必要だ。できるだけの情報を集め、「行ける!」という判断を下すと、
「さー、突破してやるゾ!」
 と、雄叫びを上げてマリーの町を目指した。

 いやはやすさまじい洪水の光景。大平原が一面、水びたしになっている。ダートもグチャグチャヌルヌル状態。バイクは泥団子だ。氾濫した川渡りが大変。濁流の中で転倒し、あわやバイクごと流されそうになったこともある。水をかぶったせいなのだろう、エンジンのかからなくなったバイクが続出し、そのたびに押し掛けした。あまりの苦しさに心臓が口から飛び出しそう。それでも行くのだ、エアーズロックを目指して!

 530キロの洪水と泥土のダート、「バーズビルトラック」を走りきってマリーに着いて大喜びした我ら「豪州軍団」だったが、その喜びもつかのま、スチュワートハイウエイまでの610キロのロングダート、「ウーダナダッタトラック」も大雨にやられズタズタの状態だと聞かされた。だが、洪水と泥土にすっかり慣れたメンバー全員は、
「目指せ! エアーズロック」
 を合言葉に「ウーダナダッタトラック」も走りきり、スチュワートハイウエイのマルラに着いた。ここまで来れば、あとはもう舗装路のみ。

 マルラではキャラバンパークでキャンプしたが、その夜は大きな難関を突破した喜びを爆発させ、焚き火を囲んでの大宴会になる。
「豪州軍団」の連帯感はいっそう強いものになる。カンビールをガンガン飲み干し、さらにワイン、ウイスキーと、あるものすべてを飲み尽くした。おかげで翌日は割れるように痛む頭をかかえてバイクに乗ることになる。でも、それがまたよかった…。

 ブリスベーンを出発してから7日目、ついにエアーズロックに到着。西日を浴びたエアーズロックは真っ赤に染まっていた。夢が現実になった瞬間。ここまでの道のりが厳しいかっただけに、エアーズロックに到着した喜びにはひとしおのものがあった。全員で日が暮れるまでエアーズロックを見つづけた。日が沈む直前のエアーズロックは、まるで炎をたぎらせれ燃え盛るかのような赤さだった。

 翌朝はまだ暗いうちにキャンプ場を出発。今度は地平線に昇る朝日を浴びたエアーズロックを眺め、そして急勾配の岩肌に這いつくばるようにしてエアーズロックを登り、全員で標高867メートルの頂上に立った。まさに感動の瞬間。我ら「豪州軍団」、山頂でシャンペンをあけて乾杯! 
 ここからの眺望がものすごい。360度の展望。スパーッと天と地を切り裂いた地平線。大平原がはてしなく広がっている。

 我ら「豪州軍団」、日本に帰ると、その年の秋に「日本のエアーズロック」といわれる紀伊半島の古座川の一枚岩に集合した。それ以降、毎年、場所をかえてのキャンプがつづいている。メンバー同士のつながりは、まさに一生ものといっていい。これぞまさに「人との出会い」の典型だとぼくは思っている。

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カソリと走ろう! 第2回:「夢のタクラマカン砂漠」
 (『ゴーグル』2004年7月号)

 人間は夢見る動物だ。
 夢を見て、夢を追いつづけてこその人間。夢を見なくなったときは人間廃業といっていい。「夢」を「憧れ」に置き換えてもいい。これは年には関係のないことで、棺桶に足を突っ込みかけても夢を見つづけている人もいるし、まったく夢を見ない、夢が見えない若者もいる。

「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第2弾目、中国西部のタクラマカン砂漠走破は、まさにぼくの子供のころからの夢を追ったものだった。
 小学校4年生のときのこと。国語の教科書にスウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンの「タクラマカン砂漠横断記」が載っていた。命がけで大砂漠を越え、ホータン川の河畔にたどり着くまでの物語は、胸がジーンと熱くなるほどに感動的だった。

 それ以降ぼくは夢中になって、学校の図書館にあった小供向けの「中央アジア探検記」を読みあさった。
「大人になったら、絶対に中央アジアの探検家になってやるんだ!」
 ぼくは子供心に「中央アジアの探検家」に憧れた。
「中央アジア」への夢は中学生になっても、高校に入っても持ちつづけ、というよりもますます膨らみ、シルクロードはいつの日か、「必ずや踏破してやる!」と思うほどの存在になっていた。

 だが、高校も2年、3年となり、受験が重荷となるころには、現実に目覚めてしまったとでもいうのだろうか、
「中央アジアの探検家だなんて…、なれる訳がないか…」
 と、「中央アジアへの夢」は遠のいた。

 タクラマカン砂漠に憧れてから30数年後のこと。
「道祖神」の菊地優さんが、「カソリさんの夢、実現させましょうよ」といってくれた。 ホータン川沿いにバイクを走らせ、タクラマカン砂漠を縦断するというもの。成功すれば、世界でも初となる快挙。このバイクツアーには12名のみなさんが参加した。

 我ら「新疆軍団」は1994年9月、北京経由で中国・新疆ウイグル自治区の中心、ウルムチに飛び、さらに天山山脈の南側のアクスに飛んだ。プロペラ機の小さな窓から見下ろした天山山脈の雪山は目の底に焼きついた。小さいころからシルクロードに憧れていたので「天山北路」や「天山南路」を通して、天山山脈の名前はぼくの頭の中で大きな部分を占めていた。その天山山脈を実際に、間近に見たという感動には、ものすごく大きなものがあった。

 バイクツアーの出発点となったアクスはシルクロード「天山南路」の要衝の地。ここで12名の中国側のスタッフが我々を待ち構えていた。ランドクルーザー3台、ニッサンのピックアップ1台、我々の乗るバイクを積んだトラックが1台。
 バイクは新疆モーターサイクル協会が所有するホンダのモトクロッサーCR80とCR125、CR250だった。
 このような大部隊でアクスからホータン川沿いに南下し、崑崙山脈北麓のホータンを目指すというもので、その距離は700キロになる。
 一大エクスペディションの「タクラマカン砂漠縦断」。

 長い隊列を組み、ダートの土けむりを巻き上げながら走り、タリム川の大湿地帯に入っていく。赤っぽいタマリスクやトゲの多いラクダ草が見える。「タリム川」や「タマリスク」といえば、中央アジア探検記では何度も登場するのもので、その実物を目にして感動するカソリだった。
 タリム川の大湿地帯突破が大きな難関だ。
 この地点で北の天山山脈から流れてくるアクス川と西のパミール高原から流れてくるカシュガル川、南西のヒンズークッシュ山脈から流れてくるヤルカンド川、そして南の崑崙山脈から流れてくるホータン川が合流し、タリム川になる。

 だが、何日か前に崑崙山脈に降ったという大雨で、なんとタリム川の大湿地帯は水びたしになっていた。なんということ。日本でいえば、中国山地に降った大雨で関東平野が水びたしになるようなものだ。
「何としても、このタリム川の大湿地帯を突破してやる!」
 とカソリ、必死の形相でCRを走らせ、大湿地帯を突破できそうなルートを探し求めたが、そのどれもが大湿地帯の水の中に消えていく。
 万事休す。
「タクラマカン砂漠縦断」を断念しなくてはならなかった。

 中国側スタッフはタクラマカン砂漠縦断は不可能なので、アクス周辺のタクラマカン砂漠を走りましょうと提案したが、カソリとしてはとても飲める案ではない。
「何がなんでもホータンまで行きたい!」
 という参加者全員の同意をとりつけると、「道祖神」の菊地さんに中国側との交渉をしてもらった。こういう場面での菊地さんは、滅法強い。
 強引に中国側のスタッフを口説き落とし、我々はタクラマカン砂漠の西半分を一周するルートでホータンに向かうことになった。

 とはいってもCRはなにしろ競技用のモトクロッサーなので、保安部品は一切、ない。
 そのようなバイクでホータンまでの1000キロの公道を走ろうというのだ。そのリスクを背負っての旅立ち。公安の検問所にさしかかるたびに、我々は冷や冷やしなくてはならなかった。
 天山山脈南麓の「天山南路」を走る。右手には天山山脈の山並みが長く、どこまでもつづいている。「天山南路」をカシュガルの手前で左に折れ、世界第2の高峰K2から流れてくるヤルカンド川沿いに走り、ヤルカンドの町で崑崙山脈北麓の「西域南道」に入っていく。

 ヤルカンド周辺のオアシス群を抜け出ると、「西域南道」の両側にはタクラマカン砂漠の砂丘地帯が茫々と広がっている。右手に連なっているはずの崑崙山脈は砂のベールに隠れ、まったく見えなかった。
 アクスを出発してから5日目、我ら「新疆軍団」は1000キロの公道をCRで走りきり、ホータン川の河畔のオアシス、ホータンに到着した。
 我々の宿となる「和田(ホータン)賓館」の玄関前でビールのビンごと持ち、ホータン到着を祝って乾杯した。

 ぼくはホータンで日本に帰る「新疆軍団」のみなさんを見送ったあと、CR250に乗り、さらにタクラマカン砂漠の旅をつづけた。ニッサンのピックアップに乗る新疆モーターサイクル協会の孫さんと運転手の人民解放軍の郭さん、トヨタのランドクルーザーに乗る達坂城旅行社の高さんと運転手の張さんの4人の中国人スタッフと一緒に、タクラマカン砂漠の東半分を一周するルートでウルムチへ。
 タクラマカン砂漠の一周を目指したのだ。

 崑崙山脈北麓のオアシス、ニヤでひと晩泊まり、チェルチェンに向かっているときのことだった。この区間でとんでもないアクシデントが勃発。なんとニッサンのピックアップが走行中に大音響とともに爆発し、運転席の真下から突然、火を噴いた。
 孫さんと郭さんはからくも火だるまになった車から飛び出したが、郭さんは腕にかなりの火傷を負った。

 火は荷台に積んだガソリンに引火し、車はあっというまに猛烈な炎に包まれた。全員で砂をかけて火を消したが、見るも無残な残骸だけがあとに残った。予備のバイクとして荷台にCR125を積んであったが、残ったのはフレームとギアだけ。エンジンはあとかたなく溶け、合金の固まりになっていた。両輪のリムも溶け、まるで紙くずが燃えたようにまったく跡形もなかった。
「あー、これでタクラマカン砂漠一周の夢も絶たれた…」
 と、カソリ、ガックリときた。もうこの難局は、突破のしようがないと観念した…。

 爆発現場をあとにし、ランドクルーザーと一緒にチェルチェンへ。
 日が暮れてからがなんとも辛い。まったく保安部品のないCRなので、当然のことだがヘッドライトもない。
 ランドクルーザーのライトを頼りに、その前を走ったが、真っ暗闇の中をライトなしで走る恐怖感といったらなかった。チェルチェンに到着したのは真夜中。グッタリだった。 翌朝、「カソリさん、予定通りにウルムチに行きますよ」と、中国人のスタッフのみなさんにいわれたときは心底、驚いた。いったいどうやっていくというのだ。
 とにかくみなさんにおまかせすることにしたが、ぼくは中国人スタッフたちの図太さには心を打たれた。

 朝食後、高さんはチェルチェンの町中をかけずりまわり、2サイクルオイルを手に入れた。信じられない。バイクなど1台も見ないようなタクラマカン砂漠のオアシスで、だ。 さらに新たなジェリカンをみつけ、予備のガソリンを確保した。こうしてCR250で走れるようにしてくれると、高さんは事故の後始末でチェルチェンに残るといった。

 すべての準備を整え、高さんに別れを告げ、チェルチェンを出発したのは午後になってからのことだった。目指すのはチャリクリク。チェルチェン→チャリクリク間は450キロ。
「西域南道」のダートが崑崙山脈に向かって一直線に延びている区間は圧巻だった。
 ちょうど夕暮れ時で、崑崙山脈の雪山は夕日を浴びて紅に染まっていた。崑崙山脈にぶち当たると、今度は山裾を走る。右手には崑崙山脈の山々、左手にはタクラマカン砂漠の大砂丘群。CRに乗りながらぼくはもう夢を見ているかのような気分だった。

 日が落ちると前夜同様、ライトなしで真夜中まで走ったが、それにも大分、慣れた。
 崑崙山脈北麓のチャリクリクからは天山山脈南麓のコルラへ。
 その間では砂漠に消えるタリム川の最先端部を見た。全長2000キロを超える砂漠の大河は最上流部が一番水量が多く、最下流部になると水がなくなり、砂漠に消える。こういう川も世界にはあるのだ。

 コルラからはトルファン経由でウルムチに戻った。ホータンから2000キロを走ってのウルムチ到着。「タクラマカン砂漠縦断」が「タクラマカン砂漠一周」になった。
「タクラマカン砂漠一周」を走ったことによって、ぼくはますますシルクロードに心ひかれた。
 いつの日か、古都、西安を出発点にして「天山南路」を走り、パミール高原を越え、
「イスタンブールまでバイクで走りたい!」
 と、新たな夢をみるのだった。

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カソリと走ろう! 第3回:「あわや遭難…の、モンゴル周遊」
 (『ゴーグル』2004年8月号 所収)

「生老病死」は誰もが避けて通れない人間の四大苦だ。
 ぼくは30代の後半になったときにいやというほど「老」を感じた。気力も体力もすっかり衰えてしまった自分を感じ、愕然とした。
「何とかしなくては…」
 40歳になるのと同時に、40リッターのビッグタンクを搭載したスズキSX200Rでサハラ砂漠を往復縦断した。自分の全精力を投入し、命を張ってサハラ砂漠を駆けまわったことによって、ぼくは新たな力を得た。
「これで大丈夫、これで40代を乗り切っていけるゾ!」
 という生きる自信を得たのだ。

 帰国するとすぐさま50㏄バイクでの「日本一周」&「世界一周」を計画し、1989年の8月17日を出発の日と決めた。
 出発直前のことだった。
 市から送られてきた1通の通知を見てまたもや愕然とした。
 その1ヵ月ほど前だろうか、「肺ガン検診」を受けたのだ。すっかり忘れていたが、その結果、精密検査を受けるようにとのこと。すぐさま近くの「坂間医院」に行くと、大きく伸ばしたレントゲン写真を見るなり先生は、「東海大学病院に行くように」と紹介状を書いてくれた。

 東海大学病院ではCTスキャンで肺の断層写真をとられ、それを見て呼吸器内科の先生は、
「かなり大きな腫瘍ができていますねえ。できるだけ早く手術したほうがいい」
 というではないか…。ぼくはそれを聞いて目の前が真っ暗になった。
「病」に徹底的に打ちのめされたような気分だった。
 かろうじて態勢を整えると、
「先生、実はこれからバイクで日本一周に出るのですよ。手術はそれを終えてからということにしてもらえませんか」
 と哀願した。
「いつ発症したのかわからないから、まあ、いいでしょう」
 先生はそういってくれたのだ。

 スズキ・ハスラーTS50での「日本一周」の毎日は暗いものだった。
「自分は肺ガンにやられた…。もう、そう長くは生きられない」
 と、勝手に思い込んでしまったからだ。
「日本一周」を終えるとすぐに、東海大学病院に行った。すると、うれしいことに肺の腫瘍はそのままの大きさだった。
 それをいいことに、
「先生、じつは来年はバイクで世界一周に出る予定なんです。手術はそれを終えてからでどうでしょうか」
 と恐る恐る聞いた。
 すると先生は、いともあっさり「いいでしょう」といってくれた。

 こうして2000年の7月から11月までの5ヵ月でアメリカのロサンゼルスを出発点にインドのカルカッタをゴールにして、同じTS50で「世界一周」の2万5000キロを走った。
「世界一周」を終えてすぐに東海大学病院に行くと、肺の腫瘍の大きさは、やはりほとんど変わっていなかった。それを見て先生は、手術はしばらくおいて定期的に経過を見ましょうといってくれた。
 それをいいことに、ぼくは定期的な検診をすっぽかし、逃げまくったのだ。
 8年近くも「病」から逃げつづけ、49歳になったとき、東海大学病院の人間ドッグに入った。当然のことだが、肺の腫瘍でひっかかった。
 そのときはすでにかなりの大きさになっていて、ついに逃げ切れられずに、肺の腫瘍の摘出手術を受けた。

 すごくラッキーだったのは肺本体の腫瘍ではなく、肺を覆う胸壁の腫瘍で、それが肺の中にめり込んでいた。ゆで玉子ぐらいの大きさの腫瘍だった。
 先生には「よくこれで苦しくなかったねえ」といわれた。
 さらに細胞検査の結果、悪性のものではなく良性の腫瘍だといわれた。これで、「肺ガン」の恐怖も去った。
 退院すると1日も早くバイクに乗りたい一心でリハビリに励んだ。思いっきり息を吸って管の中の玉を浮かす器具などは、朝から晩まで1日中、吸っていた。そのおかげで回復が抜群に早く、凹んだ肺もあっというまに元どおりになった。さすが「強運カソリ!」。

 バイクに乗れるような体になったところで「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズ第3弾の「モンゴル周遊」に出発。1997年8月2日のことだった。
 五体満足な体に戻り、またバイクに乗れるようになったことが、もう目茶苦茶にうれしかった。
 我ら「モンゴル軍団」のメンバー11名が乗るバイクはヤマハのセロー。
 首都のウランバートルを出発するとバイヤン峠を越えた。モンゴル語で峠は「ダワ」という。日本語にすごく似ている。峠には石が積み上げられている。それを「オボウ」という。旅の安全を祈って「オボウ」のまわりを3回、時計回りに回る。

 ウランバートルから南へ、大草原の中につづくダートを走る。草原の緑が目にしみる。その中には点々と牧畜民のゲル(テント)を見る。ヒツジやヤギ、ラクダ、馬などの家畜の群れも見る。やがて草原地帯からゴビ砂漠へと入っていった。
 ウランバートルを出発してから4日目には、南ゴビの中心地、ダランザドガドに到着。夜はそこから30キロほど走ったツーリスト・キャンプに泊まる。草原のゲルがひと晩の宿になる。南に連なるゆるやかな山並みの向こうは中国の内モンゴル自治区だ。
「あの山の向こうに行ってみたい!」                      
 という強烈な誘惑にかられた。

 ぼくは桜田雅幸さん、北川直樹さん、鰐淵渉さんと一緒のゲルに泊まった。
 我々は同じゲルなので、それ以降「ゲル友」になり、日本国内のキャンプでもその関係がつづいている。なにかというと「ゲル友」なのだ。
 その夜は「ゲル中宴会」。ほかのゲルのメンバーも呼んでモンゴルの馬乳酒とモンゴリアン・ウオッカの「チンギスハーン」を夜中まで飲みつづけた。翌朝は「ゲル前談義」。ゲルの前にイスを置いて座り、二日酔いの朦朧とする頭で、とりとめもない会話を楽しんだ。ぼくたちはすっかりゲルが気に入った。

 この南ゴビのツーリスト・キャンプから南西に向かって行くと、急速に緑は消え、遊牧民の姿も消え、荒涼とした砂漠の風景に変わっていく。
 我々はゴビ砂漠の核心部に入ったのだ。
 水の一滴も流れていない涸川を逆上り、岩山地帯の峠を越えると、前方にはうねうねと連なる大砂丘が見えてくる。東西に100キロ以上もつづくホンゴル砂丘だ。峠を下るとぐっと砂丘に近づいた。
 そのホンゴル砂丘の真下で昼食。砂の上にシートを広げ、そこでインドのサモサ風の、肉入り揚げパンといったモンゴル料理のホーショールを食べた。

 昼食後、高さが300メートル近くある砂丘に登った。ブーツを脱ぎ、裸足になったのだが、砂は焼け、まるで火の中に足を突っ込んでいるようなもの。
「アッチチー」
 早々に砂丘を登るのを断念した。そのかわりに「ゴビ砂漠温泉」だとばかりに裸になって「砂湯」をした。まあまあの気持ちよさ。

 ホンゴル砂丘の東端あたりが大きな難所だった。それまでたどってきた轍がプッツンと途切れてしまった…。
 我々のサポートカーのパジェロは強引に台地の斜面を下り、道なき道を走る。我々バイク軍団もそのあとをついて走る。フカフカの砂との戦いの連続。まるで「砂地獄」の中を行くようなものだ。砂と大格闘し、グルグルと走りまわり、気がつくと元の場所に戻っているではないか。
「ヤバイ!」
 ぼくは心底、不安を感じた。
 これが砂漠で遭難する一番多いパターン。こうしてワンダリングしているうちにガソリンがなくなり、遭難してしまうのだ。

 ぼくと同じように遭難の不安を感じたのは「道祖神」の菊地優さん。ぼくと菊地さんは参加者のみなさんに不安を感じさせないように平静を装った。
 我ら「モンゴル軍団」を先導するサポートカーにはモンゴルの旅行社ジュルチンのみなさんが乗っているが、ゴビ砂漠の最奥部といってもいいこのあたりには、誰一人、今までに来たことがない。彼らにといっても未知の世界だった。
 さらにこのあともワンダリングを繰り返し、遭難の不安は頂点に達したが、パジェロは一か八かの勝負に出て、今までとは別方向の台地の斜面を一気に駆け登った。すると、けっこうはきりとした轍に出た。このときは「助かった!」と、思わず声が出た。

「一難去ってまた一難」とは、まさにこのことだ。
 今度は湿地帯に入った。最初のうちは湿地の表面が乾き、幾何学模様の亀裂が入ったようなところで、バイクも車もまあまあ走れた。ところが轍が途切れたところでは、サポートカーのパジェロがズボッと泥土の中にもぐってしまった。全員で泥まみれになってネチネチの泥を堀り、車輪の下に枯れ木を何本も突っ込み、かろうじて脱出できた。
 ところが我々の後方からは真っ黒な雲が追ってくる。もし、ザーッと雨が降ってきたらもうお終いだ。にっちもさっちもいかなくなってしまう。またしても遭難の危機に見舞われた。
 我ら「モンゴル軍団」には2名の女性がいた。そのうちの1人、黒木道世さんは超能力を持っていて、指1本で雨雲を吹き飛ばせる人。ここはもう黒木さんに頼るしか方法はない。
「あの雨雲を吹き飛ばして下さい」
 と、頭を下げて頼んだ。
 この遭難の危機も黒木さんの超能力のおかげで突破できた。黒雲の流れはコースを大きく変えたのだ。

 その湿地というのは、我々が「東京23区大・湿地帯」と呼んだくらいの広大なもの。少しでも固そうな地面を探して道なき道を走り、日暮れが迫ったころ、ついに「東京23区大・湿地帯」を突破した。
「ここまで来ればもう大丈夫!」
 という台地上で止まり、そこでキャンプすることにした。
 全員で握手、握手の連続。我々は「助かった!」を口々に連発した。

 我ら「モンゴル軍団」はこうして2度の遭難の危機を突破し、モンゴル西部のバヤンホンゴルの町に着いた。そこからハンガイ山脈の峠を越え、ユーラシア大陸の広大な地域を支配した元の都のカラコルムを通り、首都のウランバートルに戻った。
 帰国するとすぐに、ぼくは50歳の誕生日を迎えた。「病」のせいで暗い40代だったが、もうそれともお別れ。「病」に勝ったぼくは、これからの50代も、ずっとバイクで走りつづけられると、そう確信するのだった。

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カソリと走ろう! 第4回:「チベットの聖山カイラスへ」
 (『ゴーグル』2004年9月号 所収)

 人生、「一寸先は闇」。
 何が起きるか、わからない…。
 前回の「モンゴル周遊」を終え、帰国してすぐにぼくは50代に突入したが、体力も気力も充実していた。
 9月には「東北一周」を走り、10月には九州の「峠越え」で50峠を越え、11月には「東京→富山→京都」間で58もの「日本一」を見てまわった。「日本一めぐり」のツーリング。12月に入ると吹雪の田代山林道を走り、奥会津で雪中キャンプをした。
 ということでカソリ、怖いものなし。パワー全開でバイクを走らせ、
「バイクは50になってからがおもしろい!」
 と、大口をたたいていた。

 ところがその年の暮れ、12月29日の未明に突然、心臓発作に見舞われた。
 何の前ぶれもなしに、急に苦しくなった。首を細ひもで締められているかのような息苦しさ。女房の車で我が家に近い東海大学病院の救命救急センターに運ばれた。
 心電図をとられると心臓停止の一歩手前だといわれた。脈拍は途切れ途切れで、1分間に30もない…。
 幸か不幸か、年末でベッドがとれず、入院できなかった。
 半日、待合室で待たされ、具合が大分よくなったとのことで家に帰された。
 何とも暗い気分で迎えた正月。もう最悪だ。人間、心臓をやられるとまったく動けなくなってしまう。家の階段を登るのが辛かった。

 新年早々、東海大学病院の循環器内科で心臓の検査がはじまった。病名は「発作性心房細動」。いろいろな検査を受けたが、心臓には何ら異常はなかった。2月に入ると、もう通院しなくてもいいといわれた。だが、体は元には戻らなかった。体が動かないのだ。
 バイクに乗れるようになったのは4月になってからだった。バイクに乗るようになってからというもの、急速に体が動くようになった。このときぼくは「バイクは最高の健康機器!」だと、確信した。

 しかし、心臓発作の後遺症は大きく、ひどい不整脈が残った。
 1日に2万回近くもの脈が抜けてしまうのだ。9月になると、再び東海大学病院の循環器内科に行った。すると心臓の動きを抑える薬を飲まされた。これを飲むと気分がすごくブルーになってしまう。それを3ヵ月以上も飲んだが、ちっともよくならない。すると先生は「薬を変えましょうね」といって、心臓の動きを活発にさせる薬に変えた。その薬を飲みはじめてからの恐怖感といったらない。まるで心臓がピョコンピョコン飛び跳ねるよう。
「これはヤバイ!」
 と、ぼくは自分の判断で薬を飲むのをやめた。

 それからまもなく、スズキDJEBEL250GPSバージョンで、1年遅れになった50代編の「日本一周」に旅立った。東京を出発してから13日目、四国の四万十川沿いを走っているときのことだった。信じられないことに、不整脈はピタリと治っていた。ぼくはますます「バイクは最高の健康機器!」だと確信した。医者でも治せない病気をバイクが治してくれたのだ。

 1999年の「日本一周」は「西日本編」と「東日本編」の2分割でまわった。
 その間の夏、8月1日に「同祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第4弾目、「聖山カイラス巡礼22日間」に出発した。
 カイラスはチベット第一の聖山だ。
 ネパールのカトマンズを経由し、チベットの中心、ラサに着いたのは8月3日。
 ラサではポタラ宮に隣り合った「航空酒家」に泊まった。チベット人ガイドの女性からは英語で
「今日は絶対にアルコールを飲まないで下さいね」
 と、念を押されたのにもかかわらず、ラサまで来た喜びで夕食後、
「もう、トゥデイ(今日)じゃなくてトゥナイト(今夜)だから、さー飲もう!」
 と、「チベット軍団」の10名のみなさんと「ラサビール」で乾杯。
 さらに次々と「ラサビール」をあけた。

 ラサは標高3650メートル。この高度で何本ものビールを飲んだせいで、翌日はすっかり高山病にやられてしまった。
 息苦しさや頭痛だけでなく、40度近い高熱まで出た。1回10元(約150円)の酸素を5回も吸ったが、息苦しくてほとんど寝られない。

 翌日、中国製125㏄のオフロードバイクにまたがり、我ら「チベット軍団」はポタラ宮前の広場を出発し、チベット第2の町、シガツェに向かった。その間は270キロ。ぼくの体調は最悪でウツラウツラ状態。フラフラになって走った。シガツェは標高3836メートルで富士山よりも高くなる。高山病はよけいにひどくなった。
 シガツェを出ると際限のないダートがつづく。シガツェを出てからわずか27キロ地点で、先頭を走っていたぼくは道のギャップがまったく目に入らず、ノーブレーキでそれに突っ込んだ。
 30メートルほど吹っ飛び、恐怖の顔面着地。しばらくは意識を失った。気がついたとき、最初はバイクでサハラ砂漠を走っているのではないかと思った。
「今、チベットに来ている」
 と、わかるまでには相当、時間がかかった。すぐにかけつけてくれたサポートのチベット人スタッフたちは、ぼくがピクリとも動かなかったので、
「カソリさんが死んだ…」と思ったそうだ。

 このあたりが、今までに何度も修羅場をくぐり抜けてきたカソリの強み。
 起き上がると、自分で自分の体を確かめる。首を強打したので、首はほとんどまわらない状態だったが、骨は折れていないと判断した。顔面血だらけだったが、これも口の中を切ったもので、そうたいしたことではない。顔面着地した瞬間に吹っ飛んだヘルメットのバイザーが絶好のクッションになってくれた。
 顔面を地面にたたきつけたとき、無意識に顔を護るために、右手で地面をついていた。 そのため右手首がみるみるうちに腫れてきたが、これも骨折はしていないとの判断を下した。
 バイクのダメージも大きかった。
 チベット人スタッフたちはグニャと曲がったフロントホークを外し、ジャッキを使って直したりして、短時間でなんとかまた乗れるような状態にしてくれた。ほんとうにチベット人スタッフの献身的な努力には感謝感激だ。

 ハンドルの曲がったバイクにまたがり、いきなり標高4950メートルのユロン峠を越える。この高度、この空気の薄さの中で、はたしてバイクが走ってくれるだろうか…と、大いに不安だったが、3速、もしくは2速でトコトコ峠を登っていくではないか。
 祈願旗のタルチョが舞う峠の頂上に着いたときは、我ら「チベット軍団」、最初の大きな難関を突破した喜びにひたった。
 ユロン峠を下ると、標高3951メートルのラチェの町。ラチェを過ぎ、ネパールへの道との分岐点を過ぎ、最後の町サガを過ぎると、最悪の道になる。何度、川渡りをしたことか。いや、川渡りなどというものではなく、大石がゴロゴロしている川の中をずっと走っていくような道だった。
 ぼくの右手は野球のグローブのように腫れ上がっているので、アクセルを握るのが苦痛だった。
 精も根も尽き果てたところで野宿。夜が恐怖だ。事故で全身を強打しているので、体の芯からズッキン、ズッキンと突き上げてくる猛烈な痛みで一睡もできない。
 おまけに首をやられているので寝返りも打てなかった。
 そんな体調で標高4000メートルから5000メートルのチベット高原に入っていった。

 ラサからはアジアの大河、ガンジス川の一方の流れ、ブラマプトラ川上流のヤルツァンポ川に沿って西へ、西へと走った。そのガンジス川水系の最後が標高5216メートルのマユム峠になる。ユロン峠から数えて16番目の峠だ。
 ヤルツァンポ川の流れに別れを告げ、マユム峠を目指して山の斜面の草原を駆け登っていく。曲がりくねった峠道を想像していたが、かなり直線的な峠道。
 標高5000メートルをはるかに超えた高地でも、チベット人は家畜のヤクとともに生きている。それは人間の強さをぼくに思い知らせるような感動的な光景だった。
 人間は5000メートルの高地でも、平気で生活できるのだ。マユム峠の頂上に着いたときは、「やったゼー!」と、大声で叫んでやった。

 マユム峠を下ると、何本かの渓流を渡ったが、なんと川面が真っ黒になるほどの魚影の濃さ。渓流魚がウジャウジャいるのだ。夕食のおかずにしようと、トラックが勢いをつけて往復しただけで、200匹近い魚が川面に浮いた。もう取り放題。信じられないような光景だ。2、3分で楽に2、30匹は取れた。これでは1日かけてイワナ数匹という日本の渓流釣り師は、チベット人に笑われてしまう。
 マユム峠から3つ目の峠、標高4660メートルのホルッシュ峠に立ったときも感動だった。まさに「絶景峠」。右手には聖山カイラスを遠望し、正面には神秘の湖、マナサロワール湖を見る。古来より、この湖こそ、アジアのすべての大河の源だと思われてきた。「自分は今、アジア大陸最奥の地にいる!」
 ホルッシュ峠ではそんな感動を味わった。

 ホルッシュ峠を下り、カイラス巡礼の村、タルチェンに到着。
 カイラスは仏教徒、ヒンズー教徒、ジャイナ教徒らにとっての聖山なので、チベット内はもとより、中国各地やネパール、インドなどから多くの巡礼者がこの地にやってくる。ここから南側に目を向けると、標高7694メートルのナムナニ峰や、標高7816メートルのナンダデビ峰といった7000メートル峰がまるでなだらかな丘のように見えた。 我ら「チベット軍団」はタルチェンからさらに20キロほど走り、カイラス山を間近に眺める地点でバイクを停めた。ラサを出発してから8日目、1281キロを走ってのカイラス到着だ。チベッタンブルーの抜けるような青空を背にした標高6656メートルのカイラス山の雪がまぶしいくらいに輝いていた。

 その夜、タルチェンに戻ると、参加者の堀内一さん、生田目明美さんに「さー、カソリさん、カイラス到着を祝ってガンガン、飲みましょう!」とビールをすすめられたが、ぼくは一滴も飲めなかった。2人はまったく高山病にはならなかったのだ。タルチェンからラサへの帰路も、相変わらずの高山病と事故の痛みとで、なんとも辛いものだった…。
 命からがらラサに戻ってきたときは、きっといつの日か、リベンジの「チベット横断」をしようと、固く心に誓うカソリだった。

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カソリと走ろう! 第5回:「サハリン縦断」
 (『ゴーグル』2004年10月号 所収)

 2000年8月1日、スズキDJEBEL250GPSバージョンとともに、神奈川県伊勢原市の自宅前に立ったときは、ぼくは体がゾクゾクッと震えるほど興奮した。
 それは「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第5弾、「サハリン縦断」出発の朝のことだった。
 ぼくは今までに世界の6大陸、130ヵ国をバイクで駆けめぐってきたが、いつも悔しい思いをしてきた。それは島国・日本のハンデに対しての悔しさだった。

 たとえばヨーロッパ人ライダーたちは、自宅前をバイクで出発すると、まるで国内ツーリングに出かけるかのような気軽さでジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸へ、またはボスポラス海峡を渡ってアジア大陸へと入っていく。
 ところが我ら日本人ライダーは、バイクとともに海の向こうの世界に渡るのは大変なことなのだ。
 だが、ついに、その厚い壁を突破するときがやって来た。
「サハリン縦断」は参加者各人のバイクで走るというもので、稚内に集合し、そのままフェリーにバイクを積んでサハリンに渡るというもの。まさに自宅前から愛車で走り出し、そのまま海を越えて異国へと渡っていくのだ。なんと画期的なことか!

 東京から青森までは林道をつないで走った。川俣檜枝岐林道を皮切りに、全部で8本の林道、ダート202キロを走って青森に到着した。青森ではちょうど「ねぶた」の最中。ぼくも「ラッセラー ラッセッラー」と、クタクタになるまで踊った。いや、跳ねた。
 北海道に渡ると、函館から根室までは太平洋岸のルートを走った。濃霧の納沙布岬に立ったあと、花咲漁港では港前の店で熱湯でゆで上げた花咲ガニを貪り食った。超ウマ!
 根室からは知床半島をまわり、オホーツク海沿いに走り、宗谷岬へ。宗谷海峡の水平線上に霞むサハリンを見たときは、
「待ってろよ! すぐに行くからな!!」
 という気分だった。

 東京を発ってから8日目、2800キロを走って稚内に到着した。
 その夜は、一緒にサハリンを走る19名の「サハリン軍団」のみなさんと稚内の森林公園キャンプ場で、飲めや飲めやの大宴会。夜中過ぎまで飲みつづけたが、大宴会がお開きになったときはもう、足腰が立たないくらいのフラフラ状態だった。
 翌8月9日、稚内港での出国手続き。パスポートに「WAKKANAI」の出国印を押されたときは感動もの。ここでも厚い壁を突破した気分を味わった。

 東日本海フェリーの「アインス宗谷」(2628トン)にバイクを積み込み、乗船。午前10時、船が岸壁を離れると缶ビールの自販機の値段が変わる。税金がかからなくなるので、1本100円で飲めるようになる。その100円ビールを飲みながら、離れゆく稚内を眺めた。
 右手にはノシャップ岬。灯台がよく見える。その背後には利尻富士。左手には宗谷岬へとつづく海岸線。雲ひとつないすばらしい天気で、宗谷海峡の海は快晴の空を映し、より青かった。前の日に宗谷岬で見た宗谷海峡。それを「今、渡っている!」と思うと、ものすごい感動がこみあげてくる。
 あまりの感動に100円ビールをたてつづけに飲み干した。

 やがて前方にサハリン最南端のクリリオン岬が見えてくる。サハリンの島影は次第にはっきりしてくる。そんなサハリンを見ながらコルサコフ港へ。
 稚内港から5時間30分の船旅でコルサコフ港に到着。日本時間では午後3時30分だが、日本とサハリンの間には2時間の時差があるので、現地時間では午後5時30分だった。
 この「稚内-コルサコフ」の航路は戦前の日本の北への動脈「稚泊航路」に相当する。コルサコフは戦前の日本領時代には「大泊」だった。

 コルサコフ港での入国手続きは、なにしろバイクの持ち込みがあるので、「どうなることやら…」と、けっこう不安だった。足止めを食らう覚悟でいた。が、このあたりが「道祖神」のすごさ。菊地さんは札幌に本拠を置く「ポーラスタージャパン」の杉山さんと頻繁に連絡を取り合い、現地の子会社「ユーラシアインタートランス」が事前に万全の手配をしておいてくれたおかげで、至極、簡単なものだった。
 さらに驚いたことには、我ら「サハリン軍団」がコルサコフ港に上陸すると、サハリン警察のパトカーが我々を待ってくれていた。州都のユジノサハリンスクまでの40キロは赤青灯を点滅させたパトカーの先導つき。前に2台、後に1台と、まるでVIP待遇。

 8月10日午前9時、ユジノサハリンスクを出発。これから先、全行程をパトカーが先導してくれるという。郡単位で警察の管轄が変わるので、郡境で次のパトカーが待っているというリレー方式だ。ユジノサハリンスク交通警察の警官、ジマさんがサポートカーの運転手のボロージャさん、ガイドのワリリさんとともに、全行程を同行してくれる。
 ユジノサハリンスクの市街地を抜け出ると、北海道をさらに広くしたようなサハリンの大地が広がる。ぼくが先頭を走り、そのあとに18台のバイクがつづく。バックミラーをのぞき込むと、一列になったバイクが長い、長い線を描いている。

 オホーツク海の砂浜に出たところで昼食。若干、酸味のあるロシアの黒パンにチーズ、ハム、チキン。北海道へとつづく海を眺めながらの食事は感動もの。
「つい、何日か前には同じ海の北海道側を走っていたのだ…」
 と思うと、何か、すごく不思議な気分になってくる。
 ユジノサハリンスクから100キロほど北にいくと、舗装は途切れ、ダートに入っていく。先導のパトカーの巻き上げる土煙りがものすごい。あっというまにぼくもバイクも埃まみれだ。
 その夜はユジノサハリンスクから300キロ北のポロナイスクに泊まり、翌日、憧れの北緯50度線を越えた。
 かつての日本とロシアの国境の北緯50度線を越え、北サハリンに入ると、真夏だというのにバイクで切る風は冷たさを増す。そこはツンドラの世界。
 夏のツンドラはただの草原にしか見えないが、バイクを停め、一歩その中に入ると、ズボズボッともぐってしまう。水を吸ったスポンジの上を歩いているようだ。

 ティモフスク、ノグリキと泊まり、サハリン最北の町、オハまでやってきた。
 この町はサハリン沖の海底油田開発の拠点になっている。石油関連の工場や施設、ガスを燃やす炎を噴き上げる製油所などが「石油の町オハ」を強く感じさせた。
 サハリンの道はオハからさらに北につづく。
 シュミット半島に入り、コリンドという小さい町を通り、オハから80キロ行った地点で尽きた。コルサコフから1085キロ。そこからは夕日を浴びた丘陵地帯の向こうに、サハリン最北端のエリザベート岬が見える。右手の海はオホーツク海、左手の海はダタール(間宮)海峡だ。我ら「サハリン軍団」はサハリン最北端の岬に向かって万歳し、
「ハラショー(すばらしいの意味)!」と何度も絶叫。
 はるか遠くのエリザベート岬を見ていると、「もっと北へ、もっと、もっと北へ」という衝動にかられてならなかった。

 ぼくは今までに世界の130ヵ国を駆けめぐってきたといったが、バイクでまわるのが一番難しいのは日本の近隣諸国の東アジアである。日本からは韓国、中国、台湾にフェリーが出ているが、そのどれにもバイクは乗せられない。ほとんど不可能といってもいい。日本から大勢の観光客がこれらの国々に押しかけているが、バイクでまわるとなると、まったく事情が違ってくる。
 唯一、「サハリン縦断」の稚内からサハリンのコルサコフへ、新潟、伏木(富山)から沿海州のウラジオストックへと、近年、ロシアへのフェリーには乗せられるようになっている。だがそれも、そう簡単なことではない。

 ぼくは20代のころはアフリカを中心に世界をまわったが、日本の近隣諸国はいつでもまわれるという頭があったので「東アジア」はあとまわしになった。東アジアがあとまわしになったもうひとつの理由というのが、これらの地域にはバイクだときわめて行きにくいという事情があったからである。
「よーし、今だ!」
 と、その気になったのは2000年になってからのこと。今が東アジアをまわるときだと自分の血の流れに熱いものを感じ、「サハリン縦断」を実現させた。初めてアフリカをまわったときから30年以上がたっていた。

「サハリン縦断」から戻るととすぐに、9月には同じDJEBEL250GPSバージョンで東京から下関まで走り、関釜フェリーで釜山へ。釜山を拠点に「韓国一周3000キロ」を走った。韓国政府から特別な許可を得ての「韓国一周3000キロ」だった。
 2001年にはBMWのR1150RTの新車で、朝鮮半島の南北分断後では初となるソウル発の「北朝鮮ツーリング」を成しとげた。
 2002年にはスズキDR-Z400Sでウラジオストックを出発点にし、中国国境スレスレに走ってシベリアを横断し、欧亜を分けるウラル山脈を越え、ヨーロッパ最西端ポルトガルのロカ岬までの「ユーラシア大陸横断1万5000キロ」を走った。
 2003年には中国製のスズキGS125で中国・東北部(旧満州)の瀋陽を出発点にし、鴨緑江河口の丹東から図們江(朝鮮名 豆満江)の河口まで、中国・北朝鮮国境を走った。その途中では中国・北朝鮮国境の聖山、長白山(朝鮮名 白頭山)に登り、山頂に立った。
 2004年には、やはり瀋陽を出発点にし、旧満州の中国・東北地方を一周した。

 あとまわしになった「東アジア」へのぼくの想いには、ものすごく熱いものがある。
「サハリン縦断」で国境の厚い壁をぶち破ったことによって2000年は、ぼくにとってまさに「東アジア元年」になったのである。

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カソリと走ろう! 第6回:「キャニング・ストックルート走破」
 (『ゴーグル』2004年11月号 所収)

 バイクでの北極点、南極点到達という偉業を成しとげた風間深志さんと甲州から信州にかけての林道を走ったのは、今から30年以上も前のことになる。カソリ28歳、カザマ25歳のときのことだった。
 当時、風間さんは『月刊オートバイ』誌の編集部員だった。ぼくは『月刊オートバイ』誌では、「峠越え」の連載をさせてもらっていた。
「カソリさんがどんな風に峠越えをしているのか、見てみたいんだよ」
 という風間さんのひと言で同行取材ということになった。

 季節は晩秋。甲州から信州に抜ける峰越林道には雪が積もっていた。
 そこではステーン、ステーンと転倒するシーンを風間さんに写真にとられた。
 その夜は甲州の山間の温泉、増富温泉で泊まった。湯上がりのビールを飲みながら、話のボルテージをどんどんと上げ、
「バイクでアフリカ大陸の最高峰、キリマンジャロに登ろう!」
 ということになった。2人ともバイクに夢中だった。

 それから5年後の1980年、我々は甲州の温泉宿での夢物語をついに実現させ、忠さんこと鈴木忠男さんをも巻き込んで「チーム・キリマンジャロ」を結成し、3台のホンダXR200でキリマンジャロに挑戦した。風間さんはキリマンジャロと引き換えに会社を辞めなくてはならなかった。
 風間さんにとってはまさに人生をかけたキリマンジャロになったのだ。

「キリマンジャロ挑戦」では残念ながら頂上は極められなかったが、それが引き金になって、カソリ&カザマは今度は「チーム・ホライゾン(地平線)」を結成。
 2台のスズキDR500で1982年、第4回「パリ・ダカール・ラリー」に参戦。日本人ライダーとしては、初めての参戦ということになる。ぼくは大会9日目、あともう少しでサハラ砂漠を抜け出るという地点で夜間、4輪と競っているときに100キロ以上の速度のまま、ノーブレーキで立木に激突。レスキューのジェット機でフランスのパリの病院に運ばれた。風間さんはサポートのまったくないまま完走し、堂々、総合で18位という成績を収めた。
「パリ・ダカール・ラリー」では九死に一生を得たが、事故から8ヵ月後にまたバイクに乗れるようになったときのうれしさといったらなかった。
 そのうれしさをバネにして、さっそく風間さんと「カソリ&カザマ」の第3弾目のアドベンチャー計画をつくりあげた。それが「キャニング・ストックルート走破計画」だ。

 オーストラリア西部の「キャニング・ストックルート」は世界最長ダートとして知られている。ぼくは1973年から74年にかけて世界の6大陸を駆けめぐったが、その途中オーストラリアではヒッチハイクとバイクで大陸を2周した。そのときに「キャニング・ストックルート」の存在を知った。
 全長1800キロ、その間では全部で1000近い砂丘を越えるという。途中には町も村もないので、水や食料、ガソリンなどすべてを持って走らなくてはならないという。それを聞いたとき、ぼくの心の中にひそむ冒険心がメラメラと燃え上がり、
「いつの日か、きっとやってやる!」
 と思ったものだ。

 カソリ&カザマの「キャニング・ストックルート走破計画」は1983年6月の実現を目指した。ところが我々のこの計画にテレビがからむようになってからというもの、話が急におかしくなった。そして、後味の悪さを残して我々の「キャニング・ストックルート計画」はポシャてしまったのだ…。

 それから13年後の1996年、ぼくはスズキDJEBEL250XCでオーストラリアを2周した。7万2000キロを走り、その間では20数本、1万3000キロのダートも走破した。このときに「キャニング・ストックルート」も走破したかった…。
 ぼくの考えついたのは「ハロー、マイフレンド!」作戦。キャニング・ストックルート南側入口のウィルナに着いたらキャラバンパーク(キャンプ場)に行き、キャニング・ストックルートに入っていく四駆に「ハロー、マイフレンド!」と声をかけ、彼らと親しくなり、彼らの車にガソリン、水、食料を積んでもらって一緒に走ろうという作戦だった。 ところがウィルナに着いたのは10月も中旬のことで、すでに夏が近づき、キャニング・ストックルートに入っていく車など1台もなかった。
 キャラバンパークのおばちゃんには「1ヵ月、遅かったわね」といわれてしまった。

 だが、そのくらいのことで諦めないのが、チャレンジャー・カソリ。すぐさまキャニング・ストックルートの詳細な地図を広げ、単独で走破するプランを練った。
 DJEBELの17リッタータンクを満タンにし、さらに、2リッター、3リッター、10リッター、20リッターの4つの予備ガソリン用のポリタンを満タンにすると、全部で52リッターになる。燃費を1リッター25キロで計算すると1300キロ走れる。
 これでは全コースを走破できないので、コースのほぼ中間点で大鉄鉱山のあるニューマンに抜け、そこで給油する。これだと1200キロ、1200キロの合計2400キロで「キャニング・ルート走破」を成しとげられる。
 しかし…、
「もし、失敗したら…」
 という恐怖感が大きなプレッシャーになり、ぼくはウィルナからキャニング・ストックルートに入っていくことができなかった。
 失敗は即、死を意味するからだ。

 ぼくにとってはじつに30年にも及ぶ長年の懸案だった「キャニング・ストックルート走破」だが、ついにそれを実現させるときがきた。
「道祖神」のバイクツアー「カソリと走ろう!」シリーズの第6弾目でキャニング・ストックルートを走ることになったのだ。
「キャニング軍団」の6人の参加者のみなさんと2001年8月2日、西オーストラリアのパースに飛び、さらにパースの北、1000キロのウィルナに飛んだ。ウィルナの空港には我々をサポートしてくれるブライアンら、キャニング・ストックルートを知り尽くしている現地の面々が出迎えてくれた。
 その夜はなつかしのウィルナのキャラバンパークでのキャンプ。夕食はブライアンが焼いてくれたぶ厚いステーキ。
 我ら「キャニング軍団」はステーキにかぶりつきながら「キャニング・ストックルート走破」への期待に胸を弾ませた。

 翌8月4日、いよいよ出発。バイクはヤマハTTR250が6台とセローが1台。腕自慢のツワモノぞろいの「キャンニング軍団」なので、誰一人、セローに乗りたくはない。やむなくセローはカソリ用ということになったが、結論から先にいうと、セローは想像以上に連続する砂丘越えをよく走ってくれた。
 ウィルナを出ると幅広の高速ダート。我ら「キャニング軍団」はトップスピードで砂塵を巻き上げて走る。先頭をブライアンのバイクが走り、そのあとを我々の7台のバイクがつづき、バイクの後ろには2台のサポート用のランドクルーザーが走った。
 その幅広のダートからわずかに入ったところに「WELL1」がある。「WELL」とは井戸のことで、まさにキャニング・ストックルートのキーワード。ルート沿いには全部で51の井戸があり、それぞれに1から51までのナンバーがついている。

 幅広の高速ダートから道幅の狭い曲がりくねったダートに入っていく。
 その入口には「キャニング・ストックルート」の案内板。道の両側からは樹木が覆いかぶさってくる。路面はマッドあり、ロックあり、サンドありで、我らオフロード・フリークをおおいに楽しませてくれるが、ときどきカンガルーが飛び出してくるのが要注意。
 第1日目は「WELL6」まで走り、そこでキャンプした。
 第2日目になると路面の砂が多くなり、何度となくバランスを崩し、あわや転倒という場面がたびたびだ。そしてキャニング・ストックルート特有の本格的な砂丘越えがはじまった。目の底に強烈に残るほどの真っ赤な砂丘が連続する。
 この砂丘越えで辛いのは、砂丘に対して直角に入っていけないこと。轍は砂丘と平行していて、砂丘のてっぺん近くでキューッと曲がっている。そのためスピードをのせにくいのだ。砂丘をひとつ越えるごとに体力を激しく消耗する。

 ウィルナを出てから7日目、1029キロを走り、カラワジに到着した。ここにはなんとガソリンスタンドができ、食料品も買えるストアも併設されているではないか。
 全行程、まったくガソリンや食料を補給できないキャニング・ストックルートにとっては大きな変化だ。
 我ら「キャニング軍団」はここで大ショックを受ける。
 カラワジの北で塩湖を横切るが、何日か前に降った大雨で塩湖は満々と水をたたえ、四国ぐらいの大きさになっているという。残念無念…。
 もうそれ以上、キャニング・ストックルートを走るのは不可能だとのこと。

 我々は「キドソン・トラック」という600キロほどのダート経由で国道1号に出た。 ウィルナから1626キロの連続ダートを走って国道1号のアスファルトに立ったときは感動した。最後は「ギブリバーロード」の約600キロのダートを走り、ウィルナを出てから12日目にオーストラリア北部のクヌヌラにゴールした。
「ウィルナ→クヌヌラ」間は2924キロ。そのうちダートは2218キロ。
 ぼくたちはわずか2週間で10年分ぐらいのダート距離を走ったのだった。

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カソリと走ろう! 第7回:「ユーラシア大陸横断」
 (『バックオフ』2002年10月号 所収)

 2001年の夏、ぼくはモデルチェンジしたスズキDR-Z400Sを試乗した。
 試乗を終えたとき、大陸横断への夢にかられ、
「よーし、このDR400でユーラシア大陸を横断しよう!」と本気でそう思った。
 人間は思い込みが肝心だ。
 そう思ったとたんに、抜群のタイミングで、「道祖神」の菊地優さんから、
「カソリさん、シベリア経由でユーラシア大陸横断をやりましょうよ!」
 という電話をもらった。

 こうして「道祖神」主催のバイクツアー、「カソリと走ろう」シリーズの第7弾は、シベリア経由の「ユーラシア大陸横断」に決まったのだ。
 富山県の伏木港から船でロシアのウラジオストクに渡り、そこからシベリアを横断し、ウラル山脈を越え、ヨーロッパ最西端のロカ岬まで、全行程1万5000キロ。
 世界でも例を見ない史上空前のバイクツアーに参加した16人の「ユーラシア軍団」の面々が、2002年6月28日、伏木港に集結した。
 目指すのはロカ岬!
 我ら「ユーラシア軍団」の最年長は65歳の佐藤賢次さん、最年少は20代の本岡賀生里さん。本岡さんは唯一の女性の参加者だ。

 ロシア船「ルーシ号」でウラジオストクに渡り、7月2日、出発。
 シベリア横断の旅がはじまった。
「ユーラシア軍団」の17台のバイクには、サポートカーが1台ついた。それには道祖神の菊地さんとメカニックの小島務さん、それとロシア人通訳が乗った。
 ウラジオストクから770キロ北のハバロフスクまでは幹線国道のM60。交通量も多い。
 シベリアの大河、アムール河畔の都市、ハバロフスクを過ぎると、幹線国道はプッツンと途切れ、マイナーなルートになってしまう。おまけに豪雨。ビロビジャンという町では濁流が渦巻き、町中で川渡りをした。
 ビロビジャンを過ぎると、ダートに突入。ツルツル滑る路面だったが、さすが大陸のダート、荒野をズバーッと突き抜けているので高速で突っ走った。
 100キロのダートを走りきり、23時にオブルチェ着。クタクタになってたどり着いたオブルチェのホテルは一滴も水が出なかった‥。

 翌日は中国国境の町、ブラゴベシチェンスクに向かう。そこまで約400キロ。そのうち100キロがダート。
 降りつづく雨の中、前日同様、ツルツルのダートをひた走る。コーナーが怖い‥。
 ノボブレスキーという町を過ぎ、舗装路に変わったときはホッした。 
 ブラゴベシチェンスクはアムール川に面している。対岸は中国の黒河(ホイヘ)の町。このブラゴベシチェンスク駅でバイクと車を列車に積んだ。チタまでの約1000キロ、道らしい道がないからだ。
 ブラゴベシチェンスクからシベリア鉄道本線のベロゴロスク駅までの列車がよかった。ツンドラの大湿地帯やポプラの防雪林、シラカバ林などを見る。
 ベロゴロスク駅からチタ駅までの間では、シベリア鉄道沿いのダートを目をこらして見つづけた。雨がつづくときつそうだが、道の状態とガソリンの問題をクリアできれば十分に走りきれそうな道に見えた。
 途中のスコウォロディーノ駅では、特別な感慨に襲われた。この町からはヤクーツクを経由し、はるか遠い、カムチャッカ半島にも近いオホーツク海の港町、マガダンに通じるM56が出ているのだ。
「またいつか、シベリアを走りたい!」
そのときはハバロフク→チタ間とスコウォロディーノ→マガダン間を走ってみたい。

 チタからイルクーツクへ、M55を走る。
 ゆるやかな峠を越える。この峠はオホーツク海に流れ出るアムール川と北極海に流れ出るエニセイ川の水系を分ける分水嶺。海からはるかに遠いシベリアの内陸地だが、海が変わった。ここからはウラル山脈を越えるまで、ずっと北極海とつながった世界を行く。
 峠を越えると、はてしなくつづくタイガ(針葉樹)。
 チタから330キロのヒロックで泊まったが、鉄道大好き人間のぼくはシベリア鉄道のヒロック駅に行った。駅構内には木材専用列車、石炭専用列車、コンテナ専用列車など貨物列車が5本も停車していた。そのどれもが60両以上の長い編成。駅前を流れるヒロック川では、大勢の人たちが水遊びをしていた。短いシベリアの夏を謳歌しているようだった。
 このヒロック川はモンゴルから流れてくるセレンゲ川に合流しバイカル湖に流れ込む。バイカル湖から流れ出る唯一の川がアンガラ川。それがエニセイ川の本流と合流し、北極海へ。エニセイ川は全長4130キロの大河だ。

 ヒロックからモンゴル国境に近いウランウデへ。タイガから大草原へと風景が変わる。緑一色の大草原、黄色い花、白い花の咲く大草原、これはすべて牧草地。あまりの風景の大きさに圧倒されてしまう。
 ウランウデからイルクーツクへ。
 その途中でバイカル湖を見た。海と変わらない大きさ。見渡す限りの水平線。M55を外れ湖岸へ。波が押し寄せている。
 こうして7月10日の夕刻、ウラジオストクから2700キロ走り、イルクーツクに到着した。
“シベリアのパリ”ともいわれるイルクーツクの町を歩いた。歴史を感じさせる町だ。アンガラ川の川岸に立つオベリスク。「郷土史博物館」を見学したが、シベリアに住む少数民族の生活用具の展示に目がいった。

 イルクーツクからはM53を西へ。サヤンスクでひと晩泊まり、シベリア有数の都市、クラスノヤルスクに向かった。
 その途中でダート国道に突入。道幅は広い。モウモウと土煙を巻き上げて走るトラックやバス、乗用車とすれ違う。路面の状態はまあまあで、フラットダートなので高速で走れた。ダート区間は何区間かあり、ダートの合計は約80キロ。
「ウラジオストクク→モスクワ」間で唯一のダート国道だった。
 クラスノヤルスクに到着。エニセイ川の本流に面している。北極海からは3000キロ近くも内陸に入っているのに、エニセイ川の川幅は1キロ以上もあり、堂々とした大河の風格だ。
 クラスノヤルスクからシベリア最大の都市、ノボシビルスクに向かうとすぐに、ゆるやかな峠を越える。その峠がエニセイ川とオビ川の水系を分ける分水嶺の峠。オビ川もやはり北極海に流れ出る川で、全長は3680キロ。
 シベリアにはオホーツク海に流れ出るアムール川(全長4353キロ)、北極海に流れ出る3本の川、レナ川(全長4270キロ)、エニセイ川、オビ川という四大河川があるが、こうしてシベリアを横断し、シベリアの大河に出会うたびに、
「今度はシベリア大河紀行をしてみたい!」
 という新たな思いにとらわれた。
 川船に乗れば、シベリアの相当、奥地にまで行けそうだ‥。

 オビ川の本流に面したノボシビルスクに到着。ここで見るオビ川も川幅は1キロ以上ある。遊覧船に乗り、オビ川の船旅を楽しんだ。
 ノボシビルスクからはM51でオムスクに向かった。この51はカザフスタンのペトロパウルを経由してウラル山脈の麓の町、チェラビンスクまで通じている。
 その途中ではヤマハの1200㏄、ロイヤルスターでシベリア横断中の吉田滋さんに出会った。なんという偶然‥。
 吉田さんは1966年から68年にかけてヤマハのYDSで「世界一周」した方。そのときぼくは20歳。「アフリカ一周」に出発する直前だった。20以上もの質問事項をノートに書いて、それを持って帰国早々の吉田さんにお会いした。吉田さんはていねいにひとつづつの質問に答えてくれた。当時はバイクでの海外ツーリングの情報が皆無に近かった時代だった。吉田さんに教えてもらったことは「アフリカ一周」にどれだけ役立ったことか。吉田さんは30数年も前のそんな出会いをはっきりとおぼえていてくれたのだ。

 吉田さんは大学を卒業するのと同時に「世界一周」に旅立ち、3年あまりの旅を終えるとすぐにヤマハに入社した。ヤマハ一筋で定年退職すると、今回のシベリア横断ルートでの「世界一周」に旅だった。ウラジオストクを出発点にシベリアを横断し、モスクワからはサンクトペテルブルグへ、そしてフィンランドのヘルシンキに向かう。
 吉田さんは30数年前の「世界一周」のときにヘルシンキまで行ったが、モスクワまで走ることができずに悔しい思いをした。その悔しさを今、はらそうとしているのだ。
 そんな話を聞いてぼくは胸がジーンとしてしまう。吉田さんはヨーロッパからアメリカに渡り、アメリカを横断して2度目の「世界一周」を達成させたいという。20代のときと60代のときの「世界一周」。吉田さんと固い握手をかわして別れた。

 オムスクに向かっていくと、カザフスタンの国境近くを通る。南からの熱風に吹かれ、地平線までつづく大草原を見ていると、カザフスタンなどの中央アジアの国々に無性に行ってみたくなる。
 チェラビンスクからはM5でウラル山脈に向かっていく。アジア側最後の町ミアスまで来ると、ウラル山脈のゆるやかな山並みがはっきりと見えてくる。峠を目指して登っていく。直線の長い峠道。チェラビンスクから124キロ地点で峠に到達。
 そこにはアジアとヨーロッパを分ける碑が建っていた。境の1本の線をまたぎ、
「こっちがアジア、こっちがヨーロッパ」
 と、気宇壮大な気分に浸るカソリだった。

 7月25日、モスクワに到着した。
 ウラジオストクからは8652キロ、列車の1000キロを加えると9600キロになる。モスクワからはM1で国境を越えベラルーシ経由でポーランドに入った。
 ポーランドの首都ワルシャワに着いたときは「ヤッター!」と思わずガッツポーズだ。 1990年、ぼくはスズキ・ハスラーTS50で「世界一周」した。そのときはドイツのベルリンからワルシャワまで来た。
 ここではるか東方のモスクワに思いを馳せ、
「いつの日かモスクワまで走ろう!」
 という夢を抱いて南下したのだ。
 その夢を今はたした!
 当時は“激動の東欧”といわれた時代。社会主義体制が崩壊し、ワルシャワの町のあちこちに、露天のフリーマーケットができていた。それも今は昔。わずか10年ほど前のこととは思えないほど、ワルシャワの町にはモノがあふれていた。車も新車が目立った。

 ポーランドからドイツに入って驚かされたのは、統一通貨のユーロが誕生によって、時代が大きく変わったということ。ヨーロッパがひとつの国になったかのような印象を受けた。金の力はすごい‥。
 ドイツ→フランス→スペインと、ヨーロッパ最西端、ポルトガルのロカ岬を目指し、ドイツのアウトバーン、フランスのオートルート、スペインのアウトピスタと、ヨーロッパの高速道路を走りつないだ。
 すごいのはやはりドイツのアウトバーン。制限区間以外は速度無制限。DRのアクセル全開で150キロから160キロ走行をしても、左側車線から簡単にピューンと追い抜かれる。間違いなく時速200キロ以上の走行だ。
 スペインからポルトガルに入ったところで大西洋を見た。
 ウラジストクで見た日本海以来の海。1万3000キロ以上も走ってやっと海に出た。あらためて「ユーラシア大陸横断」のすごさを思い知らされるのだった。

 8月11日15時、我ら「ユーラシア軍団」の憧れの地、ロカ岬に到達した。
 ウラジオストクを出発して41日目。1万4001キロ走ってのロカ岬。シベリア鉄道の1000キロをプラスすればちょうど1万5000キロになる。
 シベリア横断の苦しい最中でも、我ら「ユーラシア軍団」の面々は「ロカ岬」を合言葉に耐えてきた。
「ユーラシア軍団」の1人残らず1台残らず、全員が、全車がロカ岬に立ててぼくは神に感謝したい気持ちで一杯だった。
「ユーラシア大陸横断」は最高におもしろい大陸横断ルート。
 そのゴールに到達してぼくの気持ちは高揚した。
 夢がふくらむ。
 次の「ユーラシア大陸横断」に思いを馳せる。
 次回は中央アジア経由の「東京→ロンドンだ!」とロカ岬で叫ぶカソリだった。


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管理人コメント:
スゲーの一言。
で、ここでダイジェスト風にまとめられた旅の詳細が、別カテゴリで連載風になっております「ユーラシア横断」になります。続きをお楽しみに!

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カソリと走ろう! 第8回:「アラスカ縦断」
 (『バックオフ』2003年10月号 所収)

「極北の世界」は我が憧れの地。ついにその、北の大地を走るときがやってきた。
「アラスカ軍団」の面々とともにアラスカ最大の都市、アンカレッジを出発。北米大陸の最高峰、マッキンリー山を眺めながら北へ、北へと白夜の荒野を走りつづけ、北極圏に突入。極北のブルックス山脈の峠を越えると、前方には、広大なツンドラ地帯が広がっていた。目指すは最北のプルドーベイ。
「北極海見た~い!」

 2003年7月19日午前10時、「アラスカ軍団」の面々は、アラスカ最大の都市、アンカレッジに集合した。「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズ第8弾目の「アラスカ縦断」に参加されたみなさんだ。
 最年長の佐藤賢次さんは1937年生まれ。前年の「ユーラシア横断」のメンバー。佐藤さんは年をまったく感じさせない豪快な走りをする。
 同じく石井敬さん、新保一晃さんも「ユーラシア大陸横断1万5000キロ」を走った仲間。間野俊晃さんとは世界最長ダート「キャニングストックルート」と「サハリン」を走っている。藤元隆憲さんとは「サハリン」、北川直樹さんとは「オーストラリ」と「モンゴル」を走っている。
 さらにうれしいことに我ら「アラスカ軍団」には美人が2人。
 高橋香里さんは昨年、ハレーで「アメリカ横断」5600キロを走ったツワモノ。菊池佐知さんは昨年の「ユーラシア横断」のメンバー、菊池久さんの奥さんだ。それと「道祖神」の菊地優さん。以上、10名のメンバー!

 我ら「アラスカ軍団」のバイクはカワサキのKLR650とBMW650。それと「道祖神」の菊地さんの運転するニッサンのピックアップ。菊池佐知さんは菊地優さんのサポート役として車に同乗する。
 いよいよ出発。ぼくはKLR650に乗る。
 アンカレッジから北に延びるアラスカ州道3号でフェアーバンクスへ。
 この季節としては珍しい快晴で、空には一片の雲もない。
 第1夜目のキャンプ地、タルキートナ手前の展望台に立つと、北米大陸の最高峰、マッキンリー山(6194m)がよく見えた。青空を背にしたマッキンリー山は神々しいほどで、雪の白さが際立っていた。
 タルキートナでは川沿いのキャンプ場でキャンプした。
 まずは焚き火。みんなで焚き木を集め、盛大な焚き火をする。バドワイザーで、
「アラスカに乾杯!」
 を繰り返す。
 あっというまに空になった缶が山となって積まれていく。
 夕食はTボーンステーキ。焚き火で焼いたステーキなので、よけいにうまい。アラスカを走り出した喜びで我ら「アラスカ軍団」の宴会は大いに盛り上がった。

 ぼくたちの隣りではアメリカ人の3人組がキャンプしていた。彼らに北海の大魚、オヒョウの干魚を差し入れしてもらったのを機に、一緒に飲み、語り合う。
 米空軍に20年勤務したダンとドール&マット夫妻の3人組。ダンは日本の横田基地にも3年いたという。ダンとは日本の思い出話で盛り上がった。夫妻のうち、奥さんのドールは今日が42歳の誕生日。22歳になる娘さんがいるとは思えないほど若々しい。
 ドールとは彼らにもらったカリフォルニアワインが空になるまで、「ハピー・バースデー・ツユー」を繰り返した。
 我ら「アラスカ軍団」の宴会がお開きになったのは深夜になってからだ。
 なんとも心に残る「アラスカ縦断」の第1夜目だったが、白夜のアラスカ、その時間でもまだ空は明るい。

 翌日も快晴。青空を背にしてそびえ立つマッキンリー山に向かって走る。
 マッキンリー山を間近に眺めるカフェで休憩。皆、思い思いにマッキンリー山をバックに記念撮影。ここで知ったことだが、この季節に2日連続で雲ひとつないマッキンリー山を見ることができたのは奇跡だという。この3年間、7月にマッキンリー山が完全に見えた日は1日としてなかったからだ。
 アンカレッジから400マイル(約640キロ)を走ってアラスカ中央部の都市、フェアーバンクスに到着。なんともなつかしい。

 1971年から翌72年にかけて、ぼくはスズキ・ハスラーTS250を走らせ「世界一周」した。そのとき、カナダのドーソンクリークからアラスカ・ハイウエーを走破してここ、フェアーバンクスまでやって来た。
 そのときに比べると、フェアーバンクスは、はるかに大きな近代的な都市に変わっていた。
 フェアーバンクスからさらに北へ。
 ここで初めて「トランス・アラスカ・パイプライン」に出会う。北極海のプルドーベイからアラスカ湾のバルディーズまで、アラスカ半島を縦断する全長1280キロのパイプライン。これはまさにアメリカの生命線で、ぼくたちはこれ以降「トランス・アラスカ・パイプライン」を見ながらプルドーベイまで行くことになる。

「アラスカ縦断」の第2夜目は、フェアーバンクスから20マイル(約32キロ)北のオルネス湖畔でのキャンプ。
 ここでも忘れられない出会いがあった。
 クリスティン&プレイドの夫妻。2人にはなんと6人もの子供がいるという。そのうちキャンプには4人の子供を連れてきていた。夫妻にはムース(大鹿)の味つけ肉をもらったが、それはまさにアラスカの味覚だった。
 我ら「アラスカ軍団」はムースを肴に、焚き火のまわりでバドワイザーをガンガン、飲み干した。あっというまに日付が変わったが、白夜のアラスカ、ひと晩中、明るい。
 午前1時に寝て午前5時に起きたが、寝たときも、起きたときも空は明るかった。
 オルネス湖から60マイル(約96キロ)走ったところで、舗装路は途切れ、待望のダートのダルトンハイウエーに入っていく。緊張の瞬間。北極海のプルドーベイまで425マイル(約680キロ)の標示が出ている。

 北極海を目指してダルトンハイウエーを走りはじめる。路面は整備されて走りやすい。時速100キロ以上で走れる高速ダートだが、ゆるやかなコーナーが連続するので、コーナーでは飛び出さないように気をつけなくてはならない。
 さらに小粒の浮き石がクセモノ。ハンドルをとられ、あやうく転倒しかかったことがある。高速ダートでの転倒はダメージが大きいので、十分な注意が必要だ。
 それと大型のトラックやトレーラーが要注意。
 モウモウと土煙りを巻き上げて走るので、すれ違うときは一瞬、視界がなくなる。追い越すときはさらに難しく、上り坂などを使って、トラックがスピードを落とした瞬間を見計らって追い抜いていく。

 ダルトンハイウエーの起点から60マイル(約96キロ)走ったところでアラスカの大河、ユーコン川が見えてきた。
 思わず「オー!」と声が出た。
 ユーコン川にかかる橋を渡ったところがユーコンリバー。ここで最初の給油。レストランもある。
 食事を終えたところで、ぼくはすばやく自分一人でもう一度、ユーコン川を渡り、そこからパイプライン沿いのダートに入った。バイクをからめた写真をとりたかったのだ。
 驚いたことに、バイクを停めたとたんに、すぐ後ろに石油会社の赤色のパトロールカーが来ていた。ぼくの行動の一部始終はすべて監視カメラで見られていた。
 別に係官にとがめられることもなかったが、ぼくがそこで写真をとり終え、ダルトンハイウエーに戻るまで、パトロールカーはぼくにぴったりと密着した。
 2001年9月11日の同時多発テロ以降、「トランス・アラスカ・パイプライン」もテロの標的にされているという噂が流れ、警備を厳重にしているという。特にユーコンリバーは警備の最重点ポイントになり、24時間体制で監視されている。
 そんな現状をはからずも体験した。

 ユーコンリバーから北に50マイル(約80キロ)行ったところで、北極圏(アークティック・サークル)に突入。北緯66度33分以北の極北の世界に入ったのだ。
 ぼくにとっては初めて経験する北極圏なだけに、
「ついに来た!」
 といった感動に襲われた。それは体がブルブルッと震えるほどの感動だった。
 ユーコンリバーから北に120マイル(約192キロ)でコールドフットに到着。ここがダルトンハイウエーの2番目の給油ポイント。ユーコンリバーと同じようにレストランもある。
 コールドフットから8マイル北のマリエクリークのキャンプ場で「アラスカ縦断」第3夜目のキャンプをする。
「アラスカ軍団」の面々との毎夜のキャンプが楽しい!

「アラスカ縦断」の第4日目。
 北に向かって走り出すと、前方には山並みが見えてくる。極北の大陸分水嶺のブルックス山脈だ。まずは最初の峠、標高2189メートルの峠に立つ。雄大な眺望。絶景峠。残雪の山々を間近に眺める。
 次に2番目の峠、標高2499メートルのアティガン峠に立つ。険しい山並みが迫り、眺望はよくないが、道路端にまで雪が迫っていた。ここは夏でも雪の降る峠だという。極北のブルックス山脈を実感させる峠だった。
 アティガン峠を下ると、風景は一変する。針葉樹の樹林は消え、一望千里のツンドラ地帯が広がっている。夏のツンドラ地帯は一面の青々とした草原。
 だが、見た目には草原でも、バイクを停めてその上を歩くとズボズボッと沈み込み、水がしみだしてくる。
 さらに夏のツンドラでは、猛烈な蚊の大群の襲撃を浴びた。

 ツンドラ地帯に入ってからは、カリブーやグリズリー(大熊)を見た。
 7月22日13時、アンカレッジから912マイル(約1459キロ)を走って、ゴールのプルドーベイに到着。バイクを並べ、藤元さんがつくってくれた「祝! アラスカ縦断!」の横断幕を掲げ、我ら「アラスカ軍団」はその前で喜びを爆発させた。
 夕方、石油会社のバスツアーで、北極海の浜辺まで行った。
 夢にまで見た北極海。
 Tシャツ1枚になり、冷たい海に飛び込んだ。北極海を肌で感じ、「アラスカ縦断」を実感するのだった。

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カソリと走ろう! 第9回:「南部アフリカ」
 (『バックオフ』2004年4月号 所収)

 我ら「アグラス軍団」、ナミビアのウインドフックを出発点にし、アフリカ大陸最南端のケープ・アグラスを目指した。
 灼熱のナミブ砂漠越え。
 はてしなくつづく砂丘地帯、一木一草もない土漠地帯…を走り抜け、国境の大河、オレンジ川を渡って南アフリカに入り、ケープ・アグラスに到着。
 それはまさに感動の瞬間!

 2003年12月21日の昼過ぎ、我ら「アグラス軍団」の総勢11名のメンバーはナミビアの首都ウインドフックの国際空港に降り立った。強い日差しがカーッと照りつけているが、標高1779メートルの高原の首都なので、それほどの暑さは感じない。
 バスで市内の「ホテルサファリ」へ。
 そこの駐車場に我々の乗るバイクが用意されていた。なんともうれしいバイクとの対面だ。
 スズキのDR-Z400Sが6台、BMWのF650GSが5台、そして、カワサキのKLR650が1台という内訳。全部で12台のバイク。そのういちの1台は南アフリカのヨハネスバーグからやってきたデュークが乗る。彼が我々を先導してくれる。
 ぼくの乗るのはDR-Z400S。「道祖神」の菊地さんがサポートカーを運転し、それにはデュークの奥さんと生後1歳9ヵ月のトロイが乗っている。

「ホテルサファリ」で冷たいジュースを飲んだところで、午後4時、ウインドフックを出発。荒野を貫く舗装路を突っ走る。制限速度は120キロだ。
 第1夜目はカリビブ近くの農場内のキャンプ場に泊まる。夕食には農場主のハンズが仕留めた野生のオリックスの肉を焼いて出してくれた。
 いかにもアフリカ。つい先日も豹が農場の山羊を襲ったという。
「ウォ、ウォ、ウォー」
 と、豹はそんな鳴き方をするという。
 オリックスのステーキをハンズの奥さんが焼いた手作りのパンと一緒に食べる。
 最高の夕食!

 翌朝はハンズの運転する4駆に乗って農場内のサファリツアーをしたが、オリックスのほかにも、さらに大きなエランドを見た。ともにカモシカの類。
 ハンズの農場を後にし、カリビブの町へ。そこから待望のダートに突入。日本にはないような高速ダート。道幅は広く、路面は整備され、カーブもゆるやかなので、100キロ以上で突っ走れる。交通量も少ない。砂まじりのダートを走るので、モウモウと巻き上げる砂塵が長く尾を引く。
 あっというまに乾燥した風景に変わる。ナミブ砂漠に入ったのだ。
 北はアンゴラ国境から南は南アフリカ国境まで、大西洋岸沿いに1300キロもつづくナミブ砂漠は南北に細長い砂漠で、東西の幅は狭いところだと50キロ、広いところでも150キロぐらいでしかない。

 強烈な日差しで、頭がクラクラしてくる。乾いた熱風をまともに受けて走るので、口びるが割れ、のどがひきつるように痛んでくる。なんとも厳しい砂漠の走行…。
 ときたまの休憩ではバイクを木陰に停め、水をガブ飲みした。
 カリビブから大西洋岸に向かっていく途中では、ダートを横切る4頭のキリンを見た。砂漠で見るキリンはなんとも異様。
 ウエルウィッチアも見た。
 日本名は「奇想天外」。その名の通りの奇妙奇天烈な植物だ。

 150キロのダートを走破し、大西洋岸のスワコップムンドに到着すると、天候が激変した。気温がガクッと下がり、一面の霧の中に突入。これは南極の方向から流れてくる寒流のベンゲラ海流の影響なのだ。
 スワコップムンド近郊のキャンプ場に連泊し、1日かけて世界最大のアザラシの生息地として知られているケープ・クロスに行った。そこまでの道は塩で固めた高速ダート。
 DRのアクセル全開で走ったが、舗装路以上に快適に走れる。世界にはこんな道もあるのだ。
 ケープ・クロスの15万頭ものアザラシの大群を見たときは我が目を疑った。世界にはこんな場所もあるのだ。

 ケープ・クロスからスワコップムンドに戻るとナミブ砂漠を南下していく。
 まずは35キロ南のウオルビスベイへ。その間では右手に大西洋、左手にナミブ砂漠の大砂丘群を見ながら舗装路を走る。赤い砂丘がウネウネとつづく風景は、目の底に強烈に焼きついた
 ウオルビスベイからは延々とつづくナミブ砂漠のダートに入っていく。
 暑さが厳しい…。
 極度の乾燥にやられ、のどの痛みがますますひどくなる。日本の冬の寒さから、いきなりナミブ砂漠の夏の暑さに変わり、体がついていかないのだ…。
「アグラス軍団」のメンバーは66歳の佐藤さんを筆頭に、61歳の島田さん、50歳代の竹口さん、藤田さんといるが、年配組のみなさん方はすこぶる元気。年配組の元気な姿に励まされ、「自分もがんばらなくては!」とかろうじて走りつづけることができた。

 12月24日のクリスマスイブの夜は、農場内のゲストハウスに泊まった。
 キャンドルの灯ったテーブルでの豪華な夕食。ビールやワインで乾杯。この忘れられない一夜で元気を取り戻した。
 ナミブ砂漠をさらに南へ。高速ダートを走りつづける。空には雲ひとつない。あいかわらずの強烈な日差しが照りつけている。日が西の空に傾いた頃、ナミブ砂漠の砂丘地帯探訪の拠点、セスリアムに到着。ここのキャンプ場でキャンプ。設備の整ったキャンプ場でトイレやシャワーが完備している。
 夕日が落ちると、あっというまに気温が下がる。暗くなると満天の星空。火を起こし、焚き火を囲み、缶ビールで乾杯。我ら「アグラス軍団」、誰もがよく飲む。
「道祖神」の菊地さんがつくってくれた日本風カレーライスを食べたあとは、焚き火を囲んでの飲み会がまた始まる。これが楽しい!

 翌朝、大砂丘群へ。朝日を浴びた砂丘の美しさに目を奪われた。陰影もはっきりしている。まさにナミブ砂漠のハイライトシーンだ。
 セスリアムのキャンプ場には連泊したが、2日目の夜には6頭のジャッカルがやってきてテントの周辺をウロウロとうろつきまわった。人間を襲うことはないと聞いていたが、あまり気持ちのいいもではなかった。
 セスリアムからナミブ砂漠をさらに南へ。交通量のほとんどない高速ダートを走りつづける。
 単調な風景の中を走りつづけるので、猛烈な睡魔に襲われる。そんなときは砂深い路肩を走り、怖い思いをして眠気をとるのだった。
 アメリカのグランドキャニオンに次ぐ世界第2の大峡谷、フィッシュリバーキャニオンの展望台に立ち、フィッシュ川のアイアイ温泉のキャンプ場でひと晩泊まり、ナミビアと南アフリカの国境を流れる大河、オレンジ川の河畔に出た。
 悠々とした流れだ。
 オレンジ川にかかる橋を渡ってナミビアから南アフリカに入り、ナミブ砂漠に別れを告げた。ナミブ砂漠で走ったダートは1316キロになった。

 南アフリカの入国手続きは簡単に済み、いよいよアフリカ大陸最南端のケープ・アグラスを目指し、N7(国道7号)を南下していく。
 2003年12月31日、クランウイリアム近郊のキャンプ場を午前8時に出発。シトルダールでN7から一部ダートのN303に入り、ミドルスバーグ峠、ジド峠、ミッシェル峠…と、いくつかの峠を越えた。うれしいアフリカでの「峠越え」。すでにナミブ砂漠は遠くなり、森林地帯を走り抜けると、谷間は一面のブドウ畑だった。
 N1と交差するウースターからはグレートカルー、リトルカルーの丘陵地帯を豪快なアップ&ダウンで一気に越え、午後4時、アフリカ大陸最南端のケープ・アグラスに到着! 我ら「アグラス軍団」のメンバーはガッチリと握手をかわし、岬到着を喜び合った。
 岬には「アフリカ大陸最南端」碑。
 それには「あなたは今、アフリカ大陸最南端の地に立っています」と英語とアフリカーンスで書かれていた。
 目の前の青い海に別に線が引かれている訳ではないが、ここで右手の大西洋と左手のインド洋の2つの大洋に分かれる。岬に立っていると、まるで地球を手玉にとっているかのような、そんな壮大な気分を味わうことができた。

 その夜はケープ・アグラスに近いブレダースドープのキャンプ場に泊まった。
「アグラス軍団」の面々は大晦日の町に繰り出し、レストランで盛大な宴会を開いた。特産のケープワインを何本もあけ「乾杯!」を繰り返し、ケープ・アグラス到着を祝った。 2004年の元日、ブレダースドープのキャンプ場で、初日の出を見る。一片の雲もない快晴の空に昇る朝日は神々しいほどで、思わず手を合わせた。
 真夏のアフリカ大陸最南の地には正月気分もなかったが、我々は口々に「明けましておめでとうございます」と新年の挨拶をかわした。
 ブレダースドープからゴールのケープタウンに向かった。
 カレドンでN2に入り、200キロほど走ってケープタウンに到着。シンボルのテーブルマウンテンがひときわ目立つ。ケープタウンでは郊外の「マーランド・ゲストハウス」に泊まった。
 いよいよ最後の走り。翌日、ケープ半島に入っていく。
 半島突端の喜望峰に立ったときは大感動!
 ぼくはこの名前が大好き。喜望峰に立つと、さらなる世界へと、夢をかきたてられた。

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カソリと走ろう! 第10回:「サハラ砂漠縦断」
※管理人注:この記事にはライダーの事故死についての記述があります。読み進める上で読者のご判断をお願いいたします。
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 (『バックオフ』2005年4月号 所収)

「チュニス→タマンラセット」
 今回の「サハラ砂漠縦断」の出発点はチュニジアの首都、チュニス。まずはアフリカ大陸最北端の地中海に突き出たブラン岬に立ち、我ら「ホガール軍団」は2004年12月4日、15台のバイクを走らせ、チュニスから南へ。

 北アフリカ最古のイスラムの町、カイロワンを経由し、チュニジア南部のサハラ砂漠に入っていった。サハラの乾ききった空気を切り裂きながらスズキDRーZ400Sを走らせるていると、
「おー、これぞ、我が世界!」
 と叫びたくなってくる。

 サハラのオアシス、トゥズールからアルジェリア国境へ。国境越えが大きな難関。アルジェリアは1990年代に入るとイスラム原理運動の嵐が吹き荒れ、内戦同様の状態に陥った。そのためサハラ砂漠縦断など、とてもではないができるような状態ではなかった。
「パリ・ダカール・ラリー」にしてももう10何年もアルジェリアをコースには組み入れられないでいる。

 アルジェリア情勢が急速によくなったのを見極めての、今回の我々の「サハラ砂漠縦断」。「ホガール軍団」は新たなサハラ砂漠縦断の歴史を切り開こうとしているのだ。なにしろアルジェリアのサハラ砂漠といったら「サハラの中のサハラ」なのである。

「道祖神」の菊地優さんの獅子奮迅の活躍のおかげで、1日がかりになったが、我々全員の入国手続きと15台のバイクの通関が終わった!

 エルウエッド、トゥグール、ワラグラのオアシスを通り、ガルダイアの南でアルジェリアを縦貫するN1(国道1号)に合流。このN1こそ、サハラ砂漠縦断の一番の幹線の「ホガール・ルート」なのだ。サハラ砂漠の中心部のホガール山地を越えていく。

 世界でも最大級の砂丘群、グラン・エルグ・オクシデンタル(西方大砂丘群)の東端を走り、エルゴレア、インサーラのオアシスを通り、北回帰線を越え、12月10日、サハラ砂漠最奥のタマンラセットに到着した。

「タマンラセット→アガデス」
 チュニスからタマンラセットまでは2400キロ。ここはまさにサハラ最奥のオアシス。北の地中海からも南のギニア湾からも海からは限りなく遠い。
「キャラバンサライ」に泊まり、タマンラセットとその周辺をまわる。圧巻は北85キロの「アセクラム」。標高2585mのこの地点はホガール山地のメインスポットといってもいい。

 山上には「フーコー神父」のエルミタージュ(隠遁所)がある。その前に立つと、ホガール山地の奇峰群を一望する。地球とは思えない別世界の風景。反対側に立つと、ホガール山地の最高峰タハト山(2908m)を間近に眺める。やがてタハト山から南へとつづく山並みに大きな夕日が落ちていく。日が落ちると、急激に気温が下がる。ここには宿舎がある。7人用と8人用の2部屋。夕食後、我ら「ホガール軍団」の面々はベッドの上に敷いたシュラフにもぐり込んで眠った。

 翌朝は夜明け前に「フーコー神父」のエルミタージュに登る。ものすごい星の数。スースーッと流れ星が満天の星空を横切っていく。1分間に2、3個は見える。遠くにはタマンラセットの町明かり。やがて夜明けを迎える。東の空が白みはじめ、みるみるうちに空全体が橙色に染まり、奇峰群の向こうに朝日が昇る。あまりにも神々しい朝日に思わず手を合わせてしまう。

 タマンラセットに戻ると、我ら「ホガール軍団」は砂道走行の練習をする。ワジ(涸川)の中につづく砂道を走り、そしてニジェールのアガデスへ。チュニスからつづいた舗装路はタマンラセットの南、28キロ地点で途切れ、いよいよ最大の難所に突入。一面の砂の海の中に幾筋もの轍がついている。比較的走りやすそうな轍をみつけ、それをフォローしていくのだが、砂深い轍になると転倒する人が続出。きつい砂道との闘いがはてしなくつづく。

 タマンラセットから110キロ地点で事故発生。BMWのGS1200に乗る大家央(ひさし)さんがギャップにはまり前転宙返りするような格好で吹っ飛ばされた。段差の下がフカフカの砂溜まりになっていた…。

 我々にとってものすごくラッキーだったのは、参加者の中に福岡市の救急車に乗務している栗木邦正さんがいてくれたこと。栗木さんは「ファラオ・ラリー」や「パリ・ダカール・ラリー」の海外ラリーの経験もある。栗木さんはすぐさま大家さんをみてくれた。鎖骨が折れているとのことで、手際よく三角巾で応急処置をしてくれた。

 事故現場近くでキャンプ。夕日がサハラの地平線に落ちていく。そこからタマンラセットに携帯で電話すると、夜の10時過ぎになってトアレグ族のタトゥーが運転するランドクルーザーが来てくれた。「キャランバンサライ」のオマールも一緒だ。そのランクルの屋根に事故車のBMWを乗せるつもにしていたが、重すぎてうまくいかない。そこで急きょ、BMWにはぼくが乗り、タマンラセットの病院に向かった。

 夜の砂漠を走り出した瞬間、ぼくは凍りついた。BMWは事故のダメージでヘッドライトの光軸が下がり、ハイビームにしてもほんの目の前を照らす程度。高速で走れば何なく突破できる砂道も、暗い中でヨタヨタ走ると、やたらと転倒してしまう。そのたびに渾身の力をこめてGS1200を起こすのだ。もうヘトヘト。

 全部で7回も転倒し、夜中の3時前にタマンラセットに到着。大家さんの収容された総合病院はしっかりとした設備でひと安心。救急病棟ですぐさまレントゲンをとってもらうとやはり鎖骨が折れていた。大家さんは残念ながら日本に帰国することになった。

 翌日、キャンプ地に戻ると、国境のオアシス、インゲザムを目指して南下。見渡す限りの平坦な砂漠では自由自在にどこでも走れる。砂もそれほど深くないので高速走行ができる。DRのアクセル全開で走っていると、風間深志さんと一緒に走った「パリ・ダカ」のシーンが思い出された。砂嵐にも遭遇。視界がゼロになるほどではなかったが、ザーザー吹きつける砂の中で写真をとったら、一発でカメラがやられた。シャターが下りなくなってしまったのだ。

 タマンラセットから400キロ走り、インゲザムに到着。ホガール山地を下りきったところなので強烈な暑さ。それまでが寒いサハラだったので、あまりの暑さに頭がクラクラしてしまう。
 インゲザムの町から10キロ走ったまさに砂の海の中に、ポツンとアルジェリア側の国境事務所がある。そこででひと晩キャンプし、翌日、出国。アルジェリアからニジェールに入った。

 ニジェール側国境事務所のあるアッサマカから180キロ走り、アルリットに到着。ここから舗装路になる。我ら「ホガール軍団」は、これで「サハラ砂漠縦断」を達成したという喜びで、みんなで握手をかわした。アルリットの町中の食堂で食べたサラダつきの昼食がとびきりうまかった。そして12月18日の夕刻、アガデスに到着した。

「アガデス→アクラ」
 ニジェールのアガデスはサハラ砂漠を海にたとえれば港のようなところ。ここで準備を整え、サハラ砂漠縦断の車やトラックは960キロ北のアルジェリアのタマンラセットや1700キロ北東のリビアのセブハなどへと向かっていく。そんなサハラ砂漠南端のオアシスで1日、ゆっくりと過ごした。

 その夜、驚いたことに鎖骨を折った大家さんがタトゥーの運転するランクルにGS1200を積んでアガデスにやってきた。これから先、鎖骨バンドをしてバイクに乗り、ガーナのアクラまで走るという。ツワモノだ!

 翌12月20日、腕におぼえのある8名は、アガデスの東側に広がるテネレ砂漠を目指した。午前9時に出発。先頭をDR-Z400Sの黒岩文雄さんが走り、ぼくが最後尾を走ってみなさんを間にはさんでフォローするような形にした。それにサポートカーのランクルが2台ついた。

 土漠の細かな土が溜まった道も、砂深い轍も快調に走り抜け、波のように次々と押し寄せる砂丘群を越えていった。テネレの砂丘群の美しさは話には聞いていたが、想像以上のものだった。

 そんな砂丘越えでリザーブになった。コックの切り換えに手間取り、スピードが落ち、スタックしてしまった。痛恨のリザーブだ。高速で走行しているときはおもしろいように砂丘を登れるが、いったんスピードが落ちると、あっというまに砂にめりこんでしまう。砂丘の頂上まで半クラを使ってバイクを押し上げ、そこから全速力で「テネレ組」を追ったが、すでにその姿はまったく見えない。一刻も早く追いつこうとアクセル全開で飛ばした。

 大砂丘を飛び越えたときは、
「やったー!」
 と、思わず目をつぶる。砂丘を越えた向こう側が急傾斜で落ちていたからだ。たたきつけられ、バウンドしたが、かろうじて転倒をまぬがれた。

「テネレ組」に追いつけないまま「テネレの木」に着いてしまった。
 かつては砂丘群を抜けたこの平坦な砂漠に、どこからでも目につく木が1本、あったという。だが今は枯れ、それに代わって鉄製のポールが立っている。「サハラで遭難か…」と体が震えてくる。

 夕日が地平線に近づいたころ、サポートカーが来てくれた。助かった!
 それにはサハラを知り尽くしているミッシェルが乗っていた。彼はアガデス方向に戻り、8台のバイクのタイヤの跡を確認すると、1本だけ離れていったタイヤの跡を追ってここまで来たという。なんとも不運なことだったが、砂丘群を間に置いてルートが2本に分かれてたのだ。

 ぼくはその右側を走り、「テネレ組」は左側を走った。サポートカーはぼくが来ないのに気がつき、2本のルートが合流する手前の、分かれている地点で止まったのだという。 サポートカーはぼくを残し、「テネレ組」のいる地点に戻っていった。すぐに全員を連れてくるからと言い残して。

 ところがいつまでたっても戻ってこない。
 日が落ち、暗くなりはじめたころになってサポートカーが戻ってきた。なんと黒岩さんが事故を起こしたという。

 すぐさま現場に急行。するとすでに黒岩さんの息はなかった。栗木さんが懸命になって人口呼吸をほどこしていたが、ほぼ即死状態で、黒岩さんの息は戻らなかった。

 黒岩さんはルートが2本に分かれた間の砂丘をバイクで飛び越えようとしたという。
 全速で砂丘に突っ込み、バイクから体が離れ、なんと砂丘のてっぺんから60メートルも飛んで砂の大地に頭から突っ込んだ。
 栗木さんの見立てでは脳挫傷だという。

 すでに携帯でアガデスに連絡がいき、道祖神の菊地さんと医師の乗ったランクルが真夜中に事故現場に到着した。医師の検視の結果も栗木さん同様、脳挫傷で即死というものだった。黒岩さんの遺体はアガデスに送られていった。

 翌朝、「テネレ組」はテネレの木まで行った。
「日本人ライダー黒岩文雄、この地に死す」
 モニュメントに英語で書き、カンビールやビスケットなどをそなえて全員で手を合わせ、黒岩さんの冥福を祈った。

 12月22日、アガデスを出発。
 南下すると、みるみるうちに緑が増してくる。砂漠からステップ、サバンナ、熱帯雨林と鮮やかな植生の変化が見られる。ついにギニア湾岸に出て12月31日、ガーナの首都、アクラに到着。チュニスから6763キロの「サハラ砂漠縦断」だった。

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク