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世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


著者・管理人

Author: 賀曽利隆
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Category: オーストラリア2周1996(前編+後編)

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「カソリのオーストラリア2周」(1996年)について
※2008年9月23日記す

 40代も後半になったところで、ぼくは体力勝負で250㏄バイクのスズキDJEBEL250XCを走らせ、オーストラリアを2周することにした。
「オーストラリア2周」というのは、20代にもやっているので、このときが2度目ということになる。
 20代の「オーストラリア2周」というのは1973年のことで、ぼくは25歳だった。最初の1周目はヒッチハイクで、2周目がバイクでと、合計4万2000キロをまわった。

 48歳の「オーストラリア2周」計画というのは、25歳の「オーストラリア2周」が大きく影響していた。それだけではなく、「25歳のカソリ」を随分と強く意識した。
 25歳のころといえば、体力絶頂期。そんな「25歳のカソリ」をライバル視し、力でもってねじ伏せようとしたのだ。それゆえの「48歳のカソリ」の「オーストラリア2周」計画なのであった。

 2台のスズキDJEBEL250XCを船便でオーストラリアのシドニーに送り出したあと、1996年5月25日に今度はぼく自身がシドニーに向かって飛び立った。
 成田空港には妻が見送りに来てくれたが、子供たちはといえば、長女が大学2年、次女が高校3年、長男が高校2年になっていて、3人ともに学校だった。
 子供たちのあまりにも速い成長を見ていると、自分が年をとるのも無理のないことだと妙な納得をしてしまうが、そんな気持ちに棹さすかのように、
「いや、いくら年をとってもやりたいことはやるのだ!」
 と、自分で自分に言い聞かせてシドニーに向かって旅立っていくのだった。

 シドニーに送った2台のDJEBELだが、DJEBEL1号、DJEBEL2号と名付け、1号で舗装路をメインにした第1周目を走り、それを「ロード編」とした。
 DJEBEL2号ではダートをメインにした第2周目を走り、それを「オフロード編」とした。
 2周ともシドニーを出発点に、そして終着点にしたが、「オーストラリア2周」では合計7万2000キロと、オーストラリア1国で地球2周分くらいの距離を走ったことになる。
「オーストラリア2周」を終えたときは、心の中で叫んでやった。
「勝った、これで25歳のカソリに勝った!」

 そんな「48歳のカソリ」の「オーストラリア2周」ですが、第1周目(前編)を『月刊オートバイ誌』の連載で、第2周目(後編)を『バックオフ誌』の連載でお伝えします。

テーマ : 海外旅行記    ジャンル : 旅行

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Category: オーストラリア2周1996(前編+後編)

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オーストラリア2周(前編):第1回 シドニー→メルボルン
(『月刊オートバイ』1997年1月号 所収)

「メッタメタに走ってやる!」
 これがカソリの「オーストラリア一周」、一番の目的。
 みなさんもきっと、そんな気持ちになったことがあると思うが、ぼくは無性にオートバイで長距離を走りたくなったのだ。
それにはオーストラリアは、ぴったりのフィールド。
 我が愛車スズキDJEBEL250XCを目いっぱい走らせて、自分の体がブッ壊れるくらいまで走りつづるのだ。ぼくの「オーストラリア一周」は距離への挑戦。
「さー、やるゾー!!」

うれしい出発
 東京・文京区の共同印刷『オートバイ』校正室で、出張校正を終えた編集の上野賢一さんは一人、ぼくを待っていた。
「やー、ゴメン、遅くなって」
 と、カソリ、平謝りに謝って上野さんに「峠越え」の連載原稿を渡す。この瞬間に、ぼくの「オーストラリア一周」がはじまった。
 わかってもらえるだろうか‥‥、このときのうれしさを!
「これで、行ける!」
 といった気分なのだ。
 出発までの毎日は、時間に追われて超多忙。すべてのことを出発日までに終わさなくてはならないからだ。
 何本もの原稿を死にものぐるいで書きまくったが、それができたのも、「オーストラリア一周」という大きな目標があったからなのである。

 1996年5月25日、成田発12時00分のSQ(シンガポール航空)997便で日本を出発。シンガポールでSQ221便に乗換え、「オーストラリア一周」のスタート地点シドニーには5月26日の早朝、5時30分に到着した。
 シドニー中央駅から電車で30分、パラマタの町へ。東京でいえば、東京駅から中央線に乗って立川へ、といった感じだ。そのパラマタ郊外にスズキ・オーストラリアの2輪オフィスがある。日本から送り出したDJEBEL250XCとの再会だ。
 スターターのセル一発で、エンジンがかかる。いつでも走り出せるように、整備しておいてくれたのだ。軽快なエンジン音に、気持ちは早くも「オーストラリア一周」へと飛んでいく。
 DJEBEL250XCの17リッター・ビッグタンク、ビッグライトを大きな武器にして、「オーストラリア一周」に挑戦するのだ。
 出発前夜は、スズキ・オーストラリアの藤照博さん、工藤隆夫さんにパラマタのチャイニーズ・レストランですっかりご馳走になった。食事をしながら、オーストラリアについての情報、アドバイス等々、いろいろな話を聞かせてもらった。それはすごくありがたいことだった。

「オーストラリア一周」の第1日目
 5月28日午前9時、スズキ・オーストラリアのみなさんに見送られて、「オーストラリア一周」に出発だ。
 DJEBEL250XCのエンジンを始動させ、記念撮影を終えたところで走りだす。抜けるような青空。まるで、「オーストラリア一周」を祝ってくれるかのような空の青さ。 まずは肩ならしとでもいおうか、シドニー周辺をまわる。
 R31のヒュームハイウェーを南下する。片側2車線の道。オーストラリアの2大都市シドニーとメルボルンを結ぶ幹線なので、交通量が多い。
 制限速度は110キロだが、これから先の長丁場を考えて、100キロくらいの速度で走る。
 ゆるやかな丘陵地帯に入ると“カンガルーに注意”の標識を見るようになるが、それがいかにもオーストラリアらしい。

 シドニーから200キロ、グルバンの町を過ぎたところで、R32からR23に入り、オーストラリアの首都キャンベラへ。
 大分水嶺山脈の標高760メートルの峠を越える。この大分水嶺山脈は、大陸の東側に連なる長さ5000キロ、幅300キロの大山脈だが、全体には、ゆるやかな山並みだ。 左手にジョージ湖を見ながら走るとキャンベラだ。シドニーから300キロ。キャピタルヒルにあるモダンな国会議事堂を見る。首都キャンベラは、若々し国、オーストラリアを象徴するかのようなのびやかさ。
 キャンベラからさらにR23を南下。そして、クーマの町から大分水嶺山脈のスノーウィーマウンテンスの山中に入っていく。夕暮れ。気温がガクッとさがる。牧場内にあるモーテルに泊まる。1泊40ドル。日本円で約3400円。
 モーテル内のレストランで夕食。スープ、メインディッシュのチキン、デザートのアップルパイというフルコースで14ドル。
 ここでは、オーストラリアの最高峰クシオスコ山を登りにきたシドニーのハイスクールの生徒たちと一緒になったが、ワイワイガヤガヤとにぎやかだ。
 夕食のあとは暖炉の火を囲んで、ハイスクールの先生たちとビールを飲みながら話した。

峠のアイスバーンに危機一髪!
 翌朝は、コーンフレーク、トースト、スクランブルエッグ、ハム&ソーセージというボリュームたっぷりの朝食を食べる。10ドル。宿泊費の40ドル、夕食代の14ドル、朝食の10ドルを合わせると64ドル。日本円で約5440円になるが、ほぼ、日本の民宿に泊まるのと同じくらいの料金になる。
 シドニーのハイスクールの先生や生徒たちに別れを告げ、7時30分、ぼくが先に出発。 早朝の寒さは強烈だ。気温は氷点下5度。夜明け前は、氷点下8度まで下がったという。オーストラリアの冬を甘くみていたので、ジャケットもグローブも薄手のもの。DJEBELにこびりついた霜を落として走りだしたが、あまりの寒さにヒーヒーいってしまう。 スノーウィー山脈の中心地、ジンダバインの町を過ぎ、オーストラリアの最高峰、クシオスコ山(2230m)南側の、アルパイン・ウェーを走る。デッドホース峠に向かって登っていく。緑の濃い森林地帯。日本の冬枯れの風景とは違い、常緑樹が多いので,冬でも青々としている。
 デッドホース峠に到達。標高1582メートルの峠で、風が冷たい。峠を越え、オーストラリア最大の川、マレー川の源流地帯に下っていったとたんに、路面凍結。ツルツルのアイスバーン。
「アー!!」
 思わず悲鳴を上げてしまった。峠の登りはまったく凍結していなかったので、アイスバーンに対する心の準備ができていなかったのだ。
 あわやマレー川源流の谷底に転落か、という危機一髪のきわどさだったが、かろうじてバランスを保ち、転倒しないで走ることができた‥。
 アイスバーンを抜け出たときは、ホッと胸をなで下ろした。

 デッドホース峠の下りでは、10キロほどのダートを走り、峠を下りきると、広々としたマレー・バレーに入っていく。絵のようにきれいな牧場の風景。牛やヒツジが群れている。いかにもオーストラリア的な風景だ。
 マレー川河畔の町、オルベリーでふたたびヒュームハイウェーのR31に出、グルバン近くのガニングという小さな町で泊まった。
 翌朝の気温も、やはり、氷点下。R31を走りだしたとたんにハンドルを握る手の指先がジンジン痛んでくる。DJEBEL250XCのフルカバーの大型ナックルガードがなかったら、とてもではないが、走れなかっただろう。
 丘陵地帯に入ると霧がかかっている。この霧がまた、なんとも冷たい。
「寒いよ、寒いよー」
 と、泣きが入る。寒さに震えながらシドニーに戻った。
 第1弾目のシドニー周遊は1323キロだった。
 つづいて第2弾目のシドニー周遊として、大分水嶺山脈のブルーマウンテンス周辺をまわった。第2弾目は663キロだった。徹底的に寒さにやられた2度の「シドニー周遊」。

やったー、カンガルーだ。あわや激突!
 2度の「シドニー周遊」で、肩ならしの走りを終え、メルボルンに向かう。
 海沿いのR1を行く。大分水嶺山脈を越えて内陸を走るR31に比べると、気温が高くなったぶんだけ楽になる。だが、すっかり寒さにやられ、体調がよくない‥。
 今回の「オーストラリア一周」では、大陸をグルリと一周するこのR1をメインコースとし、完璧にフォローするのだ。全長約2万キロのR1は世界最長のハイウェーである。「シドニー→メルボルン」間はR31が幹線なので、R1を走る長距離便の大型トラックは、グッと少なくなる。ローカル色が豊かになり、太平洋沿いの町々の町中をそのまま通り抜けていく。
 そんな町のひとつで昼食にする。歩道にイスとテーブルを並べたレストラン。いかにもオーストラリアらしいビッグなハンバーガーを食べながら、R1の車の流れを眺めた。

 シドニーから430キロ、太平洋岸のベガの町を過ぎたところで日が暮れる。
 ナイトラン。
 DJEBEL250XCの飛び抜けて明るいヘッドライトのおかげで、ナイトランがすごく楽だ。交通量が少ないので、対向車がないときはハイビームを使ったが、はるか遠くの反射板まで光り輝く。まるで誘導灯が光る空港の滑走路を走っているような気分になる。 ニューサウスウエルス州最南の町エデンで給油。サービステーションの主人はオートバイの好きな人で、初めてみるDJEBELに興味津々といった顔をする。ビッグタンク、ビッグライトのDJEBEL250XCは目立つので、各地で注目を集めた。
「このバイクは、いつオーストラリアで発売になるのか」
 といった質問を何度か受けた。

 エデンを過ぎると、R1は太平洋岸を離れ、森林地帯に入っていく。夜間のせいもあるが、交通量はほとんどなくなる。
 そんな夜の森林地帯を走っていたときのことだ。
 ゆるい左カーブを曲がると、なんと、走行車線上に、かなり大きなカンガルーがチョコンと座っているではないか。
「ワーッ、ヤッター!」
 思わず絶叫。
 が、急ブレーキ、急ハンドルでからくもカンガルーをかわすことができた‥。100キロぐらいの速度で走っていたので、激突していたら命取りになるようなダメージを受けるところだった。しばらくは体の震えが止まらなかったほど。

 カンガルーは「オーストラリア一周」の大きな難関。日が暮れると、車のライトをめがけて飛び出してくる。その恐怖感といったらない。カンガルーが原因で大事故になることが、オーストラリアではよくあることだ。そのため車やトラックは、カンガルーをはね飛ばすルーバーと呼ぶバーをつけている。これ以降、カンガルーの飛び出しで何度もひやっとするが、道路上に座ったカンガルーに出会ったのは後にも先にも、このときだけである。

カソリ、ダウン‥
 ニューサウスウエルス州からビクトリア州に入る。あいかわらず、森林地帯がつづく。 夜の10時過ぎになって、ジェノアという小さな村に着いた。1軒だけあるモーテルに泊まる。寒くて寒くてどうしようもない。
 バーの赤々と燃える薪ストーブにかじりついてしまった。
 ビールをキューッと飲んだあと、夕食にする。遅い時間だったのにもかかわらず、食事をつくってくれるというのだ。
 メニューをみると、インドネシア料理の“ミー・ゴレン(焼きそば)”があるではないか。さっそく、それを注文する。そこの主人の奥さんはインドネシア人だった。
 ミー・ゴレンを食べ、すこし元気が出たところで、部屋に戻り、バタンキューで眠る。だが夜中にあまりの寒さに目がさめる。寒いはずだ。額に手をやると、かなりの熱‥。
 熱を出すなんて、アフリカでマラリアにやられて以来のこと。さっそくタオルを水で濡らし、頭の上にのせておく。そのあとは、何度もタオルを濡らし、夜が明けるまで、ウツラウツラの状態がつづいた。

 翌朝の体調は最悪。もう一晩ここで泊まっていこうかと思ったほどだ。そんな気持ちをなんとか振りきって起き上がった。
 部屋には朝食が用意されていた。ミルクとコーンフレーク、リンゴ、オレンジ。電気ポットで湯をわかし、コーヒーを入れ、トースターでパンを焼く。パンにはバター、ハニー、ベジマイトをつけて食べる。ベジマイトというのは、オーストラリアだけにあるチョレート色をしたペースト。これが慣れるとけっこういける。
「よーし、行くゾ!」
 朝食を食べ終わると、気合を入れ、メルボルンに向かって走り出す。熱はまだあったが、これがオートバイのよさ、走りはじめると、熱っぽさも体調の悪さも気にならなくなった。 ぼくはいつも思うのだが、病気というのは、ほんとうに、気の病いだと思う。
 体調を崩し、熱を出して、
「あー、もうだめだ」
 と寝込んだら、きっと、本物の病気になっていたことだろう。

 出発してから2時間ほど走ったところで、R1沿いのレストエリアで30分ほど眠る。このわずかな時間の睡眠がよかった。目をさますと、グッショリ汗をかいていたが、その汗とともに、熱がスーッと下がっていた。このときの気分のよさといったらない。
 シドニーから1044キロ、メルボルンに到着。ここでは、2輪と4輪を統括するスズキ・オーストラリアのオフィスを訪ねた。
 社長の藤原紀男さんに、その夜、「むらさき」という日本料理店で、鍋料理をご馳走になった。熱燗の日本酒を飲み、フーフーいいながらうどんすきを食べた。最後は汁の中にご飯を入れて雑炊にした。
 このうどんすきと雑炊が最高のうまさ。熱を出してあとで、体が弱っていたので、よけいにうまく感じた。
 そのおかげで弱った体は、あっというまに回復していった。
「医食同源」。
 それを実感。
「シドニー→メルボルン」を走ったことによって、体も心も、旅する毎日に慣れたようだ。「もう、大丈夫!」
 ぼくは「オーストラリア一周」に自信を持つのだった。

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Category: オーストラリア2周1996(前編+後編)

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「オーストラリア2周」前編:第2回 タスマニア1周
 (『月刊オートバイ』1997年2月号 所収)

 50㏄バイクのスズキ・ハスラーTS50で「日本一周」したときは、日本の最東西南北端の岬に立った。
 これが、我らライダーの習性。最果ての地に、すごく行ってみたくなるものなのだ。
「オーストラリア一周」でも同じこと。その最東西南北端には立つつもりでいた。
 メルボルンからまずは大陸最南端のウィルソン・プロモントリーに行き、次にフェリーでタスマニア島に渡り、オーストラリア最南端の地まで行った。
 タスマニアは島とはいっても、北海道をすこし小さくしたほどの広さがある。そのタスマニアを一周した。

メルボルンを歩く
 メルボルンでは、スズキ・オーストラリアのオフィスがあるニューポート駅前の「ニューポート・ファミーホテル」という1泊25ドル(約2100円)の安宿に泊まった。
 ファミリーホテルという名前とは裏腹に、1階はパブと場外馬券売り場、フットボールの場外券売り場になっている。
 このフットボールというのは、オーストラリア人が一番、夢中になるスポーツ。
 ラグビーと似ているのだが、もっと手を使い、サッカーのようにキックでゴールする激しい格闘技。プロチームのリーグ戦は、テレビでひんぱんに中継放送されている。
 2、3階が客室。廊下にはゴミが落ち、壁ははげ落ちているが、1泊25ドルという安宿だから、まあ、我慢するか‥‥。

 1階のパブでビールを飲む。
 コップ1杯が1ドル35セントという安さだ。昼間から酔っぱらっている人もいる。ビールを飲んでいると、まわりの人たちに話かけられる。
「おーそうか、日本から来たのか。モーター・バイクでオーストラリアを一周しているのか」
 といった具合だ。
 オーストラリアでは、オートバイのことをイギリス風にモーターサイクルともいうが、自転車のプッシュ・バイクに対してモーター・バイクといういい方をよくする。

 ビールを2、3杯飲んでいい気分になったところで、電車に乗って、メルボルンの中心街に行く。メルボルン近郊の鉄道網は、オーストラリアの中では、一番発達している。
 ターミナル駅のスペンサー・ストリート駅で降り、プラプラ歩く。
 こうして、オートバイを宿において歩くのもいいもの。メルボルンはシドニーよりも、はるかにヨーロッパ風の都市。碁盤の目のように交差する通りには、トラム(路面電車)が走っている。
 半日かけて歩き、日が暮れたところで、夕食にする。
 レストランに入り、Tボーンステーキを食べた。
 さすがに“オージー・ビーフ”の国だけあって、ポテトチップスとサラダのついたTボーンステーキが9ドル85セントと安い。日本円で800円ほどである。
 スペンサー・ストリート駅からふたたび電車に乗ってニューポートの宿に戻った。
 1階のパブでビールを飲みながら、その雰囲気を楽しむのだった。

大陸最南端の半島へ
 メルボルンからは、大陸最南端のウイルソン・プロモントリーに行く。
 プロモントリーとは岬とか小半島といった意味だ。
「ニューポート・ファミリーホテル」を出発。
 スズキDJEBEL250XCは今日も快調。
 メルボルンの中心街からR1のプリンセス・ハイウェーをシドニー方向に30キロ走り、ダンデノンの町で州道180号に入る。
 このルート沿いの丘陵地帯には、“コアラに注意”の標識があった。
 州道180号を110キロ走り、ミニヤンという町を過ぎたところで州道181号に入り、40キロ走るとナショナルパークのゲート。そこで2ドルを払う。ウイルソン・プロモントリーは、半島全体がナショナルパークになっている。

 大陸最南端のウイルソン・プロモントリーに入っていく。
 標高600メートルとか700メートルといった山々が連なり、けっこう山深い。すぐ近くが海だとは思えないような風景だ。
 ゲートから30キロ走ると、州道181号の終点のタイダル・リバー。駐車場があり、インフォメーションセンターやガソリンスタンドがあり、ここで道は尽きる。
 タイダル・リバーからわずかに戻り、今度はオベロン山に登っていく。
 山頂の直下に駐車場。大陸最南端の地には、ここから山道を歩いていく。灯台のあるサウスイースト岬まで約18キロ、往復で12時間ぐらいかかるという。だが、大陸のほんとうの最南端の地はサウス岬。そこへの道はないのだ。
 オーストラリア人は、最果ての地にあまり興味がないようだ。

 タイダル・リバーとオベロン山に来たことで大陸最南端の地に立ったということにし、ウイルソン・プロモンリーを後にし、次にフィリップ・アイランドに行く。
 島とはいっても、橋で渡れる。ここにはオーストラリアで第1のサーキットがある。
 フィリップ・アイランドではペンギン・パレードを見たかった。
 世界最小のペンギンの群れが、夕暮れとともに、海から浜にあがってくるというのだ。 ペンギン・パレードの見られるサマーランド・ビーチはたいへんな観光地。広い駐車場は観光バスで埋めつくされていた。砂浜に上がってくるヨチヨチ歩きのかわいらしいペンギンよりも、はるかに多い見物人の数。韓国人、香港人、中国人が目立って多い。ここでは、団体で世界中を闊歩する日本人観光客も影が薄い。
 とくに目立つのは、韓国人のパワーのすごさ。怖いものなしといったところだ。男も女も、まるで喧嘩でもしているかのような大声を張り上げ、ワーワーいって話している。
 7ドル50セントを払ってのペンギン見物だが、ペンギンよりも、観光客を観察するほうがはるかにおもしろいサマーランドビーチだった。

「スピリット・オブ・タスマニア号」
 サウスメルボルンからタスマニア島にフェリーで渡った。
 船旅はいい。胸がときめく。東京から長距離フェリーに乗って九州や四国、北海道に向かうときのような胸のときめきだ。
 タスマニア島へのフェリーは「スピリット・オブ・タスマニア号」。
 まっ白な船体の大型船。総トン数は3万1350トン。
 40台の大型トレーラーと280台の乗用車を積めるという。
 週3便で、メルボルン発は月、水、金の18時。バス海峡を越え、タスマニアのデボンポートには翌朝の8時30分に着く。14時間30分の航海だ。
 料金はオートバイが70ドル、人は一番安い船底のKデッキで90ドル。合計すると160ドル、日本円で約1万3600円になる。この料金には、レストランでの夕食と朝食が含まれている。
 食事はバイキング形式で、クラスに関係なく、みんなが同じものを食べる。とくに夕食は、かなりの豪華版。それを考えるとフェリー代の160ドルは、そう高くはない。
 夏の観光シーズンだと、予約をとるのも難しいほどだというタスマニアへのフェリーだが、冬のこの季節はすいていた。
 出航直前に港に行っても、楽にチケットを買えた。オートバイはぼくのDJEBELだけ。冬、タスマニアをツーリングするライダーはほとんどいないのだ。

ポートアーサーの銃乱射事件の現場
 デボンポートに上陸。「タスマニア一周」の開始だ。
 州都ホバートへとつづくR1をいく。大陸をグルリと一周するR1の支線といったところか。R1沿いには、広大な牧場がつづく。とても島とは思えないような広さ。ふと、南米のフェゴ島を思い出す。
 地図で見ると、タスマニア島もフェゴ島も、大陸のわきにチョコンとくっついている島ぐらいにしか見えない。だが、オートバイで走ってみるとよくわかるが、ともに大陸と変わりがないような広さなのである。

 R1から州道3号、4号経由でポートアーサーへ。
 オーストラリアのみならず、世界中を驚かせた、あの1996年4月28日の銃乱射事件のあったところである。
 その入口には料金所があり、13ドルを払う。19世紀の前半、イギリスはタスマニア植民の拠点として、ここに基地を築いた。それが史跡になっているのだ。
 静かな入江の岸には、花束が山のように供えられた木製の十字架が立っていた。それには銃乱射の犠牲となった35人の名前が刻みこまれていた。
 すぐ前の、銃乱射の現場となったカフェは閉められ、中が見えないように、ガラス窓の内側にはスクリーンが貼られてあった。
 ポートアーサーは、ほんとうに静かなところ。このようなところで、銃の乱射事件があっただなんて‥‥、信じられない。
 この銃乱射事件のすぐあとにガンコントロール(銃規制)の法案が提出されたが、それに対してのオーストラリア人の反応には驚かされた。あちこちで、銃規制反対のデモがくり広げられ、その写真が新聞の一面を飾った。
「銃なしでは生きていけない」
 というプラカードを持った女性の写真もあった。
 オーストラリアも、アメリカと同じように、銃とともに植民していった国だということを思い知らされた。

オーストラリアの最南端へ
 タスマニアの州都ホバートから、州道6号でオーストラリア最南の地へと、南下していく。40キロで、ホーンビルの町に着く。そこからは幅広いホーン川に沿ってさらに南下していく。
 雨が降りだした。冷たい雨。まるでミゾレのような冷たさ。すでに南緯40度を越えている。北半球とは逆なので、南に行けばいくほど寒くなるのだ。
 ホバートから65キロでサウスポート。ここが州道6号の終点。小さな港町だ。オーストラリア最南というと、オーストラリア人はよく、このサウスポートだというが、道はさらに南につづいている。
 ルーンリバーを過ぎると、舗装路が途切れ、ダートに入る。日本の林道風なダートで、森林地帯を貫いている。大規模な森林の伐採地。雨が激しくなる。風も強くなる。嵐の様相‥‥。もう、泣きたくなってくる。

 サウスポートから30キロ、コッコルクリークで道が尽きる。
 そこには、サウスウエスト・ナショナルパークのゲート。
「ワールズエンドにようこそ」
 と書かれた看板が掲げられている。
 ワールズエンド、まさに「地の涯」といったところだ。
 サウスウエスト・ナショナルパークはオーストラリアでも一番自然の残っている国立公園ということで知られているが、国立公園内には1本も自動車道はない。移動の手段は徒歩のみなのである。

 ところで、オーストラリアの最南端だが、このサウスウエスト・ナショナルパークのゲートからサウス岬までは歩いていける。3時間ほどの距離だという。だが、ほんとうの最南端はその東側にあるサウスイースト岬で、そこへの道はない。
 日本だったら、最南端というだけで、本州最南端の潮岬や日本本土最南端の佐多岬のように、大勢の人たちが押しかける観光地になるのだが‥‥。
 オーストラリアでは観光地どころか、道さえもない。オーストラリア人というのは、最果ての地に興味のない民族なのだと、改めて思い知らされた。というよりも、日本人が岬に対して異常なほどの興味を持つ民族というべきなのかもしれない。
 オートバイで行ける最南の地コッコルクリークを折り返し地点にし、来た道を引き返して夕暮れの州都ホバートに戻った。
 雨は相変わらず降っている…。

雪の峠越え
 シーフードレストランで、夕食にする。
 2種類の白身の魚、貝、イカ、エビのフライの盛り合わせを食べ終えたところで、
「クソッ、雨がナンダ!」
 と、気合を入れて、ホバートを出発する。
 R1を北に走り、州道10号に入っていく。ナイトラン、おまけにザーザー降りの雨。
 あんまり気分のいいものではない。
 ホバートから80キロほど行ったハミルトンという町のホテルで泊まる。1泊45ドル。雨にさんざんやられたので、シャワーのお湯がありがたい。

 翌朝は7時、出発。ハミルトンは晴れていた。上空には月が残っていた。
 だが、これから向かう北の方角は、まっ黒な雨雲に覆われているではないか。
「どうか、あの中に入りませんように!」
 と、祈るような気持ちだった。
 だがその祈りもむなしく、走りはじめるとじきに、ザーッと雨が降ってくる。
 山地に入り、高度が増すにつれて、強烈な寒さになる。
 ジンジンと突き刺さってくるような指の痛みに我慢できない‥‥。もう凍傷状態だ。このときほど冬用のグローブを欲しいよ!と思ったことはない。
 寒いはずだ。雨はミゾレに変わり、さらに登っていくと雪に変わった。それも吹雪の様相。雪は猛烈な勢いで吹きつけてくる。グローブでぬぐってもぬぐってもゴーグルにこびりつくので、前方はほとんど見えない。

 水力発電所のある小さな町のガソリンスタンドに飛び込み、薪ストーブにあたらせてもらう。
 店の主人は薪をガンガンとストーブにくべてくれる。熱いコーヒーも入れてくれる。さらに、毛糸の手袋までくれた。そのおかげで、元気が出た。
 ふたたび吹雪の峠道に挑戦!
 路面は降り積もった雪で真っ白。あまりの寒さに頭も体も凍りついてしまったが、とにかく転倒しないようにと、それだけを考えてDJEBELを走らせた。
 フランクリン・ゴードン・ワイルドリバー・ナショナルパークに入っていく。
 このあたりが寒さのピーク。標高900メートルのビクトリア峠を越える。すると雪はスーッと消えていく。
「助かった!」
 山地を下り海岸に出ると、雪などまるでウソだったかのように、あたたかな日差しがサンサンと降り注いでいた。こうしてタスマニア一周を終え、メルボルンへのフェリーが出るデボンポートに戻ったのだ。

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■コラム(1)■カソリのワンポイント・アドバイス
「オーストラリア一周」では、レストランでいろいろのものを食べてみた。
 食を通して、オーストラリアを見てみようという気持ちが強かったのだ。
 オーストラリアは“オージービーフ”の国だけあって、肉、とくに牛肉は安い。
 肉屋をのぞいてみると、ステーキ用の牛のフィレが1キロ15ドルから16ドル、Tボーンが12ドルから13ドルといったところだ。
 日本だったら、ふつうグラム単位で肉を買うが、肉食民のオーストラリア人はキロ単位で買っていく。
 肉の安いオーストラリアなので、レストランでもふつうにステーキを食べられる。
 日本にいたら考えられないようなこと。

 おもしろいのは、肉の値段に違いはあっても、フィレステーキもTボーンステーキもラムステーキ‥‥も、レストランで食べるステーキの値段には、それほどの違いはない。
 300グラムから400グラムぐらいのステーキにポテトチップスとサラダがついて10ドル前後といったところ。日本と比べたら半分以下の安さ。オーストラリアでは、ステーキはごくあたりまえの食事なのだ。
 ステーキには、必ずといっていいほどポテトチップスをつける。
 オーストラリア人はジャガイモを細長く切って油で揚げたポテトチップスが大好きだ。 フィッシュ&チップスは、手軽に食べられるテイクアウェーの代表選手といったところだが、ポテトチップスに白身の魚のフライをプラスしたもの。4ドルから5ドルぐらい。揚げたての熱いのをフーフーいって食べるのはおいしいものだ。
 ポテトチップスを紙製のカップに入れてもらうカップチップは70セントか80セントぐらい。日本でいえば、コンビニでオニギリ1個、もしくはアンパン1個を買うよりも安い。 ちょっと休憩するときに、これをコカコーラを飲みながら食べるのが楽しみだった。
 オーストラリアでは、中毒になったかのようにコカコーラを飲んだが、ペプシコーラはあまり見かけない。

~~~~
■コラム(2)■1973年版の「オーストラリア2周」

大陸縦断ヒッチ
 1973年の「オーストラリア2周」のときは、北部オーストラリアのダーウィンに上陸した。そこから、オートバイでの「オーストラリア一周」のスタート地点のシドニーまでは、大陸縦断のヒッチハイクをしたのだ。
 ダーウィンから南に300キロのカサリンでは、なんと、3日間も車を待った。
 当時は大陸縦断のスチュワート・ハイウェーは、道も悪く、交通量も少なかった。そこをヒッチハイクするのは、至難の技といわれていた。
 そこでカサリンでは、暑さを避けて夜中に走るトラックにねらいをつけ、夜通し車を待った。だが、うまくいかずに、結局、道端で眠ってしまった。

 夜が明け、日が高くなると、もう地獄だ。強烈な暑さ。乗せてくれる車を待って、炎天下、立ちつづけた。頭がガンガンと割れるように痛んだ。とうとう乗せてもらえないままに、日が暮れる。翌日も、1日待って、乗せてもらえなかった。
 3日目になると、さすがにぐったりで、
「大陸縦断のヒッチだなんて、もう、不可能だ‥‥」
 と、弱気になり、バスに乗ろうとしたこともあった。それを我慢したかいがあって、ついに大陸中央部のアリススプリングスまで行く車に乗せてもらったのだ。

エアーズロックを断念
 ダーウィンからアリススプリングスまでの1500キロは舗装だったが、当時はその南はダート。ここでも苦しいヒッチだったが、うまく大型トラックに乗せてもらい、200キロほど南のエアーズロックとの分岐点で下ろしてもらった。
 今でこそ、世界最大の1枚岩のエアーズロックは大観光地になっているが、当時はそこまで行く車はきわめて少なかった。スチュワート・ハイウェーとエアーズロックへの道との分岐点には、ドラムカンが置いてあるだけだった。
 そこで、ただ、ひたすらに、車を待った。
 信じられないくらいのハエの多さ。目や鼻、口のまわりにまとわりつく。頭にきてたたきつぶすと、1度に10ぴきもたたき落とした。それほどのハエの多さだった。

 怖かったのは、嵐の襲来だ。
 あっというまに空がまっ黒になり、稲妻が大空を駆けめぐる。強風が吹き荒れ、目もあけられないほどで、ドラムカンの影でジッとうずくまっていた。
 結局、エアーズロックには行けずに断念したが、2日間でエアーズロック方向に行った車はわずかに数台でしかない。
 今はその分岐点にはロードハウスがあり、エアーズロックへの道は全線舗装で、1日に何百台という車がエアーズロックに向かっていく。23年間の、あまりにも大きな変化だ。

貨物列車を飛び下りる
 スチュワート・ハイウェーとオーストラリア横断鉄道が交差するピンバに着くと、うまい具合に、アデレード方向に行く長い編成の貨物列車が止まっていた。
「しめた!」
 という気分で、それに、飛び乗った。
 貨物列車が発車するときは、ガシャガシャガシャンと、連結器を伝わってくる衝撃音がすごかった。
 日が暮れ、夜になると、いつのまにか眠っていた。
 目がさめたのは、突然、ライトを当てられたからだ。どこか駅に着いたようで、列車の見回りをしていた係員にみつかってしまった。
「ポートオーガスタに着いたらポリスに突き出してやる」
 と、えらい剣幕だ。

 貨物列車は走り出す。夜が明ける。白っぽい町並みが遠くに見えてくる。ポートオーガスタだ。ポリスに捕まってはたまらないと、列車が町に近づき、スピードを落としたときに、まずザックを投げ落とし、次に決死の覚悟で列車を飛びおりた。
 幸い、足をすこし痛めた程度ですみ、足を引きずりながらポートオーガスタまでの2、3キロを歩き、そこからシドニーへと2000キロのヒッチハイクをしたのだ。
 当時、25歳のカソリ、怖いものなしだった。

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「オーストラリア2周」前編:第3回 メルボルン→アデレード
 (『月刊オートバイ』1997年3月号 所収)

 オートバイ・ツーリングのおもしろさは、いろいろなところで、いろいろな人たちに出会えることだ。
 タスマニア島一周を終え、メルボルンに戻るフェリーでは、初めて日本人ライダーに出会った。メルボルンでは3年がかりで「世界一周」した女性ライダーの話を聞いた。
 そんな思い出を胸に、メルボルンから大陸を西へ、アデレードへと向かう。行く手には広大な世界が広がる!

日本人ライダーとの初の出会い!
「タスマニア島一周」では、さんざん寒さに悩まされたが、メルボルンへのフェリーが出るデボンポートに着くころには、あたたかな日差しが射し込め、ホッと一息つくことができた。
「ありがたい‥‥」
 我らライダーには、太陽が一番。何よりもの贈りものだ。
 来たときと同じ、真っ白な船体の「スピリット・オブ・タスマニア号」(3万1350トン)に、スズキDJEBEL250XCともども乗り込んだ。
 Kデッキのキャビンに荷物を入れ、さっそくシャワーを浴びる。ジーパンに着替え、バーに行き、地図を見ながらキューッとビールを飲む。
「今、旅している‥‥」
 といった、しみじみとした幸福感を味わえる瞬間だ。

 18時、フェリーはデボンポートを出港。
 いったん部屋に戻ったあと、さあー、食事だと、レストランへ。
 そのとき通路で、
「カソリさんですよねー」
 と、声をかけられた。
 ハンターカブのホンダCT110で、「オーストラリア一周」中の植松幸史さんだ。
 ぼくにとっては記念すべき!?最初の日本人ライダーとの出会いになる。CT110といえば、オーストラリアではポストマンの郵便配達用のオートバイだ。
「一緒に夕食を食べようよ」
 ということになり、もうひとりの日本人旅行者、バスで旅しているバスダーの永野達夫さんも加わって、3人でワインを飲みながら食事した。

 植松さんは日本の「ラフ&ロード」で仕事して旅の資金を稼ぎ、シドニーでCT110を買ってここまできたが、僕と同じように冬の寒さに泣かされた。
 熱を出して何日も寝込んだこともあるという。
 彼には後に、“王様”というラウンドネームがつくのだが、“王様”とはこのあとアデレードで、グレンダンボで、シドニーでと、この広い大陸で3度も再会することになる。 永野さんはグレハン(グレイハウンド)の「オーストラリア一周」パスを買い、時計回りで大陸を一周中。このパスは時計回りか、反時計回りの一方通行で、途中での逆回りはできないという。
 彼には後に“磯野カツオ君”というラウンドネームがつくのだが、やはりアデレードで再会することになる。
 このような旅人同士の出会い、再会が「オーストラリア一周」の大きな魅力になっている。

メルボルン湾を一周
 船底のKデッキ(一番安いクラス)では、オーストラリア人ライダー、メルボルンのマイケル・ミールメーカーさんと隣同士のベッドになった。
 彼はDUCATI900SSを走らせ、冬のタスマニア島を一周したのだが、
「いやー、寒かったよー」を連発する。
「寒い、寒いよー」が、我々のあいさつ言葉だ。
 マイケルには、いろいろなことを教えてもらった。地図を広げ、ビクトリア州のツーリングコースの情報も、彼から得ることができた。

 翌朝、「スピリット・オブ・タスマニア号」がサウスメルボルンの港に着くと、1日がかりでメルボルン湾をぐるりと一周することにした。
「メルボルン湾一周」は、マイケルおすすめのツーリング・コースなのだ。
 メルボルン湾というのは、僕が勝手につけた名前で、正しくはポートフィリップ湾(ベイ)という。
「メルボルン湾一周」は、東京から横浜に行き、三浦半島に入り、久里浜からフェリーで金谷に渡り、千葉を経由して東京に戻る「東京湾一周」のようなものだ。
 メルボルンから、反時計回りでメルボルン湾を一周する。
 R1のプリンセス・ハイウエーでジーロンへ。その間はフリーウエーだ。ジーロンの海辺のレストランで昼食。羊肉のゴッソリ入ったラムカレーを食べた。
 ジーロンはビクトリア州でも有数の大きな町。ここからベラリーン半島に入っていく。その先端がクイーンズクリフ。要塞の残る歴史的な町だ。

 ベラリーン半島のクイーンズクリフからは、2時間に1本のフェリーで、対岸のモーニングトン半島のソレントに渡る。
 フェリー代は16ドル、日本円で約1360円になる。
 このあたりは、メルボルン湾からバス海峡への出口にあたる。東京湾でいえば、浦賀水道といったところだ。タスマニア島への行き帰りのフェリーもここを通った。
 40分あまりのフェリーの旅を楽しみ、モーニングトン半島のソレントに到着。そこからは海沿いのルートでメルボルンへ。
 ベラリーン半島やモーニングトン半島は、三浦半島や房総半島に比べるとはるかに半島全体がなだらか。さすがに大陸の半島は違う。夕暮れとともにメルボルンの中心街に戻ったが、全行程200キロの「メルボルン湾一周」は心に残るものだった。

世界一周の日本人女性ライダー
「メルボルン湾一周」から戻ると、日本人女性の熊田敦子さんを訪ねた。
 彼女はマイルス・ノットさんと一緒に住んでいた。熊田さんはすごい人なのだが、相棒の高橋宏彰さんと、なんと3年がかりで「世界一周」をなしとげたのだ。
 1992年6月、イギリスに2台のホンダCT110を送り出し、ロンドンをスタートし、ヨーロッパ→アフリカ→アジア→オーストラリア→南米→北米と、世界の6大陸10万5000キロを走り、アラスカのアンカレッジをゴールにした。
 アフリカ大陸縦断が大きな難関だった。
 モロッコからモーリタニアへのサハラ越えでは、国境で何日も足止めを食らった。カメルーンでは強盗に襲われ、ザイールでは暴動に巻込まれ、ウガンダでは雨期の悪路に立ち往生した。そんな困難にもめげずにアフリカ大陸南端のケープタウンに到着したのだ。
 1993年の正月をアフリカで迎え、94年の正月をインドのカルカッタで迎え、95年の正月を南米・ペルーの片田舎で迎えた「世界一周」だった。

 熊田さんは自転車での「日本一周」を思い立ち、東京でのOL生活にピリオドを打って旅立った。沖縄の西表島でオートバイで「日本一周」中の高橋さんと出会い、それがきっかけで2人は「世界一周」をすることになった。高橋さんは、片足が義足というハンデを乗り越えての「世界一周」だった。
 石川県の山代温泉に住んでいる高橋さんから、オーストラリアへの出発前に手紙をもらい熊田さんの住所を知った。
 マイルスも熊田さんに負けず劣らずのツワモノ。
 ヤマハのテネレでアジアを横断し、ヨーロッパを走り、アフリカ大陸を縦断した。やはり10万キロ以上走っている。その旅の途中で熊田さんに会ったのだ。
 マイルス&アツコは、いいコンビなのだ。

 2人に誘われパブに行った。パブでは食事もできる。ぶ厚いステーキを食べ、そのあとは、夜中の12時過ぎまでビールを飲んだ。話が尽きないのだ。
 ひと晩、マイルス&アツコの家に泊めてもらい、翌日は3人でマイルスのお母さんの農場に行く。メルボルンの北100キロほどのところにある。牛、馬のほかに愛犬のビーグル犬がいる。マイルスのお姉さんのカーリーとボーイフレンドのマイケルもやってくる。 日が暮れると、農場でのバーベキュー。
 焼きたてのソーセージをパンの上にのせ、トマトソース(ケチャップ)をかけて食べるのだが、これがうまい! 
 ビーフ、チキン、ポークの、ジューッと音をたてて焼き上がった肉を肴にビールを飲んだが、これがまた、うまい!

 見上げる夜空は満天の星空。天ノ川がよーく見える。
 英語ではミルキーウエーだが、その言葉通りで、まるでミルクを流したかのような無数の星。その中に南十字星が光り輝いている。
 このあたりには、よくコアラがやってくるという。
 コアラの鳴き声というのは、あのかわいらしい姿とは似ても似つかないもので、
「グヒェー、グヒェー」
 という、ロバの鳴き声とブタの鳴き声をミックスしたようなすさまじいものだという。ぜひとも、その鳴き声を聞きたいものだと思ったが、残念ながらコアラはやってこなかった。
 名残おしい農場だったが、10時過ぎにマイルスのクルマでメルボルンに戻り、そしてもう1晩、マイルス&アツコの家に泊めてもらった。

 翌朝は、オレンジジュースとコーンフレイク、トーストの朝食をごちそうになる。
 トーストにベジマイト、ハニーをつけて食べていると、アツコさんに、
「カソリさんは、もう、立派なオーストラリア人。日本人ってなかなかその味になじめないんですよ」
 と、ほめられた。
 2人の見送りを受け出発。マイルスとアツコさんは、家の前で、いつまでも手を振りつづけてくれた。そんな2人の姿がバックミラーから消えていく。

グレートオーシャンロードを行く
 さーて、アデレードだ。
 メルボルンからR1でジーロンへ。そこからR1よりも1本南の、海沿いのグレート・オーシャン・ロードを行く。
 このグレート・オーシャン・ロードは間違いなくオーストラリアのツーリングコース・ベスト10に入るようなルートなのだ。
 その日は日曜日ということもあって、ツーリング・ライダーとひんぱんにすれ違う。
 オートバイの大半は、大排気量のロードタイプ。サイドカーがけっこう多い。ピースサインを送ってくれるライダーもいる。

 トーキー、ローンとオシャンリゾートを通り、アポロ・ベイで昼食。ここからポート・キャンベルまでが、グレート・オーシャン・ロードのハイライトといったところだ。
 大陸がそのままストーンと海に落ち込み、断崖をつくっている。
 ポート・キャンベルに近づいたところに、“12人の使徒”と呼ばれる12の岩がある。日本でいえば、南紀の橋杭岩のようなもの。それぞれの岩が聖人に見えるので、“12人の使徒”の名がある。
 その先に“ロック・アード・ゴージ”がある。ゴージといえば、峡谷のこと。断崖が波に浸食され、切り立った峡谷をつく出している。この風景は、日本にはちょっとない。なお、“ロック・アード”というのは、この断崖の沖合で難破した船の名前である。
 ポート・キャンベルでは、海岸にDJEBEL250XCを止め、夕日に照らされた海を眺める。透き通った海と夕空。絵のように美しい風景だ。こうして、200キロあまりのグレート・オーシャン・ロードの走りを楽しみ、R1のプリンセス・ハイウエーに合流した。

ポリスとプールの女の子
 ビクトリア州の西の町、ポートランドからは、R1のナイトランでサウスオーストラリア州に向かう。
 天気は崩れ、ドカーッと雨に降られる。冷たい雨。雨を抜け出ると、今度は霧。体の芯まで凍りつくような冷たい霧に泣かされる。視界が悪く、仕方なくゴーグルをはずし、裸眼で走った。
 霧がはれたところで、道のわきにひそんでいるパトカーを発見。
 DJEBEL250XCのライトはきわめて明るく、なおかつ照射範囲が広いので、螢光塗料で書かれたPOLICEの文字をすばやくキャッチすることができたのだ。
 思ったとおりだ。バックミラーの中に、ポツンと車のライトが映り、ドンドンと近づいてくる。そしてある程度の距離を置いて、ピタッと後につかれる。DJEBELの速度を90キロ前後にキープして走る。このあたりのR1の速度制限は110キロなので、速度違反で捕まることはないが、あまり気持ちのいいものではない。

 10キロあまりも、パトカーにピタッとつかれたが、やっと追い抜いていった。
 ホッとした。
 追い抜いていったパトカーに、
「やー、ご苦労さん!」
 と、手を振ってあげたいような気分だ。
 そのすぐ直後のこと。対向車が猛烈なスピードでカッ飛んでくる。150キロは楽に超えているだろう。パトカーはキュキューッとブレーキ音をきしませてUターンし、赤青灯を点滅させ、その車を追っていった。
 オーストラリアのポリスカーは、対向車のスピードチェックもやっている。

 メルボルンとアデレードを結ぶ一番の幹線はR8なので、州境近くの、それも夜間のR1はほとんど交通量がない。自分ひとりが、ただひたすらに走っているといった感じなのだ。カンガルーの飛び出しに怯え、強烈な睡魔と闘いながら、ビクトリア州からサウスオーストラリア州に入る。ここで、30分の時差がある。
 21時30分、州境近くのマウント・ガンビエールの町に到着。
 メルボルンから560キロ。
 町の入口にあるモーテル「ジュビリー・モーター・イン」に泊まる。1泊40ドル。日本円で約3400円だ。
 ここの旦那と奥さんは、ともに“お人好し”を絵にかいたような人。日本語を知っているといって、
「サヨナラ、サヨナラ」
 と、あいさつをする。
「“さよなら”は別れのときのあいさつで、出会いのあいさつは“こんにちわ”、夜だと“こんばんわ”なんですよ」
 そう教えてあげると、夫婦は声をあげて笑った。

 ここにはインドアの温水プールがあるとのことで、奥さんは
「ぜひとも入りなさい」
 といってくれる。
 部屋で熱い湯のシャワーを浴び、生き返ったところで、その温水プールに行く。水着に着替え、15メートルくらいのプールで思いっきり泳いだ。すごーく気持ちいい!
 まさか、ほかには誰も来ないだろうと思っていたら、若いカップルがやってきた。このプールには、更衣室はない。プールサイドで着替えるのだ。
 目が点になってしまうというのはこのことで、女の子は躊躇することなく服を脱ぎ、なんと白い下着のパンツの上にTシャツという恰好でプールに入ったのだ。彼女は水着を持っていなかった。
 彼女はひと泳ぎすると、プールサイドに上がったが、それはあまりにも刺激の強すぎる光景‥‥。
 濡れて透けたTシャツごしに、彼女の豊かな胸のふくらみと、プチュンと突き出た乳首が、はっきりと見えてしまうのだ。たまらないゼ、おい、おい!!
 こんないい思いをしたマウント・ガンビエールから450キロ走り、翌日、アデレードの町に到着した。

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■コラム1■カソリのワンポイント・アドバイス
 オーストラリア人は、アメリカ人と同じように、ハンバーガーが大好きだ。
 それを証明するかのように、「マクドナルド」はオーストラリア最大の外食チェーンになっている。もうひとつのハンバーガー・チェーンの「ハングリー・ジャックス」もオーストラリアの外食チェーンの5本の指に入る。
 ちなみにオーストラリアの外食チェーンの御三家といえば「マクドナルド」、「KFC(ケンタッキー・フライドチキン)」、「ピザハット」で、アメリカとまったく同じだ。「マクドナルド」や「ハングリー・ジャックス」は、シドニーやメルボルンのような大都市には何店舗もあるし、ちょっとした町にはたいてい、ある。
 またハイウエー沿いのロードハウスにも数多くの店舗がある。

「マクドナルド」や「ハングリー・ジャックス」などのハンバーガー・チェーン店は、たしかに便利でなおかつ安いのだが、はっきりいってまずい。
 うまいハンバーガーを食べようと思ったら、チェーン店ではない店の、ホームメードのハンバーガーを食べることだ。
 焼き立てのハンバーグをはさんでくれるし、焦げ目のちょっぴりついたパンの味もすごくいい。さすがオーストラリアの“国民食”と思わせるだけの味のよさがある。
 おすすめはビッグ・ハンバーガーだ。
 それをハンバーガー・ウイズ・ア・ロットという。
 文字通り、いろんなものの入ったハンバーガーで、ベーコンやチーズ、エッグ(目玉焼き)、パイナップル、トマト、レタス、オニオン、ビートなどがはさまっている。値段は5ドル前後。日本でいえば、ラーメンを一杯食べるくらいの値段だが、これひとつで十分に満腹になる。
 ハンバーガー・ウイズ・ア・ロットは、厚さが10数センチにもなるぶ厚いもので、最初のうちは慣れなくて具をポロポロこぼしてしまう。ところが、「オーストラリア一周」の旅に慣れてくると、ほとんどこぼさずに上手に食べられるようになる。オーストラリアを離れて一番なつかしくなるのは、この味だ。

~~~~  
■コラム2■1973年版の「オーストラリア2周」

ヒッチハイクでの「オーストラリア一周」
 1973年の「オーストラリア一周」ではシドニーを出発点に、そして終着点にして、大陸を2周した。最初の1周目はヒッチハイクで、2周目は、2サイクル250㏄のオフロードバイク、スズキ・ハスラーTS250を走らせた。
 2周とも反時計回りで大陸を回った。
 ヒッチハイクでの「オーストラリア一周」では全部で88台のクルマに乗せてもらった。 そのときのヒッチハイクの仕方というのは、クルマに乗せてもらうまで歩くという方法で、毎日、20キロぐらいは歩いた。30キロ以上歩いた日もある。
 さすが、オーストラリアと思わせたのは、何台ものクルマに1000キロ以上の長い距離を乗せてもらったことだ。1台の車に2000キロ以上、乗せてもらったこともある。途中で運転を変わるという条件で乗せてもらったこともある。
 なにしろ、超貧乏旅行だったので、宿泊費は完璧にゼロ。毎夜、野宿をしたが、クルマに乗せてくれた人の家に泊めてもらったことも何度かあった。それも、食事つき。ヒッチハイクには、このような、うれしいオーストラリア人との出会いがつきものなのだ。

ユーゴ人のブラド
 2000キロ以上の長距離を乗せてくれた1人に、ユーゴ人のブラドがいる。
 彼は僕と同年代の青年で、19歳のときに、新大陸のオーストラリアに単身で移住した。ユーゴの貧困と不自由さから逃れたかったという。
 彼はノーザンテリトリーの熱帯雨林地帯でワニの密猟をやっていた。
「真夜中の川を明かりひとつで下っていくんだ。ワニを見つけてパーッとサーチライトを照らすと、ワニはまったく動けなくなってしまう。そこを銃でねらい撃ちにするんだ。1ヵ月で、5000ドル、もうけたこともあるよ」
 と、得意気に話してくれた。

 当時の5000ドルというのは、大変な額のお金。オーストラリア・ドルはアメリカ・ドルよりもはるかに高く、1ドルは402円だった。ちなみに現在(1996年)は90円前後。今回の「オーストラリア一周」に出発した96年5月は1ドルが85円だった。
 ブラドはワニの密猟でもうけた金を貯め、それを資金にしてオパールの原石を買いあさっていた。
「ワニの密猟はヤバイので、もうそろそろ、それをやめて、オパールを世界中に売りまくる」
 といっていた。

 ブラドはオーストラリアにやってきてよかったといったが、その反面では、彼はオーストラリア人を嫌い、憎んでもいた。彼にいわせると、オーストラリア人は調子がよくて、ずるくてまったく信用できないという。
 おそらく、彼がオーストラリアに来たころは、英語もあまり話せず、この国に慣れていなかったこともあり、まわりの人たちに冷たくされていると、思い込んだからだろう。
「オーストラリア人とはいっても、もとはといえば、自分と同じ移民なのだ。それなのにヤツらときたら、新しく移民してきたオレたちをバカにして」
 と、ブラドは怒っていた。

 ヒッチハイクしていると、オーストラリアが、いろいろな民族の混じりあった国だということがよくわかる。というのは、いろいろな民族の人たちに乗せてもらったからだ。
 日本人は海外に出ると、日本人だけでかたまるとよくいわれるが、それは何も、日本人に限ったことではない。
 ドイツ系はドイツ系でかたまり、フランス系はフランス系で、イタリア系はイタリア系で‥‥と、民族ごとにかたまり、おたがいに他民族のことはよくいわない。
 ブラドにしても、途中で立ち寄った友人たちのすべてが、ユーゴ人だった。

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「オーストラリア2周」前編:第4回 アデレード→パース
 (『月刊オートバイ』1997年4月号 所収)

 アデレードから西へ、パースへと向かっていくと、とてつもなくデッカいオーストラリアに出会うようになる。天も地も、けた外れのデッカさだ。
 自分の心の中まで、スコーンと抜けたようなデッカさになのだ。
 広大なオーストラリアの荒野の中をカソリ、一人、行く。
 ただひたすらに、地平線を目指してオートバイを走らせる。自分とオートバイとオーストラリア、それだけを考えていればいい。
 そんな「オーストラリア一周」の旅の日々だった。

日本人ライダーの溜まり場
 アデレードでは、バックパッカーズの「ラックサッカーズ」に泊まる。
 1泊9ドル(約800円)。ここは、オーストラリアを旅する日本人ライダーの溜まり場的存在。僕が行ったときも、数人の日本人ライダーが宿泊していた。
 半年あまりの長旅をまもなく終えようという人がいる。バイクのエンジントラブルで旅を断念した人がいる。小柄な女性ライダーがいる。すっかりここにはまり込み、1ヵ月以上も滞在している人がいる。
「ラックサッカーズ」のマーガレットおばさんは、とってもめんどうみのいい人。
 本人は“クイーン・オブ・ジャパニーズ・ライダー”(日本人ライダーの女王)といっているが、クイーンというよりはマザー(母親)だ。
 彼女を慕って、「ラックサッカーズ」に2度、3度と泊まる日本人ライダーは多い。
 僕もこのあと、3度、「ラックサッカーズ」には泊まることになる。

 さー、アデレードの町歩きの開始だ。
「オーストラリア一周」のオートバイ、スズキDJEBEL250XCを「ラックサッカーズ」の裏庭に置き、市内地図を頼りに、メインストリートのキングウイリアム・ストリートを南から北へと歩く。
 サウスオーストラリアの州都アデレードは、シドニーやメルボルンに比べると、はるかにこぢんまりした都市。トラム(市電)が走っている。
 中心街の右手にはタウンホール、左手にはGPO(ジェネラル・ポスト・オフィス)がある。その先がパーラメント(州議事堂)。パーラメントに隣合って、鉄道のアデレード中央駅がある。
“列車大好き”のカソリ。
 アデレード中央駅に行くと、発作的に自動券売機で切符を買い、発車間際の電車に飛び乗った。すでに日は暮れ、あたりは暗かった。何行きの電車かわからなかったが、アデレードから10個目ぐらいの駅で降りる。“ホーブ”という駅だった。
 駅の近くに「東方酒家」というチャイニーズ・レストラン。そこで夕食にする。フカヒレスープを飲み、ボリュームたっぷりのチャーハンを食べる。両方合わせて10ドルほど。 安い!
 ビールを飲み、食後のコーヒーを飲み、全部で16ドル80セントだった。
 店の主人は僕が日本人だとわかると、BGMに日本のナツメロを流してくれた。

カンガルーの飛び込みだ~!
 アデレードの中心街にあるオートバイショップ、「スズキ・シティー」。
 そこでDJEBELのオイル交換とオイルフィルターの交換をしてもらい、パースを目指して出発した。
 R1のプリンセンス・ハイウエーを西へ。
 300キロほど走り、ポートオーガスタの町に着く。ここからR1はエアー・ハイウエーと名前を変える。オーストラリア大陸をグルリと一周する世界最長のハイウエーのR1は、それぞれの区間によって街道名が変わる。シドニーからポートオーガスタまでがプリンセス・ハイウエーになるのだ。
 ポートオーガスタの市街地を抜け出たあたりで、R1とR87が分岐する。
 大陸一周ルートのR1と、大陸縦断ルートのR87(スチュワート・ハイウエー)という2大幹線が分岐するこの地点は、オーストラリア道路網の中でも、きわめて重要なポイントといえる。

 西へ、西へと走る。
 エアーズロックのミニ版といった赤い岩山が見えてくる。鉄山のアイロン・ノブだ。
 その先のキンバの町には、「シドニー・パース」の“大陸横断・中間点”の案内板が立っている。
 西に向かって走るにつれて、荒涼とした風景になる。それは南米のパタゴニアに似た風景。カンガルーの死骸が道端に点々ところがっている。100キロぐらいのスピードで走っているので、カンガルーに真横から飛び込まれたらもうアウト‥‥。
 その不安が的中し、日が暮れると、DJEBELのヘッドライトめがけてカンガルーが飛び込んできた。
「ヒェー!」
 と、思わず、絶叫。
 からくもハンドリングでかわしたが、一瞬、心臓が凍りつくような思いだっだ。
 
ナラボー平原横断
 セデューナの町で一晩、泊まり、翌日、ナラボー平原に入って行く。
 360度の地平線が広がる。一面の草原。樹木がほとんどないので、DJEBELに乗りながら、世界の果てまで見渡しているかのような、壮大な気分になる。
「デッカいゾー、オーストラリアは!」
「オーストラリア一周」の旅では、あちらこちらで、この“デッカいオーストラリア”に出会うが、そのたびに感動ものだ!
「これがオーストラリアだゼ」
 と、デッカいオーストラリアに感激しながらナラボー平原を走る。

 すると、前方に黒雲。運悪くその中に入ってしまい、土砂降りの雨になる。
 2連の大型トレーラーのロードトレインにすれ違うたびに、路面に溜まった雨水を盛大に浴びせかけられる。
 DJEBELに乗りながらシャワーを浴びるようなもので、その瞬間、まったく視界がなくなってしまう。恐ろしい‥‥。寒さが厳しいので、雨の冷たさが、ひときわ身にしみる‥‥。
 ツーリングの毎日は、このような天国と地獄の繰り返し。でも、この天国と地獄のギャップの大きさが、また、ツーリングの魅力になっている。

 州境のボーダービリッジのモーテルで泊まり、ウエスタンオーストラリアへ。それとともに、時間帯がセントラル・ウエスタン・タイムゾーンになり、45分の時差。
 時計を45分遅らせる。
 ウエスタンオーストラリアのR1を走る。道路沿いには、やたらと、カンガルーの死骸がころがっている。エミューが2度3度とR1を横切っていく。
 カイグーナのロードハウスで昼食にする。
 デイ・スペシャルを頼む。日本でいえば、日替わり定食だ。
 さーて、何が出てくるのかなと期待したが、それは期待以上のものだった。 
 中東の羊肉料理のシシカバブーをオーストラリア風にアレンジしたもので、牛肉を角切りにし、タマネギ、ピーマンと一緒に串焼きにし、甘味と辛味の混じったタイ風チリーソースをかけてある。それに、細長いインディカ米を炊いたご飯とチップス、オリーブの実がいくつも入った地中海風サラダが添えてある。
 なんともエキゾチックな味に大満足。値段は日本の日替わり定食とほぼ同じくらいの10ドル(850円)だ。

 カイグーナを過ぎると、“90マイル・ストレイト”。
 90マイル(146・6キロ)の直線路だ。その間、ただの1個所も、カーブはない。行けども行けども直線路。一直線の道を地平線をめがけて走りつづける。
 地平線上には雨雲。
 雨の降っているところと晴れているところがはっきり分かれている。うまい具合に、巨大な2本の柱のような雨雲の間をすり抜ける。
 すると、鮮やかな二重の虹がかかっていた。
“90マイル・ストレイト”が終わり、カーブにさしかかると、
「おー、道が曲がってる!」
 と、ホッとした気分になる。

 そこで、もうひとつの時間帯のウエスタン・タイム・ゾーンに入り、時計をさらに45分遅らせた。1日に3つの時間帯に入ったのは初めての体験だ。
 夕日に向かって突っ走り、地平線に日が落ちると、今度は、カンガルーの恐怖に怯えながらのナイトラン。夜の8時過ぎ、セデューナから1200キロのノーズマンに到着。ここがナラボー平原横断のゴール。海を越えて港にたどり着いたようなもの。
「ノースマン・エアー・モーテル」に泊まった。

日本人ライダー、広さんとの出会い
 ノースマンからは、いったんR1を離れ、R94でカルグーリーまで行ってみる。カルグーリーとその周辺は、世界でも有数の金鉱山地帯なのだ。
 ノースマンから180キロのカルグーリーに着くと、まず、巨大な露天掘り鉱山のスーパーピットを見る。地底をはいずりまわっている超大型ダンプが、アリぐらいにしか見えない。
 このカルグーリーのオープンピットは、人間が地球にあけた穴としては、世界でも最大級のものだ。
 すごい!
 つづいて、郊外にある“ミュージアム・オブ・ゴールドフィールド(金鉱山博物館)”を見学する。
 トロッコ列車に乗ってミュージアム内をまわり、19世紀のゴールドラッシュ当時の写真や資料、復元されたホテルや銀行などを見てまわる。金鉱山の地下坑を案内してもらい、砂金採りを自分で体験し、ドロドロに溶かした金から金塊をつくる作業を見る。出来上がった金塊は人間の心を狂わせるかのような妖しい光りを放ち、手に持つと、ズッシリと重かった。
「あー、こんなヤツが1個あればなあ‥‥。オーストラリア一周のあと、すぐにでも世界一周に旅立てるのに‥‥」
 と、思わず嘆きの言葉が出てしまう。

 カルグーリーからノースマンに戻ろうと夕暮れのR94を走っているときのことだった。 DJEBELのバックミラにオートバイのライトが映り、だんだん近づいてくる。そのオートバイは、ぼくの後にピタッとついて離れない。旅行者のようだ。
 スピードを落とし、路肩に止める。後のオートバイも止まる。荷物を満載にしたスーパーテネレだ。
 ぼくがヘルメットをとると、
「やっぱり、カソリさんだ!」
 と、スーパーテネレ氏は声を上げる。日本人ライダーの広雅司さんだった。
「ナンバープレートが日本の国際登録ナンバーなんで、きっとカソリさんだって、そう思ってましたよ。今、オーストラリアを走ってる日本人ライダーは、みんな、カソリさんがオーストラリアを走っていることを知ってますよ
 と、うれしいことをいってくれる。
 ツーリングライダー同士のこういう出会いというのは、うれしいものだ。広さんと一緒にノースマンで泊まることにした。

 ノースマンに着くと、前夜と同じ「ノースマン・エアー・モーテル」に泊まる。シャワーを浴びてさっぱりしたところで、広さんとレストランに行く。ビルで乾杯し、西オーストラリア産のワインを飲みながら、ちょっと豪華なフルコースの食事をする。
 そのあと、BPのロードハウスに場所を移す。カフェのテーブルに地図を広げ、コーヒーを飲みながら、広さんからオーストラリアのいろいろな話を聞いた。ダート情報も教えてもらった。これがあとで、すごく役立つことになる。
 彼はバイクショップやクルマのディーラーで、メカニックの仕事をしながら旅の資金を稼ぎ出し、すでに1年近くもオーストラリアをまわっていた。
 翌朝、広さんと別れる。彼はR1でアデレードへ、ぼくはR1でパースへと向かった。

最南西端のリーウィン岬
 R1の名前が変わる。ノースマンからサザンオーシャン(南氷洋)に面したエスペランスまでの200キロは、クールガルディー・エスペランス・ハイウエーという街道名になる。
 エスペランスに向かって南下していく。
 ユーカリの林が多くなり、さらに南下すると、一面の小麦畑になる。緑豊かな肥沃な土地だ。
 エスペランスに到着。海岸にDJEBELを止める。まっ青な空と海。サザンオーシャンから吹きつけてくる南風がキリリと肌に突き刺さる。冷たい。
 北半球の日本では、南風といえば暖かい風のことだが、南半球のオーストラリアでは、南風というと身を切られるほど冷たい風になる。サザンオーシャンの対岸は南極大陸なのだ。

 R1の名前がまた、変わる。
 エスペランスから500キロ西のアルバニーまでは、サウスコースト・ハイウエーになる。一直線の道。交通量は少ない。広大な牧場がはてしなくつづく。
 夕方になると、天気はいっぺんに崩れ、あっというまに黒雲に覆われる。
 あちこちで稲妻が光る。そのうちにザーッと、激しい雨が降ってくる。すさまじい降り方。まるで嵐だ。
 暴風雨に見舞われながら、アルバニーに到着。ここからパースまでは、R1はサウスウエスタン・ハイウエーになる。シードニー・パース間のR1は、全部で4つの名前を持つ街道だ。
  豪雨のナイトランの開始。南極の方向から吹きつけてくる風は、恐ろしく冷たい。おー、神様、仏様、助けて下さいと、泣きが入るほど。雨と寒風のダブルパンチに、ただひたすらに耐えて走りつづける。
 峠越えが恐怖‥‥。
 交通量はほとんどなくなり、強風でなぎ倒された樹木や折れた枝が、道路上に散乱している。台風直撃の中を走っているようなもの。
 ノースマンから920キロ走り、22時、マンジマップの町に到着。モーテルに泊まる。シャワーを浴びる。生き返ったゼ!

 翌朝は前夜の嵐がうそのような晴天。気分も晴々してくる。R1をいったん離れ、オーストラリア大陸最南西端のリーウィン岬まで行く。
 森林を抜ける道では3度、カンガルーに出会った。最初に3頭、次に1頭、3度目に2頭。夜間とは違って、朝とか夕方にに飛び込んでくるカンガルーは怖くはない。それどころか、ピョン、ピョン、ピョンとジャンプしていくカンガルーの野性美には、いたく感動してしまう。余裕を持って、見ることができるのだ。

 アウグスタの町から10キロ、オーストラリア大陸最南西端のリーウィン岬に着く。
 ぼくはこの岬が“オーストラリア・ナンバーワン岬”だと思うが、青森県下北半島の尻屋崎風の、いかにも岬、岬した岬なのだ。
 3ドル払って、岬の先端の、白亜の灯台に登る。ハーハー、息を切らして登った上からの眺めは絶景だ。右手の海はインド洋、左手の海がサザンオーシャンの南氷洋。リーウィン岬は、インド洋と南氷洋という、2つの大洋を分ける岬なのだ。このような、世界を大きく分ける境い目を見ることができるのが、オートバイツーリングの“ものすごい魅力”になっている。
 R1に戻り、パースへ。その手前でDJEBEL250XCの走行距離は1万キロを突破した。ノントラブルで1万キロを走ってくれたDJEBELに、
「ありがとう!」
 といって、17リッターのビッグタンクをさすった。
 パース到着は6月16日。シドニーを出発してから20日目のことだった。

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■コラム1■カソリのワンポイント・アドバイス
 僕はどんなときでも、1日3度の食事は欠かさない。とくに朝食を抜くことは絶対にありえない。レストランでの朝食ではベーコーン&エッグを好んで食べた。
 ジューッと焼いて脂ぎったベーコンが、大皿にゴソッとのっている。エッグは目玉焼きがたいてい2つ。それに焼きトマトがついてくることが多い。
 カントリー・スペシャルとかワーカーズ・スペシャルといったボリュームたっぷりの朝食も何度か、食べた。値段は10ドル前後。ベーコン&エッグに、さらに、ソーセージやマッシュルームなどがついてくる。

 オーストラリアですっかり好きになったのは、朝食のコーンフレークだ。日本で食べることはまずないのだが、「オーストラリア一周」では、2、3日、これを食べないと、無性に欲しくなるほどだ。
 ミルクをたっぷり入れ、シュガーをふりかけて食べる。このコーンフレークのミルクだが、1度、ホットがいいか、コールドがいいかと聞かれたので、ホットを頼んだことがある。だが、あまりうまくなかった。コーンフレークにかけるミルクは冷たい方がいい。
 オーストラリア人は、コーンフレークなどのシリアルが、大好きだ。
 いろいろな種類があるが、その中にデーツ(ナツメヤシの実)やバナナ、ヨーグルトなどを入れ、ミルクをかけて食べる。胃にもたれないし、栄養価は高いし、理にかなった朝食なのである。

 朝食のトーストには、ベジマイトは欠かせない。
 こんがりと焼いたトーストに、バターもしくはマーガリンを塗り、その上にベジマイトをしっかりと塗りつけるのだ。ベジマイトというのはオーストラリア特有のペースト。日本の味でいえば、納豆と塩辛をミックスしたようなもの。この味にいったん慣れるとベジマイト抜きだと、ものたりない朝食になってしまう。
 ベジマイトをたっぷりと塗ったトースト(僕はそれをベジパンと呼んだ)を食べると、すごく元気がでる。それも当然で、ベジマイトには、野菜のエキスがたっぷり入っているのだ。

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「オーストラリア2周」前編:第5回 パース→ポートヘッドランド
 (『月刊オートバイ』1997年5月号 所収)

 ウエスタン・オーストラリアの州都パースは、いかにもオーストラリアらしいのびやかな、明るい都市だ。そんなパースから北へと向かって行く。
 シドニーからパースまでの大陸横断は寒さとの戦いの連続のようなもので、
「寒いよ、寒いよ」
 と、毎日、泣きが入った。
 オーストラリアの冬の寒さを甘くみていたからだ。
 パースから北に向かうにつれて、やっとその寒さから解放される。心ウキウキといった気分になってくる。

「オブリガトウ!?」
 パースでは、バックパッカーズの「RBP」に泊まった。1泊13ドルだ。ここは、アデレードの「ラックサッカーズ」と同じように、日本人ライダーの溜まり場になっているのだが、残念ながらその日は日本人ライダーは1人もいなかった。
 シャワーを浴び、ジーンズに着替え、スニーカーにはき替えてパースの町を歩く。夕暮れの風が気持ちいい。
 パースの銀座通りといっていい、モールのハイストリートを歩いていると、なんと、回転ずしの店があるではないか。まるで磁石で吸い寄せられたかのように、その店に入った。マグロやタコ、イクラもどきなど6皿を食べる。それとサラダボールとワカメの味噌汁で17ドル。日本円で1500円ほど。ひさしぶりの日本の味は、腹わたにしみ込むようだった。

 パース中央駅に行き、電車でフリーマントルまで行く。フリーマントルは港町。電車の中ではインド人に声をかけられた。40前後のサラリーマン風の人。その人はインド系モーリシャス人で、オーストラリアに移り住んでから、すでに10数年になるという。モーリシャスはインド洋の島で独立国になっている。
 彼は言葉の天才のような人で英語のほかにドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語を話せた。今、日本語を勉強中だとのことで、図書館で借りたという日本語会話のビデオを何本も持っていた。
“言葉の天才的インド人”は、うまいことをいった。
「オーストラリア人はレイジーピープル(あまり働かない)、日本人はビジーピープル(働きすぎる)だ」
 電車の中で即席の日本語講座を開き、“言葉の天才的インド人”に日本語の会話を教えた。彼は別れぎわに、ポルトガル語と日本語をミックスさせ、
「オブリガトウ!」
 といって、電車を降りていったのだ。
 ポルトガル語で「ありがとう」は「オブリガード」。それと日本語の「アリガトウ」を組み合わせての「オブリガトウ」なのだが、なんともユーモアのある人ではないか。

 フリーマントルはパースよりも、はるかに歴史を感じさせる町。夜の町を歩いているだけで楽しくなってくる。
 アイリッシュ・パブに入る。ビールを飲みながら、アイルランド人の歌うアイルランド民謡を聞く。そのあと、カフェでうまいコーヒーを飲み、ふたたび電車に乗り、パースのバックパッカーズに戻るのだった。
「RBP」には、日本人ライダーはいなかったが、チャリダー3人とバスダーの女の子2人が泊まっていた。
 彼ら、彼女らと、深夜の大宴会がはじまる。おおいに飲み、おおいに語り合った。カンビール1ダースとワインを6本カラにし、夜明け近くに大宴会はお開きになった。

飴色のアリの大群
 翌日、パース郊外のオズボーンパークにある「スズキ・ノース」でタイヤ、チェーン、スプロケットの交換をしてもらう。そして、きれいに洗車してもらう。ピッカピカになったスズキDJEBEL250XCに乗って、午前11時、出発だー!
 R1のブランド・ハイウエーを北へ。R94のグレート・イースタン・ハイウエー、R95のグレート・ノーザン・ハイウエーと、2本の幹線と分岐し、R1で、インド洋にほど近い海岸地帯を北へと走る。
 いかにもオーストラリアらしい広大な風景を写真にとろうとして、DJEBELをR1の路肩に止めたときのことだ。
 あっというまに飴色をしたアリの大群にたかられ、体の中まで入ってきて食いつかれた。
「イテテテ‥‥」
 と、思わず絶叫だ。この獰猛極悪なアリに食いつかれたとたんに、1973年の「オーストラリア2周」のシーンが、鮮やかによみがえってくる。

 真夜中まで走り、さー、野宿だとバイクを止め、シュラフにもぐり込んでまもなくのこと。やけに体がチクチクするので目をさまし、シュラフの中を見てみると、なんとアリだらけではないか。ゾッとする光景‥‥。
 だがそれだけではなかった。体のあちこちに食らいついたアリがブランブラン、ぶらさがっていた。そのアリを1匹づつたたき落とし、シュラフをパタパタやってアリを追い出した。
 もう、それ以上、そこで寝る気もしない‥‥。素早くシュラフを丸め、逃げるようにして、真夜中の道を走り出したのだ。それは、1973年の「オーストラリア2周」の中でも、一番辛かった思い出のひとつだ。

 18時、パースから400キロのジェラルドトン着。
 ここを過ぎると、R1は、ノースウエスト・コスタル・ハイウエーと名前を変える。
 ナイトラン。ノーザンプトンの町を過ぎる。ほとんど交通量のなくなった夜間のR1を走りつづけ、23時、パースから700キロのビラボング着。ここにはロードハウスがあるが、その近くでシュラフのみの野宿。幸いアリにはやられなかったが夜中に雨‥‥。ロードハウスの屋根つき駐車場に下に逃げ、そこで夜明けまで眠るのだった。

大陸最西端のスティープポイント
 翌朝、ロードハウスで、2ドル払ってシャワーを浴び、ロードハウスのレストランで朝食にする。モーニングコーヒーを飲みながら、ベーコン&エッグを食べる。カソリ好物の朝食メニュウ。ゴソッという感じでベーコンが出た。ボリュウームたっぷりで、食べきれないほどだ。
 ビラボングからR1を50キロ行くと、次のロードハウス、オーバーランド・ロードハウスに着く。そこで給油し、いったんR1を離れ、オーストラリアの大陸最西端の地、スティープポイント(ポイントは岬に意味)に向かっていく。
 イルカの餌づけで有名なモンキーマイヤに通じる舗装路を走る。前方に黒雲。やがてその中に入り、ザバーッと、盛大に雨が降る。40キロほどで左折。ユースレスループに通じるダートに入っていったが、雨に濡れたダートはツルツル滑る。リアが流れ、転倒しかかったときは、冷や汗ものだ。雨が上がり、青空が広がってきたときは、
「助かったゼ!」
 と、ホッとした気分。路面はみるみるうちに乾き、走りやすくなった。

 第1セクションのユースレスループに通じるダートを85キロ走り、左折する。すると、路面の荒れたダートになる。大きな水溜まりが点々とできている。この第2セクションのダートを20キロ走り、今度は右折。第3セクションの15キロのダートはきつかった。強烈なコルゲーション。ダダダダダダダダダダーと、激しい振動。DJEBELがバラバラになってしまうのではないか‥‥と、心配になってしまったほどだ。
 最後の第4セクションは40キロのダート。ここが最大の難関だ。砂が深く、道幅が狭く、おまけに急坂の登り。アクセルをガンガン吹かすのでエンジンは焼け気味。何度かDJEBELを止め、エンジンをさました。

 それだけに、大陸最西端のスティープポイントに着いたときは、思いっきり「万歳!」を叫んでやった。
 オーストラリア大陸最西端の地といっても、スティープポイントには、人一人いない。タスマニア島のオーストラリア最南に地のところでも書いたことだが、オーストラリア人というのは、最端の地には、あまり興味がないようだ。
 スティープポイントには、
「ウエスタンモースト・ポイント・オブ・オーストラリア(オーストラリア最西端)」
 と、そう書かれた木標が立っている。目の前のインド洋の青さがひときわ色鮮やかだった。

幻聴、幻覚のナイトラン
 日暮れにオーバーランド・ロードハウスに戻ってきた。ここで給油し、夕食にする。ホームメイドのパンつきスープとチキン&ハム入りのサラダだ。コカコーラを飲みながら食べる。
「さー、行くゾ!」
 と気合を入れ、19時、出発。ナイトランの開始だ。
 R1でポートヘッドランドを目指す。南回帰線近くまで北上しているので、昼間の気温はかなり上がっているが、夜間はグーッと冷え込む。寒さに震えながらのナイトランになる。

 夜間の交通量はきわめて少ない。ときたま、ロードトレインにすれ違う。ナラボー平原横断のR1では、2連だったが、このあたりになると3連の大型トレーラーを引っ張るロードトレインになる。全長50メートル。すれ違うときの風圧がすさまじい。ふっ飛ばされそうになる。
 オーストラリア人ドライバーのマナーは全般的に良好だが、ロードトレインのドライバーも同様だ。すれ違うかなり手前でライトをハイビームからロービームに切り換える。ハイビームのままで走ってくるロードトレインは、まずない。
 ナイトランではDJEBELの大口径、大光量のビッグライトが、その威力をおおいに発揮してくれた。ライトの照射範囲がきわめて広いので、カンガルーも、飛び込んでくる寸前の路肩で、その姿をとらえられる。

 20時30分、ウーラメルのロードハウスに到着。オーバーランドのロードハウスから170キロ。その間には何もない。
 22時、カーナボンに到着。パース・ポートヘッドランド間では、ジェラルドトンと並ぶ大きな町だ。
 カーナボンからさらにナイトランをつづける。眠い‥‥。睡魔との戦いになる。闇夜がゴーッとうなっているかのような幻聴が聞こえてくる。
 DJEBELのライトで照らし出す道の両側の木々が、カンガルーに見えたり、オーストラリアにはいるはずのないキリンに見えたり、とてつもない巨人に見えたりする。前方の暗い地平線が、大山脈や大密林に見えたりもする。それを振り払うかのように、
「ウォー!」
 と、わけもなく大声を張り上げた。
 24時、ミニリアのロードハウス到着。ビラボングから760キロだ。地面にシートを広げ、その上に、シュラフを敷いて寝る。寒さに震えてのナイトランだったのにもかかわらず、
「プーン、プーン」
 と、うるさい蚊の襲撃だ。布製の袋を頭からすっぽりかぶり眠る。昼はハエ、夜は蚊、これがオーストラリアのアウトバックなのだ。

我が黄金の40代!
 ミニリアでいったんR1を離れ、エクセマスの町へ。そこからオーストラリア大陸最北西端のノースウエスト・ケープまで行き、“ミルドゥラ号”という難破船を目の前にする岬の先端に立った。帰路では、観光地になっているコーラルベイに立ち寄り、ミニリアのロードハウスに戻った。そして、R1をポートヘッドランドへ。
 南緯23度26分30秒の南回帰線(トロピック・カプリコン)を越える。オーストラリアも、温帯圏から亜熱帯、熱帯圏に入ったのだ。こころなしか、太陽光線がグッと強くなったような気がする。
 一望千里の大平原を行く。土の色が強烈だ。まっ赤な大地。目の中まで、赤く染まりそう。赤い大地の荒野には無数のアリ塚が墓標のように立っている。

 平原から台地へと風景が変わる。テーブル状の岩山。夕暮れが迫る。きれいな夕焼け。透き通るような水色の夕空。やがて地平線を赤々と染めて日が落ちる。みるみるうちに変わっていく満天の星空‥‥。
 ナヌトゥラのロードハウスで給油&夕食。そして星空を見上げながらのナイトラン。少し早めに、9時前に走行を切上げ、パーキング・エリアの屋根つき休憩所を1晩の宿にした。ベンチにシュラフを敷く。欲をいえば、もうすこしベンチの幅が広いと、もっと寝やすいのだが、などと勝手なことをいう。
 降るような星空。シュラフにもぐり込み、天の川を見上げていると、なぜか、無性に自分の40代が思い返されてならなかった‥‥。

 1987年から88年にかけては、スズキSX200Rでの、「サハラ砂漠往復縦断」。カソリ、40歳のときのことだった。これから迎えようという厄年を力でねじ伏せてやろうとした。
 1989年には、50㏄バイクのスズキ・ハスラーTS50での「日本一周」。カソリ、41歳から42歳にかけてのことだ。
 1990年には「日本一周」で使ったTS50での、「世界一周」。カソリ、42歳から43歳にかけてのことだ。
 1991年には、スズキDR250SHでの「東京→稚内→サハリン」。
 東京をオートバイで走り出し、海外ツーリングをするという長年の夢を果たしたのだ。カソリ、43歳。 
 1992年から93年にかけては、スズキRMX250Sでの「インドシナ一周」。タイ→ラオス→ベトナム→カンボジア→タイと、陸路でのインドシナ一周は世界初。カソリ、44歳から45歳にかけてのことだ。

 1993年にはスズキDR350での「オーストラリア・エアーズロック」。カソリ45歳。
 1994年には、ホンダCR250での「中国タクラマカン砂漠一周」。タクラマカン砂漠は小学校時代からの夢で、46歳になって、ついにその夢を果たしたのだ。
 1995年には、スズキDR350での「オーストラリア・大分水嶺山脈」。カソリ47歳。
 そして、48歳になって、今回の「オーストラリア一周」なのである。自分の歩んできた道を振り返ってみると、まさに“我が黄金の40代!”。
 こういうことを考えられるのも、旅の日々のおかげ。旅している毎日は、自由自在に、いろいろなことに思いを馳せることができる。それがオートバイツーリングのよさなのだ。

 パーキングエリアの屋根つき休憩所での気持ちよい目覚め。蚊にはやられなかったし、屋根のおかげでそれほど寒くなかったし、雨の心配もなかったし、ロードトレインもそれほど走っていなかったし、よく眠れた。
 その日の昼過ぎ、日本人チャリダー阿久澤忠邦さんに会う。弁慶号で半年がかりでオーストラリアをまわっている。阿久澤さんの1日の走行距離は5、60キロから150キロぐらい。ブッシュキャンプの連続だとのことで、虫にやられた跡がすさまじい。そんな阿久根澤さんと別れ、夕方、インド洋の港町ポートヘッドランドに到着した。

~~~~
■コラム■ワンポイント・アドバイス
 本文でたびたび出てきたロードハウスというのは、街道沿いにあるレストランやミニショップつきのガソリン・スタンドのことだが、さらには、モーテルやキャラバンパークパブつきのロードハウスもある。
 オートバイやクルマでオーストラリアを旅するときは、ロードハウスで、すべての用が足りてしまうほどで、砂漠を旅してたどり着くオアシスのようなものだ。夜、遅くまで開いているし、24時間営業のロードハウスもある。

 猛烈に暑い炎天下を走り、ロードハウスの“コールド・ビアー(冷えたビール)の看板を見たときは、クーッと飲みほす冷たいビールを想像しながら走るのだ。あと、何キロかの、ロードハウスに着くまでが、待ち遠しくて仕方がない。
 腹をすかせて走りつづけ、やっとロードハウスにたどり着いたときは、うれしいものだ。よーし、すこし豪勢にTボーンステーキでも食べようと、たっぷりと時間をかけてロードハウスのレストランで食事する。それはなんともいえない満ち足りた幸せな時間だ。
 ナイトランをしていて、まっ暗な地平線の向こうに、ポツンとロードハウスの明かりが見えてきたときは「助かった」と叫んでしまう。眠気も吹き飛び、元気が出る。よーし、もう、ひと頑張りだという気になる。

 ロードハウスでは、食事ができるだけではない。給油&休憩で止まったときは、ミニショップでポテトチップスとコカコーラを買い、ポテトチップスをパリパリ食べながら、コカコーラを飲むのが楽しみなのだ。
 ロードハウスのトイレには、たいてい有料のシャワー(なかには無料のところもある)がついている。汗まみれ、埃まみれになって走り、ロードハウスに着いたときは、まずシャワー。熱い湯を浴びると、生き返ったような気分になる。
 オーストラリアにあって日本にないもののひとつに、このロードハウスがある。日本の街道沿いにも、オーストラリア風ロードハウスがあればいいのに。

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「オーストラリア2周」前編 第6回:ポートヘッドランド→ダーウィン
 (『月刊オートバイ』1997年6月号 所収)

 インド洋岸の港町ポートヘッドランドからダーウィンに向かって北に走ると、猛烈な暑さ。スズキDJEBEL250XCに乗っていても目の前がまっ白になる。頭がクラクラし、思考能力ゼロになってしまう。
 R1のアスファルトは逃げ水でユラユラ揺れている。まるで地平線上に大きな湖があるようだ。そんな幻覚の地平線湖の中から対向車がユラユラ揺れて近づいてくる。北部オーストラリアは暑さの超ー厳しい世界だ。

恐怖のナイトラン
 ポートヘッドランドから北のダーウィンに向かう前に、南の世界最大級の鉄鉱山があるニューマンまで行くことにした。往路はダートのマーブルバーロードを経由する。
 この道は「1973年版オーストラリア2周」で最も辛い目にあったところ。腹わたがよじれるようなコルゲーションで、それも真昼にパンクした。マーブルバーは、オーストラリアでも一番暑い町といわれているようなところなのだ。パンク修理が終わったときには、のどの渇きでヒーヒー状態だった。
 今回はマーブルバーロードはナイトランだったが、歴史は繰り返すとでもいうのか、またしてもここで、危機一発という目にあった。
 最初はカンガルーの飛び出しだ。「やったー!」と、心臓が凍りついたが、急ブレーキで、からくも目の前をジャンプしていったカンガルーをかわすことができた。

 だが、ほんとうの危機は、そのすぐあとにやってきた。黒色のウシが路上をノソノソ歩いていたのだ。色が黒かったこともあって、まったく目にはいらなかった。
「あ、激突だ!」
 と、一瞬、目をつぶってしまったほど。
 ウシのギョロッとした目と角が目の前にあった。どうして避けることができたのかよくわからないが、衝突も転倒もしないで、そのウシをかわすことができた。もう、奇跡としかいいようがない。もし、このウシに激突していたら、命にかかわるような事故になっていたことだけは間違いない。マーブルバーの町に着いても、体の震えは止まらず、膝がガクガクしてどうしようもなかった。

 マーブルバーはアボリジニの町。パブに入ると、酔っぱらったアボリジニたちが、大声で話していた。というよりも、わめき合っていた。
 ぼくは冷たいビールをキューッと飲み干し、無事を感謝し、町外れでいつものシュラフのみのゴロ寝をする。風にのって、アボリジニの酔っぱらった声が聞こえてくる。
 330キロのダートを走り、ニューマンに到着。そこでは、世界最大級の露天堀りの鉄鉱山を見学する。ここの鉄鉱石は専用の鉄道でポートヘッドランドに送られ、そこから10万トン、20万トンという超大型の鉄鉱石専用船で日本などの製鉄所に送られていくのだ。 ニューマンからの帰路は、R95の舗装路でポートヘッドランドに戻るのだった。

おー、ブルームよ!
 ポートヘッドランドからR1のグレート・ノーザン・ハイウエーを北へとDJEBELを走らせ、インド洋岸のブルームに到着。ブルームといえば“真珠の町”でよく知られているが、日本人の真珠取りのダイバーたちが、昔から大勢、移住している。郊外の一角にはそんな日本人の墓地がある。全部で707基の墓があり、919人が埋葬されているという。
 異国の地で死んだ我が同胞。その墓がズラズラと並んでいる光景には、キューンと胸に迫ってくるものがある。
 目頭が熱くなり、思わず手を合わせ、深々と頭を下げるのだった。

 ブルームの海の青さは強烈。スーッと吸い込まれそうになるほどの色鮮やかさ。長い砂浜がつづくケーブルビーチに行く。ここはトップレスのビーチだと聞いて、胸をふくらませてやってきた。だが、度胸のないカソリ、トップレスのボインの女の子たちをジロジロ見ることができなかった‥‥。悔しいよ。
 ブルームでは、バックパッカーズの「ローバックベイ」に泊まった。夕食は6ドル(540円)払って、裏庭でのバーベキュウー。これは安い。ステーキ用の肉と骨つき肉、ソーセージを炭火で自分で焼く。それにパンとサラダ、ポテトがつく。
 スティーブとステフィー(ステファニー)のカップルと一緒のテーブルで食べる。スティーブはオーストラリア人だが、ステフィーはドイツ人女性。2人はギリシャのエーゲ海の島で知り合い、一緒になった。

 同じ旅人同士、2人とはすっかり意気投合し、夕食後、パブに場所を移し、ビールを飲みながら、おおいに話した。
 30代半ばのスティーブはすごいヤツ。アフリカを縦横無尽にヒッチハイクでまわった。インドには2年滞在し、ネパールのトレッキングでは、オートバイでエベレストに挑戦した風間深志さんに出会っている。
 2人とは、また、ダーウィンで再会することになる。

トトロちゃんとの出会い
 翌朝、カフェでスティーブ&ステフィーのカップルと一緒にコーヒーを飲み、ブルームを出発。猛烈な暑さの中をダービーに向かう。その間240キロ。
 昼過ぎ、ダービーに近づいたときのことだ。町まであと10キロぐらいのところを、何と、日本人の女の子が歩いているではないか。てっきり、彼女がヒッチハイクしているものだとばかり思った。色白のかわいらしい女の子で、小さなザックを背負っていた。彼女のかわいらしさに心ひかれ、
「ガンバッテね」
 と、ひと声かけようとUターンした。
「こんにちわ」
 とあいさつすると、彼女はニコッとほほえんだ。
 その笑顔に胸がキューンとしてしまう。

 彼女の話を聞くと、ヒッチハイクしているのではなく、どうしても見たいものがあるので、この炎天下、ダービーの町から歩いてきたのだという。その見たいものというのは、宮崎駿の原作『となりのトトロ』に出てくる木のモデルになったボーブの大木なのだという。
「どうぞ、どうぞ、乗ってくださいよ」
 と、なかば強引に彼女を後に乗せ、そのボーブの大木までタンデムで行く。ボーブとはアフリカのバオバブと同じで、世界でもアフリカのサバンナ地帯とオーストラリアのこの地方にしかない。
「オーストラリア一周」で、まさか美人とタンデムするだなんて、夢にも思わなかったなあ。遠慮がちに、ぼくの肩に、そっとのせた彼女の手のあたたかさが、モロに伝わってくる。

 そのボーブは“プリズン・ボーブ・トゥリー(牢屋のボーブの木)”といわれる大木。 幹には洞があり、中には楽に人が入れるほどの大きさなのだ。
“トトロの木”のボーブを見たあと、彼女とふたたびタンデムでダービーまで行き、レストランで食事をした。なんとも楽しいひととき。食後のコーヒーを飲みながら彼女といろいろな話をした。つい、いましがた出会ったばかりだとは、とても思えないような、まるで恋人と話しているような気分なのだ。
 彼女はバスダーで、4ヵ月がかりでグレハン(グレイハウンド)を乗り継ぎ、オーストラリアを一周中。だが、とてもそんな長旅をしているようには見えなかった。清楚な美しさを保っていた。花でいえば、白いナデシコといったところだ。
 あっというまに時間が過ぎ、夕方、彼女と握手して別れ、ナイトランで560キロ先のホールスクリークに向かう。お互いに名前も知らないままに別れたが、ぼくは彼女のことを“トトロちゃん”と呼ぶことにした。
 満天の星空の下を走りつづけたが、何度も“トトロちゃん”の笑顔が浮かび、ナイトランの辛さをやわらげてくれた。

「オー、カミカゼ!」
 夜中にたどり着いたホールスクリークでは、ロードハウスの駐車場でゴロ寝し、翌朝、2ドル払ってシャワーを浴び、さっぱりする。レストランで朝食。ワーカーズ・ブレイクファースト(労働者の朝食)というボリュームたっぷりのもの。バターを塗ったトースト2枚に、ベーコン、ソーセージ、エッグ、トマト(焼いたもの)、オニオン(タマネギ)、ビーン(豆)とオーストラリア人が朝食に食べるものすべたがついている。
 このレストランの壁に貼ってある1993年2月の大洪水の写真がすごい。道路はズタズタに寸断されている。全長50メートル、総重量100トンという3連のトレーラーのロードトレインが、なんと濁流に流されている。立ち往生したロードトレインのすぐわきには、救援物資を積んだヘリコプターが舞い降りている。

 ホールスクリークの町から北に400キロ、昼過ぎにウィンダムに着く。熱風がうず巻いている。カーッと照りつける強烈な太陽光線に頭がクラクラしてくる。
 ウィンダムの町の郊外にあるアフガン人の墓地に行く。ラクダとともに、この大陸にやってきた人たちのものだ。北部オーストラリアでは、ときたま野性のラクダを見るが、その先祖は19世紀にアフガニスタンから連れてこられたもの。ラクダはオーストラリア内陸部開発の大きな力になった。アフガン人は、それらラクダのラクダ使いだったのだ。

 ウィンダムの町から10キロほど行くと、チモール海の湾に面した港に出る。海辺の店でハム&サラダのサンドイッチとコカコーラの昼食を食べていると、ニュージーランド人のカップルに声をかけられた。
 この季節、ニュージーランドは冬。2人と同じように厳しい寒さを逃れ、熱帯圏の北部オーストラリアにやってくるニュージーランド人は多いという。2人はブリスベーンで車を買い、1ヵ月間の予定で旅している。最後にブリスベーンで車を売り払い、ニュージーランドに帰るのだという。
 2人は、前の年(95年)には日本をやはり1ヵ月、旅した。
「トーキョウ、ベリー・エクサイティング!」
 と東京が気にいったという。東京・新宿駅の人の多さには、2人とも目を丸くして驚いた。
「ニュージーランドの全人口がシンジュクに集まったようだ」
 と、ジョークで、その人の多さをいいあらわした。

 サンドイッチを食べた店の隣に小さな博物館があり、のぞいてみた。そこにあった1枚の写真に目がくぎづけになる。
 1924年のもので、13人のアボリジニの囚人が、手かせ、足かせをされたうえに、首には鎖をグルグル巻きにされていた。
 驚かされたのは彼ら、13人の囚人の顔つき、態度で、今の酔っぱらいだらけのアボリジニからはとうてい信じれれないような、堂々としたものだった。

 ウィンダムを出発。カナナラを通り、ノーザンテリトリーに入る。R1はビクトリア・ハイウエーと名前を変える。
 日が暮れナイトランになる。
 19時、ティンバークリークに到着。ここで2人のスイス人ライダーに出会う。彼らは2台のホンダ・アフリカツインで、1年がかりでオーストラリアを一周中だった。彼らはぼくのDJEBELに積んだ荷物を見て、
「たったこれだけなのか!」
 といって驚き、さらにぼくがナイトランで300キロ先のキャサリーンまで走るというと、
「オー、カミカゼ!!」
 と、絶句した。

 猛烈な睡魔と戦いながら走りつづけ、24時、キャサリーンに着く。ホールスクリークから1日で1030キロ走った。
 町外れでゴロ寝し、翌朝、R1を北へ、ダーウィンへ。その間のR1はスチュワートハイウエーになる。こうして6月24日の14時、ダーウィンに無事、到着。「オーストラリア一周」のほぼ半分の行程を走ったことになる。
 シドニーから16706キロのことだった。


■ワンポイント・アドバイス■
カソリ流野宿のすすめ
 ポートヘッドランドからダーウィンまでの3786キロでは、1晩、ブルームのバックパッカーズに泊まった以外は、すべてが野宿だった。
 さて“カソリ流野宿”だが、テントは張らずに、シュラフのみのゴロ寝である。テントを持たないのは、もちろん荷物を軽くしたいためだが、テントを持つと、テントだけではすまずにどうしても、あれもこれもと荷物が増えてしまうものなのだ。当然、自炊もしたくなるので、自炊道具、さらには食料をゴソッと持つようになる。
 この、荷物の重さが辛くなるのだ。短期間のツーリングなら別にどうということもないのだが、長期間に及ぶロングツーリングになると、その重さが自分自身の体に、そしてオートバイにズッシリとこたえてくる。
 荷物の重さによって腰や肩、膝がなどが痛くなり、オートバイは荷物の重さによって、フレームを折るといった予期しないトラブルにも見舞われる。

 さらに、テントを張るとなると、行動が大幅に制限されてしまう。テントサイトを探すためにまだ明るいうちに、1日の走行を終えなくてはならなし、テントを張るのにいい場所がみつからないとイラついてくる。真夜中まで走りつづけるといった芸当などもできなくなる。
 それにひきかえ、“カソリ流野宿”は、なにしろシュラフを敷くだけなので、時間も場所も関係ない。好きなだけ走って、どうしようもなく眠くなったらオートバイを適当なところで止め、そのわきでゴロ寝する。オートバイを止め、シュラフを敷き、その中にもぐり込み、深い眠りに落ちていくまでに、5分とかからないのだ。

 出発するときも同じこと。なにしろ撤収が簡単なので、夜明けの目覚めから5分もかからずに、もう、走りだしている。
“カソリ流野宿”のよさは、奔放な自由感があるし、これに慣れると、どこでも寝られるようになるし、何がなくても自分は生きていかれる!といった、強烈な自信を持てることだ。

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「オーストラリア2周」前編 第7回:ダーウィン→アデレード
 (『月刊オートバイ』1997年7月号 所収)
        
 オーストラリア北部の中心地ダーウィンからスチュワートハイウエーを南下し、アリススプリングス経由で大陸を縦断し、アデレードまで行った。
 その間では、ノーザンテリトリーの3湯の温泉に入った。どこも、自然度満点のオーストラリアの温泉に入り、“温泉のカソリ”、大満足だ。
 温泉のあとは、大陸中央部の大平原ににそそりたつ世界最大級の一枚岩の岩山、エアーズロックに登るのだった。

日本軍のダーウィン空襲
 オーストラリア北部の中心地ダーウィンでは、「ゲッコー・ロッジ」というバックパッカーズに泊まり、翌日は、この町の周辺をまわった。第2次世界大戦中、要塞になっていたイースト・ポイント(東岬)にあるミリタリー・ミュージーアム(戦争博物館)が興味深かかった。巨大な9・2インチの高射砲がここのシンボルだ。
 かつての要塞内に展示されてるダーウィン空襲図に目がくぎづけになる。1942年から翌43年にかけて日本軍が空襲した地点に、赤いドットを落としてある。そのドットが無数にあるのだ。いかに激しい空襲だったかがよくわかる。市民は事前に避難していたのにもかかわらず243人が死亡したという。
 映写室ではそのときの、ダーウィン空襲のビデオを見たが、
「おー、ジャパニーズ」
 と、まわりの人たちから非難されているようで、すごく肩身の狭い思いをした。

 このダーウィンでは何人かの日本人ライダーに出会ったが、その中に、美人ライダーの“GOTO姉(ゴトネー)”がいた。あちこちでその名を聞いていたが、ついに、その本人に出会ったのだ。“GOTO姉”の本名は後藤美和子さん。セローで5万3000キロを走り、何本ものダートを走破したのだ。
 なんと“GOTO姉”は『オートバイ誌』編集部の面々とは、すごく親しいのだ。ポン太にはバイクを売ってもらったことがあり、船山さんらとのツーリングでは高速道で事故り、かなりの怪我をしたという。
 そんな“GOTO姉”は、オーストラリアではモテモテで、プロポーズされたのは1度や2度のことではないらしい。

豪州温泉めぐり
 ダーウィンのスズキのディーラー「スズキ・テリトリーズ」で、前後輪のチューブ&タイヤの交換、スプロケット&チェーンの交換、オイル&オイルフィルターの交換をしてもらい、R1のスチュワート・ハイウエーを南へ、アデレードを目指す。
 ダーウィンから92キロ地点でR1を右折し、リッチフィールド・ナショナルパークに入る。R1から80キロほどのワンギ滝では、水着に着替え、滝壺の広々としたプールで泳いだ。すごーく、気持ちいい!
 ワンギ滝からR1に戻り、アデレードリバーの町を過ぎたところで、ふたたびR1を右折。今度はR1から40キロほどの、ダグラス温泉に行く。
 最後にダートを走ってたどり着いたダグラス温泉は、100度近い源泉が川に流れ込んだ、ジャスト適温の温泉。川の流れ全体が温泉で、自然度満点だ。男も女も水着を着て湯につかっている。というよりも、天然温泉の川で川遊びをしているといった風情だ。ぼくもさっそく、水着に着替え、オーストラリアの第1湯目のダグラス温泉の湯につかった。「ウーン、満足、満足!」
 日本の温泉地と違って、温泉宿のたぐいはまったくない。ただ、無料のキャンプ場があるだけ。温泉も、もちろん無料湯である。

 その夜は、ダーウィンから南に300キロ、キャサリーンの「クックバラ・ロッジ」というバックパッカーズに泊まった。ここではXR250Rに乗るモトさんと、XT350に乗るゴリラーマンの2人の日本人ライダーと一緒になった。
 翌朝3人で、キャサリーン郊外の「リバー・ビュー」というキャラバンパークの裏手にあるキャサリーン温泉に行く。第2湯目のキャサリーン温泉は、ダグラス温泉と同じように川の流れ全体が温泉になっている。湯温はダグラス温泉よりも低い。ぼくたちは潜水だ、平泳ぎだ、クロールだと、温泉の川を泳ぎまくるのだった。
 北のダーウィンに向かうモトさんとゴリラーマンと別れ、ぼくはキャサリーンからR1で南に100キロのマタランカに行く。この町から7キロの地点に第3湯目のマタランカ温泉がある。やはり川の流れが温泉で、湯温はキャサリーン温泉よりも低かった。だが、気温が猛烈に高いので、ちょうどいい。温泉の川の流れは異様なほど透き通っていた。
 ダグラス、キャサリーン、マタランカと、ノーザンテリトリーの3湯の温泉に入り、
「やったゼー!」
 という気分になるのだった。

カソリの首を締めろ!
 マタランカから南に170キロ行った地点で、R1は左折しカーペンタリアハイウエーになるが、その分岐点を直進し、ルートナンバーがR87に替わったスチュワートハイウエーをさらに南下していく。
 テナントクリークを過ぎたところで1晩、野宿。翌日、デビルマーブル(悪魔のおはじき)の風化された岩山を見る。“悪魔のおはじき”とはよくいったもので、今にもゴロゴロころがり落ちそうな丸い大岩もある。
 ダーウィンから南に1500キロ、南回帰線のモニュメントを越えたところで、オーストラリア中央部の中心地アリススプリングスに着く。南回帰線を越え、温帯圏に入ったというだけで、何となしに、風がひんやり冷たい感じがする。
「アリスロッジ」というバックパッカーズに泊まったが、ここは男女同室で、隣のベッドにはデンマーク人の女の子。彼女はスケスケルックで、ピンクのブラジャーが透けて見えてしまうのだ。刺激が強すぎるよー。

 夕暮れのアリススプリングスの町を歩いていると、
「カソリさーん!」
 と声をかけられた。日本人ライダーのXT350に乗る“隊長”と、DR650に乗る“DRタカハシ”との出会いだ。
「一緒にバーベキューをしましょうよ、カソリさん」
 と、2人に誘われ、さっそくスーパーマーケットのウールワースでビーフやチキン、ソーセージ、野菜類、それとビールを買い、彼らの泊まっているバックパッカーズ「メラルーカ」でのバーベキューパーティーがはじまった。
 我々3人のほかに、ここに泊まっている熊本の女子大生の久美子さん、“熊クミ”もメンバーに加わった。彼女は1年間、大学を休学し、ワーホリ(ワーキング・ホリデー)でオースラリアにやってきた。列車、バスを乗り継いでまわっている。

 VBのカンビールをガンガン飲み、肉を腹いっぱいに食べながら、話はいやがうえにも盛り上がる。
「オレの前の彼女はカソリさんの大ファンで、あるとき、オレとカソリさんのどっちが好きかって聞いたんですよ。そしたらカソリさんだって‥‥。あのときは、どこかでカソリさんに会ったら、首をギューッと締めてやろうと思ったくらいですよ。そのカソリさんに、アリススプリングスで会うだなんて‥‥」
 そんな“DRタカハシ”の話に“隊長”も“熊クミ”も、やんやの喝采。
「今がチャンス、カソリさんの首を締めちゃえ、締めちゃえ」
 と、2人は“DRタカハシ”をけしかけれる。いやはやいやはや、なんとも楽しいバーベキューパーティーは、夜中までつづいた。
 翌朝は、「アリスロッジ」を出発すると「メラルーカ」へ。前夜のメンバーと、おにぎりパーティーをすることになっているのだ。うれしいことに“熊クミ”が、朝早くからご飯を炊いて、たくさんのおにぎりを握って待っていてくれた。さすがに日本人女性、心づかいが細やかだ。
 朝食のおにぎりをパクつきながらまたひとしきり話に花が咲くのだった。

エアーズロック登頂!
 アリススプリングスから南に200キロ、エルダンダでR87を右折し、エアーズロックへの道のラセッターハイウエーに入っていく。風がグッと冷たくなる。アリススプリングスを出発するときは、Tシャツの上にジャケットを着たが、ここでさらに、フリースのインナーのウエアを着る。
 左手にマウント・コナーが見えてくる。平原にスクッとそそり立つ標高863メートルのテーブル状の岩山だ。
“偽エアーズロック”の別名があるほどで、知らなければ、
「おー、エアーズロックだ!」
 と、叫んでしまうところだ。

 R87のエルダンダから160キロ、カーテンクリークのロードハウスで昼食にする。サンドイッチとコカコーラ。そこから50キロほどで、今度は本物のエアーズロックが見えてくる。世界最大級の一枚岩の岩山だ。
 だが、前方のゆるやかな小丘群に隠れ、見えるのはその頭だけ。エアーズロックはなかなか全貌を見せてはくれない。
 エアーズロックが見えはじめてから、さらに40キロほど走ったところで、ウルル・ナショナルパークのゲートに着く。そこで10ドル払って、チケットを買う。
 ウルルというのは、エアーズロックのことで、アボリジニの言葉。ウルルは彼らの聖なる岩山なのだ。
 夕日に染まったエアーズロックを眺める。夕日が落ちる。するとほぼ同時に、エアーズロックの背後に満月が昇る。すごい光景だ。その夜は、ユララのキャンプ場に泊まった。 翌朝、日の出とともにエアーズロック登山口の駐車場まで行き、急勾配の岩肌を登りはじめる。雲ひとつない上天気。鎖につかまりながら登るのだが、ヒーヒーハーハーいってしまう。

 さすがに、オーストラリアでも1、2の観光地だけあって、登山者は列をなしている。日本人の新婚カップルのグループに追いつく。まわりは若い熱々のカップルばかり。いいねー、うらやましいよー。
 汗をグッショリかいて、広々とした岩畳のエアーズロックの頂上に到着。そこで出会ったイギリス人旅行者のマークと、お互いの登頂記念の写真をとり合った。そのあとで、岩の上にベターッと座り、お互いの旅の話をする。彼はイギリスを発ってすでに1年。アフリカ、アジアの国々を旅してオーストラリアにやってきた。これからシドニーで3ヵ月ほどバイトをし、旅の資金を稼ぎ、ニュージーランドから南米、さらには北米と旅をつづけるという。

穴ボコだらけの大平原
 エアーズロックからエルダンダに戻り、R87のスチュワートハイウエーを南下。ノーザンテリトリーからサウスオーストラリア州に入る。オパール鉱山の町クーバーペディーに近づくと大平原は穴ボコだらけ。大小無数のボタ山ができている。ほかでは見ることのできない“地球上の奇観”といっていい。
 ハイウエー沿いの標識が、いかにもクーバーペディーらしいのだ。“DAGER(危険)”の標識とともに「走るな、気をつけろ、後ずさりして歩くな」と、絵入りで書かれてある。道路沿いに車を止めて、オパール鉱山(といっても、ほかとそう変わらない平原)をプラプラ歩きまわっているうちに、穴に落ちる人がけっこういるのだ。
 クーバーペディーからはナイトラン。地平線上に昇る十六夜の大きな月を見る。ギョッとするほどの大きな月だ。エアーズロックから1100キロ、真夜中に、大陸横断鉄道と交差するピンバに到着。1泊20ドルの安いモーテルに泊まり、翌日、ダーウィンから4000キロを走って大陸を縦断し、アデレードに到着するのだった。


■ワンポイント・アドバイス
カソリ流長距離の走り方
 オーストラリアのシンボル、エアーズロックから、大陸横断鉄道と交差する地点のピンバまで、本文でもふれたように1日で1000キロ以上を走った。このように「オーストラリア一周」では、1日に1000キロ前後走った日は何日もある。
 ぼくは国内のツーリングでもそうなのだが、1日の走行距離が長くなればなるほど機嫌がよくなり、心底、うれしくなってしまうのだ。反対に1日の走行距離が伸びない日は、何か、もの足りなくて欲求不満状態になる。朝から夜中まで、徹底的にオートバイで走ったあとの気分は、もう最高の満足度なのだ。

 とはいっても1日で1000キロ近くを走るのは、そう容易なことではない。では、どうするかというと、朝を有効に使うことである。
 ぼくは1日の時間帯の中でも朝が一番、好きだ。朝というのは、頭はスッキリしているし、目の曇りがとれているとでもいうのか、自分の感性が活き活きしているので、オートバイに乗って走っているだけで楽しくなり、目に入る風景がキラキラと光り輝いて見える。
 野宿したようなときは、夜明けとともに走りだすので、3、4時間も走ると、けっこう眠くなる。そのようなときは、眠気のピークをとらえ、「今だ」とオートバイを止め、適当なところでゴロンと横になる。時間を15分とか20分と決めて眠るのだが、慣れるとすぐに熟睡できるようになり、ほんとうに15分後とか20分後には目がさめる。午前中のこの短い睡眠がすごく気持ちいいのだ。

 それと昼寝である。昼寝はよくする。昼食を食べて30分から1時間後ぐらいが一番眠くなるが、やはり眠気のピークをとらえて寝るのだ。
 昼寝をすると、ナイトランがグッと楽になる。それこそ平気で夜中の12時ぐらいまでは走れるようになる。どうしても見たいところ、立ち寄りたいところは明るいうちに行き、ナイトランでは距離を稼ぐというのが、“カソリ流走り方”なのだ。

■1973年の「オーストラリア2周」
大陸の最高峰登頂!
 1973年の「オーストラリア2周」で、まっさきに行ったところは、大陸の最高峰、クシオスコ山だった。連峰の首都キャンベラからクーマを通り、ジンダバインへ。そこから、クシオスコ山への道に入っていった。当時は山頂直下までオートバイや車で行けた(現在は10キロ手前のシャロット峠まで)。駐車場にハスラーを止め、石段を駆け登り、10分ほどで大陸の最高峰、クシオスコ山の頂上に立つことができたのだ。
 標高7310フィート(2228m。当時のオーストラリアはメートル法ではなく、マイルやフィートを使っていた)のクシオスコ山の頂上に立つと、なだらかな山並みがつづくスノーウイー山脈の山々を一望する。雄大な眺めだ。季節は夏だったが、頂上を吹き抜けていく風は冷たく、周囲には、かなりの雪が残っていた。

 クシオスコ山の登頂を終えると、ジンダバインの町に戻り、今回も走ったアルパインウエーに入っていた。当時、このダートルートは、途中で行き止まりになっていた。その行き止まり地点の近くには、ギーのユースホステルがあった。
 今もあるのかどうかわからないが、ギーのユースホステルは当時は無人で、50セントの宿泊費を料金箱に入れるようになっていた。宿泊客はぼくのほかには、アメリカ人のマイケルとアイルランド人のトム、ニュージーランド人のジュリーとティーンの女の子の2人組。
 夕食はみんなで一緒につくり一緒に食べた。マイケルが近くの渓流で釣ってきたカワマスのアルミホイール焼きがうまかった。日が暮れると焚き火を囲んでワインを飲んだ。マイケルがギターをひき、ティーンが透き通る声で歌った。

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「オーストラリア2周」前編:第8回 アデレード→ダーウィン
 (『月刊オートバイ』1997年8月号 所収)

 ダーウィンから大陸を縦断してたどり着いたアデレードでは前回同様、バックパッカーズの「ラックサッカーズ」に宿泊。ここは日本人ライダーの溜まり場だが、なんと“王様”や“広さん”とうれしい再会をした。
 このアデレードから、来た道をダーウィンへと戻っていくのだが、カソリ、全精力を投入して、全行程3100キロの一気走りに挑戦だー! 
 目標は、40時間。午前0時、ザーザー降りの雨の中、アデレード中央駅前を出発したのだがさーて、どうなることやら‥‥

青春の群像
 アデレードのバックパッカーズ「ラックサッカーズ」では、タスマニア島からメルボルンへのフェリーで出会ったハンターカブCT110の“王様”とバスダー(バスでまわる旅人)の“磯野カツオ君”、西オーストラリアのノーズマンで出会ったスーパーテネレの“広さん”とうれしい再会だ。
「やーやー、元気?」
 と、何度も握手をかわす。
 さらに、スーパーカブ90のベンジー、カワサキ1000のマサ、DR250での旅を終えたアデレード大好きのイケさんと日本人ライダーたちとの出会いが待っていた。
 ライダー以外にも、ウダさんとヨネさんがいた。ウダさんは『O』誌の熱烈な読者だが、ライダーではなく、カーダー(車でまわる旅人)をしている。函館出身のヨネさんは、まだ10代の若き旅人だ。

 夕食はシェア飯(みんなで少しづつのお金を出し合ってつくる食事)のカレーライス。日本風の味だ。食事が終わると、全員でウダさんの車に乗り込んだり、オートバイを連ねたりしてアデレードの夜景を一望できる山上まで行く。見事な夜景だ!函館の夜景が思い出される。
 みんなも同じ気持ちで、アデレードの夜景を眺めながら、話題はもっぱら函館‥‥。
「(函館の朝市で)三平汁を喰いたいよー」
「なんたって、イクラ丼」
「いやー、ウニ丼だ」
 と、食べる話に夢中になる。

 アデレードの夜景を目に焼き付けたところで、「ラックサッカーズ」に戻る。みんなで何ドルかづつを出し合ってカンビールを買い、ガンガン飲み、おおいに語り合い、飲み会は夜中までつづいた。
 各人それぞれがそれぞれの思いをこめてオーストラリアを旅しているのだが、その思いに胸がジーンとしてくる。カンビールを飲みながら、青春の甘ずっぱさといったものが胸に迫り、
「おー、青春の群像よ」
 そう心の中で叫んでしまう。
「また、どこかで会おうぜ!」
 と、再会を約束して、深夜の宴会はお開きになるのだった。

さー、一気走りだ!
 翌朝はヨネさんがつくってくれたパスタを食べ、「ラックサッカーズ」のマーガレットおばさんや前夜の“宴会組”の面々の見送りを受け、あいにくの雨の中を走り出す。
 アデレードから114キロ、カンガルー島を目の前に眺めるジャービス岬まで行き、帰路はビクトリアハーバー経由でアデレードに戻った。1日中、雨の中‥‥。
 中心街の1泊38ドルの「シティーモーテル」に泊まる。早めの夕食を食べ、一気走りに備え午後8時には早々とベッドにもぐり込む。3時間ほど眠り、11時過ぎに起きる。身支度を整え相変わらず降りつづいている雨の中を走り、「アデレード→ダーウィン3100キロ」の一気走りのスタート地点、アデレード中央駅前へ。
 午前0時になるのと同時に、スズキDJEBEL250XCのセルスターター一発、エンジンをかけ、雨の中を走り出す。R1を西へ。速度をいつもより10キロアップし、100キロから110キロの間で走る。

 3時45分、ポートオーガスタ着。ここまでの300キロは、ノンストップだ。BPの24時間営業のロードハウスで給油し、コーヒーを飲む。うまい! 生き返るゼ!
 ポートオーガスタからはR87を北へ。ありがたいことに雨がやむ。そのかわり、気温がグググッと下がり、寒さに震える。半月がコウコウと輝いていた。
 6時45分、夜明け。地平線がうっすらと白みはじめる。うれしい! やったぜ! DJEBELのハンドルを握りながら、思わずガッツポーズだ。
 7時30分、608キロ地点のグレンダンボ着。ここで給油&朝食。コーンフレークに、ベーコン&エッグス。それとコーヒー。8時20分、出発。しばらくは猛烈な眠気で、ヘルメットの中であくびを連発した。
 11時00分、862キロ地点のクバーペディー着。ここで給油&コーヒー。11時30分に出発。やっと寒さから解放される。

 13時30分、1000キロ地点で記念撮影。日本では、下道を走っての1000キロ一気走りというと、24時間を切るのは、至難の技だ。ところがオーストラリアだと13時間半でできてしまうのだ。
 アデレードを出てからここまで、信号はポートオーガスタだけだった。
 14時45分、1097キロ地点のマーラ着。給油とピザ&チップス、コカコーラの食事。15時05分、出発。しばらくすると、猛烈な睡魔。我慢できずに10分の昼寝。この短い眠りで体はスーッとウソのように楽になる。
 16時30分、南オーストラリアとノーザンテリトリーのボーダー(州境)を通過する。
 17時45分、1351キロ地点のエルダンダ着。給油&コーヒー。18時、出発。ここを過ぎるとまっ黒な雲の中に入っていったが、パラパラッと雨がぱらつく程度。日が暮れ、ナイトランになる。それ、行け。DJEBELよ、頼むぞ!
 20時50分、ついに大陸縦断の中間点、アリススプリングスに到着した。ここまで1557キロ、それを20時間50分で走ったのだ。ダーウィンまであと1500キロ、目指せ、40時間!

トラブル発生
 シェルのロードハウスで給油&食事。アデレードから20時間以上走ってきた疲れがドドッと吹き出し、ここで泊まりたいなあ‥‥と、泣きが入る。そんな気持ちを振り切り、21時30分、アリススプリングスを出発。カンガルーの飛び出しに怯えながら北へと走る。
 アリススプリングスから30キロ地点の南回帰線を過ぎたところで、突然、左のウィンカーが異常な点滅をするのと同時に、ヒューズが飛んだのだろう、ライトが消え、エンジンも停止した。トラブル発生だ。シドニーを出発してから2万4000キロで迎える最初のトラブルた。
 ここで「アデレード→ダーウィン」の一気走りを一時、中断しなくてはならなかったが、悔しいというよりもむしろ、これで少しは眠れるゾと、ホッとした気分だった。
 月明かりも星明かりもない真っ暗闇の中、DJEBELを30分ほど押し、南回帰線のモニュメントまで戻る。そこで野宿。いつものようにシュラフのみでのゴロ寝。夜中に雨に降られたが、そのまま夜明けまで寝た。

 翌朝、このモニュメントにやってきた車に頼み、携帯電話を借り、アリススプリングスの町に電話し、バイクレッカーに来てもらう。電話してから30分もかからずに、バイクレッカーの小型トラックが来てくれた。
 スズキのディーラーまで運んでもらったが料金は102ドル、日本円で約9000円だった。
 すぐさま、メカニックのスティーブンがみてくれた。
 だが、配線に異常は見当たらない。ヒューズを交換し、予備に2つのヒューズを持ち、11時30分、アリススプリングスを出発。もう一度、ダーウィンまでの一気走りに挑戦だ。 R87を北へ。体が重い‥‥。気分がどうしても、のらない。いったん、中断してしまった一気走りをつづけるのは、難しいことだった。結局その日は、アリススプリングスから759キロ走ったエリオットという町に22時30分に着いたが、
「もう、ダメ。ここまでだ」
 と、ついに一気走りを断念。道路わきにベンチで1晩、眠ることにした。

ここは天国、花園だ!
 翌日はエリオットから421キロ走ったキャサリンのバックパッカーズ、「クックバラロッジ」に泊まる。ここは前回の「ダーウィン→アデレード」編でもふれたように、男女同室のバックパッカーズなのだが、なんと今回は、8人用の部屋に女の子が4人、男はぼくだけというまるで花園状態。“一気走り地獄”のあとの“花園天国”といったところなのだ。
 オーストラリア人の女の子2人、ドイツ人の女の子1人、イギリス人の女の子1人の花園に入ると、若い女性特有の匂いが部屋中に充満していて、頭がクラクラッとしてしまう‥‥。

 この4人のうち、イギリス人女性とはダーウィンで会ったことがある。毎週水曜日におこなわれる「ビクトリア・ホテル」のフリーバーベキュー(タダでバーベキューが食べられる)で一緒の列に並んだのだ。ぼくのすぐ後が彼女だった。なにしろプロポーション抜群なので、目に焼きつくほどに、しっかりと彼女をおぼえていた。
 旅での出会いというのは、そんなちょっとしたきっかでも、
「やー、あのときの‥‥」
 で、すぐに仲良くなれるものなのだ。

 彼女の名前はカレン。20歳。マンチェスターの女子大生で、大学を1年間、休学して旅に出た。オーストラリアをバスでまわっているが、ブリスベーンからニュージーランドに飛ぶという。食事を終えると、オーストラリア産ワインを飲みながら話した。彼女は毎日、日記をつけているが、その日記帳に、彼女の名前の“カレン・ウッドハウス”をカタカナで書いてあげると、すごく喜んだ。
 11時近くになったところで、
「おやすみ」
 といって、ぼくが先に寝る。すでに部屋の電気は消え、ほかの3人の女の子たちはスヤスヤと寝息をたてている。ぼくは2段ベッドの上段で寝る。

 しばらくするとカレンが部屋に入ってきた。彼女のベッドは狭い通路をはさんだ下段。なんとカレンは、その通路で着替えるのだ。着ているものを脱ぎ、パンツひとつになる。薄明かりのなかで、その一部始終が全部見えてしまう。彼女は上にパープルの薄地のランジェリーを着ると、ベッドに横になった。
 たまらないゼ‥‥。彼女のズッシリと重そうな胸のふくらみが目の底にこびりつき、寝ようとしても、目がさえてなかなか寝つけないのだ。眠くてどうしようもなかった一気走りのときとは、エライ違いだ。

 翌朝はぼくが一番最初に起きた。目がはれぼったい。「クックバラロッジ」はすごくいいのだが、各ドミトリーごとにシャワールームとキッチンがついている。
 シャワーを浴び、キッチンでコーヒーを沸かしていると、カレンが起きてきた。なんとカレンは、パンツとランジェリ、そのまんまの格好で朝食の準備をはじめるではないか‥‥。
 パープルのランジェリーは薄地のものなので、光りの当たる角度によっては、透けて、乳首まで見えてしまう。また、丈が短いものなので、すこし前かがみになると、チラチラと白いパンツが見えてしまう。
「おい、おい、カレンちゃん、キ、キミは、ぼくを誘惑しようとしているのかい?」

 キャサリンから北へ、ダーウィンへ。その間は322キロだったが、途中で2度、ヒューズが飛んだ。そのたびにヒューズを交換し、なんとか、ダーウィンに到着。すぐさま「ノーザンテリトリー・スズキ」に行き、もう一度、配線を見てもらう。
 ついに、発見! 
 ハーネスの束から1本だけ分かれて、左のフロントのウィンカーに通じるラインに,耳かきでひっかいたような小さな傷がある。それがハンドルに触れるとショートしヒューズが飛ぶのだった。その個所をビニールテープで巻き、修理完了。もうこれで大丈夫。
「アリススプリングス→ダーウィン」の一気走りは、また次の機会に絶対に挑戦してやるゾ!と固く決心するカソリだった。


■1973年の「オーストラリア2周」
 1973年の「オーストラリア2周」の出発点のシドニーでは、『モーターサイクル・ニューズ』の取材を受けた。
 編集長のジェフ・コラートンさんが直々にやってきたのだが、なんと彼とはその4年前の1969年にイギリスのロンドンで会っていたのだ。旅の途中では、こういう信じられない再会もある。
 1968年から69年にかけてぼくはスズキTC250を走らせ、「アフリカ大陸一周」をしたが、その途中でヨーロッパをまわり、イギリスに渡った。
 ロンドンに到着し、テムズ川にかかるウエストミンスター橋を渡っているとき、オートバイに乗っている人に呼び止められた。その人は、『モターサイクル』編集長のジョン・エブローさんだった。橋の上で写真をとられ、それが『モーターサイクル』に大きな扱いでのった。

 それがきっかけとなってエブローさんの家に泊めてもらい、バイト先まで紹介してもらったのだ。仕事の休みの日にフリート・ストリートにある『モーターサイクル』の編集部を訪ねたが、そこで会ったのがエブローさんの部下のコラートンさんだった。その後、彼はオーストラリアに移住し、シドニーの『モーターサイクル・ニューズ』の編集長になったのだ。
 なんとも偶然な再会だが、
「キミはあれからずっと世界をまわっていたのか!」
 と、ぼく以上にコラートンさんの方が驚いていた。

 このときは、
「世界を駆けるジャパニーズ・ライダーのミスター・カソリがこれからオーストラリア一周に出発!」
 と『モーターサイクル・ニューズ』にデカデカと書かれた。そして、それはシドニーだけのことではなかった。ブリスベーンでも、ダーウィンでも、パースでも、アデレードでも、行った先々で、「日本人ライダーがオーストラリアを一周中」 と、地元の新聞に大きく紹介された。パースなどでは、テレビニュースにもなった。
 これが、1973年の「オーストラリア2周」と1996年の「オーストラリア2周」の大きな違いだ。
 1973年当時のオーストラリアは“白豪主義”の色彩が強く、まさに白人の国だった。そのため日本人ライダーはきわめて珍しく、日本人ライダーがオーストラリアを一周しているというだけで大きなニュースになるほどだった。それが今では、「オーストラリア一周」といえば日本人ライダーが一番多い。


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Category: オーストラリア2周1996(前編+後編)

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「オーストラリア2周」前編:第9回 ダーウィン→ケアンズ
 (『月刊オートバイ』1997年9月号 所収)

 大陸縦断ルートの「ダーウィン-アデレード」間の往復7500キロを走破し、また、ダーウィンに戻ってきた。
 オースラリア人は北部地方を“トップエンド(地の果て)”と呼んでいるが、その中心地がダーウィンだ。ここからR1をフォローし、太平洋岸のケアンズに向かっていく。「オーストラリア一周」(第1周目)も後半戦に入る。さー、走るゾと、カソリ、気合十分だ。

ダーウィンでの再会
 ダーウィンに到着したのは夕暮れの迫るころ。南緯12度の熱帯圏のこの町は、まだまだ暑く、汗がタラタラ流れ落ちる。
 目抜き通りに面したバックパッカーズの「エルケズ・インターシティー」に行くと、満員で泊まれなかったが、なんとここで、西オーストラリア・ブルームのバックパッカーズ「ローバックベイ」で一緒になったスティーブ&ステフィーのカップルに再会した。
「信じられない、奇跡だ!」
 と3人で抱き合って喜んだ。
 ぼくは前回のダーウィンで2泊したバックパッカーズの「ゲッコーロッジ」に行き、すばやくシャワーを浴び、オートバイのウエアからジーンズとTシャツという格好に着替え、その夜はスティーブ&ステフィーと夕食をともにした。そのあと「ダーウィンホテル」に行き、3人でビールを飲んだ。

 この「ダーウィンホテル」は歴史のある建物で、第2次大戦中の日本軍のたび重なる空襲にも、1974年のクリスマスにダーウィンを襲ったサイクロン(このときはダーウィンの町は壊滅的な被害を受け、300人以上が死亡した)にもやられなかったホテルなのである。
 スティーブ&ステフィーとはダーウィン産のビール、「カカドゥービール」をジョッキでグイグイ飲み干し、何杯もおかわりし、そのたびに乾杯をくりかえした。「ダーウィンホテル」を出るころには、飲み過ぎで、足腰がふらつくほどだった。

 翌朝、「エルケズ・インターシティー」に行き、スティーブ&ステフィーが用意してくれた朝食を彼らと一緒に食べる。マンゴーの木の下のテーブルで食べる。優雅な朝食だった。すっかりご馳走になったところで、2人に見送られてダーウィンを出発。胸にジーンとくる別れとなった。
 ぼくはこの前半戦の「オーストラリア一周」のあと、いったん日本に帰り、日本国内をまわったあと、第2回目の「オーストラリア一周」に旅立ったのだが、真先に行ったところは、シドニー郊外に住むスティーブ&ステフィーの家だった。

廃線の終着駅
「さー、行くゼ!」
 とスズキDJEBEL250XCに、いつものようにひと声かけて走り出し、ダーウィンの町を離れていく。郊外のワニ園を見たあと、カカドゥー・ナショナルパークへ。その途中でアデレード川を渡ったが、ワニの多く生息する水量豊かな川で、川岸に大ワニを見た。
 入園料の12ドルを払ってカカドゥー・ナショナルパークに入る。暑さが厳しい。巨大なアリ塚が林立している。何本か渡った川の橋のたもとには、「ワニに注意!」と書かれていた。
 カカドゥー・ナショナルパークの中心地ジャビルーで昼食にし、オーストラリアの先住民アボリジニの岩壁画を見る。伝説上の人物(神)や動物を描いた岩壁画は心に残るものだった。さらにアボリジニのカルチャーセンターを見学し、マリーリバーゲートを通ってR1に出た。

 南へ。キャサリンへ。
「アデレード-ダーウィン」間の大陸往復縦断で、2度泊まっているバックパッカーズの「クックバラロッジ」に今回も泊まった。前回でもふれたようにここは男女同室のバックパッカーズ。前回の“花園天国”ほどでないにしても、今回も若い日本人女性2人と同室になった。
 2人は“バスダー”。バスを乗り継いでオーストラリアを一周している。ここに来る途中では、西オーストラリアの人里遠く離れた真珠の養殖場で、2ヵ月あまりバイトしたという。
 同室となったもう1人は男でスイス人のハインツ。彼はすっかりオーストラリアにはまり込み、スイスで半年働いては資金を貯め、そのお金でもって、半年間、オーストラリアを旅している。今回が3度目で、アデレードで中古車を買い、旅の最後でその車を売り払ってスイスに帰るという。北部地方がすっかり気に入り、また、オーストラリアには戻ってくるという。

 キャサリンからさらに南へ。温泉のあるマタランカを通り、ラリマで止まる。ここは、かつての鉄道の終着駅。今は廃線となったダーウィンからの鉄道がここまで来ていた。ホームや線路、列車が残され、入場無料の資料館もある。
 駅前の「ラリマホテル」のパブでビールを飲む。客はぼくだけだった。白髪のマスターが、ラリマの歴史を話してくれた。
 第2次大戦中、このあたりにはアメリカ軍の基地があった。6500人ものアメリカ兵が駐屯していた。日本軍の攻撃に備えたものだった。ここにはオーストラリア軍の基地もあり、ダーウィンへの鉄道は、戦略的な意味を強く持っていたという。
 マスターは日本軍のダーウィン空襲の写真や資料も見せてくれたが、ダーウィン空襲というのは、オーストラリア人にとっては未だに消えない傷痕になっているのだ。

ダートのR1を行く
 キャサリンから南に280キロ走ったところに、ロードハウスの「ハイウエイ・イン」がある。ここで大陸縦断ルートのスチュワート・ハイウエイ(ダーウィンからここまでがR1)とカーペンタリア湾に通じるR1のカーペンタリア・ハイウエイに分かれる。
 ロードハウスのレストランでTボーンステーキを食べ、パワーをつけ、カーペンタリア・ハイウエイに入っていく。
 交通量は、ガクッと少なくなる。道は中央の1車線分が舗装で、車がすれ違うときは、お互いに片側の車輪をダートに落として走行しなくてはならない。
 280キロ走って夕方、ケープクラウフォードのロードハウスに着いたが、その間では、わずかに5台の車とすれ違っただけだった。
「オースラリア一周」の出発点シドニーからここまでずっとR1を走ってきたが、この280キロ間が一番交通量が少ない。

 ナイトランでアボリジニの町ボロルーラへ。闇夜の平原に、突然、灯が見えてくる。マッカーサーリバー鉱山だ。日本語で鉱山といえば、山地を連想するが、銀や亜鉛を産出するこのマッカーサーリバー鉱山は、大平原のまっただなかにある。
 このマッカーサーリバー鉱山を過ぎると道は2車線の舗装路になる。ケープクラウフォードから120キロ走ったボロルーラには夜の8時過ぎに到着し、キャラバンパークに泊まった。
 翌日、ボロルーラからいったんカーペンタリア湾に出る。その間75キロ。遠浅の海。釣りをしている人の姿を見る。海岸にはマングローブがはえている。ここにはマッカーサーリバー鉱山の鉱石を積み出す港がある。
 ボロルーラに戻ると、アボリジニの町をぐるりとまわった。古い警察の建物が博物館になっている。入口の料金箱に2ドル入れて見学する。本物のアボリジニたちが使ったブーメランが展示されていた。
 昼食を食べ、給油し、出発。R1のウォロンゴラング・ロードでクイーンズランド州へ。その間の260キロはダート。全長1万5000キロ、世界最長のオーストラリア・ナショナルハイウエイ1号線にもダート区間がある。赤土の道を赤い土煙りを巻き上げながら走った。
 
クイーンズランドの温泉めぐり
 ノーザンテリトリーからクイーンズランド州に入るとR1の表示が消えた‥‥。ダートはきついコルゲイション。路面は規則正しい凹凸のくり返し。
「ガタガタガタッ」
 と、DJEBEL250XCは,車体がバラバラになってしまうのではないかと心配になるほどの激しい振動音をたてながら走る。腹わたがよじれそう。ただひたすらに、我慢、我慢の連続で走る。
 その名も恐ろしげなヘルゲート(地獄門)のキャラバンパークで泊まり、ボーダー(州境)から240キロのバークタウンへ。その間は全線がダートだ。
 さらに230キロのダートを走り、ノーマントンの町へ。熱風が渦巻いて吹きすさぶ。暑さが厳しいよぉ。頭がクラクラしてくる。無数のアリ塚。赤い砂塵を巻き上げて走る。何本もの川を渡る。ノーマントンに着くと、すぐさま冷たいコーラを飲み、カソリ、生き返った!

 ノーマントンの町から舗装路を10キロ南に走ったところで、ケアンズへの道との分岐点のT字路に出るが、そこでふたたびR1の表示に出会った。
 ボーダーからここまで470キロ、その間のルートがR1なのかどうなのか定かではない。それはともかくとして、大陸をぐるりと一周するR1は、この区間が不明確なのだ。
 R1のガルフ・ディベロップメンタル・ロードを東へ。このままずっと舗装路かと思ったら途中からダート。ダートを45キロ走り、夕方、クロイドンの町に着く。ナイトランで次の町、ジョージタウンへ。その間にも30キロのダートがあった。夜はキャラバンパークで泊まる。すでに大分水嶺山脈の山中に入っているので、夜間はひんやりとし、シュラフのみだと、寒いくらいだった。

 翌日、ケアンズへ。ジョージタウンから50キロほど行ったところでR1を左折し、ダートを9キロ走ったところに、タラルー温泉がある。牧場内にわき出る温泉で、ここでは8ドルの入園料を払って温泉見学をする。
 何でもよく知っている博学なオバチャンが案内してくれる。あたたか味のあるオバチャン。メルボルンから来たという車で旅している夫婦と一緒にタラルー温泉を見てまわった。
 ここには40度、54度、65度、70度、74度の5つの源泉があるが、そのうち最大の74度の源泉は1時間の湧出量6000ガロン(約2万7000リッター)と、ぼう大な湯量だ。最後に、ちょうどいい湯温の温泉プール風露天風呂に入るのだった。
 さらにもうひとつ、ケアンズへの途中のR1沿いには、イノット温泉がある。川の中に湧き出る温泉。砂を堀り、湯船をつくり、湯を溜めてつかる。日本の南紀の川湯温泉のような天然露天風呂。“温泉のカソリ”、オーストラリアの温泉に大満足し、ケアンズへと向かった。


■「オーストラリアの温泉」
「ダーウィン→アデレード」編では、ノーザンテリトリーのダグラス温泉、キャサリン温泉、マタランカ温泉と、3湯の温泉を紹介した。
 そして今回の「ダーウィン→ケアンズ」編では、タラルー温泉、イノット温泉の2湯の温泉に入った。
 ということで第1周目の「オーストラリア一周」では、計5湯の温泉に入ったことになる。
 さらに第1周目にひきつづいて走った第2周目の「オーストラリア一周」では、シンプソン砂漠横断ルート入口にあるダルフーシー温泉に入った。

 ここはすごい温泉で、大きな池、全体が天然の大露天風呂になっている。ジャスト適温。すべてが桁外れに大きいオーストラリアを象徴するかのような温泉で、もちろん日本には、これだけ大きな露天風呂はない。
 日本だったら、これだけの温泉があれば、たちまち、一大温泉街になり、温泉旅館やホテルが立ち並び、みやげもの屋が建ち並ぶところだが、そこはオーストラリア、駐車場があるくらいで、ほかには人工的なものは一切ない、自然そのまんまの温泉なのだ。温泉観が違うのだ。
 辺境の地にある温泉なのでやってくる人たちも少なく、こういう湯につかると、自分の温泉観まで変わってしまうほどだ。
 ダルフーシーは、大陸縦断のスチュワート・ハイウエイのクルゲラからフィンケ経由で330キロほどの地点にあるので、これからオーストラリアをオートバイで走ろうというみなさんぜひとも行ってみて下さい。

 もうひとつ、ダート630キロのウーダナダッタ・トラックから数キロ入った砂漠のまっただ中にある“バブラー”にも行った。ここは残念ながら自然保護ということで入浴禁止になっていたので、湯を手ですくい、顔を洗ったが、直径数メートルというかわいらしい沼の底からブクブク湧き出る温泉を見ていると、何か、すごく自然界の不思議さを感じるのだった。
 以上が、「オーストラリア2周」で出会った7つの温泉だ。

■1973年の「オーストラリア2周」
 1973年の「オーストラリア2周」の第2周目では、シドニーを出発点にして反時計回りで大陸を一周した。オーバイはスズキ・ハスラーTS250だ。
 パースからアデレードへ。今回とは逆方向でR1を走ったがその途中では、TS125で走っていたイギリス人のジョンと出会い、彼と3日間、一緒に走った。夜は野宿だ。
 ジョンはイギリスのロンドンを出発し、アジアを横断し、オーストラリアに渡った。シドニーがゴールだった。夜は焚き火にあたり、酒をのみながら、お互いの旅の話をした。彼と一緒に走った3日間というものは、ほんとうに楽しかった。

 ジョンに限らず、パースからアデレード間のR1では、何台ものヨーロッパ人ライダーに出会った。とくにナラボー平原横断の区間では、ロードハウスに着くたびごとに、必ずといっていいほどヨーロッパ人ライダーに会った。
 オートバイにGBマークをつけたイギリス人、Dマークをつけたドイツ人、CHマークをつけたスイス人ライダーがが多かった。GBはイギリス、Dはドイツ、CHはスイスの、それぞれの国別の識別記号である。

 彼らはジョンと同じように、ヨーロッパの彼らの家を出発すると、トルコのイスタンブールまで行き、そこからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと西アジアを横断し、インドに入った。たいてい、ネパールのカトマンズに寄り、インドのマドラスから船でマレーシアのペナンに渡り、シンガポールから船でパースの外港、フリーマントルに渡り、シドニーを目指した。1973年当時というのは、「ロンドン→シドニー」はすごい人気のオーバーランドのルートになっていたのだ。
 ところが、今回の1996年の「オーストラリア2周」ではヨーロッパ人ライダーは、それほどみかけなかった。さらに出会ったヨーロッパ人ライダーの大半は、ヨーロッパからオートバイを持ち込んだのではなく、オーストラリアで買ったり、レンタルしてまわっていた。

 これが1973年と1996年の大きな違い。というのは、当時はアジア横断は何ら問題なかったが、現在はヨーロッパ人にとってイラン入国が大きな難関になっているし、インドからオーストラリアにオートバイを送るのもそう簡単ではないからだ。海外ツーリングというのはある時期、簡単にできたルートでも、時がたつと難しくなるというケースがけっこう多い。


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