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カソリの食文化研究所:第1回 奥会津編

 (『ツーリングGO!GO!』2002年8月号 所収)

「現地食主義」のカソリ、この30年余、それぞれの土地に根づいたものを食べながらバイクで世界中を旅してきた。日本でも海外でも、ツーリングのおもしろさは「土地のものを食べること」に尽きると思っている。
 アフリカでは主食の雑穀、イモ類の餅状のものをみなさんと同じように手づかみで食べた。
「ユーラシア大陸横断」ではパンからナン、チャパティと変わっていくパンの変化を自分の舌で体験した。
 南米、インディオの村では生きたアリ入りのスープで元気が出た。
 日本でも郷土料理を目の色を変えて食べ歩いている。
 世界中のどんなものでも平気で食べられる“鉄壁の胃袋”がカソリ最大の武器なのである。
「現地食主義」のよさは、目で見たり、話を聞いたりするのと同じように、食べ物を通してその土地が見えてくることだ。その土地に根づいた「食」には、伝統的な文化が凝縮されているので、食べることによって地域性の違いを見ることができる。それを見ることが旅の最大の楽しみといっていい。

 記念すべき!?「カソリの食文化研究所」、第1回目は奥会津だ。
 冬、栃木県の今市から会津西街道の国道121号を北上したときは、
「おー、これが奥会津か!」
 と、奥会津らしさを見ることができてよかった。
 関東平野は雲ひとつない抜けるような青空なのに、山間の川治温泉あたりまで来ると、前方には鉛色の雪雲が広がった。関東と東北を分ける帝釈山脈の山王峠(栃木・福島県境の峠)のトンネルを抜、奥会津に入ったとたんに雪が激しく降りしきり、あたりは一面の雪景色に変わった。奥会津は日本有数の豪雪地帯。
 雪が奥会津を奥会津らしくしているし、今回の目的の山菜も銘酒も、すべてこの雪のおかげなのである。

 奥会津調査行の拠点は木賊温泉の「若松屋」。ぼくはここには何度か泊まっている。美人女将の橘えみ子さんが我が先生だ。
「山菜」の前にまずは「酒」。
 奥会津は銘酒の産地として知られているが、「若松屋」で出る酒はいつも「花泉」に決まっている。これがうまい! さわやか系のクセのない味で、スーッといくらでも飲めてしまう。で、気がつくと、足腰が立たないくらいに飲んでいることが度々なのだ。酒の原料となる水の清らかさがひときわ胸に染みる酒である。
 さっそくスズキDJEBEL250GPSを走らせ、南郷村の花泉酒造を訪ねた。突然の訪問にもかかわらず、快く工場内を案内してもらった。このあたりにも、奥会津の人たちのやさしさがにじみ出ている。
 清酒は米と米糀、それと水から造られる。「花泉」の原料となる米は地元、奥会津の南郷産。新潟の魚沼産の米を持ち出すまでもなく、水の豊かな山間の米の方が平野の米よりもはるかに味がいい。水は酒造所から4キロほど離れた豪雪の峠、鳥居峠の「高清水」を使っている。雪は天然のダム。そのおかげで「高清水」は一年中、枯れることなく、こんこんと湧き出ている。清水の周辺はひめさゆりの群生地で、「高清水自然公園」になっている。この奥会津の清らかな水が「花泉」の原料なのだ。
 木賊温泉に戻ると、西根川の渓流沿いにある混浴露天風呂の岩風呂に入る。
 西根川は渓流釣りには絶好。イワナがよく釣れる。湯から上がり、岩風呂の前の「若松屋」に戻ると、なんともうれしい夕食のはじまりだ。

 山菜料理の前に「骨酒」が出た。これが絶品! 
 燗をした「花泉」が大きな器になみなみとつがれ、その中に飴色にこんがりと焼かれた西根川のイワナが入っている。器を手に持ち、顔を近づけると酒の香りとイワナの香りが混ざり合った「骨酒」特有の香がほのかに漂ってくる。これが「骨酒」の命。繊細だ。器に口をつけ、一口飲んだときの気分はたまらない。
 天然イワナの持つ上品な淡白な脂分がうっすらと浮かび、うまみ分のしみ出た「花泉」は、ひと味もふた味も違う酒に変身している。
「う~ん!」
 これぞまさしく「日本の食文化」。
 熱燗をした酒に焼いた川魚を浸して飲む発想がすごい。

 ぼくは六大陸を旅する中で世界各地の酒も飲んできだが、焼いた魚を浸して飲む酒には一度として出会っていない。「骨酒」はまさに日本独特のものといっていい。
 奥会津のほかに白山麓で「骨酒」を飲んだことがあるが、それは薄く塩したイワナを焼いて浸したもの。「若松屋」のは燻製にしたイワナをこんがり焼いたもので、飴色のイワナは最後まで形崩れしない。さらなる知恵。「骨酒」は銘酒と渓流魚を代表するイワナの両者があってはじめてできる。その意味でもきわめて奥会津らしいものだ。
「骨酒」のあとは山菜料理。ワラビとエラのおひたし、コゴミの白あえ、ゼンマイとウドの炒め物、フキとネマガリの煮物、フキノトウの酢の物、マヨネーズをつけたシドキと、夕餉の膳に次々に山菜料理が並ぶ。
 さらにフキノトウ、タラノメ、シドキなどのてんぷら、ウルイ、エラ、シドキ、ネマガリなどの入った「山菜鍋」と山菜三昧。山菜だけで、「ここまで多彩な料理がつくれるのか!」と、感動してしまう。
 夕食にはこれら山菜料理のほかに、刺し身、塩焼き、甘露煮の3品のイワナ料理、堅豆腐、馬刺し、茶碗蒸しが出た。それにマイタケご飯とウルイの味噌汁、名産の舘岩ソバがついた。

 夕食後、「若松屋」のご主人にいろいろと話を聞いた。
 奥会津の山々を知りつくしている方で、イワナ釣りの名人。なおかつキノコ狩りの名人でもある。マイタケのよく採れる場所はたとえ息子にでさえ教えないものだという。それが山の掟? 
 奥会津での山菜採りはコゴミにはじまり、エラ、タラノメ、そしてゼンマイ、ワラビ、ウドとつづき、最後がフキになる。フキをとる解禁日は決まっていて6月1日だという。 何種もある山菜の中で、各人、それぞれに好みがあり、ご主人はシコシコッとした歯ごたえのあるエラが一番好きだという。
 朝食には、えみ子さんが一番好きな山菜料理のウドのジュウネンあえが出た。
 ジュウネンとはエゴマのこと。そのほか味噌につけるヤマゴボウとヒル(ノビル)、フキとネマガリの煮物、細かく刻んだショウガとニンジンをちらしたワラビなどが出た。味噌汁もエラ。焼いた塩ジャケが唯一の山菜料理以外のものだった。

 朝食後、えみ子さんの車に乗せてもらって、一緒に山菜採りに連れていってもらった。雪が消えてまもない奥会津の山々は、まさに山菜採りの季節で、帝釈山脈の峠を越えてやってくる栃木県ナンバーの車を多く見かけたのが印象的。その大半が山菜採りの車だ。雪のほとんど降らない関東側の山菜は、豪雪地帯の奥会津のものと比べると固く、苦みがきつく、味がぐっと落ちてしまう。
 それだから栃木県側の人たちは無理をしてでも、峠を越えて奥会津に山菜採りにやってくる。山菜は雪国のものに限る。降り積もった雪が消えたあとから出てくる山菜はやわらかく、太く、大きく、ほどよい苦みがあってアクもそうきつくない。山菜が食用になるかどうかのポイントがここにある。

 驚かされてしまったのは、えみ子さんのカンのよさ。動物的といってもいい。車を運転しながら「あ、あそこにワラビが、ウルイが、ウドが‥」といった言葉が次々に口をついて出る。新緑の奥会津の山々にはいろいろな植物が芽吹き、混じり合っている。それなのにどうして‥。
「私、車を運転していても、食べられるものだけに目がいくんです」
 というえみ子さん。すごすぎる。
 山菜にはゼンマイにしてもウドやウルイにしても、似た種類が数多くある。間違ってそれらのニセ山菜を食べると、腹痛や中毒を起こすこともある。えみ子さんの目には、それらニセ山菜はまったく入らないという。これはまさに子供のころから奥会津の山々で山菜を採りつづけてきた人の技。
 えみ子さんは小学生のころ、学校で「ワラビ採り競争」をよくやったという。どれだけのワラビを採るかを競うのだが、それを今、小学生の娘さんがやっている。母の技は確実に娘へと伝わっていく。これが文化だ!

 会津盆地を中心にして四方八方を山々に囲まれた会津は、いわば独立国のようなもの。 会津は北は吾妻連峰から飯豊連峰、東は奥羽山脈、西は越後山脈、南は帝釈山脈と、周囲を取り囲む山々の稜線を境にして、1本の線ではっきりと他地方と分けられている。
 独立国、「会津」に降る雨は一滴残らず東の阿賀川、西の只見川の流れとなり、合流し阿賀野川となって新潟平野に流れ出ていく。川で結びついた運命共同体的な会津、その南部の山間部、阿賀川&只見川水系の上流地方が奥会津になる。
 奥会津は日本でも有数の豪雪地帯。この雪が奥会津に大きな自然の恵みをもたらした。奥会津の「花泉」や「男山」、「会津」といった銘酒や山菜は雪の賜物といっていい。
「豊富な雪=豊富な水」、それが奥会津の命なのだ。
 民宿「若松屋」での数々の山菜料理を食べながら“山の幸”の言葉をかみしめた。
 それはまさに自然の恵み。すべての食材の出どこがはっきりとしている。人間が何かを食べる場合、これが一番、大事なポイント。奥会津の土に根づいたものを食べていると、なんともいえない幸福感を感じる。強烈な“ナチュラル感”をも感じる。
 自然の命が食べ物を通して、自分の体内に宿り、自分の命がパワーアップするかのようだ。自分が生き物であることを強く実感し、“身土不二”(人間と自然は一体)の言葉が頭の中を強烈によぎっていく。

~~~~
コラム1:「骨酒」
「骨酒」というのは燗をした酒に焼いたイワナを浸したもの。昔は身を食べたあとの骨を焼いて酒に浸したので「骨酒」の名がある。今では奥会津に限らず、他地方でも身全体を焼いて入れる。酒に浸したイワナが好きだといって食べる人もいるが、残す場合が多い。日本では、ほかにも焼いたアユやカジカを入れる「アユ酒」や「カジカ酒」があるが、これら川魚を浸した酒は東日本に限られているようだ。このあたりにも日本の東と西の違いが出ていておもしろい。このような酒に魚を浸して飲むのはおそらく日本特有の食文化であろう。中国には「虎骨酒(ここつしゅ)」があるが、これは黄色くなるまであぶった虎の脛の骨を蒸留酒に浸したものだという。

コラム2:「山菜」
 奥会津は日本でも有数の山菜の宝庫。食用にしている山菜の数の多さには驚かされる。その中でもとくに重要なのがゼンマイ。ゼンマイ採りを専業にしている人もいる。平坦なところに生えるワラビとは違って、ゼンマイは険しい斜面などに生えるので採るのが難しい。またそのあとの手間もかかる。ワタ帽子を取り除き、大鍋でゆで、ムシロに広げて天日で干す。そのときに手でよくもみほぐす。このようにして乾燥させたゼンマイを商品として出荷する。ひとつ、奥会津の山菜でおもしろかったのは、キノメ(アケビの新芽)をあまり食べないこと。ぼくはこのキノメのおひたしが大好きなのだ。
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テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

カソリの食文化研究所:第2回 甲州編

 (『ツーリングGO!GO!』2002年9月号 所収)

 地球の両極点、北極点と南極点にバイクで到達したアドベンチャーライダーの風間深志さんと雑誌で対談したとき、バイク談義はそっちのけで、カソリ&カザマ、「ほうとう談義」でおおいに盛り上がった。
 甲州生まれ、甲州育ちの風間さんは生粋の甲州人。
 ぼくはそんな風間さんの土の匂いのプンプン漂う甲州人気質が大好きだ。2人でチームを組み、2台のスズキDR500で第4回(1982年)の「パリダカ」に参戦したときは、けっこう本気で「甲州魂」とか「風林火山」の旗をなびかせて走ろうか、と話したほどだ。

 そんなカソリ&カザマの対談で、
「ほうとう、ほうとう」
 と、何度も「ほうとう」よばわりすると、
「カソリさん、甲州ではねえ、おほうとうと“お”をつけるんですよ」
 といわれてしまった。
“おほうとう”、この言葉は甲州でのほうとうの地位を如実に物語っている。
 甲州人にとってほうとうはうどんを1杯すするといった間食程度のものではなく、夕食で食べられる、いわば主食のようなものなのだ。
 それだけ大事なほうとうなので、飯に“御”をつけて“ご飯”というように“おほうとう”といっている。「ほうとう」を通して甲州という国を見たくなり、東京から国道20号(甲州街道)を西へ、大月まで行ってほうとうを食べることにした。

 旅の基本は、まずは「高いところに登れ!」。
 で、大月に着くとすぐに町を見下ろす岩殿山に登った。ここは修験の山だった。
 9世紀末には天台宗の開通寺が創建され、三重塔や観音堂、僧坊などの立ち並ぶ甲州東部の山岳宗教の拠点になり、山麓には繁華な門前町が形成された。だが、今では開通寺跡が残されているだけだ。
 16世紀になると、武田24将の1人、小山田信茂がこの要害の地に戦国期特有の山城を築き、武田氏の相模や武蔵への備えとなった。1時間ほどかけて山頂に登ると、そこからは足元に広がる大月の街並みを一望する。
 大月の小盆地は山々に囲まれ、その向こうに富士山が見えている。ここからの富士山の眺めは大月の“秀麗富嶽十二景”のひとつになっている。

 岩殿山を下ると、甲州街道沿いにある郷土料理店の「竹馬」でほうとうを食べた。鉄鍋に入って出てきたほうとうは、味噌仕立ての煮込みうどん。幅広に打った麺には、シコシコッとした腰がある。それにネギやニンジン、インゲン、青菜やジャガイモ、キノコ、油揚といった具がどっさり入っている。それとカボチャだ。
 カボチャの甘味が汁に溶け、何ともいえない味を出している。甲州人がよくいうところの「うまいもんだよ、カボャのほうとうは!」が、実感として感じられた。
 店の中には、ほうとうの由来が次のように書かれていた。
「ほうとうは、味噌煮込みうどんのことである。昔、武田信玄公が戦いのおり、携帯の干飯(ほしいい)だけでは将兵の体力が持続できないので、中国の禅僧より、活力のつくほうとうの作り方を伝授され、野戦食とした。それが一般化した」
 今でも甲州人の胸の中に脈々と生きつづける武田信玄は“信玄公”と呼ばれているが、この説明はすべてのことを武田信玄にむすびつけたくなる甲州らしいものだった。

 ほうとうはもともとは、よくこねた小麦粉の塊をちぎっては鍋に入れる団子汁だった。 日本のウドンの原型なのだ。
「ウドン」は漢字では饂飩と書くが、平安時代、もしくはそれ以前に中国から伝わった。その時点では小麦粉で皮をつくり、その中に具を入れたワンタン風のものだったという。その北京語発音が「フォントン」、広東語発音が「ワンタン」になる。大分の「ほうちょう汁」、埼玉の「にぼと」、栃木や宮城の「はっと汁」などはすべて山梨の「ほうとう」の類だが、これらの同類語は饂飩の北京語発音の「フォントン」から来ている可能性がきわめて高い。
「インドシナ一周」(1992年~1993年)のとき、古い中国文化が残るマレーシアのペナン島のチャイナタウンを歩いた。そこで「雲呑麺」の看板を掲げた店を発見。当然ウドンの店だろうと思った。ところが、その店に入り、雲呑を頼むとコーヒーつきのワンタンが出てきた。日本語風に発音すれば「うんどん」、つまり「ウドン」になる「雲呑」はワンタンのことだった。
 そのとき、饂飩が日本に伝わったときはワンタンだったという説を改めて頭に浮かべるのだった。どうも我々のご先祖は饂飩が日本に伝わったてからというもの、「ウドン」と「ワンタン」を混同させてしまったようだ。ちなみに「ワンタン」も漢字で書くと、「饂飩」になる。

 大月の岩殿山の山頂に立ち、まわりを山々で囲まれた市街地を一望したとき、
「おー、これぞ、山峡(やまかい)!」
 と、カソリ、思わず叫んだ。その風景は山峡そのものだった。
 現在の山梨県は旧国の甲斐(甲州)一国がそのまま県になっている。
 甲斐は「山峡」から来ているといわれるが、今でも峡北、峡南、峡東、峡西と呼ぶ地域名に「山峡」が残っている。
 岩殿山の山頂から山峡の風景を見たとき、甲州が米作ではなく、麦作の国であったことが、一目で実感できた。山峡に水田をつくるような広さはない。山の斜面の傾斜畑で小麦や大麦をつくり、小麦は粉にしてほうとうにし、大麦は麦飯や麦粥にして食べた。
 麦こそ甲州を支える作物だった。岩殿山からの風景はそんな甲州の食文化を見てとることができた。
 ほうとうは甲州の麦作文化を今に伝えるものなのである。
 先に甲州では「おほうとう」というといったが、麦粥なども“お”をつけて「おばく」という。「麦」を「ばく」読みにしているのである。

 さて、日本で今のようなこねた小麦粉の塊をのし棒でのし、包丁で切り、ゆであげたうどんを食べるようになったのは近世以降のことだといわれている。
 それ以前は山梨の「ほうとう」や先にあげた大分の「ほうちょう汁」や、埼玉の「にぼと」、栃木や宮城などの「はっと汁」、さらには群馬の「おきりこみ」や熊本の「団子汁(だごじる)」などの煮込みうどん的な食べ方が一般的だった。
 大月のほうとうを食べながら、世界の麺食文化に思いを馳せた。
 甲州のほうとうは甲州独自のものではなく、世界の麺食文化の大きな流れの中にある。小麦を粉(粉食)にし、それを麺や饅頭にして食べる食文化圏の中心は中国の華北地方。甲州から華北へ、大月での結論は「麺を追って世界に飛び出せ!」ということだった。

(※その後、カソリは麺を追って2004年には旧満州を一周し、2006年にはシルクロードを横断した。【麺ロード】で得たものはきわめて大きかった)

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

カソリの食文化研究所:第3回 伊那編

 (『ツーリングGO!GO!』2002年10月号 所収)

 馬刺しを食べたくなった。
 それも無性に食べたくなったのだ。
 馬刺しといえば、熊本や東北の各地にそれを名物にしているところがあるが、なんといっても本場は信州の伊那谷。思い立ったが吉日、東京から中央高速の一気走りで伊那へ。 信州は“盆地の国”。中央分水嶺の北側、千曲川沿いには佐久盆地、上田盆地、長野盆地、飯山盆地と盆地が鎖状につづいている。さらに北アルプス山麓には松本盆地と安曇野盆地が広がる。
 中央分水嶺の南側には、諏訪湖周辺の諏訪盆地から諏訪湖から流れ出る天竜川沿いの伊那盆地へとやはり盆地がつづく。これらの盆地を結んで、信州には何本もの峠道が開けている。そんな信州の盆地のひとつ、伊那盆地の伊那に向かった。
 中央高速を伊那ICで降り、高台に立って伊那盆地を一望する。
 東側には南アルプス、西側には中央アルプスの高峰群が連なり、その間を天竜川が流れている。伊那盆地は「伊那谷」とよく言われるが、“谷”から受けるイメージ以上の広がりがある。ここが日本の馬肉料理の本場になっている。

 伊那の市街地に入り、JR飯田線の伊那市駅前の駐車場にバイクを停め、さっそく肉屋を見てみる。駅近くの「板谷精肉店」のショーウインドーで目が停まったが、そこには7種類の肉が並んでいた。
 牛ロース(850円)
 馬刺し(480円)
 馬最上(400円)
 馬上(300円)
 豚ロース(230円)
 豚上(160円)
 豚中(130円)
(値段は100g当たり)

 なんと7種類の肉のうち、3種類が馬肉だ。
「すごいゾ!」
 さすが馬肉料理の本場だけのことはある。
 スーパーの肉売り場をのぞいても、やはり馬肉が幅をきかせていた。
「伊那谷の人たちは、それは馬肉が好きですよ。馬刺しは大好物だし、すき焼きといえば馬肉。ふだんの家庭料理でも、煮つけにはよく馬肉を使います。コロッケやメンチカツにも馬肉を入れます」
 といった話も聞いた。

 伊那の中心街をプラプラ歩く。
 川魚店の店先にずらりと並んだ川魚類の甘露煮を見たり、伊那名物のハチノコやザザムシ、イナゴを売る店を見たりして伊那市駅前に戻った。
 歩いて腹をへらしたところで、馬肉料理だ。
「板谷精肉店」に隣りあった焼肉店の「いたや」に入り、馬肉三昧の食事をした。
 まっさきに「馬刺し」を食べた。
 うす切りにしたロースを生のまま、ショウガ醤油につけて食べるのだが、クセがなく、さっぱりとした味わいで、ツルツルッとソバをすするかのように1皿、あっというまに食べてしまった。故郷を離れた伊那人の一番、恋しがる味が馬刺しだということも、この本場の馬刺しを食べてみるとよくわかる。

 次に「おたぐり」を食べた。
 おたぐりというのは、馬のもつをぶつ切りにし、長時間、煮込んだもの。くさみは消えてやわらかくなっている。
 馬の腸はとびきり長いものだが、それをたぐり寄せ、たぐり寄せして取り出すところから「おたぐり」の名がある。おたぐりは食材にするまでが大変だ。取り出した馬の腸をたんねんに水洗いし、包丁でその表面をこそいで脂分を取り除く。さらにそれを切って2、3時間、流れ水に打たせるのだ。

 そして桜鍋でご飯を食べた。
 桜鍋とは馬肉のすき焼き。馬肉のことを桜肉ともいう。さらにそのあと、カソリの「鉄の胃袋」をフル稼働させ、馬肉のステーキと、馬肉のハムを食べた。
「いたや」では馬肉料理を全部で5品を食べた。馬肉料理だけで満腹になったとき、あらためて伊那の馬肉食文化のすごさを感じるのだった。

 伊那谷では、かつてはどの家でも、農耕馬を飼っていた。現役を退いた農耕馬をつぶして食用にしていたのだ。このように伊那谷では馬肉を食用にしてきた伝統がある。
 低カロリー、低脂肪、高タンパク、高グリコーゲンの馬肉は、コルステロール過多の現代人にはぴったりの肉だといわれているが、伊那人は「馬肉は体にいい!」ということを体験的に知っていた。
 伊那人は理屈っぽいけれど、頭はいい。
「東京の大学で、石ころをいくつか投げれば、かならずひとつは伊那谷出身の教授にぶつかる」
 といわれるほどなのだ。
 腰の曲がった婆さんが、当たり前の顔して岩波の『世界』を読んでいたりする。

 伊那谷ではかつては養蚕が盛んにおこなわれていた。製糸も盛んだった。
 そのような伊那谷だから、まゆ玉を大釜で煮立てて生糸をとったあとに残るカイコのサナギも食用にしていた。伊那谷では“サナギ”といえばカイコのサナギを指すほど。今でもカイコのサナギの甘露煮は、伊那谷名物のハチノコやザザムシ、イナゴなどと並んでここではごくあたりまえに売られている。
 ところで養蚕や製糸が盛んだったのは、なにも伊那谷に限らない。だが、日本の他地方ではカイコのサナギを養殖ゴイの餌などにすることはあっても、人間の食用にしているところはほとんどない。カイコのサナギは極めて栄養価が高いのにもかかわらず‥。

 それは伊那谷名物のハチノコやザザムシでも同様のことがいえる。
 ハチノコはジバチの子だが、伊那谷の業者は遠く東北や中国地方にまでハチノコ取りにでかけている。ザザムシも日本のほかの河川でも生息しているのにもかかわらず、それを人間の食用にしているところはほとんどない。伊那谷ではそのほかにもナラやナギの木の根元にいるゴトウムシやセミの幼虫なども食用にしている。そのため、
「伊那人のゲテもの食い」
 とよくいわれる。
 その理由としては、
「伊那谷は海から遠く、まわりが山ばかりで貧しい土地だから、何でも食べなくてはならなかった」
 と、もっともらしくいわれている。

 だが、それは大間違いだ。貧しい土地だからゲテものを食ってきたのではない。
 伊那谷で馬肉料理を筆頭に、種々雑多な動物タンパク源を食用にしてきたのは、伊那人が頭がいいからできたことなのだ。それに尽きるとぼくは思っている。
 それら種々雑多な動物タンパクが体にいいことを伊那人は昔から知っていた。これぞまさしく生活の知恵、食への知恵。伊那人の合理的な精神風土からきている。
 馬肉料理で満腹になった伊那でぼくは、
「頭のいい人間は何でも食う!」
 という食への結論を導き出した。

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カソリの食文化研究所:第4回 静岡編

 (『ツーリングGO!GO!』2002年11月号 所収)

 街道を風のように駆け抜けていくツーリングライダーのカソリにとって、街道と名物料理のとり合わせほど、おもしろいものはない。
 街道への興味、その土地に根づいた名物料理への興味と、両方の興味を同時に満たしてくれるからだ。
 で、今回はカソリ、東海道に白羽の矢を立てた。東京から現代版東海道の国道1号を西へ、静岡へと向かった。

 静岡は明治以降の新しい地名。
 それ以前は甲州の中心が甲府、周防の中心が防府…であるのと同様、駿府といわれた。江戸時代後期、天保14年(1843年)の駿府の戸数は3673戸、人口1万4071人。駿府は当時の東海道の中では、桁違いに大きな町だった。
 さー、東海道の名物料理の食べ歩きの開始だ。駿府の東海道がらみの名物は安倍川餅。 安倍川を渡った次の宿場、宇津谷峠下の丸子の名物はとろろ汁。静岡では「安倍川餅」と「とろろ汁」をターゲットにし、その両方を食べることにした。

 静岡の中心、駿府城跡から安倍川に向かっていく道が旧東海道だ。
 安藤広重の「東海道五十三次」でも駿府では、安倍川河畔の「名物安倍川餅」の看板を掲げた茶屋が描かれている。江戸時代末の安倍川河畔には全部で8軒の茶屋があったというが、現在ではそのうち「石部屋」だけが残っている。
 旧東海道の名残を色濃くとどめている「石部屋」に入り、さっそく名物の「安倍川餅」を食べた。1皿500円。黄粉とあんこの餅が4個づつのっている。搗きたてのうまい餅だ。そのうちの白砂糖をまぶした黄粉餅が、もともとの安倍川餅だったという。

 慶長年間に徳川家康が井川の笹山金山を視察したとき、安倍川の茶屋でひと休みしたのだろう、ある男が家康に黄粉餅を献上した。
 きっとその味がよかったからなのだろう、家康は男に餅の名前を聞いた。
 すると男は安倍川と金山の金粉に因み、
「安倍川の金な粉餅」
 と答え、家康はその男の機智をおおいに褒めたたえた。
 それ以降、安倍川餅は有名になったという。そんな話が「石部屋」でもらった安倍川餅の由来に出ていた。

 安倍川餅が東海道の名物として定着するのは、さらにその200年後、18世紀も後半になってからのことだ。
 代官の指導のもと、駿河のこの地で、南島を除けば全国でも初の甘蔗(サトウキビ)栽培がはじまった。その甘蔗からつくる砂糖をふりかけた黄粉餅は東海道を行き来する旅人たちにおおいに受け入れられ、東海道を代表する名物になった。
「石部屋」ではもう1品、ワサビ醤油につける「からみ餅」(500円)も食べた。腰の強い粘りのある餅。腹にずっしりと溜まった。

 安倍川橋で安倍川を渡り、そのまま旧東海道を行くと、丸子の町に入る。
 丸子で「まりこ」。古くは鞠子と書いた。
 丸子の町並みを抜け出たあたりの丸子川沿いに、「とろろ汁」を名物にしている「丁字屋」がある。創業は慶長元年(1596年)というから、今から400年以上も前のことになる。昔ながらの茅葺き屋根の茶屋だ。

「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」

 芭蕉の句に詠まれ、弥次さん、喜多さんの『東海道中膝栗毛』にも出てくる「丸子のとろろ汁」は、安倍川餅同様、東海道中では欠かせない名物だった。
 安藤広重の「東海道五十三次」でも、丸子宿では「名物とろろ汁」の看板を掲げた「丁字屋」が描かれている。
「丁字屋」の「とろろ汁」は今でも人気の名物料理で、平日の昼前に入ったのにもかかわらず、店内は混んでいた。
 さっそく「丸子定食」(1380円)を頼む。すると、すぐさま名物のとろろ汁が運ばれてきた。このスピード感が命。お櫃に入った米7分麦3分という麦飯を茶碗によそい、その上に自然薯をすりおろし、だし汁でのばしたとろろ汁をかけ、薬味の刻みネギをふりかけて食べる。麦とろはいくらでも食べられる。スルスルッとのどを通り、腹にはいっていく。
「麦とろ8杯」
 といわれるように、麦とろはいくらでも食べられる。しかも、いくら食べても腹をこわさないし、腹にもたれない。

 東海道の丸子宿の次の宿場は岡部宿だが、その間には箱根峠、鈴鹿峠と並ぶ東海道の難所の宇津谷峠がひかえている。旅人たちは丸子宿でとろろ汁をかけこむようにして食べ、パワーをつけて宇津谷峠に立ち向かっていったのだ。とろろ汁の自然薯も、元々は宇津谷峠周辺の山中でとれる天然のものだった。
「とろろ汁」に大満足したところで、スズキDJEBEL250XCを走らせ、宇津谷峠に向かっていく。
 ここはまさに峠のトンネルの展覧会場のようなところ。明治、大正、昭和、平成と時代ごとの峠のトンネルが見られる。明治9年に完成した明治トンネルは日本最初の有料トンネル。大正トンネルは旧国道1号のトンネル。昭和トンネルは現国道1号の上り車線、一番新しい平成トンネルは下り車線だ。

 さらに江戸時代の旧東海道がこの峠を越え、さらに時代をさかのぼった平安時代の官道の峠道「蔦の細道」も残されている。丸子のとろろ汁は東海道の宇津谷峠と深くかかわった名物料理なのである。
 静岡で「安倍川餅」、「とろろ汁」という東海道の名物料理を食べて感じたことは、
 その1、「名物にうまいものあり!」
 その2、「名物は食べるべし!」
 ということだった。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

カソリの食文化研究所:第5回 岡崎編

 (『ツーリングGO!GO!』2002年12月号 所収)

 皆さんは毎朝、どんな味噌汁を飲んでいますか?
 我々にとって味噌はあまりにも身近なもの。ふだんは意識することなく使ったり、味わったりしているが、じつはこれが大変なシロモノなのだ。
 地域差が色濃く出る味噌は、日本の食文化の核心にふれるようなものといっても過言ではない。
 その味噌の中でもとくに個性が強く、独特なのが三河の赤味噌。その代表選手が岡崎の「八丁味噌」なのである。 静岡編の「安倍川餅」や「丸子のとろろ汁」が東海道とは切っても切れない関係にあるのと同じように、この八丁味噌も東海道ときわめて深く結びついている。

 ということで、静岡からさらに国道1号(東海道)を西へ。
 愛車スズキDJEBEL250XCを走らせ、愛知県に入り、岡崎に向かった。
「目指せ、八丁味噌!」
 岡崎に到着すると、まっさきに岡崎城のある岡崎公園に行った。
 徳川家康ゆかりの岡崎城入口には、
「人の一生は重荷を負うて、遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもえば‥」
 で、はじまる有名な家康の遺訓碑が、亀の石像の上に建っている。
 さすがに石都、岡崎。家康の遺訓碑は見事な細工の花崗岩でつくられている。

 岡崎城の天守閣に登る。そこからの眺めはすばらしい。東に目をやると、ビルが建ち並ぶ岡崎の中心街の向こうに、ゆるく波打つ三河高原の山々が見える。反対に西に目を向けると、矢作川の流れが光り輝き、その向こうには濃尾平野へとつづく平原が茫漠と広がっている。高原と平野。岡崎は両者の接点にあり、岡崎を境に、風景は鮮やかに変わる。
 岡崎は城下町であるのと同時に、東海道の要となる宿場町。東海道筋では駿府(今の静岡)に次ぐ賑わいをみせていた。
 辛口の赤味噌の代名詞のような「八丁味噌」の起源は遠く室町時代までさかのぼるといわれているが、東海道を行き来する旅人たちによって、その名が全国に広められていったのだ。
「さー、八丁味噌の食べ歩き、開始だ!」
 と、カソリ、気合十分で岡崎城前の茶店に入る。

 まずは店の創業の「延元2年」に驚かされた。聞いたこともないような年号なので、いつも持ち歩いている愛用の「歴史手帳」で年号を確認すると、なんと延元は南北朝時代の南朝方の年号。延元2年というと、今(2002年)から666年も前のことになる。
 ここでは、さらに驚かされた。
 おでんを頼むと、串刺しにしたコンニャクの田楽が出た。
 それにはたっぷりと八丁味噌に砂糖を混ぜたタレがかかっていた。
 次に関東煮を頼んだ。関東煮といえば、やはり、おでんのことである。何が、どう違うのか、興味津々。出てきた関東煮は、いわゆるおでんで、それにはコンニャクとタマゴ、チクワ、ハンペン、ゴボウマキの5種があった。これら関東煮も辛子ではなく、八丁味噌のタレをつけて食べる。
 ここでぼくが驚かされたのは、その言葉づかいだった。ここでは田楽だけをおでんといっている。
 おでんは漢字で書くと「御田」。御田は田楽に御をつけた「御田楽(おでんがく)」を略した言葉なのだが、御田楽が御田になったという、おでんの歴史にかかわる古い言葉づかいがここには残されていた。

 それともうひとつ、「関東煮」も興味深かった。
 関西では「かんとだき」といってるが、関東と関西の中間に位置する岡崎では「かんとうに」なのである。
 岡崎城内でおでんと関東煮を食べたあとは、中岡崎駅前のうどん店「釜春」で八丁味噌を使った「味噌煮込みうどん」を食べた。
 日が暮れると、東岡崎駅近くの屋台「萬楽」で「どてやき」を食べた。八丁味噌で甘辛くした汁で串刺しにした牛もつをグツグツ煮込んだもの。
 屋台のおばあちゃんの伊奈美代子さんはここで50年、ずっとどてやきをつくりつづけている。
「この鉄鍋はね、20年もの間、洗ったことがないのよ」という。
 まさに食の年輪だ。

 八丁味噌は肉料理には、ことのほか合う味噌である。肉のくさみを消し、臓物までも、まるで別物のような味に仕立て上げてしまう。
 岡崎でどうしても食べたかったのが、八丁味噌の「焼き味噌」だ。
 徳川家康は「湯漬けに焼き味噌!」といって大好物にしていたという。ぼくも同じものを食べたいのだ。といいっても食堂のメニューにはない。
 で、電話帳を頼りに、「あのー、朝食に焼き味噌をつくってもらえませんか‥」と、岡崎市内の何軒かの宿に電話した。10軒近く電話したが、ことごとく断られた。
「よし、これで最後だ」と電話した本宿駅近くの旅館「梅忠」では、ついに快く引き受けてくれた。

 翌朝の朝食では、焼き味噌の半分を熱いご飯の上にのせ、もう半分は湯漬けにした。立ちのぼる湯気とともに、八丁味噌の香りがほんのり鼻をつく最高のうまさ。
 宿の女将さんは「ウチの孫も東京から帰ると、いつも(八丁味噌の)焼き味噌と味噌汁があれば、もうそれだけでいいっていってますよ」というのだった。
 こうして八丁味噌を使った料理をひととおり食べたところで、角九印で知られる「八丁味噌」の工場を見学した。
 岡崎市の八帖町にあるが、ここはかつての八丁村。岡崎城から東海道を西へ、ほぼ八丁(約870m)の距離に位置しているからだ。八丁村産の味噌なので、いつしか八丁味噌といわれるようになった。

 味噌は煮たり蒸したりした大豆に食塩と麹を加え、大豆のたんぱく質を分解させてつくる調味料。大きく分けると、米麹を使う米味噌と麦麹を使う麦味噌、それと八丁味噌のように蒸した大豆に直接、種麹をつけ、豆麹からつくる豆味噌がある。
 日本列島はこれら3種の味噌できれいに色分けできる。
 そのうち“豆味噌圏”というと、愛知県のほかには静岡県西部、岐阜県南部。三重県北部に限られる。
「八丁味噌」の工場見学でのハイライトシーンは味噌蔵。塩と水の混ぜられた豆麹は30石(約5400リットル)の大桶に仕込まれるが、このような仕込み桶が薄暗い味噌蔵にズラリと並んでいる光景はアッと息を飲むほどに壮観だ。
 その数は700桶。1桶からは約6万トン(30万人分の味噌汁をつくる量)の八丁味噌ができるという。

 豆味噌の原料は大豆と水と塩。
 岡崎の旧八丁村は、これら豆味噌のすべての原料に恵まれていた。矢作川流域は、“矢作大豆”で知られた大豆の名産地。水はといえば、岡崎周辺は伏流水が流れ、地下水が豊富で、いくらでも良質な水が得られた。さらに塩といえば、矢作川河口近くの三河湾に面した吉良は古くからの塩の産地で、吉良産の三州塩の入手が容易だった。さらに製品の出荷にも東海道の陸運があり、矢作川の船運があった。

 八丁味噌は水分も塩分も少ない堅い味噌である。そのため日持ちがよく、兵糧食としては最適で、栄養価の高いチーズを持ち歩くようなもの。
 三河武士の強さの秘密は“八丁味噌”といった説もある。徳川家康は合戦になると、
「さー、戦だ。味噌を集めよ!」
 と、岡崎城下に大号令をかけたという。
 豆味噌と同じタイプの味噌は世界でも朝鮮半島にだけ、見られるという。味噌は朝鮮語の蜜祖(ミソ)からきた言葉だという説もある。それはともかく、朝鮮半島から伝わったとされている味噌づくりの原型をもっとも忠実に受け継いでいるのが豆味噌なのだ。
 岡崎で得た結論は「味噌は限りなく奥が深い!」ということだった。

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カソリの食文化研究所:第6回 唐沢編

 (『ツーリングGO!GO!』2003年1月号 所収)

「新そばが出始めた!」
 というニュースをキャッチすると、そばを食べに信州に行きたくなった。
 そばといえば信州。信州といえばそばなのである。信州のそばはほんとうにうまい! たとえば国道18号で群馬県側から碓氷峠を越えて信州に入ったとたんに、同じく国道20号で山梨県側から信州に入ったとたんにそばがうまくなる。
 店によっての当たり外れがきわめて少ないのが「信州そば」の大きな特徴だ。
 というのは信州人はうまいそばを食べ慣れているので、味の落ちる店はすぐにやっていけなくなってしまう。讃岐路でうどん店の当たり外れが少ないのとよく似ている。

「さー、行くゾ!」
 と、気合を入れて、「信州そば」を食べに向かったのは松本に近い山形村。
 信州のそばの名産地としては戸隠高原や開田高原がよく知られているが、松本に近い山形村の唐沢という集落は、知る人ぞ知る「信州そば」の絶品を食べられるところなのだ。ここには日本各地からそば通の人たちが大勢やってくる。
 愛車のスズキDJEBEL250XCを走らせ、塩尻ICで高速を降りる。北アルプスの山々を間近に眺めながら高原を貫くサラダ街道を走り唐沢へ。
 唐沢の集落には全部で10軒の家があるが、10軒、全部がそば屋をやっている。
 各家の畑でソバを栽培し、収穫したソバを手打ちそばにして客に出している。ここは、まさに「唐沢そば集落」なのである。

 そのうちの1軒、サラダ街道(県道25号)に面した「からさわ亭」に入る。
 店の入口には「新そば」の貼り紙。さっそく「信州そば」を賞味する。まずはそばの味が一番よくわかる「盛りそば」を頼んだ。ざるに盛ったそばをツルツルッと食べる。腰のあるそば。しっかりとした歯ごたえがある。
 さすがに新そばだけのことはあって、ゆであげたそばを箸で取り、そばつゆにつけて口に入れる瞬間、新米のご飯のようなほのかな香りが漂う。
 さらに「からさわ亭」では「サラダそば」と「とろろそば」を食べた。

 山形村の唐沢から塩尻に戻ると国道19号(中山道)を南下し、次に本山宿(塩尻市)に行った。
 中山道の宿場町、本山宿は日本の「そば切り」発祥の地。本山宿で唯一、そばを食べられるのが「本山そばの里」だ。ここでは「盛りそば」を食べ、さらにソバ粉を熱湯でかいた「そばがき」を食べた。
 この「そばがき」こそ、我々日本人の元々のそばの食べ方だった。
 餅風のそばがきはずっしりと腹にたまる。それを麺に打って現在のような「そば切り」を考案したのは、恐らく16世紀の後半から17世紀の前半にかけてのことだろう。
 その発祥の地が本山宿なのだ。
 うどんや素麺の麺づくりの下地があってのそば切りの考案であったことは間違いない。「そば切り」はつくるのに手間がかかるのでハレ(非日常)の日の食べ物、それに対して簡単につくれる「そばがき」はケ(日常)の食べ物だった。

 ぼくは国道18号の旧道で碓氷峠を越えて信州に入るのが好きだ。
 上州側の急峻な山岳地帯を登り詰め、峠を越えて信州に入ると、劇的に風景が変わる。目の前には平坦な、広々とした高原の風景が広がっている。まさに「高原の国」。
 と同時に信州は「峠の国」でもある。まわりを高い山々に囲まれた信州に入るのには、どのルートをとるにしても峠を越えていく。
 峠を越えて入る信州の高原地帯が「信州そば」の故郷なのだ。

 高原の冷涼な気候は稲作には不向きだが、耐寒性の優れたソバの栽培には適している。ソバは酸性の土壌でも育つし、栄養分の吸収力の強い作物なので、信州のやせた火山灰地にはぴったりのソバ栽培。さらに信州の高原にかかる冷たい霧が、ソバをより上質なものにする。
「信州そば」がうまいのは、ソバが信州に適した作物であり、信州産のそば粉の質が高いからである。これが一番の理由だ。
 それともうひとつの大きな理由は、そば打ち名人が信州のいたるところにいることだ。 山里のごく普通の主婦たちの多くは、そば職人顔負けのそば打ち名人なのである。
 これこそ母親から娘へと連綿と伝えられてきた生活の技。つなぎをまったく使わず、そば粉だけの十割そばを上手に打てる主婦たちがあたりまえのようにいる。
 このように上質のそば粉とそばを打つ技術の高さが「信州そば」を支えている。
「信州そば」をすすると、信州の風土が手にとるようによく見えてくる。

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カソリの食文化研究所:第7回 氷見編

 (『ツーリングGO!GO!』2003年2月号 所収)

 富山湾の海流は、時計回りだ。
 そこでは古くから、湾内を流れる海流を利用して、ブリの定置網漁が盛んにおこなわれてきた。富山湾のブリ漁の本場が氷見漁港。ここに水揚げされる「氷見ブリ」はまさにブリのブランド品。脂ののり方や身のしまり方が違うので、同じ富山湾でも、ほかの漁港に揚がるブリよりも値段が高い。
 晩秋から初冬にかけて、雷が鳴って日本海が大荒れに荒れると、ブリが富山湾に逃げこんでくるのでよくとれるようになる。
 富山湾の漁民たちはその雷鳴を「ブリオコシ」と呼んでいる。そのころから、ブリがたくさん水揚げされるようになる。
 この冬の脂のたっぷりとのったブリを寒ブリという。それに対して初夏のブリを夏ブリというが、寒ブリは夏ブリとは比べものにならないほど、はるかに美味だ。

 11月中旬、寒ブリを食べに、氷見に向かった。
 愛車スズキDJEBEL250XCに「頼むゾ!」とひと声かけて、真夜中、東京を出発。関越道→上信越道→北陸道と、寒風を切り裂き、雪とアイスバーンの恐怖に怯えながら高速道を突っ走る。
 うまいものを食べるためには、どんな苦労をもいとわないカソリなのだ。
 北陸道を富山ICで降り、R8→R160経由で氷見に着いたのは夜明け。
 500キロあまり走っての氷見到着だ。熱~いブリのあら汁でも食べて体をあたためたいところだが、やってる店もないので、すぐさま氷見漁港に行った。

 漁港前の魚市場には、水揚げされたばかりの、体長1メートルぐらいの寒ブリがズラリと並んでいる。重さは10キロ前後。15キロの大物も見る。
 魚市場での競りを見たあと、氷見の海岸を走った。沖合1キロぐらいのところに、ブリ漁の定置網を見る。かなり大がかりな定置網なので、資金がないとできない漁なのだ。
 氷見市内に戻ると、「日本一周」のときにも立ち寄ったことのある氷見駅近くの「小川屋食堂」に行く。ここのおばちゃんがすごくいい。あったか味のある人。
 さっそく寒ブリを賞味する。まずは刺し身。
「おー、これぞ、氷見ブリ!」
 ひき締まった身のブリブリ感がたまらない。
 食べながら「これだよ、これ!」と思わず声が出てしまう。おばちゃんは「おまけよ」といって、さらにメジの刺し身を出してくれた。

 次に、ブリカマの照り焼きだ。
「う~ん」
 食欲をそそる匂いがたまらない。カマはブリの中でも一番脂ののったところで、それを一口、口に入れたときのトロッとした上質の脂分が「寒ブリ」を強烈に感じさせてくれるのだ。
 おばちゃんは、「ほら、この形が草を刈る鎌に似ているでしょ。だからカマっていうのよ」という。
 最後はブツ切りにしたあらとダイコンを味噌でグツグツ煮込んだあら炊きだ。これがまたご飯にじつによく合う。
 このほかブリの内蔵は、酢味噌あえのぬたにする。ここではフトウと呼んでいるブリの肝臓は塩辛にする。ぬたにしても、塩辛にしても、これがまた絶品。絶好の酒の肴だ。
 このようにブリは捨てるところのまったくない魚なのである。

 ブリは富山人にとって、正月には絶対に欠かせない。
 ブリなしの正月は、餅なしの正月のようなもので、まったく考えられないことなのだ。嫁の里からは、歳暮として婚家にブリを送る習わしがあり、婚家ではその片身を送り返すのがしきたりになっている。
 正月魚でいえば、同じ日本海でも富山のすぐ隣り、親不知を越えた新潟より北はサケになる。このあたりが日本の風土のおもしろさ。一見すると同じように見えても、親不知という一本の線を境に、西と東ではガラリと文化が変わる。
 さて、ブリはまた、成長するにつれて呼び名が変わる出世魚として知られている。
 関東だと「ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ」。
 関西だと「ワカナ→ハマチ→メジロ→ブリ」。
 だが、富山では「ピンピン→ツバイソ→コズクラ→フクラギ→ニマイズル→ガンドウ→コブリ→オオブリ」となる。
 ブリが正月には欠かせない魚だということ、このようなじつに細かい呼び分けがあるということは、それだけブリが富山人の生活に密着した魚の証明だ。

 ところで、信州の安曇野でも正月魚はブリで、それを「飛騨ブリ」と呼んでいる。
 もちろん山国の飛騨でブリはとれないが、富山湾の「氷見ブリ」が飛騨の高山の問屋を経由し、安房峠や野麦峠を越えて信州に入ると「飛騨ブリ」になるのだ(ちなみに飛騨では「越中ブリ」という)。
 北アルプスの2000メートル近い峠を越えるブリ! 
 このブリの運ばれた道が「ブリ街道」だ。
 氷見からの帰路は「ブリ街道」を走った。
 富山から高山へ。高山からは国道361号を行く。
「道の駅・ひだ朝日村」には、写真、地図つきの「ブリ街道」の案内板があった。
 ほんとうは野麦峠を越えたかったが、冬期閉鎖なので国道361号の長峰峠を越えた。峠近くではバイクを押した。雪との大格闘。
 大汗をかきながら雪の長峰峠を越えたとき、ぼくは自分の姿と重ね合わせて、ブリを背負って北アルプスの雪深い峠を越えた歩荷(ボッカ)たちの姿を思い浮かべるのだった。

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カソリの食文化研究所:第8回 輪島編

 (『ツーリングGO!GO!』2003年3月号 所収)

 冬ツーリングには、なんたって鍋だ。
 絶対に鍋だ。誰が何といおうとも鍋なのである。 
 とはいっても、ただの鍋では我慢できないカソリ。「食文化研究家」の心をくすぐるような、研究意欲を満たしてくれるような鍋でなくてはならないのだ。そこであれこれ考えた末の結論が、能登半島の輪島に、
「いしる鍋を食べに行こう!」
 ということだった。

 いしる鍋というのは、奥能登特産の魚醤、いしるを使った鍋料理。このいしるというのは、日本の食の文化財といってもいいほどで、かつては日本各地(とくに沿岸一帯)で使われていた魚醤の数少ない残存例なのである。
 ちなみに魚醤というのは、魚を塩漬けにして重しをかけ、しみ出る汁を漉したもの。魚のうま味のたっぷり入った調味料である。
 日本ではほかには秋田のしょっつるがよく知られている。

 金沢の市場、近江町市場をプラプラ歩いたあと、愛車のスズキDJEBEL250XCで能登半島に入っていく。
 有料の能登道路を走り、輪島に直行。
 切り裂く寒風も、湯気の立ちのぼる鍋が待っていると思うと、平気で我慢できる。頭の中はもう「いしる鍋」で一杯。
 日暮れの輪島に到着すると、まずは宿を決め、町を歩いた。日本海から吹きつけてくる北西の季節風が冷たい。
 逃げるようにして入った店が、地魚料理を得意にしている「名月」。いい店に入った。メインの「いしる鍋」の前座といったところで、輪島の銘酒「菊天女」を飲みながら、まずは焼きイカを食べる。
 イカといってもただのイカではない。いしるの原液に2時間ほど漬けて一夜干ししたものなのだ。地酒といしるの風味のしみ込んだ焼きイカの取り合わせは絶妙。いしるには日本酒がよく合う。

 次に、店のご主人の角藤義一さんは「これは私のウラ技さんですよ」といって、
「イカのいしるソーメン」
 を出してくれた。
「イカソーメン」にいしるをかけたもので、ツルツルツルッとのどをすり抜けていく食感がいい。
「クワーッ、たまらないゼ!」。
「菊天女」の酒量がグーンと上がってしまう。この「イカのいしるソーメン」もすごく日本酒に合う。

 そしていよいよメインイベントの「いしる鍋」を食べるときがやってきた。
 たっぷりといしるの入った土鍋をコンロにのせ、煮えたぎってきたところで、ナスやネギ、ダイコンの野菜類とエノキ、イカ、甘エビを入れる。
「いしる鍋」の具の中心は野菜類。魚介類は素直な味のものを入れるのがコツだという。具の中ではとくにナスがうまかった。たっぷりといしるのしみ込んだナスには、いしる特有の濃厚な味わいというか、コクがあった。いくらでも食べられる。
 最後に輪島塗りの黒塗りの合鹿椀に盛ったご飯に、「いしる鍋」のいしるをかけて食べた。これがまた、うまいんだ!
 何種もの具の味がしみ出たいしるは、ひときわうま味を増していた。

「いしる鍋」に大満足したところで、ご主人に話を聞いた。
 いしるには2種類あって、イワシからつくる魚醤を「いしる」、イカからつくる魚醤を「いしり」といって呼び分けているという。
「いしり」の方がちょっと色は濃いめで、初めての人でも食べやすいので、「今日の鍋はいしりを使いましたよ」とのこと。
 大手醤油メーカーもいしるには注目し、いしるをブレンドした特選醤油も出ているという。
「昔の食料難時代には、よく冷や飯にいしるをかけて食べましたよ。それがまた、うまいんですね」と、ご主人はなつかしそうにそんな話もしてくれた。

 翌朝は輪島の朝市を歩いた。小ビンに入ったいしるを売るおばちゃんがいる。
 その隣りでは鯛ちくわのいしる焼きを売っていた。1本200円。それをかじり、いしるを味わいながら朝市を歩いていると、「インドシナ一周」のときの、東南アジア各国での市場歩きが思い出されてならなかった。
 タイのバンコクを出発点にし、ラオス、ベトナム、カンボジアとまわり、最後にまたバンコクに戻った「インドシナ一周」(1992年~1993年)だったが、そこはまさに魚醤文化圏の中心地なのである。
 タイではナンプラー、ラオスではナンパー、ベトナムではニョクマム、カンボジアではトゥク・トレーといっている魚醤が今でも調味料の中心的存在になっている。

 輪島のいしるは能登半島特有のものではない。インドシナを中心とする世界の広範なエリアの「魚醤圏」があって、日本はその東端に位置しているが、その中での能登半島のいしるなのである。
 ダイナミックに広がる世界の食文化に思いを馳せながら、ぼくは輪島の朝市を歩きつづけた。
「食文化は奥が深いゾ!」
 と、心の中で思わず叫んでしまう。

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ジャンル : 旅行

カソリの食文化研究所:第9回 越前町編

 (『ツーリングGO!GO!』2003年4月号 所収)

「日本で一番うまいカニ」といったら、これはもう文句なしに「越前ガニ」だ。
 その越前ガニを
「食べた~い!」
 と思った。
 思い立ったが吉日、カソリの旅日和。すぐさま愛車のスズキDJEBELE250のエンジンをかけ、東名→名神→北陸道と高速道を突っ走り、福井県の越前町に向かう。越前町の越前海岸が越前ガニの本場になっている。
「越前ガニを食べた~い!」
 というぼくの熱い想いが通じたのだろう、北陸道はチェーン規制もなく、路面に雪もなく、バイクでもきわめてスムーズに走れた。

 敦賀ICで北陸道を降り、国道8号を北へ。杉津(すいづ)で国道8号を離れ、有料の河野海岸道路に入っていく。杉津から東尋坊までを越前海岸といっているが、きれいな海岸線を見ながら走り国道305号に合流した。
 河野村を走り抜け、目指す越前町に入った。
 雪はまったくない。いよいよ越前ガニの本場だ。国道305号沿いには「越前ガニ」の看板を掲げた鮮魚専門店を何軒も見かける。
 店先では大釜で越前ガニをゆでている。20分ほどで茹で上がった越前ガニの甲羅はきれいな赤味を帯びた色に変わる。湯上がりの女性の肌を思わせるような色だ。
 店内をのぞくと1匹2、3000円ぐらいから売られている。
 大きなものになると8000円から1万円。越前ガニは「日本で一番うまいカニ」であるのと同時に、「日本で一番高いカニ」でもある。
 大きな水槽では生きている越前ガニも見られた。

 越前岬に近い越前玉川温泉の国民宿舎「まるいち玉川荘」に泊まり、そこで越前ガニのフルコースを食べた。
 湯から上がると、さっそく大広間の膳につく。次々と用意される越前ガニ料理を目の前にしてカソリ、思わず、
「おー!」
 と歓喜の声を上げる。
 スゴい、スゴすぎる。
 大皿にはゆでた越前ガニの大物がド-ンと1匹、のっている。
 その足には越前ガニの新鮮さとうまさを保証する黄色いプラスチック製の標識票がついている。表には「越前ガニ」、裏には「越前港」と書かれてあった。
 刺し身の大皿にはヒラマサや甘エビ、イカ、ばい貝の刺し身とともに生のカニ足。別の大皿には焼きガニ。さらにカニすきの鍋にも越前ガニがまるごと1匹、入っている。そのほかに焼きガレーやてんぷら、貝料理の大皿もついた。

 越前ガニはなんといっても塩ゆでが一番うまい。
 ゆでたカニの足をバリバリバリッとへし折り降り、甲羅をカパッとあけ、越前ガニに食らいつく。カニ味噌をチュッチュ吸って賞味する。
「う~ん、たまらん!」。
 足にはたっぷりと身がつまっている。もう狂気乱舞、無我夢中のカソリ。
 世の中、これほど夢中になれることが、そうそうあるものではない。
「人間は食うために生きている!」
 と、心底、実感するカソリ。
 そう思わせる本場ものの越前ガニのうまさだった。

 次に熱燗にした福井の地酒「すきむすめ」を飲みながらカニ刺しと焼きガニを食べ、そしてグツグツ煮えてきたカニすきに箸をつける。
 越前ガニのうまみがたっぷりとしみ出た汁のうまさといったらない。
 鍋には白菜や青菜、しらたき、シイタケが入っているが、とくに汁のよくしみ込んだ肉厚のシイタケがうまかった。鍋の具をあらかた食べたところで、汁にご飯を入れ、最後はカニ雑炊で締めくくった。
 これがまたとびきりのうまさ。一滴の汁も残さずに、きれいさっぱりと食べ尽くした。

 翌朝、越前海岸でも最大の小樟(ここのぎ)漁港に行く。
 漁船から水揚げされた越前ガニが、魚市場にズラリと並ぶ。壮観な眺めだ。それらの越前ガニはゴソゴソ動き、まだ生きている。
 午前8時に一番競りが始まると、競り落とされたカニはすぐさま業者の車で港外に運び出されていく。保存のきかない越前ガニは鮮度が勝負。
 このあと二番競り、三番競りとつづき、競りは午前10時過ぎには終わった。
 越前海岸ではもう一か所、隣りの大樟(おこのぎ)漁港でも競りがおこなわれる。
 越前漁港というのは、これら漁港の総称なのだ。

 熱気あふれる越前ガニの競りを見たあと、断崖が日本海に落ち込む越前岬の岩場に立った。冬の鉛色をした日本海。岬の周辺では、寒風に吹きさらされて野水仙の花が咲いていた。
 この越前岬の沖、丹後半島の経ヶ岬に向かって西へ2、30キロの海域が越前ガニの漁場。水深200メートルから400メートル、水温1度から3度の深い、冷たい海に生息している。
 越前町には50隻ほどのカニ漁の底曳網漁船があるとのことだが、それら漁船は早朝に出漁し、その日か、もしくは沖泊まりして翌朝には越前漁港に戻ってくる。漁場がきわめて近いので、鮮度満点の状態で越前ガニを水揚げすることができる。これがほかのカニとは違う、越前ガニの越前ガニたるゆえんだ。
 越前ガニ漁は11月の初旬に解禁になり、3月の下旬で終わる。まだ、十分に間に合うぞ。それ行け、越前海岸へ!
 越前ガニは越前海岸で食べてこそ、越前ガニなのである。

■コラム■
「越前ガニ」とはズワイガニの雄のことで、雌は越前海岸では「セイコ」もしくは「セイコガニ」と呼ばれている。
 雄と雌では全然、値段が違う。雄の方が大きく、雌は小さく、もちろん雄の方が値段が高い。
 雌の産卵は2月、3月で、1月下旬には雌は一足先に禁漁になる。
 ズワイガニの平均寿命は約15年。カニの中ではタラバガニに次いで長命だ。
 この季節になると北陸一の市場、金沢の近江町市場にもズワイガニがズラリと並ぶが、ここでは雄を「ズワイガニ」、雌を「コウバクガニ」といっている。
 ズワイガニは山陰になると「松葉ガニ」と呼び名が変わり、雌は「セコガニ」とか場所によっては「ゼンマル」などと呼ばれている。
 福井県内の越前ガニのうち7割近くが越前漁港に水揚げされている。越前町はまさに越前ガニの本場なのである。

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カソリの食文化研究所:第10回 浜松編

 (『ツーリングGO!GO!』2003年5月号 所収)

 春一番の林道を走ろうと、静岡県の奥浜名に向かった。
 東京からスズキDJEBEL250GPSバージョンで東名高速を一気に走る。
 浜松ICで降り、浜松の中心街に入っていく。浜松城跡で徳川家康像にご対面。これがカソリ流の浜松到着の儀式なのだ。
 浜松からは国道257号経由で浜名湖の北側、奥浜名の奥山高原へ。
 このエリアの林道群を走破する前に、臨済宗方広寺派の大本山、方広寺に参拝した。
 参拝を終え、門前の「ゑびす屋」で休憩したときのことだ。ここでぼくはまさに劇的な「食」との出会いをした!
 店の奥さんは、
「これ、関東の人には、食べられますかねえ」
 といいながら、お茶と一緒に、皿に盛った茶色い味噌の固まりのような豆粒を出してくれた。奥さんはさらに、
「八丁味噌が大丈夫な人なら、食べられるのだけど」
 ともいった。

 さっそく何粒かを手でつまんで食べる。焼き味噌のような風味がある。山椒の香りがする。何か、昔ながらの懐かしさを感じさせる素朴な味わいだ。
 それは「食べられますか?」などというものではなく、茶請けにはちょうどいい味だった。
「いやー、おいしいですよ!」
 というぼくの言葉に、奥さんはすごく喜んでくれた。
 これがぼくの「浜納豆」との出会いになった。

 日本には大きく分けると、2種類の納豆がある。水戸納豆で代表される糸引き納豆と、浜松の浜納豆や京都の大徳寺納豆のような乾燥納豆である。ぼくは大徳寺納豆は食べたことがあるが、浜納豆は食べたことがなかったので、
「いつの日か食べてみたい!」
 とずっと思っていた。その浜納豆に、ついに出会ったのだ。
「この浜納豆は富塚町(浜松市)の法林寺さんでつくっているんですよ。それで法林寺納豆といいます」
 と、「ゑびす屋」の奥さんにそういわれた瞬間、食文化研究家のカソリは猛烈な興味を抱いた。奥山高原の林道群はあとまわしにし、すぐさま浜松にとって返した。このあたりがバイクの機動力の成せる技というものだ。

 法林寺はスズキの本社とホンダの浜松工場のちょうど中間、佐鳴湖の北東1キロぐらいのところにあった。方広寺には全部で170ヵ寺もの末寺があるとのことだが、法林寺もそのひとつ。さっそくご住職に「法林寺納豆」のつくり方を聞いた。それがまた、驚きだった。
 よく洗って水に浸した大豆を6、7時間かけて、ゆっくりと蒸す。
 次に酵母菌の混ざったコウセン(麦こがし)をまぶし、麹室で3、4日、寝かせる。
 それをキアゲ(生醤油)に漬けて半年近く熟成させる。
 最後にゴザの上に広げて天日で乾燥させる。そのときに、ひと粒づつをころがしながら形を整え、醤油漬けにしたショウガをまぶして風味を出す。
 そして袋詰めのときにサンショの実を入れるのだ。
 このように「法林寺納豆」は大変な手間と時間をかけてできあがるもので、その話を聞いたときは、1袋300円というの値段が信じられないような思いがした。安すぎる。

 方広寺に戻ると、そこを拠点に奥山高原の林道群を走った。最後にダート7キロの扇山林道を走り、三遠(三河・遠江)国境の瓶割峠に出た。
 峠から三ヶ日町の中心街に下っていく途中では、真言宗の大福寺に立ち寄った。
 貞観17年(875年)に創建された幡教寺(その寺跡は扇山林道のわきにある)がもとになっているという大福寺だが、この寺が「浜納豆」発祥の地。中国(明)の僧が伝えたという。そのため当時は「唐納豆」といわれた。
 見事な庭園のある大福寺の社務所では、浜納豆の「大福寺納豆」を試食できるし、土産に買っていくこともできる。さっそく数粒、食べてみたが、「法林寺納豆」以上に焼き味噌の風味を強く感じた。
「大福寺納豆」は発酵させた大豆を塩水に漬けるということだが、その製法の違いが味の違いになっているようだ。

 その日は三ヶ日の奥浜名湖(猪鼻湖)の湖畔の宿に泊まった。
 さっそく浜納豆をつまみに、ビールをキューッと飲み干した。夕食後には浜納豆を酒の肴に、地酒の「奥浜名湖」をチビチビ飲んだ。
 翌朝は宿の朝食の前に、浜納豆の茶漬けをサラサラッと食べた。茶請けに、ビールのつまみに、日本酒の酒の肴に、茶漬けに…と、すごく合う浜納豆だ。
 浜納豆の茶漬けをすすりながらぼくは、方広寺門前の「ゑびす屋」のご主人、原田伸夫さんと奥さんの漫才のようなやりとりを思い出し、その話をかみしめた。

 ご主人は地元の人で、奥さんは福島県のいわき市の出身。2人は昭和20年代に東京で出会った。
 ご主人にとって納豆といえば浜納豆のような乾燥納豆のことだった。当時、このあたりには糸引き納豆などは、まったくなかった。で、東京に出て、
「なっと、なっとー、なっと」
 の納豆売りの声に引かれて、初めて東京の納豆を買ったときは、飛び上がらんばかりに驚いたという。経木につつまれた糸引き納豆は、原田さんの想像をはるかに越える食べ物で、まったく食べられなかった。

 原田さんは奥さんと出会ってまもなく、
「これは故郷の浜納豆だよ」
 といって奥さんに手渡した。
 奥さんはてっきり「甘納豆」だと思い込み、何粒かを口の中に入れ、その瞬間に吐き出した。とても食べられるものではなかったという。
 結婚し、こちらに来て26年になるとのことだが、奥さんは今だに浜納豆は食べられない。納豆といえば糸引き納豆のことで、故郷の四倉(いわき市)の納豆は水戸納豆に負けないくらいに味がよいという。
 今でも四倉の納豆の味がなつかしく思い出されて仕方ないというのだ。

 静岡は日本を東西に分ける分岐点。
 糸引き納豆は静岡以東のものだし、浜納豆などの乾燥納豆は静岡以西のものになる。
 納豆という食べ物ひとつで日本の東西文化論をおおいに語れるし、日本が手にとるようによくわかる。それが食文化のおもしろさなのである。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

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