著者・管理人

Author: 賀曽利隆
Twitter:@kasori3000
Administrator:ウザワ・K

電子で復刊!
カテゴリー
Amazon
ブログ内検索 by Google
広告も社会の窓。
最近のコメント
RSSフィード
FC2ブログランキング
このブログが面白いと思ったらたまに(あるいは頻繁に!)クリックしてくださいね(ポチっとな)。それで何が起こるのかは僕も知らんけど…。
カソリお役立ちリンク
管理人推奨リンク

『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その1)

1 わからない明日を求めて

出発まで

岸壁を離れた
 雨はやんでいた。
 ひくく垂れた雲、重い汐風、黒いオランダ移民船の舷側。紙テープと叫び声。船は動くともなく岸壁との間に水をおき、ひろげてゆく。肉親と友だちはすでに陸の上にいる黒い影、どんどん引きはなされていく小さな点であり、ぼくたちはそれとはまったく違う、海と風の中にいる人間なのであった。
 これから地球を半周して、大きな、どえらい空間に放たれてゆく、自分を放しにゆく。そんな気負ったものとはピッタリ重ならない、奇妙にしずかな、どうということもない風景なのだが、まあどうでもいい。そんなものだろう。どこかに、遠足に出発する小学生のような気分もある。昭和四十三年四月十二日、午後五時三十分という時刻。横浜港を出てゆくルイス号という二〇、〇〇〇トンの外国船に、ぼくたちは運命をあずけたのだ。

見えてしまった明日
 三等Bの二段ベッドにもぐりこんで、ぼくはドロドロに眠った、と言ってもいいが、いくら連日の疲れと言っても、さすがに瞼(まぶた)の裏にかけすぎるフィルムがあって、さまざまな絵があって、すぐには眠りにとび込めない。
 ぼくは泥んこのボールを追っている。敵も味方も、どのユニフォームも、どの顔もまっ黒だ。ただ闘志だけが走り、ぶつかり合い、叫んでいる。S高校のチームを迎えてのサッカー新人戦。昭和四十年二月。前日の雪が泥にかわった苛酷なグラウンド。痛いエラー。足をとられ、なんども泥水の中に叩きつけられる……。
 いつも、くりかえし出てくる同じ絵。どうしてそれがアフリカにつづくのだろうか。
 ぼくには、ほんとうは、わかっていた。それは一つの頂点であり、頂点における挫折であった。サッカーに賭けられたぼくの青春は中学二年のときにはじまった。三年の秋に東京二位。翌年、高校一年の新人戦で足くび骨折、二年の夏すぎに膝の故障。ぼくは屈しなかった。たおれてもたおれても、すぐ戦列に復帰した。翌春二月の新人戦には、だから、どうしても勝たねばならなかった。一回戦、二回戦と勝ちすすみ、S高校との対戦。力つき、勝機はつぎつぎと去った。どうしてもつかまえられない。0対2が、すべてが終ったとき、ぼくの眼の前にある絶対の事実であった。
 敗北と屈辱のあとに出てくる現実はきびしかった。三月、四月、新学年、大学受験。ぼくは「浪人」という姿をどうしても自分の上に重ねてみることはできない。成績はどん尻だ。あたりまえだ、サッカーよりほかのことを考えなかったのだから。
「オレ、もうサッカーやめる」
 キャプテンのF君に言った。
「そうか」
とFは言ったきり、口をむすんで押しだまった。
 ガリ勉がはじまった。あさましい、とより言いようのないガリ勉。成績はぐんぐん上がる。今までがひどすぎたのだから当然だ。しかし、成績が上がることで満足か。
 自分でもよくわからない、いらだたしさ。空虚感、ときには胸をかきむしられ、号泣したいようなものが、ぼくの中にある。(なんでこんなことをしてるんだろう。こんなことをして、いったい、どうなるんだろう)サッカーの夢を見る。ほかの夢は見ない。あれをやめたのは、まちがいだったのではあるまいか。
 毎日机をならべている友だちを一人でも多く追い抜いてゆくこと。そのような積み重ねの上に出てくるぼくの明日。
 ある日、まったく突然、ぼくはガクンと立ちどまった。それがどんな日だったか思い返せもしないほど、それは強烈にぼくをつかんだ。
 それは、(見えちゃった!)ということだった。逃げたくても逃げることのできないレールの上にのせられてしまった、自分の明日の姿、というものであった。それは一度おちこんだら這い出すことのできない蟻地獄のようなものに映った。人間なら誰しも持っている無限の可能性。それはぼくにも、まちがいなく与えられている。ぼくはそう信じたい。ところが、そんなことはどこかにフッ飛んでしまい、ただ黙々とレールの上を進んでゆくしかない。何かしたくてたまらないのに、何もできないで、はっきり見えてしまっている明日にむかって、ただ歩いているだけの自分。
 そうだ。
(見えている明日)
 それが、ぼくをとび上がらせたのだ。ぼくは叫び出し、駆け出したかった。
(これでいいのか。いいはずはない。いいはずはない……)

続きを読む

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その2)

アフリカヘ行こう
 夏だった。ぼくたちは海にむかっていた。同級の前野幹夫とYとNと、食料やテントをかついで出かけるのは毎年のことだったが、そのときは違っていた。「大学受険」という重しが誰の上にものしかかっていて、その話題を避けようとするかのように口が重くなってしまう。田園風景がひらけてくると、窓から流れこんでくる緑の風を胸いっぱい吸いこむ。誰かが言った。
「広えなあ」
「広えってことはいいことだ」
「アフリカなんていったら、こんなもんじゃないだろうなあ……」ぼくの口から、ひょっと出てしまった。「アフリカか。アフリカヘ行きたいな」
 それはつもりつもったうっぷんを追い散らすために、吐息のように出たことばだったのだが、それはアフリカでなくても、どこでも未知の、未開の、広漠とした、若者の夢がかけられるところならどこでもいいはずだったのだが、いったんことばに出し、
「アフリカかあ。アフリカ。いいなあ」
「行けないことなんて、ないよなあ」
「行けるさ。足があれば」
「意志があれば。男なら、か」
 そんなことを言いあっているうちに、
「よし、アフリカヘ行こう。行くよ」
と、ぼくは、まったく突然のことだが、何ものかにぎゅっと掴まれたように、自分の心を決めてしまった。本や写真で見た断片的な知識だが、はてしなく続く大草原、昼なお暗い熱帯の密林、太陽に灼かれる大砂漠、というようなものが増幅されて、フラッシュ・バックされ、それはどうしても、もうぼく自身のものでなければならないように思えてしまうのだった。
 ぼくたちはよく冗談を言う。ほんとうのことのように冗談を言うのだが、そのときは逆になった。「アフリカ」「アフリカ」と冗談やひやかしのように、それからもわいわい言い合ったが、誰もふざけてるだけだと思う者はなかった。
 九月、第一回の作戦会議を、学校に近い喫茶店でもった。前野、Y、ぼくの三人。(Nは事情があって計画に加われなくなった)それぞれに考えつづけ、練りつづけてきた案を出し合って、何時間も討議がつづいた。
 1 コースは、アフリカ大陸の南端から、東アフリカを通って地中海岸に出、モロッコまでとする。
 2 三年後の、昭和四十三年の春に出発。一年後、モロッコに着く。
 3 全コースをオートバイで走破する。
 4 資金はすべて自分たちでまかなう。大学入試を終えたらすぐにバイトを開始、体を鍛えなくてはならないので、朝は新聞か牛乳の配達をする。
 こういう基本線が出た。喫茶店の名前をとって、“カトレアの誓い”などとかっこのいい名前をつけ、「アフリカ目指して頑張ろう」ということになった。
 アフリカに関しての本をかたっぱしから読み始め、資料をあさり、気候、道路状況、政治、経済、歴史、文化、地勢などを調べだすと、もうじっとしていることはできない。しかしまわりの人たちは、「なに寝言いってるんだ」といった顔つき。両親に話しても、「ばか言いなさい」で、相手にしてはくれなかった。

横浜港で荷役のバイト
 月日の流れが、とても早かったように思う。ぼくたちは入試を迎えた。試験が終るやいなや、うちには「ちょっと旅行にいってくるから」と言って、汚い洋服に長靴のいでたちで、Yと横浜にむかった。いよいよぼくたちの資金作りが始まるのだ。一泊一二〇円の二畳の部屋でごろ寝し、港で荷役のバイトをする。生まれて初めて、自分で働いて自分で得たおかね。ちょっぴり感激した。
 五〇円のラーメンや三〇円のうどんで空腹をしのぎ、必死に働く。ラワン材の積み込みの最中には、ワイヤーが切れて大惨事寸前の目にあったり、マニラ麻をころがしているときには、ころんでその下敷きになったり、化学薬品の容器を運んでいるときには、毒のため手が真白になったり……。怒鳴ることが趣味のような監督のIさんだったが、根はいい人で、よくぼくたちに残った折詰の弁当をくれた。昼と夜の仕事をぶっつづけでやったこともある。そのときは、さすがにYもぼくもグロッキーだった。
 ドヤでの毎日は、ぼくたちに強烈な印象を与えた。はじめて見る全く異質な社会、しかし、その中に、不思議なやすらぎがあるのを、ぼくたちは感じていた。隣の部屋のおっちゃんは「飲みな」と言って一升びんを持ってきた。ソバ屋のおネエちゃんはとてもきれい。Yと「ラブレターでも書こうか」なんて言ったこともある。沖合に停泊している船での一日の仕事が終り、汐風に吹かれながらランチで港に戻ってくるときの気分、なんともいえない、そんなドヤでの毎日の生活であった。
 ぼくたちは一銭も使わないで家に帰ろうと決め、大桟橋から歩き始める。多摩丘陵では雑木林の中で道に迷ってしまい、かなり時間をくった。横浜線の中山駅に着いたときは、もう日が暮れていた。いやなことに、雨が降りだし、霧が深くなる。霧ですっぽりと包まれた線路上を雨に濡れながら、「うん、こりゃいい、すごく神秘的だ」なんて強がりをいいながら歩きつづけた。真夜中に多摩川を越えた。雨は一段と激しくなる。寒い。
 ぼくたちは夜通し寝ないで歩いた。疲れがひどい。雨はいっこうにやむ気配がなく、ずぶ濡れ。泣きつらに蜂で靴ずれがひどく、あまりの痛さに長靴を脱ぎ、裸足でとぼとぼ歩いた。夜が明けると雨はやんだ。調布、吉祥寺と通って、横浜の大桟橋から二十七時間、ぼくたちは大泉に着いた。次の日からぼくはひどい高熱に見舞われる。うんうんうなっているとYがやってくる。
「おー、カソリ、大丈夫か」
 Yは全くタフなやつだ。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その3)

大学はやめだ
 入試の結果はさんざん。前野は受かっていたが、Yとぼくは落っこち。ぼくたちの“アフリカ計画”は大きな試練に立たされる。ぼくはこの計画を別にしても、絶対に浪人したくはなかった。浪人したくなかったばっかりに、成績がびりっかすになってしまったとき、泣く泣くサッカーをやめたのだ。
「大学、やめる」そう言っても両親にわかってもらえないと思い込み、家出した。しかし見通しが甘く、じきに見つかってしまった。
 それからというもの、特に母親は、うるさいくらいに「大学に行け」と言う。ぼくはそのほこさきをかわすために、できるだけ早急に仕事をみつけなくてはならなかった。幸いにも、仕事はじきにみつかる。夜中の三時から朝の七時までが牛乳配達、それが終ると、背広に着替え満員電車に揺られて、築地の小さな印刷会社に通った。
 ぼくの仕事は、お得意さまや、紙屋、製版屋、活字屋、写植屋、インク屋など、関係のある会社をまわるもので、見聞きすることがはじめてのことばかり。さらに、会社はぼくを含めて十人ほどの小さなところだったので、いろいろなことをやらせてもらい、とても毎日が楽しかった。いつしか母もあきらめ顔となり、うるさく大学に行けとは言わなくなった。
 会社の勤務時間は、あってもなきがごとしで、忙しいときは帰るのが十二時近くになった。そんなときは朝がつらい。寝たと思ったら、もう目覚しが鳴りだす。そんな毎日だったので、夏が過ぎたころから、急激に疲れを感じるようになり、牛乳配達の途中で、眠ってしまったこともある。ある日ぼくは、「すみません、やめさせてください」と牛乳屋のおやじさんに頭をさげた。するとおやじさんは、「なに、やめることはないよ。配達の本数を減らしてあげる」と言ってくれた。次の日から、起きるのは四時半頃となった。
 おやじさんは忍耐力のある人だ。ぼくはとてもそそっかしくて、牛乳びんをわる、種類のちがった牛乳を入れる、入れる本数を間違える、というようなことをしょっちゅうやってしまうのだが、おやじさんはおどろかない。「まあ、これからは気をつけてな」雨や風の日の配達には、まいることがある。しかし、夜明けの美しさ、素晴らしさを見ていると、そんなつらさもどこかへ吹き飛んでしまう。(こんなきれいな空、東京にまだあったんだな)日が昇る前の美しい空を、眠っている人は知らないだろうが、ほんとうに何度びっくりするというか、息もできないおどろきで見入ったことか。
 秋が過ぎ冬が来る。冬の牛乳配達はきつかった。自転車をこいでいるのでそれほど寒くなかったが、手足の指先がきりきりと痛んだ。足はしもやけにやられ、真赤にはれあがる。大雪のときなど泣く思い。雪のため自転車に乗れず、棒きれで雪をかきわけ、かきわけ、進んでいった。
 昭和四十一年が過ぎ、昭和四十二年になる。前野は大学に通いながら、自動車工場の組立ラインや学習塾の先生、牛乳配達などのバイトを続け、着実に資金をふやしていった。顔を合わせると、それまでに集めたアフリカについての情報や資料を交換し、ぼくたちの合言葉であるかのように「アフリカ目指して頑張ろう」とはげまし合った。だが心配なのはYだった。なにか元気がない。
 二月になると、会社の具合がとても悪くなる。社長は金策に追われ、かわいそうなほど疲れきっていた。いやな世の中だ。ほんとうにいやだ。社会は決して弱い者に味方しない。いつも強い者に味方するのだ。善良な人たちは、常にばかをみるのだ。あまりにも冷酷なこの事実、ぼくはそれを、この一年間というもの、いやというほど見せつけられた。三月の上旬、ぼくはいつものように八時すぎに出社した。するとKさんが「カソリ君、会社は倒産した、不渡りを出したんだ」と言った。社長はそれ以来、一度も姿を見せなかった。事態は混乱を続けた。債権者の人たちに会うのがつらい。いくつかの会社の人たちが、「カソリ君、うちに来ないか」とさそってくれたが、残った人たち四人で会社再建と決まり、ぼくも残ることにした。
 夏になると、ようやく会社は落ちつきを取り戻す。その頃からぼくたちは、翌年春の出発を目指して直接の行動を開始する。テントや、寝袋、シート、炊事用のホエブスやコッフェルなど、もろもろの装備をそろえ始める。またぼくたちのコースの問題点などを、各国の在日公館や外務省アフリカ課などで尋ねてまわる。

最初の挫折
 大きな問題が持ちあがった。Yである。彼の両親がどうしてもYのアフリカ行きを許してくれないのだ。
「オートバイでアフリカに行くなんて、できるわけがない。もし途中で、病気や怪我でもしたらどうするのだ。だいたいなんのためにアフリカに行くんだ。行ってそれがなんになるのだ」
 前野もぼくも答えようがなかった。どのように説明しても、わかってもらえそうにない。もっと悪いことには、Y自身の中にも、最初の燃えるような情熱は沈静してゆくようだった。ぼくたちが計画をたてはじめてから、すでに二年という歳月が流れ去っていたのだ。ぼくたちは、Yを断念しなければならなかった。
 こう書くと簡単なようだが、これはじつはショックというようなことばであらわしきれないものだった。最初の挫折と言ってもよい。ぼくはその計画全体に暗い予感をもったほどだ。三人が二人に減った、という数の問題ではない。肌に痛みが現実に感じられるような悲しさと虚脱感。それは誰にもわかってもらえないことなのだ。前野、Y、Nと西伊豆の土肥まで歩いて行き、そこでテントを張って泳ごうと決めたことがあった。テントに飯盒、米、カンヅメなどを背負って武蔵境の駅から歩きはじめた。高校一年の夏をひかえた試験休みを狙っての脱出だったから、というより、その日はとりわけ暑い、極暑といってもいい日で、ついに二人がダウン、それでも計画をすてず、途中から電車に頼ったが、結局目的地に辿りつき、白い浜木綿(はまゆう)のみだれ咲く浜辺で一週間泳ぎまくって帰って来た。学校にばれて大眼玉をくった。そのときもYがいちばん矢面に立ったのだが、もっとひどいことがあった。
 その年の秋に、ユーゴのサッカーのナショナルチームがやってくる。全日本の試合は、あいにく遠足と重なってしまった。
「おい、Y、どうする。遠足にするかい、それともユーゴにする」
「うん、そうだな、それはユーゴにきまってるな」
 ぼくたちは遠足をさぼり、国立競技場に、ユーゴと全日本の試合を見にいった。当時は、サッカーは全く人気がなく、世界で超一流のアマチーム、ユーゴがきたというのに、スタンドはガラガラ。一対〇で負けはしたが、全日本が非常に善戦したので、ぼくたちはすっかりうれしくなり、有り金全部をはたいて祝杯をあげたはよいが、翌日二人は先生から呼び出された。
「おまえたちのようなのは退学させたいよ。私の一存で退学させられないのが、なにより残念だ」
 つぎの二年生の夏休みの四人組(クワルテット)の旅行は御前崎に近い相良の海。浜辺の松林の近くにテントを張った。夜になると前野は、同じクラスの女の子、A子さんの話を盛んにした。前野ののろけ話をたっぷりと聞かされたぼくたちは、みんなすっかり頭に血がのぼり、海にやってくる女の子と片っぱしから友遠になることにした。ぼくは横浜のT子さんと急速に仲良くなった。二人で御前崎に行き、白い灯台に登り、誰もいない砂浜を歩き続けた。彼女が横浜に帰る日、藤枝の駅まで見送りにいった。「さよなら」と言うと、T子さんは涙をいっぱい浮かべ、うつむいてしまった。それから四人でYの田舎にまわる。山あり川ありの美しいところだ。夜中に灯火(あかり)を持って近くの川に出ていって鮎や山女をとる。とった鮎や山女を焼きながら、寝ないで一晩中騒ぎに騒いだのだ。
 Yとはすしの食べくらべもした。五〇ぐらいまではなんとかいくのだが、それからは、むりやり口の中に押し込み、お茶で流し込む。ごはんつぶが、食道のいちばん上まできているような感じで、六〇を過ぎるとまさに死にものぐるい。ぼくはついに七〇個でダウン。がんばり屋のYはさらに一〇個も伸び八〇個という記録をつくって店のおやじさんを驚かせたが、それからが大変。二人とも動こうにも動けないのだ。歩いているところを見たら人は酔っぱらいかと思ったろうが、じつはそれよりひどい。気分がわるいだけでなく、口の中がへんに甘ったるくて無気昧な感じだ。池袋の駅の裏で、ついにひっくりかえって二人で一時間以上もころがっていた。
 Yとかき氷の食べくらべをしたこともある。二はい目、三ばい目までは楽なのだが、四はい目になるとかなりきつい。結局六ぱいで、二人とも同数だった。しかしYのほうがはるかに早く食べたので、Yの勝ち。胃袋が氷づけになっているので、真夏の燃えるような日射しを浴びているのに、歯をカチカチいわせ、震えながら歩いた。食べくらべでは彼にゆずったが、酒でもビールでもアルコールの勝負ではぼくのほうが強かった。アフリカで象の肉の食べくらべができると思っていたのに、そのYが脱落した。……

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その4)

準備はできた
 しかし計画というものはそういうものだろう。いつまでも気をおとしてばかりはいられない。秋が深まるにつれて準備は急ピッチで進んでいく。問題点が、いくつかあった。船や外貨、オートバイ、カルネ(オートバイの無税通関手帳)などである。船会社をいろいろと訪ねていくうちに、喜望峰経由で南米にむかう船があることがわかった。四月に横浜を出るローヤル・インターオーシャン・ラインのルイス号で、ぼくたちはさっそく横浜から南部アフリカのポルトガル領モザンビークの首都ロレンソマルケスまで予約した。それで四月十二日、という出発の日は決まってしまったのだ。
 外貨の件は、当時のきまりでは五〇〇ドルまで。これではどうしようもない。どうしたらいいんだ、と頭を痛めていると、親切な人が大きな声では言えないがと教えてくれた。香港かシンガポールで日本円を米ドルに替えてくれるのだそうだ。日本円持ち出しは、当時一人二万円までだが、それ以上持ち出しても、まず調べられないだろうと教わったのでこの問題は無事通過。カルネのほうは、日本自動車連盟の田久保さんに、たいへんお世話になった。世界の道路事情、国境週辺の情勢、ぼくたちが注意しなくてはならない点など、事細かく教えてくださった。
「もうすぐだ、船が横浜をでるときはでっかい声で叫ぼうぜ」と書いた年賀状が前野から届く。一月十五日はぼくたちの成人式。「これからが最後の追い込みだぞ」と、たがいに気を引き締めあった。
 オートバイを早急に決めなくてはならなかった。いちばん心配だったのは故障である。強くて修理しやすいオートバイということで、ツーストローク・エンジンのヤマハかスズキにしようと思った。オートバイにくわしい人が、スズキのエンジンなら絶対だというので、ぼくたちはオートバイをスズキTC二五〇に決めた。オートバイのうしろに、ステンレス張りした木箱をのせられるよう改造し、クラッチやアクセル、ブレーキ等のワイヤー類、ピストンやピストンリング、ピストンピン、ガスケット類、チェーン、スプロケット、ポイント、プラグ、ヘッドランプのバルブ、タイヤのチューブなどの部品をそろえる。
 こうして四月十二日がやってくる。来てしまったのだ。アフリカに行こうと思いたってから三年。それは長く苦しい道だった、とポケットの中の日記は訴えているが、夢のように飛び去った日々のようにも思える。たしかなことはこの船にYが乗っていないということなのだ。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その5)

ルイス号の人びと

還らぬ旅

 船は日本の南岸ぞいに西行している。乗客は約一〇〇人のブラジルヘ移民する台湾の人たち。日本で一年間の農業実習を受けた四人の日系ブラジル人、南米を旅しようとしている五人の日本人学生、それに、モザンビークで下船するぼくたち二人だ。
 船の食事には、洋食と中国食、日本食があり、ぼくたちは日本食をとった。ところが、ごはんはいやな味がするぽろぽろの外米で、おかずも中国食のような油っぽいものばかり。お茶を飲めば、これまた日本のお茶とは大違いのへんな飲みもの。覚悟はしてきたつもりだが、どうにも喉を通らない。すごくおなかがすいているのに手が出ない。「チリーン、チリーン……」と食事を知らせる鐘の音がきこえてくるとガックリ。考えてみると、ぼくはパンもきらいで、ごはんと味噌汁がないと食べた気がしないという、わがままな食生活をしてきた。寿司の食べくらべなんかしてきたバチが当たったのだ。これからの長い道中のことを考えると気が狂いそうになるが、もう船に乗ってしまったのだし、海へ飛び込むわけにもいかない。
 しかし、人間ほど不思議なものはない。やがて――まもなく、泥水をすすり、ひとにぎりのカッサバで空腹をいやし、野生の草や木の実をつまんで食べる、といった食事が、おいしくてしかたがない、ということになってしまったのだから、まったくおかしなものだ。台湾の人たちは、みんな感じがよかった。年配の人は、かなり日本語を話し、若い人の中にも日本語を上手に話す人がいた。しかし、内乱後、大陸から台湾に移った人たちは、ぜんぜん日本語を話せなかった。夜になると、台湾の少女素琴(スーチン)や海※(※=雨の下に文:ハイウン)が中心となって、子供たちは歌を歌ってくれた。抑揚の激しいリズムがもの悲しい。海※(ハイウン)の姉さんの海蕊(ハイリーン)が子供たちに、お話ししてあげるからきなさーい、というと、子供たちは「ワーイ」と大喚声をあげ、海蕊のところへ飛んでいく。彼女の話しかたはじつにうまく、子供たちは熱心に耳をすまして聞いていた。中国に古くから伝わる妖怪の話だそうで、こわい場面になると、子供たちはおびえてしまった。(日本の子供たちと違うなあ)、彼らを見てそう思った。テレビがあまりにも普及してしまった日本、目を輝かせてこのような話を聞く子供たちが、はたして何人いるだろうか。台湾の子供たちが、なんともいえず子供らしく見えた。
 神戸から五人の日系ブラジル人と三〇人ほどのボリビアに移民する沖縄の人たちが乗った。
 四月十七日、ルイス号はまだ暗い神戸を離れ、一路釜山にむかう。次の朝、ルイスは朝鮮海峡を進んでいた。前の日の天気が信じられないほど寒く、おまけに雨がしとしと降っていた。
 釜山、荒涼とした赤茶けた山々、山肌を這うようにして立ち並ぶ家々、うすら寒い感じのする町なみ、そこはもう異国だった。初めて目にする外国、それは、一生忘れることのできないほど強い印象を、その人に与えるという。ぼくもそう思う。目を閉じると、うすよごれた町なみや、険しい表情をした人々の顔が今でも、鮮やかによみがえってくるのだ。
 釜山では、パラグアイやブラジルに移民する韓国人、約八〇人が乗船した。汽笛を鳴らし、船が静かに岸壁を離れると、見送る人々も見送られる人々も、声をあげて泣いていた。
「私は、これで二度と祖国を見ることも、祖国の地を踏むこともないでしょう」と、年老いた男の人が、肌を刺すような冷たい風にかき消されてしまいそうな低い声で、そう言った。国を離れていくつらさに耐えきれないかのように、気が狂ったように泣きわめく若い奥さんの姿も見られた。たまらなく胸が締めつけられるような思いだった。いたたまれない気持になる。急いで自分のベッドに戻り、横浜でNが船の中で飲めといって置いていった一升びんをかかえ、再び甲板に戻った。雲の切れまから見える夕日、朝鮮の海に沈む夕日を見ながら、酒をラッパ飲みした。祖国に別れを告げた移民の悲しみが、二度と戻るまいと誓った彼らの悲しみが、痛いほどによくわかった。悲しみに沈む彼らを見ていると、ぼくはふと日本を思った。いつの日か、自分の国に帰る日がやってくるのだろうか――。
 韓国の人たちが加わったことによって、言葉はいよいよややっこしくなる、日本語、中国語、朝鮮語、ポルトガル語、スペイン語、それに英語。「おはよう」と言えば「早安(ゾウアン)」、「アニョンハシムニカー」、「ボンディア」の声が返ってくる。中国語、朝鮮語は非常に発音の難しい言葉だと思う。懸命になって彼らのまねをしようと思っても、どうしても舌がまわらない。のちに、東アフリカのウガンダで会った韓国人医師の奥さんは、「世界でいちばん難しい言葉は朝鮮語です。ですから私たちが発音できない言葉はどこにもありません」と得意だった。言葉といえば、アフリカの言葉、特にバンツー系の言葉はかなりおぼえやすいと思う。母音が日本語とほとんど同じで、おまけに語彙が少ない。スペイン語、ポルトガル語、イタリア語も、母音が日本語とそっくりなので、めんどくさい動詞の活用などがなければ、日本人にとって、おぼえやすい言葉だと思う。
 船は東シナ海から台湾海峡にさしかかる。日は暮れて、すでに海は暗かった。甲板で素琴(スーチン)が一人海を見ている。
「台湾とも、もうお別れだね」
「悲傷(ペイサン)」、彼女はただひとこと、そう言うとだまってしまった。中国大陸の青島(チンタオ)で生まれ、激しかった動乱の荒波にもまれながら台湾に移り住み、台北(タイペイ)で育った十九歳の少女。いつも陽気で明るい笑いをふりまいていた素琴、国を離れていく悲しみに襲われたのか、涙ぐんだ視線を、暗い波間にむけていた。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その6)

南シナ海をこえて
 北回帰線を越え南シナ海に入り、船は香港にむかう。水平線のむこうに、かすかに中国大陸が見える。漁をしているのであろう、独特の帆をつけた小舟がたくさん見える。
 昼食を知らせる鐘の音で目をさます。船は香港に近づいていた。九竜(クーロン)や香港島のニョキニョキと空に伸びた高いビルがやたらと目につく。ルイスは沖に停泊した。昼食のあと、ランチで九竜に渡った。まずぼくたちが驚いたのは、女の子の足だった。ぶかっこうな足ばかり見て二十年も育ったぼくたちにとって、スラッと伸びた中国の女の子の足は驚異だった。物のない釜山からきたので、香港の豊富なものが、ひときわ目についた。九竜の中心街を歩きまわっていったん船に戻り、夕食のあとは香港島に行った。五時間も歩き、クイーンズピアーから、夜中の最後の便のランチでルイスに戻った。そのあとは、まばゆいばかりの香港の夜景を見ながら、甲板で酒盛りである。
 次の日は、午前中は九竜の中心街を見てまわり、午後は歩いて歩いて、歩きまくった。メインストリートのネイザン通りをどこまでも行き、タイポー通り、ランチェン通りと行くと、九竜の町並みや港、景徳飛行場などが、一望のもとに見わたせる高台にくる。歩き疲れて草の上で眠ってしまった。頭の上を飛ぶジェット機の爆音で目をさまし、サンポーコンのスラム街に行く。あたり一面に漂うなんともいえない強烈な臭い、狭い道の両側に続く露店。そこでは、野菜、魚、雑貨、生きたにわとりやあひる、洋服、布、おもちゃ、となんでも売っていた。人、人、人……耳がへんなふうになってしまいそうな、いろいろな音が混ざりあった雑音、そこには日本のスラム街では見られないような明るさがあった。ぼくはそこに、すでに日本では見ることのできなくなってしまった東洋独特のバイタリティー、といったようなものを見たような気がした。のどがかわいたので、露店でパイナップルを食べると、ひときれ五セント(当時で約三円)、おなかがすいたので油っこい味つけのそばを食べると、一ぱい一〇セント(約六円)といった具合。(こんなところで、一年ぐらい住みたいな)、そう思った。
 その次の日、九竜駅から九広鉄道で、中国との国境にむかう。九時三十分発の十二両編成の緑色のジーゼルカー。油麻地(ユマテ)、沙田(シャティン)、大学站(ユニバーシティステーション)、大埔※(※=左にさんずい、右に上からウ冠、ハ、吉:タイポーカウ)、大埔墟(タイポマーケット)、粉嶺(ファンリン)と通って上水(シェウンスイ)に十時三十分に着く。国境の駅、羅湖(ローウー)まで行きたかったが許されず、上水で降り、バスに乗った。元朗(ユェンロン)行きのバスに乗って途中で降り、そこから歩き、香港領新界と中国を分ける深※(※=土へんに川:シャンチュン)河を見下す高台に行った。おだやかな田園風景が広々と広がる。その中に、やさしい感じの山々がいくつか見えた。そんな風景をぶちこわすかのように、バリケードが幾重にも張りめぐらされていた。ぼくは小さい頃から、中央アジアに異常なほど興昧を持っていた。ヘディンやスタイン、ヤングハズバンド、大谷探険隊などの探険記を、目を輝かせ、夢中になって読みふけったものだ。いつしかぼくは、チベットやタクラマカン砂漠、天山の山々、さらにはトルファンの盆地からゴビ砂漠へと、アジア大陸の奥深い一帯をさまよう自分自身の姿を思い浮かべては、幼い心をときめかせていた。目の前に広がる中国大陸を見ていると、有刺鉄線を越え、川を越え、はるかかなたの、アジア大陸の奥地を目指して、流浪の旅を続けたい、そんな強い衝動にかられた。夢みるようなぼくの感傷を破るかのように、子供たちがやってきた。
「金、おくれ」
「ないよ」
「うそつけ」
「ほんとにない」
「ケチンボー、ケチンボー」
 子供たちは日本語でケチンボーと言った。だれが教えたことやら。
 四月二十四目、ルイス離岸。南シナ海をシンガポールヘ。赤道に近づく気配。とにかく暑い。一日中ベッドでごろごろ。日が沈んで、星がおおう夜になると甲板に上がって汐風に吹かれる。
 四月二十八日早朝、シンガポール。香港を出てから四日目である。きびしい日射しに慴伏(しょうふく)したように日中は閑散としているが、太陽の退散とともに、町じゅうはにわかに湧きはじめる。イギリス大帝国が東半球制覇のために打ちこんだ楔であった大要塞、植民地主義の象徴であったなごりの華やかさというものだろう。港を目の前にしたシーサイドパークの一角には、日本軍のシンガポール占領時代を思い出させる記念塔が建っているのだ。
“Memorial to the civilian victims of Japanese occupation, 1942~1945”と刻まれてあった。
 シンガポール港では、盗難がとても多いとのことで、全員が交替で盗難防止のために見張りをすることになった。夜中の二時頃おこされて、二時間ほど寝ずの番をするのだから楽ではない。
 ルイスがシンガポールを出港する前の日、ぼくはバスでジョホールに行った。気味が悪いほど赤い熱帯性赤色土。マレー半島とシンガポール島の間のジョホール水道にかかる唯一の橋を渡ると、マレーシアのジョホール。その橋を、クアラルンプールから来た汽車が、シンガポールにむかって進んでいった。
 ルイスは五日間、シンガポールに停泊したが、その間ぼくたちは、毎日毎晩、シンガポールの町をさまよい歩いた。
 五月二日夕刻、船はシンガポールを離れる。マラッカ海映。島々をあかあかと染める夕日。それはほんとうに染めているのだ。見ているこっちの眼まで染まりそうな強烈さ。
 ポートセッテンハム、ペナンと寄港し、インド洋に入る。インド洋に入ったことは、船の揺れかたでわかった。豪快ともいいたいほどの揺れかたで、たちまち船酔いする人が続出する。食事の鐘が鳴っても食べられない人ばかり。食べものはほとんど残ってしまう。ぼくはどうしたかというと、不思議にも酔わない。そのころはすっかり食事になれていたので、ずうずうしくも、ひとりでモリモリ食べる。船酔いしないのは鈍い証拠だなどと口だけ一人前に悪態つく人の顔ときたら、気の毒でふためとみられたものではない。いつも明るいおてんばぶりでぼくたちをたのしませてくれる海※(ハイウン)も、この時ばかりは真青な顔でかたなしだ。その大荒れは二日ほどで峠をこえて、一同胸をなでおろしたが、こんどはブラジルの田村さんが盲腸になった。「ボニーヤン」というのはポルトガル語でビー玉のことだそうだが、そのボニーヤンという愛称そのままのふっくらとした田村さんが盲腸だと聞かされて、さすがにまいってしまった。ブラジルのサントスまで散らし続けるしかないそうだ。
 人ごとではない。ぼくもじつは盲腸をもって来た。出発前に「盲腸を切ったら」となんどか言われたが、がんばってそのままつけて来ている。もしアフリカの奥地で盲腸にでもなったら、それこそ田村さんどころのさわぎではない。そんなことに今ごろ気づいても、どうすることもできるわけがない。
 五月八日、赤道通過。インド洋の船旅はひたすらに暑く、ものうく、単調だ。長いのだ。やることもないままに、マージャンをしたり、甲板ですもうをとったり。やっと日が沈み、甲板に生気がよみがえる。大声をはりあげて歌う人、踊る人。水平線につづく、おそろしいような星の明るい輝きに、ぼくはいつまでも見入っていた。
 朝だ。いつものように六時前に起き、甲板に上がった。すばらしい虹を見つけた。見ていると、もう一本べつの虹ができて二本になった。びっくりするほど鮮やかな色彩と実在感がある。どうもその虹にむかって船は進んでいるようだ。だんだんと虹が近づき、とうとう手が虹の根もとに届くような、というところで虹は二つともスーッと消えてしまった。インド洋のまぼろし。ものすごい速さでとびかう飛魚たちが、朝日を浴びて、キラキラと輝いていた。
 五月十四日、モーリシャス島のポートルイス。

(解説)
 モーリシャスは二ヵ月ほど前に独立したばかりで、面積は沖縄に毛のはえた程度。人口密度がきわめて高い。複雑な人種構成が大きな問題。人口の半数をインド人が占め、残りはアフリカ系、ヨーロッパ系、中国系の人たち、その他混血、先住民族はいないそうだ。人種構成が複雑なのだから、当然宗教も複雑になる。ヒンズー教、キリスト教、仏教、自然崇拝となんでもそろっている。モーリシャスの独立が決まると、民族どうしの対立がいっぺんに火を吹き、大暴動がおきた。ぼくたちが島をめぐったときも、バスや建物に生々しい銃弾の跡を見た。
 この国の産業といったら砂糖きびだけ、といった感じ。日本商品のはんらんは、こんな小さな島国にも押し寄せていた。日本製乗用車、オートバイ、ラジオなどがやたらと目についた。ポートルイス港は日本漁船の基地である。韓国や台湾の漁船とならび、日の丸をつけた日本の漁船が数多く見られた。のちにロンドンのYMCAに泊ったとき、この町から来たという中国人留学生に会った。この人がゆううつそうに語った言葉が耳にのこった。
「モーリシャスは悩みの多い国なんだ。おまけにソ連にもねらわれているんだからやんなっちゃう」
 ソ連はインド洋の軍事的な基地としてモーリシャス島を重要視している。ぼくたちがポートルイスに着いたとき、ソ連の情報収集船と思われる船が二隻停泊していた。このような動きに対して、南アやモザンビークは特に神経質になっている。
(以上解説)

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その7)

別れ
 夕方、ルイス離岸。そうしていよいよロレンソマルケスヘ。ぼくたちの目的地は近い。海路の終りを二日後にひかえた演芸会は、忘れることができない。演芸会とは、台湾、韓国、沖縄、ブラジル、日本の各グループにわかれ、それぞれいろいろな芸を披露するもので、台湾と韓国、沖縄の人たちは、すさまじいばかりの力の入れよう。朝から晩まで練習している。ぜんぜん練習しないのは、ブラジルの二世組とぼくたち日本人青年組だけ、特にぼくたちは当日になっても、まだ何をやるのか決まらない。すったもんだやったあげく、演芸会のはじまる直前に「北国の二人」を合唱しよう、おもしろおかしいかっこうをして、七人でやってしまえ、ということになり、ドロナワ式練習をする。みんな甲板に集まり、海にむかって「あなたを信じてここまできたけれど……」と大声をはりあげる。それがすむと、またすぐマージャン。ふまじめだと叱られそうだが、事実だから書くしかない。それから、いよいよ演芸会。ぼくたちの番になり、みんな思い思いに身につけたおかしなかっこうで舞台にあがり、悪声を披露する破目となる。恥ずかしくて死にそう。だが何が幸いするかわからない。破れかぶれの熱演に大喝采だった。おまけに、思いがけないことに、ぼくたちのためにマグロのさしみと酒が用意されてあった。このマグロのおいしかったこと! 沖縄の人たちが、ポートルイスの漁船員からもらってきた、ぴんぴんのマグロだったのだ。
 船は南回帰線を越える。そして、マダガスカル島が、水平線にかすんで見えてくる。長かった船旅の終りだ。あのアフリカ、アフリカ大陸が迫ってくる。空想ではなく、現実のアフリカが、もうそこにあるのだ。
 ぼくは心臓がしめつけられるような気分であった。うれしさ、というようなものではない。まだ会わないアフリカの前に、つらい、切実な別れがあったのだ。この一ヵ月を越す長い船旅で、家族のように親しくなっていたたくさんの人たち。
 若さのせいか、ぼくはそれまで、別れがつらいものだ、などとは思ってもみなかった。別れを知らなかったし、そんな場面にぶつかったこともなかった、と言ったほうがよいのだろう。
(この人たち、一日中のほとんどの生活、よろこびとかなしみを共にしてきた人たちと、いま別れ去り、はなればなれに地球のどこかに行ってしまう。もう二度と会うことがない)、ということが信じられないけれども、絶対の真実となって、重くのしかかってくるのだ。感傷的だと言われそうだが、(もう一度会いたい)と願わずにはいられない。
(十年後でも二十年後でもいい、もう一度集まることができたら、そしてみんなで、楽しかったこの船旅の思い出を語り会うことができたなら)
 そう思わずにはいられないのであった。
 船はモザンビーク海峡の南を進んでいた。その晩、日本人青年組、ブラジル二世組、素琴(スーチン)、海蕊(ハイリーン)、海※(ハイウン)らが集まって、甲板で、ぼくたち二人のお別れパーティを開いてくれた。歌が上手な前野は、これが最後だといわんばかりに、暗い海にむかって歌った。心なしか、寂しげな、沈んだ歌声であった。
 五月十八日、遠くに、白っぽく流れるようにロレンソマルケスが見えてくる。
「とうとう、来てしまったな」
 前野と、デッキにもたれながら、ぐんぐん近づいてくる町なみに目をやった。空はまっ青に晴れわたっている。木々の緑が、建物の白さが、目にしみた。
 午前十一時、ルイス号は、ロレンソマルケス港の岸壁に接岸。イミグレーションの役人が船に乗り込んでくる。入国手続がおわり、午後、ぼくたちは気が抜けるほど簡単に、アフリカ大陸の一角に、自分たちの足で立った。三年間も、夢にまでみたアフリカ。
「前野、いよいよこれからだな。ガンバロウ」
 ところでルイス号は、翌々日の五月二十日、夜八時、喜望峰から大西洋を越えて南米にむかうためこの港を離れ、二度、三度“ボーッ”と、胸をえぐるような汽笛を鳴らしてぼくたちに合図し、暗い海に出ていった。“ほたるの光”の歌声がいつしか聞こえなくなり、甲板でみんなが振っている懐中電灯の小さな灯りも、だんだんと遠くなっていった。
「さよーなら!」と、ぼくたちは、声のつづくかぎりに叫びつづける。その晩は、海辺の松林の中にテントを張った。インド洋の波の音が、やけに大きく聞こえる。前野もぼくも、寝つけなかった。目をとじると、船でいっしょだったいろいろな人たちの顔が浮かんでくる。
「ロン!」と呼び声がする。それは船の中での、ぼくの呼び名だ。隆という名は、中国語読みだとロンになり、子供たちや女の子は、ぼくをロン、ロンと呼んでなついてくれた。すぐ耳の近くで、子供たちがその名を呼んでいる声が、ひと晩じゅうしていたのだ。たまらない、やりきれない夜であった。

(第一章おわり)

Amazon:賀曽利の本

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

『世界を駆けるゾ! 20代編』フィールド出版

第1章 アフリカに行きたい!

17歳の夏の日

 ぼくが初めて世界に飛び出そうと思ったのは、ある日、突然のことだった。
 1965年(昭和40年)、17歳の高校3年の夏休みに、親友の前野幹夫君、横山久夫君、新田泰久君らと、
「おもいっきり、泳ごうゼ」
 と、東京から房総半島の太平洋岸、外房の海に向かった。ぼくたちは都立大泉高校で一緒だったが、おもしろいことにクラスが一緒だったのは1年生のときだけだったが、不思議と気が合ったのだ。
 ぼくたちが目指したのは鵜原海岸。一人一人が思い思いにテントや食料を持ち、キャンプをしながら泳ぐつもりでいた。その日は、真夏の太陽がギラギラ照りつける、とびきり暑い日だった。外房線に乗ったのだが、東京から千葉まで切れ目なくつづく市街地を抜け出し、広々とした水田風景が車窓に開けてきたとき、心の中がサーッと洗われるような思いがした。
「広いなあ!」
 胸の中に溜まっていた重苦しいものから一時的にでも解き放たれたからだろう、思わずぼくの口からそんな言葉が飛び出した。
「広いなあ!」というこの一言が、ぼくの運命を大きく変えた。この30年間にわたり、世界を駆けめぐってきたすべての原点が、ここにある、といっても過言ではない。
「広いって、いいなあー」
「狭っくるしいところは、もう、たくさんだ」
「俺たち、もっと、もっと、自由でなくてはいけないよな」
「そうさ、自由さ。もっと、もっと自由でなくてはいけないよ」
 高校3年の夏休みというと、翌春にひかえた大学入試のため、寝る時間を削ってでも受験勉強をしなくてはならなかった。とくにぼくたちの世代、昭和22年生まれというのは戦後のベビーブームで大量生産(!?)された団塊の世代のはしりなのだ。ベルトコンベアに乗せられて続々とつくられていく工業製品と同じで、それだから、まわりからは受験が大変だといわれつづけて大きくなった。
 小学校では校舎が足りなくて、午前と午後の2部授業だった。午前の授業と午後の授業を間違えて学校に行き、「今ごろ何しにきたのだ」と先生には怒鳴られ、友達からは嘲笑されたこともあった。中学、高校を通してひとクラスが50人を超え、教室はギュウギュウ詰めの満員電車のようなものだった。
「受験戦争」などという流行語が生まれたのもぼくたちの世代のころ。それだけに、目には見えない重圧に押しつぶされてしまいそうな環境にぼくたちはいた。しかしそれに対しての、猛烈な反発心もあった。
「冗談じゃないゼ。絶対に流されるものか!」
 ぼくは中学、高校とサッカーをやった。授業をさぼってでも、放課後のサッカーの練習だけには行った。それほど好きなサッカーだったが、高校3年生になる前にやめてしまった。学校の成績がどん底にまで落ち、もうこのままでは浪人しないことには大学に入れないと自分自身でわかったからだ。大学に入ってあれをしたいとか、これをしたいとか、また、卒業したら何になりたいといった希望はまったくなかったが、ただひとつ、浪人だけはしたくなかったのだ。一日も早く社会に飛び出していきたかった。
 受験勉強がはじまった。あさましいとしかいいようのない受験勉強だった。そのため試験の点数だけは、あっというまにグングンと上がっていった。それとともに、自分でもよくわからないいらだたしさ、むなしさを強く感じるようになっていった。
「なんで、こんなことをしているのだろう」
「あー、サッカーをやめたのが、間違っていたのではないか」
 机を並べている友人を一人でも追い抜いていくような受験勉強、その積み重ねの上に出てくる明日の自分の姿。ぼくはある日、急ブレーキをかけるようにして立ち止まってしまった。それは「すべが見えてしまった!」からだった。
 逃げたくても逃げることのできないレールに乗せられてしまった自分自身の姿が、あまりにも強烈に、あまりにも鮮明に見えてしまったのだ。それは一度落ち込んだら、二度と這いだすことのできない蟻地獄のようにも見えた。
「これではいけない! 絶対にいけない!」
 と、ぼくは大声で叫びたかった。
「人間なら誰しもが持っている無限の可能性、それはきっと自分にも与えられているはずだ」
 と、信じたかった。
 ところが、未来への可能性などどこかに吹き飛んでしまい、ただ黙々と敷かれたレールの上を進んでいくしかない明日、何かしたくてたまらないのに何もできない自分、そんな“見えてしまった明日”、“見えてしまった自分”が、ぼくを飛び上がらせたのだ。


アフリカ大陸縦断計画

 外房線の車中での「広いなあ!」の一言に端を発したぼくたちの会話はさらに広がり、いつも冗談をいってはみんなを笑わせる前野が、
「オイ、いくら広いといっても、アフリカなんか、こんなものじゃないぞ」
 と、さもさも見てきたかのような口ぶりでいう。
「俺、アフリカに行ってみたいなあ」
 と、前野は今度は冗談とも本気ともつかないような口調でそういった。
 前野の口から出た“アフリカ”が、ぼくの胸をギュッとつかんだ。アフリカと聞いた瞬間に、映画や写真で見たことのある大自然が、稲妻のように頭の中を駆けめぐった。はてしなく広がる大草原、昼なお暗い大密林、灼熱の太陽に焼きつくされた大砂漠‥‥といったアフリカの風景が、カラースライドでも見るかのように、次々と鮮明にまぶたに浮かんでいった。それは、もう、どうしても自分自身のものでなくてはならないように思えてきたのだ。
「アフリカか‥‥。アフリカ。いいなあ」
「行けないことなんて、ないよな」
「行けるさ。足があれば」
「そうさ、意思があれば。男ならば」
 そのような会話をかわしているうちに、どうしてもアフリカに行きたくなった。日本を飛び出し、広い世界をおもいっきり駆けまわりたくなった。
「よーし、アフリカに行こう。なー、俺たちアフリカに行こうじゃないか」
 ぼくたちは、しょっちゅう、冗談をいう。まるで、ほんとうのことのように冗談をいいあう。だが、そのときは、そうではなかった。誰もが冗談っぽい話の中に、本気の部分を強く感じていた。
 外房海岸の鵜原でキャンプしている間も、帰りの外房線の列車の中でも、ぼくたちは何度となく“アフリカ”を話した。いつしかバイクでアフリカを走ろうということになっていった。バイクでアフリカを走るという発想は、ごく自然なものだった。ぼくだけではなく、前野にしても新田にしても、バイクが大好きだった。横山は免許を持っていなかったが、取らせればいいということになった。
 外房海岸の鵜原から帰ると、ぼくの頭の中は“アフリカ”でいっぱいになった。夏休みが終わり、2学期がはじまると、ぼくたち4人は西武池袋線の大泉学園駅に近い喫茶店「カトレア」に集まった。ここでぼくたち4人は、夏休みの間中考えていたおのおのの案をぶつけた。それら各自の案を3時間も4時間もかけてまとめたのが、次のようなことだった。
 ・アフリカ大陸南端を出発点にし、東アフリカを経由し、北アフリカの地中海に出る大陸縦断コースとする。さらに北アフリカを地中海沿いに走り、モロッコをアフリカの最終地点とする。ジブラルタル海峡を渡ってヨーロッパに入り、西アジアの国々を通り、インドから日本に帰ってくる。
 ・全コースをバイクで走破する。
 ・出発は3年後の春とし、1年半の期間で計画を達成する。
 ・計画の資金は誰の援助も受けずに、すべてを自分たちでまかなう。大学の入試を終えたらすぐに資金稼ぎのバイトをはじめる。計画を達成するためには体を鍛えなくてはならないので、朝は新聞配達か牛乳配達をし、昼は別な仕事をする。
 ・この計画を「アフリカ大陸縦断計画」と名づける。
 以上のことをまとめると、ぼくたちは「アフリカ大陸縦断計画」の実現を誓い合った。喫茶店の名前をとって「カトレアの誓い」だと、ガッチリ握手をかわした。
 とはいっても、アフリカは遠かった。アフリカはまったくの未知の世界で、雲のはるか上のような存在。ほんとうにぼくたちの手が届くのだろうかと、不安は大きかった。またアフリカに関しての知識も、何ら持ち合わせていなかった。それだから計画づくりといっても、学校で使う地図帳のアフリカの地図上に、アフリカ大陸南端のケープタウンと地中海岸のアレキサンドリアを赤線で結び、だいたいこの線に沿ってアフリカ大陸を縦断しようという程度のものだった。
 しかし、それからというもの、ぼくはアフリカに関しての本を夢中になって読みあさった。授業中に教科書を衝立にして隠し読んだこともある。資料も集めはじめる。アフリカに関する新聞記事が出ていればそれを切り抜いてスクラップ帳に貼り、アフリカが舞台の映画があれば見にいったりもした。アフリカの地形、気候、政治、経済、歴史、文化、民族、社会情勢、道路状況などについても調べていく。
 ひとつ、問題が起きた。新田である。新田はいった。
「わるいけど、アフリカ、やめるよ。そのかわり、何か手伝えることがあったら手を貸す」 ぼくと前野、横山の残った3人は、新田が抜ける寂しさはあったが、それ以上無理にはさそわなかった(なお新田はその後、東京商船大学に入り、卒業後は船乗りとして世界中を船でまわり、現在は大手商社に勤務している)。


横浜港での資金稼ぎ

 長い冬が終わり、春になった。大学の入試が終わると、まるではじかれたゴムまりのように、「ちょっと、旅行に出てくるから」といい残して家を飛び出していった。行き先は横浜。西武池袋線の桜台駅で横山と待ち合わせ、横浜に向かった。薄汚れた服に長靴といういでたち。横浜に向かった理由は、港での荷役作業が金になると聞いていたからだ。いよいよぼくたちの「アフリカ大陸縦断計画」の資金づくりがはじまる。
 ぼくたちは寿町のドヤ街に泊まった。1泊120円の2畳の部屋でのゴロ寝。仕事はすぐにみつかった。1杯30円のうどんや50円のラーメンで空腹をしのぎ、毎日、必死になって働いた。
 仕事というのは、埠頭ではなく、沖に停泊している貨物船での荷役作業だった。沖まではハシケに乗っていく。ラワン材の積みおろしの作業では、突然クレーンのワイヤーが切れ、大惨事寸前の目にあった。10トン以上ものラワン材が、轟音とともに船底に落ちたのだ。マニラ麻のかたまりをころがしているときは、その下敷きになってしまい、あやうく押しつぶされるところだった。息ができなくなり、圧死寸前の目にあったのだ。化学薬品の容器を運んでいるときは、容器からもれた有毒液のために手がまっ白になってただれてしまった。ぼくは後に“強運のカソリ”といわれるようになるが、その強運をここでもいかんなく発揮した。
 荷役作業の監督は怒鳴ることが趣味のような人だったが、根は以外とやさしく、あまった昼飯の折り詰め弁当をぼくたちにくれたりした。とにかく腹がへるので、弁当を余分にひとつ食べられるのはありがたいことだった。
 1円でも多くの金をもらいたかったので、昼夜、ぶっ通しで仕事したこともある。その途中では目がまわりはじめ、酔っぱらったときのように足がもつれ、ふらついた。なんともきつい仕事だったが、一日の仕事が終わると、その日の分の給料をもらえるのがうれしかった。
 ドヤ街での生活も気に入った。初めてドヤ街に足を踏み入れたときは、自分とはまったく違う人種の人たちがそこに住んでいるような気がしたが、そこで2日、3日と過ごしていくうちになんとも居心地のよい、やすらぎのようなものを感じるようになった。誰もが自分をまったく飾らない。
 30円のうどんを食べさせてくれる店のお姉さんは、「はきだめに鶴だな」と、横山といい合ったほどの美人。「あのお姉さんとデートしようゼ」と、さっそくラブレターを書いたが、相手にされずにふられてしまった。
 隣の部屋のおやじさんはおもしろい人。
「きのうはな、パチンコ屋で3000円すって、男泣きに泣いたよ。それから飲み屋に行って、おかみに右手の親指を切ってくれって頼んだんだ。そうしたらおかみは、パチンコなんかやめればいいでしょって、ぬかしやがった。やめられるくらいなら苦労しないよ。なあ、そうだろ」
 そのおやじさんは、「さし入れだ。飲みな」といって1升びんを持ってきてくれた。
 横山とコップ酒を酌みかわしながら、ドヤ街の薄暗い、すえた臭いのする2畳の部屋でおおいに夢をふくらませた。話がはずみ、ぼくたちの目指すアフリカから、ぼくの小さいころからの憧れの地である中央アジア、さらには南米と、夢ははてしなく世界を駆けめぐった。幸せなひとときだった。ぼくたちの前途には、限りない未来が開け、自分たちの力で何でもできるような、そんな気分が体中に満ちあふれていた。
 横浜での10日あまりの仕事を終え、ぼくたちはせっかく稼いだ金だから、一銭も使わないで家に帰ろうと決め、横浜港の大桟橋から歩きはじめた。地図もない、あてずっぽうの旅だ。
 多摩丘陵では雑木林の中で道に迷ってしまい、ワンダリングをくり返してしまい、何度も同じ場所に出た。えらく時間をロスしたが、「ここはもしかすると、地球上のミステリーゾーンかもしれないゾ」などと冗談をいう余裕があった。
 横浜線の中山駅に着いたときには、すっかり日が暮れていた。いやなことに糠のような雨が降りだし、おまけに霧がかかってきた。それでもまだ、「うーん、これはいい、なかなか神秘的だ」と、強がりをいえる余裕があった。しかし、霧は上がったものの、雨が激しくなり、それとともに急速に体力を消耗していった。
 真夜中に多摩川を渡った。雨は一段と激しくなる。傘など持っていないので、もうズブ濡れだ。体の芯から冷えきり、寒くて歯の根が合わない。あまりの辛さに我慢できず、多摩川の河原にひっくり返してあるボートをみつけると、その中で寝ようとした。だが、とてもではないが眠れたものではない。
 ぼくたちは夜通し歩いた。すでに疲労は極に達していた。泣きっつらに蜂とはこのことで、靴づれがひどくなり、裸足になって歩いた。夜が明けた。それとともに、やっと雨があがった。調布、吉祥寺と通り、横浜港の大桟橋を出発してから27時間後、ぼくたちは学校に近い西武池袋線の大泉学園駅にたどり着いたのだ。
 次の日、ぼくはひどい高熱に見舞われた。ウンウンうなっているときに、横山がやってきた。「おい、カソリ、大丈夫か?」。横山はなんともタフなヤツなのだ。


アフリカ目指して1日20時間労働

 大学入試の結果は、さんざんなものだった。合格したのは前野だけなのである。ぼくたちの「アフリカ大陸縦断計画」は、最初から大きな試練にたたされてしまった。
 ぼくは早稲田大学の政経学部と商学部を受けた。入試直前の大学前の予備校での模擬試験では、5000余人中40何番という得点で、両学部とも合格の可能性は90何パーセントという回答だった。そのような入試直前の模擬試験の結果や、1年間も我慢して受験勉強したのだからという奢りもあって、ぼくは「入試には落ちるはずがない」と、たかをくくっていた。それだけに、入試の結果を見たときは、自分自身の傲慢さに鉄槌が下されたような思いがした。
 ぼくはこの時点で、すぐさま、「浪人はしないゾ」と決心した。進学しないといっても両親にはわかってもらえないと思い、家出した。
「入試を受けたあと、ぼくは結果を見ないうちから、合格したつもりでいました。そして考えたのです。大学を卒業する、会社に就職する、上役の顔色を見ながら身を削って仕事に精を出す、結婚する、安定した家庭生活を送る--このような将来像のなかで、いったいどこで子供のころから抱いていた漠とした夢を実現させればいいのでしょうか。いったいどこで自分の情熱を発揮させればいいのでしょうか。
 そう考えたとき、自分自身がすごく小さくなってしまったような気がして、いたたまれないほどの焦燥感にとらわれました。いけない、飛び出さなくては!と、強く思ったのです。
 入試の結果を見て、落ちたのがわかったときは、正直いってショックでした。しかし、それと同時に、今がチャンスだ、今をおいてほかにはないと、煽られるような気持ちのたかぶりもありました。どうぞ、ぼくのわがままを許して下さい」
 このような書き置きを残し、ふたたび、横浜のドヤ街に舞い戻ったのである。ここで「アフリカ大陸縦断計画」の資金稼ぎをするつもりだった。
「これで自分は、世界を自由奔放に羽ばたける」
 と、雲の上を飛ぶような陶酔感に浸った。
 ところがその陶酔感も長くはつづかなかった。両親はぼくのことが心配でたまらなかったのだろう、横山に横浜のドヤ街の場所を聞いて捜しにきた。何日も捜したようだ。そして、ついに、みつかってしまった。
「もう、じたばたしても仕方ない」
 と、腹をくくり、家に帰った。
 しかし、それからというものは予期したこととはいえ、母親は「大学に行きなさい」と口うるさくいう。その矛先をかわすためにも、できるだけ早く仕事を見つけなくてはならなかった。幸いにも、仕事はすぐにみつかった。家の近くの牛乳屋で夜中の3時から7時が牛乳配達、それが終わると背広に着替え、満員電車に揺られ、築地の小さな印刷会社に通った。印刷会社は従業員が10人ほどの零細企業なものだから、何でもやらされた。そのおかげで、何でも見聞きできるおもしろさがあった。しかし、とにかく忙しくて、9時から5時までという勤務時間などあってなきがごとしだった。
 得意先や紙、写植、活字、製版、製本などの各業者、さらにはほかの印刷会社をめまぐるしくまわるのがぼくの仕事で、ホンダのカブやベンリーCD125、ドリームCB450などのバイクが足となった。朝から晩まで都内の道を走りまくり、時間に追われる仕事だったので、目茶苦茶に飛ばした。そのあげくにスピード違反で捕まったり、バイクをぶつけたり、荷台に積んだ製品を全部ばらまいてしまったり‥‥。だが、それもこれも、
「アイツはまだ若いのだから」
 ということで許してもらえるようなところがかなりあったように思う。仕事が終わるとよく飲みにも連れていってもらった。
 そのような毎日だから、帰りが夜中近くになることもしばしばで、寝たと思ったらもう目覚まし時計が鳴っている。腹立たしくなり、「うるさい、だまれ!」と、投げつけてしまったこともある。牛乳配達の途中であまりの睡魔に我慢できず、道端にひっくり返り、寝てしまったこともある。ひとつよかったのは、母親とは顔を合わせる時間がほとんどなくなったので、「大学に行きなさい」とうるさくいわれることがなくなったことだ。
 1日20時間労働の毎日がつづいた。自分で選んだ道なのに、なぜ自分だけがこんなにも苦しい思いを味わなくてはいけないのだろうと、情けない気持ちになることもたびたびだった。楽しそうにしている同世代の若者たちが、無性にうらやましかった。
 何度となく挫けそうになったが、そのたびに元気づけ、勇気づけてくれたのが“アフリカ”。“アフリカ”はまさに天の声だった。アフリカに行くためだったら、「アフリカ大陸縦断計画」をなしとげるためだったら、なんでも、どんなことでも我慢しなくてはならないと思うのだった。
 一方、前野はといえば、早稲田大学に通いながら、朝は新聞配達をし、夕方から夜にかけては学習塾の先生をした。前野のおおらかで、めんどうみのいい性格が受け、前野先生は生徒たちの人気の的だった。夏休みや冬休みに入ると、自動車工場の組立ラインの仕事をした。前野も「アフリカ大陸縦断計画」の実現に向けて一歩1歩、着実に資金を増やしていった。
 計画の資金の目標を一人100万円におき、前野と会うたびにいくら貯まったゾと、報告しあった。それと同時に、その間に得たアフリカの情報や資料を交換した。ぼくたちのアフリカがわずかづつでも近づいてくる喜びは、何にもたとえようがなかった。
「アフリカを目指してがんばろう!」
 これがぼくたちの合言葉になっていた。


3人が2人になった‥‥

 大きな問題が持ち上がった。横山が「アフリカ大陸縦断計画」から脱落していった。彼の両親がどうしてもアフリカ行きを許してくれない。ぼくと前野の2人で横山の両親に会いにいったが、大学教授の横山の父親に、
「いったい、何のためにアフリカに行くのだね」
「だいたい、オートバイでアフリカ大陸を縦断するというけれど、そんな夢のようなことがキミたちにできるわけがないではないか」
「途中で病気になったり、事故でも起こしたら、どうするつもりだね」
 と問われると、ぼくにしても前野にしても、両親を納得させるだけの返答はできなかった。正直なところ、アフリカに行きたいから行くのだし、行ってみないことにはわからないというのが、ぼくたちの本心だった。
 もっと悪いことに、横山自身の中でも、最初のころの燃えるような情熱は沈静してしまったようだ。ぼくたちが計画をたてはじめてから、すでに2年という歳月が流れていた。ぼくと前野は横山を断念しなくてはならなかった。
 こう書いてしまうと簡単なことのようだけど、これはショックという言葉ではいいあらわせないほどのものだった。3人が2人に減ったという数の問題ではない。痛みが自分の肌に現実に感じられるような悲壮感、虚脱感、挫折感‥‥といった感情に襲われる。
 前野、横山、新田らと、西伊豆の土肥まで歩いていき、そこでテントを張って泳ごうとしたことがあった。テントのほかに飯盒や米、かんづめなどの食料品をごっそり背負って中央線の武蔵境駅を出発点にした。
 高校1年の夏休みが間近な試験休みを狙っての脱出行だった。その日はとりわけ暑い、猛暑といってもいいような日で、情けないことに西伊豆どころか東京都を出ないうちにダウンしてしまった。それでも計画は捨てずに電車に乗って沼津まで行き、そこから船で土肥に近い大瀬崎に渡り、白い浜木綿の花が咲く浜辺で1週間、泳ぎまくって帰ってきた。ところが後日、学校にばれてしまい大目玉をくった。規則では、試験休みに遠出してはいけないことになっていたのだ。そのとき、かわいそうなことに、横山が一番矢面に立たされてしまった。
 その年の秋には、サッカーのユーゴスラビアのナショナルチームが日本にやってきた。全日本との試合は、あいにくと遠足と重なってしまった。
「おい、横山、どうする。遠足にする? それともユーゴにする?」
「それはユーゴに決まっているさ」
 ぼくたちは遠足をさぼり、国立競技場にユーゴスラブビアと日本の試合を見にいった。世界でも超一流のユーゴスラビアがプレーするというのにスタンドには空席が目立った。しかし内容の濃い、白熱したゲーム展開。結局1対0で負けはしたが、日本が善戦したのでうれしくなり、帰り道、ぼくたちは有り金を全部はたいて祝杯をあげた。ところが翌日2人は呼び出された。
「おまえたちのような生徒は、即刻、退学させたい。私の一存でそれができないのがなんとも残念だ」
 と、担任の先生を嘆かせた。
 高校2年の夏休みには、前野、横山、新田らと、今度は静岡県の御前崎に近い相良の海に行った。そこは横山の故郷。浜辺の松林にテントを張ったが、夜になると、前野はひたすらに片想いをしている同じクラスの女の子の話をするのだ。前野の話をさんざん聞かされ、すっかり頭に血がのぼってしまった。
「よーし、それならば」と、海にやってくる女の子たちに、次々に声をかけた。そのうちの一人、横浜の女の子とはすっかり仲よくなり、二人だけで御前崎に行った。白い灯台に登り、誰もいない砂浜を歩いた。彼女が横浜に帰る日、東海道線の藤枝駅まで見送りにいった。列車がホームに入ってくると、彼女はネックレスをはずしてぼくに手渡し、「さよなら」と一言いったきりで、うつむいてしまった。
 横山とは東京・池袋で、すしの食べくらべをしたことがある。50個ぐらいまではなんとかいったが、それからがきつい。むりやり口の中に押し込み、お茶で流し込む。米粒が食堂の上まできているようで、1個食べるごとに死ぬほどの苦しみを味わう。とうとうぼくは70個でダウンしてしまったが、横山はさらに食べつづけ、80個という記録をつくって店のおやじさんを驚かせた。
 それからが大変だ。動こうにも動けない。人がぼくたちの歩いている姿を見たら、きっと酔っぱらいだと思ったことだろう。だが、それよりも、よっぽどひどい。気分が悪いだけではなく、口の中がへんに甘ったるくなり、詰め込んだ飯粒がブクブクと発酵してくるのではないかと思わせるほどのすさまじさだった。とうとう歩けなくなり、池袋の駅裏で1時間以上もひっくり返っていた。
 横山とはまた、かき氷の食べくらべをしたこともある。2杯目、3杯目あたりまでは楽なのだが、4杯目を過ぎると加速度的にきつくなる。地獄の拷問のような目にあいながらも、結局6杯で2人とも同数だった。だが横山の方が早く食べたので横山の勝ち。胃袋が氷づけになっているので、真夏の太陽のもと、震えながら歯をカチカチ鳴らして歩いた。 アフリカでは象の肉や猿の肉の食べくらべをしようなどと冗談をいい合った横山が、「アフリカ大陸縦断計画」から抜けていった(横山はその後、大学を中退し、自分ひとりで旅に出た。15ヵ月かけてユーラシア大陸をまわり、さらに、同じく15ヵ月をかけて南米を一周した。「アフリカ大陸縦断計画」からは抜けたが、彼は彼なりに自分の夢を追い求め、世界を駆けまわった)。


横浜港からの旅立ち

 資金稼ぎをはじめて2年目の秋になると、翌春の出発を目指し、前野とはひんぱんに会うようになった。問題点がいくつもあった。船や外貨、バイク、カルネ(バイクで国境を越えるときに使う通関手帳)などの問題である。
 また、アフリカに詳しい人や自動車やバイクでの海外旅行に詳しい人などに会って話を聞いたりもした。どの人も忙しい時間を気持ちよくさいて、いろいろなことをぼくたちに話してくれた。それがどれだけぼくたちを勇気づけてくれたかしれない。話の最後には、
「キミたちの計画の実現と成功を祈っている。がんばって」
 と、決まって励ましてくれた。
 自動車で世界一周した人が神戸にいると聞くと、どうしても話を聞かせてもらいたくて前野と2人乗りで神戸に向かったこともあった。バイクはホンダのベンリーCD125。ガタのきているポンコツだ。それが、ぼくにとっては初めてのロングツーリングといえるようなものだった。前野を後ろに乗せて走りはじめたときは、そのままアフリカ大陸まで突っ走っていくような意気に燃えていた。
 東海道を一路、西へ。箱根峠を無事に越え、快調に走ったが、浜松の手前の磐田ではスピード違反で捕まってしまった。名古屋を過ぎると雨になり、それとともにベンリーの調子が悪くなった。エンジンがブスブスいっている。名阪国道に入ったところで修理したがエアークリーナーのエレメントを外すとエンジンの吹き上げがよくなったので、乱暴にもそれを捨てて走った。
 ズブ濡れになって大阪に到着したときには、夜もかなり遅くなっていた。安宿に泊まり銭湯で一風呂浴びたときは、ホッと生き返ったような思いだった。結局、神戸までは行かずに終わってしまったが、この大阪行きで、「アフリカを目指してがんばろう」というぼくと前野の気持ちがぴったりと合ったように思う。
 東京に戻ったあと、船会社を訪ね歩くうちに、アフリカの喜望峰経由で南米に向かう船のあることがわかった。4月12日に横浜港を出るオランダのロイヤル・インターオーシャン・ラインの「ルイス号」という船で、モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)から南アフリカのダーバン、ケープタウンと寄港し、大西洋を越え、ブラジルのリオデジャネイロからサントス、さらにはアルゼンチンのブエノスアイレスまで行く船だった。
さっそくぼくたちは「ルイス号」を予約した。それで、4月12日という出発日が決まった。
 外貨の持ち出しは、当時は1人500ドルまでだった。500ドルではどうしようもない。国内で1ドル400円くらいのレート(当時の公定レートは1ドル360円)なら、闇ドルに換えられるとも聞いたが、何も知らないぼくたちにはどうしたらいいのかわからなかった。どうしようかと頭を痛めていると、事情に詳しい人が、大きな声ではいえないがと前置きし、船が香港、シンガポールと寄港するのだから、そこで円をドルに換えたらいいと教えてくれた。日本円の持ち出しは、1人2万円に制限されていたが、それ以上に持ち出しても、まず調べられないだろうとのことで、そうすることにした。
 お金の問題はひとまず解決したが、1960年代後半の日本というのは、やっと海外への渡航が自由化されたばかりで、高度経済成長の道を走りはじめたとはいっても、その経済力はまだまだ弱く、貧乏国だった。その弱さが円の弱さになって現れていた。
 カルネの件では、JAF(日本自動車連盟)の田久保勇作さんに、ひとかたならぬお世話になった。JAFが日本でのカルネ発給団体になっていたが、その当時はまだ、日本から車やバイクを持ち出して世界を走るというケースはまれで、カルネの取得自体が容易ではなかった。そこで何度となく田久保さんに相談したのである。
 バイクはスズキに決めた。バイクで一番心配だったのは故障である。何万キロもの長い距離を走破しなくてはならないので、4サイクル・エンジンに比べて構造がシンプルな2イクル・エンジンのスズキかヤマハにしようと、前野と話していた。バイクに詳しい人が、スズキのエンジンはタフだというので、ぼくたちはスズキTC250という250ccバイクに決めた。まだ、ヤマハのDT1やスズキのハスラーTS250といったオフロード・バイクが登場する以前のことで、TC250というのは250・のロード・バイクのT20にエンジン・ガードがつき、マフラーがアップになったモデルで、それをスクランブラーと呼んでいた。
 1968年の正月を迎える。
「もうすぐだ。船が横浜を出るときは、でっかい声で叫ぼうゼ!」
 前野からはそんな年賀状が届いた。
 1月15日はぼくたちの成人式。
「もう20歳になっんだから、これをいい機会に酒もタバコもパチンコもやめような」
 などと冗談をいいながら、出発まであと3ヵ月、おたがいに気持ちを引き締めあっていこうと決意をかわした。
 2台のスズキTC250を購入し、自分たちのものになったときは、天にも昇るような気分だった。アフリカがいよいよ手の届く距離まで近づいたことを実感させた。ブルーとシルバーの2色のタンクがまぶしく光り輝いている。
 さっそくバイクの改造にとりかかる。デュアル・シートをシングル・シートに取り替え大型のリア・キャリアを取り付け、そこにステンレス張りした木箱をのせる。その木箱の中に荷物を入れる。パーツも購入した。アクセルやクラッチ、ブレーキのワイヤー類、ピストンやピストンリング、ピストンピン、各種ガスケット類、チェーン、前後のスプロケット、ポイント、クラッチ板、イグニッションコイル、ブレーキシュー、エアークリーナーのエレメント、ヘッドライトのバルブ、前後輪のインナーチューブ、スパークプラグなど、パーツだけでも段ボール1箱分になった。
 さらにテント、寝袋、シート、エアーマット、ロープ、ナタ、シャベル、炊事用のホエブス(ガソリン用コンロ)、コッフェルなどの装備品も揃える。これら諸々の荷物を全部合わせると、木箱の重さも加わって100キロというたいへんな重量になってしまった。 バイクの用意ができたところで、スズキにお願いし、即席の、TC250整備の講習を受けさせてもらった。泊り込みで3日間、サービス課の方がぼくたちにつきっきりでTC250の整備の方法、修理の方法を教えてくれた。このときの経験が、後にどれだけ役立ち、またどれだけ自信につながったかしれない。
 スズキからはアフリカをはじめとしてヨーロッパ、アジア各国のディーラーのリストをもらい、さらにありがたいことに各社宛の紹介状も書いてもらった。
 このころになると、アフリカの情報にもかなり明るくなっていた。なにしろアフリカに関するものだったら、本はいうにおよばず、新聞だろうがテレビ、映画であろうが、目の色を変えて読んだり、見たりしていたからだ。まだ、いくつかの問題点は残していたが、もう日本であれこれ心配しても仕方ないと思い、あとは現地に行ってから最善を尽くす以外にないという結論に達した。
 残念だったのは、ケープタウンである。ぼくたちはアフリカ大陸縦断の出発点をケープタウンにしようと、ずっと話してきた。ところが個人の旅行者では、南アフリカのビザ(入国査証)がどうしても取れなかった。そこで出発点を南部アフリカのモザンビークのロレンソマルケス(現マプト)にした。
 3月に入って牛乳配達も印刷会社もやめた。「アフリカ大陸縦断計画」のために働きはじめてから、ちょうど2年が過ぎていた。夜中に起きだし、また夜中に帰るといった1日20時間労働に最後まで体がもったことをありがたく思った。資金もほぼ目標どおりに稼ぐことができた。大学出の初任給が3万円にもならない時代に100万円を貯めたのだからえらいと自画自賛だ。とはいっても、ぼくにしても前野にしても親がかりで、食費には一銭も払わず、部屋代にも一銭も使わないですんだからこそできたことだが。
 出発の前夜、新田の家にぼくと前野、横山が集まって盛大な飲み会となった。新田の姉さんも顔を出してくれた。酒量はみるみるうちに上がり、とうとう夜明かしで飲みつづけた。
「おい、カソリ、前野、俺たちの分までがんばってきてくれよ」
 という新田と横山の励ましが胸にしみた(ぼくたち4人はあれから30年以上もたっているが、今でも年に何回か会っている)。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

『世界を駆けるゾ! 30代編』フィールド出版

第1章 赤ん坊連れのサハラ縦断

熱病にかかって、カソリ、結婚!

 ヒッチハイクとオートバイを織りまぜ、15ヵ月間で世界六大陸13万キロを駆けまわった「六大陸周遊」の旅から帰ってまもなく結婚した。27歳の春のことだった。
 結婚し、家庭を持つなんて、自分の人生とはまったく無縁なものだと、そう思っていただけに、自分でも信じられない出来事‥‥。まるで、熱病にでも浮かされているような気分だった。
 ところで、結婚するからといっても、結婚式の費用など一銭もない。自慢にもならないが、「六大陸周遊」の旅から帰って結婚するまでの4ヵ月間で得た収入といえば、新聞に原稿を書いて得た数万円だけ。で、どのようにして式をあげたかというと、日曜日の保育園を1日1万円で借り、あとは友人たちが段取りしてくれた。ぼくたち夫婦は1万円で結婚式をあげた。それは1975年3月16日のこと。仲人役は、生涯を通して4000日も旅で過ごされた偉大な民俗学者の宮本常一先生(1981年1月30日にお亡くなりになった)と奥様が引き受けて下さったのだ。
 新婚旅行も、いきあたりばったりの貧乏旅行。妻の洋子とは、東京・新宿駅を鈍行列車で発ち、松本から大糸線に乗り、糸魚川駅近くの安宿で1泊した。翌日は富山から高山線に乗り、猪谷で神岡線(現在の神岡鉄道)に乗換え、終点の神岡で下車。たまたま駅前に停まっていたバスに飛び乗り、奥飛騨の新平湯温泉に行った。
 季節外れだったこともあり、大半の宿が閉まっていたが、その中にあって、「静山荘」という宿のご主人、奥さんがぼくたちの無理を聞いてくれ、
「ゆっくりしていきなさい」
 といって、泊めてくれたのだ。あやうく新婚旅行で宿なしになるところだった‥‥。ぼくたちは「静山荘」が気に入り、2泊し、周囲の雪の山野を歩いた。白銀の穂高連峰の眺めが強烈だった。
 そのあと、高山で1泊し、高山線で名古屋へ、名古屋からは中央本線で塩尻経由で東京・新宿へと、鈍行列車を乗り継いで戻ってきた。そんな新婚旅行だった。


生後10ヵ月の赤ん坊を連れて‥‥

 妻の洋子とは、
「2人でアフリカを旅しよう!」
 と、1年後の出発を目指した。頭の中はアフリカでいっぱいで、新婚家庭を築き上げていこうなどいう気は、さらさらなかった。洋子は看護婦。ぼくはこのころから原稿を書くことが多くなったが、2人でせっせと旅行資金を稼いだ。ぼくたちは希望にあふれ、何でもできるような気分でいた。
 ところが、長女の優子が生まれ、ぼくたちのアフリカ計画は大きな壁にブチ当たってしまった。
 どうしたらいいのか、さんざん考え、悩んだあげくに、
「どうしても、アフリカ計画を断念することはできない!」
 と、優子が生後10ヵ月になるのを待って、1977年6月11日、アフリカへと旅立った。ザックにはゴソッとオムツを詰め込んでの旅立ちだ。
 だが、そのときの周囲からの反対は強く、
「赤ん坊を連れてのサハラ縦断だなんて、キミはいったい何を考えているんだ、無謀にもほどがある」
 とか、
「キミたち夫婦はどうなろうと、好きなことをやるのだから、それはいいだろう。だけど、もし、赤ちゃんをサハラで死なせでもしら、どうやって責任をとるのかね」
 とか‥‥、厳しく責められ、両肩にいいようのない重圧を背負っての出発であった。
 ひとつ、そんなぼくの心の支えになったのは、
「カソリ君、世界中のどんなところでも、子供たちは元気に育っているよ」
 という東京農業大学探検部OBの向後元彦さんの一言だった。それを聞いて、
「そうだ、旅をつづけていくなかで、赤ん坊を育てていけばいいのだ」
 と思うことができるようになり、おおいに元気づけられた。向後さんと奥さんの紀代美さんは、子連れで世界を旅した大先輩。向後さん夫妻からのアドバイスは、実際の旅の日々のなかで、どれだけ役立ったかしれない。


列車でシベリアを横断

 ぼくたちは横浜港からロシア船「バイカル号」に乗り、ナホトカに渡った。そこから、シベリア鉄道でモスクワを目指したのだ。
 午後8時、急行「ボストーク号」はナホトカのチーホーケアンスカヤ駅を出発。翌朝、目をさますと、窓ガラスには水滴がいっぱいついていた。シベリアは雨だった。朝食を食べに食堂車に行くころから雨は上がり、青空がだんだん広がってきた。
 シベリアの風景が車窓を流れていく。白樺林が見える。白や黄色、赤‥‥といった色とりどりの野花が咲いている。初夏のシベリアはまさに花園だった。
 ハバロフスクに着いたのは、ナホトカを出てから15時間後の午前11時。ハバロフスクでは2泊したが、悠々と流れるアムール川(黒竜江)が印象深い。原木を満載にした船が下っていく。対岸の平原の向こうには、うっすらと山影が見える。中国の山々だ。アムール川の河原では、短いシベリアの夏をむさぼるかのように、日光浴している人たちの姿を多く見かけた。
 ハバロフスクからイルクーツクまでは3500キロ。70時間あまりの列車の旅。ウラジオストックから来たモスクワ行きの急行「ロシア号」に乗る。16両編成の長い列車。最後部の16号車がぼくたちのような外国人旅行者の車両で、アメリカ人の団体と一緒になった。
 1日3度の食事が大変。16号車の乗客たちは行列をつくって食堂車まで行進する。離乳食を食べはじめたばかりの優子だったが、ロシアの食事にも慣れ、黒パンや豆、ハムなどのロシア料理をよく食べてくれた。
 シベリアの空は、ほんとうに、大きい。まっ青な夏空。風景は次々に変わっていく。森林、草原、地平線のはてまでつづく大農園‥‥。木材や原油、石油製品などを積んだ貨物列車とよくすれ違う。
 翌朝、チタ駅に到着。大きな駅だ。中国のハルビン行きの列車が出ていく。「ロシア号」の停車時間は長い。駅には改札口がないので、赤ん坊を抱っこして、駅周辺をプラプラ歩いた。チタを出ると、車窓にはモンゴルへとつづく大草原が広がる。牛や羊が放牧されている。それら家畜を馬にまたがった牧童が追っている。夕方、ウランウデ駅に到着。モンゴルのウランバートルに行く列車の出る駅だ。駅構内を歩いているのは、大半がモンゴル系の人たち。日本人にそっくりな顔をしているので、思わず日本語で声をかけそうになった。
 ウランウデを出発。食堂車での夕食が終わったころ、バイカル湖が見えてきた。アメリカ人旅行者たちは喜びの声を上げ、さかんにカメラのシャッターを押す。それにしても大きな湖だ。9時をまわっても、まだまだ、明るい。夕日が湖岸の山の端に近づいても、なかなか日は沈まない。湖水の色が、夕空の色の変化に合わせ、刻々と変わっていく。列車は湖岸をひた走る。バイカル湖に流れ込む何本もの川を渡る。10時過ぎになって、やっと夕日は沈み、バイカル湖はうっすらと夜のとばりに包まれた。
 イルクーツクでも2泊し、モスクワへ。5000キロの列車の旅。夕方に発車するイルクーツク始発のモスクワ行き急行「バイカル号」に乗る。4人で1部屋のコンパートメント。2段ベッドが2つある。オーストラリア人とアメリカ人女性の旅行者と同室。まずいことに、ぼくたちは上段のベッドが2つ。夜が大変だ。赤ん坊の優子は、手あたりしだいに何でも投げるので、そのたびに下の2人に謝らなくてはならなかった。
 優子の寝たあとは、今度はベッドから落ちないように、ずっと見ていなくてはならなかった。寝ずの番だ。いつまでも明るいシベリアの夏の夜。午前0時を過ぎたあたりで、やっと暗くなる。しかし、まっ暗にはならずに、夜明けのようなうす明るさがいつまでも残る。1時、2時と眠い目をこすりながら起きていたが、ついにダウン。3時過ぎに、優子のわきで、体をくの字に曲げて寝てしまう。
 イルクーツクを出てから2日目の夜中に、シベリア最大の都市ノボシビルスクを通り、4日目の夜中に欧亜を分けるウラル山脈を越えた。夜中に越えたせいもあるが、なだらかなウラル山脈は、いつ越えたのか、まったくわからなかった。
 夜が明けると、雨が降っていた。湖が見える。まるで湯気が立ちのぼっているかのように、もやでけむっている。湖岸の森は、シベリアよりもはるかに濃い緑だ。妻の洋子は4日目の列車にもう、うんざりという顔をしている。赤ん坊の優子はすっかり列車の旅にも慣れ、機嫌がいい。こうして、イルクーツクを出てから5日目の朝、モスクワに着いた。「イルクーツク→モスクワ」間112時間の列車の旅だった。さらに列車の旅はつづく。モスクワに2泊したあと列車で国境を越え、フィンランドのヘルシンキまで行き、ロシア横断の旅を終えるのだった。


ポルトガルで迎えた30歳の誕生日

 北欧から列車を乗り継いでヨーロッパを南下。スペインからポルトガルに入り、大西洋岸のサンマルティーノという漁村で家を借り、1ヵ月あまり滞在した。ぼくはここで30歳の誕生日を迎えた。「あー、とうとう30になってしまったな‥‥」といった辛い気分と「さー、これからの30代はガンガンと世界を駆けめぐってやるゾ!」といった希望に満ちあふれた気分の交錯したような気分を味わった。
 サンマルティーノの風景は心に残るもの。石畳の坂道。民家の白壁と橙色の屋根瓦。漁港の岸壁では、漁から帰った漁船から魚を下ろし、トラックに積み込んでいる。漁港から岩山をくり抜いたトンネルを抜け出ると、外海に出る。大西洋の荒波が岩山にぶつかり、砕け散っている。
 サンマルティーノでの毎日は、のんびりとしたものだった。朝はゆっくりと起き、朝食のあと、市場に買い物に行く。とれたての新鮮な魚。野菜、果物も豊富だ。市場歩きを楽しみながら、買い物をする。そのあと、海に行く。すでに1歳の誕生日を過ぎた優子は、波とたわむれ、砂浜で遊ぶ。家に帰り、昼食、昼寝。午後、ふたたび、海に行く。夕方、海から戻ると、優子を風呂に入れる。そのあとで、ゆっくりと時間をかけて夕食にする。夕食にはビニョ(ブドウ酒)をたっぷりと飲んだ。
 長かったようでいて、それでいて、あっというまに過ぎ去っていったサンマルティーのでの日々。優子は夏の太陽と潮風を浴び、みるみるうちにたくましくなっていった。
 サンマルティーノに別れを告げ、ポルトガルからスペインに戻る。そしてジブラルタル海峡に面したアルヘシラスからモロッコのタンジールにフェリーで渡る。ぼくたちはついに、アフリカ大陸の一角に立ったのだ。
 サハラ砂漠縦断を目指し、アルジェリアの首都アルジェにやってきたのは10月3日。日本を発ってから4ヵ月あまりが過ぎていた。
 サハラの夏は、日中が暑すぎる。サハラの冬は、夜間が寒すぎる。いずれも子連れでは厳しすぎる。そこで、サハラに入っていく時期を10月と決め、それに合わせて日本を出発し、ロシア→ヨーロッパ→北アフリカと旅をつづけてきた。そのなかで、子供に旅の毎日に慣れさせていったのだ。


サハラ縦断の開始

 10月5日、アルジェを出発。700キロ南のサハラのオアシス、ガルダイアにバスで向かう。アトラス山脈を越え、世界最大の砂漠、サハラに入っていく。ガルダイアに着くと、白い町並みとそれを囲むナツメヤシの緑に、妻の洋子は「すてきね!」を連発した。夕暮れどきのサラサラやさしくほおをなぜていく風に、
「これがサハラの風なのね。砂漠の匂いがするわ」
 と、満足した表情を浮かべるのだった。
 だが、快適なサハラの旅もガルダイアまで。さらにエルゴレア、インサーラと南下していくにつれて、厳しい砂漠の旅になる。子連れなので、よけいに厳しい旅になる。
 ガルダイアから650キロ南のオアシス、インサーラでは、この町で唯一のホテルに泊まったが、水が極度に不足していた。水道の蛇口をひねっても、1滴の水も出ない。1日1回配給されるポリバケツの水がすべてだった。ぼくたちは子供がいるからということで、特別に2杯もらった。
 水は優子優先で使う。食料が乏しいので粉ミルクを飲ませているのだが、哺乳ビンを洗い、粉ミルクをつくる。さらに、別に、優子用の食事をつくる。優子の体を洗い、汚れたおしめや洋服を洗う。それらすべてをポリバケツ2杯の水でやらなくてはならなかった。 それだけではない。アルジェからインサーラまではバスを乗り継いできたが、ここから先が大変だ。アルジェリア最奥のオアシス、タマンラセットへ、さらには国境を越え、ニジェールのアガデスへと行く車探しは困難をきわめた。
 自分ひとりでふらっとヒッチハイクするようなわけにはいかない。脳天を焼きつくすような、強烈な直射日光を浴び、砂まじりの強風に吹かれながら、道端で通り過ぎる車を待つわけにはいかなかった。子連れの旅のハンデの大きさを歯ぎしりするような思いでかみしめるのだった。
 タマンラセットまで行くトラックが出るかもしれないという情報を耳にし、トラックの溜まり場にもなっているカフェの前の広場に夜明け前に行き、じっと辛抱づよく待った。だが、夜が明け、日が昇り、やがて砂漠をジリジリと焼きつくすほど日が高くなっても、それらしきトラックはやって来なかった。


サイード夫妻の車に乗って‥‥

 インサーラのカフェ兼レストランでは、何度となくコーヒーを飲み、朝、昼、夜と、1日3度の食事もここで食べた。主人のアブデルマンさんはトアレグ人。タマンラセットまで行けなくて困っているぼくたちに何かと同情的で、
「キミたちが乗せてもらえるような旅行者の車があったら、私から頼んであげるよ」
 といってくれた。が、あまりあてにしないで聞いていた。
 アブデルマンさんの好意でカフェの2階を借り、優子を昼寝させているときのことだ。「車がみつかった、車がみつかったよ!」
 と、彼が階段の下で叫んでいる。喜び勇んで階段をかけおりていく。
 その車というのは、フランス人旅行者のプジョー504のワゴン車。たいして荷物も積んでいないので、ぼくたち一家が乗せてもらえるスペースがあった。
 ボルドーからやってきたサイード夫妻の車で、奥さんはフランス人だが、サイードはアルジェリア系のフランス人。北部アルジェリアのジュルジュラ山麓の村で生まれた山地少数民族だ。5歳のときに両親とともにフランスに渡ったそうで、それ以来、ずっとフランスに住んでいる。フランス語のほかに、アラビア語と彼ら山地民のカビール語を話す。肌の浅黒い、がっちりした体つきのサイードだ。
 サイード夫妻とのサハラの旅がはじまった。猛烈な暑さがいくぶんしのぎやすくなった午後4時すぎに、インサーラを出発した。舗装路が250キロ先まで延びているので、
「今晩中に、そこまでは走るつもりだ」
 と、サイードはいっている。
 日が傾き、やがて地平線に沈む。砂でけむったような西空。鮮明な夕日を見られないままに、あたりはみるみるうちに暗くなっていく。
 夜のサハラを走る。しだいに舗装路に溜まった砂が多くなる。うまくハンドルを切らないと、砂溜まりに突っこんでスタックしてしまう。そしてとうとう、砂がすっぽりと舗装路を覆いつくしているところにきてしまった。その砂溜まりの区間は100メートルほどある。サイードは車のスピードをグーッと上げ、一気に砂溜まりに突っこんでいく。だが、その砂溜まりを抜けきれずに、途中でスタックしてしまった。いったん砂の中で止まってしまうと、もういくらアクセルペダルを踏みこんでも、タイヤはからまわりするだけでまったく前には進めない。
 サイードは信じられないのだが、サハラを縦断するのに、砂漠を走る用意は何もしていない。スコップもサンドマットも持っていなかった。そのため、前後輪のタイヤの前の砂を手でかきだし、エンジンをかけ、わずかに動いたところで、また手で砂をかきだす。そんなことを何度かくり返したが、2、3メートルも進めないうちにグッタリと疲れはて、砂の上に大の字になってひっくりかえるのだった。
 子供の優子だけがご機嫌だ。夢中になって砂遊びをしている。まだ歩けないので、砂の上をはいずりまわっている。サハラを自分の砂場にしている。その顔には不安のかけらすらなかった。
 はるか遠くに車のライトが見えてきた。
「あー、これで、助かる‥‥」
 と、ホッと胸をなでおろした。
 インサーラからタマンラセットに向かう車。だが、車のライトはなかなか近づいてこない。障害物がまったくないので、車のライトは、はるかかなたからでも見えるのだ。そのうちに、やっとという感じで、車のエンジン音がかすかに聞こえてきた。エンジン音がはっきりと聞こえてくるようになり、ガスボンベを満載にしたトラックがやってきた。サイードは懐中電灯を振ってトラックに止まってもらい、アラビア語で何か話している。
「引っ張ってもらえないだろうか」
 と、頼んでいるのだろう。
 トラックの運転手は、さすがにサハラに慣れている。なんなく大きな砂溜まりを走り抜けると、今度は、バックギアで戻ってくる。サイードの車との間に数メートルの間隔をおいて止まると、ロープを使って車を砂の中から引っ張りだす。トラックが動き出すのとともに、サイードの車もズルズルと動き出す。ついに、大きな砂溜まりを脱出することができたのだ。
 そのあとは、サイードの車がトラックの前を走る。また砂に埋まったときにはトラックに助けてもらえることになったが、幸いにもインサーラから250キロの地点、舗装路の途切れる地点までは、砂にスタックすることもなく走ることができた。
 その夜は、舗装路が途切れた地点で野営することになった。
 優子にとっては、生まれて初めての野宿だ。サハラにシートを広げ、その上にシュラフを敷く。トラックの助手が携帯用のガスコンロに火をつけたので、湯をわかしてもらい、粉ミルクをつくった。優子はそれを満足そうに飲み終えると、満天の星空を指さし、
「アッカイ、アッカイ」
 といって喜んでいるうちに眠ってしまった。サハラの野宿で、はたしておとなしく寝てくれるだろうか‥‥と、心配していたので、まずはひと安心だった。


サハラ最奥のオアシス

 翌朝は、優子の粉ミルクをつくらなくてはならないので、まだ暗いうちに起きた。ブルブル震えてしまうほどの寒さ。温度計を見ると、気温は18度あるのだが、なにしろ日中は40度をはるかに超え、1日の気温の差が30度近くにもなるので、18度とは思えないような肌寒さを感じてしまうのだ。
 糸のように細い月が、砂漠をうっすらと染めて地平線から昇る。懐中電灯の明かりを頼りに、灯油用コンロのラジウスの火をおこし、湯をわかし、粉ミルクをつくる。そのうちに、夜が明ける。砂漠の上にポコッとのったような形の岩山の向こうから朝日が昇る。こうして、サハラ最奥のオアシス、タマンラセットへの長く、苦しい1日がはじまった。
 野営地を出発し、日が高くなると、気温はグングンと上昇する。8時32度、9時35度、10時38度、11時には40度を超える。車内の暑さといったらなく、ショルダーバッグの金具など、熱くてさわれないほどだ。優子は顔をまっ赤にして、妻の洋子の腕の中で眠っている。目をさますと、
「ブー、ブー」
 といって水を欲しがり、水筒の水をガブ飲みする。気温の上昇とともに、子供の体温も上昇してしまうのではないかと心配したが、体をさわってみると、ひんやりしている。水をガブガブ飲んで、汗をどんどんかいているのがいいようだ。
 サイードの車は、何度も砂にスタックする。そのたびに一緒に走るトラックに助けてもらたが、あまりにも度重なるので、トラックはもうめんどうをみていられないとばかりに先に行ってしまった。それからというものは、砂に埋まるたびに炎天下で砂を掘り、死にものぐるいで車を押した。どうしても砂から脱出できないときは、なすすべもなく砂の上に座りこんでしまうのだが、幸運なことに、そのたびに通りがかりのトラックに助けてもらった。
 優子はこの厳しい自然環境のなかでも、すこぶる機嫌がよかった。眠りたいときには眠り、目をさませば、車の窓からサハラの風景を見て喜んでいる。車がスタックすれば、焼けつくような砂の上でも、ゴツゴツした石の上でも、平気な顔をしてはいずりまわっている。砂をかきまわしてはおもしろがり、小石をポンポン投げてはおもしろがている。世界最大の砂漠を自分の砂場にしている優子にとっては、暑さも乾きも、まったく苦にならないようだった。
 タマンラセットまであと200キロほどの地点で、2晩目の野営をした。
 サイード夫妻もぼくたちも、食料はほとんど持っていなかった。朝食と昼食は抜き、夕食はカチンカチンになったパンにジャムをつけて食べた。優子は粉ミルクだけ。2晩目の夜は、野宿に慣れたこともあるのだろう、シュラフを敷くと、待ってましたといわんばかりに喜び、優子は早々と寝た。
 インサーラを出発して3日目、一番心配していた子供の優子が、一番元気だ。満足なものはまったく食べられないというのに‥‥。粉ミルクだけで、ほんとうによくがんばっている。
 北回帰線を越え、ホガール山地に入っていく。高原だ、山地だといっても、まったく緑は見られない。
「地球でないみたい。空気があるのが不思議なくらい」
 という妻の洋子の言葉に、実感がこもっていた。
 夕方、インサーラから650キロのサハラ最奥のオアシス、タマンラセットに着いた。地中海のアルジェからは、2000キロの距離だ。人も車も荷物も、すべてが砂まみれ。この町で唯一のホテルに泊まる。まずは子供の優子の体を洗ってあげたかった。だが、インサーラと同じで、いくら蛇口をひねっても、まったく水は出てこない。配給されたポリタンの水を大事につかわなくてはならない。その水で優子の頭を洗うと、砂まじりの泥水が流れ落ちてくる。着ている服は砂と汗でゴワゴワになり、まるで雑巾のようだ。
 ホテルのレストランでは、サイード夫妻と夕食をともにした。冷たい水がうまい。スープの塩味がなんともいえない。クスクスとオムレツをむさぼるようにして食べたが、それは優子も同じで、スープの皿をいつまでも離さなかった。
 タマンラセットからも、ひきつづいて、サイード夫妻の車に乗せてもらった。アルジェリアから国境を越えてニジェールに入り、1000キロの道のりに5日かかり、アガデスに到着した。ぼくたちは子連れのサハラ縦断を無事に成しとげ、その名も「サハラ」というホテルに泊まり、サイード夫妻とともに祝杯をあげた。サイード夫妻は「ホテル・サハラ」に1泊すると、ニジェールの首都ニアメーに向かっていった。2人はそこで車を売り払い、フランスに帰るという。
 ぼくたちは、サハラ砂漠の南側の玄関口といっていいアガデスで家を借り、1ヵ月あまり滞在した。


衝撃の西アフリカ

 アガデスに滞在するようになってからというもの、日ごとに、妻の洋子の具合が悪くなっていった。胸がムカムカし、気持ちが悪くてしょうがないという。食欲もすっかりなくなり、1日中、何も食べないようなこともあった。
「おいしいラーメンを食べたい。あったかいご飯に塩辛とかタラコとか納豆で食べたい。お豆腐の味噌汁を飲みたい」
 という、そんな妻の言葉に胸がしめつけられるような思いだ。食べ物にすっかりまいってしまった洋子は、ホームシックにもかかっていた。長旅の、それも子連れの貧乏旅行の疲れが、すでに、体のすみずみにまで淀んでいた。
 アガデスを出発する直前になって、洋子は自分の体の具合が悪いのは、病気ではなく、妊娠したためだと判断した。それを聞かされたときは、あわてふためいた。子供ができるという喜びよりも、えらいところで妊娠したものだというとまどいのほうが大きかった。優子は母親の異常を敏感にかぎとっていた。わざとスネたり、オシッコをもらしたりしてことさらに母親の目を引こうとした。意識してなのか、無意識なのか、洋子のお腹をたたいたり、蹴とばそうとする。
 なんとも無謀な話だが、ぼくたちは、このままアフリカの旅をつづけることにした。アガデスからナイジェリアのラゴスへとさらに南下していくのだが、とにかく流産しないようにと、天にも祈るような気持ちだった。
 覚悟を決めてアガデスを出発。450キロ南のジンデールまでバスに乗る。2日がかりのバスの旅だが、これがすさまじい。トラックを改造したバスは70人近い超満員の乗客を乗せ、炎天下のガタガタ道を突っ走る。路面の穴ボコに落ちるたびに、バーン、バーンと車体は跳びはね、体も宙に浮く。まわりの乗客たちはキャッキャッいっているが、洋子は「赤チャンが落っこちる」と、悲愴な顔つきだ。すこしでもショックをやわらげようと、シュラフを荷物の中から引っぱりだし、木の座席の上に敷いた。
 優子はムーッとする車内の暑さも、ぎゅう詰めの混雑も、ちっとも気にならないという顔つきで窓の外を見ている。遊牧民のラクダを見つけると「パカパカ」がいると1人で喜んでいる。
 450キロの道のりをのり越え、無事にジンデールに着いたとき、洋子はうれしそうな顔をした。すぐさま、町の中央にある「ホテル・セントラル」に行ったが、アガデスの「ホテル・サハラ」とは、比べものにならないくらいに設備が整っていた。部屋に入ると、さっそくシャワーを浴びる。湯がふんだんに出る。3人ともすっかりきれいになったところで、ホテルのレストランで食事にする。洋子と乾杯!
「ラゴスまでがんばろう」
 と、はげましあった。
 おいしい食事だった。フランス風味つけのフルコース。デザートはアイスクリーム。
 優子はこんなにおいしいものがあったのか、といわんばかりの顔つきで、アイスクリームにかぶりついている。この「ホテル・セントラル」での滞在で元気を取り戻した。


「カノ→ラゴス」のすさまじい列車

 ジンデールからナイジェリアのカノまでの250キロは、乗合タクシーに乗った。
 カノからラゴスまでは30時間の列車の旅。これがきわめつけのすさまじさ。列車が進入してくると、大勢の乗客はホームを駆け降り、列車の来る方向に走っていく。一刻も早く、列車に飛び乗ろうとしているのだ。ぼくも洋子と優子をホームに残して走った。列車がガクッとスピードを落としたところで飛び乗り、必死の思いで、座席を2つ確保した。列車がホームに入ると大声で洋子を呼ぶ。すばやく荷物を窓から投げ入れてもらう。そのあと、優子も窓から投げ入れる。優子はまるで荷物のように手荒く扱われたので大泣きしているが、今はそれどころではない。
 座席を確保し、木製の荷物棚も確保したところで、洋子がやってきた。無事に席をとれたし、荷物も盗まれなかったし、すべてがうまくいったと、手をとって喜び合った。ひと息ついたときに、洋子に「財布は大丈夫?」と聞かれ、あわてて上着の内ポケットに手を入れてみると、見事に抜き取られていた。パスポートやトラベラーズチェックは無事だったのでひと安心。とはいっても、ナイジェリアの通貨ナイラを一銭も持たずにラゴスまで行かなくてはならなかった。
 午前10時、定刻通りに列車は動き出す。窓からほうりこまれ、座席を取り合う車内の騒然とした空気におびえ、大泣きしていた優子だったが、列車が動き出すと泣きやんだ。車窓を流れていく北部ナイジェリアのサバンナの風景を眺めているうちに、だんだんと機嫌がよくなっていった。
 身動きがとれないほど混雑している車内は、ムンムンする暑さだった。優子は汗をタラタラ流しながら、ブーといって、しきりに水を催促した。列車が駅に長く停まっているときは、窓から飛び降り、優子にオシッコさせたり、すばやくキャンピングガスで湯を沸かし、粉ミルクをつくった。最初はどうなることかと心配したが、なんとかラゴスまで行けそうだ。
 日が落ちると、窓から気持ちのよい風が入ってくるようになった。膝の上にパンやモロッコ製のサディーンのかんづめ、オーストラリア製のチーズのかんづめを並べ、夕食にする。優子はチーズが好物で、何枚も食べた。お腹がいっぱいになると、眠いという仕種をし、ぼくと洋子の膝の上にゴロンと横になる。横になるやいなや、もう、スヤスヤと眠りはじめた。優子は旅していくなかで、すっかり旅の毎日に順応できるようになっていた。何でも食べ、眠くなれば、どんなところでも眠ることができるようになっていた。
 夜明けに列車は西アフリカ最大の大河、ニジェール川(ナイジェリアだと発音はナイジャー川になる)を渡る。長い鉄橋。列車の鉄橋を渡る轟音で目がさめた。昇る朝日を見て驚いた。乾燥地帯の朝日とは違って、たっぷりと水分を含んだような、うるんだ朝日の色合いなのだ。雲も多い。朝日に照らされた原野は、緑が一段と濃くなっていた。
 列車が南下するにつれ、いつしか風景はサバンナから熱帯雨林に変わっていた。油ヤシの木々が空を突き、ゴムやカカオの農園も見られる。焼き畑で森林を伐り開いたキャッサバの畑も見られる。乾燥したアフリカから、湿潤なアフリカへと世界は大きく変わった。 列車は夕方にはラゴスに着くはずだったが、大幅に遅れ、ラゴス到着は午後10時。カノから36時間の、なんともきつい列車の旅。ホームに降り立つと、まずは、洋子とガッチリ握手をかわした。地中海のアルジェから5000キロの距離を乗り越えてアフリカ大陸を縦断し、ついにギニア湾のラゴスに着いたのだ!
 ラゴスからは、ほんとうは赤道アフリカを横断して東アフリカに出るつもりでいた。だが、日に日にお腹の大きくなっていく洋子をみると、それはとてもではないが、無理な話で、ラゴスから飛行機でケニアのナイロビに飛んだ。
 東アフリカは旅人にとっては快適なところで、西アフリカからやってくると、地獄から天国にやってきたような気分。もうひとつ、うれしいことは、優子がヨチヨチ歩きができるようになったことだ。
 最初の計画ではケニアのナイロビからインドのボンベイに渡り、カルカッタを旅の最終地点にするつもりでいた。そのためナイロビでの出産も一時は考えたが、どうしてもそこまでのふんぎりがつかず、ナイロビを旅の最終地点にし、1978年2月25日に日本に帰ってきた。旅立ったときは生後10ヵ月だった優子は、1歳8ヵ月になっていた。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

『世界を駆けるゾ! 40代編・上巻

第1章 サハラ往復縦断

40歳を目前にして急速の衰えた体力と気力

「世界を駆けるゾ!」を合言葉に、20歳のときに旅立った「アフリカ一周」以来、バイクで世界の6大陸をまわりつづけてきたぼくだったが、30代の後半になったころから急速の体力の衰えと気力の衰えを感じるようになった。
 それを象徴するかのような出来事があった。
『世界を駆けるゾ! 30代編』で詳しく書いた「南米一周」を終えた翌年の1986年1月のことで、ぼくはそのとき38歳だった。
『世界を駆けるゾ! 20代編』でふれた日本観光文化研究所(観文研)の先輩、山崎禅雄さん、三輪主彦さんと一緒に東北をまわろうと、ひと晩、福島県郡山市の駅近くの安ホテルに泊まった。ベッドには毛布しかなく、安宿だから仕方ないかと我慢し、寒さに震えながら寝た。山崎さん、三輪さんは賢い人たちなので夜中に着込み、それほどの寒さを感じることもなく夜明けを迎えたという。ところがぼくは着込むこともなく、寒さに震えながら夜明けを迎えた。そのせいで、朝起きるとのどは痛いし、せきはでるしで、すっかり風邪をひいてしまった。部屋をよく見ると、なんとエアコンがあるではないか‥‥。それに気がつかずに寝てしまったのだ。
 そのときは郡山でレンタカーを借り、ぼくが運転し、山崎さん、三輪さんの話を聞きながら旅をつづけた。何日かの東北の旅の間中、ぼくは「ゴホン、ゴホン」とやっていた。 その風邪がなかなか治らなかった。
 東北から帰ると、風邪が治らないまま、岡山の吉備高原、四国の金比羅、信州の秋山郷、四国の佐田岬、吉野川流域、紀伊半島と日本国内をバイクや列車でまわった。春になっても風邪は治らない。妻には「あなたって、いつも、風邪ひいているのね」と、バカにされる始末だ。その風邪をすっかりこじらせてしまい、とうとう熱が出た。体力だけには自信のあったぼくだが、我慢できずに、神奈川県伊勢原市の我が家に近い「坂間医院」に行った。病気で医者に行くなんて、その前がいつのことだったのか、思いつかないほどに久しいことだった。その風邪は結局、夏までつづき、自分の体の持つ復元力が衰えてしまったことを思い知らされた。
 ぼくは自分の体力にすっかり自信をなくし、9月1日の39歳の誕生日を迎えた。
 30代もいよいよ最後。目前に迫った40代に恐怖感すらおぼえるほどで、体力の衰えを感じるのと同時に、気力の衰えも感じてしまう。
「おい、どうした、カソリ!」
 と、自分で自分を叱咤激励したくなるほど。すっかり牙を抜かれ、やたらと丸みを帯び、ジジくさくなった自分に愕然とする。体中をドクドクと音をたてて流れていたはずの野性の血など、もう自分の体内には一滴も流れていないかのようだった。
 人間というのは体力が衰えると、気力が衰え、それがさらに体力の衰えを招くいった悪循環をくりかえすもの。その連鎖をどこかで断ち切らなくてはいけないとわかりつつも、「これから先、ほんとうにやっていけるのだろうか」
 と、目前に迫った40の厚い壁にうちのめされ、暗い気分になるのだった。
『世界を駆けるゾ! 30代編』でもふれたように、ぼくには3人の子供がいる。当時は3人とも小学生。まだ幼い3人の子供をかかえ、なおかつ自分の健康に自信が持てなくなるというのは、なんとも辛いことだった。
 ぼくの収入を得る仕事というのは、雑誌などに原稿を書くことで、いわゆるフリーのライターなのだが、これほど収入の不安定な仕事はない。自分の都合優先で、好きなことを自由気儘にできる反面、何ら保障がないので病気で寝込めば一銭の収入もなくなってしまう。そんななかで子供3人を育てていくのは、正直、重荷だった‥‥。自分の「世界を駆けるゾ!」という夢も、いつしかしぼみがちになってしまう。


40歳のサハラ挑戦!

 ぼくは「このままではいけない!」と思った。何度も自分で自分にそういい聞かせた。「ここで踏ん張らなくては‥‥」
 40の厚い壁に力でもってぶつかり、その壁をブチ破らないことには、もう自分の40代の“旅人生”はないに違いないと、“カソリの本能的直感”でわかっていた。
 そのターゲットをアフリカのサハラ砂漠に置いた。ぼくがそれまでの20年あまり、世界を駆けめぐってきたなかで、一番といっていいくらいに心をひきつけられたフィールドがサハラ砂漠なのだ。
「自分の持っている力のすべてを発揮し、厳しい環境の中に自分の身を浸し、サハラ砂漠に挑戦することによって40の壁を突破しよう!」
 そうすることによって40代も、20代や30代のころと同じように、「自由自在に世界を駆けめぐりたい!」と願ったのだ。20歳のときに「アフリカ一周」に旅立ち、22歳になって日本に帰ってきたときに決心した、「自分はこれからはトコトン世界を駆けるゾ!」と、自分で自分に誓ったあのときの情熱を思い起こしたのだった。
“行動こそ命!”のカソリ、さっそく計画づくりにとりかかる。毎日、アフリカの地図を目の前にし、あれこれ考えていると、衰えた気力も徐々に回復してくるようで、それにともなって体力も回復し、悪循環の連鎖が今度はいい方の循環に変わっていった。
 さて、サハラ計画だがフランスのパリを出発点にし、サハラ砂漠を往復で縦断し、最後はまたパリに戻ってくるという「サハラ往復縦断計画」をつくり上げた。5月あまりをかけてバイクでサハラ砂漠を縦横無尽に駆けめぐる計画だ。
 計画には1年以上の時間を費やし、40歳の誕生日が過ぎてまもない1987年11月18日、母と妻、小学校5年生の長女の優子、小学校3年生の次女の雅子、小学校2年生の尚の見送りを受け、成田空港からパリへと飛び立った。
 とはいっても、このあたりが家族持ちの辛さ、難しさになるのだが、「サハラ往復縦断」の計画達成の資金のみならず、自分が日本を留守にしている間の生活費も合わせてつくらなくてはならないのだ。そのような高いハードルを乗り越えての出発なだけに、妻や子供たちと別れる辛さ以上に、「これでサハラに向かって旅立てる!」といった喜びというか、ホッとした安堵の気持ちのようなもののほうが大きかった。


ジブラルタル海峡を渡る

 パリに到着すると、あらかじめ現地に送っておいた200㏄のオフロードバイク、スズキSX200Rを引き取り、意気揚々とした気分でまたがり、リアにバッグをくくりつけ、ザックを背負うという格好でパリを出発。1982年の「パリ・ダカ」のときと同じよいうに、シャンゼリゼ通りを走り抜け、凱旋門から環状線に入り、南下した
 フランスからスペインに入ると、首都マドリッドを通り、スペイン南端のアルヘシラスへ。フェリーでジブラルタル海峡を渡った。3時間ほどの航海で、モロッコのタンジールに到着。アフリカ大陸に愛車ともども立った!
 SXを走らせ、タンジールの町に入っていく。狭い路地が迷路のように入り組むメディナ(旧市街)のホテルに泊まる。
「アラーフ・アクバル(アラーは偉大なり)」
 すぐ近くのモスク(イスラム教寺院)のスピーカーからは、礼拝の声が聞こえてくる。 バイクをガレージであずかってもらい、荷物をホテルの部屋に入れると、さっそくメディナ内を歩きまわる。心が踊る。サハラの、アフリカの旅の第一歩だ。
 人波をかきわけ、かきわけしながら歩く。市場に行く。野菜や果物、肉、魚と食料品が山と積まれている。ウシやヤギ、ヒツジの頭が、羽をむしりとられたニワトリが、店先にぶらさがっている。いかにも地中海世界らしいオリーブの漬物がある。何種類もの香辛料、ミント(ハッカ)の青々した葉‥‥などの、むせかえるようなにおい、そして人いきれに圧倒されてしまう。
 食堂に入り、クスクスを食べた。クスクスは荒挽きした麦を蒸し、その上に羊肉や野菜の入った煮汁をかけたもの。ポピュラーなマグレブ料理だ。マグレブとは、アラビア語で“西”の意味。ふつうマグレブといえば、チュニジア、アルジェリア、モロッコの3国を指す。
 夜はタバコの煙とミントティーの香りが充満するカフェに入った。ミントティーとは緑茶にミントの青い葉を浮かべた甘ったるいお茶。中国製の緑茶が使われている。スペインからジブラルタル海峡を渡り、イスラム教圏のモロッコに入ったとたんにビールやワイン、ウイスキーといったアルコール類は姿を消した。カフェの一角では、マグレブの先住民族といわれる山地民のベルベル族の人たちが、楽器を奏でながら歌っている。哀愁を帯びた旋律が胸にしみた。


アトラス山脈を越えて

 モロッコからアルジェリアに入り、第2の都市オランを通り、首都アルジェへ。そこから南下し、サハラ砂漠に向かっていく。アルジェから50キロ南のブリダの町を過ぎると、アトラス山脈の山中に入っていく。マロニエの並木道。出発点のパリではすっかり落ち葉になっていたが、ここではまだ、黄色くなった葉をつけている。それだけ気候が違うのだ。
 V字谷の渓谷に沿って、急勾配の峠道を登っていく。あえぎあえぎ登る大型トラックを3台、4台とまとめて抜いていく。やがて標高1240メートルの峠に達した。アルジェリアのアトラス山脈は、地中海側のアトラス・テリアンと、サハラ砂漠側のアトラス・サハリアンの2本の山脈に分かれているが、今、そのうちのアトラス・テリアンの峠に立ったのだ。峠にバイクを停め、小休止。幾重にも重なりあった山並みを目に焼きつけ、峠を下っていった。
 2本の山脈の間はオートプラトーと呼ばれる比較的、平坦な高原地帯。そこを貫く舗装路を南下するにつれ、みるみるうちに緑は薄れ、ヤギやヒツジをひきつれた牧畜民の姿を見かけるようになる。やがて“ラクダに注意”とか“砂に注意”の標識があらわれてくる。
 前方に今度はアトラス・サハリアンのゆるやかな山並みが見えてきた。アトラス山脈の南側の山並みだ。空模様が急変し、空にはべったりと黒雲がはりついている。それは当然、北の地中海側から流れてくる雨雲だと、ぼくは信じて疑わなかった。ところが標高1271メートルのアトラス・サハリアンの峠を越えたとたんに雨が降りだす。なんと雨雲は北の地中海側からではなく、南のサハラ砂漠側からものすごい勢いで押し寄せてきていた。
 たたきつけるような雨になる。雨滴のヘルメットを打つ音がすごい。黒雲で覆いつくされた大空を稲妻が駆けめぐる。おまけに嵐のような強風だ。雨と風にもみくちゃにされながら走る。下りカーブでは強風にあおられ、まったくハンドルを切れず、峠道を登ってくるトラックとあやうく正面衝突するところだった。
 雨具を着る間もない豪雨に、ずぶ濡れになって走る。アトラス・サハリアンを越えるとサハラ砂漠になるが、サハラは一面、水びたしだった。ふだんは一滴の水も流れていないワジ(涸川)が急変し、赤茶けた濁流がゴーゴー渦を巻いている。信じられない光景を見た。まさに“サハラの洪水”だ。
 アルジェから420キロ南のアトラス・サハリアンの麓の町、ラグアットに着くと、町中が水びたしだった。「マルハバ」というホテルに泊まる。さっそく着ているもの全部を脱ぎ、部屋いっぱいにずぶ濡れになったウエアや荷物を広げて干した。なんとも手荒いサハラの歓迎だ。


サハラの大砂丘群

 翌朝はまるで何もなかったかのような晴天。空には一片の雲もない。ラグアットからさらに南へ、点々とあるサハラのオアシスに立ち寄っていく。“サハラ”はアラビア語の荒れはてた土地を意味する“サーラ”からきているが、行く手にはまさにその言葉どおりに風景が広がっている。風が強くなる。砂がアスファルトの上を流れていく。小石が「パシッ、パシッ」と不気味な音をたててヘルメットに当たる。
 アルジェから700キロ南のガルダイアに近づくと、突然、パックリと口をあけた大きな窪地が現れ、その中に吸い込まれるように下っていく。下りきったところがガルダイア。すり鉢の底のようなオアシスには、青々としたナツメヤシが茂っている。7つの丘には、モスクを中心に、びっしりと家々が建ち並んでいる。
 丘の上のホテルに宿をとると、さっそくジーンズとスニーカーという格好で町を歩く。町の中央にある青空市場には、色とりどりのカーペットが広げられている。市場で目についたのは、“サハラのバラ”だ。それはバラの花そっくりの石で、サハラの砂の中で石膏や方解石が結晶したものだという。なぜ、どうしてといいたくなるほどにバラの花に似ている。自然のなせる技には驚かされてしまう。
 ガルダイアにひと晩、泊まり、次のオアシスの町、エルゴレアに向かう。100キロほど南に走ると、金色に輝く砂丘群が見えてくる。サハラ砂漠でも最大級の砂丘群のグラン・エルグ・オクシデンタル(西方大砂丘群)の東端に来たのだ。
 サハラは世界最大の砂漠。東はエジプト、スーダンの紅海沿岸から西はモーリタニア、西サハラの大西洋岸まで、東西5000キロもの広さで広がっている。さらにサハラは紅海対岸のアラビア半島からイラン、アフガニスタン、パキスタン、中国西部のタクラマカン砂漠、モンゴルのゴビ砂漠と広大なアジアの砂漠地帯につながっている。
 日本語で“砂漠”というと、この西方大砂丘群のような砂丘を連想する。しかし実際には、砂丘の連なる砂の砂漠はそれほど広い面積を占めているわけではない。サハラでいうと、全体の10分の1ぐらいでしかない。それよりも草が地を這うようにはえ、背の低い木々が見られるような土の砂漠、一面に礫がばらまかれたような石、もしくは岩の砂漠の方がはるかに一般的だ。
 西方大砂丘群に入ると、風が強くなった。ザーザー音をたてて砂が流れていく。やがて砂嵐の様相になった。視界が悪くなる。砂のカーテンの向こうから、ライトをつけたトラックが急に現れたりすると、冷やっとする。
 それと、怖いのは砂溜まりである。アスファルトの上に10メートルから20メートル、大きいのになると40メートルから50メートル近くにわたって砂が溜まっている。砂といっても、すこしもやわらかくはない。高速で突っ込むと、まるで岩か何か、固いものにぶつかったような衝撃を受ける。車が砂溜まりに乗り上げ、横転するといった事故は、サハラでは珍しいものではない。
 アルジェから1000キロ南のエルゴレアでひと晩、泊まり、さらに南へ。前日とはうってかわって、ほぼ、無風状態。絶好のサハラ日和だ。サハラ縦断路の両側に砂丘群が見えてくる。朝日を浴びた砂丘は、この世のものとは思えないほどの美しさ。まるで磁石に吸い寄せられるかのように、舗装路を外れ、砂丘の下までバイクを走らせた。
 高さ200メートルほどの大砂丘に登ってみる。砂丘の斜面の幾何学模様の風紋に、自分のブーツの跡をひとつづつ残していく。砂丘の頂上付近は這いつくばるほどの急傾斜。ザラザラ砂を崩しながら、ついに頂上に立った。
 大砂丘の頂上周辺は、雪山の稜線を思わせる。カミソリの刃のようなリッジになっている。はるか下の方にSX200Rが見える。西方大砂丘群はうねうねと際限なくつづいている。その中にサハラ縦断路のアスファルトがひと筋の線になって延びている。とてつもなく大きな風景だ。あたりはシーンと静まりかえって音ひとつない。そんなサハラの空気を切り裂くように、
「サハラだー!」
 と、大声で叫んでやった。


サハラ縦断の最大の難関

 エルゴレアからティミムーン、アドラルと通り、アルジェから1500キロ南の最奥のオアシス、レガンに着いたとき、ぼくは極度に緊張していた。地中海岸からずっとつづいた舗装路がここで途切れるからだ。南のマリ国境に近いボルジュモクタールまでは650キロあるが、その間は“デザート・オブ・デザート(砂漠の中の砂漠)”といわれるほどのタネズロフ砂漠で、オアシスはもちろんのこと、一木一草もはえていない。まさにえんえんと死の世界がつづくのである。
 町の入口にある国営の石油会社のガソリンスタンドの片すみで、SX200Rの整備をさせてもらう。オイルを交換し、オイルフィルターも交換する。エアークリーナーのエレメントをきれいにし、スパークプラグも新しいものに交換する。最後に特製の35リッターのビッグタンクを満タンにした。
 この超ビッグタンクを満タンにしても、ぼくの不安は消え去らなかった。
「ほんとうに大丈夫だろうか‥‥」
 ヨーロッパでテストランした限りでは、十分に満足な結果が得られた。タンク内の35リッターのガソリンをすべて使いきることができたし、SX200Rは満タンのガソリンで1000キロをはるかに超える1250キロを走った。燃費はリッター当たり36キロと申し分なかった。
 しかし、これから先のタネズロフ砂漠では、燃費がどの程度、落ちるのものなのか、まったく予測できなかった。リッター当たり25キロ前後走れるのではないか‥‥というのがぼくの希望的予測だ。
 バイクの整備が終わると、次は食料の調達だ。店をまわりフランスパン4本、チーズ1箱、タマネギ1個、ニンジン1本、それとデーツ(ナツメヤシの実)を0・5キロ買う。これらが全食料だ。さらに水筒に2リッター、ポリタンに2リッターと、計4リッターの水を持った。この食料と水で、なんとしてもボルジュモクタールにたどり着かなくてはならない。このように、軽いバイクで、ギリギリまでおとした軽い装備で砂道を走りきるというのがぼくのサハラ縦断の作戦なのである。
 最後は警察での手続き。まず“プロテクション・シビル”でボルジュモクタールまでのサハラ縦断用の書類を書き込む。それにスタンプをもらい、“ポリス”に行く。
 ポリスではガソリンは何リッター持ったのか、食料は、水は‥‥と、聞かれる。ガソリンタンクの35リッターと1リイターの予備ガソリン、計36リッターのガソリンはパスしたが、水の4リッターはひっかかってしまった。
「4リッターは少なすぎる。書類には10リッターと書いておくから、いいね、そのつもりで」
 ということで、4リッターの水を暗黙のうちに了解してもらった。


やった! ボルジュモクタールだ!!

 1987年12月13日、午前7時、アルジェリア最奥のオアシス、レガンを出発。まさに決死の覚悟だ。
「生きてボルジュモクタールにたどり着けるのだろうか‥‥」
 といった黒雲のような不安が頭をかすめていく。
 レガンの警察の壁に貼られていたポスターが目に浮かんでくる。それはこのルートでのサハラ縦断中に行方不明になったフランス人グループの捜索用ポスター。警官は「毎年、何十人という旅行者がサハラで遭難し、命を落としているよ」といっていた。サハラで遭難すると、たいていの場合は遺体すら発見されないので、正確な遭難者の数はつかめないようだ。
 レガンの町を一歩出ると、前方には地平線のはてまでも、砂の海が広がっている。見渡す限りの砂。砂、砂‥‥。そんな砂の海のはるかかなたへと、頼りなさそうな轍が延びている。それがサハラ縦断路なのだ。
 ルートを見失わないように慎重に砂の中につづくピスト(轍道)をフォローしていく。 満タンにした35リッター・タンクがずっしりとした重さでハンドルに伝わってくる。バックミラーに映るレガンの町並みはあっというまに遠くなり、やがて見えなくなった。
 レガンを出てから100キロほどは砂が深かった。だが砂にスタックすることもなく、最悪の場合でも、ギアをローまで落とし、両足で砂を蹴りながら走り、ディープサンドを乗りきった。
 砂の深い区間は、それほど長くはつづかない。5、60メートルから100メートルくらいで、長くても500メートルといったところ。そのような砂の深い区間の手前では、ルートをよくみきわめ、バイクのアクセルを全開にし、高速のギアで突っ込んでいく。砂の上を高速でなめていくような走り方で、一気にディープサンドの区間をクリアーした。 日が高くなってからのサハラの暑さは強烈だ。地表のもの、すべてを焼きつくすような時間帯(午後1時から2時ぐらい)には、バイクを停める。バイクのつくりだすわずかな日陰に頭だけ突っ込んで横になる。極端に乾いたサハラでは、こうして頭だけでも直射日光を避けると、ずいぶん楽だ。その間に、2、30分ほど昼寝する。目覚めたときには、また新たな力がぼくの体内に蘇っている。
 タネズロフ・ルートでのサハラ縦断路には、ほぼ10キロおきに、ボルジュモクタールまでのキロ数を示す道標が立っている。ソーラーバッテリー(太陽電池)を組み込んだポールも立っている。このソーラーバッテリーのポールはサハラの灯台で、昼間は地平線上の絶好の目印になるし、夜間はホタルの灯のようにピカピカ点滅する。
 しかし、このメインルートが走りにくい。路面が掘れて砂が深かったり、地面の固いところだと、規則正しく波打つコルゲーションになっている。そのためすこしでも走りやすいところをと探していくと、次第にメインルートから離れてしまう。このあたりのサハラ縦断路は我々が連想する道とはまったくかけ離れたもの。どこでも走れるので、道幅が何メートルとか何十メートルといったものではなく、何百メートルとか何キロという世界なのだ。
 タネズロフ砂漠は、まっ平だ。行けども行けども、前方には地平線が広がっている。横を向いても、後を振り返っても地平線なのである。たえず360度の地平線に囲まれ、その中心に、いつも自分がいる。どこでも自由自在に走れるので、気がつくと道標がとんでもない方角に見え、あわてて進路を変えてメインルートに戻ることが何度かあった。
 夕日が西の地平線に近づいたころ、バイクを停める。そのわきにシートを広げると、一夜のサハラの宿ができあがる。そこにシュラフを敷く。ブーツを脱ぎ、シュラフの上に座る。地平線上に落ちていく夕日を眺めながらの夕食だ。パンにチーズをはさんでかじり、生のタマネギとニンジンをサラダがわりにする。デザートにデーツを3、4個、食べる。日本の干し柿に似たデーツの甘味が、砂道の走行で疲れた体をいやしてくれる。そんな夕食を食べおわったあとで、のどを湿らす程度に水を飲む。
 日が沈み、暗くなると、急速に気温が下がってくる。テントなしの野宿なので、あるもの全部を着込んでシュラフにもぐり込む。
 すごい星空だ。ザラザラ音をたてて降ってきそうだ。びっしりと星で埋めつくされた天ノ川は、まるでほんものの水が流れているよう。地平線の上にまで星がのっている。手を伸ばせば、その地平線上の星に手が届きそう。そんな星空をスーッと尾を引いて何個もの流れ星が流れていく。大きな流れ星が夜空をよぎると、まるで照明弾でも打ち上げたかのように、サハラはパーッと明るく照らしだされた。
 一日の走行の疲れもあって、星空を見上げているうちに眠りに落ちる。しかし、辛いのはそのあとだ。寒さのために、何度も目がさめてしまう。地面からジンジン伝わってくる冷気で、体の地面に接する部分は氷のように冷たくなっている。そこで寝返りを打って姿勢を変え、また眠る。手足がとくに冷たくなるので、手にはグローブ、足には厚手のソックスという格好で寝るのだが、そのような涙ぐましい努力をしても夜間のサハラの寒さにはかなわない‥‥。
 真夜中に目をさましたときの恐怖感も耐えがたいものだ。まったく、よその世界と隔絶されたかのような静けさ。あたりはシーンと静まりかえり、もの音ひとつしない。あまりの静けさに、いいようのない恐怖感を感じ、「ウォー!」と、大声を張り上げる。
 自分の声の音を聞き、すこし安心してからまた眠るのである。
 翌朝は夜明けと同時に出発。ボルジュモクタールを目指し、サハラ縦断路をただひたすらに南下していく。乾燥の極にあるサハラでは、皮膚は水分を失ってカサカサになる。口びるは割れ、血がにじみ出る。手の甲にはヒビが切れ、グローブとすれるたびに悲鳴をあげる。手の指の関節にはアカギレが切れ、パックリと口をあけている。そんな痛みに耐えながらバイクを走らせるのだ。
 レガンを出てから3日目、ついにボルジュモクタールに到着した。町の手前、40キロほどの地点に、人の背丈ほどの木がポツンと1本、はえていた。それが「レガン→ボルジュモクタール」間の唯一の緑。タネズロフ砂漠はまさに一木一草もない世界だった。
 ボルジュモクタールに着いたときのうれしさといったらなく、それこそ大声で「万歳」を叫んでまわりたいほどだった。さっそく食堂に飛び込み、まずは水がめの冷たい水をゴクゴクのどをならして飲んだ。そのあとでパンと豆汁の食事。豆汁の塩けがなんともいえずにうまかった。
 そのあとでガソリンスタンドに行き、給油する。SX200Rの35リッター・超ビッグタンクには28リッター入った。まだ7リッター残っている。燃費もリッター22キロと、まずまずの結果だ。ぼくの方はといえば、4リッター持った水のうち、2リッターの水筒の半分を飲んだだけだった。


日仏サハラ縦断隊

 ボルジュモクタールではプジョーでサハラ砂漠を縦断中の2人のフランス人に会った。1人はピエール、もう1人はミッシェル。彼らはサハラ縦断のプロなのだ。
 というのは、フランス国内でプジョーの中古車を買い、スペアタイアと食料、水といった程度の軽装備でサハラ砂漠を縦断し、マリやニジェールなど、西アフリカの国々でそれを売っているからだ。西アフリカの国々はどこも外貨事情が悪い。そのため新車の輸入は制限され、また高額の関税がかけられているので、彼らのような商売が成り立つのだ。
 自称“プロ中のプロ”のミッシェルは、今回が44回目のサハラ縦断。プロに転向してまもないピエールにしても、今回が11回目のサハラ縦断だ。コンピューター会社のプログラマーだったというピエールは、仕事に嫌気がさし、会社を辞めた。そのあと奥さんとも離婚し、サハラ縦断のプロに転向したという。
「世界中どこを探しても、こんなにエキサイティングな仕事はない。ロマンとアバンチュールに満ちあふれたこの仕事は、一度やったら、もうやめられないね」
 2人は口をそろえていう。
 奇しくも、3人とも1947年生まれ。
「花の47年組だ!」
 ぼくたちはすっかり意気投合し、ボルジュモクタールからマリのガオまでの670キロを一緒に走ることにした。
 でっぷり肥ったミッシェルはまったく英語を話せないが、小柄なピエールは英語が上手だ。そこでミッシェルはそのまま“ミッシェル”と呼び、ピエールは英語の“ピーター”で呼ぶことにした。ぼくはといえば、“タカシ”はきわめていいにくいので、いつも使っている“ターキー”にする。
 ぼくのフランス語はほんのカタコト語なので、ピーターとは英語で話し、ミッシェルとはカタコトのフランス語+ジェスチャーかもしくはピーターに通訳してもらって話した。こうしてターキー、ピーター、ミッシェルの即席の“日仏サハラ縦断隊”が誕生した。
 ボルジュモクタールの町はずれの国境事務所で出国手続きをし、“日仏サハラ縦断隊”の出発だ。ホーンを2度、3度と鳴らし、一望千里の砂の海の中に入っていく。
 ミッシェルのプジョー504は程度がよかった。ところがピーターのプジョー204は1967年製。よくこの車でサハラを越えようという気になったものだ。ピーターにいわせると、この20年前の車でも、けっこうな値段で売れるのだという。
 それはともかく、2人の砂道でのドライビングのテクニックには驚かされる。2人とも砂にスタックしたときに使う鉄製のサンドマットを持っていない。というより2人には、サンドマットは必要なかった。ディープサンドでのルートの選択がきわめて的確で、その手前で100キロ以上の速度に上げると、あとは飛ぶようにして砂の海を一気に突っ切ってしまう。見事なものだ。
「もし、パリ・ダカに出たら、上位入賞は間違いないよ」
 と豪語している2人だけのことはあった。
 国境を越えてマリに入り、日が落ちたところで野宿する。2台のプジョーとSXを停め、ランタンを灯す。キャンピングガスで料理する。とはいっても、ぼくは自炊道具の類は一切持っていないので、ミッシェル、ピーターの2人に全面的にご馳走になる。
 フライパンで目玉焼きをつくり、スープをつくり、かんづめのソーセージ入り“カスリ”をゆで、パンにフランス産のハムをはさむ。
 食事の用意ができたところで、ワインの栓を抜く。なんとそのワインは“ボージョレー・ヌーボー”だ。フランス・ブルゴーニュ地方のボージョレー地区産ワインの新酒がボージョレー・ヌーボーで、毎年11月の第3木曜日が解禁日と決まっている。ミッシェルはサハラで飲むために、ボージョレー・ヌーボーを買い込み、ここまで持ってきたのだ。
「チンチン!」
 ボージョレー・ヌーボーで乾杯。新酒特有のすこし角のあるような、それでいて軽い、さわやかな味覚が口の中いっぱいに広がる。
“カスリ”はフランス人の好きな煮豆料理。ピーターは「カソリが“カスリ”を食べた」といって、声をたてて笑う。
 サハラの星空のもとでの食事はなんとも優雅なものだった。食後のデザートは、フランス産の何種ものチーズ。そのあとでコーヒーを飲みながら話す。やり玉にあがったのは、未だに独身のミッシェルだ。彼がフランス人やアフリカ人のガールフレンドの写真を見せびらかすと、ピーターはすかさず冷やかした。
「ミッシェルはママと一緒に住んでいるんだ。ガールフレンドよりも、ママの方がズーッといいんだってサ」
 翌日、ボルジュモクタールから160キロ南、マリ側の国境の町、テッサリットに到着。すると、アラブ人からアフリカ人へと変わる。国境の役人たちは、すべてがアフリカ人。肌の黒さと歯の白さ、陽気な笑顔が印象的だ。同じアフリカ大陸でも、アラブの世界からアフリカの世界に変わったのだ。
 入国手続きがすむと、町の食堂に行く。すると電気冷蔵庫があるではないか。日干しレンガに草屋根の家と電気冷蔵庫のアンバランスな取り合わせがおもしろかった。冷蔵庫の中には冷えたコーラやジュース、ビールがあった。無事にマリに入国できたお祝いに、3人でビールで乾杯した。
 テッサリットから南下するにつれて草木の緑がどんどん増えていった。ラクダやヤギ、ヒツジの群れをひきつれたトアレグ族を見るようになる。無人の砂漠から牧畜民の世界に変わったのだ。
 あと100キロほどでガオというあたりでは感無量だった。『世界を駆けるゾ! 30代編』でもふれたことだが、1982年の第4回「パリ・ダカール・ラリー」で事故を起こし、大怪我をしたところだ。こうしてまた元気で、同じ場所に戻ってこられたことを感謝するのだった。
 ボルジュモクタールを出てから3日目、ミッシェル、ピーターと抜きつ抜かれつしながら、ニジェール川の河畔の町、ガオに着いた。サハラ砂漠の玄関口の町。地中海のアルジェからちょうど3000キロだった。


ミッシェル&ピーターとの別れ

 往路でのサハラ縦断をなしとげてたどり着いたガオでは、ミッシェル、ピーターと一緒に、町はずれの“バングー”というキャンプ場で泊まることにした。日はまだ高い。碁盤の目状の通りの両側に土色をした日干しレンガの家々が建ち並ぶガオの町まで歩いていき、食堂に入る。
「サハラ縦断の成功、おめでとう!」
 と、まずはミッシェル、ピーターと一緒に冷たいビールで乾杯だ。そのあとで昼食。サラダとフライドポテトを添えたぶ厚いビフテキを群がるハエをはらいのけながら食べた。 キャンプ場に戻り、シャワーを浴びる。なんという気持ちのよさ。頭を洗い、体を洗うと、ジャリジャリ音をたてて砂まじりの赤茶けた水が流れおちてくる。何日ぶりかで歯を磨き、ひげをそりながら水のありがたさをかみしめる。カサカサに乾ききった肌に水気がよみがえり、ほんとうに生き返るようだ。
 日が暮れてから、ミッシェル、ピーターと一緒に今度は夕食を食べに町に出る。サハラ縦断中はいつも腹をすかせていたので、その反動でサラダ、チキン、クスクスと夕食も腹いっぱい食べた。
 満腹になったところで、夜のガオの町を探検する。ディスコに入る。ビールが1本ついて500CFAフラン(約500円)。強烈なリズムに身をまかせ、ぼくとピーターは踊りまくった。ミッシェルは若い女の子たちをはべらせ、ニヤニヤしながら見ているだけ。まわりにはアフリカ人の黒い顔、顔、顔。男も女も、汗を光らせながら踊っている。アフリカ人のリズム感のよさには惚れ惚れしてしまう。
 ディスコで踊りまくり、クタクタになった体をひきずってキャンプ場に戻ったのは、夜中の12時すぎだった。部屋のコンクリートの床の上にゴザを広げ、その上にシュラフを敷いて寝る。裸電球ひとつが灯る部屋の中はムッとする暑さ。おまけに横になるやいなや蚊の猛攻を受けた。
「プーン、プーン」
 耳もとで聞こえる無数の蚊の音で寝られたものではない。たまらずに屋根の上に登り、そこにシュラフを敷く。砂漠の野宿と同じように、星空を見上げながら眠るのだった。
 翌朝、ミッシェルとピーターはガオを出発。町はずれの、ニジェールのニアメーに通じる道と、空港への道との分岐まで2人と一緒に行き、そこで2人を見送った。
「ターキー、また、地球上のどこかで会おう。うんと儲けたら、トーキョーに行くかもしれないよ」
 そういい残すと、ミッシェルとピーターはクラクションを鳴らし、土煙を巻き上げながら走り去っていった。2人はうまくビジネスが成立すれば、ガオで車を売るつもりにしていた。しかし、ミッシェルにいわせると、
「イシ・ラルジョン・アンプ(ここには、お金がない)」
 ということで、より車を売りやすいニジェールの首都ニアメーに向かっていったのだ。
  サバンナの村
 ぼくもガオを出発。西に1300キロ走ってマリの首都バマコへ。そこから南下し、ギニア湾を目指した。
 バマコから100キロほど南のザンブグーという村でひと晩、泊めてもらったが、なんとも居心地のいい村で、そのまま1週間ほど滞在させてもらい、1988年の新年をこの村で迎えた。
 ザンブグーはサバンナの村。サバンナ地帯とは、1年が雨期と乾期にはっきりと分かれている気候帯。ぼくが訪れた12月から1月にかけては乾期の最中で、1滴の雨も降らない。この村での主食は“サンヨー”と呼ぶ棒状の穂をした雑穀。トウジンビエのことである。雑穀の収穫を終えてまもない時期なので、どの家の穀物倉にも、雑穀の穂がぎっしりと詰まっている。
 雑穀の脱穀は男たちの仕事だ。きれいに掃き清められた地面雑穀の穂を広げ、1日かけて天日で干す。その脱穀場というのは、幼稚園の運動場ぐらいの広さ。夜は男たちがウシなどに食い荒らされないように、寝ずの番をする。
 翌日、男たちは細い、枝つきの木を切り、枝の方を手に持って雑穀をたたき、穂から穀粒を落とす。一見すると何気ない作業のように見えるが、ぼくがやらせてもらうと、木の棒は「パン、パン」と軽い、乾いた音とともに跳ね上がり、うまく脱穀できない。ところが彼らが打つと「ズシン、ズシン」という重い音とともに、木の棒は敷きつめられた雑穀の穂の中に沈み込んでいく。
 脱穀が終わると、女たちはそれを集め、ヒョウタンの器に入れ、目の高さぐらいの位置から落とす。風の力で殻やゴミなどは飛び散り、重い雑穀の粒だけが真下に落ちる。
 このあと雑穀は穀物倉にいれられるが、そのほかに、トウモロコシや豆類を入れる倉もある。家のまわりにいくつもの穀物倉のある風景が、アフリカのサバンナの村を象徴していた。
 西アフリカのサバンナ地帯での雑穀栽培は、雨期のはじまる前の5月に種をまき、発芽すると、5月下旬から9月上旬にかけての雨期の間に成長する。乾期に入ると穂を出し、10月下旬から11月にかけて収穫する。このように収穫は1年に1度で、今年とれた雑穀を来年の収穫期まで、なんとしても食いつながなくてはならない。女たちは1日にどのくらいの量を食べたらいいのかという計算をきちんとできるので、穀物倉の鍵は女が持つものと決まっている。もし男がそれをやると、計算がルーズになるので、来年の収穫期前までに雑穀を食いつくしてしまうという。
 さて、その雑穀の食べ方だが、木の臼に粒を入れ、握りの部分がくびれている竪杵で搗き、雑穀の粒を覆う固い皮を落とし、精白する。そのときに出る糠は、ヒツジやヤギの餌になる。精白した粒をもう一度、木の臼で搗く。搗き砕いて荒い粉にし、それをフルイでふるい、さらに搗いてきめの細かい粉にする。
 臼を搗くのは女の仕事になっている。
「トントントン‥‥」
 女たちが汗を流しながら臼を搗いている光景もサバンナの村を象徴するもの。このように雑穀というのは、食べられるようにするまでが大変だ。
 こうして製粉を終えると、鍋で湯をわかす。沸騰してくると粉を入れる。ヘラでかきまぜ、練り固め、トーと呼ぶ餅ができあがる。
 夕食には洗面器型のホウロウの器に餅を盛り、別の器にナンと呼ぶ汁を入れ、それをみんなで囲んで食べる。食べ方は手づかみだ。餅をつまみ、手の中で丸め、団子にする。それを親指で押してへこみをつくり、汁をすくうようにして食べる。
 汁にはすりつぶしてドロドロになった南京豆やシーラという木の葉を粉にしたもの、家まわりにはえている野草などが入っている。乾燥させたオクラを石臼ですった粉も入っているので、トロリとしたとろみがある。それに塩とシートゥルーという木の実からつくった油をいれて味つけしている。辛味をつけるために唐辛子を入れることもある。
 サハラ砂漠の南側のこの地方はイスラム教圏。その影響で、男は男たちだけで、女は女たちだけで食べる。彼らの食べ方で感心させられたのは、大人たちは腹8分目ぐらいのところで「ネファラ(もう、お腹がいっぱいだ)、バルカライ(ごちそうさま)」といって食事の席を立つことだ。残った餅と汁は、まだ10代の育ちざかりの若者たちが食べる。
 日本でも“同じ釜の飯を食う”という言葉のたとえがあるように、アフリカ人と同じようにして同じものを食べていると、言葉の不自由さをおぎなってあまりあるほどに心を通い合わせることができるのだった。
 ザンブグー村を出発する日は、みんなで砂や泥にまみれたSX200Rを井戸の水できれいに洗ってくれた。ずっとぼくを泊めてくれたセマケ家のお母さんのジャラや息子のプロスペール、コニンバと何度も握手をかわし、集まってきた大勢の村人たちにも別れを告げ、きれいになったバイクにまたがり走り出す。村人たちは村の入口にある大きなマンゴーの木の下で手を振って見送ってくれた。


ギニア湾の海だ!

 ザンブグー村から60キロほどでブグニの町。そこから南のコートジボアールに通じるダートに入っていく。交通量はほとんどない。ときたま自転車や荷車が通る程度。路面のあちこちに大穴があいている。丘陵地帯に入ると、岩盤の露出したガタガタ道になる。
 ブグニから150キロで国境の村に到着。マリ側の出国手続きはいたって簡単。パスポートとカルネに出国印をもらい、そして国境を越える。ニジェール川の支流にかかる長さ50メートルほどの橋が国境だ。
 コートジボアール側に入ると、路面の状態がいっぺんによくなる。ダートであることには変わりなかったが、よく整備されていて石ころも穴ぼこもない。コートジボアール側の入国手続きも簡単に済み、国境から100キロ南のオージェネの町へ。そこを過ぎると、舗装路になった。
 ギニア湾を目指して南下するにつれて風景はサバンナから熱帯雨林へと鮮やかに変わる。熱帯雨林から伐り出された巨木を積んだシャシだけのトレーラーと、ひんぱんにすれ違う。熱帯雨林を伐りはらって焼いた焼畑をあちこちで見る。そこではキャサバやタロイモ、ヤムイモ、バナナ、プランタイン、パパイア、パイナップル、オクラ、唐辛子、コーヒー、カカオなど、様々な熱帯の作物がつくられていた。
 通りすぎていく熱帯雨林の村々をみて気のつくのは、サバンナの村とは違い、どこにも穀物倉がないことだ。一年中、高温で、なおかつ雨期、乾期の別なく1年を通して雨の降る熱帯雨林地帯では、雑穀などの穀物をつくっていないからである。
 熱帯雨林の村人たちにの主食はキャッサバやヤムイモ、タロイモのイモ類と、プランタイン(料理用バナナ)だが、これらのイモ類とプランタインにはこれといった収穫期がない。畑に行けばいつでも収穫できる。熱帯雨林は畑が食料庫になっている世界なのだ。
 それらイモ類とプランタインの食べ方はといえば、包丁でその皮を削りとり、鍋でゆで、それを木の臼で搗いて餅にする。その餅を汁につけて食べる食べ方は、サバンナの村での雑穀の食べ方とまったく変わりがない。これがアフリカの文化なのだ。ひとつ違うのは、このあたりだとあまりイスラム教の影響を受けないので、男と女が一緒に食べていることである。
 1988年1月8日、地中海のアルジェから5176キロ走り、ギニア湾のサンペドロに着いた。港近くの砂浜に行き、バイクを停める。
「SXよ、これがギニア湾の海だ!」
 サハラ縦断中の苦しいときは、いつもきまってギニア湾の浜辺に立つ日を思い浮かべ、難関を乗り越えてきた。その夢が今、現実のものとなった。ブーツを脱ぎ、ソックスを脱ぎ、波打ちぎわに走っていく。寄せる波を手ですくい、顔を洗う。
「ギニア湾の海だ!!」

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

最近の記事
月別アーカイブ
小さな天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2カウンター
QRコード
QRコード