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世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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Author: 賀曽利隆
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Category: 東アジア走破行

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東アジア走破行(1)
 ぼくが初めて海外に飛び出していったのは1968年4月のことで、20歳の旅立ちだった。250㏄バイクのスズキTC250を走らせ、2年あまりをかけてアフリカ大陸を一周した。22歳になって日本に帰ってきたときは、「自分の生きかたはこれしかない!」と強烈に思い込み、「これからはトコトン世界を駆けまわるゾ!」と心の中でそう叫ぶのだった。22歳のときの決心どおりとでもいおうか、それ以降、世界の6大陸をバイクで走り続けている。

 ところでぼくは今までに世界の130ヵ国を旅してきたが、バイクでまわるのが一番難しいのは日本の近隣諸国の東アジアである。日本からフェリーは出ているが、これらフェリーにバイクを乗せるのはそう簡単なことではない。日本から大勢の観光客がこれらの国々に押しかけているが、バイクでまわるとなると、まったく事情は異なってくる。

 ぼくは20代のころはアフリカを中心に世界をまわったが、日本の近隣諸国はいつでもまわれるという頭があったので、東アジアはあとまわしになった。東アジアがあとまわしになったもうひとつの理由というのが、これらの地域にはバイクだときわめて行きにくいという事情があったからだ。

「よーし、今だ!」
 と、その気になったのは2000年になってからのこと。今が東アジアをまわるときだと決心した瞬間、自分の血の流れに熱いものを感じた。初めて海外に飛び出し、アフリカをまわってから30年以上が経っていた。

 2000年8月、「サハリン縦断」を目指し、バイクで東京を出発した。
 津軽海峡を渡って北海道へ。日本本土最北端の宗谷岬に立ち、宗谷海峡の水平線上に霞むサハリンを見たときは、思わず「待ってろよ!」と声が出た。稚内港でサハリンのコルサコフ港行きのフェリーに乗り込んだ。フェリーが稚内港を離れていくときは感動で胸が高ぶった。この「サハリン縦断」が一連の「東アジア走破行」の皮切りになった。

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: 東アジア走破行

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東アジア走破行(2):サハリン縦断(2000年)
コルサコフ港に到着!
 2000年8月9日、「サハリン軍団」の総勢19名のメンバーとバイクをのせた東日本海フェリーの「アインス宗谷」(2628トン)は午前10時、稚内港を出港した。甲板に全員が集まり、100円の缶ビール(稚内港を離れると自販機の缶ビールは100円になる)で乾杯!

 缶ビールを飲みながら、離れていく北海道を眺めた。天気は快晴。稚内港からノシャップ岬、日本海へと続く海岸線がよく見える。礼文島、利尻島もよく見える。目の向きを変えると、今度は日本本土最北端の宗谷岬からオホーツク海へと続く海岸線を一望だ。

「サハリン軍団」というのは、東京の旅行会社(株)「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの「サハリン縦断ツーリング」に参加した19人のメンバーのことで、日本各地から稚内にやってきた。「カソリと走ろう!」シリーズというのは1993年の「エアーズロック(オーストラリア)」が最初で、「タクラマカン砂漠」、「モンゴル」、「チベット」と続き、「サハリン」が第5弾目ということになる。「サハリン縦断」には「道祖神」の菊地優さんが同行した。

「アインス宗谷」は宗谷海峡を北へ。やがて前方にはサハリン最南端のクリリオン岬が見えてくる。次第にはっきりと見えるようになる。「アインス宗谷」はアニワ湾に入り、サハリンの島影を左手に見ながら北上する。そして17時30分、サハリン南部のコルサコフ港に到着した。日本とは2時間の時差があるので、日本時間でいえば15時30分。稚内港から5時間30分の船旅だった。

 コルサコフは旧大泊(おおどまり)。日本時代には稚内から大泊へ、稚泊航路の連絡船が出ていた。まさに日本の北への動脈であり、大泊は樺太の玄関口だった。コルサコフ港の重要性は今でも変わらない。

 コルサコフでの入国手続きは現地の旅行会社「ユーラシアインタートランス社」が事前に手配してくれていたので、すごく簡単にすんだ。バイクの持ち込みはうまくいくだろうか…と心配していたが、それは杞憂でしかなかった。

 1999年に全行程4万キロの「日本一周」を走った愛車のスズキ・ジェベル250GPSバージョンともどもコルサコフ港に上陸。このバイクにはGPSがついている。しかしスクランブルがかかっているのだろうか、サハリンではGPSが使えなかった。

 コルサコフ港に上陸して驚いたのはサハリン警察のパトカーが我々を待ってけれていたこと。ユジノサハリンスクまでの40キロは赤青灯を点滅させたパトカーの先導つき。前に2台、後ろに1台とまるでVIP待遇でユジノサハリンスクに向かった。この道はサハリンでは一番の幹線になっている。それだけに交通量もけっこうあるが、パトカーはそれらの車をすべて止めて我々のバイクを走らせた。ユジノサハリンスクの町に入ると、赤信号でも交差する道の車を止めて「サハリン軍団」のバイクを走らせた。ほんとうにVIP待遇だった。

ユジノサハリンスクを歩く
 サハリンの州都、ユジノサハリンスクでは駅前の「ユーラシアホテル」に泊まり、「レストランユーラシア」で夕食を食べた。コケモモのジュースやロシア製ビールの「バルチカ」を飲んだ。ツブ貝などの前菜のあとのメインディッシュは豚肉料理。サハリンでの肉の重要度は豚が一番で、そのあと鶏、牛の順だという。

 夕食後は夜のユジノサハリンスクの町を歩いた。ここは旧豊原(とよはら)。日本時代には樺太庁が置かれた。ユジノサハリンスクは街路樹の涼しげな町で、札幌や旭川…の北海道の町と同じように、碁盤の目状に道路が交差している。湿気の多い、むせかえるような暑さの東京とは違い、空気がさらっとしていてべとつきがない。

「なつかしい!」
 サハリンには1991年に初めてやって来た。稚内港からバイクともどもロシア船に乗ってホルムスク港に渡り、そこからホルムスク峠(旧熊笹峠)を越えてユジノサハリンスクまでやってきた。そしてここを拠点にしてサハリンの南部をまわったのだ。

 そのときはまずユジノサハリンスクを一望するボルシビック山の展望台に登り、町を見下ろした。すぐ後ろには70メートル級、90メートル級のジャンプ台。真下に見える幅広い通りはプロスペクト・ポベーダ。プロスペクトはアベニューで、ポベーダはビクトリー。ボルシビック山を下ると、プロスペクト・ポベーダの起点になるポベーダ広場に行った。そこには戦勝記念碑。実物のT34型戦車をのせたモニュメントが建っていた。
 そんな10年前のユジノサハリンスクの姿が鮮やかに蘇ってくるのだった。

ユジノサハリンスクから北へ
 8月10日午前9時、ユジノサハリンスクを出発。ここから先もパトカーの先導。郡単位で警察の管轄が変わるので、郡境で次の警察のパトカーが待っているというリレー方式だ。ユジノサハリンスクの交通警察の警官、ジマさんと運転手のボローニャさん、ガイドのワリリさんが全行程を同行してくれることになった。

 ユジノサハリンスクの市街地を抜け出ると、広々とした平原。その中にジャガイモ畑、ビート畑、牧場…を見る。北海道に似た風景。ぼくが先頭を走り、そのあとを「サハリン軍団」の18台のバイクが続く。バックミラーをのぞき込むと、1列になったバイクが長い線を描いている。

 オホーツク海に出た。海岸近くは広々とした湿原。釧路湿原に似ている。その中を流れる幅100メートルほどの川を渡ったが、残念ながら橋の上からは何も見えなかった。前回、来たときは今回と同じ季節だったが、その橋の上からの眺めはすごいものだった。オホーツク海から登ってくるカラフトマスが群れをなし、川面が盛り上がり、あちこちで飛び跳ねていた。もう「すごい!」の一言で、サハリンの自然の豊かさを見せつけられたような思いがした。カラフトマスのすぐあとにはサケが登ってくるという。だが、残念ながら今回はこのような光景は見られなかった。カラフトマスが来なくなってしまったのか、それとも時期がずれたのか…。

 オホーツク海の砂浜で昼食。若干、酸味のある黒パンにチーズ、ハム、チキン。北海道へと続くオホーツクの海を見ながらの食事なので、よけいにおいしく感じられた。
 ユジノサハリンスクから100キロほど北に行くと、舗装は途切れ、ダートに入っていく。先導のパトカーの巻き上げる土けむりがものすごい。あっというまにぼくもバイクも埃まみれになった。

 途中で給油。街道沿いにはガソリンスタンドがあり、オクタン価93のガソリンを問題なく入れられた。というのは1991年に来たときは、極端なモノ不足で、ガソリンを手に入れるのは大変なことだった。ガソリンスタンドにもガソリンはなく、高額な闇ガソリンを買ったこともあった。それだけに10年間のサハリンの変化を見る思いがした。

 ユジノサハリンスクから300キロ北に行ったポロナイスク川の河口の町、ポロナイスクに到着。ここは旧敷香(シスカ)。日本時代の王子製紙の工場が今でもそのままの姿で残っていた。敷香は王子製紙とともに大きくなった町だが、そのほか旧真岡(ホルムスク)や旧泊居(トマリ)、旧恵須取(ウグレゴルスク)にも王子製紙の工場はあった。日本語に堪能なワリリさんの話によると、ポロナイスクもそうだが、それら旧王子製紙の工場は今でもそのまま使われているとのことだ。

 ポロナイスクにはひと晩泊まった。泊まったところは学生の寄宿舎で、外観は普通のアパートと同じ。まずはバーニャ(浴場)に行く。湯を浴びたあとサウナで汗を流し、葉のついたシラカバの小枝を束ねたものでビシバシと体をたたくのだ。これがロシア流。体が赤くなるほどたたくと、温泉につかったのと同じように血行がよくなるという。そのあとで夕食。前菜にもサラダにも豚肉料理のメインディッシュにも、オクロップという青菜の香辛料が添えられていた。これは日本でも最近使われているペンネルで、ウイキョウの仲間になる。サハリンの食文化というのはロシアと同じで、香辛料をよく使う食文化圏に含まれる。

北緯50度線を突破!
 翌朝、ポロナイスクを出発。道幅は広いが、前夜に降った雨でところどころに大きな水溜まりができていた。交通量がガクッと減った。北に100キロほど走ったところで北緯50度線に到達。
「やったー!」。
「サハリン縦断」での、ぼくの一番の憧れは北緯50度線を越えることだった。それだけに喜びは大きかった。

 道のわきには「北緯50度線」の碑。その碑には南に向かって大きく目を見開いた旧ソ連兵の姿が刻み込まれ、その下には「ソ連軍は南サハリンとの間にあった国境線を開放し、古来のロシア領土を奪回した。1945年8月11日」とロシア語で書かれている。

 北緯50度線以南のサハリンが日本領「樺太」になったのは、日本の勝利で終わった日露戦争後のポーツマス条約(1905年)によってのことである。「北緯50度線」の碑文は50年後にまた領土を奪回したというロシアの気分が伝わってくる。

 サハリン最南端のクリリオン岬は北緯45度54分。最北端のエリザベート岬は北緯54度20分なので、この北緯50度線というのはサハリンのほぼ中央。今でもサハリンを南北に分ける大きな境目。近くの樹林の中には戦没者の慰霊碑がひっそりと建っている。このあたりは第2次大戦末期の激戦地だった。

 北緯50度線を越え、北サハリンに入ると、バイクで切る風は冷たさを増す。そこはツンドラ(永久凍土)の世界。夏のツンドラはただの草原にしか見えないが、バイクを止めて一歩その中に入ってみると、なんとも奇妙な感触を足の裏に感じる。まるで水を吸ったスポンジの上を歩いているようだ。ツンドラには花が咲き、マローシカというちょっと甘酸っぱい味の赤い草の実が成っていた。

 その夜はティモフスクで泊まった。ホテル内のレストランでサラダとマッシュポテトつきのハンバーグの夕食のあと、ロシア人スタッフたちとウオッカを飲んだ。息を止めて一気に飲み干し、飲みおわったあとフーッと大きく息をはく。それが正統なロシア式の飲み方だとのことで、我々も真似して飲んだが、あっというまに酔いつぶれたメンバーも出た。それにしてもロシア人たちは強い!

ノグリキの北方少数民族
 ティモフスクからノグリキへ。その間は140キロほどでしかないので、「サハリン軍団」は渓流でたっぷりと時間を使ってサハリンの自然を楽しんだ。釣りの好きな人たちは渓流釣りをはじめる。イワナやマスが釣れた。ぼくを含めた何人かは「渓流浴」を楽しんだ。裸になって渓流に身をひたすのだが、キリッとした水の冷たさが肌に残った。

 ノグリキにはまだ日の高いうちに到着し、「ノグリキホテル」に泊まった。ユジノサハリンスクを出発して以来、初めて泊まる快適なホテル。シャワーを浴びてさっぱりしたところで町に出る。ホテル近くのパブに入り、大ジョッキーでビールを飲んだ。1杯8ルーブル。日本円にすれば約35円でしかない。この時点での1ルーブルは4円20銭。ぼくが初めてロシアに行ったのは1977年のことで、そのときは1ルーブルは420円だった。23年でルーブルは円に対してレートを下げつづけ、なんと100分の1になってしまった…。それはさておき、さっぱりした味わいのうまいビールだった。

 町をぷらぷら歩くと、ニブヒ族(ギリヤーク族)などの少数民族をみかけた。ここには「北方民族博物館」があり、ニブヒ族などの北方少数民族の生活用具などを展示している。サハリンには全部で24の北方少数民族がいるということだ。

 ホテルに戻ると、レストランで夕食。ロシアのスープ、ボルシチがうまかった。メインディッシュはロールキャベツなどの添えられたライス。夕食後は再度、町を歩き、ノグリキ駅まで行った。ノグリキはサハリン縦断の鉄道の終着駅なのだ。

サハリン最北の地へ
 ノグリキから北に250キロ、サハリン最北の町、オハへ。その途中では1995年5月28日の大地震に直撃され、2000人以上もの死者を出したニェフチェゴルスクを通った。町は復興することもなく、北の大地にうち捨てられ、今は住む人もいなかった。町は消滅し、荒野のまっただなかにポツンと慰霊塔だけが建っていた。そのあたりが、かつてのニェフチェゴルスクの町の中心だったという。

 コルサコフ港から936キロ走ってサハリン最北の町、オハに到着。オハはサハリン沖の海底油田開発の拠点になっている。石油関連の工場や施設、炎を噴き上げる精油所などが見えた。

 サハリンの道はオハからさらに北へと続く。シュミット半島に入り、コリンドという小さな町を通り、オハから80キロ行ったところで尽きた。コルサコフ港から1007キロの地点だ。小高い丘に登ると、夕日を浴びた丘陵地帯のその向こうには、オホーツク海に突き出たサハリン最北端のエリザベート岬が見えた。我ら「サハリン軍団」はエリザベート岬に向かって全員で万歳し、
「ハラショー(すばらしい)!」
 と、大声で叫んでやった。

 夕日に染まったサハリン最北の地を眺めていると、「もっと北へ! もっと北へ!」という衝動にかられ、無性にさらに北の世界を旅したくなった。
 その夜はオハで泊まったが、「サハリン最北の地」到達を祝ってビールで乾杯し、そのあとは夜中までウオッカパーティーで盛り上がった。

タタール海峡で「海峡浴」!
 8月14日午前9時、オハを出発。「サハリン縦断」復路の開始だ。まずはオホーツク海側のオハからタタール海峡側のモスカリボへとサハリンを横断する。といっても南北に細長いサハリンの中でも、とくにこのあたりはくびれて狭くなっているので、オホーツク海の海岸からタタール海峡の海岸まではバイクのメーターで38キロでしかなかった。

 モスカリボの町中から海岸への道はフカフカの砂道。砂の車輪をとられ、転倒する人が続出した。そんな砂道を走り抜けてタタール海峡の砂浜に出たときは大感動! 裸になって海峡に飛び込み、「海峡浴」をし、全身でタタール海峡を味わった。

 北海道とサハリンを分ける宗谷海峡を越えたときもそうだが、海峡というのはじつに心に残るもの。タタール海峡を見ていると、「アフリカ一周」で渡ったアフリカとヨーロッパを分けるジブラルタル海峡や「南米一周」で渡った南米大陸とフェゴ島の間のマゼラン海峡、「ユーラシア横断」で渡ったヨーロッパとアジアを分けるボスポラス海峡…など、今までに見た世界の海峡のシーンが思い出されてくるのだった。

 タタール海峡は1808年に間宮林蔵が発見し、シーボルトがヨーロッパに伝えたことによって間宮海峡ともいわれる。海峡の一番狭い部分はわずか7・4キロ。そこからだと対岸の大陸がはっきりと見えるという。海峡出口のモスカリボあたりだと幅が広いので、いくら目をこらしても対岸の大陸はまったく見えなかったが、「今度はロシア本土を走ろう!」と、この時、「シベリア横断」を強く意識した。

「ノグリキホテル」のロシア料理
 オハからノグリキへ。ノグリキでは往路のときと同じ「ノグリキホテル」に泊まり、同じパブでビールを飲み、ノグリキの町を歩いた。

 ホテルのレストランでの夕食にはボルシチとサラダ、チキンをのせたライスが出た。サハリンではライスがけっこう食べられているが、皿に盛られたライスをナイフとフォークで食べる。ここでは行きも帰りも大好きなボルシチが出た。ぼくにとってはボルシチが一番、ロシアを感じさせる食べ物。ボルシチはビート(砂糖大根)の入った赤味を帯びたスープだが、地域ごとに様々なバリエーションがあるので見た目も味もずいぶんと異なる。各地で様々なボルシチを味わうのはロシア圏での旅の大きな楽しみといえる。

 翌朝の朝食はパン、クレープ、サラダ、それとライス。飲み物は紅茶。そのライスというのはミルクをかけ、砂糖を入れて甘くし、クリームをたっぷりとのせたもの。ヨーロッパ人の好きなものだが、甘くしたライスというのはどうにもこうにも食べにくい。「ご飯はこうして食べるもの」という日本風の食べ方が身にしみついているからなのだろう。

 ノグリキからユジノイサハリンスクまでは列車の旅になる。出発は夕方なので、午前中はノグリキの町を歩き、ホテルのレストランで昼食。その昼食にはホットケーキ風薄焼きパンのプリヌイとニシンのオイル漬け、それとロシア風水餃子のペリメニが出た。ニシンのオイル漬けは油ぎったものではなく、さっぱりとした味わい。それをプリヌイにのせて食べる。ペリメニは皮と肉の取り合わせが絶妙で我々、日本人の口に合う。これらすべての料理にはいつものことだが、香辛料のオクロップが添えられている。「ノグリキホテル」のレストランでは往路、復路ともにふんだんにロシア料理を食べることができた。

冒険家「河野兵市」との出会い
「ノグリキホテル」で昼食を食べおえると、「サハリン軍団」はバイクに乗って町外れにあるノグリキ駅へ。列車の発車時刻まではまだかなりあったが、それまでに自分たちでバイクを貨車に乗せなくてはならなかった。ぼくたちは全員で力を合わせて19台のバイクを貨車に積み込んだ。そのあとは駅近くの湖に行き、今度は「湖水浴」を楽しんだ。

 ノグリキ駅に戻ると、なんとも驚いたことに、「カソリさ~ん!」と声を掛けられた。その人は冒険家の河野兵市さんだった。河野さんは北極点から故郷の四国・愛媛県の瀬戸町(現伊方町)まで、6年間かけて人力で踏破するという。その最後がサハリンになるとのことで、北極圏からサハリンまで下見をしていた。河野さんは下見をほぼ終え、我々の乗る列車でユジノサハリンスクまで行くところだった。

「河野兵市」といえば日本を代表する冒険家。21歳のときに自転車で「日本一周」をしたあと世界に飛び出し、7年あまりをかけて世界を駆けめぐった。その間では「ロサンゼルス→ニューヨーク」間の徒歩での「北米大陸横断」をしたり、自転車での「南米大陸縦断」を成しとげた。さらに驚かされたのはその後のリヤカーを引いての「サハラ砂漠縦断」だ。そして徒歩での北極点踏破。

 そんな河野さんはさらなる大冒険として、今度は北極点から自分の故郷までを完全踏破しようというのだ。「来年には必ず実行しますよ!」という河野さんは、迫力満点の顔をしていた。ノグリキ駅でしばし語らったあと、お互いのこれからの旅の健闘を祈ってガッチリ握手をかわし、ユジノサハリンスク行きの列車に乗り込んだ(河野兵市さんはその翌年の2001年に北極圏で遭難し、亡くなった)。

サハリン、列車旅
 17時05分、ユジノサハリンスク行きの列車はノグリキ駅を出発した。緑色の2連のジーゼルカーに引っ張られた14両の客車。我々の乗ったのは寝台車で4人用のコンパートメント。通路の窓は上部だけが開くようになっている。そこから流れゆく風景を眺めた。ところどころでは道路も見られた。「あの道をバイクで走ったのだ」と思うと、感無量。

 夕暮れが迫ると、我ら「サハリン軍団」の宴会がはじまった。連結器のあたりにメンバーが集まり、ビールやワインを飲んだ。そのあと食堂車での夕食。サラダと貝料理、豚肉料理が出た。食堂車は我々「サハリン軍団」の専用車同然だったので、食事のあとはまたしてもビール、ワインでの宴会になり、警官のジマさん、運転手のボロージャさん、ガイドのワリリさんをまじえて夜中まで飲み続けた。ワリリさんは盛んにロシア・カムチャッカ半島のすばらしさを語り、「次はカムチャッカ半島に行こう!」といった話で盛り上がった。

 こうしてバイクでの「サハリン縦断」を成しとげると、今度は無性にロシア本土を走りたくなる。カムチャッカ半島も、シベリアの道の尽きるマガダン港までもバイクで走ってみたくなる。
 翌朝、9時30分、ユジノサハリンスク駅に到着。16時間25分の列車の旅だった。

「ドスビダニア、サハリン!」
 列車からバイクを下ろし、ユジノサハリンスク駅前の「ユーラシアホテル」に泊まる。シャワーを浴びてさっぱりしたところで、日本料理の「飛鳥」で昼食。カラフトマスの焼き魚、イクラ、カニの入った酢の物と北海の海の幸を存分に味わった。我ら「サハリン軍団」はサハリン縦断の成功を祝して「乾杯!」を繰り返した。

 夜は「レストランユーラシア」でのパーティー。それにはガイドのワリリさんと運転手のボローニャさん、それと警官のジマさんが奥さんと15歳の娘リカさんを連れて参加してくれた。ジマさんの奥さんとリカさんはともに美人。とくに透き通るような色の白さのリカさんは男どもの注目の的で、何かとカタコトのロシア語で話しかけるのだった。

 食事が終わると、今度はウオッカパーティー。ワリイさんやボローニャさんとトコトン勝負したので、ぼくを含めて何人かが足腰が立たないくらいに酔ってしまった。

 8月17日8時、ユジノサハリンスクを出発。パトカーの先導で40キロ走り、コルサコフへ。10時出港の「アインス宗谷」に乗り込んだ。全行程1463キロの「サハリン縦断」だった。
 我ら「サハリン軍団」は離れていくコルサコフに向かって、「ドスビダニア(さよなら)、サハリン」と何度も大声で叫んだ。

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「東アジア走破行」(3)韓国一周(2000年)
一路、下関へ
「サハリン縦断」を終え、東京に戻ると、今度は「韓国一周」に出発した。
 バイクでの「韓国一周」は、ぼくの長年の夢。これほど近い日本と韓国だが、韓国へのバイクの持ち込みは禁止されていたので、それは夢のまた夢でしかなかった。ところが今回、韓国側から特例中の特例ということで、韓国へのバイク持ち込みの許可をもらうことができたのだ。

 2000年9月1日、東京を出発。バイクは「サハリン縦断」を走ったのと同じスズキDJEBEL250GPSバージョン。東京から一路、下関へ。往路は国道1号、2号をメインに平洋・瀬戸内海側を走っていく。

 第1日目の夕食は浜松の旧国道1号沿いの焼肉店「てんぐ」でカルビの焼肉と雑炊のクッパを食べた。第2日目の昼食は大阪のコリアンタウンの鶴橋。JR鶴橋駅前の「アジヨシ別館」で冷麺を食べた。

 第2日目の夕食は岡山県備前市の国道2号沿いの焼肉店「はるやま」で牛のロースの焼肉とユッケ・ビビンバを食べた。前日のカルビ、クッパ同様、このビビンバも、ラーメンやカレー、ピラフなどと同じように、今ではすっかり日本食として定着した感がある。ビビンバは韓国語のビビンバップのこと。“ビビン”は混ぜるの意味で、“バップ”はご飯。つまりは混ぜご飯のことだ。

「はるやま」のビビンバには新鮮な牛肉のたたきのユッケのほかに、ゼンマイ、モヤシ、ダイコン、ホウレンソウの具がのっている。それに卵を落としてある。調味料として辛いコチュジャンがつく。店のおかみさんは「ビビンバにはゼンマイとモヤシは欠かせないものなの。韓国の人はゼンマイをよく食べるのよね」と教えてくれた。

 ぼくの旅の仕方は、現地食主義。現地のものをできるだけ現地の人たちと同じようにして食べる、これがなによりもの旅のおもしろさだと思っている。ということで、「東京→下関」間では日本風韓国料理を食べ歩いたが、これが「韓国一周」での本場韓国料理食べ歩きのちょうどいい肩慣らしになった。

釜山に上陸
 9月3日12時、本州最西端の下関に到着。下関の町をひとまわりしたところで、関釜フェリーの出る国際ターミナルに行く。前年の「日本一周」がなつかしく思い出されてくる。この下関港国際ターミナル前でバイクを停め、「いつの日か、きっとバイクでここから釜山に渡ってやる!」と熱い気持ちでそう思ったものだ。まさか、その日がこんなにも早くやってくるとは‥‥。

 下関港国際ターミナルでは関釜フェリーの職員が出国手続きを終え、大型フェリーの「はまゆう」(1万6187トン)にバイクを積み込むまで付き添ってくれた。18時、定刻どおりに「はまゆう」が下関港を出港すると、離れゆく下関の町並みに向かって缶ビールで乾杯!

 関釜フェリーの「はまゆう」は玄界灘を越え、夜中には釜山港外の五六島のすぐわきで停まった。まばゆいばかりの釜山の町明かり。夜が明け、入国手続きが始まるまでの時間、こうして釜山港外で停泊しなくてはならないのだ。

 8時半、「はまゆう」は釜山港の国際フェリー埠頭に接岸。いよいよバイクの韓国持ち込みの手続きが始まる。フェリーからバイクを下ろすと、そのまま税関のカウンターに乗り入れる。釜山税関の係官たちは、旅行者のバイク持ち込みなど初めてのことなので、ずいぶんと面食らったような顔つきだ。税関本部にも足を運び、ついにバイクを引き取ることができたときは、自分が何か、新たな時代を切り開いたかのような高揚した気分を味わった。

釜山のワンデーツーリング
 釜山港を出ると、1日かけて釜山をまわった。まずは亀峰山中腹にある大庁公園に行った。釜山の市街地、釜山港、釜山をとりまく山並みを一望する。ソウルに次ぐ人口400万の大都市、釜山が手にとるようによくわかった。

 次に釜山大橋で影島に渡る。その南端が太宗台。市街地がすぐそばにあるとは思えないほど、自然の豊かなところだ。太宗台突端の切り立った断崖上に立ち、水平線上に目をこらした。強風が吹き荒れ、海には白い波頭が立っていた。残念ながら対馬は見えなかったが、ここから対馬までは50キロもない。ぼくは反対に対馬北端の「韓国展望台」から韓国を見たことがあるが、釜山の夜景がすごかった。水平線はまるで燃えているかのような明るさだった。

 この太宗台突端の岬には展望台があり、白亜の灯台が立っている。ところが韓国でも有数の風光明媚な岬なのにもかかわらず、岬名がついていない。地図を見ても、「太宗台展望台」とあるだけ。入り組んだ海岸線の続く韓国なので、地形としての岬は無数にあるが、岬名のついた岬はない。韓国は岬のない国なのだ。

 釜山港に戻ると、今度は釜山の西側を流れる洛東江の河畔まで行った。全長525キロの洛東江は韓国最長の川。川沿いに走り、河口の多大浦まで行った。いかにも大陸の川といった広大な河口の風景を眺め、干上がった浜を歩いた。そのあと浜辺の食堂で昼食。「海物湯」を食べる。メバルの入った鍋料理で、猛烈に辛い。しかしその刺激的な辛さが韓国を実感させた。そのほかにメバルの刺し身とキムチ、ワラビ、ニンニクがついた。それらをご飯に混ぜて食べる。刺し身入りのビビンバだ。

 午後は釜山の中心街の南浦洞や光復路を歩き、釜山漁港にあるチャガルチ市場を歩いた。そこではタコやイカ、ホヤの刺し身を食べた。

 最後に韓国でも最古の歴史を誇る東莱温泉に行った。ここでは「虚心庁」という近代的な建物の健康ランド風の温泉に入った。千人風呂の大浴場を中心に檜風呂や寝湯、打たせ湯、露天風呂、サウナなど20以上もの湯がある温泉センターだ。ここでは日本の温泉との違いを強烈に見せつけらる。誰もがタオルを浴室に持っていかない。堂々とイチモツをプランプランさせながら浴室内を闊歩している。

 湯に満足したあとは温泉内のレストランで夕食。カルビと豚カルビの焼肉を食べ、さらに冷麺を食べ、チャガルチ市場前の「三和観光ホテル」に泊まった。

「釜山→木浦」(南部編)
 9月5日午前6時、釜山を出発。時計回りでの「韓国一周」の始まりだ。方形をしている韓国なので、それぞれの辺ごとの、4ステージに分けての「韓国一周」。第1ステージは「釜山→木浦」の南部編、第2ステージは「木浦→ソウル」の西部編、第3ステージは「ソウル→巨津」の北部編、最後の第4ステージが「巨津→釜山」の東部編。その間で、韓国本土の最東西南北端に立とうと思っている。

 早朝の釜山の市街地を抜け出し、洛東江(韓国では“江”が川になる)の河口堰にかかる橋を渡って西へ、国道2号を行く。この国道2号の終点が木浦だ。韓国は高速道路が発達しているが、バイクは通行不可なので、国道をメインにしての「韓国一周」となる。簡単にいうと、偶数ナンバーの国道2号、4号、6号が半島を東西に横断する幹線で、奇数ナンバーの国道1号、3号、5号、7号が半島を南北に縦断する幹線になっている。

 道路標識はしっかりしている。韓国語文字のハングルとアルファベットで書かれているのでまったく問題ない。「これは日本以上だ」と思わされたのは、アメリカのシステムを取り入れているからなのだろう、国道の重複区間には2本、もしくは3本の国道ナンバーがきちんと併記されていることだ。日本でも最近になってやっと2本以上の国道の重複区間を表示をするようになっているが、まだまだ未整備。大半の重複区間は、若い番号の国道ナンバーだけの表示になっている。

 鎮海、馬山と大きな町を通っていくが、とくに馬山は大渋滞。韓国の急速なモータリゼーション化には目を見張らされるほどで、韓国全土、どこにいっても車であふれかえっている。その車も現代、大宇、起亜などの韓国車が大半で、世界中を席捲している日本車も韓国では影が薄い。バイクも韓国車が大半で、ときたま日本製のビッグバイクが走っているのを見かける程度。法律で規制されているからなのだろう、韓国製バイクは150cc以下の小型車だけだ。

 馬山を過ぎたところで朝食にする。街道沿いの食堂に入り、メニューの一番上に出ている4000ウォン(約400円)の食事を頼む。出てきたのは定食(ジュンシク)で、ご飯と汁のほかに2種のキムチ、ナムル、豆腐、煮物など全部で7品がついていた。

 昼食は晋州を過ぎた横川里という小さな町の食堂で、同じようなやり方で5000ウオン(約500円)の食事を頼んだ。するとご飯にドジョウ汁(チューオタン)、何種ものキムチのほかに、ムック(ドングリの粉の餅)やツェッカル(イカの塩辛)、メルチー(小魚の佃煮)などがついていた。ここでは河東郡庁(郡役所)財務課の金在校さんというカタコトの日本語を話せる方と出会った。役所の講習会で日本語を勉強したとのこと。金在校さんは「日本の人に会えてうれしい」といって食事代を払ってくれた。

 蟾津江にかかる橋を渡って慶尚南道から全羅南道に入り、順天から国道17号で南へ。その夜は多島海に面した麗水で泊まった。

 さっそく麗水の町を歩く。まだ日は高い。時間はたっぷりある。裏道を歩いていると、老夫婦のやっている手作りのアンドーナツ屋が目に入った。奥さんが小麦粉をこね、旦那が揚げていた。さっそくひとつ買って食べてみる。揚げ具合といい、あんの甘さ具合といい、申し分のない味だ。ひとつ300ウオン(約30円)。

「おいしかったです。ごちそうさま」
 日本語でお礼をいうと、老夫婦はうれしそうな顔をした。旦那は日本語を話せる人で、「私は京都で生まれました。京都の国民学校で1、2年過ごしたあと、両親と一緒に北海道に渡り、北海道各地を転々としました‥‥」
 と、日本語を思い出すかのような口調で語った。北海道では大変な苦労をしたということだが、ぼくが日本人だということで遠慮もあったのだろう、「もう、遠い昔のことですから‥‥」と、遠くを見るような目つきでそういった。

 老夫婦手作りのアンドーナツを4つ、袋に入れてもらい、それを食べながら歩いた。大露天市、韓国の木造の建物では最大という鎮南館、麗水港の旅客ターミナルと見てまわり、最後に全羅線終着の麗水駅まで行ってみた。

 翌日は木浦へ。国道2号の康津を過ぎたあたりの広々とした水田地帯を走っていると、初めての土地なのに、なにか、無性になつかしくなってくる。遠い昔に来たことがあるような、そんななつかしさなのだ。我が賀曽利一族は房総半島の小村の出なので、朝鮮半島とは関係ないと思うのだが、「ご先祖さま、帰ってきました!」と、思わず声を出したくなるほどのなつかしさだった。

 康津から国道18号で海南へ。そこから65キロ、韓国本土最南端の土末に行く。DJEBELのGPSは北緯34度17分41秒を表示している。日本最西端駅の松浦鉄道たびら平戸口駅まで301キロ、JR下関駅までは、407キロの距離だ。これもDJEBELのGPSの表示である。

“土末(トーマル)”とはいかにも最果ての地らしい地名ではないか。朝鮮半島の突端、それだけにはとどまらず、まさに広大なユーラシア大陸の地の果て、そんな連想をさせる土末の地名だ。日本だったら本土最南端の“土末岬”ということで、一大観光地になり、岬への道沿いにはみやげもの屋や食べ物屋がずらりと立ち並ぶところだ。ところが釜山でもふれたように岬のない韓国では、とくにどうということのない場所なのだ。

 ぼくは今回の「韓国一周」では、かなり地名が詳しく出ている「韓国観光案内図(ツーリストマップ・オフ・コリア)」を使った。それには韓国全土の地名が英語と漢字で書かれている。朝鮮半島の周囲や島々には無数の岬があるが、ひとつとしてCAPEやPOINTといった岬名は出てこない。岬には特別な思いを寄せて強くこだわる日本人と、岬にはまったく興味を示さない韓国人の違いを土末で見た。
 この土末の道の尽きたところには、小さなフェリー乗り場がある。そこからさらに南の、多島海の島々へとフェリーで結ばれていた。

 海南に戻ると、今度は橋でつながっている莞島と珍島の最端の地まで行ってみる。とくに珍島が印象深い。国道18号の両側にはムクゲのうす紫色の花が咲いている。アワやコウリャンの雑穀畑が目につく。収穫した唐辛子をあちこちで干している。そんな風景を見ながら走った国道18号は小さな港の岸壁で尽きた。目の前の海には独巨群島の小島が浮かんでいた。

 その夜、釜山から840キロを走り、木浦に到着。第1ステージの南部編を走り終えた。湖南線の終着駅、木浦駅近くの安宿に泊まり、さっそく夜の木浦の町を歩くのだった。

「木浦→ソウル」(西部編)
 9月7日午前5時30分、木浦を出発。「韓国一周」の第2ステージ、西部編の始まりだ。国道1号で羅州を通り、光州まで行ってみる。町中のコンビニ「セブンイレブン」で通学途中の女学生たちと一緒に、朝食のカップラーメンを食べた。韓国では今、日本と同じように次々にコンビニができている。ほとんどの店内には給湯設備があり、イスとテーブルが置いてあって食事できるようになっている。

 光州から国道23号を北上。全羅南道から全羅北道を通って忠清南道に入り、錦江河畔の古都、公州へ。公州は東城、武寧、聖王と3代つづいた百済の都だ。このあと百済の都は扶余へと移る。公州では食堂でドサッと具ののった麺を食べ、国立公州博物館を見学し、宋山里古墳群の一角にある武寧陵を歩いた。

 公州から百済最後の都の扶余へ。錦江の悠々とした流れを目に焼き付けたところで扶余の町中に入っていく。中央のロータリーには百済の英雄、階伯将軍の像が建っている。定林寺址では五重の石塔の「百済塔」を見る。そのあとで国立扶余博物館を見学した。ここで目を引いたのは、百済時代(5~7世紀)よりもはるかに時代の下った高麗時代(11~13世紀)につくられた亀石だ。

 大モンゴル帝国の都は草原の町、ハラホリン郊外にあるカラコルムだが、現在、都の跡はきれいさっぱりと何もない。その中にあって唯一、都の四方に置かれ、都を守ったという亀石が2つ残されている。扶余で見た亀石はユーラシア大陸の広大な地域を支配した元の都、カラコルムを思い出させるものであったし、朝鮮半島が大陸と地つづきであることを思い知らせるものでもあった。
 その夜は錦江河口の町、群山で泊まった。

 翌日、群山から国道21号で洪城へ。そこから韓国本土最西端の地に向かった。
 端山、泰安と通って韓国西海岸第一の海水浴場、万里浦に到着。夏の終わった砂浜に人影はない。この万里浦は東経126度08分40秒。ゆるやかな弧を描く砂浜をさらに西に行った岬が韓国本土最西端の地で、東経126度08分04秒になる。岩のゴツゴツした岬。「韓国最西端の地」碑的なものは一切ない。万里浦には海水浴で大勢の人たちがやってくるが、この最西端の岬まで来る観光客はほとんどいないという。岬の内側には堤防で守られた漁船用の小さな船着場があり、漁を終えた漁船から魚が水揚げされていた。その船着場の前には新鮮な魚を食べさせる店が1軒あった。

 韓国本土最西端の岬から洪城に戻り、国道21号で天安へ。そこで国道1号に合流し、北へ、ソウルに向かう。忠清南道から京畿道に入る。途中、水原では「韓国民俗村」に寄り道した。以前にも見学したことがあるが、ここは「韓国一周」には欠かせない立ち寄りポイントだ。とくに「民俗館」の模型を使っての展示は見事なもので、一目で韓国の式年行事や年中行事がわかるようになっている。

 水原に戻ると、ふたたび国道1号を北へ。ソウルまでは途切れることのない大渋滞。車の洪水にもみくちゃにされながら走り、漢江大橋で漢江を渡ってソウルの中心街に入ったときはホッとした。ソウル駅裏の1泊2万5000ウオン(約2500円)の安宿に部屋をとると、さっそく夜のソウルを歩く。ソウル駅前に近い南大門から鐘路経由で東大門まで歩いた。帰りは地下鉄に乗って帰ってきた。

「ソウル→巨津」(北部編)
 9月9日午前6時、ソウルを出発。いよいよ緊張の北部編がはじまる。この北部編では、国道1号、3号、5号、7号の幹線を北へ、行けるところまで行くつもりにしている。 その前に仁川へ。

 仁川市内に入ると、道の尽きる月尾島まで行ってみる。レストランやカフェの並ぶ観光地。海辺には朝鮮戦争(1950年~1953年)の大きな転換点になった「仁川上陸作戦」の碑が建っていた。それには「1950年9月15日、マッカーサー率いるアメリカと韓国の海兵隊が261隻の上陸用舟艇でもって、レッドビーチ、ブルービーチ、グリーンビーチの3ポイントに上陸した」とある。今は本土とつながっている月尾島のこの地点は、3ポイントのうちのグリーンビーチになる。

「仁川上陸作戦」の劇的な成功は、朝鮮戦争の流れを大きく変えた。北朝鮮側は当初、圧倒的に優勢で、半島を一気に南進し、釜山に迫ろうかという勢いだった。それが「仁川上陸作戦」の成功で、延びきった戦線に楔を打たれ、韓国側に急速に押し返された。もし、この「仁川上陸作戦」が失敗していたら‥‥、今の韓国はなかったかもしれない。

 仁川からソウルに戻ると、国道1号を北へ。軍用車両を多く見かけるようになる。検問所にも銃を持った軍人が立っている。いやがうえにも緊張感は増してくる。だが、緊張しているのはぼくだけのようで、通り過ぎていく町々の表情は穏やかなものだった。

 ソウルから50キロの■山へ。ここが国道1号の一番、北の町。町から5キロほどで、朝鮮半島南北分断の象徴といっていい臨津江に出る。川にかかる統一大橋を渡る。臨津江はかつてのベトナムを南北に分断した北緯17度線のベンハイ川のようなもの。日本でも望郷の歌「イムジン川」でよく知られている。国道1号の新道では、統一大橋を渡った先の検問所までが自由に行ける地点で、そこから先は許可証が必要になる。軍事境界線の板門店までは15キロほどの距離である。

 統一大橋に戻ると、今度は国道1号の旧道で臨津江の展望台まで行ってみる。足下には二重、三重に鉄条網が張りめぐらされ、銃を構えた兵士たちの警備所もある。その向こうの臨津江には京義線の橋脚跡が残され、旧国道1号の鉄橋がかかっている。ここはかつての朝鮮半島の南北を結ぶ交通の要衝の地だった。

 ■山に戻ると、国道37号で臨津江沿いに北東へと走る。全谷の手前で38度線を通過。朝鮮半島を南北に分断する軍事境界線は東に行くほど、38度線よりも北にずれていく。38度線を過ぎてまもなく、漢灘江のリゾート地に着く。ちょっとした観光地だ。緊張のつづく軍事境界線のすぐ近くにこのような場所があるとは‥‥。

 漢灘江は臨津江の支流で、その合流点はほぼ38度線上になる。漢灘江では川遊びをする家族連れや河原にテントを張ってアウトドアーを楽しむ人、四駆でやってきて釣りを楽しむ人たちの姿を見る。ぼくはといえば、沈下橋をバイクで渡り、人目のつかないところで裸になり、茶色い流れの川に飛び込んだ。「臨津江」を自分の体全体で感じ取りたかったのだ。

 漢灘江から全谷へ。ここではものすごい人波の露天市を歩いたあと、国道3号を北へ。全谷から33キロ行ったところで、京畿道から江原道に入る。このへんまで来ると、交通量はほとんどなくなるが、国道3号は幅広い2車線の道のままである。道境から4キロ地点で道路封鎖。北緯38度16分26秒の地点だった。検問所の若い兵士たちの応対はきわめてていねいなもので、別にパスポートを調べられる訳でもなく、「ここから先は行けませんよ。戻って下さい」と、ジェスチャーで示してくれた。

 全谷に戻ると、国道37号から46号に入り、春川へ。そこでひと晩、泊まった。
 春川では、“浦島太郎”の気分を味わった。ぼくは1973年の夏に、釜山を拠点にして列車、バスで「韓国一周」をした。そのとき日本海側の列車の終点、江陵からバスで束草に行き、雪岳山に登ったあと、バスでこの町にやって来た。

 当時の春川は山間のひなびた町で、夜は暗かった。ほんとうに暗かった。「貧しいなあ‥‥」という言葉が、思わず口から出たほど。それが今ではどうだろう、京春線の終着、春川駅からつづく市場街を抜けると、中央洞の商店街に入り、まばゆいばかりの照明やネオンが輝いている。華やかだ。町には活気が満ちあふれている。ソウルと変わらない最先端ファッションの女の子たちが町をさっそうと歩いている。名物の焼き鳥料理、タッカルビを食べさせる店がずらりと並んだ一角は、まるで東京・新宿の歌舞伎町を思わせるようなネオンの洪水。客引きのおばちゃんに手を引かれたときは、「ここはピンク街?」と錯覚したほどだ。

 30年前の韓国は食料難に見舞われていた。とくに米不足は深刻で、水曜日と土曜日の週2日は、韓国全土、どこの食堂、レストランに入っても、米の飯が食べられなかった。春川に着いた日はあいにくと土曜日で、食堂では米の飯の代わりにポロポロの麦飯が出た。このポロポロの麦飯がなかなかのどを通らなかった。「金を払って、なんでこんなものを食べるのだろう‥‥」と、悲しくなるほどだった。それだけに不夜城のような町の明るさ、市場の物の豊かさ、ありあまるほどの食べ物‥‥を見ていると、「これが韓国の30年だったのか」と、あらためて思い知らされた。

 翌日、春川から北へ。今度は国道5号を行けるところまで行ってみる。春川から40キロで華川の町に着く。そこからさらに24キロ北に行ったところで道路封鎖。北緯38度14分23秒の地点。前日の国道3号と同じように、検問所でUターンして春川に戻るのだった。

 春川からは国道46号で山岳地帯を横断。昭陽江ダムによってできた昭陽湖の湖畔を走る。「う~ん、これが昭陽湖か!」。韓国最大の財閥「現代」は、「現代建設」から始まった。1960年代の後半、現代建設は「檀君(韓民族の伝説上の始祖。日本の神武天皇のようなもの)以来、最大規模の工事」といわれた昭陽江ダム工事を受注し、完成させ、韓国建設業のトップの座を不動のものとした。それ以降というもの、わずか10年ほどの間で「現代」は造船や重機、自動車などであっというまに世界のトップレベルに躍り出た。まさに奇跡の超高度成長。そんな世界の「HYUNDAI(現代)」の基礎を築いたのが昭陽江ダム。ここは韓国現代史の舞台なのである。

 国道46号から44号に入り、“韓国の屋根”雪岳山の岩峰群を見ながら峠を越える。この峠越えが豪快だ。日本の国道18号の碓井バイパスで、長野・群馬県境の峠を越えるときとそっくりなのである。峠まではゆるやかな登りだが、峠を越えると、折れ曲がった急勾配の峠道を一気に下っていく。

 日本海に出ると、国道7号を北へ。束草、杆城と通り、韓国最北の町、巨津へ。ここから軍事境界線を真近に眺める「高城統一展望台」まで行ってみる。
 巨津から16キロ、北緯38度32分43秒の地点で道路封鎖。そこから先は、統一展望台のチケットを買わないことには行けないと検問の兵士にいわれた。検問所からわずかに戻ったところにあるチケット売り場でチケット(2000ウオン)を買ったが、今度はバイクでの通行は禁止されているといわれた。

 するとなんともありがたいことに、英語を上手に話す観光案内所の若い女性がやってきて、車の2人連れに「この人を乗せてあげて下さい」と、にこやかな笑顔つきで頼んでくれたのだ。彼女のおかげで、ソウルに近い安山からやってきたという孔■祐さん夫妻の車に乗せてもらうことができた。

 安山で「東洋通商」という会社を経営している孔さんは、カタコトの英語を話した。安山に近い水原の市役所に勤務している奥さんは、カタコトの日本語を話した。孔さんとは英語で、奥さんとは日本語で話した車内での会話は楽しいものだった。

 孔さんは「仕事上、英語は必要なので、勉強しているのですが‥。どうも我々、韓国人はうまく英語を話せません」と、日本人と同じようなことをいう。作家を夢みているという奥さんは、役所の講習会で日本語を勉強している。というのは水原は2002年の日韓共催のワールドカップの会場のひとつ。日本人も水原に多くやってくるだろうということで、日本語を勉強しているという。

 韓国最北端の地、「高城統一展望台」からの眺めは、強烈にぼくの目に焼きついた。軍事境界線上に延びる鉄条網の長い線。トーチカが点々と見える丘陵地帯の左手には、韓国人の憧れの山、金剛山(1638m)が雲を突き破ってそびえていた。孔さん夫妻も、金剛山を見たくてここまでやって来た。展望台から金剛山までは、わずか16キロでしかないという。

 孔さんは北朝鮮産のワインや焼酎などを売っている展望台の売店で、2冊の金剛山の写真集を買った。さらに「海金剛」を描いた記念メダルを買ってぼくに持たせてくれた。それには「T・KASORI2000・9・10」と彫り刻まれていた。韓国最北端の地の思い出に、孔さん夫妻の思い出に、ぼくはそれをありがたく受け取った。

 金剛山は標高1639メートルの毘蘆峰を主峰と大山塊で、東西60キロ、南北40キロのエリアに12000にも及ぶ岩峰があるという。金剛山の西部が女性的な山並みの内金剛、東側が男性的な外金剛で、海金剛とは外金剛の山並みが海に落ちたあたりの海岸地帯をいう。統一展望台から見下ろす海金剛は朝鮮半島きっての景勝地といってもいい。風の強い日で、日本海には無数の白い波頭がたっていた。

「高城統一展望台」でぼくは、「今度は北朝鮮側から海金剛を見てみたい!」と思った。 孔さん夫妻と別れ、巨津に戻る。
 イカ釣り船の並んだ港前の食堂で夕食。イカの刺し身を頼む。店のおかみさんに「こうするのよ」と教えられるままに、イカの刺し身をほかの具と一緒にご飯に混ぜて食べる。韓国ではどこに行っても、このビビンバ方式が食べ方の基本になっている。小ネギを刻んで入れた貝汁はさっぱりした味つけで、飲み干すと、おかみさんはおかわりを持ってきてくれた。食後にはコーヒーを入れてくれた。

 食堂のおかみさんの笑顔とやさしさが心に残り、なんとなく離れがたくて、その夜は巨津で泊まった。十三夜の大きな月が韓国最北の海を明るく照らしていた。

「巨津→釜山」(東部編)
 9月11日午前6時、巨津を出発。東海岸を釜山目指して南下していく。「韓国一周」も最後の行程の東部編だ。国道7号で束草を通り、江陵に向かっていく。その途中、北緯38度線碑が建つ「大明38度線休憩所」の「38度線レストラン」で朝食。海を見ながらチゲ鍋定食を食べた。この地点をもって北緯38度の世界に別れを告げた。

 江陵、東海と通り、慶尚北道に入る。山々が海まで迫る東海岸は、平野の広がる西海岸に比べると、国道の交通量がガクンと少なくなり、通り過ぎるていく町々の数も少なくなる。日本でいえば、山陽と山陰のような違いだ。

 地図を広げてみればすぐにわかることだが、韓国の背骨となる太白山脈の山々は、東海岸のすぐ近くを南北に連なっている。あまりにも東海岸にかたよりすぎているのだ。その太白山脈に北から金剛山、雪岳山、王台山、太白山といった高峰群がそびえている。この太白山脈の東側は急傾斜で流れ出る川は距離も短く、平野をつくる間もなく、すぐに海に流れ出る。ところが西側はゆるやかな傾斜で、そこから流れ出る洛東江や漢江は韓国第1、第2の大河で流域には幾つもの盆地をつくり、下流には平野が開けている。
 その夜は韓国最大の製鉄所のある浦項で泊まった。

 翌日は台風の影響で、朝から強い風が吹いていた。浦項駅前から走りはじめたが、この町で目につく道標は「POSCO(ポーハン・スティール・コーポレーション)」で、すべての道が浦項製鉄所につながっている。韓国経済の発展を象徴するかのような浦項製鉄所の敷地は広大なもので、その中に何基もの高炉がそびえ、最新鋭の工場群が連なっている。それら工場群全体を見渡すための展望塔までできている。

 浦項をあとにし、迎日湾に突き出た小半島に入っていく。この小半島が韓国本土最東端の地になる。半島東北端の「長■串」には六角の白亜の灯台が建っている。灯台博物館もある。東海(日本海)の海中には巨大な手のモニュメント。「長■串」は韓国で唯一といっていい岬名のついている岬で、串が岬を意味している。

 韓国人は「長■串」が韓国本土最東端だといっている。しかし地図を見ればひと目でわかることだが、ほんとうの最東端の地は半島の東側の海岸、漁港のある九龍浦までの間のどこかということになる。

 DJEBELのGPSを見ながら、この間を何度も往復し、ついに韓国本土最東端の地を見つけだした。そこには「海成水産」という水産会社の生け簀があった。道の尽きたところでバイクを停め、目の前に広がる海を眺めた。東経129度35分01秒の地点。ちなみに灯台の建つ名無し岬は東経129度34分17秒だった。

 九龍浦からは海沿いの国道31号を南下し、甘浦から古都、慶州へと寄り道する。慶州は新羅千年の都だ。まずは慶州郊外の仏国寺に参拝。新羅時代の751年に創建された古刹。国宝にもなっている大雄殿前の多宝塔と釈迦塔の双塔が目を引く。仏国寺前の食堂で昼食を食べ、慶州の市内に入っていく。新羅王朝の王族の古墳が点在する古墳公園を歩き、東洋最古の天文台で知られる瞻星台を見る。高さ9メートルの石造りの瞻星台は、まさに慶州のシンボル。最後に国立慶州博物館を見学し、甘浦に戻った。

 甘浦から国道31号をさらに南下したところに新羅の文武大王の水中陵がある。見た目には海に浮かぶ岩山といったところだ。文武大王といえば、朝鮮半島の統一をなし遂げた王。その文武大王は「私が死んだら遺骨を東海に埋めよ」と遺言を残した。死んだあとも、自分が日本への備えになるというのだ。新羅が朝鮮半島を統一したのは676年。日本はまだ飛鳥時代で、国家としての体制が整ってまもないころなのに、もう統一新羅に恐れられる存在になっていた。韓国にとっての日本は、いつの時代も油断のならない、警戒すべき国なのだ。

 慶尚北道から慶尚南道に入り、蔚山へ。浦項が製鉄のある町ならば、蔚山は韓国最大の財閥「現代」の企業城下町。造船や重機、自動車などの「現代」関連の大工場群がつづく。韓国では英語の看板をほとんど見かけないが、蔚山ではやたらと「HYUNDAI(現代)」の看板が目についた。さらにその南の蔚山湾に面した一帯は石油化学の一大コンビナート地帯になっている。

 蔚山を過ぎると、釜山はもう近い。台風の影響で強風とともに雨が降りだし、雨足は激しさを増した。土砂降りの雨をついて走り、9月12日午後5時、釜山駅前に到着。天気も釜山到着を祝ってくれたのか、ほんの一瞬、雨は上がった。DJEBELのトリップメーターを見ると3150キロ。予想したよりも、はるかに長い距離の「韓国一周」になった。

 この台風の影響で関釜フェリーは欠航し、釜山では1週間近く足止めをくらった。その間はチャガルチ市場前の「三和観光ホテル」に泊まり、毎日、釜山の町を歩いた。さらに釜山駅から列車で浦項や密陽、馬山などに行った。

 ついに釜山を離れる日が来た。9月18日17時、関釜フェリーの「はまゆう」に乗船。19時に出港した。船内のレストランで「ビビンバ定食」を食べた。それには味噌汁がついていた。和韓折衷のビビンバだ。下関に戻ると、帰りは日本海経由で国道9号、8号をメインに新潟県の糸魚川まで走り、最後は松本経由で東京へ。東京・新宿のコリアンタウンにある「韓国食堂」でビビンバを食べ、「韓国一周」を終えるのだった。

「東京→下関」1160キロ、「釜山→釜山」3150キロ、「下関→東京」1325キロで、「韓国一周」の全行程は5635キロになった。

 遠ざかっていく釜山の夜景を見ながら「バイクでも車でも、もっと、もっと自由に日本・韓国間を行き来できるようになって欲しい!」と、心底願った。そうすれば今は1日1便の関釜フェリーも、きっと便数が増える。

 イギリスのドーバーからドーバー海峡を越えてヨーロッパ大陸に渡るフェリーのように、スペインのアルヘシラスからジブラルタル海峡を越えてアフリカ大陸に渡るフェリーのように、1日に何便も出るような国際フェリーになることだろう。下関、釜山での出入国の手続きも24時間、いつでもできるようになる。

 そうすれば下関から釜山までは7、8時間でしかない。さらに大阪南港や日本海の舞鶴港、敦賀港からもフェリーが出るようになれば釜山にはさらに渡りやすくなる。そんな日が1日も早くやってきて欲しい。そのときこそ日韓新時代がやってくる。

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: 東アジア走破行

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東アジア走破行(4)ソウル→北朝鮮(その1)
1通のFAX
「韓国一周」の翌年、2001年3月22日に50㏄バイクでの「島めぐり日本一周」に旅立った。「本州東部編」、「北海道編」、「本州西部編」、「四国編」、「九州編」、「沖縄編」と、6分割での「日本一周」だ。

 最初の「本州東部編」を走り終えて帰宅したのは5月27日。その間に自宅に送られた郵便物やFAX、メールの中に、韓国モーターサイクル連盟(KMF)会長の申俊容さんからのFAXがあった。

 それは何と、朝鮮半島の南北分断後、初となるソウル発の北朝鮮(金剛山)ツーリングにぼくを招待したいという内容のものだった。それを目にしたときは信じられないような思いで、「ウソーッ!」と叫んでしまったほどだ。
「そんなこと、できるわけがない」
 という思いだった。

「韓国一周」での一番感動的なシーンは、韓国最北端の「高城統一展望台」からの眺めだった。そこから朝鮮半島随一の景勝地、「海金剛」を見下ろした。風の強い日で、東海(日本海)には無数の白い波頭が立っていた。海に落ち込む山々は白っぽい山肌を剥き出しにし、南北の軍事境界線上には鉄条網の長い線が延々と延びていた。トーチカが点在する丘陵地帯の左手には、朝鮮半島の名峰、金剛山が雲を突き破ってそびえていた。

「高城統一展望台」からの風景を眺めながら、
「いつの日か、北朝鮮に入って、今度は北朝鮮側から海金剛を見てみたい!」
 と熱望した。

 このような「海金剛」への熱い想いがあったので、翌朝、半信半疑でKMFに電話した。すると北朝鮮ツーリングに出発するのは6月2日だとのことで、まだ、間に合うという。すぐにパスポートのコピーをFAXで送り、デジカメでとった自分の顔写真をメールで送った。「これで必要なもの、すべてが整いましたよ」とKMFから折り返し電話が入ったときは、何か、キツネにつままれたような気がした。北朝鮮への入国手続きはすべてKMFがやってくれるという。

ソウルへ…
 5月31日にソウルに飛んだ。完成してまもない仁川国際空港に降り立つと、KMF申会長の美人秘書、ジュリア・キムさんが出迎えにきてくれていた。「ほんとうにバイクで北朝鮮に行けるのだろうか…」と、半ば賭けのような気分でソウルにやってきたので、まずはほっとひと安心といったところだ。きれいな英語を話すジュリアは「もうすでに(北朝鮮行きの)すべての用意は整っていますよ」とうれしいことをいってくれた。

 KMFの車でソウル市内へ。「ホテル・ニューワールド」に部屋が用意されていた。1泊20万ウォン(約2万円)の部屋。自分1人の旅だったら、まずは泊まれないような高級ホテルだ。部屋に荷物を入れ、ひと息ついたところで、ジュリアは「日式専門店」に連れていってくれた。そこではすしや刺し身、てんぷら、豆腐といった日本料理の夕食を腹いっぱいに食べた。美人で聡明なジュリアと一緒なので胸がときめいた。

 翌日は朝食後、ジュリアが迎えにきてくれた。「BMWコリア」の本社へ。そこでドイツ人社長のフリンガーさんに会った。今回の北朝鮮ツーリングはBMWが全面的にバックアプしているとのこと。「BMWコリア」は、1150ccのR1150RTの新車をぼくのために用意してくれていた。それに乗って「ホテル・ニューワールド」に戻ったが、北朝鮮が一気に近づいたような気がした。

 その夜は中華料理店での夕食会。KMF会長の申俊容さん、FIM(国際モーターサイクル連盟)のウィルソンさん、BMWコリアのフリンガーさん、それとカソリが一同に会した。ウイルソンさんはイギリス人。日、韓、英、独と国際色豊かな顔ぶれがそろった。

 北朝鮮ツーリングにはそのうちカソリ、ウィルソンさん、フリンガーさんの3人がバイクで行き、申さんは車での同行になる。「(朝鮮半島が南北に分断された以降)ソウルからバイクで北朝鮮に行くのは初めてのことになる」と申さんは強調したが、南北融和の進展を強く感じさせるソウル発の北朝鮮ツーリングだ。

 申さんは韓国ではよく知られたレーシングドライバー。韓国と北朝鮮の双方に太いパイプを持っているので、このソウル発の北朝鮮ツーリングが実現したという。そんな申さんは世界中から300台以上のバイクを集めての北朝鮮ツーリングを計画していた。今回はそのプレラン(事前走行)。日本人ライダーにも大勢来てもらいたいとのことで、それでぼくを招待したようだ。

朝鮮半島横断
 6月2日午前8時、BMWのR1150RTに乗って、ソウルのオリンピック記念公園に行った。そこが「北朝鮮ツーリング」の出発点。BMWやハーレーなど、全部で13台のバイクが集合した。ウィルソンさん、フリンガーさん、カソリの3人の外国人のほかに10人の韓国人が参加している。彼らは韓国内のバイククラブの会長やバイク誌の編集長だという。

 オリンピク記念公園前でのセレモニーの後、大勢の見送りやテレビカメラの中を走り出したときは、ふと「パリ・ダカ」の出発シーンが目に浮かんだ。1982年、冒険家の風間深志さんと2人だけの「チーム・ホライゾン(地平線)」を結成して参戦したときは、パリのコンコルド広場が出発点だった。大観衆で埋めつくされたシャンゼリゼ通りを走り抜け、凱旋門をぐるりと回ってパリ郊外に出たが、そんな20年前を思い出させるようなソウル出発のシーンだった。

 ソウルから東海(日本海)側の港町、東海を目指す。そこから船にバイクを積んで北朝鮮の長箭港に渡るのだ。国道6号で漢江沿いに走り、北漢江と南漢江の合流点からは南漢江に沿っていく。BMWのR1150RTは車体の大きさと重さが気になったが、走るほどに慣れていった。

 国道6号→国道42号→国道38号というルートで朝鮮半島を横断し、夕方、太白に着いた。太白山脈の山中にある町。市庁舎で市長の歓迎を受けたあと、パトカーに先導されて市内を回り、焼肉店で夕食。そのあと郊外の「ヒル・ハウス」という洒落たホテルに泊まった。韓式のオンドルの部屋で、布団をそのまま床の上に敷く。畳と床、このあたりが日韓の違いだ。

 翌日は太白郊外に申さんが総力を上げて建設中のサーキットを見学する。「テベック・シン・ジュヨン・サーキット」。完成すれば韓国初の国際級サーキットになるという。

 太白から東海へ。国道38号で太白山脈を下っていく。R1150の車体の大きさ、重さにはもうすっかり慣れていたので、急勾配、急カーブの山道もそれほど気にならなかった。こうしてソウルから366キロ走って東海港に到着した。

東海港を出港
 東海港の岸壁には現代商船の「ヒュンダイ・クンガム(現代金剛)号」(2万7000トン)が接岸していた。真っ白な船体の大型客船。岸壁に13台のバイクを並べ、1台づつクレーンで甲板につり上げる。バイクをのせるのは初めてのことなので船員たちはとまどっていたが、メンバー全員で協力し、無事に13台のバイクを積み終えた。

 イミグレーションでパスポートに出国印をもらい、北朝鮮入国の許可証を首からぶらさげ、「ヒュンダイ・クンガム号」に乗船。19時、出港。レストランでのバイキング形式の夕食を終えると、ミーティングルームでの北朝鮮入国に際しての説明会が始まった。この船には500人あまりの金剛山登山の韓国人が乗っている。観光客は船が長箭港に着くと、専用バスで金剛山に向かっていくのだ。

 ミーティングでいわれた事項は次のようなものだった。
(禁止事項)
 1、長箭港の写真を撮ること
 2、移動中のバスから軍事施設や兵士、住人の写真を撮ること
 3、移動中のバスから風景の写真を撮ること
 4、北朝鮮人ガイドの写真を撮ること
 5、移動が禁止されている物の運搬
 6、指定場所以外に巻きタバコ、紙くず、空きビン、ビニール袋を投げ捨てること
 7、指定場所以外での喫煙
 8、指定以外のトイレと風呂の利用
 9、旅行者用施設を傷つけたり、破壊すること
 10、自然環境を傷つけたり、汚すこと
 11、岩や木をスケッチすること
 12、植物、岩石、土壌を採取すること
 13、動物を捕まえること
 14、山火事を起こすこと

(持ち込み禁止の品物)
 1、10倍を超える倍率の双眼鏡や望遠鏡
 2、160ミリを超えるレンズを付けたカメラ
 3、24倍を超える倍率のビデオカメラ
 4、個人的な医療目的以外の内容が記述されたラベルが付帯する怪しい物
 5、旅行目的に反する印刷物、写真、カセットテープ
 6、韓国通貨
 7、ニセ札
 8、医学的な意図をともなわない毒物、薬、有毒な薬品
 9、武器、銃弾、爆発物、放射能物質
 10、引火性の物質
 11、軍用のアクセサリー
 12、無線機器
 13、そのほか旅行目的にそぐわない物
 それにつけ加えて伝染病の汚染地域から来た人は入国が禁止されるという。

「現代」の租借地?
 東海港を19時に出港した「ヒュンダイ・クンガム号」は翌朝、韓国・北朝鮮国境の海を北上していた。水平線から朝日が昇る。北朝鮮の山々がはっきりと見えてくる。高城の沖合を通過し、7時、「ヒュンダイ・クンガム号」は真っ白な船体を長箭港の岸壁に横付けした。長箭港の港湾施設のすべては「現代」によってつくられた。ここは「現代」の租借地のようなものだ。

 金剛山観光を取り仕切っているのは「現代峨山」。峨山は韓国最大の財閥、「現代」の創業者、鄭周永の生まれ故郷の峨山里にちなんだもの。峨山里は今の北朝鮮領内で金剛山北側の50戸ほどの集落だという。金剛山観光の現代商船の大型客船といい、金剛山観光拠点の長箭港といい、「現代峨山」の会社名といい、「現代」の北朝鮮に寄せる想いの深さを感じるのだった。

 朝食後、韓国人観光客はバスに乗って金剛山に向かっていったが、我々は東海港のときと同じように13人のメンバー全員で協力し、13台のバイクを船から下ろした。緊張の北朝鮮入国。ここでは日本のパスポートは一切、見られることはない。日本とは国交のない国だからだろうか。

 入国手続きは想像していたよりもはるかに簡単なもので、「北朝鮮ツーリング」の参加者リストに照らし合わせ、写真つきの北朝鮮入国許可証にポンとスタンプが押されるだけ。パスポートに入国印を押されることもなかった。こうしていよいよ「北朝鮮ツーリング」が始まった。

田植えをする若い女性たち
 長箭港から前に3台、後に2台の車に挟まれて、13台のビッグバイクが走りはじめた。高城と元山を結ぶ鉄道に沿った道に出る。道の両側にはフェンスが張られ、それこそ100メートルおきぐらいに若い兵士が立っている。彼らは上官からそう言われたからなのだろう、炎天下、誰ものが無表情で、直立不動の姿勢で立っていた。

 ちょうど田植えの季節。若い女性たちが田植えをしていた。田植え機などの機械は一切見られない。全員が手植えだ。昔なつかしい光景。「早乙女」の言葉を思い出す。日本でもひと昔前までは若い女性たちが田植えをしていた。

 朝鮮半島では「南男北女(ナムナムプクニョ)」といわれるとおり、田植えをする女性たちは美人ぞろい。中には手を振ってくれる人もいる。バイクを走らせながら手を振りかえすと、すかさず車から降りてきた監視員に「手を振ってはいけない!」と注意されてしまった。田植え前の水田では男の人が牛に犂を引かせ、田を耕している。田を耕すのは男の仕事、田植えは女の仕事とはっきり分かれているようだった。

 道をはさんだ反対側は麦畑。そこはまさに「麦秋」の風景。実った麦が重そうに穂を垂れている。麦刈りをしている畑もある。ソバ畑では白い花が咲き、ジャガイモの白い花も咲いていた。

「海金剛」の展望台に立つ!
 舗装が途切れ、ダートに入っていく。もうもうとした土ぼこりを巻き上げながら走る。やがて道幅が狭くなり、峠を越えて海岸に出た。そこが「海金剛」だった。

 金剛山の山並みが東海(日本海)に落ちる海岸一帯が「海金剛」。朝鮮半島随一の海岸美を誇る景勝地なのにもかかわらず、ここには何もない。日本だったらみやげもの店や食堂などがズラッと並ぶ観光地になっているようなところなのだが…。

 駐車場にバイクを停め、海岸にせり出した展望台に立った。左手には白っぽい断崖が海に落ち、正面には岩礁がいくつか浮かんでいる。右手には韓国最北端の「高城統一展望台」が遠望できる。

「韓国一周」で「高城統一展望台」から「海金剛」を見下ろしたのは2000年9月。そのときの「今度は北朝鮮側から海金剛を見てみたい!」という願いが、わずか9ヵ月後にかなったことになる。ぼくの想いが通じたのだ。

 次に高城近くの三日湖に行き、展望台から「天女伝説」の湖を見下ろした。松林に囲まれたきれいな湖。その中央には小島が浮かんでいる。展望台から海は見えなかったが、山間の平地は一面の水田。山裾に家々が見えた。

 昼食は金剛山観光の拠点となる施設内のレストラン。ビビンバと、ひとつひとつが大きい北朝鮮風の餃子を食べた。

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東アジア走破行(5)ソウル→北朝鮮(その2)
 北朝鮮に上陸した2001年6月4日の午後は、金剛山の登山口までバイクで登る。
 急勾配、急カーブの狭い道。日本でいえば舗装林道のようなもの。気温は30度を超える猛暑。それを1150ccのBMW、R1150RTで登っていくのだからたまらない。あっというまにオーバーヒート気味になり、エンジンから発する高温の熱で自分自身もオーバーヒート気味になってしまう。これならば小さなバイクの方がよっぽど楽だ。

 金剛山の登山口の駐車場に到着。川原に降り、渓流の冷たい水を手ですくって顔を洗う。そこには清水も湧き出ていた。キリッとしたうまい水。
「ムル(水)、チョータ(good)!」
 一緒に飲んだ韓国人ライダーは声を上げた。

 金剛山登山口から下り、金剛山温泉の湯に入る。北朝鮮の温泉に入れるとは思ってもみなかった。大浴場と露天風呂。湯につかりながら金剛山の山並みを一望した。湯から上がると、北朝鮮製のアイスクリームを食べた。1個1ドル。

 夕日が金剛山の山々に落ちていくころ、長箭(チャンジュン)港に戻り、現代商船「現代金剛(ヒュンダイ・クンガム)号」の船室でひと晩、泊まった。そこは北朝鮮にいながら、韓国そのものの世界。東の空からは満月が昇る。

 北朝鮮をバイクで走れたのはこの日、1日だけだった。
 走行距離も87キロでしかなかった。だがぼくは、これを“偉大なる第一歩”だと思っている。
 北朝鮮に風穴があいたのだ。きっと近い将来、夢の「北朝鮮一周」や「朝鮮半島縦断」ができるようになる!

 翌日は金剛山登山。
 昨日の登山口まではバスで行き、チョンソンデー(天仙台)とマンヤンデー(望洋台)の2つの岩峰に登った。

 山道の途中には、北朝鮮側の監視をも兼ねているのだろう、男女がペアになって立っている。韓国人たちは北朝鮮の人たちにすごく興味があるようで、何度となく座り込んで話しているシーンを見かけた。女性たちは美人が多く、「南男北女」をいたるところで実感した。

 一緒に歩いた韓国人女性は、
「北朝鮮に来たという気があまりしない。みんな無表情で、北朝鮮人に会ったという気がしないのよ。自由がないのね。ここへ来る途中の家々には電気が通っていなかったし…。食料も配給だとのことで、それが十分ではないって聞いたわ」
 と、そんなことをいっていた。

 また年配の日本語を話せる人は、
「金剛山に来ることができたので、もう私には思い残すことは何もありません」
 ともいっていた。韓国人にとって金剛山は、それほどの山なのだ。

 韓国KBSのチョイさんは、
「(同じ民族として)今の北朝鮮の貧しさを見ていると、悲しくなります。やせた人間、やせた牛…」
 といって目を伏せた。

 午後は世界でも最高レベルの北朝鮮サーカスを見た。
 北朝鮮で忘れられないシーンがひとつある。KMFのシン会長、副会長格のチョーさん、それと現代(ヒュンダイ)のチョーさんの3人と、北朝鮮側高官3人の会談に同席させてもらった。それはまるで板門店での南北会談を見るようだ。

 北朝鮮側はKMFの「北朝鮮ツーリング」に対して、ずいぶんと好感を持っているようだった。近いうちに、「必ずや、陸路、北朝鮮に入れるようにする」ともいっていた。

 ぼくは3人の北朝鮮の高官に「お会いできてうれしいです」と日本語でお礼をいって握手して別れたが、そのうちの一人の高官は「ようこそ!」と日本語でいってくれた。

 名残惜しい北朝鮮‥‥。2日間の北朝鮮での全日程が終了すると、その夜、「現代金剛(ヒュンダイ・クンガム)号」は長箭(チャンジュン)港を離れた。
 韓国の東海(トンへ)港に戻ったときの我々の第一声は「おー、フリーダム(自由よ)!」だった。

 東海(トンへ)港を出発したのは11時。帰路はBMW/R1200Cに乗った。アメリカン風のスポーティーなバイク。国道7号線で北の江稜(カンヌン)まで行き、そこから朝鮮半島を横断.韓国では一番有名な峠といっていい大関嶺を越え、296キロ走り、19時ソウルに到着した。全行程749キロの「ソウル→北朝鮮」だった。

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東アジア走破行(6)ユーラシア大陸横断
 2002年の「道祖神」のバイクツアー「賀曽利隆と走る!」の第7弾目、「ユーラシア大陸横断」では、ロシアのウラジオストクからユーラシア大陸最西端のロカ岬まで、1万5000キロを走った。そのうちの欧亜を分けるウラル山脈の峠までが第4弾目の「東アジア走破行」になる。

 富山県の伏木港からロシア船の「ルーシ号」にバイクともども乗り込み、ウラジオストクに渡り、7月2日に出発。シベリア横断の旅がはじまった。

「ユーラシア大陸横断」に参加した「ユーラシア軍団」の17台のバイクに、サポートカーが1台ついた。それには道祖神の菊地さんとメカニックの小島さん、それとロシア人通訳が乗った。

 ウラジオストクから770キロ北のハバロフスクまでは幹線国道のM60。交通量も多い。シベリアの大河、アムール河畔の都市、ハバロフスクを過ぎると、幹線国道はプッツンと途切れ、マイナーなルートになってしまう。おまけに豪雨。ビロビジャンという町では濁流が渦巻き、町中で川渡りをした。

 ビロビジャンを過ぎると、ダートに突入。ツルツル滑る路面だったが、さすが大陸のダート、荒野をズバーッと突き抜けているので高速で突っ走った。100キロのダートを走りきり、23時にオブルチェ着。クタクタになってたどり着いたオブルチェのホテルは一滴も水が出なかった。

 翌日は中国国境の町、ブラゴベシチェンスクに向かう。そこまで約400キロ。そのうち100キロがダート。降りつづく雨の中、前日同様、ツルツルのダートをひた走る。コーナーが怖い。ノボブレスキーという町を過ぎ、舗装路に変わったときはホッした。

 ブラゴベシチェンスクはアムール川に面している。対岸は中国の黒河(ホイヘ)の町。このブラゴベシチェンスク駅でバイクと車を列車に積んだ。チタまでの約1000キロは道らしい道がないからだ。

 ブラゴベシチェンスクからシベリア鉄道本線のベロゴロスク駅までの列車旅がよかった。ツンドラの大湿地帯やポプラの防雪林、シラカバ林などを見た。

 ベロゴロスク駅からチタ駅までの間では、シベリア鉄道沿いのダートを目をこらして見つづけた。雨がつづくときつそうだが、道の状態とガソリンの問題をクリアできれば、十分に走りきれそうな道に見えた。

 途中のスコウォロディーノ駅では、特別な感慨に襲われた。この町からはヤクーツクを経由し、はるか遠くのオホーツク海の港町、マガダンに通じるM56が出ているのだ。

「またいつか、シベリアを走りたい。そのときはハバロフスク→チタ間とスコウォロディーノ→マガダン間を走ってみたい!」

 チタからイルクーツクへ、M55を走る。ゆるやかな峠を越える。この峠はオホーツ海に流れ出るアムール川と北極海に流れ出るエニセイ川の水系を分ける分水嶺。海からはるかに遠いシベリアの内陸地だが、海が変わった。ここからはウラル山脈を越えるまでは、ずっと北極海とつながった世界になる。

 峠を越えると、はてしなくつづくタイガ(針葉樹)。チタから330キロのヒロックで泊まったが、鉄道大好き人間のカソリはシベリア鉄道のヒロック駅に行った。駅構内には木材専用列車、石炭専用列車、コンテナ専用列車など貨物列車が5本も停車していた。そのどれもが60両以上の長い編成。駅前を流れるヒロック川では、大勢の人たちが水遊びをしていた。短いシベリアの夏を謳歌しているようだった。

 このヒロック川はモンゴルから流れてくるセレンゲ川に合流し、バイカル湖に流れ込む。バイカル湖から流れ出る唯一の川がアンガラ川。それがエニセイ川の本流と合流し、北極海へ。エニセイ川は全長4130キロの大河だ。

 ヒロックからモンゴル国境に近いウランウデへ。タイガから大草原へと風景が変わる。緑一色の大草原、黄色い花、白い花の咲く大草原、あまりの風景の大きさに圧倒されてしまう。

 ウランウデからイルクーツクへ。その途中でバイカル湖を見た。海と変わらない大きさ。見渡す限りの水平線。M55を外れ湖岸へ。波が押し寄せている。こうして7月10日の夕刻、ウラジオストクから2700キロ走り、イルクーツクに到着した。

“シベリアのパリ”ともいわれるイルクーツクの町を歩いた。歴史を感じさせる町並み。アンガラ川の川岸に立つオベリスク。「郷土史博物館」を見学したが、シベリアに住む少数民族の生活用具の展示に目がいった。

 イルクーツクからはM53を西へ。サヤンスクでひと晩泊まり、シベリア有数の都市、クラスノヤルスクに向かった。その途中でダート国道に突入。道幅は広い。モウモウと土煙を巻き上げて走るトラックやバス、乗用車とすれ違う。路面の状態はまあまあで、フラットダートなので高速で走れた。ダート区間は何区間かあり、ダートの合計は約80キロ。「ウラジオストク→モスクワ」間で唯一のダート国道だ。

 クラスノヤルスクに到着。エニセイ川の本流に面している。北極海からは3000キロ近くも内陸に入っているのに、川幅は1キロ以上もある。堂々とした大河の風格だ。

 クラスノヤルスクからシベリア最大の都市、ノボシビルスクに向かうとすぐに、ゆるやかな峠を越える。その峠がエニセイ川とオビ川の水系を分ける分水嶺。オビ川もやはり北極海に流れ出る川で、全長は3680キロ。シベリアにはオホーツク海に流れ出るアムール川(全長4353キロ)と北極海に流れ出る3本の川、レナ川(全長4270キロ)、エニセイ川、オビ川という四大河川がある。

 こうしてシベリアを横断し、シベリアの大河に出会うたびに、
「今度はシベリア大河紀行をしてみたい!」
 という、新たな思いにとらわれた。
 川船に乗れば、シベリアの相当、奥地にまで行けそうだ。

 オビ川の本流に面したノボシビルスクに到着。ここで見るオビ川も川幅は1キロ以上ある。遊覧船に乗り、オビ川の船旅を楽しんだ。

 ノボシビルスクからはM51でオムスクに向かった。このM51はカザフスタンのペトロパウルを経由してウラル山脈の麓の町、チェラビンスクまで通じている。

 その途中ではヤマハの1200㏄バイク、ロイヤルスターでシベリア横断中の吉田滋さんに出会った。なんという偶然。吉田さんは1966年から68年にかけてヤマハのYDS250で「世界一周」した方。そのときぼくは20歳だった。

「アフリカ一周」に出発する直前だった。20以上もの質問事項をノートに書いて、それを持って帰国早々の吉田さんにお会いした。吉田さんはていねいにひとつづつの質問に答えてくれた。

 当時はバイクでの海外ツーリングの情報が皆無に近かった時代。吉田さんに教えてもらったことは「アフリカ一周」にどれだけ役立ったことか。吉田さんは30数年も前のそんなぼくとの出会いをおぼえていてくれた。

 吉田さんは大学を卒業するとすぐに「世界一周」に旅立ち、3年あまりの旅を終えるとヤマハに入社した。ヤマハ一筋で定年退職すると、今回のシベリア横断ルートでの「世界一周」に旅だった。ウラジオストクを出発点にしてシベリアを横断し、モスクワからサンクトペテルブルグへ、そしてフィンランドのヘルシンキに向かう。

 吉田さんは30数年前の「世界一周」のときにヘルシンキまで行ったが、モスクワまで走ることができずに悔しい思いをした。その悔しさを今回、はらそうとしているのだ。

 そんな話を聞いてぼくは胸がジーンとしてしまう。吉田さんはヨーロッパからアメリカに渡り、アメリカを横断して2度目の「世界一周」を達成させたいという。20代のときと60代のときの「世界一周」。なんてすばらしいことだろう。そんな吉田さんと固い握手をかわして別れた。

 オムスクに向かっていくと、カザフスタンの国境近くを通る。南からの熱風に吹かれ、地平線までつづく大草原を見ていると、カザフスタンなどの中央アジアの国々に無性に行ってみたくなる。

 ウラジオストクを出発してから20日目、7月22日にチェラビンスクからM5でウラル山脈に向かった。アジア側最後の町ミアスまで来ると、ウラル山脈のゆるやかな山並みがはっきりと見えてくる。峠を目指して登っていく。直線の長い峠道。チェラビンスクから124キロの地点で峠に到達。そこにはアジアとヨーロッパを分ける碑が建っていた。境の1本の線をまたぎ、「こっちがアジア、こっちがヨーロッパ」と気宇壮大な気分に浸るカソリだった。

===
(先にもふれたように、ここまでがカソリの第4弾目の「東アジア走破行」になる。ウラル山脈を越えるとモスクワ、ワルシャワ、ベルリン…を通ってユーラシア大陸最西端のロカ岬まで行ったのだが、詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』の連載、「ユーラシア大陸横断2002」を見てください)

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東アジア走破行(7)中朝国境走破行
「東アジア走破行」の第5弾目は2003年の「中朝国境走破行」だ。

 2003年9月25日はぼくにとっては一生涯、忘れられない歴史的な日になることだろう。鴨緑江河口から図們江(朝鮮名 豆満江)河口を目指すバイクツアー「中国・北朝鮮国境を行く!」の出発の日だからだ。

 成田から意気揚々とした気分で中国・東北地方最大の都市、瀋陽に飛び、「中朝国境走破行」の幕が切って落とされた。

 翌26日、ツアー参加者の「七人の侍」のバイクとサポートカーのマイクロバスは瀋陽を出発。バイクは中国・斉南スズキ製の125㏄バイク、GS125の新車。リアにはスズキの旗がとりつけられている。旗をなびかせて走る姿は、戦国時代の武田軍の「風林火山」の旗指物に相通じるものがあり、バックミラーに映る「七人の侍」の姿には胸にジーンとくるものがあった。

 マイクロバスにはこのバイクツアーを主催した「ツアープランナーズ・オーバーシーズ」社長の藤間剛さん、車での27万キロの「世界一周」を成し遂げた大内三郎さん、世界242の国と地域をまわった荻野洋一さんの日本人3人と、「瀋陽・中国旅行社」副社長の王麗華さん、ガイド兼通訳の呂徳成さん、「斉南スズキ」メカニックの陳さん、広報の成さん、それと運転手の、中国人5人が乗っている。

「斉南スズキ」の2人は山東省斉南の本社から来てくれた。特筆すべきなのは王麗華さん。彼女の人脈と尽力のおかげで中国公安と中国東北軍から特別な許可を取ることができたのだ。

 遼寧省の省政府からの許可を得て、瀋陽から丹東までは、高速道路の「瀋丹高速」を走った(中国ではバイクでの高速道路の走行は禁止されている)。途中、本渓に寄り、北朝鮮との国境の都市、丹東に着いたのは日が暮れてからだった。

 丹東のICには公安のパトカーが我々を出迎えてくれていた。レクサスのパトカーの先導で中国辺境(国境)最大の都市、丹東の中心街に入っていく。

 17階建の高層ホテル「丹東国際酒店」でバイクを止め、荷物を置くと、レストランでの夕食。丹東到着を祝い、「鴨緑江」という名前のビールで乾杯した。ぼくは「鴨緑江」の名前にすっかり酔ってしまった。

 20歳のときに「アフリカ一周」をして以来、ぼくは20代の大半を費やしてバイクで世界を駆けまわったが、世界地図を見るたびに「鴨緑江」には目がいった。バイクで東京を出発し、朝鮮半島を縦断し、「鴨緑江を渡って中国に入りたい!」というのが、ぼくの30数年来の夢だったからだ。
「今、その現場にやって来た!」

 夕食には何品もの中国料理が出たが、最後を飾ったのは鴨緑江でとれたツァンギョという魚の料理。淡白な味わいの白身の魚。まずは味覚で鴨緑江を味わった。

 夕食を終え、ホテルの部屋に入ると、すぐに窓をあけて外を見た。手前の丹東はまばゆいばかりのきらめく夜景に包まれているが、黒々と流れる鴨緑江の対岸、北朝鮮の新義州の町には明かりひとつ見えない。世界が漆黒の闇の中に沈んでいる。
「明と暗」。
 鴨緑江をはさんだ2つの世界のあまりの違いの大きさには、言葉もないほどだった。

 翌日は鴨緑江にかかる橋を歩き、鴨緑江の遊覧船に乗って北朝鮮側の岸辺スレスレのところまで行った。丹東は河口から40キロほどの地点。ちょうど満潮なのだろう、鴨緑江は逆流し、河口から上流へと、渦を巻いて流れていた。

 丹東を出発。鴨緑江の岸辺の道を走る。対岸は北朝鮮。川に浮かぶ中州の大半は北朝鮮領だという。鴨緑江の一番下流のダム、太平湾ダムを過ぎたところで鴨緑江を離れた。

「鴨緑江よ、いつの日か、今度はバイクで越えてやるゾー!」
 と叫んで鴨緑江に別れを告げ、満族(満州族)自治県の寛甸、桓仁を通り、峠を越えて遼寧省から吉林省に入った。

 吉林省の通化でひと晩泊まり、白山、撫松と通り、延辺朝鮮族自治州に入る。

 二道白河に到着。この町が中朝国境の聖山、長白山(朝鮮名 白頭山)への玄関口。朝鮮では始祖檀君伝説の山であり、中国では清朝発祥の地とされている。ここでは現地ガイドの朝鮮族の女性、張成姫さんが我々を待ってくれていた。さっそく長白山へ。閉山間際のこの時期なので、山頂までいけるかどうか不安だった。

 長白山登山口の駐車場にバイクを止め、ここでパジェロに乗り換える。我々は超ラッキーだった。その前々日には雪が降り、山頂までは行けなかった。前日も残った雪が凍りついてアイスバーン化し、やはり山頂までは行けなかった。さすが「強運のカソリ」、わずかな隙間をついて長白山の山頂まで行くことができたのだ(これは後日談になるが、この夜、山頂周辺では雪になり、長白山はそのままシーズンを終えて閉山されたという)。

 中国と北朝鮮の国境に連なる長白山脈最高峰の長白山は標高2749メートルの火山。この山から黄海に向かって鴨緑江が、日本海に向かって図們江が流れ出る。東北地方を貫流する大河、松花江も長白山が源流になっている。

 我々が立ったのは外輪山のピークのひとつの天文峰(2670m)。眼下には大カルデラ湖の天池が広がっている。湖の中央が中国と北朝鮮の国境。天池を取り囲む外輪山の峰々は山頂周辺がうっすらと雪化粧している。北朝鮮側の将軍峰が一番高く、中国側で一番高いのは白雲峰(2691m)。山頂の気温は氷点下1度。吹き抜ける風は冷たく、耳がちぎれそう。そんな寒風に吹かれながらも熱い気分で天池を見下ろした。

 山頂から下ると、天池から流れ落ちる大滝の長白山瀑布を見た。標高1250m地点の大滝で高さは68メートル。3条になって流れ落ちている。この滝が黒龍江(アムール川)に合流する松花江の源だ。滝のすぐ下には温泉が湧いている。その夜は大滝に近い「長白山国際旅遊賓館」に泊まったが、豊富な湯量の大浴場は日本風。湯があふれ出る湯船にどっぷりとつかった。 

 長白山から延辺朝鮮族自治州の中心、延吉へ。さらに中朝国境の町、図們へ。そこからは中朝国境を流れる図們江に沿って走った。図們江の対岸は北朝鮮。手の届くぐらいの川幅でしかない。

 揮春でひと晩泊まり、中朝露3国国境の防川に向かう。揮春から46キロ地点、中国と北朝鮮を結ぶ橋のかかっている圏河までは2車線の舗装路。現地ガイドの張さんは揮春からバスに乗り、この橋を渡って北朝鮮に入り、羅津から清津まで行ったことがあるという。

 圏河から先はダート。中国の領土が針のように細長くなる地点には、「UN(国連)メモリアルパーク」の石碑が建っている。そこにバイクを停め、悠々と流れる図們江の川原に降りた。対岸は北朝鮮。漁をする小舟が見える。

 ここではびっくり。なんとぼくのすぐわきに男が1人いるではないか。まるで「渓流浴」でもしたかのようで、濡れた体を拭いている。一瞬、図們江を渡ってきた北朝鮮からの脱北者か!?とも思ったが、まったく荷物は持っていないし、堂々とした態度なので、図們江に沐浴に来た人なのだろうということで自分を納得させた。

 この地点の道の反対側はロシア領。錆びた鉄条網が張りめぐらされている。きっとみんなやっているからなのだろう、鉄条網にはたるんだ箇所があり、そこをくぐり抜けてロシア領に入った。ロシアへのビザなし入国(密入国?)!

「道一本が中国領」といったダートを走り、揮春から69キロ走って防川に着いた。ここはちょっとした観光地。軍の監視塔に隣りあって3階建ての土産物店がある。その屋上が「一眼望三国」の展望台。北朝鮮側には「朝鮮(チョーセン)」、日本海側には「日本海(ルーベンハイ)」、ロシア側には「俄羅斯(オロス)」と、上にハングル、下に漢字で書かれている。

 足下を図們江が流れている。
 右側の北朝鮮と左側のロシアを結ぶ鉄道の鉄橋がかかっている。
 その先の日本海は日の光を浴びてキラキラ光り輝いている。
 北朝鮮側の豆満江駅とロシア側のハサン駅がはっきり見える。

 ハサン駅の背後はゆるやかな山並み。その山並みの向こうはなつかしのザルビノ港だ。 前年の「ユーラシア大陸横断」の第一歩がザルビノ港だった。ロシアへの入国手続きでこの港に降りたとき、ぼくは地図上で見たザルビノ近くのロシア・中国・北朝鮮の3国国境に猛烈に心を揺り動かされ、「いつの日か、きっと3国国境に立ってやる!」と心に誓った。それからわずか1年で、その3国国境に立つことができた。

 名残惜しい防川を後にして延吉に戻る。ここで現地ガイドの張さんと別れ、敦化へ。敦化から吉林に向かう途中で威虎嶺を越えたが、この峠までが延辺朝鮮族自治州になる。

 吉林、長春と通り、10月2日、2590キロを走って瀋陽に戻ってきた。スズキGS125はヘッドライトやテールランプのバルブ切れ以外はトラブルもなく、完璧に走ってくれた。

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東アジア走破行(8)旧満州走破行
「東アジア走破行」の第6弾目は2004年9月21日~10月4日の「旧満州走破行」だ。その一番の感動的なシーンは中国最北端の地に到着した時だ。

「おー、北極だ。おい、尚、ついに北極までやってきぞ!」

 中国・東北部、黒龍江省の中心都市、ハルビンを出発してから6日目のこと。軽騎鈴木製のQS110で1706キロを走り、中国最北端の地までやってきた。

 カソリ親子、感動を爆発させ、「神州北極」の碑の前で思いっきり万歳をした。

「神州」というのは「中国」のこと。中国では国の最北端を「北極」といっている。目の前を黒龍江(アムール川)が流れている。対岸はロシアになる。中露(中国・ロシア)国境を悠々と流れる大河、黒龍江はまさに大陸を実感させる。

 中国最北端の地を存分に味わったあとは、「北極村」を歩く。ほんとうの名前は漠河村なのだが、それを「北極村」といっている。「北極旅飯店(旅館&食堂)」で黒龍江の魚料理の昼食を食べ、「中国最北之家」に行き、中国最北のダートも走った。

 中国最北端の地に立ち、意気揚々とした気分で、中国最北の町、漠河に戻った。その夜は満月。仲秋の名月にはつきものの月餅を食べ、鹿の焼肉や揚げた川エビを肴にビールを飲んだが、なにしろ「北極」に立ったあとなので腹わたにしみるような味わい。何度も「北極」に乾杯した。

 漠河から内蒙古自治区へ。

 漠河出発の朝は気温が氷点下10度まで下がった。このあたりは北緯50度をはるかに超えている。サハリンの最北端とほぼ同じくらいの緯度になるのだが、予想したよりもはるかに寒かった。

 大興安嶺山脈の峠に向かっていくと、小雪がチラチラと舞っている。峠道の日陰のコーナーにはうっすらと氷が張っている。ツルッと後輪が流れ、ヒヤッとした。思わずバックミラーで後ろを走る尚に目をやったが、無事にコーナーをクリアした息子の姿をみてひと安心。このあたりが親だなあ…。

 さらに峠に向かって走っていくと、尚は「ピーピー」クラクションを鳴らして追ってくる。バイクを止めると、「お父さん、もうすこし止まってよ」と、ブスッとした口調でいう。ぼくとしては内蒙古自治区との境の峠まで、一気に走ってしまおうと思っていたのだが…。
「そうか、わるかったな」

 それにしても寒い。ぶ厚い冬用のグローブをしていても、指先は寒さのせいでジンジン痛んでくる。

 黒龍江省と内蒙古自治区の峠を越え、峠下の町に着くと、一目散に食堂に駆け込んだ。 予想をはるかに超えた寒さに徹底的に痛めつけられたカソリ親子、2人してオンドルの壁に手を当て、背中を当てて体を暖めるのだった。

 キャクダチから根河へ。その間では大興安嶺山脈の雪の峠を越える。このあたりでは9月中旬には初雪が降る。真冬になれば氷点下30度から40度ぐらいまで下がる酷寒の地。日本出発がもう何日か遅れていたら、大興安嶺山脈の峠は越えられなかったかもしれない。さすが、「強運のカソリ」、ギリギリのタイミングで大興安嶺山脈の難関を突破した。

 根河からハイラルに向かっていくと、大興安嶺山脈の山並みは遠ざかる。風景は森林から草原へと劇的に変わる。草原にはポツン、ポツンと牧畜民の蒙古族のパオ(テント)が見られた。

 そんな草原地帯を黒龍江の上流のハイラル川が流れている。上流とはいっても川幅は広く、すでに大河の風格があふれている。

 大興安嶺山脈を水源とするハイラル川は中露国境を流れるアルグニ川となり、ロシアから流れてくるシルカ川と合流して黒龍江になる。最後は間宮海峡(タタール海峡)に流れ出るが、大興安嶺山脈から間宮海峡まで全長4353キロ。黒龍江は世界でも有数の大河だ。

 ハイラルから満州里に向かう。やっと猛烈な寒さから開放された。一面の大草原。羊や馬の群れを見る。地平線に向かって一直線に延びる道を走りつづける。風景がデッカイ!

 満州里に近づいたところで砂丘を越えた。モンゴルのゴビ砂漠から延びる砂丘だ。バイクを道端に止め、砂丘のてっぺんに登った。この砂丘こそ、アフリカ大陸からユーラシア大陸へと延びる大砂漠地帯の最東端になる。
「すごいものを見た!」
 という気分に浸った。

 アフリカ大陸の大西洋から紅海まで東西5000キロのサハラ砂漠は紅海を越え、アラビア半島の砂漠からイラン、パキスタンの砂漠へとつづく。さらにカラコルム山脈を越え、タクラマカン砂漠からゴビ砂漠へとつづいている。その東端の砂丘に、「今、立っている!」と思うと、胸の中が焼けるように熱くなってくる。

「砂漠大好き人間」のカソリ、今までに世界の大半の砂漠をバイクで走破してきた。これからも世界の砂漠をもっと走りまわりたいと思っているので、砂丘のてっぺんでモンゴルの方向に目をやりながら、はるか遠くのサハラ砂漠に想いを馳せるのだった。

 満州里に到着すると、町を走り抜けて国境へ。中国側の漢字で「中華人民共和国」、ロシア側のロシア語で「ロシア」と書かれたタワーが鉄路をまたいでいる。その下を木材を満載にした貨物列車がロシア側から中国側へと通り過ぎていく。

 ハルビンからチチハル、ハイラルと経由し、満州里に至るこの鉄道は、ロシア側に入ると、チタでシベリア鉄道の本線に接続している。目の前の鉄路がイルクーツクからノボシビルスクと通り、欧亜を分けるウラル山脈を越え、モスクワからヨーロッパ各地に通じていると思うと、このまま国境を越えて「ユーラシア大陸横断」をしてみたいという衝動にかられた。

 中露国境には平原を切り裂くように地平線のかなたまで、両国を分ける鉄条網のフェンスが張りめぐらされている。国と国の利害がぶつかり合う国境の厳しさを見せつけるような光景だ。しかし国境というのはその向こうの世界への強烈なあこがれを抱かせる場所でもある。国境には異常なほどの執念を燃やすカソリ、満州里の中露(中国・ロシア)国境に立って大いに満足するのだった。

 国境を立ったあとは、満州里近郊の草原地帯にある蒙古族の「パオ・レストラン」で羊肉三昧の昼食。「サンバイノ(こんにちは)」と蒙古語であいさつすると、従業員のみなさんはニコッと笑う。思わずモンゴルで出会ったモンゴル人たちの笑顔を思い出した。国境という一本の線によって中国とモンゴルに分けられたモンゴル人だが、その笑顔は共通のものだ。

 満州里からハルビンに戻ると、中国最東端の地を目指す。ジャムスを通り、同江へ。

 中露国境を流れる黒龍江に、中国・東北地方最大の川、松花江が合流する地点の「三江口」はすごかった。川幅は3、4キロはあるだろう。対岸のロシアが霞んでいた。ちなみに「三江」というのは、黒龍江と松花江、ウスリー江の中国東北地方北部の三大河川のことである。

 ハルビンから915キロ走って中国最東端の町、撫遠に到着。中露国境を流れる黒龍江の河畔には「東極撫遠」の碑が建っている。「北極」と同じように、最東端は「東極」になる。

 だが、ほんとうの中国最東端の地はさらに東になる。撫遠から38キロ走ったところで、中国の道は尽きる。目の前を中露国境のウスリー江が流れている。対岸はロシア。そこから黒龍江とウスリー江の合流地点まで4キロほど歩き、中国最東端の地に立った。

「北極」、「東極」という「二大極点」に立つと、中国大陸をもっとバイクで走りたくなってくる。「南極」、「西極」にも立ってみたくなる。「中国・東極」の地でぼくは「また、次だな!」と、そう自分にいい聞かせた。これが旅のよさ。また新たな世界が広がった。

 10月16日、ハルビンに戻ってきた。全行程6216キロ。1日で一番走ったのは黒河から塔河までの494キロ。なんとそのうち465キロがダート。ラフな区間は穴ぼこだらけ。雨にぬかった区間はドロドロネチネチ。そんなロングダートも走り抜いたので、「よくやったな!」
 と、尚の肩をポンとたたいてあげた。

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(詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』の連載「旧満州走破行2004」をご覧ください)

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東アジア走破行(10) 韓国往復縦断(2)
「東アジア走破行」第7弾目の「韓国往復縦断」(2005年10月)では、韓国最北端の地、北緯38度35分12秒、東経128度22分30秒の高城統一展望台で折り返し、束草に戻った。
 その途中では、日本海の海岸にある李承晩の別荘を見ていく。李承晩(1875年-1965年)といえば、かの悪名高き「李承晩ライン」で知られる韓国初代の大統領。この別荘は1953年以降、使われたものだという。
 それにつづいて金日成の別荘に行く。別荘近くの日本海の海岸は映画の舞台になったところで、そこでは韓国人の婦人3人がうれしそうに記念撮影をしていた。金日成(1912年-1994)といえば北朝鮮の独裁者。1948年から1994年までの長きにわたって北朝鮮を支配した。この別荘は1945年以降、使われたものだという。
 別荘内に展示されている朝鮮戦争(1950年-1953年)での北朝鮮の侵攻図には目を奪われた。それには「6・25」と赤字で大きく書かれているが、北朝鮮は1950年6月25日をもって韓国に侵攻した。怒涛のごとく南進し、あっというまに釜山近くまで攻め込んだ。韓国政府はあわや済州島に逃げ落ちるという寸前まで追い込まれたのだが、北朝鮮の侵攻図にはそれが描かれている。朝鮮戦争は1953年7月27日に停戦。しかしそれは終戦を意味するものではない。いまだに朝鮮半島に一発触発のきな臭さが漂うのは、朝鮮戦争が終結していないことが大きく影響している。
 金日成の別荘では1枚の写真にも目を引かれた。この別荘に遊びに来ていた金正日の写真だ。晩年の醜さからは想像もできないようなかわいらしい少年の姿が目に残った。
 それにしても李承晩と金日成という、今日の韓国と北朝鮮に大きな影響を与えた2人の人物の別荘が日本海の海岸のすぐ近くにあったというのは、何とも興味をおぼえる話ではないか。
 束草の「シップホテル」に戻ると、海沿いの食堂で夕食。キムチなどズラズラッと10皿の料理が並んだ。それをご飯とチゲと一緒に食べた。金属の箸と匙、ご飯の入った器も金属器。これが韓国の食の3点セット。韓国語でチョッカラという箸は長さが20センチにも満たない短いもので、なおかつ細い。この短い細い金属の箸に慣れるのには、なかなか時間がかかるものだ。一方の匙はスッカラといわれるが、匙面は楕円形で、柄は真っ直ぐになっている。長さは箸とほぼ同じ。韓国での箸と匙の使い方は、はっきりと分かれている。箸でおかずをつまみ、匙でご飯と汁をすくう。食堂でまわりの人たちを見ていると、箸よりもより頻繁に匙を使っているように見える。箸を使っているのが目に入らないくらいで、韓国における匙の重要性を思わせるような食堂での光景だ。
 食べ方で日本と大きく違うのは、ご飯と汁は各人に配られるがおかず類はみんなで一緒に食べることだ。直箸で口まで運ぶ。取箸や取皿はない。みなさんの食べ方を見ていると、ご飯や汁の入った器を手で持ったり、直接口をつけたりはしない。器は膳に置いたままで、匙ですくって食べる。熱伝導率の高い金属器を使ってきた韓国の食の習慣が、このような食べ方になったのだろうか。それとも、もともとこのような食べ方なので金属器が発達したのか。非常に興味をそそられる。
 夕食を食べ終わると、メンバーのみなさんと一緒にナイトマーケットを歩く。魚介類の夜市。生きのいい鮮魚が並び、生簀の活魚も売られている。露店の天ぷら屋を発見。おばちゃんの揚げたての天ぷらは超美味。我々はゴソッと天ぷらを買い、それを肴にマッカリや焼酎を飲んだ。

 翌日は夜明けとともに起き、海岸線を歩いた。きれいな朝日が日本海の水平線に昇る。町並みの向こうには韓国一の名峰、雪岳山の峰々が見える。なつかしの雪岳山。束草は雪岳山の玄関口になっている。
 雪岳山は太白山脈の主峰で、標高1708メートルの青峰山が最高峰。北の弥矢嶺と南の寒渓嶺を結ぶ稜線の東側が外雪岳、西側が内雪岳と呼ばれている。金剛山と並ぶ昔からの朝鮮の霊峰で、山中には神興寺や百潭寺などの古刹がある。束草からバスで終点の雪岳山国立公園入口まで行き、全長1100メートルのロープウェイで権金城の山上駅へ、そこから徒歩10分ほどの権金城の岩峰の頂上に立つというのが最もポピュラーな探訪コースになっている。
 1973年に来たときは雪岳山の岩峰のひとつ、蔚山岩に登った。梯子や鎖を使うけっこうきつい登りだったが、苦労して登ったかいがあった。山頂からの眺望はすばらしいものだった。見渡すかぎりの大展望は、今だに目に焼きついて離れない。足下に束草の町並を見下ろし、その向こうには日本海がはてしなく広がっていた。目を北に向けると、金剛山へとつづく山並みを一望し、はるかかなたには町並みが見えた。一緒に登った仁川から来たという大学生の5人組は、「あれは北朝鮮の高城だ!」と、口々にいっていた。
 韓国の山の表情はあの頃とはずいぶんと変わっていた。1973年当時は、やたらとはげ山が目立った。この30年余、韓国では植林に力を入れてきたが、その成果がはっきりと出ている。山々には樹木が茂り、かつてのはげ山も今では青々としている。
「シップホテル」に戻ると、前日と同じ食堂で朝食。前日と同じメニューに焼き魚がついた。
 束草を出発。海沿いの国道7号を南下。襄陽に向かっていく途中では国道の右手に連なる雪岳山の山々を眺めながらDR-Z400Sを走らせた。1973年の蔚山岩の山頂から眺めたシーンが、DRに乗りながら鮮やかに蘇ってくる。「またいつの日か、束草に来よう!」。そのときは雪岳山の最高峰の大青峰に登るのだ。
 襄陽から江陵、東海と日本海沿いの町々を通り過ぎていく。三陟からは国道38号で内陸に入り、太白山脈の山中の町、太白へ。ここは「東アジア走破行」第3弾目の「ソウル→北朝鮮」(2001年)の思い出の地だ。
 太白からは国道31号を南下し、江原道から慶尚北道に入る。太白山脈の山中に食堂を見つけ、昼食にする。ここではうどんを食べた。名古屋のきしめん風のうどんだったが、麺には腰がなくフニャフニャ。つづいてキムチと納豆でご飯を食べた。納豆を「チョングッチャン」といってたが、味噌と合わせたもの。日本の納豆とは味が違うが、韓国にも納豆があることを知って感激して食べた。日本と韓国はやはり似たような食文化圏にある。食堂の裏手には自然木を使った2段重ねのミツバチの巣箱があったが、これも九州山地の山中で見たものと似ていた。
 国道31号をさらに南下し、三者峠を越える。ここには「峠の茶屋」があって、韓国風のおでんを食べた。そのあと地元産のリンゴ、「ヒロサキ」を食べた。この地方のリンゴは小さいものだったが、日本の津軽のリンゴを入れてから、このような大きなリンゴが出来るようになったのだという。
 三者峠を越えると、英陽、青松と太白山脈の山中の町を通り、浦項へ。「韓国往復縦断」の往路編のときと同じように「ラマダアンコールホテル」に泊まり、韓国の名物料理、「サムゲッタン」の専門店で夕食にする。サムゲッタンは若鶏の腹の中に高麗人参やなつめ、糯米、栗、ニンニクなどを入れて煮込んだ料理。これを食べるとものすごく元気が出る。カソリ、さっそくサムゲッタンにかぶりつき、きれいに食べつくすのだった。

 翌朝の朝食はホテル近くの食堂で。朝食のおかずは全部で10皿出た。その中にはドングリの粉から作ったコンニャク状の「トトリーム」や桔梗の根の「トラジ」があった。トトリームは日本でも九州山地の山村に残っているカシの実の粉から作るカシノミゴンニャクとまったく同じもの。トラジは体にすごくいいという。
 浦項を出発し、迎日湾に突き出た岬、シャンギ串へ。ここには灯台があり、奇妙な手のモニュメントもある。韓国人はこの岬が韓国本土の最東端だといってるが、GPSで計測すると、それよりも南の地点が韓国本土の最東端地点になる。最東端地点の入口には「海成水産」という水産会社がある。ここは「東アジア走破行」第2弾目の「韓国一周」(2000年)で、カソリが韓国本土の最東端と確定したポイントだ。韓国人が最東端だといっているシャンギ串は東経129度34分10秒。カソリの確定した「海成水産」の脇の道を入った海岸は東経129度34分54秒。このようにかなりの差で「海成水産」の海岸の方が東になる。
 韓国本土最東端の地点に立ったあとは、海沿いの道を走って蔚山の町に入っていく。
 ここは韓国最大の財閥「現代」の企業城下町。現代造船や現代重工、現代自動車などの大工場群がつづく。なお「現代」だが日本語では「ゲンダイ」、英語では「ヒュンダイ」、韓国語では「ヒョンデ」になる。
 蔚山からは国道14号で釜山へ。10月14日16時、釜山港の国際フェリーターミナルに到着。「釜山→釜山」の「韓国往復縦断」は1178キロになった。国際フェリーターミナル内の食堂で最後の食事。カルビ、ビビンバ、プルコギ、鍋と、我々はたら腹食べた。
 いよいよ韓国に別れを告げるときが来た。出国手続きを終え、関釜フェリーの「はまゆう」に乗船。船は定刻通り、20時に釜山港を出港。船が釜山港フェリー埠頭の岸壁を離れると、我々はビールパーティーを開始した。350ml(170円)と500ml(220円)の缶ビールをガンガン飲みながら、「韓国往復縦断」の思い出話に花を咲かせた。 10月15日8時、関釜フェリーの「はまゆう」は下関港に到着。下船したところで「韓国往復縦断」のメンバーのみなさんと別れた。ぼくはここから日本海に沿って新潟へ。

 まずは下関の唐戸市場に行きすしを食べる。日本に帰ってきたらコレが一番。アナゴ、赤イカ、タイ、ヒラマサ、サバ、アジ、ヒラメ、カイバシラと8種取って1050円。それを下関名物の「フグ汁」(500円)を飲みながら食べた。
 下関駅前から日本海沿いの国道191号を行く。本州最西端の毘沙ノ鼻に寄り、難解地名の特牛(こっとい)を過ぎたところで角島に渡り、本州最西北端の川尻岬に立った。川尻岬の近くにはなぜか中国の楊貴妃の墓がある。長門ではB級グルメの「焼鳥」を食べ、萩では海辺の萩城跡を歩き、須佐の食堂で「焼肉定食」を食べた。
 山口県から島根県に入り、益田で国道9号に合流。浜田を通り、出雲市駅前の「東横イン」に泊まった。

 出雲市駅前の「東横イン」では「おにぎり&味噌汁」の朝食を食べてから出発。出雲大社を参拝し、出雲神話の舞台にもなっている稲佐の浜でDR-Z400Sを止め、波静かな日本海を眺めた。日御碕に到着すると、まずは日御碕神社を参拝し、次に200円を払って日御碕灯台に登る。さすが日本一のノッポ灯台、息を切らして162段の階段を登っていく。高さ43メートルの灯台の上からの眺めは絶景だ。灯台を降りると、「まの商店」で「海鮮丼」(1200円)を食べた。朝獲りだというヒラマサがメチャうま。プリンプリンした食感がたまらない。
 日御碕から出雲大社に戻ると国道431号で松江へ。その途中では一畑薬師に寄っていく。仁王門、本堂、観音堂とまわったが、ここでは「合掌低頭」が胸にしみる。ぼくの好きな言葉だ。
 トローンとした湖面の宍道湖を見ながら走り、松江の町に入っていく。松江といえば松江城。慶長5年(1600年)に堀尾氏が築城した松江城は現存する日本の「12天守」のひとつ。城主は堀尾氏のあとは京極氏から松平氏へと変っていく。
 松江からさらに国道431号を行く。中海を見ながら走り、途中、隠岐へのフェリーが出る七類港に立ち寄った。国道431号に戻ると、境水道を跨ぐ境水道大橋の下をくぐり抜け、島根半島東端の地蔵崎へ。岬への入口が美保関。昔からの港町。DRを止めて漁港を歩き、古い町並みを歩き、美保神社を参拝した。美保関から地蔵崎へ。そこには美保関灯台が建っている。岬の断崖上に立つと、水平線のかなたに隠岐が霞んで見えた。
 地蔵岬で折り返し、境水道大橋を渡って鳥取県に入り境港へ。幅の狭い境水道が島根・鳥取の県境になっている。境港の隠岐へのフェリーターミナルに寄って国道431号を南下。皆生温泉を過ぎたところでは、日吉津温泉「うなばら荘」(入浴料450円)の湯に入った。無色透明の湯には苦味がある。浴室からは夕日に染まった美保湾が眺められた。 日吉津温泉からは国道9号のナイトラン。大山町の食堂「おおさか」で「焼き魚定食」(1150円)を食べ、鹿野温泉の国民宿舎「山紫苑」に泊まった。

 鹿野温泉の国民宿舎「山紫苑」の朝食を食べて出発。国道9号に近いJR山陰本線の浜村駅前でDR-Z400Sを止める。駅前には「貝がら節発祥の地」碑。つづいて国道9号の展望台、龍泉台でDRを止める。そこからは日本海の白兎海岸を一望。鳥取を過ぎたところで鳥取砂丘へ。砂丘のてっぺんまで歩き、日本海を見渡した。鳥取砂丘近くの砂地の畑では名産のラッキョウの紫色の花が咲いていた。 
 国道9号から国道178号に入り、鳥取・兵庫県境を越えると、日本海の海岸線を行く。浜坂を通り、余部鉄橋の下を走り抜け、香住からは県道11号に入る。県道11号からの眺めはすごい。海に落ちる断崖の連続する風景。円山川河口の津居山漁港から城崎温泉へ。ここではJR城崎温泉駅前の「さとの湯」(入浴料800円)につかった。
 円山川沿いに豊岡まで走ると、国道178号で河梨峠を越えて京都府に入った。
 波静かな久美浜湾から丹後半島に入り、日本海を見ながら走る。丹後半島最北端の教ヶ岬に到着。駐車場にDRを止め、岬の突端の灯台まで歩いた。ここは近畿最北の地。岬の展望台からは日本海に落ちていく真っ赤な夕日を眺めた。
 経ヶ岬からは若狭湾岸の道を南下し、伊根温泉の「桜泉荘」に泊まった。大浴場、露天風呂と入り、湯上がりの生ビールを飲んだあと夕食。タイ、イカ、アジ、サワラ、ダイリキ(カンパチの子供)とすべて地魚の刺身の盛合わせはうまかった。

 翌朝は朝湯に入り、湯から上がると朝食。温泉卵、煮物、酢の物、漬物、海苔のほかに一夜干しのカレーの焼き魚が出た。
 伊根温泉を出発。いよいよDR-Z400Sでの「韓国往復縦断」、最後の日だ。
「いくぞDRよ!」
 海岸沿いの道を走り、「浦島太郎伝説」の宇良神社を参拝。「徐福渡来の地」といわれる新井崎に寄り、伊根湾沿いに舟屋の並ぶ伊根の集落に入っていく。若狭湾の定置網でのブリ漁で知られる伊根は興味をそそられる。
 国道178号を南下。丹後の一宮、籠神社を参拝し、リフトに乗って傘松公園に登る。そこから日本三景の天橋立を見下ろした。
 宮津を通り、舞鶴に到着。「とれとれセンター」では若狭湾の海の幸を満喫。まずは生ガキを食べる。つづいてイカ、エビ、サザエ、ホタテの海鮮焼き。これら全部を合わせても1500円。鮮度抜群の海鮮焼きだ。
 舞鶴では引揚記念公園内にある「引揚記念館」を見学。ここには数多くの戦後の引揚者の資料が展示されている。引揚者を乗せた引揚船といえば「興安丸」だ。下関と釜山を結ぶ関釜連絡船の新鋭船だった「興安丸」による引揚者数は17891名。全部で22回、引揚船としての航海をした。中国大陸や朝鮮半島、シベリア、樺太からの引揚者は舞鶴港に上陸した。
 ところで関釜連絡船は昭和10年代に入り、日本の大陸への進出が加速度的になると、次々に新造船が造られていく。昭和11年には当時の日本としては最優秀船として海運界から注目された7000トン級の「金剛丸」型が就航し、さらに昭和17年には8000トン級の「天山丸」型が就航。「興安丸」はその第2船目として造られた。そのあとに「崑崙丸」も就航している。
 これら関釜連絡船の新鋭船の船名を見ると、当時の日本の大陸進出に賭けた想いを見ることができる。「金剛丸」は朝鮮半島の金剛山に由来している。「天山丸」は中央アジアの天山山脈に由来している。「興安丸」は北東アジアの大興安嶺山脈に由来している。そして「崑崙丸」はヒマラヤ山脈の北側に延びる崑崙山脈に由来しているのだ。
 舞鶴からは国道27号を行く。京都府から福井県に入り、小浜を通り、敦賀へ。
 16時、敦賀に到着。下関から800キロ。敦賀では「日本海さかな街」で「海鮮丼」(1580円)を食べた。タイ、マグロ、ハマチ、アジ、ヒラメ、サバ、サケ、タコ、イカ、ウナギ、イクラと何と11種もの具がのっている。これを最後に敦賀ICで北陸道に入り、福井、金沢、富山と走り、新潟県に入る。糸魚川、直江津と過ぎ、米山SAでDRを止めた。夜の日本海を見たが、それが最後の日本海になった。
 長岡JCTで北陸道から関越道に入り、東京へ。環8経由で東名に入り、伊勢原の我が家に到着した時には白々と夜が明けていた。

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東アジア走破行(11)シルクロード横断
 2006年の「道祖神」のバイクツアー、「賀曽利隆と走る!」の第12弾目、「シルクロード横断」が「東アジア走破行」の第8弾目になる。

 8月16日に東京を出発し、神戸港からスズキの400㏄バイク、DR-Z400Sともども中国船の「燕京号」に乗り込んだ。天津に渡り、シルクロード玄関口の西安へ。そこから一路、西へ西へと走った。

 天山山脈南麓のコルラからタクラマカン砂漠を縦断し、崑崙山脈北麓のニヤへ。
 ニヤからシルクロードの西域南道でホータン、ヤルカンドと通り、中国西端の町カシュガルへ。

 カシュガルからはフェルガナ山脈のトルガルト峠(3752m)を越えてキルギスに入った。このトルガルト峠までのコースが「東アジア走破行」になる。

「シルクロード横断」ではその後、キルギス→カザフスタン→ウズベキスタン→トルクメニスタンと中央アジアの国々を走り、さらにイランからトルコへ。東京から1万3171キロを走破し、10月10日にゴールのイスタンブールに到着した。

「タクラマカン砂漠縦断」では延々とつづく大砂丘群を見ながら走った。その途中では砂丘のてっぺんに立ち、際限なく広がる大砂丘群を一望した。

 中国西端の町、カシュガルからはトルガルト峠に向かう前に、パキスタンとの国境のクンジェラブ峠に通じるカラコルムハイウエーを南下し、標高3600メートルの地点にある神秘的なカラクリ湖まで行った。湖の北側にはゴングール峰(7719m)、南側にはムスタックアタ山(7546m)がそそりたち、抜けるような青空を背にした雪山の白さはまぶしいほどだった。

 トルガルト峠を越えたキルギスのイシククル湖(クルは湖の意味)越しに見た夕日を浴びた天山山脈のズラズラッと連なる雪山群の眺めは、強烈に目の底に残った。

「シルクロード横断」では天山山脈をはじめ崑崙山脈、カラコルム山脈、パミール高原と、中央アジアの大山脈を間近に眺めることができ、「カソリの世界地図」の空白の部分を埋めることができた。とくにその中でも、天山山脈の大きさには驚かされた。最初に出会ったのは中国・新疆ウイグル自治区に入ってまもなくのことで、シルクロードのオアシス、ハミの近郊だった。砂漠に落ちる前山の向こうにトムラッチ峰(4880m)を見た。山頂周辺の雪が陽炎のように揺れていた。

 中国とキルギス国境のトルガルト峠は、天山山脈とパミール高原の接続部の峠。キルギスの首都ビシュケクで見た天山山脈の風景もすばらしいもので、カザフスタンからウズベキスタンへの道は砂漠に落ちていく天山山脈の西端を越えている。

「シルクロード」はぼくにとっては特別な世界。小学校4年生のときのことだが、国語の教科書でスウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンの「タクラマカン砂漠横断記」を読んだ。それにすっかり感動し、その後、小学校の図書館にあった子供向けの中央アジア探検記を全巻、読んだ。そして「(大人になったら)中央アジアの探検家になるのだ!」と心ひそかに決めた。

 シルクロード全域の踏破というのはその時からの夢であり、憧れだった。

「シルクロード横断」の途中でぼくは59歳の誕生日を迎えたが、シクロードへの憧れを抱いてから49年目にして、10歳の少年時代の夢を果たすことができたのだ。

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(詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』の連載、「シルクロード横断」をご覧ください)