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世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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Author: 賀曽利隆
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Category: 中国旅40年

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カソリの中国旅40年(1)
「広州→上海」2200キロの中国ツーリングから帰ってきた。
 今回の中国旅はいろいろな意味で、すさまじいものだった。またそれを成しとげたことによって、自分が新たなステップを踏み、別な世界に昇っていったような気もする。

 12月2日、出発点の広州に到着。人口1500万の広州上空はひどい大気汚染。息をするのも苦しいほど。世界第2の工業生産地帯、珠江デルタの中心都市だけあって、町は車の洪水。いたるところで大渋滞が発生していた。

 そんな広州を出発。125ccスクーターのスズキ・アドレスV125Gを走らせ、上海を目指したが、驚いたことに国道324号沿いには途切れることなく市街地がつづく。ちなみに国道324号は福建省の福州から広東省の広州を経由し、雲南省の昆明に至る全長2600キロの国道だ。

 福建省に入るとわずかに田園風景を見たが、すぐにアモイへとつづく市街地に入っていく。さらにそれが泉州から省都の福州へとつづく。広州から福州までは1220キロ。その間、市街地が途切れることはほとんどなかった。

 福州からは国道104号→国道320号で上海まで行くのだが、その間もほぼ同様で、なんと「広州→上海」2200キロ間がメガロポリスになっている。アメリカ東海岸の「ボストン→ワシントン」、日本の太平洋岸の「東京→大阪」などを上回る世界最大のメガロポリスといっていい。

 人口1600万の上海に到着したのは12月11日。上海は世界一の工業生産地帯、長江デルタの中心都市。大気汚染もすさまじいもので、結局、「広州→上海」間では、一度として抜けるような青空を見ることはなかった。

 今回の「広州→上海」2200キロを走ったことによって、ぼくは今までのいくつかの中国旅が無性になつかしく思い出され、それがまたじつにうまく結びつき、さらに中国旅への夢がふくらんだ。
「よーし、次は中国一周だ!」

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広州から2252キロ走って上海に到着。万歳!

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: 中国旅40年

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カソリの中国旅40年(2)
 ぼくが初めて中国大陸を見たのは今から40年以上も前のことになる。

 1968年4月12日、横浜港からオランダ船の「ルイス号」に友人の前野幹夫君と乗り込んだ。2台のスズキTC250も一緒。カソリ、「アフリカ大陸縦断」を目指しての20歳の旅立ちだ。

「ルイス号」は名古屋、神戸、釜山と寄港し、10日後の4月21日、香港に到着。
 香港には4日間、停泊した。この間で見た中国大陸の風景は今でも目の底に焼きついている。 
 そのときの様子は次ぎのようなもの。

~・~・~・~・~

 北回帰線を越えて南シナ海に入り、「ルイス号」は香港に向かう。水平線のむこうに、かすかに中国大陸が見える。漁をしているのであろう、独特の帆をつけた小舟(ジャンク)がたくさん見える。

 昼食を知らせる鐘の音で目をさます。
 船は香港に近づいていた。九竜(クーロン)や香港島のニョキニョキと空に伸びた高いビルがやたらと目につく。船は沖に停泊した。

 昼食のあと、ランチで九竜に渡った。まずぼくたちが驚いたのは、女の子たちの足だった。ぶかっこうな足ばかり見て20年も育ったぼくたちにとって、スラッと伸びた中国人の女の子たちの足は驚異だった。

 物のない釜山からきたので、香港の豊富な物が、ひときわ目についた。九竜の中心街を歩きまわったところで、いったん船に戻り、夕食のあとは香港島に渡った。5時間も歩き、クイーンズピアから夜中の最終便で船に戻った。そのあとはまばゆいばかりの香港の夜景を見ながら、甲板での酒盛りである。

 次の日は、御前中は九竜の中心街を歩き、午後は歩いて歩いて、歩きまくった。メインストリートのネイザン通りをどこまでも行き、タイポー通り、ランチェ通りと行くと、九竜の町並みや港、景徳飛行場などが、一望のもとに見渡せる高台にくる。そこでは歩き疲れて眠ってしまった。

 頭の上を飛ぶジェット機の爆音で目をさまし、ふたたび歩きはじめ、サンポーコンのスラム街へと下っていく。あたり一面に漂う強烈な臭い。狭い道の両側に続く無数の露店。そこでは野菜、魚、雑貨、生きたニワトリやアヒル、洋服、布、おもちゃ…と、何でも売っている。人、人、人。耳がおかしくなってしまいそうな音、音、音。ぼくはそこに、すでに日本では見られなくなってしまった東洋独特のバイタリティーを見たような気がした。

 のどが乾いたので、露店でパイナップルを食べると、ひときれ5セント(約3円)、麺を食べると、1杯10セント(約6円)といった具合。こんなところで1年ぐらい、住みたいと思ったほどだ。

 その次ぎの日。
 九竜駅から広州行きの九広鉄道で、中国との国境に向かった。9時30分発の12両編成の緑色のジーゼルカー。油麻地(ユマチ)、沙田(シャティン)、大学駅(ユニバーシティーステーション)、大浦(タイポー)カク、大浦マーケット、粉嶺(ファンリン)と通って10時30分、上水(シャンスイ)に着いた。

 ほんとうは国境の駅、羅湖(ローフー)まで行きたかったが許されず、上水で列車を降り、バスに乗った。
 元朗(ユエンロン)行きのバスに乗って途中で降り、そこから歩き、香港領新界と中国を分ける深セン河を見下ろす高台に立った。おだやかな田園風景が広がり、その中に、やさしい感じの山々がいくつも見えた。
 そんな風景をぶち壊すかのように、バリケードが幾重にもなって張りめぐらされていた。

 ぼくは小さい頃から、中央アジアに異常なほどの興味を持っていた。
 ヘディンやスタイン、ヤングハズバンド、大谷探検隊などの中央アジア探検記を目を輝かせ、夢中になって読みふけったものだ。いつしかぼくはチベットやタクラマカン砂漠、天山の山々、さらにはトルファンの盆地からゴビ砂漠へと、アジア大陸の奥深い一帯をさまよう自分自身の姿を思い浮かべては、子供心をときめかせていた。

 目の前に広がる中国大陸を見ていると、有刺鉄線を越え、川を越え、はるかかなたのアジア大陸の奥地を目指して、「流浪の旅を続けたい!」という強い衝動にかられるのだった。
(『アフリカよ』1973年・浪漫刊より)

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当時の日記帳に描いた香港(九竜)の町並み

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カソリの中国旅40年(3)
 2度目の中国は1984年。5月22日、マレーシア航空で香港・景徳空港に降り立った。15年ぶりの香港はすっかり装いを変え、近代的な大都市になっていた。あちこちにあった大陸からの難民でごったがえすスラム街も、きれいさっぱりとなくなっていた。高層ビルはより高層になり、摩天楼を造りだしていた。

 九竜からフェリーで香港島に渡り、ピークトラムでビクトリアピークに登り、香港、九竜を一望。絶景を満喫した。九竜に戻ると今度は地下鉄に乗り、終点まで行き、郊外のニュータウンを歩いた。

 翌日は立派になった九竜駅から電車に乗って、国境の羅湖駅まで行った。高層住宅がどんどんと郊外へと延び、上水駅周辺は大きな町になっていた。目を見張らせるような変わり方だ。15年前に見た光景は、まるで幻であるかのような激変ぶりだった。

 九竜に戻ると、香港島に渡り、水中翼船でマカオへ。
 1時間あまりの船旅を楽しんだが、海の色が途中で変わった。南シナ海から巨大な珠江の河口に入ったのだ。
 珠江河口のマカオに到着。ホテルを決めると、さっそく町を歩く。マカオといえばカジノ。「リスボンホテル」のカジノは熱気であふれていた。運試しにスロットルマシンをやってみたが、100香港ドルをすったところでやめた。

 カジノを出ると、マカオを歩いた。市場を歩き、繁華街のアルメイダ・リベイロ通りを歩いた。さらにセントポール寺院、要塞、漁港と見てまわった。

 翌日は郊外へ。バスでタイパ島に渡り、島内を歩いた。魚醤油の店ではつくっているところを見せてもらった。漁港を歩き、漁村を歩いた。

 同じバスでマカオに戻ると、今度は中国との国境へ。大きな荷物をかかえて中国に帰っていく人たちの長い列ができている。車も頻繁に行き来している。マカオナンバーと中国ナンバーの両方のナンバープレートをつけた車が多い。

 マカオ滞在の最後の日、5月25日にはワンデーツアーで中国に行った。
 6時に起き、レストランで朝食を食べ、9時に中国旅行社前へ。胸がドキドキする。9時30分、出発。バスには全部で11人が乗った。台湾人夫妻、オーストラリア人夫妻、アメリカ人夫妻、オーストラリアからの女性4人組、アメリカからの男性2人組、それと自分。国境までくると、まずはポルトガル側のゲートを通過し、中国側に入っていく。イミグレーション、カスタムともにスムーズ。まったく問題なく中国に入った。

 中国側に入ると、英語の上手なガイドが乗り込んできた。車内からは自由に写真を撮れる。それが驚きだった。川で洗濯をしている女性を見れば、バスは停まってくれ、そこで写真をパチリ。ガチョウを飼っているところでもバスは停まり、写真をパチリ。

 ユーカリの並木道を行く。通り過ぎる車は乗用車は日本製が多い。トラックはほとんど全部が中国製だ。

 村の中に入っていく。そこでバスは停まる。しばらくは自由時間といったところで、村内、どこでも自由に歩けた。
 出発。中山へ。ここは孫文の生まれ故郷。孫文の生家、孫文の記念館を見学。中山のレストランで昼食。ビール、ワインは飲み放題。炒飯、スープのほかに6品の料理が出た。いたれりつくせりのワンデーツアー。

 最後は珠海。町の中心、香州を30分ほど歩いた。ショッピングセンターにはプールや実弾での射撃場もある。ここを最後にマカオに戻ったが、中国は中国旅行社などを通して、懸命になって外国人観光客を受け入れようとしている姿が見てとれた。

 わずか1日のツアーだったが、そこで見た中国は想像していたよりもはるかに近代化していた。
 その翌日、マカオから香港に戻り、マレーシア航空で日本に飛んだ。

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カソリの中国旅40年(4)
 3度目の中国は1988年。長女が小学校6年生になったときのこと。子供たちの夏休みを利用し、7月26日、妻と長女、次女、長男の一家5人で大阪南港から上海行きの船「鑑真号」に乗り込んだ。

 上海到着は7月28日。中心街のホテル「上海大カ」に泊まり、女性ガイド宋さんの案内で玉仏寺、虹口公園、予園、上海博物館…とまわり、上海雑技団(サーカス)を見た。子供たちは皿まわしや猿の自転車、パンダの曲芸に大喜び。

 上海には4日間、滞在。その最後の日には黄浦江の遊覧船に乗り、長江(揚子江)の河口まで行った。長江の河口は海と変らない広さ、大きさだった。

 上海からは列車で北京へ。20両編成の寝台急行。16時に上海駅を出発すると蘇州、無錫、常州、鎮江と通過し、19時25分、南京着。南京を過ぎたところで渡った夕暮れの長江が目に残った。夜中の3時30分に山東省の済南に停車し、夜が明けると列車は華北の大平原を走っていた。7時20分、天津着。終点の北京駅到着は9時だった。

 北京では西長安街の「民族飯店」に泊まり、男性ガイドの羅さんの案内で天安門広場を歩き、人民大会堂、故宮を見学。映画「ラストエンペラー」の舞台を見たといって子供たちは感動の様子。

 その翌日は待望の万里の長城。明の十三陵を見たあと八達嶺の万里の長城を歩く。さすが世界の観光地。人、人、人…。外国人観光客が多いが、それよりもはるかに中国人観光客の方が多かった。1時間ほど万里の長城を歩いたが、あまりの規模の大きさに圧倒されてしまう。子供たちは売店で買った人民帽をかぶって嬉々としている。

 北京滞在の最後の日は、北京動物園を見てまわる。お目当ては4頭のパンダ。パンダたちはスースーと気持ちよさそうに寝ていた。最後に大庭園の「イ和園」を歩き、8月4日、UA890便で成田に飛んだ。

 上海、北京の2都めぐりの中国旅だったが、妻と子供たちは全員が「北京よりも上海の方がおもしろかった」といっていた。子供たちにとっては上海雑技団が一番の人気のようだった。

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妻と子供たち、ガイドの宋さん(左端)。上海で

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カソリの中国旅40年(5)
 バイクで中国を初めて走ったのは1994年の「タクラマカン砂漠一周」。そのときの「中国旅」を『世界を駆けるゾ! 40代編下巻』(フィールド出版・2000年11月刊)より紹介しよう。

第3章 タクラマカン砂漠一周

「中央アジアの探検家になるんだ!」
 中央アジアのタクラマカン砂漠というのは、ぼくの子供時代からの憧れだった。
 小学校4年生のときのこと。国語の教科書に、スウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンのタクラマカン砂漠横断記がのっていた。命がけで大砂漠を越え、ホータン川の河畔にたどり着くまでの物語は、胸がジーンと熱くなるほどに感動的だった。それ以降というもの、ぼくは夢中になって、中央アジア探検記を読みあさった。

「大人になったら、絶対に、中央アジアの探検家になるんだ!」
 と、子供のころは本気でそう思っていた。

 中学生になっても、ぼくの中央アジア熱は衰えず、シルクロード横断を夢みていた。それが高校生になるころから、
「中央アジアの探検家だなんて、なれるわけがない‥‥」
 と、へんに現実に目覚めてしまい、いつしか中央アジアはぼくの視界から遠のいていった。

 あれから30数年、ついに子供のころの夢を実現させるときがやってきた。
 第1章でふれた東京・目黒の旅行社「道祖神」主催のバイクツアー「カソリと走ろう!」シリーズの第2弾で、タクラマカン砂漠を走ることになったのだ。

我ら「新疆軍団」、成田に集合
 1994年9月21日、ぼくは胸を踊らせて神奈川県伊勢原市の自宅を出発。ヘルメットやブーツ、バイク用のウエアなどの入ったバッグを手に持ち、ザックを背負って小田急線で新宿に出る。新宿からは13時42分発の「成田エクスプレス21号」に乗り、14時58分、成田空港に到着。

「さー、これから始まるんだ、夢のタクラマカン!」
 と、まわりにいる人たちに叫んでまわりたいような気分だった。

 団体専用のカウンター前で、我ら「新疆軍団」のメンバーと落ち合う。うれしいみなさんたちとの出会いだ。参加者11名のほかに、ツーリングバイク誌『アウトライダー』副編集長の菅生雅文さん、「道祖神」の菊地優さん、それとカソリの総勢14名。

 今回のバイクツアーは「賀曽利隆と走るタクラマカン砂漠縦断12日間」。あのスウェン・ヘディンのホータン川沿いのルートで、タクラマカン砂漠を北から南へと縦断しようという企てだ。

 参加者の11名のみなさんは、多士済々の、ツワモノそろいだ。
 坂間克己さんは「目指せ、エアーズロック!」で一緒に走った「豪州軍団」の仲間。飯田明男さんは1992年に50日もの休暇をとり、オーストラリアを走った。そのときの旅を『夢は荒野を駈ける-酔どれサラリーマン、豪州大陸を行く』(蝸牛社)という本にまとめている。

 永長紀明さんはニュージーランド、鹿島孝智さんはモンゴルを走った。仲洋一さんは3度目の新疆。手塚克之さんは「日本一周」を成しとげ、タクラマカンの次はサハラだといっている。

 菅原裕さんは「アウトドア命!」。寺町玲さんは大学で中国語を専攻したが、新疆はそのころからの憧れの地だ。「オフ車に乗るのは初めてなんですよ」という川又清豪さんは20万円をかけて東京・上野で買いそろえてきたというピカピカの用品を手に成田にやってきた。「新疆軍団」最年少の黒川高広さんは、何事にもきわめて好奇心旺盛だ。

 紅一点の滝沢敏子さんは信州美人。シルクロードツーリングの経験者なのだ。タクラマカンでは中国人スタッフに大モテだ。

 成田発18時00分のUA(ユナイテッド航空)853便で北京へ。北京到着は21時25分。日本とは1時間の時差があるので、4時間25分の飛行時間だ。

 空港からはマイクロバスで市内へ。完成間もない高速道路を突っ走り、中心街に入っていく。6年ぶりの北京だったが、高速道路の完成といい、新しい高層ビル群といい、中国の経済的な発展が一目でわかるような北京の変わりようだった。

「北京展覧館賓館」に泊まる。“賓館”とはホテルのこと。「新疆軍団」の面々は、ホテルに到着早々、これからの旅の安全を祈ってビールで乾杯した。

空から見下ろすタクラマカン砂漠
 翌日は午前中、北京市内を見学。レストランで昼食を食べたあと、13時40分発のXO(新疆航空)9102便で新疆ウイグル自治区の中心地ウルムチに飛んだ。その距離は2600キロ。「東京→北京」と同じくらいの距離になる。その間ぼくは、飛行機の窓ガラスに顔をピッタリとくっつけ、夢中になって外を眺めつづけた。眼下には小さいころからの憧れの世界が広がっている。

 華北の大平原から山地に入ると、まず万里の長城が見えてくる。緑は急速に薄れ、荒涼とした乾燥地帯の風景に変わっていく。真っ茶色の黄河の流れを見下ろす。左手に雪山が見えてくる。邦連山脈だ。右手には一望千里のゴビ砂漠。その間の“河西回廊”の上空を飛行機は飛んでいく。シルクロードはこの廊下状の“河西回廊”を通っている。シルクロードの上空からの探遊だ。胸のときめきをもう抑えられない。
「いつの日か、きっと、この道をバイクで走ってやる!」

 飛行機は新疆ウイグル自治区に入っていく。シルクロードの要衝ハミの上空を通過すると、右手に雪山が見えてくる。天山山脈だ。左手にはタクラマカン砂漠は地の果てまでもつづいている。
「この中をバイクで走っていくのか‥‥」
 と思うと、期待と不安、そして極度の緊張で背筋がゾクゾクッとしてくる。

 特徴のある雪山のボゴタ峰(5445m)が見えてくると、じきにウルムチだ。ウルムチ到着は17時40分。空港からマイクロバスで中心街に入っていく。人口150万人の大都市だ。「華僑賓館」が「新疆軍団」の一夜の宿になる。

 東経87度とインドのカルカッタとほぼ同じくらいの経度上に位置するウルムチなのだが、北京とは信じられないことに時差がないので、6時を過ぎても、7時を過ぎても明るいのだ。

 さっそく、我ら「新疆軍団」、まだ明るい夜のウルムチの町へと繰り出していく。同じ中国とはいっても、北京とは全然、世界が違う。町を歩くウイグル人を見ていると、イラン人やトルコ人を連想してしまう。店の看板などのウイグル語の文字も、ウルドゥー語やペルシャ語、アラビア語の文字にそっくりだ。そんなウルムチの町を歩いていると、東アジアから西アジアに入ったかのような錯覚にとらわれる。まさに東西アジアの中間の中央アジアの世界なのである。

 憧れのタクラマカン砂漠を前に、意気上がる「新疆軍団」は、食堂を借り切ったような気分で大宴会。シルクロードで大はやりの料理、大盤鶏をいうとびきり辛い鶏料理を食べながら、白酒で乾杯を繰り返す。白酒というのは、コウリャンを原料とする蒸留酒で、火がつくほど強い酒。白酒をたっぷり飲んだ「新疆軍団」の面々は、ふらつく足でホテルに戻るのだった。
「さー、いよいよ、明日からタクラマカン砂漠だ!」

天山山脈を越えて
 翌日、ウルムチからプロペラ機でアクスに飛んだ。
「ウワー、スゲー!」
 思わず、感嘆の叫び声が出る。

 プロペラ機の小さな窓から見下ろす視界いっぱいに、天山山脈の雪山がうねるようにして、はてしなくつづいている。
「天山、天山、天山‥‥」
 と、今までに何度、「天山」を口に出していったことか。

 天山山脈、崑崙山脈、パミール高原、ヒンズークッシュ山脈といったタクラマカン砂漠をとりかこむ大山脈、天山山脈をはさむ天山北路、天山南路の2本のシルクロード、海面下のトルファン盆地、タクラマカン砂漠を流れるタリム川、“さまよえる湖”のロプノール‥‥と。

 これらは耳にするだけで、背筋がゾクゾクッとするほどの、ぼくの長年の憧れの地なのだ。ついに今、その憧れの地にやってきた!

 ウルムチから天山南路のオアシス、アクスに飛ぶ飛行機の窓からは、天山山脈の山々が手にとるような高さで見えるのだ。窓ガラスにぴったり顔を押しつけて、あきることなく天山山脈の山々を眺めつづけた。天山山脈を越えると、その南には一望千里の大砂漠、タクラマカン砂漠が延々とはてしなく広がっている。

 天山南路のオアシス、アクスでは、全部で12名の中国人スタッフが我ら「新疆軍団」を待ち受けてくれていた。トヨタのランドクルーザーが3台、ニッサンのピックアップが1台、我々の乗るバイクを積んだトラックが1台という大ががりなサポート態勢だ。バイクは新疆モーターサイクル協会の所有するホンダのモトクロッサー、CR80とCR125、CR250である。

 このような大部隊で、アクスからホータン川沿いにタクラマカン砂漠を縦断し、崑崙山脈北麓のホータンに出ようという計画。その距離は700キロになる。

 アクスでは「阿克蘇賓館」に泊まり、アクスの町を半日、ぷらぷら歩いた。バザール(市場)歩きが楽しい。トルファンのブドウ、ハミのウリ、コルラのナシ、カシュガルのザクロといった、シルクロードの各オアシス特産の果物が山積みにされている。それら特産の果物を食べながら、シルクロードをも味わった。

タリム川の大湿地帯は水びたし‥‥
 1994年9月24日、アクスを出発。「新疆軍団」の面々は各自、バイクにまたがり、エンジンをかけ、走り出す。感動の瞬間だ。バイクでのタクラマカン砂漠縦断の旅がはじまった。ぼくはCR250に乗った。

 長い隊列を組んで南へと走っていく。ダート道なので、土けむりが尾を引いて流れていく。やがてタリム川の大湿地帯に入っていく。赤っぽく見えるタマリスクやトゲの多いラクダ草が一面にはえている。

 この大湿地帯が大きな難関だ。
 天山山脈から流れてくるアクス川、パミール高原から流れてくるカシュガル川、ヒンズークッシュ山脈から流れてくるヤルカンド川、そして崑崙山脈から流れてくるホータン川がこの地点で合流し、タリム川になる。ところが何日か前に崑崙山脈に降ったという大雨で、なんとこの大湿地帯が水びたしになっているという。九州山地に降った大雨で、関東平野が水びたしになるようなものだ。この大湿地帯を突破できるかどうかは、実際に現地まで行ってみないことにはわからないという。

 何本もの川を渡っていくと、やがて道は水没してしまう‥‥。
「なんとしても、このタリム川の大湿地帯を突破してやる!」
 といった意気込みで、新疆モーターサイクル協会の孫さん、杜さん、と一緒に走れそうなルートを探し求めたが、糸のように細いルートは、どれも大湿地帯の水の中へと消えていく。万事休す。タクラマカン縦断を断念しなくてはならない。

 このような逆境には滅法強いカソリ、間髪を入れずに、気持ちを切り換える。縦断がだめなら一周だ。さっそく道祖神の菊地さんと中国側スタッフと協議し、タクラマカン砂漠一周ルートでホータンを目指すことにした。「新疆軍団」の意見も一致し、アクスからホータンへ、今度はぐるりとタクラマカン砂漠を一周するルートを反時計回りで走り出す。ぼくはホータンでみなさんと別れたあと、さらに残りの半周を走り、なんとしてもタクラマカン砂漠を一周するのだ。

 だが、問題なのはバイクだ。ホンダのCRは競技用モトクロッサーなので、ヘッドライトやテールランプ、ウインカー、ホーンなどの保安部品は一切ついていない。そのようなバイクでホータンまでの1000キロを走ろうというのだ。そのようなリスクを背負っての旅立ち。街道の検問所にさしかかるたびに冷や冷やするのだった。

タクラマカンの大宴会
 天山山脈南麓の天山南路を走る。シルクロードのメインルートだ。右手には青く霞む天山山脈の山々が長くつづいている。左手にはタクラマカン砂漠が茫々と広がっている。

 夜はタクラマカン砂漠の涸川で野宿した。川に水は一滴も流れていない。川床の砂の上にシートを広げ、シュラフを敷く。サハラと同じような、テントなしの、いつものカソリ流野宿の仕方だ。

 その夜は最高! 我ら「新疆軍団」と中国側スタッフ合同の大宴会となった。中国側スタッフのみなさんは羊1頭をつぶし、羊料理の大盤振る舞いをしてくれる。砂漠ではなんたって羊が一番うまい。羊肉にくらいつきながら、白酒で乾杯を繰り返す。我ら「新疆軍団」と中国側スタッフは、あっというまにうちとけていった。

 人気者は“パーリン”だ。我らのマドンナ、滝沢敏子さんはCR80に乗っているので“パ-リン(中国語で80)”と呼ばれているが、中国側のスタッフは“パーリン”、“パーリン”ともう大変なのだ。

 天山山脈南麓の天山南路をカシュガルの手前で左に折れ、世界第2の高峰K2から流れてくるヤルカンド川沿いに走り、ヤルカンドの町で今度は崑崙山脈北麓の西域南道に入っていく。

 ヤルカンド周辺のオアシス群を走り抜けると、西域南道の両側には、タクラマカン砂漠の一木一草もない風景がはてしなくつづいている。右手に連なっているはずの崑崙山脈は、砂のベールに隠れ、その姿はまったく見えない。強い風が吹きはじめると、あっというまに砂嵐の様相となり、まるで大蛇がうねるように砂が道を流れていく。

 砂嵐がおさまったところで、イエチェンの分岐点を通り過ぎる。胸がキューンとしてくる。直進する道は西域南道でホータンに通じているが、左折する道は崑崙山脈の5000メートル級の峠を越え、チベット高原を横断し、ラサへと通じている。
「いつの日か、きっと、この道を走ってやる!」
 と、バイクに乗りながらそう叫ぶカソリだった。

 西域南道をさらに走りつづけ、ホータンを目指す。前方にはタクラマカン砂漠の大砂丘群が見えてきた。我ら「新疆軍団」の面々は、まるでそれに吸い寄せられるかのように、道を外れ、砂の海に何本もの轍を残して突っ走る。大砂丘群の下まで来ると、記念撮影だ。
「ここは、どこだ!」
「タクラマカンだ!」

 そんな記念撮影のセレモニーが終わると、
「あのピークを目指そう!」
 と、各自、思い思いも格好で砂丘を登りはじめる。ぼくはバイク用のブーツもウエアも脱ぎ捨て、パンツいっちょの、裸で裸足という格好で砂丘を登った。全身でタクラマカンのサラサラした砂の感触を味わいたかったのだ。

 砂丘のてっぺんに立つ。
「今、アジア大陸のど真ん中にいる!」
 といった感動に酔いしれる。タクラマカン砂漠の砂丘群はどこまでも、どこまでも果てしなくつづいている。そんな大砂丘群の姿が目の底に残る。

「タクラマカン温泉に入ろう!」
 と、砂丘のてっぺんの砂を掘り、その中にもぐり込む。砂湯だ。展望浴場だ。まったくべとつきのない、サラサラした砂の感触がたまらない。

 砂丘の頂上からの帰路は、ゴロンゴロンところがり落ちた。これが最高の気持ちよさ。砂はまったく体にまとわりつかない。こうしてぼくたちは、大砂丘群でタクラマカン砂漠を存分に楽しんだ。

 アクスを出発してから5日目、我ら「新疆軍団」は1000キロを走りきり、ついにホータンに到着した。我々の宿となる「和田賓館」の玄関前で各自がビールのびんごと持って乾杯! 「新疆軍団」の紅一点の“パーリン”は、目にいっぱい涙を浮かべている。中国側スタッフのみなさんは、ババババーンと激しく爆竹を鳴らしている。感動的なホータン到着のシーンだった。

新疆はアジアの十字路
 崑崙山脈北麓のホータンは、西域南道の要衝の地。その昔、『大唐西域記』を書いた僧の玄弉や『東方見聞録』を書いたマルコポーロらが、ホータンに滞在している。

 翌朝は、まだ暗いうちに起き、ホータンの町を歩いた。唯一、明かりをつけて店を開けているのが、ナン屋だった。
「朝一番で早いのは、ホータンのナン屋」
 と、子供の歌の替え歌を口ずさんでしまったほどだ。

 新疆では西アジアの国々と同じように、ナンが主食になっている。“朝一番で早いホータンのナン屋”の光景は、インドの未発酵パンのチャパティ、西アジアの半発酵パンのナン、ヨーロッパの発酵パンとつづくユーラシア大陸西半分の粉食圏(穀物を粉にして食べる食文化圏)の“パン圏”に、新疆が含まれていることを強烈に感じさせるものだった。

 新疆がおもしろいのは、それだけにはとどまらないことだ。
 アクスからホータンに来るまでの間、タクラマカン砂漠のオアシスの町々の食堂で何度か食事をしたが、一番よく食べたのは麺である。よくこねた小麦粉を手で延ばした手延の麺。それを拉麺などといっているが、ゆで上げた麺の上に、具のどっさり入った汁をかけて食べる。

 それと饅頭だ。食堂の店先にはたいてい蒸籠を置いて、饅頭をつくっている。中には何も入っていない饅頭で、食事のときには籠の盛って、パンのような食べ方をしている。羊肉などの入った饅頭の包子もつくっている。これら麺、饅頭はユーラシア大陸東半分の粉食圏の“麺・饅頭圏”特有の食べ物である。

 つまり新疆は東アジアと西アジアの食文化圏が大きくぶつかり合うところで、ここはまさに“アジアの十字路”なのである。

「タクラマカン砂漠一周」達成!
 ホータンで「新疆軍団」の面々と別れた。みなさんは飛行機でウルムチに飛び、北京から東京へと戻っていく。ぼくはといえば、タクラマカン砂漠の残りの半周ルートを走るのだ。ウルムチまでは2000キロの距離である。ウルムチまでは中国側スタッフの高さん、張さんの乗るトヨタのランドクルーザーと、孫さん、郭さんの乗るニッサンのピックアップがサポート車としてついてくれる。ピックアップには予備のバイクとして、CR125を1台、積んだ。

 ホータンを出発。西域南道をさらに東に向かっていく。100キロ先のケリアを過ぎると舗装路が途切れ、ダートに入っていく。先頭をトヨタのランドクルーザーが走り、ぼくのホンダCR250がつづき、最後をニッサンのピックアップが走った。先頭車の巻き上げる土煙の中を走っていくので、あっというまに埃まみれになる。ところどころ砂の深い区間もあったが、ルートは比較的整備されていて走りやすかった。道標も点々とある。

「タクラマカン砂漠一周」後半戦の第1日目は、ホータンから320キロのニヤで泊まった。
 第2日目はニヤから330キロのチェルチェンへ。この区間では、とんでもないアクシデントが発生した。なんとニッサンのピックアップが走行中に、突然、爆発したのだ。孫さん、郭さんはからくも脱出できたが、郭さんは腕に火傷を負った。

 荷台に積んだガソリンに引火し、車はあっというまに炎に包まれる。砂をかけて消火したが、見るも無残な残骸だけがあとに残った。予備のバイクのCR125はフレームとギアだけが残り、エンジンは溶けて合金の固まりになっている。両輪のリムも溶け、あとかたもない。すさまじいばかりの燃え方だ。

「あー、これで、タクラマカン砂漠一周の夢も絶たれた‥‥」
 と、火を消し終わったあと、しばらくは呆然として砂の上にひっくりかえっていた。グッタリ、ガックリ‥‥といったところだ。

 残った1台の車とバイクでチェルチェンに到着したのは、夜中の12時過ぎだった。
 ガソリンやオイルの問題があるので、バイクで行くのはもう無理だろうと、ぼくはもう完全に諦めの気分だった。ところが中国側のスタッフのみなさんは、予定どおりにウルムチまで行くという。高さんはチェルチェンの町をかけまわって、バイク用の2サイクルオイルを手に入れ、新たにジェリカンを買って予備のガソリンを確保したのだ。そして彼は事故の後始末でチェルチェンに残ることになった。

 第3日目は午後に出発し、チャリクリクへ。距離は450キロ。一直線に南へ、崑崙山脈に向かっていくルートが圧巻だった。6000メートルから7000メートルの崑崙山脈の雪山が、夕日を浴びて薄紅色に染まっていた。その山麓を走っていく。右手に崑崙山脈、左手にタクラマカン砂漠の砂丘群。これはまさにぼくの長年、憧れてきた風景そのものではないか。感動に胸が震え、その夕暮れの風景はしっかりと目の底に焼きついた。

 日が落ち、暗くなっても走りつづける。CR250は競技用のモトクロッサーなのでライトがない。ライトなしの夜間走行。恐ろしいことこの上もない。最初はランドクルーザーの後ろにつき、尾灯を目印にしたが、暗すぎて走れたものではない。そこでランドクルーザーの前に出、そのライトを頼りにして走った。深い砂溜まりが辛い。よく見えないのでやたらと砂の壁にぶつかったり、より砂の深いところに突っ込み、何度もスタックしてしまう。チャリクリク到着は前夜にひきつづいて夜中の12時過ぎだった。

 ところでホータン→ケリア→チェルチェン→チャリクリクと西域南道を走ってきたのだが、これらの地名はウイグル語のもの。中国語だとケリアが于田(ユイテン)、ニアが民豊(ミンフン)、チェルチェンが旦末(チモア)、チャリクリクが若羌(ルアチャ)になる。中国の中に2つの国が同居しているようなものだ。

 第4日目は崑崙山脈北麓のチャリクリクから天山山脈南麓のコルラへ。東部タクラマカン砂漠の縦断だ。ルートはしっかりしている。このルートのすぐ東には、あの“さまよえる湖”のロプノール湖や、砂漠に消えた都市国家の楼蘭がある。

 タリム川が砂漠に消えていくその最先端部を見る。我々が想像する川というのは、下流になればなるほど大きな流れになっていくが、海への出口を持たない砂漠の川はまったくその逆なのである。

 タリム川はこの章の最初でもふれたように、アクスの町の南側でアクス川、カシュガル川、ヤルカンド川、ホータン川が合流してできる川。その合流地点、つまりタリム川が生まれたばかりの地点が最大の流れで、下流に流れ下っていくにつれて先細りし、最後は水のまったく流れていない涸川になってしまう。

 涸川のタリム川に沿ってコルラに向かって北に走っていくと、タリム川にはやがて水が流れるようになり、流れは大きくなり、感慨用の水路とその水を使った畑が見られるようになる。尉梨の町でタリム川の流れと別れ北へ。前方には紫色に霞む天山山脈の山々が連なっている。コルラに近づくにつれて天山山脈の山並みは、はっきりと見えるようになってくる。こうしてチャリクリクから460キロ走り、天山山脈南麓の石油ブームに湧くコルラの町に着いた。

 第5日目は490キロ走り、「タクラマカン砂漠一周」のゴール、ウルムチへ。その間は全線が舗装路で、交通量も多い。天山山脈支脈の峠を越え、トルファン盆地に下っていくときが、まさに圧巻だった。一直線の道が、まるで地底の世界にまで通じているかのように、際限なく下っていく。それとともに、気温が猛烈に上がっていく。周囲を7000メートル峰、8000メートル峰に囲まれたタクラマカン砂漠の最低地点というと、このトルファン盆地のアイディン湖で、海面下154メートル。死海に次ぐ世界第2位という低さなのである。

 トルファン盆地からは天山山脈主脈の峠を越え、高原地帯を走る。気温がガクーンといっぺんに下がる。雪山のボゴダ峰が見えてくるとウルムチは近い。

 日が暮れたところで、ウルムチに到着。ホータンから2000キロの距離だ。中国側のスタッフのみなさんと何度も握手をかわした。中国側スタッフのみなさんとウルムチ到着を喜びあいながら、ぼくは「タクラマカン砂漠一周」を成しとげた喜びをもかみしめた。

 最初にウルムチに来たときと同じ「華僑賓館」に泊まる。ホテルの部屋に入るなり、すぐさま地図を広げ、もっと、もっと新疆をまわってみたいと思うのだった。

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『世界を駆けるゾ! 40代編下巻』
Amazon:賀曽利の本

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カソリの中国40年旅(6)
 1994年のタクラマカン砂漠につづいて、1999年にはチベットを走った。ラサを出発し、聖山のカイラスを目指したのだ。そのときの中国旅は、『バックオフ』(2000年冬号)に書いたもの。
~~~
⇒チベット横断2009の記事で「番外編」としてすでに所収。
http://kasori.blog25.fc2.com/blog-entry-828.html

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『バックオフ』2000年冬号

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カソリの中国40年旅(7)
 2003年には中国製スズキの125ccバイク、GS125で瀋陽を出発点にし、中朝国境を走った。
 そのときの中国旅は『ツーリングGO!GO!』(2004年2月号)の記事より紹介しよう。

「七人の侍」、瀋陽を出発!
 2003年9月25日はぼくにとっては一生涯、忘れられない歴史的な日。それは鴨緑江河口から図們江(朝鮮名 豆満江)河口を目指すバイクツアー「中国・北朝鮮国境を行く!」の出発の日だからだ。
 成田から中国・東北地方最大の都市、瀋陽に飛び、その幕が切って落とされた。
 
 翌26日、我ら「七人の侍」のバイクとサポートカーのマイクロバスは瀋陽を出発。バイクは中国・斉南スズキ製の125㏄バイク、GS125の新車。リアにはスズキの旗がとりつけらている。それにさらに、『ツーリングGO!GO!』の旗をもくくりつけた。

 旗をなびかせて走る姿は、戦国の武田軍の「風林火山」の旗指物に相通じるものがあり、バックミラーに映る「七人の侍」の姿には胸にジーンとくるものがあった。

 マイクロバスにはこのバイクツアーを主催した「ツアープランナーズ・オーバーシーズ」社長の藤間剛さん、車での27万キロの「世界一周」を成し遂げた大内三郎さん、世界242の国と地域をまわった荻野洋一さんの日本人3人と、「瀋陽・中国旅行社」副社長の王麗華さん、ガイド兼通訳の呂徳成さん、「斉南スズキ」のメカニックの陳さん、広報の成さん、それと運転手の、中国人5人が乗っている。

「斉南スズキ」の2人は山東省斉南の本社から来てくれた。特筆すべきなのは王麗華さん。彼女の人脈と尽力のおかげで中国公安と中国東北軍からの特別な許可を取ることができたのだ。

「鴨緑江」に酔いしれる
 遼寧省からの許可を得て、瀋陽から丹東までは、高速道路の「瀋丹高速」を走った。中国ではバイクでの高速道路の走行は禁止されている。途中、本渓に寄り、北朝鮮との国境の都市、丹東に着いたのは日が暮れてからだった。

 丹東のICには公安のパトカーが我々を出迎えてくれていた。パトカーの先導で中国辺境(国境)最大の都市、丹東の中心街に入っていく。17階建の高層ホテル「丹東国際酒店」でバイクを停め、荷物を置くと、レストランでの夕食。「鴨緑江ピー酒」で丹東到着を祝って乾杯した。ピー酒(ピーチュー)はビールのこと。「鴨緑江」の名前にすっかり酔ってしまった。

 20歳のときに「アフリカ一周」をして以来、ぼくは20代の大半を費やしてバイクで世界を駆けたが、世界地図を見るたびに「鴨緑江」に目がいった。バイクで東京を出発し、朝鮮半島を縦断し、「鴨緑江を渡って中国に入りたい!」というのが、30数年来の夢。今、その現場にやって来た。

 夕食には何品もの中国料理が出たが、最後を飾ったのは鴨緑江でとれたツァン魚の料理。淡白な味わいの白身の魚。まずは味覚で鴨緑江を味わった。

 夕食を終え、ホテルの部屋に入ると、すぐに窓をあけて外を見た。手前の丹東はまばゆいばかりにきらめく夜景に包まれているが、黒々と流れる鴨緑江の対岸、北朝鮮の新義州の町には明かりひとつ見えない。漆黒の闇の中に沈んでいる。
「明と暗」。
 鴨緑江をはさんだ2つの世界のあまりの違いの大きさに言葉もないほどだった。

 翌日は鴨緑江にかかる橋を歩き、鴨緑江の遊覧船に乗って北朝鮮側の岸辺スレスレのところまで行った。丹東は河口から40キロほどの地点。ちょうど満潮なのだろう、鴨緑江は逆流し、河口から上流へと、渦を巻いて流れた。

 丹東を出発。鴨緑江の岸辺の道を走る。対岸は北朝鮮。川に浮かぶ中州の大半は北朝鮮領だという。鴨緑江の一番下流のダム、太平湾ダムを過ぎたところで鴨緑江を離れた。

「鴨緑江よ、いつの日か、今度はバイクで越えてやるゾー!」
 と叫んで鴨緑江に別れを告げ、満族(満州族)自治県の寛甸、桓仁を通り、峠を越えて遼寧省から吉林省に入った。

超ラッキーの長白山
 吉林省の通化でひと晩泊まり、白山、撫松と通り、延辺朝鮮族自治州に入る。
 二道白河に到着。この町が中朝国境の聖山、長白山(朝鮮名 白頭山)への玄関口。朝鮮では始祖檀君伝説の山であり、中国では清朝発祥の地とされている。

 ここでは現地ガイドの朝鮮族の女性、張成姫さんが我々を待ってくれていた。さっそく長白山へ。閉山間際のこの時期なので、山頂までいけるかどうか不安だ。

 長白山登山口の駐車場にバイクを停め、そこでパジェロに乗り換える。我々は超ラッキーだった。
 その前々日には雪が降り、山頂まで行けなかった。前日も残った雪が凍ってアイスバーン化し、やはり山頂までは行けなかった。さすが「強運のカソリ」、わずかな隙間をついて長白山の山頂まで行くことができたのだ。これは後日談になるが、この夜、山頂周辺では雪になり、長白山はそのまま閉山された。

 中国と北朝鮮の国境に連なる長白山脈最高峰の長白山は標高2749mの火山。この山から黄海に向かって鴨緑江が、日本海に向かって図們江が流れ出る。東北地方を貫流する大河、松花江も長白山が源流になっている。
 我々が立ったのは外輪山のピークのひとつの天文峰(2670m)。眼下には大カルデラ湖の天池が広がっている。湖の中央が中国と北朝鮮の国境。

 天池を取り囲む外輪山の峰々は山頂周辺がうっすらと雪化粧している。北朝鮮側の将軍峰が一番高く、中国側で一番高いのは白雲峰(2691m)。山頂の気温は氷点下1度。吹き抜ける風は冷たく、耳がちぎれそう。そんな寒風に吹かれながらも熱い気分で天池を見下ろした。

 山頂から下ると、天池から流れ落ちる大滝の長白山瀑布を見た。標高1250m地点の大滝で高さ68m。3条になって流れ落ちている。この滝が黒龍江(アムール川)に合流する松花江の源。滝のすぐ下には温泉が湧いている。その夜は大滝に近い「長白山国際旅遊賓館」に泊まったが、豊富な湯量の大浴場は日本風。湯があふれ出る湯船にどっぷりとつかった。

中朝露3国国境に立つ! 
 長白山から延辺朝鮮族自治州の中心、延吉へ。さらに中朝国境の町、図們へ。そこからは中朝国境を流れる図們江に沿って走った。図們江の対岸は北朝鮮。手の届くぐらいの川幅だ。

 揮春でひと晩泊まり、中朝露3国国境の防川に向かう。揮春から46キロ地点、中国と北朝鮮を結ぶ橋のかかっている圏河までは2車線の舗装路。現地ガイドの張さんは揮春からバスに乗り、この橋を渡って北朝鮮に入り、羅津から清津まで行ったことがあるという。 圏河から先はダート。中国の領土が針のように細長くなる地点には「UN(国連)メモリアルパーク」の石碑が建っている。そこにバイクを停め、悠々と流れる図們江の川原に降りた。対岸は北朝鮮。漁をする小舟が見える。

 ここではびっくり。なんとぼくのすぐわきに男が1人いるではないか。
 まるで「渓流浴」でもしたかのようで、濡れた体を拭いている。一瞬、図們江を渡ってきた北朝鮮からの脱北者か!?とも思ったが、まったく荷物は持っていないし、堂々とした態度なので、図們江に沐浴に来た人なのだろう…ということで自分を納得させた。

 この地点の道の反対側はロシア領。錆びた鉄条網が張りめぐらされている。きっとみんなやっているからなのだろう、鉄条網にはたるんだ箇所があり、そこをくぐり抜けてロシア領に入った。ロシアへのビザなし入国(密入国?)!
「道一本が中国領」といったダートを走り、揮春から69キロ走って防川に着いた。

 ここはちょっとした観光地。軍の監視塔に隣りあって3階建ての土産物店がある。その屋上が「一眼望三国」の展望台。北朝鮮側には「朝鮮(チョーセン)」、日本海側には「日本海(ルーベンハイ)」、ロシア側には「俄ロ斯(オロス)」と、上にハングル、下に漢字で書かれている。

 足下を図們江が流れている。右側の北朝鮮と左側のロシアを結ぶ鉄道の鉄橋がかかっている。その先の日本海は日の光を浴びてキラキラ光り輝いている。北朝鮮側の豆満江駅とロシア側のハサン駅がはっきり見える。ハサン駅の背後にはゆるやかな山並み。

 その山並みの向こうがなつかしのザルビノ港だ。
 2002年の「ユーラシア大陸横断」の第一歩がザルビノだった。
 ロシアへの入国手続きでこの港に降りたとき、ぼくは地図上で見たザルビノ近くのロシア・中国・北朝鮮の3国国境に猛烈に心を揺り動かされた。
「いつの日か、きっと3国国境に立ってやる!」
 と、固く心に誓った。
 あれからわずか1年で、その3国国境に立つことができたのだ。

 名残惜しい防川を後にして延吉に戻る。ここで現地ガイドの張さんと別れ、敦化へ。
 敦化から吉林に向かう途中で威虎嶺を越えたが、この峠までが延辺朝鮮族自治州になる。
 吉林、長春と通り、10月2日、2590キロを走って瀋陽に戻ってきた。
 スズキGS125は完璧に2590キロを走ってくれた。

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『ツーリングGO!GO!』(2004年2月号)


※たまらず管理人:
それにしてもすごいレイアウトですね、この見開き・・・カソリ氏の顔が夢に出てきそうです(初夢に出てこられると困るな=笑)。

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カソリの中国40年旅(8)
 2004年には中国製スズキの110㏄バイク、QS110で瀋陽を出発点にして中国東北部を走った。
 そのときの中国旅は『ツーリングGO!GO!』(2005年1月号)の記事より紹介しよう。

中国・東北部走破行

「おー、北極だ! おい、尚、ついに北極までやってきぞ!!」
 中国・東北部、黒龍江省の中心都市、ハルビンを出発してから6日目のことだった。
 中国・軽騎鈴木製のQS110で1706キロを走り、ついに中国最北端の地までやってきた。カソリ親子、感動を爆発させて「神州北極」の碑前で思いっきり万歳をした。

「神州」というのは「中国」の意味。中国では国の最北端を「北極」といっている。目の前を黒龍江(アムール川)が流れている。対岸はロシア。中露(中国・ロシア)国境を悠々と流れる大河、黒龍江はまさに大陸を実感させるものだった。

 中国最北端の地を存分に味わったあとは、「北極村」を歩く。ほんとうの名前は漠河村なのだが、それを「北極村」といっている。「北極旅飯店(旅館&食堂)」で黒龍江の魚料理の昼食を食べ、「中国最北之家」に行き、中国最北のダートも走った。

 中国最北端の地に立ち、カソリ親子は意気揚々とした気分で、中国最北の町、漠河に戻ったのだ。その夜は満月。仲秋の名月にはつきものの月餅を食べ、鹿の焼肉や揚げた川エビを肴にビールを飲んだが、なにしろ「北極」に立ったので腹にしみるような味わいだ。

 漠河から内蒙古自治区へ。漠河出発の朝は気温が氷点下10度まで下がった。このあたりは北緯50度をはるかに超えている。サハリンの最北端とほぼ同じくらいの緯度になるのだが、予想したよりもはるかに寒かった。大興安嶺山脈の峠に向かっていくと、小雪がチラチラと舞っている。峠道の日陰のコーナーにはうっすらと氷が張っている。ツルッと後輪が流れ、ヒヤッとした。思わずバックミラーで後ろを走る尚に目をやったが、無事にコーナーをクリアした息子の姿をみてひと安心。このあたりが親だなあ…。

 さらに峠に向かって走っていくと、尚は「ピーピー」クラクションを鳴らして追ってくる。バイクを停めると、「お父さん、もうすこし停まってよ」と、ブスッとした口調でいわれてしまった。ぼくとしては内蒙古自治区との境の峠まで一気に走ってしまおうと思っていたのだが。
「そうか、わるかったな」。

 それにしても寒い。ぶ厚い冬用のグローブをしていても、指先は寒さのせいでジンジン痛んでくる。
 黒龍江省と内蒙古自治区の峠を越え、峠下の町に着くと、一目散に食堂に駆け込んだ。予想をはるかに超えた寒さに徹底的に痛めつけられたカソリ親子、2人してオンドルの壁に手を当て、背中を当てて体を暖めるのだった。

 キャクダチから根河へ。その間では大興安嶺山脈の雪の峠を越える。このあたりでは9月中旬には初雪が降る。真冬になれば氷点下30度から40度ぐらいまで下がる酷寒の地。日本出発がもう何日か遅れていたら、大興安嶺山脈の峠は越えられなかったかもしれない。さすが「強運のカソリ」、ギリギリのタイミングで難関を突破した。

 根河からハイラルに向かうと、大興安嶺山脈の山並みは遠ざる。風景は森林から草原へと劇的に変わる。草原の中にはポツン、ポツンと牧畜民の蒙古族のパオ(テント)が見られた。

 そんな草原地帯を黒龍江の上流のハイラル川が流れている。上流とはいっても川幅は広く、すでに大河の風格があふれている。大興安嶺山脈を水源とするハイラル川は中露国境を流れるアルグニ川となり、ロシアから流れてくるシルカ川と合流して黒龍江になる。最後は間宮海峡(タタール海峡)に流れ出るが、大興安嶺山脈から間宮海峡まで全長4353キロ。世界でも有数の大河だ。

 ハイラルから満州里に向かう。やっと猛烈な寒さから開放された。一面の大草原。羊や馬の群れを見る。地平線に向かって一直線に延びる道を走りつづける。風景がデッカイ!

 満州里に近づいたところでは砂丘を越えた。モンゴルのゴビ砂漠から延びる砂丘。バイクを道端に停め、砂丘のてっぺんに登る。この砂丘こそ、アフリカ大陸からユーラシア大陸へと延びる大砂漠地帯の最東端になる。

 ぼくは「すごいものを見た!」という気分に浸る。もっともそれはぼくだけのことで、尚はといえば、それほどの興味を示さない。尚にとっては単なる砂丘でしかないからだ。

 アフリカ大陸の大西洋岸から紅海まで東西5000キロのサハラ砂漠は海を越え、アラビア半島の砂漠からイラン、パキスタンの砂漠へとつづく。さらにカラコルム山脈を越え、タクラマカン砂漠からゴビ砂漠へとつづく。
 その東端の砂丘に「今、立っている!」と思うと、胸の中が熱くなってくる。

「砂漠大好き人間」のカソリ、今までに世界の大半の砂漠をバイクで走破してきた。砂丘のてっぺんでモンゴルの方向に目をやりながら、はるか遠くのサハラ砂漠に想いを馳せるのだった。

 満州里に到着すると、町を走り抜け、国境へ。中国側の漢字で「中華人民共和国」、ロシア側のロシア語で「ロシア」と書かれたタワーが鉄路をまたいでいる。その下を木材を満載にした貨物列車がロシア側から中国側へと通り過ぎていく。国境には異常なほどの執念を燃やすカソリ、満州里の中露(中国・ロシア)国境を間近に見て大いに満足した。

 国境を見たあとは、満州里近郊の草原地帯にある蒙古族の「パオ・レストラン」で羊肉三昧の昼食。尚は華やかな民族衣装をまとった店の女の子たちに大モテで、すっかり気をよくしていた。息子に負けたな。

 満州里からハルビンに戻ると、中国最東端の地を目指す。ジャムスを通り、同江へ。
 中露国境を流れる黒龍江に、中国・東北地方最大の川、松花江が合流する地点の「三江口」はすごい。川幅は3、4キロはあるだろう。対岸のロシアが霞んでいる。ちなみに「三江」というのは黒龍江と松花江、それとウスリー江の三大大河のことである。

 ハルビンから915キロ走って中国最東端の町、撫遠に到着。中露国境を流れる黒龍江の河畔には「東極撫遠」の碑が建っている。最北端の「北極」と同じように、最東端は「東極」になるのだ。

 だが、ほんとうの中国最東端の地はさらに東になる。撫遠から38キロ走ったところで、中国の道は尽きる。目の前を中露国境のウスリー江が流れている。対岸はロシアの山並み。軍の監視塔前の駐車場にバイクを停め、そこから黒龍江とウスリー江の合流地点まで4キロほど歩いた。そこが中国最東端の地。

 こうして「北極」、「東極」という「二大極点」に立つと、中国大陸をもっと、もっとバイクで走りたくなってくる。残された「南極」、「西極」にも行ってみたくなる。「中国・東極」の地でぼくは「また、次だな!」と、自分自身にそういい聞かせた。

 10月16日、ハルビンに戻った。全行程6216キロ。1日で一番走ったのは黒河から塔河までの494キロ。そのうちなんと465キロがダート。ラフな区間は穴ぼこだらけ。雨にぬかった区間はドロドログチャグチャ。そのようなロングダートも走り抜けたので、尚には「よくやったな!」と、ポンと肩をたたいてあげた。
 今回も中国製のスズキQS110は完璧に走ってくれた。

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中国最北端の地で

※この「中国・東北部走破行」は「旧満州走破行」と題して、近日中に長期の連載を開始します。どうぞご期待下さい。

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カソリの中国旅40年(9)
 2006年にはスズキDR-Z400Sを走らせ、シルクロードを横断した。

 8月16日に東京を出発。神戸港からDRともども中国船の「燕京号」に乗り込み、中国の天津に渡り、シルクロードの玄関口の西安へ。
 そこからシルクロードを一路、西へ西へと走った。

 天山山脈南麓のコルラからタクラマカン砂漠を縦断し、崑崙山脈北麓のニヤへ。シルクロードの西域南道でホータン、ヤルカンドと通り、9月12日、中国西端の町カシュガルに到着した。

 カシュガルからはフェルガナ山脈のトルガルト峠(3752m)を越えてキルギスに入り、カザフスタン→ウズベキスタン→トルクメニスタンと中央アジアの国々を通り、イランからトルコへ。

 東京から1万3171キロを走破し、10月10日にイスタンブールに到着。アジアとヨーロッパを分けるボスポラス海峡の海岸でバイクを止め、対岸のイスタンブールの町並みを目にしたときは、胸にググググッとこみ上げてくるものがあった。

 この「シルクロード横断」のメインは「天津→カシュガル」の中国だ。
 約600キロの「タクラマカン砂漠縦断」では延々とつづく大砂丘群を見ながら走った。その途中では大砂丘のてっぺんに立ち、際限なく広がる大砂丘地帯を一望。砂漠公路を外れ、バイクで砂丘群を走りまくったりもした。

 中国西端の町、カシュガルからはカラコルムハイウエーを南下し、標高3600メートル地点にある神秘的な湖のカラクリ湖まで行った。湖の北側にはゴングール峰(7719m)、南側にはムスタックアタ山(7546m)がそそりたち、抜けるような青空を背にした雪山の雪の白さはまぶしいほどだった。

 トルガルト峠を越えたキルギスではイシククル湖(クルは湖の意味)の湖畔でひと晩泊まったが、対岸の夕日を浴びた天山山脈の雪山群の眺めは強烈に目の底に残った。夕日を浴びた標高5000メートル前後の雪山がズラズラズラッと連なっていたが、その向こうがタクラマカン砂漠になる。

 この「シルクロード横断」では天山山脈をはじめ崑崙山脈、カラコルム山脈、パミール高原…と、中央アジアの大山脈を間近に眺めることができ、「カソリの世界地図」の空白の部分を埋めることができたように思う。

 とくに天山山脈の大きさには驚かされた。最初に出会ったのは新疆ウイグル自治区に入ってまもなくのことで、シルクロードのオアシスのハミ近郊で。砂漠に落ちる前山の向こうにトムラッチ峰(4880m)を見た。山頂周辺の雪が陽炎のように揺れていた。

 中国とキルギス国境のトルガルト峠は天山山脈とパミール高原の接続部の峠。キルギスの首都ビシュケクで見た天山山脈の風景もすばらしいもの。カザフスタンからウズベキスタンへの道は砂漠に落ちていく天山山脈の西端を越えていくが、あまりの寒さに我慢できず、峠のカフェでコーヒーを飲みながら暖をとったこともあった。

 シルクロードはぼくにとっては特別な世界なのだ。
 小学校4年生のときのことになるが、国語の教科書でスウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンの「タクラマカン砂漠横断記」を読んだ。それにすっかり感動し、その後、小学校の図書館にあった子供向けの中央アジア探検記を全巻、読みあさった。そして「大人になったら、中央アジアの探検家になるんだ!」と心ひそかに決めた。

 シルクロード全域の踏破というのはその時からの夢であり憧れ。この「シルクロード横断」の途中でぼくは59歳の誕生日を迎えたが、シルクロードへの憧れを抱いてから49年目にして、10歳の少年時代の夢を果たすことができた。

 イスタンブールに到着したときは、夢を見つづけ、憧れを抱きつづける大事さをあらためて感じるのだった。


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西安を出発。シルクロードを一路、西へ

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カソリの中国旅40年(10)
地平線通信(2009年10月号)

 昨年(2009年)7月から8月にかけては「チベット横断」を成しとげた。
 7月1日に日本を出発し、北京から西安へ。西安からは中国製のバイクで蘭州→嘉峪関→敦煌とシルクロードを走った。

 敦煌からチベット高原に向かっていったのだが、西安を出発してから9日目、青海省のゴルムドに到着。ここからは青蔵公路(国道109号)でチベットのラサへ。その間では崑崙山脈を越えていく。憧れの崑崙!

 標高4767メートルの崑崙峠に立ったときは、「おー、崑崙!」と、喜びを爆発させた。そのあと、標高5010メートルの風火峠を越え、いよいよ5000メートル級の峠越えの開始だ。

 風火峠を下ったダダ(トト)では長江との出会いがあった。長江最上流部のダダ(トト)川にかかる青蔵公路の橋が、長江最初の橋ということになる。

 この夜は最悪。ダダの町の標高は4521メートル。「長江源賓館」に泊まったのだが、高山病にやられ、息苦しくてほとんど寝られなかった。横になれない。仕方なくホテルのロビーのソファーに座っていた。この格好だと、すこしは楽に息ができるのだ。

 ダダを出ると、青海省とチベット自治区の境、標高5231メートルのタングラ峠を越える。つづいて標高5170メートルの峠越え。高山病にすっかりやられてしまったので、何とも辛い峠越えになった。

 眠れない、食べられない…という重度の高山病の状態でラサに到着すると、あまりの空気の濃さに驚かされた。高山病は一発で治り、普通に歩けるようになり、普通に食べられるようになり、普通に寝られるようになった。といってもラサの標高は3650メートル。富士山ぐらいの高さはあるのだが、4000メートル、5000メートルの世界から下ってくると、まるで天国のような低地に感じられのだった。

 ラサからシガツェ、ラツェを経由し、標高5248メートルのギャムツォ峠を越え、チョモランマのベースキャンプへ。標高5000メートルのロンボク寺に泊まったのだが、その日の夕方、チョモランマにかかっていた雲はきれいにとり払われ、その全貌を見ることができた。モンスーンの季節でチョモランマを見るのはほとんど無理だといわれていただけに、もう狂喜乱舞で、夕日を浴びたチョモランマを見つづけた。

 ティンリンで泊まった日の朝は快晴。目の前の平原の向こうには標高8201メートルのチョーユーが聳えたっていた。神々しいほどの山の姿。その左手には標高7952メートルのギャチュンカン。チョモランマも見えているが、堂々としたチョーユー山群に圧倒され、ここでは脇役でしかない。

 ティンリンからは標高8012メートルのシシャパンマへ。ヒマラヤ8000メートル峰の奇跡はさらにつづき、チベッタンブルーの抜けるような青空を背にしたシシャパンマの主峰を見ることができた。シシャパンマの大山塊を左手に見ながら走りつづける。雪山の白さ、間近に見える氷河の白さはまぶしいほどだった。

 サガの町に着くと、「チベット横断路」の新蔵公路(国道219号)を西へ。新疆ウイグル自治区とチベット(西蔵)を結ぶ新蔵公路は劇的に変わった。すっかり道がよくなっている。何本もの川には橋がかかり、チベット自治区内では、川渡りをすることは一度もなかった。

 ヤルツァンポ川と別れ、標高5216メートルのマユム峠を越えると、聖山のカイラスが見えてくる。聖湖のマナサロワールも見下せた。

 ネパール国境の町、プーランに寄ったあと、チベット西部のアリ地区に入っていったが、何と舗装路が延々とアリ(獅河泉)の町までつづいていた。

 アリからは最後の5000メートル級の峠越え。崑崙山脈の標高5248メートルの界山峠を越え、チベット自治区から新疆ウイグル自治区に入っていく。

 世界第2の高峰、K2登山口のマザーを通り、4000メートル級、3000メートル級の2つの峠を越え、タクラマカン砂漠のオアシス、カルグリックへと下っていった。
 そこはチベット高原とはあまりにも違う世界。熱風の吹きすさぶ一望千里の大砂漠を走り抜けていく。

 こうして西安を出発してから31日目の8月11日、中国最西端の町、カシュガルに到着。全行程7000キロの「チベット横断」、というよりも「中国横断」の旅となった。

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標高5231メートルのタングラ峠

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク