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カソリの「旅本」ベスト10

1 「街道をゆく」(司馬遼太郎)
全43巻は読みでがあるが、1冊読むごとにおおいに旅心が刺激され、その土地に対する思いが深まる。世界編をも含め、何よりもの旅の「ガイドブック」にもなる。司馬遼太郎、ほんとうはもっともっと、自由奔放に旅したかったのだろう。

2 「深夜特急」(沢木耕太郎)
単行本での全3巻を読んだあと、文庫本での全6巻をも読んだ。「深夜特急」はすでに古典の領域に入っている。古典というのは何度でも繰り返して読める。実際に旅していた頃の20代の沢木耕太郎の感性がまぶしいくらいに光り輝いている。

3 「たびを」(花村萬月)
芥川賞作家の花村萬月さんはバイク乗りでもある。若い頃は相当無茶して数々の貧乏ツーリングをしている。「たびを」にはそんな下敷きがある。この本は19歳の浪人生、虹児のスーパーカブでの「日本一周」を描いた1000ページを超える大作。ひと夏の物語を花村さんは10年がかりで書き上げた。この主人公、虹児の愛読書が「カソリ本」。虹児はそれを読んで旅に出る…。

4 「忘れられた日本人」(宮本常一)
日本屈指の民俗学者であり、生涯で4000日以上も旅した偉大なる旅人である宮本常一の代表作。バイクで走っていると、まったく目も留めないような所にくらいつき、それぞれの土地の古老から話を聞きだすすごさは宮本常一ならではのもの。この文庫本を持って、何度旅に出たことか。

5 「おくのほそ道」(松尾芭蕉)
何度、読んだことか。何度、読み返したことか。一番印象に残っているのは「サハラ砂漠縦断」のとき。一望千里の大砂漠で読んだ「おくのほそ道」、ギニア湾岸のヤシの木陰で読んだ「おくのほそ道」…。日本国内では芭蕉さんの足跡を何度もたどらせてもらっている。つまりは我が「飯の種」。芭蕉さん、ありがとう!

6 「がむしゃら1500キロ」(浮谷東次郎)
7 「秋山紀行」(鈴木牧之)
8 「日本奥地紀行」(イサベラ・バード)
9 「恐るべき空白」(アラン・ムーアヘッド)
10 「チベット遠征」(S・ヘディン)

テーマ : オススメの本の紹介
ジャンル : 本・雑誌

本を旅する(1):松尾芭蕉『おくのほそ道』

 1987年から88年にかけて、半年がかりでサハラ砂漠を往復縦断した。バイクは200ccのスズキSX200R。軽量のバイクで、徹底的に荷物を削り落とした装備でサハラの砂道を走破しようとしたのだ。

 ギリギリまで減らした荷物だったが、どうしても1冊だけ、本を持ちたかった。何にしようか、ずいぶんと迷ったが、何度でも読める本ということで『おくのほそ道』の文庫本にした。

 一望千里の砂道を走り、オアシスにたどり着き、ナツメヤシの木陰で読む『おくのほそみち』はよかった。日本で読むのとはまた違い、何ともいえない清涼感をともなって胸にしみてくるのだった。

 サハラ縦断だが、まず1本目のルートでサハラ砂漠を縦断し、ギニア湾岸ベニンのコトヌーの町に着いた。ここで隣国ニジェールのビザを申請したのだが、なんと2週間近くも待たされた。その間に何回、『おくのほそ道』を読んだかしれない。

 海岸近くのキャンプ場に滞在したのだが、日中は暑くて、暑くって、まったく動く気にもならないので、ココヤシの木陰に長椅子を持ち出して昼寝。目がさめると『おくのほそ道』を読むというのが日課になった。

 なにしろ暇なものだから『おくのほそ道』の本文から、本文評釈、発句の評釈、曾良随行日記、解説、芭蕉略年譜、歌枕解説と、一字一句のもれもなく、すべてを読みつくした。さらに読むだけではあきたらなくなり、芭蕉さんへの失礼もかえりみずに、次のようなカソリの『おくのほそ道』発句10選を選んでみたのだ。

 草の戸も 住み替わる代ぞ 雛の家(深川)
 行く春や 鳥啼き 魚の目は涙(千住)
 夏草や 兵どもが 夢の跡(平泉)
 蚤虱 馬の尿する 枕もと(尿前)
 閑かさや 岩にしみいる 蝉の声(山寺)
 五月雨を 集めて早し 最上川(大石田)
 暑き日を 海に入れたり 最上川(酒田)
 汐越や 鶴脛ぬれて 海涼し(象潟)
 荒海や 佐渡に横たう 天の河(出雲崎)
 あかあかと 日はつれなくも 秋の風(金沢)

 このように「サハラ往復縦断」の旅の間中、『おくのほそ道』は何度となく楽しませてくれた。ぼくはこのあたりが古典のすごさだと思っているが、繰り返し、繰り返し、何度でも読める。また読むたびに、微妙に変わってくる読後感がおもしろかった。

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 本・雑誌

本を旅する(2):浮谷東次郎『がむしゃら1500キロ』

賀曽利隆「15歳、疾走1500キロの足跡を追って」
(初出:JTB『旅』1996年5月号)


午前4時15分の旅立ち
 1996年2月28日午前4時、ぼくは総武本線市川駅前に、50㏄バイクのスズキ・ハスラーTS50とともに立った。ふつうの時間帯だと、バスや車、人波で混雑する市川駅前も、夜明けにはまだほど遠いこの時間帯は、ひっそりと静まり返っていた。自販機の缶コーヒーを飲み、ひと息入れ、4時15分になったところでハスラーのエンジンをかける。「さー、行くゾ!」と気合を入れ、2サイクルのエンジン音を残し、都内に向かって走り始めるのだった。

 今から40年ほど前の1957年7月31日、当時15歳の浮谷東次郎は、同時刻の午前4時15分に、ドイツ製50・バイクのクライドラーにまたがり、千葉県市川市の自宅前を出発。東京から東海道を一路、西へ、大阪に向かって走った。

 浮谷東次郎といえば、後に、すい星のごとくに現れた“天才レーサー”としてよく知られているが、23歳の若さで鈴鹿サーキットに散った。あまりにも惜しい死だった。

 その彼が15歳のときに旅立ったのが、50㏄バイクでの東海道往復。『がむしゃら1500キロ』という本になり、今でも多くの人たちに読まれている。とくに、我らツーリング派ライダーにとっては、誰もが知っている、まさに古典の領域に入ろうかという本なのである。この本には、みずみずしい感性、旅人としての素養のすばらしさ、若者だけが持ちえる向こうっ気の強さ、自分自身を見つめ直そうとする人生へのひたむきさ、旅の途中で目にする風物や出会ったいろいろな人たちの描写‥‥と、一気に読ませるだけの魅力がちりばめられている。さらに、40年前の東海道の状況もよくわかる。

 ぼくは今回、新潮文庫版とちくま文庫版、2冊の『がむしゃら1500キロ』の文庫本をポケットに入れ、浮谷東次郎の足跡を追って東海道を往復しようと、ハスラーに乗って市川までやってきた。名作を手に、その舞台をまわるのは、すごくいい旅の方法だ。芭蕉の『奥の細道』の文庫本を手にして旅するときのような、なんともいえない胸のときめきをおぼえる。

 東京の日本橋からは、国道1号(東海道)を走り、大阪に向かう。浮谷東次郎の『がむしゃら1500キロ』を縦糸に、自分なりの東海道へのこだわりを横糸にし、東海道往復の旅を織り上げていこうと思うのだ。

 東京・日本橋から小田原までは、ただ、ひたすらに走った。浮谷東次郎は午前4時15分に市川を出発すると、小田原までの120キロ弱を3時間で走っているのだ。そして小田原に着くと、行きつけのドライブインでサンドイッチの朝食を食べている。

 ぼくの小田原到着は7時20分。市川から本気で走り、3時間5分かかった。恐るべし、15歳の浮谷東次郎‥‥。彼は速かった!

 40年後の今日では、国道沿いに早朝から開いているドライブインはないので、小田原駅近くの「ミスタードーナツ」でドーナツを2つ買い、それを持って小田原城に行く。缶入り紅茶を飲み、ドーナツを食べながら、自分と浮谷東次郎を比較して考えてみた。

 当時、50㏄バイクの免許(許可証)は14歳で取ることができた。市川に代々つづく名家に生まれた浮谷東次郎は、14歳になるとすぐに免許を取り、お父さんにクライドラーの新車を買ってもらう。1台8万5000円。大学出の初任給が1万円にも満たない時代。お父さんが大の車好きということもあったが、それは経済的に恵まれていた浮谷家だからこそできたことでもあった。

 浮谷東次郎はクライドラーを手に入れるとすぐに、軽井沢まで、走りに行っている。さらに、箱根までは、何度となく走っている。そして、中学3年の夏休みに大阪行きを思いつく。このあたりがなんともすごい!

 浮谷東次郎よりも5つ年下のぼくも、14歳で免許を取ろうと、14歳の誕生日が来る日を心待ちにしていた。ところがぼくが14歳になる直前に制度が変わり、免許は16歳にならなくては取れなくなってしまった。あのときの落胆ぶりは40年近くたった今でもはっきりと覚えている。それと同時に、国のやることは絶対に信用できないといった、権力への強い不信感もそのときに持った。

 それでどうしたかというと、16歳(高校1年)になるのと同時にバイクの免許を取り、小遣いを貯めた5000円を持って東京・上野のバイク屋に行き、ブリジストン・チャンピョンという中古の50・バイクを買った。初めてのツーリングは伊豆。ほんとうは伊豆半島を一周したかったのだが、東京から伊東まで行き、また東京に戻ってくるので精一杯。東次郎のように大阪まで行くことなど、およびもつかなかった。ぼくがその後、バイクで大阪まで行くのは、19歳になってからのことである。


東海道の峠越え
 国道1号は、日本の大動脈だけあって、バイパスが発達している。日本で一番、バイパスの多い国道で、有料のバイパスが何本もある。これら、有料、無料を問わず、バイパスはパスし、旧道をたどって大阪まで行くことにする。

 それと、これは自分自身の東海道へのこだわり方だが、「東京→大阪」間の峠をしっかりと見ていくことにする。

 小田原を出発。箱根湯本から箱根峠を目指して登っていく。ハスラーのエンジンはうなりをあげている。50ccバイクにとって、箱根の坂は、なんともきつい。登るにつれて、道のわきには雪が積もり、コーナーはアイスバーンになっている。ハスラーで切る風が冷たい。

 芦ノ湯温泉を過ぎたところで、国道1号の最高地点(標高874m)を通過。名前はついていないが、ここが、国道1号の最初の峠。いったん、芦ノ湖畔に下り、神奈川・静岡県境の箱根峠に到達。標高846メートル。二重式火山、箱根山の外輪山の峠だ。箱根峠を越えてしまうと、東京がぐっと遠くなる。

 三島に下る。天気は快晴。雪をかぶった富士山の姿が、目の中いっぱいに飛び込んでくる。三島の手前に錦田の一里塚。「江戸より二八里」の地点だ。

「江ノ島、鎌倉など、とうてい追いつくことのできないこの素晴らしさ。東京に近かったら、もっとひらけるのになあ‥‥」と、浮谷東次郎を残念がらせた沼津の海岸で、30分ほど眠る。寒さからやっと解放される。春を思わせるような日差しを浴びて眠る気持ちよさといったらない。

 すっきりとした気分で静岡へ。富士川を渡り、旧東海道の由比宿と興津宿の間の薩○峠を越える。峠からの眺望は抜群。足下に国道1号と東名高速。国道1号は海岸ぷちを走り、新東海道の東名高速は薩○トンネルで峠を抜けている。左手に雪化粧した富士山。正面には、キラキラ輝く駿河湾の海越しに青く霞む伊豆の山々を眺める。

 13時、静岡に到着。東京から200キロ。「ファミリーマート」で、おにぎりと缶入り緑茶を買い、それを昼食にし、宇津谷峠に向かう。安倍川を渡り、丸子宿を過ぎると、峠への登りがはじまる。この宇津谷峠は、峠の“トンネル博物館”のようなところだ。明治9年に完成したレンガ造りの明治トンネル、昭和9年に完成した昭和第1トンネル、昭和34年に完成した昭和第2トンネル、平成7年に完成した平成トンネルがある。さらに時代をさかのぼると、江戸時代の東海道の峠道がある。最古の峠道といえば“蔦の細道”と呼ばれる平安時代の官道だ。これら宇津谷峠の峠道のうち、昭和第1トンネルを抜け、岡部宿に下っていった。

 大井川を渡り、金谷から牧ノ原台地を登っていく。ゆるやかな峠を越え、もうひとつ、峠を越える。そこが、金谷町と掛川市の境になっている佐夜ノ中山。“夜泣石”伝説で知られる昔からの東海道の難所だ。浮谷東次郎が走った1950年代の東海道といったら、その半分は未舗装路。日本は世界でも冠たる“悪路の国”だった。当然、佐夜ノ中山の道も悪かったが、浮谷東次郎は次のように、佐夜ノ中山の峠越えを描写している。

「峠にさしかかる。どうしてどうして、相当の峠だ。もちろん道が舗装されているはずもなく、大きな石がコンニチワと大きな顔をそこいら一杯に出していた。岩の上を走っているような道路だった」

 天竜川を渡ると浜松。浜松といえば、ホンダ、ヤマハ、スズキの、世界のオートバイ3大メーカーが、この町で生まれ、この町で育った。浜松はまさに、世界のオートバイ産業のメッカなのである。浮谷東次郎もここでは、ヤマハの工場を見学したかったのだが、東海道から離れているということで断念している。

 1950年代だと、浮谷東次郎の乗ったドイツ製クライドラーの優秀さを見てもわかるように、日本製のオートバイはドイツ車などのヨーロッパ車に太刀打ちできなかった。それが1960年代になると立場が逆転し、それ以降、ヨーロッパ車はどんどん日本車に駆逐され、消えていった。

 浜松の市街地を走り抜けたところで、旧国道1号沿いにあるスズキの本社に立ち寄る。ハスラーの故郷だ。スズキの本社では、営業推進部の宮本佳英さんと安藤勝博さんに会い、2人と社員食堂でコーヒーを飲みながら話した。2人とも、ぼくよりはるかに若いが、浮谷東次郎のことはよく知っていた。

 だが、その知り方の違いがおもしろい。4輪から入ったカーレース大好きの宮本さんは若くして死んだ“天才的レーサー”として、浮谷東次郎を知った。一方、2輪から入ったオートバイ大好きの安藤さんは、学生時代、バイク仲間からすすめられて『がむしゃら1500キロ』を読み、ずいぶんと深い感銘を受け、それで浮谷東次郎を知った。

 ぼくはといえば、後者の安藤さん派で、『がむしゃら1500キロ』の単行本が出てまもないころに読み、やはり安藤さんと同じように深い感銘を受けた。その後、『俺様の宝石さ』と『オートバイと初恋と』をも読み、東次郎の生き方に共感をおぼえるところが大きかった。

 宮本さん、安藤さんの見送りを受け、スズキの本社を出発。国道1号に合流すると、まもなく、浜名湖が見えてくる。
「地図で見ても、海と浜名湖とはつながっているように書かれているし、実物も確かに海とつながっている。こいつは湖ではない。インチキだと思う。いや確かにインチキだ」
 と、浮谷東次郎が怒った浜名湖の湖面は、夕日を浴びて紅に染まっていた。

 ゆるやかな峠の潮見坂を越え、静岡県から愛知県に入る。日が暮れたところで、国道1号沿いの食堂に入る。そこはトラック運転手たちの、溜まり場のような店。このような店は安くてうまいのだ。トラック運転手たちの会話をさりげなく聞きながら、650円の焼き魚定食を食べた。


大渋滞のつづく豊橋、岡崎の町を通り過ぎ、名古屋へ。
 21時30分、名古屋市に入る。東京から370キロ、17時間かけての名古屋到着だ。一刻も早く宿をみつけて泊まりたい。桶狭間の古戦場がすぐ近くにある名鉄の中京競馬場駅前でハスラーを止め、駅周辺に安宿を探す。だが、ない。疲れきった体にムチを打って、さらに国道1号を走り、今度は名鉄の鳴海駅前でハスラーを止める。タクシーの運転手に聞くと、「喜久水」という旅館が駅の近くにあるという。

 さっそく、「喜久水」に行ってみる。うまい具合に部屋が空いていた。すでに10時を過ぎていたが、宿の主人は遅い時間の到着にもかかわらず、気持ちよく泊めてくれた。素泊まりで4800円。風呂に入り、布団にもぐり込むと、バタンキュウー状態で深い眠りに落ちていった。

 浮谷東次郎も名古屋で泊まった。素泊まりで350円という安宿だ。最初は1泊2食の料金だと思っていたのだが、それが素泊まりの料金だとわかると、「メシはでないのか、350円とは安すぎたかな。風呂にはいって金を払ってしまった今ではどうにもならない。やれやれ、大変なところに泊まってしまった」
 といったセリフをはくのだ。

 それにしてもすごいのは、彼は6時半に名古屋に着いている。当時の東海道の道の悪さを考えると、驚異的な速さといっていい。

 浮谷東次郎は名古屋に着いて、名古屋弁を耳にし、感動している。このあたりの、旅人としての感性が、すごくいい。言葉が変わると、「遠くにやって来たなあ!」と、実感するものなのだ。

 おもしろかったのは、道路地図探し。東海道のガタガタ道の振動で道路地図を落としてしまい、夕食後、本屋に行くのだが、
「どこの本屋にも、気のきいた道路地図なんてものは、ただの一枚もなかった」
 と、嘆いている。このあたりに、日本の40年間の変化がよく出ている。日本はその間、急速にモータリゼーション化し、今ではどんな田舎町の書店に行っても、何種類ものロードマップが並んでいる。


鈴鹿峠を挟んだ2つの世界
 浮谷東次郎は名古屋を6時に出発しているが、ぼくはそれよりも1時間早い、5時に、鳴海の「喜久水」を出発。鈴鹿峠の周辺をじっくりと見てみたかったからだ。

 名古屋の中心街を走り抜け、木曽川を渡ったところで日が昇る。愛知県から三重県に入り、四日市の「日永の追分」でハスラーを止める。この追分は、東海道と伊勢参宮街道との分岐点。嘉永2年に建立された石の道標には、
「右 京大坂  左 いせ参宮道」
 と、彫り刻まれている。常夜燈もある。

 国道1号沿いの喫茶店で、モーニングサービスの朝食をすませ、鈴鹿峠へ。峠下の関は、東海道53次の宿場町のなかでは、一番、当時の面影を残こしている。東海道と伊勢別街道の「東追分」から、東海道と大和街道の「西追分」までの間が関の宿場町で、まるでタイムスリップしたかのような家並みを見ることができる。東海道の難所、鈴鹿峠を間近に控えた関は重要な宿場で、本陣が2軒、脇本陣が2軒、旅籠が42軒、あったという。 関からいよいよ、鈴鹿峠を登っていく。旧道で坂下の集落に寄っていく。碓氷峠下、上州側の坂本の集落とそっくりなたたずまいだ。

 鈴鹿峠を登りつめ、峠のトンネルを抜け、三重県から滋賀県に入る。わずかに下ったところで国道1号を左に折れ、旧道で峠まで登る。峠周辺は一面の茶畑。その中に、人の背丈の倍以上もある大きな常夜燈。さすがに東海道! この「万人講常夜燈」ほど大きな常夜燈というのも、そうそうあるものではない。

 鈴鹿峠を下った土山の道の駅「あいの土山」で小休止。うどんを食べる。汁の色の薄さが関西圏に入ったことを教えてくれた。
 この道の駅、「あいの土山」には、
「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨がふる」
 と、『鈴鹿馬子唄』の1節が大書きされている。これはじつにうまく峠の天候を歌っている。鈴鹿峠の東側、坂下の集落は晴れているが、鈴鹿峠は曇り、鈴鹿峠の西側、土山は雨が降っているということだ。

「三島照る照る 小田原曇る あいの関所は雨がふる」
 と、箱根の『長持唄』でも、同じように歌われている。箱根峠の西の三島は晴れ、東の小田原は曇り、そして関所がある箱根峠周辺は雨。何度か峠を越えていると、この唄どおりの天候の変化によくぶつかるものだ。

 ところで、「あいの関所」の“あい”は、三島と小田原の間の意味だが、「あいの土山」の“あい”は、鈴鹿峠をはさんで坂下と相対する土山だという説や、山間の“あい”だという説、土山は昔から鮎の名産地で鮎が訛っての“あい”だという説など諸説があって定かでない。

 鈴鹿峠を下り、東海道と中山道が合流する草津に近づいたところで、浮谷東次郎はスイカ売りの少女を見かける。彼女のなかに、清らかさと素直さを見てとった東次郎は、
「自分はこうしてあそびまわっている、あの女の子が一心にスイカを売っているというのに‥‥」
 と感じ、情けなくなってしまうのだ。と同時に、ある種の悲しみをも感じ、
「自分も何かを作ろう、何かを生産しよう」
 と、いかにも若者らしい純粋さで決心するのだ。それが、『がむしゃら1500キロ』を書き上げる大きな動機になった。

やったゼー、大阪到着だ!
 大津から滋賀県と京都府の境の峠、逢坂山を越える。峠には“逢坂山関址”の石碑と常夜燈。京阪京津線の電車が通っている。峠を下ると山科。そこでいったん国道1号と別れ、日ノ岡峠を越える。京阪京津線の九条山駅のあたりが峠である。今でこそ、50ccバイクでも簡単に越えてしまうが、昔は東海道最後の難所だった。雨や雪が降ると、牛や馬に引かれた荷車はぬかるみに車輪をとられ、立ち往生した。そのため、車石と呼ばれる表面に溝を彫った石を敷きつめ、舗装道路にした。荷車の車輪が車石の溝に沿って進めるようにしたのである。

 日ノ岡峠を下ると、京都の中心街。京阪三条駅前に出、三条大橋にさしかかる。ここが、東海道の終点だ。

 三条大橋で鴨川を渡り、再度、国道1号に出る。京都府と大阪府の境が、国道1号の最後の峠、洞ヶ峠。天王山の合戦で、筒井順慶がこの峠に陣をはり、豊臣勢と明智勢の戦いの状況を眺め、どちらに味方しようかと思案した。その故事にちなみ、洞ヶ峠といえば、「洞ヶ峠を決め込む」といった使い方をするように、日和見の代名詞にもなっている。

 京都から大阪までは、途切れることのない大渋滞。それをスリ抜け、スリ抜けしながら走り、ついに17時ジャストに大阪駅前の梅田新道の交差点に着いた。名古屋から210キロ。12時間かかっての到着だ。ここが国道1号の終点であり、また、九州の門司までつづく国道2号の起点になる。

 梅田新道を左に折れ、御堂筋に入ったところでハスラーを止め、
「やったゼー、大阪到着だ!」
 と、一人でガッツポーズをとるのだった。

 浮谷東次郎は大阪では、「新大阪ホテル」に泊まっている。そのホテルがどこなのか、『旅』編集部の渡辺香織さんが調べてくれた。昭和10年に開業した「新大阪ホテル」は現「ロイヤルホテル」などの前身で、昭和48年に閉鎖されていた。「ロイヤルホテル」といえば、大阪ナンバーワンのホテルではないか。それなのに、渡辺さんは、
「カソリさん、ロイヤルホテルに部屋をとっておきましたから」
 と、さりげなくいうのだ。

 御堂筋を南下し、中之島に入り、「ロイヤルホテル」に行く。さすがに、大阪ナンバーワンホテル! 30階建ての高層ホテルは、大阪の夕空を背にして聳えたっていた。そこに、うす汚れた格好で、50ccバイクで乗りつける。なんとも気がひけるが、もう、どうしようもない。覚悟を決めてフロントへ。すると、プレジデンシャルタワーと呼ばれる特別室が用意されていた。23階の特別室から見下ろす大阪の展望は、それは素晴らしいものだった。

 浮谷東次郎の母方のおじいさん、堀川辰吉郎は戦前・戦中は中国大陸を舞台にして大活躍し、戦後は地元の福岡を拠点にし、東京では「帝国ホテル」、大阪では「新大阪ホテル」の1室を借りきって常宿にしていた。

 浮谷東次郎はそんなおじいさんを頼って大阪にやってきた。そして「新大阪ホテル」に3泊し、その間、大阪市内を走りまわっている。

 この「ロイヤルホテル」では、うれしい出会いが待っていた。ホテルの副総支配人の田口憲さんとの出会いだ。田口さんは、大のオートバイファン。FXRTという日本にはほとんどないタイプのハーレーに乗っている。うらやましいのだが、奥様としばしばタンデム(2人乗り)ツーリングをしている。そんな田口さんは、
「あの、“オートバイのカソリさん”がやって来る!」
 ということで、心待ちにしてくれていたという。なんとも、うれしい話ではないか。

 その夜は、田口さんにすっかり、ご馳走になった。企画部の福本敦洋さん、営業企画室の奥野元さんも同席してくれ、話しは際限がないほどにはずんだ。それまでは、大阪の最高級ホテルということで、自分とは縁の遠かった「ロイヤルホテル」だったが、こうして田口さんらと親しく話したことによって、急速に身近なものに感じられるようになる。
「やっぱり、最後は人なんだなあ」


今も生きつづけるクライドラー
 浮谷東次郎は大阪を出発したあと、いったん神戸まで行き、大阪に戻り、そして紀伊半島を一周して東京に向かおうとした。だが、真夏の猛暑にやられ、紀伊半島一周を断念。再度、大阪に戻ると、途中、大津、名古屋、箱根湯本で泊まり、1500キロを無事に走りきって、市川の自宅に帰り着いた。

 ぼくは翌早朝、4時に「ロイヤルホテル」を出発。浮谷東次郎と同じルートの関ヶ原経由で名古屋へ。

 ところで浮谷東次郎は関ヶ原を過ぎたところで、イタリア製バイクに乗ったイタリア人宣教師のエンリコさんに出会う。彼との出会いは、『がむしゃら1500キロ』のハイライトシーンといってもいい。一緒に走り、大垣の食堂で一緒に食事し、そのまま名古屋の熱田神宮近くの教会で泊めてもらっている。その教会を何とか探しだそうと、熱田神宮に参拝したあと、近くにあるカトリックとプロテスタント、2つの熱田教会に行ったが、
「それはコンクリート造りで、まわりは割合に高いコンクリートのへいで囲まれている。その灰色のへいを越えて、屋根の上に十字架が見えていた」
 と、浮谷東次郎が描写している教会とは違うものだった。

 13時30分、名古屋を出発。一路、東京へ。ハスラーのエンジン全開で走る。17時10分、浜松着。19時50分、静岡着。21時30分、三島着。22時45分、小田原着。その夜は、さらに国道1号を走り、二宮の海岸で野宿。相模湾の波の音を聞き、星空を見上げながら、シュラフにもぐり込んで眠った。

 翌朝は、5時30分、夜明けとともに出発。平塚、横浜、川崎と通り、多摩川を渡り、9時30分、東京・日本橋に到着した。だが、『がむしゃら1500キロ』を追っての旅はまだ終わらない。日本橋から千葉街道で江戸川を渡り、市川へ。市川駅前でハスラーを停める。全行程が1182キロの「市川-大阪」の往復だった。

 旅の最後のしめくくりに、市川駅にほど近い浮谷家を訪ねた。東次郎のお母さんの和栄さん、お姉さんの朝江さんに会ったが、大歓迎された。お2人とも、上品さを体いっぱいに漂わせているような方だった。広い庭の一角には、「浮谷東次郎記念館」ができていた。そこには東次郎のレーシングカーのロータスElan1600やトヨタS800などとともに、あのドイツ・クライドラー社製2サイクル50・エンジンのクライドラーが展示されているではないか。胸がジーンとしてしまう。自転車に小さなエンジンがついた程度のバイク。
「よく、これで、市川-大阪を往復したものだ」
 と、クライドラーの実物を見て、しみじみとそう思うのだった。

 これは旅を終え、帰宅してからのことになるが、浮谷東次郎が関ヶ原で出会ったイタリア人のエンリコさんと連絡がついた。エンリコさんは72歳。すでに42年間、日本に滞在し、現在は金沢市の三馬教会で神父をしている。エンリコ神父は、40年近くも前の浮谷東次郎との出会いをまるで昨日の出来事であるかのように、はっきりとおぼえていた。名古屋で一緒に泊まった教会は日比野教会だとも教えてくれた。雨の中で出会い、一緒に走り、食堂で一緒に食事をし、教会で一緒に泊まって夜遅くまで語り合ったことなど、エンリコ神父が語る浮谷東次郎の思い出話しを聞いていると、あらためて、浮谷東次郎という人物のすごさを感じさせられるのだった。

 浮谷東次郎さん、『がむしゃら1500キロ』のおかげで、いい旅ができましたよ。

(終)

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 本・雑誌

本を旅する(3):宮本常一『忘れられた日本人』

賀曽利隆「名倉探訪」
初出:『ジパングツーリング』2001年2月号

我が師、宮本常一先生
「我に師なし、我に弟子なし」
 といいつづけてきた一匹狼のカソリだが、実は1人、師がいる。それは柳田国男をしのぐとさえいわれる偉大なる民俗学者の宮本常一先生だ。先生はまた生涯を通して4000日以上も旅された偉大なる旅人でもある。その足跡は日本国中に及ぶ。先生は膨大な著作を残されたが、『宮本常一著作集』(未来社)だけでも、全41巻を数えている。

 ぼくは宮本先生がつくられ、所長をされていた日本観光文化研究所の所員だった。通称「観文研」。ここはじつにユニークな組織で、宮本先生の教えに興味を持ったり、共感して「所員になりたい!」と思った者は誰でもが自由に所員になれた。

 所員といっても、別に給料が出るわけでもなく、拘束されるわけでもなかった。ひとつありがたかったのは、
「君らを食わせてやることはできないが、歩かせてはあげる」
 という宮本先生の方針どおり、様々なテーマで日本各地を旅する旅費をもらえたことだ。観文研のプロジェクトで日本各地を歩くことによってぼくは日本を知るようになった。

 観文研とかかわるようになったのは、スズキTC250を走らせての2年あまりに及ぶ「アフリカ一周」から帰った直後のこと。当時、カソリ、22歳。それから観文研が解散するまでの18年間ずっと所員だった。

 ぼくは27歳のときに結婚した。1年半の「世界一周」の旅から帰ったばかりで、自慢ではないが結婚資金など一銭もなかった。で、どうしたかというと、全費用1万円の結婚式をあげた。宮本先生ご夫妻が仲人をしてくださったのだ。

 1万円で保育園を借り、観文研先輩の神崎宣武さんが神主をしてくれた。観文研の仲間たちが会場の飾りつけをし、豪勢な料理をつくってくれた。本職の神主でもある神崎さんが祝詞をあげてくれている結婚式の一番のハイライトシーンでは、
「石焼きーいも、焼きいもー」
 と、石焼きいも屋さんの軽トラックがスピーカーのボリュームいっぱいに上げて保育園の前を通り過ぎていった。そのときの、一生懸命になって笑いをこらえていらした宮本先生のお姿が、いまだにぼくのまぶたに焼きついて離れない。

 ものすごく残念だったのは、宮本先生と一緒に歩く機会がほとんどないままに、1981年1月30日、先生が亡くなられてしまったことだ。それから8年後の1989年3月31日に観文研は解散した。


「名倉談義」の舞台へ
 宮本常一先生の代表作のひとつに『忘れられた日本人』がある。著作集の第10巻に収められている。それが先生の死後、岩波文庫の1冊になった。この『忘れられた日本人』の中に出てくる「名倉談義」の舞台、奥三河の旧名倉村に『ジパングツーリング』の若き編集部員、関野温さんと一緒に行くことになった。関野さんは以前から奥三河に興味を持っていたという。

 旧名倉村は現在の地名でいうと、愛知県北設楽郡設楽町の東納庫と西納庫を中心とする名倉地区になる。旧名倉村のほぼ中央を国道257号が走っている。

 深夜の東名を疾走し、ぼくたちは夜明けに豊川ICに着いた。カソリがスズキDJEBEL250GPS、関野さんがヤマハのレイド。2台のバイクで名倉を探訪するのだ。

 設楽町までの途中では、三河の一の宮の砥鹿神社や奥宮のある本宮山、織田・徳川の連合軍と武田軍が激しく戦った長篠の古戦場、仏法僧で知られる鳳来寺山などに寄り、その夜は奥三河の秘湯、設楽町塩津温泉の「芳泉荘」に泊まった。

 この温泉宿での夜がよかった。湯につかり、夕食を終えると、さっそく『忘れられた日本人』の文庫本を取り出し「名倉談義」を読む。その舞台に来て読む「名倉談義」はよけいに味わい深いものだった。

「名倉談義」というのは、旧名倉村のお年寄りたちに集まってもらって座談会をおこない、その話をまとめたものである。お年寄りたちの話の中からは、じつに見事に村人たちの生活ぶりが浮かび上がってくる。さらに奥三河の風土も浮かびあがってくる。

 翌日はさっそく「名倉談義」の舞台へと向かっていく。設楽町の中心の田口から国道257号を北へ。豊川上流の境川にかかる赤い設楽大橋を渡ると、そこからが旧名倉村だ。 峠道を登っていく。家が2、3戸見える延坂を過ぎると、峠の頂上。地図上では名無しの峠だが、地元の人たちは延坂峠といっている。

 この延坂峠の旧道が「名倉談義」に出てくる万歳峠だ。「名倉談義」には、次のように書かれている。

「日清戦争の時まではその峠の頂上まで出征兵を見送って万歳をとなえて別れて来たのであるが、峠の上で手をふって別れると、送られる方はすぐ谷のしげみに姿がかくれてしまう。そこで別れ場所を峠の頂上より五丁(約500m)あまり手前の所にした。そこで、別れの挨拶をして万歳をとなえ、送られる方はそれから振りかえりながら、五丁あまりを歩いて峠の向こうに下っていくのである。こうして万歳峠が峠の頂上から五丁手前に来たのは日露戦争の時からであったという。まことにこまやかな演出ぶりである。こうした事に村共同の意識の反映をつよく見ることができる」(岩波文庫の『忘れられた日本人』より)。

 あいにくの天気で雨が降っていたが、ぼくは「万歳峠」のパフォーマンスだ!と、国道257号の峠上で雨に打たれながら万歳した。

 峠を下ったすぐのところに、その名も「峠」という喫茶&軽食の店があった。そこで食事しながら、さりげなく万歳峠のことを聞くと、客で来ていた地元の人が、
「ほら、国道がゆるく登ったあのあたり、あそこで万歳したんだよ」
 と教えてくれた。それは宮本先生がいうところの、五丁手前の万歳峠のことだった。

 万歳峠を越えると、山深い風景から名倉川沿いの開けた風景に変わっていく。最初に出会う集落が大桑。名倉川をはさんだ対岸が大久保の集落。この大久保にある寺で「名倉談義」の座談会がおこなわれた。昭和31年の秋のことだった。

 その座談会に参加したのは、大久保の後藤秀吉さん、猪ノ沢の金田茂三郎さん、社脇の金田金平さんと小笠原シウさんの4人のお年寄りだった。さっそく座談会の舞台になった臨済宗妙心寺派の大蔵寺に行ってみる。苔むした石段を登った上からは旧名倉村を一望できた。本堂の前でまた「名倉談義」を読んでみた。

「名倉談義」の4人のお年寄りは、もうこの世にはいないが、大久保の集落は歩き、猪沢と社脇の集落にはバイクで行った。

 感動的だったのは、社脇だ。ここでは小笠原シウさんのご家族の方々に話を聞くことができた。シウさんの息子さんのお嫁さんにあたる90歳を超えたおばあさん、小笠原三枝さんがご健在だった。

 小笠原シウさんは戸籍上では「小笠原志やう」さんで「しょうさん」とか「じょーさん」「おじょねー」と呼ばれていたという。明治16年生まれ。「名倉談義」の座談会で話した翌年の昭和32年に亡くなられたという。

 小笠原シウさんは「名倉談義」の中で次のような話をされている。
「わたしは六つのときに子守にいって九つまで子守をした。いまの子供で六つといえばネンネだが、わたしら六つで子供の一人まえにされました。十歳になると草刈にやられるようになりました。そうして十六の年にはもう嫁にいった」

 また次のような話もされている。
「わたしの家の菜飯は大根飯が主でありました。大根をたくさんつくり、切干にしたり、氷大根にしたり、またハサにかけてほして漬けたり、飯もおかずも皆大根でありました。それでも切干をアラメ、タケノコと一しょに煮シメにしたものを山でたべるのはうまかった。昼まえになると飯櫃を荷俵に入れておうて、さいは桶に入れて持っていったもんです」

 ぼくたちはこのあと、旧名倉村の中心、東納庫を歩いた。「納庫」でやはり「なぐら」と読む。現在の設楽町役場の出張所と、それに隣合った農協の建物のあるところに旧名倉村役場があったという。

 さらに国道257号で西納庫を通り、「名倉談義」にも出てくる稲武町の中心、稲橋に行った。ここでは夏焼温泉「岡田屋」の湯に入った。稲武町からは奥三河ときわめてつながりの深い信州の根羽村まで行き、そこから折元峠を越えてまた設楽町に戻ってきた。

 このように「名倉」というのは、何も特別なところではない。日本中のどこにでも「名倉」はある。宮本常一先生は「名倉談義」を通して、
「日本中どこに行っても、おもしろいところばかりじゃ」
 と教えてくれているようだった。

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ジャンル : 本・雑誌

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