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シルクロード横断(東京→イスタンブール):第1回 東京→神戸

「シルクロード」は子供の頃からの憧れ。10歳(小学校4年)のときのことだ。国語の教科書でスウェ-デンの探検家、スウェン・ヘディンの「タクラマカン砂漠横断記」を読んだ。命がけで大砂漠を越え、ホータン川の河畔にたどり着くまでの物語は胸が熱くなるほどに感動的だった。それにおおいに刺激され、小学校の図書館にあった子供向けの中央アジア探検記を全巻、読みあさった。そして「大人になったら、中央アジアの探検家になるんだ!」と、心ひそかに決めていた。

 シルクロードの全域踏破というのはその時からの憧れだ。そんなシルクロードへの憧れを抱いてから49年目にして、ついにそれを実現させる日がやってきた。10歳の少年時代の夢を果たすことができたのが、今回の「シルクロード横断」なのである。

 東京・三田の旅行社「道祖神」は「カソリと走ろう!」シリーズのバイクツアーを1993年以来、11度にわたっておこなっている。その第12弾目が「シルクロード横断」。シルクロードの起点、中国の西安からシルクロードの終点、トルコのイスタンブールまで、その全コースを2ヵ月かけて走破しようという壮大なバイクツアー。東京がその出発点になる。

 2006年8月16日、午前7時、東京を出発。「新・峠越え」でも使ったスズキDR-Z400Sで東名→名神と走り、神戸へ。このDRではシベリア横断ルートでの「ユーラシア横断」やチュニス→アクラの「サハラ砂漠縦断」など、すでに5万キロ近くを走っている。そんなDR-Z400Sに「シルクロード横断も頼むゾ!」と声をかけた。

 神戸では中心街の三宮駅に近い「東横イン」に泊まった。ここで「道祖神」の菊地さんやメカニックの小島さん、20代から70代までの16名の参加者(そのうち2名はサポートカーに乗っての参加)のみなさんたちと落ち合う。神戸からは中国船「燕京号」にバイクともども乗り込んで、中国の天津に向かうのだ。

 翌日は「燕京号」の出る神戸港の第4埠頭に各自のバイクを持っていく。埠頭にズラズラッと並んだ15台のバイクは何とも壮観な眺めだ。

 そのあとぼくは神戸の周辺をまわった。まずはポートライナーで開港半年目の神戸新空港を見にいった。つづいて三宮駅から電車で明石へ。神戸に戻ると神戸電鉄で有馬温泉まで行き、共同湯の「金の湯」に入り、三田、尼崎経由で三宮駅に戻った。

 その夜は三宮のビアホールで飲み会。一緒に「ユーラシア横断」を走った神戸在住の林さんが来てくれたのだ。「シルクロード横断」のメンバーの佐藤さん、石井さん、メカニックの小島さんも同席してくれる。林さんはポルトガルで大きな事故を起こし、奇跡的にも命をとりとめ、2年近いリハビリの結果、ついに回復させたのだ。そんな林さんの全快を祝って「乾杯!」。そのあとはもう大変。2時間飲み放題、食べ放題なので次々に大ジョッキをあけ、フラフラになって「東横イン」に戻った。

 翌8月18日、神戸港のポートアイランドの埠頭へ。我々は15台のバイクとともに、停泊している「燕京号」に乗り込んだ。前夜、一緒にしこたま飲んだ林さんが見送りに来てくれる。同じく神戸のあすかさんも。彼女とは一緒に「韓国縦断」を走った。さらに三重県からは一緒にモンゴルを走った北川さんが来てくれた。

 12時、銅鑼が鳴り響く中、中国船の「燕京号」は神戸港の岸壁を離れていく。いつまでも手を振ってくれている見送りの林さん、あすかさん、北川さんの姿があっというまに小さくなっていく。

 甲板で中国製の「燕京ビール」を飲みながら、遠ざかっていく神戸の町並みを眺めた。「さー、シルクロードだ!」

神戸港の第4埠頭にズラリと並んだバイク
神戸港の第4埠頭にズラリと並んだバイク

神戸の中心街の三ノ宮
神戸の中心街の三ノ宮

有馬温泉
有馬温泉

中国船「燕京号」に乗船
中国船「燕京号」に乗船





はじめてのバイクメンテナンスこ... スタジオタック...
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テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

シルクロード横断:第2回 神戸→天津

 2006年8月18日12時00分、我々「シルクロード横断」のメンバー、総勢18人を乗せた中国船「燕京号」は神戸港を出港。しばらくは甲板に立ち尽くし、中国製「燕京ビール」(200円)を飲みながら、離れゆく神戸の町並みを眺めた。

 そのあと船内のレストランで昼食(1000円)。肉料理&野菜料理にライス、スープ、饅頭がついている。食べ終わったところでまた甲板に上がり、流れゆく瀬戸内海の風景を眺めつづけた。

「燕京号」は明石海峡大橋の下をくぐり抜け、小豆島の南側を通っていく。四国側の五剣山や屋島、高松の町並みがよく見える。瀬戸大橋をくぐり抜け、塩飽諸島の島々を見る。たまらない眺めだ。2001年から2002年にかけて、1年がかりでまわった「島めぐり日本一周」のシーンが思わず蘇ってくるのだった。

「燕京号」は夕方、広島県の笠戸諸島の沖合いにさしかかったところで速度をガクンと落とし、やがて停船した。ガラガラガラッと大きな音をたてて碇を下ろす。本土上陸の台風10号が接近しているので、ここで24時間停船し、台風をやりすごすという。だが、瀬戸内海はいつものように波静か。レストランで夕食を食べたあとは船室で「シルクロード横断」のメンバーと飲み会だ。中央アジアの地図を広げると、夢は中央アジアへと飛び、際限なくふくらんでいく。

 8月19日8時00分、レストランでの朝食。1皿目は無料。朝粥だ。饅頭もついている。2皿目以降は200円。船内では日本円が通用する。停船して碇をおろしているのだから当然のことだが、「燕京号」はまったく動かない。さすが瀬戸内海、台風が接近しても海は穏やかで荒れることはなかった。

 午前中は別の船室にいる趙文利さんの話を聞いた。中国籍の趙さんは今は大連に住んでいるが、純粋の日本人。なんとも数奇な人生を送っている。兵庫県出身のおじいさんの代に旧満州(中国東北部)のジャムスに開拓農民として渡った。終戦の混乱時におじいさんは亡くなり、お父さんは新京(長春)で孤児になった。その後、はるか遠くの新疆ウイグル自治区に移り住む。お父さんは新疆ウイグル自治区の中心、ウルムチで結婚。相手の女性は日本人でやはり戦争孤児だった。

 趙さんは新疆ウイグル自治区で生まれ育ち、ハミの大学に行った。お父さん、お母さんは1976年に日本に帰国したとのことだが、趙さんはそのまま中国に残り、今では大連を拠点にして日中間のビジネスをしている。これはずっと先のことになるが、我々がハミに行ったとき、ちょうど趙さんもハミの大学の同窓会で同じホテルに泊まった。そのときは抱き合うようにして再会を喜びあったが、これも縁。旅して何がおもしろいかというと、こうして旅先で出会う人たちとの縁だとぼくは思っている。そんな趙さんとレストランで一緒に昼食を食べた。

 夕方になって「燕京号」はやっと碇を揚げ、動き出す。今治の沖合いを通り、しまなみ海道の来島海峡大橋の下をくぐり抜け、島だらけといった様相の芸予諸島の島々を縫い、夜中に関門海峡を抜けた。そのとたんに台風の余波で船は大きく揺れた。

 8月20日、目を覚ますとすぐに甲板に上がったが、目の前には朝鮮半島西岸の島々が見えていた。その日は朝鮮半島の西岸を北上。夜は「シルクロード横断」のメンバーでワインパーティー。もうメンバー全員が昔からの知り合いであるかのような和やかさ。これが船旅のよさというものだ。

 8月21日16時、「燕京号」は天津港に到着。爆発的な経済成長をつづける今の中国を象徴するかのように、天津港の港外には大小無数の船が入港の順番を待っている。「燕京号」はコンテナ埠頭の前を進み、やがて客船用の埠頭に接岸。我々は船を降り、入国手続きを終え、中国の大地を踏みしめた。いよいよ「シルクロード横断・中国編」の旅がはじまるのだ。

神戸港を出港。遠ざかっていく神戸の町並み
神戸港を出港。遠ざかっていく神戸の町並み

「燕京号」のレストランでの食事風景
「燕京号」のレストランでの食事風景

天津港のコンテナ埠頭
天津港のコンテナ埠頭

天津港に接岸
天津港に接岸

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

シルクロード横断:第3回 天津→平遙

 2006年8月24日、いよいよ天津、出発の日を迎えた。だが、残念ながらバイクで走り出すことはできない。中国の公安当局は10台までのバイクだったら天津から走ってもいいという許可を出した。しかし我々のバイクは全部で15台。10名だけがバイクというわけにはいかない。そこで、シルクロード起点の西安までは15台のバイクをトラックに積み、西安まではバスツアーで行くことになった。天津出発は昼過ぎになりそうだという。

 ということで、「天津友誼賓館」のレストランで朝食を食べると、午前中は天津の町を歩いた。まずは海河の河畔近くの市場を歩く。ここでぼくの目をひきつけたのは路上でコオロギを売っている人たち。小さなカンにコオロギが入っている。中国人はコオロギが大好きだ。買い手は真剣な目つきで1ぴき1ぴきの鳴き声を確かめている。そこでは最高額紙幣の100元札がバンバン飛び交っている。日本でいえば1万円札が飛び交うようなもの。いい音色のコオロギは相当な値段で取引されていた。

 海河にかかる赤峰橋を渡って天津駅へ。北京や上海、広州など中国各地への列車が次々に出ていく。瀋陽や長春、ハルビンといった東北地方への列車も多い。2004年にはスズキQS110という中国製のスズキ車で中国・東北をグルリと一周したので、それら東北地方の都市名を目にすると胸がジーンとしてくるのだ。

 昼過ぎにホテルに戻ると、出発はさらに大幅にズレ込むという。バイクのナンバープレートと運転免許証の発行に手間取っているからだ。なにしろ15台ものバイクだから仕方ない。中国では国際登録ナンバーは通用しないので、中国のナンバープレートに付け替えなくてはならない。我々のバイクに「臨時入境」のナンバープレートをつけることでこの問題をクリアした。

 次に運転免許証だが、やはり中国では国際運転免許証は通用しないので、中国の国内免許証を取らなくてはならない。それは有効期限と走行ルートの指定されたもの。最初は講習を受けなくてはならないといわれたが、道祖神の菊地さんらの強力なプッシュのおかげで講習を受けなくても発行してもらえることになった。それらの難関をすべてクリアしたのは夕方になってから。バスに乗り込んで天津を出発したのは19時だった。

 バスは天津の市街地を抜け出ると、高速道路を時速100キロ以上のスピードで突っ走る。中国の高速道路の建設は各地で急ピッチで進んでいる。近い将来、高速道路の総距離数はアメリカを上回るとさえいわれている。華北省の省都、石家荘周辺はとくに交通量が多く、大型トラックが途切れることのない列をなして疾走していた。それはまるで夜間の東名高速を思わせるような光景だった。

 ゆるやかな峠を越えて華北省から山西省に入る。省都の太原を通り、午前5時30分、天津から670キロの平遙に到着。この町のホテル、「古城酒店」の部屋に入るなり、バタンキューの爆睡状態で昼まで眠った。昼食は麺専門店。「刀削麺」を食べた。字の通りで、麺は刀で削ったような形をしていた。

 その店には「世界面食在中国 中国面食在山西 山西面食数第一」(世界の麺食の中心は中国 中国の麺食の中心は山西省 山西省の麺食の種類の多さは中国第一)と大書されていた。平遙は城壁で囲まれた町。町全体が世界遺産に登録されている。そんな平遙の町を歩いた。城壁から見下ろす城内の町並みは心に残るものだった。

天津→平遥
天津→平遥

天津のコオロギ売り
天津のコオロギ売り

天津の中心街を流れる海河
天津の中心街を流れる海河

平遙の「刀削麺」
平遙の「刀削麺」

城壁から見下ろす平遙の町並み
城壁から見下ろす平遙の町並み






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テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

シルクロード横断:第4回 平遙→西安

 2006年8月25日、「世界遺産の町」平遙から「シルクロ-ドの起点」西安へ。その途中では運城の町で一晩泊まった。ホテルのレストランでの夕食。すごい料理の数々で、冷菜が10皿、出た。そのあとエビのフライや鶏肉、青菜、餅風の油揚、ジャガイモ、川魚などさらに10皿の熱菜が出た。

「菜」は料理といった意味。なにもこれが特別なのではなく、毎夕、このくらいの料理が出る。さすが「食の中国」だけのことはある。我々メンバ-は円卓にすわってそのような豪勢な料理を取り囲み、中国製のビールを飲みながら食べた。が、とてもではないが食べきれない。毎食、かなりの量を残すのだった。

 運城から西安へ。その途中で黄河を渡る。さすが世界の大河、黄河はとうとうと流れていた。その名前どおり、黄土をとかしたような川の色。黄河を渡ると山西省から陜西省に入る。

 西安郊外の「華清池」には昼前に着いた。ここは唐の第6代皇帝の玄宗が楊貴妃を連れてしばしばやってきた温泉。玄宗のつかった湯船、楊貴妃のつかった湯船などが残されている。今でも43度という源泉が流れ出ているが、ここは3000年もの歴史を誇る温泉地。周の王室がここに別荘を持ったときから華清池の温泉の歴史が始まるという。さすが「歴史の中国」だけあって、日本とは桁違いの歴史。日本最古の温泉といわれてる奈良県の湯の峰温泉でも、おそらくその歴史は千何百年といったところだろう。

「華清池」の食堂で昼食。「わんたん」を食べた。それと幅広の麺に具のたくさんのった「炸醤麺」を食べた。ともに値段は5元。日本円で75円。中国の食物は安い!

「華清池」の次は秦の始皇陵近くにある「兵馬俑坑」に行く。ここには1号から3号まであるが、最大の1号坑からは6000体にものぼる兵馬俑が発見された。そこには武人俑や戦車用陶馬、金属兵器などが発掘当時のまま展示されている。

 1974年3月、農民が井戸を掘っているときにこの秦代の兵馬俑坑が発見されたのだが、まさに驚きの世紀の大発見。今では「兵馬俑坑」は西安の、というよりも中国屈指の大観光地になっている。

「華清池」と「兵馬俑坑」のあと、西安の中心街に入っていく。昔の長安の都だ。前漢の時代に初めてここを都に定めて以来、前趙、前秦、後秦、西魏、北周、隋、唐など全部で11の王朝が長安を都とした。唐の時代は世界でも最大の都市といわれた。中国では洛陽と並ぶ代表的な古都の西安は昔も今も大都市だ。西安の人口は800万人。中国では北京、上海、天津、重慶、広州に次ぐ6番目の都市になっている。

 我々の泊まったホテルの「東方大酒店」からは、西安の町を歩いた。朱雀大街を歩き、城壁内に入っていく。
「今、長安の都を歩いている!」
 といったたまらない気持ちになり、歩きながらわけもなく「ウワ-ッ!」と、大声で叫びたくなった。

 西安は城壁に囲まれた町で、それがほぼ完全に残されている。鼓楼と鐘楼が町の中心。中国のパリといったところで、若者たちであふれかえっていた。「麦当労」(マクドナルド)に入ると、ほぼ満席という大盛況ぶり。鐘楼からは南大街→長安路と歩いてホテルに戻ったが、「いよいよこれからシルクロードを走り出すのだ」といった胸の熱くなるような気分に襲われるのだった。

運城の夕食。「冷菜」が全部で10皿。このあとさらに「熱菜」が10皿出る
運城の夕食。「冷菜」が全部で10皿。このあとさらに「熱菜」が10皿出る

「華清池」の温泉。43度の源泉が流れ出ている
「華清池」の温泉。43度の源泉が流れ出ている

「兵馬俑坑」の1号坑に並ぶ6000体もの兵馬俑
「兵馬俑坑」の1号坑に並ぶ6000体もの兵馬俑

西安の中心、ライトアップされた鐘楼
西安の中心、ライトアップされた鐘楼

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

シルクロード横断:第5回 西安

 シルクロードの起点、西安は1日かけてまわった。まずはシルクロ-ドの出入り口、「西の城門」。西安の城壁は全長13キロ。この城壁に囲まれた内側が昔の長安の都の中心になる。現在は城壁の外側にも市街地が広がっているが、城壁内は「城区」、城壁外は「郊区」と呼び分けられている。城壁の上はかなりの道幅で、歩いてまわれるようになっている。「西の城門」に掲げられている「シルクロード図」はぼくの目を引いた。

 次に「大雁塔」に行く。慈恩寺という寺の7層の仏塔で、高さ64メ-トルという壮大なもの。西安のシンボルになっている。「西遊記」で名高い玄奘三蔵が印度(インド)から持ちかえった膨大な仏典を保存するために建てた塔。ここには三蔵法師の像が建っている。「大雁塔」に対して「小雁塔」と呼ばれる塔もある。大薦福寺にある仏塔。この寺は中国史上唯一の女帝、武則天(則天武后)が亡き夫の高宗のために684年に建立した大献福寺で、それがのちの大薦福寺に改称された。

「西の城門」と「大雁塔」を見たところで、町中の食堂で昼食にする。ここでは汁のほとんどない「岐山干拌麺」を食べた。そのあとでもう1種、幅広の麺も食べた。ぼくは「シルクロード」は「麺ロード」だと思っている。で、「シルクロード横断」では、できるだけ多くの麺を食べてみたいのだ。さすが「麺大国」の中国だけあって、多種多様な麺がある。それを1種でも多く食べるのはこの上もない楽しみだ。

 昼食の麺を食べたあと、西安駅に行く。ぼくは駅に行くのがすごく好き。バイクでのツーリングでもよく駅を使う。たとえば「東京→青森」のゴールを青森駅前にするような感じで、ツーリングの途中では各地の駅に立ち寄っている。

 西安駅の構内には大勢の人、人、人…。駅前にも大勢の人たちを見る。鉄道がいかに重要な交通手段になっているか、それがよくわかる光景。チベットのラサに通じる鉄道が開通間近で、その切符を売る窓口の前にも長い列ができていた。

 次に清真大寺へ。一見すると仏教風の寺に見えるが、ここはイスラム教のモスク(寺院)。唐代の742年に創建された。この清真大寺の周辺にはイスラム教徒が多く住んでいるが、彼らは頭に白い小さな帽子をのせている。大半の食堂には「清真」の2文字が表示されている。「清真」は「ここはイスラム料理の店ですよ」の意味。イスラム教徒は豚肉を食べないので、「清真」の店の肉といえば主に羊肉になる。12元(180円)の拝観料を払って清真大寺に入っていく。楼閣にはアラビア文字。西安がシルクロードで西のアラビアの世界と深く結びついていたことを実感させる清真大寺だった。

 つづいて「歴史博物館」を見学。ここでの展示は紀元前21世紀から紀元前770年までつづいたという周の歴史からはじまる。そして秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清と中国歴代の王朝の展示へとつづいている。中国4000年の歴史をぐるりとひとまわりしながら見ていける博物館。それにしても中国の歴史の長さには圧倒されてしまう。最後に「小雁塔」に行き、塔の上まで登り、そこから西安を見下ろした。

 我々のホテル「東方酒店」に戻ると、明日のバイクでの出発にそなえ、ホテル近くの「中国石油」で給油。15台のバイクを連ねての給油は壮観だ。いよいよ明日は西安から西へと走り出す。その夜はホテルのレストランで「羊肉灌湯包」の夕食。我々メンバーはいつになく興奮した面持ちでビールで乾杯。そのあとビールやワインを飲みながら夕食を食べるのだった。


西安の「西の城門」
西安の「西の城門」

「西の城門」から西を見る
「西の城門」から西を見る

昼食で食べた「岐山干拌麺」
昼食で食べた「岐山干拌麺」

西安駅前の雑踏
西安駅前の雑踏

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

シルクロード横断:第6回 西安→平涼

 2006年8月28日、いよいよバイクでの西安出発の朝を迎えた。6時、朝食。7時、出発。それに先立って、出発のセレモニー。「目指せ、イスタンブール!」の掛け声とともに、全員で「エイエイオ-」と気合を入れた。あいにくの空模様で雨具を着て走り出す。

 西安はなにしろ大都市なので、うまくこの町を走り抜けられるかどうかが大きな問題。中国人スタッフの乗った車が先に走り、その後ろに15台のバイクがつづく。カソリが先頭を走り、右折時や左折時にはカソリの次のバイクがその地点で止まって後続車に指示を出す。一番後を「道祖神」の車のハイエースがつく。それには菊地さんやメカニックの小島さんらがのっている。トラブルもなく西安の郊外まで来られたときはホッとした。まずは最初の難関を突破。

 シルクロード起点碑でバイクを停め、ラクダの隊商をモチーフにした石造りのモニュメントを見る。先頭のラクダをひく人物像がメンバーの1人の斉藤さんによく似ている。「ほんとだ、ほんとだ」と驚きの声。そんなシルクロードのモニュメントを離れ、ほんとうの西安出発となった。

 西安からは国道312号を行く。ぼくのバイクはスズキDR-Z400S。我が愛車のDRはすごいバイクで、2002年にはシベリア横断ルートでの「ユーラシア大陸横断」、2004年~2005年には「チュニス→アクラ」での「サハラ砂漠縦断」をノントラブルで走り抜いてくれた。西安を走り出してまもなく、メーターは5万キロを越えた。

 ところで西安からの国道312号は上海が起点。南京、鄭州を通って西安へ。西安からは蘭州、玉門、ハミ、トルファン、ウルムチと通ってカザフスタン国境が終点になっている。そのうち西安からトルファンまでが我々の通るルート。国道312号は全長4552キロで中国の国道の中では第2位の長さになる。ちなみに中国の最長国道は上海→武漢→成都→ラサ→ネパール国境の国道318号で全長5334キロ。さすが広大な国土の中国だけあって、国道の長さも日本とは桁違いだ。

 中国の国道というのはそれほど本数は多くない。101号から112号までの100番台の12本は北京から放射状に出る国道、201号から228号までの200番台の28本は中国を南北に縦断する国道、そして301号から330号までの30本は中国を東西に横断する国道で、全部で70ルートになる。

 永寿を通り、長武で昼食。町の食堂で「焼きうどん」を食べる。ここでは調理場で麺をつくるところを見せてもらった。汁なしのうどんだ。長武を過ぎると、甘肅省に入っていく。第1日目は297キロ走った平涼で泊まる。我々の宿の「明珠賓館」に入ると、シャワーを浴びて着替え、さっそく町を歩いた。

 平涼駅まで歩き、ホテルに戻ってくるころには10連発もの猛烈なクシャミに見舞われた。クシャミのあとは滝のように流れ出る鼻水。黄砂の舞う中を走ってきたので、最初は花粉症と同じような黄砂のアレルギーではないかと思ったほど。ところがこれが我々を悩ませた「中国風邪」のはじまり。このあとは息がつまるほどの鼻づまり、激しいせき「中国風邪」にはさんざん痛めつけられるのだった。

シルクロード起点のモニュメント
シルクロード起点のモニュメント

長武の食堂
長武の食堂

平涼で泊まったホテル「明珠賓館」
平涼で泊まったホテル「明珠賓館」

平涼の路地裏から見るモスク
平涼の路地裏から見るモスク

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ジャンル : 旅行

シルクロード横断:第7回 平涼→蘭州

 平涼のホテル「明珠賓館」の朝食では、レストランの一角で調理人が鮮やかな手つきで麺を打ってくれた。細麺。それに香菜とネギ、辛味を入れて食べるのだが、麺も汁もじつに美味だった。「麺ロード」の「シルクロード」を実感させる朝食だ。

 8時、平涼を出発。スズキDR-Z400Sのエンジンをかけると、「今日も頼むぞ」とひと声かけて走り出す。じきに前方には立ちふさがるように連なる六盤山脈の山並みが見えてくる。その山並みに突入し、大きな峠を越える。2000メートル級の峠はトンネルで貫かれている。峠の周辺は見事な段々畑。さらにそのあともいくつかの峠を越えた。

 日本の山脈だと、たとえば奥羽山脈を越える峠はひとつだけだ。ところが大陸の山脈は幅が広く、何本もの峰々から成っているので、いくつもの峠を越える。そんな「峠越え」になる場合が多いのだ。

 象徴的だったのは2002年の「ユ-ラシア大陸横断」で越えたウラル山脈。山脈の幅は300キロ近くもあり、最初のアジアとヨーロッパを分ける分水嶺の峠を越えたあと、ほとんど1日がかりでいくつもの峠を越えていった。六盤山脈はウラル山脈ほどの幅はなかったが、そのミニ版といったところだった。

 平涼を出ると、寧夏回族自治区の一角をかすめていく。この寧夏回族自治区は南北に細長い。回族というのはイスラム民族のことで、彼らの先祖はアラビア人。イスラム教も回教になる。中国にはこれから我々が向かっていく新疆ウイグル自治区と西蔵(チベット自治区)、内蒙古(モンゴル)自治区、広西壮族自治区、それとこの寧夏回族自治区と5つの自治区がある。

 これら5自治区の中では寧夏回族自治区が最小。あっというまにその南端を横切ってしまう。六盤山脈を越えると、白い帽子をかぶったイスラム教徒を多く見かけるようになる。イスラムの世界に入ったのだ。これからトルコのイスタンブールまでは、途切れることのない広大なイスラム教徒の世界になる。

 六盤山脈を越えて甘肅省に入り、会寧の町の「清真」の看板をかかげたイスラム料理店で昼食。そのあと蘭州に向かったが、さらにいくつかの峠を越えた。

 16時30分、平涼から349キロを走り、甘肅省の省都、蘭州に到着。我々の泊まるホテルの「阿波夢大酒店」は中国の大河、というよりも世界の大河、黄河に面している。黄河は広い川幅いっぱいにとうとうと流れている。ホテルの部屋に荷物を置くと、さっそく蘭州の町歩きだ。黄河にかかる黄河新橋を渡り、河畔の公園を歩く。公園の一角の河岸からは黄河の遊覧船が出ている。モーターボートも出ている。ほかに乗客もいないのでぼく1人でモーターボートに乗ったが、料金は20元(300円)。

 蘭州の黄河は黄土色の流れではなく、真っ赤な流れ。「黄河」ではなく「紅河」。モーターボートは黄河の上流に向かったが、見た目以上に流れが速く、川面は波立っていた。黄河にかかる中山橋をくぐり抜け、北岸の白塔寺のある白塔山公園の下で折り返した。7層の白塔が目立つ白塔寺は、元の時代、チンギスハーンに会うためにチベットからモンゴルに送られたチベット仏教の高僧がこの地で死んだため、チンギスハーンが高僧を記念して建立したという。

 その夜は地獄の苦しみ。「中国風邪」の第2段階に入ったのだ。猛烈なくしゃみと流れるような鼻水は止まったが、今度は激しいセキと息もできないような鼻づまりに悩まされ、ほとんど一睡もできなかった。なんとも辛い蘭州の夜になった。「中国風邪」恐るべし!

前方には六盤山脈の山並みが連なっている
前方には六盤山脈の山並みが連なっている

六盤山脈の峠ではカボチャやヒマワリの種を売っていた
六盤山脈の峠ではカボチャやヒマワリの種を売っていた

蘭州の町並み
蘭州の町並み

蘭州を流れる黄河
蘭州を流れる黄河

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シルクロード横断:第8回 蘭州→武威

「シルクロード横断」では毎朝、夜が明けると目覚め、シャワーを浴び、さっぱりした気分で町を歩くのがぼくの日課になっていた。ところが蘭州では「中国風邪」にすっかりやられ、体調を崩してしまい、それができなかった。だが、夜明け前ごろにわずかでも寝られたので、すこしは体が楽になった。

 ということで7時、起床。7時30分、朝食。8時、出発。
 いつものようにメンバー全員で「目指せ、イスタンブール!」、「エイエイオー!」と気合を入れて走り出す。「中国風邪なんかに負けていられるか!」といった気分でスズキDR-Z400Sを走らせた。

 蘭州の中心街の交差点で見た道標が印象的。直進は「新疆」、右折は「青海」とある。「新疆」は我々がこれから向かう新疆ウイグル自治区への道、「青海」は青海省への道のことで、蘭州からだと青海省の省都、西寧が近い。

 蘭州からは「河西回廊」を行く。2本の山脈にはさまれた回廊のように細長くつづく低地、そこをシルクロードは通っている。南側の山脈は邦連山脈。前日モーターボートに乗って黄河を逆上ったが、そのとき白塔山の下でUターンした。黄河から見た標高1700メートルの白塔山が邦連山脈の東端にあたる。その山上に白塔寺の白塔がある。河西回廊北側の山並みの向こうはゴビ砂漠だ。

 12時、昼食。地図にものっていないような田舎町の食堂での昼食。麺&ハンバーグを食べたが、調理場で麺づくり、中国風のハンバーグづくりを見せてもらった。いやな顔もされないで見せてもらえるのが、「食文化研究家」のカソリさんにとってはなんともありがたいことだった。

 昼食後、食堂の片隅ですばやく5分間、寝た。この「5分寝」は絶大な効果。とくに体調を崩しているときなどで満点の効き目。「5分寝」で体がさっぱりしたところで、今日の宿泊地の武威に向かった。

 16時30分、武威に到着。蘭州からは290キロの距離。さっそく武威の町を歩く。ここには明代に建立された「文廟」があるが、ここの目玉は「西夏碑」だ。

 西夏は11世紀中頃からおよそ200年間、現在寧夏回族自治区と甘肅省の全域を支配していた遊牧民族国家。1227年、西夏はチンギスハーンの率いるモンゴル軍に抵抗したため、完膚なきまでに破壊され滅亡した。この西夏滅亡とともに歴史から消えていったのが西夏文字。そんな西夏文字の石碑が「西夏碑」だ。

 武威のホテルのレストランで夕食。いつのような大変なご馳走。その中でぼくの目を引いたのはくず餅風の食べ物。「涼粉」だという。さらによく聞いてみると「キャッサバ粉」からつくったものだという。キャッサバといえば南米のアマゾン川流域の低地が原産地。ぼくはアフリカの旅が長かったが、キャッサバにはほんとうにお世話になった。アフリカの広範囲な地域でキャッサバは主食になっている。そんなキャッサバを武威で食べていると、世界をダイナミックに駆けめぐる「食文化」にあらためて心ひかれる思いがした。

 その夜はメンバーの一人、長谷川さんからいただいた薬を飲んだ。そのおかげでひと晩、ぐっすりと眠れた。「眠り」の威力というのはすごいもので、おかげでぼくの体調は急速に回復した。しかしこの「中国風邪」が完治するまでには、さらに半月ほどの日数がかかった。ぼくと同じような「中国風邪」にやられたメンバーはほかにも何人もいたし、それが原因で日本に帰ったメンバーもいた。
「中国風邪」、恐るべし!

昼食を食べた田舎町
昼食を食べた田舎町

食堂での麺づくりを見る
食堂での麺づくりを見る

国道312号での休憩シーン
国道312号での休憩シーン

ホテルの部屋から眺める武威の町並み
ホテルの部屋から眺める武威の町並み

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シルクロード横断:第9回 武威→張掖

 2006年8月31日、いつものように朝起きると、目覚めたばかりの早朝の町を歩く。ホテルに戻ると朝食。そのころから雨が降ってきた。西安を出てからというもの天気の悪い日がつづいているが、武威でも雨具を着ての出発となった。武威を出ると、広大な草原地帯を見る。そこではヒツジが群れていた。農耕の世界から牧畜の世界に入ったことを実感させる風景だ。

 ゆるやかな峠を越える。といっても峠で高度計を見ると2500メートルを超えている。日本の自動車道の中では最高所の峠、山梨・長野県境の大弛峠が標高2360メートル。それよりもさらに高い峠なのだが、高さはあまり感じないのだ。登り下りもスズキDR-Z400Sにとってはものたりないくらいのゆるかさだった。

「河西回廊」を行く。甘肅省の地図を見てもわかるように、この間、甘肅省の形はまさに回廊で細長い形をしている。「河西回廊」は黄河の西に位置しているので「河西」になるのだが、その南に連なる邦連山脈は3000メートルから5000メートルの高度がある。主峰の邦連山は標高5547メートル。その山麓は山々からの融雪で水が豊かななのでいくつものオアシスができている。シルクロードはそのような河西回廊のオアシス群をつないで延びている。

 このあたりはかつては牧畜民、匈奴の土地。「邦連」は匈奴語で「天」を意味するという。我々がこれから見るようになる「天山山脈」の「天山」と同じような意味。だが、降りしきる雨のせいで、「天山」の邦連山脈はまったく見えなかった。

 その日の宿泊地、張掖に向かっていく途中の山丹で昼食。山丹といえば、名馬の「山丹馬」で知られている。この町の食堂で食べた炒飯はうまかった。それには卵とトマトの炒めものがついていた。砂漠にどんどんと近づいているので、塩味がそれにともなって濃くなっているのがよくわかる。砂漠の民には塩分が必要なのだ。

 山丹を過ぎると、国道312号のすぐわきに残る漢代の崩れかかった「万里の長城」を見た。

 16時、武威から261キロの張掖に到着。町の中心にあるホテル「張掖賓館」に泊まる。我々の泊まったホテルのすぐ隣が、巨大な仏陀の涅槃像をまつる宏仁寺。通称大仏寺をさっそく見てまわった。

 大仏殿には中国最大の涅槃仏がまつられているが、その身長は34・5メートル、肩幅は7・5メートルもある。柔和な顔をした豊満な仏像だ。大仏寺の創建は1095年。当初は信心深い西夏の太后がよくここに宿泊した。元の開祖フビライの母、ベーチ太后もこの地に住み、この地でフビライを生んだという。張掖はそのような歴史がある。

 張掖の古名は「甘州」。中世の大旅行家マルコポーロは、この町に1年間、滞在した。「東方見聞録」の中でマルコポーロは次のように甘州のことを書いている。

「カンプチュー(甘州)はタングート大州内の都市であるが、大州の首府であり統治の中心であるだけに、規模も大きく非常に立派な町である。住民は偶像教徒のほかに若干のイスラム教徒、キリスト教徒を含んでおり、キリスト教徒は城内に立派な教会堂三所を持っている」

 偶像教徒というのは仏教徒のこと。当時は張掖の住民の大半は仏教徒だったことがこの一文からもよくわかる。と同時に、この町で仏教徒はイスラム教徒、キリスト教徒と共存していたことも読み取れるのだ。

国道沿いに残る漢代の「万里の長城」
国道沿いに残る漢代の「万里の長城」

張掖の宏仁寺(大仏寺)
張掖の宏仁寺(大仏寺)

宏仁寺内で
宏仁寺内で

中国製ワインを飲みながらの夕食
中国製ワインを飲みながらの夕食

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シルクロード横断:第10回 張掖→嘉峪関

嘉峪関までのMAP


 2006年9月1日。今日はぼくの誕生日。なんとも月日のたつのは早いもので、59歳になった。20歳のときにスズキTC250で「アフリカ一周」して以来、ずっと世界を駆けめぐっているので、39年目の「旅人生」ということになる。いままでに何度、こうして旅の中で誕生日を迎えたことか…。

 さて、「シルクロード横断」だ。夜明けの町を歩いたあとで朝食。沖縄でもおなじみの「豆腐よう」や、青菜、ザーサイなどをおかずにして朝粥、飯、麺を食べる。毎朝、ボリュームたっぷりの朝食を食べ、それからの出発になる。なんともうれしいことに晴れている。西安を出発して以来、初めての晴天だ。

 張掖から万里の長城西端の嘉峪関へ。河西回廊を貫く国道312号を行くと、左手には邦連山脈の山々が見えてくる。主峰の邦連山(5547m)を中心とする5000メ-トル級の峰々は雪をかぶっている。

 国道沿いにタマリスクを見る。中央アジアの探検記にしばしば登場する砂漠周辺の植物。もじゃもじゃっとした葉にピンクの花をつけている。タマリスクが登場すると、国道沿いの風景は一気に「ゴビタン」と呼ばれる半砂漠の荒野へと変わっていく。

 酒泉が見えてくる。ここは「酒が湧き出る泉」伝説の残る緑豊かなオアシス。酒泉の特産品が「夜光杯」。邦連山脈から掘り出された原石を加工して杯にする。

 国道沿いの食堂で昼食。調理場で麺づくりを見せてもらった。両親の手伝いをするまだ若い女性が麺を打ち、麺を切り、麺をゆでる。

 張掖から264キロ走り、万里の長城最西端の嘉峪関に到着。「おー、ここまで来たか!」という感動にひたる。と同時に、天津の北郊で見た「黄崖関」の万里の長城が二重映しになって蘇ってくる。

 嘉峪関には万里の長城をまもる砦がある。砦というよりも城といったほうがいい。外側と内側、二重の城壁があり、東門と西門の城門があり、日本の城の天守閣を思わせる三層の城楼がある。この城は明の時代、1372年に建てられたという。

 嘉峪関の城壁上はかなりの幅の通路になっている。そこからの眺めは目に残る。万里の長城はさらに西へと延び、砂漠の中に消えていく。現代のシルクロード、国道312号は邦連山脈の山裾を通っているが、行き来する大型トラックやタンクローリーなどが見える。ジーゼルカーに引かれた20両編成の客車が新疆ウイグルの方向へと走り去っていく。

 それにしても中国というのはとてつもない国だ。歴代の王朝は東端の山海関から西端の嘉峪関まで、5000キロというとてつもない規模の万里の長城を築き上げた。だがそれは言葉を変えれば、中国にとって「万里の長城」北側の世界の脅威、匈奴などの騎馬民族の脅威がいかに大きかったかを証明しているようなものだ。

 その夜は嘉峪関の町中にあるホテル「青年賓館」に泊まり、レストランでの夕食。びっくりしたのは我々をサポートしてくれている「達板城旅行社」の社長、宗さんが大きなバースデーケーキを用意してくれていたことだった。

邦連山脈の雪山を望む
邦連山脈の雪山を望む

酒泉の町の入口で
酒泉の町の入口で

嘉峪関の関帝廟
嘉峪関の関帝廟

嘉峪関の城壁から西方を望む
嘉峪関の城壁から西方を望む

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