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第3回 三角線の終着駅・三角駅から天草、島原へ!

 (JTB『旅』2004年1月号所収)

さあ、歩くゾ!
 旅は出発までのプラニングが楽しい。今回の「終着駅から始まる旅」にしてもそうだ。『旅』編集部でIさん、Tさんと九州の地図を広げ、JR三角線の終点、三角駅と、島原鉄道の終点、加津佐駅をどのように繋いでまわろうかとプラニングしているときは、夢が自由自在に頭の中を駆けめぐり、胸がわくわくするほどの至福の時だった。地図を繰り返し眺め、徒歩、バス、船、フェリーを使って2つの終着駅を繋ごうという旅のプランが完成したときは、「やった!」という気分。それをもとに熊本に飛んだ。

 熊本駅から三角線に乗って終点の三角駅へ。三角駅に降り立ったときは、終着駅というだけで、何か胸にジーンとこみ上げてくるものがある。さっそく駅前から歩き始めた。「歩けるところは歩くんだ!」というのが今回の旅の基本。国道266号で天草へ。天草五橋の1号橋の天門橋を渡る。橋の中央まで来たところで、三角から島原に向かうフェリーが橋の下を通り過ぎていった。

 天草諸島の玄関口、大矢野町の大矢野島に入ると、ひたすら国道266号を歩く。島とは思えないほどの交通量の多さ。歩道が整備されていないので、スレスレに通り過ぎていく車に何度となくヒヤッとさせられた。

 大矢野島の南端まで来ると、天草五橋の2号橋、3号橋、4号橋と次々に渡り、天草松島の前島へ。松島温泉の国民宿舎「松島苑」に泊まった。三角駅前からここまで約18キロ。足の裏にはマメができていた…。

 さっそく4階の展望風呂に駆け登り、浴室から夕日に染まった天草松島の島々を見た。ここは日本三大松島のひとつ。夕日を売り物にしている「松島苑」だけあって、大きな夕日が天草松島に落ちていくシーンは圧巻。夕食もよかった。タイの塩焼きと刺し身が出たが、塩焼きはぎゅっと身がしまり、刺し身はコリコリッとした食感。いかにも海の幸の宝庫、天草を感じさせる鮮度のよさ。さらに1000円プラスで生と塩焼きのクルマエビを食べたが、これがまたよかった!


文字通りの「カニ丼」
 翌朝、「さー、今日も歩くゾ!」と気合を入れて出発。天草五橋の5号橋、松島橋を渡って天草上島に入り、松島町合津の国道266号と324号の分岐点では左折し、国道266号を行く。交通量がぐっと少なくなる。歩道が広くなり歩きやすくなる。おまけに天気も前日にひきつづいての快晴なので、鼻唄まじりの徒歩旅だ。八代海の海岸に出ると、さらに交通量は減った。八代海には小島が浮かび、その向こうの九州本土は水平線のかなたにボーッと霞んでいる。

 松島温泉から約20キロを歩いて姫戸に到着。足のマメはさらに大きくなっている。痛い…。「甲ら家」で昼食。ここでは天草名産のガザミを食べさせてくれる。ガザミとはワタリガニのこと。メニューを見て「カニ丼」を注文した。「カニ丼」とは「いったいどんなものなのだろう」と興味津々。出てきた「カニ丼」には目を奪われた。薄紅色のガザミの大きな甲羅が丼飯を覆い隠している。その甲羅を取ると、身がたっぷりのカニの足や菜類のてんぷらが丼飯の上にのっていた。「カニ丼」とはカニ天の天丼のこと。それにカニグラタンとカニの味噌汁がついていた。

 姫戸からは船で本渡に向かう。1日2便しかない船なので、乗り遅れないようにと、すこし早めに港に行った。すると定刻よりも前に、「ボーッ」と汽笛を鳴らし、白い高速船が港内に入ってきた。それを岸壁に立って見ていたが、高速船はくるりと向きをかえると、そのまま防波堤の向こうの港外へ出てしまうではないか。あわててふためいて、「おーい、おーい」と大声を張り上げ、思いきり手を振った。すると高速船はふたたび港内に戻り、姫戸港の浮き桟橋に接岸した。

 ところがそれは三角行きの船。船長は「船に乗るときは桟橋まで降りて合図するんだよ」とムッとした口調でいう。ぼくは「すいません、すいません」を連発した。船はすべての港に接岸するものだとばかり思っていたが、乗客のいない港ではそのまま素通りしてしまうとのこと。船長に迷惑をかけたが、これで船の乗り方がわかった。


島迷路に迷い込む
 三角行きの船が出るとまもなく本渡行きの高速船がやってきた。今度はその船に向かって大きく手を振った。だが、それは必要ないことだった。八代から来た船で、買い物帰りの人たちや高校生など何人かの乗客が降りたからだ。

 この船旅では、日本有数の群島、天草諸島を十分に実感した。次々と港に立ち寄っていくが、船内アナウンスもないので、地図とにらめっこでそれらの港を確認していく。島と島が重なりあった天草諸島、島の切れ目がなかなかわからずに、頭の中がこんがらがってくる始末。まるで巨大な「島迷路」に迷い込んだかのようだ。そんな迷路の中で絶好の目印になったのが、們島と樋島、御所浦島と牧島を結ぶ2本の橋だった。

 この船は人だけでなく荷物も運ぶ。途中の港では家の建築資材が下ろされたり、本渡の魚市場に送られる鮮魚類が積み込まれたりする。出港間際に宅配便の軽トラックがやってきて荷物を積み込むこともあった。島々を結ぶこの船はまさに天草の足になっている。

 最後に御所浦島の御所浦港に寄り、本渡港に向かう。その間でもいくつもの島々を見る。ここはまさに日本の多島海。天草諸島には全部で120余もの島々がある。「姫戸→本渡」の2時間あまりの船旅では、心ゆくまで「アイランド・ウオッチング」を楽しめた。


2度3度、海を越えて…
 本渡でひと晩泊まり、翌朝はバスで鬼池港へ。そこからフェリーで島原半島の口之津港に渡った。口之津は南蛮船渡来の地として知られているが、かつては南蛮貿易でおおいに栄え、キリスト教布教の中心地にもなった。海から入っていくと、口之津がよくわかる。南蛮船が入港するのには絶好の入江。キリシタン大名の有馬氏は永禄5年(1562)に口之津港を開き、ここを南蛮貿易の拠点にした。イエズス会の本拠地もここに置かれた。

 口之津港から島原鉄道の終点、加津佐駅まで歩き、諫早行きに乗った。1両のジーゼルのワンマンカー。カラフルな黄色い車両で、「島原の子守唄」のシンボルマークが描かれている。列車は島原湾に沿って走る。きらめく海の向こうの天草がよく見える。原城駅の海側には島原の乱で天草四郎らがたてこもった原城跡が、有家駅の近くにはキリシタン史跡公園がある。

 深江駅に近づくと、雲仙岳の平成新山がものすごすごい迫力で車窓に迫ってくる。焼けただれた山肌に樹木はない。島原駅に近づくと、今度は眉山が異様なほどに大きく見えてくる。日本の災害史上、最大級の被害をもたらした寛政4年(1792)の大爆発で、眉山は原型をとどめないほどに吹き飛び、崩壊した。火山と戦ってきた島原の壮絶な歴史を車窓の風景に垣間見た。

 島原駅に到着。島原城を模した駅舎の前には「島原の子守唄」の像が建っている。「おどみゃ 島原の…」と「島原の子守唄」を口ずさみながら島原を歩き、島原城へ。資料館になっている島原城を見学し、天守閣からは島原をとりまく四方の風景を眺めた。島原の風景を目に焼き付けたところで、通りの中央を水路が流れる武家屋敷街を歩いた。

 島原からはフェリーで三角に渡る。フェリーの甲板で三角名物の「甘鯛ちくわ」をかじりながらカンビールを飲んだ。離れゆく島原半島。雲仙岳の中央には平成新山。眉山は一番東側の山になる。目の向きを変え、進行方向左側の金峰山を見る。大きな目立つ山並みで、まるでポッカリと浮かぶ島のように見える。この金峰山の向こうが熊本の市街地になる。前方には宇土半島と天草の山々が切れ目なくつづいている。空には一片の雲もない。西の空に傾いた日を浴びて、島原湾をとりまくそれら四方の山々は光り輝いていた。

 フェリーは島原湾から宇土半島と大矢野島の間の狭い水路に入り込み、天草1号橋の天門橋の下をくぐり抜け、三角駅前の三角港に到着。島原から1時間の船旅。終着駅のその先を目指した旅だったが、最後はまた終着駅に戻ってきた。
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カソリの島紀行:第2回 屋久島・縄文杉へ!

 (JTB『旅』2003年3月号所収)

憧れの「縄文杉」!
「いつの日か、行ってみたい!」と憧れて、憧れて、それでもなかなか行けないところがある。屋久島の「縄文杉」というのは、ぼくにとってはのその代表格だった。それだけに、「旅」編集部の鵜澤さんから「カソリさん、縄文杉に行ってもらえませんか」と電話をもらったときは、「やった、これで(長年の)夢がかなうゾ!」と小躍りして喜んだ。

 縄文杉を目指して東京を発ったのは12月上旬。身を切られるような冷たい風が吹いていた。羽田から鹿児島に飛び、国産プロペラ機のYS-11に乗り換えて屋久島空港に降り立つと、南国の日差しは強く、汗が出るほどだった。

 屋久島最大の町、宮之浦の民宿「晴耕雨読」で、縄文杉まで同行してもらうカメラマンの小形又男さんと落ち合った。山の取材が得意な小形さんは縄文杉には何度も行ったことがある。縄文杉を知り尽くしている小形さんの同行は、なんとも心強いことだった。

 縄文杉には1泊2日の行程で行くことにした。縄文杉の近くには高塚小屋という山小屋があるとのことで、そこに泊まることにした。宮之浦のスーパーなどで2日分の食料を買い込み、翌朝の夜明け前の午前6時に、車で宮之浦を出発した。

 屋久島東部の安房で夜が明け、そこから屋久島中央部の山中に入っていく。道路沿いの早朝からやっている弁当屋で朝食用弁当を買い、荒川林道(舗装林道)の終点まで行く。宮之浦を出てからちょうど1時間、標高500メートルを超える地点で、山の空気はピリリと冷たい。屋久島は海岸地帯と山岳地帯では季節のまるで違う島だ。無料駐車場に車を停め、さっそく弁当を食べる。食べ終わると、縄文杉を目指して出発だ! 


「安房森林軌道」をいく
 緊張し、意気込んで歩きだした瞬間、なんとプッツンと音をたてて、背負ったキスリングザックの肩ひもが切れた…。シュラフやマット、ガス、コッフェルなどのキャンピング用品や食料、水、酒、着替えなどを詰め込んだキスリングザックはズッシリと重かった。15、6キロぐらいはあるだろうか。それを頭に乗せて歩こうかとも考えたが、片方の肩ひもだけで背負い、もう片方の切れた肩ひもを肩越しに右手と左手で交互に引っ張っれば歩けるということがわかった。まさに「窮すれば通ず」。このトラブルが旅の醍醐味!

 荒川林道の終点からは「安房森林軌道」の軌道内を歩きはじめる。入口には「屋久杉の生産事業、造林事業のため、機関車の運行をしていますので、カーブ、橋の上等では危険ですので特に注意して下さい」との注意書きがあった。

 橋を渡り、トンネルを抜け、森林軌道を歩いていく。右手に渓流を見下ろす。所々には待避所。左手の岩壁からはいたるところで水が流れ落ちている。1時間ほど歩き、安房川の本流にかかる橋を渡って小杉谷に到着。ここにはかつて100戸を超える戸数の集落があった。郵便局や本屋、商店などもあった。小・中校の児童数は最盛期の1960年には108人を数えたという。

 小杉谷集落は1923年に木材搬出の最前線基地として誕生したが、1970年の「小杉谷製品事業所」の閉鎖とともに、半世紀に及ぶ歴史に幕を閉じた。今は住む人もいない。小・中校跡の広い校庭に立つと、子供たちの声がどこからともなく聞こえてくるようで、胸がジーンとし、しばらくは立ち去れなかった…。

 9時に小杉谷を出発し、さらに森林軌道を歩く。白谷雲水峡への道との分岐点を通過し、50分ほど歩くと「三代杉」に到着。一代目は1500年前に倒れた杉、二代目はその上に成長したもので350年前に切り倒された杉、さらに二代目の上に成長したのが現在の三代目で、このような大杉を見られるのも「杉の屋久島」ならではのもの。三代目は一代目、二代目をとり囲むようにして、幹のような太い根を張っている。その前を「プププー」と警笛を鳴らし、エンジン音を響かせて森林軌道のトロッコが通り過ぎていった。

 10時に「三代杉」を出発し、さらに50分歩き、「大株歩道」入口に着いた。ここまではフラットなコースで楽だった。屋久島の自然を存分に味わいながら、気ままにプラプラと歩けた。「縄文杉」までは、あと残り半分の行程だ。


巨大杉めぐり
 11時、「大株歩道」入口を出発。「安房森林軌道」に別れを告げ、きつい登りの山道に入っていっていく。最初に出会う大杉は「翁杉」。推定樹齢は2000年から2500年。木の舞台があってそこに座り、正面のスーッと延びる杉の大木を見た。すると「カソリさん、アレじゃないですよ。こっちこっち」と小形さんの声。

 翁杉は着地性の植物に覆われ、根は苔むしていたので気がつかなかったのだ。裏側にまわると、木の幹はボロボロと崩れかかっている。赤茶けた岩山の岩肌が崩れていくかのようだ。それは植物というよりも岩石。いくつもの洞があって連続し、大木は空洞化し、巨大なオブジェになっている。木のてっぺんは原爆ドームを思わせた。それを今にも折れそうな3本の柱が支えていた。「左甚五郎の透かし彫りを見るようだ」とは、小形さんの言葉。

 12時、ウィルソン株に到着。見た瞬間、「おー!」と思わず声を上げた。巨大な杉の切り株。その中に入ると、サラサラと清水が流れ、祠がまつられている。祠の前で柏手を打つと、その音が洞内に響いた。内側の木肌は鍾乳洞の鍾乳石のよう。切り株の中が小世界になっていることが驚きだ。1914年にアメリカの植物学者、ウィルソンによって発見されたのでその名があるが、この巨大杉は16世紀の末に伐採されたとのことで、屋久杉の中では一番古い切り株だという。このウイルソン株を見ながら昼食にした。

 13時、ウィルソン株を出発。あえぎながらきつい山道を登り、14時、推定樹齢3000年の「大王杉」に到着。木の根元に入れないように、登山道にはロープを張ってある。木の下まで行って、杉皮をはいで持って帰る人が多いからだという。大きく枝を張った
大王杉を見ていると、妖怪の世界に迷い込んだようだ。

 そのすぐ上には「夫婦杉」。2本の大杉がからみ合っている。右側が夫で左側が妻か。女が男を追っているようにも見える。小形さんはすかさずいった。「屋久島の女は情が深い!」。「縄文杉」までの登山道沿いで見る屋久杉の巨木はこのほかに何本もあって、そのどれもが、みごたえのあるものばかりだった。なお「屋久杉」といえば、樹齢1000年以上の巨木を指すという。


「縄文杉だー!」
 縄文杉を目指してさらに登る。疲れきって小形さんとの歩きながらの会話も途切れがちになる。縄文杉を見るのは簡単なことではなかった…。そんなときに縄文杉から下ってくるカップルに出会った。なんと藤原寛一さん、浩子さんの夫妻だ。2人はバイクに乗って日本中の「巨樹めぐり」をしている最中だった。藤原夫妻は日本のみならず、世界もバイクで駆けめぐっている。そんな2人と偶然の再会をし、登山道でしばしの立ち話をしたおかげで、また新たな力が体内によみがえってきた。

「大王杉」から1時間、ついに「縄文杉」にたどりついた。縄文杉を前にすると、「スゲー!」の一言で、もう声も出ない。すごすぎる!

 ぼくが縄文杉を見た瞬間、頭に思い浮かべたのは、八ヶ岳山麓の尖石遺跡の「尖石考古館」で見た縄文土器の数々だった。縄文土器の装飾に、縄文人の燃え上がるような情念を見た。縄文杉のゴツゴツした木肌と盛り上がった大きなコブが、尖石の縄文土器の装飾と重なり合って見えたのだ。

 縄文杉を見る観覧台にシートを広げ、そこに座り込んだ。植物というよりも、神仏に対座しているようだ。屋久島には推定樹齢が3000年の「大王杉」、「紀元杉」、「弥生杉」、推定樹齢が4000年の「大和杉」とあるが、推定樹齢7200年の「縄文杉」は他を大きく引き離し、はるかにその上をいくド迫力だった。

 縄文杉を見に来る人たちは、個人も団体もほとんどが日帰りなので、午後3時を過ぎるとこのあたりには誰もいない。ぼくと小形さんは縄文杉を独占した。いくら見つづけても見あきることのない縄文杉。日が西の空に傾き、急激に気温が下がりはじめたところで、やっと重い腰を上げ、さらに10分ほど登った高塚小屋に行った。

 そこには先客がいた。若いイギリス人旅行者のジェイ。彼は南の尾之間から2日をかけて屋久島を縦走し、最高峰の宮之浦岳から高塚小屋に下ってきた。明日、縄文杉を見、白谷雲水峡経由で北の楠川に下っていくという。ぼくたちはといえば、今日と同じルートで安房に戻る。

 夕食後、ジェイをひっぱり込み、小形さんと屋久島の焼酎「三岳」で縄文杉に乾杯した。熱い湯で割って飲んだが、腹わたにしみるようなうまさ。縄文杉への乾杯は「三岳」の大瓶が空になるまでつづいた。「縄文杉を見たい!」という長年の夢をついに実現させて、ぼくは興奮し、気分はいやがうえにも盛り上がっていた。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

カソリの島紀行:第1回 屋久島一周・温泉めぐり

 (JTB『旅』2003年3月号所収)

「屋久島一周」の出発点は東海岸の安房だ。屋久島空港にも近い港町。ここで50㏄バイクを借り、島を一周しながら魅力的な屋久島の温泉、全5湯に入ろうと計画した。名付けて「屋久島一周・全湯制覇」計画。バイクの機動力を活かしたエリアの全湯制覇は「温泉のカソリ」の得意技。「さー、やるぞ!」と、「上山レンタカー」で借りた50㏄のカブにまたがり、安房港の岸壁に立った。

 屋久島を時計回りで一周する。その前に食事だ。安房の郷土料理店「いその香り」で早めの昼食にする。最初に「亀の手」を食べた。といっても本物の亀ではなく、形が亀の手に似た貝。店の人にいわせると、海亀の手は超美味だという。次にとれたばかりのキビナゴを若干、甘味のある島醤油につけて食べた。最後が地魚の握り。キビナゴとトビウオ、モハミ、ヒツオの4種が出た。モハミはブダイ、ヒツオはイスズミのことだという。

 屋久島の海の幸に大満足したところで、さっそく温泉を目指して走り出す。
 第1湯目は屋久島南部の尾之間温泉。安房からは15キロほど。ここにはいい共同浴場がある。入浴料が200円と安い。年中無休。入浴時間も7時から21時までと、すごく入りやすい。源泉は49・5度と申し分がない。島でも人気の温泉で、安房のみならず宮之浦からも車を飛ばして入りにくる人が多いという。男女別浴室。

 湯船の底の玉石の間からは、ブクブクと熱めの湯が湧きだしている。足の裏に感じる玉石の感触がいいし、その間から湧き出る湯は「いかにも温泉!」と実感させるものだ。泉質は単純硫黄泉。無色透明の湯で、若干の腐卵味があり、硫化水素の微臭がする。湯には肌にうすい膜が張るようなぬめりがある。湯につかりながら、さりげなく聞く地元のみなさんの会話が、「今、屋久島を旅している」という、よけいに盛り上がった気分にさせてくれる。ここは文句なしに、日本の島では一番の共同浴場だ。

 湯から上がり、地元のおばちゃんとちょっと立ち話をしただけで、「これ、食べなさい」といって屋久島名産のタンカンを袋に入れて持たせてくれた。冬の冷たい風に吹かれながらカブを走らせたが、温泉効果とタンカン効果の相乗効果で、いつまでもポカポカとあたたかかった!

 第2湯目は平内海中温泉。屋久島南部、平内の集落に近い海岸にある露天風呂。ここには全部で5つの湯船があるが、それぞれの湯船は微妙に湯温が違う。潮が満ちて来ると海水が湯船に入り込むので、干潮の2時間前後が入浴可能な時間帯になる。露天風呂入口の料金箱に100円玉を入れ、湯船の手前で靴を脱ぐ。脱衣所はないので、湯船のまわりの岩に脱いだ服をひっかけておく。湯温はジャスト適温。自然度満点の豪快な露天風呂につかる。目の前に広がる屋久島南端の海を眺めながら湯につかる気分は、もう最高だ。いうことなし! 飲湯も可で、コップに1杯、キューッと飲んだ。まさに自然の賜物。

 湯に中では、この露天風呂の主のような90を過ぎたおじいさんと一緒になった。毎日、欠かさずに入りにくるという。これが温泉のすごさなのだろう、おじいさんは足腰もしっかりしていて、とても90過ぎには見えない。畑仕事も山仕事も平気でやるという。もう1人、東京でのサラリーマン生活を早めに見切りをつけ、屋久島に移り住んだ人が一緒だった。「屋久島に移って寿命が延びましたよ」の言葉に実感がこもっていた。

 岩の上には若い女性が2人、座って海を眺めていた。ここは混浴の湯で、入口には「水着着用厳禁」の注意書きがあるので、2人にとってはちょっと入るのには辛い温泉だ。そこへどやどやっと、観光バスに乗った若い男女の一団がやってきた。彼ら、彼女らは湯船につかるのではなく、足湯だけを楽しんで帰っていった。

 ぼくは一昨年の3月から昨年の4月までの14ヵ月をかけて、50㏄バイクを走らせ、「島めぐりの日本一周」をした。その間では北は北海道の礼文島、利尻島から南は沖縄の与那国島、波照間島まで、全部で188島の島々をめぐった。50余湯の「島温泉」にも入った。その結果をもとにカソリ独断の「日本の島温泉・ベスト10」を選んだが、堂々の第1位は、この平内海中温泉だった。

 第3湯目は平内の隣の集落、湯泊の海岸にある湯泊温泉だ。ここはすっかり装いを新たにしていた。湯泊の集落から海岸に下る自動車道路が完成し、駐車場ができ、脱衣所とトイレもできていた。堤防の外側の海岸に新しい露天風呂がある。いちおう男女別になってはいるが、低い仕切りなので、お互いにまる見えだ。ひとつ残念なのは、ちょっと湯温が低いこと。その奥の波打ち際には、以前からの露天風呂がある。さらに岩壁の下にも小さな湯船の露天風呂。海草まみれになって湯につかる、この小さな岩窪の露天風呂の湯温が一番高かった。

 屋久島南部の3湯の温泉に入ったあと、屋久島北部へと舞台を移し、第4湯目の大浦温泉と第5湯目の楠川温泉に入った。屋久島北部の2湯はともに共同浴場の湯だ。

 大浦温泉は一湊の集落に近い海岸にある。小さな入江に共同浴場がポツンと1軒。屋久島の5湯の温泉の中では一番、秘湯の趣を漂わせている。入浴料の300円を入口の管理人室で払い、若干の濁り湯の湯船につかる。浴室の窓越しに海を見る。波が岩壁にぶち当たり、砕け散っている。湯から上がり、無料の休憩室で休んでいると、管理人が茶菓子と一緒にお茶を出してくれた。

 楠川温泉は屋久島一周道路から山中に入っていく。杉林の中に、やはりポツンと1軒、共同浴場がある。ここも入浴料は300円。小さな湯船で無色透明無味無臭の湯。アルカリ性単純温泉で源泉は25・8度。屋久島北部の温泉は大浦温泉もそうだが、屋久島南部の温泉群と比べると、泉温ははるかに低くなる。浴室の窓を開けると、目の前を渓流が流れている。渓流に覆いかぶさる緑の濃さが目に残る。とても冬とは思えない光景だ。

 こうしてそれぞれに趣の違う屋久島の5湯の温泉に入り安房へ。最後は「雨の屋久島」にふさわしい土砂降りの中を走り、すっかり日の暮れたころに安房に戻ってきた。第1弾目の「温泉めぐり」編の「屋久島一周」は103キロだった。

 安房では、民宿「あんぼう」に連泊した。そこを拠点に第2弾目の「林道めぐり」編、第3弾目の「岬めぐり」編と、さらに「屋久島一周」を走った。

「林道めぐり」編では10本の林道を走破したが、残念ながらその大半は舗装林道だ。だが、たとえ舗装林道でも、幹線の屋久島一周道路からはでは見られない豊かな自然を存分に味わうことができた。最長ダートは宮之浦林道で、行き止まり地点近くまでの往復20キロのダートを走った。強烈だったのは安房林道。標高1300メートルほどの終点まで登ると、雪が舞っていた。カブのハンドルを握る手はジンジン痛み、なんと南海の屋久島で凍傷寸前の目にあった…。屋久島は海岸地帯と山岳地帯ではまったく季節が違う。

「岬めぐり」編では、最北端の矢筈岬、最南端の浦崎、最東端の早崎、最西端の観音崎と屋久島の最東西南北端の岬をめぐった。このうち観音崎だけは岬への道がはないので、すぐ北の永田岬から海に落ち込む観音崎を眺めた。「温泉めぐり」、「林道めぐり」、「岬めぐり」の「屋久島3周」は471キロにもなった。カブよ、ご苦労さん!

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

シルクロード横断:第22回 塔中→ニヤ

 2006年9月9日、7時起床。この時間だと、まだ暗い。トイレをすませ、シャワーを浴びたところで外に出る。ひんやりとした砂漠の朝の空気。7時半、夜明け。さっそく目の前の砂丘に登る。タクラマカン砂漠の砂は白っぽい。砂の壁を崩しながら這うようにして登り、砂丘のてっぺんに立つと、感動のシーンが目の前に広がる。はるかかなたまではてしなくつづく大砂丘群。そんな砂漠の風景を一望。

「今、自分はタクラマカン砂漠のど真ん中にいる!」。
 砂丘のてっぺんに座り込みながら、地球を手玉にとっているような壮大な気分にひたるのだった。

 食堂で饅頭や粥の朝食を食べ、9時、塔中を出発する。「砂漠公路」を南下していく前に、我々はタクラマカン砂漠の大砂丘群をバイクで走った。勢いをつけるとけっこう砂丘を登り下りできる。砂にスタックしてもなにしろ人手があるので後ろを押してもらえる。「砂遊び」といった気分でのタクラマカン砂漠の砂丘越え。世界最大の砂場で「砂遊び」をするようなものだった。

「砂漠公路」を南下していく。
「倫台→塔中」間と同じように、「塔中→ニヤ」間でも、道路沿いは緑化されている。等間隔で管理棟がつくられ、パイプで水を流し、草をはやし、植林している。10年、20年後には、「砂漠公路」はシルクロードのオアシスで見るようなポプラ並木になっているかもしれない。

「砂漠公路」の500キロ地点を通過。その先では緑化が途切れ、一木一草もない大砂漠が広がっていた。「砂漠公路」の553キロ地点では崑崙山脈から流れてくる川を見た。緑が増え、木が多くなり、放牧している牛を見る。砂漠の砂ばかりを見るづけた目には、緑がなんともいえずに目にしみた。

 13時、塔中から233キロ走った地点で崑崙山脈の北麓を東西に走る国道315号に出た。カシュガルからヤルカンド、ホータン、ニヤ、チェルチェン、チャリクリクと通って青海省に通じている。シルクロードの「西域南道」だ。天山山脈の北側を通る「天山北路」、天山山脈の南側を通る「天山南路」、それと崑崙山脈の北側を通る「西域南道」がシルクロードの3本の幹線になっている。

 崑崙山脈の山並みは薄いカーテンのような砂のベールに覆われ、まったく見えなかった。1994年に「タクラマカン砂漠一周」をしたときも、ヤルカンドからホータン、ニヤ、チェルチェン、チャリクリクと通ったが、崑崙山脈の山並みはほとんど見えなかった。

 唯一、チェルチェンからチャリクリクに向かう途中、崑崙山脈の山裾まで接近する区間があり、夕日を浴びた高峰群を見ることができた。そのときの崑崙山脈の山の姿は、今でもぼくのまぶたにはっきりと残っている。崑崙山脈が神秘の山といわれるのは、そう簡単には見ることができないという理由もあるようだ。

「砂漠公路」と「西域南道」の交差点で、我々は喜び合った。「タクラマカン砂漠縦断」を走りきったのだ。

 国道315号に出たところで給油。そこにはやはりタクラマカン砂漠を縦断してやってきた長距離バスが止まっていた。「ウルムチ→ホータン」の長距離バスで寝台車になっている。国道沿いの食堂で昼食。とびきり辛い鶏肉料理の「大盤鶏」を食べた。

 塔中から256キロ走り、「西域南道」のオアシス、ニヤに到着したのは15時。「倫台→ニヤ」間、600キロの「タクラマカン砂漠縦断」だった。


タクラマカン砂漠の大砂丘群を眺める
タクラマカン砂漠の大砂丘群を眺める

塔中の町並み。すぐ背後に砂丘群が迫っている
塔中の町並み。すぐ背後に砂丘群が迫っている

一木一草もない砂漠が広がる
一木一草もない砂漠が広がる

「砂漠公路」と「西域南道」の交差点
「砂漠公路」と「西域南道」の交差点

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

シルクロード横断:第21回 倫台→塔中

 天山山脈南麓の町、倫台で「天山南路」の国道314号を離れ、「タクラマカン砂漠縦断路」の「砂漠公路」に向かっていく。いよいよ「タクラマカン砂漠縦断」の開始だ。

 その入口には「塔里木(タリム)沙漠公路」のゲートがあり、「砂漠公路」完成の記念碑が建っている。我ら「シルクロード軍団」はその碑の前にバイクを停め、全員で記念撮影。これから入っていくタクラマカン砂漠への思いをあらたにした。

 タクラマカン砂漠はタリム盆地の大半を占める大砂漠。タリム盆地は東西が1500キロ、南北が600キロの楕円形をした大盆地。北に天山山脈、南の崑崙山脈の山々が連なり、西側は「世界の屋根」のパミール高原。盆地の北側をタリム川が流れ、灌漑により、オアシス周辺では綿花や小麦、トウモロコシなどがつくられている。

「さあ、出発だ!」
 スズキDR-Z400Sのアクセルを開き、エンジン音も高らかに「砂漠公路」のゲートをくぐり抜けていく。胸が踊る。胸が高鳴る。
「タクラマカンだ!」と、DR400に乗りながら叫んでやった。

 タクラマカン砂漠の中に2車線のハイウエーが延びる。タクラマカン砂漠の石油開発を一番の目的として、中国が総力を挙げて1990年代の前半に完成させた「砂漠公路」。

 倫台から86キロ走ると、塔河の町に着く。ここが最後の町だ。ここで給油し、塔河から2キロほど走ると、川幅いっぱいに滔々と流れるタリム川を渡る。豊かな水量。タリム川は世界でも最大級の内陸河川で全長2179キロ。カラコルム山脈から流れてくるヤルカンド川、崑崙山脈から流れてくるホータン川、パミール高原から流れてくるカシュガル川、天山山脈から流れてくるアクス川が天山山脈南麓のアクスの近くで合流してタリム川になる。4本の大河が合流してタリム川になった地点が一番、水量が多い。

 我々、日本人の感覚で「川」というと、源流から上流、中流、下流と流れ下るにつれて川幅は広くなり、水量が多くなり、最後は河口で海に流れ出ていくというものだ。

 ところがこのタリム川はまったく逆。流れ下るにつれてどんどん先細りし、最後は砂漠の中に消えていく。

 1994年の「タクラマカン砂漠一周」の「チャリクリク→コルラ」間ではタクラマカン砂漠に消えていくタリム川の最後を見た。
 タリム川を渡ると、一望千里の大砂漠がはてしなく広がる。砂砂漠が大半で、大砂丘群がつづく。その中にひと筋の舗装路が延々と延びている。小休止のときにはバイクを路肩に停め、歩いて砂丘に登り、砂丘のてっぺんから際限なくつづく大砂丘群を眺めた。

「中国はすごい国だ!」と思わせたのは、この大砂漠を懸命になって緑化しようとしていることだ。「砂漠公路」沿いに点々と管理人の家をつくり、そこを拠点に、「砂漠公路」沿いを緑化しようとしている。

 まだ十分に明るい20時ちょうどに、タクラマカン砂漠のど真ん中にある塔中に着いた。倫台から348キロ。ここには簡易宿泊所があり、食堂があり、ガソリンスタンドもある。

 西部開拓の最前線を思わせるような塔中。タクラマカン砂漠に日が沈む。それとともに大きな月が昇った。今日は満月。夕食を食べおえると、小島さんや菊池さん、石井さんらと満月に照らされたタクラマカン砂漠の砂丘を歩いた。まさに「月の砂漠」だった。


「タクラマカン砂漠縦断路」
「タクラマカン砂漠縦断路」

「砂漠公路」の記念碑前で
「砂漠公路」の記念碑前で

タリム河を渡る!
タリム河を渡る!

タクラマカン砂漠の砂丘に立つ!
タクラマカン砂漠の砂丘に立つ!

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

カソリが選ぶ「ニッポン郷土料理」(4)山陽編

40、ばらずし(岡山)
“ばらずし”というのは、押しずしや握りずしに対しての散らしずしのことで、関東の五目ずしが関西ではばらずしになる。関西のばらずしのなかでもとくに有名なのは岡山南部の備前地方のばらずしだ。具を混ぜたすし飯の上に、さらにさまざまな具をのせた豪華絢爛の散らしずしで、見た目がなんとも華やか。何か祝いごとがあると、岡山人はばらずしをつくり、親戚や隣近所に配っている。ばらずしの具で欠かせないのが出世魚のサワラ。若魚のサゴシがヤナギとなり、成魚になるとサワラになる。とくに寒ザワラが好まれている。岡山駅の名物駅弁に“祭りずし”があるが、これもばらずしのことである。

41、ママカリの酢漬け(岡山) 
ママカリ(飯借り)というのは体長10数センチほどのイワシに似た海魚、サッパの瀬戸内海地方での異名で、この魚は北海道以南の広い海域に生息している。それだから正確にいうと岡山の魚という訳ではないが、キビナゴが鹿児島の魚であるのと同様、ママカリは誰がなんと言おうとやはり岡山のものなのだ。なんでママカリかというと、その味がよく、ご飯が足りなくなるほどで、隣の家に飯(まま)を借りにいくところから“飯借り”の名があるという。それだけよく岡山人はママカリを食べるということだ。ママカリは焼き魚にもするが、よく知られているのがその酢漬け。土産物にもなっているほどで、熱燗にした酒の肴には最高だ。ママカリは酢によく合う魚。酢でしめたママカリを使って、握りずし風のママカリずしにもする。

42、鯛の浜焼き(岡山)
この鯛の浜焼きは四国・香川県の名物にもなっているが、瀬戸内海をはさんだ対岸の岡山県でも昔からの名物である。備中の勇崎(現倉敷市)の浜でつくられた鯛の浜焼きは、毎年、松山(現高梁市)の城主に献上されていたという。土産物の鯛の浜焼きは、竹の皮でつくられた伝八笠に包まれ、なんとも趣がある。伝八笠から取り出した鯛の浜焼きをもう一度、蒸し焼きにするか、軽く焼くと骨からの身ばなれもよく、じつにうまく食べられる。さすがに“魚の王者・鯛”といったところだ。身を食べ終わったあとの骨や頭は今度は吸い物に入れて使える。上品な、さっぱりとした、いい味が出る。鯛は捨てるところがまったくない魚なのだ。

43、きびだんご(岡山)
岡山県といえば“桃太郎伝説”。県内のあちこちに伝説ゆかりの地がある。誰でも知っている
「桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけたきびだんご、ひとつ私に下さいな」
 の歌に登場するきびだんごの“きび”は吉備の国と雑穀のキビをひっかけたものだろう。吉備は備前、備中、備後、美作の4国に分かれ、現在は備後が広島県に一部になり、他の3国が岡山県になっている。吉備国は強大な力を持った国で、最後まで大和朝廷に刃向かった。その吉備国の中心が備前の一宮の吉備津彦神社と備中の一宮の吉備津神社のあるあたりで、この周辺には巨大古墳が数多くある。吉備津彦神社、吉備津神社の門前の名物団子が糯米とキビを原料とした「きびだんご」。現在の岡山名産のきびだんごはそれを品よく茶菓子風に改良したもので、安政3年(1856)創業の「広栄堂本店」が本家本元になっている。

44、ぶんず粥(岡山)
ぶんず粥の“ぶんず”というのは、インド原産の豆、緑豆(りょくとう)のことである。緑豆からは小豆や大豆と同じように、もやしをつくっている。小豆粥というのは全国的に見られるが、この緑豆粥というのは珍しい。笠岡市を中心とする岡山県の西部地方でよくつくられるもので、煮た緑豆の中に米を入れて炊いた粥である。風邪をひいたときなどの病人食にいいといわれている。だが、この緑豆粥にしても小豆粥にしても、糅飯(かてめし)の色彩がきわめて強い。糅飯というのは糅(混ぜ物)を入れて炊いたご飯のことで、米を十分に食べられなかった日本人は様々な糅を飯に混ぜることによって飯を増量させ、大家族を養ってきたのだ。米余りなんていうのは、我が日本民族の長い歴史から見れば、ほんの昨日、今日のことでしかない。ぶんず粥のほかにぶんず汁粉やぶんず餅もある。

45、鯛めん(広島)
“鯛めん”というのは、焼き鯛とそうめんを組み合わせた豪華な料理で、祝い事には欠かせないハレの日の料理だ。日本人と鯛は切っても切れない関係にあるが、とくに瀬戸内海地方というと、鯛との関係がひときは深い。瀬戸内海が鯛の好漁場になっているからだろう。なにかというと鯛で、ご馳走も鯛づくしになる。さて、この鯛めんだが、鯛は「めでたい」、そうめんは「細く長く」ということで、めでたさがいつまでもつづきますようにという願いが込められている。鯛めんに日本人の心の細やかさを見るような思いがする。大皿に盛られた鯛めんは、祝いの宴もたけなわになると、上座のテーブルから下座に下げられる。それをみんなで取り分けて食べる。歯ごたえのある鯛の白身と腰のあるそうめんの取り合わせが絶妙で、特製のタレが味のよさを一段とひきたてる。日本一の鯛の名産地で知られる鞆ノ浦のある福山市の料理屋などで食べられる。

46、カキの土手鍋(広島)
カキ料理というと宮城県のカキ鍋がよく知られているが、松島湾から北につづく三陸海岸はカキの養殖の盛んなところ。だが、広島湾の沿岸はそれ以上のカキの大産地だ。「カキ海岸」ともいわれるほどで、波静かな海面には無数のカキの養殖筏が浮かんでいる。広島のカキ料理といえばカキの土手鍋だ。鍋の周囲に土手のように味噌を塗るところから“土手鍋”の名前がある。新鮮なカキとダシ汁に溶けた味噌の取り合わせが絶妙だ。カキのほかにはしらたきやネギ、焼き豆腐、シイタケ、セリなどを入れる。店によっては一人客用の土手鍋もある。このほかのカキ料理というと、酢ガキやカキ飯、カキフライが主なもの。新鮮なカキのうまさは格別で、いくらでも食べられるが、食べすぎには要注意。カキに当たると七転八倒の苦しみを味わうことになる。

47、アナゴ飯(広島)
ウナギに似ているアナゴは別に瀬戸内海の魚というわけではないが、瀬戸内海沿岸ではこのアナゴがじつによく食べられる。まず照り焼きにしてから種々の料理に使われるが、巻きずしには必ずアナゴを入れるし、ちらしずしや茶碗蒸し、酢の物にもアナゴを入れる。正月の雑煮にアナゴが欠かせないところもある。アナゴ飯はうな丼風に、あたたかいご飯の上にアナゴの照り焼きをのせたもので、濃厚な味のうな丼と比べると、さっぱりとした淡白な味わいになっている。日本三景のひとつに数えられている宮島には、アナゴ飯を名物にしている店がある。国道2号を走るときは、ちょっと宮島に立ち寄り、厳島神社に参拝し、その帰りにアナゴ飯を食べていこう。

48、ワニの刺し身(広島)
広島県北部の三次や庄原、比婆、世羅…で秋から冬にかけてのご馳走になっている。“ワニ料理”というと、一瞬、アフリカのナイル川や南米のアマゾン川を連想するが、ワニというのは“因幡の白兎伝説”にも登場する日本海のフカのこと。先に上げた三次や庄原、比婆、世羅などは中国山地の分水嶺を断ち割って日本海へと流れていく江川水系の流域の地方で、山陽側の広島県内とはいっても、川の流れによって山陰側と深く結びついている。このあたりが食文化圏の味なところだ。海から遠いこの地方では、昔は生魚の無塩(ぶえん)魚はほとんど食べられなかったが、唯一の無塩魚というと、山陰から入ってくる日持ちのよい“ワニ”だった。その食の伝統が今でも強く残り、祭りの料理というとワニ料理なのである。ワニには独特のくさみがあるので、新鮮な魚を食べなれた瀬戸内の海岸部の人たちには、ちょっと手を出しにくい料理ではある。ワニは刺し身のほかに焼きワニや吸い物などにする。日本の内陸部や山間部で新鮮な魚がごくふつうに食べられるようになったのは、流通機構が発達した、ほんの最近のことなのである。

49、ふく刺し(山口)
日本のフグの本場、下関ではフグのことをフクという。それだから“フグ刺し”も下関では“フク刺し”になる。フグは福を呼ぶ魚なのでフクなのだという。さすがにフグ料理の本場らしく、下関の町を歩いていると、「ふく料理」とか「ふく刺し」、「ふくちり鍋」といった看板を掲げた店を何軒もみる。下関ではすこし無理してでもフグを食べよう。数あるフグ料理のなかでも王様級は、このフグ刺しだ。三枚におろしたフグの身を薄く切り、それを大皿に菊の花びらを模して盛りつける。それはまさに食べる芸術品。見事な板前さんの包丁さばきだ。箸をつけるのがもったいないくらいなのだが、ひときれつまんでつけ汁につけ、口のなかに入れたときは感動ものだ。光沢のあるフグの切り身は淡白な味だが、かみしめるとかすかな甘味が口の中に広がる。身には粘りけもある。シコシコした歯ざわりもある。下関ではこの歯ごたえを「ひきがある」という。「ひきがある」フグがうまいフグで、トラフグ以外には、このひきがない。

50、ふくちり鍋(山口)
フグ料理のフルコースのメインディッシュといったところで、コンブでダシをとった湯の中にフグのアラとハクサイやシュンギクなどの野菜類、シイタケなどのキノコ類、生麸や紅葉麸、それと豆腐や餅を入れる。フグの白子(精巣)を入れることもある。白子は通にはこたえられないほど美味なものだが、フグの種類によっては有毒である。トラフグの白子は無毒だ。フグの内蔵の中でも特に毒性が強いのは真子(卵巣)と肝(肝臓)。テトロドトキシンというその毒性は煮ても焼いても消えず、青酸カリよりもはるかに強力。それだから、昔からフグを食べるのは冒険的な行為で、フグが鉄砲といわれるゆえんである。すなわち「当たれば死ぬ」からである。“ふくちり鍋”のことを“てっちり鍋”ともいうが、それは“鉄砲のちり鍋”からきている。

51、ふくのヒレ酒(山口)
ふたつきの湯飲み茶碗に、焦げるくらいに焼いたフグのヒレを入れ、熱燗の酒を注いだもの。フグヒレの味がジワジワッと酒にしみ込んでくる。ヒレ酒にするフグのヒレというのは背ビレ、胸ビレ、腹ビレで、尾ビレだけは使わない。ヒレ酒には、干しあげたトラフグのヒレを使うが、品不足の状態なので、最近ではシマフグやゴマフグのヒレも、トラフグと称して出回っている。店の人に、「これはトラフグのヒレですね」と一言、確認してから飲んだらいい。せっかく本場でフグのヒレ酒を飲むのだから、やはり一番うまいものがいい。フグ料理のフルコースを頼むと、まず、このヒレ酒が出てくる。ふくのヒレ酒を飲みながら、ふくちり鍋をつっつくのは、まさに冬の下関ならではの味わいだ。

52、ふくのみかわ(山口・下関市)
“みかわ”というのは“身皮”のことで、フグの身と皮の間についている部分なのだ。それをさっとゆで、紅葉おろしとワケギの薬味をのせ、醤油をかけて食べる。身以上にシコシコした歯ごたえだ。みかわには血液の循環をよくする作用があるとのことで、食べ終わると体がポカポカする(ような気がする)。このみかわには皮を添えることもある。ともにフグ料理中の珍味といったところだ。

53、こふく揚げ(山口)
“こふく”というのはフグの子供のことで、こふく揚げはフグの子供をカラリと揚げた唐揚げのことである。頭も骨もヒレも、まるごと食べられる。揚げたてをフーフーいってさましながら食べるのだが、これがうまいのだ。さっぱりとした味わいで、こふく揚げをつまみにして冷たいビールをキューッと飲んだ。ビールによく合う味だ。こうしてまるごと食べられるということは、(確かめてはないが)フグの子供には毒がないのだろう‥。

54、ふく雑炊(山口)
残ったふくちり鍋にご飯を入れて炊いたのがふく雑炊だ。フグ料理のフルコースを食べると、このふく雑炊が最後になる。飯の一粒一粒にフグのうまみがたっぷりしみ込んでいるので、これがまた、きわめつけのうまさだ。なんと上手な残り物の処理方法ではないか。残り物を逆手にとって、まったく別物の味に仕立てあげるところなど、これぞ食文化!
ほんとうにフグの好きな人は、さらに残った骨を揚げたものをパリパリと音をたてて、せんべいのようにして食べる。まったく残すところのないフグなのだ。

55、タコ飯(山口)
大島大橋で本土とつながっている瀬戸内の周防大島は山口県最大の島で、ここではタコツボを使ってのタコ漁が盛んにおこなわれている。タコ漁の船に乗せてもらい漁の様子を見せてもらったことがあるが、漁が終わると、漁師さんの家でタコ飯をご馳走になった。とれたてのタコを細かく刻んで混ぜ合わせた素朴な炊き込みご飯なのだが、タコの味とほのかな潮の香がご飯にのり移って、なんともいえない味のよさなのである。しみじみと“海の幸”を感じた。魚介類というのは、やはり新鮮なものが一番だ。この地方ではハレの日にはタコに赤飯を詰め込んだタコ飯にする。

56、茶粥(山口)
茶粥というと関西の大和や河内が有名だが、周防大島でもごく普通に食べられている。毎朝、茶粥を炊いているという家のおばあさんに、茶粥を炊くところを見せてもらいながら話を聞いたことがある。
「茶粥というのは、あまりねばらないで、さらっとさせるのがつくり方のコツですね。茶粥に芋や豆を入れることもあります。そのつくり方ですが、まず最初に、お茶を茶袋に入れます。お茶は番茶のコチャ(粉茶)です。次にクド(かまど)にのせた鍋や釜でお湯をわかします。その中に茶袋を入れます。昔はカンス(茶釜)を使っていました。湯が沸騰してきたところで、研がないままのお米を入れ、出来上がった熱い茶粥をフーフーいってさましながら食べます」
ぼくも出来上がった茶粥を食べさせてもらったのだが、その熱いこと熱いこと。味よりも茶粥の熱さが強烈な印象となって残っている。

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いよいよファイナル

6/30(月) 03:35~05:45 TBS サッカー サッカー欧州選手権・決勝「ドイツ×スペイン」 (最大延長6・30まで)加藤浩次ベッキー小倉隆史金田喜稔土井敏之(5・45終了)

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管理人は準決勝スペイン×ロシアを見逃しました。
目覚ましつけていたのに、電池が弱く鳴りませんでした・・・が~~~ん。

今日(日付は明日ね)は見ます。賀曽利御大も外房からお帰りとのことで、
「とにかく寝られない夜になりますねえ!」
と、さっきメールがきましたよ。

私は明日仕事を休んだので(偶然だけど)、心置きなく無理できるのであります。むはは~。

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カソリが選ぶ「ニッポン郷土料理」(3)四国編

29、讃岐うどん(香川)
讃岐路を走ってすぐに目につくのは、“讃岐うどん”とか“手打ちうどん”、“饂飩屋”といったうどん屋の看板の多さだ。ここではそば屋の看板は、ほとんど見られない。讃岐はそれほどの“うどん大国”。香川県民のうどん消費量は断トツで日本一である。うどん屋に入ると、その種類の豊富さに驚かされる。釜あげうどんや湯だめ、しっぽくうどんなど、他地方ではあまり見ない種類のうどんもある。讃岐うどんの魅力は麺の腰の強さだ。

30、鯛の浜焼き(香川)
坂出沖は備讃瀬戸と呼ばれるが、そこは昔からの、瀬戸内海でも随一の鯛の好漁場。そこでとれる豊富な鯛と、瀬戸内の塩田でつくられる讃州塩と呼ばれる良質な塩が見事に合わさってできたのが“鯛の浜焼き”である。浜焼きというのは、煮えたぎる塩釜の中に、串刺しにした鯛を入れ、1、2時間ほどかけて蒸し焼きにする。それを塩釜から取り出し、風に当て、出来上がりとなる。備讃瀬戸対岸の岡山でも鯛の浜焼きは名物になっている。

31、まんばのけんちゃん(香川)
このユーモラスな名前を聞いただけでも、よーし、食べてみようじゃないかという気にさせられる。それが日本中を所狭しと駆けめぐる我らツーリングライダー気質というものだ。さて、“まんば”とは香川県特産の野菜で、高菜の一種といえよう。“けんちゃん”とはけんちんのこと。つまりは“まんばのけんちん”なのである。まんばと砕いた豆腐を炒め、瀬戸内産のいりこを加え、塩と醤油で味つけして煮込んだものである。

32、てっぱい(香川)
なんともおもしろい料理名だが、これは“鉄砲和え”からきていると思われる。つまり、“鮒の鉄砲和え”なのである。讃岐人の酒飲みには欠かせない酒の肴で、家庭でもつくられるし、料理屋や旅館でも酒の肴として出てくる。寒鮒の季節のものがとくに美味とされている。生きた鮒を塩と酢で締め、刺し身状に切り、その鮒とダイコンを酢で練った白味噌で和え、それに小口切りのネギとトウガラシを散らしたものである。

33、鯛めん(愛媛)
愛媛を代表する豪華郷土料理だ。鯛そうめんを略して鯛めんで、大皿に鯛の姿煮と一緒にそうめんを盛りつける。このそうめんというのは、松山特産の五色そうめん。伊万里焼きなどの大皿の色あいと鯛の桜色、五色そうめんの赤、青、黄、茶、白の色の取り合わせがなんとも見事だ。日本料理の見た目の美しさに感嘆してしまう。なお、愛媛では鯛飯も名高い。飯を炊くときに、うろこと腹わたを取り除いた鯛を米の上にのせたものである。

34、たらいうどん(徳島)
讃岐山脈南麓の土成の名物で、もともとは山仕事に出かけたとき、飯を炊く代わりに川原でうどんをゆでたのがはじまりだという。ゆでた手打ちのうどんを半桶に浮かべて食べるところから“たらいうどん”の名がある。ジンゾク(ハゼ科の川魚)を浮かべた醤油味のつけ汁につけて食べる。このつけ汁がいいのだ。なんとも風味があり、うどんの味をひきたてる。土成を貫く国道318号沿いに、何軒ものたらいうどんを食べさせる店がある。さらに今では徳島県のみならず、四国の他県でも名物になっている。

35、そばごめ(徳島)
平家の落人伝説で名高い祖谷は、良質のそばの産地としても知られている。そばは粉にしてそれを掻く“そばがき”や麺に打つ“そば切り”として食べられるが、そのほかに、祖谷特有の食べ方がある。それが“そばごめ”だ。そばごめは粉にしないで、粒のまま食べる食べ方で、粉食に対しての粒食になる。その代表的な食べ方が“そばごめ雑炊”。鶏肉や野菜、油揚などと一緒にそばごめを入れて煮込む醤油味の雑炊で、山里の素朴な味だ。

36、あめごの塩焼き(徳島)
祖谷川にかかる名所かずら橋周辺には、食堂やみやげもの屋が何軒も軒を連ねている。ここでの名物は、渓流魚の女王ともいわれるアメゴ(アマゴ)の塩焼きだ。どの店も、店先にしつらえた火床の炭火のまわりに、串刺しにしたアメゴを円状に立て、塩焼きにしている。アメゴは遠火でこんがり焼け、川魚特有のほのかな香りをあたりに漂わせている。この塩焼きを肴にして飲むビールはうまい。祖谷川を吹きわたる風が気持ちいい。

37、吉野川の鮎(徳島)
鮎を名物にしているところは日本全国にあるが、日本一の鮎といえば、なんたって“四国三郎”こと吉野川の鮎だ。ここの解禁直後の若鮎は、長らく天皇に献上されていたほど。その吉野川の中でも、大歩危あたりでとれる鮎がいいのだ。大歩危には流れの速い鮎瀬戸と呼ばれる好漁場がある。ここまで登ってくる鮎はとくに大きく、また身がひきしまり、吉野川の鮎の中でも最高との折り紙つき。その塩焼きは若草の萌えるような匂いがする。

38、皿鉢料理(高知)
豪華絢爛。豪壮な“皿鉢料理”は、土佐料理の代名詞のようなもの。黒潮洗う南国土佐の魚介類をふんだんに使っているが、それは特定の料理を指すのではなく、直径何十センチもある大皿に盛った料理をみんなで取り分けるハレの日の膳をいう。皿鉢料理の主役は鯛の活きづくりとかつおのたたき。そのほかさわらやはまち、ひらめなどの刺し身も欠かせない。皿鉢料理の豪快さには、太平洋の荒波にもまれる土佐人の気質がうかがえる。

39、かつおのたたき(高知)
皿鉢料理の主役にもなっている。なにしろかつおは土佐を代表する魚なので、かつおのたたきは独立して、それだけで一人歩きしている。土佐の名物料理といえば、まっさきにかつおのたたきが思い浮かぶほど。3枚におろしたかつおを藁を燃やした煙でいぶし、それを刺し身風につくったものである。今ではガスバーナーの火で皮をあぶっているが、昔ながらの藁の火であぶったかつおのたたきはまたひと味、違う。

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カソリが選ぶ「ニッポン郷土料理」(2)九州編

11、きびなごの刺し身(鹿児島)
きびなごは南日本で多くとれるウルメイワシ科の小魚で、そう珍しいものではないが、ツーリング途中で、このきびなごの刺し身を食べると、「今、鹿児島にいる!」という実感がする。きびなごの“きび”は昔、薩摩地方で使われていた帯を意味する言葉だそうで、きびなごの体の中央には帯のようなストライプが走っているのが大きな特徴だ。このきびなごの刺し身を美しく器に盛ると、ちょっとした芸術品。それを酢味噌につけて食べる。

12、さつまあげ(鹿児島)
今では全国区になっているさつまあげだが、“さつま”がつくくらいだから、もちろん本場は鹿児島である。地元ではそれを“つけあげ”といっている。街道沿いにもつけあげの店があるが、ちょっとバイクを停め、揚げたてのを食べると、ちょうどいい軽食になる。それも安くてうまい軽食だ。さつまあげは魚肉のすり身を油で揚げたものだが、エソ、グチ、ハモなどを原料にしたものが最上で、アジやサバ、イワシなどが並みとされている。

13、豚骨(鹿児島)
豚骨とは豚の骨つきのあばら肉のこと。この豚骨をぶつ切りにし、薄切りのショウガと一緒に炒め、熱湯をかけて油抜きし、焼酎を入れてもう一度、炒める。それに熱湯を加え、味噌と黒砂糖を加えてじっくりと煮込み、ダイコンとコンニャクを加えてさらに煮込み出来上がる。これを宿の夕餉の膳で、薩摩焼酎のお湯割りでも飲みながら食べていると、しみじみとした旅情を感じるというものだ。その起源は薩摩武士の戦場料理なのだという。

14、酒ずし(鹿児島)
薩摩料理の中でも、もっとも豪華なのがこの酒ずしだ。400年もの伝統があるという。酒ずし用の桶に地酒をかけてまぜたご飯と、タケノコやフキ、シイタケ、カマボコ、錦糸卵などの具を交互に詰めていく。一番上にはタイとエビを置き、地酒をふって木の芽(サンショウの葉)を飾り、重石をかける。こうして4時間ぐらいたつと食べごろになる。春から初夏にかけてが旬になる。すしといっても酢ではなく、酒を使うのが大きな特徴だ。

15、だご汁(熊本)
熊本名物の“だご汁”は団子汁のことだが、別に汁の中に団子が入っているのではない。見た目には、名古屋のきしめんをぼてっと厚くしたような麺が、味噌味の汁の中にダイコンやニンジン、サトイモなどの野菜類と一緒に入っている。これはゆで上げた麺ではなく、小麦粉をこねたままの麺なので、シコシコッとした歯ざわりと、小麦粉特有のざらついた舌ざわりがある。なお団子汁は大分県でも熊本に負けず劣らずの名物料理になっている。

16、高菜飯(熊本)
阿蘇地方を代表する郷土料理の高菜飯は、軽く塩をふりかけて炒めたご飯に、細かく刻んで油炒めした高菜漬と炒りたまごを混ぜ合わせたもの。気取りのない素朴な味だ。簡単につくれるということもあって、高菜の産地のこの地方では、どこの家でもつくる家庭料理になっている。また高菜漬を高菜飯にするのではなく、ご飯のおかずにしたり、酒の肴にもしている。阿蘇周辺の街道沿いには、“高菜飯”の看板を掲げた食堂をよく目にする。

17、馬刺し(熊本)
馬刺しといえば信州や甲州、さらに東北などでもよく知られているが、西日本や南日本では熊本だけである。霜ふりの馬肉の刺し身をショウガ醤油につけて食べる味の良さは熊本ならではのもの。くせがなく、さわやかな肉の味わいなので、いくらでも口に入ってしまう。馬肉は低カロリー、高タンパクの健康食なのだ。なぜ熊本で馬刺しなのか、よくはわからないが、戦前、この地で軍馬の飼育が盛んだったことがかなり影響しているようだ。

18、いきなりだご(熊本)
この名前が、なんともおもしろいではないか。“いきなりだご”の看板を目にしたときは、いったいどんな食べものなのだろうと興味津々といったところだった。“だご”は団子のことで、サツマイモを輪切りにし、生のまま、いきなり、団子の皮で包み込み、蒸したものなので、その名前があるらしい。ぼくはこれを峠の茶屋で食べたのだが、バイクを停めてちょっと一休みの軽食には最適の食べものだ。これを入れたいきなりだご汁もある。

19、ししずーしー(宮崎)
九州山地の奥深くに位置する米良では一晩、民宿に泊まったが、そこでの夕食は猪肉のフルコースだった。猪肉の中でも一番うまいという首まわりの肉(クルマゴ)は炭火で焼いて食べた。そのあとで膳には猪肉の吸いものと一緒にししずーしーが出た。ししは猪のことで、ずーしーは粥、つまりは猪肉入りの粥の意味。これは骨つきの猪肉を大鍋で煮立て、骨と肉に分かれたところで骨を取り除き、その中に米を入れて炊き上げたものである。

20、城下カレー(大分)
日本最大の温泉地、別府のすぐ北の日出名物。日出の別府湾に面した海岸には日出藩暘谷城の石垣がそそり立っているが、この城跡の下あたりの海底からは大量の真水が湧き出ているという。そこに生息しているマコガレイが絶品で、城下カレーと呼ばれている。城下カレーの刺し身は、フグ刺しのように薄く切られ、きれいな皿に盛られて出るが、日出のみならず別府の温泉宿の名物料理にもなっている。

21、卓袱料理(長崎)
今では長崎の料亭料理になってしまったが、もともとは家庭で客をもてなす料理。めいめいの膳に別々に盛るのではなく、大きな食卓の上に、全員の分を料理別の皿に盛り、各人が小皿で取り分けるという中国風の食べ方なのだ。鎖国していた当時の日本では、さぞかし珍しい食の習慣に見えたことだろう。卓袱というのは中国語でテーブルクロスのこと。外来の文化を巧みに採り入れ日本風のものにしてしまう知恵をここにみる。

22、ちゃんぽん(長崎)
長崎はちゃんぽん発祥の地。さすがに本場だけあって、長崎市内のあちこちでちゃんぽんの店を見る。ちゃんぽんが誕生したのは、明治の中ごろのようだ。華僑の中華料理店主が中国からの留学生に安くて、おいしくて、なおかつボリュームたっぷり、栄養たっぷりのものを食べさせてあげようということで、季節ごとの海や山の幸が一緒くたに、どっさりと入った麺を考案したという。中国との距離がきわめて近い長崎らしい話ではないか。

23、皿うどん(長崎)
ちゃんぽんに負けず劣らずに有名だが、それには2種類ある。ひとつは野菜や肉、魚介類などを炒め、中華麺を入れ、スープを少々加え、汁気がなくなるまで炒めたもので、長崎ではこれが本来の皿うどんだといわれている。つまりは、汁なしの炒めちゃんぽんといったところだ。もうひとつは、細いパリパリの麺にくず粉でとろみをつけた具をかけたもの。長崎に行ったら、ぜひとも本場のちゃんぽんと皿うどんは食べてみよう。

24、からすみ(長崎)
ボラなどの腹子(卵巣)を塩漬けにし、それを板にはさみ込んで形を整え、寒風に吹きさらして乾燥させたもの。長崎の名産で、野母崎の樺島周辺は、昔からのからすみ用のボラの好漁場になっていた。からすみといえば、酒の肴の最高級品といったもので1本が何千円もするが、これを茶漬けにしてもいい味だ。熱いご飯の上にからすみを細かく切って並べ、番茶をかける。なんとも贅沢な茶漬けだが、酒を飲んだあとには最適。

25、アゲマキ(佐賀)
佐賀の料理屋に入り、有明海ならではの珍味のフルコースを味わった。最初はイガニとシャコ。2皿目はスズキと二枚貝のウミタケの刺し身。3皿目はメカジャとクチゾク(シタビラメ)。メカジャというのは見た目には、ちょっと気持ちの悪い貝だ。4皿目はゆでた二枚貝のアゲマキ。最後は甘辛く煮たムツゴロウ。4皿目のアゲマキがじつにうまい。このほか佐賀では、アゲマキの刺し身、塩焼き、味噌汁を食べたがどれも最高の味だった。

26、水炊き(福岡)
骨つきの鶏肉をトリガラのスープで煮立た鍋料理が水炊きだ。骨から離れた鶏肉はとろけるようなやわらかさ。このスープの中に野菜や豆腐、丸餅などを入れ、つけ汁につけて食べる。博多の名物鍋料理だったものが、今では全国区的にさえなっている。博多ではフグやタイ、イワシなどのちり鍋料理が昔から盛んで、この水炊きは魚の代わりに地鶏を使ったという説もあるが、一般的には中国から長崎を経由し、博多に伝わったとされている。

27、明太子(福岡)
明太子というと、ずーっと昔からの博多名物のような気がするが、じつはその歴史は40年ほどでしかない。戦後、朝鮮半島からの引き上げ者がつくりはじめたものだ。それが爆発的にヒットし、今では博多に何十軒もの明太子製造業者がある。“メンタイ”とは朝鮮語でスケトウダラのことで、明太子は塩蔵したスケトウダラの子(卵巣)を辛子で漬けたもの。そのことからもわかるように朝鮮の食文化の影響がきわめて強い食べものだ。

28、うなぎの蒸籠蒸し(福岡)
水郷の柳川は昔から天然うなぎの産地として知られていた。ここでとれる青うなぎの「星青」は天下の名品として珍重されたほど。柳川のうなぎは蒸籠蒸し。箱型の器は、底に簀が敷かれた蒸籠になっている。そこに硬めに炊いたご飯を盛り、タレをかけ、その上に焼き立てのうなぎの蒲焼をのせ、錦糸卵で色どりしたものをさらに蒸すのである。そのためうなぎにもご飯のひと粒ひと粒にもタレがよくしみ込んでいる。うなぎ料理の逸品だ。

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カソリが選ぶ「ニッポン郷土料理」(1)沖縄編

1、ごーやちゃんぷる
那覇港に着きフェリーから降り立つと、まっさきに食べたくなる琉球料理がこれだ。食堂でふつうに食べられる。沖縄人のごくふつうの家庭料理にもなっている。ごーや(にがうり)を使った“ちゃんぷる(豆腐入りの炒めもの)”のことで、薄切りにしたごーやと大切りにした豆腐を炒めたものである。ごーやの苦みが強烈に「今、沖縄にいるんだ!」という気にさせてくれる。いったん慣れると、ごーやの苦みはやみつきになるほどである。

2、沖縄そば
沖縄独特の麺で、黄味を帯びている。そばといっても、そば粉ではなく、小麦粉100パーセントの、幅広の中華風の麺なのである。しこしこした歯ごたえのある麺で、昔ながらの“支那そば”の味がする。そば汁は豚骨などでダシをとったもので、濃厚でこってりしている。上に具のそーき骨(豚のあばら肉)がのれば“そーきそば”になり、足てぃびち(豚足)がのれば、“足てぃびちそば”になる。八重山諸島では“八重山そば”になる。

3、らふてー
沖縄の食文化は一言でいえば“豚肉文化”。沖縄で肉といえば豚肉のことであり、豚をあますところなく使いきっている。沖縄の豚肉料理のバラエティーさには驚かされるほどである。その中でも、もっとも一般的なのがこれ。沖縄風豚の角煮である。沖縄の酒、泡盛で煮込んだ豚肉のとろけるような味わいは、まさに沖縄そのもの。赤身と脂肪がきれいな3層の層を成している最上の三枚肉を使うのが、らふてーをつくる決め手なのだという。

4、足てぃびち
那覇最大の市場、牧志公設市場を歩いてすぐに目につくのは、豚足が山盛りになって並べられている光景だ。豚の顔皮もぶらさがっている。「おー、これぞ、沖縄!」と思わず声が出るほど。“豚肉文化”の真骨頂といったところなのである。豚足を骨ごとぶつ切りにして長時間、煮込んだものが“足てぃびち”で、沖縄の豚肉料理のなかでは、らふてーと並ぶ代表格になっている。足てぃびちののった沖縄そばの“足てぃびちそば”はうまい。

5、みみがー
“みみがー”とは、耳皮のこと。もちろん豚の耳皮である。泡盛の肴には最高で、コリコリッとした軟骨の歯ざわりがなんともいえない。みみがーと同じようにして食べるのが、“ちらがー”で、こちらは顔皮のこと。耳皮、顔皮などというとゲテもの食いのように聞こえるが、味はきわめて上品なものである。“みみがー刺し身”は、煮立てたみみがーを千切りにしたものと、千切りにしたキューリとゆでたもやしを合わせた酢のものである。

6、豆腐よう
沖縄は豆腐料理の盛んなところで、炒めものや煮もの、揚げもの、和えもの、汁ものと、その種類は多彩。きわめつけの傑作が豆腐を赤糀で発酵させてつくる豆腐よう。植物性の食品の豆腐を動物性のチーズにそっくりな食品に変えてしまうその知恵に驚かされる。なお、これと同じものを中国で食べた。中国では紅豆腐とよばれ、朝粥のおかずに出た。沖縄の食文化のおもしろさは、中国大陸や南方の島々と強く結びついていることである。

7、じーまーみ豆腐
“じーまーみ”とは地豆(南京豆)のことで、南京豆からつくる豆腐がじーまーみ豆腐になる。南京豆のしぼり汁とさつまいもの澱粉からつくる乳白色のじーまーみ豆腐には、とろっとした舌ざわりがあり、手でつかんでもちぎれないくらいの腰のつよいものが上等とされている。泡盛をグイグイと飲み、琉球料理のご馳走をさんざん食べたあとで、このじーまーみ豆腐を食べると、絶好のデザートになり、すーっと腹の中が癒されるようだ。

8、くーぶいりちー
“くーぶ”は昆布のことで、“いりちー”は炒めもの。もどした昆布を細かく刻み、豚の三枚肉とコンニャク、メンマなどとともに、醤油、味醂、酒、豚のだし汁を加えて煮込んだ昆布の炒め煮がくーぶいりちーになる。沖縄県の一人当たりの昆布の消費量は日本一。代表的な生産地の北海道と比べると、沖縄人は北海道人の倍以上も昆布を食べている。このあたりが食文化のなんともおもしろいところ。沖縄の代表的な昆布料理がこれである。

9、すぬい
“すぬい”はモズクのこと。三杯酢にしてズルズルかきこむようにして食べる。沖縄では4月ごろの1ヵ月ほどが最盛期で、昔は海辺の村ではモズク狩りに女子供まで総出で出たという。今では養殖が盛んにおこなわれている。沖縄では海藻類を使った料理が盛んだ。それが脂っこい豚肉料理には欠かせない名脇役になっている。同じく海藻のアーサを使ったアーサ汁もよく食されるが、沖縄人の長寿の理由のひとつに海藻料理が上げられる。

10、泡盛
沖縄特産の蒸留酒。その製法は15世紀の初頭にシャム(今のタイ)から伝わったといわれているが、沖縄と南方諸国との結びつきの深さがうかがえる話だ。泡盛の原料は今だにタイ産の砕米で、日本米だと、泡盛特有のあの甘い香りの漂う濃厚な味がどうしても出ないという。日本最西端の与那国島には、度数が60度というウォッカ並みに強い泡盛がある。また泡盛を長く貯蔵したものが、より風味の優れたくーす(古酒)である。

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カソリの峠越え(2) 九州編(その2):背振山地の峠

 (『月刊オートバイ』1996年7月号所収)

 九州の峠越えの第2弾は背振山地の峠だ。
 背振山地というのは、福岡県と佐賀県の県境に連なる山地。最高峰は標高1055メートルの背振山。

 福岡を出発点にし、この背振山地の坂本峠、三瀬峠、長野峠といった峠を北から南へ、南から北へと越えていった。背振山の山頂にも立った。

 背振山の南側には、邪馬台国の世界を彷彿とさせる吉野ヶ里遺跡がある。古代史への興味を猛烈にかきたてられるロマンの世界でもあるのだ。


福岡を抜け出る難しさ
 前回の北九州の峠越えを終えたあと、福岡の市街地(南区)にある博多温泉の「清水苑」に1晩、泊まったが、気持ちよく宿泊できる宿だった。夜は、「オートバイが盗まれたら大変だから」と、峠越えの相棒スズキDJEBEL200を玄関の中まで入れてくれた。そんな心遣いがうれしいではないか。なにしろ、我々、ツーリング・ライダーにとっては、オートバイがすべてなのだから‥‥。

 宿から眺める夜明けの風景がよかった。福岡の町並みの向こうに背振山地の山々が紫色になって連なり、その上空にはぽっかりと半月が浮かんでいた。

 1995年12月11日。朝湯に入り、朝食を食べ、7時半、博多温泉を出発。まず、JR博多駅前まで行く。ここからR385で坂本峠に向かっていく。

 ところが、このR385で福岡の市街地を抜け出るまでが大変。鹿児島本線のガードをくぐり抜けたところで左折しなくてはならなかったのだが、標識に気がつかずに直進。しばらく走ってから気がつき戻った。

 つづいて、大きな交差点で右折しなくてはならなかったのに直進してしまい、またしても戻る。えらい時間のロスだ。
 このR385は信号のたびに右に曲がったり、左に曲がったり‥‥。
「いったい、誰だ、こんなルートにしたのは」

 頭にきたゾ。このルートにした役人に、この道を走らせてみればいいのだ。「ちゃんと福岡を出られるかどうか、やってみろよ」といいたくなる。

 無事に福岡の市街地を出て、まっ正面に連なる背振山地の山々に向かって走り出したときは、心底、ホッとした。


第1番目の坂本峠
 背振山地に向かって、DJEBELのアクセルを開き、一気に向かっていくときの気分は最高。福岡の市街地を抜け出るのに、さんざん苦労したので、よけいにうれしくなってくる。

 背振山地の山中に入るとR385の道幅は狭くなり交通量もガクッと減る。曲がりくねった峠道を登りつめ、福岡・佐賀県境の坂本峠に到着。背振山地の第1番目の峠だ。

 峠にDJEBELを止める。深呼吸。峠の空気を大きく吸い込む。
 峠はシーンと静まりかえっている。通る車もほとんどない。これが、福岡市内と同じR385なのかと、妙な感動をしてしまうほどだった。

 佐賀県側に入り、坂本峠を下っていく。下るにつれて、杉の樹林の間から、佐賀平野が見えてきた。それはドバーッという感じの見え方で、大平野が茫々と広がっている。

 突然、曲がりくねった、道幅の狭い峠道から、2車線の新道に出た。新しい道の工事が進行中。きっと、峠をトンネルで抜けるのだろう。それが完成した暁には、坂本峠越えのR385も、ずいぶんと変わることだろう。

 背振山地から佐賀平野に降り立つ。これが、峠越えのおもしろさ。峠を越えると、ガラリと世界が変わるのだ。はてしなく広い佐賀平野の中に、R385は一直線に延びている。そして九州の幹線ルートのひとつR34に出た。


おー、吉野ヶ里遺跡!
 R385とR34の交差点からほんのわずかな距離を行ったところに、あの吉野ヶ里遺跡がある。
「ついに、邪馬台国を発見か!?」
 で、日本中が大騒ぎとなった弥生期の大遺跡。

 ぼくにとっては久しぶりの吉野ヶ里遺跡再訪だが、すっかり遺跡公園としての顔を整え、物見やぐらや竪穴式住居、高床式倉庫などが復元されていた。

 吉野ヶ里遺跡は現在、国営吉野ヶ里歴史公園になっている。国営の歴史公園といったら、ほかには、奈良県の飛鳥歴史公園があるだけ。それだけでも、吉野ヶ里遺跡のすごさがわかるというもの。40ヘクタールに及ぶ壮大な規模の環濠集落(周囲に濠をめぐらせた集落。防衛の意味もある)と墳丘墓はほかに例を見ない巨大なものだ。

 吉野ヶ里遺跡を歩きながら、夢は邪馬台国に飛んでいく。女王、卑弥呼の統治した邪馬台国は、日本の古代史、最大の謎。邪馬台国が、いったい、どこにあったのか‥‥。それは、まさに、歴史のロマン。

 邪馬台国を解く鍵は「魏志倭人伝」の1985文字の邪馬台国の記述。それをもとに多くの人たちが九州説、幾内説を唱えてきた。
 ぼくは九州説に肩をもっているのだが、吉野ヶ里の大遺跡を歩きまわっていると、邪馬台国九州説がよけいに説得力を持ってくる。


背振山頂に立つ!
 吉野ヶ里遺跡を出発。R385で坂本峠の方向に戻り、峠下の坂本で県道46号に入り、野ノ峠へ。谷沿いに集落がつづき、峠の近くまで棚田があった。

 ゆるやかな野ノ峠を越える。峠道を下ったところで右折し、今度は県道305に入り、背振山地の最高峰の背振山に向かっていく。山麓には、由緒ありげな背振山神社。DJEBELを止め、参拝。

 背振山に向かって登るにつれ、気温がガクッと下がる。季節は冬。それも、スコーンと抜けたような青空なので、よけいに気温が低い。「おー、寒い」と、震えながらDJEBELに乗る。

 背振山の山頂に近づくと雪道になる。日陰のコーナーはアイスバーン。
 背振山の山頂周辺は航空自衛隊のレーダー基地になっている。行き止まり地点の駐車場にDJEBELをと止め、歩いて山頂へ。航空自衛隊のフェンスのわきの石段を登っていく。300メートルほど歩くと、標高1055メートルの背振山頂。そこには背振神社上宮の祠がある。山頂周辺の航空自衛隊の近代的な通信施設と背振神社の祠のアンバランスな取り合わせがおもしろい。

 背振山頂からの眺望は抜群。はるか遠くに福岡の市街地を見下ろす。その向こうには玄海灘が霞んで見える。
 背振山から福岡県側に下っていく道は、ダートの雪道。佐賀県側よりも、はるかに多い雪‥‥。転倒しないように、ゆっくりと下っていく。下るにつれて雪は消えていった。この道はダートとはいっても路面の状態はよく、乗用車でも楽に走れる。

 5キロのダートを走り、舗装路に変わると、やがてT字路にぶつかる。そこが板屋の集落。左折し、板屋峠をのぼっていく。鋭いコーナーの連続。それぞれのカーブには、番号がついている。

 板屋峠を越えたところには、1軒宿の椎原温泉があった。ちょっと、ひと風呂と思ったが、残念ながら、入浴のみは不可。そのまま峠道を下り、R263に出た。田園地帯の向こうに連なる背振の山々が、目に残るのだった。


昔も今も幹線の三瀬峠
 R263で三瀬峠に向かう。背振山地の峠越えルートの中では、一番の幹線。福岡と佐賀を結んでいるので交通量も多い。峠は有料の三瀬トンネルで貫かれているが、新道には入らず、旧道で峠を登っていく。旧道もけっこう車が通る。

 三瀬峠は福岡・佐賀県境の峠で、標高583メートル。峠をわずかに下ったところに、“峠の茶屋”があり、そこで食べた“峠のうどん”はうまかった。

 三瀬峠は昔も今も、福岡と佐賀を結ぶ重要な峠。古くは福岡の黒田藩と佐賀の鍋島藩の境で、関所が置かれた。その跡は今でも「御番所」と呼ばれているが、その近くの「耳通地蔵」に耳の遠い人が参拝すると、峠を吹き抜けていく風のように耳の通りもよくなり、耳がよく聞こえるようになるのだという。なんとも、おもしろい話ではないか。三瀬峠にまつわる民間信仰といったところだ。

 三瀬峠を下ると、三瀬村の中心地に出る。そこからもうひとつ、向合観音峠を越える。その峠名からすると、向合観音という観音が峠近くにあるに違いない。

 三瀬峠の「耳通地蔵」といい、向合観音峠の「向合観音」といい、峠と地蔵や観音は、切っても切れない関係にある。地蔵峠や観音峠は、日本各地にある峠名なのである。

 向合観音峠を下っていくと、嘉瀬川の渓谷、川上峡に出る。渓谷を抜け出たあたりに川上峡温泉。ちょうど、背振山地と佐賀平野の境目だ。長崎道のICを過ぎると広々とした佐賀平野に入り、R34を突っ切り、佐賀県の県庁所在地の佐賀の町に着く。佐賀は県庁所在地とはいっても、こぢんまりとした町だ。


背振山麓の温泉めぐり
 鍋島藩35万5000石の城下町、佐賀では、濠の残る佐賀城跡を見て出発。R263で川上峡温泉まで戻り、温泉ホテル「龍登園」(入浴料500円)の湯につかる。無色透明の湯。昼下がりの時間帯で、ほかに入浴客もいないので、大浴場を自分一人で独占した。 川上峡温泉からR352に入り、観音峠に向かう。嘉瀬川の渓谷、川上峡を眺めながらのリバーサイドランは気分がいい。

 川上峡を抜け出たところで、第2湯目、熊ノ川温泉の「熊ノ川浴場」(入浴料700円)の湯に入る。
 この共同浴場の700円という入浴料は入浴後の休憩料も含んでいるのだが、午後3時を過ぎると500円になり、5時を過ぎると300円になる。もう30分待つと500円で入れたのだが、「まあ、いいか‥‥」ということで、700円で入浴したのだ。こういうのって、なんとなく損をしたような気分になる。

 つづいて第3湯目の古湯温泉。ここでは「古湯温泉センター」(入浴料250円)の湯に入る。湯船につかっていると、
「あのー、カソリさんですよね?」
 と、声を掛けられた。ツーリングの途中で古湯温泉に立ち寄った福岡歯科大学の林道同好会のみなさん。NSRに乗る岡田道男さんとBROSに乗る劉文憲さん、セローに乗る一瀬順輔さんの3人だ。

 温泉でのツーリングライダー同士の出会いというのはうれしいものだ。みなさんとの、しばしの“湯の中談義”を楽しんだ。
「カソリさん、今度、九州に来られるときには、福岡の林道を案内しますよ」
 というみなさんの言葉によけいにうれしくなってしまうのだ。


思い出の長野峠
 古湯温泉から、さらに嘉瀬川に沿って走る。山中に入り、R323の観音峠に向かっていく。
 その手前でR323を右折し、県道12号に入り、長野峠に寄り道する。長野峠は佐賀・福岡の県境の峠。交通量の少ない、静かな峠で、周囲は杉林になっている。峠を越え、福岡側を下り、前原町のJR筑肥線、筑前前原駅まで行き、また長野峠に戻った。

「なつかしい‥‥」
 このルートは、1978年に50㏄のスズキ・ハスラーTS50で「日本一周」したときに走ったルートなのだ。あのときは季節は秋。山あいの田は黄色く色づいていた。50㏄ということで長野峠の登りはきつかったが、今回はDJEBEL、軽々と長野峠を登った。

 峠上に立っていると、胸がジーンとしてくる。20年近くも前のツーリングなのだが、まるで昨日のことのような鮮やかさで思い出されてくるのだ。オートバイツーリングの思い出というのは、このように一生涯、色濃く残るものなのだ。

 長野峠からR323に戻り、観音峠を越える。ゆるやかな峠。峠を下っていくと、山の斜面にはミカン畑が目立つようになった。R202に出、唐津へ。“日本三大松原”のひとつ虹ノ松原を通り、焼き物の“唐津焼き”で知られる唐津の町に入っていく。

 唐津からは、R203を行き、最後の峠の笹原峠に向かう。国道に沿ってJR唐津線が走っている。峠下の厳木町笹原の集落を過ぎると、あっというまに笹原峠に到着。天山(104m)から南に延びる山並みを越えるゆるやかな峠。標高は93メートルでしかない。越えやすい峠なので、昔からの佐賀と唐津を結ぶ重要な交通路。峠には関所が置かれた。

 笹原峠を越え、佐賀に向かう。その途中の小城町では、小城温泉の「開泉閣」(入浴料500円)の湯に入り、佐賀へ。日がとっぷりと暮れる。佐賀からは、夜道を走り、R264で久留米に出た。

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カソリの峠越え(1) 九州編(その1):北九州の峠

「さー、九州の峠越えだ。九州の峠を総ナメにしてやるんゾ!」
 とカソリ、東京港フェリー埠頭で吠え、オーシャン東九フェリーの「おーしゃん うえすと」に峠越えの相棒のスズキDJEBEL200とともに乗り込んだ。

 1995年12月10日のことだった。目指すのは北九州の新門司港。新門司港を出発点&終着点に、今回は九州の北半分の峠を越えるのだ。その第1弾が「北九州の峠」。


「北九州への船旅はいいゾ!」
 19時、船内にドラが鳴り響き、オーシャン東九フェリーの「おーしゃん うえすと」は、定刻通りに、東京港フェリー埠頭を出港する。船出というのは感動もの。船が岸壁を離れるときは胸がジーンとしてくる。

「おーしゃん うえすと」が出航したのを見届けると船内のレストランに行き、一人、ビールで乾杯! 「九州よ、待ってろよ!」といった気分なのだ。

 窓の外を東京の夜景が流れていく。こうして船上の人となると、いっぺんに日常から解き放たれ、別な世界にワープしたような錯覚にとらわれる。夕食後、大浴場の湯に入ると、早々に眠った。時間を気にせずに、いくらでも眠れる幸福感に浸った。

「東京→新門司」の「おーしゃん うえすと」は船中2泊。その間、何もしなくていい。このゆったりとした時間が貴重なのだ。命の洗濯ができる。あわただしく過ぎていった時をふと、振り返る。すると、不思議なもので、これから先の自分を考えるゆとりが出てくる。元気が湧いてくる。

 コーヒーラウンジで、間近に見える紀伊半島の山々を眺めながらホットコーヒーを飲んでいると、今までの船旅の様々なシーンがよみがえってくる。
「自分以上にいろいろな船旅をしている人間は、世界でもそうはいないゾ!」
 と、カソリ、そう自負しているのだ。

 そもそも、ぼくが初めて海外に飛び出していったのも、船だった。今から28年前、ぼくが20歳のときのことだが、日本から出た最後の南米への移民船に乗ってオートバイともども、アフリカに渡ったのだ。喜望峰経由で南米に行くオランダ船だった。

 モロッコのカサブランカからセネガルのダカールまではフランス船に乗った。西アフリカのベニンからカメルーンまではポーランド船に乗った。アンゴラからモザンビークまではポルトガル船に乗った。横浜からナホトカ、ロンドンからカナダのモントリオール、稚内からサハリンのホルムスクへの船はロシア船だ。

 アフリカからアラビア半島のイエーメンには、アラビアの帆船ダウに乗った。インドネシアの小スンダ列島を旅したときも、やはり帆船だった。

 船旅はなにも海路ばかりではない。ザイール川の船旅は1週間かかったし、スーダンの白ナイルの船旅は、なんと2週間もかった。船旅はいい! いつまでも心に残るものなのだ。


九州第1番目の峠
「おーしゃん うえすと」は途中、徳島港に寄港し、新門司港には東京を出航した翌々日の午前5時に到着。「東京→新門司」間の約1200キロを34時間で航行したことになる。

「船旅を存分に楽しませてくれてありがとう!」という気分で下船し、まだ暗い道を走り、北九州市の中心小倉に行き、JR小倉駅でDJEBEL200を止めた。

 駅近くの「珍竜」という終夜営業のラーメン店でラーメン&おにぎりの朝食を食べ、午前6時に、小倉駅前を出発。いよいよ、九州の峠越えの開始だ。

 R10からR322に入り南下していく。R322は通称、香春街道。“香春”で“かわら”と読む。いつも思うことだが、地名の読み方って、難しい。

 平地から山地に入るころになると、やっと、夜が白々と明けてくる。右手にはカルス地形で知られる平尾台の山々がうすぼんやりと見えてくる。

 記念すべき九州の第1番目の峠は、北九州市と香春町の境の金辺峠。“金辺”で“きべ”と読む。地名の読み方って、ほんとうに、難しい‥‥。

 金辺峠のトンネルを抜けて、北九州市から香春町に入る。峠道を下っていくと香春町の中心、香春。この近くに、柿下温泉があるので、さっそく行ってみる。

 九州第1番目の温泉、柿下温泉は、山裾にあった。田園の中の1軒宿。入浴のみの営業は午前10時からで、残念ながら入れなかった。だが、入口には、源泉の自動販売機がある。200円で10リッター買える。

「よーし、それならば‥」と、誰もいないのを幸いに裸になり、自販機に200円を入れ、ホースで頭から湯をかぶった。ところが、湯どころか、水と変わらない冷たさなのだ。おまけに季節は冬。風も冷たい。ヒーヒーいってしまったが、かぶりおわると、不思議なもので、体がポカポカしてくる。タオルで体をキュッキュッとよくこする。

 ウエアを着たころに、老夫婦が車でやってきた。トランクにはなんと、10リッターのポリタンを10個も積んでいる。老夫婦は2000円を払って10個のポリタンを一杯にしたが、この温泉は体にとってもよく効くといっていた。


R201の2つの峠
 香春から福岡へ。R201を行く。かつての筑豊炭田の中心地のひとつ、田川市に入る。日本のエネルギー源が石炭だった昭和20年代の後半から30年代の前半ごろまでは、田川は炭鉱の町として、おおいに繁栄した。だが、石炭から石油へと変わっていくと、筑豊炭田の炭鉱は次々と閉山に追い込まれ、今ではひとつも残っていない。

 田川からは、ゆるやかな峠の烏尾峠を越える。この峠が筑豊国境の峠になる。見晴らしのよい峠で、かつての筑豊炭田のボタ山が、霞んで見える。

 現在の福岡県は、昔の国名でいうと、筑前、筑後、豊前の3つの国から成っている。
“筑豊”というのは筑前と豊前を合わせた呼び名で、筑豊炭田は、その名前どおりに筑前と豊前の両方にまたがっていた。
 烏尾峠を下っていくと、田川と並ぶかつての筑豊炭田の中心地の飯塚。飯塚の町の中に入っていったが、かつての栄光が華やかだっただけに、今のさびれかかった感じは寂しいかぎりだ。

 飯塚からR201の2番目の峠、八木山峠へと向かう。峠下に伊川温泉。「伊川温泉センター」に行くと、現在は休業中で入れなかった。そこで、さきほどの柿下温泉と同じような温泉の自動販売機のところに行く。その宣伝の文句がいいではないか。
 飲んでおいしい
 お茶がおいしい
 ご飯がおいしい
 コーヒーがおいしい
 水割りがおいしい

 その宣伝の文句につられてではないだろうが、車にポリタンを積んで、放射能泉の源泉を買いにくる人が次々にやってきた。柿下温泉は10リッターが200円だったが、伊川温泉は100円。ここでは、自販機に100円を入れ、温泉で顔を洗った。といっても、柿下温泉の源泉と同じで、水と変わらないような冷たさだ。

 伊川温泉から八木山峠を登っていく。急カーブが連続する峠道。登るにつれて見晴らしがよくなる。飯塚周辺はうっすらとモヤがかかっていたが、その中に、ボタ山が見えた。

 八木山峠を越え、篠栗町に入る。もう、福岡が間近だ。JR篠栗線に沿って走り、R3の博多バイパスを通り過ぎ、福岡の中心街に入っていく。そしてJR博多駅前でDJEBELを止めた。小倉から110キロだった。


うれしい出会い
 博多に来たからには“博多ラーメン”だと、早めの昼食にし、駅近くのラーメン専門店に入る。朝、昼と連チャンのラーメンだ。ラーメンが好きなんだから、まあ、いいか‥‥。

 福岡からは、来た道を引き返し、R201で篠栗まで戻る。そして、猫峠を越えようと国道を左折したのだが、道に迷ってしまい、DJEBELを止めて地図を広げた。

 そこへ、灯油を積んだガソリンスタンドの車が通りかかり、キュッとブレーキ音をきしませて止まった。「カソリさんですよね」と、乗っていた人に声をかけられた。

 精悍な顔つきをした人でDR350に乗っているという小鶴哲也さん。よく国内のレースに参加し、海外ラリーにも参加したことがあるという小鶴さんとは、しばらく、立ち話をした。そのあとで、ていねいに、猫峠への道を教えてもらった。小鶴さんありがとう!こういう出会いって、うれしいものだ。まさに、ライダー同士の出会いという感じがするのだ。

 猫峠を越えたあとは、犬鳴峠、見坂峠、赤木峠、猿田峠の4峠を越え、かつての筑豊炭田の中心地、飯塚に出た。その間では、脇田温泉、薬王寺温泉、所田温泉の3湯に入った。


旧長崎街道の峠越え
 飯塚からは、県道60号でショウケ越に向かう。R201の八木山峠の南側になる。途中までは、有料の八木山バイパスに沿ったルートだ。けっこう山深い。

 峠名だが、なぜショウケ越なのかよくわからなかったが、ショウケといえば、九州では笊のこと。「笊峠」なのである。

 ショウケ越を越えると、ゆるやかな山並みを一望する。峠の下りは急勾配の急カーブが連続する。ショウケ越を下ったところで、太宰府へ。

 太宰府は、古代、西海道(九州)の総管府が置かれたところ。つまり、九州の一大中心地だったわけだ。奈良の平城京を真似して、3分の1の規模でつくられた古代都市だった。今、太宰府といえば、全国にある天満宮総本社の太宰府天満宮で有名だ。平安時代の延喜3年(903)に、この地に流された菅原道真がまつられている。

 天満宮(天神さん)は、学問の神としてよく知られているが、最近では、すっかり入試の神様になってしまった。みなさんのなかにも、入試の前に、天満宮に行って、お札やお守りをもらった人がたくさんいることだろう。

 太宰府天満宮に参拝。太鼓橋を渡って、豪壮な造りの本殿へ。賽銭を投げ、手を合わせる。太宰府天満宮はいつものように、大勢の参拝者でにぎわっていた。参拝を終えると、門前で名物餅の梅ヶ枝餅を食べた。

 さあ、出発だ。
 いったん、筑紫野市の中心、二日市の町に入り、県道65号で、米ノ山峠を越える。峠が筑紫野市と筑穂町の境。峠を下った集落が米ノ山で、峠名はそこからきているのだろう。 筑穂町の中心、長尾からR200に入り、最後の峠の冷水峠に向かっていく。
夕暮れが迫り、山の端に落ちていく夕日に向かって走る。

 ところで、R200の冷水峠は、旧長崎街道の峠。江戸時代には、おおいに栄えた重要な街道の峠で、九州諸大名の参勤交代の大名行列が通り、長崎に行く長崎奉行や長崎遊学の学者や文人、商人が通り、長崎から江戸に行くオランダ使節が通った。

 旧長崎街道は、九州の玄関口、小倉の城下から、黒崎(北九州市)、木屋ノ瀬(北九州市)、飯塚、内野(筑穂町)、山家(筑紫野市)、原田(筑紫野市)と6つの宿場を通っていた。そのため、冷水峠を越える街道は、六宿街道とも呼ばれていた。

 原田宿の先の田代(鳥栖市)で街道は、2本に分かれていた。1本が長崎(現在の34)へ、もう1本が熊本(現在のR3)に通じていた。

 R200に沿って、JR筑豊本線が走っている。平地から山地に入りかかったあたりが、旧長崎街道の内野宿。JR筑豊本線にも、
筑前内野駅がある。だが、かつては繁栄した峠下の宿場町も、今では気がつかないままに、通り過ぎてしまうようなところだ。

 山地に入り、冷水峠に向かう。有料の冷水道路のトンネルが峠を貫いているが新道には入らず、旧道で峠を登っていく。旧道の交通量も、けっこうある。

 冷水峠を越える。峠を下り、平野に出たところが、旧長崎街道の山家宿。JR筑豊本線の筑前山家駅がある。山家はさきほどの内野と違って、昔の宿場町の面影をとどめていた。

 R200は山家を過ぎたところでR3にぶつかる。R3を熊本方向にわずかに行ったところが、旧長崎街道の原田宿。JR鹿児島本線の原田駅があり、そこが筑豊本線の終点になっている。筑豊本線とはいっても飯塚を過ぎた桂川から原田までは、超ローカル線だ。

 R3で福岡へ。二日市では二日市温泉に立ち寄り、すっかり暗くなってから着いた福岡では、博多温泉の「清水苑」に泊まった。博多の町に温泉があるとは知らなかったが、なかなか、いい湯。湯から上がって食べた鉄板焼きがメインの夕食がうまかった。






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海を渡った伊万里焼を追って(5)

 (『海を渡った日本のやきもの』1985年・ぎょうせい 所収)

 マラッカ海峡に流れ込むマラッカ川は、下流でさえ幅が十数メートルほどの小流で、その河口にマラッカ港がある。現在のマラッカ港には、かつての東西貿易の拠点として繁栄を謳歌した面影はまったくない。ダイナミックな世界貿易にとり残された地方の一小港湾といった風情で、マラッカ海峡対岸のスマトラ島からやってきた帆船が港を埋めつくしていた。水深が浅いという致命的な欠陥が、マラッカを大型船舶が接岸できる近代的な港にしなかった。

 そんなマラッカ港の周辺には、時代の推移を感じさせる古い家並みが残っている。アジア的な景観の中に、そこはかとなくヨーロッパ的な雰囲気が漂い、マラッカ川にはオランダ式のはね橋がかかっていたりする。

 オランダ総督府の建物をそのまま利用した「マラッカ博物館」には、古代マレー王国からポルトガル、オランダ、イギリス統治時代、さらには太平洋戦争中の日本占領時代に至るまでの広範囲にわたる資料が展示されている。

 マラッカ博物館の一番奥の一室が陶磁室になっている。例によって、東南アジアの博物館のほとんどがそうであるように、ここでも明、清の染付磁器を中心にした中国磁器が大量に展示されている。そして、この地方では高名な陶磁コレクター、チャン・イェーフー(曾有孝)氏の中国陶磁のコレクションも一括して寄贈され、展示されている。

 そのような大多数の中国陶磁に混じって、イマリの染付大皿が数点、見られた。しかし、それらのイマリはマラッカの古い歴史に反し、鮮やかなコバルトを使った銅版転写の染付けで、明らかに明治以降のものと思われた。

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甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(17)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号 所収)

モロコシの詩(うた)
 最後が「モロコシの詩」である。モロコシは精白したものを飯に炊いたり、餅に搗いたりするが、ヒエ餅と同じように粉を餅にすることもある。

 そのつくり方は、

「熱いお湯で よくこねる
 ひらたくつくり ふかします
 味噌を一面 なびります」

 とあるように、煮立った湯で粉をこね、円盤状に形づくったものを蒸籠で蒸し、それに味噌を塗るのである。

 さらに、

「ひじろで木を刺し 熾で焼く
 がに色味で おいしいな」

 とあるように、味噌をつけたモロコシ餅は、「ひじろ」(囲炉裏)のまわりで木に刺し、熾(おき)で焼く。味噌のにおいをプーンと漂わせ、こんがりと「ガニ色」に焼き上げる。ガニ色というのは、沢ガニを油で揚げたような色である。西原では今でも沢ガニをとって食用にしている。

 また、モロコシの粉からは、よく「おねり」をつくった。おねりというのは、サツマイモを煮立てた湯の中に、モロコシの粉を入れてかきまぜたものである。

 ところでトウモロコシとモロコシは見た目には似た作物だが、モロコシはアフリカ原産、トウモロコシは中米原産の作物でまったくの別もの。モロコシは丈の高い茎の先端にモジャモジャッとした穂が成る。つまり実の成り方がまったく違う。

 西原では古くからある甲州種のトウモロコシも栽培している。それを乾燥させ、粉にし、ヒエ餅などと同じように湯で練り、蒸籠で蒸して餅にする。また粗くひいて米に混ぜ、炊き込むこともある。

 軒下にトウモロコシをぶらさげ、乾燥させている光景は西原の風物詩だった。ところが最近はそれもあまり見られなくなった。というのは固い甲州種のトウモロコシは嫌われ、ゆでたり、焼いたりして食べる柔らかなスイート・コーン系のトウモロコシが多く栽培されるようになったからである。このスイート・コーン系のトウモロコシは水分が多く、甘味が強いが、干すと縮んでしまい、ほとんど粉はとれない。

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甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(16)

 (日本観光文化研究所「あるくみるきく」1986年10月号 所収)

ヒエの詩(うた)
 次に、「ヒエの詩」である。
「ヒエの色は グレーかな」とあるように、ヒエの穀粒は灰色を帯びた黄褐色をしている。ヒエの脱穀は、キビのように簡単にはいかない。天日で乾燥させたヒエ穂を「槌でたたいて 箕であっぱ」とあるように、木槌でたたいて脱穀し、それを箕でふるって穀粒だけを選別する。

 ヒエの表皮は固く、精白の難しい穀物である。そのため50年でも、100年でも、穂で貯蔵しておく分には長期間の保存が可能で、救荒作物といわれる由縁になっている。それだけではない。長期間おいた種でも、きわめて発芽率が高いのである。

 さて、ヒエの精白だが、米と麦と同じように精白すると、手間と時間がかかり、おまけに歩留まりも悪くなる。玄ヒエ(精白前のヒエ)の2、3割しか精ヒエ(精白したヒエ)が得られないほどである。

 この精白方法を「白乾(しらぼし)」と呼んでいるが、飯に炊いたときの味は、なんともいえない香ばしさがあり、経済性を度外視すれば、最良の方法である。なお、ヒエ穂を火であぶってから精白する方法もあるが、それだと5割ほどの歩留まりになる。

 ヒエの精白の歩留まりをよくする方法が、脇坂さんの詩にあるような蒸す方法で、「でっかい釜で蒸(ふ)かされて」とあるように、ヒエ蒸し専用の一斗炊きの大釜を使い、蒸すのである。

 蒸したヒエを干し、それを搗き臼で搗いて精白する。この方法だと味は落ちるが、歩留まりは7割前後と格段によくなる。蒸したヒエは、そのまま保存することもできる。

 ヒエ飯に炊くときは、鍋や釜で先に湯をわかし、沸騰してきたところで精白したヒエを入れ、杓子で何度もかきまぜる。やわらかくなってきたところで火を弱め、とろ火で炊き、水気をなくす。ヒエ飯はヒエだけで炊くのがふつうで、ひとつかみでも米が入ればご馳走だった。

 ヒエ飯は、雑穀飯の中でもとくに香ばしさがある。また、飽きのこない味で、ふだん食べる飯というと、ヒエ飯が多かった。ヒエを餅にするときは、キビやアワと違い、水車の「ひきや」(碾臼)でひいて、いったん粉にする。

「かずらでくばられて 粉になる」とあるが、「かずら」とは鎌や鉈の刃先を柄に固定するのに使う金輪のことで、これでもって碾臼に落とす穀粒を調整する。大きなかずらだと碾臼に落ちる穀粒は多くなり、ひき方は粗くなる。反対に小さなかずらを使うと、碾臼に落ちる穀粒は少なくなり、目の細かい粉にひくことができる。

 ヒエ餅にする場合には、ヒエは粗いひき方、つまり大きなかずらを使った方が味がよくなるという。どのようにして餅にするかというと、ヒエ粉を湯で練り、円盤状に形づくり、それを蒸籠で蒸すのである。

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