シルクロード横断:第34回 サマルカンド

 シルクロードの要衝、サマルカンドには1日、滞在した。
 中国の西安からここまで6619キロを走った。そこで午前中はスズキDR-Z400Sの整備。オイル交換をし、エアークリーナーのエレメントを掃除したり、チェーン調整をしたり、砂漠の砂にやられて渋くなったアクセルワイヤーを取り外して油をさしたり。

 DRはここまでまったくノントラブルで走ってくれた。整備を終えると、DRに「ゴールのイスタンブールまで頼むゾ!」と声をかけるのだった。

 午後は市内観光だ。
 サマルカンドは中央アジア最古の都市。紀元前6世紀の頃から存在していた。

 12~13世紀にはシルクロードの商業の一大中心地として、14~15世紀にはチムール帝国の都として繁栄を謳歌した。
 サマルカンドは旧市街、新市街、アフラシャブの丘の3地域に分かれている。

 まずは旧市街の中心、というよりもサマルカンドの中心、レギスタン広場に行く。ここにはチムール帝国時代の3つの建物がある。3つともかつての神学校のメドレセだ。

 広場西側の「ウルグベグ・メドレセ」は1420年に建てられた神学校。広場では最も古い建物。入口のアーチには建造者ウルグベグの好みが反映され、青い星をモチーフにしたタイル模様が描かれている。ウルグベグは天文学者だった。アーチの両側には2本のミナレット。そのうちの1本は傾いている。

 広場をはさんで反対側には「シェルドル・メドレセ」、広場の正面には「ティラカリ・メドレセ」がある。

 レギスタン広場前のタシケント通りを北に行き、ビビハニム・モスク(イスラム教寺院)へ。ここはティムール帝国時代につくられた中央アジア最大のモスクだ。巨大なドームのモザイクが色鮮やか。

 ビビハニム・モスクを見たあと、すぐ近くのシヤブ・バザールを歩く。サマルカンドで一番大きな市場だ。米売場が目につく。日本のように5キロとか10キロのパックされたものではなく、計り売りだ。

 果物売場ではザクロが山積みにされている。スイカ売場もある。野菜売場では香菜とウイキョウが目についた。

 次にアフラシャブの丘の南麓にあるシャヒジンダ廟群へ。ここはサマルカンド有数の聖地。ティムール帝国ゆかりの人物の霊廟が一列に並んでいる。

 アフラシャブの丘は今は荒涼とした台地だが、1220年のモンゴル軍の侵攻によって破壊されるまでは、ここがサマルカンドの町だった。当時の町は城壁で囲まれ、4つの大きな門があった。それらの門を通してサマルカンドはシルクロードと結びついていた。

 最後にグリ・アミール廟に行く。「グリ・アミール」とはタジク語で「支配者の墓」の意味だという。ここはティムール帝国をつくったティムールや彼の息子たちの霊廟。

 ティムール(1336~1405年)によってつくられたティムール帝国は最盛期には東はインドのデリー、西はトルコのイスタンブール、北はキプチャク草原、南はペルシャ湾岸までを支配下においた。その中には中国西部のカシュガルも入っていた。そんな大帝国だったが、ティムールの死後はあっというまに分裂してしまう。

 バイクを降り、観光バスに乗ってまわったが、なんとも心に残るサマルカンドだった。

サマルカンドの中心、レギスタン広場
サマルカンドの中心、レギスタン広場

ビビハニム・モスクのドーム
ビビハニム・モスクのドーム

シヤブ・バザールの米売場
シヤブ・バザールの米売場

グリ・アミール廟
グリ・アミール廟

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韓国食べ歩き:第4回

 (『あるくみるきく』1987年 所収)

喫茶の伝統
 朝食後、街をプラプラ歩いた。
 目についたのが「チーチャ」(葛茶)を飲ませる屋台。さっそく味わってみた。

 丸太のようなクズの根を圧縮機でぎゅっと絞り、そのままコーヒー茶碗に入れて飲む。クズ根の汁は泥水をさらに濃くしたような色をしている。見た目もさることながら、うまい飲み物だとは思わなかった。

 ところが…。
 飲み終わってしばらくすると、不思議なほど、体がすーっと楽になってくる。このチーチャ1杯は1000ウォン(約200円)で、これはけして安くはない。前の晩にビアホールで飲んだジョッキ2杯分の生ビールと同じ値段である。

 屋台でチーチャを飲んだあと、喫茶店に入った。
 ソウルは喫茶店の多い街。だが、日本の喫茶店とは違う。日本の場合は食堂顔負けの食事のメニューをそろえているが、韓国では文字通り喫茶だけである。

 喫茶店にも、さきほどのチーチャがあった。今度は喫茶店のを飲んでみた。飲みやすくしているのか、さきほどのよりも味が薄くて、松の実が浮かんでいた。

 喫茶店のメニューを見ると、そのほかにはチョウセンニンジン茶、ショウガ茶、クコ茶などがあった。これらの薬用茶といってもいいようなお茶は、韓国では一般家庭でも、ごく普通に飲まれているようだ。お茶を嗜好品としてよりも、薬用として飲んでいる傾向が強くある。

 なぜ韓国では、このような薬用茶が発達したのだろうか。
 ひとつの理由としては、体にいいものは積極的に取り入れようとする韓国人の気質が上げられるだろう。もうひとつの理由としては、韓国では緑茶を飲む習慣がそれほど一般的ではないことが上げられるのではないか。

 韓国での茶の栽培の北限は北緯35度前後で、黄海側と日本海側の海岸地帯はそれよりも北に延びている。そのあたりは竹の自生地の北限にもなっているが、さらに北の落葉樹林帯と南の照葉樹林帯の境にもなっている。

 その境界線は黄海側の群山あたりから全州、南原、普州、馬山と通り、日本海側の蔚山に至る線になっている。この境界線の南側が茶の栽培の可能な地域ということになるのだが、その線はあまりにも南に偏り、韓国全体から見ればごく一部の地域でしかない。

 韓国に茶が伝わったのは新羅の時代の828年だという。
 南部山岳地帯の智異山南麓の寺で栽培がはじまったとされ、最初は日本と同じように薬として用いられたようだ。それが高麗時代(936年~1392年)になり、仏教が国教になると、飲茶の習慣は国中に広まった。とはいっても、それがどれだけ民衆のレベルに浸透していたのかは、はなはだ疑問に感じられる。

 というのは、高麗にひきつづいての李朝時代(1392~1910年)になると、崇儒排仏政策によって仏教は衰退し、それとともに飲茶の習慣も廃れていった。もし、飲茶の習慣が民衆レベルまで深く浸透していれば、そう簡単には廃れなかったのではないか。

 このような自然条件と歴史的な背景が、緑茶を飲む習慣を一般化させなかったようだ。

 もうひとつ興味深いのは、コーヒーが日本ほどは普及していないことだ。コーヒー豆を挽いて飲ませてくれる店はほとんどない。たいていはインスタントコーヒーで味もよくない。それというのも多種類の薬用茶を飲む習慣がそうさせているように思えてならない。

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韓国食べ歩き:第3回

 (『あるくみるきく』1987年 所収)

箸と匙
 ソウル到着の翌朝は、早朝の市場を歩きまわり、朝食も市場内の食堂で食べた。
 ご飯に味噌汁、キムチが3種、カボチャとタチウオの天ぷらというメニューだった。

 ご飯と味噌汁はステンレス製の器に入っている。箸と匙もステンレス製。それらがセットになっている。

 韓国語で「チョッカラ」という箸は、長さが20センチにも満たない短いもので、なおかつ細い。慣れない私には、指にしっくりこないので、使いにくくてしかたない。

 もう一方の匙は「スッカラ」といわれる。匙面は楕円形で柄はまっすぐ。長さは箸とほぼ同じである。
 箸と匙の使い方は、はっきりと分かれている。箸でおかずをつまみ、匙でご飯と汁をすくうのである。

 まわりの人たちを見ていると、箸よりも、よりひんぱんに匙を使っている。この国における匙の重要性を見る思いがした。

 さらに日本と違う点は、ご飯と汁は各人に配膳されるが、おかず類は大皿形式で、直箸で口まで運ぶ。取箸、取皿がないのである。

 食べ方を見ていると、ご飯や汁の入った器を手で持ったり、直接、口をつけたりはしない。器は膳に置いたまま、匙ですくって食べるのである。

 熱伝導率の高い金属器を用いてきた韓国の食習慣がこのような食べ方になったのか、もともとこのような食べ方だったので金属器が発達したのか…。そのあたりのことは何とも興味深く、「ぜひとも知りたい!」と思った。

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韓国食べ歩き:第2回

 (『あるくみるきく』(1987年1月号 所収)

ソウルの焼肉店
 私たちは夕暮れの街に出かけていった。まずは夕食だ。
 鼻を利かせて何軒もの食堂をのぞいてまわったが、すこしでもおいしそうな店、すこしでも雰囲気のよさそうな店…をと探しまわる神崎さんの熱意はたいへんなもので、店を探しまわるだけで1時間を費やした。

 その結果、私たちが入った店は、焼肉専門店。韓国といえば「焼肉」というイメージが潜在的にあり、その結果での選択だったのかもしれない。

 プルコギを注文した。
 プルコギは「火肉」、つまりは「焼肉」を意味している。とはいってもプルコギといえば、ロースなどの牛の赤身にかぎられているようだ。

 膳に出てきたのはそのような肉。
 中央が盛り上がり、周囲が窪み、外側に縁のついている鉄鍋を熱し、その上にタレをつけた薄切りの赤身の肉をのせて焼く。給仕の女性が食べやすいようにとハサミで肉を切ってくれる。

 焼けたところをみはからって、肉をチシャの葉にのせ、さらに生のニンニクをのせ、コチュジャン(トウガラシ味噌)をつけ、葉でくるんで食べるのである。チシャのほかにはもう1種、シソの葉に似たエゴマの葉も使う。

 焼肉とチチャやエゴマの葉とニンニクの味が口の中でからみ合い、ピリリと辛いコチュジャンが、そのからみ合った味にアクセントをつけてくれる。

 日本でも韓国風焼肉店があちこちにできているが、このような食べ方は一般的にはなっていない。また日本との大きな違いは、食べ方だけではなく、肉の量がはるかに多いということだ。

 ソウルの焼肉店で私は「おもいろい!」と思った。
 韓国から伝わってきた焼肉料理だが、日本人はそれをそっくりそのまま受け入れるのではなく、日本風にアレンジしてしまうことだ。

 さらにいえば中国料理からはラーメン、インド料理からカレーライス、イタリア料理からスパゲティー、イギリス料理からサンドイッチ、アメリカ料理からハンバーグを取り入れ、それぞれ日本風にしてしまったのと同じように、韓国料理からは焼肉を取り入れた。

 そのため韓国料理というと焼肉料理ということになりがちで、韓国人はいつも肉ばかり食べているといった間違った見方をしがちだ。

 プルコギを食べながらチンロ(真露)を飲んだ。チンロは25度の焼酎で、甘口の酒。このほどよい甘さが、トウガラシやニンニクの辛さとほどよく調和するのだった。

 ほろ酔い気分の頬には、夏の夜風が心地よい。私たちは夜風に吹かれるままに、ネオンのまばゆい歓楽街を歩きまわるのだった。

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シルクロード横断:第33回 タシケント→サマルカンド

 中央アジアの3ヵ国目、ウズベキスタンの首都タシケントを歩く。
 さすが中央アジアの大都市だけあってトラム(市電)が走り、地下鉄が通っている。タシケントの地下鉄は中央アジアでは唯一のもの。人口は200万人を超える。

「シルクロード」から受ける印象とはほど遠い近代的な都市だが、オアシス都市としての歴史は長く、2000年前にはすでに「チャチ」という名前で記録に現れているという。

 中央アジアで有数の古い都市。「タシケント(石の町)」と呼ばれるようになったのは11世紀ごろからだという。

「ホテル ウズベキスタン」のレストランで朝食。「ヨーロッパが近いなあ!」と感じさせたのは、テーブルに並んでいる何種類ものパン。好きなのを取ってサラダやポテトつきの肉料理と一緒に食べた。

 9時30分、タシケントを出発。シルクロードの要衝の地、サマルカンドに向かう。タシケントはカザフスタンとの国境近くの町で、国境スレスレの道を行く。

 中央アジアの大河、シルダリア川にかかる橋を渡る。「ダリア」は「川」を意味する。「シルダリア川」というと「シル川川」になってしまうが、このような例はいくらでもあるので、日本では一般的ないい方の「シルダリア川」を使わせてもらう。

 パミール高原を源とするシルダリア川は全長3078キロ。最後はアラル海に流れ込む大河だ。
 中央アジアの大河というよりも、世界の大河といっていいシルダリア川だが、タシケントの近くで見る限りではそれほどの川には見えない。川幅はそれほど広くないし、水量もそれほど多くはなかった。

 シルダリア川を渡ってまもなく、サマルカンドへの最短ルートを離れ、迂回ルートに入っていく。最短ルートはカザフスタンの一部をかすめるからだ。

 その迂回ルートでベカバードの町に出たが、そこの交差点には「ドゥシャンベ」の道標があった。ドゥシャンベはタジキスタンの首都。今回のルートでは中央アジアの国々のうちタジキスタンだけには入らないので、「ドゥシャンベ」の道標を通してまだ見ぬ国への思いを馳せた。ベカバードからだと南のドゥシャンベと西のサマルカンドはほとんど同じくらいの距離になる。

 ベカバードの町の近くで昼食。街道沿いの食堂で中央アジアの名物料理の「ラグメン」を食べる。麺の上に具だくさんのスープをかける。それには香辛料のウイキョウがのっている。食べ終わったところで食堂の裏手のカマドで焼くナンづくりを見せてもらった。

 サマルカンドへ。一路、西へとスズキDR-Z400Sを走らせる。
 ジザックの町でさきほどの最短ルートに合流。前方にはジザフ山脈のゆるやかな山並みが見えている。

 サマルカンドに近づくと、パトカーが我々を待ち構えていた。パトカーの先導でサマルカンドの町中に入っていった。
「サマルカンド」といえば「シルクロード」ファンにはたまらない言葉の響き。ぼくもどれだけ「サマルカンド」に心を躍らせたことか。

 人口50万人ほどのサマルカンドはウズベキスタン第2の都市。中央アジアでは最も古い都市として知られ、起源前6世紀にはすでに存在していたという。14世紀から15世紀にかけてはチムール帝国の首都としておおいに栄えた。

「サマル」は「人々が出会う」、「カンド」は「町」の意味だという。いかにもシルクロードの要衝の地らしい名前ではないか。
 そんなサマルカンドでは「グランド・サマルカンド・ホテル」に泊まり、レストランの夕食では麺を添えた肉料理と羊肉入りの「ポロフ(ピラフ)」を食べた。

タシケントの高層ホテル「ウズベキスタン」
タシケントの高層ホテル「ウズベキスタン」

昼食の「ラグメン」
昼食の「ラグメン」

ナンづくりを見る
ナンづくりを見る

サマルカンドへの道
サマルカンドへの道

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カソリメール届きました。

カソリからメールが届きましたので転記します。

~~~~
昨日(7月25日)、「300日3000湯」の単行本、
上下巻の初校を戻しました。
ほっとした気分です。
昭文社刊の2冊で、
『賀曽利隆の300日3000湯 日本一周」(上)
『賀曽利隆の300日3000湯 日本一周」(下)
の2冊です。
発売は9月1日の予定です。

ところで本文の最後の写真は
(※管理人)さんが伊豆大島・岡田港で、
「うれしそうに?」、
手を振ってくれている写真です。

ところで今回の「300日3000湯」ですが、
先日、「世界記録」としてギネスに認定され、登録されました。
(※管理人)さんもつきあってくれた東京・蒲田の「蒲田温泉」が
最後となりましたが、その「3063湯」が世界の記録として
残されることになりました。

ということで(※管理人)さん、
これからは時間もとれますので、
バンバン原稿を送り、
「新峠越え」も再開させますよ。

~~~~
(管理人コメント)
いやはや、ついにギネス認定されましたか!!
今度、ギネスビールを飲みながらギネス登録を祝うOFF会を開催
しましょう!!

カソリの峠越え(7) 九州編(7):五木の峠

 (『月刊オートバイ』1998年2月号 所収)
        
 今回からの峠越えの舞台は南九州だ。その第1弾は「おどま盆ぎり盆ぎり‥‥」の『五木の子守唄』で知られる熊本県の五木。まわりをぐるりと山々に囲まれた五木は峠の宝庫のようなところで、四方八方へ何本もの峠道が開けている。それら五木をとりまく峠をひとつまたひとつと越えていく。

高速道一気走り
 1997年、我が『豪州軍団』が10月10日午後10時、九州の水分峠に集合することになった。
『豪州軍団』というのは、1993年に一緒にオーストラリアのエアーズロックを目指して走ったメンバーとその仲間たち。毎年、場所を変えては、大集合している。南九州の「峠越え」は、それに合わせて旅立つことにした。

 神奈川県伊勢原市の自宅を出発したのは午前11時。ほんとうは夜明けとともに走り出したかったのだが‥。

「峠越え」のオートバイはスズキDJEBEL250XC。これから東名高速→名神高速→中国道→九州道と1000キロの高速道一気走りをするのだ。目標タイムは10時間!

 我が家に一番近い秦野中井ICで東名高速に入る。
「さー、DJEBELよ、行くゾー!」
 と、馬に鞭を入れるかのようにひと声かけ、走り出す。

 まずは80キロ走り富士川SAでDJEBELの17リッタータンクを満タンにする。このビッグタンクは長距離の一気走りの大きな武器になる。このあとは給油と食事以外はノンストップで、睡魔と戦いながら走りつづけるのだ。

 200キロ地点の浜名湖SAで昼食のホットドッグを食べ、東名から名神に入る。

 370キロ地点の多賀SAで給油。吹田JCTで中国道に入り、16時30分、西宮名塩SAに到着。ここまでの500キロを5時間30分で走った。予定よりも30分オーバーだが、まあまあだ。ここで夕食のキツネウドンを食べる。

 18時30分、680キロ地点の大佐SAで給油。ナイトランとなったこのころから猛烈な睡魔に襲われる。「ワーッ」と、大声を出したり、奥歯をギューッッと噛みしめたりして眠気をこらえる。

 20時00分、810キロ地点の阿佐SAに到着。夜食のチャーシューメン・ライスを食べる。22時00分、960キロ地点の美東SAで給油。あと、もうひと息。関門橋を渡って九州道に入ったときはうれしかった! DJEBELに乗りながらガッツポーズだ。 

 こうして23時00分、小倉東ICに到着。そこで九州道を下りた。
 東名の秦野中井ICか1035キロ。11時間45分と、残念ながら10時間では走れなかったが、まあ、よしとしよう。それにしても高速代の1万6050円は痛かった…。

 小倉から国道10号で大分県に入国道210号の水分峠に到着したのは24時30分。 峠でテントを張っていた『豪州軍団』の面々はすでに寝込んでいたが、何人かをたたき起こし、たき木を集め、真夜中のたき火をする。たき火を囲みながら、いつものようにおおいに飲み明かし、たき火のまわりでゴロ寝したのは夜明けが間近というころだった。

五木の峠越え、開始!
『豪州軍団』の面々と別れたあとは熊本へ。
 市内のビジネスホテル「ファースト」に泊まり、その夜は部屋のテレビにかじりつきで、サッカー・ワールドカップアジア最終予選の日本対ウズベキスタンの試合を見た。

 日本まさかの大苦戦で敗戦濃厚‥‥。試合終了直前になんともラッキーな1点を返し、1対1の引き分けで試合は終わった。
「あー、これでもう、フランスはダメか‥‥」
 と、嘆き悲しんで、焼け酒をあおる。

「でも、負けなかっただけいいではないか。最後のロペスの1点は超ラッキーだ!」
 と、自分で自分の気持ちを切り替える。きっとこの“超ラッキー”の1点が奇跡を起こしてくれると信じて眠りについた(後にこの1点が奇跡を生む!)。

 翌朝は気分を「峠越え」モードに変え、早朝の6時に出発。熊本市内の道はまだガラガラ状態。国道3号を南へ。24時間営業の店で「牛皿定食」を食べ、ふたたび走りはじめる。

 阿蘇から流れてくる緑川を渡る。川上に目をやると阿蘇の山々、さらには遠く九重連山が霞んで見える。心に残る風景だ。
 熊本から35キロの宮原で国道3号を右折し、国道443号に入っていく。

 東陽村の分岐を右へ、県道25号で「五木の峠」の第1番目、大通峠に向かっていく。あたりの風景はいっぺんに山がちになる。八代海沿岸の八代平野から九州山地に入った。このような風景の鮮やかな変化をみられるのが、峠越えの大きな魅力!

 DJEBELのアクセルをふかし、峠道を登っていく。交通量はすくない。コーナーをひとつ曲がるごとに高度を上げ、東陽村と五木村境の大通峠に到着。

 大通峠はまさに五木への玄関口で、昔から五木と熊本を結ぶ一番重要な峠になっていた。旧藩時代には、北の子別峠と南の番立峠とともに、この大通峠には人吉藩の番所が置かれていたという。

 大通峠の頂上は、峠公園になっている。展望台もある。駐車場にDJEBELを止め、しばし峠からの展望を楽しんだ。

 大通峠を下ると、五木村の中心、頭地の集落。ここから第2番目の峠、子別峠を越える。五木村と泉村境の峠だ。

 かつての五木の娘たちは7、8歳になると、町に子守などの奉公に出ていたという。その旅立ちの日、親は子供をこの峠まで見送り、峠で別れを惜しんだ。親の子を思う気持ちが峠名にもよく現れているではないか。

 そんな子別峠だが、峠名の読み方は“こわかれとうげ”ではなく、“こべっとう”と読む。峠名を含めて地名というのは、ほんとうに読み方が難しい。

 西日本では、峠をタワとかダワ、タオ、ダオともいうが、さらにトとかトウともいう。四国の難路で知られる国道439号の大峠は“おおとうげ”ではなく、“おおと”というが、この子別峠も峠をトウ読みするのだ。

 話は横道にそれるが、この年(1997年)の夏には、モンゴルを走った。

 モンゴルでは峠のことをダワといっている。なんと西日本風のダワと同じだ。モンゴル人にとって峠は旅の安全を祈願する祈りの場所で、石を積み上げ、旗がはためいている。その祈りの場所をオボウといっている。なんとはなしに、日本の“お坊さん”を連想させる言葉ではないか。そのオボウのまわりを時計回りに3回まわるのだ。国が違っても、民族が違っても、峠というのはおもしろい!

 さて、「五木の峠越え」の第3番目の峠は、国道445号の二本杉峠。峠の展望台に立つと、正面には白っぽく見える熊本の市街地が広がり、その向こうには金峰山が霞んでいる。右手には阿蘇、左手には雲仙という2大火山。目の底に残る二本杉峠からの眺めだ。

 開けた峠の上には、地元産の農産物などを売る店があり、そこでは串刺しにしたヤマメの塩焼きを売っていた。かぶりつきで食べたが、うまかった~!

 ここではもうひとつ、“いきなりだご”も食べた。ふかした大きな団子の中に、アズキとサツマイモのあんが入っている。なんで“いきなり”なのかはわからなかったが、“だご”とは団子のこと。

 こうして、その土地ならではのものを食べられるのが、オートバイ・ツーリングの大きな魅力。ぼくはいつも、日本中のそれぞれの土地の根づいた食べものを食べ歩きたいと思っているのだ。

「五木の峠越え」の最後は白蔵峠(梶原越)。五木村からこの峠を越えて水上村に入ったが、峠道を下っていくと、すごい風景が目の前に現れてくる。左手には球磨川源流の恐ろしく深い谷間が見え、正面には九州山地第2の高峰、標高1722mの市房山が聳えている。その風景を目に焼き付け、白蔵峠を下るのだった。

4500円の温泉宿
 水上村役場前の自販機でカンコーヒーを飲んでいると、目の前を通り過ぎていった“黒ネコヤマト”のトラックが、Uターンして戻ってきた。

 驚いたことに、そのトラックはぼくの前で止まると、車から降りてきたドライバーは開口一番、「カソリさんですよネ」というではないか。

 その人は、ぼくの本をよく読んでくれている豊永和典さん。旧車のXLパリダカ250とXT250に乗っている。オフロード大好きな豊永さんは、
「まさか、こんなところでカソリさんに会えるとは‥‥」
 と、喜んでくれた。しばらく立ち話をして別れたが、そのあとは胸の中がホワーンと温かくなり、「峠越え」で疲れきった体にまた元気がよみがえってくるようだった。

 球磨川に沿って国道219号を走る。多良木町では、くま川鉄道の多良木駅前の「えびす温泉」に立ち寄った。大浴場の内風呂も露天風呂も気持ちよく入れる。入浴料は400円。ここで「峠越え」の疲れを洗い流し、心身ともにさっぱりしたところで、人吉盆地の中心人吉へ。さらに球磨川沿いに国道219号を走り、八代に出た。

 日が暮れる。今晩の宿は、宇土半島の有明海側の赤瀬温泉。「有明館」という温泉宿に電話を入れてある。ここはなんと、1泊2食4500円という超安い温泉宿なのだ。

 7時過ぎに、赤瀬温泉の「有明館」に着く。遅い時間の到着にもかかわらず、宿のオバアチャンは、「よく、来ましたねえ」といって、ぼくを気持ちよく迎えてくれた。

 すぐさま、炭酸泉の湯に入る。湯から上がると、大広間での夕食だ。泊まり客はぼく一人。大広間に一人でポツンというのはなんとはなしに寂しが漂ってくる感じだが、オバアチャンが持ってきてくれた夕食を見て、そんな寂しさなどいっぺんに吹き飛んだ。

 タイの刺し身に小ダイの焼き魚、さっとゆでたイカ、アサリ料理、白身の魚の入った酢のもの、それに煮ものと、1泊2食4500円とは思えないほどの食事だったからだ。刺し身にしても焼き魚にしても、材料が新鮮だからうまいのだ。

“海の幸三昧”の夕食に大満足!
 夜明けの風景が、なんともきれいだった。「有明館」は有明海に面している。窓を開けると目の前が波静かな海。右手には熊本の金峰山、左手には雲仙の普賢岳が海越しに見えた。

 早めの朝食を食べ、出発。宿のオバアチャンはビニールの袋に入った早生のミカンをぼくに持たせてくれた。なにか、胸がいっぱいになってしまう。

「また、機会があったら、きっと来ますからね」
 と、オバアチャンに別れを告げ、国道57号で熊本へ。朝日を浴びた有明海は、まるで金粉をまき散らしたかのように、キラキラキラキラと光り輝いていた。

■コラム■
 熊本県五木村の中心、頭地から北に1キロほどいったところに「子守唄公園」がある。 そこには、

「おどま盆ぎり盆ぎり
 盆から先きゃおらんと
 盆が早よくりゃ
 早よもどる」

 と、「五木の子守唄」の歌詞が彫り刻まれた碑が立っている。スピーカーから流れてくるメロディーを聞いていると、胸がジーンとしてしまう。

「五木の子守唄」といえば、「竹田の子守唄」、「島原の子守唄」とともに“九州の三大子守唄”。日本人の心の琴線にふれるものがある。

「五木の子守唄公園」には、五木温泉の「温泉センター」もある。13時から21時までの営業で、入浴料は200円。湯に入ったあと、隣り合った「かやぶき茶屋」で「地鶏山菜そば」を食べたが、五木名産の手打ちそばと地鶏の肉の味は、なかなかのものだった。

 五木村はまわりをグルリと九州山地の山々に囲まれ、どこへいくのにも峠を越える。本文中で紹介した大通峠や子別峠、二本杉峠、白蔵峠のほかにも、八代へ通じる番立峠や、林道のアポロ峠などいくつもの峠がある。

 五木で唯一、峠越えルートでないのは球磨川の支流、川辺川に沿ったルートで、現在ではそこを国道445号が通っている。ところがこの国道の道幅は狭く、曲がりくねり、車のすれ違いも楽ではない。出会い頭の衝突を防ぐために“車の昼間のライト点灯”をうながす看板をあちこちで見るほどの難路。

 五木村の頭地から川辺川に沿って国道445を南に下ると、相良を通って人吉に通じているが、その途中の峡谷に川辺川ダムができる予定だ。その巨大ダムが完成すると、村役場のある頭地を含め、五木の多くの集落が湖底に沈む…。「五木の子守唄」のふるさとは今、風前の灯火なのである。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク


日本列島岬めぐり:第8回 とどヶ崎(岩手)

 (共同通信配信 1990年)

「みなさん、本州の最東端って、どこですか?」
 と、クイズを出してみたくなるほど、本州最東端の岬は知られていない。
 答えは重茂半島のとどヶ崎だ。
 三陸海岸を貫く幹線の国道45号を北上し、カキやホタテの養殖が盛んな山田湾から入っていく重茂半島は、海に近いとは思えないほど山が深く険しい。まるで深山幽谷の地に足を踏み入れたかのようだ。

 姉吉というバス停で半島一周道路を離れ、本州最東端の集落、姉吉を通って浜に出た。浜には昆布小屋が並んでいた。
 ここからとどヶ崎までは、4キロほどの山道を歩いていく。
 汗まみれになってたどり着いた東経142度04分35秒のとどヶ崎には、東北地方では一番のノッポ灯台、高さが34メートルの灯台が立っている。断崖上には「本州最東端」の碑。目の前には島影ひとつなく、太平洋が果てしなく広がっている。
 往復8キロも歩かなくてはならないので、この岬までやってくる人はほとんどいない。断崖の縁に腰を下ろして自分一人でたたずみ、絶景岬を独占した。

 岬から浜に戻ると、コンブ漁の漁師さんの話を聞いた。
 9月に入ると、天然コンブの採取で忙しくなる。きれいな飴色をした三陸のコンブは質が良い。ととヶ崎の名前通り、かつては岬にトドがやってきた。しかし、最近ではトドを見かけなくなった。
 姉吉の漁師さんからは、そんな話を聞いた。
 コンブといい、トドといい、私はすでに北国の親潮の海に入ったことを強く感じた。植生を見ても、寒地性のナラなどの落葉樹が岬を覆っていた。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行


日本列島岬めぐり:第7回 御崎(おさき・宮城)

 (共同通信配信 1990年)

 唐桑半島突端の御崎まで行く前に、日本でも有数の遠洋漁業の基地である気仙沼漁港に立ち寄った。
 港では遠洋マグロ漁船の完成祝いを見た。新造船は大漁旗を満艦飾にひるがえらせ、ボリュームをいっぱいに上げたスピーカーから大漁節を流しながら接岸した。船主のあいさつに続いて餅がまかれ、集まった人たちは争ってそれを拾った。

 気仙沼から陸中海岸国立公園の唐桑半島に入っていく。長さ20キロほどの半島で、カキ養殖の研究所やアワビとワカメ養殖の海底牧場があるほど、漁業の盛んなところ。
 半島の西岸には鮪立や小鯖などの漁港があり、遠洋漁船の乗り組み員の多くはこの地から出ている。
「マグロ御殿」の建ち並ぶ半島の中ほどには、大理石の海岸「巨釜・半造」がある。巨釜の高さ16メートル、幅3メートルのオベリスク状の白っぽい石柱はこの海岸のシンボルになっている。三陸大津波で先端が折れ、それ以来、折石といわれている。

 唐桑半島最南端の御崎には御崎神社が祭られ、そこから先は自然遊歩道になっている。うっそうと茂るタブやツバキなどの照葉樹林によって、岬突端への小道は昼でも暗い。
 黒潮の影響で、このあたりまで暖地性の照葉樹林が北に延びてきている。
 小道のわきには苔むした鯨塚があった。その昔は供養塔の塚が立つほどの鯨を捕ったのだろう。
 岬先端の灯台の先には、黒色粘板岩の岩場が幅30メートル、長さ100メートルにわたって海に突き出ている。「八艘曳」と呼ばれる岩場で、御崎神社の祭神が8艘の船を従えてこの岩に上陸したという。まさに「御崎」。
 御崎は磯釣のメッカでもある。八艘曳の岩場では多くの釣り人たちが釣り糸を垂れていた。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行


日本の東西比較(食文化編)

東日本と西日本の比較というのは、じつにおもしろいものがある。
その東西の比較を食文化でみてみた。

(項目)       (東日本)    (西日本)
納豆          糸引き納豆    乾燥納豆
麦こがし       麦こがし     はったい粉
正月魚        サケ       ブリ
餅           切り餅      丸餅
雑煮          澄まし汁     味噌汁
味噌          辛口       甘口
醤油          濃口       薄口
麺           そば       うどん
「お」をつけるのは  おそば      おうどん
にゅうめん      ない        ある
きつねうどん     きつねうどん   きつね
きつねそば      きつねそば    たぬき
たぬきうどん     ある        ない
たぬきそば      ある        ない
うどん汁       黒色        白色
煮干し        煮干し       ちりめん
料理法        鍋料理(煮る)   鉄板焼き(焼く)
すし          鮨         鮓
おでん        おでん       関東煮
おでんの具     ちくわぶ      ころ
麩           乾燥麩       生麩
すきやきの具    生麩は入れない 生麩を入れる
ゆば          湯波        湯葉
タコ          酢ダコ       煮ダコ
がんもどき      がんもどき     ひろうす(飛竜頭)
ゆでたまご      ゆでたまご    にぬき
おしるこ        おしるこ      ぜんざい
ホルモン       ない        ある
佃煮(言葉)     ある        ない
刺し身         刺し身       お造り
刺し身醤油      醤油        たまり醤油
たまり醤油      ない         ある
うなぎのさばき方   背びらき      腹びらき
魚の好み       脂分が多い    脂分が少ない
肉の好み       豚肉        牛肉
カレーライス      ポークカレー    ビーフカレー
カツ          豚カツ       牛カツ
目玉焼き       醤油をかける   ソースをかける
たまご焼き      砂糖を入れる   ダシを入れる
食べ方         口で食う      目で食う
盛りつける皿     瀬戸もの     伊万里
飯の食い方      茶碗を口から離す 茶碗を口に近づける
カマド         カマド      クド
てんぷら        てんぷら     さつま揚げのたぐい

みなさん、このように東日本と西日本というのは、ずいぶんと違いますねえ!

テーマ : グルメ♪食の記録
ジャンル : 旅行


カソリの峠越え(6) 九州編(6):大分県の峠

 (『月刊オートバイ』1996年11月号 所収)

 九州の峠越え、第6弾は大分県の玖珠盆地や日田盆地周辺の峠だ。
 大分を出発し、国道210号で水分峠を越え、九州最大の川、筑後川の水系に入っていった。まず最初は玖珠盆地周辺の峠を越え、次に日田盆地周辺の峠を越え、最後に九州第一の霊山、英彦山の峠を越えた。耶馬日田英彦山国定公園の一帯が、今回の峠越えの舞台なのだ。

水分峠を越えて
 JR大分駅。ここが、今回の出発点だ。峠越えの相棒のスズキDJEBEL200を駅近くに止め、駅の待合室でカンコーヒーを飲みながら地図を見る。これが最高の楽しみ。

 ぼくは駅が大好きだ。知らない町の、知らない駅の待合室に一人、だまって座っているだけで旅に出た喜びが胸にこみ上げてくる。

 地図で今回の峠越えで走ろうと思っているルートを目で追い、カンコーヒーを飲み終えたところで出発。DJEBELのエンジンをかけ、駅前の国道10号を走り出す。別府方向にわずかに走ったところで左折し、国道210号にはいっていく。

 右手に鶴見岳、由布岳と2つの火山を見ながら走る。キューンと弧を描いてそそり立つ豊後富士の由布岳山頂近くは、うっすらと雪化粧している。

 国道210号で水分峠を越える前に、由布岳の山麓に広がる由布院盆地に入り、由布院温泉に寄っていく。共同浴場「乙丸温泉会館」(入浴料100円)の湯につかったときは、まさに極楽気分。冷えきった体が、急速によみがえる。「クワー、たまらないゼ!」こういうときは温泉が一番だ。

 由布院温泉で生き返ったところで、水分峠へ。標高707メートルの峠。由布岳を目の前にする。峠にはドライブイン。ここで九州横断道路の“やまなみハイウェイが分岐している。

 水分峠は、九州の大きな境目だ。同じ大分県の大分郡湯布院町と玖珠郡九重町の境になっているが、その両郡名と同じ、大分川と玖珠川を分ける峠になっている。

 玖珠川は日田盆地で大山川と合流し三隈川となり、福岡県に入ると筑後川と名前を変える。下流に広々とした筑紫平野をつくって有明海に流れ出る。

 利根川の“板東太郎”、吉野川の“四国三郎”と並び称される“筑紫二郎”で知られる九州最大の川だ。水分峠を越えて、その“筑紫二郎”の世界へと入っていく。

七福神峠と自衛隊峠
 水分峠を下っていくと、玖珠川流域の玖珠盆地に入っていく。国道を離れ、玖珠川にかかる橋の上に立つ。そこからの眺めがいい!

 南には九重連山の山々が連なり、川上の東の方向に目を向けると由布岳がそびえている。足もとには玖珠川の清流が音をたてて流れている。“山紫水明”の国日本を感じさせる風景だ。前回の竹田盆地も心に残る盆地の風景だったが、この玖珠盆地も竹田盆地に負けず劣らずいい。

 玖珠盆地の中心、森で国道210号にいったん別れを告げ、国道387号で宇佐へと向かっていく。その途中で越える峠は名無し峠だ。

 そこには7つの岩峰群。それが七福神に見えるという。そういわれればそんな気もするが、右から布袋、毘沙門、大黒天、恵比須、寿老人、福禄寿、弁財天なのだという。

 この七福神の岩峰群は、ある日、突然、現れた。それも、最近のことだ。九州に大被害をもたらした平成3年の台風19号で、峠周辺の樹木は根こそぎ倒され、そのせいというか、そのおかげで7つの岩峰がはっきりと見えるようになったのだという。ということで、この名無し峠は「七福神峠」とでも名づけておこう。なんとも、神がかった話だ。

 森から宇佐まで50キロ。国道10号にぶつかったところで右折し、宇佐八幡宮に参拝する。ここは日本中に何万とある八幡宮の総本社。本家本元なのである。

 参拝を終えて参道を歩いていると、「カソリさん」と、声をかけられた。
 家族連れの年配の人。オートバイではなく、クルマに乗っているとのことだが、それでもぼくの本を愛読してくれている。なんともありがたい話ではないか。

 宇佐から森に戻る。帰路は国道387号の名無し峠下から県道に入り、つづけて2つの峠を越える。ともに名無し峠。最初の峠を越えると、九重連山の山並みがドバーッと目の中に飛び込んできた。

 2番目の峠は、自衛隊の日出生台演習場のすぐわきだ。このあたりは高原の風景。ちょっと、日本離れしている。で、この名無し峠はカソリの命名で「自衛隊峠」にしておく。

強烈に寒い耶馬渓の峠越え
 森に戻ると、冬の夕暮れの冷たい風を切って走り、鹿倉峠を越える。山国川の水系に入り、深耶馬渓へ。

 九州を代表する渓谷美の耶馬渓だが、これがすごい。なにがすごいかというと、本耶馬渓のほかに、奥耶馬渓、裏耶馬渓、東耶馬渓、南耶馬渓、津民耶馬渓、羅漢寺耶馬渓、麗谷耶馬渓、椎屋耶馬渓、そして深耶馬渓と、より取り見取りといった感じで、いくつもの耶馬渓があるからだ。これらの耶馬渓は、すべてが山国川の上・中流部の渓谷なのである。

 深耶馬渓の中心、「一目八景」にある深耶馬温泉の「鹿鳴館」に泊まる。ここの夕食がよかった。コイの洗いが絶品。ねばりの強い天然のヤマイモのジネンジョもうまかった。そのほか川魚のハヤの甘露煮やシロキクラゲの酢の物、ワラビの煮物と、ふんだんに山里の味覚を味わった。

 翌朝は、朝風呂に入り、朝食を食べ、8時に宿を出発。強烈な寒さに泣きが入る。「これが、九州かよ‥‥」深耶馬渓のそそり立つ岸壁や山あいの田畑は、まるで雪が降ったかのように、一面、霜でまっ白だ。

 DJEBELのシートの霜をグローブで払いのけ、長めのアイドリングでエンジンを暖め、走りだす。その瞬間の寒さといったらない。九州の山間部の冬の厳しさを思い知らされた。

 深耶馬渓の風景を目に焼き付け、耶馬渓ダムのわきを通り、国道212号に出る。日田方向にわずかに走り、国道を左折し、今度は裏耶馬渓へ。

 冬用の厚手のグローブをしているが、それでも手の冷たさ、指先の痛さに我慢できず、自販機をみつけると、条件反射のようにDJEBELを止めた。こういうときは、HOTのカンコーヒーにかぎる。飲む前に手をあたため、ついでに顔もあたためる。それから飲むのだが、腹のなかをあたためて、やっと体が元に戻った。

 元気になったところで、裏耶馬渓を走り抜け、ゆるやかな名無し峠を越える。正面に九重の山並み、左手に由布岳を眺めながら、森の町へと下っていった。

日田から英彦山へ
 森から国道210で日田に向かって走っていくと、日が高くなり、やっと厳しい寒さから解放された。途中の天ヶ瀬温泉では、玖珠川の河原の露天風呂、「薬師湯」(入浴料100円)に入る。川の流れを眺めながら、じつに気持ちよく入れる湯だ。

 日田盆地に入っていく。玖珠川と大山川が合流し、三隈川になるのだが、その流域に広がる広々とした盆地が日田盆地。玖珠盆地よりもさらに大きな盆地で、その中心が日田。江戸時代は天領で、代官所が置かれた。三隈川の鵜飼は有名で、歴史は長良川よりも古いといわれている。盆地周辺の山林は、“日田杉”の美林地帯だ。

 日田からは、国道212号を北に行き、“小鹿田10キロ”の道標に従って左折し、焼きものの里、小鹿田へ。これで“おんた”と読む。

 小鹿田焼きは、宝永12年(1705年)、この地に小石原村(福岡県)の陶工、柳瀬三右衛門を招いてはじまったといわれている。焼きものの里のバス停も皿山だ。

 小鹿田から乙舞峠を越える。峠周辺は杉林。見通しの悪い峠道。急坂を下る。石畳風の狭い道。乙舞峠を下ったところで右折し、もうひとつの峠、金剛野峠を越え、大分県から福岡県に入った。

 金剛野峠を下ったところで、県道を右折し、石垣を組んだ見事な棚田を眺めながら斫石峠を越える。峠はトンネル。峠を下り、JR日田彦山線の彦山駅まで行く。九州第一の霊山、英彦山(ひこさん)下の駅。線名と駅名は、“英彦山”ではなく、“彦山”。このあたりが地名の難しいところだ。

 JR彦山駅から、来た道を引き返し、もう一度、斫石峠を越え、国道211号まで下る。そして、もうひとつの焼きものの里、小石原村に入っていく。国道211号は通称“陶器街道”。国道沿いには、小石原焼きの窯元が何軒もある。小石原焼きを売る店も何軒もある。焼きもの好きな人にはたまらないルートだ。小石原焼きの歴史は、小鹿田焼きよりもさらに古く、寛文年間(1661年~73年)までさかのぼるという。

 小石原村の中心、小石原を通り過ぎ、小石原村と嘉穂町の境の嘉麻峠へ。峠には「小石原民芸村」。小石原焼きを売るだけでなく、体験コーナーもある。食事もできる。

 国道211号の嘉麻峠で引き返し、小石原村をとりまく峠のうち、大藪峠、芝峠と2つの峠の頂上まで行き、小石原に戻った。
 小石原からは、国道500号で英彦山へ。すぐに小石原村と添田町境の峠を越えるが、ここは名無しの峠。峠を下ったところが、さきほどのJR日田彦山線の彦駅。そこから英彦山へと登っていく。

 DJEBELを止め、長い石段を登り、英彦山神社に参拝。この英彦山は、福岡・大分の県境にそびえる標高1200メートルの山で、昔からの山伏の修行の場として知られている。九州第一の霊山なのだ。

 英彦山の山頂直下を通る国道500号を行く。別名英彦山天狗ライン。眺望抜群。英彦山の山並みの巨岩を間近に眺める。途中、薬師峠に寄り道し、野峠へ。そこで国道496号にぶつかる。

 福岡・大分県境の野峠から大分側に下っていく。奥耶馬渓の渓谷美を眺め、山国町で国道212号に出た。そこからは、旧道の日田街道で伏木峠を越え、日田に戻った。

 日田から日田へ、120キロほどだったが、その間では、乙舞峠から伏木峠まで、全部で10峠を越えた。なんとも心に残る「日田→日田」の峠越えだった。

最後は大石峠
 日田からは、国道211号で中津へ。山国町との境の大石峠をトンネルを抜けて越える。これが、今回の九州編、最後の峠になる。

 大石峠を下った山国町の守実温泉では、町営「憩い荘」(入浴料200円)の湯に入った。これが、今回の九州編、最後の温泉になった。

 山国町から耶馬渓町を走り抜け、本耶馬渓町に入る。山国川の渓谷から平地に抜け出るあたりに、名所“青の洞門”がある。国道を離れてそれを往復した。

 菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の舞台として、全国にその名の知れた“青の洞門”。昔から交通の難所として旅人を苦しめ、一歩、道を踏み外すと、人や馬は山国川に転落して死んだ。それを見て、禅海和尚が30年もの歳月をかけて掘った素掘りのトンネル、それが“青の洞門”だ。完成は、宝暦13年(1763年)だという。

“青の洞門”をあとにし、山国川の河口の町、中津に出る。そこから国道10号で新門司港へ。山国川にかかる大橋を渡ると福岡県だ。

 国道10号を北へ。渋滞をすり抜け、18時30分、新門司港に到着。オーシャン東九フェリーの「おーしゃんいーすと」に乗船。出港5分前に鳴り響くドラの音が胸にしみる。

 19時10分、定刻どおり、「おーしゃんいーすと」は静かに新門司港フェリー埠頭の岸壁を離れていった。遠ざかっていく北九州の町あかりを眺めながら、船内のレストランでビールをグイグイと飲みほす。無性に飲みたい気分。

 オーシャン東九フェリーの「おーしゃんうえすと」に乗って新門司港に着いたのが、ずいぶん、前のような気がする。それからというもの、「北九州の峠」「背振山地の峠」「筑肥山地の峠」「阿蘇の峠」「大分宮崎県境の峠」、そして今回の「大分県の峠」と、全部で65峠を越えた。その間のさまざまな出来事がまぶたに浮かび、消えていくのだった。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク


カソリの峠越え(5) 九州編(その5):大分・宮崎県境の峠

 (『月刊オートバイ』1996年10月号 所収)

 九州の峠越え、第5弾目は、大分・宮崎県境の峠。
「阿蘇の峠」を終えたあと、国道57号で熊本県から大分県に入り、竹田盆地の中心、竹田の町に出た。

 竹田は胸にキューンとしみるようないい町だ。大分と熊本を結ぶ豊肥本線の豊後竹田駅前に、峠越えの相棒のDJEBEL200とともに立ち、「さー、行くゼ!」と、ガッツポーズ。峠越えの出発の儀式を終えたところで走り出す。竹田が「大分・宮崎県境の峠」の出発点なのだ。

岡城跡を歩く
 竹田は城下町。豊後竹田駅前を出発すると、竹田の中心街を走り抜け、山上の岡城跡に行く。駐車場にDJEBELを止め、城跡の観覧料、300円を払うと、巻物風の岡城の案内図がもらえた。

 竹田は中川氏7万石の城下町として栄えたが、絵図で見るその城は見事なものだ。今は、壮大な石垣が残るのみ‥。そんな城跡を歩いていると、もの悲しさを感じてしまう。

 本丸跡に立つ。北西の方角に、九重連山を眺める。左に九住山(1786m)、中央に大船山(1786m)、右に黒岳(1357m)。九重連山の主峰群が青く霞んでいる。

 目を南に向けると、大分宮崎県境の祖母山(1757m)、傾山(1602m)が特徴のある山容で、はっきりと見える。これからその、祖母山、傾山に向かって走っていく。 岡城跡は名曲「荒城の月」の舞台。

 城跡を歩きながら思わず口ずさんでしまったが、「荒城の月」を作曲した滝廉太郎は竹田で生まれた。竹田はいい町だ。竹田盆地も心に残る風景だし、岡城跡も忘れられない。

日本のナイアガラの滝
 DJEBEL200のアクセルを軽く2度、3度、吹かし、走り出す。名残おしい竹田の町に別れを告げ、国道502号でゆるやかな峠を越え、隣り町の緒方へ。そこから県道7号緒方高千穂線に入っていく。目指すのは、大分宮崎県境の峠、尾平越だ。

 前方の祖母山、傾山を眺めながら走る。絶景だ。祖母山、傾山を中心とした一帯は、祖母傾国定公園になっている。

 平地から山地にかかるあたりには“日本の滝100選”にも選ばれている原尻ノ滝がある。高さ17メートル、幅120メートル。「おー!」と、思わず声を上げてしまうほどの大滝だ。

“日本のナイアガラ”ともいわれているが、ナイアガラは、ちょっとオーバーだな。でも、日本離れした大陸的な滝であることには間違いない。

 滝を間近に眺める食堂で、早めの昼食にする。名物の団子汁を食べながらの滝見物だ。団子汁は「阿蘇の峠」で、熊本の郷土料理として紹介したが、大分の郷土料理でもある。ここで食べた団子汁は、キシメン風の幅広の麺だった。

 ところで本家のナイアガラの滝だが、「アメリカ全州走破」をしたときに見た。世界の大河、セントローレンス川が高さ50メートル、1000メートル以上の幅で落ちる様は、言葉ではいい表せないほどの迫力だ。

 また、「アフリカ大陸縦断」では、ビクトリア滝を見た。「南米大陸一周」では、イグアス滝を見た。これらは“世界3大滝”だが、カソリの採点だと1位がビクトリア滝、2位がナイアガラ滝、3位がイグアス滝になる。

尾平越、通行不能
“日本のナイアガラ”原尻ノ滝を目の底に焼きつけたところで、大分宮崎県境の尾平越に向かって出発。平地から山地に入り、祖母山と傾山の間の尾平越に向かって登っていく。

 最奥の集落が尾平。ここには、尾平鉱山があった。歴史の古い鉱山で、江戸時代には、竹田藩のスズ鉱山として栄えた。尾平のスズ鉱山は盛衰を繰り返しながらも、明治以降もつづき、閉山されたのは昭和54年のことだった。

 その尾平を過ぎると、峠に向かっての、一気の登りになる。急カーブが連続する。DJEBEL200のエンジン音が山肌にぶつかり、はねかえってくる。

 じつは、この県道57号緒方高千穂線を走ってくる途中では、何度か、“尾平越通行止”の案内板を目にした。だが、オートバイならば通れるぐらいの気持ちで走った。

 ところが、大分宮崎県境の峠、尾平越に着くと、峠のトンネルは全面改修の工事中で、大型の掘削機がはいっていて、通行は、まったく不能‥。さー、困った。こういうときは、すばやく、どうしたらいいのかを考えなくてはならない。地図を広げて考える。そして、結論を出す。「よし、竹田まで戻ろう」

神話のふるさと、高千穂へ
 尾平越から竹田まで40キロ、来た道を引き返す。原尻ノ滝をもう1度、見る。
 竹田からは、今度は県道8号竹田五ヶ瀬線を行く。原尻ノ滝のある緒方川に沿って上流へ、上流へと走っていく。

 大分県からいったん、熊本県に入り、ゆるやかな津留峠を越える。峠を下ると津留の集落だ。そこから、宮崎県に入り、崩野峠を越え、国道325号に出た。

 日本の神話の故郷、高千穂へ。高千穂鉄道の終点、高千穂駅に行き、高千穂神社に参拝し、高千穂峡を見る。そのあとで、高千穂の町から10キロほどの天岩戸神社に行く。西本宮に参拝。天照大神をまつっている。

 まさに神話の世界で、岩戸川の対岸に、天照大神が隠れたという洞窟がある。ここに八百万の神々が集まり、天ノ岩戸に隠れた天照大神に出てきてもらうために舞ったのが、今の高千穂の夜神楽の起源だという。

 天岩戸神社前の道が、宮崎県道7号高千穂緒方線で尾平越に通じている。今度は、宮崎県側から尾平越まで登るのだ。

 岩戸川の谷間に入っていく。見事な棚田の風景がつづく。祖母山からの湧水が流れ落ちる常光寺滝を見る。最後の集落、中野内を通り過ぎ、峠へ。宮崎県側の登りは、大分県側に比べるとゆるやかだ。

 尾平越に到着。峠のトンネルの前で、DJEBEL200を止める。トンネルこそ抜けられなかったが、こうして、最初は大分県側から、次に宮崎県側からと、両方向から峠を登ったのでこれでよしとしよう。“峠のカソリ”、峠には、トコトン、こだわりたいのだ。 

 尾平越からは、来た道を引き返し、峠を下る。天岩戸神社近くまで戻ると、県道か山中に入ったところにある天岩戸温泉(入浴料400円)に行く。大浴場はこのあたりには温泉がほかにないこともあって、けっこう、ワサワサと混み合っていた。打たせ湯、サウナもある。湯上がりに、休憩所で冷たいカンジュースを飲み、また、高千穂の町に戻るのだった。

九州の秘湯に泊まる
 高千穂から国道218号で延岡方向へ。隣り町の日之影町に入ったところで、旧道で日之影の町へ。高千穂鉄道の日之影駅前にDJEBEL200を止める。じつは、ここが日之影温泉。駅舎内の温泉なのだ。

 自動券売機で入浴券(300円)を買い、2階の浴室へ。駅舎内の温泉らしく入口には、鉄道用の信号。列車の到着15分前になると青信号が黄色に変わり、5分前になると赤信号に変わる。

 さっそく湯につかる。湯気のモウモウとたちこめる浴室の中央には円形の湯船がある。窓際にも湯船。そこからは、湯につかりながら、高千穂鉄道の線路を見下ろすことができる。

 湯から上がると、階下の食堂でシシ汁定食(700円)を食べた。このあたりはイノシシがたくさんいるので、シシ汁は名物料理になっている。味噌味の汁の中には、ダイコンやニンジン、コンニャクとともに、シシ肉がゴッソリと入っている。うまかった!

 満ち足りた気分で、県道6号日之影宇目線を走る。この県道6号は、県境の峠の杉ヶ越を越えていく。

 夕暮れ。日之影川の谷間には、ポツン、ポツンと集落がある。家々に明かりが灯る。やがて見立渓谷に入っていく。その中に、ポツンと、1軒宿の温泉がある。九州でも屈指の秘湯、白滝温泉(1泊2食7000円)だ。そこが、今晩の宿。前から1度、泊まってみたい!と思っていた温泉なのでうれしい。さっそく湯に入る。湯上がりに、キューッと飲むビールのうまさ!

 翌朝は早朝の出発。峠に向かって登っていくと、険しい山並みの山岳風景が、ウワーッと間近に迫ってくる。県境の杉ヶ越は、傾山東側の峠。峠のトンネルを抜け、大分県側に入ると、山並みは宮崎県側に比べ、はるかにゆるやかなものになった。

3藩境の三国峠
 国道326号にいったん出たところで、来た道を長淵という集落まで引き返し、県道45号宇目清川線で梅津越を越える。宇目町と清川村の境の峠だ。梅津越は明治10年(1877年)の西南の役の激戦地。政府軍に破れた薩摩軍は峠を越えて南へと敗走していった。また、峠からは尾根づたいにダートの梅津越林道が分岐しているが、また今度、別な機会に走りにこよう。

 梅津越を下っていくと、清川村の牧口に出る。そこから国道502号で三重町の三重へ。三重からは国道326号で三国峠に向かう。峠への一気の登り。

 国道326号の新道は峠をトンネルで抜けているが、トンネル入口の手前で左に折れて入る旧道の峠道がよかった。傾山からつづく山並みを見渡す。 

 三国峠は標高660メートル。なぜ、三国峠なのか峠に立つまで、すごく疑問だった。ふつう、三国峠というのは、昔の国の3国境もしくはその近くの峠をいうからだ。ところが、この三国峠は、豊後1国の「一国峠」なのである。あえていえば、北の大野郡(三重町)と南の南海部郡(宇目町)境の郡境峠だ。

 旧道で三国峠に立って、その疑問が解消された。峠には案内板が立っていた。それによるとこの峠が江戸時代、岡藩(竹田)と臼杵藩、佐伯藩、3藩の境で、それで三国峠なのだという。知的好奇心が満たされたような、なにか、すごく得したような気分で三国峠を下り、新道の国道326号に合流するのだった。

 宇目町楢ノ木で国道326号を左折し、榎峠を越える。ゆるやかな峠。峠のま上に宇目町役場がある。つづいて、井ノ内峠、目白峠と越えて野津町で国道10号に出た。

 国道10号で大分へ。犬飼町で大野川の河畔に出る。やがて広々とした平野の風景に変わっていく。
 大野川は祖母山の南西を源とし、竹田盆地を流れ、原尻ノ滝のある緒方川などを合わせ、大分の近くで別府湾に流れ出る。全長110キロ。大分県では一番、大きな川だ。

 今回の「大分宮崎県境の峠」では、あちこちで大野川水系の流れを見てきた。峠越えのよさのひとつは、川がどのように流れているのかが、じつによくわかることだ。

 大分に近づくにつれて、交通量は増え、最後は渋滞に巻き込まれての大分到着となった。 国道10号沿いの大分市内温泉「ぽかぽか温泉花園の湯」に入り、気分をよくしたところで、大分駅前でDJEBEL200を止め、そこを「大分宮崎県境の峠」のゴールにするのだった。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク


シルクロード横断:第32回 タラズ→タシケント

 カザフスタンは旧ソ連の中央アジア5ヵ国の中でも、圧倒的に大きい。面積は272万平方キロで日本の7倍以上もの広さ。首都は北部のアスタナに移ったが、実質的な首都は中国&キルギス国境に近いアルマティで、それ以前の首都だった。中央アジアではウズベキスタンのタシケントと並ぶ大都市。シルクロードの「天山北路」の要衝の地だ。

 今回の「シルクロード横断」ルートでは、残念ながらカザフスタンは国の南をかすめる程度でしかなく、ひと晩、泊まったタラズからはウズベキスタンの首都タシケントに向かった。

「ジャンヒル ホテル」のレストランでバイキングの朝食を食べ、9時前にタラズを出発。朝方の雨はやんだが肌寒い天気。天山山脈西端のゆるやかな山並みを越えていく。

 いくつかの峠を越え、最後の峠で小休止。あまりの寒さに我慢できなかったのだ。峠のカフェに飛び込み、ストーブにあたりながらコーヒーを飲んだ。ハンドルを握る手は感覚がなくなるくらいに冷たい。

 峠といっても日本の脊梁山脈の峠とはまるで違う。いかにも大陸的で、ズドーンと一直線に延びる2車線の舗装路が峠を越えている。そこには2台のウクライナ・ナンバーの大型トラックが停まっていたが、「TIL」マークをつけた国境越えの大型トラックが何台も峠を越えていく。カザフスタン・ナンバーのトラックだけでなく、ロシアやドイツ、オランダ・ナンバーのトラックが峠を越えていくのを見る。ダイナミックに大陸を駆ける「ユーラシア大陸横断」のトラック軍団だ。

 この峠を越えると寒さから解放され、天山山脈は遠のいていった。それは中国の新疆ウイグル自治区に入って以来、ずっと見つづけてきた天山山脈との別れでもあった。天山山脈は中国だけではなく中央アジアの国々にまで延び、最後はカザフスタンの平原に呑み込まれるようにして果てる。東西2000キロ以上の大山脈だ。

 昼過ぎにカザフスタンでも有数の都市、シムケントに到着。ここはウズベキスタンへの玄関口であるだけでなく、ロシアからさらにはヨーロッパに通じる道の拠点。大きな交差点を直進したが、そこを右折するとモスクワ方面への道になる。

「サマーラ2258キロ」の道標があったが、ウラル山脈の西側のサマーラ(クイビシェフ)からモスクワは近い。ドイツナンバーやオランダナンバーの大型トラックはサマーラに通じる道に入り、モスクワからポーランドのワルシャワを経由し、ドイツのベルリン、オランダのロッテルダムやアムステルダムなどに向かっていく。

 シムケントの街道沿いの食堂で昼食。麺&スープ、ライス&羊肉、シシカバブーを食べた。そしてウズベキスタンとの国境へ。タラズから300キロの国境に到着したのは15時。

 大勢の人たちが行き来する国境で我々のカザフスタン出国、ウズベキスタン入国にはずいぶんと時間がかかり、すべての手続きが終わったのは21時30分。国境から20キロの首都タシケントに到着したのは22時。「ウズベキスタン ホテル」に入り、ホテルのレストランで黒パンとサラダ、チキン&ポテトの遅い夕食を食べ終えたときは心底、ほっとするのだった。

タラーズの「ジャンヒール ホテル」の朝食
タラーズの「ジャンヒール ホテル」の朝食

天山山脈のゆるやかな山並み
天山山脈のゆるやかな山並み

天山山脈の「峠の茶屋」
天山山脈の「峠の茶屋」

峠に停まっているウクライナ・ナンバーの大型トラック
峠に停まっているウクライナ・ナンバーの大型トラック

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シルクロード横断:第31回 ビシュケク→タラズ

 キルギスの首都ビシュケク。早朝の町を歩く。さわやかな透き通る空気。朝日を浴びた天山山脈の雪山が目に残る。北緯43度の町で日本でいえば札幌といったところか。今回の「シルクロード横断」ルートでは、このあたりが一番、北になる。

 ビシュケクの人口は約100万人。キルギスの人口が500万人ほどなので、全人口の2割近くが首都に集中している。とはいっても人口が密集しているといった感じはなく、ゆったりとした広々とした町並み。80もの民族が住むというキルギスだが、キルギス人が6割以上を占め、それにウズベク人、ロシア人、ウクライナ人がつづいている。

 中国系ホテル「エルドラド」のレストランで朝食。朝粥や焼きそばを食べたが、中国の味に何かものすごいなつかしさを感じてしまう。中国を離れたばかりだというのに…。

 2006年9月17日9時、ビシュケクを出発。100キロほど西に走り、11時にはカザフスタンとの国境に到着。キルギスを出国し、カザフスタンに入国するまでに2時間ほどかかった。

 旧ソ連の中央アジア5ヵ国の中では最大の面積を誇るカザフスタンに入り、天山山脈北麓の道を行く。一直線の舗装路。左手には天山山脈の山並みがはてしなくつづき、山麓はビート(砂糖大根)畑になっている。右手にはカザフスタンの大平原が際限なく広がり、広大な牧草地になっている。スズキDR-Z400Sを走らせながら見る左右の風景のあまりの違いに、ただただ驚かされてしまう。片や大山脈、片や大平原!

 昼食がよかった。バイクを路肩に停め、道路沿いの樹林の中にブルーシートを広げ、ランチボックスの昼食。食べおわるとゴロンと横になり、30分ほどの昼寝。これがすご~く気持ちいいのだ。目がさめると、まるで夢の中をさまよっているかのような気分を味わえる。それまで見つづけてきた大山脈と大平原の風景が新鮮に見え、あらためて感動してしまうのだ。

 天山山脈と大平原を左右に見ながら走りつづけ、夕方、タラズに着いた。ビシュケクから285キロ。ここはシルクロードの要衝の地。751年の唐軍とアラブ軍が戦った「タラスの戦い」の舞台、タラス川河畔の町だ。キルギスとの国境に近く、キルギス側にもタラスの町はある。カザフスタンは「TARAZ」、キルギスは「TALAS」。

 タラズでは「ジャンヒル ホテル」に泊まった。プラプラと町歩きをしたあと、ホテル近くのレストランで夕食。それがまさに東西の接点を感じさせるものだった。まずは羊肉とジャガイモのスープの「ショルボ」を飲む。ボルシチ風スープの上にはロシア人の大好きな香辛料のウイキョウが浮いている。この「ショルボ」という名前はアラブのスープの「ショルバ」からきている。

 次に水餃子の「マントウ」を食べる。これにもウイキョウがのっている。「マントウ」というのは中国の「饅頭」からきているが、餃子をも「マントウ」といっているのが興味深かった。

 そしてテーブルのわきで焼いている「カバブー」を食べた。羊肉の串焼きでこれは西アジアの食べ物。そんな夕食を食べていると、「自分は今、シルクロードの真っ只中にいる!」という気分になる。中央アジアはまさに東アジアと西アジアの文化が激突する「アジアの十字路」なのだ。

早朝のビシュケクの町並み
早朝のビシュケクの町並み

カザフスタンに入る
カザフスタンに入る

左手には天山山脈の山並み
左手には天山山脈の山並み

夕食のスープ「ショルボ」
夕食のスープ「ショルボ」

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カソリが選ぶ「ニッポン郷土料理」(13)北海道編

249、石狩鍋(北海道)
北海道の食文化をひとことで言い切ってしまうと“鮭食文化”ということになる。それだけに北海道のサケ料理の種類は多彩で、きわめて発達している。サケはアイヌ語で“カムイ・チェプ(神の魚)”。北海道でのサケの重要性を見事に表した言葉ではないか。
さて数ある北海道のサケ料理の中でも王様級なのがこの石狩鍋。石狩川河口の石狩からおこったサケ料理だという。ぶつ切りにしたサケと豆腐、コンニャク、野菜類などを入れた味噌味の鍋料理で、体が芯から暖まる。

250、三平汁(北海道)
青森から函館に夜中のフェリーで渡り、夜明けの函館の朝市を歩き、市場内の食堂で食事するのがぼくの北海道ツーリングの定番のようなもの。そのとき一番、食べたくなるのがこの三平汁だ。湯気のたつ三平汁をフーフーいってすすっていると、「津軽海峡を渡って北海道にやって来たゼ!」という気分になるのだ。
三平汁はサケやニシン、タラなどを入れた汁だが、なんたってサケがうまい。冬、地吹雪に吹かれたときに食べた酒粕入りの三平汁には生き返るような思いだった。

251、ルイベ(北海道)
北海道の先住民アイヌの食文化の伝統を色濃く受け継いだのが、このルイベだ。ルイベというのは、凍らした食べ物を意味するアイヌ語で、タラやエゾジカのルイベもあるが、ツーリングの途中で我々が口にするルイベといえばサケになる。
生のサケを三枚におろし、皮をとり、4、5ミリぐらいの厚さに切ったものを凍らせ、それをワサビ醤油につけて食べる。シャキシャキッとした歯ごたえと、トロッとした脂の乗った身のうまさがたまらない。寒さの厳しい北海道らしい食べ物だ。

252、イクラ丼(北海道)
北海道ツーリングではきわめてなじみの深いイクラ丼だが、このイクラというのはアイヌ語ではなく、魚の卵を意味するロシア語なのだ。そのロシア語がサケやマスの卵の意味ですっかり定着したところに、北海道とロシアの距離の近さを感じさせる。イクラは生の筋子をばらして塩漬けにしたもの。イクラ丼というのは、それをあたたかな丼飯の上にのせただけの素朴な食べ方だが、北海道の食の素材のよさとあいまって、これがすこぶるうまいのだ。

253、めふん(北海道)
北海道料理の中で一番の酒の肴といったら、このめふんだ。雄のサケの背腸(臓物を取り出したあとで取る背骨に沿ってついている血わた)を原料にした塩辛で、高級品になると3年近くも寝かせるという。高級品のめふんには、舌の上でとろけるような熟成された味がある。めふんは生ビールにもワインにも日本酒にも‥‥と、何にでも合う。すごい酒の肴だ。
ぼくが知る限り、このサケの“めふん”とアユの腹わたからつくる“うるか”は、日本の塩辛の両横綱といったところだ。

254、ニシン漬け(北海道)
かつての北海道漁業の中心はニシン漁だった、今でも日本海側の小樽や江差、寿都などに残る網元の“鰊御殿”を見れば、ニシン漁がいかにすごかったかよくわかる。
「秋味」のサケに対してニシンは「春告魚」で、毎春、日本海の海岸に群れをなして押し寄せた。そのニシンも昭和30年代以降、パッタリと来なくなったが、ニシン料理の伝統は残った。ニシン漬けもそのひとつ。桶に身欠きニシンとダイコン、キャベツ、ニンジン、赤唐辛子を入れ、塩と麹で漬け込んだものである。

255、イカそうめん(北海道)
ぼくが初めて函館の朝市の食堂でイカそうめんを食べたのは、今から20数年前のことだが、当時はまだそれほど知られてはいなかった。津軽海峡はスルメイカの好漁場。そこでとれた生きているイカを食堂のおばちゃんは、ぼくの目の前で鮮やかな包丁さばくでトントントンと細切りにしてくれた。それを丼にゴソッと盛ってくれた。おろしショガを添えたつけ汁につけ、そうめんのようにツルツルッと食べたときは、「おー、日本にはこういう食べ方があるのか!」と、感激したものだ。それがあれよあれよというまに名物料理になっていった。

256、イカめし(北海道)
JR函館本線の森駅の駅弁として全国的に有名になったが、函館から北へ、国道5号を走りだしたらちょっと森駅に寄り道し、このイカ飯弁当を食べてみたらいい。イカ飯は北海道のイカ料理の代表的なもの。足を引き抜き、よく洗って包丁目を入れた身に、洗った米を詰める。つま楊枝で口をふさぎ、醤油、味醂で味つけしただし汁の中で1時間ほど煮込み、出来上がる。
このイカの中に詰める米がイカめしの味の決め手だそうで、糯米と粳米を混ぜる割合が、つくり手の秘伝になっている。

257、松前漬け(北海道)
今ではすっかり全国区的になった松前漬けは、北海道とは何ら関係のない我がカソリ家の正月料理にも欠かせないものになっている。もとはといえば、道南の漁師の奥さんたちが冬場のおかずとして自家用でつくっていたものだという。
スルメとコンブを千切りにし、それに数の子のみずこ(型くずれした数の子のこと)を加え、醤油、味醂、酒で味を調えたものである。スルメとコンブのだしが混じり合い、絶妙の味になる。ついつい、つまみ食いをしたくなる味なのである。

258、ホッキとホタテの刺身(北海道)
函館から稚内への北海道縦断を走り終え、稚内駅近くの「網元」という郷土料理店に入った。ここで食べたホッキとホタテの刺身はすこぶるうまかった。ホッキは日本海側の抜海で取れたもの、ホタテはオホーツク海側の猿仏でとれたものだという。ともに天然もの。
湯に通していないホッキは自然のままの色合い。ホタテは養殖もの特有のクニャッとしたやわらかさではなく、シコシコッとした歯ごたえ。店の主人はいった。「どうです、これが地元産の天然ものの味ですよ」

259、ホッケの開き(北海道)
北海道ツーリングで一番よく食べるのが、このホッケの開き。焼き魚にするのだが、豪快な北海道の食文化を象徴するかのように、たいてい皿からはみだすくらいの大きなホッケが出てくる。これがまた、うまいんだ! たっぷりと脂がのっている。とくに身と皮の間の脂分がこたえられないいい味。焼き方が上手だと皮も骨もまるごと食べられる。焼き魚定食でホッケがでると、飯をお替わりしたくなるほど。ホッケは北海道から本州北部の北海に生息する魚。まさに北の味である。

260、カスベの干物(北海道)
北海道の漁村でよく目にする光景は、家の軒下や干し場にぶらさがったカスベである。カスベというのはエイのこと。このカスベの干物は、タラの干物と肩を並べるほどの絶好の酒の肴。塩をして硬く干したカスベの干物を金槌でたたいてそのまま食べる。
このカスベは煮こごりにしても食べる。熱いご飯にカスベの煮こごりはよく合う。ぶつ切りにした生のカスベを湯に通し、それをだし汁に入れ、醤油、味醂で味つけし、グツグツ煮込み、それを冷蔵庫に入れておけば煮こごりができる。

261、かにめし(北海道)
北海道のカニといえば、毛ガニ、タラバガニ、花咲ガニの3種がすぐに頭に浮かぶ。北海道ツーリングの大きな魅力は、いたるところでうまいカニに出会えることだ。
これら3種のカニのうち戦前からよく知られていたのはタラバガニで、毛ガニがよく食べられるようになったのは戦後のこと。函館本線の長万部駅でゆでた毛ガニを売出すと、これが大当たりし、一躍有名になった。そのような伝統をひきついだのが長万部駅の名物「かにめし」弁当。駅前の「かにめし本舗」で買える。

262、鉄砲汁(北海道)
花咲ガニの本場は根室に近い花咲漁港。漁港の近くでは、とれたての花咲ガニをさっとゆでたものを売っている。これが最高のうまさ。店の奥さんがハサミで上手に甲羅や殻を切り裂き、食べやすくしてくれる。1匹まるごと、あっというまにむさぼり喰ってしまう。
この花咲ガニ入りの味噌汁が根室名物の鉄砲汁。丼の味噌汁の中には、ブツ切りにした花咲ガニがゴソッと入っている。味噌汁には花咲ガニのうまみがしみ出て、絶妙の味わい。この味の良さはほかのカニでは出ないという。

263、タラバのトトコ(北海道)
まさに北海道の珍味で、ラズベリーの実をさらに小さくしたような紫色の粒々。トトコというのは子供のことで、つまり、タラバガニの卵のことである。その粒々に塩をし、酒と醤油に漬けたものが“タラバのトトコ”なのである。この“タラバのトトコ”だが、粒状のものを“外子”と呼び、もうひとつ、ペースト状のものを“内子”といって呼び分けている。内子は塩辛にする。それを熱いご飯の上にのせて食べるとうまい! もちろん内子も外子も、酒の肴には最適だ。

264、ウニ丼(北海道)
ウニ丼とイクラ丼は北海道の“二大丼”。ともに北海道らしい豪快さで、丼飯の上にウニやイクラがドサッとのっている。食材の良さとボリュームの豊かさが、いかにも北海道の食べものらしいところだ。ぼくが積丹半島で食べたウニ丼は、とくにボリューム満点。ウニが丼からはみだしそうで、ご飯はまったく見えなかった。
そのほかのウニ料理というと焼きウニや、ラーメンにウニをのせたウニラーメン、また、練りウニや塩ウニなどの加工品があるが、なんたってウニ丼が一番だ。

265、ジンギスカン(北海道)
独特の兜のような形をした鉄鍋で、羊肉と野菜類を焼いて食べるジンギスカンは、これぞ北海道といったボリューム満点の料理だ。食べ方にしても、チマチマと焼くのではなく、ドサッと羊肉や野菜類を入れ、豪快に焼く。モンゴルの英雄チンギスハーンを彷彿とさせるいかにも大陸的な料理なのである。
ところで、この兜形の鉄鍋で羊肉を焼いて食べる料理がどうしてジンギスカンと呼ばれるようになったのかは、諸説があって定かではない。だが、日本人が名づけたことだけは間違いない。

266、ジャガイモのバター焼き(北海道)
北海道のジャガイモはとびきりうまい。それだから北海道ではジャガイモ料理が発達している。三平汁にしても主役のサケやニシンと脇役のジャガイモがピッタリとマッチしているから名物料理になるのだ。
数あるジャガイモ料理の中でもバター焼きは最高だ。北海道ならではのものといっていい。塩煮したジャガイモにバターをたっぷりつけただけの単純明快な料理なのだが、このホクホクしたジャガイモのバター焼きをフーフーいいいながら食べるうまさといったらない。

267、揚げイモとイモ餅(北海道)
北海道でイモといえばジャガイモのこと。揚げイモは男爵イモの皮をむき、3つに切って塩煮し、それに小麦粉をまぶして油で揚げたもの。国道230号の中山峠の「峠の揚げイモ」は有名だ。イモ餅はもともとは十勝の食べもので、塩煮したイモを一度冷し、すり鉢ですりつぶしたものに少々の澱粉を加え、餅状にする。それを形を整え、串刺しにし、こんがりと焼き揚げたものである。それを甘辛のタレにつけて食べる。オロフレ峠の峠の茶屋では揚げイモとイモ餅の両方を食べられる。

268、アスパラのバター炒め(北海道)
ジャガイモ、トウモロコシと並ぶ北海道の農産物の特産品といえばアスパラガスだ。羊諦山の山麓などで大規模につくられている。アスパラガスにはホワイトアスパラとグリーンアスパラがあるが、ホワイトアスパラはまだ土の中にある幼茎で、収穫されたその日のうちに缶詰にされる。グリーンアスパラは熱湯でさっと塩ゆでしてから料理する。
おひたし、白あえ、サラダなどのアスパラ料理があるが、北海道らしいのはバター炒めだ。バターで炒めただけの単純素朴な料理がうまい!

269、十勝ワイン(北海道)
十勝川を見下ろす池田町の高台に「ワイン城」がある。ここは十勝ワインのワイナリー。町営レストランの「十勝」もあって、ここで飲む十勝ワインは最高のうまさだ。
池田町でブドウ栽培が始まったのは40数年前のことでしかない。ところが冷涼なこの地でとれる酸味の強いブドウからはきわめて良質なワインがつくれることがわかり、十勝ワインは一躍、全国区的に脚光を浴びることになる。「ワイン城」ではちょっと無理して十勝牛のステーキに十勝ワインの赤でいこう!

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Author: 賀曽利隆
Twitter:@kasori3000
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