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韓国食べ歩き:第16回

 (『あるくみるきく』1987年1月号 所収)

特急セマウル号
 私たちはソウルから韓国南部、全羅南道(チョンラナムド)の中心地、光州(クワンジュ)に行くことにした。全羅南道は気候が温暖で海産物に恵まれ、食材も豊富にある。
「(韓国の)食は光州にあり」
 と、いわれるほどなのである。

 私たちはソウル発9時05分発の光州行きの特急「セマウル号」に乗り込んだ。
「セマウル」は「新しい村」の意味で、1971年に勤勉・自助・協同をスローガンにしてセマウル運動が提唱された。この新しい村づくりの運動はまたたくまに全国に広がっていった。そのようなセマウル運動にちなんで、特急列車に「セマウル号」と名づけるあたりに、この国の持つ体質の一端をみる思いがした。

 韓国の鉄道は「ソウル→釜山(プサン)」を結ぶ京釜線と「ソウル→光州→木浦(モッポ)」を結ぶ湖南線が二大幹線になっている。
 とはいっても、京釜線は1日8便の「セマウル号」が出ていたが、湖南線になると光州行きが1日1便、木浦行きが1日1便の計2便でしかない。京釜線と湖南線の格差はきわめて大きい。

 ソウル駅の長距離列車専用のホームは人影がまばらで、閑散としている。
 韓国では鉄道は退潮傾向にあり、高速道路を走る何路線もの高速バスがそれにとって替わっていた。
 高速バスが韓国の交通機関の主役の座についたのは、料金が安く、速く、おまけに便利だからである。ソウルから釜山にしても、光州にしても、5分から10分の間隔でひんぱんに出ている。次から次へと出ていく高速バスはどの便も満員の大盛況。
 しかし、私たちは料金よりも、時間よりも、なによりも車窓からの風景を選んだ。列車の車窓を流れていく風景を眺めたかったのである。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

海を渡った伊万里焼きを追って(7)

 (『海を渡った日本のやきもの』1985年・ぎょうせい 所収)

 マラッカの骨董街、ハング・ジェバット通りは何度も歩いたが、ここでは「イマリ」という言葉はじつによく通じる。
 とある店で私の求めに応じてイマリの赤絵の皿を見せてくれた青年は、流暢な英語で話してくれた。その話は興味深いものだった。

「イマリは中国系のちょっとした焼きもの通なら、みんな知ってるよ。
 ミン(明代の染付磁器)よりは新しくって、チン(清代の色絵磁器)よりは古いのが、イマリだ。
 ここの人たちはミン→イマリ→チンという流れで磁器の歴史をとらえている。
 だから中国もののコレクターでも、何点かのイマリを持っているんだよ。
 我々の店にでまわっているイマリは、中国人やイギリス人の富豪や高級官僚たちのコレクションくずれや、その後やってきた日本人の残したもの。18世紀以降のイマリがほとんどといっていい。17世紀のイマリを探すのは難しいね。
 今の日本の焼きものは、何たってノリタケが有名だ。クアラルンプールの首相官邸やヒルトンホテルの食器は、みんなノリタケだっていうよ。
 なに、ノリタケはイマリの系統ではないって。
 ナゴヤモノだって。
 それは初めて聞いた。我々にとって、日本の磁器はみんなイマリだからなあ…」

 結局、マラッカの骨董屋街では17世紀までさかのぼれるイマリを見ることはできなかった。18世紀から19世紀にかけての赤絵や19世紀の染付けがほとんどだった。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

カソリと走ろう! 第4回:「チベットの聖山カイラスへ」

 (『ゴーグル』2004年9月号 所収)

 人生、「一寸先は闇」。
 何が起きるか、わからない…。
 前回の「モンゴル周遊」を終え、帰国してすぐにぼくは50代に突入したが、体力も気力も充実していた。
 9月には「東北一周」を走り、10月には九州の「峠越え」で50峠を越え、11月には「東京→富山→京都」間で58もの「日本一」を見てまわった。「日本一めぐり」のツーリング。12月に入ると吹雪の田代山林道を走り、奥会津で雪中キャンプをした。
 ということでカソリ、怖いものなし。パワー全開でバイクを走らせ、
「バイクは50になってからがおもしろい!」
 と、大口をたたいていた。

 ところがその年の暮れ、12月29日の未明に突然、心臓発作に見舞われた。
 何の前ぶれもなしに、急に苦しくなった。首を細ひもで締められているかのような息苦しさ。女房の車で我が家に近い東海大学病院の救命救急センターに運ばれた。
 心電図をとられると心臓停止の一歩手前だといわれた。脈拍は途切れ途切れで、1分間に30もない…。
 幸か不幸か、年末でベッドがとれず、入院できなかった。
 半日、待合室で待たされ、具合が大分よくなったとのことで家に帰された。
 何とも暗い気分で迎えた正月。もう最悪だ。人間、心臓をやられるとまったく動けなくなってしまう。家の階段を登るのが辛かった。

 新年早々、東海大学病院の循環器内科で心臓の検査がはじまった。病名は「発作性心房細動」。いろいろな検査を受けたが、心臓には何ら異常はなかった。2月に入ると、もう通院しなくてもいいといわれた。だが、体は元には戻らなかった。体が動かないのだ。
 バイクに乗れるようになったのは4月になってからだった。バイクに乗るようになってからというもの、急速に体が動くようになった。このときぼくは「バイクは最高の健康機器!」だと、確信した。

 しかし、心臓発作の後遺症は大きく、ひどい不整脈が残った。
 1日に2万回近くもの脈が抜けてしまうのだ。9月になると、再び東海大学病院の循環器内科に行った。すると心臓の動きを抑える薬を飲まされた。これを飲むと気分がすごくブルーになってしまう。それを3ヵ月以上も飲んだが、ちっともよくならない。すると先生は「薬を変えましょうね」といって、心臓の動きを活発にさせる薬に変えた。その薬を飲みはじめてからの恐怖感といったらない。まるで心臓がピョコンピョコン飛び跳ねるよう。
「これはヤバイ!」
 と、ぼくは自分の判断で薬を飲むのをやめた。

 それからまもなく、スズキDJEBEL250GPSバージョンで、1年遅れになった50代編の「日本一周」に旅立った。東京を出発してから13日目、四国の四万十川沿いを走っているときのことだった。信じられないことに、不整脈はピタリと治っていた。ぼくはますます「バイクは最高の健康機器!」だと確信した。医者でも治せない病気をバイクが治してくれたのだ。

 1999年の「日本一周」は「西日本編」と「東日本編」の2分割でまわった。
 その間の夏、8月1日に「同祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第4弾目、「聖山カイラス巡礼22日間」に出発した。
 カイラスはチベット第一の聖山だ。
 ネパールのカトマンズを経由し、チベットの中心、ラサに着いたのは8月3日。
 ラサではポタラ宮に隣り合った「航空酒家」に泊まった。チベット人ガイドの女性からは英語で
「今日は絶対にアルコールを飲まないで下さいね」
 と、念を押されたのにもかかわらず、ラサまで来た喜びで夕食後、
「もう、トゥデイ(今日)じゃなくてトゥナイト(今夜)だから、さー飲もう!」
 と、「チベット軍団」の10名のみなさんと「ラサビール」で乾杯。
 さらに次々と「ラサビール」をあけた。

 ラサは標高3650メートル。この高度で何本ものビールを飲んだせいで、翌日はすっかり高山病にやられてしまった。
 息苦しさや頭痛だけでなく、40度近い高熱まで出た。1回10元(約150円)の酸素を5回も吸ったが、息苦しくてほとんど寝られない。

 翌日、中国製125㏄のオフロードバイクにまたがり、我ら「チベット軍団」はポタラ宮前の広場を出発し、チベット第2の町、シガツェに向かった。その間は270キロ。ぼくの体調は最悪でウツラウツラ状態。フラフラになって走った。シガツェは標高3836メートルで富士山よりも高くなる。高山病はよけいにひどくなった。
 シガツェを出ると際限のないダートがつづく。シガツェを出てからわずか27キロ地点で、先頭を走っていたぼくは道のギャップがまったく目に入らず、ノーブレーキでそれに突っ込んだ。
 30メートルほど吹っ飛び、恐怖の顔面着地。しばらくは意識を失った。気がついたとき、最初はバイクでサハラ砂漠を走っているのではないかと思った。
「今、チベットに来ている」
 と、わかるまでには相当、時間がかかった。すぐにかけつけてくれたサポートのチベット人スタッフたちは、ぼくがピクリとも動かなかったので、
「カソリさんが死んだ…」と思ったそうだ。

 このあたりが、今までに何度も修羅場をくぐり抜けてきたカソリの強み。
 起き上がると、自分で自分の体を確かめる。首を強打したので、首はほとんどまわらない状態だったが、骨は折れていないと判断した。顔面血だらけだったが、これも口の中を切ったもので、そうたいしたことではない。顔面着地した瞬間に吹っ飛んだヘルメットのバイザーが絶好のクッションになってくれた。
 顔面を地面にたたきつけたとき、無意識に顔を護るために、右手で地面をついていた。 そのため右手首がみるみるうちに腫れてきたが、これも骨折はしていないとの判断を下した。
 バイクのダメージも大きかった。
 チベット人スタッフたちはグニャと曲がったフロントホークを外し、ジャッキを使って直したりして、短時間でなんとかまた乗れるような状態にしてくれた。ほんとうにチベット人スタッフの献身的な努力には感謝感激だ。

 ハンドルの曲がったバイクにまたがり、いきなり標高4950メートルのユロン峠を越える。この高度、この空気の薄さの中で、はたしてバイクが走ってくれるだろうか…と、大いに不安だったが、3速、もしくは2速でトコトコ峠を登っていくではないか。
 祈願旗のタルチョが舞う峠の頂上に着いたときは、我ら「チベット軍団」、最初の大きな難関を突破した喜びにひたった。
 ユロン峠を下ると、標高3951メートルのラチェの町。ラチェを過ぎ、ネパールへの道との分岐点を過ぎ、最後の町サガを過ぎると、最悪の道になる。何度、川渡りをしたことか。いや、川渡りなどというものではなく、大石がゴロゴロしている川の中をずっと走っていくような道だった。
 ぼくの右手は野球のグローブのように腫れ上がっているので、アクセルを握るのが苦痛だった。
 精も根も尽き果てたところで野宿。夜が恐怖だ。事故で全身を強打しているので、体の芯からズッキン、ズッキンと突き上げてくる猛烈な痛みで一睡もできない。
 おまけに首をやられているので寝返りも打てなかった。
 そんな体調で標高4000メートルから5000メートルのチベット高原に入っていった。

 ラサからはアジアの大河、ガンジス川の一方の流れ、ブラマプトラ川上流のヤルツァンポ川に沿って西へ、西へと走った。そのガンジス川水系の最後が標高5216メートルのマユム峠になる。ユロン峠から数えて16番目の峠だ。
 ヤルツァンポ川の流れに別れを告げ、マユム峠を目指して山の斜面の草原を駆け登っていく。曲がりくねった峠道を想像していたが、かなり直線的な峠道。
 標高5000メートルをはるかに超えた高地でも、チベット人は家畜のヤクとともに生きている。それは人間の強さをぼくに思い知らせるような感動的な光景だった。
 人間は5000メートルの高地でも、平気で生活できるのだ。マユム峠の頂上に着いたときは、「やったゼー!」と、大声で叫んでやった。

 マユム峠を下ると、何本かの渓流を渡ったが、なんと川面が真っ黒になるほどの魚影の濃さ。渓流魚がウジャウジャいるのだ。夕食のおかずにしようと、トラックが勢いをつけて往復しただけで、200匹近い魚が川面に浮いた。もう取り放題。信じられないような光景だ。2、3分で楽に2、30匹は取れた。これでは1日かけてイワナ数匹という日本の渓流釣り師は、チベット人に笑われてしまう。
 マユム峠から3つ目の峠、標高4660メートルのホルッシュ峠に立ったときも感動だった。まさに「絶景峠」。右手には聖山カイラスを遠望し、正面には神秘の湖、マナサロワール湖を見る。古来より、この湖こそ、アジアのすべての大河の源だと思われてきた。「自分は今、アジア大陸最奥の地にいる!」
 ホルッシュ峠ではそんな感動を味わった。

 ホルッシュ峠を下り、カイラス巡礼の村、タルチェンに到着。
 カイラスは仏教徒、ヒンズー教徒、ジャイナ教徒らにとっての聖山なので、チベット内はもとより、中国各地やネパール、インドなどから多くの巡礼者がこの地にやってくる。ここから南側に目を向けると、標高7694メートルのナムナニ峰や、標高7816メートルのナンダデビ峰といった7000メートル峰がまるでなだらかな丘のように見えた。 我ら「チベット軍団」はタルチェンからさらに20キロほど走り、カイラス山を間近に眺める地点でバイクを停めた。ラサを出発してから8日目、1281キロを走ってのカイラス到着だ。チベッタンブルーの抜けるような青空を背にした標高6656メートルのカイラス山の雪がまぶしいくらいに輝いていた。

 その夜、タルチェンに戻ると、参加者の堀内一さん、生田目明美さんに「さー、カソリさん、カイラス到着を祝ってガンガン、飲みましょう!」とビールをすすめられたが、ぼくは一滴も飲めなかった。2人はまったく高山病にはならなかったのだ。タルチェンからラサへの帰路も、相変わらずの高山病と事故の痛みとで、なんとも辛いものだった…。
 命からがらラサに戻ってきたときは、きっといつの日か、リベンジの「チベット横断」をしようと、固く心に誓うカソリだった。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

海を渡った伊万里焼きを追って(6)

 (『海を渡った日本のやきもの』1985年・ぎょうせい 所収)

 マラッカではハング・ジェバット通りの骨董屋街には何度となく足を向けた。
 思えば、博物館から骨董屋をまわるのは、この一連の取材行ではおきまりのコースになっている。
「能がない」
 といわれそうだが、イマリを探るためには定石も仕方ない。それにしても暑い。日中のマラッカのアスファルト道を歩くのは楽ではなかった。

 ところでハング・ジェバット通りだが、古い町並みを貫く通りの両側には10軒以上の骨董屋が軒を連ねている。
 仏像や金属器、古道具中心の店もあるが、大半の店は焼きものが主体の店頭だ。それも、東南アジアのほとんどの町がそうであるように、中心は中国の磁器。明や清の染付けや色絵の皿や壷に混じって、なかには宋や元のものもある。

 イマリの染付けもけっこう見られる。花鳥紋様の染付け皿、色絵の皿、赤絵の壷や瓶などだ。それらは染付けの藍色や色絵の赤色などから、私は18世紀から19世紀のイマリとみた。
 オランダ東インド会社が、「イマリ」を日蘭貿易の花形商品にして大活躍していた時代(17世紀~18世紀)とは少し、ずれているようだ。
 それに、博物館で見たのと同様の、銅版転写によるコバルト釉の染付け皿もある。これなどはさらに新しいもので、明治期のものである。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その32・最終回)

(『あるくみるきく』1986年10月号 所収)

西原通い!
 話はやや広がりすぎた。
 私は「山地食文化」というテーマで日本中の山村を歩いているが、そこではかつての主食の雑穀類が米に押しやられ、急速に姿を消していった。その中にあって、どうして西原にこれだけの雑穀栽培が残ったのか、いつも考えさせられた。なぜだろう…。

 日本人のほとんどが米を作ろうと、大変な苦労の末に水田を開いてきた。その結果、亜熱帯の作物のイネを今では北海道・名寄盆地の亜寒帯に近い世界でまで栽培している。
 それにもかかわらず、西原ではなぜ水田を開こうとはしなかったのか。
 たしかに西原には平坦な耕地は少ない。その耕地自体も細分化されている。高地なので水が冷たいといった水田稲作には不利な条件下にはある。

 しかし私にはそれだけではないように思える。
 西原の人たちには、米を自給しようという意識が薄かったのではないか。もしそうだとすると、どうしてなのだろうか。そのことと雑穀栽培がしぶとく残り、雑穀食が今も生活の中にあることと、どのようなかかわりがあるのだろうか…。
 私にはわからないことが山ほどある。もっと、もっと、知りたい!

「うーさーぎー おーいし
 かーのーやーまー」
 夕暮れの西原に、のどかなメロディーが流れ、近づいてくる。自由乗降区間になっている西原内を走る上野原行きのバスが、村人たちに知らせるために流しているのだ。
 バスがやってきた。
 私は手を上げてバスを止めた。
 バスの人となって西原を離れる時、いつも後ろ髪を引かれるような思いにとらわれる。そのたびにいつも思うのだ。
「また来るぞ。西原に!」

(了)

テーマ : 地域情報
ジャンル : 地域情報

カソリ、2008J1秋の陣を語る。

カソリ:

「大分トリニータ」、強くなりましたねえ。
もう完全に上位をキープしてますよね。
こうしてJ2から上がってきたチームが上位に定着すると、
いよいよJリーグも本物になってきたか、と思いますよ。
それにしても昨日のトリニータの1点は森重…。
オリンピックで決めていればねえ…。

~~~~
管理人:

やめてくださいよ、鹿と並んじゃってこちらはヒヤヒヤなんですから・・・。
来週はいないので見られないし・・・。ガク。

PS休暇中の仕込みは終わってますので、ご安心ください(笑)

~~~~
カソリ:

大分、新潟、札幌…って、
強くなってもらわなくっては困りますよ。

テーマ : サッカー
ジャンル : スポーツ

甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その31)

 (『あるくみるきく』1986年10月号 所収)

世界が見えてくる!
 雑穀類、麦類、芋類は西原の食を支えてきた3本の柱だと繰り返しいってきたが、それら3本の柱が日本に入ってきた伝播ルートが興味深い。
 雑穀類はインドやアフリカのサバンナ地帯が原産地。それが東アジアを経由して日本に伝わった。
 麦類はメソポタミアが原産地。それがシルクロードあたりのラインを通り、朝鮮半島を経由して伝わった。
 サトイモはタロイモの温帯種になるが、これは赤道直下の島々から島伝いに北上して日本に伝わった。芋類の中でもジャガイモ、サツマイモは新大陸の原産で日本に伝わったのは大航海時代以降のことになる。

 粉食圏にしても粒食圏にしても、そこは1年に1度収穫する雑穀類、麦類を蓄えておくための穀物倉を持つ世界だが、熱帯雨林地帯の芋食圏になると植え付け、収穫の決まった時期はないので、いつ畑に行っても収穫できるという、畑自体が食物倉のような世界。そのような芋食圏までが日本に延びてきている。それが西原のサトイモになる。

 日本は世界でもまれな国だ。粒食圏、粉食圏、芋食圏という世界の三大食文化のゾーンがまさに重なりあった複合地帯。
 それは海外の文化を貪欲に吸収しつづけ、それを独自なものにつくりかえてきた日本の姿をきわめて象徴しているかのように見える。

 西原という甲武国境の一山村を見ることによって、世界の中での日本の位置が見えてくる…。さらには、日本を含めた世界そのものが見えてくる…。といってはいい過ぎだろうか。いや、いや、けっしてそうではないと私は思っている。

テーマ : 地域情報
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カソリと走ろう! 第3回:「あわや遭難…の、モンゴル周遊」

 (『ゴーグル』2004年8月号 所収)

「生老病死」は誰もが避けて通れない人間の四大苦だ。
 ぼくは30代の後半になったときにいやというほど「老」を感じた。気力も体力もすっかり衰えてしまった自分を感じ、愕然とした。
「何とかしなくては…」
 40歳になるのと同時に、40リッターのビッグタンクを搭載したスズキSX200Rでサハラ砂漠を往復縦断した。自分の全精力を投入し、命を張ってサハラ砂漠を駆けまわったことによって、ぼくは新たな力を得た。
「これで大丈夫、これで40代を乗り切っていけるゾ!」
 という生きる自信を得たのだ。

 帰国するとすぐさま50㏄バイクでの「日本一周」&「世界一周」を計画し、1989年の8月17日を出発の日と決めた。
 出発直前のことだった。
 市から送られてきた1通の通知を見てまたもや愕然とした。
 その1ヵ月ほど前だろうか、「肺ガン検診」を受けたのだ。すっかり忘れていたが、その結果、精密検査を受けるようにとのこと。すぐさま近くの「坂間医院」に行くと、大きく伸ばしたレントゲン写真を見るなり先生は、「東海大学病院に行くように」と紹介状を書いてくれた。

 東海大学病院ではCTスキャンで肺の断層写真をとられ、それを見て呼吸器内科の先生は、
「かなり大きな腫瘍ができていますねえ。できるだけ早く手術したほうがいい」
 というではないか…。ぼくはそれを聞いて目の前が真っ暗になった。
「病」に徹底的に打ちのめされたような気分だった。
 かろうじて態勢を整えると、
「先生、実はこれからバイクで日本一周に出るのですよ。手術はそれを終えてからということにしてもらえませんか」
 と哀願した。
「いつ発症したのかわからないから、まあ、いいでしょう」
 先生はそういってくれたのだ。

 スズキ・ハスラーTS50での「日本一周」の毎日は暗いものだった。
「自分は肺ガンにやられた…。もう、そう長くは生きられない」
 と、勝手に思い込んでしまったからだ。
「日本一周」を終えるとすぐに、東海大学病院に行った。すると、うれしいことに肺の腫瘍はそのままの大きさだった。
 それをいいことに、
「先生、じつは来年はバイクで世界一周に出る予定なんです。手術はそれを終えてからでどうでしょうか」
 と恐る恐る聞いた。
 すると先生は、いともあっさり「いいでしょう」といってくれた。

 こうして2000年の7月から11月までの5ヵ月でアメリカのロサンゼルスを出発点にインドのカルカッタをゴールにして、同じTS50で「世界一周」の2万5000キロを走った。
「世界一周」を終えてすぐに東海大学病院に行くと、肺の腫瘍の大きさは、やはりほとんど変わっていなかった。それを見て先生は、手術はしばらくおいて定期的に経過を見ましょうといってくれた。
 それをいいことに、ぼくは定期的な検診をすっぽかし、逃げまくったのだ。
 8年近くも「病」から逃げつづけ、49歳になったとき、東海大学病院の人間ドッグに入った。当然のことだが、肺の腫瘍でひっかかった。
 そのときはすでにかなりの大きさになっていて、ついに逃げ切れられずに、肺の腫瘍の摘出手術を受けた。

 すごくラッキーだったのは肺本体の腫瘍ではなく、肺を覆う胸壁の腫瘍で、それが肺の中にめり込んでいた。ゆで玉子ぐらいの大きさの腫瘍だった。
 先生には「よくこれで苦しくなかったねえ」といわれた。
 さらに細胞検査の結果、悪性のものではなく良性の腫瘍だといわれた。これで、「肺ガン」の恐怖も去った。
 退院すると1日も早くバイクに乗りたい一心でリハビリに励んだ。思いっきり息を吸って管の中の玉を浮かす器具などは、朝から晩まで1日中、吸っていた。そのおかげで回復が抜群に早く、凹んだ肺もあっというまに元どおりになった。さすが「強運カソリ!」。

 バイクに乗れるような体になったところで「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズ第3弾の「モンゴル周遊」に出発。1997年8月2日のことだった。
 五体満足な体に戻り、またバイクに乗れるようになったことが、もう目茶苦茶にうれしかった。
 我ら「モンゴル軍団」のメンバー11名が乗るバイクはヤマハのセロー。
 首都のウランバートルを出発するとバイヤン峠を越えた。モンゴル語で峠は「ダワ」という。日本語にすごく似ている。峠には石が積み上げられている。それを「オボウ」という。旅の安全を祈って「オボウ」のまわりを3回、時計回りに回る。

 ウランバートルから南へ、大草原の中につづくダートを走る。草原の緑が目にしみる。その中には点々と牧畜民のゲル(テント)を見る。ヒツジやヤギ、ラクダ、馬などの家畜の群れも見る。やがて草原地帯からゴビ砂漠へと入っていった。
 ウランバートルを出発してから4日目には、南ゴビの中心地、ダランザドガドに到着。夜はそこから30キロほど走ったツーリスト・キャンプに泊まる。草原のゲルがひと晩の宿になる。南に連なるゆるやかな山並みの向こうは中国の内モンゴル自治区だ。
「あの山の向こうに行ってみたい!」                      
 という強烈な誘惑にかられた。

 ぼくは桜田雅幸さん、北川直樹さん、鰐淵渉さんと一緒のゲルに泊まった。
 我々は同じゲルなので、それ以降「ゲル友」になり、日本国内のキャンプでもその関係がつづいている。なにかというと「ゲル友」なのだ。
 その夜は「ゲル中宴会」。ほかのゲルのメンバーも呼んでモンゴルの馬乳酒とモンゴリアン・ウオッカの「チンギスハーン」を夜中まで飲みつづけた。翌朝は「ゲル前談義」。ゲルの前にイスを置いて座り、二日酔いの朦朧とする頭で、とりとめもない会話を楽しんだ。ぼくたちはすっかりゲルが気に入った。

 この南ゴビのツーリスト・キャンプから南西に向かって行くと、急速に緑は消え、遊牧民の姿も消え、荒涼とした砂漠の風景に変わっていく。
 我々はゴビ砂漠の核心部に入ったのだ。
 水の一滴も流れていない涸川を逆上り、岩山地帯の峠を越えると、前方にはうねうねと連なる大砂丘が見えてくる。東西に100キロ以上もつづくホンゴル砂丘だ。峠を下るとぐっと砂丘に近づいた。
 そのホンゴル砂丘の真下で昼食。砂の上にシートを広げ、そこでインドのサモサ風の、肉入り揚げパンといったモンゴル料理のホーショールを食べた。

 昼食後、高さが300メートル近くある砂丘に登った。ブーツを脱ぎ、裸足になったのだが、砂は焼け、まるで火の中に足を突っ込んでいるようなもの。
「アッチチー」
 早々に砂丘を登るのを断念した。そのかわりに「ゴビ砂漠温泉」だとばかりに裸になって「砂湯」をした。まあまあの気持ちよさ。

 ホンゴル砂丘の東端あたりが大きな難所だった。それまでたどってきた轍がプッツンと途切れてしまった…。
 我々のサポートカーのパジェロは強引に台地の斜面を下り、道なき道を走る。我々バイク軍団もそのあとをついて走る。フカフカの砂との戦いの連続。まるで「砂地獄」の中を行くようなものだ。砂と大格闘し、グルグルと走りまわり、気がつくと元の場所に戻っているではないか。
「ヤバイ!」
 ぼくは心底、不安を感じた。
 これが砂漠で遭難する一番多いパターン。こうしてワンダリングしているうちにガソリンがなくなり、遭難してしまうのだ。

 ぼくと同じように遭難の不安を感じたのは「道祖神」の菊地優さん。ぼくと菊地さんは参加者のみなさんに不安を感じさせないように平静を装った。
 我ら「モンゴル軍団」を先導するサポートカーにはモンゴルの旅行社ジュルチンのみなさんが乗っているが、ゴビ砂漠の最奥部といってもいいこのあたりには、誰一人、今までに来たことがない。彼らにといっても未知の世界だった。
 さらにこのあともワンダリングを繰り返し、遭難の不安は頂点に達したが、パジェロは一か八かの勝負に出て、今までとは別方向の台地の斜面を一気に駆け登った。すると、けっこうはきりとした轍に出た。このときは「助かった!」と、思わず声が出た。

「一難去ってまた一難」とは、まさにこのことだ。
 今度は湿地帯に入った。最初のうちは湿地の表面が乾き、幾何学模様の亀裂が入ったようなところで、バイクも車もまあまあ走れた。ところが轍が途切れたところでは、サポートカーのパジェロがズボッと泥土の中にもぐってしまった。全員で泥まみれになってネチネチの泥を堀り、車輪の下に枯れ木を何本も突っ込み、かろうじて脱出できた。
 ところが我々の後方からは真っ黒な雲が追ってくる。もし、ザーッと雨が降ってきたらもうお終いだ。にっちもさっちもいかなくなってしまう。またしても遭難の危機に見舞われた。
 我ら「モンゴル軍団」には2名の女性がいた。そのうちの1人、黒木道世さんは超能力を持っていて、指1本で雨雲を吹き飛ばせる人。ここはもう黒木さんに頼るしか方法はない。
「あの雨雲を吹き飛ばして下さい」
 と、頭を下げて頼んだ。
 この遭難の危機も黒木さんの超能力のおかげで突破できた。黒雲の流れはコースを大きく変えたのだ。

 その湿地というのは、我々が「東京23区大・湿地帯」と呼んだくらいの広大なもの。少しでも固そうな地面を探して道なき道を走り、日暮れが迫ったころ、ついに「東京23区大・湿地帯」を突破した。
「ここまで来ればもう大丈夫!」
 という台地上で止まり、そこでキャンプすることにした。
 全員で握手、握手の連続。我々は「助かった!」を口々に連発した。

 我ら「モンゴル軍団」はこうして2度の遭難の危機を突破し、モンゴル西部のバヤンホンゴルの町に着いた。そこからハンガイ山脈の峠を越え、ユーラシア大陸の広大な地域を支配した元の都のカラコルムを通り、首都のウランバートルに戻った。
 帰国するとすぐに、ぼくは50歳の誕生日を迎えた。「病」のせいで暗い40代だったが、もうそれともお別れ。「病」に勝ったぼくは、これからの50代も、ずっとバイクで走りつづけられると、そう確信するのだった。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その30)

 (『あるくみるきく』1986年10月号 所収)

重なりあう食文化圏
 日本は「粒主粉従」の国である。
 つまり、飯や粥などの粒食が主で、団子や饅頭、うどん、そばなどの粉食が従になっている。
 ところで粒食圏だが、世界的な視野でみると、ごく限られたエリアでしかない。
「飯圏」といっていい粒食圏にはインド東部からインドシナ、中国の華南、華中、朝鮮半島の南半分、それと日本が含まれる。

 それに対して粉食圏はユーラシア大陸からアフリカ大陸にかけての広大なエリアを占めている。
 インド以西のユーラシア大陸をみると、インドには小麦粉をこね、未発酵の状態で薄く延ばして焼いたチャパティがある。西アジアには、わずかに発酵させた状態で焼いたナンがある。アラブ圏にはかなり発酵させた状態で焼いた中が空洞のアラブパンがある。そしてヨーロッパには十分に発酵させた状態で焼いたパンがある。このようにインド以西というのはチャパティ→ナン→アラブパン→パンとつづく「パン圏」になっている。

 アフリカ大陸のうち、北アフリカは「パン圏」だが、サハラ砂漠以南の粉食圏は雑穀の粉を煮固め、それをちぎって丸め、汁につけて食べる「粉粥餅圏」になっている。
 そしてインド以東のアジアに目を向けると、粒食圏の北側はやはり粉食圏。そこは煮る蒸すの「麺・饅頭圏」になっている。

 日本は粒主粉従の国といったが、西原での例をみるまでもなく、粒食と粉食はあい拮抗している。さらに西原では戦前までは、クズ根やカタクリ根から澱粉をとり、トチの実のアク抜きをして粉にし食用にしていた。このような日本特有の粉食の例もある。
 日本という国は粒食圏の食文化圏にあるが、それと同時に粉食圏の食文化圏がかぶさっている。さらには熱帯雨林地帯を中心とする芋食圏も重なりあっている。重層して重なりあう食文化圏の中に日本という国はある。

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カソリと走ろう! 第2回:「夢のタクラマカン砂漠」

 (『ゴーグル』2004年7月号)

 人間は夢見る動物だ。
 夢を見て、夢を追いつづけてこその人間。夢を見なくなったときは人間廃業といっていい。「夢」を「憧れ」に置き換えてもいい。これは年には関係のないことで、棺桶に足を突っ込みかけても夢を見つづけている人もいるし、まったく夢を見ない、夢が見えない若者もいる。

「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第2弾目、中国西部のタクラマカン砂漠走破は、まさにぼくの子供のころからの夢を追ったものだった。
 小学校4年生のときのこと。国語の教科書にスウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンの「タクラマカン砂漠横断記」が載っていた。命がけで大砂漠を越え、ホータン川の河畔にたどり着くまでの物語は、胸がジーンと熱くなるほどに感動的だった。

 それ以降ぼくは夢中になって、学校の図書館にあった小供向けの「中央アジア探検記」を読みあさった。
「大人になったら、絶対に中央アジアの探検家になってやるんだ!」
 ぼくは子供心に「中央アジアの探検家」に憧れた。
「中央アジア」への夢は中学生になっても、高校に入っても持ちつづけ、というよりもますます膨らみ、シルクロードはいつの日か、「必ずや踏破してやる!」と思うほどの存在になっていた。

 だが、高校も2年、3年となり、受験が重荷となるころには、現実に目覚めてしまったとでもいうのだろうか、
「中央アジアの探検家だなんて…、なれる訳がないか…」
 と、「中央アジアへの夢」は遠のいた。

 タクラマカン砂漠に憧れてから30数年後のこと。
「道祖神」の菊地優さんが、「カソリさんの夢、実現させましょうよ」といってくれた。 ホータン川沿いにバイクを走らせ、タクラマカン砂漠を縦断するというもの。成功すれば、世界でも初となる快挙。このバイクツアーには12名のみなさんが参加した。

 我ら「新疆軍団」は1994年9月、北京経由で中国・新疆ウイグル自治区の中心、ウルムチに飛び、さらに天山山脈の南側のアクスに飛んだ。プロペラ機の小さな窓から見下ろした天山山脈の雪山は目の底に焼きついた。小さいころからシルクロードに憧れていたので「天山北路」や「天山南路」を通して、天山山脈の名前はぼくの頭の中で大きな部分を占めていた。その天山山脈を実際に、間近に見たという感動には、ものすごく大きなものがあった。

 バイクツアーの出発点となったアクスはシルクロード「天山南路」の要衝の地。ここで12名の中国側のスタッフが我々を待ち構えていた。ランドクルーザー3台、ニッサンのピックアップ1台、我々の乗るバイクを積んだトラックが1台。
 バイクは新疆モーターサイクル協会が所有するホンダのモトクロッサーCR80とCR125、CR250だった。
 このような大部隊でアクスからホータン川沿いに南下し、崑崙山脈北麓のホータンを目指すというもので、その距離は700キロになる。
 一大エクスペディションの「タクラマカン砂漠縦断」。

 長い隊列を組み、ダートの土けむりを巻き上げながら走り、タリム川の大湿地帯に入っていく。赤っぽいタマリスクやトゲの多いラクダ草が見える。「タリム川」や「タマリスク」といえば、中央アジア探検記では何度も登場するのもので、その実物を目にして感動するカソリだった。
 タリム川の大湿地帯突破が大きな難関だ。
 この地点で北の天山山脈から流れてくるアクス川と西のパミール高原から流れてくるカシュガル川、南西のヒンズークッシュ山脈から流れてくるヤルカンド川、そして南の崑崙山脈から流れてくるホータン川が合流し、タリム川になる。

 だが、何日か前に崑崙山脈に降ったという大雨で、なんとタリム川の大湿地帯は水びたしになっていた。なんということ。日本でいえば、中国山地に降った大雨で関東平野が水びたしになるようなものだ。
「何としても、このタリム川の大湿地帯を突破してやる!」
 とカソリ、必死の形相でCRを走らせ、大湿地帯を突破できそうなルートを探し求めたが、そのどれもが大湿地帯の水の中に消えていく。
 万事休す。
「タクラマカン砂漠縦断」を断念しなくてはならなかった。

 中国側スタッフはタクラマカン砂漠縦断は不可能なので、アクス周辺のタクラマカン砂漠を走りましょうと提案したが、カソリとしてはとても飲める案ではない。
「何がなんでもホータンまで行きたい!」
 という参加者全員の同意をとりつけると、「道祖神」の菊地さんに中国側との交渉をしてもらった。こういう場面での菊地さんは、滅法強い。
 強引に中国側のスタッフを口説き落とし、我々はタクラマカン砂漠の西半分を一周するルートでホータンに向かうことになった。

 とはいってもCRはなにしろ競技用のモトクロッサーなので、保安部品は一切、ない。
 そのようなバイクでホータンまでの1000キロの公道を走ろうというのだ。そのリスクを背負っての旅立ち。公安の検問所にさしかかるたびに、我々は冷や冷やしなくてはならなかった。
 天山山脈南麓の「天山南路」を走る。右手には天山山脈の山並みが長く、どこまでもつづいている。「天山南路」をカシュガルの手前で左に折れ、世界第2の高峰K2から流れてくるヤルカンド川沿いに走り、ヤルカンドの町で崑崙山脈北麓の「西域南道」に入っていく。

 ヤルカンド周辺のオアシス群を抜け出ると、「西域南道」の両側にはタクラマカン砂漠の砂丘地帯が茫々と広がっている。右手に連なっているはずの崑崙山脈は砂のベールに隠れ、まったく見えなかった。
 アクスを出発してから5日目、我ら「新疆軍団」は1000キロの公道をCRで走りきり、ホータン川の河畔のオアシス、ホータンに到着した。
 我々の宿となる「和田(ホータン)賓館」の玄関前でビールのビンごと持ち、ホータン到着を祝って乾杯した。

 ぼくはホータンで日本に帰る「新疆軍団」のみなさんを見送ったあと、CR250に乗り、さらにタクラマカン砂漠の旅をつづけた。ニッサンのピックアップに乗る新疆モーターサイクル協会の孫さんと運転手の人民解放軍の郭さん、トヨタのランドクルーザーに乗る達坂城旅行社の高さんと運転手の張さんの4人の中国人スタッフと一緒に、タクラマカン砂漠の東半分を一周するルートでウルムチへ。
 タクラマカン砂漠の一周を目指したのだ。

 崑崙山脈北麓のオアシス、ニヤでひと晩泊まり、チェルチェンに向かっているときのことだった。この区間でとんでもないアクシデントが勃発。なんとニッサンのピックアップが走行中に大音響とともに爆発し、運転席の真下から突然、火を噴いた。
 孫さんと郭さんはからくも火だるまになった車から飛び出したが、郭さんは腕にかなりの火傷を負った。

 火は荷台に積んだガソリンに引火し、車はあっというまに猛烈な炎に包まれた。全員で砂をかけて火を消したが、見るも無残な残骸だけがあとに残った。予備のバイクとして荷台にCR125を積んであったが、残ったのはフレームとギアだけ。エンジンはあとかたなく溶け、合金の固まりになっていた。両輪のリムも溶け、まるで紙くずが燃えたようにまったく跡形もなかった。
「あー、これでタクラマカン砂漠一周の夢も絶たれた…」
 と、カソリ、ガックリときた。もうこの難局は、突破のしようがないと観念した…。

 爆発現場をあとにし、ランドクルーザーと一緒にチェルチェンへ。
 日が暮れてからがなんとも辛い。まったく保安部品のないCRなので、当然のことだがヘッドライトもない。
 ランドクルーザーのライトを頼りに、その前を走ったが、真っ暗闇の中をライトなしで走る恐怖感といったらなかった。チェルチェンに到着したのは真夜中。グッタリだった。 翌朝、「カソリさん、予定通りにウルムチに行きますよ」と、中国人のスタッフのみなさんにいわれたときは心底、驚いた。いったいどうやっていくというのだ。
 とにかくみなさんにおまかせすることにしたが、ぼくは中国人スタッフたちの図太さには心を打たれた。

 朝食後、高さんはチェルチェンの町中をかけずりまわり、2サイクルオイルを手に入れた。信じられない。バイクなど1台も見ないようなタクラマカン砂漠のオアシスで、だ。 さらに新たなジェリカンをみつけ、予備のガソリンを確保した。こうしてCR250で走れるようにしてくれると、高さんは事故の後始末でチェルチェンに残るといった。

 すべての準備を整え、高さんに別れを告げ、チェルチェンを出発したのは午後になってからのことだった。目指すのはチャリクリク。チェルチェン→チャリクリク間は450キロ。
「西域南道」のダートが崑崙山脈に向かって一直線に延びている区間は圧巻だった。
 ちょうど夕暮れ時で、崑崙山脈の雪山は夕日を浴びて紅に染まっていた。崑崙山脈にぶち当たると、今度は山裾を走る。右手には崑崙山脈の山々、左手にはタクラマカン砂漠の大砂丘群。CRに乗りながらぼくはもう夢を見ているかのような気分だった。

 日が落ちると前夜同様、ライトなしで真夜中まで走ったが、それにも大分、慣れた。
 崑崙山脈北麓のチャリクリクからは天山山脈南麓のコルラへ。
 その間では砂漠に消えるタリム川の最先端部を見た。全長2000キロを超える砂漠の大河は最上流部が一番水量が多く、最下流部になると水がなくなり、砂漠に消える。こういう川も世界にはあるのだ。

 コルラからはトルファン経由でウルムチに戻った。ホータンから2000キロを走ってのウルムチ到着。「タクラマカン砂漠縦断」が「タクラマカン砂漠一周」になった。
「タクラマカン砂漠一周」を走ったことによって、ぼくはますますシルクロードに心ひかれた。
 いつの日か、古都、西安を出発点にして「天山南路」を走り、パミール高原を越え、
「イスタンブールまでバイクで走りたい!」
 と、新たな夢をみるのだった。

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カソリと走ろう! 第1回:「目指せ! エアーズロック」

 (『ゴーグル』2004年6月号 所収)

「人との出会い」、ぼくはこれがツーリングの最大の魅力だと思っている。いや、ツーリングのみならず、人生で一番おもしろいのが「人との出会い」といっても過言ではない。
 ぼくは今(※2004年)、56歳。20歳のときに日本を飛び出し、スズキTC250でアフリカ大陸を一周して以来、30数年間、「世界を駆けるゾ!」を合言葉にバイクで世界を駆けめぐってきた。その大半は一人旅で、「バイクは1人で走るもんだ」と20代、30代のころは固く信じきっていた。

 ところが40代の半ばになって、自分のそんな信念を根底から崩される1本の電話をもらった。その電話は東京の旅行社「道祖神」の菊地優さんからのもので、「カソリさん、もういいでしょう」といった意味のことを菊地さんはいった。「道祖神」主催のバイクツアーを「みんなと一緒に走りましょうよ」というものだった。

 菊地さんに初めて会ったのは、今からもう30年も前のことになる。「アフリカ大陸一周」を書いた「アフリカよ!」という本を出したとき、それを読んだ菊地さんから連絡をもらい、東京・秋葉原の「メトロ」という喫茶店で会った。友人のKさんも一緒だった。菊地さんは17歳。まだ高校生だった。
「ぼくたちもアフリカに行きたいんです」
 という若き2人と秋葉原駅構内地階の薄暗い喫茶店で夢中になってアフリカの話をしたのを今でも鮮明に覚えている。そのときカソリ、27歳。血気盛んで、
「アフリカはいいよ!」
 と、2人をおおおいにそそのかした。

 2人はほんとうにすごいのだが、そのあと19歳になったときにアフリカへの夢を実現させ、世界に飛び出していった。
 菊地さんは長い旅から帰ると、旅行社で仕事をするようになった。それが「道祖神」。社長の熊沢さんはぼくと同年代で、1960年代に「サハラ砂漠縦断」をなしとげたようなアフリカ大好き人間。ぼくはその後何度か「道祖神」で便宜をはかってもらい、航空券などを手配してもらったことがある。

 そんないきさつがあったので、さっそく菊地さんに会った。すると、「カソリさん、ダートコースでエアーズロックまで走りましょう」といわれた。「エアーズロック」の一言がぼくの胸を強烈にとらえた。バイクツアーがどういうものなのか、参加者のみなさんと一緒に走るのがどういうものなのか、そんなことは一切考えずに、
「行きましょう!」
 と、菊地さんに即答した。

 オーストラリアの中央部にそそり立つ世界最大の一枚岩の「エアーズロック」は今でこそ一大観光地になり、道路が整備されて行きやすくなっているが、ぼくが1973年にヒッチハイクとバイクでオーストラリアを2周したときは、そう簡単には行けるようなところではなかった。オーストラリアの中央部をアデレードからダーウィンへと南北に縦断する幹線のスチュワートハイウエイも、南半分の大半がダートだったような時代だ。

 そのときぼくはエアーズロックに行きたい一心で、ヒッチハイクのときはスチュワートハイウエイとの分岐点で24時間、寝ずに車を待った。その間にエアーズロック方面に行った車はわずか数台。で、結局、乗せてもらえないままにエアーズロックを諦めた。次にバイクでまわったときは北のテナントクリークからアリススプリングス経由でエアーズロックに向かおうとした。が、往復で2000キロ、その間のガソリン代を考えるとやはり、「無理だ…」
 で、断念した。なにしろそのときは宿泊費には一銭も使わないような極貧旅行で、それで「世界一周」を目指していたからだ。

 エアーズロックに行けずに悔しい思いをしてから20年後の1993年7月5日、ついにその夢を実現させるときが来た。「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第1弾となる「目指せ! エアーズロック」出発の日だ。
 参加者は13名。成田空港で出会ったときから大盛り上がりで13名のメンバーと「豪州軍団」を結成。成田からオーストラリア東海岸のブリスベーンに飛び、ブリスベーンを出発点にしてDR350やセローで西へ、大陸中央部のエアーズロックを目指した。

 大分水嶺山脈を越え、最初のダートに突入したときには、最高に気分が舞い上がった。「やったー!」という気分。先頭を走っていたぼくは走りやすいところをあえて外し、路肩近くの砂深いルートに突っ込んだ。
 気の毒だったのは参加者のみなさん。「カソリさんが選んだルートだから、きっと走りやすいに違いない」と砂道に突っ込み、砂にハンドルをとられて吹っ飛んだ。とくに「ターク」こと目木正さんや「お水」こと小船智弘さんはひどい打撲でサポートカーに乗ることになった。いやいや、ほんとうに申し訳ない。我々はすごくラッキーだったのだが、上原和子さん、増山陽子さん、錦戸陽子さんの3人の美人ライダーが参加していて、そのうち上原さん、錦戸さんの2人が看護師。そのおかげでタークとお水は美人看護師の手厚い看護を受けることができた。

 ダートに突入して目の色を変えたのは坂間克己さん。ぼくがDRのアクセル全開で走っても、すぐ後ろまで迫ってくる。120キロ以上で走っていたので、ギャップにはまったときなどは、
「ワーッ!」
 と、絶叫モードで吹っ飛びそうになる。それでもバトルをつづける2人。このバトルのせいで(おかげで)、後に坂間さんが結婚するときには仲人をすることになる。カソリ夫婦にとっては初めての仲人経験になった。

 530キロのロングダート、「バーズビルトラック」の入口、バーズビルの町に着いたときは、なんともいやなニュースを聞いた。砂漠同然のこのあたりで、記録的な大雨が降ったという。
 こういうときは瞬時の決断が必要だ。できるだけの情報を集め、「行ける!」という判断を下すと、
「さー、突破してやるゾ!」
 と、雄叫びを上げてマリーの町を目指した。

 いやはやすさまじい洪水の光景。大平原が一面、水びたしになっている。ダートもグチャグチャヌルヌル状態。バイクは泥団子だ。氾濫した川渡りが大変。濁流の中で転倒し、あわやバイクごと流されそうになったこともある。水をかぶったせいなのだろう、エンジンのかからなくなったバイクが続出し、そのたびに押し掛けした。あまりの苦しさに心臓が口から飛び出しそう。それでも行くのだ、エアーズロックを目指して!

 530キロの洪水と泥土のダート、「バーズビルトラック」を走りきってマリーに着いて大喜びした我ら「豪州軍団」だったが、その喜びもつかのま、スチュワートハイウエイまでの610キロのロングダート、「ウーダナダッタトラック」も大雨にやられズタズタの状態だと聞かされた。だが、洪水と泥土にすっかり慣れたメンバー全員は、
「目指せ! エアーズロック」
 を合言葉に「ウーダナダッタトラック」も走りきり、スチュワートハイウエイのマルラに着いた。ここまで来れば、あとはもう舗装路のみ。

 マルラではキャラバンパークでキャンプしたが、その夜は大きな難関を突破した喜びを爆発させ、焚き火を囲んでの大宴会になる。
「豪州軍団」の連帯感はいっそう強いものになる。カンビールをガンガン飲み干し、さらにワイン、ウイスキーと、あるものすべてを飲み尽くした。おかげで翌日は割れるように痛む頭をかかえてバイクに乗ることになる。でも、それがまたよかった…。

 ブリスベーンを出発してから7日目、ついにエアーズロックに到着。西日を浴びたエアーズロックは真っ赤に染まっていた。夢が現実になった瞬間。ここまでの道のりが厳しいかっただけに、エアーズロックに到着した喜びにはひとしおのものがあった。全員で日が暮れるまでエアーズロックを見つづけた。日が沈む直前のエアーズロックは、まるで炎をたぎらせれ燃え盛るかのような赤さだった。

 翌朝はまだ暗いうちにキャンプ場を出発。今度は地平線に昇る朝日を浴びたエアーズロックを眺め、そして急勾配の岩肌に這いつくばるようにしてエアーズロックを登り、全員で標高867メートルの頂上に立った。まさに感動の瞬間。我ら「豪州軍団」、山頂でシャンペンをあけて乾杯! 
 ここからの眺望がものすごい。360度の展望。スパーッと天と地を切り裂いた地平線。大平原がはてしなく広がっている。

 我ら「豪州軍団」、日本に帰ると、その年の秋に「日本のエアーズロック」といわれる紀伊半島の古座川の一枚岩に集合した。それ以降、毎年、場所をかえてのキャンプがつづいている。メンバー同士のつながりは、まさに一生ものといっていい。これぞまさに「人との出会い」の典型だとぼくは思っている。

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シルクロード横断:第44回 タブリーズ

 トルコ国境に近いタブリーズはイラン第3の都市。古来より、シルクロードの要衝の地として栄えてきた。ここはアジアとヨーロッパを結ぶ交易路の宿場町として、きわめて重要な役割を果たしてきたのだ。

 タブリーズの町の起源はサーサーン朝ペルシャ(224~651年)の時代までさかのぼる。この町が一番、栄えたのは13世紀の頃だ。モンゴル軍の占領後、イル汗国の首都として繁栄を謳歌した。この町のシンボル、アルゲ・タブリーズはイル汗国の時代につくられた巨大な城塞だ。タブリーズは城郭都市だった。

 そんなタブリーズの町歩き。
「タブリーズ・インターナショナル・ホテル」からバザールに向かって歩く。すれ違う女性たちは黒いスカーフをかぶり、黒いズボンをはき、黒い上着を着ている。黒一色だ。
 その道沿いではナン屋が目につき、2軒の店でナンづくりを見せてもらった。1軒の店は機械で制御されたガス炉で焼き、もう1軒の店では昔ながらのカマドで焼いていた。

 そして大バザール(市場)に入っていく。
 野菜売場や果物売場が並び、様々な日用雑貨を売る店が並ぶ。金細工、銅細工などの工芸品や宝石類、ペルシャ絨毯を売る一角もある。さすがシルクロード要衝の地だけあってバザールの規模は大きく、品ぞろえも豊富だ。

 1334年、この地を訪れた大旅行家のイブン・バトゥータは高価な香料や金銀、宝石があふれんばかりに並ぶ大バザールの様子に呆然として立ち尽くしたという。
 イブン・バトゥータはモロッコのタンジールで生まれ、1325年のメッカ巡礼以降、約30年間にわたって西はイベリア半島から東は中国元代の大都まで、ユーラシアとアフリカの各地を旅した。
 そんな世界を見てまわったイブン・バトゥータが驚いたくらいだから、タブリーズの繁栄はよっぽどのものだったのだろう。

 バザールを歩きまわったあと、「アゼルバイジャン博物館」を見学した。ここには隣国アゼルバイジャンの民俗資料や考古資料などが展示されている。こじんまりとした博物館だ。トルコ国境のみならず、アゼルバイジャン国境にも近いタブリーズを感じさせる「アゼルバイジャン博物館」。さらにこの町はアルメニアにも近い。まさに西アジアの十字路といっていいようなところなのだ。

 日が暮れたところで、町の食堂で夕食。「大衆食堂」といった感じの店だ。まずは「ククテ」を食べた。タブリーズ名物の肉団子。それをナンと一緒に食べた。ナンには半分に切ったタマネギがついている。それをカリカリとかじりながら食べるのだ。

 ナン&ククテのあとはいつものようなライス&カバブー。
 ライスは長粒米を湯取法で炊いた白飯でぱさついている。だが、このぱさつきも、慣れてしまえばどうということもない。もうまったく気にならない。というよりおいしさを感じるほど。それがだ円形をした金属器に盛られ、羊のひき肉を串焼きにしたカバブーがのせられ、焼きトマトが添えられている。

 飲み物は白く濁ったサワーミルク風のドゥーグで、ヨーグルトを水で薄め、自然発酵させたもの。食後にチャイ(紅茶)を飲んだ。砂糖のかたまりをチャイにつけ、チャイがしみこんでやわらかくなったのを口の中に入れ、かじりながら飲むのだ。この飲み方も、慣れてしまえばなかなかいいものだ。
「食べること」というのは「話すこと」と同じで、慣れることが一番大事だと「現地食主義」のカソリはいつもそう思っている。

 食べ終わると夜の町をプラプラ歩き、「タブリーズ・インターナショナル・ホテル」に戻るのだった。

タブリーズの町を歩く
タブリーズの町を歩く

ナンを焼いている
ナンを焼いている

大バザールを歩く
大バザールを歩く

肉団子の「ククテ」
肉団子の「ククテ」

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甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その29)

 (『あるくみるきく』1986年10月号 所収)

西原の粒食と粉食
 この項では、西原の食を支えてきた3本の柱のうち、雑穀類と麦類の利用の仕方をみてみよう。穀物の利用の仕方というのは粒食と粉食の2つに大きく分けられる。
 くりかえしになるが、「粒食」とは穀粒を粒のまま炊いて飯にしたり、やわらかく煮て粥にしたり、蒸して強飯にしたり、蒸したものを搗いて餅にするような食べ方である。
 それに対して、穀粒をいったん粉にひき、それを練り固めて蒸して餅にしたり、丸めて団子にしたり、中にあんを入れて饅頭にしたり、うどんやそばに打ったり、そばがきにするような食べ方が粉食である。

 さて、西原で栽培されている雑穀類と麦類の利用の仕方は次のようになる。

  アワ(粳種)   粒食  飯、粥
            粉食  団子
  アワ(糯種)   粒食  餅、強飯
  キビ        粒食  餅、強飯
  ヒエ        粒食  飯、粥
            粉食  団子、饅頭
  シコクビエ    粉食  団子、饅頭
  モロコシ     粒食  飯、餅
            粉食  団子、饅頭
  トウモロコシ   粒食  飯
            粉食  団子、饅頭
  ソバ        粉食  そばがき、そばきり、団子
  オオムギ     粒食  飯、粥、こがし
  コムギ      粉食  うどん、団子、饅頭    

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カソリ、北京五輪サッカー決勝を語る

カソリメール届きました。

~~~~
アルゼンチンはやっぱり強かった!
今日のナイジェリアとの決勝を見ていると、
反町ジャパンとのあまりの差に泣けてきますねえ…。

~~~~

管理人コメント:

いやぁ、ほんとに。ナイジェリアの足技がすごかった。
もちろんアルヘンはメッシと、得点のディマリア、そして
敵をかるくいなすリケルメ。試合中は気づきませんでし
たが、あの得点はリケルメからメッシにわたったところか
らのようでした。流石。

日本は遠藤ダメな時点で小笠原でも呼べばよかったの
に・・・。強くてコントロールできる中盤の底がいなかった。
あとは、協会は今後、黒崎のような強烈シューターを2人
は代表レベルで育成しないと。

それより昨日は鹿がカシマで15年負けていなかった名
古屋に負けて、3位に転落したのが大ショックで・・・。

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ジャンル : スポーツ

甲武国境の山村・西原に「食」を訪ねて(その28)

 (『あるくみるきく』1986年10月号 所収)

西原の食の伝統
 この項では米が常食となる以前、昭和30年代以前の西原の食生活を整理してみよう。
 まずは日常食である。
 朝食には麦粥のオバク(お麦)を炊いたり、アワ飯やヒエ飯の雑穀飯を炊いたり、サトイモを塩ゆでにした。
 昼食には、朝炊いたオバクや雑穀飯の残りを食べたり、塩ゆでしたサトイモを焼いて食べた。
 夕食には煮込み(煮込みうどんのこと)をつくった。
 間食にはサトイモやジャガイモ、サツマイモの芋類やそばがき、麦こがしを食べた。

 次にハレの日の食べ物である。
 アワ餅やキビ餅などの雑穀餅を搗いたり、アワやキビで赤飯を炊いたり、雑穀類の団子や饅頭をつくった。小麦粉でうどんを打ったり、酒饅頭をつくった。さらにソバを打ったり、米だけの飯を炊いた。
 副食としては豆類や野菜類のほかに、セリ、ノビル、フキ、ワラビ、タラノメ、ウド、コーレ、ネネンボウなどの山野草、さらにはキノコ類を盛んに食べた。

 このような西原での食事をみると、雑穀類、麦類、芋類の畑作物の重要性があらためて浮き彫りにされ、それらが西原の食を支えてきた3本の柱であったことがよくわかる。

 ここで西原の主な作物の生産暦をみてみよう。
 1年生夏作物の雑穀類は種類の違い、早生、晩生の違いはあるが、4月から5月にかけて種を播き、9月から10月、11月にかけて収穫する。
 それに対して冬作物の麦類は10月下旬から11月上旬にかけて種を播き、6月から7月にかけて収穫する。
 芋類の栽培は雑穀類と似ている。4月、5月にかけて植えつけ、10月から11月にかけて収穫する。

 このように西原では1年中、休みなく畑を使っているわけだが、近年では雑穀類や麦類をつくらなくなった家が増えた。雑穀類、麦類をつくっている家は西原全戸の1割程度になっている。
「オバクの味が、この歳になると、なつかしく思い出される。もう1度、オバクをたべたい…」
「お正月にはやっぱり、アワ餅やキビ餅を食べたい…」
 年寄りたちと話していると、そのような話をよく聞く。

 日本からあっというまに消えていった雑穀食だが、西原もその例外ではない。
 近い将来、西原から雑穀食が完全に姿を消してしまう可能性もないとはいえない。しかし、私はその反面、これほど深く、濃くしみついた食の伝統がそう簡単に消え去るとは思えない。
 次の世代をになう西原の若い人たちは、今、大半が勤めに出ている。その若い世代が日曜日とか休日になると畑で鍬をふるっている姿をよく見かける。
 雑穀栽培も雑穀食も、今よりは薄らぐかもしれないが、しっかりと次の世代につながっていくのではないだろうか。

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