(20)「300日3000湯」の「ゆーゆーさん」(その4)

※原著作者と相談の上、削除いたしました(その1~4)。
ご了承ください。2008年9月26日

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行


「オーストラリア2周」前編:第2回 タスマニア1周

 (『月刊オートバイ』1997年2月号 所収)

 50㏄バイクのスズキ・ハスラーTS50で「日本一周」したときは、日本の最東西南北端の岬に立った。
 これが、我らライダーの習性。最果ての地に、すごく行ってみたくなるものなのだ。
「オーストラリア一周」でも同じこと。その最東西南北端には立つつもりでいた。
 メルボルンからまずは大陸最南端のウィルソン・プロモントリーに行き、次にフェリーでタスマニア島に渡り、オーストラリア最南端の地まで行った。
 タスマニアは島とはいっても、北海道をすこし小さくしたほどの広さがある。そのタスマニアを一周した。

メルボルンを歩く
 メルボルンでは、スズキ・オーストラリアのオフィスがあるニューポート駅前の「ニューポート・ファミーホテル」という1泊25ドル(約2100円)の安宿に泊まった。
 ファミリーホテルという名前とは裏腹に、1階はパブと場外馬券売り場、フットボールの場外券売り場になっている。
 このフットボールというのは、オーストラリア人が一番、夢中になるスポーツ。
 ラグビーと似ているのだが、もっと手を使い、サッカーのようにキックでゴールする激しい格闘技。プロチームのリーグ戦は、テレビでひんぱんに中継放送されている。
 2、3階が客室。廊下にはゴミが落ち、壁ははげ落ちているが、1泊25ドルという安宿だから、まあ、我慢するか‥‥。

 1階のパブでビールを飲む。
 コップ1杯が1ドル35セントという安さだ。昼間から酔っぱらっている人もいる。ビールを飲んでいると、まわりの人たちに話かけられる。
「おーそうか、日本から来たのか。モーター・バイクでオーストラリアを一周しているのか」
 といった具合だ。
 オーストラリアでは、オートバイのことをイギリス風にモーターサイクルともいうが、自転車のプッシュ・バイクに対してモーター・バイクといういい方をよくする。

 ビールを2、3杯飲んでいい気分になったところで、電車に乗って、メルボルンの中心街に行く。メルボルン近郊の鉄道網は、オーストラリアの中では、一番発達している。
 ターミナル駅のスペンサー・ストリート駅で降り、プラプラ歩く。
 こうして、オートバイを宿において歩くのもいいもの。メルボルンはシドニーよりも、はるかにヨーロッパ風の都市。碁盤の目のように交差する通りには、トラム(路面電車)が走っている。
 半日かけて歩き、日が暮れたところで、夕食にする。
 レストランに入り、Tボーンステーキを食べた。
 さすがに“オージー・ビーフ”の国だけあって、ポテトチップスとサラダのついたTボーンステーキが9ドル85セントと安い。日本円で800円ほどである。
 スペンサー・ストリート駅からふたたび電車に乗ってニューポートの宿に戻った。
 1階のパブでビールを飲みながら、その雰囲気を楽しむのだった。

大陸最南端の半島へ
 メルボルンからは、大陸最南端のウイルソン・プロモントリーに行く。
 プロモントリーとは岬とか小半島といった意味だ。
「ニューポート・ファミリーホテル」を出発。
 スズキDJEBEL250XCは今日も快調。
 メルボルンの中心街からR1のプリンセス・ハイウェーをシドニー方向に30キロ走り、ダンデノンの町で州道180号に入る。
 このルート沿いの丘陵地帯には、“コアラに注意”の標識があった。
 州道180号を110キロ走り、ミニヤンという町を過ぎたところで州道181号に入り、40キロ走るとナショナルパークのゲート。そこで2ドルを払う。ウイルソン・プロモントリーは、半島全体がナショナルパークになっている。

 大陸最南端のウイルソン・プロモントリーに入っていく。
 標高600メートルとか700メートルといった山々が連なり、けっこう山深い。すぐ近くが海だとは思えないような風景だ。
 ゲートから30キロ走ると、州道181号の終点のタイダル・リバー。駐車場があり、インフォメーションセンターやガソリンスタンドがあり、ここで道は尽きる。
 タイダル・リバーからわずかに戻り、今度はオベロン山に登っていく。
 山頂の直下に駐車場。大陸最南端の地には、ここから山道を歩いていく。灯台のあるサウスイースト岬まで約18キロ、往復で12時間ぐらいかかるという。だが、大陸のほんとうの最南端の地はサウス岬。そこへの道はないのだ。
 オーストラリア人は、最果ての地にあまり興味がないようだ。

 タイダル・リバーとオベロン山に来たことで大陸最南端の地に立ったということにし、ウイルソン・プロモンリーを後にし、次にフィリップ・アイランドに行く。
 島とはいっても、橋で渡れる。ここにはオーストラリアで第1のサーキットがある。
 フィリップ・アイランドではペンギン・パレードを見たかった。
 世界最小のペンギンの群れが、夕暮れとともに、海から浜にあがってくるというのだ。 ペンギン・パレードの見られるサマーランド・ビーチはたいへんな観光地。広い駐車場は観光バスで埋めつくされていた。砂浜に上がってくるヨチヨチ歩きのかわいらしいペンギンよりも、はるかに多い見物人の数。韓国人、香港人、中国人が目立って多い。ここでは、団体で世界中を闊歩する日本人観光客も影が薄い。
 とくに目立つのは、韓国人のパワーのすごさ。怖いものなしといったところだ。男も女も、まるで喧嘩でもしているかのような大声を張り上げ、ワーワーいって話している。
 7ドル50セントを払ってのペンギン見物だが、ペンギンよりも、観光客を観察するほうがはるかにおもしろいサマーランドビーチだった。

「スピリット・オブ・タスマニア号」
 サウスメルボルンからタスマニア島にフェリーで渡った。
 船旅はいい。胸がときめく。東京から長距離フェリーに乗って九州や四国、北海道に向かうときのような胸のときめきだ。
 タスマニア島へのフェリーは「スピリット・オブ・タスマニア号」。
 まっ白な船体の大型船。総トン数は3万1350トン。
 40台の大型トレーラーと280台の乗用車を積めるという。
 週3便で、メルボルン発は月、水、金の18時。バス海峡を越え、タスマニアのデボンポートには翌朝の8時30分に着く。14時間30分の航海だ。
 料金はオートバイが70ドル、人は一番安い船底のKデッキで90ドル。合計すると160ドル、日本円で約1万3600円になる。この料金には、レストランでの夕食と朝食が含まれている。
 食事はバイキング形式で、クラスに関係なく、みんなが同じものを食べる。とくに夕食は、かなりの豪華版。それを考えるとフェリー代の160ドルは、そう高くはない。
 夏の観光シーズンだと、予約をとるのも難しいほどだというタスマニアへのフェリーだが、冬のこの季節はすいていた。
 出航直前に港に行っても、楽にチケットを買えた。オートバイはぼくのDJEBELだけ。冬、タスマニアをツーリングするライダーはほとんどいないのだ。

ポートアーサーの銃乱射事件の現場
 デボンポートに上陸。「タスマニア一周」の開始だ。
 州都ホバートへとつづくR1をいく。大陸をグルリと一周するR1の支線といったところか。R1沿いには、広大な牧場がつづく。とても島とは思えないような広さ。ふと、南米のフェゴ島を思い出す。
 地図で見ると、タスマニア島もフェゴ島も、大陸のわきにチョコンとくっついている島ぐらいにしか見えない。だが、オートバイで走ってみるとよくわかるが、ともに大陸と変わりがないような広さなのである。

 R1から州道3号、4号経由でポートアーサーへ。
 オーストラリアのみならず、世界中を驚かせた、あの1996年4月28日の銃乱射事件のあったところである。
 その入口には料金所があり、13ドルを払う。19世紀の前半、イギリスはタスマニア植民の拠点として、ここに基地を築いた。それが史跡になっているのだ。
 静かな入江の岸には、花束が山のように供えられた木製の十字架が立っていた。それには銃乱射の犠牲となった35人の名前が刻みこまれていた。
 すぐ前の、銃乱射の現場となったカフェは閉められ、中が見えないように、ガラス窓の内側にはスクリーンが貼られてあった。
 ポートアーサーは、ほんとうに静かなところ。このようなところで、銃の乱射事件があっただなんて‥‥、信じられない。
 この銃乱射事件のすぐあとにガンコントロール(銃規制)の法案が提出されたが、それに対してのオーストラリア人の反応には驚かされた。あちこちで、銃規制反対のデモがくり広げられ、その写真が新聞の一面を飾った。
「銃なしでは生きていけない」
 というプラカードを持った女性の写真もあった。
 オーストラリアも、アメリカと同じように、銃とともに植民していった国だということを思い知らされた。

オーストラリアの最南端へ
 タスマニアの州都ホバートから、州道6号でオーストラリア最南の地へと、南下していく。40キロで、ホーンビルの町に着く。そこからは幅広いホーン川に沿ってさらに南下していく。
 雨が降りだした。冷たい雨。まるでミゾレのような冷たさ。すでに南緯40度を越えている。北半球とは逆なので、南に行けばいくほど寒くなるのだ。
 ホバートから65キロでサウスポート。ここが州道6号の終点。小さな港町だ。オーストラリア最南というと、オーストラリア人はよく、このサウスポートだというが、道はさらに南につづいている。
 ルーンリバーを過ぎると、舗装路が途切れ、ダートに入る。日本の林道風なダートで、森林地帯を貫いている。大規模な森林の伐採地。雨が激しくなる。風も強くなる。嵐の様相‥‥。もう、泣きたくなってくる。

 サウスポートから30キロ、コッコルクリークで道が尽きる。
 そこには、サウスウエスト・ナショナルパークのゲート。
「ワールズエンドにようこそ」
 と書かれた看板が掲げられている。
 ワールズエンド、まさに「地の涯」といったところだ。
 サウスウエスト・ナショナルパークはオーストラリアでも一番自然の残っている国立公園ということで知られているが、国立公園内には1本も自動車道はない。移動の手段は徒歩のみなのである。

 ところで、オーストラリアの最南端だが、このサウスウエスト・ナショナルパークのゲートからサウス岬までは歩いていける。3時間ほどの距離だという。だが、ほんとうの最南端はその東側にあるサウスイースト岬で、そこへの道はない。
 日本だったら、最南端というだけで、本州最南端の潮岬や日本本土最南端の佐多岬のように、大勢の人たちが押しかける観光地になるのだが‥‥。
 オーストラリアでは観光地どころか、道さえもない。オーストラリア人というのは、最果ての地に興味のない民族なのだと、改めて思い知らされた。というよりも、日本人が岬に対して異常なほどの興味を持つ民族というべきなのかもしれない。
 オートバイで行ける最南の地コッコルクリークを折り返し地点にし、来た道を引き返して夕暮れの州都ホバートに戻った。
 雨は相変わらず降っている…。

雪の峠越え
 シーフードレストランで、夕食にする。
 2種類の白身の魚、貝、イカ、エビのフライの盛り合わせを食べ終えたところで、
「クソッ、雨がナンダ!」
 と、気合を入れて、ホバートを出発する。
 R1を北に走り、州道10号に入っていく。ナイトラン、おまけにザーザー降りの雨。
 あんまり気分のいいものではない。
 ホバートから80キロほど行ったハミルトンという町のホテルで泊まる。1泊45ドル。雨にさんざんやられたので、シャワーのお湯がありがたい。

 翌朝は7時、出発。ハミルトンは晴れていた。上空には月が残っていた。
 だが、これから向かう北の方角は、まっ黒な雨雲に覆われているではないか。
「どうか、あの中に入りませんように!」
 と、祈るような気持ちだった。
 だがその祈りもむなしく、走りはじめるとじきに、ザーッと雨が降ってくる。
 山地に入り、高度が増すにつれて、強烈な寒さになる。
 ジンジンと突き刺さってくるような指の痛みに我慢できない‥‥。もう凍傷状態だ。このときほど冬用のグローブを欲しいよ!と思ったことはない。
 寒いはずだ。雨はミゾレに変わり、さらに登っていくと雪に変わった。それも吹雪の様相。雪は猛烈な勢いで吹きつけてくる。グローブでぬぐってもぬぐってもゴーグルにこびりつくので、前方はほとんど見えない。

 水力発電所のある小さな町のガソリンスタンドに飛び込み、薪ストーブにあたらせてもらう。
 店の主人は薪をガンガンとストーブにくべてくれる。熱いコーヒーも入れてくれる。さらに、毛糸の手袋までくれた。そのおかげで、元気が出た。
 ふたたび吹雪の峠道に挑戦!
 路面は降り積もった雪で真っ白。あまりの寒さに頭も体も凍りついてしまったが、とにかく転倒しないようにと、それだけを考えてDJEBELを走らせた。
 フランクリン・ゴードン・ワイルドリバー・ナショナルパークに入っていく。
 このあたりが寒さのピーク。標高900メートルのビクトリア峠を越える。すると雪はスーッと消えていく。
「助かった!」
 山地を下り海岸に出ると、雪などまるでウソだったかのように、あたたかな日差しがサンサンと降り注いでいた。こうしてタスマニア一周を終え、メルボルンへのフェリーが出るデボンポートに戻ったのだ。

~~~~
■コラム(1)■カソリのワンポイント・アドバイス
「オーストラリア一周」では、レストランでいろいろのものを食べてみた。
 食を通して、オーストラリアを見てみようという気持ちが強かったのだ。
 オーストラリアは“オージービーフ”の国だけあって、肉、とくに牛肉は安い。
 肉屋をのぞいてみると、ステーキ用の牛のフィレが1キロ15ドルから16ドル、Tボーンが12ドルから13ドルといったところだ。
 日本だったら、ふつうグラム単位で肉を買うが、肉食民のオーストラリア人はキロ単位で買っていく。
 肉の安いオーストラリアなので、レストランでもふつうにステーキを食べられる。
 日本にいたら考えられないようなこと。

 おもしろいのは、肉の値段に違いはあっても、フィレステーキもTボーンステーキもラムステーキ‥‥も、レストランで食べるステーキの値段には、それほどの違いはない。
 300グラムから400グラムぐらいのステーキにポテトチップスとサラダがついて10ドル前後といったところ。日本と比べたら半分以下の安さ。オーストラリアでは、ステーキはごくあたりまえの食事なのだ。
 ステーキには、必ずといっていいほどポテトチップスをつける。
 オーストラリア人はジャガイモを細長く切って油で揚げたポテトチップスが大好きだ。 フィッシュ&チップスは、手軽に食べられるテイクアウェーの代表選手といったところだが、ポテトチップスに白身の魚のフライをプラスしたもの。4ドルから5ドルぐらい。揚げたての熱いのをフーフーいって食べるのはおいしいものだ。
 ポテトチップスを紙製のカップに入れてもらうカップチップは70セントか80セントぐらい。日本でいえば、コンビニでオニギリ1個、もしくはアンパン1個を買うよりも安い。 ちょっと休憩するときに、これをコカコーラを飲みながら食べるのが楽しみだった。
 オーストラリアでは、中毒になったかのようにコカコーラを飲んだが、ペプシコーラはあまり見かけない。

~~~~
■コラム(2)■1973年版の「オーストラリア2周」

大陸縦断ヒッチ
 1973年の「オーストラリア2周」のときは、北部オーストラリアのダーウィンに上陸した。そこから、オートバイでの「オーストラリア一周」のスタート地点のシドニーまでは、大陸縦断のヒッチハイクをしたのだ。
 ダーウィンから南に300キロのカサリンでは、なんと、3日間も車を待った。
 当時は大陸縦断のスチュワート・ハイウェーは、道も悪く、交通量も少なかった。そこをヒッチハイクするのは、至難の技といわれていた。
 そこでカサリンでは、暑さを避けて夜中に走るトラックにねらいをつけ、夜通し車を待った。だが、うまくいかずに、結局、道端で眠ってしまった。

 夜が明け、日が高くなると、もう地獄だ。強烈な暑さ。乗せてくれる車を待って、炎天下、立ちつづけた。頭がガンガンと割れるように痛んだ。とうとう乗せてもらえないままに、日が暮れる。翌日も、1日待って、乗せてもらえなかった。
 3日目になると、さすがにぐったりで、
「大陸縦断のヒッチだなんて、もう、不可能だ‥‥」
 と、弱気になり、バスに乗ろうとしたこともあった。それを我慢したかいがあって、ついに大陸中央部のアリススプリングスまで行く車に乗せてもらったのだ。

エアーズロックを断念
 ダーウィンからアリススプリングスまでの1500キロは舗装だったが、当時はその南はダート。ここでも苦しいヒッチだったが、うまく大型トラックに乗せてもらい、200キロほど南のエアーズロックとの分岐点で下ろしてもらった。
 今でこそ、世界最大の1枚岩のエアーズロックは大観光地になっているが、当時はそこまで行く車はきわめて少なかった。スチュワート・ハイウェーとエアーズロックへの道との分岐点には、ドラムカンが置いてあるだけだった。
 そこで、ただ、ひたすらに、車を待った。
 信じられないくらいのハエの多さ。目や鼻、口のまわりにまとわりつく。頭にきてたたきつぶすと、1度に10ぴきもたたき落とした。それほどのハエの多さだった。

 怖かったのは、嵐の襲来だ。
 あっというまに空がまっ黒になり、稲妻が大空を駆けめぐる。強風が吹き荒れ、目もあけられないほどで、ドラムカンの影でジッとうずくまっていた。
 結局、エアーズロックには行けずに断念したが、2日間でエアーズロック方向に行った車はわずかに数台でしかない。
 今はその分岐点にはロードハウスがあり、エアーズロックへの道は全線舗装で、1日に何百台という車がエアーズロックに向かっていく。23年間の、あまりにも大きな変化だ。

貨物列車を飛び下りる
 スチュワート・ハイウェーとオーストラリア横断鉄道が交差するピンバに着くと、うまい具合に、アデレード方向に行く長い編成の貨物列車が止まっていた。
「しめた!」
 という気分で、それに、飛び乗った。
 貨物列車が発車するときは、ガシャガシャガシャンと、連結器を伝わってくる衝撃音がすごかった。
 日が暮れ、夜になると、いつのまにか眠っていた。
 目がさめたのは、突然、ライトを当てられたからだ。どこか駅に着いたようで、列車の見回りをしていた係員にみつかってしまった。
「ポートオーガスタに着いたらポリスに突き出してやる」
 と、えらい剣幕だ。

 貨物列車は走り出す。夜が明ける。白っぽい町並みが遠くに見えてくる。ポートオーガスタだ。ポリスに捕まってはたまらないと、列車が町に近づき、スピードを落としたときに、まずザックを投げ落とし、次に決死の覚悟で列車を飛びおりた。
 幸い、足をすこし痛めた程度ですみ、足を引きずりながらポートオーガスタまでの2、3キロを歩き、そこからシドニーへと2000キロのヒッチハイクをしたのだ。
 当時、25歳のカソリ、怖いものなしだった。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行


オーストラリア2周(前編):第1回 シドニー→メルボルン

(『月刊オートバイ』1997年1月号 所収)

「メッタメタに走ってやる!」
 これがカソリの「オーストラリア一周」、一番の目的。
 みなさんもきっと、そんな気持ちになったことがあると思うが、ぼくは無性にオートバイで長距離を走りたくなったのだ。
それにはオーストラリアは、ぴったりのフィールド。
 我が愛車スズキDJEBEL250XCを目いっぱい走らせて、自分の体がブッ壊れるくらいまで走りつづるのだ。ぼくの「オーストラリア一周」は距離への挑戦。
「さー、やるゾー!!」

うれしい出発
 東京・文京区の共同印刷『オートバイ』校正室で、出張校正を終えた編集の上野賢一さんは一人、ぼくを待っていた。
「やー、ゴメン、遅くなって」
 と、カソリ、平謝りに謝って上野さんに「峠越え」の連載原稿を渡す。この瞬間に、ぼくの「オーストラリア一周」がはじまった。
 わかってもらえるだろうか‥‥、このときのうれしさを!
「これで、行ける!」
 といった気分なのだ。
 出発までの毎日は、時間に追われて超多忙。すべてのことを出発日までに終わさなくてはならないからだ。
 何本もの原稿を死にものぐるいで書きまくったが、それができたのも、「オーストラリア一周」という大きな目標があったからなのである。

 1996年5月25日、成田発12時00分のSQ(シンガポール航空)997便で日本を出発。シンガポールでSQ221便に乗換え、「オーストラリア一周」のスタート地点シドニーには5月26日の早朝、5時30分に到着した。
 シドニー中央駅から電車で30分、パラマタの町へ。東京でいえば、東京駅から中央線に乗って立川へ、といった感じだ。そのパラマタ郊外にスズキ・オーストラリアの2輪オフィスがある。日本から送り出したDJEBEL250XCとの再会だ。
 スターターのセル一発で、エンジンがかかる。いつでも走り出せるように、整備しておいてくれたのだ。軽快なエンジン音に、気持ちは早くも「オーストラリア一周」へと飛んでいく。
 DJEBEL250XCの17リッター・ビッグタンク、ビッグライトを大きな武器にして、「オーストラリア一周」に挑戦するのだ。
 出発前夜は、スズキ・オーストラリアの藤照博さん、工藤隆夫さんにパラマタのチャイニーズ・レストランですっかりご馳走になった。食事をしながら、オーストラリアについての情報、アドバイス等々、いろいろな話を聞かせてもらった。それはすごくありがたいことだった。

「オーストラリア一周」の第1日目
 5月28日午前9時、スズキ・オーストラリアのみなさんに見送られて、「オーストラリア一周」に出発だ。
 DJEBEL250XCのエンジンを始動させ、記念撮影を終えたところで走りだす。抜けるような青空。まるで、「オーストラリア一周」を祝ってくれるかのような空の青さ。 まずは肩ならしとでもいおうか、シドニー周辺をまわる。
 R31のヒュームハイウェーを南下する。片側2車線の道。オーストラリアの2大都市シドニーとメルボルンを結ぶ幹線なので、交通量が多い。
 制限速度は110キロだが、これから先の長丁場を考えて、100キロくらいの速度で走る。
 ゆるやかな丘陵地帯に入ると“カンガルーに注意”の標識を見るようになるが、それがいかにもオーストラリアらしい。

 シドニーから200キロ、グルバンの町を過ぎたところで、R32からR23に入り、オーストラリアの首都キャンベラへ。
 大分水嶺山脈の標高760メートルの峠を越える。この大分水嶺山脈は、大陸の東側に連なる長さ5000キロ、幅300キロの大山脈だが、全体には、ゆるやかな山並みだ。 左手にジョージ湖を見ながら走るとキャンベラだ。シドニーから300キロ。キャピタルヒルにあるモダンな国会議事堂を見る。首都キャンベラは、若々し国、オーストラリアを象徴するかのようなのびやかさ。
 キャンベラからさらにR23を南下。そして、クーマの町から大分水嶺山脈のスノーウィーマウンテンスの山中に入っていく。夕暮れ。気温がガクッとさがる。牧場内にあるモーテルに泊まる。1泊40ドル。日本円で約3400円。
 モーテル内のレストランで夕食。スープ、メインディッシュのチキン、デザートのアップルパイというフルコースで14ドル。
 ここでは、オーストラリアの最高峰クシオスコ山を登りにきたシドニーのハイスクールの生徒たちと一緒になったが、ワイワイガヤガヤとにぎやかだ。
 夕食のあとは暖炉の火を囲んで、ハイスクールの先生たちとビールを飲みながら話した。

峠のアイスバーンに危機一髪!
 翌朝は、コーンフレーク、トースト、スクランブルエッグ、ハム&ソーセージというボリュームたっぷりの朝食を食べる。10ドル。宿泊費の40ドル、夕食代の14ドル、朝食の10ドルを合わせると64ドル。日本円で約5440円になるが、ほぼ、日本の民宿に泊まるのと同じくらいの料金になる。
 シドニーのハイスクールの先生や生徒たちに別れを告げ、7時30分、ぼくが先に出発。 早朝の寒さは強烈だ。気温は氷点下5度。夜明け前は、氷点下8度まで下がったという。オーストラリアの冬を甘くみていたので、ジャケットもグローブも薄手のもの。DJEBELにこびりついた霜を落として走りだしたが、あまりの寒さにヒーヒーいってしまう。 スノーウィー山脈の中心地、ジンダバインの町を過ぎ、オーストラリアの最高峰、クシオスコ山(2230m)南側の、アルパイン・ウェーを走る。デッドホース峠に向かって登っていく。緑の濃い森林地帯。日本の冬枯れの風景とは違い、常緑樹が多いので,冬でも青々としている。
 デッドホース峠に到達。標高1582メートルの峠で、風が冷たい。峠を越え、オーストラリア最大の川、マレー川の源流地帯に下っていったとたんに、路面凍結。ツルツルのアイスバーン。
「アー!!」
 思わず悲鳴を上げてしまった。峠の登りはまったく凍結していなかったので、アイスバーンに対する心の準備ができていなかったのだ。
 あわやマレー川源流の谷底に転落か、という危機一髪のきわどさだったが、かろうじてバランスを保ち、転倒しないで走ることができた‥。
 アイスバーンを抜け出たときは、ホッと胸をなで下ろした。

 デッドホース峠の下りでは、10キロほどのダートを走り、峠を下りきると、広々としたマレー・バレーに入っていく。絵のようにきれいな牧場の風景。牛やヒツジが群れている。いかにもオーストラリア的な風景だ。
 マレー川河畔の町、オルベリーでふたたびヒュームハイウェーのR31に出、グルバン近くのガニングという小さな町で泊まった。
 翌朝の気温も、やはり、氷点下。R31を走りだしたとたんにハンドルを握る手の指先がジンジン痛んでくる。DJEBEL250XCのフルカバーの大型ナックルガードがなかったら、とてもではないが、走れなかっただろう。
 丘陵地帯に入ると霧がかかっている。この霧がまた、なんとも冷たい。
「寒いよ、寒いよー」
 と、泣きが入る。寒さに震えながらシドニーに戻った。
 第1弾目のシドニー周遊は1323キロだった。
 つづいて第2弾目のシドニー周遊として、大分水嶺山脈のブルーマウンテンス周辺をまわった。第2弾目は663キロだった。徹底的に寒さにやられた2度の「シドニー周遊」。

やったー、カンガルーだ。あわや激突!
 2度の「シドニー周遊」で、肩ならしの走りを終え、メルボルンに向かう。
 海沿いのR1を行く。大分水嶺山脈を越えて内陸を走るR31に比べると、気温が高くなったぶんだけ楽になる。だが、すっかり寒さにやられ、体調がよくない‥。
 今回の「オーストラリア一周」では、大陸をグルリと一周するこのR1をメインコースとし、完璧にフォローするのだ。全長約2万キロのR1は世界最長のハイウェーである。「シドニー→メルボルン」間はR31が幹線なので、R1を走る長距離便の大型トラックは、グッと少なくなる。ローカル色が豊かになり、太平洋沿いの町々の町中をそのまま通り抜けていく。
 そんな町のひとつで昼食にする。歩道にイスとテーブルを並べたレストラン。いかにもオーストラリアらしいビッグなハンバーガーを食べながら、R1の車の流れを眺めた。

 シドニーから430キロ、太平洋岸のベガの町を過ぎたところで日が暮れる。
 ナイトラン。
 DJEBEL250XCの飛び抜けて明るいヘッドライトのおかげで、ナイトランがすごく楽だ。交通量が少ないので、対向車がないときはハイビームを使ったが、はるか遠くの反射板まで光り輝く。まるで誘導灯が光る空港の滑走路を走っているような気分になる。 ニューサウスウエルス州最南の町エデンで給油。サービステーションの主人はオートバイの好きな人で、初めてみるDJEBELに興味津々といった顔をする。ビッグタンク、ビッグライトのDJEBEL250XCは目立つので、各地で注目を集めた。
「このバイクは、いつオーストラリアで発売になるのか」
 といった質問を何度か受けた。

 エデンを過ぎると、R1は太平洋岸を離れ、森林地帯に入っていく。夜間のせいもあるが、交通量はほとんどなくなる。
 そんな夜の森林地帯を走っていたときのことだ。
 ゆるい左カーブを曲がると、なんと、走行車線上に、かなり大きなカンガルーがチョコンと座っているではないか。
「ワーッ、ヤッター!」
 思わず絶叫。
 が、急ブレーキ、急ハンドルでからくもカンガルーをかわすことができた‥。100キロぐらいの速度で走っていたので、激突していたら命取りになるようなダメージを受けるところだった。しばらくは体の震えが止まらなかったほど。

 カンガルーは「オーストラリア一周」の大きな難関。日が暮れると、車のライトをめがけて飛び出してくる。その恐怖感といったらない。カンガルーが原因で大事故になることが、オーストラリアではよくあることだ。そのため車やトラックは、カンガルーをはね飛ばすルーバーと呼ぶバーをつけている。これ以降、カンガルーの飛び出しで何度もひやっとするが、道路上に座ったカンガルーに出会ったのは後にも先にも、このときだけである。

カソリ、ダウン‥
 ニューサウスウエルス州からビクトリア州に入る。あいかわらず、森林地帯がつづく。 夜の10時過ぎになって、ジェノアという小さな村に着いた。1軒だけあるモーテルに泊まる。寒くて寒くてどうしようもない。
 バーの赤々と燃える薪ストーブにかじりついてしまった。
 ビールをキューッと飲んだあと、夕食にする。遅い時間だったのにもかかわらず、食事をつくってくれるというのだ。
 メニューをみると、インドネシア料理の“ミー・ゴレン(焼きそば)”があるではないか。さっそく、それを注文する。そこの主人の奥さんはインドネシア人だった。
 ミー・ゴレンを食べ、すこし元気が出たところで、部屋に戻り、バタンキューで眠る。だが夜中にあまりの寒さに目がさめる。寒いはずだ。額に手をやると、かなりの熱‥。
 熱を出すなんて、アフリカでマラリアにやられて以来のこと。さっそくタオルを水で濡らし、頭の上にのせておく。そのあとは、何度もタオルを濡らし、夜が明けるまで、ウツラウツラの状態がつづいた。

 翌朝の体調は最悪。もう一晩ここで泊まっていこうかと思ったほどだ。そんな気持ちをなんとか振りきって起き上がった。
 部屋には朝食が用意されていた。ミルクとコーンフレーク、リンゴ、オレンジ。電気ポットで湯をわかし、コーヒーを入れ、トースターでパンを焼く。パンにはバター、ハニー、ベジマイトをつけて食べる。ベジマイトというのは、オーストラリアだけにあるチョレート色をしたペースト。これが慣れるとけっこういける。
「よーし、行くゾ!」
 朝食を食べ終わると、気合を入れ、メルボルンに向かって走り出す。熱はまだあったが、これがオートバイのよさ、走りはじめると、熱っぽさも体調の悪さも気にならなくなった。 ぼくはいつも思うのだが、病気というのは、ほんとうに、気の病いだと思う。
 体調を崩し、熱を出して、
「あー、もうだめだ」
 と寝込んだら、きっと、本物の病気になっていたことだろう。

 出発してから2時間ほど走ったところで、R1沿いのレストエリアで30分ほど眠る。このわずかな時間の睡眠がよかった。目をさますと、グッショリ汗をかいていたが、その汗とともに、熱がスーッと下がっていた。このときの気分のよさといったらない。
 シドニーから1044キロ、メルボルンに到着。ここでは、2輪と4輪を統括するスズキ・オーストラリアのオフィスを訪ねた。
 社長の藤原紀男さんに、その夜、「むらさき」という日本料理店で、鍋料理をご馳走になった。熱燗の日本酒を飲み、フーフーいいながらうどんすきを食べた。最後は汁の中にご飯を入れて雑炊にした。
 このうどんすきと雑炊が最高のうまさ。熱を出してあとで、体が弱っていたので、よけいにうまく感じた。
 そのおかげで弱った体は、あっというまに回復していった。
「医食同源」。
 それを実感。
「シドニー→メルボルン」を走ったことによって、体も心も、旅する毎日に慣れたようだ。「もう、大丈夫!」
 ぼくは「オーストラリア一周」に自信を持つのだった。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行


「カソリのオーストラリア2周」(1996年)について

※2008年9月23日記す

 40代も後半になったところで、ぼくは体力勝負で250㏄バイクのスズキDJEBEL250XCを走らせ、オーストラリアを2周することにした。
「オーストラリア2周」というのは、20代にもやっているので、このときが2度目ということになる。
 20代の「オーストラリア2周」というのは1973年のことで、ぼくは25歳だった。最初の1周目はヒッチハイクで、2周目がバイクでと、合計4万2000キロをまわった。

 48歳の「オーストラリア2周」計画というのは、25歳の「オーストラリア2周」が大きく影響していた。それだけではなく、「25歳のカソリ」を随分と強く意識した。
 25歳のころといえば、体力絶頂期。そんな「25歳のカソリ」をライバル視し、力でもってねじ伏せようとしたのだ。それゆえの「48歳のカソリ」の「オーストラリア2周」計画なのであった。

 2台のスズキDJEBEL250XCを船便でオーストラリアのシドニーに送り出したあと、1996年5月25日に今度はぼく自身がシドニーに向かって飛び立った。
 成田空港には妻が見送りに来てくれたが、子供たちはといえば、長女が大学2年、次女が高校3年、長男が高校2年になっていて、3人ともに学校だった。
 子供たちのあまりにも速い成長を見ていると、自分が年をとるのも無理のないことだと妙な納得をしてしまうが、そんな気持ちに棹さすかのように、
「いや、いくら年をとってもやりたいことはやるのだ!」
 と、自分で自分に言い聞かせてシドニーに向かって旅立っていくのだった。

 シドニーに送った2台のDJEBELだが、DJEBEL1号、DJEBEL2号と名付け、1号で舗装路をメインにした第1周目を走り、それを「ロード編」とした。
 DJEBEL2号ではダートをメインにした第2周目を走り、それを「オフロード編」とした。
 2周ともシドニーを出発点に、そして終着点にしたが、「オーストラリア2周」では合計7万2000キロと、オーストラリア1国で地球2周分くらいの距離を走ったことになる。
「オーストラリア2周」を終えたときは、心の中で叫んでやった。
「勝った、これで25歳のカソリに勝った!」

 そんな「48歳のカソリ」の「オーストラリア2周」ですが、第1周目(前編)を『月刊オートバイ誌』の連載で、第2周目(後編)を『バックオフ誌』の連載でお伝えします。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行


日本列島岬めぐり:第15回 納沙布岬(のさっぷみさき・北海道)

 (共同通信配信 1990年)

 日本の数ある岬の中でも、東西南北端の岬というのは、特別に感慨深いものがある。
 日本本土最東端の納沙布岬もそのひとつ。
 根室半島突端の東経145度49分13秒の納沙布岬には根室から向かった。その途中には「返せ! 北方領土」の看板。同じような看板は日本の他地方でも見かけるが、根室で目にするその1文字1文字はぐっと現実味を増して迫ってくる。
 根室半島を走り、歯舞の集落を抜け、根室から22キロで納沙布岬に到着。
「本土最東端の碑」前に立ったときは、思わず「やった!」のガッツポーズが飛び出す。「とうとう、ここまでやって来た!」という感慨だ。

 明治5年に初点灯という北海道最古の納沙布灯台には霧信号、無線方位信号所が設置されている。この辺は「ガス」と呼ばれる海霧の多発地帯で、とくに6月から8月にかけては60日を超えるというほどで、納沙布岬は「海霧の岬」になっている。
 灯台の下は岩礁地帯。その向こうの北太平洋とオホーツク海を分けるごようまい水道には、北方領土の島々が浮かんでいる。
 一番右には秋勇留(あきゆり)島。目を左側に移していくと、手前にある萌茂尻(もえしり)島が重なって見え、その左手には勇留島が霞んで見えている。

 納沙布岬からわずか3・7キロの貝殻島はケシ粒のような小さい島だが、北海の波風にさらされてコンクリートがはげ落ち、ボロボロになって傾いている灯台が見える。
 その左手には志発(しぼ)島。目をこらしてやっと見える距離で、案内板によると25・5キロ、離れているという。そして水晶島へとつづく。まっ平な島で、水平線上にべたっと寝そべるようにして横たわっている。
 北方領土のうち、これら歯舞諸島のあまりの近さには驚かされてしまう。
 ところで納沙布岬は日本本土の最東端だが、日本の最東端というと、東経153度58分の南鳥島(旧マーカス島)。ミクロネシアに近い太平洋の孤島で、東京都の小笠原村に属している。日本は広い!

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行


日本列島岬めぐり:第14回 襟裳岬(えりもみさき・北海道)

 (共同通信配信 1990年)

 原始のにおいをとどめる日高山脈が、北太平洋に落ち込む地点が襟裳岬だ。
 北の狩勝峠から南の襟裳岬に到る120キロもの長大な日高山脈は、氷河地形のカールをいくつも残し、深い原生林に覆われ、北海道でも最も人里離れたところのなっている。 襟裳岬には苫小牧から国道235号→国道336号で向かった。
 日高の海岸を走り、JR日高線の終着、様似駅に立ち寄った。その先で国道を離れ、襟裳岬へ。
 岬周辺の台地に樹木は見られない。まるで敷つめられたかのような笹が地面を這い、笹原の中を一筋のアスファルト道路が岬へと延びている。
 もともとこのあたりはカシワやミズナラの茂る樹林地帯だったということだが、長年の伐採で荒野に変り、強風に舞って砂が飛ぶようになったという。いま盛んに「飛砂防止保安林」の植林がおこなわれている。

 襟裳岬の「エリモ」は、岬を意味するアイヌ語の「エンルム」に由来するという。前回(※地球岬の項)紹介した絵柄岬と同じだ。襟裳岬も絵柄岬も岬の同義語を重ねたもので「岬岬」になる。 襟裳岬の駐車場にバイクを停め、岬の突端まで遊歩道を歩いていく。明治22年に設置された襟裳灯台の前を通る。毎年、5月から8月にかけて海霧に悩まされる道東の海らしく、灯台には霧笛が備えつけられている。
 襟裳岬突端の展望台に立った。
 そこからさらに沖合いまで、岩礁が点々とつづいている。その風景は、まさに「日高山脈、ここに尽きる」というようなものだった。
 北太平洋の荒波が岩礁にぶつかり、白い波が砕け散っている。この沖合いの岩礁地帯はゼニガタアザラシの生息地で、11月から4月にかけて見られるという。

 ひと晩、岬前の旅館に泊まった。強風が夜通し吹き荒れ、二重窓はガタガタと激しく震えつづけた。日高山脈にさえぎられた気流が襟裳岬に回りこんでくるため、一年中、強風が吹き荒れるという。
 風速15メートル以上の日が年間200日を超え、風速30メートル、40メートルの日も珍しくないという。襟裳岬は日本でも一番、二番の「風の岬」だ。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行


カソリの峠越え(12):四国編(1)高知・徳島県境の峠

 (『月刊オートバイ』1995年4月号 所収)

 寒風の吹きすさぶ12月に、全行程2200キロで四国を一周し、全部で51峠を越えてきた。四国編の峠越え第1弾は、高知・徳島の県境の峠だ。

高知への船旅
 四国の峠越えの相棒はスズキDJEBEL200。
「さ頼むゼ、ジェベルよ」
 と、ひと声かけて、午後3時、神奈川県伊勢原市の自宅を出発。国道246号で都内に入り、銀座を走り抜け、東京港フェリー埠頭へ。ブルーハイウェーラインの高知行きフェリー「さんふらわー・とさ」(1万3000トン)で四国に渡るのだ。
 17時ジャストに東京港フェリー埠頭に到着。乗船手続きを終え、17時30分に乗船。
 18時10分になると、船内にドラが鳴り響き、“ほたるの光り”のメロディーが流れる。 18時20分に出港。胸がジーンとしてくるような出港のシーン。船旅というのは、旅心をいたく刺激するものだ。

「さんふらわあ・とさ」がフェリー埠頭の岸壁を静かに離れたところで、サウナつきの大浴場にいき、風呂に入る。湯上がりのさっぱりした気分でレストランにいき、ビールを飲みながらの夕食。なんとも優雅なひと時ではないか‥‥。夕食を食べながら眺める東京湾の夜景は、胸にしみるものだった。
 長距離フェリーの楽しみは、時間を気にすることなく、グッスリと眠れることだ。
 この四国への旅立ち前の何日かは、ほとんど寝ていなかったので、8時過ぎにはバタンキューで眠りにつき爆睡!

 目をさましたのは、翌朝の7時で、10時間以上も眠った。自分の命の洗濯をしたような気分だ。
 7時10分、太平洋の水平線から朝日が昇る。快晴。レストランで朝食を食べながら、朝日に照らされた太平洋を眺める。壮大な気分になってくる。
 8時、南紀の那智勝浦港に入港。まわりの山々は、冬とは思えないほど、青々としている。さすがに黒潮の洗う南紀だけのことはある。
 8時30分、出港。大浴場の風呂に入りにいく。湯上がりに、カンビールを飲む。本州最南端の潮ノ岬を眺めながら飲むビールの味は格別だ。
 ビールを飲み終え、ホロ酔い気分になったところでひと眠り。この朝湯→朝酒→朝寝は最高。極楽とは、きっと、こういうのをいうのだろう。時間をふんだんに使える長距離フェリーほど贅沢な旅はないが、極楽な気分を存分に味あわせてくれる。

 14時、右手に四国の室戸岬が見えてくる。
 16時、高知港入口にかかる浦戸大橋の下をくぐり抜ける。左手には桂浜。
 16時30分、「さんふらわあ・とさ」は、高知港のフェリー埠頭に到着した。
 胸が高鳴る。
 下船したところでDJEBEL200のトリップメーターをゼロにする。
 高知発高知着の、「四国一周」が、いよいよはじまるのだ。この、走り出す瞬間がたまらない。

高知・徳島県境の四ツ足峠
 高知港から高知の中心、“はりまや橋”に行く。東京でいえば、銀座4丁目の交差点。四国の道路網の中心でもあり、国道32号、国道33号、国道55号、国道56号、国道195号といった四国の幹線国道は、ここが起点であったり、終点であったりする。
 そのうちの国道195号を行く。国道55号と分岐するとすぐに、“四ツ足峠61キロ”の標識を目にする。四ツ足峠とは、高知・徳島県境の峠である。
“峠のカソリ”、道路標識で峠名を見ると、もうそれだけで、体がゾクゾクッとしてしまう。
思わず、
「待ってろよ、今、行くからな!」
 と、叫んでしまうのだ。
 夕焼けに染まった四国の山々を眺めながら走る。
 その夜は、高知から25キロ、国道195号沿いの一軒宿の温泉、夢ノ温泉に泊まった。 ちょうど、どこかの会社の忘年会が開かれていて、若い男女社員が飲めや歌えの大騒ぎをしていた。
「そうか、今は、年末なんだ‥‥」
 妙なところで感心してしまう。ツーリングに出ると、年末のあわただしさなど、まったく関係なくなってしまう。

 翌日は辛い冬の雨‥‥。ザーザー音をたてて降っている。
 朝風呂に入り、朝食を食べ、7時半に宿を出発する。
 身を切られるような冷たい雨に降られながら、国道195号を走る。
 物部川の渓谷に入っていく。物部村の中心、大栃を通り、四ツ足峠下の別府に到着。
 九州の別府は“べっぷ”だが、ここは“べふ”で、やはり温泉がある。
 一軒宿の「べふ峡温泉」(入浴料412円)の湯に入り冷えきった体を暖めた。

 温泉で元気をつけたところで、四ツ足峠を越える前に、西熊別府林道を走る。別府峡の峡谷を見下ろすダートだ。グングンと高度を上げ、雲の中に突っこみ、白髪山(1770m)の山頂に近い白髪山峠を越えた。
 峠を下りはじめると、じきに舗装路になるが、西熊別府林道は、ダート12キロの走りごたえのある林道だった。
 さきほどの物部村の中心大栃に出、国道195号で別府に戻った。
 いよいよ、四ツ足峠を越える。別府からいっきの登り。峠は全長1857メートルのトンネルで貫かれている。トンネルを抜け出ると、徳島県の木頭村。
 腹がたつほどなのだが、雨足はいっそう早くなった。

 ところで、この高知・徳島県境の四ツ足峠は、標高1017メートル。旧道の峠には、“四ツ足堂”と呼ばれるお堂があって、地蔵がまつられている。峠名は四ツ足堂に由来。“四ツ足堂峠”と呼ばれることもあるという。4本の足で支えられたお堂で、そのうちの2本が高知側、もう2本が徳島側に立っている。
 四ツ足峠を徳島側に下っていく。
 木頭村役場前の店でパンを買う。冷たい雨に降られながらボソボソ食べ、それを昼食にし、次の峠、東川千本谷林道の駒背峠に向かった。

東川千本谷林道の峠
「今日は1日中、雨だな」
 と、腹をくくり、ザーザー降りの中を走る。それにしても辛い冬の雨。ブーツの中はグジョグジョズボズボ状態。ただひたすらに、我慢、我慢の、冬の雨。
 国道195号で四ツ足峠の方向に戻り、峠下で左折し、東川千本谷林道に入っていく。すぐにダートがはじまる。道幅の狭い曲がりくねった峠道。交通量はほとんどない。雨で地盤がゆるみ路肩がザラザラ崩れているところもある。
 国道から12キロで、徳島高知県境の駒背峠に到達。峠はトンネルで貫かれている。こういうときのトンネルはありがたい。トンネルに入ったところでDJEBELを止め、雨宿りを兼ねて休憩する。フーッと、大きく息をつく。

「さー、行くゾ!」
 自分で自分を励まし駒背峠を下っていく。高知県側は安芸市になる。とはいっても、とても“市”とは思えないような山深い風景がつづく。
 ダート15キロの東川千本谷林道を走りきり、伊尾木川に沿って下っていく。点々と、山あいの集落がつづく。
 山々が海岸のすぐ近くまで迫る四国。山地を抜け出た伊尾木川は、河口にわずかな平野をつくって太平洋に流れ出る。上流→中流→下流という川の流れのうち、中流がスポッと抜け落ちているかのような伊尾木川の流れだった。

歴史を秘めた峠
 安芸市から国道55号で太平洋岸を走り、奈半利町で国道491号に入る。このルートは室戸岬を経由する国道55号のバイパス的な国道だが、距離は短いけれども山越えのルートなので、交通量は少ない。
 奈半利の隣町の北川町では、北川温泉「森林センターきたがわ」(入浴料400円)の湯に入った。なにしろ降られっぱなしで、冬の雨に徹底的に痛めつけられているので、大浴場の湯につかった瞬間は地獄で仏に出会ったようなもの。しみじみと温泉のありがたさを感じた。
 湯から上がると、不思議なもので、またしばらくは冷たい雨の中を我慢して走ることができる。これが温泉効果というものだ。

 国道493号は、四郎ヶ野峠を越える。この峠は歴史の古い野根山街道の峠。峠の案内板には、野根山街道について、次のように書かれてあった。
「この街道は、安芸郡奈半利町から東洋町にかけての野根山連山の尾根づたいの道。大和時代に野根山官道として整備された。それ以降、一千数百年の歴史を秘め、土御門上皇の遠流の悲しい旅の道となり、天正年間には長宗我部元親が四国制覇の道として使った。
 江戸時代になると、参勤交代の行列が通る華やかな道となり、清岡通之助らの十三烈士は野根山に屯集した。
 また、オオカミを退治して妊婦を守った飛脚の話、関守の娘の秘話、奇怪な笑いの栂の木、旅人四、五人が泊まれたという巨大な洞のある宿屋杉などなど、歴史と伝説が街道全体にちりばめられている」

 かつての野根山街道というのは奈半利町から装束峠に上り、そこから尾根道となり、野根山(983m)を越え、この四郎ヶ野峠から東洋町の野根に下っていくというもの。昔の街道というのは、野根山街道に限らず、今の時代の街道よりも、ずっと山の上の方を通っていた。
 いろいろな時代の歴史が積み重なった野根山街道の四郎ヶ野峠だが、まるで何事もなかったかのように、ひっそりと静まりかえっている。あいかわらず、冷たい雨が降りつづいている。
 四郎ヶ野峠からの下りは急坂で、下るにつれて太平洋が見えてくる。そして、国道55号の野根に出た。
 
四国の峠は“と”だ!
 東洋町野根から国道493号を引き返し、もう一度、野根山峠を越える。
 日が暮れる。四郎ヶ野峠下で国道493号を右折し、最奥の集落、竹屋敷へ。そこから竹屋敷林道に入っていく。林道ナイトランだ。こういうときにDJEBELの大光量ライトは、おおいに威力を発揮する。
 荒れたダートを3キロほど走ると、高知・徳島県境の吹越峠に到着。
 峠を越えて、徳島県に入り、さらに5キロのダートを下っていく。今でこそ見捨てられたような吹越峠だが、かつては阿南海岸の宍喰と竹屋敷を結ぶ50人乗りのバスが走っていたという。

 阿南海岸の宍喰に向かって走る。
 その途中では、もうひとつ峠を越える。猪ノ峠だ。これで“いのと”と読む。中国地方だと峠のことを“たわ”とか“たお”ということが多いが、それが四国になると“と”とか“とう”になる。
 四国山脈を横断する国道439号(別名ヨサク国道)の大峠も“おおと”という。
 猪ノ峠の短いトンネルを抜け、国道55号に下り、宍喰へと急ぐ。雨をついて走る。とうとう、最後の最後まで冬の雨は降りつづいた。

 宍喰では国道55号沿いの「宍喰温泉保養センター」に泊まる。目の前には、国定公園になっている阿南海岸の暗い海が広がっている。
 宿に入ると、さっそく大浴場の湯につかる。生き返るような思いだ。冬の雨にさんざん痛めつけられた体のすみずみにまで、ドクドクと音をたてて血が流れていくようだ。湯は灰を溶かしたような色をしている。かなり塩分の強い食塩泉である。

 湯から上がると、宿のレストランで、一人、ビールで乾杯!
「雨にも負けず、よくがんばったねえ~」
 それにしても、辛い1日だった‥‥。
 ビールでの乾杯を終えたところで、夕食にする。
 さすがにスダチの本場の徳島だけあって、刺し身にも、カツオのたたきにもスダチがついている。それをしぼってふりかける。スダチの上品な酸味がアクセントになって、味をぐっとひきたてた。
 翌朝は、目をさますとすぐに朝風呂に入る。湯につかりながら、阿南の海を眺める。朝食を食べ、8時、出発。昨日の雨は上がり、青空が顔をのぞかせている
「さあ、徳島の峠越えだ!」

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク


カソリの食文化研究所:第6回 唐沢編

 (『ツーリングGO!GO!』2003年1月号 所収)

「新そばが出始めた!」
 というニュースをキャッチすると、そばを食べに信州に行きたくなった。
 そばといえば信州。信州といえばそばなのである。信州のそばはほんとうにうまい! たとえば国道18号で群馬県側から碓氷峠を越えて信州に入ったとたんに、同じく国道20号で山梨県側から信州に入ったとたんにそばがうまくなる。
 店によっての当たり外れがきわめて少ないのが「信州そば」の大きな特徴だ。
 というのは信州人はうまいそばを食べ慣れているので、味の落ちる店はすぐにやっていけなくなってしまう。讃岐路でうどん店の当たり外れが少ないのとよく似ている。

「さー、行くゾ!」
 と、気合を入れて、「信州そば」を食べに向かったのは松本に近い山形村。
 信州のそばの名産地としては戸隠高原や開田高原がよく知られているが、松本に近い山形村の唐沢という集落は、知る人ぞ知る「信州そば」の絶品を食べられるところなのだ。ここには日本各地からそば通の人たちが大勢やってくる。
 愛車のスズキDJEBEL250XCを走らせ、塩尻ICで高速を降りる。北アルプスの山々を間近に眺めながら高原を貫くサラダ街道を走り唐沢へ。
 唐沢の集落には全部で10軒の家があるが、10軒、全部がそば屋をやっている。
 各家の畑でソバを栽培し、収穫したソバを手打ちそばにして客に出している。ここは、まさに「唐沢そば集落」なのである。

 そのうちの1軒、サラダ街道(県道25号)に面した「からさわ亭」に入る。
 店の入口には「新そば」の貼り紙。さっそく「信州そば」を賞味する。まずはそばの味が一番よくわかる「盛りそば」を頼んだ。ざるに盛ったそばをツルツルッと食べる。腰のあるそば。しっかりとした歯ごたえがある。
 さすがに新そばだけのことはあって、ゆであげたそばを箸で取り、そばつゆにつけて口に入れる瞬間、新米のご飯のようなほのかな香りが漂う。
 さらに「からさわ亭」では「サラダそば」と「とろろそば」を食べた。

 山形村の唐沢から塩尻に戻ると国道19号(中山道)を南下し、次に本山宿(塩尻市)に行った。
 中山道の宿場町、本山宿は日本の「そば切り」発祥の地。本山宿で唯一、そばを食べられるのが「本山そばの里」だ。ここでは「盛りそば」を食べ、さらにソバ粉を熱湯でかいた「そばがき」を食べた。
 この「そばがき」こそ、我々日本人の元々のそばの食べ方だった。
 餅風のそばがきはずっしりと腹にたまる。それを麺に打って現在のような「そば切り」を考案したのは、恐らく16世紀の後半から17世紀の前半にかけてのことだろう。
 その発祥の地が本山宿なのだ。
 うどんや素麺の麺づくりの下地があってのそば切りの考案であったことは間違いない。「そば切り」はつくるのに手間がかかるのでハレ(非日常)の日の食べ物、それに対して簡単につくれる「そばがき」はケ(日常)の食べ物だった。

 ぼくは国道18号の旧道で碓氷峠を越えて信州に入るのが好きだ。
 上州側の急峻な山岳地帯を登り詰め、峠を越えて信州に入ると、劇的に風景が変わる。目の前には平坦な、広々とした高原の風景が広がっている。まさに「高原の国」。
 と同時に信州は「峠の国」でもある。まわりを高い山々に囲まれた信州に入るのには、どのルートをとるにしても峠を越えていく。
 峠を越えて入る信州の高原地帯が「信州そば」の故郷なのだ。

 高原の冷涼な気候は稲作には不向きだが、耐寒性の優れたソバの栽培には適している。ソバは酸性の土壌でも育つし、栄養分の吸収力の強い作物なので、信州のやせた火山灰地にはぴったりのソバ栽培。さらに信州の高原にかかる冷たい霧が、ソバをより上質なものにする。
「信州そば」がうまいのは、ソバが信州に適した作物であり、信州産のそば粉の質が高いからである。これが一番の理由だ。
 それともうひとつの大きな理由は、そば打ち名人が信州のいたるところにいることだ。 山里のごく普通の主婦たちの多くは、そば職人顔負けのそば打ち名人なのである。
 これこそ母親から娘へと連綿と伝えられてきた生活の技。つなぎをまったく使わず、そば粉だけの十割そばを上手に打てる主婦たちがあたりまえのようにいる。
 このように上質のそば粉とそばを打つ技術の高さが「信州そば」を支えている。
「信州そば」をすすると、信州の風土が手にとるようによく見えてくる。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行


カソリの食文化研究所:第5回 岡崎編

 (『ツーリングGO!GO!』2002年12月号 所収)

 皆さんは毎朝、どんな味噌汁を飲んでいますか?
 我々にとって味噌はあまりにも身近なもの。ふだんは意識することなく使ったり、味わったりしているが、じつはこれが大変なシロモノなのだ。
 地域差が色濃く出る味噌は、日本の食文化の核心にふれるようなものといっても過言ではない。
 その味噌の中でもとくに個性が強く、独特なのが三河の赤味噌。その代表選手が岡崎の「八丁味噌」なのである。 静岡編の「安倍川餅」や「丸子のとろろ汁」が東海道とは切っても切れない関係にあるのと同じように、この八丁味噌も東海道ときわめて深く結びついている。

 ということで、静岡からさらに国道1号(東海道)を西へ。
 愛車スズキDJEBEL250XCを走らせ、愛知県に入り、岡崎に向かった。
「目指せ、八丁味噌!」
 岡崎に到着すると、まっさきに岡崎城のある岡崎公園に行った。
 徳川家康ゆかりの岡崎城入口には、
「人の一生は重荷を負うて、遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもえば‥」
 で、はじまる有名な家康の遺訓碑が、亀の石像の上に建っている。
 さすがに石都、岡崎。家康の遺訓碑は見事な細工の花崗岩でつくられている。

 岡崎城の天守閣に登る。そこからの眺めはすばらしい。東に目をやると、ビルが建ち並ぶ岡崎の中心街の向こうに、ゆるく波打つ三河高原の山々が見える。反対に西に目を向けると、矢作川の流れが光り輝き、その向こうには濃尾平野へとつづく平原が茫漠と広がっている。高原と平野。岡崎は両者の接点にあり、岡崎を境に、風景は鮮やかに変わる。
 岡崎は城下町であるのと同時に、東海道の要となる宿場町。東海道筋では駿府(今の静岡)に次ぐ賑わいをみせていた。
 辛口の赤味噌の代名詞のような「八丁味噌」の起源は遠く室町時代までさかのぼるといわれているが、東海道を行き来する旅人たちによって、その名が全国に広められていったのだ。
「さー、八丁味噌の食べ歩き、開始だ!」
 と、カソリ、気合十分で岡崎城前の茶店に入る。

 まずは店の創業の「延元2年」に驚かされた。聞いたこともないような年号なので、いつも持ち歩いている愛用の「歴史手帳」で年号を確認すると、なんと延元は南北朝時代の南朝方の年号。延元2年というと、今(2002年)から666年も前のことになる。
 ここでは、さらに驚かされた。
 おでんを頼むと、串刺しにしたコンニャクの田楽が出た。
 それにはたっぷりと八丁味噌に砂糖を混ぜたタレがかかっていた。
 次に関東煮を頼んだ。関東煮といえば、やはり、おでんのことである。何が、どう違うのか、興味津々。出てきた関東煮は、いわゆるおでんで、それにはコンニャクとタマゴ、チクワ、ハンペン、ゴボウマキの5種があった。これら関東煮も辛子ではなく、八丁味噌のタレをつけて食べる。
 ここでぼくが驚かされたのは、その言葉づかいだった。ここでは田楽だけをおでんといっている。
 おでんは漢字で書くと「御田」。御田は田楽に御をつけた「御田楽(おでんがく)」を略した言葉なのだが、御田楽が御田になったという、おでんの歴史にかかわる古い言葉づかいがここには残されていた。

 それともうひとつ、「関東煮」も興味深かった。
 関西では「かんとだき」といってるが、関東と関西の中間に位置する岡崎では「かんとうに」なのである。
 岡崎城内でおでんと関東煮を食べたあとは、中岡崎駅前のうどん店「釜春」で八丁味噌を使った「味噌煮込みうどん」を食べた。
 日が暮れると、東岡崎駅近くの屋台「萬楽」で「どてやき」を食べた。八丁味噌で甘辛くした汁で串刺しにした牛もつをグツグツ煮込んだもの。
 屋台のおばあちゃんの伊奈美代子さんはここで50年、ずっとどてやきをつくりつづけている。
「この鉄鍋はね、20年もの間、洗ったことがないのよ」という。
 まさに食の年輪だ。

 八丁味噌は肉料理には、ことのほか合う味噌である。肉のくさみを消し、臓物までも、まるで別物のような味に仕立て上げてしまう。
 岡崎でどうしても食べたかったのが、八丁味噌の「焼き味噌」だ。
 徳川家康は「湯漬けに焼き味噌!」といって大好物にしていたという。ぼくも同じものを食べたいのだ。といいっても食堂のメニューにはない。
 で、電話帳を頼りに、「あのー、朝食に焼き味噌をつくってもらえませんか‥」と、岡崎市内の何軒かの宿に電話した。10軒近く電話したが、ことごとく断られた。
「よし、これで最後だ」と電話した本宿駅近くの旅館「梅忠」では、ついに快く引き受けてくれた。

 翌朝の朝食では、焼き味噌の半分を熱いご飯の上にのせ、もう半分は湯漬けにした。立ちのぼる湯気とともに、八丁味噌の香りがほんのり鼻をつく最高のうまさ。
 宿の女将さんは「ウチの孫も東京から帰ると、いつも(八丁味噌の)焼き味噌と味噌汁があれば、もうそれだけでいいっていってますよ」というのだった。
 こうして八丁味噌を使った料理をひととおり食べたところで、角九印で知られる「八丁味噌」の工場を見学した。
 岡崎市の八帖町にあるが、ここはかつての八丁村。岡崎城から東海道を西へ、ほぼ八丁(約870m)の距離に位置しているからだ。八丁村産の味噌なので、いつしか八丁味噌といわれるようになった。

 味噌は煮たり蒸したりした大豆に食塩と麹を加え、大豆のたんぱく質を分解させてつくる調味料。大きく分けると、米麹を使う米味噌と麦麹を使う麦味噌、それと八丁味噌のように蒸した大豆に直接、種麹をつけ、豆麹からつくる豆味噌がある。
 日本列島はこれら3種の味噌できれいに色分けできる。
 そのうち“豆味噌圏”というと、愛知県のほかには静岡県西部、岐阜県南部。三重県北部に限られる。
「八丁味噌」の工場見学でのハイライトシーンは味噌蔵。塩と水の混ぜられた豆麹は30石(約5400リットル)の大桶に仕込まれるが、このような仕込み桶が薄暗い味噌蔵にズラリと並んでいる光景はアッと息を飲むほどに壮観だ。
 その数は700桶。1桶からは約6万トン(30万人分の味噌汁をつくる量)の八丁味噌ができるという。

 豆味噌の原料は大豆と水と塩。
 岡崎の旧八丁村は、これら豆味噌のすべての原料に恵まれていた。矢作川流域は、“矢作大豆”で知られた大豆の名産地。水はといえば、岡崎周辺は伏流水が流れ、地下水が豊富で、いくらでも良質な水が得られた。さらに塩といえば、矢作川河口近くの三河湾に面した吉良は古くからの塩の産地で、吉良産の三州塩の入手が容易だった。さらに製品の出荷にも東海道の陸運があり、矢作川の船運があった。

 八丁味噌は水分も塩分も少ない堅い味噌である。そのため日持ちがよく、兵糧食としては最適で、栄養価の高いチーズを持ち歩くようなもの。
 三河武士の強さの秘密は“八丁味噌”といった説もある。徳川家康は合戦になると、
「さー、戦だ。味噌を集めよ!」
 と、岡崎城下に大号令をかけたという。
 豆味噌と同じタイプの味噌は世界でも朝鮮半島にだけ、見られるという。味噌は朝鮮語の蜜祖(ミソ)からきた言葉だという説もある。それはともかく、朝鮮半島から伝わったとされている味噌づくりの原型をもっとも忠実に受け継いでいるのが豆味噌なのだ。
 岡崎で得た結論は「味噌は限りなく奥が深い!」ということだった。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行


日本列島岬めぐり:第13回目 地球岬(ちきゅうみさき・北海道)

 (共同通信配信 1990年)

 北海道屈指の重工業都市であり港湾都市でもある室蘭は、太平洋と内浦湾(噴火湾)を分けるようにして突き出た絵柄半島のつけ根に位置している。その絵柄半島南端の岬が地球岬だ。
 まずは半島西端の絵柄岬に行った。岬の展望台に立つと、内浦湾の海岸線を一望する。活火山の有珠山や昭和新山が見える。さらには対岸の駒ヶ岳もよく見える。
 絵柄岬周辺の絵柄は室蘭発祥の地。アイヌ語の「突き出た頭」、つまり岬を意味するエンルムに由来する地名だとのことで、江戸時代初期に開かれてからというもの、明治維新まではこの地方をいいあらわす地名だった。

 絵柄岬から地球岬にかけての海岸線はすごい!
 重工業都市の室蘭がすぐ近くにあるとはとても思えないような断崖絶壁が連続する。
 人を寄せつけない険しさで、銀屏風、ハルカラモイ、ローソク岩などの名所が点在している。 
 テレビ塔のある測量山の山頂に登ると、室蘭港に面した室蘭の市街地を足元に見下ろした。
 そして最後に地球岬に立った。
「地球」の名前にひかれてやってくる人たちでにぎわう岬には、その名にふさわしく、電話ボックスも水のみ場も地球儀を模している。
「地球広場」と名づけられた展望台の広場の直径は12・8メートルで、地球の100万分の1のスケールだという。そんな地球広場には、モザイク模様の世界地図が描かれている。室蘭がその中心になっている。
「世界の中心は室蘭!」
 と、声高にいっているようだ。
 その気宇壮大さがたまらない。

 地球岬の安山岩が露出した高さ100メートル以上の断崖は目もくらまんばかりで、垂直に、ストンと海に落ち込んでいる。
 岬の先端に立つ灯台のあたりは、アイヌ語で「ポロテケウ」(断崖絶壁の意味)と呼ばれていたという。それを「地球岬」にしたところにネーミングの絶妙なうまさを感じる。岬にはその名前にひかれて行ってみたくなるところが多分にあるからだ。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行


日本食べある記 第1回:下関のフグ

 (「市政」1991年1月号 所収)

 フグといえば下関だ。フグの本場、下関では「フグ」と濁らずに「フク」と乾いた発音をする。「福を呼ぶ魚だからフクというんですよ」といった料理屋の女将さんの話を聞いたこともある。それだからこの項ではフグではなく、フクと書くことにする。

 下関では「フクは彼岸から彼岸まで」と、よくいわれる。フクの水揚げは秋の彼岸のころから本格化し、春の彼岸を過ぎると、ぐっと減ってくる。それをいっているのだ。
 寒風の吹き始める11月に入ってから、フクを食べに下関に行った。本州最西端の下関駅には夕方に着いた。駅舎内のみやげもの店をのぞくと、フク一色なのである。ふく提灯、ふく茶漬け、焼きふく、ふくの一夜漬け、ふくの粕漬け、ふくのみりん干し…など。駅舎を出ると、フクのモニュメントが目を引く。その数は20匹近い。金属のフクはまるで空を泳いでいるかのようで、「フクの町、下関」を象徴していた。

 ネオンの灯りはじめた町を歩くと、これまたフク料理の本場、下関だけあって、「ふく料理」とか「ふく刺し」、「ふくちり鍋」といった看板を掲げた店を何軒も見る。「ふくフルコース」の看板を出している居酒屋をみつけると、さっそくその店に入ってみた。きっぷのいい女将さんの「ふく談義」に耳を傾けながら、「ふくのフルコース」を味わってみた。「ウチではトラフグ以外、いっさい出していません」と、女将さんは宣言するかのように、きっぱりという。何種もあるフクの中では、トラフグが最上の味なのだという。

 まず最初に、「ひれ酒」が出た。ふたつきの湯呑みに、焦げるくらいに焼いた「ふくひれ」を入れ、熱燗の酒を注いだもの。ふくひれの味がジワーッと酒にしみこんでいく。ひれ酒にするひれは背びれ、胸びれ、腹ひれで、尾びれは使わないという。ひれ酒には干したトラフグのひれを使うが、品不足の状態で、シマフグやゴマフグのひれも、トラフグのひれと称して出回っているらしい。だが、女将さんの話によると、味が全然、違うとのことだ。

 ひれ酒を飲んでいると、「ふく刺し」が出た。三枚におろした身を薄く切り、菊の花びらを模した盛りつけ方で、まさに「食の芸術品」といったところだ。日本人の美意識、日本の食文化の真髄を見るような思いがする。日本の食は舌で味わうだけでなく、目で見て味わうものなのだ。
「ふく刺しはね、フクの身をいかに薄く切るかにかかっているのよ」と女将さんはいう。それに薬味の紅葉おろしと細かく刻んだワケギが添えられ、フクの皮が盛られている。
 箸をつけるのがもったいないくらいだが、ひときれつまんで、つけ汁(醤油にダイダイ酢を混ぜ、薬味を入れたもの)につけ、口の中に入れてみた。光沢のあるフクの切り身は淡白な味だが、かみしめるとかすかな甘味が口の中に広がり、粘り気も出てくる。コリコリッとした歯ざわり、かみごたえが何ともいえない。

 下関ではこのフクの歯ごたえを「ひきがある」といっている。ひきのあるフクがうまいフク。トラフグ以外のフクには、この「ひき」がないのだという。このコリッ、コリコリッとしたフクの淡白な味わいの身は、血液の循環をよくするとのことで、食べているうちに体がホカホカしてくる(ような気がする)。
 ふく刺しを食べ終わると、「みかわ」と「こふく揚げ」が出た。みかわというのは文字通り、身と皮の間についている部分で、それをさっとゆでたもの。紅葉おろしとワケギの薬味をのせ、醤油をかけて食べる。「こふく揚げ」はフクの子供を揚げたもので、頭も骨もひれも食べられる。

 その次がメインディッシュといってもいい「ふくちり鍋」で、コンブでだしをとった湯の中に、フクのあらとハクサイ、ネギ、シュンギク、シイタケ、ミズタケ、エノキ、葛きり、豆腐、紅葉麩、それと餅をいれたもの。ふくちりにはこの餅がことのほか合っている。「お餅をたくさん入れてというお客さんが、けっこういますよ」と女将さん。
 ふくのあらは、骨についた身をチューチューしゃぶってしまうほどうまかった。ほんとうにフクの好きな人というのは、さらに骨を油で揚げて、パリパリポリポリとせんべいのようにして食べるという。
 最後は「ふく雑炊」。残ったふくちり鍋に、ご飯を入れた雑炊で、これがまたきわめつけのうまさだった。
 フクはいくら食べても食べあきないといわれているが、まさにその通り。フクに始まりフクに終わる、フクだけのフルコースで、見事なほどの満腹感を味わえる。
「福を呼ぶからフクというんですよ」
 という女将さんの言葉が、なるほどとうなずける下関のフク料理だった。

下関は「フグの本場」。全国で消費されるフグの8割前後は下関に水揚げされる。ところで、フグの水揚げされる漁港だが、それは下関漁港ではない。下関漁港の対岸、彦島の北西端に位置する南風泊漁港である。
 南風泊漁港の南風泊市場はフグ専門で、関門海峡に面した唐戸市場から移ってきた。唐戸市場は今でも水産物の市場として機能しているが、手狭になったことや船舶の航行がひんぱんな関門海峡が危険だということもあって、フグだけが南風泊市場に移った。
 ここでの競りを見たくて、翌日、南風泊漁港に行った。夕暮れどきになると、フグ釣り漁船が次々に入港してくる。船は50トン前後で8、9人乗り。フグナワと呼ぶフグ専用の延縄漁船である。

 かつての漁場は関門海峡から徳山沖にかけての周防灘や、豊後水道、玄海灘だったが、今では東シナ海が主要な漁場になっている。さらに五島列島や奄美諸島などからの養殖フグが入ってくる。養殖ものの値段は天然ものの半分ほどだ。
 南風泊漁港に接岸した漁船の船底からは、生きているフグがいったん市場内の大きな水槽に移し変えられる。このように、釣り上げられたフグは生かして南風泊漁港まで運ばなくてはならない。というのは死んだフグは値段が半分から3分の1くらになってしまうからだという。船中でフグを生かしておくために、フグ釣り漁船は巨費を投入し、大がかりな装置をつけなくてはならない。

 午前2時を過ぎると、もう市場は動き出す。氷詰めにされた発泡スチロールのケースが次々に並べられていく。これらは死んだフグ。午前2時50分、くじ引きがおこなわれ、早い競りの順番に当たった船から、水槽の生きているフグが引き上げられる。プラスチックのケースに入れられ、大きさをそろえてケースを並べていく。
 午前3時20分、市場内にベルが鳴り響き、いよいよ競りが始まる。赤い帽子をかぶった競り人が、筒形の紺地の布袋に片手を突っ込み、
「さー、どうかー」
 と、威勢のいい声を出して、仲買人の買う気をさそう。
 仲買人たちは青い帽子をかぶっている。布袋の中での競り人と仲買人の指のからみあいで、フグ1ケースの値段が決まっていく。買主の決まったフグはすぐさま業者の処理場に運ばれていく。

 フグの調理師免許を持った人がさばくのだが、まずひれを落とし、背と腹の両側に切り口を入れ、尾の方から両面の皮をはいでいく。えらを引き抜き、頭を落とし、眼球を捨て、内臓をとり除く。このようにして1分1秒を争うようにしてさばかれたフグは専用の冷凍コンテナに入れられ、トラックで福岡空港に運ばれ、東京や大阪といった大消費地に送られていく。
 夜が明けると、南風泊漁港にはまったく人気がなくなった。朝日を浴びて光る海を見ていると、真夜中の熱気、喧騒がまるで夢でも見たかのように思われてくるのだった。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行


韓国食べ歩き:第28回

 (『あるくみるきく』1987年1月号 所収)

辛くない料亭料理
 光州(クワンジュ)の料亭料理はご飯、味噌汁、豆腐のチゲ、6種のキムチ、3種のナムル、サワラの焼き魚、イシモチの煮魚、タコの酢の物、焼肉、玉子焼き、ニンニクの醤油漬け、カボチャの揚げ物、明太子、2種の塩辛…といったもの。
 それを食べてみて、もうひとつ感じたことは、全体のさっぱりとした味つけであった。 トウガラシの辛味がそれほど強くなのである。
 私は料亭料理を味わいながら、しきりと韓国における「トウガラシ以前」を考えた。今でこそ韓国食といえば、トウガラシ全盛の感がある。しかし、伝統的な韓国の食事を比較的よく伝えているといわれる料亭料理がそれほど辛くないということは、
「もともと韓国の食べ物は、そう辛くはなかった」
 と思わせるのに、十分なものがあった。

 トウガラシがこの国に伝わってからというもの、それまで使われていたニンニクやショウガ、サンショウ、コショウといった香辛料をあっというまに押しのけいった。
 トウガラシが香辛料の王座についた理由のひとつには、いったん辛味になじむと、より刺激的な味を求めるといった人間の味覚への傾向があるからではないだろうか。

 人間の感じる味覚の基本は甘味、酸味、苦味、辛味、かん味の五味で総称されるが、そのうちトウガラシの辛味は刺激味といっていい。針で肌を突っつくのと同じことで、たんに刺激を与えるだけで、その辛味は栄養分となって体内に吸収されることはない。
 たとえば砂糖の甘味や塩のかん味は体が受け付ける量が限られているのに、トウガラシのような辛味は個人差、民族差が大きく、その許容範囲にはかなりの幅がある。
 そのため、ある刺激に慣れてしまうと、より強い刺激を求め、辛味がどんどんエスカレートしていく傾向がある。その結果、韓国ではトウガラシが全盛になったのではないかと私は考えた。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行


韓国食べ歩き:第27回

 (『あるくみるきく』1987年1月号 所収)

日本と韓国の似ている点は…
 朝鮮半島は、ユーラシア大陸の肉食・乳食文化圏に隣り合っている。
 しかし韓国は、その食文化圏には含まれていない。それは市場を歩いてみれば、はっきりとわかることだ。
 たしかに市場では、肉類は目についた。ところが、ミルクや乳製品のヨーグルト、バター、チーズのたぐいが私の記憶に残らないほど、目につかなかった。

 乳製品は牧畜世界の基本食となるものである。それが韓国で一般化しなかったということは、牧畜世界から中途半端な形で肉食だけを受け取ったとしか、いいようがない。
 それにひきかえ、韓式定食でも料亭料理でもそうなのだが、魚介料理がきわめて多い。魚介類をふんだんに使っている。また、魚の刺身も一般的だった。
 もっとも刺身は韓国でも「サシミ」といっており、日本から伝わった料理のようだ。しかし、韓国、とくに南部では古くから魚肉を生で食べる習慣があったようだ。
 日本と韓国は魚介類をよく食べるということでは、きわめて似ている。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行


カソリの食文化研究所:第4回 静岡編

 (『ツーリングGO!GO!』2002年11月号 所収)

 街道を風のように駆け抜けていくツーリングライダーのカソリにとって、街道と名物料理のとり合わせほど、おもしろいものはない。
 街道への興味、その土地に根づいた名物料理への興味と、両方の興味を同時に満たしてくれるからだ。
 で、今回はカソリ、東海道に白羽の矢を立てた。東京から現代版東海道の国道1号を西へ、静岡へと向かった。

 静岡は明治以降の新しい地名。
 それ以前は甲州の中心が甲府、周防の中心が防府…であるのと同様、駿府といわれた。江戸時代後期、天保14年(1843年)の駿府の戸数は3673戸、人口1万4071人。駿府は当時の東海道の中では、桁違いに大きな町だった。
 さー、東海道の名物料理の食べ歩きの開始だ。駿府の東海道がらみの名物は安倍川餅。 安倍川を渡った次の宿場、宇津谷峠下の丸子の名物はとろろ汁。静岡では「安倍川餅」と「とろろ汁」をターゲットにし、その両方を食べることにした。

 静岡の中心、駿府城跡から安倍川に向かっていく道が旧東海道だ。
 安藤広重の「東海道五十三次」でも駿府では、安倍川河畔の「名物安倍川餅」の看板を掲げた茶屋が描かれている。江戸時代末の安倍川河畔には全部で8軒の茶屋があったというが、現在ではそのうち「石部屋」だけが残っている。
 旧東海道の名残を色濃くとどめている「石部屋」に入り、さっそく名物の「安倍川餅」を食べた。1皿500円。黄粉とあんこの餅が4個づつのっている。搗きたてのうまい餅だ。そのうちの白砂糖をまぶした黄粉餅が、もともとの安倍川餅だったという。

 慶長年間に徳川家康が井川の笹山金山を視察したとき、安倍川の茶屋でひと休みしたのだろう、ある男が家康に黄粉餅を献上した。
 きっとその味がよかったからなのだろう、家康は男に餅の名前を聞いた。
 すると男は安倍川と金山の金粉に因み、
「安倍川の金な粉餅」
 と答え、家康はその男の機智をおおいに褒めたたえた。
 それ以降、安倍川餅は有名になったという。そんな話が「石部屋」でもらった安倍川餅の由来に出ていた。

 安倍川餅が東海道の名物として定着するのは、さらにその200年後、18世紀も後半になってからのことだ。
 代官の指導のもと、駿河のこの地で、南島を除けば全国でも初の甘蔗(サトウキビ)栽培がはじまった。その甘蔗からつくる砂糖をふりかけた黄粉餅は東海道を行き来する旅人たちにおおいに受け入れられ、東海道を代表する名物になった。
「石部屋」ではもう1品、ワサビ醤油につける「からみ餅」(500円)も食べた。腰の強い粘りのある餅。腹にずっしりと溜まった。

 安倍川橋で安倍川を渡り、そのまま旧東海道を行くと、丸子の町に入る。
 丸子で「まりこ」。古くは鞠子と書いた。
 丸子の町並みを抜け出たあたりの丸子川沿いに、「とろろ汁」を名物にしている「丁字屋」がある。創業は慶長元年(1596年)というから、今から400年以上も前のことになる。昔ながらの茅葺き屋根の茶屋だ。

「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」

 芭蕉の句に詠まれ、弥次さん、喜多さんの『東海道中膝栗毛』にも出てくる「丸子のとろろ汁」は、安倍川餅同様、東海道中では欠かせない名物だった。
 安藤広重の「東海道五十三次」でも、丸子宿では「名物とろろ汁」の看板を掲げた「丁字屋」が描かれている。
「丁字屋」の「とろろ汁」は今でも人気の名物料理で、平日の昼前に入ったのにもかかわらず、店内は混んでいた。
 さっそく「丸子定食」(1380円)を頼む。すると、すぐさま名物のとろろ汁が運ばれてきた。このスピード感が命。お櫃に入った米7分麦3分という麦飯を茶碗によそい、その上に自然薯をすりおろし、だし汁でのばしたとろろ汁をかけ、薬味の刻みネギをふりかけて食べる。麦とろはいくらでも食べられる。スルスルッとのどを通り、腹にはいっていく。
「麦とろ8杯」
 といわれるように、麦とろはいくらでも食べられる。しかも、いくら食べても腹をこわさないし、腹にもたれない。

 東海道の丸子宿の次の宿場は岡部宿だが、その間には箱根峠、鈴鹿峠と並ぶ東海道の難所の宇津谷峠がひかえている。旅人たちは丸子宿でとろろ汁をかけこむようにして食べ、パワーをつけて宇津谷峠に立ち向かっていったのだ。とろろ汁の自然薯も、元々は宇津谷峠周辺の山中でとれる天然のものだった。
「とろろ汁」に大満足したところで、スズキDJEBEL250XCを走らせ、宇津谷峠に向かっていく。
 ここはまさに峠のトンネルの展覧会場のようなところ。明治、大正、昭和、平成と時代ごとの峠のトンネルが見られる。明治9年に完成した明治トンネルは日本最初の有料トンネル。大正トンネルは旧国道1号のトンネル。昭和トンネルは現国道1号の上り車線、一番新しい平成トンネルは下り車線だ。

 さらに江戸時代の旧東海道がこの峠を越え、さらに時代をさかのぼった平安時代の官道の峠道「蔦の細道」も残されている。丸子のとろろ汁は東海道の宇津谷峠と深くかかわった名物料理なのである。
 静岡で「安倍川餅」、「とろろ汁」という東海道の名物料理を食べて感じたことは、
 その1、「名物にうまいものあり!」
 その2、「名物は食べるべし!」
 ということだった。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行


カソリの食文化研究所:第3回 伊那編

 (『ツーリングGO!GO!』2002年10月号 所収)

 馬刺しを食べたくなった。
 それも無性に食べたくなったのだ。
 馬刺しといえば、熊本や東北の各地にそれを名物にしているところがあるが、なんといっても本場は信州の伊那谷。思い立ったが吉日、東京から中央高速の一気走りで伊那へ。 信州は“盆地の国”。中央分水嶺の北側、千曲川沿いには佐久盆地、上田盆地、長野盆地、飯山盆地と盆地が鎖状につづいている。さらに北アルプス山麓には松本盆地と安曇野盆地が広がる。
 中央分水嶺の南側には、諏訪湖周辺の諏訪盆地から諏訪湖から流れ出る天竜川沿いの伊那盆地へとやはり盆地がつづく。これらの盆地を結んで、信州には何本もの峠道が開けている。そんな信州の盆地のひとつ、伊那盆地の伊那に向かった。
 中央高速を伊那ICで降り、高台に立って伊那盆地を一望する。
 東側には南アルプス、西側には中央アルプスの高峰群が連なり、その間を天竜川が流れている。伊那盆地は「伊那谷」とよく言われるが、“谷”から受けるイメージ以上の広がりがある。ここが日本の馬肉料理の本場になっている。

 伊那の市街地に入り、JR飯田線の伊那市駅前の駐車場にバイクを停め、さっそく肉屋を見てみる。駅近くの「板谷精肉店」のショーウインドーで目が停まったが、そこには7種類の肉が並んでいた。
 牛ロース(850円)
 馬刺し(480円)
 馬最上(400円)
 馬上(300円)
 豚ロース(230円)
 豚上(160円)
 豚中(130円)
(値段は100g当たり)

 なんと7種類の肉のうち、3種類が馬肉だ。
「すごいゾ!」
 さすが馬肉料理の本場だけのことはある。
 スーパーの肉売り場をのぞいても、やはり馬肉が幅をきかせていた。
「伊那谷の人たちは、それは馬肉が好きですよ。馬刺しは大好物だし、すき焼きといえば馬肉。ふだんの家庭料理でも、煮つけにはよく馬肉を使います。コロッケやメンチカツにも馬肉を入れます」
 といった話も聞いた。

 伊那の中心街をプラプラ歩く。
 川魚店の店先にずらりと並んだ川魚類の甘露煮を見たり、伊那名物のハチノコやザザムシ、イナゴを売る店を見たりして伊那市駅前に戻った。
 歩いて腹をへらしたところで、馬肉料理だ。
「板谷精肉店」に隣りあった焼肉店の「いたや」に入り、馬肉三昧の食事をした。
 まっさきに「馬刺し」を食べた。
 うす切りにしたロースを生のまま、ショウガ醤油につけて食べるのだが、クセがなく、さっぱりとした味わいで、ツルツルッとソバをすするかのように1皿、あっというまに食べてしまった。故郷を離れた伊那人の一番、恋しがる味が馬刺しだということも、この本場の馬刺しを食べてみるとよくわかる。

 次に「おたぐり」を食べた。
 おたぐりというのは、馬のもつをぶつ切りにし、長時間、煮込んだもの。くさみは消えてやわらかくなっている。
 馬の腸はとびきり長いものだが、それをたぐり寄せ、たぐり寄せして取り出すところから「おたぐり」の名がある。おたぐりは食材にするまでが大変だ。取り出した馬の腸をたんねんに水洗いし、包丁でその表面をこそいで脂分を取り除く。さらにそれを切って2、3時間、流れ水に打たせるのだ。

 そして桜鍋でご飯を食べた。
 桜鍋とは馬肉のすき焼き。馬肉のことを桜肉ともいう。さらにそのあと、カソリの「鉄の胃袋」をフル稼働させ、馬肉のステーキと、馬肉のハムを食べた。
「いたや」では馬肉料理を全部で5品を食べた。馬肉料理だけで満腹になったとき、あらためて伊那の馬肉食文化のすごさを感じるのだった。

 伊那谷では、かつてはどの家でも、農耕馬を飼っていた。現役を退いた農耕馬をつぶして食用にしていたのだ。このように伊那谷では馬肉を食用にしてきた伝統がある。
 低カロリー、低脂肪、高タンパク、高グリコーゲンの馬肉は、コルステロール過多の現代人にはぴったりの肉だといわれているが、伊那人は「馬肉は体にいい!」ということを体験的に知っていた。
 伊那人は理屈っぽいけれど、頭はいい。
「東京の大学で、石ころをいくつか投げれば、かならずひとつは伊那谷出身の教授にぶつかる」
 といわれるほどなのだ。
 腰の曲がった婆さんが、当たり前の顔して岩波の『世界』を読んでいたりする。

 伊那谷ではかつては養蚕が盛んにおこなわれていた。製糸も盛んだった。
 そのような伊那谷だから、まゆ玉を大釜で煮立てて生糸をとったあとに残るカイコのサナギも食用にしていた。伊那谷では“サナギ”といえばカイコのサナギを指すほど。今でもカイコのサナギの甘露煮は、伊那谷名物のハチノコやザザムシ、イナゴなどと並んでここではごくあたりまえに売られている。
 ところで養蚕や製糸が盛んだったのは、なにも伊那谷に限らない。だが、日本の他地方ではカイコのサナギを養殖ゴイの餌などにすることはあっても、人間の食用にしているところはほとんどない。カイコのサナギは極めて栄養価が高いのにもかかわらず‥。

 それは伊那谷名物のハチノコやザザムシでも同様のことがいえる。
 ハチノコはジバチの子だが、伊那谷の業者は遠く東北や中国地方にまでハチノコ取りにでかけている。ザザムシも日本のほかの河川でも生息しているのにもかかわらず、それを人間の食用にしているところはほとんどない。伊那谷ではそのほかにもナラやナギの木の根元にいるゴトウムシやセミの幼虫なども食用にしている。そのため、
「伊那人のゲテもの食い」
 とよくいわれる。
 その理由としては、
「伊那谷は海から遠く、まわりが山ばかりで貧しい土地だから、何でも食べなくてはならなかった」
 と、もっともらしくいわれている。

 だが、それは大間違いだ。貧しい土地だからゲテものを食ってきたのではない。
 伊那谷で馬肉料理を筆頭に、種々雑多な動物タンパク源を食用にしてきたのは、伊那人が頭がいいからできたことなのだ。それに尽きるとぼくは思っている。
 それら種々雑多な動物タンパクが体にいいことを伊那人は昔から知っていた。これぞまさしく生活の知恵、食への知恵。伊那人の合理的な精神風土からきている。
 馬肉料理で満腹になった伊那でぼくは、
「頭のいい人間は何でも食う!」
 という食への結論を導き出した。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行

著者・管理人

Author: 賀曽利隆
Twitter:@kasori3000
Administrator:ウザワ・K

電子で復刊!
カテゴリー
Amazon
ブログ内検索 by Google
広告も社会の窓。
最近のコメント
RSSフィード
FC2ブログランキング
このブログが面白いと思ったらたまに(あるいは頻繁に!)クリックしてくださいね(ポチっとな)。それで何が起こるのかは僕も知らんけど…。
カソリお役立ちリンク
管理人推奨リンク
最近の記事
月別アーカイブ
小さな天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2カウンター
QRコード
QRコード