カソリの食文化研究所:第18回 比内編

(『ツーリングGO!GO!』2004年4月号 所収)

「東京→青森」の「東北縦断・食べまくり」をした。
 スズキDR-Z400Sを徹底的に走らせ、
「カソリの鉄の胃袋パワー」
 を全開にして、次から次へと食べまくった。
 まさにカソリの本領発揮だ。

 東北の米は最高に旨いので何を食べても美味。どこで食べても美味。その中でも一番の忘れられない味といえば、これはもう、文句無しに秋田県北部の比内町で食べた「きりたんぽ鍋」だった。
 秋田の郷土料理といえば、大多数の人が「きりたんぽ鍋」を頭に思い浮かべることだろう。きりたんぽ鍋はそれほどのもの。まさに秋田を代表する郷土料理だし、カソリの選ぶ日本の郷土料理ベスト10でも上位にランクされるものなのだ。
 比内町の国道285号沿いの道の駅「ひない」にあるレストラン「比内どり」で「きりたんぽ鍋」を食べた。
 グツグツ煮えたぎった鍋には切ったきりたんぽと比内地鶏、マイタケ、セリ、ネギ、糸こんにゃくが入っている。鍋の底には笹がきゴボウが敷きつめられている。
 こんがりと焼いた汁のしみかけたきりたんぽはメチャうま! 
 比内地鶏には野鳥の肉を思わせるようなしっかりとした歯ごたえがあった。

 きりたんぽ鍋のうまさの秘密は汁。
 醤油と味醂、若干の酒で味つけされた汁には、比内地鶏のダシがじつによく出ている。これがポイントなのである。
 比内といえば「日本三大地鶏」のひとつ、比内鶏の産地。現在、比内鶏は天然記念物に指定されているので食べることはできないが、その比内鶏とかけあわせた比内地鶏が使われている。
 地元の方にいわせると、比内鶏と比べても、味に遜色はまったくないという。
 きりたんぽ鍋と比内地鶏の相性は抜群にいいのだ。
 きりたんぽは粳米に糯米をすこし混ぜで炊き、すりこぎで米粒の形が残る程度に搗いて練ったあと、杉串に巻きつけて焼いたもの。
 昔は囲炉裏のまわりに立てかけて焼いた。
 囲炉裏をほとんど見かけなくなった今日ではガスで焼くことが多い。

 もともとは「秋田マタギ」で知られる阿仁地方など北秋田郡の山地を生活の舞台にする猟師や木こりたちのものだったという。
 彼らは弁当の輪っぱの冷や飯を木の棒にはりつけ、それを焼いて持ち歩いた。そうすることによって腐敗を防いだ。まさに山地民の生活の知恵なのである。
 江戸時代のこと。
 視察にきた花輪藩主にこれを差し上げたところ、
「これは何というものだ?」
 と聞かれた。
 その形が稽古槍の先につける「たんぽ」に似ており、それを切って使うところから、地元民は即座に、
「きりたんぽといいます」
 と答えた。
 それ以来、「きりたんぽ」の名前が広まったという。
 そのきりたんぽに山椒醤油や胡桃醤油、練り味噌をつけて食べていた。
 さらに山でとれた山菜類やキノコ類、キジやヤマドリの鳥肉と一緒に鍋ものにして食べるようにもなった。それがいつしか家庭料理の「きりたんぽ鍋」になったのである。

 新米が出始めると、まるでそれを待っていたかのように、「きりたんぽ鍋」はご馳走の主役として登場するようになる。
 秋田の家庭では客人へのもてなしや祝い事、収穫のねぎらい…と、なにかというときりたんぽ鍋つくる。比内のコンビニにも「きりたんぽ鍋、発送します」の貼り紙があった。 秋田にはきりたんぽ鍋とよく似た「だまこ鍋」という鍋料理もある。
 だまこというのはお手玉のことで、ご飯を搗きつぶし、お手玉のような形の団子状に丸め、それを焼かずに入れた鍋料理である。

 きりたんぽ鍋にしても、だまこ鍋にしても、「日本の米どころ」、秋田ならではの郷土料理である。
 米の旨い東北と冒頭でいったが、奥羽山脈を境にして日本海側、羽州側の方がよりうまい。比内に限らず、秋田ではどこでもそうだが、ふらっと入った食堂で出てくるご飯の味のよさには驚かされてしまう。
 ご飯の味のよさがあるからこそ、きりたんぽ鍋にしても、だまこ鍋にしても、米を主役にした鍋料理がグッとひきたつのである。
 米こそ日本の食文化の基本! 
「きりたんぽ鍋」を食べて実感したのは、このあたりまえのことだった。




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管理人の畏友・スガワラユウコ画伯に

トップページのイラストを描いていただきました~!
代価は某秘密地下クラブ(笑)の飲み代若干と、管理人気合の「アラちゃん」写真+フォトフレーム付(まだ渡してませんけど)…というまさにボランティアベース丸出し。
すみませんね! 画伯。

お詫びがてら、スガ先生のHPであります>
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/kinsei/k_index.html

タイトルボックスを下げたので、右サイドにぽっかり空白が・・・明日以降、なんとか解決します…。

カソリ撮影の写真もいい味してるので(しかも追加予定)、これから気分に応じてローテーションさせていただこうかと考えております。

改めましてスガ画伯に感謝!
(以上、管理人より)

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「カソリの1万円旅」(2)「駆けた! 入った! 東伊豆12湯」

 (『旅』1991年5月号)

 1000円札9枚と、100円玉10個をギュッッと握りしめて、250㏄バイクのスズキDR250Sで神奈川県伊勢原市の自宅を出発したのは、1991年2月28日の、まだ暗い、午前5時のことだった。
 この1万円で、東伊豆の海岸線の温泉に、1湯でも多く入ろういう試みの旅だ。バイクは満タンにしてある。最後に伊勢原に戻ったときにガソリンを入れ、満タンにするというレンタカー方式をとる。
 朝食・昼食の食事代を浮かせるために女房につくってもらった弁当と、タオル、地図、カメラ、雨具を持っての日帰りのツーリング。宿泊費に一銭も使わなければ、1万円でもけっこうな旅ができるはずだ。

 熱海到着は午前7時。さっそく「駅前温泉浴場」に行く。いままでに何度も入っている公衆温泉浴場で、ここを第1湯目にするつもりでいた。ところが、閉まっているではないか…。午後2時から10時までが営業時間だった。
 それではと、駅周辺の温泉ホテルに入浴を頼むが、当然のことのように断られた。
 断られるたびに、シュンと気分は沈んでしまう。気をとりなおし、温泉旅館にあたる。やっと、駅近くの「竜宮閣」という温泉旅館の湯に入ることができた。無色透明の湯につかりながら、ホッと救われたような気分になる。入浴料600円。第1湯目の温泉に入ることのできた喜びで、思わずニコニコしてしまう。

 熱海から国道135号を南へ。
 第2湯目は網代温泉「あじろ第一ホテル」(入浴料500円)の湯だ。
「泊まりの学生さんが、お湯の中にシャンプーを入れちゃいましてね。今の若い人たち、いったい、なにを考えているのかしら…。それで、すこしあぶくが残ってますけど、どうぞごゆっくり」
 やさしそうなおかみさんが印象的な湯だった。

 第3湯目は宇佐美温泉の温泉民宿「おっとと村」(入浴料500円)。ここの大展望風呂はよかった。すばらしい景色をながめながらの入浴。眼下の宇佐美湾は、雲の切れ目から射し込む日の光を浴びて、キラキラまぶしいくらいに光り輝いていた。湯から上がると高台にバイクを止め、海にストンと落ちる山や湾、漁港、町なみをながめながら、朝食の弁当を食べた。
 第4湯目は伊東温泉。まず、伊東駅に行く。駅は情報の宝庫。駅舎内の案内板で共同浴場を探し、行ってみる。だがここも、熱海と同じように午後から…。そのかわり温泉旅館「松林館」(入浴料300円)の湯に入った。

 伊東温泉を過ぎると、雨になる。それも、“春一番”の強風をともなっての雨。まるで暴風雨だ。
 春の嵐の中を走り、第5湯目の大川温泉では温泉旅館「きむらや」(入浴料500円)の湯に入った。
 湯から上がると、宿のおかみさんはうれしそうな声で「湾岸戦争の停戦が発表されましたよ」と教えてくれた。
 第6湯目の北川温泉では温泉旅館「大屋丸」(入浴料500円)の湯に入る。ここまですべて無色透明で無味無臭の湯だったが、ここの湯は塩からい。東伊豆の温泉の大半は食塩泉だが、このように同じ食塩泉でも塩分の濃度には濃淡がある。

 第7湯目の熱川温泉では「ホテルみどり館」(入浴料500円)の露天風呂に入った。 第8湯目の片瀬温泉では温泉旅館「福松荘」(入浴料500円)の湯に入った。
 大川温泉から片瀬温泉までの4湯の湯は、まるで取り決めでもしているかのようにすべて入浴料500円。短い距離の間でのハシゴ湯なので、けっこうフラフラになる。それでも、
「もっと、もっと1湯でも多くの温泉に入るゾ!」
 と気合を入れる。
 温泉のハシゴ湯というのは気合がすべてなのだ。

 伊東以南の東伊豆では最大の温泉地、稲取温泉には高層の温泉ホテルや温泉旅館が40軒近くもあるが、これらの温泉ホテルや温泉旅館で入浴を頼んだが、どこでも「入浴はお泊まりのお客さまだけでして‥‥」と断られた。公衆温泉浴場の「寿湯」に行くと臨時休業。もう1軒の「都湯」に行くとまだ開いていない。ガックリ‥‥。
 温泉のハシゴ湯の難しさをかみしめる。
「困ったときには飯を食え!」
 というのがカソリの旅の格言なので、さきほどの半分残してある弁当をひろげ、白い波頭のたつ稲取の海を見ながら食べた。
 食べおわると気持ちがすごく落ちつき、
「稲取温泉はパスだ!」
 と、そう決め、第9湯目の今井浜温泉に向かった。

 地獄のあとの天国とはまさにこのこと。
 今井浜温泉の町営露天風呂(入浴料500円)は最高だ。目の前に広がる大海原を眺めながら湯につかる。断崖にぶつかる波しぶき‥‥。
「おー、これぞ、温泉!!」
 露天風呂の湯につかりながら、自分の体と大自然が一体になるかのような陶酔感にひたった。稲取温泉の湯に入れずに落ち込んだ気持ちなど、どこかに吹き飛んでしまう。
 伊勢原から148キロの下田到着は夕方の4時。ここで給油。
 6・7リッター入って959円だった。

 第10湯目は下田温泉の公衆温泉浴場「昭和湯」(260円)。
 下田からさらに伊豆半島南端の石廊崎を目指し、第11湯目、弓ヶ浜温泉「弓ヶ浜ロイヤルホテル文雅」(入浴料700円)の湯に入る。こうして東伊豆から南伊豆におかけての海岸線の温泉、11湯に入り、夕暮れの石廊崎に立った。灯台に灯が入る。誰もいない岬の先端に立ちつくし、水平線が闇の中に沈んでいくまで海を眺めつづける。潮の香に黒潮の匂いが入り混じっているようだった。
 さて、最後の12湯目に挑戦! 
 来た道を引き返し、稲取温泉まで戻ると、まっすぐに「都湯」(入浴料260円)に行く。ねらいは的中し、開いていた。営業時間は午後3時半から9時半までとのこと。
「やったネ!」という気分で、さっそく「都湯」に入る。
「ここの湯はな、ホテルなんかのボイラーで沸かした湯よりもよっぽど効くんだ。兄さんはいい湯に入ったよ」
 湯船で一緒になった地元の常連さんにそういわれた。
 のぼせるくらいに長湯し、意気揚々と湯から上がる。

 なんともいえない達成感を感じる。ここまで、温泉の入浴料とガソリン代しか使っていないので、まだ3421円残っている。最後のガソリン代を1000円ぐらいみておけばいいので、2000円は使える計算になる。
「よーし、ここで夕食だ!」
 伊豆急行の伊豆稲取駅近くの居酒屋で湯上がりのビールをキューッと一杯飲む。これがたまらなくうまいのだ。ビール代は500円。そのあと、キンメ(金目鯛)の味噌漬けとイワシの塩焼きをおかずに、ご飯と味噌汁の夕食にした。夕食代は1500円。山形県酒田の出身だという店のおかみさんとすっかり話し込み、気がつくと時間は10時を過ぎていた。
 ホロ酔いをさましたところで出発。(※管理人注:この当時はいざ知らず[当時もダメだろうが]、いまはコレやっちゃダメですよ!)

 夜道を走りつづけ、伊勢原に帰りついたのは夜中の2時。
 24時間営業のガソリンスタンドで給油し、DR250Sのタンクを満タンにすると、ガソリン代は7・7リッターで939円。まだ482円も残っている。
 21時間、9518円をかけての東伊豆温泉三昧。
 そして思った。
「1万円温泉旅はおもしろい! 今度は西伊豆温泉三昧をやろう!!」

■後日談
 この東伊豆12湯の1万円温泉旅はなんともおもしろいものだった。「うーん、1万円でここまでできるのか」といった驚きがあったし、1万円という枠を設定し、そのなかで懸命になって頭と体を使う旅の仕方がすごく気に入った。
 このあとすぐに、『旅』の誌面で宣言したとおり、西伊豆の1万円温泉旅に出た。
 1991年4月9日のことだ。
 バイクは250㏄のロードバイク、スズキ・アクロス。神奈川県伊勢原市の自宅を午前4時に出発し、伊豆半島南端の石廊崎には午前9時に着いた。
 そこから西伊豆を北上したのだ。

1、雲見温泉の温泉民宿「さかんや」(入浴料200円)
2、雲見温泉の海辺の露天風呂(無料湯)
3、石部温泉の温泉旅館「いでゆ荘」(500円)
4、石部温泉の平六地蔵露天風呂(無料湯)
5、岩地温泉の温泉民宿「やまさん」(入浴料300円)
6、堂ヶ島温泉の共同浴場(入浴料200円)
7、堂ヶ島温泉の沢田公園露天風呂(入浴料500円)
8、浮島温泉の共同浴場(無料湯)
9、土肥温泉の屋形共同浴場(150円)
10、戸田温泉の「壱の湯」(300円)
11、修善寺温泉の「独鈷の湯」(無料湯)
 という順番に、全部で11湯に入った。

 これら温泉の入浴料の合計は2150円。
 最後は沼津ICから東名高速に入り、秦野中井ICまで走り、午後10時に伊勢原の自宅に戻ってきた。全行程392キロ。
 行きに西湘バイパス(100円)、帰りに東名高速(1150円)を走ったので、有料道路代が1250円。ガソリン代が2610円、3度の食事代が2350円(朝の朝定食500円、昼のラーメンライス550円、夜の刺し身定食1300円)、それと石廊崎のジャングルパーク入場料が700円、土肥金山入場料が800円。合計9860円。
 140円、残った「1万円旅」だった。


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「カソリの1万円旅」(1):「伊豆半島一周」の温泉めぐり

 (『ジパングツーリング』1998年10月号 所収)

“バイク1万円旅”のおもしろさは、自分の持っている体力、知力の限りを尽くしてやるところにある。それだから「1万円でできそうなツーリング」などは論外で、1万円でできるかどうかわからない、ギリギリの線を狙うのが最高におもしろい。
 で、今回、計画したのは「伊豆半島一周」の温泉めぐり。共同湯をメインにし、20湯以上の温泉に入ろうというものだ。
 ルールはひとつ、入浴料の上限を500円とする。
“温泉のカソリ”が“湯魂”を旗印に、自分の持っているパワーのすべてを「伊豆半島一周」にぶつけるのだ。

 1998年7月13日午前5時、JR東海道線の三島駅前で“G麺ヒラシー”こと、カメラマンの平島格さんと落ち合う。
 それまでの10日間ほどというものは毎日、地図と温泉情報とのにらめっこ。その結果の、練りに練ったルートが「三島→熱海」だ。反時計回りに伊豆半島を一周しようというもの。三島駅前午前5時集合というのもすごく意味のある時間なのだ。1万円で最大限のツーリングをするときには、事前の情報収集と計画づくりは欠かせないが、これがまたすごく楽しい!

「さー、出発だ!」
“バイク1万円旅”といったが、今回はスクーター。
 スズキのスカイウエイブに乗って颯爽と走りだす。この250㏄のスクーターは、なんとも楽チン。シートの下には檜の桶とタオルの温泉セットが入っている。
 まずは伊豆の一宮、三島大社に参拝し“1万円旅”の成功を祈願する。三島は昔も今も伊豆国の中心だ。
「伊豆半島一周」温泉めぐりの第1ステージは“中伊豆篇”。R136を南下し第1湯目の伊豆長岡温泉へ。
 こにには4軒の共同湯があるが、早朝からやっているのは「あやめ湯」だけ。6時半のオープンと同時に「あやめ湯」到着。
 お見事、お見事! 
 この6時半という時間に合わせての、三島駅前5時集合だった。

 第2湯目の修善寺温泉「独鈷の湯」に入り、第3湯目の湯ヶ島温泉へ。よく知られた共同湯「河鹿の湯」は午後からなので、もうひとつの共同湯「世古の湯」に入った。こうして“中伊豆篇”の3湯に入り、幸先のよいスタートを切った。
 修善寺温泉に戻ると、コンビニで6枚入りの食パンと、6枚入りのスライスチーズを買う。それを持って戸田峠まで行き朝食にする。2枚のパンに1枚のチーズをはさんで食べるのだが、これが「伊豆半島一周」の主食。2年前の1996年には、ぼくはこのチーズサンドを主食にして「オーストラリア2周7万2000キロ」を走った。

 戸田峠を下り、戸田温泉に着いたところで、第2ステージの“西伊豆篇”の温泉めぐりを開始する。
 共同湯「壱の湯」は10時オープンだが、ぴったり10時に到着し、「あやめの湯」同様、最高に気持ちのいい一番湯に入ることができた。
 次の土肥温泉には4軒の共同湯があるが、朝からやっている「大藪共同浴場」に入り、湯から上がったところで番台のオジサンとひとしきり温泉談義をした。
 土肥からは国道136号で西伊豆の海岸を南下し、浮島温泉、堂ヶ島温泉、祢宜之畑温泉、大沢温泉、松崎温泉と5湯の温泉をハシゴ湯する。さらに岩地温泉、石部温泉、雲見温泉と3湯の無料混浴の露天風呂に入る。3湯とも若い女性たちと一緒になったが、全員が水着‥。

 西伊豆から第3ステージの南伊豆へ。
 弓ヶ浜温泉では「みなと湯」、下田温泉では「昭和湯」と共同湯に入り、「昭和湯」を出るころには夜になっていた。
 下田のスーパーで食料を買い込み、国道135号で今度は、東伊豆の海岸を北上。第4ステージの東伊豆に入っていく。
 稲取温泉の共同湯「都湯」に入り、熱川温泉に着いたところで海岸でテントを張ってキャンプする。夕食は豪華版。150円引きのカツオの刺し身を肴に、ヒラシーと“下田温泉ビール”で乾杯。3本58円のキューリと1束100円の葉ショウガに味噌をつけ、バリバリ食った。そのあと飯を炊き、味噌汁をつくり、半額セールのサンマの塩焼きとカレイのあんかけをおかずにして食べた。満腹だ!!

 翌朝は、夜明けとともに起き、太平洋に昇る朝日を眺める。心が清められるような瞬間だ。
 熱川温泉の共同湯「高磯の湯」は9時半オープンなので、その前に隣の第17湯目になる北川温泉に先に行く。
 6時オープンの北川温泉の混浴露天風呂「黒根岩風呂」は入浴料が500円を超えるが、ここだけは唯一の例外とした。長湯を決め込み、コンビニでパンと一緒に買った缶ジュースをなるべくもたせるようにチビチビ飲みながら湯につかる。若いカップルと一緒になったが、彼女はギュッと体にバスタオルを巻き付けていた。
 湯につかりながら聞く太平洋の潮騒が胸に響いた。

 次に大川温泉を通り越したところにある赤沢温泉の無料の混浴露天風呂に入った。
 ここでは埼玉からやってきた若者2人組と一緒になったが、胸がジーンとするほど、気分のいい若者たちだった。大学生とフリーター。夜中の1時に突然、「海に行こうゼ!」ということになり、オンボロ車を走らせてやってきたという。
 北川温泉、赤沢温泉と2湯の温泉に入ったところで、熱川温泉に戻り、海辺の露天風呂「高磯の湯」に行く。
 受付のお姉さんに、
「男湯は今、入れないのよ。女湯でよければどうぞ」
 といわれ、嬉しくなってしまう。
 お姉さんには「女性客が来たらここで待ってもらうから、ゆっくり入っていいのよ」といわれたが、「いやー、ぼくたちは全然かまいませんよ」というカソリ&ヒラシー。女湯というだけで、湯には若き女性の肌の香りが漂っているようだった。

 そしていよいよ第20湯目の大川温泉の「磯の湯」に入る。まずは目標とした20湯を達成したのだ。「磯の湯」は、海辺の男女別の露天風呂。ここは11時オープンなので、それに合わせてやってきた。入浴料の500円を払って残ったお金が2063円。まだ余裕を残している。次の伊東温泉の共同湯は午後2時から。時間的にもかなり余裕がある。
 そこで、「磯の湯」から上がると、東伊豆を観光することにした。
 最初に行ったのは、東伊豆第一の海岸美を誇る城ヶ崎海岸の門脇岬。岬突端の切り立った断崖上に立ち、門脇灯台(無料)に登り、城ヶ崎海岸を見下ろした。
 次に一碧湖に行く。周囲4キロの小さな湖だが、海の近くにあるとは思えないほどの奥深さ、神秘さを感じる。
 湖畔でチーズサンドの昼食にし、食後は30分の昼寝をむさぼった。

 13時45分、伊東着。
 第21湯目の伊東温泉では、伊東駅近くの共同湯「第一共同浴場」に行った。すでに常連の何人かの人たちが開くのを待っていた。ぼくたちも一緒に並び、午後の2時になるのと同時にオープンした共同湯に入り、湯につかりながら常連さんたちの話をそれとはなしに聞くのだった。
 第22湯目の宇佐美温泉に入り、ついに16時45分、第23湯目の熱海温泉に到着。共同湯の「駅前温泉浴場」の湯に入り、ガソリンを満タンにして熱海駅前をゴールにしたが、駅前の“トレビの泉”風の間歇泉に1円玉2個を投げ入れ、253円が残った。合計9747円の“1万円旅”。1万円でここまでできるのだ!

 熱海駅前をゴールにしたが、そのまま東京に帰るようなカソリではない。
 徹底的に“1万円旅”にこだわり、残金の253円で熱海で贅沢な夕食にする。残っているのはパン2枚とチーズ1枚、ニンジン1本。ここはヒラシーと勝負だ。同じ253円を持ってスーパーに行き、1円でも安い買い物をする。制限時間は15分。
 その結果はカソリが完熟トマト大1個(100円)、バナナ1本(40円)、ヨーグルト200g(98円)、消費税11円で合計249円。残金4円。ヒラシーは安売りコーラ(39円)、ヒレカツ(100円)、消費税10円で合計219円。残金34円。ヒラシーの打倒カソリへの道はまだ遠かった…。
 カソリはまず完熟トマトをガバッと食い、生のニンジンとヨーグルト・バナナをおかずにチーズサンドを食べ、ヨーグルトをデザートにした。
 ヒラシーはコーラを飲みながらチーズ&ヒレカツサンドを食べ、ヨーグルトをデザートにした。カソリ&ヒラシーともに満ち足りた夕食となった。


■「伊豆半島一周」で入った温泉
1、伊豆長岡温泉「あやめ湯」300円
2、修善寺温泉「独鈷の湯」無料
3、湯ヶ島温泉「世古の大湯」100円
4、戸田温泉「壱の湯」300円
5、土肥温泉「大藪共同浴場」200円
6、浮島温泉「しおさいの湯」500円
7、堂ヶ島温泉「沢田公園露天風呂」500円
8、祢宜ノ畑温泉「やまびこ荘」500円
9、松崎温泉「国民宿舎伊豆まつざき荘」210円
10、大沢温泉「かじかの湯」500円
11、岩地温泉「ヨット風呂」無料
12、石部温泉「平六地蔵露天風呂」無料
13、雲見温泉「雲見露天風呂」無料
14、弓ヶ浜温泉「みなと湯」300円
15、下田温泉「昭和湯」340円
16、稲取温泉「都湯」340円
17、北川温泉「黒根岩風呂」600円
18、赤沢温泉「赤沢露天風呂」無料
19、熱川温泉「高磯の湯」500円
20、大川温泉「磯の湯」500円
21、伊東温泉「第一共同浴場」170円
22、宇佐美温泉「おっとと村」500円
23、熱海温泉「駅前温泉浴場」350円
入浴料合計6710円


■「伊豆半島一周・一万円旅」で使ったお金
(第1日目)
温泉入浴料  4090円
ガソリン代   966円
食費      953円
缶ビール    228円
賽銭        5円
(第2日目)
温泉入浴料  2620円
ガソリン代   383円
食費      170円
缶ビール    230円
缶紅茶     100円
熱海駅前      2円
合計9747円
(残り253円)

スーパー食費  249円
(残り4円)


花村萬月 自由に至る旅―オートバイの魅力・野宿の愉しみ (集英社新書)※PC用リンク

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「オーストラリア2周」前編:第9回 ダーウィン→ケアンズ

 (『月刊オートバイ』1997年9月号 所収)

 大陸縦断ルートの「ダーウィン-アデレード」間の往復7500キロを走破し、また、ダーウィンに戻ってきた。
 オースラリア人は北部地方を“トップエンド(地の果て)”と呼んでいるが、その中心地がダーウィンだ。ここからR1をフォローし、太平洋岸のケアンズに向かっていく。「オーストラリア一周」(第1周目)も後半戦に入る。さー、走るゾと、カソリ、気合十分だ。

ダーウィンでの再会
 ダーウィンに到着したのは夕暮れの迫るころ。南緯12度の熱帯圏のこの町は、まだまだ暑く、汗がタラタラ流れ落ちる。
 目抜き通りに面したバックパッカーズの「エルケズ・インターシティー」に行くと、満員で泊まれなかったが、なんとここで、西オーストラリア・ブルームのバックパッカーズ「ローバックベイ」で一緒になったスティーブ&ステフィーのカップルに再会した。
「信じられない、奇跡だ!」
 と3人で抱き合って喜んだ。
 ぼくは前回のダーウィンで2泊したバックパッカーズの「ゲッコーロッジ」に行き、すばやくシャワーを浴び、オートバイのウエアからジーンズとTシャツという格好に着替え、その夜はスティーブ&ステフィーと夕食をともにした。そのあと「ダーウィンホテル」に行き、3人でビールを飲んだ。

 この「ダーウィンホテル」は歴史のある建物で、第2次大戦中の日本軍のたび重なる空襲にも、1974年のクリスマスにダーウィンを襲ったサイクロン(このときはダーウィンの町は壊滅的な被害を受け、300人以上が死亡した)にもやられなかったホテルなのである。
 スティーブ&ステフィーとはダーウィン産のビール、「カカドゥービール」をジョッキでグイグイ飲み干し、何杯もおかわりし、そのたびに乾杯をくりかえした。「ダーウィンホテル」を出るころには、飲み過ぎで、足腰がふらつくほどだった。

 翌朝、「エルケズ・インターシティー」に行き、スティーブ&ステフィーが用意してくれた朝食を彼らと一緒に食べる。マンゴーの木の下のテーブルで食べる。優雅な朝食だった。すっかりご馳走になったところで、2人に見送られてダーウィンを出発。胸にジーンとくる別れとなった。
 ぼくはこの前半戦の「オーストラリア一周」のあと、いったん日本に帰り、日本国内をまわったあと、第2回目の「オーストラリア一周」に旅立ったのだが、真先に行ったところは、シドニー郊外に住むスティーブ&ステフィーの家だった。

廃線の終着駅
「さー、行くゼ!」
 とスズキDJEBEL250XCに、いつものようにひと声かけて走り出し、ダーウィンの町を離れていく。郊外のワニ園を見たあと、カカドゥー・ナショナルパークへ。その途中でアデレード川を渡ったが、ワニの多く生息する水量豊かな川で、川岸に大ワニを見た。
 入園料の12ドルを払ってカカドゥー・ナショナルパークに入る。暑さが厳しい。巨大なアリ塚が林立している。何本か渡った川の橋のたもとには、「ワニに注意!」と書かれていた。
 カカドゥー・ナショナルパークの中心地ジャビルーで昼食にし、オーストラリアの先住民アボリジニの岩壁画を見る。伝説上の人物(神)や動物を描いた岩壁画は心に残るものだった。さらにアボリジニのカルチャーセンターを見学し、マリーリバーゲートを通ってR1に出た。

 南へ。キャサリンへ。
「アデレード-ダーウィン」間の大陸往復縦断で、2度泊まっているバックパッカーズの「クックバラロッジ」に今回も泊まった。前回でもふれたようにここは男女同室のバックパッカーズ。前回の“花園天国”ほどでないにしても、今回も若い日本人女性2人と同室になった。
 2人は“バスダー”。バスを乗り継いでオーストラリアを一周している。ここに来る途中では、西オーストラリアの人里遠く離れた真珠の養殖場で、2ヵ月あまりバイトしたという。
 同室となったもう1人は男でスイス人のハインツ。彼はすっかりオーストラリアにはまり込み、スイスで半年働いては資金を貯め、そのお金でもって、半年間、オーストラリアを旅している。今回が3度目で、アデレードで中古車を買い、旅の最後でその車を売り払ってスイスに帰るという。北部地方がすっかり気に入り、また、オーストラリアには戻ってくるという。

 キャサリンからさらに南へ。温泉のあるマタランカを通り、ラリマで止まる。ここは、かつての鉄道の終着駅。今は廃線となったダーウィンからの鉄道がここまで来ていた。ホームや線路、列車が残され、入場無料の資料館もある。
 駅前の「ラリマホテル」のパブでビールを飲む。客はぼくだけだった。白髪のマスターが、ラリマの歴史を話してくれた。
 第2次大戦中、このあたりにはアメリカ軍の基地があった。6500人ものアメリカ兵が駐屯していた。日本軍の攻撃に備えたものだった。ここにはオーストラリア軍の基地もあり、ダーウィンへの鉄道は、戦略的な意味を強く持っていたという。
 マスターは日本軍のダーウィン空襲の写真や資料も見せてくれたが、ダーウィン空襲というのは、オーストラリア人にとっては未だに消えない傷痕になっているのだ。

ダートのR1を行く
 キャサリンから南に280キロ走ったところに、ロードハウスの「ハイウエイ・イン」がある。ここで大陸縦断ルートのスチュワート・ハイウエイ(ダーウィンからここまでがR1)とカーペンタリア湾に通じるR1のカーペンタリア・ハイウエイに分かれる。
 ロードハウスのレストランでTボーンステーキを食べ、パワーをつけ、カーペンタリア・ハイウエイに入っていく。
 交通量は、ガクッと少なくなる。道は中央の1車線分が舗装で、車がすれ違うときは、お互いに片側の車輪をダートに落として走行しなくてはならない。
 280キロ走って夕方、ケープクラウフォードのロードハウスに着いたが、その間では、わずかに5台の車とすれ違っただけだった。
「オースラリア一周」の出発点シドニーからここまでずっとR1を走ってきたが、この280キロ間が一番交通量が少ない。

 ナイトランでアボリジニの町ボロルーラへ。闇夜の平原に、突然、灯が見えてくる。マッカーサーリバー鉱山だ。日本語で鉱山といえば、山地を連想するが、銀や亜鉛を産出するこのマッカーサーリバー鉱山は、大平原のまっただなかにある。
 このマッカーサーリバー鉱山を過ぎると道は2車線の舗装路になる。ケープクラウフォードから120キロ走ったボロルーラには夜の8時過ぎに到着し、キャラバンパークに泊まった。
 翌日、ボロルーラからいったんカーペンタリア湾に出る。その間75キロ。遠浅の海。釣りをしている人の姿を見る。海岸にはマングローブがはえている。ここにはマッカーサーリバー鉱山の鉱石を積み出す港がある。
 ボロルーラに戻ると、アボリジニの町をぐるりとまわった。古い警察の建物が博物館になっている。入口の料金箱に2ドル入れて見学する。本物のアボリジニたちが使ったブーメランが展示されていた。
 昼食を食べ、給油し、出発。R1のウォロンゴラング・ロードでクイーンズランド州へ。その間の260キロはダート。全長1万5000キロ、世界最長のオーストラリア・ナショナルハイウエイ1号線にもダート区間がある。赤土の道を赤い土煙りを巻き上げながら走った。
 
クイーンズランドの温泉めぐり
 ノーザンテリトリーからクイーンズランド州に入るとR1の表示が消えた‥‥。ダートはきついコルゲイション。路面は規則正しい凹凸のくり返し。
「ガタガタガタッ」
 と、DJEBEL250XCは,車体がバラバラになってしまうのではないかと心配になるほどの激しい振動音をたてながら走る。腹わたがよじれそう。ただひたすらに、我慢、我慢の連続で走る。
 その名も恐ろしげなヘルゲート(地獄門)のキャラバンパークで泊まり、ボーダー(州境)から240キロのバークタウンへ。その間は全線がダートだ。
 さらに230キロのダートを走り、ノーマントンの町へ。熱風が渦巻いて吹きすさぶ。暑さが厳しいよぉ。頭がクラクラしてくる。無数のアリ塚。赤い砂塵を巻き上げて走る。何本もの川を渡る。ノーマントンに着くと、すぐさま冷たいコーラを飲み、カソリ、生き返った!

 ノーマントンの町から舗装路を10キロ南に走ったところで、ケアンズへの道との分岐点のT字路に出るが、そこでふたたびR1の表示に出会った。
 ボーダーからここまで470キロ、その間のルートがR1なのかどうなのか定かではない。それはともかくとして、大陸をぐるりと一周するR1は、この区間が不明確なのだ。
 R1のガルフ・ディベロップメンタル・ロードを東へ。このままずっと舗装路かと思ったら途中からダート。ダートを45キロ走り、夕方、クロイドンの町に着く。ナイトランで次の町、ジョージタウンへ。その間にも30キロのダートがあった。夜はキャラバンパークで泊まる。すでに大分水嶺山脈の山中に入っているので、夜間はひんやりとし、シュラフのみだと、寒いくらいだった。

 翌日、ケアンズへ。ジョージタウンから50キロほど行ったところでR1を左折し、ダートを9キロ走ったところに、タラルー温泉がある。牧場内にわき出る温泉で、ここでは8ドルの入園料を払って温泉見学をする。
 何でもよく知っている博学なオバチャンが案内してくれる。あたたか味のあるオバチャン。メルボルンから来たという車で旅している夫婦と一緒にタラルー温泉を見てまわった。
 ここには40度、54度、65度、70度、74度の5つの源泉があるが、そのうち最大の74度の源泉は1時間の湧出量6000ガロン(約2万7000リッター)と、ぼう大な湯量だ。最後に、ちょうどいい湯温の温泉プール風露天風呂に入るのだった。
 さらにもうひとつ、ケアンズへの途中のR1沿いには、イノット温泉がある。川の中に湧き出る温泉。砂を堀り、湯船をつくり、湯を溜めてつかる。日本の南紀の川湯温泉のような天然露天風呂。“温泉のカソリ”、オーストラリアの温泉に大満足し、ケアンズへと向かった。


■「オーストラリアの温泉」
「ダーウィン→アデレード」編では、ノーザンテリトリーのダグラス温泉、キャサリン温泉、マタランカ温泉と、3湯の温泉を紹介した。
 そして今回の「ダーウィン→ケアンズ」編では、タラルー温泉、イノット温泉の2湯の温泉に入った。
 ということで第1周目の「オーストラリア一周」では、計5湯の温泉に入ったことになる。
 さらに第1周目にひきつづいて走った第2周目の「オーストラリア一周」では、シンプソン砂漠横断ルート入口にあるダルフーシー温泉に入った。

 ここはすごい温泉で、大きな池、全体が天然の大露天風呂になっている。ジャスト適温。すべてが桁外れに大きいオーストラリアを象徴するかのような温泉で、もちろん日本には、これだけ大きな露天風呂はない。
 日本だったら、これだけの温泉があれば、たちまち、一大温泉街になり、温泉旅館やホテルが立ち並び、みやげもの屋が建ち並ぶところだが、そこはオーストラリア、駐車場があるくらいで、ほかには人工的なものは一切ない、自然そのまんまの温泉なのだ。温泉観が違うのだ。
 辺境の地にある温泉なのでやってくる人たちも少なく、こういう湯につかると、自分の温泉観まで変わってしまうほどだ。
 ダルフーシーは、大陸縦断のスチュワート・ハイウエイのクルゲラからフィンケ経由で330キロほどの地点にあるので、これからオーストラリアをオートバイで走ろうというみなさんぜひとも行ってみて下さい。

 もうひとつ、ダート630キロのウーダナダッタ・トラックから数キロ入った砂漠のまっただ中にある“バブラー”にも行った。ここは残念ながら自然保護ということで入浴禁止になっていたので、湯を手ですくい、顔を洗ったが、直径数メートルというかわいらしい沼の底からブクブク湧き出る温泉を見ていると、何か、すごく自然界の不思議さを感じるのだった。
 以上が、「オーストラリア2周」で出会った7つの温泉だ。

■1973年の「オーストラリア2周」
 1973年の「オーストラリア2周」の第2周目では、シドニーを出発点にして反時計回りで大陸を一周した。オーバイはスズキ・ハスラーTS250だ。
 パースからアデレードへ。今回とは逆方向でR1を走ったがその途中では、TS125で走っていたイギリス人のジョンと出会い、彼と3日間、一緒に走った。夜は野宿だ。
 ジョンはイギリスのロンドンを出発し、アジアを横断し、オーストラリアに渡った。シドニーがゴールだった。夜は焚き火にあたり、酒をのみながら、お互いの旅の話をした。彼と一緒に走った3日間というものは、ほんとうに楽しかった。

 ジョンに限らず、パースからアデレード間のR1では、何台ものヨーロッパ人ライダーに出会った。とくにナラボー平原横断の区間では、ロードハウスに着くたびごとに、必ずといっていいほどヨーロッパ人ライダーに会った。
 オートバイにGBマークをつけたイギリス人、Dマークをつけたドイツ人、CHマークをつけたスイス人ライダーがが多かった。GBはイギリス、Dはドイツ、CHはスイスの、それぞれの国別の識別記号である。

 彼らはジョンと同じように、ヨーロッパの彼らの家を出発すると、トルコのイスタンブールまで行き、そこからトルコ、イラン、アフガニスタン、パキスタンと西アジアを横断し、インドに入った。たいてい、ネパールのカトマンズに寄り、インドのマドラスから船でマレーシアのペナンに渡り、シンガポールから船でパースの外港、フリーマントルに渡り、シドニーを目指した。1973年当時というのは、「ロンドン→シドニー」はすごい人気のオーバーランドのルートになっていたのだ。
 ところが、今回の1996年の「オーストラリア2周」ではヨーロッパ人ライダーは、それほどみかけなかった。さらに出会ったヨーロッパ人ライダーの大半は、ヨーロッパからオートバイを持ち込んだのではなく、オーストラリアで買ったり、レンタルしてまわっていた。

 これが1973年と1996年の大きな違い。というのは、当時はアジア横断は何ら問題なかったが、現在はヨーロッパ人にとってイラン入国が大きな難関になっているし、インドからオーストラリアにオートバイを送るのもそう簡単ではないからだ。海外ツーリングというのはある時期、簡単にできたルートでも、時がたつと難しくなるというケースがけっこう多い。


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ジャンル : 車・バイク


カソリの食文化研究所:第17回 信州編

 (『ツーリングGO!GO!』2004年1月号 所収)

 信州名物の「おやき」を食べようと、諏訪盆地の下諏訪から、佐久平(佐久盆地)の岩村田まで、スズキDJEBEL250GPSバージョンで中山道を走った。
 この間の中山道には、昔ながらの面影を今にとどめる宿場町がいくつも残っていて、旧街道を見てまわるのに絶好のコースになっている。
 おやきを食べるのにも、最適の舞台だとカソリは考えた。

 秋晴れの一日で、中山道の峠、和田峠や笠取峠周辺の紅葉が見事だった。
 下諏訪では諏訪大社下社の秋宮に参拝してから走り出す。
 秋宮前を走る国道142号をわずかに行ったT字の交差点が中山道と甲州街道の合流点だ。甲州街道はここが終点になる。
 そこに立つ「甲州道中山道合流之地」碑には「右 江戸へ五十三里十一丁 左 江戸より五十五里七丁」と書かれている。右が甲州街道で左が中山道。その差はわずかに1里半(約6キロ)でしかない。
 下諏訪から東京までは甲州街道を行く方がはるかに近いように感じるが、中山道で行っても、それほど距離に変わりはない。

 中山道最大の難所、標高1520メートルの和田峠は旧道で越えた。
 峠を登るにつれて赤や黄色の紅葉がまばゆいばかりに輝きを増す。ビーナスラインと交差する峠を下り、トンネルで峠を抜ける新道と合流。
 峠下の宿場、和田宿に向かっていく途中で、待望の「おやき」の看板を発見! 
 国道142号沿いの食堂「杉の屋」だ。

 バイクを停めて店内に入ると、薪ストーブが赤々と燃えていた。
 ここには野沢菜、小豆、茄子、野菜ミックスの4種類のおやきがあった。
 1個200円。
 4種のおやきをひとつづつ食べてみる。小麦粉のおやきの中にはそれぞれの具がたっぷりと入っている。このバラエティーに富んだ味わいがおやきの魅力。その中でも野沢菜は小麦粉との相性が抜群にいい。
 野沢菜、茄子、野菜ミックスと野菜系の3種を食べたあと、最後に小豆餡のおやきを食べた。おやきはツーリングの途中でたべる軽食にはじつに手頃だが、4個も食べると、けっこう腹いっぱいになる。

 おやきは小麦粉をぬるま湯でこね、中に野菜類や小豆の餡を入れてゆで、焼いたもの。こねた小麦粉をゆでたあとに、さらに焼くのが味噌で、焼き餅ともいわれる。
「杉の屋」でストーブにあたりながらおやきを食べていると、冬の秋山郷をバイクで走ったときのことが、思い出されてならなかった。
 新潟、長野両県にまたがる秋山郷は久しく秘境といわれてきたところ。
 新潟側から長野側に入り、最奥の切明温泉で川原の露天風呂に入り、その夜は長野県側の小赤沢の民宿に泊まった。

 翌朝、民宿の奥さんは「おやき」の原型の「アンボ」をつくってくれた。
「昔はね、朝、早起きして、アンボをつくったものよ。石臼でヒエとかソバをひいて粉にして。アンボはだいたい朝食に食べるものと決まっていてね」
 といいながら、米粉(粳米)をこね鉢に入れ、湯を注ぎ、粉をよくこねて丸め、その中に餡を入れた。
 アンボの中に入れた餡は野沢菜の漬物を刻んで油で炒めたものと、ゆでた青菜を味噌で和えたもの、それと甘い小豆餡の3種だった。
 餡を入れて丸めなおすと、鍋で湧かした湯の中に入れ、グラグラッとゆで、それをストーブの上にのせた網で焼いた。焼き立てをフーフーいいながら食べたが、こんがりと、焦げ目がつくくらいに焼けたアンボの香ばしさがたまらなかった。

「イロリがあったころはね、熱い灰をかきわけてそこにアンボを並べ、半分くらい灰をかけておいたのよ。少しして、裏返しにして、七分くらい灰をかけて。それを裏返しして、すっかり灰をかけて焼き上げるの。焼けたアンボを灰の中から取り出して、ポンポンとたたくと、灰はきれいに落ちるのよ」
 イロリがあったころは、餡を入れて丸めたアンボはゆでることなく、そのまま熱い灰で焼いたという。だがイロリのなくなった現在では、ゆでて焼いてと、アンボのつくり方も変わった。

「おやき」の看板を掲げた店を信州各地で見かけるが、使う粉は大半が小麦粉。だが、おやきはもともとは秋山郷のような、山間の水田のほとんどない、焼畑などで盛んにヒエやアワなどの雑穀類やソバをつくっていた山村特有の食べ物。ヒエ粉やソバ粉などでつくっていた。それが小麦粉に変わった。
「おやき」は今、手頃な軽食として時代の脚光を浴びている。
 味にも工夫がこらされ、信州の街道沿いには「おやき」の専門店が次々とできている。 これぞまさしく食文化の現代的発展だ!


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テーマ : 旅の思い出
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カソリの食文化研究所:第16回 気仙沼編

 (『ツーリングGO!GO!』2003年12月号 所収)

 気仙沼漁港のカツオの水揚げは、他港を圧倒して日本一だ。
「日本一」を見たくなるのは、我らツーリングライダーの本能のようなもの。
「戻りがつお漁」がはじまったというニュースを聞くと、水揚げのシーンを見たくて9月上旬、午前0時を期してスズキDR-Z400Sで東京を出発。
 真夜中の東北道を一関ICまで一気に走り、国道284号で夜明けの気仙沼に到着。気仙沼漁港に直行した。

 漁港の岸壁には5隻のカツオ一本釣り漁の漁船が接岸していた。船室の壁にズラズラッと立てかけられた釣り竿がカツオの一本釣り漁を物語っていた。
 それらの漁船がじつに興味深い。宮崎県日南市が2隻、宮崎県南郷町、三重県紀伊長島町、静岡県御前崎町と5隻すべてが県外の船だ。
 それぞれの港からカツオを追って気仙沼までやってきた。そのうち日南市の「第3神徳丸」の乗組員に話を聞いた。

 5月上旬に目井津漁港(南郷町)を出港し、太平洋を北上するカツオの群れを追って漁をつづけ、7月には気仙沼にやってきた。戻りがつお漁が終わる11月中旬には日南市に戻るという。
 この戻りがつおはふっくらとして、たっぷりと脂分をふくんでいる。小名浜や石巻、気仙沼などの東北のカツオ漁の拠点の港では、さっぱり系の初がつおよりも、こってり系の戻りがつおがより好まれているようだ。少女よりも熟女を好むようなもの!?
「第3神徳丸」は午前5時に気仙沼漁港に接岸し、競りの始まる7時までの2時間で17トンのカツオを大、中、小のサイズに分けて水揚げした。大は3キロを超えるという。
 とれたてのカツオなだけに、銀白の腹に走る何条かの縞模様が鮮明だ。

 広い魚市場いっぱいにカツオの入った容器が並べられ、7時に競りが始まる。業者が入札し、落札結果がアナウンスされる。落札した業者はすぐさま、カツオ満杯の容器をトラックに積み込み、魚市場を飛び出していく。
 腐りやすいカツオは鮮度が勝負。鮮度が落ちれば、値段もガクンと落ちてしまう。水揚げ→競り→出荷と時間との激烈な競争が見られる気仙沼漁港だった。

 カツオの水揚げと競りを見たあと、魚市場に隣りあったレストラン「海の市」でカツオの刺し身とタタキを食べた。さすが鮮度満点のカツオだけあって、生きのよさはひと目でわかる。
 刺し身もたたきもともに存在感のある色をしている。刺し身とたたきには、ともにニンニク、ショウガ、ワサビ、それと刻みネギが添えられている。
 これがまた食文化研究家カソリの心をおおいにくすぐった。おもしろい!

 東京あたりではカツオといえばショウガ醤油で食べるのが一般的だが、九州や四国などではニンニク醤油で食べる方が一般的になっている。それが気仙沼ではニンニク、ショガのほかにワサビまでついていた。
「お好みの味でどうぞ」といことなのだろうが、カツオを食べる食習慣がそれほど古くからは根づいていないという証明だと推理した。
 ぼくの好みでいえば、初がつおはショウガ醤油で、戻りがつおはニンニク醤油でということになる。
 気仙沼で戻りがつおを食べてみて感じたのは、青葉の季節に食べる初がつおよりも、よっぽど味がいいということだ。

 江戸っ子はとくに初がつおを好んだ。
「女房を質に入れてでも食べたいのが初がつお」
 といわれたほどで、その伝統から初がつおが実際の味以上の貴ばれ、好まれてきたともいえる。
 それともうひとつ、気仙沼でカツオの刺し身とたたきを食べ比べてみて、刺し身のうまさが際立ったことだ。
「なにもたたきにしなくてもいいではないか」
 と思ったほど。これも戻りがつおの味のよさからきているのだろう。

 ぼくにとってはカツオほど我がツーリングシーンに登場する魚はない。
 有人島としては日本最南の波照間島で泊まった民宿では、奥さんが夕方とれたカツオを刺し身にし、大皿に盛ってくれた。さらに波照間産の泡盛「泡波」をびんごと、ドンと置いてくれた。カツオの刺し身と「泡波」の取り合わせは絶妙だった。
 九州のカツオ漁の拠点、枕崎港の食堂ではカツオの内蔵煮、山川港の食堂ではハラカワ(腹皮)の塩焼きを食べた。
 土佐では何度もカツオのたたきを食べた。土佐の豪華料理「皿鉢料理」の主役もカツオのたたき。「皿鉢料理」から抜け出た「カツオのたたき」は土佐を代表する郷土料理の一品になっている。
 ブ厚く切った切り身を青紫蘇の葉とニンニクで食べると、
「う~ん、これぞ土佐!」
 と思わずうなってしまう。

 志摩の和具港の食堂ではカツオ漁の漁師料理からはじまったといわれる名物「手こねずし」を食べた。カツオの赤身がマグロの赤身以上の赤さに見えた。
 昨年(2002年)の「東北一周」では小名浜漁港の食堂でカツオの刺し身を食べて走り出したが、メチャウマのカツオだった。食堂の奥さんは、
「小名浜のカツオは、日本でも一番、おいしいのよ!」
 と、自慢していた。

 カツオは回遊魚。
 沖縄よりもはるか南方の海で生まれたカツオは、黒潮にのって4月下旬ごろ九州沖を通過し、9月初旬ごろ青森県の沖合まで北上。そこからふたたび生まれ故郷を目指して南下していく。
 この謎の多い神秘的な回遊を毎年、繰り返している。
 回遊ルートの地点の違いによって、季節の違いによって味も大きさも変わってくるのがカツオ。日本各地でカツオ料理を食べてみるとわかるカツオの食文化圏。カツオ料理から見える日本。それが食文化を追い求めてのツーリングのおもしろさというものだ!


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テーマ : 旅の思い出
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「オーストラリア2周」前編:第8回 アデレード→ダーウィン

 (『月刊オートバイ』1997年8月号 所収)

 ダーウィンから大陸を縦断してたどり着いたアデレードでは前回同様、バックパッカーズの「ラックサッカーズ」に宿泊。ここは日本人ライダーの溜まり場だが、なんと“王様”や“広さん”とうれしい再会をした。
 このアデレードから、来た道をダーウィンへと戻っていくのだが、カソリ、全精力を投入して、全行程3100キロの一気走りに挑戦だー! 
 目標は、40時間。午前0時、ザーザー降りの雨の中、アデレード中央駅前を出発したのだがさーて、どうなることやら‥‥

青春の群像
 アデレードのバックパッカーズ「ラックサッカーズ」では、タスマニア島からメルボルンへのフェリーで出会ったハンターカブCT110の“王様”とバスダー(バスでまわる旅人)の“磯野カツオ君”、西オーストラリアのノーズマンで出会ったスーパーテネレの“広さん”とうれしい再会だ。
「やーやー、元気?」
 と、何度も握手をかわす。
 さらに、スーパーカブ90のベンジー、カワサキ1000のマサ、DR250での旅を終えたアデレード大好きのイケさんと日本人ライダーたちとの出会いが待っていた。
 ライダー以外にも、ウダさんとヨネさんがいた。ウダさんは『O』誌の熱烈な読者だが、ライダーではなく、カーダー(車でまわる旅人)をしている。函館出身のヨネさんは、まだ10代の若き旅人だ。

 夕食はシェア飯(みんなで少しづつのお金を出し合ってつくる食事)のカレーライス。日本風の味だ。食事が終わると、全員でウダさんの車に乗り込んだり、オートバイを連ねたりしてアデレードの夜景を一望できる山上まで行く。見事な夜景だ!函館の夜景が思い出される。
 みんなも同じ気持ちで、アデレードの夜景を眺めながら、話題はもっぱら函館‥‥。
「(函館の朝市で)三平汁を喰いたいよー」
「なんたって、イクラ丼」
「いやー、ウニ丼だ」
 と、食べる話に夢中になる。

 アデレードの夜景を目に焼き付けたところで、「ラックサッカーズ」に戻る。みんなで何ドルかづつを出し合ってカンビールを買い、ガンガン飲み、おおいに語り合い、飲み会は夜中までつづいた。
 各人それぞれがそれぞれの思いをこめてオーストラリアを旅しているのだが、その思いに胸がジーンとしてくる。カンビールを飲みながら、青春の甘ずっぱさといったものが胸に迫り、
「おー、青春の群像よ」
 そう心の中で叫んでしまう。
「また、どこかで会おうぜ!」
 と、再会を約束して、深夜の宴会はお開きになるのだった。

さー、一気走りだ!
 翌朝はヨネさんがつくってくれたパスタを食べ、「ラックサッカーズ」のマーガレットおばさんや前夜の“宴会組”の面々の見送りを受け、あいにくの雨の中を走り出す。
 アデレードから114キロ、カンガルー島を目の前に眺めるジャービス岬まで行き、帰路はビクトリアハーバー経由でアデレードに戻った。1日中、雨の中‥‥。
 中心街の1泊38ドルの「シティーモーテル」に泊まる。早めの夕食を食べ、一気走りに備え午後8時には早々とベッドにもぐり込む。3時間ほど眠り、11時過ぎに起きる。身支度を整え相変わらず降りつづいている雨の中を走り、「アデレード→ダーウィン3100キロ」の一気走りのスタート地点、アデレード中央駅前へ。
 午前0時になるのと同時に、スズキDJEBEL250XCのセルスターター一発、エンジンをかけ、雨の中を走り出す。R1を西へ。速度をいつもより10キロアップし、100キロから110キロの間で走る。

 3時45分、ポートオーガスタ着。ここまでの300キロは、ノンストップだ。BPの24時間営業のロードハウスで給油し、コーヒーを飲む。うまい! 生き返るゼ!
 ポートオーガスタからはR87を北へ。ありがたいことに雨がやむ。そのかわり、気温がグググッと下がり、寒さに震える。半月がコウコウと輝いていた。
 6時45分、夜明け。地平線がうっすらと白みはじめる。うれしい! やったぜ! DJEBELのハンドルを握りながら、思わずガッツポーズだ。
 7時30分、608キロ地点のグレンダンボ着。ここで給油&朝食。コーンフレークに、ベーコン&エッグス。それとコーヒー。8時20分、出発。しばらくは猛烈な眠気で、ヘルメットの中であくびを連発した。
 11時00分、862キロ地点のクバーペディー着。ここで給油&コーヒー。11時30分に出発。やっと寒さから解放される。

 13時30分、1000キロ地点で記念撮影。日本では、下道を走っての1000キロ一気走りというと、24時間を切るのは、至難の技だ。ところがオーストラリアだと13時間半でできてしまうのだ。
 アデレードを出てからここまで、信号はポートオーガスタだけだった。
 14時45分、1097キロ地点のマーラ着。給油とピザ&チップス、コカコーラの食事。15時05分、出発。しばらくすると、猛烈な睡魔。我慢できずに10分の昼寝。この短い眠りで体はスーッとウソのように楽になる。
 16時30分、南オーストラリアとノーザンテリトリーのボーダー(州境)を通過する。
 17時45分、1351キロ地点のエルダンダ着。給油&コーヒー。18時、出発。ここを過ぎるとまっ黒な雲の中に入っていったが、パラパラッと雨がぱらつく程度。日が暮れ、ナイトランになる。それ、行け。DJEBELよ、頼むぞ!
 20時50分、ついに大陸縦断の中間点、アリススプリングスに到着した。ここまで1557キロ、それを20時間50分で走ったのだ。ダーウィンまであと1500キロ、目指せ、40時間!

トラブル発生
 シェルのロードハウスで給油&食事。アデレードから20時間以上走ってきた疲れがドドッと吹き出し、ここで泊まりたいなあ‥‥と、泣きが入る。そんな気持ちを振り切り、21時30分、アリススプリングスを出発。カンガルーの飛び出しに怯えながら北へと走る。
 アリススプリングスから30キロ地点の南回帰線を過ぎたところで、突然、左のウィンカーが異常な点滅をするのと同時に、ヒューズが飛んだのだろう、ライトが消え、エンジンも停止した。トラブル発生だ。シドニーを出発してから2万4000キロで迎える最初のトラブルた。
 ここで「アデレード→ダーウィン」の一気走りを一時、中断しなくてはならなかったが、悔しいというよりもむしろ、これで少しは眠れるゾと、ホッとした気分だった。
 月明かりも星明かりもない真っ暗闇の中、DJEBELを30分ほど押し、南回帰線のモニュメントまで戻る。そこで野宿。いつものようにシュラフのみでのゴロ寝。夜中に雨に降られたが、そのまま夜明けまで寝た。

 翌朝、このモニュメントにやってきた車に頼み、携帯電話を借り、アリススプリングスの町に電話し、バイクレッカーに来てもらう。電話してから30分もかからずに、バイクレッカーの小型トラックが来てくれた。
 スズキのディーラーまで運んでもらったが料金は102ドル、日本円で約9000円だった。
 すぐさま、メカニックのスティーブンがみてくれた。
 だが、配線に異常は見当たらない。ヒューズを交換し、予備に2つのヒューズを持ち、11時30分、アリススプリングスを出発。もう一度、ダーウィンまでの一気走りに挑戦だ。 R87を北へ。体が重い‥‥。気分がどうしても、のらない。いったん、中断してしまった一気走りをつづけるのは、難しいことだった。結局その日は、アリススプリングスから759キロ走ったエリオットという町に22時30分に着いたが、
「もう、ダメ。ここまでだ」
 と、ついに一気走りを断念。道路わきにベンチで1晩、眠ることにした。

ここは天国、花園だ!
 翌日はエリオットから421キロ走ったキャサリンのバックパッカーズ、「クックバラロッジ」に泊まる。ここは前回の「ダーウィン→アデレード」編でもふれたように、男女同室のバックパッカーズなのだが、なんと今回は、8人用の部屋に女の子が4人、男はぼくだけというまるで花園状態。“一気走り地獄”のあとの“花園天国”といったところなのだ。
 オーストラリア人の女の子2人、ドイツ人の女の子1人、イギリス人の女の子1人の花園に入ると、若い女性特有の匂いが部屋中に充満していて、頭がクラクラッとしてしまう‥‥。

 この4人のうち、イギリス人女性とはダーウィンで会ったことがある。毎週水曜日におこなわれる「ビクトリア・ホテル」のフリーバーベキュー(タダでバーベキューが食べられる)で一緒の列に並んだのだ。ぼくのすぐ後が彼女だった。なにしろプロポーション抜群なので、目に焼きつくほどに、しっかりと彼女をおぼえていた。
 旅での出会いというのは、そんなちょっとしたきっかでも、
「やー、あのときの‥‥」
 で、すぐに仲良くなれるものなのだ。

 彼女の名前はカレン。20歳。マンチェスターの女子大生で、大学を1年間、休学して旅に出た。オーストラリアをバスでまわっているが、ブリスベーンからニュージーランドに飛ぶという。食事を終えると、オーストラリア産ワインを飲みながら話した。彼女は毎日、日記をつけているが、その日記帳に、彼女の名前の“カレン・ウッドハウス”をカタカナで書いてあげると、すごく喜んだ。
 11時近くになったところで、
「おやすみ」
 といって、ぼくが先に寝る。すでに部屋の電気は消え、ほかの3人の女の子たちはスヤスヤと寝息をたてている。ぼくは2段ベッドの上段で寝る。

 しばらくするとカレンが部屋に入ってきた。彼女のベッドは狭い通路をはさんだ下段。なんとカレンは、その通路で着替えるのだ。着ているものを脱ぎ、パンツひとつになる。薄明かりのなかで、その一部始終が全部見えてしまう。彼女は上にパープルの薄地のランジェリーを着ると、ベッドに横になった。
 たまらないゼ‥‥。彼女のズッシリと重そうな胸のふくらみが目の底にこびりつき、寝ようとしても、目がさえてなかなか寝つけないのだ。眠くてどうしようもなかった一気走りのときとは、エライ違いだ。

 翌朝はぼくが一番最初に起きた。目がはれぼったい。「クックバラロッジ」はすごくいいのだが、各ドミトリーごとにシャワールームとキッチンがついている。
 シャワーを浴び、キッチンでコーヒーを沸かしていると、カレンが起きてきた。なんとカレンは、パンツとランジェリ、そのまんまの格好で朝食の準備をはじめるではないか‥‥。
 パープルのランジェリーは薄地のものなので、光りの当たる角度によっては、透けて、乳首まで見えてしまう。また、丈が短いものなので、すこし前かがみになると、チラチラと白いパンツが見えてしまう。
「おい、おい、カレンちゃん、キ、キミは、ぼくを誘惑しようとしているのかい?」

 キャサリンから北へ、ダーウィンへ。その間は322キロだったが、途中で2度、ヒューズが飛んだ。そのたびにヒューズを交換し、なんとか、ダーウィンに到着。すぐさま「ノーザンテリトリー・スズキ」に行き、もう一度、配線を見てもらう。
 ついに、発見! 
 ハーネスの束から1本だけ分かれて、左のフロントのウィンカーに通じるラインに,耳かきでひっかいたような小さな傷がある。それがハンドルに触れるとショートしヒューズが飛ぶのだった。その個所をビニールテープで巻き、修理完了。もうこれで大丈夫。
「アリススプリングス→ダーウィン」の一気走りは、また次の機会に絶対に挑戦してやるゾ!と固く決心するカソリだった。


■1973年の「オーストラリア2周」
 1973年の「オーストラリア2周」の出発点のシドニーでは、『モーターサイクル・ニューズ』の取材を受けた。
 編集長のジェフ・コラートンさんが直々にやってきたのだが、なんと彼とはその4年前の1969年にイギリスのロンドンで会っていたのだ。旅の途中では、こういう信じられない再会もある。
 1968年から69年にかけてぼくはスズキTC250を走らせ、「アフリカ大陸一周」をしたが、その途中でヨーロッパをまわり、イギリスに渡った。
 ロンドンに到着し、テムズ川にかかるウエストミンスター橋を渡っているとき、オートバイに乗っている人に呼び止められた。その人は、『モターサイクル』編集長のジョン・エブローさんだった。橋の上で写真をとられ、それが『モーターサイクル』に大きな扱いでのった。

 それがきっかけとなってエブローさんの家に泊めてもらい、バイト先まで紹介してもらったのだ。仕事の休みの日にフリート・ストリートにある『モーターサイクル』の編集部を訪ねたが、そこで会ったのがエブローさんの部下のコラートンさんだった。その後、彼はオーストラリアに移住し、シドニーの『モーターサイクル・ニューズ』の編集長になったのだ。
 なんとも偶然な再会だが、
「キミはあれからずっと世界をまわっていたのか!」
 と、ぼく以上にコラートンさんの方が驚いていた。

 このときは、
「世界を駆けるジャパニーズ・ライダーのミスター・カソリがこれからオーストラリア一周に出発!」
 と『モーターサイクル・ニューズ』にデカデカと書かれた。そして、それはシドニーだけのことではなかった。ブリスベーンでも、ダーウィンでも、パースでも、アデレードでも、行った先々で、「日本人ライダーがオーストラリアを一周中」 と、地元の新聞に大きく紹介された。パースなどでは、テレビニュースにもなった。
 これが、1973年の「オーストラリア2周」と1996年の「オーストラリア2周」の大きな違いだ。
 1973年当時のオーストラリアは“白豪主義”の色彩が強く、まさに白人の国だった。そのため日本人ライダーはきわめて珍しく、日本人ライダーがオーストラリアを一周しているというだけで大きなニュースになるほどだった。それが今では、「オーストラリア一周」といえば日本人ライダーが一番多い。


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カソリの峠越え(15):四国編(4)祖谷の峠

 (『月刊オートバイ』1995年7月号 所収)
      
 四国の峠越え第4弾目は徳島県の祖谷(いや)の峠だ。
 祖谷といえば、かつては富山県の五箇山や熊本県の五家荘とともに、“日本三大秘境”などとよくいわれた。
 祖谷は西祖谷山村と東祖谷山村に分かれているが、古くは祖山とか弥山、伊屋山などと書かれたという。
 祖谷は四国第2の高峰、標高1955メートルの剣山を源とする祖谷川流域の山村で、平家の落人伝説でよく知られている。
 周囲をぐるりと険しい山々に囲まれた祖谷は、よその世界とは隔絶されたような世界。まさに隠れ里にふさわしい。祖谷からはどこに行くのにも峠を越える。それだけに、祖谷の峠越えはじつにおもしろい。

大歩危・小歩危の青石
 祖谷の峠越えの出発点は徳島県西部の池田。
“四国三郎”の異名を持つ四国最大の川、吉野川中流の町だ。交通の要衝で香川、愛媛、高知に通じる道の十字路になっている。
 峠越えの相棒スズキDJEBEL200とともに、JR池田駅前に立つ。
 池田は土讃線と徳島線の分岐駅。駅舎前で記念撮影。出発の儀式を終えると、セルスターターを押す。一発でエンジンがかかり、軽くアクセルをひねって走りだす。
「さー、行くぜ、DJEBELよ!」

 池田からは吉野川沿いに国道33号を走る。風景は平地から山地へと大きく変わる。
 吉野川の両側には、切り立った崖がそそりたち、激流が岩をかんで渦を巻き、白いしぶきをあげている。
 名所の大歩危・小歩危に入っていく。小歩危が下流で、大歩危が上流になる。
 大歩危・小歩危はまさに青い世界。“阿波の青石”で知られる緑泥結晶片岩がきわだった目立ち方をしている。
 吉野川の清流の青さと、青石の青さが不思議な魅力をたたえている。
 DJEBELを止めてながめていると、スーッと、激流の中に吸い込まれてしまいそうになるほどなのだ。

 吉野川は、全長194キロ。四国の最高峰、石鎚山(1982m)の東、瓶ヶ森山を源にしている。高知県内を東に流れ、徳島県に入ると、北の方向に流れを変える。そして、この大歩危・小歩危の峡谷を流れ、四国山脈を縦断し、山地を抜け出た池田で流れを東に変え、約80キロ流れて徳島で紀伊水道に注いでいる。
 大歩危・小歩危というのは、吉野川が四国の中央分水嶺の四国山脈を断ち割って流れている現場なのだ。

祖谷温泉の露天風呂
 大歩危・小歩危の峡谷美を目の底に焼き付け、国道32号で池田方向に戻り、JR土讃線の祖谷口駅まで戻る。
 ここが吉野川と祖谷川の合流点。赤い鉄橋を渡り、吉野川本流と別れ、祖谷川沿いの祖谷街道を行く。
 祖谷街道は幅狭い道。松尾川が合流する地点にある出合の集落を過ぎると“祖谷渓”と呼ばれる大峡谷に入っていく。
 断崖絶壁が連続し、祖谷川の流れをはるか眼下に見下ろす。神峡とか馬蹄渓、小金剛などの絶景ポイントがいくつもあり、その数は60近くにもなるという。
 池田町出合から西祖谷山村一宇までの10キロあまりにわたってつづく祖谷渓だが、その中に祖谷温泉がある。

 峡谷を見下ろす断崖上に一軒宿の「ホテル祖谷温泉」が建っている。
 DJEBELを止め、ひと風呂、浴びていく。入浴料は1500円。
 この祖谷温泉には露天風呂がある。祖谷川の谷底にある露天風呂。傾斜角が42度という逆さ落としのようなケーブルカー(ケーブルカーの受付は午後4時で終了)に乗って下っていくのだ。
 祖谷川の川原の露天風呂は、男女別になっている。源泉の湯温は約40度。湧出量は毎分1500リッター。湯量豊富な温泉。祖谷川の渓流を目の前に眺めながら、気分よく湯につかれる露天風呂だ。
 祖谷温泉を過ぎると、池田町から、西祖谷山村に入る。祖谷渓を抜け出、西祖谷山村の中心、一宇に着いたところで、食堂に入り、昼食にする。祖谷は昔からのソバの名産地。ここでは手打ちそばを食べた。

落人伝説の祖谷
 西祖谷村の中心、一宇からさらに祖谷川の上流へとDJEBELを走らせる。
 善徳に、有名な祖谷のかずら橋がある。410円を払い、ゆらゆら揺れるかずら橋を渡る。足下に祖谷川の渓流を見下ろす。ちょっぴり恐い。
 山口県岩国市の錦帯橋、山梨県大月市の猿橋とともに“日本三奇橋”に数えられている祖谷のかずら橋だが、この善徳のかずら橋は長さ45メートル、幅1・5メートルで、川面から15メートルの高さのところにかかっている。

 この橋は昭和3年に完成したそうで、それ以降、3年ごとに架け替えられてきた。カズラの中の水分が少なく、虫のつきにくい12月から1月にかけて架け替えるのだという。
 祖谷のかずら橋の材料は、海抜600メートル以上の高地に自生しているシロクチカズラ。このカズラは太いものになると、周囲は15センチにもなるとのこと。火にあぶると屈曲自在になり、細工しやすくなるという。
 かつては祖谷のあちこちにあったというかずら橋は、弘法大師がつくったものだとか、屋島の合戦で敗れた平家の一門が、追手を避けるためにすぐに切り落とせるようにしたものだとか、その起源には諸説がある。
 明治末期には全部で8つのかずら橋がかかっていたという。

 ところで祖谷にかぎらず日本の山村には、フジやカズラでつくった橋が各地にあった。だが、近代になって鉄製のワイヤーでつくったつり橋が普及すると、あっというまにその姿を消していった。
 それだけに祖谷のかずら橋は貴重なもので国の重要民俗文化財に指定されている。

 祖谷川沿いにさらに走り西祖谷山村から東祖谷山村に入る。
 栃ノ瀬で“与作国道”で知られる国道439号にぶつかるが、そこから山の中腹にある阿佐という集落まで行ってみる。阿佐には平家の落人の子孫、阿佐家があるのだ。
 周囲を高く険しい山々に囲まれた祖谷は、平家の落人伝説でよく知られている。
 屋島の合戦で源氏に敗れた平家一門は、四国山中の祖谷山に落ちのびたのだ。
 平敦盛の次男、平国盛んの子孫が阿佐家だとのことで、現当主はなんと26代目になるという。平家の大旗、小旗の赤旗が、子孫代々、大事に保存されている。
 阿佐家のほかにも、久保家や菅生家、奥井家、有瀬家などの平家の落人の子孫がこの地に住んでいる。

 祖谷川沿いに池田から祖谷に通じる祖谷街道が開通したのは大正年間のこと。それ以前は小島峠を越えて貞光へ、落合峠、桟敷峠を越えて三加茂へ、水ノ口峠を越えて井川へ、京柱峠を越えて大豊へと、高さ1000メートル級の峠を越えて吉野川流域の町々に通じていた。
 それらはどれも険しい峠道で、越えるのは容易でなかった。
 祖谷はよその世界とは隔絶された、まさに隠れ里のようなところなのである。

四国第一の絶景峠
 さー、いよいよ、祖谷の峠越えの開始だ。
 まず、栃ノ瀬から“与作国道”の国道439号で、京柱峠に向かう。
 祖谷川の支流に沿って一気に駆け登っていく。国道439号は国道とはいっても、林道を舗装した程度の道だ。
 グングン高度を上げ、峠に近づくと、急激に気温が下がる。やがてチラチラと雪がふってくる。北西の季節風が身を切るような冷たさ。

 標高1150メートルの京柱峠に到着。
 徳島・高知の県境の峠で、四国第一といってもいいほどの絶景峠。京柱峠は、祖谷の南側の出入口になっていた。
 徳島側には剣山へとつづく高峰が連なり、山頂周辺は雪化粧している。ひときは目立つのは標高1812メートルの天狗塚。ドーンとそびえている。
 高知側には見渡すかぎりゆるやかな山並みがつづき、山々の中腹には点々と集落が見える。徳島側とはうってかわって、ポカポカ陽気であたたかな日差しが差し込めていた。
 京柱峠からは、一気に高知側を下っていく。JR土讃線の豊永駅近くで国道32号にぶつかるが、そこを折り返し点にし、もう一度、京柱峠を越えて祖谷の栃ノ瀬に戻った。

剣山の峠、見ノ越
 栃ノ瀬では、自販機でホットのカンコーヒーを買う。まずは手をあたため、そのあとで祖谷川にかかる橋の上で飲む。ひと息入れたところで、国道439号で今度は剣山の峠、見ノ越に向かっていく。
 祖谷川沿いの道。上流に向かって走る。
 東祖谷山村の役場前を通り、郵便局のある落合、菅生の集落、そして最奥の集落、名頃と通り、剣山の山頂直下の峠、見ノ越を目指して登っていく。すでに、祖谷川は小さな流れ。やがて雪化粧した剣山が見えてくる。

 標高1450メートルの見ノ越に到着。
 ここには食堂や売店があるが、冬期間は休業なのだろう、どこもシャッターを下ろし、人影はない。剣山の山頂近くまで行くリフトも止まっている。見ノ越はまさに冬景色一色で、寒風に吹かれながら、峠の剣山神社に参拝した。
 見ノ越は東祖谷山村と木屋平村の境の峠。峠は短いトンネルで貫かれている。ここで国道438号と合流するが、見ノ越からはその国道438号で貞光に向かっていく。
 丸笹山の西側の名無し峠をこえていく。目の前にそびえる剣山がものすごい迫力で迫ってくる。
 丸笹山の名無し峠を越え一宇村に入ると、北側斜面の峠道はツルンツルンのアイスバーンだ。こういうときは、両足ベタづきできるDJEBELは強い。転倒もしないでアイスバーンの峠道を下っていく。
 一宇村から、さらに吉野川の河畔の貞光まで下り、国道192号との交差点に出た。

雪と氷の峠越え
 貞光からは、来た道を引き返し、一宇村から県道で標高1380メートルの小島峠を越える。峠には、新しいお堂ができ、地蔵がまつられていた。
 小島峠は一宇村と東祖谷山村との境の峠。祖谷山側には3キロのダート区間があったが、峠を下ると、R439の菅生に出る。そこから落合まで下り、祖谷山の峠越えのメインイベントといってもいい落合峠を目指すのだ。
 落合峠は祖谷山でも、一番高い峠だ。
 すでに峠は雪で覆われているので越えるのは無理ではないかと、地元の人にもいわれたが、それでもどうしても行ってみたい。行ってだめだったら諦めがつくというもので、そこから引き返してくればいい。

「行くゾー!」
 と、腹に力を入れ、気合を入れ、落合から落合峠に向かっていく。
 峠道を登るにつれて、猛烈な寒さ。冬用のグラブなのにもかかわらず、手の指がちぎれそうな寒さなのである。
 四国がこんなにも、寒いなんて‥‥。泣きの連続でDJEBELのハンドルにしがみついている。
 峠に近づくと、路面には青氷が張りついている。そこで見事に転倒。DJEBELを起こそうにも、ツルツル滑って足場がつくれないので、なかなか起こせない。冬の峠道の厳しさをいやというほど味わうのだった。
 やっとの思いでDJEBELを起こし、ふたたび、峠道を登っていく。

 標高1519メートルの落合峠に到着。
 だが、峠を吹き抜けていく雪まじりの烈風は、すさまじいものだった。DJEBELごと吹き飛ばされるのではないかと、不安におののいてしまう。
 さらに、その風の冷たいことといったらなく、ズブズブズブズブと錐が体に突き刺さってくるような痛みを感じる。
 峠に立ち止まる余裕もなく、尻尾を巻いて逃げるようにして、落合峠を下っていった。 雪もアイスバーンも消えたときは、心底、ホッとした。この落合峠の下りでは、10キロ区間がダートだった。
 落合峠を越えると、もうひとつ、標高1012メートルの桟敷峠を越え、吉野川流域の三加茂に出た。

ナイトランの峠越え
 三加茂から国道192号で池田方向に走り、隣町の井川で国道を離れ、祖谷の最後の峠となる水ノ口峠に向かっていく。すでに日はとっぷりと暮れ、ナイトランの峠越え。大光量ライトのDJEBELなので、すごく助かる。
 水ノ口峠は標高1116メートル。井川町と西祖谷山村の境の峠だ。祖谷の峠越えでは京柱峠にはじまり、この水ノ口峠まで、全部で7つの峠を越えたがすべてが標高1000メートル以上の峠になる。そのことからも祖谷がいかに高い山々に取り囲まれているかがよくわかる。
 腕山(1332m)の北側の水ノ口峠からは、まったく交通量のない夜の峠道を下っていく。
 山中にポツンポツンと明かりの見える小祖谷を通り、祖谷渓入口の出合に出る。そして国道32号の祖谷口に出ると南下した。。
 大歩危・小歩危を通り、徳島県から高知県に入る。
 大豊町の大杉にある「日和佐屋旅館」に泊まる。夜の9時という遅い時間の到着にもかかわらず、宿の女将さんは夕食を用意して待っていてくれていた。それがなんともいえずにうれしかった。

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カソリの峠越え(14):四国編(3)讃岐山脈の峠

 (『月刊オートバイ』1995年6月号 所収)

 四国一周の峠越え第3弾は、讃岐山脈の峠だ。
 讃岐山脈というのは、香川・徳島両県の境の山脈。阿波(徳島県)と讃岐(香川県)の境なので、阿讃山脈ともいわれる。
 東西に長く連なる山脈で全体になだらかな山容。
 最高峰は山脈中央部の竜王山(1060m)。山脈の南側を四国第一の大河、吉野川が流れ、山脈の北側には讃岐平野が広がっている。
 比較的、越えやすい山脈なので、昔から何本もの峠道が開けていた。
 吉野川河口の徳島を出発点にし、それら讃岐山脈の峠を徳島県から香川県へ、香川県からまた徳島県へと次々に峠を越えていった。

眉山に登る
 讃岐山脈の峠越えの出発点は徳島。JR徳島駅前に峠越えの相棒のスズキDJEBEL200を止める。駅前のワシントンヤシの並木が“南国・四国”を感じさせる。
 さー、出発だ。DJEBELのセル一発、エンジンを始動させ、走りだす。
 まず最初は、眉山に向かう。
 眉山というのは、徳島の背後にそびえる山で、山頂周辺は眉山公園になっている。
 タイトなコーナーの連続する眉山パークウェーを走り、標高280メートルの眉山山頂に立った。
 眉山は大展望台。蜂須賀氏の城下町、徳島の町並みを一望し、その向こうには、ゆうゆうと流れる四国第一の大河、吉野川を眺める。
 目を反対側に移せば、徳島のすぐ近くまで迫る山並みを眺める。その山並みは幾重にも重なりあって、はるかかなたへとつづいている。

“そばごめ”を食べた!
 眉山を下り、徳島の中心街に戻ると、国道192号を行く。この国道は吉野川の南岸を通っているが、徳島県を東西に横断する幹線だ。
 日が暮れ、夜道を走る。
 鴨島、川島と通り、19時、徳島から30キロの山川に到着。ここが今晩の宿泊地。
 山川は前回の「徳島の峠」で、四国山脈の土須峠を越え、国道193号で下ってきた吉野川の河畔の町だ。
“阿波富士”の高越山東麓にあるふいご温泉の町営「ふいご荘」に泊まる。

 さっそく緑ばん鉄泉の湯に入り、湯から上がると夕食。キューッと飲む湯上がりのビールがうまい!
「ふいご荘」は国道から4、5キロ、山中に入ったところにあるが、なかなかの温泉宿。 公営の温泉宿だけあって、宿泊費が安い。なんと1泊2食で4600円なのだ。それでいて、設備はまあまあ整っている。
 昔から湯治場として使われてきたという温泉だけあって、緑ばん鉄泉の湯がいい。
 さらに食事もいいのだ。名物のアメゴの塩焼き、ワラビやキクラゲなどの山菜・キノコ料理、ゴボウやニンジン、凍豆腐、コンニャク、チクワの入った煮物、ダイコンのなますという食事。土地の匂いを十分に感じさせてくれる夕食だ。

 ご飯は麦(大麦)の入って麦飯。驚いたのは米を大きくしたような粒々の入った汁である。それは“そばがゆ”だった。
 ふつう、そばというのはそばの粒を粉にし、それを麺に打ったものだが、この“そばがゆ”というのは、そばの粒の殻を取りのぞき、粒のままで粥にしたもの。ここではそれを“そばごめ”といっている。
 日本は、今でこそ、米が余ってどうしようもないなどといっているが、ついひと昔前までは、米は不足し貴重なものだった。
 そのため、すこしでも米のご飯に近いものということで、米に麦を混ぜて炊いた麦飯があり、このようなそばごめを炊いたそば粥があった。
「ふいご荘」の夕食では、そんな我々、日本人の伝統的な食事を味わうことができた。
 これも、旅の大きな喜びだ。

第1番目は清水峠
 翌朝は、「ふいご荘」で朝食を食べ、8時、出発。讃岐山脈の峠越えの開始だ。
 これから徳島県と香川県の間を行ったり来たりしながら、讃岐山脈のいくつもの峠を越えていく。と、同時に、峠を越えながら、峠周辺の温泉にも入ろうと思っている。
 山川から国道192号を走り穴吹で右折。国道193号に入り、吉野川にかかる橋を渡る。前方には讃岐山脈の山々が連なっている。この光景がいい!
「あの山並みを越えていくんだ……」
 という、熱い想いがたまらない。
 山々の向こうの世界へのあこがれ、ロマン、それが峠越えなのだ。

 DJEBEL200を走らせ、讃岐山脈の清水峠に向かっていく。ゆるやかな登り。
 山川や穴吹では薄日が射していたが、峠を登るにつれて天気は崩れ、今にも雨が降りそうだ。
 清水峠の手前では、清水温泉「清水温泉センター」(入浴料550円)の湯に入った。 ゆったりと気分よく湯につかれる大浴場。硫化水素泉の湯はやわらかな感触で、肌がスベスベしてくる。
 湯から上がり、つかのまの温泉天国の気分を味わったところで、走り出す。
 清水の集落を通り過ぎ、香川県に入る。讃岐山脈第1番目の清水峠は県境ではなくて、若干、香川県側にズレている。
 讃岐山脈のほぼ中央に位置する清水峠を越えたとたんに雨が降りだした。峠を下るにつれて雨足が速くなった。
 このように、峠を境にして、天気がガラリと変わることはよくあることなのだ。

 清水峠を下った塩江温泉では、「湯元塩江温泉」の湯に入ろうとしたら、入浴のみは10時から。そこで、通りがかりの人に、
「どこか温泉に入らせてくれる宿はありませんかね」と聞くと、その人は「赤松旅館」という温泉宿のご主人だった。ウチの湯に入っていきなさいといわれ、なんと、タダでは入らせてもらった。「赤松旅館」は食堂もやっているので、湯から上がると、讃岐名物の讃岐うどんを食べた。
 国道192号で高松へ。
 雨は本降りになる。降られっぱなしで高松に到着。
 JR高松駅前に、DJEBEL200ともども立った。

讃岐山脈東部の峠越え
 高松は鉄道、道路の四国交通網の中心地。JR高松駅前の道路標識には、気持ちがそそられる。
“松山160キロ 高知144キロ 徳島75キロ”。
 それを見て、よけいに、
「よーし、四国中を走りまわってやろう!」という気分になってくる。
 高松から徳島方向へ、国道11号を行く。土砂降りの雨。志度を過ぎると、天野峠を越える。峠を下っていくと瀬戸内海が見えてくる。
 津田、大内、白鳥と瀬戸内海沿岸の町々を通り、徳島との県境の町、引田へ。
 そこで国道11号を右折し、県道で大坂峠を登っていく。道幅は狭く、急カーブが連続する。交通量は少ない。登るにつれて、雨に霞む瀬戸内海を見下ろすようになる。
 今でこそ忘れられたかのような静かな大坂峠だが、かつては讃岐と阿波を結ぶ重要な交通路。昔の国道11号のようなものだ。
 峠を境にして讃岐側の道は阿波街道と呼ばれ、阿波側の道は讃岐街道と呼ばれていた。

 県境の大坂峠を越え、展望台に立ち、徳島側に下っていくと、やっと雨は上がった。
 大坂峠を下ると、讃岐山脈山麓の広域農道を走る。山の斜面は、収穫の終わった柿園。柿の木には、いまにもポトンと落ちそうなまっ赤に熟れた実が残っている。
 熟柿はぼくの大好物。
「失敬!」
 と、謝って、熟柿を2、3個もらう。
「うめー!」
 口のまわりをグジャグシャにして、さらに3、4個もらった。ごちそうさま!

 国道318号に出ると、鵜峠に向かっていく。峠の手前で御所温泉「御所温泉観光ホテル」(入浴料500円)の湯に入る。総ガラス張りの展望大浴場の湯につかりながら、峠周辺の紅葉を楽しんだ。
 季節は12月中旬だというのに、四国の山々ではまだ紅葉の盛りだった。
「日本は広いなあー!」
 と、実感する。
 10月の中旬には北海道を走った。ちょうど紅葉のまっ最中だった。10月下旬には東北を走った。東北も紅葉の最中だった。11月中旬には関東・中部の山岳地帯を走った。やはり紅葉の最中だった。そして12月中旬の四国も紅葉の最中。2カ月かけて、北海道から四国へと紅葉を追いかけてきたようなものだ。

 鵜峠は全長1769メートルの鵜ノ田尾トンネルで貫かれている。トンネルを抜け出るとそこは香川県だ。
 峠を下ったところで国道318号を右折し、今度は中尾峠に向かっていく。その途中で白鳥温泉(入浴料410円)に入り、ゆるやかな中尾峠を越え、徳島県側を下っていく。 もう1湯、讃岐山脈山麓の土柱休養村温泉(入浴料500円)の湯に入り、吉野川を渡り、山川町の国道192号に戻ってきた。ここまでが、讃岐山脈東部の峠越えで、讃岐山脈の峠越えの前半戦終了といったところだ。

讃岐山脈西部の峠越え
 国道沿いのコンビニでアンパンを買い、缶紅茶を飲みながら食べ、山川町を出発。
 讃岐山脈の峠越えの後半戦の開始。讃岐山脈西部の峠を越えるのだ。
 国道192号を走る。穴吹を通り過ぎ、貞光町に入ったところで国道を右折。吉野川にかかる美馬中央橋を渡り、美馬町に入り、県道で相栗峠に向っていく。
 峠下の美馬温泉(入浴料300円)に立ち寄り、相栗峠へ。山国日本を象徴するかのような風景で、峠近くまで畑が見られ、民家が見られた。

 相栗峠を越える。
 香川県側を下ったところで、奥ノ湯温泉の温泉浴場に入る。こうして讃岐山脈の峠周辺の温泉には、徹底的に入りまくったのだ。
 相栗峠をさらに下っていくと、国道193号の塩江温泉近くに出る。
 そこを折り返し地点にし、来た道を引き返す。もう一度、相栗峠を越え、国道192号に戻った。
 国道192号で半田、三加茂と通り、井川町に入ったところで国道を右折。三好町から県道で東山峠に向かっていく。幅の狭い峠道。車1台がやっと通れるくらいの道幅だ。交通量はきわめて少ない。落ち葉がじゅうたんのように敷きつめられている。

 日が暮れる。夜の峠道を走る。大光量ライトのDJEBEL200なので助かる。
 夜の峠道というのは、あまり気持ちのいいものではないので、徳島・香川県境の東山峠に到着したときは救われたような気分で、ホッとした。
 東山峠を越えて香川県側に入り、“こんぴらさん”の琴平へと下っていく。
 せっかく琴平に来たのだからと、“こんぴら参り”をする。DJEBELを止め、みやげもの屋が並ぶ門前の石段を登り、大門をくぐり抜けて境内に入る。すでに参拝者の人影もなく、なんとはなしに不気味な感じだ。
 息を切らし、汗をかき、全部で1368段の石段を登りきり、金刀比羅宮の拝殿で手を合わせる。そのあとで展望台に立ち、讃岐平野の夜景を一望した。

 琴平からは国道32号を行く。国道沿いの食堂で焼肉定食の夕食を食べ、パワーをつけ、猪ノ鼻峠に向かっていく。
 猪ノ鼻峠は昔も今も、讃岐(香川県)と阿波(徳島県)を結ぶ重要な交通路。峠はトンネルで貫かれている。国道32号と並行して走るJR土讃線もこの峠をトンネルで抜けている。 
 猪ノ鼻峠のトンネルを走り抜け、徳島県に入り、峠道を下っていくときが印象的。パーッと目の中に、帯状につづく吉野川沿いの町明かりが、飛び込んでくるのだ。まわりが漆黒の山々なので、町明かりがよけいに鮮やかに、まぶしいくらいに見える。

 20時、池田に到着。吉野川が山地から平地へと抜け出たところに位置する町。今晩の宿は、池田にほど近い白地温泉。国道32号沿いの、一軒宿の温泉だ。
 宿に着いたときには、1日、目いっぱい走った疲れがドッと出て、クタクタ。温泉に入り、ビールを1本飲むと、バタンキュー状態で泥沼のように深い眠りに落ちていった。
 翌朝は、国道192号で徳島県と愛媛県の境の境目峠を越える。このあたりが、讃岐山脈の西端になる。
 愛媛県側に入ると、一気に瀬戸内海に面した川之江へと下っていった。川之江は製紙の町。製紙工場特有の臭いがたちこめている。
 川之江の国道11号との交差点を折り返し地点にし、来た道を引き返し、もう一度、境目峠を越える。そして、池田まで行き、讃岐山脈の峠越えのゴールとした。

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カソリの食文化研究所:第15回 女川編

 (『ツーリングGO!GO!』2003年10月号 所収)

 ホヤは三陸海岸を代表する珍味といっていい。
 その姿、形から、「海のパイナップル」ともいわれている。形容するのが難しいほどに独特の味のするホヤを食べると、「三陸海岸にやってきたなあ!」という強烈な実感が味わえるし、この味を一度、経験すると、もう2度と忘れられないものになる。
「ホヤを食べたい!」
 という一心で、三陸海岸までバイクを走らせたくなるほどだ。
 7月から8月にかけてがホヤの旬。
 この季節はうま味と甘味がぐっと増す。
 ホヤというと独特の味とにおいに拒絶反応を示す人も多いが、大半の人は鮮度の落ちたホヤを食べているからだ。とれたのホヤの味にはそれほどクセはないし、においもそれほど強くはない。
 それどころか、ほのかに漂う磯の香りがたまらない。
 ホヤは三陸海岸の海でとれたばかりのものを食べるのに限るのだ。

 東京からスズキDR-Z400Sを走らせ、旬のホヤを求めて三陸海岸へ。
 目的地は三陸リアス式海岸玄関口の女川だ。東北道の仙台南ICと仙台南部道路が接続し、さらに仙台東部道路に直結している三陸道が石巻河南ICまで延びているので、女川はずいぶんと行きやすくなった。
 石巻から国道398号で女川へ。
 市街地を通りすぎたところにある「崎山展望台」に立ち、奥深くまで切れ込んだ女川湾とその一番奥に位置する女川漁港、その背後に広がる女川の市街地を一望する。
 いかにも「三陸のリアス式海岸」といった風景だ。
 三陸のリアス式海岸はここよりはじまる。

 この風景をしっかりと目に焼き付けたところで女川漁港へ。
 漁港前の「マリンパル女川」の海鮮市場を歩く。水揚げされたばかりのホヤが山盛りにされ、さらにホヤの加工品の「蒸しほや」や「ほやの塩辛」も見られた。
 さっそくホヤを賞味しようと2階のレストラン「古母里」へ。
 ここにはホヤのメニューが3品あった。ホヤ酢とホヤサラダ、それとホヤのスパゲティだ。これら3品のホヤ料理を食べた。
 生のホヤを酢につけて食べる「ホヤ酢」はシンプルだが、これがホヤを味わうのには一番いい。鼻にツーンと抜けるようなホヤ特有の風味は揮発性の微量成分の不飽和アルコールによるものだという。
 その味覚というのは苦味とも違うし、甘味や辛味、酸味、塩辛味とも違うもの。
「五味」
 では、表現できない味。
 口の中に残る味覚は、
「これがホヤですよ!」
 といわんばかりのもので、もう「ホヤ味」というしかない。
 日本にはこういう味もある!

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行


秘湯めぐりの峠越え:第9回 巣郷峠編

 (『遊ROAD』1994年2月号 所収)

三又温泉の山里の味覚
 秋田・岩手県境の奥羽山脈の峠、巣郷峠への出発点は、秋田県横手市のJR奥羽本線横手駅前。巣郷峠は東北横断ルートの国道107号の峠だが、横手から東北本線の北上へ、国道と並行してJR北上線が走っている。
 横手駅前に峠越えの相棒のスズキDJEBEL250XCを止め、プラプラ歩き、横手駅前温泉の「プラザゆうゆう」(入浴料600円)に行く。名前どおりの駅前温泉で、駅から歩いて1分とかからないところにある。平成2年にオープンした温泉のニューフェイスで、47度の湯が毎分600リッター自噴しているという。
“ちょっとひと風呂”には絶好の立ち寄り湯で、大浴場のほかに打たせ湯や泡湯、露天風呂などがあり、湯量は豊富だ。湯は若干、塩っぽい。真綿のようなやわらかな感触。男湯が北海道の天人峡温泉にちなんで「天人峡」、女湯が九州の湯布院温泉にちなんで「湯布院」と、名前もいい。
 湯から上がり、さっぱりした気分で横手を出発。温泉効果満点で、満ち足りた気分でバイクを走らすことができた。

 国道107号、通称平和街道を走る。県境の巣郷峠をはさんで秋田県側が平鹿郡、岩手県側が和賀郡で、両郡名をとっての平和街道ということになる。
 横手の市街地を抜け出ると、じきに山内村に入る。
 村の中心、相野々には相野々温泉がある。国道から300メートルほどの村営「鶴ヶ池荘」(入浴料230円)の湯に入ったが村人たちで大盛況のにぎわい。
「ダドモよ」、「ンダ、ンダ」といった土地の言葉が満ちあふれている。
 温泉の湯につかりながら、それとはなしに土地の言葉を聞くのはなんともいいものだ。

 相野々で国道107号と分かれ、山間の一軒宿、三又温泉に向かう。そこが横手駅前から電話を入れた今晩の宿なのだ。
 その途中では、南郷温泉「共林荘」(入浴料300円)の湯に入る。ここも新しい温泉で、平成2年のオープン。泉質が自慢の温泉だけあって、大浴場の湯から上がると、肌はツルツルしている。
 さすがに温泉の宝庫!
 那須火山帯と重なりあった奥羽山脈の周辺だけのことはあって、こうしてあちこちで新しい温泉が誕生しているのは、我ら温泉ファンにはこたえられない話だ。

 三又温泉は山内村最奥の三又から、さらに山中に入ったところにある。まさに秘湯だ。一軒宿の「三又温泉旅館」に泊まったのだが、ここが、大正解!
 湯から上がると部屋には夕食が用意されていたが、ずらりと山里の味覚が並んでいた。とても1泊2食7500円とは思えないほどの豪華なご馳走だ。
 イワナのたたきやニジマスの刺し身、コイのうま煮、何種類ものキノコ料理、ゼンマイやアザミノトウなどの山菜煮物、ワラビのおひたし‥‥と、山の幸を賞味する。食べはじめたところで、焼きたての塩焼きのイワナを持ってきてくれる。この細やかな心づかいがうれしい。汁も名産の山内イモにマイタケの入ったもの。さらにテンプラや茶碗蒸し、クルミ入りの胡麻豆腐、鍋物もあって、さすがの“大喰いカソリ”でも、全部は食べきれないほどのご馳走だった。
(※つい先日、三又温泉に行ったのですが、残念ながら廃業湯になっていました…)

巣郷峠の真上の温泉、巣郷温泉
 翌日はザーザー降りの雨の中を出発。雨具を着て走り出すのはけっこう辛いものだ。
 来た道を相野々まで引き返し、国道107号で巣郷峠に向かっていく。ゆるやかな登りの峠道。このあたりは秋田・岩手県境の奥羽山脈の中でも、とくに大きく落ち込んだところで、国道107号も、国道と並行して走るJR北上線も、ともにトンネルなしで峠を越えている。
 秋田・岩手県境の巣郷峠に到着。
 奥羽山脈の峠で、東北を奥州と羽州に分けるのと同時に、本州を太平洋側と日本海側に二分する中央分水嶺の峠になっている。
 奥羽山脈の峠道は、冬期間は閉鎖されるところが多いなかにあって、この国道107号の巣郷峠は一年中通れる。奥羽連絡の重要な峠だ。

 秋田県から岩手県に入る。峠は広々とした高原の風景。水田も広がっている。
 そんな巣郷峠には、巣郷温泉がある。まさに“峠の温泉”。その名も「峠の湯」(入浴料200円)という公衆温泉浴場の湯につかる。そのほか峠には、湯田町の町営公衆温泉浴場やクアハウス、2軒の温泉旅館がある。
 巣郷温泉のような峠の真上にある温泉というのは、北海道の塩狩峠にある塩狩温泉や、栗駒峠の須川温泉など限られたものでしかない。“峠のカソリ”&“温泉のカソリ”にとっては、“峠の温泉”というのは、涙がでるほどうれしく、ありがたいものなのだ。
「峠の湯」から上がると、国道をはさんで反対側にある「でめ金食堂」で昼食にする。
 馬刺し定食を頼む。
 たっぷりとニンニクを入れたニンニク醤油に馬刺しをつけて食べる。食べ終わると、クワーッと、体の中が熱くなってくるようだ。馬刺し&ニンニクのパワーでもって、巣郷峠下の温泉群を入りまくるのだ!

巣郷峠下の温泉めぐり
 巣郷峠を岩手県側に下っていくと、うれしいことに雨は上がった。雨具を脱いで走る。
 峠道を下りきると、湯田町の中心、川尻の町並み。そこが第1湯目の川尻温泉。JR北上線の“陸中川尻”をあらためた“ほっとゆだ”駅に行く。このほっとゆだ駅には、駅舎内に公衆温泉浴場(入浴料150円)があるのだ。
 駅前にDJEBELを止め、“駅の温泉”に入る。さすがに駅舎内の公衆温泉浴場だけあって、浴室内には鉄道用の信号燈がついている。列車の到着する45分ー30分前までは青信号、30分-15分前までは黄信号、15分以内になると赤信号がつく。
 湯から上がると、駅前をプラプラ歩いたが、八百屋の店先には、マイタケやナメコ、アミタケのほかに、落ち葉モタシとか、沢モタシ、カノカ‥‥といった聞きなれない名前の何種類ものキノコが並び、秋の東北を感じさせた。

 ほっとゆだ駅の温泉を皮切りにして、川尻周辺の温泉を総ナメにする。まず、ほっとゆだ駅から南に4キロほどの、第2湯目の湯川温泉に行く。ここには出途ノ湯に2軒、中ノ湯に15軒、奥ノ湯に4軒と、3地域に21軒の温泉宿があり、それらを総称して湯川温泉といっている。
 湯川温泉では、奥ノ湯の「高繁旅館」(入浴料300円)の湯に入る。内湯が豪華だ。まばゆいばかりの黄金風呂。金勢大明神をまつる混浴の露天風呂もいい。男性器をかたどった石造りの金勢さまはリアルで、しめ縄を巻いてまつってある。
 ほっとゆだ駅に戻ると、今度は国道107号から盛岡に通じる県道に入っていく。
 すぐに、第3湯目の大沓温泉。「ホットハーブ錦秋」(入浴料200円)の湯に入る。
 つづいて、第4湯目の湯本温泉。ほっとゆだ駅周辺では、湯川温泉と並ぶ大きな温泉地だ。ここでは「三花館」(入浴料300円)の湯に入る。内風呂、露天風呂ともに、目の前を流れる和賀川の渓谷を見下ろす眺望抜群の湯。このように、湯につかりながらいい景色を眺められるのは、最高のぜいたくというものだ。

 第5湯目は、湯本温泉の北、4キロほどのところにある槻沢温泉。ここには、「砂ゆっこ」(入浴料150円)という公衆温泉浴場があるが、800円を払うと砂湯に入れる。これがいい! 浴衣を着て砂場に横になると、オバチャンが蒸気で温まった砂を体にかけてくれる。そのとたんに、ドックンドックンと音をたてて、血が体中を駆けめぐる。汗がブワーッと吹き出してくる。岩手弁まる出しのオバチャンは、冷やしたタオルでていねいに額の汗をぬぐってくれる。30分ほど砂湯で蒸されたあとに入る湯がこれまたいいのだ。

 ほっとゆだ駅周辺の温泉めぐりの最後は、第6湯目の湯田薬師温泉。「中山荘」(入浴料200円)の湯に入る。混浴の露天風呂に入ったあと、内風呂の大浴場へ。入口こそ別々だが、中で男女が一緒になる混浴の湯。入浴客はぼくひとりだったので、湯船のなかでのびのびとおもいっきり体を伸ばした。そのとき、30代半ばくらいの色白の女性が入ってきた。
「あら、まあ!」
 といった表情で、大きく目を見開いて驚く彼女の顔が何ともいえない。
 その驚きぶりからすると、おそらく混浴の湯だとは思っていなかったのだろう。彼女は一瞬ちゅうちょしたが、覚悟を決めたかのように体を洗うと湯に入った。みるみるうちに桜色にそまっていく色白の彼女の姿をさりげなく盗み見るのだった。

秘湯、夏油温泉は‥‥
 巣郷峠下の温泉めぐりを終えると、ふたたびJR北上線のほっとゆだ駅に戻る。駅待合室でカンコーヒーを飲み、出発。国道107号で北上に向かう。
 和賀川をせき止めた錦秋湖を見ながら走る。湯田ダムを過ぎると、V字の深い峡谷になる。
 湯田町から和賀町に入る。地図をみると、和賀町の国道107号沿いには、岩沢温泉、綱取温泉、沢曲温泉と、3湯の温泉が出ている。
「よし、これら3湯も総ナメにしてやろう」
 と意気込んだのだが、なんと3湯とも、温泉宿はすでに廃業していた。
 このように温泉というのは、新しく誕生するものもあれば、ひっそりと消えていくものもある。

 北上に到着したのは16時30分。
 このまま東京まで東北道を一気走りしようかとも思ったが、ものは試しだと、JR東北本線の北上駅前から、夏油温泉に電話を入れてみた。
 人気の温泉だし、この時間だからまず無理だろうと、たいして期待もしていなかった。だが、なんともラッキーなことに、「元湯夏湯」に宿泊できることになった。急きょ、予定を変更して、夏油温泉に泊まることにした。
 和賀川の支流、夏油川沿いに、夕暮れの道を突っ走り、水神温泉、瀬美温泉と通り、奥羽山脈の奥深くへと入っていく。
 道路の行き止まり地点が夏油温泉。夏油川上流の、標高700メートルの高地にある温泉だ。

 夏油温泉到着は17時15分。すぐに真湯、女の湯、疝気の湯、滝の湯、大湯という順番に5つの露天風呂に入り、つづいて白猿の湯、小天狗の湯の、2つの内風呂に入った。
 湯から上がったところで夕食。ところがこれが、あまりにも寂しいもの。
 前夜の1泊2食7500円の三又温泉の食事がよすぎたので、10000円の夏油温泉の食事がことさらに貧弱に見えてしまった。三又温泉の心あたたまるようなサービスのよさにくらべると、夏油温泉のそれは混んでいるせいもあるが、比較のしようがなかった。「まあ、しょうがないか、超人気の秘湯なのだから‥‥」
 と、自分で自分にいいきかせ、我慢するのだった。
 翌日は、夏油温泉の洞窟の湯に入ったあと、来た道を北上へと引き返す。
 その途中では瀬美温泉(入浴料300円)、水神温泉(入浴料150円)と、ともに一軒宿の温泉に立ち寄り、北上に戻った。
 北上江釣子ICで東北道に入り、ひたすら東京を目指し走りつづけるのだった。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク


カソリの食文化研究所:第14回 魚沼編

 (『ツーリングGO!GO!』2003年9月号 所収)

 清流の川魚、アユは日本の夏には欠かせない味覚。
 アユが解禁になると、それを待ちかねたように釣人が川に急ぐのも、友釣りでのアユ釣りのおもしろさのほかに、一時も早くアユを味わいたいという気持ちが強くあるからだ。 アユで知られる川は長良川や吉野川、筑後川…と、日本中に何本もあるが、その中でも上越国境の谷川連峰から流れ出る魚野川のアユは「アユ通」にはよく知られている。
 アユが解禁になると、東京方面からも、どっと釣り人が押しかける。
 上越国境の山々の雪解け水を集めて流れる魚野川は水温が低いので、関東の多くの河川では6月1日にアユ漁が解禁になるが、魚野川での解禁は7月の第1日曜日。
 今年(2003年)は7月6日になる。
 魚野川のアユにねらいを定め、解禁前の若アユを賞味することにした。

 東京からスズキDR400を走らせ、関越道の小出ICへ。魚野川には梁(やな)漁でとれるアユを食べさせてくれる梁場があるのだ。
 東京から230キロ、小出ICで下りると、目の前にはすばらしい魚沼の風景が広がっている。右手に八海山、左手に駒ヶ岳、中央奥に中ノ岳と「越後三山」がそびえ、その麓の「魚沼産コシヒカリ」で知られる青々とした水田地帯の中を水量豊かな魚野川が流れている。目の底に残る風景だ。
 この風景を見るためだけにでも、小出までやってきた価値があるというもの。
「美しい日本!」、思わずそんな言葉がぼくの口をついて出た。
 小出から数キロ、R17で魚野川の上流方向に走った浦佐に梁がある。
 目的地の「浦佐やな場」に到着。さっそく梁を見せてもらう。川中に築いた石の堤に導かれるようにして梁にかかった若アユが、ピチピチと簀の上で飛び跳ねている。身のこなしが俊敏だ。
 木で組んで簀を張った梁の角度は絶妙。一度ここにかかると、そんな若アユでも、もう逃げられない。手にとると、若アユ特有の若草の萌えるような匂いが漂ってくる。

 梁でとれたばかりの生きのいい若アユを塩焼きと田楽にしてもらう。
 ここではアユなどの川魚をすべてイロリの炭火で焼いている。
 この道40年の山田順治さんはすばやくアユをつかむと、串刺しにし、それを火のまわりに立てて焼く。山田さんはこの仕事をする前は半農半漁で夏はアユとり、冬はサケとりをしていた。サケは産卵のため、日本海から遙に遠いこのあたりまでのぼってくるのだ。 焼きながら山田さんのお話を聞いた。
 日本各地のアユを食べ歩いている山田さんだが、魚野川のアユほど大きさ、形、味、香りの4拍子そろったものはないという。魚野川のアユこそ「日本一」だと胸をはる。
 アユは大きければいいというものではない。同じ魚野川のアユも小出より下流になると大きくなるが、山田さんにいわせると味は落ちるという。

 焼き上がったアユをさっそくいただいた。
 塩焼きには紅ショウガ、田楽にはマタタビが添えられている。魚野川を渡る川風に吹かれながら食べるので、アユの味も一段とひきたつ。
 やはりアユは塩焼きが一番。それを箸でつっついてチマチマ食べてもおいしくない。頭と尻尾を手でつかみ、豪快に、まずは腹のあたりにガブリと食らいつく。ぼくの一番、好きなところだ。
 若アユの臓物のほのかな苦みが、ほどよい味のアクセントになっている。品のある苦みとでもいおうか。魚野川の川石についた川藻だけを食べて大きくなったアユだけに、その身を食べていると、魚野川の清流をも味わっているような気分になってくる。
 塩焼きも味噌焼きの田楽も、頭から尻尾まで骨ごと全部、食べた。
 まさに「アユ三昧」。
 魚野川の自然の恵みを存分に味わった。

 アユは1年魚。秋になると落ちアユとなって日本海の河口へと下っていく。
 ピチピチした若アユは女性でいえばまだ青さ、固さの残る少女を思わせ、ふっくらと丸みを帯びた落ちアユは熟女を思わせる。
 中には若アユよりも落ちアユを好む人もいる。
 落ちアユは真水と海水の境目あたりの砂地に産卵すると、やせ衰え短い一生を終える。「美人薄命」ではないが、このあたりのアユのはかなさも、我々、日本人の心の琴線に響くものがある。
 なお、稚魚は海で育ち、翌春になると、また川に戻ってくる。
「浦佐やな場」では、一年中、魚野川の川魚を食べられる。
 春はヤマメやハヤ。夏はアユ。秋はサケやマス。冬はコイ。
「魚野川」の名前どおりで、この川は川魚の宝庫。

「アユ三昧」したあとDR400で魚野川沿いに走り、釣り糸を垂れている人をみつけ、バイクを停めた。
 アユの解禁前だったので、何を釣っているのか聞くと、サクラマスだという。
「60センチ級の大物が釣れるんだよ。同じくらいの大きなコイがかかることもある。清流のコイの味は絶品。全然、違うね」
 釣り人の話から、アユだけではない魚野川の川魚の豊富さ、さらには日本の自然の恵みをあらためて思い知らされるのだった。

テーマ : 旅の思い出
ジャンル : 旅行


「オーストラリア2周」前編 第7回:ダーウィン→アデレード

 (『月刊オートバイ』1997年7月号 所収)
        
 オーストラリア北部の中心地ダーウィンからスチュワートハイウエーを南下し、アリススプリングス経由で大陸を縦断し、アデレードまで行った。
 その間では、ノーザンテリトリーの3湯の温泉に入った。どこも、自然度満点のオーストラリアの温泉に入り、“温泉のカソリ”、大満足だ。
 温泉のあとは、大陸中央部の大平原ににそそりたつ世界最大級の一枚岩の岩山、エアーズロックに登るのだった。

日本軍のダーウィン空襲
 オーストラリア北部の中心地ダーウィンでは、「ゲッコー・ロッジ」というバックパッカーズに泊まり、翌日は、この町の周辺をまわった。第2次世界大戦中、要塞になっていたイースト・ポイント(東岬)にあるミリタリー・ミュージーアム(戦争博物館)が興味深かかった。巨大な9・2インチの高射砲がここのシンボルだ。
 かつての要塞内に展示されてるダーウィン空襲図に目がくぎづけになる。1942年から翌43年にかけて日本軍が空襲した地点に、赤いドットを落としてある。そのドットが無数にあるのだ。いかに激しい空襲だったかがよくわかる。市民は事前に避難していたのにもかかわらず243人が死亡したという。
 映写室ではそのときの、ダーウィン空襲のビデオを見たが、
「おー、ジャパニーズ」
 と、まわりの人たちから非難されているようで、すごく肩身の狭い思いをした。

 このダーウィンでは何人かの日本人ライダーに出会ったが、その中に、美人ライダーの“GOTO姉(ゴトネー)”がいた。あちこちでその名を聞いていたが、ついに、その本人に出会ったのだ。“GOTO姉”の本名は後藤美和子さん。セローで5万3000キロを走り、何本ものダートを走破したのだ。
 なんと“GOTO姉”は『オートバイ誌』編集部の面々とは、すごく親しいのだ。ポン太にはバイクを売ってもらったことがあり、船山さんらとのツーリングでは高速道で事故り、かなりの怪我をしたという。
 そんな“GOTO姉”は、オーストラリアではモテモテで、プロポーズされたのは1度や2度のことではないらしい。

豪州温泉めぐり
 ダーウィンのスズキのディーラー「スズキ・テリトリーズ」で、前後輪のチューブ&タイヤの交換、スプロケット&チェーンの交換、オイル&オイルフィルターの交換をしてもらい、R1のスチュワート・ハイウエーを南へ、アデレードを目指す。
 ダーウィンから92キロ地点でR1を右折し、リッチフィールド・ナショナルパークに入る。R1から80キロほどのワンギ滝では、水着に着替え、滝壺の広々としたプールで泳いだ。すごーく、気持ちいい!
 ワンギ滝からR1に戻り、アデレードリバーの町を過ぎたところで、ふたたびR1を右折。今度はR1から40キロほどの、ダグラス温泉に行く。
 最後にダートを走ってたどり着いたダグラス温泉は、100度近い源泉が川に流れ込んだ、ジャスト適温の温泉。川の流れ全体が温泉で、自然度満点だ。男も女も水着を着て湯につかっている。というよりも、天然温泉の川で川遊びをしているといった風情だ。ぼくもさっそく、水着に着替え、オーストラリアの第1湯目のダグラス温泉の湯につかった。「ウーン、満足、満足!」
 日本の温泉地と違って、温泉宿のたぐいはまったくない。ただ、無料のキャンプ場があるだけ。温泉も、もちろん無料湯である。

 その夜は、ダーウィンから南に300キロ、キャサリーンの「クックバラ・ロッジ」というバックパッカーズに泊まった。ここではXR250Rに乗るモトさんと、XT350に乗るゴリラーマンの2人の日本人ライダーと一緒になった。
 翌朝3人で、キャサリーン郊外の「リバー・ビュー」というキャラバンパークの裏手にあるキャサリーン温泉に行く。第2湯目のキャサリーン温泉は、ダグラス温泉と同じように川の流れ全体が温泉になっている。湯温はダグラス温泉よりも低い。ぼくたちは潜水だ、平泳ぎだ、クロールだと、温泉の川を泳ぎまくるのだった。
 北のダーウィンに向かうモトさんとゴリラーマンと別れ、ぼくはキャサリーンからR1で南に100キロのマタランカに行く。この町から7キロの地点に第3湯目のマタランカ温泉がある。やはり川の流れが温泉で、湯温はキャサリーン温泉よりも低かった。だが、気温が猛烈に高いので、ちょうどいい。温泉の川の流れは異様なほど透き通っていた。
 ダグラス、キャサリーン、マタランカと、ノーザンテリトリーの3湯の温泉に入り、
「やったゼー!」
 という気分になるのだった。

カソリの首を締めろ!
 マタランカから南に170キロ行った地点で、R1は左折しカーペンタリアハイウエーになるが、その分岐点を直進し、ルートナンバーがR87に替わったスチュワートハイウエーをさらに南下していく。
 テナントクリークを過ぎたところで1晩、野宿。翌日、デビルマーブル(悪魔のおはじき)の風化された岩山を見る。“悪魔のおはじき”とはよくいったもので、今にもゴロゴロころがり落ちそうな丸い大岩もある。
 ダーウィンから南に1500キロ、南回帰線のモニュメントを越えたところで、オーストラリア中央部の中心地アリススプリングスに着く。南回帰線を越え、温帯圏に入ったというだけで、何となしに、風がひんやり冷たい感じがする。
「アリスロッジ」というバックパッカーズに泊まったが、ここは男女同室で、隣のベッドにはデンマーク人の女の子。彼女はスケスケルックで、ピンクのブラジャーが透けて見えてしまうのだ。刺激が強すぎるよー。

 夕暮れのアリススプリングスの町を歩いていると、
「カソリさーん!」
 と声をかけられた。日本人ライダーのXT350に乗る“隊長”と、DR650に乗る“DRタカハシ”との出会いだ。
「一緒にバーベキューをしましょうよ、カソリさん」
 と、2人に誘われ、さっそくスーパーマーケットのウールワースでビーフやチキン、ソーセージ、野菜類、それとビールを買い、彼らの泊まっているバックパッカーズ「メラルーカ」でのバーベキューパーティーがはじまった。
 我々3人のほかに、ここに泊まっている熊本の女子大生の久美子さん、“熊クミ”もメンバーに加わった。彼女は1年間、大学を休学し、ワーホリ(ワーキング・ホリデー)でオースラリアにやってきた。列車、バスを乗り継いでまわっている。

 VBのカンビールをガンガン飲み、肉を腹いっぱいに食べながら、話はいやがうえにも盛り上がる。
「オレの前の彼女はカソリさんの大ファンで、あるとき、オレとカソリさんのどっちが好きかって聞いたんですよ。そしたらカソリさんだって‥‥。あのときは、どこかでカソリさんに会ったら、首をギューッと締めてやろうと思ったくらいですよ。そのカソリさんに、アリススプリングスで会うだなんて‥‥」
 そんな“DRタカハシ”の話に“隊長”も“熊クミ”も、やんやの喝采。
「今がチャンス、カソリさんの首を締めちゃえ、締めちゃえ」
 と、2人は“DRタカハシ”をけしかけれる。いやはやいやはや、なんとも楽しいバーベキューパーティーは、夜中までつづいた。
 翌朝は、「アリスロッジ」を出発すると「メラルーカ」へ。前夜のメンバーと、おにぎりパーティーをすることになっているのだ。うれしいことに“熊クミ”が、朝早くからご飯を炊いて、たくさんのおにぎりを握って待っていてくれた。さすがに日本人女性、心づかいが細やかだ。
 朝食のおにぎりをパクつきながらまたひとしきり話に花が咲くのだった。

エアーズロック登頂!
 アリススプリングスから南に200キロ、エルダンダでR87を右折し、エアーズロックへの道のラセッターハイウエーに入っていく。風がグッと冷たくなる。アリススプリングスを出発するときは、Tシャツの上にジャケットを着たが、ここでさらに、フリースのインナーのウエアを着る。
 左手にマウント・コナーが見えてくる。平原にスクッとそそり立つ標高863メートルのテーブル状の岩山だ。
“偽エアーズロック”の別名があるほどで、知らなければ、
「おー、エアーズロックだ!」
 と、叫んでしまうところだ。

 R87のエルダンダから160キロ、カーテンクリークのロードハウスで昼食にする。サンドイッチとコカコーラ。そこから50キロほどで、今度は本物のエアーズロックが見えてくる。世界最大級の一枚岩の岩山だ。
 だが、前方のゆるやかな小丘群に隠れ、見えるのはその頭だけ。エアーズロックはなかなか全貌を見せてはくれない。
 エアーズロックが見えはじめてから、さらに40キロほど走ったところで、ウルル・ナショナルパークのゲートに着く。そこで10ドル払って、チケットを買う。
 ウルルというのは、エアーズロックのことで、アボリジニの言葉。ウルルは彼らの聖なる岩山なのだ。
 夕日に染まったエアーズロックを眺める。夕日が落ちる。するとほぼ同時に、エアーズロックの背後に満月が昇る。すごい光景だ。その夜は、ユララのキャンプ場に泊まった。 翌朝、日の出とともにエアーズロック登山口の駐車場まで行き、急勾配の岩肌を登りはじめる。雲ひとつない上天気。鎖につかまりながら登るのだが、ヒーヒーハーハーいってしまう。

 さすがに、オーストラリアでも1、2の観光地だけあって、登山者は列をなしている。日本人の新婚カップルのグループに追いつく。まわりは若い熱々のカップルばかり。いいねー、うらやましいよー。
 汗をグッショリかいて、広々とした岩畳のエアーズロックの頂上に到着。そこで出会ったイギリス人旅行者のマークと、お互いの登頂記念の写真をとり合った。そのあとで、岩の上にベターッと座り、お互いの旅の話をする。彼はイギリスを発ってすでに1年。アフリカ、アジアの国々を旅してオーストラリアにやってきた。これからシドニーで3ヵ月ほどバイトをし、旅の資金を稼ぎ、ニュージーランドから南米、さらには北米と旅をつづけるという。

穴ボコだらけの大平原
 エアーズロックからエルダンダに戻り、R87のスチュワートハイウエーを南下。ノーザンテリトリーからサウスオーストラリア州に入る。オパール鉱山の町クーバーペディーに近づくと大平原は穴ボコだらけ。大小無数のボタ山ができている。ほかでは見ることのできない“地球上の奇観”といっていい。
 ハイウエー沿いの標識が、いかにもクーバーペディーらしいのだ。“DAGER(危険)”の標識とともに「走るな、気をつけろ、後ずさりして歩くな」と、絵入りで書かれてある。道路沿いに車を止めて、オパール鉱山(といっても、ほかとそう変わらない平原)をプラプラ歩きまわっているうちに、穴に落ちる人がけっこういるのだ。
 クーバーペディーからはナイトラン。地平線上に昇る十六夜の大きな月を見る。ギョッとするほどの大きな月だ。エアーズロックから1100キロ、真夜中に、大陸横断鉄道と交差するピンバに到着。1泊20ドルの安いモーテルに泊まり、翌日、ダーウィンから4000キロを走って大陸を縦断し、アデレードに到着するのだった。


■ワンポイント・アドバイス
カソリ流長距離の走り方
 オーストラリアのシンボル、エアーズロックから、大陸横断鉄道と交差する地点のピンバまで、本文でもふれたように1日で1000キロ以上を走った。このように「オーストラリア一周」では、1日に1000キロ前後走った日は何日もある。
 ぼくは国内のツーリングでもそうなのだが、1日の走行距離が長くなればなるほど機嫌がよくなり、心底、うれしくなってしまうのだ。反対に1日の走行距離が伸びない日は、何か、もの足りなくて欲求不満状態になる。朝から夜中まで、徹底的にオートバイで走ったあとの気分は、もう最高の満足度なのだ。

 とはいっても1日で1000キロ近くを走るのは、そう容易なことではない。では、どうするかというと、朝を有効に使うことである。
 ぼくは1日の時間帯の中でも朝が一番、好きだ。朝というのは、頭はスッキリしているし、目の曇りがとれているとでもいうのか、自分の感性が活き活きしているので、オートバイに乗って走っているだけで楽しくなり、目に入る風景がキラキラと光り輝いて見える。
 野宿したようなときは、夜明けとともに走りだすので、3、4時間も走ると、けっこう眠くなる。そのようなときは、眠気のピークをとらえ、「今だ」とオートバイを止め、適当なところでゴロンと横になる。時間を15分とか20分と決めて眠るのだが、慣れるとすぐに熟睡できるようになり、ほんとうに15分後とか20分後には目がさめる。午前中のこの短い睡眠がすごく気持ちいいのだ。

 それと昼寝である。昼寝はよくする。昼食を食べて30分から1時間後ぐらいが一番眠くなるが、やはり眠気のピークをとらえて寝るのだ。
 昼寝をすると、ナイトランがグッと楽になる。それこそ平気で夜中の12時ぐらいまでは走れるようになる。どうしても見たいところ、立ち寄りたいところは明るいうちに行き、ナイトランでは距離を稼ぐというのが、“カソリ流走り方”なのだ。

■1973年の「オーストラリア2周」
大陸の最高峰登頂!
 1973年の「オーストラリア2周」で、まっさきに行ったところは、大陸の最高峰、クシオスコ山だった。連峰の首都キャンベラからクーマを通り、ジンダバインへ。そこから、クシオスコ山への道に入っていった。当時は山頂直下までオートバイや車で行けた(現在は10キロ手前のシャロット峠まで)。駐車場にハスラーを止め、石段を駆け登り、10分ほどで大陸の最高峰、クシオスコ山の頂上に立つことができたのだ。
 標高7310フィート(2228m。当時のオーストラリアはメートル法ではなく、マイルやフィートを使っていた)のクシオスコ山の頂上に立つと、なだらかな山並みがつづくスノーウイー山脈の山々を一望する。雄大な眺めだ。季節は夏だったが、頂上を吹き抜けていく風は冷たく、周囲には、かなりの雪が残っていた。

 クシオスコ山の登頂を終えると、ジンダバインの町に戻り、今回も走ったアルパインウエーに入っていた。当時、このダートルートは、途中で行き止まりになっていた。その行き止まり地点の近くには、ギーのユースホステルがあった。
 今もあるのかどうかわからないが、ギーのユースホステルは当時は無人で、50セントの宿泊費を料金箱に入れるようになっていた。宿泊客はぼくのほかには、アメリカ人のマイケルとアイルランド人のトム、ニュージーランド人のジュリーとティーンの女の子の2人組。
 夕食はみんなで一緒につくり一緒に食べた。マイケルが近くの渓流で釣ってきたカワマスのアルミホイール焼きがうまかった。日が暮れると焚き火を囲んでワインを飲んだ。マイケルがギターをひき、ティーンが透き通る声で歌った。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行


「オーストラリア2周」前編 第6回:ポートヘッドランド→ダーウィン

 (『月刊オートバイ』1997年6月号 所収)

 インド洋岸の港町ポートヘッドランドからダーウィンに向かって北に走ると、猛烈な暑さ。スズキDJEBEL250XCに乗っていても目の前がまっ白になる。頭がクラクラし、思考能力ゼロになってしまう。
 R1のアスファルトは逃げ水でユラユラ揺れている。まるで地平線上に大きな湖があるようだ。そんな幻覚の地平線湖の中から対向車がユラユラ揺れて近づいてくる。北部オーストラリアは暑さの超ー厳しい世界だ。

恐怖のナイトラン
 ポートヘッドランドから北のダーウィンに向かう前に、南の世界最大級の鉄鉱山があるニューマンまで行くことにした。往路はダートのマーブルバーロードを経由する。
 この道は「1973年版オーストラリア2周」で最も辛い目にあったところ。腹わたがよじれるようなコルゲーションで、それも真昼にパンクした。マーブルバーは、オーストラリアでも一番暑い町といわれているようなところなのだ。パンク修理が終わったときには、のどの渇きでヒーヒー状態だった。
 今回はマーブルバーロードはナイトランだったが、歴史は繰り返すとでもいうのか、またしてもここで、危機一発という目にあった。
 最初はカンガルーの飛び出しだ。「やったー!」と、心臓が凍りついたが、急ブレーキで、からくも目の前をジャンプしていったカンガルーをかわすことができた。

 だが、ほんとうの危機は、そのすぐあとにやってきた。黒色のウシが路上をノソノソ歩いていたのだ。色が黒かったこともあって、まったく目にはいらなかった。
「あ、激突だ!」
 と、一瞬、目をつぶってしまったほど。
 ウシのギョロッとした目と角が目の前にあった。どうして避けることができたのかよくわからないが、衝突も転倒もしないで、そのウシをかわすことができた。もう、奇跡としかいいようがない。もし、このウシに激突していたら、命にかかわるような事故になっていたことだけは間違いない。マーブルバーの町に着いても、体の震えは止まらず、膝がガクガクしてどうしようもなかった。

 マーブルバーはアボリジニの町。パブに入ると、酔っぱらったアボリジニたちが、大声で話していた。というよりも、わめき合っていた。
 ぼくは冷たいビールをキューッと飲み干し、無事を感謝し、町外れでいつものシュラフのみのゴロ寝をする。風にのって、アボリジニの酔っぱらった声が聞こえてくる。
 330キロのダートを走り、ニューマンに到着。そこでは、世界最大級の露天堀りの鉄鉱山を見学する。ここの鉄鉱石は専用の鉄道でポートヘッドランドに送られ、そこから10万トン、20万トンという超大型の鉄鉱石専用船で日本などの製鉄所に送られていくのだ。 ニューマンからの帰路は、R95の舗装路でポートヘッドランドに戻るのだった。

おー、ブルームよ!
 ポートヘッドランドからR1のグレート・ノーザン・ハイウエーを北へとDJEBELを走らせ、インド洋岸のブルームに到着。ブルームといえば“真珠の町”でよく知られているが、日本人の真珠取りのダイバーたちが、昔から大勢、移住している。郊外の一角にはそんな日本人の墓地がある。全部で707基の墓があり、919人が埋葬されているという。
 異国の地で死んだ我が同胞。その墓がズラズラと並んでいる光景には、キューンと胸に迫ってくるものがある。
 目頭が熱くなり、思わず手を合わせ、深々と頭を下げるのだった。

 ブルームの海の青さは強烈。スーッと吸い込まれそうになるほどの色鮮やかさ。長い砂浜がつづくケーブルビーチに行く。ここはトップレスのビーチだと聞いて、胸をふくらませてやってきた。だが、度胸のないカソリ、トップレスのボインの女の子たちをジロジロ見ることができなかった‥‥。悔しいよ。
 ブルームでは、バックパッカーズの「ローバックベイ」に泊まった。夕食は6ドル(540円)払って、裏庭でのバーベキュウー。これは安い。ステーキ用の肉と骨つき肉、ソーセージを炭火で自分で焼く。それにパンとサラダ、ポテトがつく。
 スティーブとステフィー(ステファニー)のカップルと一緒のテーブルで食べる。スティーブはオーストラリア人だが、ステフィーはドイツ人女性。2人はギリシャのエーゲ海の島で知り合い、一緒になった。

 同じ旅人同士、2人とはすっかり意気投合し、夕食後、パブに場所を移し、ビールを飲みながら、おおいに話した。
 30代半ばのスティーブはすごいヤツ。アフリカを縦横無尽にヒッチハイクでまわった。インドには2年滞在し、ネパールのトレッキングでは、オートバイでエベレストに挑戦した風間深志さんに出会っている。
 2人とは、また、ダーウィンで再会することになる。

トトロちゃんとの出会い
 翌朝、カフェでスティーブ&ステフィーのカップルと一緒にコーヒーを飲み、ブルームを出発。猛烈な暑さの中をダービーに向かう。その間240キロ。
 昼過ぎ、ダービーに近づいたときのことだ。町まであと10キロぐらいのところを、何と、日本人の女の子が歩いているではないか。てっきり、彼女がヒッチハイクしているものだとばかり思った。色白のかわいらしい女の子で、小さなザックを背負っていた。彼女のかわいらしさに心ひかれ、
「ガンバッテね」
 と、ひと声かけようとUターンした。
「こんにちわ」
 とあいさつすると、彼女はニコッとほほえんだ。
 その笑顔に胸がキューンとしてしまう。

 彼女の話を聞くと、ヒッチハイクしているのではなく、どうしても見たいものがあるので、この炎天下、ダービーの町から歩いてきたのだという。その見たいものというのは、宮崎駿の原作『となりのトトロ』に出てくる木のモデルになったボーブの大木なのだという。
「どうぞ、どうぞ、乗ってくださいよ」
 と、なかば強引に彼女を後に乗せ、そのボーブの大木までタンデムで行く。ボーブとはアフリカのバオバブと同じで、世界でもアフリカのサバンナ地帯とオーストラリアのこの地方にしかない。
「オーストラリア一周」で、まさか美人とタンデムするだなんて、夢にも思わなかったなあ。遠慮がちに、ぼくの肩に、そっとのせた彼女の手のあたたかさが、モロに伝わってくる。

 そのボーブは“プリズン・ボーブ・トゥリー(牢屋のボーブの木)”といわれる大木。 幹には洞があり、中には楽に人が入れるほどの大きさなのだ。
“トトロの木”のボーブを見たあと、彼女とふたたびタンデムでダービーまで行き、レストランで食事をした。なんとも楽しいひととき。食後のコーヒーを飲みながら彼女といろいろな話をした。つい、いましがた出会ったばかりだとは、とても思えないような、まるで恋人と話しているような気分なのだ。
 彼女はバスダーで、4ヵ月がかりでグレハン(グレイハウンド)を乗り継ぎ、オーストラリアを一周中。だが、とてもそんな長旅をしているようには見えなかった。清楚な美しさを保っていた。花でいえば、白いナデシコといったところだ。
 あっというまに時間が過ぎ、夕方、彼女と握手して別れ、ナイトランで560キロ先のホールスクリークに向かう。お互いに名前も知らないままに別れたが、ぼくは彼女のことを“トトロちゃん”と呼ぶことにした。
 満天の星空の下を走りつづけたが、何度も“トトロちゃん”の笑顔が浮かび、ナイトランの辛さをやわらげてくれた。

「オー、カミカゼ!」
 夜中にたどり着いたホールスクリークでは、ロードハウスの駐車場でゴロ寝し、翌朝、2ドル払ってシャワーを浴び、さっぱりする。レストランで朝食。ワーカーズ・ブレイクファースト(労働者の朝食)というボリュームたっぷりのもの。バターを塗ったトースト2枚に、ベーコン、ソーセージ、エッグ、トマト(焼いたもの)、オニオン(タマネギ)、ビーン(豆)とオーストラリア人が朝食に食べるものすべたがついている。
 このレストランの壁に貼ってある1993年2月の大洪水の写真がすごい。道路はズタズタに寸断されている。全長50メートル、総重量100トンという3連のトレーラーのロードトレインが、なんと濁流に流されている。立ち往生したロードトレインのすぐわきには、救援物資を積んだヘリコプターが舞い降りている。

 ホールスクリークの町から北に400キロ、昼過ぎにウィンダムに着く。熱風がうず巻いている。カーッと照りつける強烈な太陽光線に頭がクラクラしてくる。
 ウィンダムの町の郊外にあるアフガン人の墓地に行く。ラクダとともに、この大陸にやってきた人たちのものだ。北部オーストラリアでは、ときたま野性のラクダを見るが、その先祖は19世紀にアフガニスタンから連れてこられたもの。ラクダはオーストラリア内陸部開発の大きな力になった。アフガン人は、それらラクダのラクダ使いだったのだ。

 ウィンダムの町から10キロほど行くと、チモール海の湾に面した港に出る。海辺の店でハム&サラダのサンドイッチとコカコーラの昼食を食べていると、ニュージーランド人のカップルに声をかけられた。
 この季節、ニュージーランドは冬。2人と同じように厳しい寒さを逃れ、熱帯圏の北部オーストラリアにやってくるニュージーランド人は多いという。2人はブリスベーンで車を買い、1ヵ月間の予定で旅している。最後にブリスベーンで車を売り払い、ニュージーランドに帰るのだという。
 2人は、前の年(95年)には日本をやはり1ヵ月、旅した。
「トーキョウ、ベリー・エクサイティング!」
 と東京が気にいったという。東京・新宿駅の人の多さには、2人とも目を丸くして驚いた。
「ニュージーランドの全人口がシンジュクに集まったようだ」
 と、ジョークで、その人の多さをいいあらわした。

 サンドイッチを食べた店の隣に小さな博物館があり、のぞいてみた。そこにあった1枚の写真に目がくぎづけになる。
 1924年のもので、13人のアボリジニの囚人が、手かせ、足かせをされたうえに、首には鎖をグルグル巻きにされていた。
 驚かされたのは彼ら、13人の囚人の顔つき、態度で、今の酔っぱらいだらけのアボリジニからはとうてい信じれれないような、堂々としたものだった。

 ウィンダムを出発。カナナラを通り、ノーザンテリトリーに入る。R1はビクトリア・ハイウエーと名前を変える。
 日が暮れナイトランになる。
 19時、ティンバークリークに到着。ここで2人のスイス人ライダーに出会う。彼らは2台のホンダ・アフリカツインで、1年がかりでオーストラリアを一周中だった。彼らはぼくのDJEBELに積んだ荷物を見て、
「たったこれだけなのか!」
 といって驚き、さらにぼくがナイトランで300キロ先のキャサリーンまで走るというと、
「オー、カミカゼ!!」
 と、絶句した。

 猛烈な睡魔と戦いながら走りつづけ、24時、キャサリーンに着く。ホールスクリークから1日で1030キロ走った。
 町外れでゴロ寝し、翌朝、R1を北へ、ダーウィンへ。その間のR1はスチュワートハイウエーになる。こうして6月24日の14時、ダーウィンに無事、到着。「オーストラリア一周」のほぼ半分の行程を走ったことになる。
 シドニーから16706キロのことだった。


■ワンポイント・アドバイス■
カソリ流野宿のすすめ
 ポートヘッドランドからダーウィンまでの3786キロでは、1晩、ブルームのバックパッカーズに泊まった以外は、すべてが野宿だった。
 さて“カソリ流野宿”だが、テントは張らずに、シュラフのみのゴロ寝である。テントを持たないのは、もちろん荷物を軽くしたいためだが、テントを持つと、テントだけではすまずにどうしても、あれもこれもと荷物が増えてしまうものなのだ。当然、自炊もしたくなるので、自炊道具、さらには食料をゴソッと持つようになる。
 この、荷物の重さが辛くなるのだ。短期間のツーリングなら別にどうということもないのだが、長期間に及ぶロングツーリングになると、その重さが自分自身の体に、そしてオートバイにズッシリとこたえてくる。
 荷物の重さによって腰や肩、膝がなどが痛くなり、オートバイは荷物の重さによって、フレームを折るといった予期しないトラブルにも見舞われる。

 さらに、テントを張るとなると、行動が大幅に制限されてしまう。テントサイトを探すためにまだ明るいうちに、1日の走行を終えなくてはならなし、テントを張るのにいい場所がみつからないとイラついてくる。真夜中まで走りつづけるといった芸当などもできなくなる。
 それにひきかえ、“カソリ流野宿”は、なにしろシュラフを敷くだけなので、時間も場所も関係ない。好きなだけ走って、どうしようもなく眠くなったらオートバイを適当なところで止め、そのわきでゴロ寝する。オートバイを止め、シュラフを敷き、その中にもぐり込み、深い眠りに落ちていくまでに、5分とかからないのだ。

 出発するときも同じこと。なにしろ撤収が簡単なので、夜明けの目覚めから5分もかからずに、もう、走りだしている。
“カソリ流野宿”のよさは、奔放な自由感があるし、これに慣れると、どこでも寝られるようになるし、何がなくても自分は生きていかれる!といった、強烈な自信を持てることだ。

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Author: 賀曽利隆
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