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  11 ,2008

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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Author: 賀曽利隆
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Category: ユーラシア大陸横断2002

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ユーラシア大陸横断(その2)ダリネレチェンスク→オブルチェ
2002年7月3日(水)曇りのち雨 ダリネレチェンスク→オブルチェ 717キロ
 ウラジオストクでの2日間の遅れ(バイクの引き取りに手間取った)を取り戻すため、今日はハバロフスクの先のオブルチェまで走る。
 8時にホテルのレストランで朝食を食べ、9時に出発。

 M60を北に走り、ウラジオストクから770キロのハバロフスクには15時45分に到着した。
 シベリアの大河、アムール川に面した都市。ここではパトカーの先導。信号が赤でも、そのまま交差点を走り抜けていく。
 ハバロフスクから先は、チタまで、国道級の幹線道路がない。
 アムール川にかかる長い橋を渡り、西に向かうと、道が悪くなる。おまけに前方には真っ黒な雲。やがてそれに突っ込み、猛烈な雨が降る。

 ハバロフスクから200キロのビロビジャンの町は水があふれ、町中で川渡りをした。
 ビロビジャンを過ぎるとダートに突入。雨で濡れたツルツルのダートを速度も落とさずに突っ走った。ダートは100キロほどつづいた。
 ダリネレチェンスクから700キロ以上走り、23時、オブルチェに到着。シベリア鉄道のオブルチェ駅構内のレストランで遅い夕食を食べ、町のゲストハウスへ。
 ところがここは一滴の水も出ないし、シャワーも浴びられなかった‥。


ダリネレチェンスクで泊まったホテル
ダリネレチェンスクで泊まったホテル

ダリネレチェンスクのガソリンスタンド
ダリネレチェンスクのガソリンスタンド

M60沿いのレストランで昼食
M60沿いのレストランで昼食

シベリアの広野を行く
シベリアの広野を行く

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: ユーラシア大陸横断2002

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ユーラシア大陸横断(その1)ウラジオストク→ダリネレチェンスク
 (『ツーリングGO!GO!』2002年11月号 所収)

2002年7月2日(火)晴れ ウラジオストク→ダリネレチェンスク 423キロ
 ロシア税関のすべての書類がそろい、保税倉庫でバイクを引き取れたのは18時過ぎ。我ら「ユーラシア軍団」は、ヨーロッパ最西端のロカ岬を目指し、喜び勇んでウラジオストクを出発した。
 全部で17台のバイク。それにサポートカーがつく。
 車には「道祖神」の菊地優さんとメカニックの小島努さん、それとロシア人通訳のアレックスが乗っている。

 大渋滞のウラジオストク市内を走り抜け、M60(国道60号)を北へ。4車線のハイウェイが100キロほど北のウスリースクまでつづく。
 交通量が多い。車は大半が日本車だ。
 ウスリースクを過ぎると2車線の道になり、交通量もぐっと少なくなる。
 シベリア鉄道に沿った道。雄大な風景が広がる。その中を地平線目指して突っ走る。

 ぼくのバイクはスズキDR-Z400Sの新車。時速120キロ前後での走行。ぼくが先頭を走る。バックミラーに映る後続のバイクのきれいなラインに胸がジーンとしてしまう。夜の10時過ぎまで明るい夏のシベリア。
 夜中の1時半にダリネレチェンスクに到着。パトカーがホテルまで先導してくれた。
 17台のバイクは警察のガレージであずかってもらった。ダリネレチェンスクのホテルでは「道祖神」の菊地優さんと同室。これ以降、ずっと菊地さんと同室で、菊地夫人に嫉妬されそう‥。
 第1夜目はさんざん蚊にやられ、メタメタに刺された。夏のシベリアは蚊やブヨなど虫との戦いだ。

伏木駅前で
伏木駅前で

伏木港を出発
伏木港を出発

ウラジオストックへ
ウラジオストックへ

ウラジオストックに到着
ウラジオストックに到着

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: ユーラシア大陸横断2002

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「ユーラシア大陸横断」、出発前日のメッセージ(2002年)
(『賀曽利隆ONLINE』より転載、2002年6月25日)

「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第7弾目、「ユーラシア大陸横断」に明日(※2002年6月26日)、出発します。
 東京から富山の伏木港へ。
 船でロシア・沿海州のザルビノ港に渡り、シベリアを横断し、ウラル山脈を越えてモスクワへ。そしてポーランドのワルシャワからドイツのベルリンへ。
 西ヨーロッパの国々を南下し、ピレネー山脈を越え、スペインからポルトガルに入り、ユーラシア大陸最西端のロカ岬を目指します。
 東京からロカ岬まで1万5000キロ、それを50日で走ります。
 さー、DR-Z400Sよ、頼むゾ!

 今回の「ユーラシア大陸横断」はぼくにとっては2度目のことになります。
 最初の「ユーラシア大陸横断」は1990年。
 50㏄バイクのスズキ・ハスラーTS50でアメリカのロサンゼルスを出発点にし、インドのカルカッタをゴールとし、2万5000キロの「世界一周」をおこないましたが、そのときはアメリカを横断し、ニューヨークからイギリスのロンドンに渡りました。
 ロンドンのトラファルガー広場前を出発したときは「ユーラシア大陸横断」を強く意識し、西ヨーロッパから東ヨーロッパ、南ヨーロッパ経由でトルコのイスタンブールまで行き、そこから西アジアの国々を通ってインドのカルカッタを目指したのです。

 ほんとうはそのまま、さらに日本に向かって走りたかったのですが、厚い国境の壁にはばまれ、カルカッタをゴールにするしかなかったのです。
 その悔しさをバネにし、1992年から翌93年にかけては、タイのバンコクを拠点に「インドシナ一周」を成しとげました。
 この「インドシナ一周」も「ユーラシア大陸横断」の1パートなのです。

 今回のシベリア経由での「ユーラシア大陸横断」を成功させたら、ぜひとも次は中央アジア経由での「ユーラシア大陸横断」に挑戦してみたいし、さらには究極の「ユーラシア大陸横断」にも挑戦してみたいと心底、願っています。
 この、究極の「ユーラシア大陸横断」というのは東京から下関まで行き、関釜フェリーで韓国の釜山に渡り、朝鮮半島を縦断します。38度線を越え、鴨緑江を渡って中国に入り、西へ、イギリスのロンドンを目指して走るというものです。
「ユーラシア大陸横断」というのは、このようにあとにつづくもの。
ぼくに限りない夢を与えてくれます。

2002年6月25日

~~~~                                  
ということでこの2002年の「ユーラシア大陸横断」を『ツーリングGO!GO!』誌と『バックオフ』誌の掲載記事を元にお送りします。(2008年9月記す)

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Category: 峠越え since1975

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カソリの峠越え(17):四国編(6) 四万十川流域の峠
 (『月刊オートバイ』1995年9月号 所収)

「四国一周」の峠越え第6弾は、四万十川流域の峠。
 四万十川下流の町、中村を出発点にして、まず最初は、支流の黒尊川流域の峠を越え、愛媛県の宇和島に出た。
 次に、同じく支流の吉野川流域の峠、檮原川流域の峠を次々に越えた。
 最後は本流の峠で、それも限りなく源流に近い、国道197号の布施ヶ坂峠。
 こうして全部で14の峠を越えながら四万十川の世界を駆けまわったのだ。

四万十川の河口に立つ
 前回の「高知・愛媛県境の峠」では、愛媛県の県都、松山を出発し、国道33号で三坂峠を越え、国道440号で地芳峠を越えて高知県に入った。
 四万十川の支流、檮原川に沿って走り、大正町からは四万十川の本流に沿って走り、下流の中村へ。ナイトランだったが、徹底的に四万十川に食らいついて走ったのだ。
 中村では国道55号沿いにある四万十温泉「サンリバー四万十」で一晩、泊まった。

 翌朝は6時30分の出発。
 冬のことなので、やっと夜が明けかかった時間。
 峠越えの相棒のスズキDJEBEL200のエンジンをかけ、しばらく暖気して走りだし、夜明けの中村の町をグルリとひとまわりした。

 中村は“四国の小京都”といわれている。
 長年にわたる応仁の乱の戦火で京都の町が焼かれたとき、それにいやけがさした前関白の一条教房は、応仁2年(1468)、家領の“幡多の庄”(四万十川流域の幡多郡。中村はその中心的な存在)に都落ちして中村に住みついた。
 それ以来、中村は京都に似せた町づくりをするようになった。
 碁盤目状の通りが交差して走り、京都風の東山とか大文字山、祇園‥‥といった地名がつけられた。中村は京都の匂いをかげる町なのだ。

 中村からは、国道55号を横切り、10キロほど走り、下田港へ。
 すっかり丸みを帯びて小さくなった砂利が一面にばらまかれたような砂利浜を走り、四万十川の河口へ。四万十川の流れは、最後の最後まで澄みきっていた。
 四万十川は汚れを知らないまま、太平洋に流れ出ていた。
 感動的な河口の風景だ。

黒尊川沿いに宇和島へ
 中村に戻ると、今度は、国道441号で四万十川の上流へと向かっていく。
 四万十川にかかる沈下橋(大水が出ると川の中にも沈んでしまう橋)をみつけると、橋を渡り、川原に降りてみる。川の水で顔を洗う。ひやっとした冷たい水の感触で、眠気もいっぺんに吹き飛ぶ。
 中村市から西土佐村に入ったところで国道441号を離れ、四万十川の支流、黒尊川沿いの道に入っていく。黒尊川の渓流は、四万十川本流よりもはるかにきれいな流れだ。
 この黒尊川に沿って峠を越え、愛媛県の宇和島に向かっていくのだが、その途中では、林道に入り、林道の峠を越えてみる。

 まず最初は玖木山林道。
 道幅は狭く、荒れた路面。一気に玖木山峠を登っていったが、峠に近づくと、チラチラと雪が降ってきた。
 宿毛市との境の玖木山峠までは8キロのダート。峠で引き返したが、往復16キロのダートをおもしろく走ることができた。
 次に黒尊の集落から、大峠を越える大峠林道に入っていく。
 この林道も峠までは8キロのダートで、津島町との境の峠は、ゴツゴツした岩肌がむきだしのトンネルで貫かれている。この大峠林道も峠で引き返し、往復16キロのダートを走った。
 黒尊の集落から、さらに黒尊川沿いの道を走り、黒尊林道に入っていく。だが舗装が延び、峠までのダート区間は、わずかに4キロになっていた。

 高知・愛媛県境のこの峠には、とくに名前がついていないようなので、黒尊峠とでもしておこう。黒尊峠からは津島町側に御代ノ川林道が下っていくが、もう1本の道で鬼ヶ城山の山頂直下の峠に向かっていく。
 この道は全線が舗装路になっているが、以前は相当ハードなダートだったらしい。
 鬼ヶ城山は海岸近くにそびえる標高1151メートルの山で、強烈な寒さ。路面はツルンツルンのアイスバーン。ここが南国の四国だとは、とても信じられないような風景だ。
 この、鬼ヶ城山の山頂直下の峠は、鬼ヶ城山峠とでもしておこう。

 峠にDJEBELを止め、ブルブル震えながら、峠からの風景を眺める。
 足元には白っぽい宇和島の町並みが広がっている。その向こうには青い宇和海の海が広がっている。
 氷雪の鬼ヶ城山峠から、一気に国道320号に下り、宇和島の町に入っていく。すると春のようなあたたかな日差しが、サンサンと差し込めていた。
 この黒尊峠、鬼ヶ城山峠経由の「中村ー宇和島」のコースはおもしろいものだった。

吉野川流域の峠越え
 宇和島を出発。黒尊川の次は、吉野川流域の峠越えだ。
 吉野川といっても“四国三郎”の吉野川ではなくて、四万十川支流の吉野川である。
 宇和島から国道320号を5キロほど走ると、水分峠に着く。
 峠の上には、バス停“水分”があり、集落や畑もあるようななだらかな峠だが、この水分峠を越えると吉野川の水系に入っていく。
 四万十川というと高知県の川というイメージが強いが、愛媛県もその流域に含まれる。
 さらに驚いてしまうのは、宇和海に面した宇和島からわずか4、5キロ走って峠を越えると、もう四万十川の世界に入るということである。
 宇和島から四万十川というのは、ほんの手の届くくらいの距離でしかない。

 水分峠を下ったところで国道を右折し、4キロほど走って山中に入ったところの成川温泉に行く。手前に温泉旅館の「成川温泉湯元荘」(入浴料300円)、その奥には「成川渓谷保養センター」(入浴料300円)があり、両方の湯に入った。
 いつも思うことだが、バイクの機動力をもってすると、成川温泉のような四国屈指の秘湯の湯にも、簡単に入ることができるのだ。
 ところでこの四万十川支流の吉野川だが、広見川と三間川という2本の川が合流して吉野川になるが、その合流点の広見町あたりは広々とした盆地の風景。広見の地名どおりの風景だ。

 広見町からは、国道441号を北へ。
 桜峠をトンネルで抜け、次に土屋峠をトンネルで抜け、広見町から野村町へと入っていく。
 土屋峠を越えると、太平洋に流れ出る四万十川の世界から、瀬戸内海に流れ出る肘川の世界へと、川の流れは大きく変わる。
 土屋峠からは、さらにもうひとつの桜峠を越えて、野村町の中心街に入っていく。パン屋でアンパンを買い、缶紅茶を飲みながら食べる。高知港からのフェリーの時間があるので、ゆっくりと昼食を食べている時間がないのだ。
“アンパン&缶紅茶”は、ぼくの時間のないときの昼食のひとつのパターンなっている。

 野村町から城川町へ、そして国道197号を南下する。
 日吉村との境の峠を越えていくのだが、峠の真上に民家があるような、ゆるやかな峠。「この峠って、何峠というんでしょうか」
 と聞くと、
「さあー、知らないなあ。とくに何々峠といった名前はついていないよ。ただの峠だな」
 という地元の人の答えだった。
 だがこの国道197号の名無し峠はさきほどの土屋峠と同じように、瀬戸内海に流れていく肘川と、太平洋に流れていく四万十川を分ける峠になっている。それだから、名無しでも、重要な峠なのである。

 峠の城川町側には、宝泉坊温泉がある。
 国道沿いの「宝泉坊ロッジ」(入浴料250円)の湯に入り、それから名無し峠を越えて四万十川の世界に戻るのだ。
 日吉村からは、さらに国道197号を走り、檮原町へ。
 その境が、高研山(1058m)北側の高研山峠。
 峠は全長1562メートルの長いトンネルで貫かれている。この高研山が吉野川上流の広見川の源。峠を越えて檮原町にはいると、同じ四万十川でも、檮原川の水系に変わる。

最後は四万十源流の峠
 檮原からは、そのまま、国道197号を走る。
 国道197号はまさに“峠越え国道”で、峠を連続して越えていく。
 まず最初は、檮原町と東津野村の境の野越峠。峠はトンネルで抜けている。峠の檮原町側の千枚田は見事なものだ。何代にもわたって営々と田をつくりつづけてきた日本人の米づくりへの執念を見る思いがする。
 この野越峠を越えても、川の流れは檮原川の水系だ。
 次に当別峠を越える。やはり峠はトンネルで貫かれている。この当別峠を越えても、まだ、川の流れは檮原川の水系である。

 当別峠を下り、東津野村の中心地に出ると、ちょっと寄り道をした。
 檮原川の支流、北川沿いに3キロほど下ったところには、一軒宿、北川郷麓温泉(入浴料400円)がある。四国の秘湯に入った。
 国道197号に戻り、次に、壁地峠を越える。
 やはり峠はトンネルで貫かれているが、ゆるやかな登り下りなので、峠だとは気がつかないままにトンネルを走り抜けてしまうかもしれない。
 だが、この壁地峠はきわめて重要な峠なのだ。なぜかというと、この峠を越えると、檮原川から四万十川本流へと、川の流れがかわるからだ。

 壁地峠を越えて、四万十川の源流地帯へと入っていく。
 四万十川の最上流部はチョロチョロしたかわいらしい流れ。峠下の船戸の集落は、まさに“四万十川源流の里”なのだ。 
 国道を左に折れ、数キロ行ったところには、四万十川の源流碑が立っているらしい。ぼくの心はおおいに揺れ動く。
 時間は午後3時。高知港から東京行きのフェリーが出るのは、午後6時10分。高知までは、まだ100キロ近い距離がある。ここからまっすぐ高知に向かっていっても、ギリギリで船に間に合うかどうかという時間なのだが、どうしても、源流碑だけは見たかった。
 さんざん迷ったあげくに、ついに断念‥‥。
「あー、ダメだー。また、次の機会に来よう」

 四万十川は東津野村の不入山(1336m)を源にしている。
 不入山南麓から流れ出る川が源流の船戸川で、何本もの上流部の川を集めて松葉川になり、JR土讃線の終点でもある窪川あたりを過ぎると、仁井田川と名前を変え、大正町で檮原川を合わせ、四万十川になる。
 西土佐村の江川崎で吉野川を合わせ、さらに黒尊川を合わせ、下流に中村平野をつくって下田港近くで太平洋に流れ出る。全長192キロの川だ。
 四万十川はクネクネと曲がりくねって流れているので、どれが本流なのかわかりづらいし、どこからどこへ、どのようにして流れているのかもわかりづらい。
 それだけに地図を見ていると、クイズを解きあかすようなおもしろさがあって、よけいにその川筋をフォローしてみたくなるのだ。

 最後に、国道197号の布施ヶ坂峠を越える。
 トンネルに入らず、旧道を登り、峠を越える。
 布施ヶ坂峠の四万十源流側の登りはゆるやかだったが、峠を越えた葉山村側の下りは急坂だ。急カーブが連続し、きれいに積み上げられた石垣の茶畑のなかに降りていく。こうして、四万十川に別れを告げた。

 須崎からは、国道56号で高知へ。
「急げー!」。
 スズキDJEBEL200にムチを入れ、渋滞にはまりこむとスリ抜けし、高知港のフェリー埠頭を目指した。
 間一髪で間に合った! 18時10分発のブルーハイウェイラインの東京行きフェリー「さんふらわあ・とさ」に乗り込んだ。

 すぐさま寒風の吹きすさぶ甲板に上がり、自販機で買ったカンビールで離れゆく高知の町の灯に乾杯!
 町明かりのむこうには、黒々とした山々が横たわっている。
「さらば、四国よ!」
 とうとう終わってしまった四国一周。
「やったぜ!」という達成感もあったが、それ以上に、
「あー終わってしまったんだ」
 といった寂しい気持ちに襲われた‥‥。
「高知ー高知」の四国一周の全行程は2150キロ。その間で全部で51の峠を越え、22の温泉に入った。
 暗い海に向かって、もう一度、
「さらば、四国よ!」
 と、叫んでやった。

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: 食文化<4>:食文化研究所

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カソリの食文化研究所:第26回 中国編
 (『ツーリングGO!GO!』2004年12月号 所収)

 日本各地の麺を食べ歩いているカソリ、中国・済南の軽騎鈴木製110㏄バイク、QS110を走らせての「中国・東北部走破行」では、おおいなる興味を持って各地で麺を食べた。
 食べるだけでなく、食堂の調理場をのぞかせてもらい、麺職人の麺づくりを見た。また、あちこちの町で市場を歩いたが、露店の麺づくりも見た。
 水田での稲作よりも、畑作での小麦づくりの方がはるかに盛んな中国北部の華北から東北地方にかけての一帯は、世界の「麺食文化」の中心地になっている。それだけに「本場の麺を食べた!」、「本場の麺づくりを見た!」という満ち足りた気分をも味わった。

 中国の麺職人たちは、まるで魔術師のようだ。たとえば拉麺(ラーメン)づくり。こねた小麦粉を手で引っ張り、ブルンブルンふりまわし、あっというまに細長く延ばしていく。手先の力加減ひとつで太麺や細麺を自由自在につくってしまうのだ。
 なんとも豪快で華やかな拉麺づくり。「どうして手だけで、こうも簡単に麺ができてしまうのだろう」と驚きの目で見てしまう。各地に「拉麺」の専門店があるが、食べ方は汁ありと汁なしの2通り。牛骨スープなどの汁ありの麺には牛肉やゆで卵、香菜(中国料理には欠かせない香辛料)などの具が入っている。汁なしの麺は卵やトウモロコシ粉、味噌などでからめたソースを麺の上にのせて食べる。スパゲティー風の食べ方だ。

 拉麺に似ているのが抻麺(チャンメン)。抻麺の本場は華北・甘粛省の蘭州で、「蘭州抻麺」の看板を掲げた専門店を各地で見た。
 拉麺づくりに比べると、抻麺づくりはもっと手元でコチョコチョという感じでつくってしまうが、やはりこねた小麦粉を手だけでつくる麺。その速さは拉麺以上!
 刀削麺はこねた小麦粉を小刀をつかってパパパパパッと削り、目にもとまらぬ速さで沸騰した大鍋の湯の中に入れていく。
 手延麺は日本でもおなじみの麺の作り方。こねた小麦粉をのし棒でのし、薄く平べったくし、折りたたんで包丁で切って麺にする。
 このように中国の麺の種類は多様だ。これらの手づくり麺は日本でいえば「うどん」になる。うどん類を総称して「麺条(メンティヤォ)」といっている。

 ところで日本の国民食になった感のある「ラーメン」だが、「ラーメン」の言葉が定着したのは、このわずか4、50年のことでしかない。
 戦前は「支那そば」といっていた。メンマも「支那竹」だった。それが戦後、おそらく中国・東北地方から戻ってきた人たちが「拉麺」の言葉を広めた結果なのだろう、「支那そば」のことを「ラーメン」というようになった。
「ラーメン」を漢字で書くと「拉麺」になるが、名前と中身の違うものになって定着したのだ。

 中国・東北地方で麺を食べ歩いたカソリ、ますます「麺食文化」には心をひかれ、「麺ロード」を西へ、西へと行ってみたくなった。
「麺ロード」はきれいに「シルクロード」に重なり合う。中国・華北の麺は「シルクロード」を通って中央アジアに定着し、その西端にイタリアのスパゲティーがある。きっといつの日か、バイクを走らせ、この地球規模の壮大な「麺ロード」を追って行こう!

テーマ : 旅の思い出    ジャンル : 旅行

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Category: 峠越え<2>:秘湯めぐりの峠越え

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秘湯めぐりの峠越え:第12回 美幌峠
 (『アウトライダー』1995年4月号 所収)

釧路湿原の細岡展望台
 知床半島の温泉めぐりを終えたあと、釧路から国道391号を北へ。RMXを走らせ、弟子屈(てしかが)に向かう。
 国道391号は釧路湿原の東側を通っているが、ちょっと寄り道して、釧路湿原を見下ろす細岡展望台に立った。
 足元には、日本最大の湿原、釧路湿原が茫洋と広がっている。その風景はいったい、何と表現したらいいのだろうか……。
 ぼくはアフリカの旅が長かったので、すぐにアフリカと結びつけてしまったが、東アフリカの、野性動物の楽園の草原地帯を連想した。目をこらせば、ゾウやシマウマ、バッファローの群れが見えるような気がした。

 日本で最後に国立公園に指定された釧路湿原は、屈斜路湖を水源とする釧路川流域の大湿原。その釧路川が大きく蛇行して流れている。
 川の流れていく先には、白っぽく見える釧路の町並みが広がっている。
 目を上流に向けると、正面の雌阿寒岳、右手の雄阿寒岳を中心とする阿寒の山々を眺める。
 湿原の対岸に突き出た丘陵地には湿原を海に見立ててのことなのだろう、「宮島岬」、「キラコタン岬」といった地名がつけられている。

 釧路湿原の風景を目の底に焼きつけると、釧路川左岸の丘陵地帯の仮監峠を越え、シラルトロ湖の湖畔に出る。
 国道391号から3キロほど入った茅沼温泉に行き、「くしろ湿原パーク憩いの家かや沼」(入浴料400円)の大浴場と露天風呂に入った。泉質はかなり塩分の濃い食塩泉。湯につかりながら湖を眺める。

 つづいて国道391号から1キロほど入った田園の一軒宿、標茶温泉「味幸園」(入浴料400円)の湯に入る。ナトリウム泉で、湯量は豊富。チョコレート色した湯につかると、肌がツルツルしてくる。
 弟子屈の町に着いたところで、町中にある摩周温泉「弟子屈温泉浴場」(入浴料160円)と町はずれにある鐺別温泉「亀の湯」(入浴料150円)の、2つの共同浴場の湯に入り、摩周温泉「ホテル摩周」に泊まった。

屈斜路湖の温泉群を総ナメにする
 翌日は、屈斜路湖畔の温泉群を総ナメにする。
 まず、小雨に煙り、まったく見えない摩周湖を展望台から見下ろし、そのあとで屈斜路湖畔の第1湯目の川湯温泉に行った。
 この近辺で最大の温泉地になっている川湯温泉には、全部で30軒あまりの温泉ホテル・旅館などがあるが、入浴料100円で入れる共同浴場の湯に入った。湯から上がるころには天気は急速に回復し、抜けるような青空が顔をのぞかせた。天気がよくなると、心の中にまで青空がひろがっていくような気分だ。

 屈斜路湖畔の道を走る。
 第2湯目は、仁伏温泉。湖畔の「屈斜路湖ホテル」(入浴料400円)の湯に入る。内風呂と露天風呂の両方の湯に入る。露天風呂の湯船の底には、小石が敷きつめられ、足で踏むその感触がなんともいえずに気持ちいい。
 第3湯目は、砂湯温泉。湖畔に木枠で囲った露天風呂があるが、観光客が大勢やって来るところなので、ちょっと恥ずかしくて入れない。そこで、熱い湯に手をひたし、顔を温泉の湯であらってごまかした。

 第4湯目は、池ノ湯温泉。湖畔には無料の露天風呂がある。その広さといったらなく、高級温泉ホテルの大浴場並み、いや、それ以上の広さなのである。自分一人で独占する大露天風呂の湯につかりながら屈斜路湖をながめていると、自分と北海道の大自然が一体になったような陶酔感にも浸ってしまうのだ。
 第5湯目は、古丹温泉。やはり湖畔に無料の露天風呂がある。湯船は2つに分けられ、いちおうは男湯と女湯になっているが、お互いにまる見え。このあたりのおおらかさが、いかにも北海道らしい。

 第6湯目は、和琴温泉。湖に突き出た和琴半島のつけ根に、やはり無料の露天風呂がある。だが、残念ながら熱くて入れず、すぐ近くの温泉宿「ホテル湖心荘」(入浴料400円)の湯に入った。
 この、和琴温泉の無料湯の露天風呂は、ぼくにとっては忘れられない思い出の湯。厳冬期にバイクを走らせ、「釧路⇔稚内」を往復したが、そのとき、露天風呂のわきにテントを張って一晩、野宿したのだ。
 2時間以上も湯につかり、体を十分に温めてから寝たのだが、夜中の寒さには泣かされた。猛烈な冷え込みで、明け方には、気温は氷点下26度まで下がった。温泉で使ったタオルは、テント内に入れておいたのにもかかわらず、まるでコンクリートの棒のように、カチンカチンに凍りついていた。

美幌峠のジンギスカン
 和琴温泉を最後に、屈斜路湖畔の温泉めぐりを終え、国道243号で美幌峠を登っていく。峠道を登っていくにつれて、どんどんと見晴らしがよくなる。
 弟子屈町と美幌町の境の美幌峠は標高493メートル。屈斜路カルデラの外輪山の峠。 美幌峠からの展望は抜群。北海道屈指の絶景峠だ。とくに弟子屈町側の眺めがいい。
 左手に斜里岳を望み、正面の山並みの間には、摩周岳が顔をのぞかせている。真下には屈斜路湖が広がり、その中にはぽっかりと中島が浮かんでいる。さきほどの和琴半島が、チョコンと湖に突き出ている。その右手には、うっすらと噴煙をあげる硫黄岳。峠を覆いつくすクマザサが風に揺れて鳴っている。

 この美幌峠を境に、弟子屈町は太平洋側に、美幌町はオホーツク海側に分かれるが、厳冬期に美幌峠を越えたときの、両者の違いはきわめて大きかった。
 太平洋側は猛烈な冷え込みだったが、積雪はたいしたことはなかった。ところがオホーツク海側は、気温はそれほど低くはなかったが、太平洋側をはるかに上回る積雪だった。

 美幌峠からの眺望をしっかりと目の底に焼きつけたところで、峠のレストランで、ジンギスカンを食べる。ジンギスカンといえば、北海道を代表する郷土料理。
 ぼくは、ジンギスカンを食べると、
「あー、北海道にやって来た!」
 と、実感する。

 さっそく、美幌峠のジンギスカンを食らう。
 独特の兜のような形をした鉄鍋で、羊肉と付け合わせの野菜類を焼いて食べるジンギスカンは、ボリューム満点の料理。ずっしりと腹にたまる。このジンギスカンにかぎらず、北海道の料理というのは、どれをとってもボリューム満点だ。
 量の多さは、北海道料理の大きな特徴になっている。
 食べ方にしてもチマチマ焼くのではなく、ドサッと羊肉や野菜類を入れ、豪快に焼く。すべてが大陸的なのである。

 羊肉はくさみが強いとよくいわれるが、北海道のジンギスカンに関しては、そのようなことはない。羊肉を食べる習慣が、日本の他地方よりも根強いことが影響し、ジンギスカン用の羊肉専門の会社もあるほどで、それだけ羊肉の食べ方の研究もなされているのだろう。羊肉は焼きすぎると固くなってしまうので、まだすこし赤身が残っているくらいのをタレにつけてたべたが、いくらでも食べられるほどのうまさだ。

 ところで、この兜形の鉄鍋で羊肉を焼いて食べる料理が、どうしてジンギスカンと呼ばれるようになったのかは諸説があって定かではないが、日本人が名づけたことは間違いないようだ。中国北方の、羊肉を鉄板の上で焼いて豪快に食べる料理方法の日本化したものがジンギスカンだとのことだが、その料理がモンゴルの英雄ジンギスカンに結びついたものなのだろう。
 美幌峠のジンギスカンに十分に満足し、美幌の町へと下っていく。美幌からは国道39号で網走へとRMXを走らせたが、日本離れした北見の広大な農地がはてしなく広がっていた。

網走から釧路へ、釧北峠越え
 網走港でオホーツクの海を見たあと、国道39号で美幌まで引き返し、美幌からは国道240号で釧北峠へ、さらには釧路を目指す。この国道240号は、道東の太平洋岸とオホーツク海岸を結ぶ一番の幹線になっている。
 美幌町から津別町に入ると、平原は消え、ゆるやかな山々が迫り、前方には阿寒の山々が見えてくる。津別の中心街を通り抜け、釧北峠へと一気に登っていく。
 オホーツク海側の北見と、太平洋側の釧路の境の釧北峠は標高610メートル。阿寒カルデラの外輪山の峠で、エゾマツやトドマツの針葉樹で覆われている。

 釧北峠を下ると阿寒湖だが、その前に、寄り道をする。
 釧北峠を下るとすぐに、国道241号との分岐があり、国道241号で足寄峠を越え、国道を左に折れ、雌阿寒岳(1503m)山麓の雌阿寒温泉に行く。
 ここでは「野中温泉別館」(入浴料300円)の湯に入ったが、男湯の浴室に入って、ビックリ!
 3人のオバチャンたちが、男湯と女湯を間違えて入っていた。オバチャンたちは、まるで少女のような恥じらいを浮かべ、
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイネ」
 と、口々に謝りながら、女湯の方に逃げていった。ぼくは全然かまわないのに‥‥。

 ここの内風呂は木の湯船に木の洗い場。湯量も豊富で、露天風呂もある。硫黄泉特有の匂いが、よけいに温泉を感じさせる。雌阿寒温泉は、気分よく入れる温泉だった。
 雌阿寒温泉からさらに奥に入っていくと、神秘的な湖のオンネトーを左に見、さらにその先の駐車場にRMXを止め、湯滝まで歩いていく。オンネトーの湯滝は、湯が滝となって流れ落ちているのだ。

 15分ほど歩くと、湯滝に着く。滝壺の湯は、若干、温め。それでも十分に入れる。その天然無料露天風呂わきの岩には忘れ物。女性の下着だ。
「あれ、これ、何だろう」
 などどとぼけて、白いパンツとブラジャーをつまみあげた。
「これを忘れていったひと、そのあとどうしたんだろう……」
 などと余計な心配をするのだ。

 湯滝の上に上がると、岩風呂がある。男女別の脱衣所もある。
 岩風呂には先客がいた。2人の若い女性。一人は水着を着ている。もう一人はバスタオルを体にくいこむくらいにギュッと巻きつけている。そんな先客2人と一緒に露天風呂の湯につかった。
 名残おしかったが、オンネトーの湯滝を後にし、来た道を引き返す。
 足寄峠を越え、釧北峠下まで戻る。そして阿寒湖畔へ。阿寒湖遊覧の船着場近くにある阿寒湖畔温泉の共同浴場「まりも湯」(入浴料320円)に入り、それを最後に、一路、釧路へと国道240号をひた走った。

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カソリの食文化研究所:第25回 仁賀保編
 (『ツーリングGO!GO!』2004年11月号 所収)

 秋田県の鳥海山麓、仁賀保の「キッチンさかなやさん」で、とれたての岩ガキを食べられるという情報をキャッチした。ここは「ツーリングマップル」にも出ている店。すぐさまスズキDR-Z400Sで夜明けの東京を出発。東北道→山形道→R7経由で仁賀保へ。岩ガキを食べたい一心で520キロを7時間で走り、昼前には仁賀保駅前に着いた。

 さっそく駅に近い「キッチンさかなやさん」に行き、待望の天然岩ガキを賞味する。大皿に2個、殻つきの岩ガキがのっている。デカイ! 殻の大きさは20センチ近い。それにレモンが添えられている。殻の中の岩ガキを箸でつまみ、口に入れる。濃厚な味わいだ。日本海の海の香りが口の中、いっぱいに広がる。レモンを絞ってかけるまでもなく、生の、そのままがいい。潮味が最高の調味料になっている。フライにしたり、焼いたりすることもあるが、岩ガキはやはり生で食べるのが一番だ。

 鳥海山が日本海に落ち込むこのあたり一帯は、日本の岩ガキの名産地。膨大な鳥海山の伏流水が海に湧き出るあたりが絶好の漁場になっている。岩ガキ漁は7月、8月の2ヵ月に限られているので、岩ガキを食べられる期間も限られている。まさに夏期限定の味覚。山形県の吹浦、秋田県の象潟、金浦、平沢などの各漁港が岩ガキ漁の中心になっている。

「キッチンさかなやさん」の岩ガキに大満足したところで、すぐ近くの平沢漁港に行く。岩ガキの水揚げされる港だ。ちょうど沖合では岩ガキ漁をしているというので、それを見に行く。防波堤の突端まで歩いていくと、港外の防波堤の下には3隻の船外機つき小船が浮かんでいる。素潜りの漁師さんが海に飛び込んでは海底の岩ガキを鉄製の鉤でとり、船にくくりつけた浮輪に入れていく。

 岩ガキ漁は「海士(あま)漁」だ。岩ガキをとるのは男性のみで、女性はやらない。ところで「あま」だが、男性が海士で、女性が海女になる。「あま漁」というと志摩あたりの海女さんを思い浮かべ、女性専門の仕事のようなイメージもあるが、もともとは男性も女性もやった。仁賀保のように男性だけがやるところもある。

 日本の「あま漁」の歴史は古い。福岡県の玄界灘に面した鐘ヶ崎がその中心だといわれている。漁港のある鐘ヶ崎の集落を抜け出た鐘ノ岬の織幡神社境内には、「日本の海女漁発祥の地」記念の海女像が建っている。鐘ヶ崎の海士や海女たちは進んだ「あま漁」の技術を持って、日本各地の海へと出稼ぎに出た。そこに住み着き、分村をつくることも多かった。そのことによって「あま漁」の技術は日本各地に広まった。九州の鐘ヶ崎と東北の仁賀保は「あま漁」という線でつながっている。仁賀保港の堤防上で岩ガキ漁を見ながら、日本の「あま漁」の歴史や日本を結ぶ思いもよらない線に思いを馳せるのだった。


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カソリの食文化研究所:第24回 熊川編
 (『ツーリングGO!GO!』2004年10月号 所収)

「鯖街道」で訪ねた若狭の熊川宿を再訪した。
 京都・錦市場から若狭・小浜までの鯖街道を走ったときは、「若狭の鯖」で頭がいっぱいだった。「鯖、鯖、鯖…」と、まるで呪文を唱えるかのよに「鯖」を口ばしりながら走り、「鯖」を追った。ところが鯖街道の宿場町、熊川宿では、食文化研究家カソリの心をおおいにくすぐるようなもの出会ったのだ。
 それが「熊川葛」。関西圏では「吉野葛」と並ぶ葛の名産品。だが、「鯖街道」のときは残念ながら鯖中心だったので、「また、今度…」という気分で熊川宿を立ち去った。

「熊川葛」を食べに行こうという抑えられない気持ちに襲われた。思い立ったが吉日。これがツーリングの基本だ。「それー!」とばかりにスズキDR-Z400Sを走らせ、東名→名神→中国道→舞鶴若狭道と高速の一気走りで小浜西ICまで突っ走った。「熊川葛」を賞味してみたいという一心での高速一気走り。高速道を降りるとR27→R303で熊川宿へ。

 熊川宿の町並みを往復し、葛の店「まる志ん」に入った。そこで葛三昧をする。
 まずは「葛切り」を食べる。葛粉を水に溶き、煮立てたものを冷まして固め、細長く切ったもの。それに黒蜜をかけて食べる。透き通るような透明感。しっかりとした腰。ツルツルッとすすったときののどごしが何ともいえずにいい。これが混じりっ気のない葛粉だけの葛切りというものなのか。

 次に葛湯を飲む。葛粉に砂糖を混ぜ、熱湯をかけてよくかきまぜたもの。このトロッとしたとろ味が子供時代を思い出させる。ぼくが子供のころは熱を出すと、よく葛湯を飲まされた。それがすごくよく効いた。つづけて葛もち、葛まんじゅうと食べた。葛餅は上品な味わい。葛まんじゅうは葛粉の風味と餡がじつによく合っていた。このほかにも「まる志ん」には葛ぜんざいや葛うどんがある。

 熊川の葛粉はかつては京都の和菓子店や大阪の薬店などに盛んに送られた。葛粉は和菓子づくりや薬づくりに欠かせないもの。「熊川葛」は「鯖街道」で京都に運ばれたのだ。
 葛切りなどの原料の葛粉は、日本の山野に自生しているクズの根からとる。大きい根だと2、3メートルも連なっているが、それを数十センチの長さに切って山を下る。このクズの根から葛粉をとるまでが大変な作業なのだ。

 陰干しした根の皮をとり、棒などでたたいてつづれ状になったものを布袋に入れ、水槽で澱粉をもみだす。この澱粉に水を加えて沈殿させ、上澄みを捨てるという工程を何度も繰り返し、澱粉の純度を高めていく。最後に良質の澱粉だけを水に溶かして煮る。それを木箱に流し込み、自然乾燥させて固める。出来上がった葛粉は固くなった豆腐のようだ。

 かつては各地で葛粉をつくっていたが、これだけの手間のかかる作業なので、今では天然の葛粉づくりは日本からほとんど消えた。スーパーなどで売られている葛粉はクズではなく、ジャガイモなどの澱粉が大半。その意味でいったら「熊川葛」は、食の文化財といっても過言ではない。ぼくは熊川宿ですごいものに出会ったのだ。

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Category: 峠越え<2>:秘湯めぐりの峠越え

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秘湯めぐりの峠越え:第11回 知床峠
 (『アウトライダー』1995年4月号 所収)

和商市場でイクラ丼を食べる
 1994年10月11日、「インドシナ一周10000キロ」を走ったバイク、スズキRMX250Sとともに、東京発釧路行きのフェリー、近海郵船の「サブリナ」号に乗った。
 東京港フェリー埠頭発が23時55分、釧路港フェリー埠頭着が7時30分。豪華大型フェリーでの31時間35分の船旅だ。
 釧路港のフェリー埠頭に降り立ったときは、
「ほんとうにバイクで走れるのだろうか……」
 と、不安でいっぱいだった。
 というのは、マグニチュード8・1という超巨大地震に道東が襲われた直後のことだったからである。
 RMXを走らせ、緊張した面持ちで釧路市内に入っていく。だが、被害個所はあまり見られないし、車も順調に流れているので、ホッとひと安心した。

 釧路といえば、なんといっても和商市場。
“霧の町・釧路”にふさわしい、町全体をすっぽりと包み込んだ霧の中を走り、JR釧路駅前に行く。駅近くにRMXを止め、和商市場へ。サケやカニ、イクラやタラコなどの北海の幸が並ぶ市場内を見てまわる。
 そのあと早朝から営業している食堂で、ウニ丼と並ぶ北海道の名物丼のイクラ丼を食べた。温かいホカホカの丼飯の上に、ゴソッとイクラののったイクラ丼は、まさに北海道の味覚。食材の良さと量の豊かさを感じた。

 このイクラ丼は、もともとはサケの漁場や加工場で始まった素朴な料理だったが、白米とイクラの色の取り合わせの良さと味の良さが受けて、たちまち評判となり、北海道を代表するような郷土料理になったという。
 イクラはロシア語で魚の卵の総称だが、それが日本ではサケやマスの成熟卵、または、生筋子をばらして塩漬け、醤油漬けにしたものをイクラといっている。塩漬けのイクラはルビー色をしているが、醤油漬けのイクラは黒ずんでいる。釧路では塩漬けよりも、醤油漬けのイクラの方が好まれているようだ。

 イクラ丼に満足し、まずは自分の舌で北海道にやってきたという実感を味わったところで、釧路を出発。RMXを走らせ、国道44号で根室へ。霧が晴れてくると、晩秋の抜けるような青空がいっぱいに広がっている。
 根室の手前の厚床で国道243号に入り、国道244号経由で標津へ。
 北海道東方沖地震の影響で国道のあちこちに亀裂が入り、ヒビ割れができ、さらに段差ができている。路肩がスポーンと陥没している個所も多い。

 だが、巨大地震からまだ1週間もたっていないというのに、ほとんどの個所で応急処置がなされ、国道244号は全線が通行可能だった。それのみならず、地震直後は9路線、21ヵ所で全面通行止めになっていたという道東の国道は、一部規制はあるものの、全路線が開通していた。
 日本という国は……、すごい!

知床の秘湯めぐり
 標津では標津温泉「ホテル楠」(入浴料300円)の湯に入ったあと、国道355号で知床半島へ。薫別、セセキ、相泊と、知床半島の根室海峡側の秘湯めぐりを開始する。
 知床半島に入ってすぐに忠類川にかかる橋を渡るが、その上からの光景がすごかった。海から川へと逆上ってくるサケの群れで川面は盛り上がり、真っ黒になっている。
「おー、これぞまさしく北海道!」
 と、今度は自分の目で、北海道を実感するのだった。

 薫別に着くと、
「あのー、薫別温泉って、どこでしょうか」
 と、3、4人の人に聞いてみる。だが、みなさん、知らない。やっと、私は行ったことがあるという人に、簡単な地図を書いてもらった。
 国道から8キロほど舗装路を走り、滝ノ沢林道という林道にぶつかったところでT字路を右折し、ダートを4キロほど走ると橋を渡る。この橋の近くに露天風呂があるとのことで、橋の下を流れる渓流の両岸をしらみつぶしに探した。だが、ない……。

 ついに断念して薫別に戻り、もう一度、聞いてみる。すると、その先にもうひとつ別な橋があって、それを渡ったところなのだという。薫別温泉に入りたい一心で、ふたたび滝ノ沢林道を走り、さきほどの橋を渡る。そこから200メートルほど先の二股の分岐を右へくだっていくと、薫別川にかかる橋があった。その橋を渡ったところでRMXを止め、急な山道を薫別川の渓谷へと下る。すると川岸の岩棚に、天然の露天風呂があった!

 岩の割れ目から流れ出る湯が、岩棚の凹地に溜まり、そこが天然の湯船になっている。湯温はすこし温めだが、十分に入れる。さっそくバイクのウエアを脱ぎ、裸になって湯につかる。湯船には肩までつかることのできる深さがある。湯につかりながら、薫別川の渓谷美を堪能する。クマが出てきてもおかしくないような、自然のまっただなかにある薫別温泉の露天風呂は、まさにきわめつけの秘湯だった。

 国道355号に戻ると、知床半島根室海峡側の中心地、羅臼を通り、右手に北方領土の国後島を見ながら走り、セセキ温泉へ。
 羅臼から20キロのセセキ温泉には、海岸に露天風呂がある。入浴の際には浜沢正巳さんという方に断るようにという注意書きがあったので、浜で網の手入れをしていた人たちに聞いてみた。するとちょうどうまい具合に、浜沢正巳さんのお兄さんという方がいて、「おー、いいよ、入りな!」
 といわれ、さっそくセセキ温泉の岩で囲った露天風呂に入る。
 豪快! 爽快! 痛快! 
 波の音を聞き、水平線上に横たわる国後島を眺めながら、なんとも気分よく湯につかった。

 セセキ温泉から上がると2キロ先の相泊温泉まで行く。
 海岸に露天風呂があるのだが高波にさらわれたのか、以前あった湯小屋はなくなり、湯船も半分が砂利に埋まっていた。残った半分の、すっかり浅くなってしまった湯船に、寝湯のスタイルで入るのだった。

知床峠に立つ
 相泊から羅臼に戻り、知床半島横断の国道334号で知床峠を目指す。前方には、女性のふくよかな乳房そっくりの形をした羅臼岳がそびえている。標高1661メートルの羅臼岳は道東の最高峰になっている。
 羅臼の市街地を抜け出ると、羅臼温泉。数軒の温泉宿がある。そこを通り過ぎた国道の左側に無料露天風呂の「熊の湯」がある。RMXを止め、男女別になっている湯に入る。湯の中では、数人の羅臼の漁師さんたちと一緒になった。

 ぼくは温泉の湯につかりながら地元の人たちや旅している人たちと話すのが大好きで、それを称して“湯の中談義”といっている。
 湯につかりながらの話題は、もっぱら北海道東方沖地震。
 さすがに潮の流れに敏感な漁師さんたちだけあって、巨大地震前日の急激な潮の変化をキャッチしていた。流れが変わり、流れが速くなり、「これは何かあるぞ」と話していたという。
 また、大地震のあとは、この「熊の湯」の湯の出方が急によくなり、湯温も上がったという。

 名残おしかったが、羅臼の漁師さんたちに別れを告げ、知床峠を登っていく。
 峠道のコーナーをひとつ、またひとつとクリアーしていくごとに高度を増し、峠の5合目(580m)、6合目、7合目……と過ぎ、標高738メートルの知床峠に到着!
 知床峠からの眺望はすばらしい。
 快晴の青空を背にして、目の前に羅臼岳がそびえたっている。頂上近くの溶岩ドームが手にとるようによく見える。眼下の羅臼の海の向こうには、国後島が長く、どこまでも長くつづいている。それはまるで、大島が連続して横たわっているかのような光景。峠を覆いつくすクマザサが風に揺れてザワザワ鳴っている。

 この知床峠を越える知床横断道路が完成したのは1980年のこと。1958年に工事がはじまり、20年以上もの歳月を費やしての完成であった。
 知床横断道路の完成によって根室海峡側の羅臼とオホーツク海側の宇登呂がつながり、知床を訪れる観光客も増えた。知床峠の駐車場には何台もの観光バスが止まり、大勢の人たちが峠からの眺望を楽しんでいた。

 ぼくも知床峠からの眺望をしっかりと目の底に焼き付け、知床半島オホーツク海側の中心地、宇登呂に下っていく。
 一気に知床峠を下り、オホーツクの大海原を見下ろすプユニ岬に立つ。左手には宇登呂港と宇登呂の町並みが見える。「知床八景」のひとつに数えられているプユニ岬だけあって、岬から眺める海も、港も、町並みも、すべてがキラキラと金色に輝いていた。

知床半島は温泉の宝庫だ!
 宇登呂温泉の温泉ホテル「夕陽のあたる家」でひと晩泊まり、翌朝、カムイワッカ温泉へ。ありがたいことに、前日にひきつづいての快晴だ。知床五湖への道と分かれ、知床林道のダートに入っていく。ダートとはいっても、路面はよく整備され、舗装路とそう変わらない。
 宇登呂から30キロ、終点の知床大橋まで行く。
 そこから2キロほど引き返したところが、カムイワッカの湯滝への入口だ。
 RMXを止め、樹林のなかにザックやヘルメット、ウエア、ブーツを隠し、タオルとカメラだけを持ち、パンツいっちょうという格好でカムイワッカの沢を登っていく。流れに濡れた岩肌は朝日を浴びてまぶしいほどに光っている。

 徒歩20分、カムイワッカの湯滝に到着。
 湯が際限なく、滝となって流れ落ちている。滝壺が絶好の、天然の露天風呂。夏のにぎわいがまるでウソのように、人一人いない。
 知床の大自然を独り占めするかのように、満ち足りた気分で天然の露天風呂につかる。滝壺は深く、底に足が届かない。湯の中にもぐると、金属質の刺激があって、目がチクチクと痛くなってくる。カムイワッカはすべてが自然そのまんまという感じなのだ。

 来た道を引き返し、次に、岩尾別温泉に行く。
 分岐点から温泉までの道は、以前はダートだったものが今では舗装路に変わっている。ここには一軒宿の「地の涯ホテル」があるが、敷地内の露天風呂にはタダで入れさせてもらえる。3段になって湯が流れ落ちている岩風呂は最高にいい。樹林の中にあって、湯につかりながらまばゆいばかりの紅葉を楽しんだ。
 さらに奥には、小さな湯船の“滝見の湯”がある。

 宇登呂に戻ると、国道334号で斜里へ。その途中では、知床第一の名瀑、オシンコシンの滝を見る。高さ80メートル。海岸のすぐ近くにある滝。山々がそのままストーンと海に落ちている知床半島を象徴するかのようなオシンコシンの滝だ。
 知床半島のつけ根の町、斜里に着くと、JR釧網線の斜里駅前の食堂に入る。ツーリングに出たときの、ぼくの昼食の定番といっていいラーメンライスを食べてパワーをつけ、国道244号で標津へ。スーッと長い裾野を引いた斜里岳を右手に見ながら走り、根北峠を越える。根室と北見を分ける峠だ。
 北海道には、このような峠名がいくつかある。石狩と十勝の境の狩勝峠、日高と十勝の境の日勝峠、石狩と北見の境の石北峠……。

 根北峠を下ったところで国道を右折し、林道を5キロほど走り、川北温泉へ。
 ここにも無料湯の露天風呂がある。男女別に分かれているが、男湯は含食塩鉄泉で、女湯は硫黄泉。男湯と女湯では泉質が違う。備えつけの飲湯用カップでゴクリと一杯飲んだあとで湯につかった。
 こうして知床の温泉三昧をして標津に戻ったが、知床にはまるできら星のように、あちらこちらに自然を存分に味わえる露天の湯がある。それもうれしいことに、大半が無料湯なのだ。いかにも北海道らしいおおらかさを感じる。
 標津からは国道272号で中標津を経由して釧路へ。
「釧路→釧路」646キロの知床半島の温泉めぐりだった。


禅とオートバイ修理技術 上―価値の探求 (1) (ハヤカワ文庫 NF 332)

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Category: 峠越え since1975

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カソリの峠越え(16):四国編(5) 高知・愛媛県境の峠
(『月刊オートバイ』1995年8月号 所収)

 四国一周の峠越えの第5弾は、高知・愛媛県境の四国山脈の峠だ。
 高知県の大豊町を出発点にし、高知・愛媛県境の四国山脈の峠を高知側から愛媛側へ、愛媛側から高知側へ‥‥と、ジグザグに越えていった。
 このあたりには、四国の最高峰の石鎚山(1982m)をはじめとして、高峰群がズラズラッと並んでいる。
 高知・愛媛県境の四国山脈は、高く険しい山並みがつづいているので、それだけにおもしろい峠越えとなった。

日本一の大杉
 前回の「祖谷の峠」を終えたあとは、高知県大豊町大杉の「日和佐屋旅館」で泊まったが、宿の女将さんはなんともやさしい人。
「明日の朝は、早めの朝食をお願いします」
 と、頼んでおいたのだが、翌朝6時にはもう朝食の用意ができていた。
 そのおかげで、7時前には出発できた。
 女将さんはわざわざ、外に出て、ぼくのことを見送ってくれた。
 峠越えの相棒の、スズキDJEBEL200のエンジンをかけ、走りだすまで、ずっと見送ってくれたのだ。

 大杉の地名の由来にもなっている“日本一の大杉”を見に行く。
 八坂神社境内にある大杉は、“日本一の大杉”というだけあって、なるほどすごい!
 樹齢はなんと、3000年を超えるという。
 北大杉と南大杉という2本の大杉が根元で合わさっているのだが、根まわりは20メートル、樹高は60メートルという巨木。まるで、神々でも宿っているかのような神々しさを感じた。
 次に、高知自動車道の大豊ICに近い四国自動車博物館に行く。開館時間は午前10時から午後5時までで閉まっていたが、丘の上のモダンな建物を外側から眺め、ガラス越しに自動車やオートバイのコレクションを眺めるのだった。

歴史の古い笹ヶ峰峠
 さあ、出発だ!
 吉野川の河畔の町、大豊は国道32号と“与作国道”の国道439号が交差する交通の要衝の地で、四国縦断の高知道の大豊ICもある。
 ここからは県道5号大豊川之江線で、高知・愛媛県境の笹ヶ峰峠に向かう。高知道に沿ったルートだ。
 立川川に沿って、山中に入っていく。
 大豊から20キロほど走ると、立川に着く。そこには国の重要文化財に指定されている土佐藩の旧立川番所がある。旧番所は、大きな茅葺き屋根の建物。

 土佐藩は江戸への参勤交代には、最初のうちは海路を使っていたという。それが、第6代目藩主の山内豊隆以降、陸路を使うようになった。海路だと、江戸までの日数が定かでないのが理由のようだ。
 そのルートというのは、高知→布師田→領石→穴内→本山→川口(大豊町)を経て、ここ立川までやってくるというもの。立川からは、笹ヶ峰峠を越えて伊予(今の愛媛県)に入り、馬立を通って瀬戸内海の川之江に出た。
 立川番所は国境警備の関所であるのと同時に、土佐藩主の参勤交代のときには土佐藩内最後の宿にもなっていた。それだけに、立派な建物なのだ。

 笹ヶ峰峠を越えていく街道というのは、それ以前からの歴史の古い街道で、平安時代には京の都と土佐の国府を結ぶ官道になっていた。
 現在の四国縦断の幹線国道は吉野川沿いの大歩危、小歩危を通る国道32号だが、これは比較的、新しいルート。昔の幹線は四国山脈の峠を越えていた。

 それがおもしろいのだが、一番新しい四国縦断の幹線の高知道はといえば、この一番古いルートに沿って走り、四国山脈の峠を長大なトンネルでブチ抜いて越えている。
 それは東名が日本坂を日本坂トンネルで、中央道が小仏峠を小仏トンネルで、神坂峠を恵那山トンネルで抜けているのと同じこと。
 日本坂は東海道の古い峠だし、小仏峠は甲州街道の古い峠、神坂峠は中山道以前の東山道の峠なのだ。
 先祖帰りとでもいうのだろうか、それだけ昔の人たちは地形を読む目を持っていた。どの峠を越えていけばいいかということがよくわかっていたのだ。

 旧立川番所を出発。さらに山中へと入り、最後の集落の浦谷を過ぎると、一気に峠に向かって登っていく。
 笹ヶ峰峠に到着。
 四国山脈の笹ヶ峰(1015m)の西側の、高知県大豊町と愛媛県新宮村の境の峠だ。峠のトンネルの入口には、峠道の完成記念碑が建っている。
 峠の高知側は、冬の日差しかさんさんと降りそそいでいた。それが峠のトンネルを抜けて愛媛県に入ると日陰になり、ゾクゾクゾクッとするくらいに寒くなった。

 愛媛県に入ると、峠道は愛媛県道5号川之江大豊線になる。峠道を下っていくと、高知道の笹ヶ峰トンネル(全長4310m)の出口と出会う。峠下の馬立には、江戸時代の参勤交代のときに藩主が泊まった本陣が残されていた。
 新宮村からは、もうひとつの峠、堀切峠のトンネルを抜ける。
 峠道を下っていくと、白っぽい川之江の町並みのむこうに瀬戸内海が広がっていた。

猿田峠から寒風山の峠へ
“製紙の町”川之江では港まで行き、瀬戸内海を見たあと、堀切峠に向かって引き返す。
 そそりたつ目の前の山並みの中に入り、一気に登っていく。新道は全長1259メートルという長いトンネルで貫かれているが、杉林の中を縫う旧道を登り、峠を越えた。
 国道とは名ばかりの林道を舗装したような国道319号に合流。銅山川に沿って走る。
 瀬戸内海の海からわずかな距離でしかないのに、ものすごく山深い風景だ。この銅山川は、かつての日本最大級の銅山、別子銅山があった別子山村から流れてくる。瀬戸内海とは山ひとつ隔てたところを流れているが、阿波川口で吉野川に合流し、はるか遠くの徳島で紀伊水道へと流れていく。

 国道319号と別れ、別子山村に通じる県道に入る。
 それとも別れ、四国山脈の猿田峠に通じる道を登っていく。
 うっそうと茂るスギやヒノキ林に覆われた猿田峠は愛媛・高知県境の峠だが、四国山脈の大森山(1415m)と玉取山(1370m)の間を短い白髭トンネルで抜けている。 峠のトンネルを走り抜けて高知側に入ると、
「いやー、あったかいな」
 と、DJEBELのハンドルを握りながら、思わす声が出る。
 太陽の光が強い。
 伊予から土佐へ、峠を越えて入ると、“南国土佐”がよーく実感できるのだ。

 猿田峠を下っていくと、吉野川をせき止めた四国最大のダム、早明浦ダムのすぐわきに出る。
 そこからは吉野川沿いに上流へと走り、本川村で国道194号にぶつかり、今度は四国山脈の寒風山峠を目指す。
 寒風山(1765m)と伊予富士(1756m)の間の高知・愛媛県境の峠だ。
 国道194号は大規模な改修がおこなわれていた。
 寒風山をブチ抜く全長5432メートルという長大な寒風山トンネルの建設が、急ピッチで進められていた。完成は平成9年。
 完成すれば四国では最長のトンネルになるが、一般国道での5000メートル級のトンネルというのは、ほかには例がない。
 愛媛県の西条市と高知県の高知市を結ぶ国道194号は高松と高知を結ぶ国道32号や、松山と高知を結ぶ国道33号以上に、四国縦断の最短ルートになっているので、寒風山トンネルが完成したら、国道194号の重要度は飛躍的に増すことだろう。

 寒風山トンネルの建設現場を通り過ぎ、峠道を登っていく。
 するとあたりは急に静かになり、交通量もぐっと少なくなる。曲がりくねった、急勾配の峠道を登りつめ、峠のトンネルの入口に到達。
 ほんとうはここから、高知・愛媛県境の稜線上を通り、石鎚スカイラインにつながっている瓶ヶ森林道を走りたかったのだが、冬期閉鎖で舗装された林道の入口には、頑丈なゲートが下ろされていた。
 寒風山の峠のトンネルを抜け、愛媛県に入る。伊予富士が目の前だ。谷が深い。
 逆さ落としのような急坂のつづく峠道を下り、加茂川の谷間を走り抜け、国道11号に出る。後を振りかえると、今、越えてきた四国山脈の山々が迫力のある姿でズラズラッと連なっていた。

松山からのナイトラン
 瀬戸内海に面した西条からは、国道11号で松山方向へ。
“桜三里”で知られる河之内峠を越え、峠下の川内からは、国道494号で黒森峠を越えた。石鎚山から西へとつづく山並みの峠だ。
 面河村に入り、石鎚スカイラインを走ろうとしたのだが、12月1日から3月31日までは冬期閉鎖だった。残念。
 次に黒森峠よりも西の、峠周辺に8キロのダートが残る井内峠を越え、川内に戻った。
 川内からは、国道11号で松山へ。
 松山に来たからにはと、道後温泉の湯に入る。
 湯から上がるころには、夕暮れが迫っていた。

 松山出発は17時。
 今晩の宿、高知県中村市の四万十温泉「サンリバー四万十」に、
「すいませ~ん、到着が大幅に遅れますので」
 と、謝りの電話を入れ、国道33号を走りはじめる。
 松山から20キロ走ると三坂峠。すでに日はとっぷりと暮れている。
 峠道からは、松山の町明かりを遠くに望むことができた。
 三坂峠は標高720メートル。さきほど越えた黒森峠、井内峠と同じように、石鎚山から延びる山並みの峠だ。
 峠の上には洒落たレストランがあり観音堂がある。

 三坂峠は松山市と久万町の境の峠で、峠を越え、久万町側に下っていく。
 峠を下っていくと、久万川の流れとぶつかる。この川は、吉野川と四万十川に次ぐ四国第3の川、仁淀川の上流になる。
 峠を越えると、そのたびに、新しい川との出合いが待っている。
 久万町から美川村を通り柳谷村に入ったところで、国道440号で地芳峠に向かう。
 夜の峠越え。峠道を登っていくごとに寒さが厳しくなる。
 標高1084メートルの地芳峠に到着。身を切られるような冷たい風が吹いている。
 地芳峠は愛媛・高知県境の峠で、峠周辺は“四国カルスト”で知られる石灰岩質のカルスト地形になっている。残念ながら夜の峠越えなので、峠からの眺望(地芳峠は絶景峠)も、カルスト地形も見ることはできなかった。

 地芳峠を越えて高知県側の檮原町に入り、四万十川の支流、檮原川に沿って走る。
 これから四万十川の河口に近い中村まで、ずっとリバーサイドランをすることになる。
 檮原町の中心、檮原を過ぎたところで、国道と分かれ、県道で檮原川に沿って走る。幅の狭い、曲がりくねった道。やがて“与作国道”の国道439号に合流。
 檮原町から大正町に入る。
 大正町の中心、JR予土線の土佐大正駅があるあたりで、檮原川は四万十川の本流に合流する。そこからは、四万十川本流沿いの国道381号を走る。十和村を通り、西土佐村の中心、江川崎で支流の吉野川と合流するが、そこから中村までは国道441号を行く。
 月光に照らされて、キラキラと光り輝く四万十川の流れを眺めながら走る。なんともいえないロマンチックな気分だ。

 松山から222キロ走り、中村には22時30分に到着。四万十川にほど近い、国道56号に面した四万十温泉「サンリバー四万十」に行く。
 すっかり遅くなった到着をわび、部屋に入ると、浴衣に着替え、すぐさま湯に入りにいく。大浴場の湯にどっぷりとひたったときは生き返ったような思いだ。
 湯から上がると、国道33号沿いのホカ弁で買った弁当を食べる。すっかり冷たくなった弁当だが、それでも大満足。
 大豊から中村まで1日で525キロ走り、
「ヤッタネ!」
 という気分だったからだ。

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: 食文化<4>:食文化研究所

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カソリの食文化研究所:第23回 京都→小浜編
 (『ツーリングGO!GO!』2004年9月号 所収)

 京都から若狭・小浜までの「鯖街道」を走ろうと、東京を午前5時に出発。スズキDR-Z400Sで東名→名神と駆け、午前11時には京都東ICに到着した。距離はちょうど500キロ。すぐさま京都市内に入り、祇園の八坂神社近くの駐車場でバイクをあずかってもらい、歩いて「錦市場」へ。バイクで鯖街道を走る前に、錦市場はどうしても見ておきたかったところだった。

 錦小路を目指し、鴨川にかかる四条大橋を渡った。錦小路は京都の中心街を東西に貫く四条通りの、1本、北側の通り。京都第一の繁華街、新京極から入っていく。目印は錦天満宮だ。
 京都の台所といってもいいような錦市場は、この錦小路にある。魚屋、乾物屋、八百屋、肉屋、漬物屋、てんぷら屋、蒲鉾屋…といった食料品店が、狭い通りの両側に140軒あまりもずらりと並んでいる。京料理には欠かせない湯波や生麩をつくる店もある。

 ここできわめて目につくのは塩サバや焼きサバ、サバの生姜焼き、サバのヘシコ、鯖ずしなどの若狭湾でとれたサバ。そのほかにも一夜干しのササガレイ(若狭ガレイ)や若狭湾産のアジやグチの開きも目についた。これで冬になると、京都人の鍋料理には欠かせないタラが並ぶが、それも「若狭ダラ」なのだ。

 錦市場を歩いてみると、京都と若狭の海が直結していることがよくわかる。京都からいくつもの峠を越えて若狭の小浜に通じる鯖街道は、昔から京都に海の幸をもたらすものだった。たとえば京都名物の鯖ずしだが、若狭の浜でひと塩されたサバが峠を越えるころには塩がなじみ、錦市場に並ぶころには鯖ずしにはちょうどいい塩加減になっていた。

 錦市場の「市場歩き」の次は、京都の老舗の「食べ歩き」だ。
 四条大橋の東詰にあるのが日本で最も古い劇場の南座。昔は四条河原の一帯は、芝居小屋や見世物で賑わったという。南座にあるソバ屋が江戸時代からつづいている老舗の「松葉」。ここの名物のにしんそば(1100円)を食べた。身欠きニシンの棒煮とソバの取り合わせを考案したのは明治の中頃のこと。それが評判になり、今では「にしんそば」といえば京都の名物料理になっている。

 八坂神社裏手の円山公園にある老舗の「平野屋」では、いもぼう定食のフルコース「花御膳」(4200円)を食べた。いもぼうというのはエビイモと棒ダラを炊き合わせたもの。このエビイモと棒ダラの取り合わせがいかにも京都らしい。海から遠く離れた京都では、料理に鮮魚を使えないかわりに、塩魚や干物、乾物の料理が発達した。

 にしんそばの身欠きニシンにしても、いもぼうの棒ダラにしても、北海の海産物は日本海から京都に入ってきた。京都ではニシンといえば越前の敦賀から入ってくるもので、敦賀にはニシン倉が残されている。このように「市場歩き」と同様、「食べ歩き」をしてみても、京都が若狭や越前の日本海に顔を向けた町だということがよくわかる。「京阪神」というが、京都と大阪・神戸の決定的な違いは日本海に目を向けているか、いないかだ。
 最後に八坂神社前の老舗「いづ重」で、鯖ずしを1本(3800円)買った。これは今、食べないで、ザックに入れて明日、食べるのだ。

 翌朝6時、京都駅前を出発。中心街を走り抜け、出町から「鯖街道」のR367に入っていく。京都に出入りする街道の入口を「口」と呼び、「京に七口あり」といわれてきたが、出町は大原口の起点になる。R367で高野川沿いに走っていくと、あっというまに両側の山々が覆いかぶさるように迫ってくる。
 三千院や寂光院のある洛北の大原でバイクを止め、待望の「いづ重」の鯖ずしの朝食。豪華版の朝食だ。鯖ずしとはひと塩のサバを三枚におろし、それを棒状にしたすし飯の上にのせ、昆布で巻き、竹の皮で包んだもの。これが発酵食品のマジックというもので、時間がたつと魚の生臭さが消え、脂っこさも消え、うま味がぐっと増しくる。さらに日持ちがするようになる。

 ひと口、鯖ずしを口に入れたときの食感がたまらない。ほどよい塩加減のサバとすし飯が絶妙にマッチしている。鮮魚のサバでは味わえないさっぱり感がある。ひと切れ、もうひと切れと食べていくうちに、きれいさっぱりと1本、全部を食べた。京都人は昔から祭りや祝いごとがあると鯖ずしをつくってきたというのも、うなずける味だ。

 鯖ずしに大満足したところで途中峠を越えて滋賀県に入る。さらに花折峠を越える。峠を越えながら、かつて若狭の小浜からサバを背負ってこれらの峠を越えた人たちのことに思いを馳せた。花折峠を越えると安曇川の清流沿いに走る。さすが山国、獣肉の猪肉料理や渓流魚のアマゴ料理、栃餅やワラビ餅などの看板を掲げた店を街道沿いに見るが、その中にあって、「鯖ずし」の看板を掲げた店も何軒か見た。

 鯖街道の宿場町、朽木からは檜峠を越えてR303に出、さらに水坂峠を越えて福井県に入った。水坂峠下の熊川宿には昔ながらの宿場町の風情がよく残っている。ここには鯖街道資料館の「宿場館」がある。サバを背負って運んだ「背持ちさん」の姿が復元され、展示されている。
 背持ちは厳しい仕事だったが、「(背負子を背負う)負い縄1本あれば、生活ができる」といわれたほど稼ぎがいい仕事でもあったので男も女もやったという。男で16貫(約60キロ)、女で半分の8貫のサバを背負い、小浜を朝の8時から9時頃に出発し、わずかな仮眠をとる程度で夜通し歩き、翌日の午前11時前には京都・出町の市場に到着したという。小浜-京都間は18里(約72キロ)。それを重いサバを背負って30時間もかからずに歩き通したのだから、背持ちは強靱な体力の持ち主だ。

 京都からの鯖街道を走りきり、小浜にゴールすると、小浜駅近くのビジネスホテル「山海」に泊まった。夕食は隣りの食堂「やまてん」で食べる。ここがよかった。アカイカ(マイカ)とアゴ(トビウオ)の刺し身を肴にビールをキューッと飲み干したあと、焼き鯖ずし(1200円)を食べる。小浜名物の浜焼きサバをネタにした握りずし。浜焼きサバというのは、とれたての新鮮なサバの内蔵をとって竹の串に刺し、浜で炭火を使って焼き上げたものだ。そのあとはサバのヘシコを肴に小浜の地酒「熊川宿」を飲んだ。水のいい若狭は銘酒の産地。「熊川宿」はなんとも口当たりのいい酒でいくらでも飲めてしまう。最後にサバのヘシコの茶漬けを食べ、女将さんの見送りを受けて店を出た。最初から最後までサバを追った今回の「鯖街道を行く」なのだ。

 翌日は小浜湾のサバ漁を見た。定置網の大敷網でタイやブリなどと一緒にサバをとっていた。サバ漁は5月中旬から7月中旬頃までが最盛期だという。1本釣り漁でもサバをとっている。「若狭フィッシャーマンズワーフ」裏手の「とれとれ市場」には、小浜湾でとれたばかりの生サバや浜焼きサバがズラリと並んでいた。観光客が次々とそれを買っていく。サバは鯖街道の出発点、小浜の名物になっている。

 小浜漁港の岸壁に立ち、ぼくはかつての鯖街道を行き来した「背持ちさん」のことを思った。サバなどの青魚は傷みやすい。浜でひと塩したサバを「背持ちさん」は京都・出町の市場を目指し、いくつもの峠を越えて歩きつづけた。まさに峠を越えたサバ。今の時代の高速道路を疾走する鮮魚運搬車と「背持ちさん」の姿が重なってならなかった。

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※たまらず管理人コメント:3800円の鯖寿司ってのも凄いが、それが朝食とは・・・。スゲー!

テーマ : 旅の思い出    ジャンル : 旅行

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Category: オーストラリア2周1996(前編+後編)

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「オーストラリア2周」後編:第3回 アリススプリングス→パース
※全行程7670キロ(ダート3本2912キロ)
 (『バックオフ』1997年5月号 所収)
                        
 大陸中央部のアリススプリングスは、オーストラリア・ダート・ルートのキーポイントのような町だ。
「すべてのダートはアリススプリングスに通ず!」
 と、いっても過言ではないほどで、当然「オーストラリア2周・後編」(ダート編)では、この町が拠点になる。
 その第1弾が前回の第2回目。
 往路でシンプソン砂漠を横断し、復路ではダート647キロのプレンティーハイウエーを走破した。
 さて、今回の第2弾目では、1083キロのダート、ワーバートンロードを走って世界有数の金鉱山カルグーリーへ。そこから難関ルーのナラボー平原横断ルートに入っていったのだ。

ハエとの戦い
 シンプソン砂漠を横断し、ダート647キロのプレンティーハイウエーを走破して戻ってきたアリススプリングスでは、郊外のモーテル「マウント・ナンシー」に泊まった。夜明けとともに起き、まずはトイレ&
シャワーだ。これはぼくの決まりきったパターンで、出すものを出し、寝起きのシャワーを浴びると、体はウソのようにシャキーッとする。これがカソリ流の旅の健康法なのだ。
 そのあとでパンにチーズをはさみ、部屋に備付けのコーヒー&紅茶を飲みながらの朝食を食べる。

 モーテルの水道で、スズキDJEBEL250XCにこびりついた泥を洗い落とす。洗いながらボルト、ナット類のゆるみやフレームへの亀裂の有無をチェックする。オーストラリアのダートでは、フレームを折るといったトラブルがよく起きるのだ。
 そのあと、スズキのディーラーでエアークリーナーのエレメントの洗浄とオイル交換をしてもらう。
 さー、出発だ。目指すはキングスキャニオン。最近、とみに注目を集めている渓谷だ。アリススプリングスから100キロ走るとダードに入る。ハーマンスバーグの町を通り、モーリス峠を越えるが、峠道から見下ろす雄大な風景は感動もの!

 230キロのダートを走ってたどり着いたキングスキャニオンは、ものすごいハエ、ハエ、ハエ。帰路は別ルートでダート100キロを走りアリススプリングスに戻ったが、ダート合計330キロのキングスキャニオン周遊ルートだった。
 再度、アリススプリングスの町を出発。R87のスチュワートハイウエーを南へ。
「また、戻ってくるゼ!」
 と、離れゆくアリススプリングスの町並みに向かって叫んでやる。

 アリススプリングスから250キロ地点のエルダンダに到着。ここから世界最大級の一枚岩、エアーズロックへの道に入っていくのだ。
 なつかしのエルダンダ‥‥。ぼくは今回の「オーストラリア2周」の23年前、1973年にもオーストラリア大陸を2周した。そのときは1周がバイクで、もう1周がヒッチハイクだったが、このエルダンダにはヒッチハイクでやってきて、やはりそのときも、エアーズロックに向かおうとしたのだ。

 当時はエアーズロックへの道は、全線がダートで、エルダンダの分岐点にはドラムカンが1個、置かれているだけだった。そこでまる1日、車を待った。昼間はすさまじい数のハエに悩まされ、夜は蚊の大群の猛攻を受けた。おまけに嵐にも見舞われた。その分岐点からエアーズロック方向に入った車はわずかに1日に数台しかなく、乗せてもらえないままに、ついにエアーズロックへのヒッチハイクを断念してしまったのだ。
 それが今では、エアーズロックといえば、オーストラリア1、2の大観光地で、交通量もおそらく1日に1000台以上はあるだろう。これが、オーストラリアをめぐる23年間の変化だ。エルダンダには、大きなロードハウスができている。

 エルダンダから250キロのエアーズロックでは、1晩ユララのキャンプ場に泊まり、翌朝、登頂だ。頂上では“豪州軍団”のターク(目木正さん)が出発前に送ってくれた豪州軍団旗を手に持っての記念撮影。登り50分、下り25分のエアーズロック登山だった。
 エアーズロックのまわりをバイクでぐるりと一周し、次にマウント・オルガへ。平原にそそりたつ岩山の“風の谷のナウシカ”の舞台そっくりな峡谷を一時間ほど歩いたが、キングスキャニオンのときと同じように、ハエとの戦いに終始した。

ワーバートンロードに突入!
 マウント・オルガから、いよいよオーストラリア最長ダートのひとつ、ダート1000キロを超えるワーバートンロードに入っていく。
“豪州の熱風カソリ”、ダートが1000キロを超えると聞いただけで、体がゾクゾクしてくるような異常体質をしている。日本のダートのような10キロや20キロという距離ではない、その50倍、100倍もの、ダート1000キロなのだ!

 気温40度を超える猛烈な暑さの中、エンジン全開で突っ走る。DJEBELのオイルクーラーの効果は抜群で、この暑さをものともしない。
 ワーバートンロードのノーザンテリトリー側は、ドッカーリバーロードという。平坦な一直線に延びる道。道幅は広いが、交通量はほとんどない。真っ赤な土の道を疾駆する。小さな砂丘群を見る。ところどころにブルダストの砂溜まり。コルゲーションはそれほどきつくはない。

 マウント・オルガから182キロで、アボリジニのコミュニティーのあるドッカーリバーに着く。ここで給油し、冷房の効いた倉庫風建物のスーパーマーケットでポテトチップス&コカコーラの昼食。そしてウエスタン・オーストラリア(西オーストラリア州)に入っていく。
 90キロ前後の速度で走っているときのことだった。路面にころがっている大きめな石を避けきれずに、モロにフロントでヒットした。
 その瞬間、バーンという音ともにふっ飛ばされた。ハンドルはまったくきかない。ラッキーだったのは、路肩を突き破ったが、転倒もしないでブッシュの中で止まれたことだ。もうひとつラッキーだったのは、タイヤのバーストではなく、単にチューブのパンクだけ。さすがに“超強運(超悪運)のカソリ”だけのことはある。ぼくは、この“運”のみで今日まで生きながらえてきたのだ。

 ブッシュの中でのパンク修理。石にヒットしたときの衝撃の大きさを示すかのように、引っ張り出したチューブはザックリと裂けていた。新しいチューブに交換して走り出す。
 パンク修理に手間どったこともあって、ワーバートンロードではダート・ナイトランになってしまった。おまけに天気が崩れ、強風、黒雲、稲光と最悪だ。夜空を駆けめぐる稲妻がすさまじい。DJEBELに雷が落ちるのではないかとヒヤヒヤだ。
 アボリジニのコミュニティーのあるワーバートンでひと晩、泊まり、マウント・オルガから1083キロのダートを走りきり、翌日の夕方、ラバートンの手前で舗装路に入った。
 やったゼと、飛び上がらんばかりに喜んだが、ロングダートのあとの舗装路ほどありがたいものはない!!

熱風吹き荒れるナラボー平原を行く
 ラバートンから舗装路を400キロほど走り、カルグーリーに到着。ここは昔も今も、世界でも最大級の金鉱山の町。そんなカルグーリーでは、気分はけっこう緊張状態。胸ドキドキなのである。というのは、ここからナラボー平原横断の通称“レイルウェー”に入っていくからだ。
 この“レイルウェー”は大陸横断鉄道に沿ったロングダート。以前はカルグーリーから400キロのローリナがちょっとした町になっていてそこで給油できたが、今はゴーストタウン。そのためカルグーリーから900キロ先のサウスオーストラリア(南オーストラリア州)のクックまで給油できないのだ。

 カルグーリーのスズキのショップ「レイムーア・モーターサイクル」でDJEBEL250XCのオイルとオイルフィルターを交換し、フロントタイヤ用の予備チューブを買う。
 次に、BPのガソリンスタンドでDJEBELの17リッタータンクを満タンにし、10リッター、3リッター、2リッターのポリタンにガソリンを入れ、さらに5リッターの容器を買ってガソリンを入れる。合計37リッターのガソリンを用意してカルグーリーを出発する。無事にクックに着けますように!と、祈るような気持ちだ。

 カルグーリーから20キロ地点でダートに入り、31キロ地点で左折。88キロ地点で左手に大陸横断鉄道の線路が見えてくるが、あとはただひたすらにこの線路を目印に走るのだ
 ローリナへのダートを快調に走り、275キロ地点を過ぎたあたりで急速に樹木が消え、草原の風景に変わる。一望千里のナラボー平原に入ったのだ。路面に石ころが多くなったところで、フロントがパンク。北からの熱風が吹きまくる中でのパンク修理はきつい‥‥。夕暮れが迫るころ、2度目のパンク。もう予備チューブがないので、空気をパンパンに入れ、耳もとで穴を確認し、パンク修理用のパッチを貼るのだった。
 ダート・ナイトラン。ローリナに着いたのは10時過ぎで、ゴーストタウンの旧駅舎前でゴロ寝した。

 ローリナを過ぎると、一気に道が悪くなる。際限なく石の原がつづく。まさに“ナラボー平原地獄の石原”。ここの尖った石にやられ、またしてもフロントがパンク。熱風が吹きすさぶ猛烈な暑さの中でのパンク修理が終わると、水(湯)のガブ飲みだ。
 つづいて2度目のパンク。完全にパンク恐怖症にかかり、それからというもの、グッと速度を落とし、3速のスタンディングで石をひとつひとつ避けるようにし、フロントを浮かせるようにして走った。その日は1日、目いっぱい走って277キロ。フォレスト駅で泊まった。

 カルグーリーを出てから3日目、ついにサウスオーストラリア州に入った。クックまであと、もうひと息と喜んだのもつかの間、またしてもフロントのパンク。なんと5度目。ヒーヒー状態でパンク修理を終え、フォレストから232キロのクックに夕暮れ時に着いた。まずは「ナラボー平原横断」の前半戦の終了だ。
 ここではうれしいことに、「オーストラリア2周・前編」(ロード編)で出会ったDR350のタマさんと再会。一緒にクック駅の物置風建物で泊まったが、タマさんに振る舞われた炊き込み飯はうまかった!

 翌日、クックのガソリン・スタンドは休業。そこでタマさんと一緒に南のR1のナラボー・ロードハウスまで行く。ガソリンを4リッター残しての到着。カルグーリーから1061キロを無給油で走ったことになる。これは、すごいことだゼと、自画自賛。あの“ナラボー平原地獄の石原”を超低速走行したのにもかかわらず、燃費はリッター32・1キロと驚異的な良さ。R1を行くタマさんと別れ、ぼくはクックに戻るのだった。

 クックからのナラボー平原横断の後半戦は無事にとでもいおうか、パンクゼロで走り切り、スチュワートハイウエーのグレンダンボに出た。ダート計1499キロのナラボー平原横断だ。グレンダンボのロードハウスでは、やはり「オーストラリア2周・前編」(ロード編)で出会ったCT110の王様と、カブのベンジーと劇的な再会をとげた。2人はなんと、CT110とカブに荷物を満載にし、ナラボー平原を横断したのだ。そんな2人とポートオーガスタまで走り、「ポインセティア」というモーテルに泊まり、その夜はお互いのナラボー平原横断の成功を祝ってビール&ワインで夜中まで乾杯を繰り返した。
 翌日、2人は東のアデレードへ、ぼくは西へ、パースへと向かった。

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: 峠越え<2>:秘湯めぐりの峠越え

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秘湯めぐりの峠越え:第10回 天辻峠編
 (『遊ROAD』1994年4月号 所収)

真冬の峠越えに出発!
 午前5時、目をさますと、土砂降りの雨が降っている。バイクにとって、冬の雨ほど辛いものはない。まだ雪のほうがいい。
「行くと決めたからには、行くんだ!」
 冬用のウエアを着込んで身支度を整え、5時30分、神奈川県伊勢原市の自宅を出発。目指すは奈良県の天辻峠。
 峠を越えて紀伊半島を縦断し、国道168号沿いの温泉に入りまくるのだ。

 バイクは「インドシナ一周一万キロ」(1992年~1993年)を走ったスズキRMX250S。秦野中井ICで東名に入り、たたきつけるような雨をついて走る。
 御殿場周辺が悲惨…。雨が雪に変わり、ボソボソと降っている。転倒して、自分が原因で玉突き事故にでもなったらそれこそ一大事なので、より慎重に、より緊張して走った。裾野ICを過ぎるころには、また、雨に変わり、ホッとするのだった。
 牧ノ原SAで豚汁定食を食べ、体を内側からあたためる。浜松を過ぎたあたりでやっと雨は上がる。名古屋ICからは、東名阪→国道25号(名阪国道)→西名阪→国道24号というコースで走り、伊勢原から500キロの奈良県五条市到着は12時。和歌山線の五条駅前でRMXを止め、天辻峠への出発点にした。

天辻峠を越える幻の五新線
 五条から国道168号で紀伊半島に入り、天辻峠に向かう。
 吉野川(和歌山県に入ると紀ノ 川と名前が変わる)にかかる大川橋を渡ると、国道の電光掲示板には、
「この先、積雪。チェーン携行」
 の、注意がでている。さーて、どうなることやら‥‥。
 天辻峠の周辺はけっこう雪が降るのだ。しかしよほどのことがないかぎり国道168号が閉鎖されることはないはずだ。

 吉野川の支流、丹生川沿いに走り、五条市から西吉野村に入る。山々がグッと間近に迫ってくる。柿が名産なだけあって、山の斜面はいたるところ、柿園になっている。
 梅林で知られる賀名生は難解地名のクイズにも出そうだが、これで“あのう”と読む。 賀名生にある食堂で、名物の柿ノ葉ずしを食べる。1皿に4個のって400円。自家製のものだ。
 柿ノ葉ずしは塩サバを使った押しずしで、柿の葉でくるんである。材料の塩サバは、昔は熊野灘の浜から吉野まで、馬の背にのせて運んだという。馬の背で揺られている間に、水揚げ直後に浜でうったひと塩の浜塩が、サバ全体にほどよくまわり、なじんだのだという。

 この塩サバを薄切りにし、握ったすし飯の上にのせ、ひとつづつ柿の葉でつつむ。それをすし桶に並べ、上から蓋をし、重しをかけておく。こうして一昼夜も押すと食べられるようになるが、2日目ぐらいがちょうど食べごろになるという。
 柿の葉のかすかな香りがサバの生臭さをきれいに消してくれる。柿ノ葉ずしは、海から遠い吉野らしい郷土料理だ。

 国道168号を走っていて目につくのは、幻の鉄道、五新線の軌道。五条と新宮を結ぶ鉄道として計画され、建設されたが、途中で挫折‥‥。
 現在、五条と西吉野村の中心地、城戸までは、鉄道の軌道上をJRバスが走っている。さらにその先、天辻峠を貫くトンネルもほぼ完成しているそうで、ループになっているとのことだが、一度も日の目を見ることもなく、うち捨てられてしまった。
 西吉野村の村役場の所在地、城戸にあるのが、西吉野温泉。数軒の温泉宿。ここでは、「にしよしの荘」(入浴料500円)の湯に入った。寒風を切って走りつづけてきただけに、大浴場の湯につかった瞬間、冬ツーリングの辛さ、厳しさを忘れ、しばし天国の気分を味わうのだった。

雪の天辻峠越え
 いよいよ、天辻峠だ。
 城戸を過ぎると一気に山中に入り、峠道を登っていく。
 登るにつれて急速に寒さを増し、峠に近づくとチラチラと雪が降り出してくる。ゴーグルにこびりついた雪をはらいのけ、歯をカチカチ鳴らしながら峠に到着。
 西吉野村と大塔村の境の天辻峠は標高800メートル。長さ1176メートルの新天辻トンネルが峠を貫いている。峠のトンネルを抜けて大塔村に入ると、同じ奈良県とはいっても、吉野川から十津川の世界へとガラリと変わる。
 周囲の山々は一段と深く、険しくなる。

 新天辻トンネルの真上にある峠上の集落、天辻まで登っていく。わずかな高さの違いだが、雪の降り方に勢いがあり、あたりは一面の雪景色になっている。今は廃校になっているが、天辻の小学校分校の校庭には、「天誅組本陣跡」の記念碑が建っている。
 幕末期、十津川郷士や諸藩を脱藩した尊皇攘夷(天皇を崇敬し外国の勢力を排斥しようとした思想)の急進派たちは、天誅組を結成し、世直しだと京都を目指して天辻峠を駆け下っていった。
「天誅(天が下す罰)だ!」
 と叫んで五条の代官所を襲撃し、さらに奈良盆地入口の高取城を襲撃したが、幕府軍との戦いに破れ去り、天誅組は壊滅した。
 そのような天誅組に屋敷を提供し、食料も提供したのが天辻の庄屋、鶴屋治兵衛。
 天誅組の碑と並んで、鶴屋治兵衛の碑も建っていた。

 ところで、天辻峠の“天辻”だが、辻は峠を考える上ではきわめて重要だ。どういうことかというと、峠はまさに辻なのである。“天辻”の文字通り、峠は天の辻で、天上の十字路、つまり交差点になっていた。こちら側の世界から、峠を越えて向こう側の世界へと登り下りする峠道と、尾根を縫って通る山上道が、峠で交差するのである。
 山上道は今の時代でいえばスカイライン。伊豆スカイラインなどを通ってみるとよくわかるが、尾根上を走っていて、一番下ったところが峠になっている。そこで下から登ってくる峠道と十字に交差するのだ。

 日本には地蔵峠が数多くあるが、山伏峠も各地にある峠名だ。
 山を修行の場とする山伏にちなんだ峠名だが、山伏たちは峠道ではなく、スカイラインの山上道を駆け、自由自在に遠方の世界まで行っていた。山国日本にはこのような山上道が、かつては網の目のように張りめぐらされていた。
 天辻峠では、峠のトンネルを抜け出てすぐのところにある天辻大師温泉(入浴料720円)の湯に入り、峠をくだっていく。峠道の途中にある展望台に立つ。エメラルドグリーンの水の色をした十津川が曲がりくねって流れ、川岸を国道168号が走っている。足下には峠下の集落、坂本が見下ろせた。この十津川の水源は、大峰山脈の山上ヶ岳。上流部は天ノ川という。

国道168号沿いの温泉めぐり
 天辻峠を下り、峠下の坂本からは、十津川に沿って国道168号を走る。
 大塔村から十津川村に入る。日本で一番、村域の広い村だ。まわりは山また山。山々は際限なく連なり、その間を縫って、十津川の本流や支流が深いV字の谷を刻み込んで流れている。
 十津川には何本ものつり橋がかかっている。
 その中でも一番長いのは、“日本一のつり橋”で知られる谷瀬のつり橋。長さが300メートルもある。歩いて渡ってみたが、谷間を吹き抜ける強風にあおられ、グラグラ揺れて怖かった。

 十津川村役場近くにある湯泉地温泉の「旅館むさし」で、一晩、泊まった。
 さっそく湯につかる。真冬の寒さにさんざん痛めつけられたあとだけに、なんともありがたい湯だ。無色透明の熱めの湯が、湯船からあふれ出ている。肌にからまって薄い膜が張るような感じの、いかにも温泉らしい湯だ。
 湯から上がると夕食。ぼたん鍋が出た。このあたりで捕れた猪の肉を使っている。野菜やキノコ、豆腐などと一緒に味噌で煮込んだ猪肉は、野生の味とでもいうのか、シコシコとした歯ごたえがあった。
 夕食を食べおえると近くの公衆温泉浴場「泉湯」(入浴料400円)の湯にも入った。

 翌日は抜けるような青空。雲ひとつない快晴だ。そのかわり、とびきり寒い。
“南国・紀伊半島”のイメージとはほど遠い寒さだった。
 強烈な寒さに立ち向かってRMXを走らせ、十津川村の温泉三昧を開始する。
 まず最初は、十津川温泉の公衆温泉浴場(入浴料200円)。
 つづいて国道を右折し、十津川の支流、上湯川沿いにある下湯温泉と上湯温泉に行く。
 下湯温泉では峡谷の一軒宿「十津川観光ホテル山水」(入浴料500円)の湯に入る。湯量豊富。内風呂の大浴場、河原の露天風呂と入った。

 下湯温泉から上湯川沿いにさらに上流にいったところにあるのが上湯温泉。河原には、2つの露天風呂がある。ひとつは村営で、入浴料は100円。料金は入口の料金箱に入れるようになっている。もうひとつは民営で、入浴料は500円。村営→民営という順番で両方の湯に入ったが、民営はコンクリートで囲って岩をめぐらした広々とした露天風呂なので、400円分だけよけいに気分よく入ることができた。下湯温泉にしても、上湯温泉にしても、関西圏では屈指の秘湯だ。

 十津川村の温泉三昧を終え、国道168号で十津川沿いにさらに南下し、奈良県から和歌山県に入る。
 十津川は熊野川と名前を変える。
 険しい谷を抜け、谷間が広がったあたりに、熊野詣で名高い熊野本宮大社。参道入口でくず湯を飲んだが、トロッとした甘味のおかげで、湯疲れした体に元気がよみがえってくる。本宮を参拝し、門前の茶店で南紀名物のめはりずしを食べ、それをパワー源にして、熊野本宮大社周辺の湯ノ峰温泉、渡瀬温泉、川湯温泉の3湯めぐりを開始した。

 まずは湯ノ峰温泉。昔からの熊野詣の湯垢離場として知られているが、この湯ノ峰温泉こそ日本最古の温泉といわれ、その開湯は神話の時代、成務天皇の時代にまでさかのぼるという。
 ここでは、つぼ湯(入浴料200円)に入った。白濁色をした湯。底に黒い石が敷いてあって、その中から湯が湧いている。
 次に渡瀬温泉。「わたらせ山荘」(入浴料700円)の大露天風呂に入る。
 3番目が川湯温泉。河原の仙人風呂に入る。冬の期間だけできる大露天風呂で、千人風呂をもじっての仙人風呂とのことだが、いやー、ほんとうに広い。1000人は楽に入れるくらいの広さだ。ただ、入浴中の男女ともに水着なのが、趣半減といったところだ。

 ゴールの新宮を目指して国道168号を走る。熊野川は北山川を合わせ、ぐっと水量を多くする。瀞峡へのウォータージェットの出る志古を通り、国道から5キロほど入った雲取温泉(入浴料300円)の湯を最後とし、熊野川河口の町、新宮に出た。
 さすがに南紀だけのことはあって、春のそよ風を思わせるようなあたたかい風が吹いていた。

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Category: カソリ&管理人の「サッカー談義」

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いよいよ前半の天王山(?)カタール戦
明日からいよいよ「60代日本一周」冬の東日本編に出発するカソリからメール届きました。
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原稿を送ります。
今夜は不安いっぱいですが、
ウザワ先生(※管理人)のお言葉を信じて、
いい結果を期待しましょう!

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で、ワタシの返答。

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ま、2-1で日本勝利と予想しときます。
この組み合わせでW杯行けなきゃ、先人たちに申し訳ないでしょうに・・・。

本選では外国人監督を激しく所望。

ではお気をつけて!

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なんでも、明日は試合後にすぐ出発するらしい。大変だ・・・。

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Category: 60代日本一周「岬めぐり+島めぐり」2008

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岬めぐり31:瀬詰崎(長崎)
瀬詰崎(長崎)10月13日
長崎半島から島原半島に入り、最南端の瀬詰崎へ。対岸の天草がよく見える。その間は4キロほどでしかない。天草との間は流れの速い早崎瀬戸。天草灘から島原湾に向かって潮が川のような速さで流れていた。

島原半島最南端の瀬詰崎。対岸は天草
島原半島最南端の瀬詰崎。対岸は天草

瀬詰崎周辺の島原半島南端の風景
瀬詰崎周辺の島原半島南端の風景





バ・イ・ク 柳家 小三治


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