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世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


著者・管理人

Author: 賀曽利隆
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Category: 海道をゆく

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海道をゆく(5)「若狭海岸編」ガイド
 (『ツーリングGO!GO!』2004年9月号 所収)

1、レインボーライン
常神半島の付け根を走る有料道路。若狭の海と山、湖を存分に味わえる。美浜町の笹田から三方町の海山までの11・24キロ。
圧巻は駐車場からリフトで登れる梅丈岳山頂からの眺め。足下には三方五湖最大の三方湖と水月湖、菅湖が見える。目をずらすと残りの日向湖、久々湖の2湖が見える。その向こうには若狭と越前の境となる山並みがつらなっている。
これら三方五湖のうち三方湖は淡水湖。水月湖、菅湖、久々湖は淡水と海水が混じり合った気水湖。日向湖は海水湖、と水質が違うので、湖の色がひとつひとつ違って見える。山頂には歌手、五木ひろしの石碑「五木の園」もある。バイクの通行料は700円。

2、エンゼルライン
内外海半島の最高峰、久須夜ヶ岳(619m)の山頂へと通じる道。昨年(※2003年)までは有料道路でバイクの料金は1660円とバカ高かったが、昨年めでたく無料化となり、現在は県道107号の一部になっている。
久須夜ヶ岳に登っていく途中からの眺めがすばらしい。南側では深く切れ込んだ小浜湾と小浜の市街地を見下ろし、北側では常神半島と御神島を見る。若狭湾を一望する山頂からの眺めもすごいが、山が高い分、若干、迫力の欠けた眺望になる。久須夜ヶ岳を下って左折すると、県道107号の行き止まり地点、泊漁港まで行ける。そこから見る小浜湾もいい。

3、蘇洞門海岸
「蘇洞門」は内外海半島北側の奇岩・洞窟・断崖がつづく6キロほどの海岸。「若狭フィッシャマンズ・ワーフ」の前から蘇洞門めぐりの船が出ている。
鎌の腰掛け、唐船島、網掛け岩、夫婦亀岩などと名前のついた奇岩や海に流れ落ちる白糸の滝などをみてまわり、蘇洞門のシンボルといってもいい大門、小門で船は折り返す。そこには船着場があり、乗客は上陸し、大門、小門を裏側から見るようになっている。
「そとも」は内外海半島の外側の面という意味で「外面」と書かれたようだ。それが江戸時代の文人趣味で「蘇洞門」とい漢字が当てられ、現在に至っているという。文化の高い小浜を象徴するような話だ。

4、遠敷の里
小浜の郊外、R27から遠敷川沿いに入っていった遠敷の里は、まさに若狭の歴史の古さを感じさせる。県道35号を行くと、右手にこんもりとした森に囲まれた若狭姫神社がある。この神社は若狭の一宮、若狭彦神社の下社で、境内には千年杉がある。その先には若狭彦神社の上社。うっそうとした杉木立に囲まれている。これら2社の手水はすこぶるうまい。ぜひとも飲んでみたらいい。
「森林の水PR館」の前を通りすぎると、右手には神宮寺。奈良・東大寺二月堂の「お水取り」用の水が送られる「お水送り」の行事のおこなわれる寺。その先が遠敷川の鵜の瀬。「日本の水100選」にもなっているが、ここの水が東大寺の「お水取り」の水になる。小浜は京都のみならず、奈良とも深く結びついていた。

5、瓜割の滝
上中町のR27からわずかに南に入ったところにある。駐車場から300メートルほど歩いたところが瓜割の滝。天徳寺内の滝。高さはたいしたことはないが、この水のすべてが音をたてて流れ落ちる滝のすぐ上の岩の間から湧き出ているのだ。
その湧出口を見ると、信じられない光景を目にしたような気分になる。「日本の名水100選」にも選ばれているが、この水を求めて遠方かららも多くの人たちがやってくる。うまいだけでなく、体にすごくいいという評判の水。山々が海岸まで迫る若狭は名水のふるさとのようなところだ。

6、熊川宿
若狭街道(R303)の宿場町。昔ながらの宿場の面影がよく残されている。若狭街道は小浜から熊川を通り、近江(滋賀県)に入り、水坂峠(保坂峠)を越えて琵琶湖畔の今津港に通じていた。
今津港からは琵琶湖の船で大津へ、そこから京都へ。まさに若狭と京の都とを結ぶ街道で、大陸の文化もこの街道を経由して京都にもたらされた。
また熊川宿は「鯖街道」の宿場としても知られている。若狭湾でとれたサバは浜でひと塩され、それを「背持さん」が背負って京都まで歩いて運んだ。熊川は昔からの「熊川葛」の産地。熊川の葛も京都に運ばれた。熊川宿にはくず切りやくず餅を食べられる店もある。

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テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

29

Category: 海道をゆく

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海道をゆく(4)「越前海岸編」ガイド
 (『ツーリングGO!GO!』2004年9月号 所収)

1、越前玉川温泉
越前岬にも近く、越前海岸探訪の拠点には最適だ。1965年に湧出した比較的、新しい温泉で、秋田県の玉川温泉と区別するために温泉名に越前をつけている。アルカリ性単純泉の湯は肌がスベスベになる。
越前玉川温泉は「越前ガニ」の本場、越前漁港にも近い。R305沿いには越前ガニが水揚げされる小樟漁港、大樟漁港などがあるが、それらを総称して「越前漁港」といっている。カニの季節に泊まると、湯上がりの食膳では狂喜乱舞の「越前ガニ三昧」を味わえる。
国民宿舎「まるいち玉川荘」でのカニのフルコースつきの宿泊は超おすすめ。高台に建つ温泉宿で、全室から日本海が望める絶好のロケーション。

2、越前岬
丹生山地の山々が海に落ち込んだところが若狭湾の東端の越前岬。越前加賀海岸国定公園の中心的な存在だ。
海岸段丘上には越前岬灯台。12月から2月にかけては岬周辺の山肌では自生のスイセンが咲く。断崖が海に落ちる岬の突端は岩のゴツゴツした海食崖。この越前岬は「越前ガニ」漁の漁船にとっては絶好の目印になっている。
越前港を出た漁船は岬の沖まで北上し、そこから西へと進路を変える。岬の北側には鳥糞岩や呼鳥門の奇岩。とくに風蝕作用によってできた天然のトンネルの呼鳥門は、越前海岸を代表する豪快な風景。ここで見る日本海に沈む夕日はすばらしいの一言。夕日に染まった若狭湾西端の経ヶ岬もはるか遠くに見える。

3、東尋坊
九頭竜川河口の北側に、輝石安山岩の柱状節理の断崖がストンと海に落ちている。それが東尋坊。高さは約25メートル。とくに冬、北西の季節風が吹きつけているときがいい。
鉛色の日本海は荒れ、大波が東尋坊に押し寄せる。北陸でも有数の観光地で、その入口には土産物店が並ぶ。海産物がメイン。越前名物の魚の糠漬け、ヘシコが目につく。イワシやサバ、コウナゴ、イカなどのヘシコだ。
九頭竜川河口の三国港は福井県内でも有数の港だが、その昔は日本海航路の北前船の寄港する港だった。三国の郷土資料館には北前船の「三国丸」の模型が展示され、当時の三国港の繁栄ぶりを描いた絵が掲げられている。東尋坊はそんな三国港を護る天然の防波堤になっている。

4、河野海岸道路
敦賀湾・若狭湾岸の有料道路。R8の大比田(敦賀市)の交差点から入っていく。別名「しおかぜライン」。その名のとおりの快適なシーサイドラインだ。料金が高いこともあって交通量は極少。そのためよけいに気分よく走れる。
左手に広がる越前の海がきれいだ。対岸は敦賀半島。敦賀半島突端の立石岬を過ぎると、青く霞んだ丹後半島を遠くに見るようになる。越前海岸の海岸線を走るR305とのT字の交差点(河野村)が終点になる。バイクの料金は620円(原付90円)。

5、敦賀の気比
敦賀の敦賀湾に面した一帯が「気比」。ここには北陸の総鎮守であり、越前の一の宮の気比神宮がある。敦賀港近くには市立博物館。ここでは敦賀の大陸と結びついた歴史を見ることができる。
敦賀港の西側、敦賀湾を望む砂浜一帯の松原は「日本三大松原」の気比の松原。東西1・2キロの松原には全部で1万7000本ものアカマツ。市民の絶好の憩いの場で、夏は海水浴場として賑わう。古代にはこの地で大陸からの使者を迎えた。
松原内には松原神社やこの地で処刑された武田耕雲斉ら「天狗党」の水戸浪士の墓がある。「ニシン倉」も保存されている。北前船で敦賀港に運ばれた蝦夷産ニシンを保管する倉で、敦賀のニシンが京都に運ばれた。

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

28

Category: カソリ&管理人の「サッカー談義」

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チャンピオンズリーグ2009決勝戦:マンチェスターU VS バルセロナ!
管理人@カソリがいないので今回も管理人の独白、です。

昨日は日本代表(チリ戦)と明け方のCL決勝で疲れました・・・まだ寝不足。
日本代表には一言。「本田、スゲーーーー!!」(伊達に金髪ではない=笑)
来週のウズベク戦が楽しみです。

さて、本題のCL決勝ですよ。
のっけからC・ロナウドが躍動、ものすごいFKやシュートを立て続けに打ってきました。
バルサファンの私としては冷や汗。
まぁ中盤になったらいなしてくれるだろう・・・と思っていたのですが、それにしてもパスミスが多い。
どうしたんだよぉ・・・と思っている矢先、エトーの先制点。ワンチャンスですごいのを決めました。
あの切り返しからトーキック気味でファンデルサールの脇を抜きました。強い、速い、上手いの三拍子。イニエスタのドリブルについては申すまでもなく。

で、このゴールの手前もそうなのですが、バルサの中盤は「食わせる」パスが随所に炸裂してましたね。
ショートパスでちょっとDFを食いつかせて、速いダイレクトで即、パスを出した味方に戻す。
それをサッと左右に展開したりドリブルで突破したりして、あとはもう最終ラインを破るだけ、みたいな。
後半には逆サイドのパターンでアンリの決定的なものもありました。

それと、ポイントは前半25分だったと思うんですよね。その前の2~3分、ひたすらバルサのパスが続いて、合計40本くらいはあった感じです(若干の引っかかり含む)。
これでマンUの選手たちもショボ~ンとなってしまったのではないか。明らかに潮目が変わりましたよね。

後はプジョルです! 後半の途中くらいまでは「影のMVPだったらプジョルになるかな・・・」と思いましたが、確か後半39分、最終ラインから突き抜けてゴール前決定的なシーンはプジョルでした・・・。
コレを見て、「正真正銘のMVP」に昇格です(笑)。

すごすぎる、あの運動量。あの闘争心。C・ロナウドに削られていましたが無事でよかった。
2点目もプジョルの飛び出しからですよ・・・。

しばらくYOUTUBEで映像を見ながら、すばらしい戦いを反芻したいと思う、管理人なのでした。

(ブログとずれた内容で長文、すみませんが。)

テーマ : 管理人より    ジャンル : その他

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Category: 峠越え<2>:秘湯めぐりの峠越え

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秘湯めぐりの峠越え(30)水分峠(その1・大分)
 (『アウトライダー』1995年10月号 所収)

 九州の中央部はすごいところで、“温泉のカソリ”にはぴったりのフィールドなのだ。それこそ、ゴロコロという感じで、温泉があちらこちらに点在している。とくに大分県はすごい!のひと言につきる。
 で、それら九州中央部の温泉を
「総ナメにしよう!」
 という思いで旅立った。

 川崎発のマリンエキスプレスのフェリー「パシフィックエキスプレス号」に、相棒のスズキDR250Rとともに乗り込み、宮崎県の日向港に向かった。
 日向港を出発点にし、R10で大分へ。塚野温泉で一晩泊まり、“別府8湯”で知られる日本一の温泉地帯、別府温泉郷の温泉をハシゴし、由布院温泉からは水分峠を越えた。そしてR210で久留米へと向かっていった。

 このR210がすごい!
“温泉国道”といってもいいほどで、ルート沿いにはいくつもの温泉がある。“温泉天国・日本”を象徴するかのような国道だ。
 途中、日田温泉で一晩泊まり、「日向ー久留米」では、全部で22湯の温泉に入ったのだ。

豪雨の川崎港を出発
 川崎港のフェリー埠頭ではうれしかった!
 なんと菅生雅文さんが、梅雨と雷雨のダブルパンチの豪雨をついて、見送りにきてくれたのだ。
「いやー、菅生さん、どうも、どうも‥‥」
 と、カソリ、感激してしまうのだ。

 だが、感激もそこまで。
 ググッと現実に戻り、
「すみません、申し訳ありません」
 と、平身低頭して謝りながら、すっかり遅くなってしまった原稿を菅生さんに手渡すのだった。

 フェリーの旅のよさというのは、“船上の人”になってしまえばこっちのもの、もう、怖いもの無しというところにあると思うのだが、18時50分発の「パシフィックエキスプレス号」がフェリー埠頭を離れ、東京湾に出ていったときは、
「やったぜー!」
 と、ガッツポーズ。
 すべてのことから解き放たれた喜びにひたる。それは旅立ちの喜びといってもいい。

 船内のレストランがオープンすると、まずはビールをキューッと飲み干し、一人、九州に乾杯。
「待ってろよ、九州よ!」
 と、暗い海に向かって、大声で叫びたくなるような気分だった。

1泊2食4000円の温泉宿
 宮崎県の日向港到着は、翌日の15時35分。「川崎―日向」間は20時間45分の航海だ。港の背後には、緑の豊かな九州の山々が連なっている。

 さっそく日向からR10を北へ、大分へと走る。DR250Rのエンジン音が踊っている。うれしくなってしまうのだが、梅雨のまっ最中にもかかわらず、カーッと強い日差しが照りつけている。さすがに“南国”、太陽の光の強さが違う。ぼくは暑さ大好きという“熱帯派人間”なので、この南国の熱風を切り裂いて走っているだけで心が浮き浮きしてくる。

 延岡を通り、宮崎県から大分県に入る。直川村では、国道から3キロほどの、完成してまもない直川温泉「鉱泉センター直川」(入浴料500円)の湯に入る。大浴場、泡風呂、サウナ、水風呂とさっと入り、第1湯目の温泉の感触を自分の肌に焼き付けた。

 日向から130キロの大分に着くと、R210→R442経由で10キロほど走った塚野温泉に行く。山あいの静かな温泉地。大分からわずか10キロとはおもえないほどの静けさだ。
「山水荘」が今晩の宿。塚野温泉には3軒の宿があるが、湯は外湯で、泊まり客は共同浴場の湯に入るようになっている。日本の温泉地の古い形態を残している塚野温泉だ。

 共同浴場の入浴時間は午前5時から午後7時半間でなので、大急ぎで湯に入る。火山灰を溶かしたような湯の色。泉質は含炭酸重曹泉。湯につかりながら、福岡からやってきた湯治客の人たちと話した。

「山水荘」では、遅い時間の到着にもかかわらず、快く迎えてくれた。あたたかな雰囲気の漂う宿。夕食の膳は部屋まで運んでくれる。どのような夕食かというと、刺し身、焼き魚、煮物、酢の物といったもので、まあまあの食事内容なのだ。それなのに、宿泊料金は1泊2食4000円という安さ。うれしくなってしまうではないか。
「塚野温泉に乾杯!」
 ビールをもう1本、あけた。

 泊まり客には、長期滞在の湯治客が多いようだった。ここの湯はよく効きますよと、話をしたおじいさん、おばあさんたちは、口をそろえてそういった。

“別府八湯”を総ナメにする!
 翌朝は正真正銘の梅雨空。朝から雨がシトシトと降っている。朝風呂に入り、早めにしてもらった朝食を食べ、雨具を着て出発。まずは大分市内温泉の湯に入る。大分はあまり知られていないが、鹿児島や山口、鳥取、甲府などと同じように、温泉のある県庁所在地になっている。大分の銭湯の大半は温泉だ。

 だが、残念ながら、この時間帯だと温泉銭湯はまだ開いていないので、JR大分駅からR10を6キロほど宮崎方向に行ったところにある「ぽかぽか温泉・花園の湯」(入浴料300円)に入った。ここは日曜・祭日は24時間営業で、平日でも12時から翌朝の9時までと、夜通し営業しているので、ツーリング途中の立ち寄りの湯には絶好だ。

 大分から別府へ。“日本一の温泉地帯”の別府温泉郷では、“別府八湯”を総ナメにするのだ。ここでの狙い目は共同浴場なのだ。
 第1湯目は、浜脇温泉。大分方向からR10を行くと、別府の市街地に入ったあたりで左に折れ、クアハウスの「湯都ピア浜脇」に隣あった共同浴場「浜脇温泉」の湯に入る。

「さすが別府!」
 と、感動してしまったのだが、共同浴場は建て替えられた立派な建物で、入浴時間は午前6時半から翌日の午前1時までときわめて入りやすく、入浴料も60円ときわめて安い。浜脇温泉にはそのほか、「東町温泉」や「東蓮田温泉」、「西蓮田温泉」など、全部で10湯もの共同浴場がある。

 第2湯目の別府温泉では、JR別府駅に近い共同浴場の「駅前温泉」に入る。ここには並湯(入浴料100円)と高等湯(入浴料300円)の2つの浴室があるのだが、その違いというのが傑作だ。湯はまったく同じだが、高等湯にはシャワーと泡湯がついていた。

 第3湯目は海岸から山手に上がっていったところにある観海寺温泉。客室日本一の大温泉ホテル「杉乃井ホテル」のある温泉だ。ここでは「復興泉」(入浴料100円)という共同浴場に入った。

 第4湯目の、大分自動車道のすぐ近くにある堀田温泉が、ちょっと困った。というのは、ここの共同浴場は外部の者の入浴を禁止しているからだ。
 そこで地元の人が来るのを待ち、
「あのー、入浴させてもらえませんか‥‥」
 と頼み、「堀田東温泉」の湯に入った。
 このあたりが共同浴場のよさで、地元の人にひと言ことわれば、たいてい入れる。

 第5湯目は、R10に戻り、福岡方向にわずかに走ったところの亀川温泉。ここでは、公民館と一緒になった木造の、趣のある建物の共同浴場「浜田温泉」(入浴料50円)の湯に入る。熱めの湯と温めの湯の、2つの湯船。ともにいい湯だ。

 第6湯目は、亀川温泉から山中へ、“別府八大地獄”への道に入ったところにある柴石温泉。ここの共同浴場は無料湯。熱い湯で、湯につかったままジーッとしている。ちょっとでも動くと、頭の芯までジーンとしてくるような湯の熱さだ。

 第7湯目は鉄輪温泉。まさに“湯の町”の風情で、あちこちから湯けむりが立ちのぼり、別府へとつづく町なみ、さらには別府湾、国東半島の山々を一望する。ここでは無料の共同浴場「熱の湯」に入ったが、もう1湯「しぶの湯」も、やはり無料の共同浴場。そのほかここには「元湯」や「筋湯」など全部で11湯もの共同浴場がある。

 ぼくは共同浴場めぐりが大好きで、今度は鉄輪温泉に泊まり、これら11湯の共同浴場すべてに「入りたい!」と思うのだ。

“別府八湯”の最後、第8湯目の明礬温泉では、「山の湯」(入浴料500円)の湯に入った。鉄輪温泉までは雨だけだったが、明礬温泉まで登ると、雨と視界ゼロの濃霧のダブルパンチ。だが、“別府八湯”を総ナメにすることができて、ぼくの気持ちは燃えていた。それにしても、1湯入るごとにビショ濡れの雨具を始末しなくてはならないのが、なんとも辛いところだった…。

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Category: 東アジア走破行

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「東アジア走破行」(3)韓国一周(2000年)
一路、下関へ
「サハリン縦断」を終え、東京に戻ると、今度は「韓国一周」に出発した。
 バイクでの「韓国一周」は、ぼくの長年の夢。これほど近い日本と韓国だが、韓国へのバイクの持ち込みは禁止されていたので、それは夢のまた夢でしかなかった。ところが今回、韓国側から特例中の特例ということで、韓国へのバイク持ち込みの許可をもらうことができたのだ。

 2000年9月1日、東京を出発。バイクは「サハリン縦断」を走ったのと同じスズキDJEBEL250GPSバージョン。東京から一路、下関へ。往路は国道1号、2号をメインに平洋・瀬戸内海側を走っていく。

 第1日目の夕食は浜松の旧国道1号沿いの焼肉店「てんぐ」でカルビの焼肉と雑炊のクッパを食べた。第2日目の昼食は大阪のコリアンタウンの鶴橋。JR鶴橋駅前の「アジヨシ別館」で冷麺を食べた。

 第2日目の夕食は岡山県備前市の国道2号沿いの焼肉店「はるやま」で牛のロースの焼肉とユッケ・ビビンバを食べた。前日のカルビ、クッパ同様、このビビンバも、ラーメンやカレー、ピラフなどと同じように、今ではすっかり日本食として定着した感がある。ビビンバは韓国語のビビンバップのこと。“ビビン”は混ぜるの意味で、“バップ”はご飯。つまりは混ぜご飯のことだ。

「はるやま」のビビンバには新鮮な牛肉のたたきのユッケのほかに、ゼンマイ、モヤシ、ダイコン、ホウレンソウの具がのっている。それに卵を落としてある。調味料として辛いコチュジャンがつく。店のおかみさんは「ビビンバにはゼンマイとモヤシは欠かせないものなの。韓国の人はゼンマイをよく食べるのよね」と教えてくれた。

 ぼくの旅の仕方は、現地食主義。現地のものをできるだけ現地の人たちと同じようにして食べる、これがなによりもの旅のおもしろさだと思っている。ということで、「東京→下関」間では日本風韓国料理を食べ歩いたが、これが「韓国一周」での本場韓国料理食べ歩きのちょうどいい肩慣らしになった。

釜山に上陸
 9月3日12時、本州最西端の下関に到着。下関の町をひとまわりしたところで、関釜フェリーの出る国際ターミナルに行く。前年の「日本一周」がなつかしく思い出されてくる。この下関港国際ターミナル前でバイクを停め、「いつの日か、きっとバイクでここから釜山に渡ってやる!」と熱い気持ちでそう思ったものだ。まさか、その日がこんなにも早くやってくるとは‥‥。

 下関港国際ターミナルでは関釜フェリーの職員が出国手続きを終え、大型フェリーの「はまゆう」(1万6187トン)にバイクを積み込むまで付き添ってくれた。18時、定刻どおりに「はまゆう」が下関港を出港すると、離れゆく下関の町並みに向かって缶ビールで乾杯!

 関釜フェリーの「はまゆう」は玄界灘を越え、夜中には釜山港外の五六島のすぐわきで停まった。まばゆいばかりの釜山の町明かり。夜が明け、入国手続きが始まるまでの時間、こうして釜山港外で停泊しなくてはならないのだ。

 8時半、「はまゆう」は釜山港の国際フェリー埠頭に接岸。いよいよバイクの韓国持ち込みの手続きが始まる。フェリーからバイクを下ろすと、そのまま税関のカウンターに乗り入れる。釜山税関の係官たちは、旅行者のバイク持ち込みなど初めてのことなので、ずいぶんと面食らったような顔つきだ。税関本部にも足を運び、ついにバイクを引き取ることができたときは、自分が何か、新たな時代を切り開いたかのような高揚した気分を味わった。

釜山のワンデーツーリング
 釜山港を出ると、1日かけて釜山をまわった。まずは亀峰山中腹にある大庁公園に行った。釜山の市街地、釜山港、釜山をとりまく山並みを一望する。ソウルに次ぐ人口400万の大都市、釜山が手にとるようによくわかった。

 次に釜山大橋で影島に渡る。その南端が太宗台。市街地がすぐそばにあるとは思えないほど、自然の豊かなところだ。太宗台突端の切り立った断崖上に立ち、水平線上に目をこらした。強風が吹き荒れ、海には白い波頭が立っていた。残念ながら対馬は見えなかったが、ここから対馬までは50キロもない。ぼくは反対に対馬北端の「韓国展望台」から韓国を見たことがあるが、釜山の夜景がすごかった。水平線はまるで燃えているかのような明るさだった。

 この太宗台突端の岬には展望台があり、白亜の灯台が立っている。ところが韓国でも有数の風光明媚な岬なのにもかかわらず、岬名がついていない。地図を見ても、「太宗台展望台」とあるだけ。入り組んだ海岸線の続く韓国なので、地形としての岬は無数にあるが、岬名のついた岬はない。韓国は岬のない国なのだ。

 釜山港に戻ると、今度は釜山の西側を流れる洛東江の河畔まで行った。全長525キロの洛東江は韓国最長の川。川沿いに走り、河口の多大浦まで行った。いかにも大陸の川といった広大な河口の風景を眺め、干上がった浜を歩いた。そのあと浜辺の食堂で昼食。「海物湯」を食べる。メバルの入った鍋料理で、猛烈に辛い。しかしその刺激的な辛さが韓国を実感させた。そのほかにメバルの刺し身とキムチ、ワラビ、ニンニクがついた。それらをご飯に混ぜて食べる。刺し身入りのビビンバだ。

 午後は釜山の中心街の南浦洞や光復路を歩き、釜山漁港にあるチャガルチ市場を歩いた。そこではタコやイカ、ホヤの刺し身を食べた。

 最後に韓国でも最古の歴史を誇る東莱温泉に行った。ここでは「虚心庁」という近代的な建物の健康ランド風の温泉に入った。千人風呂の大浴場を中心に檜風呂や寝湯、打たせ湯、露天風呂、サウナなど20以上もの湯がある温泉センターだ。ここでは日本の温泉との違いを強烈に見せつけらる。誰もがタオルを浴室に持っていかない。堂々とイチモツをプランプランさせながら浴室内を闊歩している。

 湯に満足したあとは温泉内のレストランで夕食。カルビと豚カルビの焼肉を食べ、さらに冷麺を食べ、チャガルチ市場前の「三和観光ホテル」に泊まった。

「釜山→木浦」(南部編)
 9月5日午前6時、釜山を出発。時計回りでの「韓国一周」の始まりだ。方形をしている韓国なので、それぞれの辺ごとの、4ステージに分けての「韓国一周」。第1ステージは「釜山→木浦」の南部編、第2ステージは「木浦→ソウル」の西部編、第3ステージは「ソウル→巨津」の北部編、最後の第4ステージが「巨津→釜山」の東部編。その間で、韓国本土の最東西南北端に立とうと思っている。

 早朝の釜山の市街地を抜け出し、洛東江(韓国では“江”が川になる)の河口堰にかかる橋を渡って西へ、国道2号を行く。この国道2号の終点が木浦だ。韓国は高速道路が発達しているが、バイクは通行不可なので、国道をメインにしての「韓国一周」となる。簡単にいうと、偶数ナンバーの国道2号、4号、6号が半島を東西に横断する幹線で、奇数ナンバーの国道1号、3号、5号、7号が半島を南北に縦断する幹線になっている。

 道路標識はしっかりしている。韓国語文字のハングルとアルファベットで書かれているのでまったく問題ない。「これは日本以上だ」と思わされたのは、アメリカのシステムを取り入れているからなのだろう、国道の重複区間には2本、もしくは3本の国道ナンバーがきちんと併記されていることだ。日本でも最近になってやっと2本以上の国道の重複区間を表示をするようになっているが、まだまだ未整備。大半の重複区間は、若い番号の国道ナンバーだけの表示になっている。

 鎮海、馬山と大きな町を通っていくが、とくに馬山は大渋滞。韓国の急速なモータリゼーション化には目を見張らされるほどで、韓国全土、どこにいっても車であふれかえっている。その車も現代、大宇、起亜などの韓国車が大半で、世界中を席捲している日本車も韓国では影が薄い。バイクも韓国車が大半で、ときたま日本製のビッグバイクが走っているのを見かける程度。法律で規制されているからなのだろう、韓国製バイクは150cc以下の小型車だけだ。

 馬山を過ぎたところで朝食にする。街道沿いの食堂に入り、メニューの一番上に出ている4000ウォン(約400円)の食事を頼む。出てきたのは定食(ジュンシク)で、ご飯と汁のほかに2種のキムチ、ナムル、豆腐、煮物など全部で7品がついていた。

 昼食は晋州を過ぎた横川里という小さな町の食堂で、同じようなやり方で5000ウオン(約500円)の食事を頼んだ。するとご飯にドジョウ汁(チューオタン)、何種ものキムチのほかに、ムック(ドングリの粉の餅)やツェッカル(イカの塩辛)、メルチー(小魚の佃煮)などがついていた。ここでは河東郡庁(郡役所)財務課の金在校さんというカタコトの日本語を話せる方と出会った。役所の講習会で日本語を勉強したとのこと。金在校さんは「日本の人に会えてうれしい」といって食事代を払ってくれた。

 蟾津江にかかる橋を渡って慶尚南道から全羅南道に入り、順天から国道17号で南へ。その夜は多島海に面した麗水で泊まった。

 さっそく麗水の町を歩く。まだ日は高い。時間はたっぷりある。裏道を歩いていると、老夫婦のやっている手作りのアンドーナツ屋が目に入った。奥さんが小麦粉をこね、旦那が揚げていた。さっそくひとつ買って食べてみる。揚げ具合といい、あんの甘さ具合といい、申し分のない味だ。ひとつ300ウオン(約30円)。

「おいしかったです。ごちそうさま」
 日本語でお礼をいうと、老夫婦はうれしそうな顔をした。旦那は日本語を話せる人で、「私は京都で生まれました。京都の国民学校で1、2年過ごしたあと、両親と一緒に北海道に渡り、北海道各地を転々としました‥‥」
 と、日本語を思い出すかのような口調で語った。北海道では大変な苦労をしたということだが、ぼくが日本人だということで遠慮もあったのだろう、「もう、遠い昔のことですから‥‥」と、遠くを見るような目つきでそういった。

 老夫婦手作りのアンドーナツを4つ、袋に入れてもらい、それを食べながら歩いた。大露天市、韓国の木造の建物では最大という鎮南館、麗水港の旅客ターミナルと見てまわり、最後に全羅線終着の麗水駅まで行ってみた。

 翌日は木浦へ。国道2号の康津を過ぎたあたりの広々とした水田地帯を走っていると、初めての土地なのに、なにか、無性になつかしくなってくる。遠い昔に来たことがあるような、そんななつかしさなのだ。我が賀曽利一族は房総半島の小村の出なので、朝鮮半島とは関係ないと思うのだが、「ご先祖さま、帰ってきました!」と、思わず声を出したくなるほどのなつかしさだった。

 康津から国道18号で海南へ。そこから65キロ、韓国本土最南端の土末に行く。DJEBELのGPSは北緯34度17分41秒を表示している。日本最西端駅の松浦鉄道たびら平戸口駅まで301キロ、JR下関駅までは、407キロの距離だ。これもDJEBELのGPSの表示である。

“土末(トーマル)”とはいかにも最果ての地らしい地名ではないか。朝鮮半島の突端、それだけにはとどまらず、まさに広大なユーラシア大陸の地の果て、そんな連想をさせる土末の地名だ。日本だったら本土最南端の“土末岬”ということで、一大観光地になり、岬への道沿いにはみやげもの屋や食べ物屋がずらりと立ち並ぶところだ。ところが釜山でもふれたように岬のない韓国では、とくにどうということのない場所なのだ。

 ぼくは今回の「韓国一周」では、かなり地名が詳しく出ている「韓国観光案内図(ツーリストマップ・オフ・コリア)」を使った。それには韓国全土の地名が英語と漢字で書かれている。朝鮮半島の周囲や島々には無数の岬があるが、ひとつとしてCAPEやPOINTといった岬名は出てこない。岬には特別な思いを寄せて強くこだわる日本人と、岬にはまったく興味を示さない韓国人の違いを土末で見た。
 この土末の道の尽きたところには、小さなフェリー乗り場がある。そこからさらに南の、多島海の島々へとフェリーで結ばれていた。

 海南に戻ると、今度は橋でつながっている莞島と珍島の最端の地まで行ってみる。とくに珍島が印象深い。国道18号の両側にはムクゲのうす紫色の花が咲いている。アワやコウリャンの雑穀畑が目につく。収穫した唐辛子をあちこちで干している。そんな風景を見ながら走った国道18号は小さな港の岸壁で尽きた。目の前の海には独巨群島の小島が浮かんでいた。

 その夜、釜山から840キロを走り、木浦に到着。第1ステージの南部編を走り終えた。湖南線の終着駅、木浦駅近くの安宿に泊まり、さっそく夜の木浦の町を歩くのだった。

「木浦→ソウル」(西部編)
 9月7日午前5時30分、木浦を出発。「韓国一周」の第2ステージ、西部編の始まりだ。国道1号で羅州を通り、光州まで行ってみる。町中のコンビニ「セブンイレブン」で通学途中の女学生たちと一緒に、朝食のカップラーメンを食べた。韓国では今、日本と同じように次々にコンビニができている。ほとんどの店内には給湯設備があり、イスとテーブルが置いてあって食事できるようになっている。

 光州から国道23号を北上。全羅南道から全羅北道を通って忠清南道に入り、錦江河畔の古都、公州へ。公州は東城、武寧、聖王と3代つづいた百済の都だ。このあと百済の都は扶余へと移る。公州では食堂でドサッと具ののった麺を食べ、国立公州博物館を見学し、宋山里古墳群の一角にある武寧陵を歩いた。

 公州から百済最後の都の扶余へ。錦江の悠々とした流れを目に焼き付けたところで扶余の町中に入っていく。中央のロータリーには百済の英雄、階伯将軍の像が建っている。定林寺址では五重の石塔の「百済塔」を見る。そのあとで国立扶余博物館を見学した。ここで目を引いたのは、百済時代(5~7世紀)よりもはるかに時代の下った高麗時代(11~13世紀)につくられた亀石だ。

 大モンゴル帝国の都は草原の町、ハラホリン郊外にあるカラコルムだが、現在、都の跡はきれいさっぱりと何もない。その中にあって唯一、都の四方に置かれ、都を守ったという亀石が2つ残されている。扶余で見た亀石はユーラシア大陸の広大な地域を支配した元の都、カラコルムを思い出させるものであったし、朝鮮半島が大陸と地つづきであることを思い知らせるものでもあった。
 その夜は錦江河口の町、群山で泊まった。

 翌日、群山から国道21号で洪城へ。そこから韓国本土最西端の地に向かった。
 端山、泰安と通って韓国西海岸第一の海水浴場、万里浦に到着。夏の終わった砂浜に人影はない。この万里浦は東経126度08分40秒。ゆるやかな弧を描く砂浜をさらに西に行った岬が韓国本土最西端の地で、東経126度08分04秒になる。岩のゴツゴツした岬。「韓国最西端の地」碑的なものは一切ない。万里浦には海水浴で大勢の人たちがやってくるが、この最西端の岬まで来る観光客はほとんどいないという。岬の内側には堤防で守られた漁船用の小さな船着場があり、漁を終えた漁船から魚が水揚げされていた。その船着場の前には新鮮な魚を食べさせる店が1軒あった。

 韓国本土最西端の岬から洪城に戻り、国道21号で天安へ。そこで国道1号に合流し、北へ、ソウルに向かう。忠清南道から京畿道に入る。途中、水原では「韓国民俗村」に寄り道した。以前にも見学したことがあるが、ここは「韓国一周」には欠かせない立ち寄りポイントだ。とくに「民俗館」の模型を使っての展示は見事なもので、一目で韓国の式年行事や年中行事がわかるようになっている。

 水原に戻ると、ふたたび国道1号を北へ。ソウルまでは途切れることのない大渋滞。車の洪水にもみくちゃにされながら走り、漢江大橋で漢江を渡ってソウルの中心街に入ったときはホッとした。ソウル駅裏の1泊2万5000ウオン(約2500円)の安宿に部屋をとると、さっそく夜のソウルを歩く。ソウル駅前に近い南大門から鐘路経由で東大門まで歩いた。帰りは地下鉄に乗って帰ってきた。

「ソウル→巨津」(北部編)
 9月9日午前6時、ソウルを出発。いよいよ緊張の北部編がはじまる。この北部編では、国道1号、3号、5号、7号の幹線を北へ、行けるところまで行くつもりにしている。 その前に仁川へ。

 仁川市内に入ると、道の尽きる月尾島まで行ってみる。レストランやカフェの並ぶ観光地。海辺には朝鮮戦争(1950年~1953年)の大きな転換点になった「仁川上陸作戦」の碑が建っていた。それには「1950年9月15日、マッカーサー率いるアメリカと韓国の海兵隊が261隻の上陸用舟艇でもって、レッドビーチ、ブルービーチ、グリーンビーチの3ポイントに上陸した」とある。今は本土とつながっている月尾島のこの地点は、3ポイントのうちのグリーンビーチになる。

「仁川上陸作戦」の劇的な成功は、朝鮮戦争の流れを大きく変えた。北朝鮮側は当初、圧倒的に優勢で、半島を一気に南進し、釜山に迫ろうかという勢いだった。それが「仁川上陸作戦」の成功で、延びきった戦線に楔を打たれ、韓国側に急速に押し返された。もし、この「仁川上陸作戦」が失敗していたら‥‥、今の韓国はなかったかもしれない。

 仁川からソウルに戻ると、国道1号を北へ。軍用車両を多く見かけるようになる。検問所にも銃を持った軍人が立っている。いやがうえにも緊張感は増してくる。だが、緊張しているのはぼくだけのようで、通り過ぎていく町々の表情は穏やかなものだった。

 ソウルから50キロの■山へ。ここが国道1号の一番、北の町。町から5キロほどで、朝鮮半島南北分断の象徴といっていい臨津江に出る。川にかかる統一大橋を渡る。臨津江はかつてのベトナムを南北に分断した北緯17度線のベンハイ川のようなもの。日本でも望郷の歌「イムジン川」でよく知られている。国道1号の新道では、統一大橋を渡った先の検問所までが自由に行ける地点で、そこから先は許可証が必要になる。軍事境界線の板門店までは15キロほどの距離である。

 統一大橋に戻ると、今度は国道1号の旧道で臨津江の展望台まで行ってみる。足下には二重、三重に鉄条網が張りめぐらされ、銃を構えた兵士たちの警備所もある。その向こうの臨津江には京義線の橋脚跡が残され、旧国道1号の鉄橋がかかっている。ここはかつての朝鮮半島の南北を結ぶ交通の要衝の地だった。

 ■山に戻ると、国道37号で臨津江沿いに北東へと走る。全谷の手前で38度線を通過。朝鮮半島を南北に分断する軍事境界線は東に行くほど、38度線よりも北にずれていく。38度線を過ぎてまもなく、漢灘江のリゾート地に着く。ちょっとした観光地だ。緊張のつづく軍事境界線のすぐ近くにこのような場所があるとは‥‥。

 漢灘江は臨津江の支流で、その合流点はほぼ38度線上になる。漢灘江では川遊びをする家族連れや河原にテントを張ってアウトドアーを楽しむ人、四駆でやってきて釣りを楽しむ人たちの姿を見る。ぼくはといえば、沈下橋をバイクで渡り、人目のつかないところで裸になり、茶色い流れの川に飛び込んだ。「臨津江」を自分の体全体で感じ取りたかったのだ。

 漢灘江から全谷へ。ここではものすごい人波の露天市を歩いたあと、国道3号を北へ。全谷から33キロ行ったところで、京畿道から江原道に入る。このへんまで来ると、交通量はほとんどなくなるが、国道3号は幅広い2車線の道のままである。道境から4キロ地点で道路封鎖。北緯38度16分26秒の地点だった。検問所の若い兵士たちの応対はきわめてていねいなもので、別にパスポートを調べられる訳でもなく、「ここから先は行けませんよ。戻って下さい」と、ジェスチャーで示してくれた。

 全谷に戻ると、国道37号から46号に入り、春川へ。そこでひと晩、泊まった。
 春川では、“浦島太郎”の気分を味わった。ぼくは1973年の夏に、釜山を拠点にして列車、バスで「韓国一周」をした。そのとき日本海側の列車の終点、江陵からバスで束草に行き、雪岳山に登ったあと、バスでこの町にやって来た。

 当時の春川は山間のひなびた町で、夜は暗かった。ほんとうに暗かった。「貧しいなあ‥‥」という言葉が、思わず口から出たほど。それが今ではどうだろう、京春線の終着、春川駅からつづく市場街を抜けると、中央洞の商店街に入り、まばゆいばかりの照明やネオンが輝いている。華やかだ。町には活気が満ちあふれている。ソウルと変わらない最先端ファッションの女の子たちが町をさっそうと歩いている。名物の焼き鳥料理、タッカルビを食べさせる店がずらりと並んだ一角は、まるで東京・新宿の歌舞伎町を思わせるようなネオンの洪水。客引きのおばちゃんに手を引かれたときは、「ここはピンク街?」と錯覚したほどだ。

 30年前の韓国は食料難に見舞われていた。とくに米不足は深刻で、水曜日と土曜日の週2日は、韓国全土、どこの食堂、レストランに入っても、米の飯が食べられなかった。春川に着いた日はあいにくと土曜日で、食堂では米の飯の代わりにポロポロの麦飯が出た。このポロポロの麦飯がなかなかのどを通らなかった。「金を払って、なんでこんなものを食べるのだろう‥‥」と、悲しくなるほどだった。それだけに不夜城のような町の明るさ、市場の物の豊かさ、ありあまるほどの食べ物‥‥を見ていると、「これが韓国の30年だったのか」と、あらためて思い知らされた。

 翌日、春川から北へ。今度は国道5号を行けるところまで行ってみる。春川から40キロで華川の町に着く。そこからさらに24キロ北に行ったところで道路封鎖。北緯38度14分23秒の地点。前日の国道3号と同じように、検問所でUターンして春川に戻るのだった。

 春川からは国道46号で山岳地帯を横断。昭陽江ダムによってできた昭陽湖の湖畔を走る。「う~ん、これが昭陽湖か!」。韓国最大の財閥「現代」は、「現代建設」から始まった。1960年代の後半、現代建設は「檀君(韓民族の伝説上の始祖。日本の神武天皇のようなもの)以来、最大規模の工事」といわれた昭陽江ダム工事を受注し、完成させ、韓国建設業のトップの座を不動のものとした。それ以降というもの、わずか10年ほどの間で「現代」は造船や重機、自動車などであっというまに世界のトップレベルに躍り出た。まさに奇跡の超高度成長。そんな世界の「HYUNDAI(現代)」の基礎を築いたのが昭陽江ダム。ここは韓国現代史の舞台なのである。

 国道46号から44号に入り、“韓国の屋根”雪岳山の岩峰群を見ながら峠を越える。この峠越えが豪快だ。日本の国道18号の碓井バイパスで、長野・群馬県境の峠を越えるときとそっくりなのである。峠まではゆるやかな登りだが、峠を越えると、折れ曲がった急勾配の峠道を一気に下っていく。

 日本海に出ると、国道7号を北へ。束草、杆城と通り、韓国最北の町、巨津へ。ここから軍事境界線を真近に眺める「高城統一展望台」まで行ってみる。
 巨津から16キロ、北緯38度32分43秒の地点で道路封鎖。そこから先は、統一展望台のチケットを買わないことには行けないと検問の兵士にいわれた。検問所からわずかに戻ったところにあるチケット売り場でチケット(2000ウオン)を買ったが、今度はバイクでの通行は禁止されているといわれた。

 するとなんともありがたいことに、英語を上手に話す観光案内所の若い女性がやってきて、車の2人連れに「この人を乗せてあげて下さい」と、にこやかな笑顔つきで頼んでくれたのだ。彼女のおかげで、ソウルに近い安山からやってきたという孔■祐さん夫妻の車に乗せてもらうことができた。

 安山で「東洋通商」という会社を経営している孔さんは、カタコトの英語を話した。安山に近い水原の市役所に勤務している奥さんは、カタコトの日本語を話した。孔さんとは英語で、奥さんとは日本語で話した車内での会話は楽しいものだった。

 孔さんは「仕事上、英語は必要なので、勉強しているのですが‥。どうも我々、韓国人はうまく英語を話せません」と、日本人と同じようなことをいう。作家を夢みているという奥さんは、役所の講習会で日本語を勉強している。というのは水原は2002年の日韓共催のワールドカップの会場のひとつ。日本人も水原に多くやってくるだろうということで、日本語を勉強しているという。

 韓国最北端の地、「高城統一展望台」からの眺めは、強烈にぼくの目に焼きついた。軍事境界線上に延びる鉄条網の長い線。トーチカが点々と見える丘陵地帯の左手には、韓国人の憧れの山、金剛山(1638m)が雲を突き破ってそびえていた。孔さん夫妻も、金剛山を見たくてここまでやって来た。展望台から金剛山までは、わずか16キロでしかないという。

 孔さんは北朝鮮産のワインや焼酎などを売っている展望台の売店で、2冊の金剛山の写真集を買った。さらに「海金剛」を描いた記念メダルを買ってぼくに持たせてくれた。それには「T・KASORI2000・9・10」と彫り刻まれていた。韓国最北端の地の思い出に、孔さん夫妻の思い出に、ぼくはそれをありがたく受け取った。

 金剛山は標高1639メートルの毘蘆峰を主峰と大山塊で、東西60キロ、南北40キロのエリアに12000にも及ぶ岩峰があるという。金剛山の西部が女性的な山並みの内金剛、東側が男性的な外金剛で、海金剛とは外金剛の山並みが海に落ちたあたりの海岸地帯をいう。統一展望台から見下ろす海金剛は朝鮮半島きっての景勝地といってもいい。風の強い日で、日本海には無数の白い波頭がたっていた。

「高城統一展望台」でぼくは、「今度は北朝鮮側から海金剛を見てみたい!」と思った。 孔さん夫妻と別れ、巨津に戻る。
 イカ釣り船の並んだ港前の食堂で夕食。イカの刺し身を頼む。店のおかみさんに「こうするのよ」と教えられるままに、イカの刺し身をほかの具と一緒にご飯に混ぜて食べる。韓国ではどこに行っても、このビビンバ方式が食べ方の基本になっている。小ネギを刻んで入れた貝汁はさっぱりした味つけで、飲み干すと、おかみさんはおかわりを持ってきてくれた。食後にはコーヒーを入れてくれた。

 食堂のおかみさんの笑顔とやさしさが心に残り、なんとなく離れがたくて、その夜は巨津で泊まった。十三夜の大きな月が韓国最北の海を明るく照らしていた。

「巨津→釜山」(東部編)
 9月11日午前6時、巨津を出発。東海岸を釜山目指して南下していく。「韓国一周」も最後の行程の東部編だ。国道7号で束草を通り、江陵に向かっていく。その途中、北緯38度線碑が建つ「大明38度線休憩所」の「38度線レストラン」で朝食。海を見ながらチゲ鍋定食を食べた。この地点をもって北緯38度の世界に別れを告げた。

 江陵、東海と通り、慶尚北道に入る。山々が海まで迫る東海岸は、平野の広がる西海岸に比べると、国道の交通量がガクンと少なくなり、通り過ぎるていく町々の数も少なくなる。日本でいえば、山陽と山陰のような違いだ。

 地図を広げてみればすぐにわかることだが、韓国の背骨となる太白山脈の山々は、東海岸のすぐ近くを南北に連なっている。あまりにも東海岸にかたよりすぎているのだ。その太白山脈に北から金剛山、雪岳山、王台山、太白山といった高峰群がそびえている。この太白山脈の東側は急傾斜で流れ出る川は距離も短く、平野をつくる間もなく、すぐに海に流れ出る。ところが西側はゆるやかな傾斜で、そこから流れ出る洛東江や漢江は韓国第1、第2の大河で流域には幾つもの盆地をつくり、下流には平野が開けている。
 その夜は韓国最大の製鉄所のある浦項で泊まった。

 翌日は台風の影響で、朝から強い風が吹いていた。浦項駅前から走りはじめたが、この町で目につく道標は「POSCO(ポーハン・スティール・コーポレーション)」で、すべての道が浦項製鉄所につながっている。韓国経済の発展を象徴するかのような浦項製鉄所の敷地は広大なもので、その中に何基もの高炉がそびえ、最新鋭の工場群が連なっている。それら工場群全体を見渡すための展望塔までできている。

 浦項をあとにし、迎日湾に突き出た小半島に入っていく。この小半島が韓国本土最東端の地になる。半島東北端の「長■串」には六角の白亜の灯台が建っている。灯台博物館もある。東海(日本海)の海中には巨大な手のモニュメント。「長■串」は韓国で唯一といっていい岬名のついている岬で、串が岬を意味している。

 韓国人は「長■串」が韓国本土最東端だといっている。しかし地図を見ればひと目でわかることだが、ほんとうの最東端の地は半島の東側の海岸、漁港のある九龍浦までの間のどこかということになる。

 DJEBELのGPSを見ながら、この間を何度も往復し、ついに韓国本土最東端の地を見つけだした。そこには「海成水産」という水産会社の生け簀があった。道の尽きたところでバイクを停め、目の前に広がる海を眺めた。東経129度35分01秒の地点。ちなみに灯台の建つ名無し岬は東経129度34分17秒だった。

 九龍浦からは海沿いの国道31号を南下し、甘浦から古都、慶州へと寄り道する。慶州は新羅千年の都だ。まずは慶州郊外の仏国寺に参拝。新羅時代の751年に創建された古刹。国宝にもなっている大雄殿前の多宝塔と釈迦塔の双塔が目を引く。仏国寺前の食堂で昼食を食べ、慶州の市内に入っていく。新羅王朝の王族の古墳が点在する古墳公園を歩き、東洋最古の天文台で知られる瞻星台を見る。高さ9メートルの石造りの瞻星台は、まさに慶州のシンボル。最後に国立慶州博物館を見学し、甘浦に戻った。

 甘浦から国道31号をさらに南下したところに新羅の文武大王の水中陵がある。見た目には海に浮かぶ岩山といったところだ。文武大王といえば、朝鮮半島の統一をなし遂げた王。その文武大王は「私が死んだら遺骨を東海に埋めよ」と遺言を残した。死んだあとも、自分が日本への備えになるというのだ。新羅が朝鮮半島を統一したのは676年。日本はまだ飛鳥時代で、国家としての体制が整ってまもないころなのに、もう統一新羅に恐れられる存在になっていた。韓国にとっての日本は、いつの時代も油断のならない、警戒すべき国なのだ。

 慶尚北道から慶尚南道に入り、蔚山へ。浦項が製鉄のある町ならば、蔚山は韓国最大の財閥「現代」の企業城下町。造船や重機、自動車などの「現代」関連の大工場群がつづく。韓国では英語の看板をほとんど見かけないが、蔚山ではやたらと「HYUNDAI(現代)」の看板が目についた。さらにその南の蔚山湾に面した一帯は石油化学の一大コンビナート地帯になっている。

 蔚山を過ぎると、釜山はもう近い。台風の影響で強風とともに雨が降りだし、雨足は激しさを増した。土砂降りの雨をついて走り、9月12日午後5時、釜山駅前に到着。天気も釜山到着を祝ってくれたのか、ほんの一瞬、雨は上がった。DJEBELのトリップメーターを見ると3150キロ。予想したよりも、はるかに長い距離の「韓国一周」になった。

 この台風の影響で関釜フェリーは欠航し、釜山では1週間近く足止めをくらった。その間はチャガルチ市場前の「三和観光ホテル」に泊まり、毎日、釜山の町を歩いた。さらに釜山駅から列車で浦項や密陽、馬山などに行った。

 ついに釜山を離れる日が来た。9月18日17時、関釜フェリーの「はまゆう」に乗船。19時に出港した。船内のレストランで「ビビンバ定食」を食べた。それには味噌汁がついていた。和韓折衷のビビンバだ。下関に戻ると、帰りは日本海経由で国道9号、8号をメインに新潟県の糸魚川まで走り、最後は松本経由で東京へ。東京・新宿のコリアンタウンにある「韓国食堂」でビビンバを食べ、「韓国一周」を終えるのだった。

「東京→下関」1160キロ、「釜山→釜山」3150キロ、「下関→東京」1325キロで、「韓国一周」の全行程は5635キロになった。

 遠ざかっていく釜山の夜景を見ながら「バイクでも車でも、もっと、もっと自由に日本・韓国間を行き来できるようになって欲しい!」と、心底願った。そうすれば今は1日1便の関釜フェリーも、きっと便数が増える。

 イギリスのドーバーからドーバー海峡を越えてヨーロッパ大陸に渡るフェリーのように、スペインのアルヘシラスからジブラルタル海峡を越えてアフリカ大陸に渡るフェリーのように、1日に何便も出るような国際フェリーになることだろう。下関、釜山での出入国の手続きも24時間、いつでもできるようになる。

 そうすれば下関から釜山までは7、8時間でしかない。さらに大阪南港や日本海の舞鶴港、敦賀港からもフェリーが出るようになれば釜山にはさらに渡りやすくなる。そんな日が1日も早くやってきて欲しい。そのときこそ日韓新時代がやってくる。

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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日本食べある記(6)岡崎の八丁味噌
 (『市政』1991年6月号 所収)

 愛知県の岡崎市は、徳川家康の故郷としてよく知られている。根強い家康ブームも手伝って、家康生誕の地・岡崎城には、一年中、絶えることなく観光客が訪れる。

 岡崎には2つの名産品がある。
 ひとつは、石である。
“石都岡崎”といわれるほどで、良質の岡崎産の花崗岩を使った石燈籠(岡崎燈籠)などが、日本中に広く出荷されている。

 もうひとつは、同じく全国にその名を知られた“八丁味噌”である。その八丁味噌を訪ねて、岡崎に行った。
 岡崎では、まっさきに岡崎城のある岡崎公園を見てまわる。桜や藤の名所で、公園全体がこんもりと濃い緑に包まれている。晩年時代の家康を彫った銅像が目を引く。

 岡崎城の入口には、
「人の一生重荷を負うて、遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。不自由を常とおもえば…」
 ではじまる、有名な家康の遺訓碑が、亀の石像の上に建っている。
 さすがに石都岡崎だけのことはあって、遺訓碑は、見事な花崗岩でつくられていた。

 岡崎城の天守閣にのぼる。そこからのながめがすばらしい。東に目をやると、ビルが建ち並ぶ中心街の向こうに、ゆるく波打つ三河高原の山々をながめ、反対に西に目を向けると、矢作川の流れが日射しを浴びて光り輝いている。それより西には濃尾平野へとつづく平原が、茫々として広がっていた。

 高原と平野。岡崎は二つの世界の接点であり、岡崎を境にして地形は大きく変わる。それが、岡崎城の天守閣に建つと、よくわかるのである。

 岡崎は城下町であるとともに、東海道の要の宿場町でもあった。
 岡崎城ができたのは15世紀半ばのことで、大永4年(1524年)になると、家康の祖父・松平清康が岡崎に入り、そこを居城とした。
 そのころから、岡崎の町は目にみえて発展しはじめ、東海道筋では駿府(静岡市)につぐほどの賑わいをみせるようになった。

 家康は岡崎から浜松、駿府と居城を移していったが、日本の大動脈である東海道の要を押さえつづけたことに変わりはない。家康と並ぶ戦国の実力者、甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信がとることのできなかった天下を三河の家康が手中に入れることができた理由のひとつには、家康がたえず東海道を押さえていたことがあげられる。

 岡崎城下を通り抜ける東海道は、城を守るために「二七曲」と呼ばれるほど曲折の多い道だった。今でも、旧東海道をたどって歩いてみると、それがよくわかる。

 ところで、辛口の赤味噌の代名詞のような八丁味噌は、その起源は遠く室町時代にまでさかのぼる。東海道を行き来する旅人たちによって、その名が全国に広められていった。駿府の安倍川餅や丸子宿のとろろ汁、桑名の焼きはまぐりと同じように、岡崎の八丁味噌は東海道の名物になっていったのである。

 この八丁味噌だが、その名前は地名に由来している。現在、2社によって八丁味噌はつくられているが、両社がある岡崎市八帖町はかつては八丁村と呼ばれていた。岡崎城から西へ、ほぼ8丁(約870メートル)の距離に位置していたからだ。そこでつくられる味噌なので、いつしか八丁村産の味噌が、“八丁味噌”と呼ばれるようになった。

 ところで、われわれ日本人の食生活とは切っても切り離せない味噌だが、大きく分けると米味噌、麦味噌、豆味噌の3種類に分けられる。

 まず米味噌だが、米に麹菌をつけ、ゆでたダイズと合わせ、発酵させたもの。
 次に麦味噌だが、麦(オオムギもしくはハダカムギ)に麹菌をつけ、米味噌と同じようにゆでたダイズと合わせ、発酵させたもの。
 それに対して豆味噌は、蒸したダイズに麹菌をつけたもので、原料はダイズだけの味噌。八丁味噌はそれら3種のうちの豆味噌である。

 日本列島を味噌で分けてみると、見事に色分けできる。
 日本の味噌生産量の80%を占める米味噌は、東日本から西日本にかけての広い地域に分布している。ところが、同じ米味噌でも、東日本の米味噌はダイズの割合が高くなり辛口である。代表的な米味噌としては、津軽味噌や仙台味噌、信州味噌などがあげられる。

 それに対して西日本の米味噌は、米麹の割合が高くなり、甘口となる。その代表的な味噌としては、西京白味噌や讃岐味噌などがあげられる。
 麦味噌地帯には、四国の西半分から、本州西端の山口県の一部、そして九州が含まれる。麦味噌はダイズの割合が低く、甘口である。極端な例では、ダイズをまったく使わない麦味噌もある。

 さて豆味噌だが米味噌地帯の一角、本州中央部の静岡県浜名湖以西、愛知県、岐阜県、三重県の東海四県が豆味噌地帯である。
 代表的な豆味噌が八丁味噌で、そのほか、三州味噌や三河赤味噌などがあげられる。
 これらの豆味噌は辛口で、赤味噌である。

 豆味噌の製造法上の大きな特徴は、米味噌や麦味噌のようにダイズをゆでるのではなく、蒸すのである。蒸したダイズを味噌玉にし、それに麹菌をかける。
 ダイズを蒸す利点としては、ひとつにダイズの持っている栄養分を外に逃がさないこと、次にダイズをふっくらとさせることができること、といった点があげられる。

 豆味噌の原料は、ダイズと水と塩である。話を八丁味噌に戻すと、岡崎の旧八丁村では、それら豆味噌の原料すべてに恵まれていた。矢作川の西、矢作の里は、古くから“矢作大豆”で知られるダイズの名産地帯であった。水はといえば、岡崎周辺には伏流水が流れ、地下水が豊富で、良質な水がいくらでも得らた。塩も同様である。矢作川の河口近くの三河湾に面した吉良は、塩の大産地で、吉良産の三州塩の入手が容易であった。

 このような諸々の条件に恵まれたからこそ、岡崎の旧八丁村は、豆味噌の一大産地として発展していったのだろう。さらに、製品を出荷するにも、東海道があり、矢作川の舟運があった。
 八丁味噌は、水分も塩分も少ない、固い味噌である。そのため日持ちがよく、兵糧食としては絶好であった。栄養価の高いチーズを持ち歩くようなもの。三河武士の強さの秘密は八丁味噌であり、徳川家康が天下を取ったのも八丁味噌のおかげだと、地元の人たちはいっている。
 合戦になると、号令がかけられたという。
「さあ、戦だ、味噌を集めよ!」

 八丁味噌の本場だけあって、岡崎には、八丁味噌を使った料理が多い。
 岡崎城内では「木の芽田楽」を食べた。堅炭で焼いた豆腐に、八丁味噌とみりん、砂糖を合わせたタレがよく合い、その味を木の芽(サンショの若芽)が、ピリッとひきしめている。

 同じく城内の茶屋で、八丁味噌つきの関東煮(おでんのこと。関西では“かんとだき”だが、中京の岡崎では“かんとうに”といっている)を食べた。木の芽田楽と同じように、濃いチョコレート色をした八丁味噌のタレが関東煮の味を一段とひきたたせている。

 八丁味噌で煮込んだ煮込みうどんは、抜群の味だ。うどんにネギ、エノキダケ、たまご、かまぼこ、油揚げなどの具を入れ、鉄鍋で煮込んだもの。うどんの芯にまで八丁味噌の風味がしみこんでいる。

 どてやきと田舎鍋の肉料理も食べた。どてやきは、ブタの臓物をぶつ切りにてゆで、それに八丁味噌と砂糖を加え、煮込んだものである。田舎鍋は、豚肉とタケノコ、サヤインゲン、ネギ、ニンジン、ハクサイなどの野菜、しらたき、かまぼこ、豆腐などを八丁味噌で煮込んだ鍋料理である。
 八丁味噌は、肉料理にはことのほか合う味噌である。肉のくさみを消し、ふつうでは食べられないようなブタの臓物まで、まるで別物のような味に仕立てあげてしまうのだ。

 さらに、八丁味噌には、焼き味噌がある。
 小皿に入れた八丁味噌を、芳しい香りが漂うほどに焼き、それを炊きたてのご飯にのせて食べるのである。
 これが、じつにうまい!

 好きな人にいわせると、焼き味噌さえあえば、ほかにおかずは何もいらないというほどなのである。
「湯漬けに焼き味噌」
 といって、徳川家康はことのほか焼き味噌を好んだといわれるが、なるほど納得できる味である。

 三河人は、体の芯にまで豆味噌の味覚がしみこんでいる。
 岡崎に来てみて、そのことがよくわかった。それだから、三河人が他所を旅行する時、味噌が悩みの種だという。豆味噌以外の味噌が何日も続くと、無性に故郷の味噌がなつかしくて、恋しくなってしまうという。くり返しになるが、その豆味噌の代表が八丁味噌なのである。

 私は東京生まれ東京育ち。味噌でいえば、米味噌圏の人間である。
 しかし、岡崎に来て豆味噌に、八丁味噌の味に慣れ親しむと、その味がきわめて忘れがたいものになる。それだけ個性の強い味噌なのである。
 三河人の八丁味噌に対するこだわりが、わかる気がする。
 八丁味噌の味覚が自分の舌になじんだあとで、他の味噌を味わうと、何かもの足りなくてやりきれなくなってしまうのだった。

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東海道53次(往路編)12
第9番目・小田原宿(神奈川)4月1日

小田原は北条早雲にはじまる北条五代の城下町。その当時は西の大内氏の山口と並び、日本での最大級の都市だった。
江戸時代の小田原は大久保氏の城下町。本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠は95軒を数える大きな宿場。城を中心とした町割りは城下町特有のもので、鍵型の道路網は今でもそのまま残っている。

0617、小田原城の常盤木門
小田原城の常盤木門

0620、小田原城の天守閣
小田原城の天守閣

0621、小田原城内はさながら愛犬の品評会。キャバリア(手前)がいる!
小田原城内はさながら愛犬の品評会。
キャバリア(手前)がいる!

0622、小田原城の桜は5分咲き
小田原城の桜は5分咲き

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東海道53次(往路編)11
第8番目・大磯宿(神奈川)4月1日

大磯は相模国の国府の置かれていたところ。地名にも「国府」が残っている。国道1号と県道13号の交差点は「国府新宿」。
国道1号沿いには見事な東海道の松並木。その先の二宮には相模国の二の宮、酒匂神社がある。

0613、大磯の町中を走る国道1号
大磯の町中を走る国道1号

0614、大磯の杉並木
大磯の杉並木

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東海道53次(往路編)10
伊勢原(神奈川)4月1日

平塚宿からは次の大磯宿に向かう前に、我が家のある伊勢原に寄り道をした。相模湾の平塚から大山山麓の伊勢原までは10キロほどでしかない。
伊勢原では我が家に近い比々多神社に参拝。これからの旅の安全を祈願した。ここは相模国の三の宮。私事でいえば、毎年、大晦日の深夜にやってきてお札を納め、ここで新年を迎えている。

0610、比々多神社に参拝。ここは相模国の三の宮
比々多神社に参拝。ここは相模国の三の宮

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東アジア走破行(2):サハリン縦断(2000年)
コルサコフ港に到着!
 2000年8月9日、「サハリン軍団」の総勢19名のメンバーとバイクをのせた東日本海フェリーの「アインス宗谷」(2628トン)は午前10時、稚内港を出港した。甲板に全員が集まり、100円の缶ビール(稚内港を離れると自販機の缶ビールは100円になる)で乾杯!

 缶ビールを飲みながら、離れていく北海道を眺めた。天気は快晴。稚内港からノシャップ岬、日本海へと続く海岸線がよく見える。礼文島、利尻島もよく見える。目の向きを変えると、今度は日本本土最北端の宗谷岬からオホーツク海へと続く海岸線を一望だ。

「サハリン軍団」というのは、東京の旅行会社(株)「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの「サハリン縦断ツーリング」に参加した19人のメンバーのことで、日本各地から稚内にやってきた。「カソリと走ろう!」シリーズというのは1993年の「エアーズロック(オーストラリア)」が最初で、「タクラマカン砂漠」、「モンゴル」、「チベット」と続き、「サハリン」が第5弾目ということになる。「サハリン縦断」には「道祖神」の菊地優さんが同行した。

「アインス宗谷」は宗谷海峡を北へ。やがて前方にはサハリン最南端のクリリオン岬が見えてくる。次第にはっきりと見えるようになる。「アインス宗谷」はアニワ湾に入り、サハリンの島影を左手に見ながら北上する。そして17時30分、サハリン南部のコルサコフ港に到着した。日本とは2時間の時差があるので、日本時間でいえば15時30分。稚内港から5時間30分の船旅だった。

 コルサコフは旧大泊(おおどまり)。日本時代には稚内から大泊へ、稚泊航路の連絡船が出ていた。まさに日本の北への動脈であり、大泊は樺太の玄関口だった。コルサコフ港の重要性は今でも変わらない。

 コルサコフでの入国手続きは現地の旅行会社「ユーラシアインタートランス社」が事前に手配してくれていたので、すごく簡単にすんだ。バイクの持ち込みはうまくいくだろうか…と心配していたが、それは杞憂でしかなかった。

 1999年に全行程4万キロの「日本一周」を走った愛車のスズキ・ジェベル250GPSバージョンともどもコルサコフ港に上陸。このバイクにはGPSがついている。しかしスクランブルがかかっているのだろうか、サハリンではGPSが使えなかった。

 コルサコフ港に上陸して驚いたのはサハリン警察のパトカーが我々を待ってけれていたこと。ユジノサハリンスクまでの40キロは赤青灯を点滅させたパトカーの先導つき。前に2台、後ろに1台とまるでVIP待遇でユジノサハリンスクに向かった。この道はサハリンでは一番の幹線になっている。それだけに交通量もけっこうあるが、パトカーはそれらの車をすべて止めて我々のバイクを走らせた。ユジノサハリンスクの町に入ると、赤信号でも交差する道の車を止めて「サハリン軍団」のバイクを走らせた。ほんとうにVIP待遇だった。

ユジノサハリンスクを歩く
 サハリンの州都、ユジノサハリンスクでは駅前の「ユーラシアホテル」に泊まり、「レストランユーラシア」で夕食を食べた。コケモモのジュースやロシア製ビールの「バルチカ」を飲んだ。ツブ貝などの前菜のあとのメインディッシュは豚肉料理。サハリンでの肉の重要度は豚が一番で、そのあと鶏、牛の順だという。

 夕食後は夜のユジノサハリンスクの町を歩いた。ここは旧豊原(とよはら)。日本時代には樺太庁が置かれた。ユジノサハリンスクは街路樹の涼しげな町で、札幌や旭川…の北海道の町と同じように、碁盤の目状に道路が交差している。湿気の多い、むせかえるような暑さの東京とは違い、空気がさらっとしていてべとつきがない。

「なつかしい!」
 サハリンには1991年に初めてやって来た。稚内港からバイクともどもロシア船に乗ってホルムスク港に渡り、そこからホルムスク峠(旧熊笹峠)を越えてユジノサハリンスクまでやってきた。そしてここを拠点にしてサハリンの南部をまわったのだ。

 そのときはまずユジノサハリンスクを一望するボルシビック山の展望台に登り、町を見下ろした。すぐ後ろには70メートル級、90メートル級のジャンプ台。真下に見える幅広い通りはプロスペクト・ポベーダ。プロスペクトはアベニューで、ポベーダはビクトリー。ボルシビック山を下ると、プロスペクト・ポベーダの起点になるポベーダ広場に行った。そこには戦勝記念碑。実物のT34型戦車をのせたモニュメントが建っていた。
 そんな10年前のユジノサハリンスクの姿が鮮やかに蘇ってくるのだった。

ユジノサハリンスクから北へ
 8月10日午前9時、ユジノサハリンスクを出発。ここから先もパトカーの先導。郡単位で警察の管轄が変わるので、郡境で次の警察のパトカーが待っているというリレー方式だ。ユジノサハリンスクの交通警察の警官、ジマさんと運転手のボローニャさん、ガイドのワリリさんが全行程を同行してくれることになった。

 ユジノサハリンスクの市街地を抜け出ると、広々とした平原。その中にジャガイモ畑、ビート畑、牧場…を見る。北海道に似た風景。ぼくが先頭を走り、そのあとを「サハリン軍団」の18台のバイクが続く。バックミラーをのぞき込むと、1列になったバイクが長い線を描いている。

 オホーツク海に出た。海岸近くは広々とした湿原。釧路湿原に似ている。その中を流れる幅100メートルほどの川を渡ったが、残念ながら橋の上からは何も見えなかった。前回、来たときは今回と同じ季節だったが、その橋の上からの眺めはすごいものだった。オホーツク海から登ってくるカラフトマスが群れをなし、川面が盛り上がり、あちこちで飛び跳ねていた。もう「すごい!」の一言で、サハリンの自然の豊かさを見せつけられたような思いがした。カラフトマスのすぐあとにはサケが登ってくるという。だが、残念ながら今回はこのような光景は見られなかった。カラフトマスが来なくなってしまったのか、それとも時期がずれたのか…。

 オホーツク海の砂浜で昼食。若干、酸味のある黒パンにチーズ、ハム、チキン。北海道へと続くオホーツクの海を見ながらの食事なので、よけいにおいしく感じられた。
 ユジノサハリンスクから100キロほど北に行くと、舗装は途切れ、ダートに入っていく。先導のパトカーの巻き上げる土けむりがものすごい。あっというまにぼくもバイクも埃まみれになった。

 途中で給油。街道沿いにはガソリンスタンドがあり、オクタン価93のガソリンを問題なく入れられた。というのは1991年に来たときは、極端なモノ不足で、ガソリンを手に入れるのは大変なことだった。ガソリンスタンドにもガソリンはなく、高額な闇ガソリンを買ったこともあった。それだけに10年間のサハリンの変化を見る思いがした。

 ユジノサハリンスクから300キロ北に行ったポロナイスク川の河口の町、ポロナイスクに到着。ここは旧敷香(シスカ)。日本時代の王子製紙の工場が今でもそのままの姿で残っていた。敷香は王子製紙とともに大きくなった町だが、そのほか旧真岡(ホルムスク)や旧泊居(トマリ)、旧恵須取(ウグレゴルスク)にも王子製紙の工場はあった。日本語に堪能なワリリさんの話によると、ポロナイスクもそうだが、それら旧王子製紙の工場は今でもそのまま使われているとのことだ。

 ポロナイスクにはひと晩泊まった。泊まったところは学生の寄宿舎で、外観は普通のアパートと同じ。まずはバーニャ(浴場)に行く。湯を浴びたあとサウナで汗を流し、葉のついたシラカバの小枝を束ねたものでビシバシと体をたたくのだ。これがロシア流。体が赤くなるほどたたくと、温泉につかったのと同じように血行がよくなるという。そのあとで夕食。前菜にもサラダにも豚肉料理のメインディッシュにも、オクロップという青菜の香辛料が添えられていた。これは日本でも最近使われているペンネルで、ウイキョウの仲間になる。サハリンの食文化というのはロシアと同じで、香辛料をよく使う食文化圏に含まれる。

北緯50度線を突破!
 翌朝、ポロナイスクを出発。道幅は広いが、前夜に降った雨でところどころに大きな水溜まりができていた。交通量がガクッと減った。北に100キロほど走ったところで北緯50度線に到達。
「やったー!」。
「サハリン縦断」での、ぼくの一番の憧れは北緯50度線を越えることだった。それだけに喜びは大きかった。

 道のわきには「北緯50度線」の碑。その碑には南に向かって大きく目を見開いた旧ソ連兵の姿が刻み込まれ、その下には「ソ連軍は南サハリンとの間にあった国境線を開放し、古来のロシア領土を奪回した。1945年8月11日」とロシア語で書かれている。

 北緯50度線以南のサハリンが日本領「樺太」になったのは、日本の勝利で終わった日露戦争後のポーツマス条約(1905年)によってのことである。「北緯50度線」の碑文は50年後にまた領土を奪回したというロシアの気分が伝わってくる。

 サハリン最南端のクリリオン岬は北緯45度54分。最北端のエリザベート岬は北緯54度20分なので、この北緯50度線というのはサハリンのほぼ中央。今でもサハリンを南北に分ける大きな境目。近くの樹林の中には戦没者の慰霊碑がひっそりと建っている。このあたりは第2次大戦末期の激戦地だった。

 北緯50度線を越え、北サハリンに入ると、バイクで切る風は冷たさを増す。そこはツンドラ(永久凍土)の世界。夏のツンドラはただの草原にしか見えないが、バイクを止めて一歩その中に入ってみると、なんとも奇妙な感触を足の裏に感じる。まるで水を吸ったスポンジの上を歩いているようだ。ツンドラには花が咲き、マローシカというちょっと甘酸っぱい味の赤い草の実が成っていた。

 その夜はティモフスクで泊まった。ホテル内のレストランでサラダとマッシュポテトつきのハンバーグの夕食のあと、ロシア人スタッフたちとウオッカを飲んだ。息を止めて一気に飲み干し、飲みおわったあとフーッと大きく息をはく。それが正統なロシア式の飲み方だとのことで、我々も真似して飲んだが、あっというまに酔いつぶれたメンバーも出た。それにしてもロシア人たちは強い!

ノグリキの北方少数民族
 ティモフスクからノグリキへ。その間は140キロほどでしかないので、「サハリン軍団」は渓流でたっぷりと時間を使ってサハリンの自然を楽しんだ。釣りの好きな人たちは渓流釣りをはじめる。イワナやマスが釣れた。ぼくを含めた何人かは「渓流浴」を楽しんだ。裸になって渓流に身をひたすのだが、キリッとした水の冷たさが肌に残った。

 ノグリキにはまだ日の高いうちに到着し、「ノグリキホテル」に泊まった。ユジノサハリンスクを出発して以来、初めて泊まる快適なホテル。シャワーを浴びてさっぱりしたところで町に出る。ホテル近くのパブに入り、大ジョッキーでビールを飲んだ。1杯8ルーブル。日本円にすれば約35円でしかない。この時点での1ルーブルは4円20銭。ぼくが初めてロシアに行ったのは1977年のことで、そのときは1ルーブルは420円だった。23年でルーブルは円に対してレートを下げつづけ、なんと100分の1になってしまった…。それはさておき、さっぱりした味わいのうまいビールだった。

 町をぷらぷら歩くと、ニブヒ族(ギリヤーク族)などの少数民族をみかけた。ここには「北方民族博物館」があり、ニブヒ族などの北方少数民族の生活用具などを展示している。サハリンには全部で24の北方少数民族がいるということだ。

 ホテルに戻ると、レストランで夕食。ロシアのスープ、ボルシチがうまかった。メインディッシュはロールキャベツなどの添えられたライス。夕食後は再度、町を歩き、ノグリキ駅まで行った。ノグリキはサハリン縦断の鉄道の終着駅なのだ。

サハリン最北の地へ
 ノグリキから北に250キロ、サハリン最北の町、オハへ。その途中では1995年5月28日の大地震に直撃され、2000人以上もの死者を出したニェフチェゴルスクを通った。町は復興することもなく、北の大地にうち捨てられ、今は住む人もいなかった。町は消滅し、荒野のまっただなかにポツンと慰霊塔だけが建っていた。そのあたりが、かつてのニェフチェゴルスクの町の中心だったという。

 コルサコフ港から936キロ走ってサハリン最北の町、オハに到着。オハはサハリン沖の海底油田開発の拠点になっている。石油関連の工場や施設、炎を噴き上げる精油所などが見えた。

 サハリンの道はオハからさらに北へと続く。シュミット半島に入り、コリンドという小さな町を通り、オハから80キロ行ったところで尽きた。コルサコフ港から1007キロの地点だ。小高い丘に登ると、夕日を浴びた丘陵地帯のその向こうには、オホーツク海に突き出たサハリン最北端のエリザベート岬が見えた。我ら「サハリン軍団」はエリザベート岬に向かって全員で万歳し、
「ハラショー(すばらしい)!」
 と、大声で叫んでやった。

 夕日に染まったサハリン最北の地を眺めていると、「もっと北へ! もっと北へ!」という衝動にかられ、無性にさらに北の世界を旅したくなった。
 その夜はオハで泊まったが、「サハリン最北の地」到達を祝ってビールで乾杯し、そのあとは夜中までウオッカパーティーで盛り上がった。

タタール海峡で「海峡浴」!
 8月14日午前9時、オハを出発。「サハリン縦断」復路の開始だ。まずはオホーツク海側のオハからタタール海峡側のモスカリボへとサハリンを横断する。といっても南北に細長いサハリンの中でも、とくにこのあたりはくびれて狭くなっているので、オホーツク海の海岸からタタール海峡の海岸まではバイクのメーターで38キロでしかなかった。

 モスカリボの町中から海岸への道はフカフカの砂道。砂の車輪をとられ、転倒する人が続出した。そんな砂道を走り抜けてタタール海峡の砂浜に出たときは大感動! 裸になって海峡に飛び込み、「海峡浴」をし、全身でタタール海峡を味わった。

 北海道とサハリンを分ける宗谷海峡を越えたときもそうだが、海峡というのはじつに心に残るもの。タタール海峡を見ていると、「アフリカ一周」で渡ったアフリカとヨーロッパを分けるジブラルタル海峡や「南米一周」で渡った南米大陸とフェゴ島の間のマゼラン海峡、「ユーラシア横断」で渡ったヨーロッパとアジアを分けるボスポラス海峡…など、今までに見た世界の海峡のシーンが思い出されてくるのだった。

 タタール海峡は1808年に間宮林蔵が発見し、シーボルトがヨーロッパに伝えたことによって間宮海峡ともいわれる。海峡の一番狭い部分はわずか7・4キロ。そこからだと対岸の大陸がはっきりと見えるという。海峡出口のモスカリボあたりだと幅が広いので、いくら目をこらしても対岸の大陸はまったく見えなかったが、「今度はロシア本土を走ろう!」と、この時、「シベリア横断」を強く意識した。

「ノグリキホテル」のロシア料理
 オハからノグリキへ。ノグリキでは往路のときと同じ「ノグリキホテル」に泊まり、同じパブでビールを飲み、ノグリキの町を歩いた。

 ホテルのレストランでの夕食にはボルシチとサラダ、チキンをのせたライスが出た。サハリンではライスがけっこう食べられているが、皿に盛られたライスをナイフとフォークで食べる。ここでは行きも帰りも大好きなボルシチが出た。ぼくにとってはボルシチが一番、ロシアを感じさせる食べ物。ボルシチはビート(砂糖大根)の入った赤味を帯びたスープだが、地域ごとに様々なバリエーションがあるので見た目も味もずいぶんと異なる。各地で様々なボルシチを味わうのはロシア圏での旅の大きな楽しみといえる。

 翌朝の朝食はパン、クレープ、サラダ、それとライス。飲み物は紅茶。そのライスというのはミルクをかけ、砂糖を入れて甘くし、クリームをたっぷりとのせたもの。ヨーロッパ人の好きなものだが、甘くしたライスというのはどうにもこうにも食べにくい。「ご飯はこうして食べるもの」という日本風の食べ方が身にしみついているからなのだろう。

 ノグリキからユジノイサハリンスクまでは列車の旅になる。出発は夕方なので、午前中はノグリキの町を歩き、ホテルのレストランで昼食。その昼食にはホットケーキ風薄焼きパンのプリヌイとニシンのオイル漬け、それとロシア風水餃子のペリメニが出た。ニシンのオイル漬けは油ぎったものではなく、さっぱりとした味わい。それをプリヌイにのせて食べる。ペリメニは皮と肉の取り合わせが絶妙で我々、日本人の口に合う。これらすべての料理にはいつものことだが、香辛料のオクロップが添えられている。「ノグリキホテル」のレストランでは往路、復路ともにふんだんにロシア料理を食べることができた。

冒険家「河野兵市」との出会い
「ノグリキホテル」で昼食を食べおえると、「サハリン軍団」はバイクに乗って町外れにあるノグリキ駅へ。列車の発車時刻まではまだかなりあったが、それまでに自分たちでバイクを貨車に乗せなくてはならなかった。ぼくたちは全員で力を合わせて19台のバイクを貨車に積み込んだ。そのあとは駅近くの湖に行き、今度は「湖水浴」を楽しんだ。

 ノグリキ駅に戻ると、なんとも驚いたことに、「カソリさ~ん!」と声を掛けられた。その人は冒険家の河野兵市さんだった。河野さんは北極点から故郷の四国・愛媛県の瀬戸町(現伊方町)まで、6年間かけて人力で踏破するという。その最後がサハリンになるとのことで、北極圏からサハリンまで下見をしていた。河野さんは下見をほぼ終え、我々の乗る列車でユジノサハリンスクまで行くところだった。

「河野兵市」といえば日本を代表する冒険家。21歳のときに自転車で「日本一周」をしたあと世界に飛び出し、7年あまりをかけて世界を駆けめぐった。その間では「ロサンゼルス→ニューヨーク」間の徒歩での「北米大陸横断」をしたり、自転車での「南米大陸縦断」を成しとげた。さらに驚かされたのはその後のリヤカーを引いての「サハラ砂漠縦断」だ。そして徒歩での北極点踏破。

 そんな河野さんはさらなる大冒険として、今度は北極点から自分の故郷までを完全踏破しようというのだ。「来年には必ず実行しますよ!」という河野さんは、迫力満点の顔をしていた。ノグリキ駅でしばし語らったあと、お互いのこれからの旅の健闘を祈ってガッチリ握手をかわし、ユジノサハリンスク行きの列車に乗り込んだ(河野兵市さんはその翌年の2001年に北極圏で遭難し、亡くなった)。

サハリン、列車旅
 17時05分、ユジノサハリンスク行きの列車はノグリキ駅を出発した。緑色の2連のジーゼルカーに引っ張られた14両の客車。我々の乗ったのは寝台車で4人用のコンパートメント。通路の窓は上部だけが開くようになっている。そこから流れゆく風景を眺めた。ところどころでは道路も見られた。「あの道をバイクで走ったのだ」と思うと、感無量。

 夕暮れが迫ると、我ら「サハリン軍団」の宴会がはじまった。連結器のあたりにメンバーが集まり、ビールやワインを飲んだ。そのあと食堂車での夕食。サラダと貝料理、豚肉料理が出た。食堂車は我々「サハリン軍団」の専用車同然だったので、食事のあとはまたしてもビール、ワインでの宴会になり、警官のジマさん、運転手のボロージャさん、ガイドのワリリさんをまじえて夜中まで飲み続けた。ワリリさんは盛んにロシア・カムチャッカ半島のすばらしさを語り、「次はカムチャッカ半島に行こう!」といった話で盛り上がった。

 こうしてバイクでの「サハリン縦断」を成しとげると、今度は無性にロシア本土を走りたくなる。カムチャッカ半島も、シベリアの道の尽きるマガダン港までもバイクで走ってみたくなる。
 翌朝、9時30分、ユジノサハリンスク駅に到着。16時間25分の列車の旅だった。

「ドスビダニア、サハリン!」
 列車からバイクを下ろし、ユジノサハリンスク駅前の「ユーラシアホテル」に泊まる。シャワーを浴びてさっぱりしたところで、日本料理の「飛鳥」で昼食。カラフトマスの焼き魚、イクラ、カニの入った酢の物と北海の海の幸を存分に味わった。我ら「サハリン軍団」はサハリン縦断の成功を祝して「乾杯!」を繰り返した。

 夜は「レストランユーラシア」でのパーティー。それにはガイドのワリリさんと運転手のボローニャさん、それと警官のジマさんが奥さんと15歳の娘リカさんを連れて参加してくれた。ジマさんの奥さんとリカさんはともに美人。とくに透き通るような色の白さのリカさんは男どもの注目の的で、何かとカタコトのロシア語で話しかけるのだった。

 食事が終わると、今度はウオッカパーティー。ワリイさんやボローニャさんとトコトン勝負したので、ぼくを含めて何人かが足腰が立たないくらいに酔ってしまった。

 8月17日8時、ユジノサハリンスクを出発。パトカーの先導で40キロ走り、コルサコフへ。10時出港の「アインス宗谷」に乗り込んだ。全行程1463キロの「サハリン縦断」だった。
 我ら「サハリン軍団」は離れていくコルサコフに向かって、「ドスビダニア(さよなら)、サハリン」と何度も大声で叫んだ。

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東海道53次(往路編)9
第7番目・平塚宿(神奈川)4月1日

相模川を渡ると平塚宿。七夕で有名な平塚だが、旧東海道は平塚駅の北側を通っている。
「脇本陣跡」とか「高札場跡」、「本陣跡」といった石碑が立っているが、それのみでかつての東海道の宿場がらみのものは残っていない。
花水川にかかる花水橋までくると対岸の高麗山がよく見える。全山、自然林で覆われているが、東海道では一番といっていいほどの自然が残されている。

0608、平塚駅前に到着。こちらは南口。東京・日本橋から68キロ
平塚駅前に到着。こちらは南口。東京・日本橋から68キロ

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東アジア走破行(1)
 ぼくが初めて海外に飛び出していったのは1968年4月のことで、20歳の旅立ちだった。250㏄バイクのスズキTC250を走らせ、2年あまりをかけてアフリカ大陸を一周した。22歳になって日本に帰ってきたときは、「自分の生きかたはこれしかない!」と強烈に思い込み、「これからはトコトン世界を駆けまわるゾ!」と心の中でそう叫ぶのだった。22歳のときの決心どおりとでもいおうか、それ以降、世界の6大陸をバイクで走り続けている。

 ところでぼくは今までに世界の130ヵ国を旅してきたが、バイクでまわるのが一番難しいのは日本の近隣諸国の東アジアである。日本からフェリーは出ているが、これらフェリーにバイクを乗せるのはそう簡単なことではない。日本から大勢の観光客がこれらの国々に押しかけているが、バイクでまわるとなると、まったく事情は異なってくる。

 ぼくは20代のころはアフリカを中心に世界をまわったが、日本の近隣諸国はいつでもまわれるという頭があったので、東アジアはあとまわしになった。東アジアがあとまわしになったもうひとつの理由というのが、これらの地域にはバイクだときわめて行きにくいという事情があったからだ。

「よーし、今だ!」
 と、その気になったのは2000年になってからのこと。今が東アジアをまわるときだと決心した瞬間、自分の血の流れに熱いものを感じた。初めて海外に飛び出し、アフリカをまわってから30年以上が経っていた。

 2000年8月、「サハリン縦断」を目指し、バイクで東京を出発した。
 津軽海峡を渡って北海道へ。日本本土最北端の宗谷岬に立ち、宗谷海峡の水平線上に霞むサハリンを見たときは、思わず「待ってろよ!」と声が出た。稚内港でサハリンのコルサコフ港行きのフェリーに乗り込んだ。フェリーが稚内港を離れていくときは感動で胸が高ぶった。この「サハリン縦断」が一連の「東アジア走破行」の皮切りになった。

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東海道53次(往路編)8
第6番目・藤沢宿(神奈川)4月1日

藤沢宿では時宗の本山、遊行寺を参拝。藤沢の町は東海道の宿場町として、またこの遊行寺の門前町として発展した。
遊行寺の正式な寺名は清浄光寺だが、遊行上人の寺ということで、一般的には遊行寺と呼ばれている。境内には宗祖、一遍上人の像が建っている。

藤沢から茅ヶ崎へ。海沿いの「夢庵」で昼食。「ねぎとろ丼」のランチセット(891円)を食べた。

0600、遊行寺の本堂
遊行寺の本堂

0596、境内の一遍上人像
境内の一遍上人像

0603、遊行寺の桜は3分咲き
遊行寺の桜は3分咲き

0607、茅ヶ崎の「夢庵」で昼食。「ねぎとろ丼」のランチセットを食べる
茅ヶ崎の「夢庵」で昼食。
「ねぎとろ丼」のランチセットを食べる

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東海道53次(往路編)7
第5番目・戸塚宿(神奈川)4月1日

戸塚宿入口あたりで国道1号は2本に分かれる。右は横浜新道へ、左は戸塚駅前へ。さらにいえば横浜新道も国道1号。このあたりでは国道1号のルートナンバーの立つ道が3本もある。
開かずの踏み切りで戸塚駅脇の東海道線を渡るが、そのあたりがかつての東海道の戸塚宿の中心。本陣跡が残っている。

0594、国道1号の戸塚駅脇の開かずの踏み切り
国道1号の戸塚駅脇の開かずの踏み切り

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: 60代編日本一周パート2(2009)

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東海道53次(往路編)6
権太坂(神奈川)4月1日

保土ヶ谷宿と戸塚宿の間で越える峠。国道1号で横浜横須賀道路の狩場IC入口を過ぎると権太坂の登りがはじまる。ゆるやかな峠で、そこは武蔵と相模の国境でもある。
権太坂を下ると横浜の環状2号との交差点。そこで引き返し、次に旧東海道で権太坂へ。そこには境木のモニュメントがあり、境木地蔵がまつられている。

0588、国道1号の権太坂上のバス停から望む権太坂
国道1号の権太坂上のバス停から望む権太坂

0591、旧東海道の権太坂の境木モニュメント。台座には東海道53次の宿名が刻み込まれている
旧東海道の権太坂の境木モニュメント。
台座には東海道53次の宿名が刻み込まれている

0593、権太坂の境木地蔵
権太坂の境木地蔵

0592、境木地蔵前の東海道の案内板
境木地蔵前の東海道の案内板

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