著者・管理人

Author: 賀曽利隆
Twitter:@kasori3000
Administrator:ウザワ・K

電子で復刊!
カテゴリー
Amazon
ブログ内検索 by Google
広告も社会の窓。
最近のコメント
RSSフィード
FC2ブログランキング
このブログが面白いと思ったらたまに(あるいは頻繁に!)クリックしてくださいね(ポチっとな)。それで何が起こるのかは僕も知らんけど…。
カソリお役立ちリンク
管理人推奨リンク

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「伝説の賀曽利隆オンライン」(28)

(2002年1月1日)

「島編・日本一周」の「九州編」を終えて帰ってきました。今回はそのパート1。筑前大島を皮きりに、甑島列島を最後に、九州北部&西部の30島をめぐってきました。

 九州最北の島、対馬では最北端の「韓国展望台」に夜明け前に立ちました。猛烈に冷たい北西からの季節風に吹かれながら、水平線上の韓国・釜山の夜景を見ることができました。「日本から異国をを見た!」と、そんな感動で胸がいっぱいになりましたよ。

 また、対馬では北部、峰町の海神(わたつみ)神社に参拝。この海神神社が対馬の一の宮なのです。1999年の「本土編・日本一周」では、島国を除く日本全国の一の宮をめぐりましたが、今回の「島編・日本一周」では佐渡、淡路、隠岐、壱岐についで最後の島国の対馬でも一の宮を参拝し、これで島国5国をふくめて本当の意味での日本全国の一の宮めぐりを終えました。

 日本を現在の県単位でみるのではなく、旧国単位で見る、その旧国のシンボルとして一の宮に焦点を当てたわけけですが、これがじつにおもしろかった。我々、日本人のDNAには旧国というものがしっかりとインプットされているのがよくわかります。

 3月にスタートさせた「島編・日本一周」ですが、50㏄バイクのスズキSMX50を走らせ、ここまでで北海道、本州、四国、九州の島々、合計140島をめぐったことになります。あと、残りは九州南部と東部、それと沖縄です。

 九州南部&東部の島々をめぐる「九州編」のパート2ですが1月11日に出発します。オーシャン東九フェリーでSMX50ともども東京から北九州に渡り、前回と同じように新門司港を出発点にして九州を反時計回りで一周します。「北九州→鹿児島」間はR3の一気走りで、鹿児島港から南へ。まず種子島に渡り、そのあと屋久島、トカラ列島、奄美諸島と南下していきます。鹿児島港に戻ると、今度は「鹿児島→北九州」。その間で九州東海岸の島々をめぐります。

 1月10日には女子大の津田塾大での「食文化」をテーマにしての講演。当然、聞きにくるのは女子大生なんだろうなあ‥とカソリ、今から胸ワクワク。翌1月11日のオーシャン東九フェリー(新門司港行)で「島編・日本一周」の「九州編」(パート2)に出発。1月下旬に帰ってくる予定です。


(2002年1月11日)

 今日のフェリー、東京港フェリー埠頭を19時10分に出航するオーシャン東九フェリーで北九州の新門司港に渡り、「島編・日本一周」の「九州編パート2」をスタートさせます。前回の「九州編パート1」のときと同じように九州を反時計回りで一周しながら島々をめぐります。

 前回は九州北部&西部の島めぐりでしたが、今回は九州南部&東部の島めぐり。まず鹿児島まで行って種子島に渡り、次ぎに屋久島に渡っていったん鹿児島に戻り、そこからトカラ列島経由で奄美大島に渡ります。

 ダート天国の奄美大島には、おおいに期待しています。さらに奄美諸島を徳之島、沖永良部島と南下し、今回は与論島まで行こうと思っています。そこから鹿児島に戻り、「鹿児島→北九州」間で九州東部の島めぐりをしようという計画です。
 さあ、うまくいくかどうか‥。

 昨年の3月にはじめた「島編・日本一周」もいよいよ大詰め。ここまで、スズキSMX50で1万7000キロを走り、140島をめぐりました。今回の「九州編パート2」のあとは、最後の「沖縄編」ということになります。

 何度か繰り返していったようにそのあと、「台湾一周」ができるといいのですが。それと「北方4島」ですね。国後や択捉をバイクで走れそうなチャンスをつかんだら、速攻で根室まで行き、「北方4島」をまわる心の準備だけはいつもしています。

 それともうひとつ、伊豆諸島の三宅島ですね。島民のみなさまにはほんとうにお気の毒なことですが、あいかわらず三宅島は猛烈な噴煙をあげてます。1日も早く三宅島が落ちつきますように。島に一般人も渡れるようになったら、御蔵島→三宅島→八丈島→青ヶ島の島めぐりは、ぜひともやってみたいと思っています。


(2002年1月30日)

「島編・日本一周」の九州南部編と九州東部編を終えて帰ってきました。
「九州南部編」では鹿児島から南へ、種子島、屋久島からさらに奄美諸島の島々をめぐりました。奄美大島から徳之島、沖永良部島と南下し、今回の一番南は与論島でした。そこからは沖縄本島がはっきりと見えました。沖縄を見ながら、次回の「沖縄編」に夢をめぐらせたのです。

 それにしても、南島の島々はあたたかかった‥。今、季節が冬だということをすっかり忘れさせるほどでしたよ。それだけに与論島からフェリーで鹿児島港に戻ったときの寒さ、風の冷たさにはまいりました。いっぺんに現実の世界に引き戻されたような気分をも味わいました。

「島めぐり」だけでなく、日南海岸や日豊海岸の「アイランドウオッチング」をしながら九州の東海岸を北上。最後に、国東半島沖の姫島をめぐり、北九州の新門司港へ。そこが「九州一周」(パート2)のゴール。全行程2865キロ、その間では全部で14島の島々をめぐりました。前回の九州北部と西部の島々をめぐった「九州一周」(パート1)では2783キロを走り、30島をめぐりました。

 これで「九州編」、終了。
 九州だけで44島になりました。

 昨年の3月にスタートさせた「島編・日本一周」ですが、「伊豆諸島・小笠原諸島編」を皮切りに、「本州東部編」、「北海道編」、「本州西部編」、「四国編」、「九州編」と、ここまで50㏄バイクのスズキSMX50で2万1527キロを走り、155島をめぐりました。

 残されたのは「沖縄編」だけとなりました。今のところ、沖縄は2回に分けてまわろうと思っています。2月から3月にかけて沖縄本島とその周辺の島々、4月に宮古諸島、八重山諸島の先島諸島をめぐろうと思っています。

 1年がかりでの「島編・日本一周」の締めくくりになる「沖縄編」だけに、気合を入れてまわろうと思っています。
 さー、行くゾ!
スポンサーサイト

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

『世界を駆けるゾ! 40代編・下巻

第1章 目指せ、エアーズロック!

「道祖神」の菊地優さんとの出会い

 20歳のときに250・バイクのスズキTC250で「アフリカ一周」して以来、20代、30代と単独行のバイクツーリングを繰り返してきたぼくだったが、40代以降になって大きく変わったのはバイクツアーで海外ツーリングをするようになったことである。

 東京・目黒の「・道祖神」はバイクツアーに力を入れている旅行社だが、それを担当している菊地優さんとは20年来の友人だ。菊地さんはぼくの書いた一番最初の本『アフリカよ』(浪漫刊)を高校生のときに読んでくれた。そのあとすぐに電話をくれ、東京・秋葉原駅構内の喫茶店「メトロ」で、まだ少年の面影をたっぷり残す菊地さんに会った。友人の窪田誠さんが一緒だった。今から25年前のことである。

 1杯のコーヒーでずいぶん長い時間をかけ、ぼくは夢中になって菊地さんにアフリカの話をした。ぼくの体験したアフリカのすべて伝えたかったのだ。そうしたくなるほどの、あふれんばかりの情熱を菊地は持っていた。

 それから2年後に、菊地さんは窪田さんと一緒にアフリカに旅立っていった。19歳のときのことだった。

 横浜港から船でナホトカに渡り、列車でシベリアを横断し、ヨーロッパをヒッチハイクした。スペインからジブラルタル海峡を越えてモロッコに渡り、アルジェリアのアルジェからホガール・ルートでサハラ砂漠を縦断しようとした。だがうまくいかずヨーロッパに戻り、今度はギリシャからエジプトに渡った。カイロからナイル川沿いに南下してスーダンに入り、首都カルツームからは白ナイル沿いに南部スーダンのジュバまで行き、そこからケニアのナイロビへ。

 そこで西アフリカからアメリカに向かうという窪田さんと別れ、菊地さんはイスラエルのテルアビブ経由でトルコのイスタンブールに飛んだ。イスタンブールから陸路、西アジアを横断した。インドからネパールへ、最後はタイ。そしてバンコクから日本に帰ってきた。1年間の旅。菊地さんは、20歳になっていた。

 帰国してからまもなく、菊地さんは2度目の旅に出た。日本からデンマークのコペンハーゲンへ。デンマーク人の友人、チョービンの家でしばらく居候する。菊地さんは前回の旅でアフガニスタンのバーミアンで山賊にみぐるみを剥がれ、一文無しになってしまった。そんなときに同じく西アジアを旅していたチョービンに助けられ、彼にお金を借りて日本に帰ってきた。その後、チョービンは日本にやってきて、菊地さんの家でしばらく居候していったという。なんともいい話ではないか。

 チョービンと一緒にヨーロッパ、北アフリカをまわった菊地さんは、彼と別れ、アメリカのニューヨークに飛ぶ。そこで友人の窪田さんと再会。バイトして資金を稼ぐと、窪田さんと一緒に北米をまわった。最後はサンフランシスコ。そこから日本に帰ってきた。1年間の旅。菊地さんは、21歳になっていた。

 帰国すると、将来のことを考えたのだろう、菊地さんは旅行専門学校に入学した。そのときに道祖神をつくった熊沢房弘さんに出会う。「学校にいたって、なんにも覚えられないよ」という熊沢さんの一言で学校を辞め、道祖神で熊沢さんの片腕として仕事するようになったのだ。

 菊地さんは26歳のときに結婚し、道祖神から長期休暇をもらい、奥さんと3年あまりの「世界一周」の旅をした。3年間の長期休暇など、前代未聞の話だ。このようにドラマチックな旅人生を送ってきた菊地さんは、今までに世界の137ヵ国を旅している。

 そんな菊地優さんが「カソリと走ろう!」シリーズのバイクツアーを企画し、ぼくがのった訳だが、その第1弾が「目指せ、エアーズロック!」なのである。前書『世界を駆けるゾ! 40代編上巻』で詳しく書いた「インドシナ一周」を終えた直後の、1993年におこなわれた。7月5日から11日間のバイクツアーだった。


我ら「豪州軍団」、総勢18名

「目指せ、エアーズロック!」のメンバーは、オーストラリア人スタッフを含め、総勢で18人。「豪州軍団」を結成し、男性陣はスズキDR350、女性陣はヤマハ・セローでオーストラリア東海岸のブリスベーンを出発。大陸中央部にそそりたつ世界最大の一枚、エアーズロックを目指した。

 ブリスベーンから国道54号を西へ。いかにも大陸らしい平原の中の道を突っ走っていくと、前方になだらかな山並みが見えてくる。グレート・ディバイディング・レインジだ。日本語でいうと大分水嶺山脈。大陸の東岸(太平洋岸)に並行して南北に走る全長3000キロ以上の大山脈。幅も160キロ~320キロと広い。ただ、ヒマラヤやアンデスのような険しい山並みではなく、全体に高原状でなだらか。最高峰のクシオスコ山も標高2230メートルと、2000メートル峰でしかない。

 大分水嶺山脈の峠道を登っていく。ユーカリの木が多くなる。日本のタイトなコーナーが連続するような峠道とは違い、いかにも大陸的とでもいおうか、ゆるやかなカーブの連続する峠道。峠の展望台に立つと、茫洋と広がる大平原を見下ろす。北海道の狩勝峠から見下ろす十勝の平原に似た風景だが、さすが大陸、桁が違う。

 大分水嶺山脈の山並みを越えると、もう前方に山影はない。大平原が延々とつづく。天と地と、世界をまっぷたつに分ける地平線を目指し、DR350のアクセル全開でただひたすらに走りつづける。

 夕日が西の空を真っ赤に染めるころ、ブリスベーンから280キロのチンチラの町に着く。キャラバンパーク(キャンプ場)でのキャンプ。こうして我ら「豪州軍団」の、エアーズロックを目指しての旅がはじまった。

 車で同行してくれるオーストラリア人スタッフはロン、マシュー、サイモンの3人。ロンがチーフで、マシューがメカニック担当、サイモンが料理担当だ。最初の夜ということで、ぶ厚いTボーンステーキを各人に1枚、焼いてくれた。ワイン、ビールを飲みながらTボーンステーキにかぶりつく。これぞ、オーストラリアの味!

 満腹になったところで、焚き火を囲み、全員で自己紹介。お互いの顔と名前を覚えると「豪州軍団」の面々は、いっそう親密感を増していった。


オーストラリアのダートに突入!

 ブリスベーンから700キロ西のチャールビルが国道54号の終点。この町では、日本からやってきたバイクツアーということで、地元紙の取材を受けた。

 チャールビルを過ぎると、延々と1800キロもつづくダートに入っていく。その初っぱなの洗礼はあまりにも強烈だった。

 ブルダスト(細かい粒子の砂溜まり)に突っ込むと、ターク(目木正さん)はバイクごと吹っ飛び、頭と胸を強打した。ヘルメットに穴があくほどの衝撃の大きさだった。お水(小船智弘さん)もブルダストで転倒し、足首をプクーッと腫らした。
 ブッシュの中のダートは怖い!

 小石をはね上げ、100キロ近い高速で走っている目の前に、何の前ぶれもなくカンガルーが飛び出してくる。転倒覚悟で急ブレーキをかけ、からくもカンガルーとの衝突を避けたことが何度もあった。それほど、このあたりにはカンガルーが多い。道端には、車と衝突して死んだカンガルーの死骸が累々とつづいている。その光景はまさにオーストラリアの荒野の象徴だ。

 アバダレー、ビトゥータとキャンプをつづける。オーストラリアの内陸部はカラカラに乾いているので、簡単に薪を燃やせる。キャンプファイヤーを囲んで、連夜の大宴会。「豪州軍団」は盛り上がる。見上げる夜空には満天の星。南十字星もよく見える。


泥土と洪水との大格闘‥‥

 ブリスベーンの西1600キロのバーズビルからは、難関のバーズビル・トラックに入っていく。異常気象でダートルートはズタズタになっているという。

 バーズビルからマリーまでの530キロがバーズビル・トラックで、歴史の古い道。探検家や新天地を求めて移民してきたイギリス人開拓者らが、キャメル・トレイン(ラクダに引かせた荷車)で通った道なのだ。シンプソン砂漠東側のルートで、ここまで来ると、カンガルーもいない。

 バーズビル・トラックはカラカラに乾ききった砂漠地帯の道で、ふだんの年ならばブルダストにさんざん悩まされることになる。ところが何年ぶりという大雨が降った。平原は水びたしになり、ルートは閉鎖された。それがぼくたちが行った2日前にオープンしたのだ。大雨はすでに峠を越し、空には一片の雲もない。抜けるような青空だ。

 バーズビルを出発してから200キロぐらいは快調に走れた。荒野を一面に染めて黄色い花が咲き乱れる砂漠の花園を楽しみ、赤い小石がびっしりと敷きつめられた一木一草もない砂漠ではルートを外れ、自由自在に石の原を走りまわった。それがキャンプ地のムランジェラニに近づくと路面はラフになり、何本もの轍ができている。大雨で車が苦戦した跡を物語るかのように、轍は深くえぐれている。

 ムランジェラニまで、あと100キロぐらいという地点まで来ると、ヌルヌルの泥土。ここでツルッと滑り、転倒‥‥。オーストラリアの初転倒だ。ねちっこい泥がからみつき、バイクを起こすのも容易ではない。

 ゆるやかに起伏しているところでは、低地は一面、水びたし。そこを一気に駆け抜けようとしてアクセル全開で突っ込むと、キャブが水を吸ったのか、エンジンが止まってしまう。泥土と洪水との果てしない大格闘がつづく。

 日没後にムランジェラニに到着。もう、グッタリだ。
 この先、川が氾濫し、通れないかもしれないという。そうなったらエアーズロックへの道は絶たれてしまう。
「まあ、なるようになれ、さ」
 と、「豪州軍団」の面々は、いつものように、焚き火を囲んで深夜までの大宴会をくり広げた。

 翌朝、祈るような気持ちでムランジェラニを出発。70キロ先の川が氾濫し、激流と化していた。まず、歩いて渡ってみる。大丈夫だ。
「行けるゾ!」
「豪州軍団」の面々は、激流の中に突っ込んでいった。川の中で転倒し、バイクごと流された者もいたが、女性陣は見事にクリアーし、3人で抱き合って喜んでいる。

 こうしてバーズビル・トラックを走り切り、マリーに到着した。サイモンがつくってくれたサンドイッチをぱくつき、デザートのスイカを食べたあと、しばしの眠りをむさぼった。

 昼寝で体力を回復させ、次に、これまた大きな難関のウーダナダッタ・トラックに入っていく。大陸中央部を縦断するスチュワートハイウェイのマルラまで、610キロのダートがつづく。

 このウーダナダッタ・トラックも幾多の探検家や開拓者たちの通った古い道。オーストラリア最大の湖、エアー湖の南側を通っていくのだが、いつもの年ならば大半が干上がってしまうというこの湖も、満々と水をたたえている。エアー湖の湖面は海面下20メートルというオーストラリアの最低地点だ。

 何本もの川を渡っていく。川渡りの連続で、バイクの電装部品がやられ、ひんぱんにエンジンストップに見舞われる。そのたびにヒーヒーハーハーいってスターターをキックしてエンジンをかけた。

 ウィリアムクリークのキャランバンパークで泊まり、ウーダナダッタの町を通り、ついにウーダナダッタ・トラックも走り切ってマルラに着いた。スチュワートハイウェイのアスファルトを見たときは、「助かった!」と、思わず声が出たほどだ。


エアーズロックのてっぺんに立つ!

 スチュワートハイウェイは、北のダーウィンと南のアデレードを結ぶ全長3300キロの大陸縦断路。1800キロものダートを走ったあとで、このスチュワートハイウェイのセンターラインの引かれた舗装路に出たときの喜びといったらない。マルラのキャラバンパークで泊まったが、大きな難関を突破したので、我ら「豪州軍団」、その夜はいつも以上に盛り上がった。オーストラリアの国民食のようなバーベキューを食べながら話がはずむ。心が踊る。

「今夜は、とことん、飲もう!」
 と、食事のあとは焚き火のまわりに場所を移し、カンビールをガンガン飲み干し、ウイスキーのボトルを2本、あけた。全員で力を合わて難関を乗り越えた喜びが、爆発したかのような夜だった。おかげで翌日は、二日酔い。割れるように痛む頭をかかえての出発となった。でも、それがまたいいのだ。

 マルラからスチュワートハイウェイを北へ。DR350で切り裂く乾ききった風は、肌に突き刺さってくるほどに冷たい。このあたりは南回帰線近くの亜熱帯とはいえ、季節は真冬なので、朝晩、けっこう冷え込む。それでも日が高くなると強い日差しがカーッと照りつける。いっぺんに気温が上がり、冬から夏へと季節が急速に変わる。砂漠気候は厳しい‥‥。

 マルラから北に250キロのエルダンダでスチュワートハイウェイを左折し、エアーズロックへの道に入っていく。前方にテーブル状の赤い岩山が見えてくる。一瞬、「あ、エアーズロックだ!」と体が震えたが、それは“にせエアーズロック”のコナー山だった。 エルダンダから西に250キロ走ると今度は正真正銘のエアーズロックが見えてきた。

 平原にそそりたつ世界最大の一枚岩には、ハッと胸を打たれる威厳があった。先住民のアボリジニが“ウルル”と呼ぶ聖なる岩山だ。

 西日を浴びて赤く染まったエアーズロックに向かって突っ走る。バイクに乗りながら、拳を空に向かって突き上げ、「やったゼー!」のガッツポーズ。東海岸のブリスベーンを出発してから7日目のことだ。

 エアーズロックを真正面に眺めるところで、15台のバイクを並べる。「豪州軍団」の面々の夢が現実のものになった瞬間だ。お互いにガッチリ握手をかわしたり、抱き合ったり、目にいっぱい涙を浮かべる人もいた。ここまでの道のりが厳しいものだっただけに、エアーズロックにたどり着いた喜びはひとしおだった。

「このまま、日が暮れるまで、エアーズロックを見つづけよう!」
 と、全員の意見が一致。エアーズロックが織りなす大自然のショーをみんな、食い入るように見つづける。これほどすばらしいショーがほかにあるだろうか‥‥。夕日が傾くにつれてエアーズロックは刻一刻とその色を変えていく。夕日が地平線に落ちる直前には、まるで炎を燃えたぎらせるように真っ赤に染まる。

 翌朝は、まだ暗いうちにキャンプ地を出発。今度は、地平線に昇る朝日を浴びたエアーズロックを見る。そのあとで、急勾配の岩肌に這いつくばるようにしてエアーズロックに登った。長年、憧れていただけに、頂上をきわめたときの感動といったらない。360度の大展望。大陸中央部の大平原は際限なく広がっている。はるかかなたにはオルガ山が見える。標高867メートルのエアーズロックの山頂で、我ら「豪州軍団」はシャンペンをあけ、「乾杯! 乾杯!」と、乾杯を繰り返した。


「豪州軍団」の面々よ

 11日間の寝食をともにした「豪州軍団」の面々は、メンバー全員で力を合わせて洪水の平原を突破し、エアーズロックに到達した。さらに9夜連続のキャンプでは、夜中まで焚き火を囲んでおおいに飲み、語り合った。そのため、いやがうえにもメンバーの結束は強まり、強固な連帯感を持つようになった。それだけに、バイクツアーが終わってしまったときのみなさんとの別れには辛いものがあった。

 帰国後、「豪州軍団」のみなさんからは、何通ものお手紙をもらった。それらを通して「目指せ、エアーズロック!」のバイクツアーがどんなものだったのかを紹介しよう。

「不安なこと、辛いこともたくさんありましたが、賀曽利さんの笑顔と励ましに助けられました。足が痛かったとき、一番心配してくれましたよね。手を貸してくれたときの賀曽利さんのあたたかさが忘れられません。最大の収穫はみなさんと出会えたこと。みなさんそれぞれに魅力的で、素晴らしい人ばかりでした。オーストラリアから帰って1ヵ月が過ぎようとしていますが、アルバムを毎日のように引っぱりだしてはながめています…」(熊本・錦戸陽子)

「マッドやサンド、また、ブッシュでのキャンプを何とか乗り切れたのも、賀曽利さんの明るさと今までの経験のおかげだと思っています。これからも事故や怪我などしないで、日本の峠や林道、温泉をかけめぐって下さい」(栃木・小倉則夫)

「日本に帰ってきてから、親に見違えるようになった‥‥とはいわれずに、前と変わっていないとか、よけいに悪くなったといわれている僕ですが‥‥。あー、もう一度、エアーズロックに行きたい!」(福岡・北川清二)

「大陸の中央部では、3年ぶりという大雨が降って、エアーズロックまで行けないのではないかと心配しましたが、無事に平原にそびえるエアーズロックにたどり着くことができて感無量でした。というのも、それまでの道のりが困難の連続だったからです。ブルダストで倒れた仲間を助けたり、みんなでバイクを押して河を渡ったり‥‥と、ほんとうにみんなの心がひとつになっていましたよね。今度はぜひともオーストラリア大陸を一周したいと思います」(北海道・福井勝)

「オーストラリアツーリングの毎日はすごく楽しくて、朝早くから目が覚めてしまいました。私がきっと一番、と思ってキャンプ地を歩いていると、いつも私より早起きの人がいるではありませんか! それが賀曽利さんでした。朝一番に賀曽利さんの笑顔に出会うと、その日は一日中、元気でいられるような気がしました。私がドロで転んでシュンとしているときも、賀曽利さんの一言で元気づけられ、最後まで走ることができました。それにしても、あのエアーズロックの夕焼けといったら‥‥。きっと、一生忘れることができないと思います。今でも目を閉じると、夕日を浴びて刻々と色の変わっていくエアーズロックの雄大で威厳に満ちた姿がまぶたによみがえってきます」(栃木・増山陽子)

 増山さんの愛称は“まっちゃん”。この手紙にある転倒は中途半端なものではなく、高速でマッド状の轍に突っ込み、そのまま吹っ飛ばされたというもの。目撃したメンバーの話によると地面にたたきつけられ、3、4度、転がったという。それをまったくの無傷で切り抜けられたのは、体がやわらかくて、なおかつ、とっさの受け身をとることができたからだろう。そんな“まっちゃん”も結婚して今では渡辺姓になっている。

 錦戸陽子さん、増山陽子さんのほかにもう1人、上原和子さんの“美女3人組”が、我ら「豪州軍団」の女性陣。最初はこのきついコースをほんとうに走りきれるのだろうか‥‥と心配もしたが、それはまったくの杞憂にしかすぎなかった。長距離走行にも、高速走行にも、ダート走行にも、彼女らはあっというまに慣れていった。

 上原和子さんにつけられたニックネームは“P和子”。上原さんは225㏄のセローで350㏄のDRを激しく追い上げ、まるでパトリオットミサイルのような迫力で走るので“P和子”になった。そんな上原さんも結婚して今では五十嵐姓になっている。

「大変ご心配をおかけしました。帰国後、早速、病院で診察を受けましたが、頭部に異常は認められないとのことで、一安心といったところです。胸部は肋骨が見事に折れていて、ほかにも数箇所にヒビが入っているとのこと。首の捻挫と合わせ、1ヵ月の加療が必要だといわれました。ですが今回、ケガしたことによって、人の優しさにふれることができました。ツアーのメンバーたち、ツアーのスッタフたち、旅の間に出会った人たちと、すべての人たちに感謝の気持ちでいっぱいです」(大阪・目木正)

 愛称タークの目木さんは、先にもふれたように、ブルダストにハンドルをとられて吹っ飛ばされ、頭と胸を強打した。だが、そのあと、胸をガムテープでグルグル巻きにしてバイクに乗ったツワモノ。タークにとってラッキーだったのは、上原和子さんと錦戸陽子さんが看護婦さんだったこと。タークは2人の手厚い看護を受けたのだ。

「オーストラリアの砂漠から帰ってきての、関東の長雨にはまいりましたヨ。ところで大阪のタークは頭に異常がないとのことで、まずは良かったですネ。私の方は、骨の1本でも折ってくるのではないか‥‥という周囲の期待!?を見事に裏切り、“お水”(メンバーの小船智弘さんの愛称)のいうところの“無駄な元気”を発揮し、存分に遊びまわってきました。ホントに楽しいオーストラリアツーリングでした。豪州軍団の再会を心待ちにしています」(東京・武田健一)

 愛称“武田のお父さん”の武田さんは「豪州軍団」の最年長だったが、一番の元気者。そのパワーには全員が脱帽で、“お水”に“無駄な元気”といわれたほど。そんな武田さんはこの手紙にもあるように、「目指せ、エアーズロック!」のオーストラリアツーリングを心から楽しんでいた。

 このように一枚岩の連帯感を発揮したすばらしい仲間の「豪州軍団」だったが、強烈な個性を発揮してくれた“パフォーマンサー坂間”こと坂間克己さんが幹事役となって帰国後、すぐに再会の話がまとまった。バイクツアーの翌々月の9月には、“日本のエアーズロック”といわれている和歌山県古座川の一枚岩の下に、北は北海道から南は九州から、「豪州軍団」のメンバーほぼ全員が集まり、キャンプした。みんなでおおいに盛り上がったことはいうまでもない。

「豪州軍団」のキャンプはその後も毎年、場所をかえて日本各地でおこなわれている。軍団結成5周年の1998年には静岡県の秋葉山下で2夜連続のキャンプがおこなわれた。

 今年(2000年)のキャンプは静岡県浜北市の森林公園だった。“ノリダー”こと小倉則夫さんは奥さんの美也子さんと健一郎クン、美紀チャンの家族連れで来た。奥さんは3人目をみごもっていた。“パフォーマンサー坂間”こと坂間克己さんも奥さんの裕子さんと遼太クンの家族連れで来たが、坂間夫人も2人目をみごもっていた。“ターク”こと目木正さんは、2人の子供が熱を出してしまったということで、奥さんと子供たちを家におき、そのかわりにお父さん、お母さんを連れてきた。

「目指せ、エアーズロック!」ツーリングのときには、小倉さんにしても坂間さん、目木さんにしても独身だった。それが結婚し、子供を持つような父親に変わっていく姿を見ると、時のたつ速さに驚かされてしまうのだ。

 それにしても、この少子化の時代に、多産系の我が「豪州軍団」の面々はすごい。ぼくは子供を3人持っていることもあって、「目指せ、エアーズロック!」のツーリングの最中、ことあるごとに「子供は3人がいいゾ!」といいつづけた効果があったかな、などと思っている。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

300日3000湯めぐり・データ(18)

「伊豆諸島編」(2007年10月28日~10月31日)

(東京)
3051、平成の湯温泉「くるみや旅館」(600円)
3052、御神火温泉「御神火温泉」(1000円)
3053、椿園温泉「ホテル椿園」(500円)
3054、和泉温泉「いち・まる・いち」(300円)
3055、為朝の湯温泉「ホテル赤門」(500円)
3056、三原山温泉「大島温泉ホテル」(800円)
3057、浜の湯温泉「浜の湯」(400円)
     末吉温泉(休業中)
     南国温泉(廃業湯)
3059、洞輪沢温泉「洞輪沢温泉」(無料)
     汐間温泉(入れず)
3059、裏見ヶ滝温泉「裏見ヶ滝温泉」(無料)
3060、中之郷温泉「やすらぎの湯」(300円)
3061、ザ・BOON「ブルーポート ザ・BOON」(700円)
     湯浜温泉(廃業湯) 
3062、樫立向里温泉「ふれあいの湯」(300円)
     「民宿そこど荘」(素泊まり5250円)
3063、蒲田温泉「蒲田温泉」(430円)


◇◇◇
管理人コメント:
管理人による「覚えてろ!」の名言はこのあたりで発生(これが分かる人はカソリマニア=笑)
3063湯達成時のステキな写真もあるんだよな。
公開しづらい絵なんだが、あれどうしよっかな…(ニヤニヤ)

テーマ : 温泉
ジャンル : 旅行

「伝説の賀曽利隆オンライン」(27)

(2001年12月10日)

「島編・日本一周」ですが、今日、「九州編」に旅立ちます。
「四国編」のときと同じように、東京港フェリー埠頭から東九オーシャンフェリーに乗り、北九州の新門司港へ。そこを出発点にして九州を反時計回りで一周しながら九州の島々を巡ろうと思っています。

 九州は瀬戸内海に負けず劣らずで、たくさんの島があります。とくに長崎県などは、断トツで、日本で一番、島の多い県になっています。瀬戸内海でも頭を痛めたのと同じように、今回の九州でも、どのように島々をめぐろうか‥すごく頭を痛めています。でも、それがバイクでの島めぐりの楽しさでもあるのですね。

 東京港を出ると、北九州まではたっぷりと時間があります。その間に、『ツーリングマップル』(九州編)を見ながら考えようと思っています。

 しかし、今回の1回だけではとても九州全域をまわれそうもないので、鹿児島県に属する島々は来月、新年早々にまわろうと思っています。

 九州の島々の中でも、とくに対馬には期待しています。日本の国境の島。その最北端の地から、なんとしても韓国を見てみたい、釜山を見てみたいと思っています。

 昨年の「韓国一周」では、残念ながら釜山からは対馬を見ることはできませんでした。今回は逆に、対馬から釜山を見るのです。

「北海道編」のときには、礼文島最北端のスコトン岬からサハリンのモネロン島を見ることができました。日本の地から異国の地を見る、それは猛烈に旅心を刺激されるもので、島にいながらにして、
「(海の向こうの世界に)飛んでいきたい!」
 と思わせるものでした。

 さー、島めぐりの「九州編」、みなさん、行ってきます!

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

「伝説の賀曽利隆オンライン」(26)

(2001年11月12日)

 今日、これから「島編・日本一周」の「四国編」に出発します。
 19時10分、東京港フェリー埠頭を出港する「オーシャン東九フェリー」で、四国の徳島に50ccバイクのスズキSMX50ともども渡ります。徳島港到着は明朝の9時30分。今、時間はちょうど9時30分なので、明日の今ごろは徳島港だと思うと、胸がわくわくしてきます。

 徳島を出発点にして反時計回りで四国を一周しながら四国の島々をめぐっていきます。香川、愛媛の両県の島めぐりが大きな難関で、「本州西部編」でまわった兵庫、岡山、広島、山口の瀬戸内と同じで、数多くの島があるからです。また、地図とにらめっこで、この島には渡ろう、この島は落とそうと考えながら島めぐりをしていきます。

 瀬戸内海北側の本州側4県に属している島々から見た四国2県に属する島々を今度は実際にまわるのです。走りながら四国側の島々からは、本州側の島々を眺めます。それが大きな楽しみ。「島めぐり」のおもしろさは、実際に島を走るおもしろさもありますが、この「アイランドウオッチイング」もそれに負けず劣らずおもしろいものなのです。たえず地図を見ながら、「あれは何々島だ、あれは何々島だな」と「アイランドウオッチング」できるのも、島の数の多い瀬戸内海ならではのものです。

 ところでなんとか「四国編」の出発にこぎつけましたが、いつものことですが、ここまでが大変‥。いくつもかかえた原稿を全部、終わらせていかなくてはならないからです。最後の原稿を書きおえたのはついさきほど‥。いつもこのような綱渡りをしています(それがまた緊張感があっておもしろい?)。

 昼過ぎには家を出て都内へ。3つの出版社の編集部に寄って担当の編集の方々にそれぞれの原稿を渡していきます。まるで郵便配達?

 夕方の5時には日本橋に立ち、そのあと東京港フェリー埠頭に向かいます。
 全部、終わらせたといいましたが、じつは家を出る前のもう1本、メールで送る原稿を書きおえなくてはなりません。制限時間はあと2時間。我が家を出る直前までぼくの綱渡りはつづくのです。(うまくフェリーに乗れるといいなあ‥)

「島編・日本一周」の「四国編」を終えて徳島港から東京港フェリー埠頭に戻るのは24日の早朝。そこからすぐに山梨県道志村の「たき火ふぉ~ラム」の会場に向かいます。
 みなさ~ん、「たき火ふぉ~らむ」でお会いしましょう!


(2001年11月27日)
「島編・日本一周」の「四国編」を無事に終えることができました。徳島を出発点にし、そして終着点にした「四国一周」ですが、全部で1874キロを走り、その間では24島の島々をめぐりました。前回の「本州西部編」と今回の「四国編」で瀬戸内海の島々をまわり終えたことになります。

 日本の多島海の瀬戸内海にはいくつもの島々がありますが、それをどうやってまわるかが「島編・日本一周」の大きな難問でした。毎日、『ツーリングマップル』(中国・四国編)とにらめっこで、あとは船の時間との兼ね合いで、「この島には渡ろう、この島は落とそう」とその場、その場で決めてまわりました。

 あまりにも島の数の多い瀬戸内海ですので、とても全部の島には行けませんでしたが、おそらくほぼ全部の島は見ることができました。これでぼくの頭の中には、詳細な瀬戸内海マップができあがりました。島めぐりの旅は、今回の「島編・日本一周」が皮切りだと自分ではそうとらえています。今回まわれなかった島々は、これから先、また別の機会のときにまわろうと思っています。

 来月は「九州一周」です。

「四国一周」を終え、東九オーシャンフェリーで東京港のフェリー埠頭に戻ってきたのは24日の午前5時でした。いったん、夜明け前の東京・日本橋に立ち、そこから神奈川県伊勢原市のわが家に戻りました。速攻で諸々のすること全部をすませたあとで、バイクをSMX50からDJEBEL250GPSに乗り換え、第3回「焚き火ふぉ~らむ」の会場の山梨県道志村の「道志の森キャンプ場」に向かったのです。出発早々、フロントタイヤがパンクしてしまい、会場への到着が大幅に遅れてスタッフのみなさんや参加者のみなさん方に迷惑をかけてしまいました。

 それにしても今回の「焚き火ふぉ~らむ」には大勢の方々が来て下さいました。男性、女性、年配の方、若いみなさん方と、幅の広さが目立ちました。きれいな娘さんとお孫さんと一緒に親子三代で参加して下さった方、小学校1年生のさつきちゃんを連れてこられた八木さん‥。1999年の「日本一周」のとき九州・天草の下田温泉で会った加藤さんともうれしい再会をしました。もんはまさんは恒例となった本場の讃岐うどんを、ヤキソバン鈴木さんはラム肉シャブシャブをみんさんにふるまってくれました。ごちそうさま! みなさ~ん、来年の「焚き火ふぉ~らむ」で、またお会いしましょう!

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

『世界を駆けるゾ! 40代編・上巻

第1章 サハラ往復縦断

40歳を目前にして急速の衰えた体力と気力

「世界を駆けるゾ!」を合言葉に、20歳のときに旅立った「アフリカ一周」以来、バイクで世界の6大陸をまわりつづけてきたぼくだったが、30代の後半になったころから急速の体力の衰えと気力の衰えを感じるようになった。
 それを象徴するかのような出来事があった。
『世界を駆けるゾ! 30代編』で詳しく書いた「南米一周」を終えた翌年の1986年1月のことで、ぼくはそのとき38歳だった。
『世界を駆けるゾ! 20代編』でふれた日本観光文化研究所(観文研)の先輩、山崎禅雄さん、三輪主彦さんと一緒に東北をまわろうと、ひと晩、福島県郡山市の駅近くの安ホテルに泊まった。ベッドには毛布しかなく、安宿だから仕方ないかと我慢し、寒さに震えながら寝た。山崎さん、三輪さんは賢い人たちなので夜中に着込み、それほどの寒さを感じることもなく夜明けを迎えたという。ところがぼくは着込むこともなく、寒さに震えながら夜明けを迎えた。そのせいで、朝起きるとのどは痛いし、せきはでるしで、すっかり風邪をひいてしまった。部屋をよく見ると、なんとエアコンがあるではないか‥‥。それに気がつかずに寝てしまったのだ。
 そのときは郡山でレンタカーを借り、ぼくが運転し、山崎さん、三輪さんの話を聞きながら旅をつづけた。何日かの東北の旅の間中、ぼくは「ゴホン、ゴホン」とやっていた。 その風邪がなかなか治らなかった。
 東北から帰ると、風邪が治らないまま、岡山の吉備高原、四国の金比羅、信州の秋山郷、四国の佐田岬、吉野川流域、紀伊半島と日本国内をバイクや列車でまわった。春になっても風邪は治らない。妻には「あなたって、いつも、風邪ひいているのね」と、バカにされる始末だ。その風邪をすっかりこじらせてしまい、とうとう熱が出た。体力だけには自信のあったぼくだが、我慢できずに、神奈川県伊勢原市の我が家に近い「坂間医院」に行った。病気で医者に行くなんて、その前がいつのことだったのか、思いつかないほどに久しいことだった。その風邪は結局、夏までつづき、自分の体の持つ復元力が衰えてしまったことを思い知らされた。
 ぼくは自分の体力にすっかり自信をなくし、9月1日の39歳の誕生日を迎えた。
 30代もいよいよ最後。目前に迫った40代に恐怖感すらおぼえるほどで、体力の衰えを感じるのと同時に、気力の衰えも感じてしまう。
「おい、どうした、カソリ!」
 と、自分で自分を叱咤激励したくなるほど。すっかり牙を抜かれ、やたらと丸みを帯び、ジジくさくなった自分に愕然とする。体中をドクドクと音をたてて流れていたはずの野性の血など、もう自分の体内には一滴も流れていないかのようだった。
 人間というのは体力が衰えると、気力が衰え、それがさらに体力の衰えを招くいった悪循環をくりかえすもの。その連鎖をどこかで断ち切らなくてはいけないとわかりつつも、「これから先、ほんとうにやっていけるのだろうか」
 と、目前に迫った40の厚い壁にうちのめされ、暗い気分になるのだった。
『世界を駆けるゾ! 30代編』でもふれたように、ぼくには3人の子供がいる。当時は3人とも小学生。まだ幼い3人の子供をかかえ、なおかつ自分の健康に自信が持てなくなるというのは、なんとも辛いことだった。
 ぼくの収入を得る仕事というのは、雑誌などに原稿を書くことで、いわゆるフリーのライターなのだが、これほど収入の不安定な仕事はない。自分の都合優先で、好きなことを自由気儘にできる反面、何ら保障がないので病気で寝込めば一銭の収入もなくなってしまう。そんななかで子供3人を育てていくのは、正直、重荷だった‥‥。自分の「世界を駆けるゾ!」という夢も、いつしかしぼみがちになってしまう。


40歳のサハラ挑戦!

 ぼくは「このままではいけない!」と思った。何度も自分で自分にそういい聞かせた。「ここで踏ん張らなくては‥‥」
 40の厚い壁に力でもってぶつかり、その壁をブチ破らないことには、もう自分の40代の“旅人生”はないに違いないと、“カソリの本能的直感”でわかっていた。
 そのターゲットをアフリカのサハラ砂漠に置いた。ぼくがそれまでの20年あまり、世界を駆けめぐってきたなかで、一番といっていいくらいに心をひきつけられたフィールドがサハラ砂漠なのだ。
「自分の持っている力のすべてを発揮し、厳しい環境の中に自分の身を浸し、サハラ砂漠に挑戦することによって40の壁を突破しよう!」
 そうすることによって40代も、20代や30代のころと同じように、「自由自在に世界を駆けめぐりたい!」と願ったのだ。20歳のときに「アフリカ一周」に旅立ち、22歳になって日本に帰ってきたときに決心した、「自分はこれからはトコトン世界を駆けるゾ!」と、自分で自分に誓ったあのときの情熱を思い起こしたのだった。
“行動こそ命!”のカソリ、さっそく計画づくりにとりかかる。毎日、アフリカの地図を目の前にし、あれこれ考えていると、衰えた気力も徐々に回復してくるようで、それにともなって体力も回復し、悪循環の連鎖が今度はいい方の循環に変わっていった。
 さて、サハラ計画だがフランスのパリを出発点にし、サハラ砂漠を往復で縦断し、最後はまたパリに戻ってくるという「サハラ往復縦断計画」をつくり上げた。5月あまりをかけてバイクでサハラ砂漠を縦横無尽に駆けめぐる計画だ。
 計画には1年以上の時間を費やし、40歳の誕生日が過ぎてまもない1987年11月18日、母と妻、小学校5年生の長女の優子、小学校3年生の次女の雅子、小学校2年生の尚の見送りを受け、成田空港からパリへと飛び立った。
 とはいっても、このあたりが家族持ちの辛さ、難しさになるのだが、「サハラ往復縦断」の計画達成の資金のみならず、自分が日本を留守にしている間の生活費も合わせてつくらなくてはならないのだ。そのような高いハードルを乗り越えての出発なだけに、妻や子供たちと別れる辛さ以上に、「これでサハラに向かって旅立てる!」といった喜びというか、ホッとした安堵の気持ちのようなもののほうが大きかった。


ジブラルタル海峡を渡る

 パリに到着すると、あらかじめ現地に送っておいた200㏄のオフロードバイク、スズキSX200Rを引き取り、意気揚々とした気分でまたがり、リアにバッグをくくりつけ、ザックを背負うという格好でパリを出発。1982年の「パリ・ダカ」のときと同じよいうに、シャンゼリゼ通りを走り抜け、凱旋門から環状線に入り、南下した
 フランスからスペインに入ると、首都マドリッドを通り、スペイン南端のアルヘシラスへ。フェリーでジブラルタル海峡を渡った。3時間ほどの航海で、モロッコのタンジールに到着。アフリカ大陸に愛車ともども立った!
 SXを走らせ、タンジールの町に入っていく。狭い路地が迷路のように入り組むメディナ(旧市街)のホテルに泊まる。
「アラーフ・アクバル(アラーは偉大なり)」
 すぐ近くのモスク(イスラム教寺院)のスピーカーからは、礼拝の声が聞こえてくる。 バイクをガレージであずかってもらい、荷物をホテルの部屋に入れると、さっそくメディナ内を歩きまわる。心が踊る。サハラの、アフリカの旅の第一歩だ。
 人波をかきわけ、かきわけしながら歩く。市場に行く。野菜や果物、肉、魚と食料品が山と積まれている。ウシやヤギ、ヒツジの頭が、羽をむしりとられたニワトリが、店先にぶらさがっている。いかにも地中海世界らしいオリーブの漬物がある。何種類もの香辛料、ミント(ハッカ)の青々した葉‥‥などの、むせかえるようなにおい、そして人いきれに圧倒されてしまう。
 食堂に入り、クスクスを食べた。クスクスは荒挽きした麦を蒸し、その上に羊肉や野菜の入った煮汁をかけたもの。ポピュラーなマグレブ料理だ。マグレブとは、アラビア語で“西”の意味。ふつうマグレブといえば、チュニジア、アルジェリア、モロッコの3国を指す。
 夜はタバコの煙とミントティーの香りが充満するカフェに入った。ミントティーとは緑茶にミントの青い葉を浮かべた甘ったるいお茶。中国製の緑茶が使われている。スペインからジブラルタル海峡を渡り、イスラム教圏のモロッコに入ったとたんにビールやワイン、ウイスキーといったアルコール類は姿を消した。カフェの一角では、マグレブの先住民族といわれる山地民のベルベル族の人たちが、楽器を奏でながら歌っている。哀愁を帯びた旋律が胸にしみた。


アトラス山脈を越えて

 モロッコからアルジェリアに入り、第2の都市オランを通り、首都アルジェへ。そこから南下し、サハラ砂漠に向かっていく。アルジェから50キロ南のブリダの町を過ぎると、アトラス山脈の山中に入っていく。マロニエの並木道。出発点のパリではすっかり落ち葉になっていたが、ここではまだ、黄色くなった葉をつけている。それだけ気候が違うのだ。
 V字谷の渓谷に沿って、急勾配の峠道を登っていく。あえぎあえぎ登る大型トラックを3台、4台とまとめて抜いていく。やがて標高1240メートルの峠に達した。アルジェリアのアトラス山脈は、地中海側のアトラス・テリアンと、サハラ砂漠側のアトラス・サハリアンの2本の山脈に分かれているが、今、そのうちのアトラス・テリアンの峠に立ったのだ。峠にバイクを停め、小休止。幾重にも重なりあった山並みを目に焼きつけ、峠を下っていった。
 2本の山脈の間はオートプラトーと呼ばれる比較的、平坦な高原地帯。そこを貫く舗装路を南下するにつれ、みるみるうちに緑は薄れ、ヤギやヒツジをひきつれた牧畜民の姿を見かけるようになる。やがて“ラクダに注意”とか“砂に注意”の標識があらわれてくる。
 前方に今度はアトラス・サハリアンのゆるやかな山並みが見えてきた。アトラス山脈の南側の山並みだ。空模様が急変し、空にはべったりと黒雲がはりついている。それは当然、北の地中海側から流れてくる雨雲だと、ぼくは信じて疑わなかった。ところが標高1271メートルのアトラス・サハリアンの峠を越えたとたんに雨が降りだす。なんと雨雲は北の地中海側からではなく、南のサハラ砂漠側からものすごい勢いで押し寄せてきていた。
 たたきつけるような雨になる。雨滴のヘルメットを打つ音がすごい。黒雲で覆いつくされた大空を稲妻が駆けめぐる。おまけに嵐のような強風だ。雨と風にもみくちゃにされながら走る。下りカーブでは強風にあおられ、まったくハンドルを切れず、峠道を登ってくるトラックとあやうく正面衝突するところだった。
 雨具を着る間もない豪雨に、ずぶ濡れになって走る。アトラス・サハリアンを越えるとサハラ砂漠になるが、サハラは一面、水びたしだった。ふだんは一滴の水も流れていないワジ(涸川)が急変し、赤茶けた濁流がゴーゴー渦を巻いている。信じられない光景を見た。まさに“サハラの洪水”だ。
 アルジェから420キロ南のアトラス・サハリアンの麓の町、ラグアットに着くと、町中が水びたしだった。「マルハバ」というホテルに泊まる。さっそく着ているもの全部を脱ぎ、部屋いっぱいにずぶ濡れになったウエアや荷物を広げて干した。なんとも手荒いサハラの歓迎だ。


サハラの大砂丘群

 翌朝はまるで何もなかったかのような晴天。空には一片の雲もない。ラグアットからさらに南へ、点々とあるサハラのオアシスに立ち寄っていく。“サハラ”はアラビア語の荒れはてた土地を意味する“サーラ”からきているが、行く手にはまさにその言葉どおりに風景が広がっている。風が強くなる。砂がアスファルトの上を流れていく。小石が「パシッ、パシッ」と不気味な音をたててヘルメットに当たる。
 アルジェから700キロ南のガルダイアに近づくと、突然、パックリと口をあけた大きな窪地が現れ、その中に吸い込まれるように下っていく。下りきったところがガルダイア。すり鉢の底のようなオアシスには、青々としたナツメヤシが茂っている。7つの丘には、モスクを中心に、びっしりと家々が建ち並んでいる。
 丘の上のホテルに宿をとると、さっそくジーンズとスニーカーという格好で町を歩く。町の中央にある青空市場には、色とりどりのカーペットが広げられている。市場で目についたのは、“サハラのバラ”だ。それはバラの花そっくりの石で、サハラの砂の中で石膏や方解石が結晶したものだという。なぜ、どうしてといいたくなるほどにバラの花に似ている。自然のなせる技には驚かされてしまう。
 ガルダイアにひと晩、泊まり、次のオアシスの町、エルゴレアに向かう。100キロほど南に走ると、金色に輝く砂丘群が見えてくる。サハラ砂漠でも最大級の砂丘群のグラン・エルグ・オクシデンタル(西方大砂丘群)の東端に来たのだ。
 サハラは世界最大の砂漠。東はエジプト、スーダンの紅海沿岸から西はモーリタニア、西サハラの大西洋岸まで、東西5000キロもの広さで広がっている。さらにサハラは紅海対岸のアラビア半島からイラン、アフガニスタン、パキスタン、中国西部のタクラマカン砂漠、モンゴルのゴビ砂漠と広大なアジアの砂漠地帯につながっている。
 日本語で“砂漠”というと、この西方大砂丘群のような砂丘を連想する。しかし実際には、砂丘の連なる砂の砂漠はそれほど広い面積を占めているわけではない。サハラでいうと、全体の10分の1ぐらいでしかない。それよりも草が地を這うようにはえ、背の低い木々が見られるような土の砂漠、一面に礫がばらまかれたような石、もしくは岩の砂漠の方がはるかに一般的だ。
 西方大砂丘群に入ると、風が強くなった。ザーザー音をたてて砂が流れていく。やがて砂嵐の様相になった。視界が悪くなる。砂のカーテンの向こうから、ライトをつけたトラックが急に現れたりすると、冷やっとする。
 それと、怖いのは砂溜まりである。アスファルトの上に10メートルから20メートル、大きいのになると40メートルから50メートル近くにわたって砂が溜まっている。砂といっても、すこしもやわらかくはない。高速で突っ込むと、まるで岩か何か、固いものにぶつかったような衝撃を受ける。車が砂溜まりに乗り上げ、横転するといった事故は、サハラでは珍しいものではない。
 アルジェから1000キロ南のエルゴレアでひと晩、泊まり、さらに南へ。前日とはうってかわって、ほぼ、無風状態。絶好のサハラ日和だ。サハラ縦断路の両側に砂丘群が見えてくる。朝日を浴びた砂丘は、この世のものとは思えないほどの美しさ。まるで磁石に吸い寄せられるかのように、舗装路を外れ、砂丘の下までバイクを走らせた。
 高さ200メートルほどの大砂丘に登ってみる。砂丘の斜面の幾何学模様の風紋に、自分のブーツの跡をひとつづつ残していく。砂丘の頂上付近は這いつくばるほどの急傾斜。ザラザラ砂を崩しながら、ついに頂上に立った。
 大砂丘の頂上周辺は、雪山の稜線を思わせる。カミソリの刃のようなリッジになっている。はるか下の方にSX200Rが見える。西方大砂丘群はうねうねと際限なくつづいている。その中にサハラ縦断路のアスファルトがひと筋の線になって延びている。とてつもなく大きな風景だ。あたりはシーンと静まりかえって音ひとつない。そんなサハラの空気を切り裂くように、
「サハラだー!」
 と、大声で叫んでやった。


サハラ縦断の最大の難関

 エルゴレアからティミムーン、アドラルと通り、アルジェから1500キロ南の最奥のオアシス、レガンに着いたとき、ぼくは極度に緊張していた。地中海岸からずっとつづいた舗装路がここで途切れるからだ。南のマリ国境に近いボルジュモクタールまでは650キロあるが、その間は“デザート・オブ・デザート(砂漠の中の砂漠)”といわれるほどのタネズロフ砂漠で、オアシスはもちろんのこと、一木一草もはえていない。まさにえんえんと死の世界がつづくのである。
 町の入口にある国営の石油会社のガソリンスタンドの片すみで、SX200Rの整備をさせてもらう。オイルを交換し、オイルフィルターも交換する。エアークリーナーのエレメントをきれいにし、スパークプラグも新しいものに交換する。最後に特製の35リッターのビッグタンクを満タンにした。
 この超ビッグタンクを満タンにしても、ぼくの不安は消え去らなかった。
「ほんとうに大丈夫だろうか‥‥」
 ヨーロッパでテストランした限りでは、十分に満足な結果が得られた。タンク内の35リッターのガソリンをすべて使いきることができたし、SX200Rは満タンのガソリンで1000キロをはるかに超える1250キロを走った。燃費はリッター当たり36キロと申し分なかった。
 しかし、これから先のタネズロフ砂漠では、燃費がどの程度、落ちるのものなのか、まったく予測できなかった。リッター当たり25キロ前後走れるのではないか‥‥というのがぼくの希望的予測だ。
 バイクの整備が終わると、次は食料の調達だ。店をまわりフランスパン4本、チーズ1箱、タマネギ1個、ニンジン1本、それとデーツ(ナツメヤシの実)を0・5キロ買う。これらが全食料だ。さらに水筒に2リッター、ポリタンに2リッターと、計4リッターの水を持った。この食料と水で、なんとしてもボルジュモクタールにたどり着かなくてはならない。このように、軽いバイクで、ギリギリまでおとした軽い装備で砂道を走りきるというのがぼくのサハラ縦断の作戦なのである。
 最後は警察での手続き。まず“プロテクション・シビル”でボルジュモクタールまでのサハラ縦断用の書類を書き込む。それにスタンプをもらい、“ポリス”に行く。
 ポリスではガソリンは何リッター持ったのか、食料は、水は‥‥と、聞かれる。ガソリンタンクの35リッターと1リイターの予備ガソリン、計36リッターのガソリンはパスしたが、水の4リッターはひっかかってしまった。
「4リッターは少なすぎる。書類には10リッターと書いておくから、いいね、そのつもりで」
 ということで、4リッターの水を暗黙のうちに了解してもらった。


やった! ボルジュモクタールだ!!

 1987年12月13日、午前7時、アルジェリア最奥のオアシス、レガンを出発。まさに決死の覚悟だ。
「生きてボルジュモクタールにたどり着けるのだろうか‥‥」
 といった黒雲のような不安が頭をかすめていく。
 レガンの警察の壁に貼られていたポスターが目に浮かんでくる。それはこのルートでのサハラ縦断中に行方不明になったフランス人グループの捜索用ポスター。警官は「毎年、何十人という旅行者がサハラで遭難し、命を落としているよ」といっていた。サハラで遭難すると、たいていの場合は遺体すら発見されないので、正確な遭難者の数はつかめないようだ。
 レガンの町を一歩出ると、前方には地平線のはてまでも、砂の海が広がっている。見渡す限りの砂。砂、砂‥‥。そんな砂の海のはるかかなたへと、頼りなさそうな轍が延びている。それがサハラ縦断路なのだ。
 ルートを見失わないように慎重に砂の中につづくピスト(轍道)をフォローしていく。 満タンにした35リッター・タンクがずっしりとした重さでハンドルに伝わってくる。バックミラーに映るレガンの町並みはあっというまに遠くなり、やがて見えなくなった。
 レガンを出てから100キロほどは砂が深かった。だが砂にスタックすることもなく、最悪の場合でも、ギアをローまで落とし、両足で砂を蹴りながら走り、ディープサンドを乗りきった。
 砂の深い区間は、それほど長くはつづかない。5、60メートルから100メートルくらいで、長くても500メートルといったところ。そのような砂の深い区間の手前では、ルートをよくみきわめ、バイクのアクセルを全開にし、高速のギアで突っ込んでいく。砂の上を高速でなめていくような走り方で、一気にディープサンドの区間をクリアーした。 日が高くなってからのサハラの暑さは強烈だ。地表のもの、すべてを焼きつくすような時間帯(午後1時から2時ぐらい)には、バイクを停める。バイクのつくりだすわずかな日陰に頭だけ突っ込んで横になる。極端に乾いたサハラでは、こうして頭だけでも直射日光を避けると、ずいぶん楽だ。その間に、2、30分ほど昼寝する。目覚めたときには、また新たな力がぼくの体内に蘇っている。
 タネズロフ・ルートでのサハラ縦断路には、ほぼ10キロおきに、ボルジュモクタールまでのキロ数を示す道標が立っている。ソーラーバッテリー(太陽電池)を組み込んだポールも立っている。このソーラーバッテリーのポールはサハラの灯台で、昼間は地平線上の絶好の目印になるし、夜間はホタルの灯のようにピカピカ点滅する。
 しかし、このメインルートが走りにくい。路面が掘れて砂が深かったり、地面の固いところだと、規則正しく波打つコルゲーションになっている。そのためすこしでも走りやすいところをと探していくと、次第にメインルートから離れてしまう。このあたりのサハラ縦断路は我々が連想する道とはまったくかけ離れたもの。どこでも走れるので、道幅が何メートルとか何十メートルといったものではなく、何百メートルとか何キロという世界なのだ。
 タネズロフ砂漠は、まっ平だ。行けども行けども、前方には地平線が広がっている。横を向いても、後を振り返っても地平線なのである。たえず360度の地平線に囲まれ、その中心に、いつも自分がいる。どこでも自由自在に走れるので、気がつくと道標がとんでもない方角に見え、あわてて進路を変えてメインルートに戻ることが何度かあった。
 夕日が西の地平線に近づいたころ、バイクを停める。そのわきにシートを広げると、一夜のサハラの宿ができあがる。そこにシュラフを敷く。ブーツを脱ぎ、シュラフの上に座る。地平線上に落ちていく夕日を眺めながらの夕食だ。パンにチーズをはさんでかじり、生のタマネギとニンジンをサラダがわりにする。デザートにデーツを3、4個、食べる。日本の干し柿に似たデーツの甘味が、砂道の走行で疲れた体をいやしてくれる。そんな夕食を食べおわったあとで、のどを湿らす程度に水を飲む。
 日が沈み、暗くなると、急速に気温が下がってくる。テントなしの野宿なので、あるもの全部を着込んでシュラフにもぐり込む。
 すごい星空だ。ザラザラ音をたてて降ってきそうだ。びっしりと星で埋めつくされた天ノ川は、まるでほんものの水が流れているよう。地平線の上にまで星がのっている。手を伸ばせば、その地平線上の星に手が届きそう。そんな星空をスーッと尾を引いて何個もの流れ星が流れていく。大きな流れ星が夜空をよぎると、まるで照明弾でも打ち上げたかのように、サハラはパーッと明るく照らしだされた。
 一日の走行の疲れもあって、星空を見上げているうちに眠りに落ちる。しかし、辛いのはそのあとだ。寒さのために、何度も目がさめてしまう。地面からジンジン伝わってくる冷気で、体の地面に接する部分は氷のように冷たくなっている。そこで寝返りを打って姿勢を変え、また眠る。手足がとくに冷たくなるので、手にはグローブ、足には厚手のソックスという格好で寝るのだが、そのような涙ぐましい努力をしても夜間のサハラの寒さにはかなわない‥‥。
 真夜中に目をさましたときの恐怖感も耐えがたいものだ。まったく、よその世界と隔絶されたかのような静けさ。あたりはシーンと静まりかえり、もの音ひとつしない。あまりの静けさに、いいようのない恐怖感を感じ、「ウォー!」と、大声を張り上げる。
 自分の声の音を聞き、すこし安心してからまた眠るのである。
 翌朝は夜明けと同時に出発。ボルジュモクタールを目指し、サハラ縦断路をただひたすらに南下していく。乾燥の極にあるサハラでは、皮膚は水分を失ってカサカサになる。口びるは割れ、血がにじみ出る。手の甲にはヒビが切れ、グローブとすれるたびに悲鳴をあげる。手の指の関節にはアカギレが切れ、パックリと口をあけている。そんな痛みに耐えながらバイクを走らせるのだ。
 レガンを出てから3日目、ついにボルジュモクタールに到着した。町の手前、40キロほどの地点に、人の背丈ほどの木がポツンと1本、はえていた。それが「レガン→ボルジュモクタール」間の唯一の緑。タネズロフ砂漠はまさに一木一草もない世界だった。
 ボルジュモクタールに着いたときのうれしさといったらなく、それこそ大声で「万歳」を叫んでまわりたいほどだった。さっそく食堂に飛び込み、まずは水がめの冷たい水をゴクゴクのどをならして飲んだ。そのあとでパンと豆汁の食事。豆汁の塩けがなんともいえずにうまかった。
 そのあとでガソリンスタンドに行き、給油する。SX200Rの35リッター・超ビッグタンクには28リッター入った。まだ7リッター残っている。燃費もリッター22キロと、まずまずの結果だ。ぼくの方はといえば、4リッター持った水のうち、2リッターの水筒の半分を飲んだだけだった。


日仏サハラ縦断隊

 ボルジュモクタールではプジョーでサハラ砂漠を縦断中の2人のフランス人に会った。1人はピエール、もう1人はミッシェル。彼らはサハラ縦断のプロなのだ。
 というのは、フランス国内でプジョーの中古車を買い、スペアタイアと食料、水といった程度の軽装備でサハラ砂漠を縦断し、マリやニジェールなど、西アフリカの国々でそれを売っているからだ。西アフリカの国々はどこも外貨事情が悪い。そのため新車の輸入は制限され、また高額の関税がかけられているので、彼らのような商売が成り立つのだ。
 自称“プロ中のプロ”のミッシェルは、今回が44回目のサハラ縦断。プロに転向してまもないピエールにしても、今回が11回目のサハラ縦断だ。コンピューター会社のプログラマーだったというピエールは、仕事に嫌気がさし、会社を辞めた。そのあと奥さんとも離婚し、サハラ縦断のプロに転向したという。
「世界中どこを探しても、こんなにエキサイティングな仕事はない。ロマンとアバンチュールに満ちあふれたこの仕事は、一度やったら、もうやめられないね」
 2人は口をそろえていう。
 奇しくも、3人とも1947年生まれ。
「花の47年組だ!」
 ぼくたちはすっかり意気投合し、ボルジュモクタールからマリのガオまでの670キロを一緒に走ることにした。
 でっぷり肥ったミッシェルはまったく英語を話せないが、小柄なピエールは英語が上手だ。そこでミッシェルはそのまま“ミッシェル”と呼び、ピエールは英語の“ピーター”で呼ぶことにした。ぼくはといえば、“タカシ”はきわめていいにくいので、いつも使っている“ターキー”にする。
 ぼくのフランス語はほんのカタコト語なので、ピーターとは英語で話し、ミッシェルとはカタコトのフランス語+ジェスチャーかもしくはピーターに通訳してもらって話した。こうしてターキー、ピーター、ミッシェルの即席の“日仏サハラ縦断隊”が誕生した。
 ボルジュモクタールの町はずれの国境事務所で出国手続きをし、“日仏サハラ縦断隊”の出発だ。ホーンを2度、3度と鳴らし、一望千里の砂の海の中に入っていく。
 ミッシェルのプジョー504は程度がよかった。ところがピーターのプジョー204は1967年製。よくこの車でサハラを越えようという気になったものだ。ピーターにいわせると、この20年前の車でも、けっこうな値段で売れるのだという。
 それはともかく、2人の砂道でのドライビングのテクニックには驚かされる。2人とも砂にスタックしたときに使う鉄製のサンドマットを持っていない。というより2人には、サンドマットは必要なかった。ディープサンドでのルートの選択がきわめて的確で、その手前で100キロ以上の速度に上げると、あとは飛ぶようにして砂の海を一気に突っ切ってしまう。見事なものだ。
「もし、パリ・ダカに出たら、上位入賞は間違いないよ」
 と豪語している2人だけのことはあった。
 国境を越えてマリに入り、日が落ちたところで野宿する。2台のプジョーとSXを停め、ランタンを灯す。キャンピングガスで料理する。とはいっても、ぼくは自炊道具の類は一切持っていないので、ミッシェル、ピーターの2人に全面的にご馳走になる。
 フライパンで目玉焼きをつくり、スープをつくり、かんづめのソーセージ入り“カスリ”をゆで、パンにフランス産のハムをはさむ。
 食事の用意ができたところで、ワインの栓を抜く。なんとそのワインは“ボージョレー・ヌーボー”だ。フランス・ブルゴーニュ地方のボージョレー地区産ワインの新酒がボージョレー・ヌーボーで、毎年11月の第3木曜日が解禁日と決まっている。ミッシェルはサハラで飲むために、ボージョレー・ヌーボーを買い込み、ここまで持ってきたのだ。
「チンチン!」
 ボージョレー・ヌーボーで乾杯。新酒特有のすこし角のあるような、それでいて軽い、さわやかな味覚が口の中いっぱいに広がる。
“カスリ”はフランス人の好きな煮豆料理。ピーターは「カソリが“カスリ”を食べた」といって、声をたてて笑う。
 サハラの星空のもとでの食事はなんとも優雅なものだった。食後のデザートは、フランス産の何種ものチーズ。そのあとでコーヒーを飲みながら話す。やり玉にあがったのは、未だに独身のミッシェルだ。彼がフランス人やアフリカ人のガールフレンドの写真を見せびらかすと、ピーターはすかさず冷やかした。
「ミッシェルはママと一緒に住んでいるんだ。ガールフレンドよりも、ママの方がズーッといいんだってサ」
 翌日、ボルジュモクタールから160キロ南、マリ側の国境の町、テッサリットに到着。すると、アラブ人からアフリカ人へと変わる。国境の役人たちは、すべてがアフリカ人。肌の黒さと歯の白さ、陽気な笑顔が印象的だ。同じアフリカ大陸でも、アラブの世界からアフリカの世界に変わったのだ。
 入国手続きがすむと、町の食堂に行く。すると電気冷蔵庫があるではないか。日干しレンガに草屋根の家と電気冷蔵庫のアンバランスな取り合わせがおもしろかった。冷蔵庫の中には冷えたコーラやジュース、ビールがあった。無事にマリに入国できたお祝いに、3人でビールで乾杯した。
 テッサリットから南下するにつれて草木の緑がどんどん増えていった。ラクダやヤギ、ヒツジの群れをひきつれたトアレグ族を見るようになる。無人の砂漠から牧畜民の世界に変わったのだ。
 あと100キロほどでガオというあたりでは感無量だった。『世界を駆けるゾ! 30代編』でもふれたことだが、1982年の第4回「パリ・ダカール・ラリー」で事故を起こし、大怪我をしたところだ。こうしてまた元気で、同じ場所に戻ってこられたことを感謝するのだった。
 ボルジュモクタールを出てから3日目、ミッシェル、ピーターと抜きつ抜かれつしながら、ニジェール川の河畔の町、ガオに着いた。サハラ砂漠の玄関口の町。地中海のアルジェからちょうど3000キロだった。


ミッシェル&ピーターとの別れ

 往路でのサハラ縦断をなしとげてたどり着いたガオでは、ミッシェル、ピーターと一緒に、町はずれの“バングー”というキャンプ場で泊まることにした。日はまだ高い。碁盤の目状の通りの両側に土色をした日干しレンガの家々が建ち並ぶガオの町まで歩いていき、食堂に入る。
「サハラ縦断の成功、おめでとう!」
 と、まずはミッシェル、ピーターと一緒に冷たいビールで乾杯だ。そのあとで昼食。サラダとフライドポテトを添えたぶ厚いビフテキを群がるハエをはらいのけながら食べた。 キャンプ場に戻り、シャワーを浴びる。なんという気持ちのよさ。頭を洗い、体を洗うと、ジャリジャリ音をたてて砂まじりの赤茶けた水が流れおちてくる。何日ぶりかで歯を磨き、ひげをそりながら水のありがたさをかみしめる。カサカサに乾ききった肌に水気がよみがえり、ほんとうに生き返るようだ。
 日が暮れてから、ミッシェル、ピーターと一緒に今度は夕食を食べに町に出る。サハラ縦断中はいつも腹をすかせていたので、その反動でサラダ、チキン、クスクスと夕食も腹いっぱい食べた。
 満腹になったところで、夜のガオの町を探検する。ディスコに入る。ビールが1本ついて500CFAフラン(約500円)。強烈なリズムに身をまかせ、ぼくとピーターは踊りまくった。ミッシェルは若い女の子たちをはべらせ、ニヤニヤしながら見ているだけ。まわりにはアフリカ人の黒い顔、顔、顔。男も女も、汗を光らせながら踊っている。アフリカ人のリズム感のよさには惚れ惚れしてしまう。
 ディスコで踊りまくり、クタクタになった体をひきずってキャンプ場に戻ったのは、夜中の12時すぎだった。部屋のコンクリートの床の上にゴザを広げ、その上にシュラフを敷いて寝る。裸電球ひとつが灯る部屋の中はムッとする暑さ。おまけに横になるやいなや蚊の猛攻を受けた。
「プーン、プーン」
 耳もとで聞こえる無数の蚊の音で寝られたものではない。たまらずに屋根の上に登り、そこにシュラフを敷く。砂漠の野宿と同じように、星空を見上げながら眠るのだった。
 翌朝、ミッシェルとピーターはガオを出発。町はずれの、ニジェールのニアメーに通じる道と、空港への道との分岐まで2人と一緒に行き、そこで2人を見送った。
「ターキー、また、地球上のどこかで会おう。うんと儲けたら、トーキョーに行くかもしれないよ」
 そういい残すと、ミッシェルとピーターはクラクションを鳴らし、土煙を巻き上げながら走り去っていった。2人はうまくビジネスが成立すれば、ガオで車を売るつもりにしていた。しかし、ミッシェルにいわせると、
「イシ・ラルジョン・アンプ(ここには、お金がない)」
 ということで、より車を売りやすいニジェールの首都ニアメーに向かっていったのだ。
  サバンナの村
 ぼくもガオを出発。西に1300キロ走ってマリの首都バマコへ。そこから南下し、ギニア湾を目指した。
 バマコから100キロほど南のザンブグーという村でひと晩、泊めてもらったが、なんとも居心地のいい村で、そのまま1週間ほど滞在させてもらい、1988年の新年をこの村で迎えた。
 ザンブグーはサバンナの村。サバンナ地帯とは、1年が雨期と乾期にはっきりと分かれている気候帯。ぼくが訪れた12月から1月にかけては乾期の最中で、1滴の雨も降らない。この村での主食は“サンヨー”と呼ぶ棒状の穂をした雑穀。トウジンビエのことである。雑穀の収穫を終えてまもない時期なので、どの家の穀物倉にも、雑穀の穂がぎっしりと詰まっている。
 雑穀の脱穀は男たちの仕事だ。きれいに掃き清められた地面雑穀の穂を広げ、1日かけて天日で干す。その脱穀場というのは、幼稚園の運動場ぐらいの広さ。夜は男たちがウシなどに食い荒らされないように、寝ずの番をする。
 翌日、男たちは細い、枝つきの木を切り、枝の方を手に持って雑穀をたたき、穂から穀粒を落とす。一見すると何気ない作業のように見えるが、ぼくがやらせてもらうと、木の棒は「パン、パン」と軽い、乾いた音とともに跳ね上がり、うまく脱穀できない。ところが彼らが打つと「ズシン、ズシン」という重い音とともに、木の棒は敷きつめられた雑穀の穂の中に沈み込んでいく。
 脱穀が終わると、女たちはそれを集め、ヒョウタンの器に入れ、目の高さぐらいの位置から落とす。風の力で殻やゴミなどは飛び散り、重い雑穀の粒だけが真下に落ちる。
 このあと雑穀は穀物倉にいれられるが、そのほかに、トウモロコシや豆類を入れる倉もある。家のまわりにいくつもの穀物倉のある風景が、アフリカのサバンナの村を象徴していた。
 西アフリカのサバンナ地帯での雑穀栽培は、雨期のはじまる前の5月に種をまき、発芽すると、5月下旬から9月上旬にかけての雨期の間に成長する。乾期に入ると穂を出し、10月下旬から11月にかけて収穫する。このように収穫は1年に1度で、今年とれた雑穀を来年の収穫期まで、なんとしても食いつながなくてはならない。女たちは1日にどのくらいの量を食べたらいいのかという計算をきちんとできるので、穀物倉の鍵は女が持つものと決まっている。もし男がそれをやると、計算がルーズになるので、来年の収穫期前までに雑穀を食いつくしてしまうという。
 さて、その雑穀の食べ方だが、木の臼に粒を入れ、握りの部分がくびれている竪杵で搗き、雑穀の粒を覆う固い皮を落とし、精白する。そのときに出る糠は、ヒツジやヤギの餌になる。精白した粒をもう一度、木の臼で搗く。搗き砕いて荒い粉にし、それをフルイでふるい、さらに搗いてきめの細かい粉にする。
 臼を搗くのは女の仕事になっている。
「トントントン‥‥」
 女たちが汗を流しながら臼を搗いている光景もサバンナの村を象徴するもの。このように雑穀というのは、食べられるようにするまでが大変だ。
 こうして製粉を終えると、鍋で湯をわかす。沸騰してくると粉を入れる。ヘラでかきまぜ、練り固め、トーと呼ぶ餅ができあがる。
 夕食には洗面器型のホウロウの器に餅を盛り、別の器にナンと呼ぶ汁を入れ、それをみんなで囲んで食べる。食べ方は手づかみだ。餅をつまみ、手の中で丸め、団子にする。それを親指で押してへこみをつくり、汁をすくうようにして食べる。
 汁にはすりつぶしてドロドロになった南京豆やシーラという木の葉を粉にしたもの、家まわりにはえている野草などが入っている。乾燥させたオクラを石臼ですった粉も入っているので、トロリとしたとろみがある。それに塩とシートゥルーという木の実からつくった油をいれて味つけしている。辛味をつけるために唐辛子を入れることもある。
 サハラ砂漠の南側のこの地方はイスラム教圏。その影響で、男は男たちだけで、女は女たちだけで食べる。彼らの食べ方で感心させられたのは、大人たちは腹8分目ぐらいのところで「ネファラ(もう、お腹がいっぱいだ)、バルカライ(ごちそうさま)」といって食事の席を立つことだ。残った餅と汁は、まだ10代の育ちざかりの若者たちが食べる。
 日本でも“同じ釜の飯を食う”という言葉のたとえがあるように、アフリカ人と同じようにして同じものを食べていると、言葉の不自由さをおぎなってあまりあるほどに心を通い合わせることができるのだった。
 ザンブグー村を出発する日は、みんなで砂や泥にまみれたSX200Rを井戸の水できれいに洗ってくれた。ずっとぼくを泊めてくれたセマケ家のお母さんのジャラや息子のプロスペール、コニンバと何度も握手をかわし、集まってきた大勢の村人たちにも別れを告げ、きれいになったバイクにまたがり走り出す。村人たちは村の入口にある大きなマンゴーの木の下で手を振って見送ってくれた。


ギニア湾の海だ!

 ザンブグー村から60キロほどでブグニの町。そこから南のコートジボアールに通じるダートに入っていく。交通量はほとんどない。ときたま自転車や荷車が通る程度。路面のあちこちに大穴があいている。丘陵地帯に入ると、岩盤の露出したガタガタ道になる。
 ブグニから150キロで国境の村に到着。マリ側の出国手続きはいたって簡単。パスポートとカルネに出国印をもらい、そして国境を越える。ニジェール川の支流にかかる長さ50メートルほどの橋が国境だ。
 コートジボアール側に入ると、路面の状態がいっぺんによくなる。ダートであることには変わりなかったが、よく整備されていて石ころも穴ぼこもない。コートジボアール側の入国手続きも簡単に済み、国境から100キロ南のオージェネの町へ。そこを過ぎると、舗装路になった。
 ギニア湾を目指して南下するにつれて風景はサバンナから熱帯雨林へと鮮やかに変わる。熱帯雨林から伐り出された巨木を積んだシャシだけのトレーラーと、ひんぱんにすれ違う。熱帯雨林を伐りはらって焼いた焼畑をあちこちで見る。そこではキャサバやタロイモ、ヤムイモ、バナナ、プランタイン、パパイア、パイナップル、オクラ、唐辛子、コーヒー、カカオなど、様々な熱帯の作物がつくられていた。
 通りすぎていく熱帯雨林の村々をみて気のつくのは、サバンナの村とは違い、どこにも穀物倉がないことだ。一年中、高温で、なおかつ雨期、乾期の別なく1年を通して雨の降る熱帯雨林地帯では、雑穀などの穀物をつくっていないからである。
 熱帯雨林の村人たちにの主食はキャッサバやヤムイモ、タロイモのイモ類と、プランタイン(料理用バナナ)だが、これらのイモ類とプランタインにはこれといった収穫期がない。畑に行けばいつでも収穫できる。熱帯雨林は畑が食料庫になっている世界なのだ。
 それらイモ類とプランタインの食べ方はといえば、包丁でその皮を削りとり、鍋でゆで、それを木の臼で搗いて餅にする。その餅を汁につけて食べる食べ方は、サバンナの村での雑穀の食べ方とまったく変わりがない。これがアフリカの文化なのだ。ひとつ違うのは、このあたりだとあまりイスラム教の影響を受けないので、男と女が一緒に食べていることである。
 1988年1月8日、地中海のアルジェから5176キロ走り、ギニア湾のサンペドロに着いた。港近くの砂浜に行き、バイクを停める。
「SXよ、これがギニア湾の海だ!」
 サハラ縦断中の苦しいときは、いつもきまってギニア湾の浜辺に立つ日を思い浮かべ、難関を乗り越えてきた。その夢が今、現実のものとなった。ブーツを脱ぎ、ソックスを脱ぎ、波打ちぎわに走っていく。寄せる波を手ですくい、顔を洗う。
「ギニア湾の海だ!!」

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

『世界を駆けるゾ! 30代編』フィールド出版

第1章 赤ん坊連れのサハラ縦断

熱病にかかって、カソリ、結婚!

 ヒッチハイクとオートバイを織りまぜ、15ヵ月間で世界六大陸13万キロを駆けまわった「六大陸周遊」の旅から帰ってまもなく結婚した。27歳の春のことだった。
 結婚し、家庭を持つなんて、自分の人生とはまったく無縁なものだと、そう思っていただけに、自分でも信じられない出来事‥‥。まるで、熱病にでも浮かされているような気分だった。
 ところで、結婚するからといっても、結婚式の費用など一銭もない。自慢にもならないが、「六大陸周遊」の旅から帰って結婚するまでの4ヵ月間で得た収入といえば、新聞に原稿を書いて得た数万円だけ。で、どのようにして式をあげたかというと、日曜日の保育園を1日1万円で借り、あとは友人たちが段取りしてくれた。ぼくたち夫婦は1万円で結婚式をあげた。それは1975年3月16日のこと。仲人役は、生涯を通して4000日も旅で過ごされた偉大な民俗学者の宮本常一先生(1981年1月30日にお亡くなりになった)と奥様が引き受けて下さったのだ。
 新婚旅行も、いきあたりばったりの貧乏旅行。妻の洋子とは、東京・新宿駅を鈍行列車で発ち、松本から大糸線に乗り、糸魚川駅近くの安宿で1泊した。翌日は富山から高山線に乗り、猪谷で神岡線(現在の神岡鉄道)に乗換え、終点の神岡で下車。たまたま駅前に停まっていたバスに飛び乗り、奥飛騨の新平湯温泉に行った。
 季節外れだったこともあり、大半の宿が閉まっていたが、その中にあって、「静山荘」という宿のご主人、奥さんがぼくたちの無理を聞いてくれ、
「ゆっくりしていきなさい」
 といって、泊めてくれたのだ。あやうく新婚旅行で宿なしになるところだった‥‥。ぼくたちは「静山荘」が気に入り、2泊し、周囲の雪の山野を歩いた。白銀の穂高連峰の眺めが強烈だった。
 そのあと、高山で1泊し、高山線で名古屋へ、名古屋からは中央本線で塩尻経由で東京・新宿へと、鈍行列車を乗り継いで戻ってきた。そんな新婚旅行だった。


生後10ヵ月の赤ん坊を連れて‥‥

 妻の洋子とは、
「2人でアフリカを旅しよう!」
 と、1年後の出発を目指した。頭の中はアフリカでいっぱいで、新婚家庭を築き上げていこうなどいう気は、さらさらなかった。洋子は看護婦。ぼくはこのころから原稿を書くことが多くなったが、2人でせっせと旅行資金を稼いだ。ぼくたちは希望にあふれ、何でもできるような気分でいた。
 ところが、長女の優子が生まれ、ぼくたちのアフリカ計画は大きな壁にブチ当たってしまった。
 どうしたらいいのか、さんざん考え、悩んだあげくに、
「どうしても、アフリカ計画を断念することはできない!」
 と、優子が生後10ヵ月になるのを待って、1977年6月11日、アフリカへと旅立った。ザックにはゴソッとオムツを詰め込んでの旅立ちだ。
 だが、そのときの周囲からの反対は強く、
「赤ん坊を連れてのサハラ縦断だなんて、キミはいったい何を考えているんだ、無謀にもほどがある」
 とか、
「キミたち夫婦はどうなろうと、好きなことをやるのだから、それはいいだろう。だけど、もし、赤ちゃんをサハラで死なせでもしら、どうやって責任をとるのかね」
 とか‥‥、厳しく責められ、両肩にいいようのない重圧を背負っての出発であった。
 ひとつ、そんなぼくの心の支えになったのは、
「カソリ君、世界中のどんなところでも、子供たちは元気に育っているよ」
 という東京農業大学探検部OBの向後元彦さんの一言だった。それを聞いて、
「そうだ、旅をつづけていくなかで、赤ん坊を育てていけばいいのだ」
 と思うことができるようになり、おおいに元気づけられた。向後さんと奥さんの紀代美さんは、子連れで世界を旅した大先輩。向後さん夫妻からのアドバイスは、実際の旅の日々のなかで、どれだけ役立ったかしれない。


列車でシベリアを横断

 ぼくたちは横浜港からロシア船「バイカル号」に乗り、ナホトカに渡った。そこから、シベリア鉄道でモスクワを目指したのだ。
 午後8時、急行「ボストーク号」はナホトカのチーホーケアンスカヤ駅を出発。翌朝、目をさますと、窓ガラスには水滴がいっぱいついていた。シベリアは雨だった。朝食を食べに食堂車に行くころから雨は上がり、青空がだんだん広がってきた。
 シベリアの風景が車窓を流れていく。白樺林が見える。白や黄色、赤‥‥といった色とりどりの野花が咲いている。初夏のシベリアはまさに花園だった。
 ハバロフスクに着いたのは、ナホトカを出てから15時間後の午前11時。ハバロフスクでは2泊したが、悠々と流れるアムール川(黒竜江)が印象深い。原木を満載にした船が下っていく。対岸の平原の向こうには、うっすらと山影が見える。中国の山々だ。アムール川の河原では、短いシベリアの夏をむさぼるかのように、日光浴している人たちの姿を多く見かけた。
 ハバロフスクからイルクーツクまでは3500キロ。70時間あまりの列車の旅。ウラジオストックから来たモスクワ行きの急行「ロシア号」に乗る。16両編成の長い列車。最後部の16号車がぼくたちのような外国人旅行者の車両で、アメリカ人の団体と一緒になった。
 1日3度の食事が大変。16号車の乗客たちは行列をつくって食堂車まで行進する。離乳食を食べはじめたばかりの優子だったが、ロシアの食事にも慣れ、黒パンや豆、ハムなどのロシア料理をよく食べてくれた。
 シベリアの空は、ほんとうに、大きい。まっ青な夏空。風景は次々に変わっていく。森林、草原、地平線のはてまでつづく大農園‥‥。木材や原油、石油製品などを積んだ貨物列車とよくすれ違う。
 翌朝、チタ駅に到着。大きな駅だ。中国のハルビン行きの列車が出ていく。「ロシア号」の停車時間は長い。駅には改札口がないので、赤ん坊を抱っこして、駅周辺をプラプラ歩いた。チタを出ると、車窓にはモンゴルへとつづく大草原が広がる。牛や羊が放牧されている。それら家畜を馬にまたがった牧童が追っている。夕方、ウランウデ駅に到着。モンゴルのウランバートルに行く列車の出る駅だ。駅構内を歩いているのは、大半がモンゴル系の人たち。日本人にそっくりな顔をしているので、思わず日本語で声をかけそうになった。
 ウランウデを出発。食堂車での夕食が終わったころ、バイカル湖が見えてきた。アメリカ人旅行者たちは喜びの声を上げ、さかんにカメラのシャッターを押す。それにしても大きな湖だ。9時をまわっても、まだまだ、明るい。夕日が湖岸の山の端に近づいても、なかなか日は沈まない。湖水の色が、夕空の色の変化に合わせ、刻々と変わっていく。列車は湖岸をひた走る。バイカル湖に流れ込む何本もの川を渡る。10時過ぎになって、やっと夕日は沈み、バイカル湖はうっすらと夜のとばりに包まれた。
 イルクーツクでも2泊し、モスクワへ。5000キロの列車の旅。夕方に発車するイルクーツク始発のモスクワ行き急行「バイカル号」に乗る。4人で1部屋のコンパートメント。2段ベッドが2つある。オーストラリア人とアメリカ人女性の旅行者と同室。まずいことに、ぼくたちは上段のベッドが2つ。夜が大変だ。赤ん坊の優子は、手あたりしだいに何でも投げるので、そのたびに下の2人に謝らなくてはならなかった。
 優子の寝たあとは、今度はベッドから落ちないように、ずっと見ていなくてはならなかった。寝ずの番だ。いつまでも明るいシベリアの夏の夜。午前0時を過ぎたあたりで、やっと暗くなる。しかし、まっ暗にはならずに、夜明けのようなうす明るさがいつまでも残る。1時、2時と眠い目をこすりながら起きていたが、ついにダウン。3時過ぎに、優子のわきで、体をくの字に曲げて寝てしまう。
 イルクーツクを出てから2日目の夜中に、シベリア最大の都市ノボシビルスクを通り、4日目の夜中に欧亜を分けるウラル山脈を越えた。夜中に越えたせいもあるが、なだらかなウラル山脈は、いつ越えたのか、まったくわからなかった。
 夜が明けると、雨が降っていた。湖が見える。まるで湯気が立ちのぼっているかのように、もやでけむっている。湖岸の森は、シベリアよりもはるかに濃い緑だ。妻の洋子は4日目の列車にもう、うんざりという顔をしている。赤ん坊の優子はすっかり列車の旅にも慣れ、機嫌がいい。こうして、イルクーツクを出てから5日目の朝、モスクワに着いた。「イルクーツク→モスクワ」間112時間の列車の旅だった。さらに列車の旅はつづく。モスクワに2泊したあと列車で国境を越え、フィンランドのヘルシンキまで行き、ロシア横断の旅を終えるのだった。


ポルトガルで迎えた30歳の誕生日

 北欧から列車を乗り継いでヨーロッパを南下。スペインからポルトガルに入り、大西洋岸のサンマルティーノという漁村で家を借り、1ヵ月あまり滞在した。ぼくはここで30歳の誕生日を迎えた。「あー、とうとう30になってしまったな‥‥」といった辛い気分と「さー、これからの30代はガンガンと世界を駆けめぐってやるゾ!」といった希望に満ちあふれた気分の交錯したような気分を味わった。
 サンマルティーノの風景は心に残るもの。石畳の坂道。民家の白壁と橙色の屋根瓦。漁港の岸壁では、漁から帰った漁船から魚を下ろし、トラックに積み込んでいる。漁港から岩山をくり抜いたトンネルを抜け出ると、外海に出る。大西洋の荒波が岩山にぶつかり、砕け散っている。
 サンマルティーノでの毎日は、のんびりとしたものだった。朝はゆっくりと起き、朝食のあと、市場に買い物に行く。とれたての新鮮な魚。野菜、果物も豊富だ。市場歩きを楽しみながら、買い物をする。そのあと、海に行く。すでに1歳の誕生日を過ぎた優子は、波とたわむれ、砂浜で遊ぶ。家に帰り、昼食、昼寝。午後、ふたたび、海に行く。夕方、海から戻ると、優子を風呂に入れる。そのあとで、ゆっくりと時間をかけて夕食にする。夕食にはビニョ(ブドウ酒)をたっぷりと飲んだ。
 長かったようでいて、それでいて、あっというまに過ぎ去っていったサンマルティーのでの日々。優子は夏の太陽と潮風を浴び、みるみるうちにたくましくなっていった。
 サンマルティーノに別れを告げ、ポルトガルからスペインに戻る。そしてジブラルタル海峡に面したアルヘシラスからモロッコのタンジールにフェリーで渡る。ぼくたちはついに、アフリカ大陸の一角に立ったのだ。
 サハラ砂漠縦断を目指し、アルジェリアの首都アルジェにやってきたのは10月3日。日本を発ってから4ヵ月あまりが過ぎていた。
 サハラの夏は、日中が暑すぎる。サハラの冬は、夜間が寒すぎる。いずれも子連れでは厳しすぎる。そこで、サハラに入っていく時期を10月と決め、それに合わせて日本を出発し、ロシア→ヨーロッパ→北アフリカと旅をつづけてきた。そのなかで、子供に旅の毎日に慣れさせていったのだ。


サハラ縦断の開始

 10月5日、アルジェを出発。700キロ南のサハラのオアシス、ガルダイアにバスで向かう。アトラス山脈を越え、世界最大の砂漠、サハラに入っていく。ガルダイアに着くと、白い町並みとそれを囲むナツメヤシの緑に、妻の洋子は「すてきね!」を連発した。夕暮れどきのサラサラやさしくほおをなぜていく風に、
「これがサハラの風なのね。砂漠の匂いがするわ」
 と、満足した表情を浮かべるのだった。
 だが、快適なサハラの旅もガルダイアまで。さらにエルゴレア、インサーラと南下していくにつれて、厳しい砂漠の旅になる。子連れなので、よけいに厳しい旅になる。
 ガルダイアから650キロ南のオアシス、インサーラでは、この町で唯一のホテルに泊まったが、水が極度に不足していた。水道の蛇口をひねっても、1滴の水も出ない。1日1回配給されるポリバケツの水がすべてだった。ぼくたちは子供がいるからということで、特別に2杯もらった。
 水は優子優先で使う。食料が乏しいので粉ミルクを飲ませているのだが、哺乳ビンを洗い、粉ミルクをつくる。さらに、別に、優子用の食事をつくる。優子の体を洗い、汚れたおしめや洋服を洗う。それらすべてをポリバケツ2杯の水でやらなくてはならなかった。 それだけではない。アルジェからインサーラまではバスを乗り継いできたが、ここから先が大変だ。アルジェリア最奥のオアシス、タマンラセットへ、さらには国境を越え、ニジェールのアガデスへと行く車探しは困難をきわめた。
 自分ひとりでふらっとヒッチハイクするようなわけにはいかない。脳天を焼きつくすような、強烈な直射日光を浴び、砂まじりの強風に吹かれながら、道端で通り過ぎる車を待つわけにはいかなかった。子連れの旅のハンデの大きさを歯ぎしりするような思いでかみしめるのだった。
 タマンラセットまで行くトラックが出るかもしれないという情報を耳にし、トラックの溜まり場にもなっているカフェの前の広場に夜明け前に行き、じっと辛抱づよく待った。だが、夜が明け、日が昇り、やがて砂漠をジリジリと焼きつくすほど日が高くなっても、それらしきトラックはやって来なかった。


サイード夫妻の車に乗って‥‥

 インサーラのカフェ兼レストランでは、何度となくコーヒーを飲み、朝、昼、夜と、1日3度の食事もここで食べた。主人のアブデルマンさんはトアレグ人。タマンラセットまで行けなくて困っているぼくたちに何かと同情的で、
「キミたちが乗せてもらえるような旅行者の車があったら、私から頼んであげるよ」
 といってくれた。が、あまりあてにしないで聞いていた。
 アブデルマンさんの好意でカフェの2階を借り、優子を昼寝させているときのことだ。「車がみつかった、車がみつかったよ!」
 と、彼が階段の下で叫んでいる。喜び勇んで階段をかけおりていく。
 その車というのは、フランス人旅行者のプジョー504のワゴン車。たいして荷物も積んでいないので、ぼくたち一家が乗せてもらえるスペースがあった。
 ボルドーからやってきたサイード夫妻の車で、奥さんはフランス人だが、サイードはアルジェリア系のフランス人。北部アルジェリアのジュルジュラ山麓の村で生まれた山地少数民族だ。5歳のときに両親とともにフランスに渡ったそうで、それ以来、ずっとフランスに住んでいる。フランス語のほかに、アラビア語と彼ら山地民のカビール語を話す。肌の浅黒い、がっちりした体つきのサイードだ。
 サイード夫妻とのサハラの旅がはじまった。猛烈な暑さがいくぶんしのぎやすくなった午後4時すぎに、インサーラを出発した。舗装路が250キロ先まで延びているので、
「今晩中に、そこまでは走るつもりだ」
 と、サイードはいっている。
 日が傾き、やがて地平線に沈む。砂でけむったような西空。鮮明な夕日を見られないままに、あたりはみるみるうちに暗くなっていく。
 夜のサハラを走る。しだいに舗装路に溜まった砂が多くなる。うまくハンドルを切らないと、砂溜まりに突っこんでスタックしてしまう。そしてとうとう、砂がすっぽりと舗装路を覆いつくしているところにきてしまった。その砂溜まりの区間は100メートルほどある。サイードは車のスピードをグーッと上げ、一気に砂溜まりに突っこんでいく。だが、その砂溜まりを抜けきれずに、途中でスタックしてしまった。いったん砂の中で止まってしまうと、もういくらアクセルペダルを踏みこんでも、タイヤはからまわりするだけでまったく前には進めない。
 サイードは信じられないのだが、サハラを縦断するのに、砂漠を走る用意は何もしていない。スコップもサンドマットも持っていなかった。そのため、前後輪のタイヤの前の砂を手でかきだし、エンジンをかけ、わずかに動いたところで、また手で砂をかきだす。そんなことを何度かくり返したが、2、3メートルも進めないうちにグッタリと疲れはて、砂の上に大の字になってひっくりかえるのだった。
 子供の優子だけがご機嫌だ。夢中になって砂遊びをしている。まだ歩けないので、砂の上をはいずりまわっている。サハラを自分の砂場にしている。その顔には不安のかけらすらなかった。
 はるか遠くに車のライトが見えてきた。
「あー、これで、助かる‥‥」
 と、ホッと胸をなでおろした。
 インサーラからタマンラセットに向かう車。だが、車のライトはなかなか近づいてこない。障害物がまったくないので、車のライトは、はるかかなたからでも見えるのだ。そのうちに、やっとという感じで、車のエンジン音がかすかに聞こえてきた。エンジン音がはっきりと聞こえてくるようになり、ガスボンベを満載にしたトラックがやってきた。サイードは懐中電灯を振ってトラックに止まってもらい、アラビア語で何か話している。
「引っ張ってもらえないだろうか」
 と、頼んでいるのだろう。
 トラックの運転手は、さすがにサハラに慣れている。なんなく大きな砂溜まりを走り抜けると、今度は、バックギアで戻ってくる。サイードの車との間に数メートルの間隔をおいて止まると、ロープを使って車を砂の中から引っ張りだす。トラックが動き出すのとともに、サイードの車もズルズルと動き出す。ついに、大きな砂溜まりを脱出することができたのだ。
 そのあとは、サイードの車がトラックの前を走る。また砂に埋まったときにはトラックに助けてもらえることになったが、幸いにもインサーラから250キロの地点、舗装路の途切れる地点までは、砂にスタックすることもなく走ることができた。
 その夜は、舗装路が途切れた地点で野営することになった。
 優子にとっては、生まれて初めての野宿だ。サハラにシートを広げ、その上にシュラフを敷く。トラックの助手が携帯用のガスコンロに火をつけたので、湯をわかしてもらい、粉ミルクをつくった。優子はそれを満足そうに飲み終えると、満天の星空を指さし、
「アッカイ、アッカイ」
 といって喜んでいるうちに眠ってしまった。サハラの野宿で、はたしておとなしく寝てくれるだろうか‥‥と、心配していたので、まずはひと安心だった。


サハラ最奥のオアシス

 翌朝は、優子の粉ミルクをつくらなくてはならないので、まだ暗いうちに起きた。ブルブル震えてしまうほどの寒さ。温度計を見ると、気温は18度あるのだが、なにしろ日中は40度をはるかに超え、1日の気温の差が30度近くにもなるので、18度とは思えないような肌寒さを感じてしまうのだ。
 糸のように細い月が、砂漠をうっすらと染めて地平線から昇る。懐中電灯の明かりを頼りに、灯油用コンロのラジウスの火をおこし、湯をわかし、粉ミルクをつくる。そのうちに、夜が明ける。砂漠の上にポコッとのったような形の岩山の向こうから朝日が昇る。こうして、サハラ最奥のオアシス、タマンラセットへの長く、苦しい1日がはじまった。
 野営地を出発し、日が高くなると、気温はグングンと上昇する。8時32度、9時35度、10時38度、11時には40度を超える。車内の暑さといったらなく、ショルダーバッグの金具など、熱くてさわれないほどだ。優子は顔をまっ赤にして、妻の洋子の腕の中で眠っている。目をさますと、
「ブー、ブー」
 といって水を欲しがり、水筒の水をガブ飲みする。気温の上昇とともに、子供の体温も上昇してしまうのではないかと心配したが、体をさわってみると、ひんやりしている。水をガブガブ飲んで、汗をどんどんかいているのがいいようだ。
 サイードの車は、何度も砂にスタックする。そのたびに一緒に走るトラックに助けてもらたが、あまりにも度重なるので、トラックはもうめんどうをみていられないとばかりに先に行ってしまった。それからというものは、砂に埋まるたびに炎天下で砂を掘り、死にものぐるいで車を押した。どうしても砂から脱出できないときは、なすすべもなく砂の上に座りこんでしまうのだが、幸運なことに、そのたびに通りがかりのトラックに助けてもらった。
 優子はこの厳しい自然環境のなかでも、すこぶる機嫌がよかった。眠りたいときには眠り、目をさませば、車の窓からサハラの風景を見て喜んでいる。車がスタックすれば、焼けつくような砂の上でも、ゴツゴツした石の上でも、平気な顔をしてはいずりまわっている。砂をかきまわしてはおもしろがり、小石をポンポン投げてはおもしろがている。世界最大の砂漠を自分の砂場にしている優子にとっては、暑さも乾きも、まったく苦にならないようだった。
 タマンラセットまであと200キロほどの地点で、2晩目の野営をした。
 サイード夫妻もぼくたちも、食料はほとんど持っていなかった。朝食と昼食は抜き、夕食はカチンカチンになったパンにジャムをつけて食べた。優子は粉ミルクだけ。2晩目の夜は、野宿に慣れたこともあるのだろう、シュラフを敷くと、待ってましたといわんばかりに喜び、優子は早々と寝た。
 インサーラを出発して3日目、一番心配していた子供の優子が、一番元気だ。満足なものはまったく食べられないというのに‥‥。粉ミルクだけで、ほんとうによくがんばっている。
 北回帰線を越え、ホガール山地に入っていく。高原だ、山地だといっても、まったく緑は見られない。
「地球でないみたい。空気があるのが不思議なくらい」
 という妻の洋子の言葉に、実感がこもっていた。
 夕方、インサーラから650キロのサハラ最奥のオアシス、タマンラセットに着いた。地中海のアルジェからは、2000キロの距離だ。人も車も荷物も、すべてが砂まみれ。この町で唯一のホテルに泊まる。まずは子供の優子の体を洗ってあげたかった。だが、インサーラと同じで、いくら蛇口をひねっても、まったく水は出てこない。配給されたポリタンの水を大事につかわなくてはならない。その水で優子の頭を洗うと、砂まじりの泥水が流れ落ちてくる。着ている服は砂と汗でゴワゴワになり、まるで雑巾のようだ。
 ホテルのレストランでは、サイード夫妻と夕食をともにした。冷たい水がうまい。スープの塩味がなんともいえない。クスクスとオムレツをむさぼるようにして食べたが、それは優子も同じで、スープの皿をいつまでも離さなかった。
 タマンラセットからも、ひきつづいて、サイード夫妻の車に乗せてもらった。アルジェリアから国境を越えてニジェールに入り、1000キロの道のりに5日かかり、アガデスに到着した。ぼくたちは子連れのサハラ縦断を無事に成しとげ、その名も「サハラ」というホテルに泊まり、サイード夫妻とともに祝杯をあげた。サイード夫妻は「ホテル・サハラ」に1泊すると、ニジェールの首都ニアメーに向かっていった。2人はそこで車を売り払い、フランスに帰るという。
 ぼくたちは、サハラ砂漠の南側の玄関口といっていいアガデスで家を借り、1ヵ月あまり滞在した。


衝撃の西アフリカ

 アガデスに滞在するようになってからというもの、日ごとに、妻の洋子の具合が悪くなっていった。胸がムカムカし、気持ちが悪くてしょうがないという。食欲もすっかりなくなり、1日中、何も食べないようなこともあった。
「おいしいラーメンを食べたい。あったかいご飯に塩辛とかタラコとか納豆で食べたい。お豆腐の味噌汁を飲みたい」
 という、そんな妻の言葉に胸がしめつけられるような思いだ。食べ物にすっかりまいってしまった洋子は、ホームシックにもかかっていた。長旅の、それも子連れの貧乏旅行の疲れが、すでに、体のすみずみにまで淀んでいた。
 アガデスを出発する直前になって、洋子は自分の体の具合が悪いのは、病気ではなく、妊娠したためだと判断した。それを聞かされたときは、あわてふためいた。子供ができるという喜びよりも、えらいところで妊娠したものだというとまどいのほうが大きかった。優子は母親の異常を敏感にかぎとっていた。わざとスネたり、オシッコをもらしたりしてことさらに母親の目を引こうとした。意識してなのか、無意識なのか、洋子のお腹をたたいたり、蹴とばそうとする。
 なんとも無謀な話だが、ぼくたちは、このままアフリカの旅をつづけることにした。アガデスからナイジェリアのラゴスへとさらに南下していくのだが、とにかく流産しないようにと、天にも祈るような気持ちだった。
 覚悟を決めてアガデスを出発。450キロ南のジンデールまでバスに乗る。2日がかりのバスの旅だが、これがすさまじい。トラックを改造したバスは70人近い超満員の乗客を乗せ、炎天下のガタガタ道を突っ走る。路面の穴ボコに落ちるたびに、バーン、バーンと車体は跳びはね、体も宙に浮く。まわりの乗客たちはキャッキャッいっているが、洋子は「赤チャンが落っこちる」と、悲愴な顔つきだ。すこしでもショックをやわらげようと、シュラフを荷物の中から引っぱりだし、木の座席の上に敷いた。
 優子はムーッとする車内の暑さも、ぎゅう詰めの混雑も、ちっとも気にならないという顔つきで窓の外を見ている。遊牧民のラクダを見つけると「パカパカ」がいると1人で喜んでいる。
 450キロの道のりをのり越え、無事にジンデールに着いたとき、洋子はうれしそうな顔をした。すぐさま、町の中央にある「ホテル・セントラル」に行ったが、アガデスの「ホテル・サハラ」とは、比べものにならないくらいに設備が整っていた。部屋に入ると、さっそくシャワーを浴びる。湯がふんだんに出る。3人ともすっかりきれいになったところで、ホテルのレストランで食事にする。洋子と乾杯!
「ラゴスまでがんばろう」
 と、はげましあった。
 おいしい食事だった。フランス風味つけのフルコース。デザートはアイスクリーム。
 優子はこんなにおいしいものがあったのか、といわんばかりの顔つきで、アイスクリームにかぶりついている。この「ホテル・セントラル」での滞在で元気を取り戻した。


「カノ→ラゴス」のすさまじい列車

 ジンデールからナイジェリアのカノまでの250キロは、乗合タクシーに乗った。
 カノからラゴスまでは30時間の列車の旅。これがきわめつけのすさまじさ。列車が進入してくると、大勢の乗客はホームを駆け降り、列車の来る方向に走っていく。一刻も早く、列車に飛び乗ろうとしているのだ。ぼくも洋子と優子をホームに残して走った。列車がガクッとスピードを落としたところで飛び乗り、必死の思いで、座席を2つ確保した。列車がホームに入ると大声で洋子を呼ぶ。すばやく荷物を窓から投げ入れてもらう。そのあと、優子も窓から投げ入れる。優子はまるで荷物のように手荒く扱われたので大泣きしているが、今はそれどころではない。
 座席を確保し、木製の荷物棚も確保したところで、洋子がやってきた。無事に席をとれたし、荷物も盗まれなかったし、すべてがうまくいったと、手をとって喜び合った。ひと息ついたときに、洋子に「財布は大丈夫?」と聞かれ、あわてて上着の内ポケットに手を入れてみると、見事に抜き取られていた。パスポートやトラベラーズチェックは無事だったのでひと安心。とはいっても、ナイジェリアの通貨ナイラを一銭も持たずにラゴスまで行かなくてはならなかった。
 午前10時、定刻通りに列車は動き出す。窓からほうりこまれ、座席を取り合う車内の騒然とした空気におびえ、大泣きしていた優子だったが、列車が動き出すと泣きやんだ。車窓を流れていく北部ナイジェリアのサバンナの風景を眺めているうちに、だんだんと機嫌がよくなっていった。
 身動きがとれないほど混雑している車内は、ムンムンする暑さだった。優子は汗をタラタラ流しながら、ブーといって、しきりに水を催促した。列車が駅に長く停まっているときは、窓から飛び降り、優子にオシッコさせたり、すばやくキャンピングガスで湯を沸かし、粉ミルクをつくった。最初はどうなることかと心配したが、なんとかラゴスまで行けそうだ。
 日が落ちると、窓から気持ちのよい風が入ってくるようになった。膝の上にパンやモロッコ製のサディーンのかんづめ、オーストラリア製のチーズのかんづめを並べ、夕食にする。優子はチーズが好物で、何枚も食べた。お腹がいっぱいになると、眠いという仕種をし、ぼくと洋子の膝の上にゴロンと横になる。横になるやいなや、もう、スヤスヤと眠りはじめた。優子は旅していくなかで、すっかり旅の毎日に順応できるようになっていた。何でも食べ、眠くなれば、どんなところでも眠ることができるようになっていた。
 夜明けに列車は西アフリカ最大の大河、ニジェール川(ナイジェリアだと発音はナイジャー川になる)を渡る。長い鉄橋。列車の鉄橋を渡る轟音で目がさめた。昇る朝日を見て驚いた。乾燥地帯の朝日とは違って、たっぷりと水分を含んだような、うるんだ朝日の色合いなのだ。雲も多い。朝日に照らされた原野は、緑が一段と濃くなっていた。
 列車が南下するにつれ、いつしか風景はサバンナから熱帯雨林に変わっていた。油ヤシの木々が空を突き、ゴムやカカオの農園も見られる。焼き畑で森林を伐り開いたキャッサバの畑も見られる。乾燥したアフリカから、湿潤なアフリカへと世界は大きく変わった。 列車は夕方にはラゴスに着くはずだったが、大幅に遅れ、ラゴス到着は午後10時。カノから36時間の、なんともきつい列車の旅。ホームに降り立つと、まずは、洋子とガッチリ握手をかわした。地中海のアルジェから5000キロの距離を乗り越えてアフリカ大陸を縦断し、ついにギニア湾のラゴスに着いたのだ!
 ラゴスからは、ほんとうは赤道アフリカを横断して東アフリカに出るつもりでいた。だが、日に日にお腹の大きくなっていく洋子をみると、それはとてもではないが、無理な話で、ラゴスから飛行機でケニアのナイロビに飛んだ。
 東アフリカは旅人にとっては快適なところで、西アフリカからやってくると、地獄から天国にやってきたような気分。もうひとつ、うれしいことは、優子がヨチヨチ歩きができるようになったことだ。
 最初の計画ではケニアのナイロビからインドのボンベイに渡り、カルカッタを旅の最終地点にするつもりでいた。そのためナイロビでの出産も一時は考えたが、どうしてもそこまでのふんぎりがつかず、ナイロビを旅の最終地点にし、1978年2月25日に日本に帰ってきた。旅立ったときは生後10ヵ月だった優子は、1歳8ヵ月になっていた。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

『世界を駆けるゾ! 20代編』フィールド出版

第1章 アフリカに行きたい!

17歳の夏の日

 ぼくが初めて世界に飛び出そうと思ったのは、ある日、突然のことだった。
 1965年(昭和40年)、17歳の高校3年の夏休みに、親友の前野幹夫君、横山久夫君、新田泰久君らと、
「おもいっきり、泳ごうゼ」
 と、東京から房総半島の太平洋岸、外房の海に向かった。ぼくたちは都立大泉高校で一緒だったが、おもしろいことにクラスが一緒だったのは1年生のときだけだったが、不思議と気が合ったのだ。
 ぼくたちが目指したのは鵜原海岸。一人一人が思い思いにテントや食料を持ち、キャンプをしながら泳ぐつもりでいた。その日は、真夏の太陽がギラギラ照りつける、とびきり暑い日だった。外房線に乗ったのだが、東京から千葉まで切れ目なくつづく市街地を抜け出し、広々とした水田風景が車窓に開けてきたとき、心の中がサーッと洗われるような思いがした。
「広いなあ!」
 胸の中に溜まっていた重苦しいものから一時的にでも解き放たれたからだろう、思わずぼくの口からそんな言葉が飛び出した。
「広いなあ!」というこの一言が、ぼくの運命を大きく変えた。この30年間にわたり、世界を駆けめぐってきたすべての原点が、ここにある、といっても過言ではない。
「広いって、いいなあー」
「狭っくるしいところは、もう、たくさんだ」
「俺たち、もっと、もっと、自由でなくてはいけないよな」
「そうさ、自由さ。もっと、もっと自由でなくてはいけないよ」
 高校3年の夏休みというと、翌春にひかえた大学入試のため、寝る時間を削ってでも受験勉強をしなくてはならなかった。とくにぼくたちの世代、昭和22年生まれというのは戦後のベビーブームで大量生産(!?)された団塊の世代のはしりなのだ。ベルトコンベアに乗せられて続々とつくられていく工業製品と同じで、それだから、まわりからは受験が大変だといわれつづけて大きくなった。
 小学校では校舎が足りなくて、午前と午後の2部授業だった。午前の授業と午後の授業を間違えて学校に行き、「今ごろ何しにきたのだ」と先生には怒鳴られ、友達からは嘲笑されたこともあった。中学、高校を通してひとクラスが50人を超え、教室はギュウギュウ詰めの満員電車のようなものだった。
「受験戦争」などという流行語が生まれたのもぼくたちの世代のころ。それだけに、目には見えない重圧に押しつぶされてしまいそうな環境にぼくたちはいた。しかしそれに対しての、猛烈な反発心もあった。
「冗談じゃないゼ。絶対に流されるものか!」
 ぼくは中学、高校とサッカーをやった。授業をさぼってでも、放課後のサッカーの練習だけには行った。それほど好きなサッカーだったが、高校3年生になる前にやめてしまった。学校の成績がどん底にまで落ち、もうこのままでは浪人しないことには大学に入れないと自分自身でわかったからだ。大学に入ってあれをしたいとか、これをしたいとか、また、卒業したら何になりたいといった希望はまったくなかったが、ただひとつ、浪人だけはしたくなかったのだ。一日も早く社会に飛び出していきたかった。
 受験勉強がはじまった。あさましいとしかいいようのない受験勉強だった。そのため試験の点数だけは、あっというまにグングンと上がっていった。それとともに、自分でもよくわからないいらだたしさ、むなしさを強く感じるようになっていった。
「なんで、こんなことをしているのだろう」
「あー、サッカーをやめたのが、間違っていたのではないか」
 机を並べている友人を一人でも追い抜いていくような受験勉強、その積み重ねの上に出てくる明日の自分の姿。ぼくはある日、急ブレーキをかけるようにして立ち止まってしまった。それは「すべが見えてしまった!」からだった。
 逃げたくても逃げることのできないレールに乗せられてしまった自分自身の姿が、あまりにも強烈に、あまりにも鮮明に見えてしまったのだ。それは一度落ち込んだら、二度と這いだすことのできない蟻地獄のようにも見えた。
「これではいけない! 絶対にいけない!」
 と、ぼくは大声で叫びたかった。
「人間なら誰しもが持っている無限の可能性、それはきっと自分にも与えられているはずだ」
 と、信じたかった。
 ところが、未来への可能性などどこかに吹き飛んでしまい、ただ黙々と敷かれたレールの上を進んでいくしかない明日、何かしたくてたまらないのに何もできない自分、そんな“見えてしまった明日”、“見えてしまった自分”が、ぼくを飛び上がらせたのだ。


アフリカ大陸縦断計画

 外房線の車中での「広いなあ!」の一言に端を発したぼくたちの会話はさらに広がり、いつも冗談をいってはみんなを笑わせる前野が、
「オイ、いくら広いといっても、アフリカなんか、こんなものじゃないぞ」
 と、さもさも見てきたかのような口ぶりでいう。
「俺、アフリカに行ってみたいなあ」
 と、前野は今度は冗談とも本気ともつかないような口調でそういった。
 前野の口から出た“アフリカ”が、ぼくの胸をギュッとつかんだ。アフリカと聞いた瞬間に、映画や写真で見たことのある大自然が、稲妻のように頭の中を駆けめぐった。はてしなく広がる大草原、昼なお暗い大密林、灼熱の太陽に焼きつくされた大砂漠‥‥といったアフリカの風景が、カラースライドでも見るかのように、次々と鮮明にまぶたに浮かんでいった。それは、もう、どうしても自分自身のものでなくてはならないように思えてきたのだ。
「アフリカか‥‥。アフリカ。いいなあ」
「行けないことなんて、ないよな」
「行けるさ。足があれば」
「そうさ、意思があれば。男ならば」
 そのような会話をかわしているうちに、どうしてもアフリカに行きたくなった。日本を飛び出し、広い世界をおもいっきり駆けまわりたくなった。
「よーし、アフリカに行こう。なー、俺たちアフリカに行こうじゃないか」
 ぼくたちは、しょっちゅう、冗談をいう。まるで、ほんとうのことのように冗談をいいあう。だが、そのときは、そうではなかった。誰もが冗談っぽい話の中に、本気の部分を強く感じていた。
 外房海岸の鵜原でキャンプしている間も、帰りの外房線の列車の中でも、ぼくたちは何度となく“アフリカ”を話した。いつしかバイクでアフリカを走ろうということになっていった。バイクでアフリカを走るという発想は、ごく自然なものだった。ぼくだけではなく、前野にしても新田にしても、バイクが大好きだった。横山は免許を持っていなかったが、取らせればいいということになった。
 外房海岸の鵜原から帰ると、ぼくの頭の中は“アフリカ”でいっぱいになった。夏休みが終わり、2学期がはじまると、ぼくたち4人は西武池袋線の大泉学園駅に近い喫茶店「カトレア」に集まった。ここでぼくたち4人は、夏休みの間中考えていたおのおのの案をぶつけた。それら各自の案を3時間も4時間もかけてまとめたのが、次のようなことだった。
 ・アフリカ大陸南端を出発点にし、東アフリカを経由し、北アフリカの地中海に出る大陸縦断コースとする。さらに北アフリカを地中海沿いに走り、モロッコをアフリカの最終地点とする。ジブラルタル海峡を渡ってヨーロッパに入り、西アジアの国々を通り、インドから日本に帰ってくる。
 ・全コースをバイクで走破する。
 ・出発は3年後の春とし、1年半の期間で計画を達成する。
 ・計画の資金は誰の援助も受けずに、すべてを自分たちでまかなう。大学の入試を終えたらすぐに資金稼ぎのバイトをはじめる。計画を達成するためには体を鍛えなくてはならないので、朝は新聞配達か牛乳配達をし、昼は別な仕事をする。
 ・この計画を「アフリカ大陸縦断計画」と名づける。
 以上のことをまとめると、ぼくたちは「アフリカ大陸縦断計画」の実現を誓い合った。喫茶店の名前をとって「カトレアの誓い」だと、ガッチリ握手をかわした。
 とはいっても、アフリカは遠かった。アフリカはまったくの未知の世界で、雲のはるか上のような存在。ほんとうにぼくたちの手が届くのだろうかと、不安は大きかった。またアフリカに関しての知識も、何ら持ち合わせていなかった。それだから計画づくりといっても、学校で使う地図帳のアフリカの地図上に、アフリカ大陸南端のケープタウンと地中海岸のアレキサンドリアを赤線で結び、だいたいこの線に沿ってアフリカ大陸を縦断しようという程度のものだった。
 しかし、それからというもの、ぼくはアフリカに関しての本を夢中になって読みあさった。授業中に教科書を衝立にして隠し読んだこともある。資料も集めはじめる。アフリカに関する新聞記事が出ていればそれを切り抜いてスクラップ帳に貼り、アフリカが舞台の映画があれば見にいったりもした。アフリカの地形、気候、政治、経済、歴史、文化、民族、社会情勢、道路状況などについても調べていく。
 ひとつ、問題が起きた。新田である。新田はいった。
「わるいけど、アフリカ、やめるよ。そのかわり、何か手伝えることがあったら手を貸す」 ぼくと前野、横山の残った3人は、新田が抜ける寂しさはあったが、それ以上無理にはさそわなかった(なお新田はその後、東京商船大学に入り、卒業後は船乗りとして世界中を船でまわり、現在は大手商社に勤務している)。


横浜港での資金稼ぎ

 長い冬が終わり、春になった。大学の入試が終わると、まるではじかれたゴムまりのように、「ちょっと、旅行に出てくるから」といい残して家を飛び出していった。行き先は横浜。西武池袋線の桜台駅で横山と待ち合わせ、横浜に向かった。薄汚れた服に長靴といういでたち。横浜に向かった理由は、港での荷役作業が金になると聞いていたからだ。いよいよぼくたちの「アフリカ大陸縦断計画」の資金づくりがはじまる。
 ぼくたちは寿町のドヤ街に泊まった。1泊120円の2畳の部屋でのゴロ寝。仕事はすぐにみつかった。1杯30円のうどんや50円のラーメンで空腹をしのぎ、毎日、必死になって働いた。
 仕事というのは、埠頭ではなく、沖に停泊している貨物船での荷役作業だった。沖まではハシケに乗っていく。ラワン材の積みおろしの作業では、突然クレーンのワイヤーが切れ、大惨事寸前の目にあった。10トン以上ものラワン材が、轟音とともに船底に落ちたのだ。マニラ麻のかたまりをころがしているときは、その下敷きになってしまい、あやうく押しつぶされるところだった。息ができなくなり、圧死寸前の目にあったのだ。化学薬品の容器を運んでいるときは、容器からもれた有毒液のために手がまっ白になってただれてしまった。ぼくは後に“強運のカソリ”といわれるようになるが、その強運をここでもいかんなく発揮した。
 荷役作業の監督は怒鳴ることが趣味のような人だったが、根は以外とやさしく、あまった昼飯の折り詰め弁当をぼくたちにくれたりした。とにかく腹がへるので、弁当を余分にひとつ食べられるのはありがたいことだった。
 1円でも多くの金をもらいたかったので、昼夜、ぶっ通しで仕事したこともある。その途中では目がまわりはじめ、酔っぱらったときのように足がもつれ、ふらついた。なんともきつい仕事だったが、一日の仕事が終わると、その日の分の給料をもらえるのがうれしかった。
 ドヤ街での生活も気に入った。初めてドヤ街に足を踏み入れたときは、自分とはまったく違う人種の人たちがそこに住んでいるような気がしたが、そこで2日、3日と過ごしていくうちになんとも居心地のよい、やすらぎのようなものを感じるようになった。誰もが自分をまったく飾らない。
 30円のうどんを食べさせてくれる店のお姉さんは、「はきだめに鶴だな」と、横山といい合ったほどの美人。「あのお姉さんとデートしようゼ」と、さっそくラブレターを書いたが、相手にされずにふられてしまった。
 隣の部屋のおやじさんはおもしろい人。
「きのうはな、パチンコ屋で3000円すって、男泣きに泣いたよ。それから飲み屋に行って、おかみに右手の親指を切ってくれって頼んだんだ。そうしたらおかみは、パチンコなんかやめればいいでしょって、ぬかしやがった。やめられるくらいなら苦労しないよ。なあ、そうだろ」
 そのおやじさんは、「さし入れだ。飲みな」といって1升びんを持ってきてくれた。
 横山とコップ酒を酌みかわしながら、ドヤ街の薄暗い、すえた臭いのする2畳の部屋でおおいに夢をふくらませた。話がはずみ、ぼくたちの目指すアフリカから、ぼくの小さいころからの憧れの地である中央アジア、さらには南米と、夢ははてしなく世界を駆けめぐった。幸せなひとときだった。ぼくたちの前途には、限りない未来が開け、自分たちの力で何でもできるような、そんな気分が体中に満ちあふれていた。
 横浜での10日あまりの仕事を終え、ぼくたちはせっかく稼いだ金だから、一銭も使わないで家に帰ろうと決め、横浜港の大桟橋から歩きはじめた。地図もない、あてずっぽうの旅だ。
 多摩丘陵では雑木林の中で道に迷ってしまい、ワンダリングをくり返してしまい、何度も同じ場所に出た。えらく時間をロスしたが、「ここはもしかすると、地球上のミステリーゾーンかもしれないゾ」などと冗談をいう余裕があった。
 横浜線の中山駅に着いたときには、すっかり日が暮れていた。いやなことに糠のような雨が降りだし、おまけに霧がかかってきた。それでもまだ、「うーん、これはいい、なかなか神秘的だ」と、強がりをいえる余裕があった。しかし、霧は上がったものの、雨が激しくなり、それとともに急速に体力を消耗していった。
 真夜中に多摩川を渡った。雨は一段と激しくなる。傘など持っていないので、もうズブ濡れだ。体の芯から冷えきり、寒くて歯の根が合わない。あまりの辛さに我慢できず、多摩川の河原にひっくり返してあるボートをみつけると、その中で寝ようとした。だが、とてもではないが眠れたものではない。
 ぼくたちは夜通し歩いた。すでに疲労は極に達していた。泣きっつらに蜂とはこのことで、靴づれがひどくなり、裸足になって歩いた。夜が明けた。それとともに、やっと雨があがった。調布、吉祥寺と通り、横浜港の大桟橋を出発してから27時間後、ぼくたちは学校に近い西武池袋線の大泉学園駅にたどり着いたのだ。
 次の日、ぼくはひどい高熱に見舞われた。ウンウンうなっているときに、横山がやってきた。「おい、カソリ、大丈夫か?」。横山はなんともタフなヤツなのだ。


アフリカ目指して1日20時間労働

 大学入試の結果は、さんざんなものだった。合格したのは前野だけなのである。ぼくたちの「アフリカ大陸縦断計画」は、最初から大きな試練にたたされてしまった。
 ぼくは早稲田大学の政経学部と商学部を受けた。入試直前の大学前の予備校での模擬試験では、5000余人中40何番という得点で、両学部とも合格の可能性は90何パーセントという回答だった。そのような入試直前の模擬試験の結果や、1年間も我慢して受験勉強したのだからという奢りもあって、ぼくは「入試には落ちるはずがない」と、たかをくくっていた。それだけに、入試の結果を見たときは、自分自身の傲慢さに鉄槌が下されたような思いがした。
 ぼくはこの時点で、すぐさま、「浪人はしないゾ」と決心した。進学しないといっても両親にはわかってもらえないと思い、家出した。
「入試を受けたあと、ぼくは結果を見ないうちから、合格したつもりでいました。そして考えたのです。大学を卒業する、会社に就職する、上役の顔色を見ながら身を削って仕事に精を出す、結婚する、安定した家庭生活を送る--このような将来像のなかで、いったいどこで子供のころから抱いていた漠とした夢を実現させればいいのでしょうか。いったいどこで自分の情熱を発揮させればいいのでしょうか。
 そう考えたとき、自分自身がすごく小さくなってしまったような気がして、いたたまれないほどの焦燥感にとらわれました。いけない、飛び出さなくては!と、強く思ったのです。
 入試の結果を見て、落ちたのがわかったときは、正直いってショックでした。しかし、それと同時に、今がチャンスだ、今をおいてほかにはないと、煽られるような気持ちのたかぶりもありました。どうぞ、ぼくのわがままを許して下さい」
 このような書き置きを残し、ふたたび、横浜のドヤ街に舞い戻ったのである。ここで「アフリカ大陸縦断計画」の資金稼ぎをするつもりだった。
「これで自分は、世界を自由奔放に羽ばたける」
 と、雲の上を飛ぶような陶酔感に浸った。
 ところがその陶酔感も長くはつづかなかった。両親はぼくのことが心配でたまらなかったのだろう、横山に横浜のドヤ街の場所を聞いて捜しにきた。何日も捜したようだ。そして、ついに、みつかってしまった。
「もう、じたばたしても仕方ない」
 と、腹をくくり、家に帰った。
 しかし、それからというものは予期したこととはいえ、母親は「大学に行きなさい」と口うるさくいう。その矛先をかわすためにも、できるだけ早く仕事を見つけなくてはならなかった。幸いにも、仕事はすぐにみつかった。家の近くの牛乳屋で夜中の3時から7時が牛乳配達、それが終わると背広に着替え、満員電車に揺られ、築地の小さな印刷会社に通った。印刷会社は従業員が10人ほどの零細企業なものだから、何でもやらされた。そのおかげで、何でも見聞きできるおもしろさがあった。しかし、とにかく忙しくて、9時から5時までという勤務時間などあってなきがごとしだった。
 得意先や紙、写植、活字、製版、製本などの各業者、さらにはほかの印刷会社をめまぐるしくまわるのがぼくの仕事で、ホンダのカブやベンリーCD125、ドリームCB450などのバイクが足となった。朝から晩まで都内の道を走りまくり、時間に追われる仕事だったので、目茶苦茶に飛ばした。そのあげくにスピード違反で捕まったり、バイクをぶつけたり、荷台に積んだ製品を全部ばらまいてしまったり‥‥。だが、それもこれも、
「アイツはまだ若いのだから」
 ということで許してもらえるようなところがかなりあったように思う。仕事が終わるとよく飲みにも連れていってもらった。
 そのような毎日だから、帰りが夜中近くになることもしばしばで、寝たと思ったらもう目覚まし時計が鳴っている。腹立たしくなり、「うるさい、だまれ!」と、投げつけてしまったこともある。牛乳配達の途中であまりの睡魔に我慢できず、道端にひっくり返り、寝てしまったこともある。ひとつよかったのは、母親とは顔を合わせる時間がほとんどなくなったので、「大学に行きなさい」とうるさくいわれることがなくなったことだ。
 1日20時間労働の毎日がつづいた。自分で選んだ道なのに、なぜ自分だけがこんなにも苦しい思いを味わなくてはいけないのだろうと、情けない気持ちになることもたびたびだった。楽しそうにしている同世代の若者たちが、無性にうらやましかった。
 何度となく挫けそうになったが、そのたびに元気づけ、勇気づけてくれたのが“アフリカ”。“アフリカ”はまさに天の声だった。アフリカに行くためだったら、「アフリカ大陸縦断計画」をなしとげるためだったら、なんでも、どんなことでも我慢しなくてはならないと思うのだった。
 一方、前野はといえば、早稲田大学に通いながら、朝は新聞配達をし、夕方から夜にかけては学習塾の先生をした。前野のおおらかで、めんどうみのいい性格が受け、前野先生は生徒たちの人気の的だった。夏休みや冬休みに入ると、自動車工場の組立ラインの仕事をした。前野も「アフリカ大陸縦断計画」の実現に向けて一歩1歩、着実に資金を増やしていった。
 計画の資金の目標を一人100万円におき、前野と会うたびにいくら貯まったゾと、報告しあった。それと同時に、その間に得たアフリカの情報や資料を交換した。ぼくたちのアフリカがわずかづつでも近づいてくる喜びは、何にもたとえようがなかった。
「アフリカを目指してがんばろう!」
 これがぼくたちの合言葉になっていた。


3人が2人になった‥‥

 大きな問題が持ち上がった。横山が「アフリカ大陸縦断計画」から脱落していった。彼の両親がどうしてもアフリカ行きを許してくれない。ぼくと前野の2人で横山の両親に会いにいったが、大学教授の横山の父親に、
「いったい、何のためにアフリカに行くのだね」
「だいたい、オートバイでアフリカ大陸を縦断するというけれど、そんな夢のようなことがキミたちにできるわけがないではないか」
「途中で病気になったり、事故でも起こしたら、どうするつもりだね」
 と問われると、ぼくにしても前野にしても、両親を納得させるだけの返答はできなかった。正直なところ、アフリカに行きたいから行くのだし、行ってみないことにはわからないというのが、ぼくたちの本心だった。
 もっと悪いことに、横山自身の中でも、最初のころの燃えるような情熱は沈静してしまったようだ。ぼくたちが計画をたてはじめてから、すでに2年という歳月が流れていた。ぼくと前野は横山を断念しなくてはならなかった。
 こう書いてしまうと簡単なことのようだけど、これはショックという言葉ではいいあらわせないほどのものだった。3人が2人に減ったという数の問題ではない。痛みが自分の肌に現実に感じられるような悲壮感、虚脱感、挫折感‥‥といった感情に襲われる。
 前野、横山、新田らと、西伊豆の土肥まで歩いていき、そこでテントを張って泳ごうとしたことがあった。テントのほかに飯盒や米、かんづめなどの食料品をごっそり背負って中央線の武蔵境駅を出発点にした。
 高校1年の夏休みが間近な試験休みを狙っての脱出行だった。その日はとりわけ暑い、猛暑といってもいいような日で、情けないことに西伊豆どころか東京都を出ないうちにダウンしてしまった。それでも計画は捨てずに電車に乗って沼津まで行き、そこから船で土肥に近い大瀬崎に渡り、白い浜木綿の花が咲く浜辺で1週間、泳ぎまくって帰ってきた。ところが後日、学校にばれてしまい大目玉をくった。規則では、試験休みに遠出してはいけないことになっていたのだ。そのとき、かわいそうなことに、横山が一番矢面に立たされてしまった。
 その年の秋には、サッカーのユーゴスラビアのナショナルチームが日本にやってきた。全日本との試合は、あいにくと遠足と重なってしまった。
「おい、横山、どうする。遠足にする? それともユーゴにする?」
「それはユーゴに決まっているさ」
 ぼくたちは遠足をさぼり、国立競技場にユーゴスラブビアと日本の試合を見にいった。世界でも超一流のユーゴスラビアがプレーするというのにスタンドには空席が目立った。しかし内容の濃い、白熱したゲーム展開。結局1対0で負けはしたが、日本が善戦したのでうれしくなり、帰り道、ぼくたちは有り金を全部はたいて祝杯をあげた。ところが翌日2人は呼び出された。
「おまえたちのような生徒は、即刻、退学させたい。私の一存でそれができないのがなんとも残念だ」
 と、担任の先生を嘆かせた。
 高校2年の夏休みには、前野、横山、新田らと、今度は静岡県の御前崎に近い相良の海に行った。そこは横山の故郷。浜辺の松林にテントを張ったが、夜になると、前野はひたすらに片想いをしている同じクラスの女の子の話をするのだ。前野の話をさんざん聞かされ、すっかり頭に血がのぼってしまった。
「よーし、それならば」と、海にやってくる女の子たちに、次々に声をかけた。そのうちの一人、横浜の女の子とはすっかり仲よくなり、二人だけで御前崎に行った。白い灯台に登り、誰もいない砂浜を歩いた。彼女が横浜に帰る日、東海道線の藤枝駅まで見送りにいった。列車がホームに入ってくると、彼女はネックレスをはずしてぼくに手渡し、「さよなら」と一言いったきりで、うつむいてしまった。
 横山とは東京・池袋で、すしの食べくらべをしたことがある。50個ぐらいまではなんとかいったが、それからがきつい。むりやり口の中に押し込み、お茶で流し込む。米粒が食堂の上まできているようで、1個食べるごとに死ぬほどの苦しみを味わう。とうとうぼくは70個でダウンしてしまったが、横山はさらに食べつづけ、80個という記録をつくって店のおやじさんを驚かせた。
 それからが大変だ。動こうにも動けない。人がぼくたちの歩いている姿を見たら、きっと酔っぱらいだと思ったことだろう。だが、それよりも、よっぽどひどい。気分が悪いだけではなく、口の中がへんに甘ったるくなり、詰め込んだ飯粒がブクブクと発酵してくるのではないかと思わせるほどのすさまじさだった。とうとう歩けなくなり、池袋の駅裏で1時間以上もひっくり返っていた。
 横山とはまた、かき氷の食べくらべをしたこともある。2杯目、3杯目あたりまでは楽なのだが、4杯目を過ぎると加速度的にきつくなる。地獄の拷問のような目にあいながらも、結局6杯で2人とも同数だった。だが横山の方が早く食べたので横山の勝ち。胃袋が氷づけになっているので、真夏の太陽のもと、震えながら歯をカチカチ鳴らして歩いた。 アフリカでは象の肉や猿の肉の食べくらべをしようなどと冗談をいい合った横山が、「アフリカ大陸縦断計画」から抜けていった(横山はその後、大学を中退し、自分ひとりで旅に出た。15ヵ月かけてユーラシア大陸をまわり、さらに、同じく15ヵ月をかけて南米を一周した。「アフリカ大陸縦断計画」からは抜けたが、彼は彼なりに自分の夢を追い求め、世界を駆けまわった)。


横浜港からの旅立ち

 資金稼ぎをはじめて2年目の秋になると、翌春の出発を目指し、前野とはひんぱんに会うようになった。問題点がいくつもあった。船や外貨、バイク、カルネ(バイクで国境を越えるときに使う通関手帳)などの問題である。
 また、アフリカに詳しい人や自動車やバイクでの海外旅行に詳しい人などに会って話を聞いたりもした。どの人も忙しい時間を気持ちよくさいて、いろいろなことをぼくたちに話してくれた。それがどれだけぼくたちを勇気づけてくれたかしれない。話の最後には、
「キミたちの計画の実現と成功を祈っている。がんばって」
 と、決まって励ましてくれた。
 自動車で世界一周した人が神戸にいると聞くと、どうしても話を聞かせてもらいたくて前野と2人乗りで神戸に向かったこともあった。バイクはホンダのベンリーCD125。ガタのきているポンコツだ。それが、ぼくにとっては初めてのロングツーリングといえるようなものだった。前野を後ろに乗せて走りはじめたときは、そのままアフリカ大陸まで突っ走っていくような意気に燃えていた。
 東海道を一路、西へ。箱根峠を無事に越え、快調に走ったが、浜松の手前の磐田ではスピード違反で捕まってしまった。名古屋を過ぎると雨になり、それとともにベンリーの調子が悪くなった。エンジンがブスブスいっている。名阪国道に入ったところで修理したがエアークリーナーのエレメントを外すとエンジンの吹き上げがよくなったので、乱暴にもそれを捨てて走った。
 ズブ濡れになって大阪に到着したときには、夜もかなり遅くなっていた。安宿に泊まり銭湯で一風呂浴びたときは、ホッと生き返ったような思いだった。結局、神戸までは行かずに終わってしまったが、この大阪行きで、「アフリカを目指してがんばろう」というぼくと前野の気持ちがぴったりと合ったように思う。
 東京に戻ったあと、船会社を訪ね歩くうちに、アフリカの喜望峰経由で南米に向かう船のあることがわかった。4月12日に横浜港を出るオランダのロイヤル・インターオーシャン・ラインの「ルイス号」という船で、モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)から南アフリカのダーバン、ケープタウンと寄港し、大西洋を越え、ブラジルのリオデジャネイロからサントス、さらにはアルゼンチンのブエノスアイレスまで行く船だった。
さっそくぼくたちは「ルイス号」を予約した。それで、4月12日という出発日が決まった。
 外貨の持ち出しは、当時は1人500ドルまでだった。500ドルではどうしようもない。国内で1ドル400円くらいのレート(当時の公定レートは1ドル360円)なら、闇ドルに換えられるとも聞いたが、何も知らないぼくたちにはどうしたらいいのかわからなかった。どうしようかと頭を痛めていると、事情に詳しい人が、大きな声ではいえないがと前置きし、船が香港、シンガポールと寄港するのだから、そこで円をドルに換えたらいいと教えてくれた。日本円の持ち出しは、1人2万円に制限されていたが、それ以上に持ち出しても、まず調べられないだろうとのことで、そうすることにした。
 お金の問題はひとまず解決したが、1960年代後半の日本というのは、やっと海外への渡航が自由化されたばかりで、高度経済成長の道を走りはじめたとはいっても、その経済力はまだまだ弱く、貧乏国だった。その弱さが円の弱さになって現れていた。
 カルネの件では、JAF(日本自動車連盟)の田久保勇作さんに、ひとかたならぬお世話になった。JAFが日本でのカルネ発給団体になっていたが、その当時はまだ、日本から車やバイクを持ち出して世界を走るというケースはまれで、カルネの取得自体が容易ではなかった。そこで何度となく田久保さんに相談したのである。
 バイクはスズキに決めた。バイクで一番心配だったのは故障である。何万キロもの長い距離を走破しなくてはならないので、4サイクル・エンジンに比べて構造がシンプルな2イクル・エンジンのスズキかヤマハにしようと、前野と話していた。バイクに詳しい人が、スズキのエンジンはタフだというので、ぼくたちはスズキTC250という250ccバイクに決めた。まだ、ヤマハのDT1やスズキのハスラーTS250といったオフロード・バイクが登場する以前のことで、TC250というのは250・のロード・バイクのT20にエンジン・ガードがつき、マフラーがアップになったモデルで、それをスクランブラーと呼んでいた。
 1968年の正月を迎える。
「もうすぐだ。船が横浜を出るときは、でっかい声で叫ぼうゼ!」
 前野からはそんな年賀状が届いた。
 1月15日はぼくたちの成人式。
「もう20歳になっんだから、これをいい機会に酒もタバコもパチンコもやめような」
 などと冗談をいいながら、出発まであと3ヵ月、おたがいに気持ちを引き締めあっていこうと決意をかわした。
 2台のスズキTC250を購入し、自分たちのものになったときは、天にも昇るような気分だった。アフリカがいよいよ手の届く距離まで近づいたことを実感させた。ブルーとシルバーの2色のタンクがまぶしく光り輝いている。
 さっそくバイクの改造にとりかかる。デュアル・シートをシングル・シートに取り替え大型のリア・キャリアを取り付け、そこにステンレス張りした木箱をのせる。その木箱の中に荷物を入れる。パーツも購入した。アクセルやクラッチ、ブレーキのワイヤー類、ピストンやピストンリング、ピストンピン、各種ガスケット類、チェーン、前後のスプロケット、ポイント、クラッチ板、イグニッションコイル、ブレーキシュー、エアークリーナーのエレメント、ヘッドライトのバルブ、前後輪のインナーチューブ、スパークプラグなど、パーツだけでも段ボール1箱分になった。
 さらにテント、寝袋、シート、エアーマット、ロープ、ナタ、シャベル、炊事用のホエブス(ガソリン用コンロ)、コッフェルなどの装備品も揃える。これら諸々の荷物を全部合わせると、木箱の重さも加わって100キロというたいへんな重量になってしまった。 バイクの用意ができたところで、スズキにお願いし、即席の、TC250整備の講習を受けさせてもらった。泊り込みで3日間、サービス課の方がぼくたちにつきっきりでTC250の整備の方法、修理の方法を教えてくれた。このときの経験が、後にどれだけ役立ち、またどれだけ自信につながったかしれない。
 スズキからはアフリカをはじめとしてヨーロッパ、アジア各国のディーラーのリストをもらい、さらにありがたいことに各社宛の紹介状も書いてもらった。
 このころになると、アフリカの情報にもかなり明るくなっていた。なにしろアフリカに関するものだったら、本はいうにおよばず、新聞だろうがテレビ、映画であろうが、目の色を変えて読んだり、見たりしていたからだ。まだ、いくつかの問題点は残していたが、もう日本であれこれ心配しても仕方ないと思い、あとは現地に行ってから最善を尽くす以外にないという結論に達した。
 残念だったのは、ケープタウンである。ぼくたちはアフリカ大陸縦断の出発点をケープタウンにしようと、ずっと話してきた。ところが個人の旅行者では、南アフリカのビザ(入国査証)がどうしても取れなかった。そこで出発点を南部アフリカのモザンビークのロレンソマルケス(現マプト)にした。
 3月に入って牛乳配達も印刷会社もやめた。「アフリカ大陸縦断計画」のために働きはじめてから、ちょうど2年が過ぎていた。夜中に起きだし、また夜中に帰るといった1日20時間労働に最後まで体がもったことをありがたく思った。資金もほぼ目標どおりに稼ぐことができた。大学出の初任給が3万円にもならない時代に100万円を貯めたのだからえらいと自画自賛だ。とはいっても、ぼくにしても前野にしても親がかりで、食費には一銭も払わず、部屋代にも一銭も使わないですんだからこそできたことだが。
 出発の前夜、新田の家にぼくと前野、横山が集まって盛大な飲み会となった。新田の姉さんも顔を出してくれた。酒量はみるみるうちに上がり、とうとう夜明かしで飲みつづけた。
「おい、カソリ、前野、俺たちの分までがんばってきてくれよ」
 という新田と横山の励ましが胸にしみた(ぼくたち4人はあれから30年以上もたっているが、今でも年に何回か会っている)。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

300日3000湯めぐり・データ(17)

「北海道編・函館→東京」(2007年10月4日→10月28日)

(青森)
2811、猿倉温泉「猿倉温泉」(500円)
2812、蔦温泉「蔦温泉」(500円)
2813、奥入瀬渓流温泉「奥入瀬渓流グランドホテル」(1000円)
2814、空の平高原温泉「空の平高原温泉」(200円)
2815、青荷温泉「青荷温泉」(500円)
2816、油川温泉「油川温泉」(390円)
2817、三好温泉「コロナの湯」(390円)
2818、つくだ温泉「ゆーぽっぽ」(390円)
2819、浜館温泉「フラワー温泉」(390円)
2820、さるか温泉「さるか荘」(300円)
2821、さくら野温泉「ホテルさくら野温泉」(1泊朝食6800円)
2822、石渡温泉「やすらぎ温泉」(350円)
2823、花咲温泉「花咲温泉」(300円)
2824、新屋温泉「新屋温泉」(350円)

(秋田)
2825、湯の岱温泉「湯の岱温泉」(300円)
2826、湯の越温泉「湯の越の宿」(400円)
2827、みなと温泉「あったまり~な」(570円)
2828、横森温泉「パルコ」(500円)
2829、こまち温泉「健康ランドこまち」(500円)
2830、新屋温泉「新屋温泉」(500円)
2831、華の湯温泉「ホテルルートイン」(7450円)
2832、岩城温泉「アイランドパーク」(400円)
     親川の湯温泉(廃業湯)
     白狐の湯温泉(廃業湯)
2833、大内温泉「ぽぽろっこ」(400円)
2834、かすみ温泉「かすみ温泉」(300円)
2835、三六温泉「三六温泉」(350円)
2836、鶴舞温泉「鶴舞温泉」(500円)
     安楽温泉(入浴のみ不可)
2837、伊豆温泉「伊豆温泉」(300円)
2838、湯の沢温泉「ホテルまさか」(500円)
2839、猿倉温泉「あっぽの湯」(350円)
2840、鳥海猿倉温泉「フォレスタ鳥海」(500円)
2841、野宅温泉「丁荘」(400円)
2842、はまなす温泉「はまなす温泉」(300円)
2843、象潟温泉「ねむの丘」(500円)
2844、羽洲温泉「象潟シーサイドホテル」(350円)
2845、神の湯温泉「神の湯温泉」(360円)
     「にしめの湯っ娘ランド」(1泊朝食2500円)
2846、金浦温泉「金浦温泉旅館」(400円)
2847、湯の台温泉「鶴泉荘」(300円)

(山形)
2848、湯ノ田温泉「のとや」(450円)
2849、鳥海温泉「あぽん西浜」(350円)
2850、八森温泉「ゆりんこ」(350円)
2851、湯ノ台温泉「鳥海山荘」(500円)
2852、悠々の杜温泉「アイアイひらた」(350円)
2853、辰ヶ湯温泉「辰ヶ湯旅館」(500円)
     松山湯(廃業湯)
2854、松山温泉「観音湯」(400円)
2855、戸沢温泉「ぽんぽ館」(350円)
2856、羽根沢温泉「元湯 加登屋」(300円)
2857、新庄温泉「あぶら山旅館」(1泊朝食5850円)
2858、新真室川温泉「関沢荘」(200円)
2859、草薙温泉「滝沢屋」(600円)
2860、肘折温泉「いでゆ館」(350円)
2861、黄金温泉「カルデラ館」(390円)
     左沢温泉(入れず)
2862、舟唄温泉「テルメ柏陵」(300円)
2863、りんご温泉「りんご温泉」(300円)
2864、鷹の湯温泉「パレス松風」(300円)
2865、卯の花温泉「はぎ乃湯」(400円)
2866、堀川温泉「白沢の湯」(400円)
     「東横イン 米沢駅前」(1泊朝食5040円)
     金池温泉(休業中)
2867、おいたま温泉「賜の湯」(300円)
2868、湯沼温泉「駒草荘」(300円)
     中山温泉(休業中)
2869、黒鴨温泉「滝乃湯旅館」(300円)
     白鷹温泉(休業中)
2870、朝日温泉「朝日鉱泉」(400円)
2871、古寺鉱泉「朝陽館」(500円)
2872、大井沢温泉「湯ったり館」(300円)
2873、柳川温泉「柳川温泉」(300円)
2874、海味温泉「西川町老人福祉センター」(200円)
2875、水沢温泉「水沢温泉館」(300円)
2876、月山志津温泉「かしわや」(300円)
2877、湯殿山温泉「湯殿山ホテル」(1泊朝食5500円)
2878、かたくり温泉「ぼんぼ」(350円)
2879、くしびき温泉「ゆ~Town」(350円)
2880、やまぶし温泉「ゆぽか」(350円)
     川代温泉(入れず)
     羽黒温泉「宮田坊」(入浴のみ不可)
     羽黒山温泉「菊田旅館」(休業中)
2881、月の沢温泉「北月山荘」(350円)
     筍沢温泉(入浴のみ不可)
2882、湯の澤温泉「地蔵の湯」(300円)
     新山温泉(廃業湯)
2883、湯田川温泉「正面湯」(200円)
2884、なの花温泉「田田」(400円)
2885、長沼温泉「厚生館」(300円)
     余目温泉(廃業湯)
2886、日向川温泉「爽やか」(500円)
2887、飯森山温泉「かんぽの郷酒田」(1泊朝食5100円)
2888、酒田本町温泉「スパ・ガーデン」(500円)
2889、湯野浜温泉「上区公衆浴場」(90円)
2890、火打崎温泉「松林館」(350円)
2891、由良温泉「サンリゾート庄内」(350円)
     由良温泉「由良温泉センター」(300円)
     波戸崎温泉(廃業湯)
     湯の瀬温泉(入浴のみ不可)
2892、立岩海底温泉「立岩海底温泉」(400円)
2893、温海温泉「正面湯」(200円)

(新潟)
     ゆり花温泉(休業中)
2894、朝日まほろば温泉「朝日まほろば温泉」(410円)
2895、瀬波温泉「龍泉」(840円)
2896、塩の湯温泉「サンセット中条」(350円)
2897、胎内温泉「胎内パークホテル」(1泊朝食6000円)
2898、貝屋温泉「さくらの湯」(500円)
2899、聖籠観音温泉「ざぶ~ん」(700円)
2900、天神の湯温泉「天神の湯」(600円)
2901、御神楽温泉「みかぐら荘」(500円)
2902、七福温泉「七福荘」(500円)
2903、きりん山温泉「富久住」(500円)
2904、かのせ温泉「赤湯」(300円)
     角神温泉(入浴のみ不可)
2905、津川温泉「津川高原保養センター」(300円)
2906、秋葉温泉「花月」(950円)
2907、椎崎温泉「佐渡グリーンホテルきらく」(1朝食7500円)
2908、両津温泉「佐渡シーサイドホテル」(500円)
2909、住吉温泉「両津健康保養センター」(350円)
2910、新穂潟温泉「新穂潟温泉」(500円)
2911、はたの温泉「松泉閣」(500円)
2912、仙道温泉「湯林荘」(390円)
2913、真野温泉「ゆとりぴあ真野」(500円)
2914、城ヶ浜温泉「あかどまり」(500円)
2915、はもち温泉「クアテルメ佐渡」(500円)
2916、小木温泉「おぎの湯」(500円)
     八幡温泉(入れず)
2917、相川温泉「ワイドブルーあいかわ」(600円)
2918、金井温泉「金北の里」(600円)
     「東横イン 新潟駅前」(1泊朝食6510円)
2919、西方の湯温泉「西方の湯」(500円)
2920、新津温泉「新津温泉」(300円)
     咲花温泉「湯元館」(600円)
2921、松村さくらんど温泉「松村さくらんど温泉」(600円)
2922、金割温泉「金割鉱泉」(500円)
2923、亀徳泉温泉「亀徳泉」(500円)
2924、湯田上温泉「ホテル小柳」(600円)
2925、田上ごまどう温泉「湯っ多里館」(600円)
2926、こすど温泉「花の湯館」(500円)
2927、加茂温泉「美人の湯」(500円)
2928、下田八木ヶ鼻温泉「いい湯らてい」(650円)
2929、越後長野温泉「嵐渓荘」(1泊朝食12000円)
2930、大野温泉「大野鉱泉大野館」(500円)
     荷頃温泉(中越地震で温泉が止まっている)
     種芋原温泉(廃業湯)
     あまやちの湯(500円)※天然温泉ではない
     成願寺温泉(中越地震で建物が倒壊)
     愛鱗温泉(入れず)
2931、麻生田温泉「麻生の湯」(780円)
     桂温泉(定休日で入れず)
     見附温泉(廃業湯)
2932、名木野湯温泉「なぎの湯」(500円)
     田井ノ湯温泉(休業中)
2933、守門温泉「青雲館」(500円)
2934、寿和温泉「ひめさゆり荘」(500円)
     ニュー浅草岳温泉(入れず)
2935、神湯温泉「神湯とふれあいの里」(400円・割引)
2936、小出温泉「こまみの湯」(500円)
2937、芋川温泉「まんねん荘」(500円)
2938、折立温泉「やまきや旅館」(500円)
2939、栃尾又温泉「自在館」(1泊2食11280円)
2940、駒の湯温泉「駒の湯山荘」(500円)
2941、大湯温泉「村上屋旅館」(500円)
     葎沢温泉(廃業湯)
2942、薬師温泉「ゆーパーク薬師」(600円)
2943、中子沢温泉「老人憩いの湯」(350円)
2944、越後捕佐温泉「てじまや」(600円)
     市野沢温泉(廃業湯)
2945、河原沢温泉「幸栄館」(500円)
2946、六日町温泉「魚とし旅館」(1000円)
2947、五十沢温泉「ゆもとかん」(500円)
2948、畔池温泉「旅館こいし」(400円)
2949、栃窪温泉「早稲田屋」(500円)
2950、新島田温泉「金城の里」(300円)
     塩沢温泉「アクエリアス」(廃業湯)
2951、大沢山温泉「高七城」(1000円)
2952、丸山温泉「ホテル古城館」(500円)
2953、上野温泉「名月荘」(1泊2食6620円)
2954、上ノ原高原温泉「いろりあん」(600円)
2955、梨ノ木平温泉「ホテルグリーンプラザ上越」(1000円)
     舞子温泉(休業中)
2956、二十日石温泉「石打ユングパルナス」(900円)
2957、湯沢温泉「山の湯」(400円)
2958、神立温泉「神立の湯」(1000円)
2959、苗場温泉「雪ささの湯」(800円)
2960、二居温泉「宿場の湯」(600円)
     貝掛温泉(入れず)
     三俣温泉(休業中)
     岩の湯(定休日で入れず)
     岩原温泉「のんのん湯」(休業中)
2961、中里温泉「エンゼルグランディア中里」(1000円)
2962、清津峡温泉「清津館」(700円)
2963、松之山温泉「凌雲閣」(1泊朝食8000円)
     辰の口温泉「渓泉荘」(休業中)
2964、まつだい芝峠温泉「雲海」(500円)
2965、じょんのび温泉「楽寿の湯」(450円)
     月湯女温泉(休業中)
     松葉沢温泉(天然温泉ではないのでパス)
2966、千手温泉「千年の湯」(500円)
2967、下条温泉「みよしの湯」(400円)
2968、逆巻温泉「川津屋」(500円)
2969、結東温泉「萌木の里」(500円)

(長野)
2970、小赤沢温泉「楽養館」(300円)
2971、屋敷温泉「秀清館」(500円)
2972、上野原温泉「のよさの里」(300円)
2973、和山温泉「仁成館」(500円)
2974、切明温泉「河原の露天風呂」(無料)

(新潟)
2975、鹿渡温泉「鹿渡館」(1泊朝食6500円)
2976、グリーンピア津南温泉「ニュー・グリーンピア津南」(500円)
2977、妻有温泉「ゆくら妻有」(500円)
2978、津南駅前温泉「リバーサイド津南」(500円)
2979、竜ヶ窪温泉「竜神の湯」(500円)
2980、小下里温泉「なごみの湯」(400円)
2981、北野温泉「北野天満温泉」(300円)
2982、宮野原温泉「宝山荘」(500円)

(長野)
2983、中条温泉「トマトの国」(300円)
2984、百合居温泉「百合居温泉」(100円)
2985、いいやま北竜温泉「文化北竜館」(800円)

(新潟)
2986、田中温泉「しなの荘」(500円)
2987、宮中島温泉「ミオンなかさと」(1泊朝食6400円)
2988、塩ノ又温泉「見晴館」(350円)
2989、二ッ屋温泉「鷹の湯」(350円)
2990、越後俵山温泉「やすらぎ荘」(350円)
2991、十日町温泉「明石の湯」(500円)
2992、月湯女温泉「月湯女荘」(300円)
2993、真人温泉「ふれあいメゾン」(500円)
2994、木津温泉「上の湯旅館」(400円)
2995、ちぢみの里温泉「ちぢみの里」(900円)
2996、長岡かまぶろ温泉「長岡かまぶろ温泉」(800円)
2997、蓬平温泉「和泉屋」(1000円)
     長岡湯沢温泉(廃業湯)
     長岡温泉(休業中)
2998、寺宝温泉「寺宝温泉」(500円)
2999、西谷温泉「中盛館」(400円)
3000、広田温泉「湯元館」(1泊2食9800円)
3001、灰下温泉「灰下の湯」(400円)
3002、青葉温泉「アクアーレ長岡」(700円)
3003、三島谷温泉「永久荘」(400円)
     地蔵温泉(休業中)
     油田温泉(廃業湯)
     宮本温泉(廃業湯)
3004、花みずき温泉「喜芳」(1000円・休日料金)
3005、塩之入温泉「志保の里荘」(500円)
     越の湯温泉(休業中)
3006、長崎温泉「てまりの湯」(500円)
3007、桜井郷温泉「さくらの湯」(950円)
3008、観音寺温泉「長生館」(600円)
3009、弥彦温泉「バーデンヴァイス」(750円)
3010、多宝温泉「だいろの湯」(800円)
「東横イン 新潟駅前」(1泊朝食6510円)
3011、白根温泉「関根旅館」(500円)
     湯の腰温泉(廃業湯)
3012、福寿温泉「じょんのび館」(850円)
3013、岩室温泉「よりなれ」(500円)
3014、田ノ浦温泉「旅館丸一」(500円)
3015、寺泊岬温泉「太古の湯」(600円)
     寺泊海岸温泉(入浴のみ不可)
3016、寺泊温泉「北新館」(600円)
3017、勝見温泉「勝見鉱泉」(400円)
3018、野積温泉「旅館のぞみ温泉」(1泊2食・特例)
3019、大崎温泉「雪割草の湯」(500円)
3020、柏崎潮風温泉「ソルト・スパ潮風」(900円)
3021、鯨波松島温泉「ホテルメトロポリタン松島」(500円)
3022、栃窪温泉「栃窪温泉」(500円)
3023、上下浜温泉「ハマナスふれあいセンター」(450円)
3024、長峰温泉「長峰温泉」(600円)
3025、鵜の浜温泉「見はらし」(400円)
3026、霧ヶ岳温泉「ゆあみ」(500円)
3027、大山温泉「あさひ荘」(450円)
3028、ゆきだるま温泉「雪の湯」(650円)
     「上越サンプラザホテル」(1泊朝食5700円)
3029、島道温泉「島道鉱泉」(300円)
3030、日向温泉「ホテル米本陣」(500円)
     多能温泉「多能鉱泉」(休業中)
3031、まるたき温泉「まるたき温泉」(500円)
     宇津俣温泉「深山荘」(休業中)
3032、鷹羽温泉「鷹羽鉱泉」(600円)
3033、ゑしんの里温泉「やすらぎ荘」(500円)

(長野)
3034、金平温泉「金平の湯」(200円)
3035、斑尾高原温泉「斑尾の湯」(800円)
3037、差切峡温泉「坂北荘」(400円)
     鳥立温泉(入浴のみ不可)
     湯ノ沢温泉(入れず)
     「やまなみ荘」(天然温泉でないのでパス)
     古坂温泉(入れず)
     「さざなみ」(入れず)
3038、大岡温泉「大岡温泉」(350円)
     水内温泉(廃業湯)
3039、奥裾花温泉「鬼無里の湯」(500円)
3040、戸隠神告げ温泉「神告げの湯」(600円)
3041、大豆島(まめじま)温泉「湯ったり苑」(650円)
     秋和温泉「秋和鉱泉」(1泊朝食5000円)
3042、岳の湯温泉「雲渓荘」(400円)
3043、唐沢温泉「唐沢鉱泉旅館」(700円)
3044、原村八ヶ岳温泉「もみの湯」(500円)

(山梨)
3045、御座石温泉「御座石鉱泉旅館」(1260円)
3046、青木温泉「青木鉱泉旅館」(1000円)
3047、大藪温泉「湯元 鈴木旅館」(710円)

(千葉)
     「東横イン 千葉みなと駅前」(1泊朝食6090円)
3048、湯場ノ原温泉「勝浦ロイヤルパークホテル」(1200円)
3049、勝浦温泉「オートキャンプ ニュー勝浦温泉」(特例)
3050、養老温泉「養老館」(1050円)

テーマ : 温泉
ジャンル : 旅行

中山道69次(4)

 スズキの125㏄スクーター、アドレスV125Gを走らせ、上州(群馬県)の中山道を行く。新町宿を通り倉賀野宿へ。倉賀野宿の入口は中山道と日光に通じる例幣使街道の追分。そこには閻魔堂が建ち、道標と常夜灯がある。

 例幣使街道いついては、案内板に次のように書かれていた。
「日光例幣使街道は13宿中、上州5宿(玉村・五科・芝・木崎・太田)、野州8宿となっている。正保4年(1647年)に第1回の日光例幣使の派遣があって以来、慶応3年(1867年)の最後の例幣使派遣まで、221年間、1回の中止もなく継続された」。

 倉賀野宿を過ぎると高崎宿だ。
 高崎は伊井直政の城下町だったので本陣や脇本陣は置かれなかった。昔から商業の町としてにぎわった高崎だが、その中心は高崎駅に近い田町。国道17号と国道18号の分岐点を過ぎると国道18号に入っていく。

 東京から高崎まで中山道は国道17号に沿っている。高崎を過ぎると国道18号沿いになる。さらにいえば、碓氷峠を越えた軽井沢から佐久までは県道、佐久から下諏訪までは国道142号、下諏訪から塩尻までは国道20号、塩尻からは国道19号…と、次々に変っていく。このあたりが国道1号の東海道との大きな違いだ。

 高崎宿の次は板鼻宿。ここは碓氷川の「徒歩(かち)渡し」で知られていたが、増水すると川止めになるので、50軒を超える旅籠があった。板鼻宿の次は安中宿。ここには安中藩の武家屋敷が残っている。安中宿を過ぎると「上毛三山」のひとつ、妙義山が次第に大きく見えてくる。松井田宿から見る妙義山の眺めは目に残る。

 松井田宿を過ぎると、名物の横川の「釜めし」を食べ、坂本宿を通って碓氷峠へ。旧道の峠道沿いの樹林は目が染まるほどの濃い緑。アドレスのアクセルを開いて峠道を登り、碓氷峠を越えて信州(長野県)に入った。

nakasendo2009-004-3809
新町宿の新町駅前

nakasendo2009-004-3813
nakasendo2009-004-3811
倉賀野宿の追分

nakasendo2009-004-3814
高崎の中心街

nakasendo2009-004-3815
板鼻宿の道祖神

nakasendo2009-004-3816
板鼻宿を流れる碓氷川

nakasendo2009-004-3818
安中宿お武家屋敷

nakasendo2009-004-3819
松井田宿から眺める妙義山

nakasendo2009-004-3820
横川の「釜めし」

nakasendo2009-004-3825
坂本宿の中山道

nakasendo2009-004-3833
碓氷峠を目指して登っていく

nakasendo2009-004-3832
碓氷峠のアプト式軌道跡

nakasendo2009-004-3834
碓氷峠の樹林

nakasendo2009-004-3835
碓氷峠を越えて信州に入っていく

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

中山道69次(3)

 武蔵国の一の宮、氷川神社の門前町としてにぎわった大宮宿から中山道(国道17号の旧道)を行く。新大宮バイパス(国道17号)、国道16号と横切り、上尾宿に入っていく。上尾宿の中心はJR上尾駅の周辺だ。

 つづいて桶川宿、鴻巣宿とスズキの125㏄スクーター、アドレスV125Gを走らせる。鴻巣宿は江戸時代より雛人形の産地として知られていた。

 鴻巣宿を過ぎると、いったん国道17号に合流し、国道沿いの食堂「峠茶屋」で昼食。「かつ丼」(600円)を食べた。

 国道17号で熊谷宿を走り抜け、つづいて旧道で深谷宿から本庄宿へ。
 深谷宿には常夜灯が残っている。それいは次のような説明があった。

「江戸時代、中山道深谷宿の東と西の入口に常夜灯が建てられ、旅人の便がはかられた。天保11年(1840年)の4月に建立されたもので、高さは約4メートル。中山道では最大級のものだ。深谷宿お発展を祈願して天下泰平・国土安民・五穀成就という銘文が刻まれている。これを建てたのは江戸時代の中頃から盛んになった富士講の人たち。(中略)。天保年間には深谷宿には約1・7キロの間に80軒もの旅籠があり、近くに中瀬河岸場があり、中山道きってのにぎやかさであった」。

 本庄宿には金鑚神社がある。祭神は天照皇大神、素戔嗚尊、日本武尊の3神で、社伝によると創建は欽明天皇の2年(541年)という古社。権現造りの朱塗りの社殿が目を引く。境内には欅や銀杏の老樹がおい茂り、大クスが御神木になっている。

 本庄宿を過ぎると埼玉・群馬県境を流れる神流川を渡り、群馬県に入った。

nakasendo2009-003-3791
上尾宿の中山道

nakasendo2009-003-3793
桶川宿の中山道

nakasendo2009-003-3794
桶川宿の案内図

nakasendo2009-003-3796
鴻巣宿の中山道

nakasendo2009-003-3797
熊谷の食堂「峠の茶屋」で昼食

nakasendo2009-003-3798
食堂「峠の茶屋」の「かつ丼」

nakasendo2009-003-3799
熊谷宿を貫く国道17号

nakasendo2009-003-3801
深谷宿に入っていく

nakasendo2009-003-3803
深谷宿の町並み

nakasendo2009-003-3804
深谷宿の常夜灯

nakasendo2009-003-3805
本庄宿の金鑚神社

nakasendo2009-003-3806
金鑚神社の大クス

nakasendo2009-003-3808
埼玉・群馬県境を流れる神流川

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

中山道69次(2)

 荒川を渡って埼玉県に入ると、国道17号沿いの「ロイヤルホスト」で朝食。「モーニングセット」(450円)を食べ、第2番目の宿、蕨宿に入っていく。

 ここには「中山道ふれあい広場」があって、参勤交代の様子が描かれた壁画がある。中山道の宿場の歴史を紹介する「歴史民俗資料館」(入館無料)もある。

 第3番目の浦和宿では調神社を参拝し、第4番目の大宮宿では武蔵国の一の宮、氷川神社を参拝した。

nakasendo2009-002-3765
「ロイヤルホスト」で朝食

nakasendo2009-002-3766
蕨宿に入っていく

nakasendo2009-002-3768
蕨宿の「中山道ふれあい広場」

nakasendo2009-002-3770
蕨宿の「参勤交代図」

nakasendo2009-002-3772
浦和宿に入っていく

nakasendo2009-002-3774
浦和宿の調神社を参拝

nakasendo2009-002-3775
浦和宿碑

nakasendo2009-002-3777
大宮宿に入っていく

nakasendo2009-002-3778
氷川神社の鳥居

nakasendo2009-002-3788
氷川神社の参道

nakasendo2009-002-3780
氷川神社の楼門

nakasendo2009-002-3783
氷川神社を参拝

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

中山道69次(1)

2009年5月13日(1)

 午前7時、日本橋を出発。スズキの125㏄スクーター、アドレスV125Gを走らせ、中山道を走り始める。「中山道69次」を走りきって終点の京都を目指すのだ。

 東京から高崎までは国道17号に沿っている。東大の赤門(加賀藩江戸屋敷の御守殿門)前を通り、JR山手線の巣鴨駅前からは地蔵通商店街に入っていく。この道が旧中山道。「おばあちゃんの原宿」のとげぬき地蔵(高岩寺)は朝早くから参拝者の姿が見られる。そのまま中山道旧道を走る。都電荒川線を渡り、明治通り(環状5号)を横切り、JR板橋駅前から最初の宿、板橋宿に入っていく。板橋宿は東海道の品川宿や甲州街道の内藤新宿宿同様、都内の宿場だ。

 板橋宿を走り、地名の由来ともなった板橋を渡り、幅広の国道17号(中山道)に出る。都営地下鉄の志村坂上駅前には志村の一里塚。国道17号の両側に一里塚が残っている。そこには次のように書かれている。

「江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長9年(1604年)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として1里(約4km)ごとに、道を挟んで築かれました。志村の一里塚は本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道第3番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830年)の『新編蔵風土記稿』では『中山道往還の左右にあり』と紹介されています。

 幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治9年(1876年)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和8年からおこなわれた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。今日、現存する一里塚は全国的にも非常に稀なもので、都内では北区西ヶ原と志村の2ヵ所だけです。そのため交通史上の重要な遺構として、大正11年(1922年)に国の史跡に指定され、昭和59年に板橋区の史跡に登録されました」

 志村からは中山道の坂を下り、環8との交差点を過ぎ、荒川にかかる戸田橋を渡って埼玉県に入った。

nakasendo2009-001-3751
東京・日本橋を出発!

nakasendo2009-001-3753
東大の赤門

nakasendo2009-001-3754
巣鴨の地蔵通り商店街

nakasendo2009-001-3755
nakasendo2009-001-3756
「とげぬき地蔵」の高岩寺

nakasendo2009-001-3758
板橋駅

nakasendo2009-001-3760
旧中山道の道標

nakasendo2009-001-3762
志村の一里塚

nakasendo2009-001-3764
荒川を渡って埼玉県へ

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

300日3000湯めぐり・データ(16)

「北海道編・稚内→函館」(2007年9月26日~10月3日)

(北海道)
2728、ぽんぴら温泉「ポンピラクアリズイング」(400円)
2729、天塩川温泉「天塩川温泉」(400円)
2730、びふか温泉「びふか温泉」(400円)
2731、なよろ温泉「サンピラー」(400円)
2732、剣淵温泉「レークサイド桜岡」(420円)
2733、東神楽温泉「森のゆ花神楽」(600円)
2734、旭岳温泉「グランドホテル大雪」(1泊朝食11800円)
2735、龍乃湯温泉「龍乃湯温泉」(500円)
2736、協和温泉「協和温泉」(400円)
2737、愛山渓温泉「愛山渓倶楽部」(500円)
2738、士別温泉「ホテル美乃湯温泉」(700円)
2739、日向温泉「日向温泉」(300円)
2740、五味温泉「五味温泉」(400円)
2741、手塩温泉「夕映」(500円)
2742、はぼろ温泉「サンセットプラザはぼろ」(1泊朝食7000円)
2743、旭温泉「旭温泉」(500円)
2744、しょさんべつ温泉「岬の湯」(500円)
2745、とままえ温泉「ふわっと」(500円)
     「ななかまど館」(390円)※天然温泉ではない
2746、神居岩温泉「ホテル神居岩」(500円)
2747、岩尾温泉「あったま~る」(500円)
2748、浜益温泉「浜益保養センター」(500円)
2749、石狩温泉「番屋の湯」(900円)
2750、江別温泉「富士屋旅館」(1泊朝食6450円)
2751、札幌手稲温泉「極楽湯」(390円)
2752、朝里川温泉「花の湯朝里殿」(600円)
2753、余市川温泉「宇宙の湯」(390円)
2754、ふるびら温泉「一望館」(500円)
2755、積丹温泉「岬の湯」(600円)
2756、シララ温泉「シララ姫の湯」(500円)
2757、珊内ぬくもり温泉「珊内ぬくもり温泉」(500円)
2758、神恵内温泉「竜神荘」(500円)
2759、998温泉「998温泉」(500円)
2760、盃温泉「国民宿舎 もいわ荘」(1泊2食9700円)
2761、いわない温泉「いこいの湯」(500円)
2762、雷電温泉「観光かとう」(500円)
2763、朝日温泉「三浦温泉旅館」(600円)
2764、赤井川温泉「赤井川カルデラ温泉」(400円)
2765、よいち観光温泉「よいち観光温泉」(380円)
2766、鶴亀温泉「鶴亀温泉」(600円)
2767、はまなす温泉「日本海余市保養センター」(600円)
2768、ブコッペ温泉「天山楽」(600円)
2769、ワイス温泉「ワイス温泉」(1泊朝食5085円)
2770、倶知安温泉「ホテルようてい」(700円)
2771、ニセコ五色温泉「ニセコ五色温泉旅館」(500円)
2772、ニセコ湯本温泉「国民宿舎 雪秩父」(500円)
2773、ニセコ昆布温泉「ニセコグランドホテル」(700円)
2774、ニセコアンヌプリ温泉「ホテルニセコいこいの村」(700円)
2775、ニセコ東山温泉「ニセコ東山プリンスホテル新館」(1000円)
2776、ニセコひらふ温泉「ひらふ亭」(800円)
2777、ニセコワイス高原温泉「ワイス寶亭留」(特例)
2778、ニセコ湯の里温泉「百壽温泉清山荘」(500円)
2779、ニセコ薬師温泉「ニセコ薬師温泉」(300円)
2780、ニセコ昆布川温泉「幽泉閣」(500円)
2781、ニセコ新見温泉「新見本館」(500円)
2782、黒松内温泉「ぶなの森」(500円)
     寿都温泉(定休日で入れず)
2783、宮内温泉「宮内温泉」(450円)
2784、千走川温泉「千走川温泉」(400円)
     漁火温泉(廃業湯)
2785、モッタ海岸温泉「モッタ海岸温泉」(1泊朝食5500円)
     北檜山温泉(休業中)
2786、ねとい温泉「ねとい温泉」(400円)
2787、今金温泉「あったからんど」(390円)
2788、種川温泉「種川温泉」(390円)
2789、ピリカ温泉「クアプラザピリカ」(500円)
2790、奥美利河温泉「山の家」(300円)
2791、せたな温泉「せたな町公衆温泉浴場」(350円)
2792、臼別温泉「湯とぴあ臼別」(100円)
2793、貝取澗温泉「大成国民温泉保養センター」(360円)
2794、ひらたない温泉「あわびの湯」(450円)
2795、熊の湯温泉「熊の湯温泉」(無料)
2796、見市温泉「見市温泉」(500円)
2797、鳥山温泉「ゆりの里活性化センター」(300円)
2798、おとべ温泉「いこいの湯」(400円)
2799、江差温泉「ぬくもり温泉」(380円)
2800、蛾虫温泉「蛾虫温泉旅館」(400円)
2801、うずら温泉「うずら温泉」(1泊朝食5500円)
2802、館温泉「いこいの家」(380円)
2803、花沢温泉「花沢温泉」(200円)
2804、湯の岱温泉「保養センター」(380円)
2805、松前城温泉「矢野旅館」(600円)
     松前温泉(休業中)
2806、吉岡温泉「ゆとらぎ館」(400円)
2807、知内温泉「知内温泉」(380円)
2808、こもれび温泉「こもれび温泉」(400円)
2809、木古内温泉「びゅう温泉のとや」(500円)
2810、亀川温泉「枕木山荘」(500円)
     七重浜温泉「ホテル海王館」(素泊まり5000円)

テーマ : 温泉
ジャンル : 旅行

「伝説の賀曽利隆オンライン」(25)

(2001年10月10日)

 10月6日(土)、10月7日(日)の両日、静岡市の梅ヶ島キャンプ場でおこなわれた「道祖神」主催のキャンプミーティング、「海外ツーリングの宴」に参加し、100人近い参加者のみなさんたちとおおいに語りあい、夜は焚き火を囲んでおおいに飲みあってきました。

 信州の入笠山から静岡の梅ヶ島に会場を移した「海外ツーリングの宴」も今年で9回目を数えます。年一度の「海外ツーリングの宴」は七夕のようなもので、その大半に参加しているぼくとしては、毎年の常連のみなさんとはすごくなつかしい気分で再会をはたしています。

 今年は8月に走った「道祖神」のバイクツアー、「キャニングストックルート」の報告会をも兼ね、みなさんに20枚のスライドを見てもらい、そのあとで、「キャニングストックルート」をすでに4度も走破しているYSP横浜南代表の佐々木さんとのトークをしました。佐々木さんの「キャニングストックルート」にかけた情熱は大変なものです。

 一緒に「キャニングストックルート」を走った「キャニング軍団」の黒ちゃん(黒岩文雄さん)、まさやん(白川眞武さん)、かんちゃん(生井完治さん)、まっちゃん(松本秀樹さん)も参加してくれました。

 オフロードバイク誌『バックオフ』編集長の瀬戸雅彦さんが取材に来てくれましたが、今回の「キャニングストックルート」は次号の『バックオフ』(11月6日発売)でレポートさせてもらいます。「写真がいいですよ!」と瀬戸さんはいってくれてます。みなさん、次号の『バックオフ』をどうぞご期待下さい。

 11月24日(土)、25日(日)は「カソリONLINE」主催の第3回「たき火ふぉ~らむ」が開催されます。今回は会場を神奈川県の津久井町から山梨県道志村の「道志の森キャンプ場」に移しての「たき火ふぉ~む」です。

 カソリの「島編・日本一周」の途中までの報告と「キャニングストックルート」をテーマにしてのもんがぁ~さとみさんらとのトーク、「朝鮮半島ツーリング」をテーマにしてのやひさんとのトークなどを予定しています。みなさん、どうぞふるってご参加下さい。そしてたき火を囲み、おおいに語り、飲み明かしましょう。

「渓流浴友の会」会長のワニーさんは、恒例の渓流浴を予定しているようです。冷たい渓流で、みんなで「うおおおおおおー!」と叫びましょう。
                         

(2001年10月31日)

「島めぐり日本一周」の「本州西部編」を終えて帰ってきました。

 今回は「大阪→下関」間では瀬戸内海の島々をめぐり、「下関→東京」では日本海の島々をめぐりました。それにしても、“日本の多島海”の瀬戸内海はすごかったですよ。まさに島また島。まるで山々が連なっているかのように島々が連なっています。島を一周すると、いくつもの島を見ることができます。「アイランドウオッチング」は楽しいものです。本土側の海沿いの道を走っていてはなかなか見えない多島海の瀬戸内海を自分の肌で実感してきました。

「島めぐり日本一周」も「本州東部編」や「北海道編」では、少ない島の数に頭を痛めましたが、今回はまったく逆。あまりにも多い島数なので、どの島をめぐって、どの島を落とすかで頭を痛めました。

 今回は「本州西部編」ということで、兵庫県、岡山県、広島県、山口県の4県に属する島々をまわりましたが、そのうちフェリーで渡れる島、橋で渡れる島を優先してまわりました。瀬戸内海の島々に渡るフェリーは便数が多く、料金も安いのが大きな特徴で、尾道と対岸の向島に渡るフェリーなどは人、バイクともで110円ときわめて安いものでした。便数も頻繁にあります。

 瀬戸内海の島の数では、4県の中では広島県が圧倒的に多かったですが、本土側と橋でつながっている島が思っていた以上に多いのには驚かされました。

 内海大橋で渡る田島、尾道大橋で渡る向島、向島から「しまなみ海道」の因島大橋で渡る因島と生口橋で渡る生口島、大芝大橋で渡る大芝島、安芸灘大橋で渡る下蒲刈島と上蒲刈島、音戸大橋で渡る倉橋島、早瀬大橋で渡る能美島などで、そのうち「しまなみ海道」は歩行者、自転車、原付専用通路ができています。山口県にも大島大橋で渡る周防大島、笠戸大橋で渡る笠戸島などがあります。

 下関からは山口県の萩港から渡った見島、鳥取県の境港から渡った島根県の隠岐などをまわり、最後に能登半島の能登島をまわって帰ってきました。これで「北海道編」、「本州編」を終えたわけですが、ここまでで80余の島々をめぐったことになります。

 11月24日、25日の「たき火ふぉ~らむ」では、そのあたりのことをも含めて「島めぐり日本一周」の途中経過を報告します。みなさん、ぜひともご期待下さい。                             

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

最近の記事
月別アーカイブ
小さな天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2カウンター
QRコード
QRコード

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。