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「伝説の賀曽利隆オンライン」(43)

(2003年5月12日)

 5月11日、ジェベル250GPSを走らせ、浜松から国道1号、151号経由で愛知県の豊川まで行き、早朝の豊川稲荷に参拝しました。そのあと、国道151号との分岐から国道362号に入りました。

 国道362号は豊川が起点。県境の本坂峠を越えて静岡県に入り、奥浜名湖の湖畔の道を走りました。このあたりが一番の絶景ポイント。天竜(二俣)を過ぎると一気に山中に入り、春野町と中川根町の境の峠を越えて、大井川の流れへと下っていきました。

 このあたりの山村が日本でも最高の品質を誇る「川根茶」の産地。山々の斜面の茶畑では茶摘みのまっ最中でした。

 本川根町からは最後の峠を越え、清水市と合併して日本で最大の市域となった静岡市に入りました。最後は静岡駅近くで国道1号にぶつかりましたが、ここが国道362号の終点。1日がかりで1本の国道をおもしろく走ることができました。

 ぼくは今から20数年前の第1回目の「日本一周」を終えたあと、日本の全国道を起点から終点まで走破しようと、「国道走破行」をはじめました。

 十数年をかけて百数十本の国道を走破した1993年4月1日、この日をもって日本の国道は大幅な変更となり、本数は増え、また多くの国道も、大幅に延長されました。

 正直いって「ガックリ…」でした。仕方ないので、あらたに「国道走破行」を始めようとしたのですが、なかなか気分がのらず、なんと再スタートを切った1993年は全線を走破した国道はゼロ本でした。翌年の1994年からは増えはじめていったのですが、国道362号がまだ82本目でしかありません。

 最近、また「国道走破行」には熱い気分で取り組んでいますので、これからはグッと本数を増やしていきたいと思っています。

 我々ツーリングライダーは国道というと何気なく走ってしまいますが、1本の国道をきちんと意識し、その起点から終点(もちろん終点から起点でもOKです)までを通して走ってみると、同じ国道でも今までとは違って見えるものです。

「さー、日本の全国道の走破を目指そう!」
 とカソリ、気合を入れています。


(2003年5月25日)

 5月17日、18日の両日、三重県の奥香肌峡でおこなわれた「関西林道キャンプ会」に参加しましたが、その出発点は神奈川県の平塚市でした。「ユーラシア大陸横断」1万5000キロを走ったバイク、スズキDR-Z400Sを走らせ、国道129号で橋本(相模原市)へ。そこからは国道413号で山伏峠を越えて山中湖へ。

 138号経由で国道469号に入り、桜峠を越えて国道52号に出、清水(静岡市)へ。さらに149号、150号と走りつないで浜松に出ました。国道1号経由で愛知県の豊橋からは国道23号に入り、名古屋中心街の南側を通り、終点の伊勢の伊勢神宮内宮へ。こうして6本の国道の全線を走破して奥香肌峡まで行ったのです。

 国道の起点から終点までを走る「国道走破行」が今、おもしろくって、この2週間あまりで20本近い国道を走り、全線を通して走った国道の数はちょうど100本になりました。今年はこれからもおおいに「国道走破行」をやろうと思っています。

 話は変わりますが、一昨年、岩波ジュニア新書(岩波書店)で『なぜ私はこの仕事を選んだのか』を何人かの方々と一緒に書きました。岩波ジュニア新書というのは岩波新書のジュニア版で中学生から高校生あたりの若いみなさんを対象にしています。

 これを書かせてもらったことがきっかけとなり、今年の夏、「岩波書店創業90周年記念」と銘打った「岩波ジュニア新書セミナー」で話をさせてもらうことになりました。題して「世界を駆けるゾ!」。日時は8月7日、会場は岩波アネックスビル3階のセミナールーム(東京都千代田区 地下鉄の神保町駅下車すぐ)、参加費1000円、定員は40名。問い合わせ先は「岩波ジュニア新書セミナー係」です。

 参加者は中学生、高校生に限定されますが、若いみなさん方に熱い気分で話をしようと、今からカソリ、気合を入れています。と同時に、そこで出会う中高生から若い力をもらおうと、けっこう期待もしています。

 ぼくが「バイクでアフリカ大陸を縦断しよう!」と思い立ったのは高校3年生のときのこと。中学生のころは「大きくなったら自分はシルクロードの探検家になるんだ!」と本気で憧れていました。あのころの自分の気持ちに立ち返って、あのころの自分の熱い気分をみなさんに伝えられたらと思っています。
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テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

「伝説の賀曽利隆オンライン」(42)

(2003年4月25日)

 新型肺炎のSARS(サーズ)が猛威をふるっています。これにはまいりました…。感染源とされる中国では患者数が2000人を突破し、中国政府のSARS隠しもあって、世界中に衝撃を与えています。旅行客も激減で香港を拠点とする大手航空会社は倒産寸前といった噂も流れています。

 ぼくにとって何がまいったかというと、みんさんにお伝えしてきた「中国・東北地方ツーリング」のバイクツアー、「中国・北朝鮮国境2000キロを行く!」への影響で、もうこれは中止するか、もしくは延期するしかないなと弱気になっていました。

 で、そのことを告げようと、昨日、このバイクツアーを実質的に主催する「ツアー・プランアーズ・オーバーシーズ」社長の藤間剛さんに会いました。

 すると藤間さんには「なあ、カソリ、中国には何人、いると思う。12億だぞ!」といわれてしまいました。12億人のうちの2000人などは、数のうちにも入らないくらいの微々たるものだというのです。なるほど。それと、すでに申し込まれた何人ものみなさんのことを考えると、そう簡単に中止するとか延期するなどともいえません。

 とうことで藤間さんと相談の結果、「中国・北朝鮮国境2000キロを行く!」は、予定どおりに決行することに決めました。

 昨日の時点では中国・東北地方からはSARSの感染者は1人も出ていませんし、我々の乗る飛行機も、「東京→瀋陽」の直行便で、北京空港などには立ち寄りません。この先、もし中国・東北地方が外務省の危険地域に指定され、危険情報の第3ランク、「渡航の延期をおすすめします」に指定されたときは、またそのときに考えようということになりました。

 SARSが1日も早く終息してくれることを心底、願っています。

 ところで5月29日に出発するこのバイクツアーですが、5月から6月にかけては、中国・東北地方は1年のうちでも一番、よい季節だといいます。参加されるみなさんには、中朝国境地帯という世界のホットラインを見ていただくだけでなく、存分に中国・東北地方のすばらしさをも楽しんでもらえたらと思っています。「中国・北朝鮮国境2000キロを行く!」のお問い合わせ、並びに参加申し込みは「ツアー・プランアーズ・オーバーシーズ」までお願いします。

 また「バイクはちょっと…」という方には、同行のマイクロバスに乗って行くという方法もあります。
 みなさ~ん、ぜひとも一緒に中朝国境を、中国・東北地方を駆けめぐりましょう!


(2003年4月30日)

 非常に残念であり、悔しいことでもあるのですが、「中国・東北ツーリング」の「中国・北朝鮮国境2000キロを行く!」のバイクツアーは急きょ中止することにしました。 新型肺炎のSARS(サーズ)がますます猛威をふるい、「北京封鎖か?」などという新聞の大見出しを見ると、仕方のない決定でした。このバイクツアーを楽しみにして参加を申し込まれたみなさんには、なんとも申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 このバイクツアー実現のために、日本側で実際に動いた「ツアー・プランナーズ・オーバーシーズ」社長の藤間剛さんにも同様の気持ちです。

 今から35年前、同じオランダ船の「ルイス号」に乗って日本を飛び出した仲間同士ということで、随分と無理を聞いてもらいました。藤間さんは「いやー、おもしろかった。久々に、俺の旅行屋としての心に火がつけられたよ」といって、今回の一部始終をおもしろがってくれたのが、せめてもの救いでした。

 また、中国側では瀋陽の「中国旅行社」の女性副社長、王麗華さんがじきじき動いてくれました。そのおかげで、ツアー料金以上の宿泊とか食事が可能になったのです。さらに王麗華さんのご主人は中国・遼寧省の公安トップの方で、ご主人の力添えもあって、今回のバイクツアーに特別な許可が降り、世界の緊張地帯といってもいい中国・北朝鮮国境をバイク・ツアーで走れるようになったのでした。

 ぼくは王麗華さんに会えるのをすごく楽しみしていました。彼女は遼寧大学に日本語学科ができたときの第1期生だといいます。娘さんは今、九州大学に留学中。日本人と見分けがつかないくらいに日本語が上手だといいます。このように、王麗華さんは中国でも第一級の知日派の方なのです。

 藤間さん、王麗華さんともに、今回のバイクツアーには同行してくれることになっていたので、お2人とはいろいろと旅の中で話せると期待していたのですが…。

 SARSが終息したら、また時期をあらためて、「中国・北朝鮮国境2000キロを行く!」を含めた「中国・東北ツーリング」をおこないたいと思っています。今回、参加の申し込みをして下さった方々を含め、どうぞみなさん、次回にご期待下さい。

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「伝説の賀曽利隆オンライン」(41)

(2003年3月1日)

 3月29日(土)、30日(日)の両日、高知県中村市の四万十川の中村赤鉄橋河川敷広場で、「四万十・黒潮エコライフフェア」が開催されます。様々なイベントがおこなわれますが、その目玉として3月29日の14時から16時まで、「地平線会議in四万十」がおこなわれます。

「地平線会議」世話人代表の江本嘉伸さんと若くしして7大陸の最高峰に登頂した石川直樹さん、それとカソリがパネルディスカッションで語り合います。翌日の3月30日の14時から16時にかけても、我ら「地平線会議」のメンバー多数が参加してのイベントが予定されています。「地平線会議」のメンバーの写真展もおこなわれます。

「四万十・黒潮エコライフフェア」の実行委員長をつとめるのは東京農業大学探検部OBの山田高司さん。山田さんはオリノコ川、アマゾン川、ラプラタ川の南米の三大河川、さらにはセネガル川→ニジェール川→シャリ川→コンゴ川→ナイル川のアフリカの大河と、「大河行」を重ね、3年あまりをかけて世界の川をめぐった人なのです。

 その後、山田さんはサヘル(サハラ砂漠の南側)の植林に情熱を燃やし、西アフリカのチャドで5年間も木を植えつづけ、そして故郷の四万十川の世界に戻ってきたのです。

 世界の大河を知りつくしている山田さんが、今度は四万十川に目を向けるというあたりが、じつにおもしろいですね。

 ぼくはこのイベントに合わせ、四国をバイクで走り、四万十川の河口から源流へ、さらには四国一の大河、吉野川の源流から河口へと走ってみようと思っています。

 1999年の「日本一周」のときにも、四万十川は河口から源流まで走ってみました。 何本もの支流が入り組んで流れる四万十川なので、どれが本流なのかわかりにくいのですが、中村から江川崎、大正、窪川、大野見と通り、「四万十源流温泉」に入り、153キロ走って「四万十源流の碑」に到着しました。

 さらに地芳峠からは最大の支流の梼原川に沿って下り、江川崎からは同じく支流の吉野川に沿って走り宇和島に出ました。こうして「日本一の清流」を存分に見てまわったのです。

 四万十川はじつにおもしろい川です。


(2003年3月25日)

 イラク戦争がはじまり、日ごとに戦闘が激しくなっています。1日も早く戦争が終結し、イラクの人々が満足し、納得できる形での新生イラクの誕生を願うばかりです。

 ところで、先日もこの欄でいったことですが、中国の東北地方(旧満州)はぼくの長年の憧れの地。この30余年間、バイクで世界の6大陸を駆けめぐってきましたが、いまだにこの地には足を踏み入れていないこともあって、その思いはつのるばかりでした。

 昨年の「ユーラシア大陸横断」の第1歩はロシアのザルビノ。ここは豆満江河口の港。ロシアと中国、北朝鮮の3国国境のすぐ近くです。間近に見える北朝鮮の山々、さらには中国の方向に目をやると、
「いつの日か、きっと3国国境に立ってやる!」
 という思いに強くかられたのでした。

 その夢が1年もたたずにかなえられるようになるとは!

「中国・東北地方ツーリング」の第1弾の「中朝国境を行く!」が、いよいよ実現に向けて動き出しました。

 5月29日から10日間の「賀曽利隆と中国・北朝鮮国境2000キロを行く!」のバイクツアーで、その詳細が決定しました。

 中国・東北地方最大の都市、瀋陽を出発点にし、鴨緑江、豆満江の中国・北朝鮮の国境地帯をメインにし、2110キロを走る予定です。

 鴨緑江に面した丹東では、対岸に北朝鮮の新義州の町を望みます。
 中朝国境の長白山(朝鮮名では白頭山)に登頂し、山頂の神秘の湖、天池を目の前にします。
 防川では展望台に立ち、中朝露3国の国境を流れる豆満江を見下ろします。

「賀曽利隆と中国・北朝鮮国境2000キロを行く!」のバイクツアーの参加費用は25万8000円。そのほかに特別許可代、ビザ代、空港税、バイクのレンタル料、ガソリン代などで9万円前後かかります。お問い合わせ、申し込みは(株)ツアー・プランナーズまでお願いします。

 この旅行社、「ルアー・プランナーズ」社長の藤間剛さんは、ぼくにとっては戦友のような人なのです。

 今から35年前(1968年)、横浜港からバイクともどもオランダ船の「ルイス号」に乗り、アフリカのモザンビークに向かいました。40日の船旅で一緒だったのが藤間さん。彼はその後、大西洋を渡り、ブラジルへ。1年あまり南米を放浪したのです。

 藤間さんは帰国後、大学を卒業すると大手旅行社に勤務し、現在の会社をつくりました。中国との太いパイプを持っている人で、藤間さんの中国での人脈があって、はじめて実現可能となった今回のバイクツアーなのです。

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「伝説の賀曽利隆オンライン」(40)

(2003年2月10日)

「賀曽利隆オンライン」の掲示板にも何度となく書き込みをしてくれている「満州さん」にお会いして、お話を聞いてきました。

「満州さん」は中国・東北部(旧満州)、吉林省の延辺朝鮮族自治州の延吉にある延辺大学に留学した人。中国と北朝鮮の国境地帯には、ものすごく詳しいのです。
 豆満江をはさんでの対岸の北朝鮮を各所から見ています。

 そんな満州さんのお話でとくに心に残ったのは、図們の町からさらに豆満江沿いに行った防川からは中国・北朝鮮・ロシアの3国国境が見えるということでした。丘の上の展望台に登ると、眼下を豆満江が流れ、その先の北朝鮮とロシアを結ぶ鉄道の鉄橋がよく見えるといいます。左手のロシア側がハサン駅だといいます。

 それを聞いたとき、
「なんとしても防川まで行って3国国境を見てみたい!」
 と強烈に思いました。

 ぼくはずっと以前から中国・東北部には憧れを持っていました。
 大連を出発点にして列車で遼寧省、吉林省、黒龍江省の3省をまわろうと計画したこともありました。が、残念ながらそれはいまだに実現させていません。

 昨年の「ユーラシア大陸横断」の第一歩は、ロシア極東のザルビノ港でした。そこはロシア・北朝鮮国境の豆満江の河口近くの港。北朝鮮の羅津港の沖合を通過してザルビノ港に入港しました。

 実際にバイクで走りはじめたのはウラジオストックからですが、第1夜目の宿泊地のダリネレチェンスクは中国との国境を流れるウスリー川(アムール川の支流)のすぐ近くの町で、対岸は黒龍江省の虎頭の町になります。

 ハバロフスクからはやはり中国国境に近いオブルチェを通り、アムール川沿いのブラゴベシチェンスクまで行きました。対岸は黒龍江省の黒河の町。アムール川の遊覧船に乗り、船上から間近に黒河の町並を眺めました。

 そんなこともあって、シベリアを横断しながら旧満州(中国東北部)を「いつの日か、バイクで走ってみたい!」と思ったのです。

 今、「中国・東北ツーリング」をプランしています。

 遼寧省の瀋陽あたりでバイクを借り、鴨緑江の河口に近い丹東へ。対岸は北朝鮮の新義州の町になります。中朝国境地帯を東へ、そして豆満江の河口を目指すのです。

 次に瀋陽から北へ。長春からハルビンを通り、さらにはロシア国境の黒河を目指すというものです。

 真っ赤な夕日が旧満州(中国東北部)の大平原に落ちていくシーンを見てみたい!

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「伝説の賀曽利隆オンライン」(39)

(2003年1月1日)

 みなさん、あけましておめでとうございます。

 昨年は「島めぐり日本一周」を終えたあと、「ユ-ラシア大陸横断」1万5000キロ、「東北周遊」1万3000キロ‥と、日本を世界をバイクで駆けめぐりましたが、今年もカソリ、「やるゾ!」と新年早々、決意を新たにしています。

 昨年の史上空前のバイクツアー「ユ-ラシア大陸横断」にひきつづいて、今年の「道祖神」主催の「カソリと走ろう!」シリーズのバイクツアーでは、夏、冬、2度に分けての南北アメリカ大陸ツーリングを計画しています。

 まず夏は「アラスカ縦断編」。

 アンカレッジを出発点にし、アラスカハイウェイの終点のフェアーバンクスから北極海に面したプルドベイを目指します。フェアーバンクスからプルドベイまでは700キロあまりのロングダート。

 ぼくはアラスカといえば、1973年にカナダのドーソンクリークからアラスカハイウェイ終点のフェアーバンクスまで走ったことがありますが、それ以来、30年ぶりのアラスカということになります。あのアラスカの広大な大自然の中をバイクで突っ走ると思うと、胸がワクワクしてきます。

 次に冬ですが(といっても現地では夏になりますが)、チリのサンチャゴを出発点にして世界最南の町、フェゴ島のウシュワイアを目指します。

 アンデス山脈の峠を越え、アルゼンチン側のパタゴニアを南下し、マゼラン海峡を渡ってフェゴ島に入ります。そしてビーグル海峡に面した南緯55度の世界最南の町、ウシュワイアを目指すのです。

 ぼくにとって南米は1984年から85年にかけての「南米一周」以来のことなので、無性になつかしさを感じます。そのときの「南米一周」では、
「マゼラン海峡を見たい!」
「マゼラン海峡を渡りたい!」
 というのが旅の大きな動機だっただけに、ぼくのマゼラン海峡に対する想いにはひとしおのものがあります。

 みなさん、今年もカソリ、世界を駆けめぐります。


(2003年1月15日)

 2003年の初ツーリング、みなさんはどこに行きましたか。
 ぼくは伊豆半島でした。

 1月4日、5日と西伊豆の「西伊豆オートキャンプ場」で世界最長ダート、オーストラリアのキャニングストックルートを一緒に走った仲間、「キャニング軍団」の集まりがあり、愛車のスズキDJEBELE250GPSバージョンを走らせ、それに行ってきました。

 いやー、寒かった…。
 途中、峠道でのアイスバーンを心配したのですが、国道136号の土肥峠は幸い、凍っていませんでした。ラッキー!

 西伊豆の仁科峠下にある「西伊豆オートキャンプ場」はなかなかいいところで、温泉つきなのです。民家風の家、1軒を借り、そこが我らの宴会場になりました。

 まさやん、まのちゃん、ももちゃん、かんちゃん、松ちゃんというなつかしい顔ぶれ。 ももちゃんは大金をはたいて、鹿児島から飛行機でかけつけてきてくれたのです。

 信州のまさやんは恐怖のアイスバーンの峠越えをしてきてくれました。

 唯一、信州の黒ちゃんに会えなかったのが残念。

 我ら「キャニング軍団」のメンバーのほかには倉本さん夫妻、谷内さん夫妻が参加してくれました。倉本夫人、谷内夫人と2人の奥さんともに魅力的な女性なので、いやはやいやはや、その場の盛り上がったこと。ビール、ワイン、ウィスキー、日本酒、焼酎の、何でもありありでチャンポンで飲んだものだから、新年早々、ひどい悪酔いをしてしまいました。でも、それがまた、なんともいえずに楽しかったのです。

 翌日はかんちゃんと大鍋林道を走り、河津浜の無料湯の露天風呂に入りました。

 大鍋林道は今年の第1本目の林道、河津浜温泉は今年の第1湯目の温泉ということになります。

「さー、今年も林道をガンガン走り、温泉に入りまくるゾー!」
 と、伊豆で叫ぶカソリでした。


(2003年1月30日)

 昨年の暮れ、自分の部屋を大掃除していると、ほこりにまみれたB4サイズの紙袋が棚のすみから出てきました。その中には1973年から翌74年にかけて、「六大陸周遊」と名づけてまわった1年半の旅を書いた原稿が入っていました。残念ながらそれは未完の原稿で、書き上げることができずに、途中で放り投げたものでした。

 すっかり忘れていましたが、その未完の原稿を読んでみると、今からちょうど30年前の自分の姿が鮮やかによみがえてくるのでした。未完の原稿を全部、読んでみたのですが、その結果、
「よーし、今、完成させてやろう!」
 という気になりました。
「今ならできる!」
 と思ったのです。

「六大陸周遊」の旅というのは、タイのバンコクを出発点にしました。

 列車でマレー半島に入り、ペナン島からマラッカ海峡対岸のスマトラ島のメダンに渡り、インドネシアの島々を東へ。
 ティモール島からオーストラリアに渡りました。

 オーストラリアをバイクとヒッチハイクで2周し、そのあとアフリカ→ヨーロッパ→北アメリカ→南アメリカという順番で各大陸をまわりました。

 ほんとうは2年がかりの旅になるはずだったのですが、最後の大陸、南米で持ち物すべてを盗まれ、ガックリきて「南米一周」を断念…。それで1年半で日本に帰ってきたわけです。

 原稿同様、旅も未完で終わった「六大陸周遊」ですが、バイクで「南米一周」したのはそれから10年後の1984年から翌85年にかけてのことでした。

 この「30年目の六大陸周遊記」をメルマガの「カソリング」で連載します。

 2月1日配信の号からの連載開始となります。長期の連載になりますが、みなさん、今から30年前の世界、ありあまるほどの体力とエネルギーを誇った20代半ばのカソリ、それらをぜひともお読みになって下さい。

 この「六大陸周遊」は、今までの自分の一連の旅の中でも、最も「世界を駆けるゾ!」にふさわしいものだと思っています。ただひたすらに、世界を駆けめぐりつづけました。その意味では、我が「世界を駆けるゾ!」の原点といっていいかもしれません。

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ジャンル : 車・バイク

「伝説の賀曽利隆オンライン」(38)

(2002年12月12日)

 屋久島から帰ってきました。なんとも心に残る屋久島の旅でした。
 今回は屋久島東海岸の安房を拠点にして島をまわりました。

 まずは「縄文杉」。カメラマンの小形又男さんと一緒でした。

 小形さんは縄文杉まで何度も行っているので、ぼくにとってはガイドのような方でした。荒川林道(舗装林道)の終点から森林軌道の線路内を歩き、三代杉を過ぎたところで急坂の山道に入り、翁杉、ウィルソン株、大王杉と見てまわり、歩きはじめてから7時間かけて縄文杉に到着。樹齢7200年といわれる縄文杉のあまりのすごさに圧倒されました。しばらくの間、その前にシートを広げ、座り込んで見ていました。

 その夜は近くの高塚小屋に泊まりましたが、屋久島縦走中のイギリス人のジェイを交え、屋久島の焼酎「三岳」を1本あけての宴会になり、おおいに盛り上がりました。

 翌朝は夜明けとともに縄文杉に戻り、その前で朝食にしたのですが、その最中に真っ赤な朝日が昇という感動的なシーンも見られました。

 安房に戻ると、50㏄のカブを借り、安房を拠点に島を全部で3周しました。

 第1周目は温泉めぐり。屋久島南部の尾之間温泉、平内海中温泉、湯泊温泉と3湯に入りました。尾之間温泉では共同浴場(入浴料200円)の湯に入りましたが、熱めの湯で、湯船の底の玉石の中からブクブク湧き出てきます。泉質抜群の湯です。

 平内海中温泉と湯泊温泉はともに海辺の露天風呂。ともに料金箱に100円を入れます。屋久島南端の海の眺めながら湯につかる気分はもう最高です。次に島北部の大浦温泉(入浴料300円)と楠川温泉(入浴料300円)の2湯に入りました。両方とも共同浴場で大浦温泉は湯船から海が見えます。楠川温泉は目の前が渓流。これら屋久島の5湯はそれぞれに特徴があって、なんとも楽しい島一周の温泉めぐりでした。

 安房では民宿「あんぼう」に3連泊し、第2周目の林道めぐり、第3周目の岬めぐりと「屋久島3周471キロ」を走ってきました。

 今回の屋久島は月刊『旅』(JTB)の取材。詳しくは来年の2月10日発売の月刊『旅』(3月号)をどうぞご覧下さい。屋久島大特集の号です。

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「伝説の賀曽利隆オンライン」(37)

(2002年11月15日)

 昨日は「ユーラシア大陸横断」1万5000キロを走ったスズキDR-Z400Sで、浜松のスズキ本社まで行ってきました。快晴で抜けるような空の青さ。静岡県に入ると、東名高速の御殿場や富士あたりから見る富士山は、「さすが日本一!」と思わせるほどの美しさ。

 スキッと透き通った青空を背にして、8合目あたりから上の雪の白さが、ひときわきわだっていました。

 同じ静岡県でも大井川を渡り、駿河から遠州に入ると、急に風が強くなりました。軽量のDR-Z400Sはフワッと吹き飛ばされそうになるほどの風の強さ。それもじつに冷たい風で、まさに「遠州のからっ風」。西高東低の気圧配置といい、風の冷たさといい、「冬間近」を思わせるものでした。

 ロシア極東のウラジオストックを出発点に、ヨーロッパ最西端のロカ岬をゴールにした「ユーラシア大陸横断」ですが、DRはその間の1万5000キロを完璧に走ってくれました。ほとんど全コースを120キロ、ドイツのアウトバーンでは140~150キロ、シベリアのダートでも100キロ以上の高速で走りつづけたのですが、ノントラブルで走りきってくれただけでなく、さらにすごいのは日本での慣らしの1000キロを含めると1万6000キロをまったくパーツ交換をすることなく走ってくれたことです(厳密にいえばエンジンオイルを交換し、オイルフィルターを交換していますが)。

 すでにリアのタイヤは限界に近づき、ツルツル状態ですが、フロントのタイヤはまだしっかりとパターンが残り、もう5000キロぐらいはきっと大丈夫でしょう。それとチェーンがやはり限界に近づいており、延びが早くなってきています。

 スズキ本社ではスズキ技術陣のみなさんにDRを見てもらいました。みなさんは日々、ハードなテストを繰り返していますが、1万6000キロもの実走耐久テストはそうそうできることではなく、DRを興味深そうに見ていました。

 ということでDRをスズキ本社においてきました。技術陣のみなさんは1万6000キロ走行のマシンの磨耗度や疲労度を入念にチェックし、データを取るとのこと。「ユーラシア大陸横断」を無事に走りきれたのは、すべてDRのおかげなので、なにかすこしでも恩返しをすることができたような気分です。浜松からの帰りは新幹線でしたが、夕空を背にした紫色の富士山も、はっと息を飲むような美しさでした。


(2002年11月25日)

 11月23日の第4回「たき火ふぉ~む」には、大勢のみなさんに参加していただき、ほんとうにありがとうございました。寒空のもと、おまけに雨という最悪の状況にもかかわらず、日本中から100人を超えるみなさんが集まって下さったのは、まさに奇跡としかいいようがないですよね。

 奇跡といえば、ぼくも今回は奇跡を体験しました。

「たき火ふぉ~らむ」の前の晩は、大カゼで最悪の状態。ゴホン、ゴホンとせきがひどく、のどをやられ、声がほとんど出ない状態でした。熱っぽく、体は鉛のような重さ。おまけにすごくいやなことがあって、それが心にトゲのようにひっかかり、心も鉛のような重さ‥。すっかり落ち込んだ気分で、「これじゃあ、明日は行けないよな‥」となかば、諦めていました。

 ところが「たき火ふぉ~らむ」の当日、「よし、行こう!」と心を決めて、バイクにまたがった瞬間、まるで電気に打たれたかのように体がシャキッとするのです。

「これならば、道志まで行けるゾ!」
 と、降りだした雨も気にならず、カソリ、すっかり気分をよくしたのです。

 なにしろ声が出ないので、みなさんに話をできなかったら、
「いやー、すいません、すいません」
 で、謝って許してもらおうと思ってました。

「たき火ふぉ~らむ」の会場の「道志の森キャンプ場」に到着し、みなさん方の顔を見たとたんに、熱なんかは瞬間、どこかに吹っ飛んでしまいました。
「エッサ、エッサ」
 と、たき火用の大木を運んで大汗をかいたのも、きっとよかったのでしょうね。

「東北1万キロ」、つづいての「ユーラシア大陸横断」の報告と、マイクを手にしたら、何とそこそこ声も出るではないですか。

 人間の体って、ほんとうに不思議ですよね。気持ちひとつでどうにでもなってしまう。ぼくが今回のこの奇跡を体験できたのは、みなさん、お一人、お一人からパワーをいただいたおかげです。

「もうダメだ‥」と思って「たき火ふぉ~らむ」に行くのを断念していたら、今ごろ、まだ寝込んでいたことでしょう。

 この季節にキャンプしようという面々ですから、「たき火ふぉ~らむ」の参加者は男女年齢をとわず、みなさんパワフルなツワモノ揃い。寒空を熱くするほどの熱気をみなさんと共有できたことを心底、うれしく思っています。

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「伝説の賀曽利隆オンライン」(36)

(2002年10月3日)

 1ヵ月あまりをかけた「東北1万キロ」から帰ってきました。いや~、東北はおもしろいですよ!

 今回の「東北1万キロ」は、正確にいうと全行程9437キロ。その間では105湯の温泉に入り、72峠を越え、29岬に立ち、これはという東北の食べ物を29食を食べてきました。

 徹底的に東北の温泉を巡った「東北1万キロ」。下北半島では自分の記録となる1日20湯を目指しましたが、残念ながら1日18湯のタイ記録。

 その日はひと晩泊まった青森県三沢市の太郎温泉の朝風呂を第1湯目とし、同じく三沢市内にある六川目温泉を第2湯目にし、下北半島に入っていきました。石神温泉、奥薬研温泉、下風呂温泉‥と入りまくり、むつ市内の斗南温泉が第17湯目。

 すっかり日の暮れた国道279号を突っ走り、横浜温泉に行ったのですが、残念ながら時間切れで閉まっていました。悔しかった‥。

 で、最後の18湯目は野辺地のタカラ温泉。ここは公衆温泉浴場です。湯から上がるともうグッタリ。心臓もパックンパックン状態。腰が抜けてしまうんですね。おしかったのは薬研温泉とむつ市内の温泉にもうすこし入ればよかったなあ‥ということでした。そうすれば1日20湯も達成できたはずなのです。

 昨年の「仙台→米沢」にひきつづいての、今年の「三沢→野辺地」の1日18湯。
「よーし、今度こそ、1日20湯を達成するゾ!」
 と、気分を新たにし、温泉に燃えるカソリなのです。

 峠越えでは今までほとんど越えていなかった阿武隈山地北端の峠群を越えられたのがよかったです。八甲田や八幡平の峠では、すでの紅葉がはじまっていました。

 食べ物では福島県の小名浜漁港の戻りガツオと旬のサンマの刺し身がうまかったです。あらためて小名浜は刺し身のうまいところだと実感。宮城県のかっては捕鯨でおおいに栄えた鮎川漁港では、港近くの「黄金ずし」で日本で唯一?の「鯨ずし」を食べました。握りのネタのミンククジラの赤身と白身の脂が絶妙の取り合わせでした。

 今日、これから「東北1万キロ」の第2弾に出発します。今回は南部に限ったエリアですが、東北をもうすこしめぐってきます。


(2002年10月29日)

 今日はうれしい一日でした。

「ユーラシア大陸横断」のバイク、スズキDR-Z400Sを横浜港に引き取りにいったのです。横浜港の大黒埠頭には「ユーラシア軍団」のみなさんが続々と集まりました。

「道祖神」の菊地優さん、メカニックの小島努さんのほかに、水島治さん、菊池久さん、日向野淳さん、新保一晃さん、掛下文彦さん、伴在哲さん、後藤章浩さん、石井敬さん、本岡賀生里さん、それとカソリと、19名のメンバーのうち、なんと12名のみなさんが日本各地から集まりました。さらに佐藤賢次さんの代理として息子さんが来ました。

 8月15日に成田空港で別れて以来、まだそれほど日がたっているわけでもないのですが、「ユーラシア軍団」のみなさんとの再会は胸がジーンとするほどなつかしいものでした。1万5000キロの「ユーラシア大陸横断」を走りきった自信がみなさんにみなぎっているのがよくわかりました。6月28日に富山県の伏木港で会ったときとは、ずいぶんと違う印象をみなさんからは受けました。

「ユーラシア横断」から帰ったあと、日向野淳さんと後藤章浩さんは2人でニュージーランドを走ってきました。ものすごい強風にあおられながら走ったこと、80キロもつづく海岸の長い砂浜を走ったこと、ニュージーランドのフィッシュ&チップスのびっくりするほどのものすごい量の多さなどを話してくれましたが、日向野さんには「ニュージーランドは最高。カソリさんもぜひとも走りにいったらいいですよ」といわれました。

 新保一晃さんは風間深志さんらとモンゴルを走ってきました。同行のメンバーが次々に転倒し、鎖骨を折ったり、肋骨を折るといったアクシデントの中で、新保さんは無傷で帰ってきました。

 60歳を超えている水島さんは来月、出発するのですが、4ヵ月がかりでの「オーストラリア一周」に挑戦します。水島さんには「カソリさん、今度は西アジア経由でユーラシア大陸を横断しましょう!」といわれました。

 桜田雅幸さんはいまだにユーロッパ周遊中で、すでに相当の距離を走っています。このように「ユーラシア軍団」の面々はものすごいパワーの持ち主たちです。マドリッドに到着する寸前に大事故を起こした林真司さんは今、日本の病院に入院していますが、日に日によくなっているとのことでひと安心といったところです。一日も早い全快を祈ります。 みなさ~ん、11月23日の「たき火フォ~ラム」でお会いしましょう!

「たき火ふぉ~らむ」では、写真をまじえての「ユーラシア大陸横断」の報告もします。

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ジャンル : 車・バイク

「伝説の賀曽利隆オンライン」(35)

(2002年9月1日)

 今日、これから「東北1万キロ」に出発します。

 スズキDJEBEL250XCを走らせ、30日をかけて東北を縦横無尽に駆けめぐろうと思っています。東北は日本一の温泉天国。いくつもの温泉に入ろうと期待に胸をふくらませています。東北には混浴の温泉も多いので、「いいことあるかなあ」なんて、そんな期待もしています。

 東北各地の郷土料理も、一食でも多く食べてみたいと思っています。

 東北を一周しながら、ひとつでも多くの岬に立ち、ひとつでも多くの峠を越えようと思っています。なにしろ“峠のカソリ”、“岬のカソリ”なのですから。

 今回の「東北1万キロ」はみなさんもお使いになっている昭文社の『ツーリングマップル』の取材を兼ねて行くものです。

『ツーリングマップル』は来年、大幅に改定されます。デジタル化され、ベースの地図も変わります。体裁も変わります。それにともなって内容も変わります。

 ぼくは『ツーリングマップル』の東北編を担当しているのですが、なにかすごく新たな気持ちで東北を見てまわれるような気分になっていて、おおいに「東北1万キロ」に胸をときめかせている次第です。

 東北をおもしろがれるようになってから、もう何年にもなります。

 最初、東北は北海道への通り道ぐらいでしかありませんでした。ところが何度か東北を通って北海道に行くうちに、
「東北の方がよっぽどおもしろいぞ!」
 と思うようになり、東北にのめり込んでいきました。

 今日はぼくの誕生日。55歳になりました。
 55歳での「東北1万キロ」への旅立ちということになります。

 それにしても、月日のたつのはなんとも速いものですね。20歳のときにアフリカに旅立ってからすでに35年。その間、ずっと、日本を世界をバイクで駆けめぐってきましたが、なにか、あっという間に過ぎ去っていった35年のような気もします。

 さー、気合をいれて東北をめぐってきますよ。
 それでは行ってきます!

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「伝説の賀曽利隆オンライン」(34)

(2002年8月16日)

 6月28日に富山県の伏木港からロシア船の「ルーシ号」に乗って出発した「ユーラシア大陸横断」ですが、ロシア極東のウラジオストックからヨーロッパ最西端のロカ岬までの1万5000キロを走って8月15日に帰ってきました。

「ユーラシア横断」ルートの中でも一番のハイライトは「シベリア横断」でした。

 ウラジオストックを出発したのは7月1日。ハバロフスク、イルクーツク、ノボシビルスクと通り、7月22日に西シベリアのチェラビンスクからウラル山脈の峠を越え、アジア側からヨーロッパ側に入りました。

 欧亜を分ける分水嶺の峠には、大きな碑が立っていました。ヨーロッパ側に向かっては、ここより「ヨーロッパ」、アジア側に向かっては、ここより「アジア」と書かれた峠の碑です。ウラル山脈の峠までは、ウラジオストックから7000キロ余の距離でした。

「シベリア」はぼくの今までのツーリングの足跡を印した世界地図からはスッポリと抜けた空白の地帯だったので、そこに1本の長い赤線を書き込むことができてすごくうれしい気分です。

「シベリア横断」の毎日では、ひんぱんに地図を見ていましたので、ウラル山脈以東のロシアがしっかりと自分の頭にインプットされました。それにしても道なき世界で、自動車は限られたものでしかありません。

 シベリアにはオホーツク海に流れ出るアムール川、北極海に流れ出るレナ川、エニセイ川、オビ川という4大河川があります。この川を使えば、広範囲なシベリアを見てまわることも可能です。

 シベリアをバイクで横断したことによって、
「今度はシベリア大河紀行をやってみたい!」
 という気持ちにかられました。

「ユーラシア大陸横断」のバイクはスズキDR-Z400Sでしたが、1万5000キロを完璧に走りきってくれました。ウラジオストックからロカ岬まで新車の状態のまま、つまりタイヤ、チェーンなどの消耗品を含め、一切のパーツ交換をしないで(唯一、オイルフィルターを2度、交換しました)走りきってくれたのです。これはすごいことだと思っています。やはり大陸横断には最適のバイクでした。

 ありがとうDR400よ!

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「伝説の賀曽利隆オンライン」(33)

(2002年6月17日)

「ユ-ラシア大陸横断」の出発の日が近づいてきました。

 ぼくは6月26日の朝一で神奈川県伊勢原市のわが家を出発し、スズキDR-Z400Sを走らせ、東京から国道20号で松本へ。そこから安房峠を越えて高山経由で富山に向かおうと思っています。その途中では、乗鞍スカイラインを走ってきます。

 わが家の前から走り出し、海を渡り、大陸を横断するというのが最高の魅力!

 今回の「ユーラシア大陸横断」の一番の目玉は、なんといっても「シベリア横断」です。ぼくは20代の大半は世界を駆けめぐり、世界地図に自分の足跡の線を引いていくことに夢中でした。

 そのとき、いつも気にかかっていたのが、広大なシベリアの空白地域。世界の6大陸をめぐったといっても、シベリアを含むロシアがすっぽりと抜けていたのです。「シベリア横断」はそのときからのぼくの大いなる夢でした。

 20代の後半には結婚し、妻と生後10ヵ月の赤ん坊を連れて横浜港からロシア船でロシア沿海州のナホトカ港に渡り、シベリア鉄道でハバロフスク、イルクーツクを経由してモスクワへ、さらには北欧へと向かいました。

 そのときの強烈な思いは「きっと、いつの日か、バイクでシベリアを横断してやる!」というものでした。

 それ以降、何度かバイクでのシベリア横断を計画し、「シベリア横断をやるゾ!」とまわりには言ってきたのですが、できないままでした。

 そんな自分にとっての夢の「シベリア横断」を実現させる日が、ついにやってきたのです。

「シベリア横断」の出発点は、当初はウラジオストックでしたがそれがザルビノに変わりました。富山・伏木港から乗るロシア船の入港がウラジオストック港から中国、北朝鮮、ロシアの3国国境に近いロシア領内のザルビノ港に変わったからです。

「めったに見られないロシアの日本海側の港を見られる!」
 と、カソリ、喜んでいます。

 それともうひとつ、夏のシベリアはツンドラが湿地状態になり、ある区間の通行は不能になるので、その間はバイクともどもシベリア鉄道に乗ります。それもおおいなる楽しみ。車窓からは、白夜に近いシベリアを目をこらしてよく見てきます。


(2002年6月25日)

「ユーラシア大陸横断」に明日、出発します。東京から富山の伏木港へ。船でロシア・沿海州のザルビノ港に渡り、シベリアを横断し、ウラル山脈を越えてモスクワへ。そしてポーランドのワルシャワからドイツのベルリンへ。西ヨーロッパの国々を南下し、ピレネー山脈を越え、スペインからポルトガルに入り、ユーラシア大陸最西端のロカ岬を目指します。

 東京からロカ岬まで1万5000キロ、それを50日で走ります。
 さー、DR-Z400Sよ、頼むゾ!

 今回の「ユーラシア大陸横断」は、ぼくにとっては2度目のことになります。

 最初の「ユーラシア大陸横断」は1990年。50㏄バイクのスズキ・ハスラーTS50でアメリカのロサンゼルスを出発点にし、インドのカルカッタをゴールとし、2万5000キロの「世界一周」をおこないましたが、そのときはアメリカを横断し、ニューヨークからイギリスのロンドンに渡りました。

 ロンドンのトラファルガー広場前を出発したときは「ユーラシア大陸横断」を強く意識し、西ヨーロッパから東ヨーロッパ、南ヨーロッパ経由でトルコのイスタンブールまで行き、そこから西アジアの国々を通ってインドのカルカッタを目指したのです。

 ほんとうはそのまま、さらに日本に向かって走りたかったのですが、厚い国境の壁にはばまれ、カルカッタをゴールにするしかなかったのです。

 その悔しさをバネにし、1992年から翌93年にかけては、タイのバンコクを拠点にし、「インドシナ一周」を成しとげました。この「インドシナ一周」も「ユーラシア大陸横断」の1パートなのです。

 今回のシベリア経由での「ユーラシア大陸横断」を成功させたら、ぜひとも次は中央アジア経由での「ユーラシア大陸横断」に挑戦してみたいし、さらには究極の「ユーラシア大陸横断」にも挑戦してみたいと心底、願っています。

 この、究極の「ユーラシア大陸横断」というのは東京から下関まで行き、関釜フェリーで韓国の釜山に渡り、朝鮮半島を縦断します。38度線を越え、鴨緑江を渡って中国に入り、西へ、イギリスのロンドンを目指して走るというものです。

「ユーラシア大陸横断」というのは、このようにあとにつづくもの。限りない夢を与えてくれます。

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「伝説の賀曽利隆オンライン」(32)

(2002年5月12日)

 今日、(株)「道祖神」のバイクツアー、「カソリと走ろう!」シリーズの第7弾、「ユーラシア大陸横断」のメンバー、ほぼ全員が集まりました。20代の方から60代の方までぼくを含めて総勢17名。そのほかサポートカーには道祖神の菊地優さん、メカニックの小島努さん、それとロシア人ガイドが乗るので総勢20名ということになります。我ら「ユーラシア軍団」、17台のバイクで広大なシベリアを横断し、ウラル山脈を越え、ユーラシア大陸を横断し、ヨーロッパ最西端のロカ岬を目指します。

 そのシーンを想像すると、胸の高鳴りを抑えることができません。50日間、全行程1万5000キロという史上最大のバイクツアーへの期待が大きく膨らんでいきます。

 ぼくにとってのバイクツアーの魅力は、一緒に走る「みなさん」に尽きる、といってもいいほどです。今回の「ユーラシア大陸横断」には、そのきっかけとなった「サハリン縦断」のメンバー、佐藤博司さんと伴在哲さんの2人がいます。

 佐藤さんは医師。病院を辞めての参加で、この「ユーラシア大陸横断」に人生をかけているかのような意気込みです。

「モンゴル周遊」を一緒に走った桜田雅幸さんも参加しています。桜田さんとはモンゴル帝国の都、カラコルムの丘に立ち、「あの向こうへ、いつの日か、ユーラシア大陸を横断したいね~!」と夢見た日がなつかしく思い出されます。

 水島治さんは昨年の「たき火ふぉ~らむ」に娘さんとお孫さんの親子3代で参加して下さった方。ロシアにじつに詳しい井染信夫さんは、なんと30年前、ぼくがアフリカをヒッチハイクでまわっていたとき、ザンビアで出会った方でした。

 紅一点は我ら「ユーラシア軍団」最年少の本岡賀生里さん。

 みなさんの「ユーラシア大陸横断」にかけた思いにはじつに熱いものがあり、1万5000キロの間で起こるであろうドラマに今から胸がドキドキします。6月27日、富山県伏木港からロシア船に乗ってウラジオストック港へ、そこからバイクで走り出します。ロカ岬到着は8月12日の予定です。

 みなさん、6月8日(土)の「島編・日本一周」の報告会(東京・目黒区民会館 18時より)には、ぜひともお出でください!


(2002年5月28日)

 5月24日、神奈川県大和市の「スズキオートプラザ大和」で「ユ-ラシア大陸横断」を走るDR-Z400Sを引き取りました。カラーはイエロー。ピカピカの新車。店長の畠山さんらの見送りを受けて走りだしましたが、これがユーラシア大陸最西端、ロカ岬への道の第一歩になりました。

 国道246号で伊勢原市の我が家に戻ると、ザックを背負って浜松へ。「ユーラシア大陸横断」1万5000キロを夢見ながら走るのは、また格別な味わいというもの。DRのエンジン音がすごく弾んで聞こえます。

 浜松でひと晩、泊まり、5月25日は快晴の青空のもと、秋葉山下のキャンプ場へ。そこがスズキJAJA主催の「賀曽利隆と行く1泊2日キャンプツーリング」の会場。参加者は限定6人。いたれりつくせりの「キャンプツーリンング大会」になりました。

 このイベントには根っからの「スズキ党」が集まりました。

 さっそく「秋葉軍団」を結成。中身の濃~い、ノリのいい「秋葉軍団」の面々。青空のもとでの昼食のあとは、カソリ、初体験のカヌーに挑戦。気田川の清流で先生の指導のもと、カヌーをあやつるのですが、そう簡単にはいきません。何度も「沈」をし、擦り傷だらけの悪戦苦闘の末、ある程度、乗れるようになったところで1時間ほどの川下り終了。

 夕日が山の端に落ちたころで「キャンプ大会」のはじまり。「秋葉軍団」の本領発揮といったところです。
 折しも満月の夜。盛大な焚き火をバンバン燃やし、焼き肉をたらふく食べながら缶ビール、ワイン、清酒、焼酎、泡盛となんでもありありで飲みつづけ、「ツーリング談義」に花を咲かせました。

 全員が「スズキ党」なので、当然、スズキ車の話題でもおおいに盛り上がりました。宴会がお開きになったのは夜中の3時過ぎ。いつものように焚き火のまわりでゴロ寝し、5時前、夜が明けると目をさまし、焚き火を大きくして今度は早朝宴会がはじまるのです。「秋葉軍団」のパワー、恐るべし!

 5月26日もすばらしい天気。みなさんと一緒に、新緑を見ながら渓流沿いの道を走り、峠を越え、温泉に入り、山里の味覚を味わいました。全行程623キロ。「ユーラシア大陸横断」を目指しての、DR-Z400Sには最高の慣らし走行になりました。

 6月28日には富山・伏木港からロシア船でロシア沿海州のザルビノ港へと向かっていきます。

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「伝説の賀曽利隆オンライン」(31)

(2002年4月12日)

 今日、これから1年がかりの「島編・日本一周」の最後となる「沖縄編」の第2弾目に出発します。いったん東京・日本橋に立ったあと、スズキの90㏄バイク、バーディー90で中山道経由で名古屋まで走り、明日の午前11時名古屋港発の有村産業の「クルーズフェリー飛龍」にバイクともども乗り込み、沖縄に向かいます。

 ほんとうは今回は最初に宮古諸島の島々をめぐり、次に八重山諸島と思っていたのですが、宮古→石垣間のフェリーの便の悪さもあって宮古諸島を落とすことにしました。また次の機会に宮古諸島の島々をまわろうと考えています。

 ここまでの「島編・日本一周」をふりかえってみると、180の島々をめぐりましたが、今回の宮古のように、残念ながら行くのを諦めた島々も数多くあります。あらためて日本は島国だと思うし、日本の島の数の多さにも驚かされます。

 このように行った島、行けなかった島はありますが、行けなかった島でも、たとえば瀬戸内海の島々のようにその島を自分の目で見たり、または自分の頭の中に、しっかりとインンプットすることができました。これが今回の「島編・日本一周」の大きな収穫だと思っています。

 ところで今日、4月12日というのは、ぼくにとっては特別な日なのです。今から34年前の1968年4月12日、「アフリカ大陸縦断」を目指して横浜港からオランダ船の「ルイス号」で旅立った日なのです。そのときカソリ、20歳。その日に「島編・日本一周」の最後の行程に旅立つというのも何か、縁を感じます。

 名古屋港から乗る有村産業の「クルーズフェリー飛龍」は那覇港から宮古島、石垣島へ、さらには台湾の基隆港、高雄港まで行きますが、ぼくはいつの日か、沖縄から台湾へ、さらに南のフィリピンの島々、ボルネオ島、インドネシアの島々へと「海上の道」を南下してみたいと思っています。


(2002年4月28日)
 昨夜、「島編・日本一周」の全行程を走り終えて帰ってきました。足掛け14ヵ月、全部で12回に分けてまわったので、正味154日、2万5000キロを走っての「島編・日本一周」でした。その間では、188島の島々をめぐりました。これで、1999年の「本土編・日本一周」と合わせ、我が「50代編・日本一周」の終了ということになります。

 今回の「沖縄・八重山諸島編」は名古屋港から有村産業の「クルーズフェリー飛龍」で石垣島の石垣港に向かいました。名古屋からは「サハリン軍団」の高地洋子さんと竹澤裕介さんの2人、釣り師の村ちゃんこと村瀬和紀さん、20歳の旅立ちとなった青年こと田中俊哉さんの4人のライダーと一緒に石垣港に向かいました。

 我ら「石垣組」は最高のノリのよさを発揮して、第1夜目から沖縄のビール、「オリオン」と沖縄の泡盛「久米仙」、「残波」で宴会。それ以降、「石垣組」の宴会は1夜も欠かさずにおこなわれ、71時間の船旅で石垣港に着いたときは、正直、カソリ、なかばグロッキ-状態でした。

 そんな「石垣組」の面々と別れがたく、石垣島ではキャンプ場を転々とし、そのたびに「石垣組」と落ち合い、連夜の宴会を繰り広げるのでした。

 さらに石垣島から西表島に場所を移し、最後の宴会は「星砂の浜キャンプ場」に近い星砂の浜で夜明け近くまでつづきました。

 この西表島をもってぼくの「島編・日本一周」は終了。

 西表島・大原の仲間港からフェリー「かりゆし」で自分一人、石垣島に戻ったのですが、「石垣組」の面々は港まで駆けつけて見送ってくれました。そこで最後の乾杯! 

 フェリーが岸壁を離れ、ちぎれんばかりに手を振ってくれている「石垣組」の面々の姿が小さくなり、見えなくなったとき、ぼくはポロポロと流れ落ちる涙を止めることができませんでした。「石垣組」の面々との別れ、「八重山諸島」との別れ、そしてなによりも「あー、(島編・日本一周が)終わってしまった‥」という寂しさに耐えられなかったのでしょう。

 旅の終わりで涙を流すだなんて…、1987年~88年の「サハラ砂漠往復縦断」でチュニジアのチュニス港から船でイタリアのシチリア島に渡ったあのとき以来のことです。「島編・日本一周」、終了! 

 さー、「生涯旅人・カソリ」、モードを切り換えなくては。

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「伝説の賀曽利隆オンライン」(30)

(2002年3月27日)

「島編・日本一周」の「沖縄編・第1弾」を終えて帰ってきました。

 沖縄本島とその周辺の島々をまわったあと、那覇・泊港からフェリーで久米島へ、慶良間列島の渡嘉敷島、阿嘉島、座間味島へ、最後に粟国島に渡り、沖縄本島を含め、全部で25の島々をめぐってきました。那覇新港から有村産業の「クルーズフェリー飛龍21」で名古屋港に戻り、東京まで国道1号を走って帰ってきました。

 今回の「沖縄編」の第1弾を走り終えて感じたことは、沖縄本島の大きさです。あらためて沖縄本島というのは北海道、本州、四国、九州の日本本土4島に次ぐ島だということを実感しました。

「那覇→那覇」の沖縄本島一周は、途中の島々に立ち寄ったこともあって、その走行距離は911キロにもなりました。

 今までの島めぐりでは、100キロを超えれば大きな島、200キロを超えれば超大きな島だっただけに、やはり沖縄本島は別格で「準本土」といったところでしょう。
「沖縄編・第2弾」では、さらに南の宮古諸島、八重山諸島の先島諸島をめぐります。

 早いもので、「島編・日本一周」に旅立ってから1年が過ぎました。東京港・竹芝桟橋から東海汽船の「さるびあ丸」で伊豆大島に向かった日が、つい昨日のように思われます。この1年間で全部で180島の島々をめぐったことになります。

 さて、先日、この欄でお伝えした「道祖神」主催の「カソリと走ろう!」シリーズのバイクツアー第7弾、「ユーラシア大陸横断」ですが、出発日が決まりました。富山県の伏木港を6月28日に出港するロシア船でロシア沿海州のウラジオストックに渡ります。

 シベリアを横断し、ユーラシア大陸最西端、ポルトガルのロカ岬を目指します。

 全行程1万5000キロ、50日間という史上最大のバイクツアー。

 この「ユーラシア大陸横断」には、大勢のみなさんの申込みをいただき、最大募集人員の15名をオーバーしてしまいました。今、何人もの方々がキャンセル待ちという状態。予定していて行けなくなるみなさんには、なにか、すごく申し訳ない気がします。

 カソリ、島の次は大陸。広大なシベリアの大地を西へ、西へと思いっきり駆けめぐってきます。

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『旅の鉄人カソリの激走30年』JTB

第1章 西アフリカ横断

満身創痍だが愛車は快調!

「タカシ! 早く来て、ほら、ベルデ岬よ」
 レズリーの弾んだ声に、ぼくはデッキにかけ寄った。真っ青な大西洋の大海原のその向こうに、アフリカ大陸最西端のベルデ岬が見えてきた。オーストラリアのブリスベーンで生まれ育ち、イギリスの大学で学んでいるレズリーにとって、アフリカはまさに未知の大陸であった。彼女はダカールの大学での夏期講習を受けるために、西アフリカの、ここ、セネガルまでやって来たのである。
 ぼくはこれまでに、アフリカ南部、モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)を出発し、東アフリカ経由でアフリカ大陸を北上して1年間、約5万キロ、20ヵ国を250㏄バイクで走破していた。いったんヨーロッパに入って、ロンドンで2ヵ月間アルバイトをしながら英気を養い、いま、こうして、再びアフリカの大地に挑戦しようとしているのだ。
 今度はダカールから西アフリカを南下して、一路ケープタウンまで、約2万キロを走破する計画だ。次第に大きくなる緑色のベルデ岬を目前にして、ぼくの胸は高鳴るばかりだった。
「ダカールの町はあの岬の先端ね」
 ふり仰いだレズリーの明るいブルーの瞳がまぶしかった。モロッコのカサブランカ港で知り合ってから4日間、彼女のおかげで本当に楽しい船旅だった。しかし、この旅のプロローグも、もう終わろうとしている。船と速さを競う、すっかりお馴染みになったイルカの群れに目をやりながら、ぼくたちは無言だった。
 奴隷の積み出し地として知られたゴレ島のわきを通り、3万トンの真っ白なフランスの客船はダカール港に接岸した。
 船倉からバイクが下ろされる。1年間、文字通りぼくの足となって苦楽をともにしたこのスズキTC250は、すでに満身創痍。それでもスイッチを入れ、思い切りキックすると、小気味よいエンジン音をあたりに響かせた。
 入国手続きは至極あっさりしたもので、フリーパス同然だった。
「グッド・ラック、タカシ! がんばって‥‥」
「ありがとう、レズリー。君もね!」
 黙って微笑むレズリーを残して、ぼくはひと足さきに港を走り出た。
 どこを向いてもアフリカ人の顔、顔、顔‥‥。彼らの邪気のない明るい顔が手の届くところにある。ぼくは思わず、
「またアフリカに来たゾ!」
 と、誰彼かまわずに大声で叫びたい衝動にかられた。こうして西アフリカの一角に立っていると、ロンドンに近いクロイドンのYMCAの一室で、
「早くアフリカに行きたい! 一刻も早くアフリカに戻りたい!」 と、そればかりを考えていた頃がまるでうそのようだった。


1日の食費はたったの50円!

 久しぶりにアフリカの空気を吸い込んで、ぼくの気持ちははやる。さっそく町なかのマリ大使館に行ってビザ(入国査証)を手に入れると、首都のバマコを目指してTC250のアクセルを開いた。
 サハラ砂漠の南側一帯は雨期の真っ最中。道の状態は最悪で、いたるところに大きな水たまりができている。ついうっかりと深い水たまりに突っ込もうものなら、バイクはすっぽりと水の中にはまり込んでしまう。ゆるやかな丘陵地帯の谷間にあたる部分にいたっては、必ずといっていいほど川になっていて、胸まで水につかりながらバイクを押し、対岸に渡らなくてはならなかった。
 しかしそれ以上に大変なのは夜である。雨期の村々には恐ろしくなるほどの蚊がいて、夜になると彼らの一斉攻撃を受けるからだ。蚊の猛攻から逃れるためにシュラフ(寝袋)にもぐり込むと、夜間でも気温が高いので、シュラフは流れ出る汗でたちまちグショグショになってしまう。苦しくなって顔や体を外に出そうものなら、待ってましたとばかりにところかまわず刺されてしまう。
 いきおい、一晩中、シュラフにもぐったり顔を出したりということになって、不眠症になってしまう。こんな夜が毎日続くのだから、たまったものではない。夜が恐ろしくなろうというものである。しかし、窮すれば通ずで、昼間、木陰で1時間ほど寝るようになってからは、大分楽になった。
 西アフリカでの食費は1日最高、日本円で50円と決めていた。どんなに苦しくとも、この掟だけは守ろうと思った。所持金はざっとアメリカドルで600ドル(約22万円)ほどあったが、じつはこれで、アフリカ一周のあと、南米アルゼンチンのブエノスアイレスに渡り、アンデスの山々を越え、アメリカ西部まで行くつもりにしていたからである。 このため毎日の食事は惨憺たるもので、毎日つけていた食料関係のノートによると、
7月22日 朝-抜き、昼-パンと塩(パンに塩をパラパラふりかけ、水を飲みながら食べた)、夜-雑穀の粉を練ったものにドロドロのスープのかかったもの(村人が出してくれた)。
7月23日 朝-抜き、昼-パンと塩、玉ねぎ1個(この玉ねぎは市場で買ったもので生でかじる。とっても涙が出た)、焼肉(市場の屋台で買った)、夜-パンと塩。
7月24日 朝-抜き、昼-南京豆(畑でとれたばかりのもので、半分は豆の中に虫が入っていて食べられず)とヨーグルト(ヤギのミルクでつくったと思われる。この南京豆とヨーグルトは村人にもらう)、夜-抜き。
 といった調子だから、空腹感に襲われっぱなしなのである。
 しまいには、バイクに乗っていても、周囲に見えるものすべてが食べ物に見えてくる。道の石っころがほかほかのパンに、草原の草が野菜に、森の木の実が食べられそうな果物に見えてくるのだ。こうした幻の食べ物に無意識に手を出そうとしている自分に気づき、はっと我に返ることもしばしばだった。


泥まみれになって知る“人の心”

 ダカールから460キロ東のタンバコウンダの町を過ぎると、もう道らしき道はなくなる。ぼくはサハラ砂漠とギニア湾岸の熱帯雨林地帯の間に広がるサバンナ地帯を東へ、東へと進んでいった。この一帯は砂の深い砂漠に近いような乾燥地帯、広々とした草原地帯、熱帯雨林を思わせるような密林地帯が混じりあっていた。 グディリという村を過ぎると、道の状態は一段とひどいものになった。
「マリまでもう100キロないんだ。ガンバレ!」
 自分で自分を叱咤激励しながら湿地帯を越え、川を越えて雨期の悪路を突き進む。
 しかし‥‥、ついに森林地帯がわずかに開けた湿地帯の泥深いところでダウンしてしまった。ズボッともぐってしまい、まったく身動きがとれない‥‥。アクセルをめいっぱいにふかしても、全然、動かないのだ。そこで、バイクの予備パーツや工具、シュラフ、ガソリンを入れたポリタンなど、荷物のすべてを入れたステンレス張りの木箱を荷台から下ろし、再度、押してみる。だめだ、バイクは泥にはまり込み、ピクリともしない。
 ぼくは完全に疲れきってしまい、泥沼に座り込む。どうしたらいいんだろうと、泣きたくなるような気持ちだった。極度の疲労と空腹、睡眠不足がすべての思考能力を奪っていく。もうどうでもいいような気がして草の上にごろんと横になる。樹の間ごしに仰ぐ空は、厚い重苦しい雨雲で覆われていた。
 何とかしなくては、と思い直し、大声で「オーイ!助けてくれ」と必死になって叫ぶ。しかし人声はおろか、こだまさえしない。10キロほど手前にあった小さな集落に戻って助けを求めようかとも思ったが、なにしろ激しい空腹感のため全く足が出ない。
 時間だけがどんどん過ぎていく。3時間ほどたったであろうか、太陽が西の空に傾きはじめたころ、「誰かいないか、助けてくれ」と叫ぶと何回目かにかすかに返事があったような気がした。ぼくはさらにあらんかぎりの声をふりしぼって叫び続けた。すると確かにそれは人の声でだんだん近づいてくる。ぼくが「オーイ」と叫ぶとその人も「オーイ」と応答する。助かった! ほっとすると同時に、またまたぼくは泥の中にぐたんと座りこんでしまった。
 しばらくすると、手製の斧を持った一見きこり風の人が前方の森から現れた。彼は即座に事態をのみこむと、泥沼の中に飛び込んで手を貸してくれた。しかし2人がかりで必死になって押しても、泥沼の壁は厚く、うまくいかない。木を伐り、それをてこがわりにしてバイクを泥の中から引きずり出そうとしたが、これも徒労に終った。
 彼は一瞬どうしたものかと困った様子だったが「ちょっと待っていろ、すぐ戻るから」と言い置くと、あっという間に森の中に姿を消した。
「頼む、戻ってきてくれ!」
 ずいぶん長い時間がたったような気がした。森の中から人の声が聞こえてくる。約束通り戻って来てくれたのだ。しかも、もう1人、屈強そうな若者を連れて。小躍りするぼくと若者を促して、彼は再び泥沼に飛び込んだ。3人とも渾身の力をふりしぼって、これでもか、これでもかとばかりにバイクを押す。もちろん、アクセルも目いっぱいにふかす。すさまじい爆裂音が森の空気を震わせる。泥水を2人の男の身体中にはねあげながら、バイクはじりじりと前に進み出した。抜けられる、きっとこの泥沼を抜け出せる!
 ついに脱出成功!
 ぼくは思わず飛び上がってしまい、2人と固い握手をかわした。
 彼らは近くの村から木を伐りにこの森に来たそうで、叫び声を聞きつけてとっても驚いたという。典型的なアフリカ人といった2人は純朴そのもの。泥沼から抜け出たことを自分たちのことのように喜んでくれ、おまけに「森の中の道をいったほうがいい、教えてあげるから」ともいってくれる。教えてくれたのは、人が通るのであろう、そこだけが草の倒れた草むらの中の一条の道であった。
 ぼくは2人の男の見送りを受け、薄暗くなった夕暮れの、その道を辿る。振りかえると、彼らはいつまでもいつまでも手を振ってくれている。思わず胸がじーんとしてくる。日本も含めた文明国の人々が、とっくの昔に失ってしまった“人の心”をアフリカの人たちはたくさん持っている。その心のひとつに触れて、ぼくは無上の喜びにひたるのだった。


走行不能、ついに列車に乗る

 セネガルとマリの国境を流れているファレメ川は、アフリカの大河セネガル川の支流。雨期を迎えて水量を増したその流れはじつに悠然たるもので、川畔にある国境の村ナエからは対岸のマリの村が見えた。ナエの上流数百キロのギニア高地がこの川の水源で、ナエの下流数百キロの地点、セネガルとマリ、モーリタニアの三国が国境を接しているところでセネガル川に合流する。
 予定ではナエからフェリーボートで対岸のマリに渡るつもりだった。ところが地図には載っているフェリーが実際にはなかった。考えてみれば、それも当然のこと。なにしろ雨期の悪路で交通はいたるところ途絶え、1週間に1台、車が通るかどうかというなところなのである。川畔で立ち往生を余儀なくされて弱りきっていると、村人が「4キロほど下流に行くと橋がある。そこを通ればマリに行けるよ」と教えてくれた。それはセネガルのダカールとマリのバマコを結ぶ全長千数百キロの鉄道の鉄橋で、橋の長さは200メートルほどあるという。
 教えられた通り、ナエから川に沿って4キロほど行くとキディラの村に着いた。さっそくキディラ駅に行って駅長に事情を説明し、線路内を走る許可を得た。汽車の来ないのを確かめ、近くの踏切から線路内に入る。大粒の砂利が敷きつめられているのですごい振動だ。やがて鉄橋にさしかかる。眼下には真っ茶色に濁ったファレメ川が、渦を巻いて流れている。枕木と枕木の間に砂利が入っていないので、枕木をひとつ越すのになんとも苦労する。また枕木を越す時にはハンドルをとられ、グラグラッとすることもある。一歩間違えればファレメ川にまっさかさまだ。
 ガッタンガッタンとものすごい音をたてながら1本1本枕木を越えていき、ついに対岸にたどり着いた。そこはもうマリである。極度の緊張のため、全身は汗ばみ、喉がやたらに乾いた。とにかく、こんな国境越えは、後にも先にもあるものではない。
 さらに線路内をすこし行くとディボリ駅に着いた。駅といってもプラットホームがあるわけでなく、駅事務所の小屋があるだけ。ここまで来ても、道らしい道は見当たらない。仕方なく、駅長のママドゥーさんに、どうしたらカイの町まで行けるか聞いてみた。
「線路沿いの人が通る道を20キロほど行くとグルンボという村に出る。そこからカイに通じている道がある」という。しかし彼は「6月から9月までの雨期の間は無理だ。道はズタズタだよ」とつけ足した。
 切羽つまった形のぼくだったが、どんなことをしてでも突破してやる、と覚悟を決めてカイに向かった。道は人一人が通れるほどの小道で、途中、所々にキャッサバ(西アフリカの主食用のイモ)や落花生を栽培する猫の額ほどの畑があった。
 10キロほど行くと沼に出くわした。今度は用心深く、バイクを降りて沼の中に入ってみる。とてもだめだ。残された道はただひとつ、デォボリに戻るだけである。しかし、戻ってどうなるというのだ。第一、マリの金を一銭も持っていないではないか。でもまあいい、なんとかなるさと、半ば捨てばち気味にぼくは原野の中に続く道を走り、ディボリに戻った。先に進めずに、来た道を引き返すというのはなんともやりきれない。今までにこんなことはなかった。先に何があろうと、とにかく前に突き進んできたのだ。
 ディボリ駅に戻るなりママドゥー駅長に、「お願いします、どうかバイクごとカイまで汽車に乗せて下さい。金はカイに着いたらすぐに両替して払います」と必死になって頼み込んだ。
 幸いママドゥーさんはすぐにぼくの窮状を察して、いろいろと骨を折ってくれ、特別の乗車券とカイの警察署長宛の手紙を書いてくれた。バイクに乗った薄汚いただの旅行者にこんなに親切にしてくれるなんて‥‥、ほんとうに感謝感激である。
 ホッとすると急に眠気が襲ってきた。ママドゥーさんが木製のごついベットをもってきてくれる。御礼もそこそこに、ぼくは木陰で死んだように眠りを貪った。
 昼前、ママドゥーさんに、「列車が来たよ!」と、揺り動かされて飛び起きる。なるほど10両ほどの貨車を引っ張ったイギリス製のジーゼルカーがセネガルの方向からやって来る。灌木の入り混じったサバンナ地帯の、その恐ろしく大きな広がりの中をノロノロと近づいてくる。やがてファレメ川を渡り切ると、ぼくの目の前で停まった。

 
夢中で食べた丼3杯の粥

 バイクを積み込むと、ママドゥーさんに別れを告げて、ぼくは列車に飛び乗った。列車といっても貨車で、さしずめぼくも、その辺に積まれた貨物と同じ存在だ。
 列車は途中いくつかの小さな村々に停まり、薪が積まれた。薪は落花生と並ぶ村人たちの唯一ともいえる貴重な現金収入源なのである。時速60キロほどであろう、列車は広大な西アフリカの原野をつき進んでいく。全く単調な景色の連続。ぼくは床に腰を下ろし、外に足をぶら下げる格好で、飽きることなく、こうした風景を眺めつづけた。沿線を彩る色彩といえば、いたるところに咲く純白の大きなユリの花が唯一のものだった。
 50キロほど行くと、セネガル川の川畔の村アンビデディに着いた。一人の少年が走り寄って来て、セネガル川で取れた魚を油で揚げたものを、ぼくの鼻先に突き出した。ホウロウびきの洗面器に入った魚は30センチ位もある大きなやつ。これが1匹わずか10フラン(1マリフランは約0・8円)だという。すでに3日ほど満足に食べていなかったので、よだれが出るほどだった。しかし全然、金がない。物々交換でもと思ったが、あまりにも自分がみじめに思え、よだれをおさえてぐっと空腹感をこらえた。
 夕方、列車はカイ駅に着いた。バイクを貨車から下ろすと、その足でカイ警察署に行く。温厚そうなティディニ署長は、手紙にざっと目を通すなりニッコリ頷き、すぐに銀行に連れていってくれた。銀行は既に閉まっていた。レバノン人の行員は明日でないと両替できないといったが、ありがたいことに署長の一言で両替できたのだ。
 カイの町で目についたのは、レバノン人やシリア人、ユダヤ人の商人が多いこと。彼らはちょうど東アフリカのインド人のような存在だった。インド人はケニアのモンバサからウガンダに通ずる鉄道や、モザンビークのベイラからマラウィのサリマに通ずる鉄道などの建設を契機に本国から移住してきたといわれている。しかし、通称レバシリといわれるレバノン人やシリア人などはどうして西アフリカにやってきたのだろうか。ティディニさんに色々聞いてみたが、わからずじまいだった。
 両替がすむとティディニさんにセネガル川に近い青空市場に連れていってもらう。市場は路上に200メートルほどの長さで続いている。魚や果物などの匂いに思わず腹がグーと鳴る。なにしろ腹ペコなので立っているのもつらいほどだった。
 いきなり、ぼくは、マリ産のポロポロの黄色っぽいご飯にセネガル川で取れた魚のぶちこまれている粥に飛びついた。ひどく熱くて、手づかみで食べていると手のひらが火傷しそうになる。それでも無我夢中で食べ続け、金属製の大きな器で3杯も食べて、ティディニさんや市場のおばさん連中をびっくりさせた。1杯30フラン(約25円)、3杯分で90フランの代金を払おうとすると、ティディニさんは、まあ、まあと押しとどめ、有無をいわせず払ってくれた。
 ティディニさんの車で再び警察に戻ると、ぼくはさっそく、バマコへの道はどうかと聞いてみた。一番気になっていた問題だからだ。ぼくの予定ではカイからモーリタニアとの国境に近いニオロドサへルに行き、そこから500キロほど南下してバマコまで行くつもりにしていた。しかし彼の答えは心配していた通り、「ニオロドサヘルに行く途中に何本もの川がある。それを越えるのは不可能だ。どうしても行きたいのならここで10月まで待つしかない」というものだった。
 もう、いくら考えてもどうしようもない。ばくはカイにやって来た貨物列車に再び乗り込み、バマコに向かうことにした。貨物列車は真夜中の午前1時、カイ駅を静かに離れた。青白い月光に照らされた、灯ひとつない西アフリカの原野が不気味だった。聞こえるのは単調な列車の車輪の音だけである。ぼくはいつしかバイクのわきで眠っていた。
 カイを出てから12時間後、貨物列車はマリの首都バマコに着いた。予定を変更したとはいいながら、とにかくバマコまで来ることができた。ぼくは大きな難関を越えた喜びにひたりながら、バマコ市内を走る。郊外を流れる青く美しい大河ニジェールを見つめていると、苦しかった様々な出来事がまるで遠いはるかかなたの世界で起こったことのように思われるのだった。
(『旅』1971年5月号より)

 この雨期の西アフリカ横断を『旅』で書かせてもらったのは、なんともラッキーなことだった。『旅』編集部の川田充さんは、“花の16年(昭和16年生まれ)組”ということで親しくしていた『世界の秘境』(双葉社刊、1972年に休刊)編集長の川瀬浩邦さんからぼくのことを聞き、それが『旅』に書かせてもらうきっかけになった。川田さんは編集者魂の塊のような人だった。
 市販の400字詰原稿用紙30枚以上にびっしりと書いたぼくの原稿(超悪筆!)を川田さんは字の汚さには一言もふれずに、たんねんに目を通してくれた。当時の『旅』編集部は東京・神田にあったが、神田駅近くの喫茶店「小鍛冶」で、川田さんは半日近くもかけて原稿に赤(添削)を入れてくれた。川田さんの熱心さと、川田さんに教えてもらった文章の構成の仕方、文章の書き方、ちょっとした言葉づかいなどが自分の体にしみ込んでいった。そのときカソリ、23歳。バイクでの「世界一周」の出発を目前にしていた。
 当時のぼくは世界をバイクで駆けまわることしか頭になく、自分が将来、文を書く人間になるとは露ほども思わなかった。それが30代以降、本格的に文を書くようになってからというもの、神田の「小鍛冶」で川田さんに教えてもらったことがまさに生きてくるのである。
 本書の原稿を書きはじめる前に、神田の「小鍛冶」に行ってみた。ほぼ30年ぶりに行ったのだが、「小鍛冶」は未だ健在で、すっかりきれいになっていた。1階が洋菓子店なのは当時とかわりなく、2階に上がり、窓際の席で1人、コーヒーを飲んだ。ガラス張りの窓越しに車の流れ、人の流れを見下ろしていると、この過ぎ去った30年という月日が瞬時によみがえってくるようだった。
 ところでマリのバマコからはコートジボアール、ガーナ、トーゴと西アフリカの国々を走り、ダホメ(現ベニン)まで行った。だが、その先のナイジェリアはビアフラ戦争の最中で入れず、ダホメのコトヌーから船でカメルーンのドアラに渡った。隣国の中央アフリカのバンギからはウバンギ川→コンゴ川の川船でコンゴのキンシャサまで行き、そこから命を張ってアンゴラ国境を越えた。当時のアンゴラはポルトガル領で、コンゴとの国境を越えるのは不可能だといわれていたのだ。それを奇跡的に成しとげ、アンゴラの首都ルアンダに着いたときは、ゴールのケープタウンが視界に入ってきた。
 ところがルアンダの南アフリカ領事館では、日本人にはビザ(入国査証)を出せないと南アフリカへの入国を拒否され、ぼくは前にも進めず、かといって戻ることもできなくなってしまった。結局、ポルトガルのリスボンから来た船でモザンビークのロレンソマルケスまで行き、そこをアフリカの旅の最後にし、1969年12月に日本に帰ってきた。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

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