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世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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Author: 賀曽利隆
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Category: 旧満州走破行2004

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「旧満州走破行2004」(70)
10月13日(水)晴 撫遠(その2) 第24日目

 中露国境を流れるウスリー川に沿って小道を歩く。
 1時間ほど歩くと黒龍江(アムール川)とウスリー川の合流点に到着。ここが中国・最東端の地、「中国東極」だ。

 2004年10月13日午前10時のことだったが、それはあまりにも奇妙な偶然。その日は新たな中露国境が画定した日の前日で、ぼくは最後の1日に、旧中国最東端の地に立ったことになる。

 中露国境の町、黒龍江に面した黒河から愛琿に行ったことは、第14回目で書いた。
 この愛琿こそ、中露間の領土を画定した「アイグン条約」の締結された町である。

 愛琿は黒龍江右岸の町。古くからの河川交通の要衝の地で、黒龍江を通して各地とつながっていた。
 17世紀後半、清朝はロシアの侵入を防ぐため、愛琿に築城。この地を対ロシア交渉の拠点とした。

 アイグン条約は1858年に結ばれた条約だが、それより150年以上も前の1689年に、清朝はロシアと「ネルチンスク条約」を締結した。この条約はロシアのチタに近いネルチンスクで締結された条約で、これによって両国の国境線の一部が確定。「アイグン条約」はそれにつづくものである。

 1858年、ロシア・東シベリア総督のムラビエフはロシアの軍事的な威嚇の下で、ロシア絶対有利の国境画定のアイグン条約を結び、アムール川(黒龍江)の右岸を中国領、左岸をロシア領とした。さらにウスリー川から日本海に至る一帯を両国の共有地にした。

 アイグン条約締結2年後の1860年、北京条約によってアイグン条約は確認され、ロシアは両国の共有地としたウスリー川から日本海に至る一帯を一方的にロシア領にした。「泥棒ロシア!」
 としかいいようがない領土の略奪。衰退した清朝はロシアの餌食になった。

 ところで愛琿のその後だが、義和団事件(1899年~1901年)の時にロシア軍に侵攻されて町は壊滅。ドサクサにまぎれて侵攻するのはロシアの昔からの得意技。常套手段といっていい。

 それ以降、この地方の中心は黒河の町に移った。黒龍江(アムール川)をはさんで黒河の対岸はロシア・アムール州の州都ブラゴベシチェンスクになる。

 愛琿では「愛琿歴史陳列館」を見学したが、そこではネルチンスク条約からアイグン条約、北京条約へと、清国の領土がロシアによってむしり取られていく様子(歴史)がじつによくわかる。

 北京条約からほぼ100年後の1963年3月2日、黒龍江(アムール川)とウスリー川の合流地点の中州、珍宝島(ダマンスキー島)で中国人民解放軍の兵士とソ連軍の警備兵との間で武力衝突が発生した。
 それが引き金になって両国は激しく対立し、核兵器を使っての全面戦争という瀬戸際までいった。

 これが「国」というもの。両国にとってはほとんど誰も知らないような豆粒、いや粟粒のような領土の問題で全面戦争にまで発展するものなのだ。

 世界中がかたずを飲んで見守ったが、コスギン・周恩来のトップ会談で、かろうじて全面戦争は回避された。「中国東極」は、そんな世界中に大きな衝撃を与えた近代史の現場なのである。

 その後、1991年の中ソ国境協定でソ連極東の大部分の国境が確定し、ソ連側の譲歩で珍宝島は中国領になった。

 このときの中ソ国境協定でも国境が確定されずに残ったのは、黒龍江(アムール川)の3つの島だ。
 1島は黒龍江(アムール川)上流のアルグン川のアバガイト島(阿巴該図島)、もう2島は黒龍江(アムール川)とウスリー川合流地点の銀龍島(タラバーロク島)と黒瞎子島(大ウスリー島)だ。

 これら3島の帰属は解決困難な問題と思われていたが、2004年10月14日、中国の胡錦濤国家主席とロシアのプーチン大統領の首脳会談で政治決着し、最終的な中露国境協定が結ばれた。

 その結果、アルグン川の阿巴該図島(アバガイト島)は中露両国に分割され、銀龍島(タラバーロク島)の全域と黒瞎子島(大ウスリー島)の西半分が中国領に、大ウスリー島(黒瞎子島)の東半分はロシア領土になった。こうして最終的な中露国境が確定した。それは1689年のネルチンスク条約から324年後のことだった。

 その結果、黒瞎子島(大ウスリー島)が新たな中露国境になり、「中国東極」も若干、東にずれた。ということでぼくは最後の1日に、「旧中国東極」に立ったことになる。

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最後の1日に「中国東極」に立つ。右がウスリー川、左が黒龍江(アムール川)

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: 旧満州走破行2004

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「旧満州走破行2004」(69)
10月13日(水)晴 撫遠(その1) 第24日目

 撫遠のホテルで朝食を食べ、中国・最東端の地に向けて出発。スズキQS110を走らせ、東へ、東へと荒野に延びる一本道を行く。すれ違う車はまったくない。やがて遠くに山並みが見えてくる。ロシアの山だ。そのロシアの山は次第にはっきりとしてくる。

 撫遠の町から38キロ地点で、中露国境を流れるウスリー川の河畔に出、一本道は途切れる。そこには中国軍の国境警備隊の要塞とタワーがあった。

 ウスリー川は全長897キロ。信濃川の2・5倍の長さがある。その源はロシアのウラジオストクのすぐ近く。日本海に沿ったシホテアリニ山脈はウスリー川の源流地帯になっている。ロシアの沿海州はウスリー川とともにあるといっていい。

 1860年の北京条約でロシアは中国からウスリー川以東の地を手に入れたが、満州国の時代には、この川をはさんで日本の関東軍とソ連軍が対峙した。

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朝食の饅頭

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中国・最東端の地へ

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ロシアの山が見えてくる

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中露国境を流れるウスリー江

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ハバロフスクの方向へと流れていくウスリー江

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

23

Category: カソリと走ろう!

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「カソリと走ろう!」シリーズ(11)
韓国縦断バイク旅
(『モーターサイクリスト』2006年1月号 所収)

バイクで韓国に行けるようになった。これはすごいことだ。我らツーリングライダーにとって韓国が身近な国になった。さっそくカソリ、大きな期待を抱いて自宅前から愛車で走り出し、「韓国縦断」へと出発した。

「さー、釜山へ! 行くゾ~!!」
 2005年10月8日の朝、神奈川県伊勢原市の自宅前で愛車のスズキDR-Z400Sにまたがると、西の空に向かって大声でそう叫んでやった。

 ツーリングへの旅立ちで、これほど高揚した気分になることもそうはない。期待で胸がいっぱいに膨れ上がり、秦野中井ICで東名に入っても、「釜山へ、釜山へ」と何度も「釜山」が口をついて出た。まわりを走っている車、1台1台に、「これから、このバイクで、釜山まで行くんですよ~!」といいたくなるような気分。

 東名→名神と走りつないで大阪へ。大阪では鶴橋のコリアンタウンの食堂で冷麺を食べたが、韓国ツーリングへの期待がいやがうえにも盛り上がる。韓国では徹底的に韓国食を食べ歩くつもりだ。

 大阪のコリアンタウンの冷麺に大満足したあと、大阪南港19時10分発の名門大洋フェリー「ふくおか2」で新門司港へ。翌朝の8時には新門司港に着いた。まずは九州最北端の岬、部崎に立ち、午前中は北九州をまわった。そして関門海峡を渡り、昼過ぎに関釜フェリーの出る下関港国際ターミナルに到着。いよいよ釜山が間近になった。

 2005年5月、韓国へのバイクの持ち込みが解禁された。これは歴史的な出来事といっていい。韓国は「近くて遠い国」とよくいわれるが、我らツーリングライダーにとっては「とてつもなく遠い国」だった。韓国にバイクを持ち込むのは至難の技だったからだ

 それがこの歴史的な解禁によってパスポートと国際免許証、バイクの国際登録証を持てば、日本のナンバープレートそのままで、下関港から関釜フェリーに乗り、バイクともども韓国の釜山港に渡れるようになったのだ。新たな海外ツーリングの幕開け。新たな時代の到来だ。「ちょっとそこまで」という気軽さで海外ツーリングができるようになった。

 東京の旅行社「道祖神」はそれを記念し、「賀曽利隆と走る!」シリーズの第11弾目として「韓国縦断」を企画した。

 集合場所の下関港国際ターミナルには、参加者のみなさんが日本各地から次々にやって来た。最年長は73歳の松浦善三さん。山形県東根市からGL1500のサイドカーで1400キロ走っての到着だ。松浦さんは「一生に一度は自分の家から海外にバイクで行くのが私の夢だったんですよ」と熱く語った。マジェスティーの島田利嗣さんは62歳。一緒に「南部アフリカ」、「サハラ縦断」を走った仲間。東京から日本海ルートで、2泊3日のツーリングを楽しみながら下関に到着した。

 旧車XLRバハの新保一晃さんとは「カソリと走る!」シリーズのうち「ユーラシア横断」、「アラスカ縦断」、「南部アフリカ」、「サハラ縦断」を一緒に走っている。XRバハの伴在哲さんとも、「サハリン縦断」、「ユーラシア横断」、「南部アフリカ」を一緒に走った。セローの椋原眞理さんは母親だとは思えないほど若く見える。児玉真喜子さんはタンデムでの参加。こうして全部で11台のバイクと「道祖神」の菊地優さん、女性通訳の国定富さんの総勢13名で「韓国縦断」を走るのだ。

 下関港での出国手続きはスムーズに終わった。関釜フェリーの職員が我々を案内してくれたのだ。イミグレーションではパスポートに「KANMON(関門)」の出国印が押され、カスタム(税関)ではバイクの一時輸出入申告書に下関税関の輸出許可印が押された。いよいよ関釜フェリーの「はまゆう」(1万6187トン)に乗船。「はまゆう」は定刻の19時に下関港のフェリー埠頭を離れていく。さっそく自販機の500mlの缶ビールで参加者のみなさんと乾杯。無税になるので1本220円!

「はまゆう」は玄界灘を釜山港を目指して北西へと進む。冷たい風に吹かれながら甲板に立つと、暗い波間に漁火が点々と見えた。それは「おー、何だ何だ、あれは」と声が出るくらいの異様な明るさ。波の荒い玄界灘なので船はけっこう揺れた。まったく船酔いしない「船旅大好き」のぼくにとって、その揺れはなんとも心地のよいもので、ぐっすりと眠れた。

 揺れがおさまったころ目がさめた。時間は午前2時。窓の外を見ると、まばゆいばかりの釜山の町明かり。「はまゆう」は釜山港の港外に停まっていた。すぐ近くには五六島の灯台の灯。関釜フェリーの下関から釜山までの正味の航行時間は8時間ほどでしかない。

 翌朝、8時に「はまゆう」は釜山港のフェリー埠頭に接岸。岸壁にDR-Z400Sで降り立ったときは
「やった、ついに釜山に着いた!」
 という気分。釜山港でもそれほど時間がかからずに入国手続きを終えた。税関を出て、国際フェリーターミナル前に11台のバイクをズラズラッと並べたときは、何か、晴れがましい気分になるのだった。

「道祖神」の菊地さんと通訳兼ガイドの国定さんの乗った車の先導で、我々は釜山を走りはじめる。バイクに乗りながら、大通りのハングルの看板やヒュンダイ、デーウ、キアなどの韓国車を見ると、海を渡って韓国にやってきたという実感がする。釜山名物の渋滞にはまると、手を振ってくれたり、
「イルボン(日本)か?」
 と、声をかけてくれる人もいる。11台のバイクの列はじつに目立つのだ。

 韓国第2の都市、釜山を走り抜け、国道14号に入ったところでぼくが先頭を走り、車が最後尾についた。バックミラーに映る10台のバイクの長いラインに胸がジーンとしてしまう。

 国道沿いの食堂で昼食。記念すべき「韓国縦断」の第1食目。ここでは「ソモリ・クッパ」を食べた。牛の頭でダシをとったという白っぽい色のスープ。その中にご飯が入っている。辛味はまったくない。濃厚な牛のエキスが舌に残る。日本でもおなじみのクッパだが、これはまさに韓国食。韓国ならではのクッパにうれしくなる。

 韓国最大の財閥、ヒュンダイの企業城下町、蔚山からは国道7号を北上。慶尚南道から慶尚北道に入る。新羅の都、慶州では仏国寺や古墳公園、東洋最古の天文台の「瞻星台」を見てまわった。

 釜山から150キロの浦項で泊まった。夕食は焼肉パーティー。ビールや焼酎を飲みながらうまい焼肉を腹いっぱい食べた。これぞ韓国。みなさんとの話もおおいにはずむ。翌朝はホテルの6階の部屋からすばらしい日の出を見た。浦項は製鉄の町。世界でも最大級の製鉄所(POSCO)の高炉を赤々と染めて朝日が昇った。

 浦項から海沿いの国道7号を北上。蔚珍を過ぎたところで慶尚北道から江原道に入る。国道沿いの食堂で昼食。ビビンバを食べた。日本と違うところは具の入った器とご飯の入った器が別々に出てくることで、自分でご飯を入れ、かきまぜて食べる。器も箸も匙もすべて金属。この金属製3点セットが韓国の食文化を象徴している。

 三陟、東海、江陵と通り、38度線を越え、釜山から450キロの束草に到着。夕食は名物の海鮮料理。食後、漁港近くの露店を歩き、イカやエビのフライを肴にみなさんと焼酎を飲む。うま~い!

 束草では海辺のホテルに泊まった。翌朝は日本海の水平線に昇る朝日を見た。朝食はホテルの近くの食堂。ご飯と干しダラ入りの汁のほかにキムチやメンタイコ、塩辛、ノリなど全部で9品のおかずが出た。これらは食べ放題。最高にうまい白菜のキムチも何度もおかわりできるのが韓流だ。

 束草から国道7号をさらに北へ。杆城を通り、釜山から520キロ走り、ついに韓国最北端の高城統一展望台に到着。すばらしい天気で展望台から朝鮮半島第一の名山、金剛山の峰々が一望できた。澄みきった秋空を背に、主峰群がくっきりと見えた。金剛山の分水嶺を境にして西側は外金剛、東側は内金剛といわれ、その山並みが海に落ちたところが朝鮮半島随一の海岸美を誇る海金剛になる。これらはすべて北朝鮮側。高城統一展望台から北朝鮮側を見下ろしながらぼくは「次は北朝鮮一周だ!」と、新たな旅への夢を見るのだった。

 釜山への帰路は三陟から内陸に入り、太白、英陽、青松と通って浦項へ。浦項からは迎日半島に入り、韓国本土最東端といわれている岬に立った。ここには灯台と奇妙な手のモニュメント。だがほんとうの最東端の地はこの岬よりももっと南。我々はGPSで計測してその地点に立った。

 こうして釜山に戻ったが、高城統一展望台までの往復は1178キロになった。釜山港の国際フェリーターミナル内のレストランでカルビとプルコギの肉料理をたらふく食べ、帰路の「はまゆう」では盛大なビールパーティーだ。

 下関港でみなさんと別れると、ぼくは1人で日本海ルートを走り、益田、浜田、松江と通り、倉吉で1泊した。さらに鳥取から敦賀へ。敦賀でもう1泊し、北陸道→名神→東名と高速を走り東京へ。新宿のコリアンタウンの「韓国食堂」でビビンバを食べ、「韓国縦断」の旅を終えるのだった。


===
管理人注:
竹島問題真っ只中の昨今ですが、韓国記事です。
カソリ多忙のため辛うじて手元に残っている弾薬を出したまでで、他意はありませんので、このブログを炎上させないようにしてください(笑)

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: 旧満州走破行2004

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「旧満州走破行2004」(68)
10月12日(火)雨のち曇 同江→撫遠(その3) 第23日目

 撫遠のスズキ販売店でのセレモニーを終えると、町の食堂で夕食だ。

 魚のフライ、香菜を添えた生魚、煮魚、干豆腐で巻いたサケ、魚のすり身のスープと、「魚三昧」の夕食。これらはすべて撫遠を流れる黒龍江で獲れたもの。

 このあたりはオホーツク海の河口から1000キロ近く離れているが、サケが上ってくるという。さすが中国・最東端の地、撫遠だけのことはある。

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魚のフライ

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香菜を添えた生魚

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煮魚

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干豆腐で巻いたサケ

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魚のすりみのスープ

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Category: 峠越え since1975

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1500峠、達成!(2003年8月12日)
1500峠を越えて!
(『ツーリングGO!GO!』2003年11月号 所収)

「さー、1500峠だ!」
 と、意気揚々とした気分で北海道に乗り込んだ。
 1496峠を越えたところで、記念すべき1500峠目を北海道の峠で達成しようというのだ。
 東京からスズキDR-Z400Sを走らせ、出発点の帯広駅前に立った。感慨無量!
「峠越え」をはじめた日のことが鮮やかによみがえってくる。

 それは忘れもしない1975年3月28日。
 埼玉県の「奥武蔵の峠」を越えようと、西武線の飯能駅前を走り出し、国道299号で高麗峠、正丸峠と越えた。
「これから日本中の峠を越えてやる!」という期待感と、「ほんとうにできるのだろうか…」という不安感の入り交じった気持ちで峠を越えたが、結婚直後ということもあって当時27歳のカソリ、気持ちは大きく揺れていた。

 早朝の帯広駅前をスタート。DR400のアクセルをひとひねりし、第1番目の三国峠に向かった。十勝川を渡り、広大な十勝の平原を見ながら走っていると、この記念すべき日を迎えられた喜びで胸がいっぱいになってくる。

 今回の「北海道の峠越え」では1500峠を達成するだけでなく、ひとつづつの峠を越えながら、峠というものをあらためて考えてみようと思う。「カソリの峠考」だ。

 さて、第1番目の三国峠だが、「三国峠」という峠名は日本各地にある。そのほとんどが3国の国境にそびえる三国山とセットになっている。

 北海道の場合も同様で、三国山は十勝・石狩・北見3国の国境になっている。ところが山は3国の国境でも、峠は山頂を越える訳ではないので、例外なしに2国の国境になる。北海道の三国峠は十勝・石狩の国境の峠ということになる。

 峠名をつぶさにみいくと、その峠がどのような峠なのかがわかってくる。
 国境や郡境、市町村境といった境の峠だったり、峠をはさんだ2つの結びつきの強いエリアが鮮明に浮かびあがってきたり、峠にまつる神仏をうかがい知ることができたり…。 峠名にまつわるおもしろさは尽きることがない。

 国道273号で上士幌町の糠平温泉を過ぎると、一気に山中に入っていく。かつての鉄道の終点、十勝三股駅の周辺には白や紫、赤紫のルピナスの花が咲いていた。たまらなくいい匂いがする。十勝三股を過ぎると、三国峠に向かってグングン高度を上げていく。なんとも気分の良い峠越え。高度を上げるごとに、北海道中央部の石狩山地の山々の眺望がよくなってくる。

「三国峠」の碑の立つ峠の展望台に立ち、そこからの風景を目に焼き付け、峠のトンネルを抜けて石狩側に入った。三国峠の展望は十勝側の方がはるかに良い。
 三国峠を越えて石狩側に入ると、十勝川から石狩川へと川が変わる。

 峠道を一気に下り、国道39号に合流すると、次に石狩・北見国境の石北峠に向かって登っていく。
 峠上には食堂やみやげもの屋がズラリと並んでいる。
「峠越え」の苦労は昔も今も変わらない。そのため、峠にたどり着けばひと休みしたくなる。それが「峠の国」の日本人の習性というものだ。だからこそ「峠の力餅」に代表されるような峠の名物ができる。バイクでの峠越えもけっこうきついものがあり、峠に着くとほっとする。そこで飲む1杯の茶がうまい。

 石北峠で折り返し、石狩側の上川に下った。そこからは国道333号で北見峠に向かっていく。峠道を登りつめ、峠に立ったときは「あっ!」と声が出た。峠の様子がすっかり変わっていたからだ。北見峠には1999年の「日本一周」のときに越えた。そのときは台風の暴風雨をついてオホーツクの海岸から峠を目指し、やっとの思いで峠に着くと、びしょびしょの格好で峠の茶屋に飛び込んだ。そこで食べた「月見うどん」に生き返る思いがした。

 そんな北見峠だが、北見峠の真下をブチ抜くの旭川紋別自動車道の北大雪トンネル(全長4098m)が完成すると、北見峠を越える交通量は激減し、峠の茶屋も閉鎖に追い込まれていた。峠の盛衰を北見峠に見る思いがした。

 北見峠も峠で折り返し、峠を下ったところで国道273号で浮島峠に向かった。
 この峠は初めての峠。この「初峠」に向かっていくときの期待感がたまらない。どのような峠なのだろうか、どのような風景なのだろうか、峠はどのようになっているのだろうかと、初めての峠への想像をめぐらす。この「初峠」への情熱がここまで「峠越え」をつづけてこられた一番の理由だと思う。

 浮島峠は走りやすい峠道だった。
 峠を貫く新道の浮島トンネルを抜けたところで、「1497峠目」をカウントした。これで1500峠が一歩、近づいた。あと、3峠。

 ふたたびトンネルを抜けて戻ると、今度は旧道に入っていく。旧道の残っている峠では極力、それも走るようにしている。浮島峠の旧道は絶好のダートコース。
「おー、こういう峠道もあるのか」
 と、うれしくなってしまったほど。10キロあまりのダートを嬉々として走り、峠を越えたところで国道273号で滝上へ。さらにはオホーツク海の紋別まで下った。

 紋別で泊まり、翌朝、オホーツク海の海岸へ。
 オホーツク海には霧が漂い、水平線も定かではなかった。国道273号で滝上まで戻ると、道道61号で上紋峠へ。オホーツク海側はずっと濃霧。峠を登り、北見と天塩の国境の上紋峠に着くと、天気が劇的に変わった。

 峠の上空を激しい勢いで雲が流れ、雲の切れ目からは青空が顔をのぞかせていた。さらに驚かされたのは、天塩側へと峠を下っていくと、なんと天塩側では抜けるような青空が広がり、カーッと真夏の強い日差しが差し込めていたことだ。

 天塩川の源流地帯からは道道101号で於鬼頭峠に向かったが、峠のトンネルを抜けて石狩側に入ったとたんに上空には真っ黒な雨雲が広がり、峠を下っていくとザーッと雨が降ってきた。峠を境に北見は濃霧、天塩は晴天、石狩は雨天。なんとも鮮やかな天気の変化だった。
「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨がふる」
 と、鈴鹿峠の「鈴鹿馬子唄」で歌われているが、これが峠なのだ。

 峠の東側、坂下は晴れているが、鈴鹿峠は曇り、峠の西側の土山は雨というもので、上紋峠、於鬼頭峠の峠越えも「鈴鹿馬子唄」とまったく同じような状況だった。

 於鬼頭峠を下った上川盆地の中心地、旭川からは国道40号で石狩と天塩の国境の塩狩峠を越え、峠を下った士別から再度、上紋峠を越えた。滝上まで戻ると、そこでひと晩、泊まった。

 翌日は待望の1500峠達成を目指す。
 滝上を出発すると、道道61号から道道137号に入り、滝上町と西興部村の境の札久留峠を越えた。この札久留峠が1498峠目になる。あと2峠。

 西興部村に入ると、同じ道道137号で瀬戸牛峠を越えた。この瀬戸牛峠が1499峠目。ついに1500峠に「王手!」をかけたのだ。
 1500峠目を目指して気持ちがやはる。それ行け~!

 西興部からは国道239号で北見・天塩国境の天北峠を越えた。
 峠を下った下川からは道道60号で幌内越峠を越えた。幌内越峠を下ると、道道40号とのT字の分岐。この道道49号で越える松山峠が1500峠目になるのだ。

 2003年8月12日午前11時15分、DR-Z400Sともども松山峠に立った。 1500峠達成の瞬間だ。「オレはやったゼ!」といった高揚した気分。クマでも出てきそうな峠上で思いっきり大声を出して「万歳!」をした。

 目をつぶると、次々と過ぎ去った「峠越え」のシーンがまぶたに浮かんできた。
 長野・岐阜県境の神坂峠がハードなダートだったころ、雪解けをねらって峠を越えたのだが、土砂崩れにはまり込み、にっちもさっちもいかなくなった。あのときに助けてくれた営林署のみなさんの顔が浮かんでくる。ひと晩、宿舎に泊めてもらい、イノシシの肉を肴に酒をくみかわしたっけ…。

 松山峠はぼくにとっては忘れられない峠になった。
 1500峠を達成し、これで2000峠がぐっと現実味を帯びてきた。
「日本の全峠を越えよう!」ということではじめた「峠越え」。最終的な目標は3000峠においている。松山峠で1500峠を達成したことによって、無性に3000峠を越えたくなった。「よ~し、とことん、やってやろう」。それがぼくの松山峠での決心だ。

 松山峠を下った美深からは国道40号を北上。音威子府で天北峠に向かう。最後のカーブもスピードを落とさずに曲がり天塩・北見国境の天北峠に到着! ここが最後の峠だ。 天北峠からさらに北へと中央分水嶺はつづくが、この峠よりも北にはもう名前のついた峠はない。天北峠が名前のついた峠としては最北の峠になる。

 1500峠を達成した「峠越え」の最後を飾るにふさわしいドラマチックな夕焼け。峠にバイクを停めると、夕日が道北の山々に落ちるまで見つづけた。真っ赤に染まった夕空は刻々と色を変え、正面に見えるペンケ山、パンケ山をも染め、そして夕日はパンケ山の向こうに落ちた。それを見届けると峠を下り、峠下の中頓別町のピンネシリ温泉に入り、かつての天北峠を越える鉄路、天北線の中頓別駅前の旅館に泊まった。

 翌朝、日本本土最北端の宗谷岬へ。ここが中央分水嶺最北の地。日本列島は宗谷岬から佐多岬まで日本海と太平洋を分ける中央分水嶺の線できれいに2分されているが、そのうち北海道の三国山以北の中央分水嶺は日本海とオホーツク海を分け、最後は宗谷丘陵となって宗谷岬に落ちている。

 宗谷岬でカソリ、胸を熱くさせ、宗谷海峡の向こうのサハリンに向かって思わず叫ぶのだった。
「次は2000峠だ!」

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク

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Category: 峠越え since1975

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第19章 1000峠達成記念篇
雨の峠越えに出発

 1994年11月6日は、1000峠達成記念の日。ところが夜中から雨が降りだし、朝起きると、ザーザー降りになっている。この雨のせいで、すっかり走ろうという気をなくしてしまう。ほんとうは夜明け前に出発するつもりでいたが、
「あー、いやだなあ‥‥」
 と、グズグズしてしまい、朝食を家で食べ、やっと8時過ぎになって、神奈川県伊勢原市の自宅を出発したのだ。

 記念すべき1000峠目の峠越えの相棒は、「インドシナ一周一万キロ」を走り抜いたスズキRMX250S。不思議なもので、雨の中でもいざ走り出してしまうと、コロッと気分は変わる。
「よーし、今日は、雨の峠越えだ!」
 と、すっかりやる気になっているのだ。

 中央道へのいつものコース、丹沢の東山麓を走り、JR中央線の相模湖駅前でR20に出、相模湖ICで中央道に入る。雨の高速道を突っ走り、目的地の八ヶ岳山麓へ。雨はやむ気配もなく、情けない気分になってくる。

 というのは、“カソリの1000峠達成記念”ということで、『月刊オートバイ』の編集部のみなさんや、読者のみなさんが、ぼくの1000峠目となる峠に集まってくれることになっていたからだ。
「この雨じゃ、誰も来てくれないかな‥‥」
 と、ガッカリしてしまったが、ラッキーなことに、笹子峠の笹子トンネルを抜け、甲府盆地に下っていくと、雨は上がった!

 須玉ICで中央道を降り、R141で清里へ。JR小海線の清里駅に近い日石のGSのある交差点で国道を右折し、“クリスタルライン(牧丘町のR140までつづいている山岳ルート)”に入っていく。それを途中で左折し、道幅の狭一本道を走り、山梨・長野県境の平沢峠を越える。それがぼくにとっての999峠目。
「さー、次は1000峠だ!」
 と、気持ちがはやる。


やったー、1000峠達成!

 山梨・長野県境の平沢峠を長野側に下り、平沢の集落を通り抜け、午後1時、1000峠目の峠に到着。なんと、くす玉が割れ、大勢のみなさんが拍手してくれる。

『月刊オートバイ』のキャラクターGAL、榎本恭乃さん、川井リエさん、それとカソリ&アキエのコンビで奥鬼怒の加仁湯温泉に一緒に行った小林亜紀恵さんの美女トリオが出迎えてくれた。

『月刊オートバイ』副編集長の船山理さん、同じく副編集長で、ぼくの「峠越え」の連載を担当してくれている松澤利彦さん、「パリ・ダカ」を走った岡村浩司さん、異色のイラストレーターのワンダバダ長沢さんら、この記念イベントを盛り上げてくれたみなさん、悪天候にもかかわらず日本各地から来てくれた大勢の読者のみなさん一人一人と固い握手をかわす。胸がジーンとしてくる瞬間だ。

 1000峠達成を祝って、『月刊オートバイ』の現編集長の大林誠二さん、前編集長の福原広昌さん、前々編集長の梶田卓さん、それと、世界で初めてバイクで北極点、南極点を極めた風間深志(かつては『月刊オートバイ』の編集部員)さんがメッセージをおくってくれ、それらが代読された。みなさん、ありがとう。

 ところで、この1000峠目の峠は、八ヶ岳を目の前にし、R141の野辺山峠を足下に見下ろす眺望抜群の峠なのに、名前がついていない。地元から参加してくれたみなさんにも確認したが、やはり名無しの峠なのだ。そこで、集まったみなさん全員の同意を得て“獅子岩峠”と名付けたのだ。峠には獅子岩という大岩があるからだ。

 長野県南牧村の獅子岩峠は、R141の山梨・長野県境の野辺山峠と同じように、太平洋と日本海を分ける中央分水嶺の峠になっいる。峠の南側は釜無川・富士川の水系で、北側は千曲川・信濃川の水系になる。

 獅子岩峠では、夕暮れまでみなさんとの交歓会で盛り上がる。日が暮れたところで、峠を越え、JR小海線の野辺山駅に下っていく。最後は、一緒に中国のタクラマカン砂漠を走った“新疆軍団”のみなさんら、10人以上の人たちとR141沿いの食堂で夕食をともにする。

 夕食後、みなさんに別れを告げ、夜の野辺山峠を越え、須玉ICから中央道を走り、午後11時に自宅に戻りついたが、出発するときの気持ちの重さがうそのように、晴々とした気分。走行距離350キロの「八ヶ岳の峠」の第1弾だった。


野辺山峠を越えて、八ヶ岳の秘湯へ

 翌日は、やはり8時にわが家を出発。「八ヶ岳の峠」の第2弾に出かけるのだ。峠越えの相棒は、RMX250SからDJEBEL200にチェンジ。雲は多いが、前日よりもはるかに天気がいいのでありがたい。

 相模湖ICで中央道に入り、韮崎ICで降りる。JR中央本線の韮崎駅前を出発点にする。R141を走りはじめ、野辺山峠に向かう。中央道の須玉ICの近くにある須玉温泉「須玉の湯」(入浴料1000円)の大浴場と露天風呂の湯に入る。「八ヶ岳の峠」第2弾では、徹底的に温泉に入りまくるのだ。

 須玉温泉で気分をさっぱりさせたところで、R141を北へ。清里を過ぎると野辺山峠だ。八ヶ岳山麓の野辺山周辺は、全体が高原状の地形なので、野辺山峠はほとんど峠としては意識されていないが、本州を太平洋側と日本海側に二分する中央分水嶺の峠なのだ。

 山梨・長野の県境を越えるとすぐに、標高1379メートルの表示があるが、そのあたりが峠ということになる。目の前に広がる高原野菜の畑の向こうには、八ヶ岳の峰々が連なっている。

 国道のすぐ右手、JR小海線の線路わきの、標高1375メートル地点には、“日本鉄道最高地点”の大きな碑が建っている。それには“幸せの鐘”がついていて、熱々のカップルが2人で鳴らしていた。国道のわきにも、同じように“野辺山峠”の碑を建て、“分水嶺公園”をつくり、“峠の鐘”を取り付ければいいのに‥‥と、“峠のカソリ”はそう思うのだ。

 野辺山峠を越えたところで、今度は“JR線最高所駅”の野辺山駅前でDJEBELを止める。駅の高さは標高1345メートル。信州に入ったときのぼくの儀式のようなものだが、駅前の食堂でそばを食べる。いつも思うことだが、信州というのは、どこで食べても“そばのうまい国”だ。

 信州そばに満足して野辺山高原を下っていく。“市場坂”と呼ばれる急坂で、3キロほどつづくR141の最大の難所だ。坂を下りきると、日本最長の信濃川の上流、千曲川の河畔に出る。野辺山峠の峠下では、第2湯目、一軒宿の鹿ノ湯温泉(入浴料400円)の湯に入った。

 R141を松原湖入口で左折し、松原湖を見たあと、第3湯目の稲子湯温泉へ。一軒宿「稲子湯旅館」(入浴料520円)の湯につかったあと、きわめつけの秘湯、本沢温泉に向かう。林道を3キロほど走り、右折してさらに1キロほど走り、林の中にDJEBELを止め、八ヶ岳の夏沢峠に通じる山道を歩いて登っていく。落ち葉の敷きつめられた登山道をヒーヒーハーハーいいながら1時間半歩き、汗びっしょりになって、やっと第4湯目の本沢温泉に着いた。山小屋風一軒宿の温泉。今晩はここで泊まるのだ。

 宿からさらに登山道を登っていくと、雲上の露天風呂に着く。標高2150メートルの露天風呂。白濁色の硫黄泉の湯につかりながら、目の前にそそりたつ岩肌むきだしの絶壁を見上げていると、自分と自然との一体感を強く感じ、温泉が自然からの贈り物であることがよくわかるのだ。

 本沢温泉の日が落ちてからの冷え込みは強烈だ。山小屋風温泉宿の赤々と燃えるストーブにかじりつくようにして、イワナの塩焼き、イワナの骨酒つきの夕食を食べる。そのあと、木の湯船の内風呂に入り、午後9時の消灯とともに、早々と眠りにつくのだった。


麦草峠を越えて、奥蓼科温泉郷へ

 翌日は、R141からR299に入り、麦草峠を越える。峠を吹き抜けていく風は、身を切るような冷たさだ。八ヶ岳の北側を越える麦草峠は、標高2127メートル。野辺山峠と同じように、中央分水嶺の峠になっている。

 以前は日本の国道最高所の峠だったが、有料の草津志賀道路から一般国道R292になった群馬・長野県境の渋峠(2172m)にその座を奪われてしまい、現在は第2位になっている。峠の標示も、“国道最高所・麦草峠”から“メルヘン街道最高所・麦草峠”に変わっている。メルヘン街道というのは、麦草峠越えのR299の愛称だ。

 麦草峠の峠の茶屋兼山小屋の「麦草ヒュッテ」で山菜そばを食べ、茅野を目指して峠を下っていく。
 峠下では、奥蓼科温泉郷の温泉に入りまくった。どこも情緒のある山あいの温泉。ただ入浴料が高いのが、ちょっと辛い。

 第1湯目は渋川温泉。一軒宿「保科館」(入浴料800円)の露天風呂に入る。渋川の渓流のわきの露天風呂だ。第2湯目は渋川最奥の渋ノ湯温泉。2軒宿が並んでいるが、そのうちの「渋御殿湯」(入浴料800円)の湯に入る。八ヶ岳を下ってきた山男たちと一緒に入った。

 第3湯目は渋温泉。シラカバ林の中にある一軒宿「辰野旅館」(入浴料1500円)の湯に入る。第4湯目は明治温泉(入浴料800円)、第5湯目は横谷温泉(入浴料1500円)と、ともに一軒宿の温泉の湯に入り、奥蓼科温泉郷を総ナメにし、夕暮れの道を茅野へと下っていった。

 茅野からはR20(甲州街道)で富士見峠を越え、山梨県に入り、韮崎へ。JR韮崎駅前の食堂で夕食にし、韮崎ICから中央道に入り、午後10時、わが家に戻った。「八ヶ岳の峠」第2弾の走行距離は450キロだった。

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「旧満州走破行2004」(67)
10月12日(火)雨のち曇 同江→撫遠(その2) 第22日目

 撫遠のホテルでひと休みしたあと、中心街の食堂で昼食。もっぱら肉で、骨つき肉、豚の内臓、青菜で巻いた牛肉を野菜炒めやマッシュポテト、トウモロコシパンと一緒に食べた。

 肉料理で満腹になったあと、スズキの販売店へ。ここには地元のテレビ局チームが待ち構えていた。市内パレードに同行して生中継するという。中国辺境の地といってもいい最東端の町、撫遠に、このようなテレビ局があるのが驚きだった。

 スズキ販売店社長の劉さんとひとしきり話したあと、店に集まっていた15人の地元のライダーと一緒に撫遠の町をパレードする。スズキの宣伝車がパレードを先導し、最後尾にもスズキの宣伝車がついた。

 町行く人たちは歩みを停めて眺め、手を振ってくれる人たちもいたが、その模様が実況中継されたのだ。

 さすがテレビというべきか、この影響はきわめて大きかった。

 パレードを終え、撫遠の町を歩いていると、何人もの人たちから「テレビで見たよ」といった声をかけられた。

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食堂の調理場

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骨つき肉

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豚の内臓

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牛肉の青菜巻き

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撫遠の町をパレード

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「旧満州走破行2004」(66)
10月12日(火)雨のち曇 同江→撫遠(その1) 第22日目

 同江のホテルのレストランで朝食。主食は粥と饅頭。粥は白米とトウモロコシの2種。おかずは野菜炒め、紅豆腐、キューリの漬物、それと南京豆だ。炒った南京豆は中国の朝食には欠かせないものだが、おかずというよりも食前によく食べる。

 8時、出発。冷たい雨がしとしと降っている。雨に濡れながら走り、中国最東端の町、撫遠を目指す。今にも雪に変りそうなほど冷たい雨に、泣きながら走りつづけた。

 同江から200キロほど走り、撫遠に近づいた頃、やっと雨は上がった。

 撫遠の町の入口には「東方第一県」と書かれた門。それをくぐり抜け、撫遠の町に入っていく。ゆるやかな坂道を下って中心街へ。前方にはロシアとの国境を流れる黒龍江が見える。

 町中を走り抜け、黒龍江の河畔へ。そこには「東極撫遠」の碑が建っている。「東極」というのは中国最東端の意味。中国最西端は西極だし、最北端は北極、最南端は南極になる。

 ところで実際の最東端はここよりもさらに東で、次の日に行くことにする。

「東極撫遠」の碑の前に立ち、中国最東端の黒龍江を目に焼き付けたところで撫遠の中心街に戻る。時間はまだ昼前だったが、ホテルにチェックイン。さんざん冷たい雨にやられたので、すぐさま熱い湯のシャワーを浴びる。ほんとうに生き返るような思いだった。

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朝食のトウモロコシ粥

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朝食の饅頭

管理人より:
2連発のカソリがくどいって? ワタクシもそう思いましたが、このくどさがちょっと笑えたので採用(笑)

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撫遠への道。冷たい雨が降っている

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撫遠近郊の広大な農地

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撫遠入口の門

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撫遠の町に入っていく

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撫遠を流れる黒龍江

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黒龍江の河畔に建つ「東極撫遠」の碑

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ホテルのフロントの女性

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ホテルの部屋から眺める撫遠

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「旧満州走破行2004」(65)
10月11日(月)チャムス→同江(その3) 第21日目

 富錦の食堂「山東坤麺館」での昼食を食べ終えると、同江に向かってスズキQS110を走らせる。紅葉の道を行く。富錦から100キロほど走ると、黒竜江河畔の町、同江に到着だ。

 同江の広々とした町並みを走り抜け、「三江口」まで行く。

 三江口というのは黒龍江と松花江、ウスリー江の三大河川の合流点のこと。実際には同江で黒龍江と松花江が合流し、黒龍江とウスリー江はもう少し下流の撫遠で合流する。

 黒龍江と松花江の合流点には「三江口」の碑が建っているが、このあたりの黒龍江の川幅は2キロ以上もある。対岸のロシアが霞んで見える。

 松花江の源は北朝鮮との国境の山、長白山(朝鮮名白頭山)山頂の天池。天池から流れ出た松花江は旧満州(中国東北部)の幾多の川を集め、ハルビン、チャムスと流れ、同江で黒龍江に合流する。全長1840キロの大河だ。

 黒龍江河畔には「同三同路起点」の碑も建っている。この同三公路というのは同江から大連へ、大連港からはフェリーで山東半島の煙台港に渡り、上海、広州と通り、海南島の三亜へとつづく全長6000キロ余のルート。

 いかにも大陸を感じさせる「同三公路」ではないか。いつの日か、その全線をバイクで走ってみたい!

 三江口から同江の町に戻ると、中心街のホテルに泊まる。夕食は「火鍋」の専門店で。火鍋とはシャブシャブのことだ。羊肉のシャブシャブを腹いっぱい食べた。

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富錦から同江へ

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同江の町に入っていく

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「三江口」の碑

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黒龍江と松花江の合流点

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黒龍江のレストラン

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「同三公路起点」の碑

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夕食は羊肉のシャブシャブ

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さー、食べ頃です!

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Category: 旧満州走破行2004

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「旧満州走破行2004」(64)
10月11日(月)晴 チャムス→同江(その2) 第21日目

 チャムスのスズキの販売店でのセレモニーを終えると、黒龍江の河畔の町、同江に向けて出発。すぐに有料道路に入るが、中国各地にある有料道路はどこもバイクは無料だ。

 道路沿いには広大な農地が広がる。トウモロコシや大豆畑ですでに収穫は終っている。畑の境にはポプラの防風林が見られる。北海道の北見の広大な畑作地帯を思わせるような風景だ。そんなドデカイ風景の中をスズキQS110を走らせる。

 チャムスから160キロ走り、富錦の町に到着。この一帯は中国でも有数の大豆の産地。「富錦の大豆」といえば、ちょっとしたブランドになっているという。

 富錦の町の中心にある食堂「山東坤麺館」で昼食。そこでは調理場に入り込み、坤麺づくりを見せてもらう。麺づくり職人の若者は、じつに鮮やかな手さばきで、麺につくり上げていく。道具は一切、使わない。使うのは手だけだ。

 いつも感心してしまうのだが、中国の麺づくり職人の手さばきはじつに見事なもので、まるでマジックショーを見ているかのようだ。それも年季の入った職人ではなく、まだ学校に通っているのではないかというような若者の麺職人が多い。

 中高生ぐらいの麺職人を見たこともある。麺づくりは子供の頃からやっていることなので、職人技ではないのかもしれない。

 そんな麺を大鍋で茹で、茹で上がった麺を丼に入れ、肉や野菜、茸などの入ったスープをかけて出来上がり。シンプルな味わいの「山東坤麺」。

 豚の腸料理と焼麦(シューマイ)を食べながら、「山東坤麺」を味わって食べた。

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有料道路に入る。バイクは無料

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黒龍江省北東部の広大な農地

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我がスズキのサポートカー

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富錦の食堂「山東坤麺館」で昼食

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山東坤麺

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豚の腸料理

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焼麦

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いただきまーす!

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Category: カソリ&管理人の「サッカー談義」

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やったー、日本!
(カソリ)

 日本対エジプト戦は大興奮。日本、やりましたねぇ!

 前半早々の永井の先制点がすべてでした。永井のあの超快速にはエジプトは成すすべもなかったですね。清武からのパスがじつによかった。

 それにしても心配なのは、得点直後の相手のバックチャージで永井が負傷退場したこと。今大会前のJリーグの試合から「絶好調」をつづけている永井がここで抜けると、日本にとっては大きな痛手になります。

 前半の相手の一発退場で日本の勝利を確信しましたよ。 

 そしてFKからの2点目。清武のキックの精度の高さと、それをドンピシャで合わせた吉田のヘッドには「日本、すごい!」と唸ってしまいました。

 最後は大津の3点目。大津のすごさは最後までスピードが落ちないこと。見た目以上にタフですね。さすがスペインを一撃で撃破した男!

 日本はきっと準決勝でメキシコに勝てますよ。
 男女ともに決勝進出という夢物語が実現しそうですね。

 ぼくはまもなくマダガスカルに旅立ってしまうので、このあとの試合を見られないのが何とも残念…。

テーマ : サッカー    ジャンル : スポーツ

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Category: カソリ&管理人の「サッカー談義」

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なでしこJAPAN
(カソリ)

 さすが「なでしこ」。試合内容は五分五分なのに試合結果は2対0。

 前半の大儀見の得点が光りますね。オフサイドすれすれでの見事な飛び出し。バックスを完全に振りきり、キーパーと1対1になっても、じつに落ち着いていました。

 後半の大野の得点は最初は躊躇したので、「あー、ダメだ、もったいない」と思ったのですが、そのあとよくぞ決めてくれました。大野の得点能力の高さには驚かされます。

 これで次の準決勝はフランス戦。「なでしこ」は決勝までいけそうですね。

テーマ : サッカー    ジャンル : スポーツ

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Category: 旧満州走破行2004

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「旧満州走破行2004」(63)
10月11日(月)晴 チャムス→同江(その1) 第21日目

 チャムスの夜明け。ホテルの部屋から人口60万の大都市を見下ろすと、すぐさま外に出、1時間ほどプラプラと夜明けの町を歩いた。

 チャムスは黒龍江省北東部の中心地。交通の要衝の地で鉄道、道路のみならず、ここは松花江の水運の拠点にもなっている。松花江から本流の黒龍江を経由してウスリー江とも船運でつながっている。

 ホテルに戻ると、ホテル内のレストランで朝食。

 まずは饅頭を食べる。肉入りの饅頭2種と何も入っていない饅頭。肉入りの饅頭は日本でいえば「肉まん」だ。

 つづいて2種の朝粥を食べる。粟粥と赤米の粥。赤米の粥にはナツメの実が入っている。

 ホテルを出発すると、中心街にあるスズキの販売店へ。そこには「熱烈歓迎日本著名旅行家賀曽利先生至佳木斯旅遊」の横断幕が掲げられている。「佳木斯」はチャムスのこと。

 店の前にはスズキのバイクに乗ったチャムスのみなさんが待ち構えている。みなさんと一緒に市内のパレードを開始。先導するのはスズキQS110の宣伝車。町を行くチャムスのみなさんが手を振ってくれている。

 若い女性に手を振られるとうれしくなってしまう。彼女たちの大半はズボン姿。スカートをはいた女性は少ない。スラットした長身の女性の多いのがチャムスの特徴だ。

 スズキの販売店に戻ると、地元のテレビ局、ラジオ局、新聞の取材を受けた。カソリ、チャムスでは一躍、有名人になった!?

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夜明けのチャムス

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朝食の饅頭。2種は肉入り

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赤米の朝粥。ナツメの実が入っている

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チャムスのホテルを出発

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チャムスのスズキの販売店

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スズキの宣伝車の先導で市内をパレード

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チャムスのみなさんと一緒に走る

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク