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世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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Author: 賀曽利隆
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Category: 食文化研究

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日本食べある記(13)甲州ブドウと甲州ワイン
(『市政』1994年12月号 所収)

甲州街道で勝沼へ
 日本一のブドウの産地、山梨県勝沼町に、東京からバイクを走らせて行った。勝沼は甲州街道の宿場町なので、甲州街道、現在の国道20号を走った。

 東京から大垂水峠を越えて神奈川県に入り、上野原町で山梨県に入り、山梨県東部の中心地、大月へ。そこから笹子峠に向かった。

 現在でこそ、中央自動車道や国道20号は、長大なトンネルで笹子峠を抜けているが、かつての笹子峠は甲州街道第一の難所になっていた。

 笹子峠を境にして、その東側、大月や都留を中心とする山梨県東部地方は“郡内”と呼ばれ、関東との結びつきが強かった。それに対して峠の西側、甲府を中心とする甲府盆地は“国中”と呼ばれ、独立したひとつの世界をつくっていた。

 笹子峠は甲州を郡内と国中の二つの世界に分けていたのだ。

 大月から桂川(神奈川県に入ると相模川になる)の支流、笹子川に沿って国道20号を走ると、前方には、まるで両手を広げて立ちふさがるかのような高い山々が見えてくる。郡内と国中を分ける山並みだ。北は大菩薩連峰へとつづき、南は御坂山地へとつづいている。

 やがて、笹子に着く。笹子峠下の集落。JR中央本線の笹子駅がある。国道沿いには歴史を感じさせる造り酒屋がある。笹子は甲州街道の宿場だ。

 笹子を過ぎると国道20号は笹子トンネルに入っていくが、その手前を左に折れ、旧道で笹子峠へ。家並みが途切れ、峠道にさしかかると、もうすれ違う車もない。山々の木々がわずかながらに紅葉していた。

 クネクネと曲がりくねった幅の狭い峠道を登りつめ、古びたトンネルを抜けて笹子峠を越える。

 笹子峠は標高1096メートル。桂川・相模川の水系と、笛吹川・富士川の水系を分けている。甲州街道第一の難所といったが、国道20号の笹子トンネルが開通するまでは峠道での大型トラックのすれ違いは極めて難しかった。そこで大型車はいったん富士山麓の富士吉田に出、国道137号の御坂峠を越えて甲府に下っていったほどなのだ。それはほんの3、40年前のことでしかない。

 笹子峠を甲府盆地側に下った集落が駒飼。峠をはさんで笹子と相対する甲州街道の宿場。ここにはかつて、30軒もの旅籠があっておおいににぎわったという。甲州街道最大の難所の笹子峠を越えてきた旅人や、これから峠に向かう旅人たちが、ここでひと晩、泊まることが多かったからだ。

 駒飼周辺の春の景色はすばらしい。一面、花園になる。このあたりには果樹園が多いが、桃や李の花が満開のころはそれは見事だ。桃のピンクの花と李の白い花が、まるで色のついた雲が山肌一面にたなびいているかのように見える。

 駒飼から下っていくと、国道20号に合流し、さらに勝沼へと下っていく。山地を抜け出ると、突然、目の前には甲府盆地が開けてくる。感動の光景。白根三山を中心とする南アルプスの高峰群を正面に望み、右手には金峰山などの奥秩父連峰、はるか遠くには八ヶ岳を望む。

 あたりは一面のブドウ畑。山裾も、盆地内の平地も、すべてがブドウ畑になっている。それはまさに“日本一のブドウの里”を実感させる光景だ。

甲州ブドウを食べる
 国道20号のすぐわきにある大善寺に立ち寄る。拝観料を払って庭園を見たあと、堂々とした山門をくぐり、石段を登り、国宝に指定されている鎌倉時代につくられた本堂の薬師堂を参拝する。この薬師堂は葡萄薬師ともいわれている。

 勝沼とその周辺は、日本一のブドウの産地だが、その栽培の歴史は古く、文治2年(1186年)までさかのぼるという。その発祥の地が、大善寺ということになっている。

 大善寺に伝わるブドウ伝説がおもしろい。養老2年(718年)、僧行基がこの地を訪れ、日川(笛吹川の支流)で修行したところ、満願の日、夢の中に右手にブドウの房を持った薬師如来の姿が現れたという。行基はその夢をたいそう喜び、早速、夢の中に現れた姿と同じ薬師如来像を彫り刻んでまつったのが葡萄薬師だという。それ以来、薬園をつくって民衆を救い、法薬のブドウのつくり方を村人に教えたので、この地でブドウが栽培されるようになり、それが甲州ブドウの始まりになったという。

 ブドウの原産地はコーカサス地方からカスピ海南岸にかけての一帯。今から4000年前には栽培されていたというほどの、きわめて歴史の古い栽培作物である。

 ブドウの伝播だが、シルクロード経由で中国にもたらされた。シルクロート沿いの砂漠のオアシスはどこもブドウの産地だが、とくにトルファン盆地などは世界最上のブドウの産地として知られている。

 中国でブドウが栽培されるようになったのは紀元前のこと。それが日本に伝わったのは、時代が下り、鎌倉時代の初期のことといわれている。

 ブドウが甲州の特産品として世間の注目を浴びるようになるのは、さらに時代が下り、江戸時代の中期、甲州街道を行き来する馬で江戸の問屋に運ばれるようになってからのことだという。

 大善寺の参拝を終え、国道20号の旧道で勝沼の市街地に入っていく。道路の両側には、それこそ、切れ目なしに観光ブドウ園がつづいている。

 バイクを止めて、観光ブドウ園でとれたてのブドウを賞味する。
 昔なつかしい「甲州ブドウ」や、新しい品種の「ナイアガラ」、「タノレット」といった品種を味わってみる。そのほか店先には「巨峰」や「ネオマスカット」、「マスカットベリーA」などのブドウが並んでいる。

 店の人に話をきくと、ブドウの季節は次のようになる。
  7月 デラウェア(小粒で甘い)
  8月 キャンベルアーリー(黒紫で中粒)
     巨峰(大粒で甘味が強い)
  9月 ネオマスカット(青色)
     マスカットベリーA(黒色)
  10月 甲州(赤紫色の在来種)

甲州のワイン造り
 甲州ブドウのあとは甲州ワインだ。ワイナリー(ワインの醸造所)を見学する。
 勝沼はブドウの収穫量だけではなく、ワインの生産量も日本一を誇っている。全部で30あまりのワイナリーがブドウ畑の中に点在し、全国のワイン総醸造高の7割近くをこの地で生産している。

 大手ワインメーカー、メルシャンワインのワイナリーを見学させてもらった。
 ちょうどブドウの収穫のまっ最中だったこともあって、ワイナリーにはコンテナに入ったブドウが続々と運びこまれていた。

 破砕→圧縮→発酵→樽貯蔵→ビン貯蔵という一連のワインづくりの工程を見せてもらったのだが、随所に、近代的な機械が使われている。

 案内嬢の説明で興味深かったのは、赤ワインと白ワインのつくり方の違いである。
 赤ワインは、破砕のままの状態で発酵させたあと、圧搾するのだが、色が充分に出ると、適度の渋みを得た段階で果皮と種子を取り除く。ワインの色や渋み(タンニン)は、果皮や種子から得られるのだという。

 それに対して爽やかな風味を身上とする白ワインは、果皮からの色と種子からの渋みを避けるために、破砕のあと、すぐに圧搾する。つまり、赤ワインと白ワインは、発酵と圧搾の工程が逆になるというのだ。

 ワイン用のブドウは、生食用とはまた違った種類のものを用いている。

 赤ワインに適しているのは、カベルネ・ソービニョ、メルロー、ピノ・ノワール、ブラッククイーンといった、色の濃いブドウである。

 白ワインに適しているのは、甲州、セミヨン、シャルドネ、リースリングといった、薄赤紫の甲州を除けば、薄緑色のブドウである。

 メルシャンワインのワイナリーのすぐ近くには、ワイン資料館がある。明治37年に宮崎第二醸造所として建設されたもの。現存する日本最古のワイン醸造所として、この建物自体が日本のワインの貴重な歴史的資料になっている。

 ここで目を引くのは、明治時代のワインづくりの道具類だ。ブドウを砕く破砕機、果汁を受ける大桶“半切れ”、果汁を運ぶ手桶、圧搾機、発酵中の果汁を攪拌する櫂、桶に溜まったかすをすくいとる“かすり”、濾過機、コルク打栓機など、先人たちの智恵を感じ、見ていて飽きなかった。

 甲州ワイン造りの先人たちの紹介も興味深かかった。

 殖産興業政策を押しすすめた大久保通にはじまり、明治10年に祝村葡萄酒会社を創設した藤村紫朗、高野正誠、土屋龍憲、ワインづくりに一生をかけた宮崎光太郎、神谷伝兵衛、川上善兵衛らが紹介されている。

 その夜は町営の“ぶどうの丘センター”に泊まり、まずは大展望風呂の温泉「天空の湯」に入る。見渡す限りのブドウ畑が夕日に染まっている。湯から上がると、待望の甲州ワインを飲みながらの食事だ。甲州ワインの旨さが腹にしみる。

 勝沼の地は、甲府盆地に流れ込む笛吹川の扇状地で水はけがよく、乾燥している。気温の日較差も大きい。砂漠の熱風を彷彿とさせる“笹子おろし(フェーン現象)”も吹く。甲府盆地東端の勝沼一帯はこのように、ブドウ栽培には絶好の条件を備えたところなのである。

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Category: 食文化研究

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日本食べある記(12)氷見ブリ
(『市政』1994年11月号 所収)

高岡を歩く
「越中ブリ」の本場、富山県氷見市に行こうと、「ますずし」を食べたあと、富山駅から北陸本線の鈍行列車に乗った。

 富山県西部、呉西の中心高岡で氷見線に乗換え、終点の氷見まで行くつもりだったが、その前に高岡駅で下車し、町をぷらぷら歩いてみた。

 高岡はさすがに仏像づくりが盛んなだけあって、駅構内にはブロンスの仏像が展示されている。町を歩いていても、仏像に限らず、いろいろなブロンズ像をあちこちで数多く見かける。

 高岡といえば、江戸時代以来の伝統を誇る鋳物師の町。とくに寺院の梵鐘づくりは有名。全国の寺院の梵鐘の大半は、高岡でつくられたものだ。

 それと目につくのは、きらびやかな仏壇をずらりと並べた仏壇店が多いことである。
 富山県をはじめとする福井、石川の北陸三県は、日本でも有数の真宗地帯になっている。浄土真宗の家々では、豪華絢爛の仏壇を飾っている。信仰心の厚い北陸の人々という背景があって、高岡の仏壇店が成り立っているのだろう。

 最後に、奈良、鎌倉とともに、“日本三大大仏”ともいわれる高岡大仏を見に行く。台座を含めての高さが15メートルという堂々とした大仏だ。

氷見線の終着、氷見駅に到着
 高岡から氷見線に乗る。終点の氷見駅まではわずかに16・5キロでしかない。途中の駅数は6つという短い路線だが、この氷見線には興味をそそられる駅がつづくのだ。

 高岡を出発すると列車は越中中川駅、能町駅と通り、庄川、小矢部川にはさまれた沖積平野を走り、小矢部川を渡って15分で伏木駅に着く。

 伏木は小矢部川河口の西岸に位置する港町。富山湾岸では最も古い歴史を持っている。江戸時代には日本海を行き来する千石船、北前船の出入りする港としておおいに栄えた。ここは海路でもって京・上方と結ばれ、越中第一の先進地であった。

 伏木駅の次が越中国分駅。その名のとおり、この地(二上山の東麓)には越中の国府が置かれ、国分寺跡などが残されている。

 つづいて雨晴駅。富山湾の風光明媚な海岸の雨晴は、源義経と弁慶の主従が奥州に落ちていくとき、岩の下で雨が晴れるのを待ったという故事に由来するという。そんな雨晴海岸には義経伝説の雨晴岩がある。

 雨晴海岸は古くは有磯海と呼ばれ、歌に詠まれる世界であった。
『古今集』には、「ありそ海の 浜の真砂と 頼めしは忘るることの 数にぞありける」とある。
「早稲の香や 分け入る右は 有磯海」と、芭蕉の『奥の細道』にも登場する。

 雨晴駅の次の島尾駅を通り、高岡駅から30分で、終点の氷見駅に着いた。

氷見で氷見ブリを食べる
 氷見線の終着、氷見駅で下りると、さっそく“越中ブリ”の本場、氷見の町を歩く。

 まっ先に私の目をとらえたのは、ブリの藁巻きである。みやげ物店の店先に、それも一番目のつくところに、ぶらさがっている。

 ブリの藁巻きというのは、この地方特有のブリの保存方法で、1週間ほど塩蔵したブリをさらに1、2週間かけて陰干しにし、表面にしみ出た脂分をとり除き、米糠と塩を塗りつけて稲藁で巻いたものである。

 それともうひとつ、目についたのはかまぼこである。
 かまぼこといえば小田原や萩、仙台、敦賀などが知られている。ところが氷見を含めて富山のかまぼこが他産地と違うのは、食べるのがもったいなくなるくらいの、豪華な、色とりどりの細工かまぼこが盛んにつくられていることである。

 籠に盛られたツル、カメ、マツ、エビ、富士山、打ち出の小槌といった細工かまぼこやタイのかまぼこは、結納や結婚式には欠かせないものになっている。

 氷見の町を歩いていると、この細工かまぼこをつくる店を何軒も見かけるが、よくこれで商売になるものだと感心してしまうほど。それだけ、細工かまぼこの需要が多いということなのだろう。

 細工かまぼこの一軒一軒の店は、それほど大きくはない。売り場の奥が製造所になっている、といった程度の規模の店が大半である。そんなかまぼこ店の店内に一歩、入ると、つくりかけのタイなどがずらりと並んでいたりして、圧倒されるような光景なのである。 日が暮れかかったところで氷見市内に宿をとり、さらに夜の町を歩く。そして料理屋に入り、氷見のブリ料理を賞味した。

 まずは刺し身だ。
 フクラギとシマダイ、アオリイカの刺し身を肴に、富山の地酒を飲んだ。どれもがとびきり新鮮。さすがに富山湾の魚介類だけあって、満足できる味覚だった。

 それら3種の刺し身のうち、フクラギがブリだ。
 ブリは成長するにつれて呼び名が変わる出世魚で知られているが、その名前というのは、地方によってずいぶんと異なる。

 たとえば東京ではワカシ(ワカナ、ワカナゴ)にはじまり、イナダ→ワラサ→ブリとなる。それが氷見ではピンピンからはじまり、ツバエソ→コズクラ→フクラギ(フクラゲ)→ニマイズル→アオブリ(サンカ)→コブリ→オオブリとなる。

 おおよその大きさだが、ツバエソは10センチ以下、コズクラは10センチから20センチくらい、フクラギは20センチから50センチくらい、ニマイズルは50センチから60センチくらい、アオブリは60センチから70センチくらい、コブリは70センチから80センチくらい、オオブリといったら80センチ以上の大魚を指す。

 これほどの細かい呼び名の分け方があるということは、氷見の人たちにとって、それだけブリが生活に密着した魚であることを証明している。

 刺し身を肴に富山の地酒を飲んだあと、ブリの塩焼きとあら炊き、ぬたをおかずにして、ご飯を食べた。まさに氷見でのブリ三昧だ。

 ブリはどのような料理方法でも旨い魚で、焼き魚では塩焼きのほかには照り焼きにもする。

 ブリのあら炊きは、ブリのアラとダイコンを煮込んだもので、冬にはぴったりの料理。体がぽかぽかと温まる。そのつくり方、次のようなものだ。

 まずはブリの頭をたてに二つに割ってからブツ切りにし、三枚におろした中骨も、同じくらいの大きさに切る。それらを水洗いしたあと熱湯に通す。

 次に別の鍋で、切ったダイコンをゆでる。ゆであがったところで、さきほどのブリのアラを入れ、味噌で味つけし、グツグツ煮込む。酒を少々たらすと、風味がグッと増すという。味噌味のほかに、醤油味にすることもある。

 ブリの内臓を使ったぬただが、こうしてぬたにすると、すい臓を除くすべての内臓を食べることができるという。

 ブリのぬたは、よく水洗いをした内臓をゆで、それを細かく刻み、ゆでたネギ、またはダイコンおろしといっしょに酢味噌で食べる。シコシコとした歯ざわりがなんともいえない。

 そのほかフトウと呼んでいるブリの肝臓は塩辛にすると、絶好の酒の肴になるという。このようにブリは、捨てるところのまったくない魚なのである。

氷見ブリ→越中ブリ→飛騨ブリ
 翌朝は、早起きして、氷見漁港に行く。前の晩に刺し身で食べたフクラギが、漁港に隣り合った魚市場のコンクリートの床一面に、所狭しと並べられて競りにかけられていた。 私が氷見を訪ねたときは、まだフクラギの季節だったが、これが晩秋から初冬になると、ブリの季節になる。

 富山湾の海流は、時計回り。そこでは古くから、湾内を流れる海流を利用してブリの定置網漁が盛んにおこなわれてきた。

 晩秋から初冬にかけて、雷が鳴って日本海が大荒れに荒れると、ブリが富山湾内に逃げ込んでくる。ブリがよく取れるようになるので、氷見の人たちは、その雷鳴を“ブリオコシ”と呼んでいる。そのころから、ブリがたくさんとれるようになり、ブリの季節になるのだ。

 ブリは富山県民にとっては、正月料理に欠かせない。嫁の里からは歳暮として婚家にブリを送る習わしがあり、婚家では、その片身を返す習わしであった。冬のブリを寒ブリと呼んでいるが、寒ブリはとくに美味。また1メートル近い大身の魚なので、冬の保存魚としても最適のものとなった。

 氷見港に揚がるブリは、昔から、はるか遠くの山国へと運ばれていった。
 たとえば信州の安曇野でも、正月料理にブリは欠かせないものだが、その正月用のブリのことを飛騨ブリと呼んでいる。北アルプスの野麦峠を越えて飛騨からやってくるブリだから“飛騨ブリ”なのである。

 もちろん、山国の飛騨でブリはとれない。富山湾でとれた氷見のブリは、飛騨高山の問屋を経由し、野麦峠を越えていく。ブリが北アルプスの峠を越えるのだ。その氷見のブリが信州に入ると飛騨ブリになる。

 ところで飛騨ブリだが、飛騨では越中からやってくるので“越中ブリ”と呼ばれ、越中ではブリの本場氷見にちなんで“氷見ブリ”と呼ばれている。「氷見ブリ→越中ブリ→飛騨ブリ」の図式はじつに興味深い。

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Category: 食文化研究

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日本食べある記(11)ますずし
(『市政』1994年10月号 所収)

呉東と呉西
 富山といえば、なんといっても“ますずし”だ。富山市内はもとより、富山県内の旅館に泊まると、ますずしがひと切れとかふた切れ、夕食に出ることがよくある。

 また、駅弁のますずしは、全国駅弁コンテストで常に上位に顔を出している。私の大好物でもあり、日本一の駅弁だと思っている。

 列車で北陸本線を旅するときはもちろんのこと、バイクで北陸路を旅するときも富山駅まで行き、ますずしの駅弁を買い、待合室で食べることがよくある。

 ますずしの駅弁を食べていると、
「あー、今、富山に来ているんだ」
 と、しみじみとした旅の実感を味わうことができるのだ。

 今回はますずしを目当てに、富山に行った。
 東京・上野駅発23時58分の急行「能登」に乗る。列車が発車すると、いつものようにカンビールを飲みながら、車窓を流れていく東京の夜景を眺める。荒川を渡って埼玉県に入り、大宮を過ぎるころには眠りに落ちた。

 目を覚ますと、うっすらと夜が明けていた。
 トンネルが連続する親不知を通りすぎ、富山県に入る。やがて列車は、早朝の、広々とした富山平野をひた走る。平野の向こうには、まるで衝立を立てたかのように、残雪の立山連峰の山々が連なっている。

 立山連峰や後立山連峰を水源とする黒部川や常願寺川といった水量豊かな川を渡り、急行「能登」は、6時09分、富山駅に到着した。

 富山駅近くのビルの屋上に登り、富山の町並みを見下ろす。目を東に向けると、市街地の向こうには青々とした水田地帯の富山平野が広がり、さらにその向こうには、さきほどの立山連峰の山々が連なっている。最高峰の立山や薬師岳が見える。

 目の向きを西に変えると、足元を飛騨の山々を水源とする神通川が流れ、その対岸には、呉羽丘陵がまるでナマコのような形で横たわっている。

 2000メートル峰、3000メートル峰の連なる立山連峰とは違って、呉羽丘陵は標高100メートル前後の小丘である。この小丘が越中を二分している。呉羽丘陵を境にして東が呉東、西が呉西と呼ばれ、富山が呉東の、高岡が呉西の中心都市になっている。

10万石の城下町
 富山駅前から大通りを南に歩く。
 富山は富山藩10万石の城下町。だが戦災で市街地の大半を焼失したこともあって、城下町特有の迷路のような町並みではなく、新たな都市計画のもとにつくられたモダンな町並みが特徴だ。

 市の中心、県庁に隣り合った富山城跡に行く。濠や石垣、再建された天守閣や櫓を見てまわる。
 富山城は、戦国時代にはすでに築かれていたということだが、本格的な城下町づくりがはじまったのは、織田信長の武将佐々成政が越中に入ってからのことである。

 その後、豊臣秀吉の時代になると、佐々成政は国替えとなり、加賀、能登の二国を支配する前田利家が越中全域をも領地とし、加越能三国を支配する大大名になった。

 前田氏は、関が原の戦いをうまく切り抜け、徳川家康の時代になると、加越能三国120万石という、全国でも最高の石高を持つ大名として君臨するのである。

 寛永16年(1639年)、前田氏3代目の利常は、長男の光高に跡をつがせる際に、次男利次に富山10万石、三男利治に大聖寺7万石を分封し、この時点で富山藩が誕生した。富山藩、大聖藩の両支藩は、本家加賀藩の金沢を中心にして両翼に位置し、これら3藩の形成は前田氏が外様大名であったのにもかかわらず、幕末までそのままの形で維持された。

 さきほどの呉東と呉西だが、富山人には呉東と呉西の対抗意識が今でもけっこう強くある。同じ越中の国でありながら、なにかとその2つの地域は対比される。

 歴史的には呉西のほうが早くから開けていた。
 奈良時代以降、越中の国府は高岡の港、伏木に置かれた。伏木は古来、日本海の海上交通の要衝で、海路を通して都の先進文化がいち早くこの地に伝わった。それに対して呉東は、都からは遠く離れた僻遠の地であった。

 そのような古くからの歴史的な背景があって、富山藩が誕生した。呉羽丘陵を境にして、越中が加賀藩と富山藩に二分され、そのことによってよけいに呉東と呉西の対抗意識に拍車がかかったようだ。

富山のますずし
 富山城跡から富山駅に戻り、売店で待望のますずしの駅弁を買う。それを持って、駅待合室で食べる。
 ますずしは、味はもとより、見た目に美しい。蓋をあけると、笹の葉の緑色、マスの切り身の薄紅色、それと日本の米どころ富山平野でとれる越中米の白色と、配色が絶妙で、思わず食欲がそそられてくるのである。

 ますずしの味を十二分に堪能したあと、富山駅に近いますずし店で、つくるところを見せてもらう。店頭にはマスがずらりとぶら下がっている。その向こうでは、ますずし用の切り身にしている。

 ますずし用のマスは、もともとは、富山平野を流れる神通川のマスが使われていた。
 神通川のマスは秋に産卵し、ふ化してから一年半は神通川で生育する。その後、日本海に下り、約一年間は海で生息し、初夏になるとふたたび神通川に戻ってくる。この時期のマスが旬で、脂がのっており、一番美味だといわれている。

 したがって、ますずしも本来は5月から7月にかけて食べるものとされていた。ところが近年は、各地でとれた冷凍のマスを使っているので、一年中、賞味できるようになった。

 ところで私は、夏のサハリン(旧樺太)に行ったことがある。ちょうどマスの産卵の時期で、オホーツク海から川へと登るマスが、群れをなして押し寄せていた。河口の川面はマスの群れで盛り上がっていた。内陸に入っていくと、産卵を終えたマスの死骸が河原を埋めつくしていた。

 その光景を見たとき、私は信州の秋山郷で聞いた話を思い出した。
 ダムのできる以前の大正期までは、マスの産卵の季節になると、日本海から信濃川本流、そして支流の中津川を登ってくるマスは群れをなし、あまりにも捕れすぎるので、畑の肥料にしたほどだという。

 かつての神通川でも、当然、同じような光景が見られたはずだ。一時期に、大量に捕れる魚だからこそ、ますずしづくりのような技術が発達したのだろう。それがまさに“すし”で、本来のすしというのは、発酵を利用した魚肉や獣肉の保存方法であり、保存食なのである。

 さて、ますずしのつくりかたであるが、まずマスを三枚におろし、皮をはぎ、骨を取りのぞき、それを幅六センチくらいに横切りにして酢に漬ける。その一方で、炊きあげたご飯に酢、塩、砂糖などで味つけしてすし飯をつくっておく。

 次に、木製の、直径20センチほどの丸い器に笹の葉を敷き、すし飯を盛る。その上に、マスの切り身を扇をくるりと回したような形の円形に並べ、笹の葉でくるみ、蓋をする。重しをかけ、2、3日もすると味がなれ、ますずしができあがる。

 容器の上下に竹を二本づつ渡し、ヤマフジのつるでしばり、蓋がずり落ちないようにすると、日持ちがいいので遠方にも送ることができる。もっとも昨今はヤマフジのかわりに、太めの輪ゴムを使っているが。この容器は、家庭でも簡単に押しずしをつくれるので重宝がられている。

 ますずしにほのかな香りをつけ、腐るのを防ぐ役目をも果たしている笹は、立山連峰の山笹で、夏の土用の間にとっておき、天日に干して保存しておく。使うときに熱湯に通すと、青々とした鮮やかな色彩が戻ってくるという。

 この富山のますずしは、言い伝えによると、江戸時代中期の亨保年間(1716~1736年)に、吉村新八という富山藩士が考案したことことになっている。

 吉村新八は、それを富山藩3代目藩主の前田利与に献上したところ、その味がすっかり気にいり、富山藩はますずしを幕府への献上品にした。ますずしの日持ちのよさが、それを可能にしたといえる。ときの8代将軍徳川吉宗は、ますずしをたいそう気にいり、それ以来、ますずしは富山の名産品になったのだという。

 とはいっても、ますずしは、それよりもはるかに古い時代からつくられていた。
 神通川には、マスだけではなく、アユやコイ、フナ、ウグイなどの川魚が豊富に生息していた。この地方では、古くからそれらの川魚を利用して、なれずしをつくっていた。塩した川魚を飯に2、3ヵ月漬けこんで発酵させ、なれずしをつくるのだ。

 同じようにして、ますずしも、2、3ヵ月をかけてつくるなれずしだった。それが酢を使うことによって発酵を早め、さらに酢と塩、砂糖で味つけしたすし飯を使い、2、3日でできる早ずしに変わっていったのだ。

 冒頭でもふれたことだが、ますずしといえば、現在では富山第一の名産品である。わざわざ富山で途中下車して、ますずしを買っていく人も少なくない。駅構内はもちろんのこと、町を歩いていても、ますずしの看板をよく見かける。そんなますずしが富山で商品化されたのは明治17年のことだという。

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日本食べある記(10)めはりずしとクジラ料理
(『市政』1994年9月号 所収)

紀勢本線の車中で食べる「めはりずし」
 南紀の中心、新宮から紀勢本線の鈍行列車に乗って、“クジラの町”太地に向かった。太地でクジラ料理のフルコースを食べようという魂胆なのだ。

 新宮駅では、名物駅弁のめはりずしを買った。それを食べながら車窓を流れていく南紀の海を眺める。真夏の太陽を浴びて、南紀の海の青さがひときわ際立っていた。

 このめはりずしというのは、タカナの漬物の茎を細かく刻んで飯に混ぜ、大きなお握りを握り、それをタカナの漬物の葉で包み込んだものだ。もともとは、山仕事に出かけていく男たちの弁当だった。目を見張るような大きさなので、その名があるという。

 駅弁のめはりずしは、一箱に6個入っていた。食べやすくしてあるのでひとつひとつは小さい。私は一度、これぞ本物というめはりずしを食べたことがある。

 熊野本宮大社(本宮町)、熊野速玉大社(新宮市)熊野那智大社(那智勝浦町)とバイクで“熊野三山”を駆けめぐり、平家の落人伝説の残る色川郷に行ったときのことだ。

 最奥の篭という集落には一軒だけ店があり、パンと牛乳を買って昼食にした。パンをかじり、それを牛乳で流し込みながら、店の奥さんと話をした。

 このあたりは、昔から林業の盛んなところだった。だが、若者たちは新宮や大阪に出てしまうので、村は寂しくなり、労働力不足からほったらかしにされる山が多くなったと嘆いていた。

 店の奥さんは、私がパンを食べおわり、牛乳を飲み干すと、大皿にめはりずしを三つのせ、「食べなさい」といって、持ってきてくれたのだ。そのめはりずしというのは、ソフトボールのボールぐらいの大きさなのである。
「めはりずしというのはね、あんまりにも大きいので、目をパチクリさせて食べるところからその名があるって、聞いていますよ」

 紀勢本線の車中で駅弁のめはりずしを食べながら、南紀の山村で味わっためはりずしを思い出すのだった。

クジラの町、太地を歩く
 新宮から30分で列車は太地駅に到着。太地の町は駅からかなり離れているが、森浦湾の入り組んだ海岸線の道をプラプラ歩いていく。さすがに日本の捕鯨発祥の地であり、クジラ漁で栄えた太地だけあって、町の入口には「鯨博物館」がある。海岸には南氷洋捕鯨で大活躍した「第十一京丸」という捕鯨船(キャッチャーボート)が展示されている。

「鯨博物館」を見学。1階にはセミクジラなどの骨格標本、2階にはクジラの生態、3階には700年に及ぶ捕鯨の歴史が展示されている。1階から3階まで吹き抜けになっていて、そこにはセミクジラとそれを追う実物大の勢子船がつり下げられている。迫力満点。クジラを追う太地の漁師たちの熱い息吹が伝わってくる。

 太地漁港まで歩いていく。
 常渡半島のつけ根に位置する太地漁港は、太地湾の一番奥まったところにある天然の良港。波ひとつない湾内は漁船でうめつくされている。

 昭和55年に南氷洋での母船式捕鯨が禁止、昭和63年には商業捕鯨が全面的に禁止されて、世界一の捕鯨国日本は大打撃を受けた。“クジラの町”太地も、かつての捕鯨で栄えた面影はない。

 それでも太地では細々とではあるが、捕鯨がつづけられている。ごく限られた沿岸捕鯨である。太地港所属の捕鯨船は2隻あるとのことで、そのうちの1隻を港内に見ることができた。船首には“大砲”と呼ぶモリを備えつけた船。もう1隻は、銚子沖で操業中だという。この捕鯨船ではゴンドウクジラのうち、マゴンドウを捕っているという。

 捕鯨船のほかに、突き漁でクジラやイルカを捕る漁船(小船)が、何隻も停泊している。全部で28隻を数えるという。これら突き漁の漁船は、ゴンドウクジラのうちのハナゴンドウと、バンドウイルカ、スジイルカ、アラリイルカなどのイルカを捕っている。だが、捕ることのできるクジラの頭数は漁船の数にも満たないという。

 浜で漁具の手入れをしていた年老いた漁師さんに話を聞いたのだが、
「昔の太地は、それはクジラ漁で栄えたものだよ」
 といった話を何度も、何度もくり返すのだった。

 今ではどこにでもある漁港の風景でしかない太地だが、大正年間には、料亭が7軒あり、芸奴が30人もいたという。これもクジラ景気がもたらしたものだ。

 昭和5年のクジラの捕獲頭数は全部で524頭(そのうち482頭がゴンドウクジラ)あったとのことだが、それも今は昔の話になってしまった。

クジラ料理のフルコース
 夕暮れまで太地の町を歩きまわったあとで、ひと晩の宿となる太地温泉の国民宿舎「白鯨」に行く。
 南紀のこのあたりは、まさに温泉天国のようなところ。いたるところで、温泉が湧き出ている。常渡半島の対岸には、白浜温泉とともに南紀を代表する勝浦温泉があるし、湯川温泉やゆりの山温泉、夏山温泉もある。それらの温泉はどこも湯量豊富で、熱い湯が湯船からザーザー音をたててあふれ出ている。

 国民宿舎「白鯨」にチェックインすると、まずは温泉に入る。ガラス張りの大浴場。肌になめらかな無色透明の湯につかっていると、太地の町を歩きまわった疲れがスーッと抜けていく。湯につかりながら、夕日にきらめく熊野灘を眺めた。

 湯から上がると、夕食だ。
“クジラの町”太地だけあって、クジラコースの夕食はクジラ、クジラ、クジラ。まさにクジラのオンパレード。クジラ料理のフルコースなのである。

 まずは湯上がりのビールである。クジラのベーコンを肴にして、キリッと冷たいビールを飲んだ。クジラの本場の太地だけあって、さすがと思わせるベーコンの味。酢味噌につけて食べる。肉厚で、食べごたえがあり、なおかつ、ビールによくあった。

 クジラのベーコンを味わいながら、なつかしさをも味わった。私は昭和22年に東京で生まれ、東京で育ったが、子供時分、小学校低学年くらいまでは、クジラのベーコンはしばしば食卓にのった。まさに家庭の味だった。それがいつしか、食卓から消えていった。 ビールを飲みおわったところで、クジラのフルコースを食べはじめる。

 どのようなクジラ料理かというと、次のようなものである。

①刺し身。クジラ料理のフルコースの主役のようなものだが、“尾の身”の刺し身である。尾の身というのは、クジラの尾のつけ根のところにある肉で、鯨肉のなかでは最も美味とされている。ショウガ醤油につけて食べる。それと、赤身の肉。“ウネス”と呼ばれる白い脂身の間にはさんで食べるのだが、さっぱりした味わいの赤身とトロッとした白身が混じり合ってえもいわれない味になる。

②サエズリ。サエズリは、鳥などのさえずりと同じ言葉で、クジラの舌を意味する。とろけるような舌ざわりで牛タンよりも美味だ。サエズリは酢味噌につけて食べる。

③コロ。皮から脂分を抜いたものでシコシココリコリとした歯ごたえ。淡白な味で、これも酢味噌につけて食べる。キュウリとサクランボが添えられている

④オバケ。オバケとはいっても、お化けのことではない。尾羽毛のこと。ワサビであえているので、薄いミント色をしている。あっさりした味。かむと、クチュクチュクチャクチャとまるでチューインガムのようだ。

 長崎人も昔からクジラをよく食べることで知られているが、私は長崎でオバケをつくるのを見せてもらったことがある。それを湯かけクジラといっていっているが、塩漬けにしたクジラの尾の先をゆがき、薄く切り、熱湯をかけ、水でさらしたもの。フワフワッと、まるで雪が積もったかのように広がる。長崎では酢味噌につけて食べていた。

⑤内臓。ヒャクヒロ(腸)とマメワタ(腎臓)をゆで、甘辛く煮つけたもの。ダイコンおろしがついている。ヒャクヒロは百尋と書く。ひと尋は両手を広げた長さ。その100倍ということで、クジラの腸の長さをいいあらわしている。

 このヒャクヒロも、前項同様、長崎でつくるところを見せてもらったことがある。つくり方は次のようなもの。まず、冷凍してあるクジラの腸を氷水の中で徐々に解凍し、それと同時に十分に血抜きをおこなう。次に、解凍した腸を塩でもみ、腸内の内容物を洗い出し、うすく塩味をつけ、もとに戻して切り口や破れ口を縫い合わせる。そしてゆでる。沸騰した釜の湯の中に入れると、最初は沈むので焦げないようによくかきまぜ、煮えてくると浮き上がってくるので落とし蓋をし、重しをのせる。こうして4、5時間かけて煮る。最後に冷水で冷し、水切りする。このように、食べられるようにするまでに、大変な手間暇をかけているのだ。

⑥鯨肉の佃煮風ゴマあえ。

⑦鯨肉のすきやき。

 クジラ料理のフルースを食べると、クジラだけで満腹になってしまう。クジラ以外のものというと、酢漬けにした小魚のフライとサラダ、漬物、それとデザートだけだった。

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日本食べある記(9)もぐりずしと割子そば
(『市政』1994年8月号 所収)

寝台急行に乗って松江へ
 大阪発22時25分の寝台急行「だいせん」出雲市行きに乗り、山陰の松江に向かった。今では、ほとんどなくなってしまった寝台急行だが、ほかには東海道本線の「銀河」(東京―大阪)や、中央本線の「ちくま」(大阪―長野)、函館本線の「はまなす」(青森―札幌)、宗谷本線の「利尻」(札幌―稚内)があるくらいだ。

 寝台急行のみならず、急行列車はどんどんとなくなっている。私などもよく乗った上野―青森間の2本の急行列車、東北本線経由の「八甲田」と奥羽本線経由の「津軽」が消え去ったのも終この前のことだ。急行列車はこれからもさらに少なくなっていく運命のようだが、すごく寂しい気がする。

 それはさておき、寝台列車はいいものだ。しみじみとした旅情を感じさせてくれる。これは私がいつもすることだが、列車が動きだすと、カンビールをあけ、車窓を流れていく風景を眺めながら飲むのだ。

 寝台急行の「だいせん」は定刻どおりに大阪駅を発車し、福知山線に入っていく。宝塚を通り、23時41分に三田に着く。“三田牛”で知られる三田を過ぎたところで、列車の振動音を子守歌にし、三段ベッドの上段で寝る。「だいせん」は、1時01分に福知山に到着。そこから山陰本線に入っていく。

 鳥取を過ぎところで目がさめた。
 すでに、うっすらと夜が明けている。4時54分、倉吉着。「だいせん」は、ここから普通列車(快速)の出雲市行きになる。

 倉吉を過ぎると、左手の車窓には、中国山地の蒜山の山々が見えてくる。特徴のある三つの峰々。さらに列車が西に進むと、この列車名にもなっている中国地方の最高峰、大山(1729m)が見えてくる。別名“伯耆富士”。平野の向こうにスーッとそそり立つその姿は、思わず手を合わせたくなるほどの神々しさだ。

 赤碕駅に着くと、大山はグーッと車窓にせまってくる。次の中山口駅や、その先の大山口駅は、大山への登り口となる駅だ。伯耆大山駅を過ぎると、大山も後方へと去っていく。

 5時57分、米子着。地元の人たちには申し訳ないのだが、米子はいつも「あれ、鳥取県かな、島根県かな」と、迷ってしまうのだが、鳥取県である。鳥取県東部の因幡の中心、鳥取に対して、鳥取県西部の伯耆の中心になっている。

 米子を過ぎると島根県に入り、“安来鋼”で知られる安来を通り、右手の車窓に中海を見ながら6時37分、列車は松江駅に着いた。

駅弁のもぐりずし
 早朝の松江駅で列車を降り、松江の町を歩く。
 まずはその前に腹ごしらえ。駅構内のレストランや喫茶店はまだしまっているので、売店で駅弁を買った。“大和しじみのもぐり寿し”。駅の待合室で食べ、それを朝食にする。

 駅弁の蓋をあけると、ご飯の上にはヤマトシジミが敷きつめられ、さらにその上には、宍道湖の夕陽に見たてたという紅ショウガをのせ、夕陽に揺れるさざ波をあらわしたという錦糸卵を散らし、宍道湖の夕景色をつくりだしている。

 さらに宍道湖名産のモロゲエビとシラウオをのせ、トビウオ(この地方ではアゴといっている)からつくる「野焼きかまぼこ」をそえている。見ためには、ちくわにそっくりなかまぼこで、昔は野天で焼いたところから「野焼きかまぼこ」の名があるという。

 宍道湖の湖畔に位置する松江は“水都”で知られているが、その宍道湖はサロマ湖や浜名湖と同じような汽水湖(海水と淡水が混じり合っている湖)で、魚介類の豊富な湖である。

“水都”松江の味覚といえば、宍道湖でとれる魚介類。とくに“宍道湖七珍味”がよく知られている。さきほどの駅弁でつかわれていたヤマトシジミやモロゲエビ、シラウオのほかに、スズキ、ウナギ、コイ、アマサギである。

 ところでシジミはみそ汁の具や佃煮と、日本人の食生活には欠かせないものだが、ヤマトシジミのほかにはマシジミやセタシジミ、アワジシジミ、ムラサキシジミなどの種類がある。ヤマトシジミは河口で、マシジミは川や湖でとれる。セタシジミは琵琶湖の水系でとれる。

 これらシジミの中でも一番味がいいといわれているヤマトシジミは、殻の長さが3センチ前後と大きなもので、殻は黒く、光沢がある。北はサハリンから南は九州まで幅広く分布している。年間の漁獲量が15000トンにも達する宍道湖が、日本最大の産地になっている。

 こうして、松江の町を歩きはじめる前に、駅弁の“大和しじみのもぐり寿し”の味覚をとおして松江を知るのだった。

松江のプラプラ歩き
 JRの松江駅から、松江の町を歩きはじめる。目抜き通りの天神商店街を通り抜け、宍道湖から中海へ流れていく大橋川にかかる松江大橋を渡る。松江大橋は風情のある橋で、欄干には擬宝珠がつけられ、橋の途中の展望台には灯籠がある。

 橋の左手を見れば、もう一本下流の橋、宍道湖大橋ごしに宍道湖の湖面が広がっている。この松江大橋周辺の大橋川では、何隻もの小舟が出て、ヤマトシジミの漁をしている。まさに松江の風物詩といったところだ。

 大橋川の対岸に渡り、松江市役所の前を通り、一畑電鉄のターミナル駅、松江温泉駅に行く。

 一畑電鉄というのは、松江温泉駅から出雲市駅まで通じている松江線と、途中の川跡駅から出雲大社前駅まで通じている大社線の二路線から成っている。松江線の沿線には、鉄道名の由来にもなっている一畑薬師がある。薬師口駅からバスで20分ほどの山上にある一畑薬師は、全国に50あまりの分院を持っているが、出雲が本山になっている。

 松江温泉駅の待合室に入り、カンコーヒーを飲みながら、しばらくはボーッとした時間を過ごす。私は駅の待合室が大好きで、地元の人たちのなに気ない会話を聞いているだけで、「あー、今、松江にいる!」といった実感を持つことができるのだ。

 松江温泉駅の先、宍道湖畔には、松江温泉の温泉街がつづいている。高層の温泉旅館・ホテルが建ち並んでいる。昭和46年のボーリングが成功し、源泉を掘り当てた、比較的新しい温泉だ。温泉街の一番奥には、“お湯かけ地蔵”がまつられ、熱い湯が湧きだしている。

 松江温泉ではひと風呂浴びていこうと、立ち寄り湯には絶好の「島根社会保険センター」の展望大浴場に行く。じつに気分よく入れる湯で、湯につかりながら、眼下の宍道湖を見下ろす。宍道湖にも何隻もの小舟が浮かび、ヤマトシジミの漁をしている。

 松江温泉の湯をとおして松江を味わったあと、松江城へと歩いていく。島根県庁の隣が松江城。グルリと濠に囲まれている。

 別名千鳥城ともいわれる松江城には、江戸期そのままの天守閣が残されている。全国に現存する12の天守閣のひとつで、山陰では唯一のものとなっている。

 城下町の松江だが、松江藩は慶長5年、遠江・浜松12万石の城主堀尾吉晴が、毛利氏の減封により、出雲、隠岐の2ヵ国24万石に封ぜられて成立した。

 松江城は、慶長16年(1611年)に、堀尾吉晴が5年の歳月を費やして完成させたもの。堀尾氏3代、京極氏1代のあと、徳川家康の孫にあたる松平直政が城主となり、明治維新までの234年間、松平氏10代の治世がつづいた。そのうちの第7代城主が名君の誉れ高い松平治郷で、号は不昧。治郷というよりも、“不昧公”でよく知られている。

 さっそく、松江城の5層6階の天守閣に登ってみる。太い柱をふんだんに用いた建物だ。各階には、松江藩の歴史にかかわるさまざまなものが展示されている。

 天守閣の望楼“天狗の間”に立つと、松江をとりまく360度の展望が楽しめる。松江の市街地を一望し、宍道湖を眺め、反対側にまわると、島根半島のなだらかな山並みを眺める。眺望抜群。松江城の天守閣は、松江第一の展望台になっている。

 松江城の見学を終えたところで、城内の茶店に入り、出雲名物の割子そばを食べる。

 出雲は、西日本では数少ないそばの名産地。三瓶山(1126m)周辺でとれるそばの味には定評がある。出雲そばの特徴は、甘皮も一緒に挽くので、色が黒っぽいことだ。

 そんな出雲そばの食べ方の代表格が、割子そばである。割子というのは、朱塗りの丸い器のことで、それにそばを盛る。3枚、もしくは5枚を一人前にし、客の求めに応じて追加していく。割子に入れたそばのことを松江では“洗い”という。ゆであがったそばを冷水に落とし、よく洗ってから割子に盛るのでその名があるという。

 松江城のすぐ北側には“塩見縄手”と呼ばれている通りがあるが、その一帯には城下町の面影が濃く残り、武家屋敷などもある。さらに、小泉八雲の記念館があり、見学した。 小泉八雲は、ギリシャ生まれのイギリス人で、本名はラフカディオ・ハーン。明治23年に来日し、松江の人、小泉節子と結婚し、松江をこよなく愛した。

 小泉八雲の記念館を最後に松江駅に戻ったが、半日かけてプラプラ歩いた松江の町は、しっとりとした情感があり、深く心に残るものだった。

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Category: カソリの島旅

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カソリの島旅(94)東京→石垣→石垣
(『ジパングツーリング』2003年1月号 所収)

 いよいよ「島巡り日本一周」も最後の行程。

 2002年4月12日、沖縄・八重山諸島に向けて東京・日本橋を出発。スズキバーディー90を走らせ中山道経由で名古屋へ。名古屋港のフェリー埠頭では「飛龍軍団」の面々がぼくを待ち構えていてくれた。

 鰐淵渉さんが呼びかけてくれたのだが、ぼくの見送りがてら一緒に有村ラインの「クルーズフェリー飛龍」で大阪南港までの船旅を楽しもうという企てなのだ。北川直樹さん、桜田雅幸さん、藤原延興さん、林昭伸さん、吉田和宏さん、鈴木稔さんと、なんと7人ものみなさんがバイクを走らせて名古屋にやってきた。さらにうれしいことに、有村ラインの足立浩二さんも大阪南港まで同行してくれた。

「クルーズフェリー飛龍」は11時に名古屋港を出港。12時には船内のレストランで昼食。「飛龍軍団」の面々とはレストランの円形テーブルを囲んで沖縄料理を食べた。
 ぼくは大好物の「沖縄そば」だ。気分はすでに沖縄!

「クルーズフェリー飛龍」は伊勢湾を南下。14時には大王崎沖を通過し、熊野灘に入っていく。「飛龍軍団」は足立さんに招かれ、船内のバーで泡盛やオリオンビールをいただいた。ほろ酔い気分で聞く足立さんのお話がすこぶるおもしろい。バイク大好き、アウトドア大好き人間の足立さんだ。17時、潮岬沖を通過し、紀伊水道に入っていく。大阪南港到着は22時だった。

「クルーズフェリー飛龍」の大阪南港出港は4月14日の午前0時50分。那覇新港到着は午前7時30分。その日の20時に那覇新港を出港し、宮古島を経由し、八重山諸島の中心、石垣島の石垣港に到着したのは4月16日の10時15分。名古屋港からは71時間45分の船旅だ。今回の「島巡りの日本一周」では最長の船旅になった。

 名古屋港から石垣港までは竹澤裕介さん、高地洋子さん、村瀬和紀さん、田中俊哉さんの4人のライダーと一緒になった。竹澤さん、高地さんは一緒にサハリンを縦断した「サハリン軍団」の仲間。2人はともに「日本一周」中。竹澤さんは「島巡り日本一周」のまさにキーパースンで、伊豆大島で出会ったのを皮切りに新島、佐渡島、苫小牧、焼尻・天売島と再会を繰り返し、今回が6度目の再会ということになる。

 JOG50に釣り道具満載の村瀬さんは沖縄の海で大物を釣りたいといっている。釣り師なのだ。田中さんは20歳の旅立ち。きらめくような感性がまぶしい。
 ぼくを含めた5人の「石垣組」、夜は一緒に米原キャンプ場でキャンプしようと約束し、石垣港で別れた。

 さー「石垣島一周」の開始だ。胸がわくわくしてくる。

 スズキバーディー90に「行くぞ!」とひと声かけて走りだす。日本最南の市、石垣の市街地をぐるりとめぐり、石垣を出発点に反時計まわりで島を一周する。まずは給油だ。1リッター101円と、それほど高くはない。

 日本最南の国道390号を北へ。太平洋岸を行く。宮良川河口のマングローブ林を見、白保海岸を歩く。サンゴの海。白保の食堂「マエザト」で昼食。ゴーヤチャンプル(500円)を食べた。ボリューム満点。ゴーヤの苦みが強烈に沖縄を感じさせてくれる。

 国道390号をさらに北へ。国道沿いにはサトウキビ畑やタバコ畑、黒毛和牛の牧場も目立つ。黄色い花をつけたオクラ畑では、老夫婦がオクラの実を摘み取っていた。

 伊野田キャンプ場前を通り、玉取崎の展望台に立つ。正面には北へと延びる平久保半島を見る。右手の太平洋と左手の東シナ海、同時に2つの海を見る。

 伊原間で国道390号は終点になり、県道206号で平久保半島に入っていく。ところで日本最南の国道390号だが、伊原間は石垣島内の終点で、さらに宮古島から那覇へとつづいている。

 平久保半島ではサビチ鍾乳洞を見学。入洞料は700円。洞窟入口の池には体長2メートルという大ウナギがいる。エサを投げ入れると、丸太のような頭を水面上に出す。洞窟を抜け出ると、太平洋の浜に出た。

 石垣島最北端の平久保崎へ。そこには白い灯台。猛烈な風が吹き荒れている。強風にあおられ、停めたバーディーを倒してしまった‥。ごめん、バーディーよ。

 石垣島最北端の平久保崎からは、来た道を伊原間まで引き返し、今度は県道79号で石垣島の西海岸、東シナ海側を南下していく。

 吹通川の河口一帯にはマングローブ林。富野からは島を横断する県道87号で石垣まで行った。その途中では、沖縄の最高峰、於茂登岳(526m)を貫く沖縄最長のトンネル、於茂登トンネル(1174m)を走り抜けた。トンネルを抜け出たところがロックフィル式の底原ダム(堤長1331m)で、島とは思えないような規模の大きさだ。

 石垣から富野に戻ると、米原キャンプ場の前を通り、川平湾ではグラスボートに乗った。川平湾だけで200種以上ものサンゴが生息しているとのことで、枝サンゴ、テーブルサンゴ、シイタケをひっくりかえしたようなサンゴ、ヒノキの枝のようなサンゴ‥と、様々だ。最後に御神崎に立ち、夕日を浴びた名蔵湾を見下ろし、石垣に戻った。

 8の字にまわった「石垣島一周」は179キロだった。

 石垣からは県道87号で於茂登トンネルを抜け、米原キャンプ場へ。砂浜で「石垣組」の面々と、暮れゆく海を見ながらオリオンビールを飲んだ。

 石垣島の石垣港を拠点にしての八重山諸島の島巡りの開始。
 その第1島目は竹富島だ。

 八重山観光フェリーの高速船「はまゆう」で竹富島に渡る。バイクは乗せられないので、バーディー90は石垣港に置いておく。「石垣-竹富」の往復料金は1100円だ。

 竹富島には10分で到着。竹富の集落まで歩き、そこで「水牛車」に乗った。1人1000円。サンゴの石垣と赤瓦の家並みの間の狭い道を乗客を乗せた水牛車は上手に走り抜けていく。30分ほどかけて水牛車で集落内を見てまわったあとは、徹底的に竹富島を足で歩いた。日差しが強いので、あっというまに汗がダラダラ流れおちてくる。

 まずは北岬へ。きれいな海だ。対岸には石垣島。この北岬にはうっそうとおい茂る亜熱帯の樹木に囲まれた美崎(みしゃし)御嶽がある。周囲が10キロにも満たない小さな竹富島だが、島内には美崎御嶽を含め、全部で28もの御嶽があるという。次に東岬、最後にコンドイ岬に立った。コンドイ岬は竹富島の最西端で西岬といったところだ。

 竹富島から石垣島に戻ると、次は第2島目の黒島へ。石垣港から安栄観光の高速船「あんえい88号」に乗る。往復で2250円。やはりバイクは乗せられないので、バーディー90は石垣港に置いておく。

「あんえい88号」は竹富島のわきを通り、石垣港から25分で黒島に到着。黒島では港でレンタサイクルを借りた。一番、程度のよさそうなママチャリを選んだが、それでもひどいオンボロ。黒島は竹富島以上に日差しが強く、ジリジリ照りつける太陽に頭がクラクラしてくる。

 黒島港から仲本の集落に向かう途中にある食堂「パームツリー」で「八重山そば」(450円)を食べた。「八重山そば」は沖縄本島などで食べる「沖縄そば」と変わらないが、石垣島に到着して以来、すっかりはまっている。石垣島の米原キャンプ場に近い「知花食堂」で食べて以来、すでのもう5食目の「八重山そば」だ。島唐辛子(泡盛にトウガラシを漬けたもの)をたっぷりふりかけ、豚肉やさつまあげ、刻みネギの入った「八重山そば」を食べた。う~ん、大満足!

 旧藩時代の監視所だったフズマリ展望台に立ち寄り、その近くの「黒島ビジターセンター」(入館無料)を見学し、仲本へ。仲本の集落からは仲本海岸に出た。サンゴの海。対岸は古い焼き物の 「パナリ焼き」で知られるパナリ島。上地島と下地島の2つの島から成っている。島の中心、東筋からは黒島灯台まで行き、黒島港に戻った。

 黒島から石垣島に戻ると、第3島目の波照間島へ。波照間島には9時発の波照間海運のフェリー「はてるま」にバーディー90ともども乗り込んだ。船内ではグース350で「日本一周」中の朋ちゃんとうれしい再会。さらに我々は船長に招かれ、一緒に泡盛の「八重泉」を飲んだ。船長は飲むほどに、三線(さんしん)をひきながら、渋い声で沖縄民謡を聞かせてくれた。なんとも忘れられない船旅になった。

 日本最南端の有人島、波照間島に到着したのは11時30分。石垣港から2時間30分の船旅。波照間島には何日か滞在するという朋ちゃんと別れ、さっそく「波照間島一周」に出発。時計回りでまわる。サトウキビ畑の中を走り、「日本最南端之地」碑が建つ高那崎へ。そこでハンディーのGPSで緯度、経度を計ると、北緯24度02分37秒、東経123度47分46秒だった。

 波照間島は島一周で約15キロ。全部で3回、「波照間島一周」を走り、その日のフェリーで石垣港に戻った。

 石垣のコンビニ「ホットスパー」でオリオンビールを箱で買い、米原キャンプ場に直行。そこでまたしても「石垣組」とのオリオンパーティーだ。

 沖縄ではこの「オリオンビール」が一番、合う。
 オリオンを飲んでいると、
「今、自分は沖縄にいる!」
 という気分にさせてくれる。

 オリオンパーティーは夜中の3時過ぎになってやっとお開きになった。

 浜辺でシュラフでごろ寝し、夜明けとともに米原キャンプ場を出発。第4島目の小浜島に向かう。
 石垣のコンビニ「ホットスパー」で弁当を買う。この石垣の町中にある「ホットスパー」には毎日のように通った。ここでは刺し身も売っている。

 コンビニ弁当の朝食を食べおわると石垣港へ。そして7時55分発の八重山観光フェリーの高速船、小浜島行きの「サザンドリーム」に乗った。バイクは乗せられないので、バーディー90はまたしても石垣港に置いていく‥。

 石垣港から小浜島までは25分の船旅。小浜島はレンンタバイクでまわることにし、港前の「小浜島総合案内所」で赤いホンダのパルを借りた。2サイクルの50㏄スクーター。1日1000円。「小浜島一周」に出発だ!

 レンタサイクルでまわるよりは、レンタバイクの方がよっぽどおもしろい。あらためてバイク大好きな自分を確認。

 小浜島といえばヤマハリゾート「はいむるぶし(小浜島の言葉で南十字星を意味する」で有名だが、その入口まで行ってみる。そこから島の南岸を通って最西端の細(くば)崎へ。赤土のサトウキビ畑が広がる。製糖工場もある。細崎に立つと、目の前には西表島が横たわっている。山々が海に迫り、山の中腹より上には雲がかかっている。さすが八重山諸島で一番、大きな島、一番、自然の残されている島と、そう思わせるような西表島の風景だった。

 細崎から北へ。東海岸の石長田海岸では、かなりの規模のマングローブ林を見た。島の北西端のアカヤ崎では放牧している牛の一群を見た。

 島中央部の集落内に入ると、NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」に出てくる「こはぐら荘」の家を見た。ここはちょっとした観光地で、マイクロバスでやってきた観光客の一団が、ゾロゾロと「こはぐら荘」の前を行ったり来たりして歩いていた。

 小浜島の最高峰、大岳(99m)に登る。山頂は絶好の展望台。八重山の島々を一望する。こうして島の北岸を通って小浜港に戻ったが、「小浜島一周」は20キロ。つづいて第2周目、3周目とまわったが、小浜島を2周した距離は全部で56キロ。石垣港に戻ると、すぐさま港前の食堂「ソムリエ」で「八重山そば」(500円)を食べるのだった。

 第5島目の与那国島には福山海運のフェリー「よなくに」で向かった。人は3460円、原付は1740円。しかし原付というのは50㏄だけで、バーディー90は2輪料金の3460円。この日の「よなくに」には2台のバイクが乗った。ぼくのバーディー90とハーレーだ。バーディー90とハーレーの料金が同じというのはなんとも納得できないことだったが、まあ仕方ないか‥。

 フェリーターミナル内の食堂で「八重山そば」(400円)を食べ、10時出港の「よなくに」に乗り込む。石垣港を出港すると、甲板で島を見る。

 石垣港の防波堤を出ると、目の前には竹富島。さらに加屋間島(無人島)、小浜島、西表島、鳩間島と八重山諸島の島々を見る。この「アイランドウオッチング」がなんとも楽しい。石垣港を出て1時間半ほどすると西表島が後ろに去り、前方にはもう島影ひとつ見えない。与那国島は絶海の孤島だ。

「よなくに」は石垣港を出てから3時間45分で与那国島最東端の東(あがり)崎沖を通過。14時30分に与那国島西端の久部良港に入港した。目の前が日本最西端の西(いり)崎になる。

 与那国島に上陸すると、まっさきにその西崎へ。そこには「日本最西端之地」碑と灯台。断崖上に立ち、水平線に目をやったが、残念ながら台湾は見えなかった‥。

 久部良港に戻ると、「与那国島一周」に出発。時計回りで島を一周する。与那国島は一島一町で、与那国町役場がある祖納の「マルキ食堂」で「与那国そば」(500円)を食べた。これも「八重山そば」と同じようなものだ。カツオの刺し身とかきあげつき。

 そしてさきほど船上から見た東崎へ。岬の断崖上の広々とした草地では、与那国馬が放牧されている。ここから与那国島の南岸を行く。サンニヌ台、立神岩の展望台に立ち、比川浜、カタブル浜と見て夕暮れの久部良港に戻り、港近くの民宿「はいどなん」に泊まった。

 与那国島から福山海運のフェリー、「よなくに」で石垣島に戻ると、港に出迎えてくれた「石垣組」の面々と沖縄の最高峰の於茂登山に登り、夜は米原キャンプ場でキャンプした。毎夜のオリオンパーティー。

 第6島目の西表島には「石垣組」と一緒に渡ることになった。

 9時30分発の八重山観光フェリーのフェリー「かりゆし」で、バイクともども西表島に渡った。西表島の大原港到着は11時20分。その夜は西表島北端の「星の砂キャンプ場」でキャンプしようということで、大原港でみなさんと別れ、さっそく西表島を走り出す。

 西表島には島一周道路はないので、まずは島の南の行き止まり地点、南風見田の浜に向かう。その途中の「開拓の里」の屋上からは波照間島を見た。そして南風見田の浜の砂浜を歩き、大原港に戻り、港近くの食堂「満八」で「八重山そば」の大盛り(500円)を食べた。これが第9食目の「八重山そば」。もう「八重山そば」中毒だ。

 大原では仲間川の日本最大のマングローブ林を遊覧船(1260円)に乗って見る。仲間川は全長18キロの川だが、河口から6・5キロ地点までの両岸がマングローブ林。ここではオヒルギ、ヤエヤマヒルギなど6種のマングローブ林を見ることができる。船は大きな板根を張った樹齢400年のサキシマスオウの大木のあるところで折り返す。仲間川流域の風景は亜熱帯、というよりも熱帯のジャングルを思わせるものだ。

 大原からは古見を通り、水牛車で由布島に渡り、日本最南の温泉の西表温泉前を通り、船浦港まで行ったところで、あまりの暑さに裸になって海に飛び込んだ。気分よく泳いだ。ところがここでアクシデント発生。岸壁に上がるとき、貝で足を切り、鮮血が吹き上がった。かなり太い血管を切ってしまった。足をギュッとしばったタオルはあっというまに真っ赤に染まる。ブーツははけないので、ビーチサンダルでバーディー90に乗った。

 船浦港から「星砂の浜」近くを通り、東経123度45分6・789秒の子午線のモンユメント前を通り、祖納の集落を走り抜け、白浜まで行く。西表島のもう一方の道はここで尽きる。

 出血がひどく、足は血まみれ状態。白浜から祖納に戻ると、診療所へ。すでに診療の時間が終わっていたのにもかかわらず、先生は足の傷をみてくれた。局所麻酔をされ、2針縫って破傷風予防の注射をされた。助かった!
「星の砂キャンプ場」に行くと、「石垣組」の面々は、全員がすでに到着していた。ぼくの足を見てみんな驚いていたが、バイクの事故でないとわかると、みんなに笑われた。その夜はぼくが傷のせいでアルコール類を飲めないので、みなさんもつき合ってノンアルコールでの宴会になった。アルコール抜きでも、我ら「石垣組」の宴会はいつものように夜中までつづいた。

 翌日は日本最南の温泉、西表温泉を断念し、そのかわりに白浜まで行き、そこから船に乗って船浮の集落に渡り、亜熱帯樹の森を抜け、きれいなビーチまで行った。我ら「石垣組」は名も知らぬ西表島のビーチで1日、楽しんだ。

 夕方の船で白浜港に戻ると、祖納のスーパーで買い出しし、「星の砂キャンプ場」で「石垣組」との最後の宴会だ。「オリオンビール」を24本、それと泡盛の「いりおもて」、「八重泉」をドンとおいて、「これを飲み尽くすまでやろう!」と全員で乾杯!

 夕日が星砂の浜に落ちていく。
 半月の明るい月夜。
 大盛り上がりに盛り上がった「石垣組」の宴会は夜明け近い午前4時までつづき、アルコール類は一滴も残さずに飲み干した。

 2時間ほど死んだように眠り、いつものように夜明けともに出発。今日のフェリーで石垣島に戻るのだ。足の傷がひどいので、ブーツははけず、ビーサンでバーディー90に乗る。雲ひとつない快晴だ。大原港へ。その途中では「西表野生生物保護センター」(無料)を見学した。

 大原港には「石垣組」の全員が見送りに来てくれた。みなさんと港近くの食堂「満八」に入り、オリオンの生ビールで乾杯。そのあと一緒に「八重山そば」を食べた。そして13時30分発のフェリー「かりゆし」に乗り込んだ。

「石垣組」との別れ。
 彼らはこのあと石垣島から台湾に向かっていく。

 2002年4月25日、石垣港。6時45分発の有村ライン「クルーズフェリー飛龍」に乗り込み、名古屋港へ。名古屋からは東海道を走って東京に戻った。
 こうして全行程14ヵ月の「島巡りの日本一周」が終わった。

テーマ : ツーリング    ジャンル : 車・バイク