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「カソリの温泉めぐり・東京編」(1)

「カソリの温泉めぐり2012年」の最後は東京の温泉。温泉めぐりをしながら東京の町を見てみようと思う。その第1弾目は「京急編」だ。

 12月14日、JR山手線の品川駅から京急(京浜急行)に乗り換える。
 10時54分発の普通電車、京急蒲田行きの乗って東京の温泉めぐりが始まった。

 品川から北品川駅、新馬場駅、青物横丁駅、鮫洲駅、立会川駅と停まっていく京急の各停はすごくいい。高架のすぐ左側を旧東海道が通っているからだ。北品川駅から新馬場駅あたりにかけてが東海道の第1番目の宿場、品川宿の中心になる。

 立会川駅を過ぎたところでは鈴ヶ森の刑場跡がよく見える。ここを過ぎると、旧東海道は国道15号の第1京浜に合流し、幅広の道になる。

 鈴ヶ森の刑場跡を過ぎると大森海岸駅、その次の平和島駅で電車を降りる。
 品川駅から平和島駅までは13分、料金は150円だ。

 平和島駅前から歩き始める。

 駅から右へ。第1京浜(国道15号)に出ると左へ、品川方向に歩く。平和島入口の交差点を右折し、平和の森公園内の幅広の道を行く。平和島は埋立地の島だが、この平和の森公園は大森側と平和島の間を埋め立ててできた公園。そこを過ぎると左手に平和島競艇がある。平和島競艇への道の右手に平和島温泉「クアハウス」がある。

 平和島温泉は1995年以来、17年ぶり。なつかしさを感じてしまう。当時はなかった複合の商業施設のビルができている。

「さー、温泉だ!」
 1時間券(1200円)を買い、大浴場の湯に入る。平日にもかかわらず、かなりの人たちが入っている。天然温泉の方は薄茶褐色の湯の色。塩分の濃い湯だ。人工温泉の無色透明無味無臭の湯船もある。

 大浴場の湯から上がると、着替えて2階から4階にエレベーターで昇り、露天風呂の湯に入る。露天風呂の方は大浴場の湯に比べると色も味も濃い。

 露天風呂の湯から上がると、2階に戻り、レストランへ。
 まずはビールを1本、キューーーッと飲み干した。そのあとで昼食。「牛ハラミのステーキ重」(1100円)を食べた。この値段にしては、なかなかの肉の味だった。

京急編 001_small
京急の品川駅を出発

京急編 003_small
京急平和島駅の駅前商店街

京急編 005_small
第一京浜の平和島口を右折

京急編 006_small
正面には平和島競艇

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平和島温泉「クワハウス」の入口

京急編 011_small
平和島温泉「クワハウス」の露天風呂

京急編 015_small
湯上りのビール

京急編 016_small
湯上りの昼食

京急編 017_small
「牛ハラミのステーキ重」

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

日本食べある記(17)花咲ガニと鉄砲汁

(『市政』1995年4月号 所収)

海峡越しに眺める北方領土の島々
 夏の終わりに札幌から列車に乗って、日本最東端の町、根室に行った。

 札幌ー根室間の、直通列車はない。そこで札幌発23時00分の石勝線経由釧路行き特急「おおぞら13号」に乗った。

 釧路到着は翌朝の6時。それに接続している根室本線の快速「はなさき」で根室へ。終点の根室到着は8時11分。札幌から9時間あまりの列車の旅だった。

 それにしても驚かされてしまうのは、根室本線の列車本数の少なさだ。

 根室本線とはいっても釧路以遠は超ローカル線で、「はなさき」、「ノサップ」の2本の快速列車のほかには1日に4本の釧路ー根室間を走る普通列車があるだけ。特急列車はない。

 根室駅に到着するとすぐに、駅前から根室交通バスで、根室半島先端の日本本土最東端の納沙布岬に向かう。根室半島は太平洋と根室海峡を分けて東に延びているが、バスは太平洋側を走る。漁村の歯舞、珸瑤瑁を通り、40分ほどで終点の納沙布岬に着く。

“海霧の岬”として知られている納沙布岬だが、幸いなことに、天気は快晴だ。

 納沙布岬は北緯43度22分57秒、東経145度49分14秒。繰り返しになるが、日本本土最東の岬である。岬の先端には納沙布岬燈台と霧信号所がある。

 岬の最先端に立つ。灯台の下は岩礁になってる。目の前の珸瑤瑁水道の向こうには、はっきりと北方領土の島々が見える。

 正面には秋勇留島が見える。目を左側にずらしていくと、その手前の萌茂尻島が重なって見える。その左手遠くには、勇留島が霞んで見える。その左には、納沙布岬からわずかに3・7キロしか離れていないケシ粒のように小さな島、貝殻島が見える。

 貝殻島の左には志発島。目をこらしてやっと見える距離。そして水晶島が左につづく。真っ平な島で、ベタッと水平線上に寝そべっている。

 北方領土のうち、これら歯舞諸島のあまりの近さに驚かされてしまう。志発島の東には多楽島と海馬島があり、色丹水道をはさんでさらに色丹島へとつづく。

 岬の展望台に登り、望遠鏡で北方領土の島々を眺めると、珸瑤瑁水道を行き来するロシアの警備艇が異様な大きさで見えた。一番近い貝殻島では、波風にさらされてコンクリートがはげ落ち、ボロボロになって傾いている灯台が見えた。

 納沙布岬を歩き、根室海峡側に出ると、さきほどの歯舞諸島の島々とは較べものにならないくらいの大島、国後島が、水平線上を占領するかのように海峡のかなたに浮かんでいる。

 ところで納沙布岬が“日本最東端”ではなく“日本本土最東端”なのは、東に北方領土の島々がつづいているからだ。色丹島、国後島のさらに東には択捉島があり、その最東端のラッキベツ岬があるからだ。

 だが日本最東端というと、択捉島のラッキベツ岬ではなく、東京都(小笠原村)に属する南鳥島(マーカス島)なのである。

 南鳥島は北緯24度18分、東経153度58分で、小笠原諸島の父島の南東1200キロの太平洋上にある平坦な隆起サンゴ礁の小島。面積はわずかに1・2平方キロでしかなく、海上自衛隊や気象庁の関係者が駐在している。

 南鳥島は根室半島先端の納沙布岬よりも、経度で8度、東になる。

 納沙布岬を歩きまわったあと、“日本最東端の食堂”の看板を掲げた店で昼食にする。 定食を注文したが、これが大正解。ホタテの刺し身にニシンの焼き魚、タラバガニの身のフライ、手造りのイカの塩辛‥‥と、“北海の幸”づくしといえるような食事だった。ニシンにはたっぷり脂がのっていたし、タラバガニがなんともいえずにいい味だった。

「これは何だろう?」
 と、私の目を引いたのは、ラズベリーの実をさらに小さくしたような、紫色をした粒々だった。

 店の人に聞いてみると、「タラバのトトコだよ」という。トトコとは、子供のこと。つまり、タラバガニのタマゴのこと。その粒々に塩をし、酒と醤油に漬けたものだという。それはまさに“北海の珍味”だった。

 タラバガニの子は粒状のものを“外子”と呼び、ペースト状にしたものを“内子”と呼び分けている。“内子”は塩辛にするとのことで、酒の肴には絶好だ。

花咲ガニの本場
“日本本土最東端”の納沙布岬から根室に戻ると、根室本線の列車で“花咲ガニ”の本場、花咲漁港のある花咲へと向かう。根室の2つ先の駅だ。

 根室を出てすぐに着く東根室駅は、駅舎もない、吹きっさらしのホームだけの駅だが、ここが日本鉄道網の最東端駅。ホームの端には“最東端碑”が建っている。

 東根室駅の次の花咲駅には、根室を出てから10分もかからずに着いた。すぐに花咲漁港に向かって歩いていく。

 ところで花咲は、根室半島と歯舞諸島を含んだ旧郡名でもあった。1945年に歯舞諸島が旧ソ連の占領下に入り、1959年には歯舞村が根室市に編入されたことよって、花咲郡の郡名は消滅した。

 地名はアイヌ語の「ポロノツ」(大きな岬の意味)が「鼻崎」、さらには「花咲」へと転訛とのことだ。

 漁港近くでは、とれたての花咲ガニをさっとゆでたものを売っている。さすがに本場だけあって1匹、1000円もしない値段で売っている。さっそく買って、その場で食べる。店の奥さんが、ハサミで上手に甲羅や殻を切り裂き、食べやすくしてくれた。

 この花咲ガニのうまさといったらなかった。

 私はむさぼるようにして、一匹、食べつくしてしまったが、思わず、ウーンとうなってしまった。それほどの味だ。

「もし、よかったら、どこへでも送りますよ」
 と店の奥さんにいわれ、その瞬間、女房や子供たちの顔が浮かび、食べさせてあげたいなと思い、人数分の5匹を送ってもらった。後日談になるが、花咲ガニは家族にずいぶんと喜ばれた。

 北海道といえば誰もがカニを連想するが、北海道の代表的なカニというと、タラバガニ、花咲ガニ、ズワイガニ、毛カニの4種になる。

 根室に来る前、札幌で会った何人かの人たちに、北海道人はこれら4種のカニのうち、どのカニを一番おいしいと感じているのだろうかと聞いてみた。

 その結果はタラバガニ、花咲ガニ、ズワイガニ、毛ガニという順だった。

 タラバガニと花咲ガニの1、2位が入れ替わったり、ズワイガニと毛ガニの3、4位が入れ替わった人はいたが、タラバガニ、花咲ガニよりも上位に、ズワイガニ、毛ガニを持ってくる人はいなかった。つまり花咲ガニは、カニの本場、北海道でも、それだけ高い評価をうけているということだ。

 花咲ガニは北海道以外の地方だと、なじみが薄くなるが、甲長、甲幅がともに15センチほどのカニである。紫がかった暗い赤い色をしているが、ゆでると深紅になる。

 花咲ガニはタラバガニの近縁種で、タラバガニ同様に海産のヤドカリの一種である。それだから、厳密にいうとズワイガニや毛ガニなどのカニ類とは違うのだが、一般にはカニと呼ばれている。

 カニ類は一対のハサミと四対の脚を持っているが、花咲ガニにしてもタラバガニにしても第四歩脚がすっかり退化し、ともに脚は三対にしか見えない。

 なおタラバガニは、タラの漁場の“鱈場”でよくとれるので、その名があるという。

 花咲から根室に戻る。

 根室の駅前や駅周辺には、花咲ガニを売る店がずらりと並んでいる。花咲ガニ漁が最盛期を迎えているようだ。

 根室の町を歩き、根室漁港を見てまわる。漁港の岸壁では、地元の漁師さんと立ち話をした。漁師さんは根室の漁業の不振を嘆き、そのため根室の町自体も活気をなくしてしまったといった。

 根室とは目と鼻の先の北方領土周辺は、魚介類やコンブの好漁場。北方領土問題が解決し、その漁場で漁できるようになれば根室に活気を取り戻せるのだが……という漁師さんは、いっこうに解決の糸口をつかめない北方領土問題に、いらだちを隠せないような表情だった。

 日が暮れたところで根室駅に戻り、駅近くの食堂で夕食にする。

 根室名物の鉄砲汁を食べる。鉄砲汁というのは、花咲ガニ入りの味噌汁。ドンブリの味噌汁の中には、ブツ切りにした花咲ガニがごっそり入っている。味噌汁に花咲ガニのうまみがしみ出て、絶妙の味わい。この味の良さは、ほかのカニでは出ないという。汁を全部飲み干したところで、味噌味のよくしみ込んだ花咲ガニを食べた。

 さらにもう一軒、今度はラーメン屋に入る。そこでは、花咲ガニ入りのカニラーメンを食べた。これまた、ドサッと花咲ガニが入っている。北海道の食べ物らしく、ボリューム満点。食材のよさも満点。根室での花咲ガニ三昧の食事であった。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

日本食べある記(16)北海の魚介料理

(『市政』1995年3月号 所収)

稚内公園からの眺望
 札幌発22時の寝台急行「利尻」に乗って、日本最北の町、稚内に行った。

 稚内到着は、まだ暗い午前6時。列車を一歩降りたときの寒さといったらない。気温は氷点下10度。冷気がキリキリと肌を突き刺すような寒さだ。寒さこそ厳しいが、駅周辺の積雪はそれほどでもない。

 宗谷本線の終着、稚内駅は北緯45度24分44秒に位置し、日本鉄道網の最北端駅になっている。ちなみに最東端駅は根室本線の東根室駅(北海道)、最南端駅は指宿枕崎線の西大山駅(鹿児島県)、最西端駅は松浦鉄道のたびら平戸口駅(長崎県)になる。

 夜が明けたところで、凍てつく寒さの中、稚内の町を歩きはじめた。

 稚内の語源は「冷水の流れる沢」を意味するアイヌ語の「ヤムワッカナイ」だとのことだが、その語感どおりの、ピリリッと引き締まった空気の冷たさだ。

 まず最初は稚内のシンボルの稚内公園に行く。駅の正面に見える海岸段丘(高さ約80メートル)の上にある公園だ。

 北門神社のわきから出るロープウェイに乗ると、一緒になった地元の小学生たちに、
「おじさん、このロープウェイは日本で一番短いんだよ」
 と教えられた。多分、そうなのだろう。

 海岸段丘上の稚内公園からの眺望はすばらしい。真下に稚内の市街地と稚内港を見下ろす。稚内の町並は、この海岸段丘と海岸の間に細長く延びている。右手のはるか遠くには日本本土最北端の宗谷岬(北緯45度31分14秒)が、左手にはノシャップ岬が見える。

 稚内港の向こうに広がる海は宗谷海峡。水平線上には、うっすらとサハリンの島影が見える。日本にいながらにして異国が見える感動というのは、表現のしようのないほどのものだ。思わず海を越えて、さらに向こうの北の世界へと行ってみたくなる。

 ところで日本から見える異国としては、対馬北端からの韓国と、与那国島西端からの台湾があるが、稚内もしくは宗谷岬からのサハリンが一番見える確率が高い。
 宗谷海峡の幅は、宗谷岬とサハリン南端の間ではわずかに40キロほどでしかない。

 稚内公園では稚内の開基100年を記念して1978年に建てられた「開基100年記念塔」の展望台に登る。

 360度の大パノラマは圧巻。右手にオホーツク海、正面に宗谷海峡、左手に日本海と、稚内を取り囲む三つの海を一望し、サハリンと礼文、利尻の島影を眺める。海上にスーッとそそりたつ利尻富士の優美な姿には目を引き寄せられた。

 次にパリンパリンに凍りついた雪道を踏みしめて、「氷雪の門」を見にいく。このモニュメントは旧樺太(サハリン)への望郷の念と、かの地で亡くなった大勢の我が同胞の霊を慰めるもので、望郷の門とブロンズ像、黒大理石の霊石が三位一体となって、サハリンを真正面に眺める高台の上に建っている。

 その隣には「九人の乙女の碑」。終戦直後の1945年8月、ロシア軍による旧樺太の真岡(現ホルムスク)への侵攻の最中、真岡郵便局の交換台を最後まで守り抜き、そして自ら命を絶った九人の若き電話交換嬢の霊を慰めている。碑に彫られた「皆さん これが最後です さようなら さようなら」が胸に残る。。

稚内港で北の世界を思う
 稚内公園から稚内港へと下っていく。かつての、日本の北の玄関口を偲ばせる半アーチ式の北埠頭ドームを歩き、稚泊航路の記念碑を見る。

 稚泊航路というのは、大正12年に鉄道省によって開設された稚内と旧樺太の大泊(現コルサコフ)を結ぶ航路で、日本の北への交通の動脈になっていた。昭和20年に閉鎖されるまで、稚泊連絡船は、300万人あまりの乗客を運んだという。

 稚泊航路のほかに稚内と本斗(現ネベリスク)を結ぶ稚斗航路もあった。稚内は現在、コルサコフ、ネベリスクの両市と友好都市の提携を結んでいる。

 今年(1995年)の5月からは、「稚内―コルサコフ(169キロ)」間に定期船が就航するという。新しい時代を予感させる稚泊航路の復活。稚内がふたたび日本の北の玄関口となり、活気づき、繁栄することを願ってやまない。

 私たちがふだん見なれている日本地図だと、稚内は最北で、まるで地の果てであるかのような先入観を持ってしまう。しかし、それはとんでもない間違いで、稚内は最果てどころか、限りなく広い北の世界へとつながっているのだ。

 宗谷海峡の向こうには、北海道をわずかに小さくしたくらいの面積のサハリン(7万4000平方キロ)が横たわり、さらに間宮海峡で隔てられたサハリンの対岸は沿海州(プリモルスキー)で、その面積は北海道の2倍くらいもある。沿海州はさらに日本の27倍もの面積のシベリアへとつづいている。それら広大なエリアのすべてが稚内と結びつく可能性があるのだ。

 寒風が吹きすさぶ稚内港の岸壁に立っていると、私の思いは海峡を越えた北の世界へと飛んでいくのだった。

稚内の郷土料理店で
 稚内港をあとにし、ノシャップ岬へ。岬の先端には、赤白に塗りわけられた灯台が建っている。高さ42メートル。島根県の日御埼灯台に次いで、日本第2位の高さを誇っている。

「ノシャップ」は、アイヌ語で顎を意味するそうだが、岬が顎のように突き出したところにある集落、それがノシャップで、ノシャップにある岬だからノシャップ岬になるという。漢字を当てはめると野寒布岬になる。

 岬には、ノシャップ寒流水族館があって、水量90トンという自慢の大回遊水槽では、チョウザメやホッケ、ソイ、カレイなどの北海の魚が群遊し、迫力満点だ。

 稚内めぐりの最後は稚内温泉。日本最北の温泉である。ここでは「稚内市民温泉保養センター」の湯に入った。含硼酸・重曹の強食塩泉。塩分が濃すぎるというので、源泉の湯を5倍にうすめているとのことだが、それでもまだかなり塩分の濃い湯である。稚内市民の憩いの場で、大浴場にはなごやかな空気が満ちあふれていた。

 稚内温泉は1978年に誕生した比較的新しい温泉で、それ以前は豊富町の豊富温泉が日本最北の温泉になっていた。

 稚内温泉の湯を存分に楽しんだあと、夕暮れの稚内駅に戻り、駅周辺を歩く。

“郷土料理”の看板を掲げた店が目にとまり、「網元」という料理店に入り、北海の味覚を味わった。

 まずはホタテガイとホッキガイの刺し身。ホタテガイはオホーツク海の猿仏で取れたもの、ホッキガイは日本海の抜海と稚咲内で取れたものだと、店の主人は説明してくれた。「ともに地元産の天然もの。“下りもの”ではありませんよ。どうです、味が違うでしょ」と自慢気だ。

 なるほど店の主人のいうとおりで、ホタテは養殖もの特有のクニャッとしたやわらかさがなく、シコシコとした歯ごたえ。ほのかな甘味のある、トロッとした脂分が上品だ。ホッキガイも湯には通していないので、自然のままの色あいである。

 ところで私がおもしろいと思ったのは、店の主人の使った“下りもの”という言葉である。それは、「ヨソから入ったものではなくて、地元のものですよ」といいたくて使った言葉だが、“下りもの”とは近世、上方から江戸へ、主に船で運ばれたものを指した。東京あたりでは死語になっているような言葉が、“下り”の終着点の稚内であたりまえに使われているところに、文化の伝播・残留のおもしろさが感じられた。

 これは余談になるが、私たちがふだん使っている「下らない」も、「下りものにさえならないもの」からきているといわれている。このように“下りもの”には、上方の人間の、江戸の人間に対する見下した目、態度というものが多分に含まれている。

 ホタテとホッキの刺し身の次に、ホッケの開きを焼いてもらう。これがうまい。皿からはみだすくらいの大きなホッケは、たっぷりと脂がのっている。とくに身と皮の間の脂分はたまらない。焼き方が上手なので、皮も骨も、まるごと食べることができた。

 焼き魚の次に、これは稚内名物というよりも、北海道名物といったほうがいいウニ丼を頼んだ。ところが店の主人は、地のウニは今は取れないので、
「下りものになってしまうのだけど」
 と、言葉を濁した。その表情からは、下りものよりも、地のものを食べさせてあげたいという気持ちが読みとれたので、地のものを使ったイカ・イクラ丼に変えた。

 こうして2時間以上をかけて、北海の味覚を賞味した。とことん味にこだわる「網元」の主人の態度には心を打たれるものがあった。大満足で稚内駅へ。22時05分発の寝台急行「利尻」で札幌に向かうのだった。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

忘年会(12/12)

(管理人)
久しぶりに賀曽利御大にお会いして忘年会をやりましたのでその模様を。

写真 (5)
最近、エプソンで写真展や講演会をしている偉い戸澤さんと、盛り上がるカソリ。
ちなみにカソリさんは来年早々、道祖神さんのツアーでアフリカ往復縦断だそうです。相変わらずですね。

写真 (6)
伝説の出版アートディレクター、三村淳氏と、鉄分濃厚編集者I氏。

お会計のあたりから全然覚えていません。
翌朝まで「あ、おれ払っていない! 誰だ、会計やってくれたの」という感じ。
メールで尋ねたところ、あんたが会計仕切ってたジャンと言われ。
確かにお金はなくなってる…。
不審に思って財布をゴソゴソしてたら領収書が出てくる。意味ワカリマセン(笑)。

ちなみに、深夜バス(料金倍額)に十分間に合うはずだったのに、電車で乗り過ごして、気づいたら西千葉ですよ、西千葉。
結局ラーメンとタクシー代も掛かってしまった。
このラーメンってのも、翌朝よく考えてみると、意味ワカリマセン(笑)。

いや、笑えねーーー。気をつけないと。

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ジャンル : その他

日本食べある記(15)沖縄本島一周食べ歩き

(『市政』1995年2月号 所収)

バイクで沖縄本島一周
 那覇を起点にし、バイクを走らせ、10月に沖縄本島を一周した。

 最初は国道330号で、那覇市―沖縄市間の20キロあまりを往復する。このルートがすごい。何がすごいかというと、那覇市を出ると浦添市、宜野湾市、沖縄市と市街地が、途切れることなく連続するからだ。

 ちょうど国道1号で東京から多摩川を渡って川崎、横浜を通り抜けるまで、もしくは国道2号で大阪から淀川を渡って尼崎、神戸を通り抜けるまでの、やはり市街地が連続する風景に似ている。

 那覇に戻ったところで、今度は沖縄本島を南北に縦貫する幹線の国道58号を北に行く。アメリカ軍の海外基地の中でも最大級の嘉手納基地のわきを通っていくが、ジェット戦闘機が爆音を轟かせて離着陸する。着陸するときは国道58号スレスレに降りてくるので、パイロットの顔まではっきりと見えた。

 読谷村に入ったところで、いったん国道58号を離れ、サトウキビ畑の中を走り、東シナ海に突き出た残波岬まで行く。石灰岩の断崖が垂直に海に落ち込んでいる岬の先端には、白亜の高い灯台が立っている。岬近くの残波ビーチの砂浜は、照りつける強い日差しに白く輝いている。若い女性たちの、色とりどりの水着姿がまぶしい。10月になっても沖縄は、まだ十分に夏なのである。

 残波岬をあとにし、民俗村の“琉球村”に行く。移築された琉球各地の民家では、伝統的な琉球の生活様式を見ることができる。玄関のない形式の、伝統的な琉球の民家だけに、玄関と、目隠しの機能を合わせ持った石の衝立の“ヒンプン”が目についた。ヒンプンはまた、魔除けにもなっている。

 ここでは怖いもの見たさで、沖縄に生息する毒ヘビのハブと、マングースの決闘ショーを見物した。透明のプラスチックのケースに仕切りを入れて、ハブとマングースを向かい合わせ、係員が棒でハブをつついて怒らせたところで、さっと仕切りを引き上げる。

 ところが勝負はあっけなかった。イタチそっくりなマングースは、すばやくハブの頭にかみつき、振りまわし、ねじりふせ、一方的なマングースの勝利に終わった。もっとも、ハブが勝つこともあるそうだ。

 名護から入った本部半島では、1975年7月から翌年1月までの半年間開かれた「沖縄海洋博覧会」を記念する「国営沖縄記念公園」に行き、海洋文化館、沖縄館、アクアポリスと見てまわる。

 海洋文化館では、南洋諸島の丸木舟に目がいった。沖縄館ではフカを捕るサバニ(伝統的な小舟)や、フカ釣り用の縄のサバナー、フカを舟ベリに寄せるサバカキヤー、釣ったフカをたたき殺すこん棒のティーブイなど、漁船や漁具を興味深く見た。

 サンゴ礁の海という自然条件があるからなのだろう、沖縄では網漁よりも突き漁のほうがはるかに盛んで、イグンやトウジャと呼ばれる銛などの突き漁の漁具の種類が豊富だ。

 名護に戻ると、国道58号をさらに北へ。辺土名を通り、ソテツ並木を走り抜け、沖縄本島最北端の辺戸岬に立つ。岬の先端には「祖国復帰闘争碑」。“記念”ではなく、“闘争”としてあるところに、“祖国復帰”を闘いとったという沖縄の人たちの心情がにじみ出ている。

 辺戸岬の先端に立つと、正面に与論島が見える。中央がわずかに盛り上がっただけの、ひらべったい島だ。与論島までは22キロでしかない。だが、祖国復帰以前の沖縄の人たちにとっては、その22キロが、かぎりなく遠かった。辺戸岬と与論島の間を通る北緯27度線が、“アメリカ領オキナワ”と日本を分ける国境線だったからだ。復帰以前の沖縄の人たちは、どのような思いで日本の与論島をながめたことだろう……。

 辺戸岬は、沖縄の海を太平洋と東シナ海に分けている。岬の断崖にぶち当たる波は砕け散り、波しぶきが断崖の上にまで飛んでくる。

 なお、那覇からずっと走ってきた国道58号だが、沖縄本島北端の集落、奥から奄美大島、種子島を経由し、鹿児島まで通じている。国道58号は日本最長の“海国道”だ。

 辺戸岬から沖縄本島東側の太平洋岸を南下していく。だが東シナ海側の中南部とはうってかわって、北部の太平洋側は集落も人も少なく車も少ない。
「ここはほんとうに、那覇と同じ沖縄本島なのだろうか」

 沖縄本島の南部には、与那原から国道331号で入っていった。一面のサトウキビ畑の中に、集落が点在しているようなところだ。

 神々の住む久高島を目の前にする知念崎の近くには、沖縄一番の霊場の斉場御嶽がある。歴代の琉球王たちが欠かさずに参拝したという、本土でいえば伊勢神宮のようなもの。

 ただ、斉場御嶽が伊勢神宮と違うのは、拝殿や神殿がないことだ。タブやシイ、クス、アカギなどの樹木がうっそうと茂り、昼なお暗い世界になっている。いかにも神々が宿っていそうな、そそり立つ石灰岩の巨岩の下には拝所があって、黒い線香と米粒、菊の葉、赤い饅頭が、白い紙にのせられて供えられていた。

“日本三大鍾乳洞”のひとつに数えられている玉泉洞を見、摩文仁の丘やひめゆりの塔などの南部戦跡をまわり、沖縄本島最南端の喜屋武岬に立った。
「辺戸岬から喜屋武岬まで」
 と、沖縄の人たちはよくいう。つまり、沖縄本島の全土という意味だ。

 喜屋武岬には、白い灯台と平和の塔が建っている。東シナ海に突き出た岬の先端から海を望むと、さらに南に突き出ている岬があるではないか……。それは荒崎だった。さっそく、行ってみる。ガタガタ道を走り、行き止まり地点にバイクを止め、岬の岩場に出る。

「もう、これ以上、沖縄本島に南はないのだ」という地点まで歩き、東シナ海の水平線に近づいた夕日を眺めた。

沖縄本島食べ歩き
 那覇から那覇まで、沖縄本島一周の全行程は640キロになった。全部で5日もかかった。距離のわりに日数がかかったのは、あっちにひっかかり、こっちにひっかかりしたからである。

 その間の食事は、ふつうの食堂に入り、毎食、違うものを食べるようにした。本土から沖縄に渡ると、食べ物が違ってくるので、まるで海外ツーリングにでも出たような、異国を食べ歩くような楽しさ、興味深さがある。

 最初に食べたのは、沖縄に行ったときはいつもそうするのだが、ゴーヤチャンプルだ。

 沖縄料理というと、油脂をたっぷり使った炒めものが多い。それらをチャンプルといっている。ゴーヤチャンプルというのは、にがうりの“ゴーヤ”をふんだんに使ったチャンプルのこと。ゴーヤと豚肉、豆腐などの入ったゴーヤチャンプルを食べていると、「今、沖縄にいるんだ!」という旅の実感を味わえる。

 ゴーヤの苦みというのは、最初のうちこそとまどいをおぼえたが、いったんこの味に慣れてしまうと、やみつきになるほど。ゴーヤチャンプルは私の一番好きな沖縄料理になっている。

 興味深いのは汁である。
 食堂のメニューには、いろいろな汁がある。たとえば、味噌汁。といっても、本土のような、小さな椀に入ったものではない。それだけで、おかずになるような汁なのである。豚肉や豆腐、青菜などの具がどっさり入って、大きな器に入って出てくる。飯と汁で十分なほど。まさに一飯一汁の食事で、日本のより古い食事の形態を見るような思いがする。

 さらに汁でいえば、中味汁には豚の腸を輪切りにしたものが入っている。ソーキ汁には、豚のあばら肉が入っている。テビチ汁には、豚の骨つきのモモ肉が入っている。このように豚は、あますところなく食べつくされる。沖縄では肉といえば豚肉を指すほどで、豚の角煮のラフティーや豚の耳皮のミミガー、顔皮のチラガーなど、豚肉料理が見事なほどに発達している。

 沖縄の豚は現在でこそ白豚だが、戦前までは黒豚(島豚)が一般的であった。その当時の養豚は、サツマイモ栽培と密接に結びついていた。ひと昔前までの沖縄の主食といえばサツマイモだったが、その皮が費用のかからない格好の飼料になっていた。

 汁には魚汁も多い。どんな魚なのだろうと興味があって、アバサー汁を食べた。アバサーは骨っぽく、若干、くせのある味だが、身には弾力があり、歯ごたえ十分。よく“アバサー汁”の看板を見かけるので、沖縄の人たちの好きな魚汁なのだろう。

 沖縄ソバも何度か食べた。ソバといっても、小麦粉からつくる幅広の、中華風の麺で、黄味を帯びている。しこしことした独特の歯ごたえがある。ソバ汁は豚肉や豚骨でダシをとったもので、こってりとした濃厚な味わい。上にソーキがのればソーキソバ、テビチがのればテビチソバになる。

 沖縄の味で忘れられないものに、豆腐を発酵させたトーフヨーがある。植物性の食品を、動物性食品であるチーズそっくりに変えてしまう知恵に驚かされてしまうが、これと同じものを中国で何度も食べたことがある。紅豆腐と呼ばれているもので、朝粥の絶好のおかずになっている。沖縄の食文化はこのように、中国と結びつきが強い。

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日本食べある記(14)長崎のクジラとカラスミ

(『市政』1995年1月号 所収)

長崎の異国の風
 東京から寝台特急「さくら」に乗って行った10月上旬の長崎は、間近に迫った“長崎くんち”(10月7日~9日)の準備であわただしかった。くんち(地元のみなさんは“おくんち”といっている)は諏訪神社の祭り。その間、長崎はくんち一色に塗りつぶされ、市民は熱狂する。

 うろこ雲が夕空をうめつくすころ、諏訪神社に行ってみると、くんちに備えて境内では、山車、御座船の練習がおこなわれていた。御座船には子供たちが乗り、鉦や太鼓を鳴らしている。その異国風の音色に合わせ、大人たちが御座船を引きまわす。ときには急回転させたりして激しく引きまわす。

 別の町内では、龍踊りの練習で銅鑼が鳴り響いていた。長崎は銅鑼が合う町。腹の底まで響いてくる銅鑼の音を聞きながら、龍踊りを見ていると、
「ここは、ほんとうに日本なのか……」
 と、不思議な気持ちにさせられた。

 長崎の市街地の東側、風頭山の麓には、全部で13の寺々が並んでいる。どこの寺に行くのにも、石段を登っていく。真言宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗と宗派はまちまちだが、その中に唐寺が2寺ある。興福寺と崇福寺である。

 興福寺は元和6年(1620年)に南京出身の華僑が建立したもので、南京寺と呼ばれている。年輪を重ねた山門が、長崎最古の唐寺を感じさせる。本堂の大雄宝殿は堂々とした建物で、そりかえった大屋根がいかにも唐寺らしい。境内にたたずみ、大伽藍をながめていると、興福寺を建立した当時の華僑の実力が偲ばれた。

 崇福寺は寛永6年(1639年)に福建出身の華僑が建立した。龍宮城の入口を思わせるような三門をくぐると、国宝に指定されている第一峰門や本堂の大雄宝殿がある。崇福寺を裏山から見下ろすと、重なり合った甍の波が、なんともいえずに美しい。

 唐寺はさらに長崎駅に近い立山の麓にもある。福済寺と聖福寺である。

 福済寺は興福寺、崇福寺とともに“長崎の唐三ヵ寺”といわれたが、壮大な伽藍は原爆で破壊されてしまった。現在は亀の背中に観音が乗った形の、巨大な観音堂が建っている。そのなかに、ありし日の福済寺の全景写真が掲げられている。

 聖福寺は唐3ヵ寺のあと、広東出身の華僑が延宝5年(1677年)に建立したもので、広東寺と呼ばれている。大屋根は苔むし、瓦と瓦の間には草がはえている。裏山の階段を登ると、大屋根越しに長崎の町並みを一望のもとに見下ろせる。

 長崎のこれら4寺の唐寺には、航海安全の女神、天后聖母をまつる媽祖堂がある。媽祖堂は仏殿よりも先に建てられたものだ。

 館内町には、かって唐人屋敷があった。その屋敷跡には石碑が建ち、土神堂や観音堂、天后堂が残っている。

 元禄2年(1689年)、長崎奉行は唐人の密貿易と切支丹取締りのために唐人屋敷をつくり、唐人5000人を収容した。ここに出入りできたのは役人と遊女だけで、唐人の外出は禁止された。だが寺参りには寛大であったので、唐人たちは、子供たちに菓子などを与えながら興福寺や崇福寺などを参詣してまわった。長崎の町民たちは、唐人を“阿茶さん”と呼び親しんだという。このように長崎は、東シナ海の海を越えた異国の世界と密接に結びついていた町だ。

長崎の鯨肉料理
 長崎の異国情緒に触れながらの町歩きで、それ以上に私の心に残ったのは各町々にある市場めぐりだ。いくつもある市場のなかでも、とくに最大の築町市場は印象深い。

 築町市場とその界隈を歩いていて目をひいたのは、鯨肉専門の精肉店があることだ。
  赤身刺し身 600円
  赤身ステーキ 600円
  ゆでクジラ 1500円
  塩クジラ 800円
  ベーコン 1500円
  胃袋 1500円
  さえずり 1500円
  (100グラム当たりの値段)

 精肉店の冷凍ショーケースにはこのような鯨肉が、ずらりと並んでいる。商業捕鯨が全面的に禁止された以降、シロナガスクジラはとれなくなったので、これら鯨肉はミンククジラのものである。なお、さえずりとはクジラの舌のことである。

 昔から長崎人は、クジラをよく食べた。長崎人の鯨肉を食べる量は、日本一だったといってもいいほどなのである。

 長崎に近い大村湾に面した東彼杵は江戸時代、五島列島周辺で捕獲したクジラの集散地としておおいに栄えた。そこから各地に鯨肉は出荷されていった。それとともに、いろいろな鯨料理も広まっていった。鯨肉料理の伝統のあるこの地方なので、鯨肉は正月料理にも欠かせない。

 長崎地方特有の鯨肉加工に、百尋と湯かけクジラがある。

 百尋はクジラの腸をゆでたものである。冷凍したクジラの腸を氷水の中で徐々に解凍し、それと同時に血抜きを十分におこなう。解凍した腸を塩でもみ、腸内の内容物をきれいに洗い出し、うすく塩味をつけ、もとにもどして切り口や破れ目を縫い合わせる。

 それをゆがくのだが、沸騰した釜のなかに入れると、最初は沈むので焦げないようにかきまぜる。煮えてくると浮き上がってくるので、落とし蓋をし、重しをのせてさらに4、5時間煮つづける。このように長時間煮たあと、冷水で冷し、水切りしてできあがる。それを酢味噌や酢醤油をつけて食べるのだ。

 湯かけクジラは、塩蔵した尾羽(クジラの尾の部分)をうすく切り、それに熱湯をかけ、水でさらしたもの。フワフワッと、まるで新雪が積もったように広がり、それを百尋と同じように酢味噌や酢醤油につけて食べる。チリチリッとした舌ざわりと、弾力のある歯ごたえがなんともいえない。

 長崎では、煮しめにも鯨肉をよく使った。腹側の脂身の部分、畝を使うのだが、塩抜きした畝とジャガイモ、サトイモ、ニンジン、レンコンなどの野菜を一緒に煮、醤油で味つけする。

 クジラをとりまく環境が厳しくなっているのにもかかわらず、こうして鯨肉専門店がしっかりあるところが、いかにも長崎らしい。

カラスミの老舗店
 築町市場とその界隈を歩いていて、もうひとつ私の目を引いたのは、
 「創業延宝三年」
 「創業安政六年」
 といった看板を掲げたカラスミの老舗である。

 カラスミはカズノコやスジコ、イクラ、タラコなどと同じような腹子と呼ばれる魚の卵(卵巣)を原料にしているが、主にボラの腹子をつかっている。それを塩漬けにし、圧搾、乾燥させた食品。その形が唐墨(中国製の墨)に似ているので、その名がある。

 長崎のカラスミは、江戸時代には越前のウニ、三河のコノワタとともに“天下の三珍”といわれたほどの珍味なのである。

 カラスミの原料になるボラの主な漁場には、長崎に近い野母崎の樺島や五島列島の富江、天草の牛深などがある。そのなかでも樺島産のものが、卵の成熟度が一番カラスミづくりに適しているといわれ、古くから名を成してきた。

 ボラは回遊魚である。
 樺島では例年、10月下旬から11月中旬にかけてがボラの漁期になる。産卵期のボラをボラ敷網という網漁でとっている。漁獲されたボラは、雌雄に分けられ、卵に傷がつかないように特殊な包丁で雌の腹が裂かれる。

 カラスミづくりの工程は、次のようなものである。

 取り出した卵をきれいに洗い、その際、軽くしごくように卵を押して血抜きする。水切りしたあとで、卵の全面に手で塩をこすりつけ、4斗樽に150腹前後を漬けこむ。塩はおよそ15キロから20キロほど使い、塩のなかに卵を埋め込むぐらいにする。このようにして、4、5日から1週間ほど塩蔵すると、卵は固くしまってくる。

 塩漬けの終わった卵を真水に浸し塩抜きするのだが、この工程が一番難しいとされ、カラスミ業者は昔からこの技術を秘伝としてきた。というのは、指先の感覚によって卵の硬軟の度合いを知り、塩加減しなくてはならないからだ。あまり塩を抜きすぎてしまうと腐ってしまい、塩が強すぎると味が落ちてしまう。

 1時間ほど水に浸しておくと、卵はしだいにやわらかくなる。そのあとで、卵膜を破らないように卵を軽くもみほぐし、塩抜きを早める。

 塩抜きが終わると、十分に水切りをする。水切りした卵を厚板に並べ、板にはさみこんで形を整え、寒風に吹きさらして乾燥させる。11月から12月にかけての、冷たい風が吹きつける晴天の日が、カラスミ干しには最適の天候。10日あまり日中は外で干し、夜間は室内で乾燥させると、飴色をした半透明のカラスミができあがる。

 カラスミは酒の肴には絶好だ。
 このように手間ひまをかけてつくるカラスミなので、高級品になると、1本が1万円を越える。カラスミ店をのぞいていると、贈答品として買っていく人が多いようだ。

 カラスミはもともとは正月用のものだった。それが今では、原料を冷凍しておけるので、ほぼ1年中つくられている。また、国内産の原料はかぎられており、台湾やオーストラリア、ブラジル産のものが大半を占めるようになっている。いかにも日本的な食品のようなカラスミでさえ、原料を海外に頼っているのである。

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