「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(22)

 岩手県大船渡市の中心、大船渡からは県道9号で綾里へ。ここは津波の特異地帯といってもいいほどで、明治29年(1896年)6月15日の「明治三陸大津波」では38・2メートルという最大波高を記録した。

「明治三陸大地震」によってひきおこされた「明治三陸大津波」では2万1959人もの死者を出したが、この大災害によって「三陸」、「三陸海岸」の名前が日本中に定着したといわれる。

 さらに綾里では昭和8年(1933年)3月3日の「昭和三陸大津波」で28・7メートルという、これまた最大波高を記録した。このときの「昭和三陸大津波」は死者1522人、行方不明者1542人を出している。

 そして今回の「平成三陸大津波」では、綾里湾で30・1メートルという30メートル超の波高を記録している。

 綾里漁港でV-ストロームを止めた。港をぐるりと取り囲む巨大な防潮堤と水門は無事だったが、防潮堤を乗り越えた大津波でかなりの家並みが破壊された。しかし何度も大津波に襲われた綾里ならではといったところで、一段、高くなった高台に建ち並んでいる家々は無事だった。

 ところが高台下の家々は全滅している。ここでも1本の線を境にして明暗を分けている。高台上の家々は昭和三陸大津波のあと、移転して造られた。高台下は近年になって造られた家々だ。

 綾里漁港の岸壁にいた漁師さんに話を聞いた。

 その漁師は大地震の直後、船を沖に出して無事だった。このあたりの海はすぐに深くなるので港外に出れば高波やられることはないという。何度となく大津波に襲われてきた綾里の人ならではの話だ。

 地盤沈下した綾里漁港の復興は進み、岸壁は70センチ、かさ上げされていた。それでも本格的な復興はまだまだ先だという。

「2年、3年ではどうしようもない。20年、30年でも無理。元通りになるまでに50年はかかるな。その頃にはまた次の大津波がやってくるよ」

 といって笑ったが、その言葉はぼくの胸に重く残った。これが3・11の1年後の現状。1年や2年ではどうしようもないというのが実感だ。

 三陸鉄道南リアス線の綾里駅前には明治三陸大津波と昭和三陸大津波の被害状況が克明に記されている。それには「津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください」と書かれている。

 綾里は今回の「平成三陸大津波」で30メートル超の大津波に襲われたが、「津波教育」が徹底しているおかげで、死者は30人ほどですんだ。ちなみに「明治三陸大津波」では1269人もの死者を出している。「昭和三陸大津波」でも180人の死者を出している。「綾里」は常日ごろの「津波教育」が、いかに大事であるかを教えてくれている。

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綾里漁港の岸壁

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綾里の高台上の家々

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三陸鉄道の綾里駅

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綾里駅前の大津波の記録

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綾里湾

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2011年5月19日の綾里

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(21)

 陸前高田市の広田半島の広田崎と黒崎の2つの岬に立ち、一ノ関駅と大船渡の盛駅を結ぶJR大船渡線(気仙沼駅~盛駅間は運休中)の踏み切りを渡る。

 大津波の直撃を受けてグニャグニャに曲がって流された線路は撤去されている。しかし大船渡線の復興、開通までには相当、時間がかかることだろう。

 陸前高田市から大船渡市に入り、末崎半島南端の碁石岬に立った。絶景岬の展望台からは正面に長々と横たわる宮城県の唐桑半島を、右手には陸前高田市の広田半島を見る。それにしても海が青い。

 岬近くの漁港は壊滅的にやられ、周囲の堤防も大きく破壊されていたが、熊野神社の日本一の大椿、樹齢1400年の「三面椿」は残った。大津波は神社の鳥居前まで来ていた。ここでも神仏の目に見えない力のすごさを見せつけられた。

 碁石岬でうれしかったのは、震災直後、手回しの簡易給油機で早々に営業を再開したガソリンスタンドが、しっかりと復旧していたことだ。
「頑張ってるなぁ!」
 と、思わず声が出る。

 末崎半島から国道45号に出たところにある「つばき亭」で再度の昼食。「刺身定食」(1200円)を食べた。この店には震災直後に入ったことがある。そのときの店の若奥さんの一言は忘れられない。

「海は子供の頃から大好きだったのに…。(そんな海が)大嫌いになってしまって…」

 国道45号から海沿いの道に入り、魚市場前でV-ストロームを停めた。

 魚市場は再開されている。魚市場前にはコンビニの「ヤマザキ」が新しくオープンし、漁業関連の店もオープンしている。製氷工場も完成している。大船渡漁港では復興に向けてのみなさんの「熱気」が伝わってくるようだ。

 JR大船渡線の線路に沿って走り、大船渡の中心街へ。瓦礫はほとんど取り除かれている。大船渡駅の周辺が大船渡の中心街になるが壊滅状態だ。さらに大船渡線の線路に沿って走り盛駅へ。そこが大船渡線の終点になる。

 盛駅の駅前通り周辺は、大津波の影響をほとんど受けていない。ここでもわずかな高さの違い、地形の違いによる大津波の被害の有無、被害の濃淡を見せつけられるのだった。

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碁石岬の展望台

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碁石岬突端の岩礁

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碁石岬の灯台

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大船渡湾

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大船渡漁港の魚市場

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大船渡の中心街

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2011年5月19日のJR大船渡線

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2011年5月19日の大船渡

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(20)

 気仙沼からは国道45号をさらに北上し、県境を越え、宮城県から岩手県の陸前高田市に入っていく。

 気仙川の河口にかかる気仙大橋は大津波で流された。そのため陸前高田の町に入っていくのには、気仙川沿いにさかのぼり、大きく迂回し、国道343号→340号で陸前高田の町中を走り抜け、気仙大橋の対岸に出なくてはならなかった。大変な時間のロスだった。

 それが仮橋の完成で、震災以前と同じように直接、陸前高田の町に入っていけるようになっている。

 今回の「平成三陸大津波」では1800人もの犠牲者を出した陸前高田は壊滅状態。瓦礫はほとんど撤去され、うず高く積まれていた瓦礫の山も大分、処分されていた。

 しかしあまりにもすさまじくやられたので、復興の芽すら見られないというのが現状だ。「日本三大松原」に次ぐくらいの高田松原は全滅し、7万本以上もあった海岸の松はすべて流された。

 その中でかろうじて残ったのが「奇跡の松」。何としても生き延び、陸前高田の復興のシンボルになってもらいたいものだが、潮をかぶった松は残念ながら立ち枯れしてしまった。

 陸前高田の海岸は地形も変わり、高田松原海水浴場の長い砂浜は消えた。家族連れで賑わった夏の海水浴場のシーンが、しきりに目に浮かんでならなかった。あの賑わいがこれから先、戻ることがあるのだろうか…。

 陸前高田の市街地跡を抜け出たところで国道45号を右折し、県道38号で広田半島に入っていく。ゆるやかに下ったところで県道38号の旧道と交差するが、この一帯は絨毯爆撃でもされたかのような被害地域が帯状になって東西に延びている。ここが大津波が激突した現場。半島の両方向から巨大な壁となって押し寄せた大津波が激突した。

 県道38号で広田半島を一周し、最南端の広田崎に立った。目の前にはウミネコの椿島が見える。対岸には長々と延びる唐桑半島が見える。広田崎は絶景岬だ。

 広田崎近くの漁港で震災直後に漁師さんから聞いた話は忘れられない。

 大地震のあと、大津波が来そうだとわかったとき、家族の反対を押し切って港に急行した。船をつないだロープを鉈でぶち切り、エンジン全開で沖に逃げた。ほんとうに間一髪で、もし、もたもたしてロープをはずしていたら、港内に押し寄せた大津波に飲み込まれてしまった。ほかの船はすべてやられたという。

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一面の荒野と化した陸前高田

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外観だけが残ったホテル

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高層住宅の4階までがやられた

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陸前高田を貫く国道45号

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消えた高田松原

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広田崎からの眺め

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大津波以前の高田松原

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(19)

 国道45号で南三陸町から気仙沼市に入っていく。

 元吉の手前で津谷川の河口にかかる小泉大橋の仮橋を渡った。この仮橋完成以前は狭い迂回路に入り、大きく迂回しなくてはならなかったが、こうして三陸海岸幹線の国道45号で一気に走っていかれるようになると、復興に向かって一歩づつ進んでいるのを実感できる。

 気仙沼では潮吹岩で知られる岩井崎に寄り道した。

 国道45号から岬までの道沿いは大津波にやられたままで、いまだに生々しい大津波の爪痕を見せている。岩井崎の食堂や土産物店、旅館もすべて破壊された。それが何とも不思議なことに、岬の突端に建つ第9代横綱の秀ノ山像は無傷で残った。ここはまさに「奇跡のポイント」。なお秀ノ山は両国国技館入口の壁画で大きく描かれている横綱だ。

 岩井崎をあとにし、気仙沼の中心街に入っていく。

 JR気仙沼線の南気仙沼駅周辺は大津波に激しくやられたところで、大震災から1年がたち、やっと浸水した水が引きはじめている。それとともに遅れていた瓦礫撤去が本格的に始まったという状態。

 それが、気仙沼駅の周辺になるとほとんど大津波の被害を受けていないように見える。ほんのわずかな高さの違い、地形の違いによって、これほどまでの差が出るのが「津波被害」だ。

 気仙沼湾は奥深くまで切れ込んだ海。その海を突っ切って何隻もの大型漁船が陸地に乗り上げた。大震災2ヵ月後の時点では折り重なった乗り上げ船の下をくぐり抜けていく迷路のような道もあったが、今ではその大半の乗り上げ船はとり除かれている。

 気仙沼では仮設商店街の「復幸マルシェ」が完成し、その中にある食堂「団平」で昼食。「釜あげうどん」(600円)を食べたが、腹わたにしみる味だった。

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岩井崎の横綱秀ノ山像

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気仙沼の中心街に入っていく

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南気仙沼駅の駅前

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気仙沼漁港

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気仙沼に残る乗り上げ船

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気仙沼の仮設商店街「復幸マルシェ」

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「復幸マルシェ」の食堂「団平」

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「団平」の「釜あげうどん」

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2011年5月18日の気仙沼

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(18)

 石巻市から国道398号で南三陸町に入り、いかにも大津波を連想させるような地名の「波伝谷」を通り、国道45号に合流。合流地点には仮設の「セブンイレブン」ができている。

 志津川湾の波静かな海を見ながらVストロームを走らせる。

 以前は「海の畑」を思わせる志津川湾だったが、養殖筏は大津波で根こそぎやられ、まる裸にされたような海になってしまった。そんな志津川湾に少しづつだが、養殖筏が増えはじめている。

 志津川湾を見下ろす弁天崎の南三陸温泉「観洋」は無傷で残った。震災直後は避難所になっていてが、今は営業を再開している。温泉のほとんどない三陸海岸なだけに「観洋」は貴重な存在だ。

 志津川の町中に入っていくと、震災から1年が過ぎたというのに茫然としてしまうような光景が広がっている。復興にはほど遠い光景だ。

 その中にあってポツンと1軒、仮店舗で営業を始めた店があった。その店の前でV-ストロームを停め、自販機のカンコーヒーを飲んだ。それと目についたのは「蔵八ラーメン亭」というバスのラーメン屋。営業時間前で食べられなかったのが残念だ。

 志津川につづいて歌津の町に入っていく。ここも壊滅状態。海沿いを走る国道45号の高架橋は落ちたままだ。そんな歌津の町並みをJR気仙沼線の歌津駅から見下ろした。線路が流された気仙沼線の開通の見込みはまったくたっていない。

「ウタツギョリュウ」の化石が展示されていた「魚竜館」も大きな被害を受けたまま閉鎖されていた。

 今回の「平成三陸大津波」で大きな被害を受けた「南三陸町」は、2005年10月に志津川町と歌津町が合併して誕生した町だ。

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大津波に襲われた南三陸町の波伝谷

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志津川の中心街

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壊滅した志津川の町跡

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志津川の「蔵八ラーメン」

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歌津の中心街

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歌津の自販機

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歌津の仮設商店街

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2011年5月18日の志津川

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(17)

 国道398号沿いの民宿「小滝荘」の朝食を食べ、7時出発。スズキV-ストロームを走らせ、相川漁港へ。

 ちょうどそこでは震災後初の三陸産ワカメの水揚げが始まっていた。みなさんの生き生きとした表情が印象的。やっとワカメを採れるようになったという喜びが満ちあふれていた。

「写真を撮らせてくださ~い!」と声を掛けると、漁師の奥さんは「兄さん、ちょっと待っててね。私、家に帰ってツケマツゲしてくるから」という。

 何という明るさ。何という茶目っ気。その一言で全員、大爆笑。

「あそこの大鍋でさっと茹でて食べなさい」
といってその漁師の奥さんは採れたてのワカメをポンと投げてくれた。

 いわれたとおり、グラグラ煮立った大鍋にワカメを入れるとコンブ色のワカメがその瞬間、きれいな緑色に変る。それをむさぼり喰った。じつにうまい。港に揚げたワカメはこのようにしてさっと茹で上げて出荷するという。

 相川漁港のみなさんに別れを告げ、海岸近くの相川小学校へ。大津波に直撃された相川小学校は3階建の校舎。その3階まで津波は押し寄せたが、生徒は全員、助かった。地震発生と同時に裏山によじ登り、避難したからだ。

 相川から国道398号を北へ。三陸屈指の海岸美を誇る神割崎の真っ二つに割れた「神割伝説」の大岩を見、石巻市から南三陸町に入った。

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民宿「小滝荘」を出発

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相川漁港

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三陸産ワカメの水揚げ

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大津波に襲われた相川小学校

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神割崎の伝説の大岩

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南三陸町に入る

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(16)

 女川から国道398号で三陸のリアス式海岸を行き、ふたたび石巻市に入る。

 旧雄勝町雄勝の公民館の屋根上に乗ったバスは3・11から1年を機に下に降ろされたが、雄勝湾の一番奥に位置する雄勝の町には何も残っていない。女川同様、町が消え去った。瓦礫が撤去されているので、よけい異様な光景に見える。まるで遺跡を見るかのようだ。

 ただ女川と違うのは、女川には復興の息吹きを強く感じたが、雄勝にはまったく感じられない。復興の気配さえないのが雄勝といっていい。旧雄勝町は石巻市と合併したことによって、石巻市から見捨てられてしまったかのようだ。

 雄勝から釜谷峠を越えると東北一の大河、北上川の河畔に出る。そこには新北上大橋がかかっている。橋の一部が流されたので長らく通行止がつづいたが、今は通行できる。

 新北上大橋の右手には、今回の大津波では一番の悲劇の舞台になったといっていい大川小学校がある。ここでは78人の生徒と11人の職員が津波に流され、助かったのはわずか4人の生徒と1人の職員だけだった。ここは北上川河口から約5キロの地点。これだけの大津波が太平洋から5キロも内陸の地に押し寄せるとは誰も想像もしなかった。

 新北上大橋を渡り、旧北上町に入っていく。

 2005年4月、平成の大合併で石巻市と雄勝町、北上町、牡鹿町、河南町、河北町、桃生町の1市6町が合併し、今の石巻市になった。そのうちの旧北上町の庁舎は北上川の河口近くにあった。避難所になっていたが、大津波はその庁舎を一瞬にして呑みこんだ。ここには吉浜小学校の生徒たちも避難していたが、多数の生徒が亡くなっている。

 石巻市では今回の大津波で3700人以上もの犠牲者を出した。これは東北太平洋岸の市町村の中では最大だ。

 その夜は旧北上町の民宿「小滝荘」に泊まった。飛び込みで行ったのだが、ありがたいことに夕食も用意してくれた。

 夕食後、宿のみなさんの話を聞いた。

 1年前の3月11日も寒い日だった。大津波から逃げて生き残った人たちも、その夜の寒さを乗り越えることができず、何人もの人たちが凍死したという。3月11日は東北ではまだ冬同然なのだ。

 北上川河口の堤防上では大勢の人たちが津波見物をしていた。
「どうせ4、50センチぐらいの津波だろう」
 と、誰もがタカをくくっていたという。ところが想像をはるかに超える20メートルもの大津波に車もろとも流されてしまった。

 国道398号沿いの民宿「小滝荘」は高台にあるので無事だった。ここには相川小学校3年生の空君がいるが、相川は海辺の集落、相川小学校も海岸のすぐ近くにある。それにもかかわらず、空君を含めて70余名の生徒、全員が無事だった。

 地震発生と同時に生徒たちは先生方と一緒に小学校の裏山を駆け登った。すぐ後まで迫る大津波の恐怖といったらなかったという。「東日本大震災」の3日前に、相川小学校では津波の避難訓練がおこなわれた。先生や生徒たちは避難訓練通り、迷うことなく裏山に登った。相川小学校の裏山は、大川小学校の裏山よりもはるかに急。生徒たちは励ましあい、草の根につかまって山肌をよじ登った。

 同じ石巻市内の大川小学校と相川小学校は今回の大津波ではあまりにも明暗を分けてしまったが、何度となく津波の避難訓練をやってきた相川小学校と津波の避難訓練を一度もやったことのない大川小学校の違いがあからさまに出てしまった。

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雄勝の公民館。バスは降ろされた

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雄勝の町跡

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大川小学校

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北上川の河口

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旧北上町の民宿「小滝荘」

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「小滝荘」の夕食

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2011年5月18日の雄勝

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大川小学校の廊下に張られていた生徒や先生方の写真(2011年7月3日撮影)

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(15)

 JR仙石線の野蒜駅跡をあとにすると、県道27号から鳴瀬川の堤防上の道を走り、国道45号に合流。東松島市の中心、矢本を通り、石巻の海岸地帯を走る。大きな被害を受けた日本製紙の石巻工場は全面復旧し、操業している。それにしても日本製紙石巻工場の復旧は早かった。

 旧北上川の河口をまたぐ日和大橋を渡り、石巻漁港へ。

 漁港周辺の水産加工場や冷凍倉庫はことごとくやられたが、震災から1年がたったというのに、まだ瓦礫がそのまま残り、震災直後といった状態だ。

「もう再開しているのではないか…」
 と期待した魚市場の「斉太郎食堂」だが、魚市場にはいまだ近づけない。石巻漁港の魚市場の再開までには、まだまだ相当な時間がかかりそう。

 石巻の被害は甚大だ。と同時に復興の遅れをものすごく感じた。

 石巻からは国道398号で女川へ。渡波で牡鹿半島に入っていく県道2号と分岐するが、この一帯も激しくやられた。

 ところが渡波を過ぎ、万石浦沿いになるとほとんど大津波による被害は見られない。

 石巻市から女川町に入る。そこには「マリンパル女川」の仮設市場ができていた。

 女川町に入っても、無傷の家並みがつづく。V-ストロームに乗りながら、
「なぜ? どうして?」
 と、思ってしまう。

 万石浦沿いの方がはるかに大きな被害が出ても不思議でないような地形に見える。津波のメカニズムは不思議だらけだ。

 JR石巻線の浦宿駅前を過ぎると万石浦を離れ、ゆるやかな峠を登る。峠上には女川高校がある。そこまでは全く大津波の痕跡はない。

 ところが女川高校前を過ぎ坂道を下り始めると、全壊した家々が見られ、全滅した女川の中心街が眼の中に飛び込んでくる。あまりにも無惨な光景。ここでは倒壊してひっくり返ったビルを何棟も見る。しかし3・11から1年がたち、女川の町の瓦礫はほとんど撤去されていた。

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全面復旧した日本製紙の石巻工場

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石巻漁港の魚市場

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国道398号の石巻市と女川町の境

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「マリンパル女川」の仮設市場

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瓦礫の撤去された女川の中心街

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2011年5月18日の石巻漁港の魚市場

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2011年5月18日の女川

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(14)

 名取川河口の閖上から県道10号を北上し仙台へ。

 仙台港周辺も大津波で大きな被害を受けたところだが、大半の工場は操業を再開している。ここでは仙台港のフェリー埠頭でスズキV-ストロームを停めたが、ちょうど太平洋フェリーの「いしかり」が名古屋港に向けて出港するところだった。

 県道10号から国道45号に合流し多賀城へ。
 多賀城では陸奥の国府、多賀城跡を見る。多賀城跡は無事。「奥の細道」ゆかりの壷碑も無事だ。

 今回の大津波は死者2万1959人を出した明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」同様、日本の史上最大といわれる869年の「貞観の大津波」に迫るもの。

「貞観の大津波」で陸奥の国府は全滅した。多賀城跡だけでの比較でいえば、やはり1150年前の「貞観の大津波」の方がより大きな津波だったということになる。

 多賀城から国道45号で塩竃へ。塩竃では奥州の一の宮、塩竃神社を参拝した。

 塩竃から松島へ。日本三景の松島は大津波の被害はそれほどでもなく、シンボルの五大堂や国宝の瑞厳寺にもほとんど被害は見られない。国道45号沿いの土産物店などもいつも通りの営業で、松島湾の遊覧船も運航している。松島湾に浮かぶ無数の島々と松島湾口に並ぶ桂島や野々島、寒風沢島といった浦戸諸島が、松島を守ってくれたのだ。

 松島からは海沿いの県道27号を行く。松島町から東松島市に入るとそこは「大塚」。JR仙石線の陸前大塚駅が海岸にある。駅も駅前の家並みも無傷。大津波の痕跡はまったく見られない。その次が「東名」で、ここには東名駅がある。

「大塚~東名」間はわずか2キロでしかないが、この2キロが同じ松島湾岸を天国と地獄を分けている。ゆるやかな峠を越えて東名に入ると信じられないような惨状。大津波から1年になるが、復興とはほど遠い光景をそのまま残している。東名の大津波は石巻湾の方から野蒜海岸を越えて押し寄せてきた。

 東名から野蒜へ。ここも大津波をまともに受けたところ。JR仙石線の野蒜駅前でV-ストロームを停める。駅前の県道27号の信号は倒れたままだ。無人の野蒜駅構内を歩き、おそらく2度と使われることのないであろうホームに立った。

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仙台港のフェリー埠頭

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陸奥の国府、多賀城跡

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松島湾の漁港

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仙石線の陸前大塚駅

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陸前大塚駅から見る松島湾

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東名の惨状

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大津波に直撃された野蒜駅

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野蒜駅前の倒れた道標

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(13)

 宮城県亘理町の荒浜を出発。県道10号に戻ると、亘理大橋で東北第2の大河、阿武隈川を渡り、岩沼市に入っていく。

 県道20号との交差点を過ぎると仙台空港の滑走路下のトンネルに突入。「東日本大震災」の2ヵ月後に来たときは、このあたり一帯はすさまじい状況になっていた。車の残骸が散乱しているだけでなく、軽飛行機の残骸も何機も見られた。それがきれいさっぱりなくなっていた。

 仙台空港の滑走路下のトンネルを抜け出ると名取市に入っていく。仙台空港は名前は仙台でも岩沼市と名取市にまたがる空港。震災直後の仙台空港はターミナルビルも滑走路も大津波に襲われて浸水し、当分の間は無理だと思われた。それがなんと2ヵ月もたたずに再開にこぎつけたのだ。

 仙台空港にいかにすごい津波が押し寄せたかは、その近くの海岸一帯の松林を見るとよくわかる。海岸線の松林はことごとくなぎ倒されていた。

 県道10号をさらに北上し、名取川河口の閖上へ。大震災前まではにぎわった漁港で、「閖上朝市」で知られていた。

 高さ20メートル超の大津波に襲われた閖上の惨状はすさまじいばかりで、まるで絨毯爆撃をくらって町全体が焼き払われた跡のようだ。ここだけで1000人近い犠牲者を出している。そんな閖上だが、瓦礫はきれいに撤去され、今ではきれいさっぱりと何も残っていない。

 港近くの日和山に登り、無人の広野と化した閖上を一望する。復興の芽はまだどこにも見られない。

 日和山というのは日和待ちの船乗りが日和見をするために登る港近くの小山のことで、酒田や石巻の日和山はよく知られている。日和山があるということは、閖上も古くから栄えた港町だったことを意味している。

 江戸時代の閖上は、伊達政宗の時代に掘られたという貞山堀を通して、阿武隈川河口の荒浜と七北田河口の蒲生の中継地として栄えた。ちなみに蒲生にも標高6メートルの日和山があった。「元祖・日本で一番低い山」として知られていたが、今回の大津波で蒲生の日和山は根こそぎ流され、山が消えた。

 ところで閖上(ゆりあげ)の地名だが、伊達政宗は豊臣秀吉から贈られた門を船で運び、ここで陸揚げしたことに由来しているという。

 そんな閖上の日和山には高さ2・5メートルの木柱が2本、立っている。1本には富主姫神社、もう1本には閖上湊神社と書かれている。これは2つの神社の、神が宿るための神籬だ。

 もともと「日和山富士」とか「閖上富士」といわれた日和山には日和山富士主姫神社がまつられていた。大津波は日和山をも飲み込んだので、日和山富士主姫神社は流された。日和山から600メートルほど北にあった閖上湊神社も流された。この両神社は閖上のみなさんにとっては心の故郷。ということで、日和山に両神社の仮設の社ということで2本の神籬が立てられた。

 日本最長の運河、貞山掘を渡り、潟湖の広浦まで行ってみる。ここは荒浜の鳥の海と似た地形。残った橋で対岸に渡ったところには「サイクルスポーツセンター」がある。建物は残ったが、1階は大津波が駆け抜けた痕跡が生々しく、とても再開できそうには見えなかった。

 斎藤さんとはここ、閖上で別れた。斉藤さんは名取ICで高速に入り、横浜の自宅へと戻っていく。カソリはさらに北へ、下北半島の尻屋崎を目指して北上していく。

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瓦礫が撤去された閖上の被災地

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閖上の日和山

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日和山には花束が供えられている

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日和山の仮設の神社

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日和山からの眺め

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閖上を流れる貞山堀

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(12)

 福島県の新地町から国道6号で宮城県の山元町に入った。

 山元町の海岸地帯でも、新地町同様、津波による大きな被害を受けた。常磐山元自動車学校の送迎バス5台が津波に飲み込まれ、教官と教習生39人が犠牲になるといった悲劇を含め、700人弱もの死者・行方不明者を出している。

 山元町から亘理町に入っていく。

「亘理」といえば、亘理伊達家の城下町。伊達成実以来、亘理伊達家は15代つづいた。明治維新を迎えると、城下の士族たちは北海道に渡り、伊達紋別の新地を開拓した。

 JR常磐線の亘理駅は亘理城を模した造りだし、駅前には郷土資料館がある。郷土資料館ではそんな城下町としての亘理の歴史を見ることができる。

 亘理からは県道10号を行き、阿武隈川河口の荒浜へ。ここは阿武隈川の船運の拠点として栄えた。伊達藩の時代は塩釜と並ぶ2大港になっていた。その荒浜も大津波の直撃を受けて壊滅的な被害を受けた。

 荒浜漁港に行くと、港はずいぶんと復興し、漁も再開されていた。ちょうど漁を終えた漁船が戻ったところでスズキが水揚げされていた。魚市場では競りが行なわれていた。

 荒浜漁港の前には仮設の「鳥の海ふれあい市場」がオープン。マイクロバスでやってきた津波ツアーの観光客たちが海産物を買い求めていた。「東日本大震災」から1年、このような津波ツアーの大型バスやマイクロバスをあちこちで見かけるようになった。

 荒浜漁港は阿武隈川の河口ではなく、潟湖、鳥の海に面している。その海への出口近くに温泉施設の「鳥の海」がある。大改装して4階建にして間もないのだが、1階部分はほぼ全滅。津波から1年たっているが、再開の見込みはまったくたっていないという。

「鳥の海」前の瓦礫の山は一段と高くなっている。瓦礫の処理がなかなか進まない様子が見てとれた。

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荒浜漁港

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荒浜漁港での水揚げ

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魚市場での競り

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「鳥の海ふれあい市場」

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温泉施設の「鳥の海」

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「鳥の海」前の瓦礫

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(11)

 松川浦から海岸近くの県道38号を北上。相馬市から新地町に入ると、新地の火力発電所前を通るが、この石炭火力の発電所は操業を再開している。

 かつての新地の町跡に到着。海沿いの町並みは消え去り、家々のコンクリートの土台だけが残っている。まるで遺跡の町跡を見るかのようだ。

 JR常磐線の新地駅は跡形もない。震災2ヵ月後に来たときは流された線路や新地駅のグニャッと曲がった跨線橋が見られたが、それらはすべて撤去され、今ではどこが新地駅だったのかを探すのも難しい。駅前にあった巨大な瓦礫の山もなくなっている。

 高さ21メートルの巨大津波に襲われた新地の海岸一帯では、100人以上のみなさんが亡くなった。今では家一軒、残っていない。まさに荒野といっていいような風景が広がっている。その中に立つと、もう言葉もない。

 福島県道38号は県境を越えると宮城県道38号になるが、県境の手前の川にかかる橋は落下したままで通行不能。橋の落下した現場にカソリのVストロームと斉藤さんの車を止め、破壊された堤防越しに、しばし青い太平洋を眺めるのだった。

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新地の被災地を行く。家一軒ない

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県境近くの落下したままの橋

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破壊された堤防越しに海を見る

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山のように積み上げられた墓石

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JR常磐線の線路跡

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2011年5月11日の新地駅

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(10)

 相馬市の蒲庭温泉「蒲庭館」の朝湯に入り、大広間での朝食。この近くには東北電力の原町火力発電所があり、その復旧工事の作業員のみなさんで宿はほぼ満員。

 温泉卵、のり、塩ジャケの朝食を食べ、8時出発。カソリのV-ストロームが先頭を走り、斎藤さんの四駆がフォローする。

 県道74号でいったん相馬の市内に入り、県道38号で松川浦に向かう。

 国道6号の相馬バイパスを横切ると、その途端、大津波に襲われた被災地に入っていく。この国道6号のバイパスという1本の線を境にして、世界がガラリと変ってしまうのだ。それでも松川浦へとつづく被災地一帯の瓦礫は撤去され、乗り上げ船や散乱していた車の残骸はもうほとんど見られない。

 松川浦は「東日本大震災」から1年たってずいぶんと変わった。

 折り重なるようにして陸地に乗り上げた無数の乗り上げ船は、もう1隻も見られない。目抜き通り沿いのホテルや旅館、食堂の何軒かは営業を再開している。新しいビルの建設も始まっている。漁港には数多くの漁船が集結し、松川浦全体に活気を感じた。

 松川浦を拠点にしての漁が再開され、元通りの賑わいが戻ることを願うばかりだ。

 風光明媚な松川浦は北側の原釜と南側の磯部との間にある長さ7キロの潟湖。北端が海への出口で、そこには全長519メートルの斜長橋、松川浦大橋がかかっている。

 松川浦大橋を渡ったところが鵜ノ尾岬。そこから南へ、松川浦東岸の砂嘴が磯部まで延びていた。砂嘴上の道は大洲松川浦ラインと呼ばれる快適な2車線の海浜道路で、「日本の渚100選」の大洲海岸を通っていた。大津波の直撃を受け、大洲海岸の一帯だけでも500人近い犠牲者が出た。

 大津波は松川浦東岸の砂嘴をズタズタに寸断した。ものすごい破壊力だ。砂嘴沿いに今、仮設の道路が造られているが、それが完成したらまた大洲松川浦ラインは復活するのだろうか…。

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蒲庭温泉を出発

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松川浦の漁港

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2011年5月11日の松川浦

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(9)

 南相馬市では相馬野馬追の原町の騎馬武者軍団が出発する太田神社を参拝し、国道6号の通行止地点まで行った。そこが爆発事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所20キロ圏の北側になる。

 南相馬市は2006年1月、原町市と鹿島町、小高町の1市2町が合併して誕生した。今回の大津波で大きな被害を受けるまでは、おそらく日本中のほとんど人が「南相馬市」を知らなかったことだろう。その南相馬市の南側が旧小高町になる。東電の福島第1原発の爆発事故によって、この旧小高町には入れなくなってしまったのだ。

 小高は相馬氏発祥の地といっていいようなところで、小高城跡の小高神社から相馬野馬追の小高の騎馬武者軍団は出発する。

 中村の中村神社、原町の太田神社、小高の小高神社とこの3社があっての相馬野馬追なのだが、原発事故によって小高神社に立入ることができなくなってしまった。

 それでも昨年、小高神社抜きの片肺状態で相馬野馬追がおこなわれた。ほんとうによかった。相馬野馬追の今年の開催も決定しているので、なんとか3社合わせての相馬野馬追になってほしいと願うばかりだった。

 国道6号の封鎖地点で折り返し、海沿いの県道260号→県道74号を行く。沿道には延々と大津波の被災地がつづくが、すでに大半の瓦礫が撤去され、はてしなく広がる無人の荒野を行くようなもの。もう何と表現していいのかわからないが、日本であって日本でないような光景だ。

 そんな県道74号沿いの蒲庭温泉の一軒宿「蒲庭館」で泊まった。ここは「東日本大震災」2ヵ月後の5月11日に泊まった宿。若奥さんはぼくのことをおぼえていてくれた。そのときに聞いた若奥さんの話は忘れられない。

 高台にある学校での謝恩会の最中に、巨大な「黒い壁」となって押し寄せてくる大津波を見たという。大津波は堤防を破壊し、あっというまに田畑を飲み込み、集落を飲み込んだ。多くの人たちが逃げ遅れ、多数の犠牲者が出てしまった。この地域だけで250余名の人たちが亡くなったという。

「地震のあと、大津波警報が出たのは知ってましたが、どうせ4、50センチぐらいだろうと思ってました。まさかあんな大きな津波が来るなんて…」

 3・11から1年後。今回、若奥さんから聞いた話も深く心に残るものとなった。

「被災したみなさんは1年たってもまだ現実を受け入れられないのです。悪夢を見ているのではないか、朝、目をさませば、また元の村の風景、元の家、元の生活…が戻ってるのではないかって思っているのです。あまりにも一瞬にして多くの人命と財産を失いましたから…」

 そんな話を聞いた直後にけっこう大きな地震に見舞われた。ガガガガガッと電気ドリルか何かでコンクリートに穴をあけるような衝撃だ。3・11から1年たっても、このように頻繁に余震に襲われるという。

 刺身や焼き魚、貝のグラタン…などの夕食を食べ終わったころ、一緒に「シルクロード横断」や「南米・アンデス縦断」を走った斎藤さんが、車を走らせ、横浜から来てくれた。何の前ぶれもなく、連絡もなかったのでビックリするやらうれしいやら。

「カソリさん、明日は途中まで一緒に走らせてくださいよ」
「どうぞどうぞ」

 2人で大津波で犠牲になったみなさんの冥福を祈り、ビールで「献杯」。そのあと深夜まで我々の宴会はつづいた。

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国道6号の封鎖地点

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大津波で流された漁船

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おびただしい数の車の残骸

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すべてが流された海岸地帯を行く

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堤防も破壊された

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2本だけ残った松

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ポツンと残った家

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道路もいたるところで破壊されている

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蒲庭温泉「蒲庭館」に到着

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「蒲庭館」の夕食

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(8)

 相馬駅前を出発点にして相馬市、南相馬市の「相馬」をめぐる。
 まずは相馬市の中心の中村だ。

 福島から相馬までは国道115号で霊山を越えてやって来たが、この国道115号の「福島→相馬」間は中村街道といわれている。中通りの福島と浜通りの中村を結ぶ街道なのでその名前がある。

 中村は相馬氏6万石の城下町。相馬氏の居城だった中村城跡にある中村神社を参拝。勇壮な東国武者の祭り、「相馬野馬追」の相馬の騎馬武者は、ここから原町の神旗争奪戦を繰り広げる雲雀ヶ原を目指して出発していく。

 中村城は別名馬陵城。城跡はその名をとって馬陵公園になり、相馬市民に親しまれている。ここは浜通りでも有数の桜の名所だ。

 中村城跡には中村神社のほかにもう1社、相馬神社があるが、中村神社と相馬神社の関係がいまいち、よくわからなかった…。

 ここで宮城県大崎市の武内さんから電話をもらった。

 2010年の「林道日本一周」のとき、わざわざ秋田県の横手駅前まで来てくれた人。奥さんとお子さんたちと一緒に相馬まで来たとのことで、「一緒に昼食を食べましょう」という。すぐさま『ツーリングマップル東北』に載っている国道6号沿いの「白瀧」で会いましょうと返事する。

 スズキのV-ストロームを走らせ、中村神社から「白龍」へ。そこで武内さん一家と落ち合った。みなさんと一緒の楽しい食事。ぼくは相馬名物の「ほっき飯」を食べた。

 このあと武内さん一家は松川浦へ。松川浦の海辺で、「東日本大震災」の発生した14時46分を迎え、家族全員で黙祷するという。

 武内さん一家と別れ、カソリは「白龍」から国道6号を南下。南相馬市に入ったところで14時46分を迎えた。

 V-ストロームを路肩に停め、1分間の黙祷。その瞬間、神奈川県伊勢原市の自宅にいたときの、1年前のあの揺れの大きさが思い出された。

 M9・0という超巨大地震(M8・0以上は巨大地震、M9・0以上は超巨大地震と呼んで区別している)のすさまじさとでもいうのだろうか、震源地からはるか遠く離れているのに震度5強の強い揺れ。それまでに体験したことのないようなユサユサユサユサとした揺れが長くつづいた。

 あのときの何ともいえない不気味さ、恐怖感が蘇ってくるのだった。

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中村城址の中村神社

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中村神社の神馬

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中村神社の本殿

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相馬神社

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国道6号沿いの「白龍」

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武内さん一家との楽しい食事会

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「ほっき飯」を食べる

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Author: 賀曽利隆
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