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『アフリカよ』ご紹介いただきました。ありがたし。

つんどく速報:20歳浪人生、アフリカ大陸へ行くことにした『アフリカよ 1968-69』

乗るしかないでしょ、このビッグ・ウェーブに!!

ということで、支援Share(やTweet)をいただけますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。

いつか青年カソリの映画がカンヌに出品され、ワタクシもおこぼれでレッドカーペットを歩く気がするんだな。グラマラス女優に手を繋がれてね(妄想)。
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『極限の旅 1971-72』電子書籍版、販売開始!

(管理人より)
いよいよ発売開始となりました。ご吹聴、もしよろしければ支援買いと、何卒、何卒よろしくお願い申し上げます。(まだ「アフリカよ」を読み終わってないって? 積ん読も楽しいですよ~♪w)

カソリ御大からの「電子書籍版あとがき」をもって、宣伝文に代えさせていただきます。



===
『極限の旅』は一九七一年八月から一九七二年九月までの十四ヵ月間に及ぶ「世界一周」を書いたものだが、一番の目的は「サハラ砂漠縦断」だった。

「アフリカ一周」(一九六八年~一九六九年)を終えて日本に帰ったときは、「次はサハラだ!」と心に決めていた。

「アフリカ一周」ではスーダンのカルツームからエジプト国境に近いワジハルファまで、サハラ砂漠東部のヌビア砂漠をバイクで越える計画だった。ところがその自信がなく、バイクともども列車でヌビア砂漠を越えた。

 ヨーロッパから北アフリカのモロッコに戻ったときは、西端のルートでサハラ砂漠を縦断し、西アフリカのダカールまで行くつもりにしていた。しかし、ここでもサハラ砂漠の厚い壁にはね返され、どうしても砂漠に突入することができず、カサブランカからフランス船に乗ってダカールまで行った。

 アフリカを一周したとはいっても、サハラを越えられなかった悔しさがしこりとして残り、「次はサハラだ!」の思いが日に日に強くなっていったのだ。

 当時はバイクでサハラ砂漠を越えた日本人はいなかったこともあって、
「よし、自分がやってやろう!」
という気負いも手伝い、「サハラ砂漠縦断」を一番の目的とした「世界一周計画」をつくり上げた。とはいってもサハラ砂漠のド真ん中でバイクが故障したらどうしよう、道を見失ったらどうしよう…と、不安は尽きなかった。

 何としても自分の手でバイクを修理できるようにしなくてはいけないと、町の修理屋さんで一年間、仕事をさせてもらった。従業員がぼく一人というような店なので、何でもかんでもやらせてもらった。それがどれだけプラスになったことか。

 それと同時に「サハラ砂漠縦断」を想定しての走行訓練もはじめた。砂道を走るためには荷物をギリギリまで削って軽くしなくてはならない。その荷物もバイクにくくりつけるのではなく、ザックに入れて背負った方がいいと考えた。その走行に慣れるためにザックに二〇キロとか三〇キロの石を入れて背負い、遠州灘の砂浜を走ったり、本州中央部の峠道を走った。

 サハラにはこのように強い思い入れがあったので、ナイジェリアのラゴスからアルジェリアのアルジェまでのサハラ砂漠縦断を成しとげると、
「サハラはまだまだこんなものではないぞ」
という気分でさらにヒッチハイクでのサハラ砂漠縦断に旅立った。

 バイクでのサハラ砂漠縦断、ヒッチハイクでのサハラ砂漠縦断、これが本書の核心部になっている。

 あれから四〇年、サハラは一日としてぼくの頭を離れたことはない。一望千里の砂漠の風景がいつも目に浮かぶ。「サハラ命!」のカソリなのである。


二〇一三年五月二十七日



賀曽利 隆


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『極限の旅』(山と渓谷社、1973年)その2

 日本郵船のカラチ代理店に問い合わせると、長良丸の入港は予定よりもだいぶ遅れ、九月上旬になるという。ガッカリしたが、そうとわかればカラチなどにいることはできない。私にとって、都市ほど無味乾燥なところはないからだ。さっそく地面いっぱいに地図を広げ、あれこれとプランを練る。
 だが、その日の午後突然不幸がやってきた。激しい下痢に襲われたのである。痛みはあまりないのだが、すこしでも水を飲んだり、食べたりすると三十分とはもたない。五日、十日と過ぎてもちっともよくならず、結局二十九日間続いた。その間の毎日は、たまらなく苦しい日々であった。
 バスのターミナル近くにたむろしている闇屋を相手に、ドルをルピーに交換すると、私はカラチを離れた。まずは、タール砂漠が見えるところに行くことにした。
 バスは、スーパー・ハイウェイを一〇〇キロ以上のスピードで突っ走る。かさかさに乾いた荒涼とした原野が矢のように飛び去って行く。
 終点のミルプールカスという町に着いたのは真夜中。夜が明けると、町の人をつかまえては、「あのーすみませんがどこに行ったらタール砂漠を見ることができるでしょうか?」と聞いてまわった。私に聞かれた人たちは、なに馬鹿なことをいってるんだろうと思ったに違いない。しかし、それでも皆、ああだこうだと、熱心に教えてくれる。
 キプロという村でバスを降り、一本道を歩いた。日ざしが強い。綿花畑の道を歩いていると、ありがたいことに、自転車に乗った若い人が後ろに乗せてくれた。
 インダス川から引いた一番東の運河を越えると、景色はいっぺんに変わり、緑はみるみるうちにうすれていく。正面には大きな砂丘があり、その麓にひっそりと部落があった。風紋の美しい砂丘の斜面をかけ登り、一番高いところに上った。ゆるやかに波打つ砂丘がはてしなく続き、地を這うような背の低い木々が、ぽつんぽつんと生えていた。

 私の今回の旅は砂漠が中心であった。このタール砂漠にはじまり、バルチスタン砂漠、西アジアの砂漠、アラビア砂漠、スーダンの砂漠、サハラ砂漠と……。アメリカに渡ってからも、ブラックロック砂漠、グレートソルトレーク砂漠、モハーベ砂漠、ヒラ砂漠、ユマ砂漠と、砂漠ばかりを追った。
 サハラ砂漠のあのとてつもない大きさ、すさまじい勢いで地を這っていく砂の流れ。厳粛な儀式を思わせる日の出、日没。火のように熱く焼けた砂の上を歩き続けた日々、そんなサハラでの思い出がたまらない。
 すべてのものを拒み、あいまいさを絶対に許さない厳しさ、気温の日較差が四十度にもなろうかという砂漠特有の厳しい自然風土に、私は強烈にひかれるものがある。


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『極限の旅』(山と渓谷社、1973年)その1

『極限の旅』賀曽利隆(山と渓谷社、1973年)「現代の旅」シリーズ

第一章 下痢と事故と神様と(アジア)Rangoon→Jiddah

長良丸は遅れる
 この前の旅は、一九六八年四月に出て、翌年十二月までの約二十ヵ月間、オートバイでアフリカを一周し、アフリカ三十四ヵ国をまわった。泥と汗にまみれ、疲れきって、いつも空腹感にさいなまれるといった、ギリギリの旅であったが、その毎日はすばらしく、すっかりアフリカのとりこになってしまった。
 だが、そのときは、資金不足と、私自身の未経験さもあって、サハラ砂漠にはほとんど足を踏み入れることができなかった。一九六九年十二月に日本に帰ったが、それ以来ずっとサハラが頭から離れず、サハラ砂漠を最大の目的とした世界一周計画を作り、全精力を注ぎ込んで計画の実現と成功を目指した。
 二年近い歳月を費やし資料を集め、ルートを練り、バイトで資金を作りながら、オートバイでサハラを越える訓練を続ける。そして使うオートバイを、荒地走行用のハスラー・スズキTS二五〇Ⅲ型と決め、一九七一年七月二十八日に横浜を出航した日本郵船の貨物船、長良丸でハスラーをパキスタンのカラチに送る。長良丸のカラチ入港予定は八月二十四日で、私はそれに合わせてカラチにたどりついた。

 ビルマのラングーンから、インド、ネパールと、無理に無理を重ねた野宿を続けてきたので、パキスタンのカラチに着いたときは、疲れきってぐったりしていた。とにかく一晩熟睡したくて、路地裏のうす汚れた食堂で腹ごしらえをし、安宿を求めてさまよった。
 回教のモスク近くに、四ルピー(約一二〇円)のホテルがあって個室になっており、ベッドのほかにイスと机もある。そのホテルで一晩泊まることにしたが、まさか一晩中一睡もできなくなろうとは夢にも思わなかった。 
 そこは南京虫の巣窟であった。ウトウトしたなと思ったらやられ、また、ウトウトしたなと思ったらやられる。寝られたものではない。あまりのひどさにベッドをあきらめ、机の上に寝袋を敷いた。だが、またしてもやられ、それではと、最後に汚らしい床の上で寝た。それほどまでに涙ぐましい努力をしたのに結果は同じであった。いったいどこにこんなにたくさんの南京虫がいるんだろうと不思議であった。体じゅう、とくに腕とももがひどく、ぼりぼりとかきむしりながら、まんじりともせず一夜を明かした。かゆくてかゆくて気が狂いそうであった。
 私は、虫になさけないほど弱い。これは体質なのかもしれないが、この前アフリカを旅したときも、蚊、しらみ、のみ、南京虫、ブヨ、さらには得体の知れない虫と、気のやすまるひまもないほどやられ続けた。
 カラチからはハスラーとの旅がはじまるので、気分をさっぱりさせるため、「南京虫の巣窟ホテル」の前にある露店床屋に行った。床屋のおやじさんは小柄でおもしろい人。彼は私の顔を穴があくほどみつめると、だしぬけに「あんたはギルギット(パキスタン領カシミール)から来たのかね」と聞いた。「ちがうよ、日本から」「へえー! てっきりカシミールからだと思ったよ」と、いかにもびっくりしたといわんばかりの顔つき。
 ぼうぼうに伸びた髪を刈って、ひげをきれいにそって、そのあとで眠くなるほど気持ちよくマッサージしてくれ、それでたったの一ルピー(約三〇円)。同じ床屋なのに、どうしてこうも違うのだろう。日本の一回分で二十数回はできる勘定だ。


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『極限の旅 1971-72』準備完了!

(管理人)

時間がかかってしまいましたが、ようやく『極限の旅』電子書籍版が手元を離れました。

電子編集作業に限って言えば『アフリカよ』が極限状態だったので、まぁ、苦労はしましたが2冊目でスムーズにいったところの方が印象にあります。

あさってくらいには無事に刊行開始されていると思います。
読者諸賢、ここ2日くらいでなにとぞビールを1・5缶ほど我慢していただき、ご吹聴ならびに支援買いをいただけますよう、なにとぞお願い申し上げます。読みながら、おいしくビールも飲めますし(笑)。

発売記念期間としまして、当ブログでは再掲になるのですが、『極限の旅』第1章を再連載させていただきます(テキストは初版に基づく状態のもので、今回の電子書籍版とは少し異なるところもあるかもしれないものです。予めご了承ください)。

管理人 拝

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(57)

 7月17日。唐桑半島の国民宿舎「からくわ荘」では夜明けとともに起き、1時間ほどかけて唐桑半島最南端の御崎を歩いた。

 御崎には御崎神社が祭られ、そこから先は自然遊歩道になっている。岬突端への小道はうっそうと茂るタブやツバキなどの照葉樹林に覆われている。黒潮の影響で、このあたりまで暖地性の照葉樹林が北に延びてきているのだ。

 小道のわきには苔むした鯨塚を見る。かつてはこの一帯では、供養塔の塚を建てるほど鯨を捕ったのだろう。

 灯台の先には黒色粘板岩の岩場が、幅30メートル、長さ100メートルにわたって海に突き出ている。「八艘曳」と呼ばれる岩場で、御崎神社の祭神が8艘の船を従えてこの岩に上陸したという。まさにこの地は「御崎」なのだ。

「からくわ荘」に戻ると朝湯にどっぷりつかる。
「う~ん、気持いい!」

 湯から上がると朝食だ。復興事業の作業員が多く泊まっているので、朝早くから朝食を食べられるのがありがたい。サケ、海苔、煮物、サラダ、漬物という朝食を食べた。ご飯がうまい!

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御崎神社の大鳥居

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御崎神社を参拝

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御崎の「八艘曳」

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御崎から見る太平洋

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「からくわ荘」の朝湯に入る

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「からくわ荘」の朝食を食べる

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(56)

 鮎川に戻ると県道2号→県道41号で女川へ。高台上の病院の駐車場から大津波で全滅した女川の町を見下ろした。瓦礫はきれいに撤去され、人気スポットの「マリンパル」もすでに取り壊されて跡形もない。その中にひっくり返ったビルだけが残っていた。

 女川から国道398号で雄勝へ。
「雄勝」は宮城県の雄勝が「おがつ」、秋田県の雄勝が「おがち」と読むのだが、いつも混同してしまう。。

 まあ、それは置いて、合併して石巻市になった雄勝はまるで見捨てられてしまったかのようだ。大津波で全壊した町跡に復興のきざしは全く見えない。雄勝を襲った大津波のシンボル的存在だった、公民館の屋上に乗り上げたバスは地面に下ろされていた。

 雄勝から釜谷峠のトンネルを抜け出ると、北上川にかかる新北上大橋へと下っていく。橋の一部が落下して長い間、通行止めのつづいた新北上大橋は通行可。落下部分には仮橋ができている。

 この新北上大橋手前の右手に多数の生徒や先生が亡くなった大川小学校がある。V-ストロームを止め、花束などの供えられた慰霊塔に手を合わせた。

 大川小学校の悲劇は、大津波をまったく想定していなかったところにある。津波の非難訓練をし、避難場所を決めておいたら、悲劇は防げたという声をよく聞く。巨大地震のあと、高台に避難する時間は十分にあった。

 しかし、「ここまで大津波が押し寄せて来ることはないだろう」と誰もが思っていたので避難が遅れた。ここは北上川の河口から5キロも離れている。海からは遠い。

 そんな大川小学校で、東日本大震災1年後の、3・11の雪の宮古で助けられたkoshiさんに出会った。「いやいや」でしばらくはあの時の「雪道談義」。koshiさんとは南三陸町まで一緒に走った。

 南三陸町では「300日3000湯」で一緒に温泉めぐりをした「温泉大好き人間」ののらさんに出会った。仕事の休みというと車を走らせて東北各地の温泉をめぐっているのらさんには、どれだけ教えてもらったことか。

 南三陸町からは国道45号を北上。気仙沼に到着すると漁港周辺を見てまわり、県道26号で石割峠を越え、唐桑半島に入っていく。
 巨釜、半造の海岸美を見、半島南端の御崎へ。

 御崎にある国民宿舎「からくわ荘」に泊まった。以前は「おー!」と声が出るほど豪華な海鮮料理で知られていたが、震災以降は比べようもない。それでも夕食には煮物、酢の物、揚げ物などと一緒に刺身の盛合わせと焼き魚が出た。

「からくわ荘」は岬の高台上にあるので大津波にやられることはなかった。震災後も早々と営業を再開し、復興事業の関係者たちの貴重な宿になってきた。この日もほぼ満員。飛び込みで行ったのにもかかわらず、幸運にも泊まれた。

 ラッキー!
 これも「カソリ流・旅の仕方」!? 
 いつものことだけど、旅は出たとこ勝負の連続だ。


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かつての女川の中心街

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女川の瓦礫は撤去されていた

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大川小学校

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koshiさんとの出会い

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北上川の河口周辺

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国民宿舎「からくわ荘

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「からくわ荘」の夕食

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(55)

 石巻から県道2号で牡鹿半島に入っていく。牡鹿半島の浦々はどこも大きな被害を受けたが、瓦礫はすでに撤去され、漁港の岸壁もかさ上げされているところが多い。

 そのうちのひとつ、月浦は慶長18年(1613年)、伊達政宗の命を受けた支倉常長の一行がローマに向けて船出した地。高台には支倉常長像と航海碑が建っている。そのすぐ脇には小規模な仮設住宅ができていた。

 牡鹿半島の中心、鮎川に到着。港は大津波で破壊され、金華山への観光船のターミナルビルは無惨な姿をさらしたままだ。だがここでも岸壁はすでにかさ上げされていた。そんな鮎川港にV-ストロームを止め、岸壁に座り込んでの昼食。「初音旅館」の女将さんがつくってくれた握り飯を食べた。これがうまいのだ。

 そのあと完成して間もない仮設の商店街、「おしかのれん街」を歩く。ここでは「300日3000湯」のときに何度となく出会ったホリゴメさんとうれしい再会。ホリゴメさんは仙台からホンダFTR223を走らせ、駆けつけて来てくれた。

 ホリゴメさんとカンコーヒーを飲みながらしばしの歓談の後、鮎川から牡鹿半島の突端に向かっていく。半島南端の黒崎への道はないので、高台上の御番所公園へ。そこから網地島と田代島を眺めた。つづいて金華山を眺めた。

 金華山を目の前にする山鳥渡からコバルトラインに入った。震災からすでに1年4ヵ月たっているのに、コバルトラインの南側半分はいまだに通行止めのまま。ツーリングライダーには人気のコバルトラインなだけに残念だ。

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牡鹿半島の小さな漁村。岸壁はかさ上げされている

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漁も始まっている

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鮎川港の船乗り場。網地島、田代島への船が出る

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鮎川港を一望

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「初音旅館」の女将さんがつくってくれたおにぎり

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鮎川の仮設市場

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うれしいホリゴメさんとの出会い

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コバルトラインの南側は通行止め

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(54)

 東鳴子温泉「初音旅館」の女将さんと若旦那に見送られて出発。一緒に泊まった古山夫妻とは「初音旅館」を出たところで別れた。2人は北へ、カソリは南へ。

 スズキの650ccバイク、V-ストロームを走らせ、国道47号で古川に向かう。その途中、岩出山手前の「あ・ら・伊達な道の駅」で止まった。ここは人気の道の駅。平日にもかかわらず、駐車場は満車状態で大勢の人たちで混み合っていた。

 岩出山は伊達政宗が最初に城を築いた町。城跡には政宗の銅像が建っている。

 古川に着くと「初音旅館」の女将さんの生まれ育った町をぐるりとひと回りした。そして国道108号で石巻へ。

 石巻に到着するとまずは日和山に登り、日和山公園の展望台から旧北上川の河口と石巻漁港を見下ろした。日和山からの眺めを目に焼き付けたところで、石巻漁港へとV-ストロームを走らせた。

 遅々として復興の進まなかった石巻漁港とその周辺だが、やっと動き出した。漁港の岸壁はかさ上げされ、漁船が接岸している。仮設の魚市場も完成した。

 東北太平洋岸有数の漁港、石巻港が復興すれば、石巻の町全体が活気づく。1日も早い復興を願うばかりだ。そのときはきっと市場食堂も再開されることだろう。

 震災前の石巻漁港の市場食堂、「斉太郎食堂」はほんとうによかった。早朝から営業していた。客の大半は魚市場の関係者。メニューは多彩で料金は安く、ボリュームも満点。魚介類の新鮮さは群を抜いていた。ゆったり気分で食べられる食堂で、三陸の「海の幸」を味わいながら漁業関係者の会話をそれとなく聞くのが大きな楽しみだった。

 石巻漁港の岸壁で海を見ていると、震災前の石巻漁港の賑わいがよみがえってくる。カツオの水揚げのシーンは忘れらない。ここは気仙沼漁港と並び、日本でも一、二のカツオの水揚げ量を誇る漁港だった。

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「初音旅館」を出発

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「あ・ら・伊達な道の駅」

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「あ・ら・伊達な道の駅」は賑わっている

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石巻漁港の仮設魚市場

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石巻漁港の海を見る

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石巻漁港でのカツオの水揚げシーン(2004年8月5日撮影)

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石巻漁港に水揚げされたカツオ(2004年8月5日撮影)

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石巻漁港の「斉太郎食堂」で食べたカツオの刺身(2004年8月5日撮影)

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(53)

 7月16日。東鳴子温泉「初音旅館」の夜明け。目をさますとすぐに温泉に入る。この寝起きの湯はたまらない。温泉の成分が一気に体中にしみこんでいくかのようだ。

 湯から上がると、東鳴子温泉を歩くことにする。

 国道47号の旧道沿いに温泉宿が建ち並んでいる。
 空をツバメが飛んでいる。

「初音旅館」は駅前温泉。目の前がJR陸羽東線の鳴子御殿湯駅だ。駅舎に入り、ホームを歩いた。東鳴子温泉というのはこの鳴子御殿湯駅周辺の田中温泉、新田中温泉、赤湯温泉、新赤湯温泉などの総称。大温泉地の鳴子温泉と違ってこじんまりとした温泉地。素朴さの漂う田園地帯の温泉、それが東鳴子温泉の魅力になっている。

 旧道沿いの温泉街から新道の国道47号をまたぎ、荒雄川の河原に出る。鬼首の荒雄岳を源とする荒雄川は中流の岩出山あたりで江合川と名前を変え、最後は旧北上川に合流し、石巻で海に流れ出る。中流から下流にかけては大平野を造り出し、東北有数の水田地帯になっている。

 1時間ほど東鳴子温泉を歩き、「初音旅館」に戻った。
 さー、朝食だ。

 干物や目玉焼き、胡麻豆腐などをおかずに三杯飯を食べる。何しろ、ご飯がおいしいので、いくらでも食べられる。朝食のあとは、お茶を飲みながら、女将さんの話を聞いた。女将さんの生まれ故郷は大崎市の中心の古川。旧鳴子町も合併して今では大崎市の一部になっている。女将さんの青春時代を過ごした古川の話を聞くのが、「初音旅館」に泊まったときのぼくの大きな楽しみなのだ。

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東鳴子温泉「初音旅館」

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国道47号の旧道

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鳴子御殿駅

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鳴子御殿駅のホーム

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東鳴子温泉の温泉街

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東鳴子温泉を流れる荒雄川

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「初音旅館」の朝食

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『アフリカよ 1968-69 過剰な電子写真集』第一部(カラー写真編)、リリースです。



おしつけがましいようで本当に恐縮なのですが(インターネットでの課金のハードルって、いろいろな意味でやっぱり高いですしね)、カソリ+管理人積年のプロジェクトがようやく日の目を見ました。

コンテンツ容量が15MBもあり、諸般の事情で事実上の最低設定価格がこれなのです。
ご海容いただき、引き続きご支援、ご鞭撻、ご教示いただけますと幸いです。

(告知ホームページで今回の写真集製作の詳細をお伝えしたいところですが、現時点で着手できそうにありませんorz 1~2週間お時間をいただきたく・・・。)

なお、第二部はモノクロになる予定です。全二部で完結。
その後『極限の旅』までは早めにリリースさせていただきたいと考えています。何卒!

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(52)

 仙台港のフェリーターミナルに到着したのは13時30分。名古屋行きが出た後なので、フェリーターミナルはガラーンとしていた。苫小牧行きの乗船受付は16時からなので、北海道に向かう乗客はまだ来ていない。

 誰もいない待合室でしばし北海道に夢を馳せると、これまた誰もいないレストランでカレーライス(550円)を食べた。

 ぼくは駅の待合室は大好きだが、フェリーの待合室もいいものだ。

 仙台港を出発。スズキのV-ストロームを走らせ、多賀城からは国道45号を行く。塩竃では陸奥国の一宮、塩竃神社を参拝する。ここは全国にある塩竃神社の総本社。急な石段を上り、豪壮な造りの随身門をくぐり、拝殿・本殿を参拝。

 向かって右側が左宮、左側が右宮になっている。左宮は武甕槌神、右宮は経津主神をまつっている。本殿右手の別宮は塩土老翁神をまつっている。これら3神が塩竃神社の祭神だ。つづいて同じ境内にある志波彦神社を参拝。こちらも塩竃神社に負けない歴史を持っている。

 塩竃は塩竃神社の門前町、多賀城に置かれた陸奥国の国府の外港として発展した町だ。

 塩竃の次は「日本三景」の松島。ここでは国宝の瑞巌寺を参拝する。東北地方の国宝の建造物というと、平泉の中尊寺の金色堂と羽黒山の五重塔、仙台の大崎八幡宮、それといわき市の白水阿弥陀堂しかない。

 松島からは県道27号で東松島市の東名へ。ここは大きな被害を受けた所だが、大津波は松島湾側からではなく、石巻湾側からのもので、野蒜海岸の堤防を越えて押し寄せてきた。カキ養殖の盛んな東名の漁港まで行くと、港のすぐ脇の赤い鳥居が残っていた。ここでも「鳥居」のすごさを見せつけられた。

 大津波で破壊されたJR仙石線の野蒜駅前を通り、鳴瀬川の堤防上を走り、国道45号に合流。鳴瀬川を渡り、航空自衛隊の松島基地を右手に見ながら東松島市の中心、矢本の町に入っていく。そのまま石巻へと町並みがつづいている。

 石巻に到着すると、日和山から旧北上川の河口一帯を見下ろした。
 石巻でいったん太平洋岸を離れ、国道108号で内陸の古川(大崎市)へ。

 古川からは国道47号で東鳴子温泉に行き、カソリの常宿といっていい「初音旅館」に泊まった。女将さん、若旦那とのうれしい再会。さらに東北ツーリングの最中の古山夫妻も待ち構えてくれていた。古山夫妻も「初音旅館」に泊まるという。

「これぞ東鳴子温泉!」の黒湯に入り、湯から上がると、まずはビール。そのあと夕食をいただく。酢味噌で食べる鯉の洗い、鯉の甘露煮がうまい。ホタテと菊の花、キューリの酢の物や豚肉の煮物、山菜料理を食べながら地酒の「友酔」を飲む。

 夕食後は古山夫妻との「初音宴会」の開始だ。

『ツーリングマップル』を見ながら「友酔」を飲む。『ツーリングマップル』には異様なほどの興味を示す古山夫人なので、「初音宴会」は大盛上がり。気がつくと日付が変わっていた。いや~、飲みすぎた~。

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仙台港フェリーターミナルの「カレーライス」

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塩竃神社の随身門

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塩竃神社の拝殿

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国道45号で松島に到着

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東名の東名運河

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大津波にも耐えて残った東名の鳥居

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東松島市から石巻市に入る

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東鳴子温泉の「初音旅館」

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「初音旅館」の黒湯に入る

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「初音旅館」の夕食

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賀曽利隆プロフィール・2013年5月アップデート版

賀曽利 隆(かそり たかし)

1947年、東京都中野区に生まれる。
1968年から2年間をかけてアフリカ大陸を一周したのを皮切りに、アジア、ヨーロッパ、オーストラリア、北アメリカ、南アメリカと、バイクで世界の6大陸を駆けめぐる。

1968年~69年、「アフリカ一周」
1971年~72年、「世界一周」
1973年~74年、「六大陸周遊」
1975年に結婚。
1977年~78年、「シベリア横断→サハラ縦断」(子連れ旅)
1978年、「30代編日本一周」
1980年、「キリマンジャロ」(バイクでの挑戦)
1982年、「パリ→ダカールラリー」(日本人ライダー初の参戦)
1984年~85年、「南米一周」
1987年~88年、「サハラ砂漠往復縦断」
1989年、「40代編日本一周」
1990年、「50ccバイク世界一周」
1992年~93年、「インドシナ一周」
1994年、「タクラマカン砂漠一周」
1996年、「オーストラリア2周7万2000キロ」
1997年、「モンゴル3000キロ」
1999年、「50代編日本一周」
1999年、「チベット・ラサ→カイラス往復」
2000年、「サハリン縦断」
2000年、「韓国一周」
2001年、「ソウル発の北朝鮮ツーリング」
2002年、「ユーラシア大陸横断」
2003年、「中国・北朝鮮国境走破行」
2004年、「中国・東北部走破行」(旧満州走破行)
2005年、「サハラ砂漠縦断」
2005年、「韓国縦断」
2006年、「シルクロ-ド横断」
2006年~07年、「300日3000湯」(ギネスの世界記録)
2007年~08年、「南米・アンデス縦断」
2008年~09年、「60代編日本一周」
2009年、「チベット横断」&「広州→上海」
2010年、「林道日本一周」
2011年、「環日本海ツーリング」
2012年、「ニュージランド南島」&「マダガスカル」

2013年1月1日現在までの日本&世界を旅した日数は6735日(約18年6ヵ月分)、バイクで走った距離は135万6830キロ(地球約34周分)、旅した国は135ヵ国になる。
モットーは「生涯旅人!」。神奈川県伊勢原市に在住。1男2女の父。

主な著書として:
「アフリカよ」(浪漫、1973年)
「極限の旅」(山と渓谷社、1973年)
「歩いて出会って六大陸」(NHK出版、1975年)
「貧乏ツーリングBIBLE!」(光文社、1986年)
「爆走! SAHARA」(講談社、1989年)
「50ccバイク日本一周2万キロ」(JTB、1990年)
「50ccバイク世界一周2万5千キロ」(JTB、1992年)
「バイクで駆けるインドシナ1万キロ」(JTB、1994年)
「海外ツーリング完全ガイド」(イーストプレス、1994年)
「地球食べある記」(三一書房、1996年)
「世界を駆けるゾ!20代編」(フィールド出版、1999年)
「世界を駆けるゾ! 30代編」(フィールド出版、2000年)
「日本一周バイク旅4万キロ上下巻」(昭文社、2000年)
「旅の鉄人・カソリの激走30年」(JTB)
「世界を駆けるゾ! 40代編・上下巻」(フィールド出版、2000年)
「バイクで駆ける韓国3000キロ」(JTB、2001年)
「50ccバイクで島の温泉日本一周」(小学館、2005年)
「300日3000湯めぐり日本一周・上下巻」(昭文社、2008年)

GW後半、スペシャル動画(『アフリカよ』電子書籍新版発売記念インタビュー)

GW後半も仕事(私事?)に邁進している管理人ですorz
ご笑覧ください!

賀曽利隆『アフリカよ 1968-69 [電子書籍新版]』発売記念インタビュー(前半)

http://youtu.be/ggO8K8KfQ48


賀曽利隆『アフリカよ 1968-69 [電子書籍新版]』発売記念インタビュー(後半)

http://youtu.be/7AabfQm1Hi8

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(51)

 国道6号で福島県から宮城県に入ると山元を通り、亘理へ。

 ここではJR常磐線亘理駅前にある郷土資料館(入館料200円)を見学。城を模した遠くからでも目につく建物。

 館内の「亘理伊達家(伊達支藩)」のコーナーは興味深い。亘理は陸前浜街道の宿場町であるのと同時に、伊達成実がこの地に入って以来の城下町。戊辰戦争では朝敵とされ、藩主の伊達邦成や家臣たちは北海道に逃げるようにして移住した。

 その亘理伊達家の開拓したのが伊達紋別(伊達市)。「亘理伊達家」のコーナーではその歴史を目で見ることができる。

 亘理からは県道10号を行く。
 阿武隈川河口の潟湖、鳥の海に寄っていく。

 北岸の荒浜は阿武隈川の水運でおおいに栄えた。江戸時代、伊達藩はここから米を江戸に送った。伊達政宗が造ったといわれる太平洋岸の運河、貞山堀も、仙台から荒浜に通じるものだ。伊達藩はさらに荒浜の一帯を製塩地帯にし、最盛期には百数十もの塩田があったという。

 そんな荒浜も大津波では大きな被害を受けた。温泉施設の「鳥の海」も閉鎖されたまま。「鳥の海」の前には瓦礫がうず高く積み上げられていた。

 漁を再開した荒浜漁港の前には「鳥の海ふれあい市場」がオープン。そこでは荒浜漁港に水揚げされた魚介類などが売られている。「しゃこめし弁当」(680円)も売られている。これがうまい。飯にシャコの味がほどよくしみ込んでいる。

「しゃこめし弁当」を食べていると、ホンダのNC700Xに乗ったライダーがやってきた。何と「300日3000湯」の温泉めぐりのときに出会ったyoshiさんではないか。北海道を3000キロ走ってきたとのことで、第一声は「いやー、北海道は寒かった!」。苫小牧からフェリーで仙台に渡り、これから東京を目指して走るという。

 yoshiさんと別れ、荒浜を出発。県道10号を走り、塩竃へ。その途中ではもうひとつの荒浜に寄った。ここは仙台市若林区の荒浜。亘理町の荒浜同様、大津波で全壊し、大きな被害を出した所だ。

 東日本大震災の2011年3月11日、家にいたぼくは巨大地震の発生後、テレビの画面に釘付けだった。次々に大津波による被害の情報がもたらされる中で、ものすごいショックを受けたのは「浜に200人ほどの死体が打ち上げられている」というニュースが流れた時だ。「これはとんでもない災害になってしまった…」と実感したが、それが荒浜だった。

 県道10号を右折し、貞山堀を渡ったところでV-ストロームを停め、荒浜を歩いた。海岸に出ると、太平洋に向かって手を合わせている若い女性の姿が目に入った。泣いているように見えた。家族を失った人のようだ。合掌したままの格好で、じっと立ちつくしている若い女性の姿が強烈に目の底に残った。

 荒浜からは県道10号をさらに北へと走る。七北田川を渡り、仙台港のフェリーターミナル前でV-ストロームを止めた。

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亘理の郷土資料館

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亘理町の荒浜漁港

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「鳥の海ふれあい市場」

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yoshiさんとの出会い

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仙台市の荒浜

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荒浜の慰霊碑

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仙台港のフェリーターミナル

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