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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(63)

 7月18日6時、八戸駅前の「東横イン」を出発。天気は快晴。抜けるような青空が広がっている。

 駅近くのマックで朝食を食べ、スズキの650ccバイク、V-ストロームを走らせ、国道45号で八戸道終点の八戸北ICへ。ここで東北道→八戸道と高速道を一直線に走ってきたカメラマンの巣山さんと落ち合った。

「いい天気で。よかったですねえ」
 これが巣山さんの第一声。2013年版の『ツーリングマップル東北』の表紙写真や小冊子のモロモロの写真を撮ってくれる巣山さんにとっては、快晴の青空は何よりもうれしいことなのだ。

 巣山さんと八戸北IC前の駐車場で『ツーリングマップル』を見ながらプランニングをしていると、1台のオフロードバイクがやってきた。ホンダのXR250Rに乗った馬渡さん。10何年ぶりの再会だ。

 馬渡さんはキャンプ仲間。何度か一緒にキャンプツーリングをしたことがある。そんな馬渡さんが首都圏から故郷の八戸に戻ったのは10年以上も前のことだ。
「今日はどうしてもカソリさんに会いたかったんですよ!」
 といって、出勤前に八戸北ICまで来てくれた。

 馬渡さんとひとしきり思い出を話し、握手して別れ、下北半島突端の尻屋崎を目指して出発。八戸北ICからは国道45号→国道338号で下北半島に入っていく。

 三沢を過ぎ、尻屋崎まであと100キロの地点を通過。3・11(東日本大震災)の1年後にV-ストロームで走った「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、この地点で猛吹雪のために撤退。東北の自然の厳しさをいやというほど思い知らされた。それだけに「尻屋崎まであと100キロ」の地点を通過したときはグググッと胸に迫ってくるものがあった。

 ラムサール条約登録地の仏沼や小川原湖から流れ出る高瀬川を見たあと、六ヶ所村から東通村に入っていく。物見崎が村境。岬の突端には灯台が立っている。そこから南側は連続する断崖の風景、北側は活況を見せる白糠漁港と、岬をはさんでの南と北ではガラリと風景が変わる。

 国道338号から尻屋崎へ県道248号を走る。下北半島特産のヒバ林の中を行く。V-ストロームを走らせながら、ほのかに漂うヒバの香をかぐ。これがバイク旅の良さというもの。五感を鋭くさせてバイクを走らせながら、その土地特有の匂いをかぐことができるのだ。

 最後は県道6号で津軽海峡沿いに走る。対岸の北海道がはっきりと見えている。そして岩屋を通り、下北半島北東端の尻屋崎に到着。ゲートを過ぎると「寒立馬」のお出迎え。尻屋崎は東北太平洋岸最北の地でもある。

 これで3・11で敗退した「鵜ノ子岬→尻屋崎」のリベンジを果たしたことになる。尻屋埼灯台の前にV-ストロームを停めるとカソリ、
「やったー!」
 と、雄叫びを上げてガッツポーズ。尻屋崎の海と空の抜けるような青さが目に残った。

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八戸駅前の「東横イン」を出発

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八戸の「マクドナルド」で朝食

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八戸から国道45号を行く

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八戸道の八戸北IC

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物見崎の白糠漁港

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「やったー!」。尻屋崎に到着!

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(62)

 重茂半島から国道45号に出ると、宮古湾を見ながら走り、宮古に到着。時間は18時。東日本大震災1年後の「鵜ノ子岬→尻屋崎」では、宮古を過ぎると、雪とアイスバーンにさんざん泣かされた。恐怖のナイトランのシーンが思い出されてならなかった。

 そんな恐怖感を振り払うかのように、
「さー、いくぞ!」
 と、Vストロームに声をかけて走り出す。

 宮古からは田老、小本と通り、20時、久慈に到着。国道45号沿いの食堂「おおみ屋」で夕食にする。アイナメの「焼き魚定食」を食べた。

 久慈出発は21時。国道45号のナイトランはつづく。V-ストロームのライトが明るいので助かる。
 岩手県から青森県に入り、22時、八戸到着。
 八戸駅前の「東横イン」に泊まった。

 まずはコインランドリーで洗濯をする。八戸ではカメラマンの巣山さんと落ち合い、『ツーリングマップル』の表紙撮影などが予定されている。すこしでもゴールドウインのウエアを綺麗に見せようというカソリの涙ぐましい努力!

 洗濯を終えると風呂に入り、湯から上がると、真夜中のカンビール。好物のポテトチップスをパリパリ食べながら、2本目、そして3本目のカンビールを飲み干すのだった。

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宮古湾の小さな漁港で

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波静かな宮古湾

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宮古に到着。セルフのGSで給油

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久慈の「おおみ屋食堂」

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「おうみ屋食堂」の「焼き魚定食」

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八戸駅前の「東横イン」

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(61)

 山田からは「日本の秘境」の重茂半島に入っていく。

 本州最東端の岬、トドヶ崎への入口が姉吉漁港。ここは今回の平成三陸大津波で38・9メートルという最大波高を記録した所。漁港は大津波に飲み込まれ、大きな被害を受けたが、姉吉の集落は無傷で残った。

 姉吉にも「大津波記念碑」が建っているが、それには「ここより下に家を建てるな!」と書かれている。

 明治三陸大津波、昭和三陸大津波で集落が全滅した姉吉は、その「津波記念碑」の教えをしっかりと守った。昭和三陸大津波以降、すべての家が「大津波記念碑」よりも上に建てられたので、今回の高さ40メートルという巨大な壁のような大津波に襲われても、1軒の家も流されることはなかった。

 姉吉漁港から遊歩道の山道を1時間ほど歩くと本州最東端のトドヶ崎に出る。その間の道標はしっかりとしている。地震によって崩れた箇所は一か所もなかった。

 トドヶ崎に到着すると、東北一のノッポ灯台が目に飛び込んでくる。灯台の白さが目にしみる。灯台から岬の岩場を歩いたところに「本州最東端」の碑が建っている。目の前の太平洋の水平線上を北海道方向へ、白いフェリーが行く。

 名残おしいトドヶ崎だったが、岬をあとにし、姉吉漁港に戻った。そして重茂半島をグルリとまわり、国道45号に出た。

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山田の町並み

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姉吉漁港に到着

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トドヶ崎への道の入口

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トドヶ崎への道標

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トドヶ崎の灯台

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トドヶ崎の「本州最東端碑」

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トドヶ崎からの眺め

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姉吉の「大津波記念碑」

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ジャンル : 車・バイク

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(60)

 大船渡からは国道45号を北上。釜石を通り、鵜住居へ。ここまでが釜石市になる。

 鵜住居は釜石市最大の被災地。ここだけで1000人もの犠牲者を出した。悲劇だったのは、津波の避難訓練に使われていた鵜住居地区防災センターに避難した100人以上もの人たちが亡くなったことだ。その防災センターは廃墟と化した町並みの中にポツンと残っていた。

 釜石市から大槌町に入る。ここでは1300人が犠牲になった。すさまじい数字だ。

 大槌町から山田町に入る。山田も大津波に襲われて大きな被害を受け、700人以上もの犠牲者が出た。

 鵜住居、大槌、山田と、三陸海岸のこの狭いエリアだけで3000人以上もの命が奪われた。鵜住居から山田まではわずか20キロほど。V-ストロームで走れば30分もかからない距離だ。

 ところで大津波に襲われて壊滅的な被害を受けた大槌町と山田町だが、隣合ったこの2つの町には大きな違いがある。大槌は町役場が津波の直撃を受けて全壊。町長をはじめ町役場の職員の多くが亡くなった。それに対して山田は町自体は大槌同様全滅したものの、高台にある町役場は残った。司令塔を失った大槌と司令塔の残った山田、この隣合った2つの町はあまりにも対照的だ。


(※管理人注:以下、原稿(26)と内容重複してますが、いまカソリ氏取材中&大事なことなので重複してもいいか、という判断で、以下、原稿ママでお送りします。)


 山田の町役場の隣には八幡宮があり、参道の入口には「津波記念碑」が建っている。それは1933年3月3日の昭和三陸大津波の後に建てられたもの。

 山田の「津波記念碑」には次のように書かれている。
  1、大地震のあとには津波が来る
  1、地震があったら高い所に集まれ
  1、津波に追われたら何所でも此所位高い所へ登れ
  1、遠くへ逃げては津波に追い付かれる。近くの高い所を用意して置け
  1、県指定の住宅適地より低い所へ家を建てるな

 山田の町役場は「津波記念碑」の教えを忠実に守り、それと同じ高さのところに建っているので無傷だった。それに対して山田の町並みは「津波記念碑」の教えを無視し、それよりも下に町並みを再建したので、明治三陸大津波、昭和三陸大津波にひきつづいて今回の平成三陸大津波でも、町が全滅してしまった。

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大船渡の中心街

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釜石駅前

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大槌のコンビニ

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山田町の町役場

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これが津波記念碑

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山田の八幡宮

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(59)

 宮城県の唐桑半島から国道45号に出ると、県境を越えて岩手県の陸前高田に入った。

 東日本大震災で町が消えた陸前高田は、今回の「平成三陸大津波」の最大の被災地といっていい。高田松原で唯一残った「奇跡の松」も枯れてしまった。

 陸前高田の海岸は地形が変わり、高田松原海水浴場の長い砂浜は消えた。家族連れで賑わった夏の海水浴場のシーンが、しきりに目に浮かんでならなかった。

 かつては大勢の人たちを集めた国道45号沿いの人気の道の駅「高田松原」は、大津波に襲われた時のままの無残な姿をさらしている。国道沿いの高層ホテルも残っていた。その1階はまるで廃墟のようだ。

 陸前高田からは県道38号で広田半島南端の広田崎へ。駐車場にV-ストロームを停め、遊歩道を下り、岬突端の展望台に立った。そこからの眺めは絶景。手前には青松島、その向こうにはウミネコの島、椿島が見える。太平洋は抜けるような青さだ。

 つづいて広田半島東端の黒崎へ。岬の突端に立つと、広田崎がよく見える。その先の青松島と椿島も見える。長く延びる唐桑半島も見える。その先端が御崎になる。

 陸前高田市から大船渡市に入ると、末崎半島南端の碁石岬へ。

 ここでも駐車場にV-ストロームを止め、松林の中の遊歩道を歩き、岬突端の展望台に立った。正面には広田半島が見えている。その先端が黒崎になる、岬から岬を見るのはじつにいいものだ。それにしても三陸海岸の海の青さは強烈で、目の底に残った。

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陸前高田の道の駅「高田松原」跡

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広田崎の展望台

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広田崎からの眺め

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黒崎からの眺め

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碁石岬の灯台

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碁石岬の展望台

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碁石岬からの眺め

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ジャンル : 車・バイク

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012」(58)

「からくわ荘」の朝食を食べると出発。国道45号への途中では、唐桑半島東側の大理石海岸にある「巨釜・半造」に寄っていく。

 まずは巨釜だ。
 駐車場にスズキの650ccバイク、V-ストロームを停め、遊歩道を歩き、断崖の突端へ。そこからの眺めは大きな釜で湯が煮えたぎり、八幡岩がその蓋のように見えるところから「巨釜」の名前があるという。

 巨釜の高さ16メートル、幅3メートルのオベリスク状の白っぽい石柱は、唐桑半島のシンボルになっている。明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」で先端が折れ、それ以来、折石といわれている。その意味では折石は大津波のメモリアルでもある。

 次に半造だ。
 この一帯の海岸は海の幸の宝庫。アワビなどが豊富で、漁民のみなさんは「繁昌」した生活ぶりで、そのまま繁昌が地名になった。その繁昌が訛って「半造」になったという。

 半造の先端には「トド岩」がある。千島列島や北海道北部に生息している海獣のトドはこのあたりまで南下し、この岩でよく見られたので、「トド岩」の名があるという。

「巨釜・半造」を最後に唐桑半島を後にし、国道45号で岩手県に入った。

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「からくわ荘」を出発

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御崎の船着場

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巨釜の折石

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半造の断崖

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半造の松林

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半造のトド岩

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ジャンル : 車・バイク

『バイクで駆ける 地球食べある記』増補版電子書籍、出ました。

諸事情で、本日ようやっと正式リリースのお知らせとさせていただきます!
ご吹聴のほど、よろしくお願い申し上げます。


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『極限の旅』(山と渓谷社、1973年)その8

 五十二人乗りの飛行機は、ベンガル湾上のモンスーン期の厚い雨雲の中を飛ぶので、グラグラと大揺れに揺れた。デンマーク人一家の五人、アメリカ人四人、インド人二人、それと私。機内はガラガラである。皆、あまりの揺れのひどさに真っ青である。十字をきる人、合掌する人、大声でうなる人……。ラングーンを飛び立ってから一時間半、雨雲の切れ目から大蛇のようにうねる巨大なガンジス川のデルタが見えはじめた。飛行機がカルカッタのダムダム空港に着陸し、両足がしっかりと地面についたとき、私たちはおたがいに手を握り合い無事を喜び合った。それほどの揺れようであった。
 カルカッタの印象は強烈である。どう表現してよいのかわからない。とにかくすごい町である。
 人、人、人、また人。その人ごみを縫うようにして、市内電車、バス、おんぼろタクシー、自家用車、トラック、オートバイ、スクーター、人力車、輪タク、馬車、牛車、自転車が、けたたましい騒音を残して走り去っていく。
 フグリー川にかかる銀色の橋を渡るとハウラ。ハウラ駅はインド鉄道網の大中心地である。駅の構内に入って、ふたたび驚かされた。まるで魚市場のマグロのように、大勢の人たちが、男も女も子供も、ところかまわずごろごろと寝ころんでいた。そんな人たちを踏まないようにするのは、容易なことではなかった。
 マンダレーにいるとき、八月四日付けのビルマ英字全国紙“ザ・ワーキング・ピープル・デイリー”を読んだが、そのなかに「インドで大洪水―ビハール州政府はガンジス川の氾濫で一千万人以上の住人と、六千の村が被害を受けた……と発表。この洪水は近来になくひどいもので……」という記事があった。汽車でハウラからネパール国境に向かうと、ヒンドスタン平原は一面に水をかぶっていた。それを見て、「あ、これがビハールの洪水だな」と思った。
 どの家も屋根まで水に洗われ、どのくらいの家が流され、どのくらいの人命が失われたのか、見当もつかない。汽車は、海か大きな湖を走っているような感じで、歩くような速度でのろのろと進み、何度も止まった。線路の盛り土は崩れ、引き込み線などは例外なく水中に没していた。ビルマの新聞“ザ・サンデー・サーチライト”紙は「ガンジー首相がビハールの州都パトナで、私はいまだかつてこれほどひどい洪水を見たことがない、と語った」と報道している。
 しかし、私を一番驚かせたのは、洪水の規模ではなく、被災者の明るい表情であった。子供たちはキャッキャと歓声をあげて水遊びをし、男どもはわれ関せずといった表情でゆうぜんと釣糸をたれ、女は女で、せんたくしながらおしゃべりに興じる。彼らが大洪水の被災者だとは、どうしても信じることができない。「国が違うなあ!」と、しみじみ思った。
 毎年雨期になると、川は必ずどこかで氾濫する。今年はその規模が大きかったにすぎないのだ。彼らは強い。私たちのように、大自然から完全に隔離された超過保護、超過密社会に住む人間とは根本的に違うのだ。彼らの中に私は、確かさを見た気がする。どんなことが起きても、どんな天変地異が発生しても、彼らは必ず生きていける、そう思わせる確かさを見る思いであった。
 具体的にいえば、私たちの住む都会東京を例にとると、いまこれほどの災害が起きたら、私たちは死んでしまうに違いない。なぜなら、鉄とコンクリートでできたこの町、ひとたび秩序が失われたら、人々は何をどうやって食べ、どうやって水を飲み、どうやって生きていくのか。米をつくることもできない、魚を取ることもできない、鳥や動物を取ることもできない。野生生物や野草、魚のいる川もない。コンクリートの散乱した大地で、人々は生きるすべを知らない。ガンジスという大自然のなかに生きる彼らとの大きな違いである。
 濁流がうず巻き、ものすごい勢いで流れるガンジス川を越えた。洪水に襲われた地域がやっと終わる。いま見てきた洪水がまるでうそのように、穏やかなヒンドスタン平原の田園風景が広がっていた。





アタシはバイクで旅に出る。―お湯...
国井 律子

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【ご連絡】4月下旬に『アフリカよ [電子書籍新版]』をお買い上げいただきました方へ

(管理人)

今さらで恐縮ですが、4月下旬の発売当初に電子書籍『アフリカよ』をご購入いただいた方(200円だった時期です)にご連絡差し上げます。

本コンテンツ、バージョンアップしております。目次に戻ったときに縦横が狂うバグを修正し(私も不注意です、申し訳ございません)、また、本文の段落間を迷いつつもツメました。スタイルが紙の本っぽくなりました。(それ以外は変更ありませんので、読書自体に影響はないのですが。)

※最終ページ奥付に「ver.1-2_20130429」とあるのが現時点での最新版となります。

で、これは自動で最新版にならないので(Appstoreみたく自動で通知しろ!という要望が出ており、私も賛成派なんですが)、大変お手数ですが、更新を希望される方は下記を参照にAmazonに要望メールをお願いいたします。数日以内に、コンテンツを開いたときに自動でDLされるようになると思います。

※参考:外部リンク「内容が増補・更新された最新版のKindle本を再ダウンロードする方法」
http://d.hatena.ne.jp/timagawa/20121224/1356338115

ちなみに『アフリカよ』の書誌No.は以下の通りです。
ASIN: B00CH33NW0

引き続きご吹聴いただけますと幸いです。
お陰さまで初速はなくなったものの、ポツポツと部数を伸ばしております。
いつかトンでもない動きをしてくれると、いいのですが…w

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『極限の旅』(山と渓谷社、1973年)その7

大洪水
 八輌の客車を引張るジーゼルカー、マンダレー行き急行列車はモンスーン期の、ビルマの穀倉地帯をひた走りに走る。一面に水をかぶった水田がどこまでも続き、田植、稲刈りをする女たち、牛を使って田を耕す男たち、かけ声をかけながら水牛を追う少年、そんなビルマの人たちが車窓から眺められた。
 列車の中ではティン・ウィンさんという人と一緒であった。温厚な感じの五十歳近い人。駅で止まるたびに、バナナの葉に盛られた口がひんまがりそうになるほどからいカレーライスや、見た目にはザクロを小さくしたようなメングティという果物、梅ぼしに似ているメンバンディー、油であげたサムザーを買ってくれる。「どうもありがとう。だけど、もうほんとうにけっこうですから」ティン・ウィンさんがあまりにも親切にしてくれるので、私は申し訳なくてそういって断ったが、彼はにこにこと笑い、気にしなさんなといわんばかりの顔つき。
 マンダレーの手前で彼は降りた。私たちは何度も固く握手をし、最初で最後の別れを惜しんだ。私の旅での出会いは、いつもこの悲しいゆきずりの人間どうしのふれあいで終わる。長い一生の間に、いったい何人のひとと会うのだろうか。そしてたった一度の出会いが一生忘れられない人となる。決して再会できぬゆきずりの人たち――。
 マンダレー――ビルマの古都。
 いたるところに小乗の仏教寺院があり、古い歴史を感じさせる。そこには、なにかほっとさせる空気があった。一段、二段、三段……と、マンダレーの丘の階段を上りはじめる。あまりにも長いので何度か大きく息をつく。階段の途中にはたくさんの仏像があり、熱心な仏教徒たちはそのたびに頭を深々と垂れた。私の数えかたに間違いがなければ、最後の石は一七二九段目であった。丘の上からの展望は絶景。全市を一望のもとに見下すことができ、遠くには川幅をぐっと広げ氾濫したイラワジ川が見渡せた。
 ビルマ貨幣はビルマ経済の不振を反映して対外的に力が弱く、インドに入国したら両替できないといわれ、マンダレーからラングーンに戻ると、持っているビルマの金、全部(といっても一五〇〇円ほど)を使うことにした。
 タクシーでラングーン見物としゃれこみ、目鼻だちのすっきりした精かんな顔つきの、ベンガル人モハメッドさん運転の一九四五年型超おんぼろタクシーに乗る。タクシーはいまにもこわれてしまいそうな音をたて、ガッタン、ガッタンとラングーンの町を走りまわった。一九四五年型といったら、いまから二十七年前である。日本では戦争末期、終戦後のガソリン不足で木炭車が走っていたそうだ。その頃の自動車を大事に大事に使っているのだ。ものが極端に少ない国、日本のように一、二年使って交換というわけにはいかないのだ。

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『極限の旅』(山と渓谷社、1973年)その6

 日が沈みかかると、アスラムさんは「もうすぐベラだよ」と言った。やれやれと思わず安堵の胸をなでおろした。すっかり日が暮れ、あたりが暗くなったころ、バスはポラリ河畔に出た。上流で雨が降ったとみえ、かなりの水量。バスは川を越えることができず、アスラムさんは「今晩はここで泊まろう」と言う。乗客は皆、思い思いの格好で寝る用意をした。
 水の減る気配はまるでない。夜が明けるとバスは来た道を引き返し、山を越えて別の道でベラに向かう。昼前ベラの町はずれに着いたが、そこにも川が流れていた。
 対岸の川岸を下って川に入るところには、トラックが一台エンコ、グジャグジャの泥にもぐっていた。それを見てアスラムさんは、助手たちに川岸を登れるような別の道を作らせた。水しぶきをあげて川を越え、勢いをつけて川岸を登ろうとする。だが勾配が急なので、上からトラックに引張ってもらっても登ることはできなかった。
 バスがあとずさりし、川の中に戻ったときであった。なりゆきを見守っていた見物人のなかから叫び声があがった。水遊びをしていた子供の一人が、バスの下に入ってしまったのだ。なにも知らないアスラムさんはなおもバスをバックさせる。子供は敏捷である。とっさに車輪と車輪のあいだに入ったのであろう、全く無傷だった。だがそれを知ったアスラムさんはカンカンに怒り、石を投げながら子供たちを追いはらった。
 何度も新しい道を掘りなおし、皆でバスの後を押し、上からトラックで引張ってもらい、やっとバスは上にあがった。いっせいに大きな拍手がわきあがる。
 クズダールから二五〇キロ、ついにベラに着いたのだ。カラチまでもう道の心配はない。後を振り向くと、苦労して越えてきたバルチスタンの山々が、うっすらと霞んで見えた。

 カラチに戻ってからも、下痢はさっぱりよくならず、おまけに長良丸は入港したものの荷役が遅れており、なかなかハスラーを引き取れない。重苦しい、耐えがたいカラチでの毎日、安宿のベッドで一日中なにするでもなくごろごろしていた。一人天井を見つめていると、八月二日に日本を出てから、ビルマ、インド、ネパールと旅したさまざまな思い出が、ふと脳裏をよぎった。

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カソリ、昨夜のOZ戦を語る。

カソリより、昨夜の一戦について。

===
昨夜は勝ってほしかったけれど、
「あー、負けた」
 と思った試合を土壇場で追いついてくれて、もうやったー! やった! やったー!の連呼。

ど真ん中のPKを決めたのは本田らしかったですね。
これで展望が大きく開けてきました。

===

OZビーフを5切れ食ってやるとか大言壮語していた人のコメントは、ございません(涙)

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『極限の旅』(山と渓谷社、1973年)その5

 クウェッタからまる二日、クズダールに着くと、大きな市でもあるのだろうか、周辺のステップや砂漠からやってきたラクダに乗った遊牧門がたくさん集まっていた。
話に聞いたとおり、ここからベラまでが実にたいへん。まずバスの便がおそろしく悪いのだ。
「いつ、バスは出るんですか?」
「そうだな、たぶん三日後だろうね」
 それも雨が降ったらだめだという。途中、川の中を通っていくので、雨が降ると走れなくなってしまうそうだ。
 三日も待っていられないのでヒッチハイクしようかなと思ったが、なにしろクズダールから先は全くといってよいくらいに交通量がない。おまけに下痢はいっこうによくならず、ほとんど食べられない。そのため動きまわることもできず、なにすることもなしに、サライ(宿)のベッドで一日中ごろごろしていた。
 やっとバスの出る日になった。喜びいさんでバスに乗ったのはいいが、ほんとうにひどい道、クズダールを境にして草が目につくようになる。雨が降ったのであろう、小さな水たまりも見られた。
 乾燥地帯の道は雨に非常に弱い。川のそばを通っているときだった。バスが突然ガクッと左に傾く。ひっくり返るのでは、と思われるほどのすごさで、バスの壁にたたきつけられた乗客はギャーッとすさまじい悲鳴をあげた。
 やわらかい地盤に、左後輪がめりこんでしまったのだ。泥だらけになりながら乗客全員で押したが、バスは微動だにしない。それではと、運転手のアスラムさんが厚い板を敷き、その上にジャッキを置いてバスを持ち上げようとした。ところが、地面がやわらかいので、板もろとももぐってしまう。その後もいろいろと無駄な抵抗を試みたが、時間だけがむなしく過ぎてしまった。
 これじゃ、もうどうしようもないなと、なかばあきらめかけていると、驚いたことに道路工事用のブルドーザーがやってきた。いったいどこからやってきたのだろう。乗客は皆、わーっと大喚声をあげた。
 アスラムさんには四人の助手がおり、そのなかの一人はバスがもぐってしまったとき、すぐさまこの炎天下のなかを、一番近いロード・キャンプ目指して走っていったそうだ。
 バスに太いワイヤーをくくりつけ、ブルドーザーがそれを引っぱる。ジリッ、ジリッとバスは動きだす。そして、ついに脱出成功! その後も二度ほど泥のなかにめりこんだが、そのたびに乗客全員でバスを押した。
 平原から山岳地帯にかわる。山越え、谷越えの連続。坂を下って川を越えると急な上り坂、バスは途中で止まってしまい、私たちはバスの後をせっせと押した。険しい峠を過ぎると川が道になる。進むにつれて道幅が広がった。川上から川下に向かっているのだ。これでは雨が降ったら通れるはずがない。


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『極限の旅』(山と渓谷社、1973年)その4

 夜が明ける。目をさますと汽車はインダス川流域の平原から、スレイマン山脈の岩山地帯に入っていた。山々に緑はほとんど見られない。前の日の暑さがまるでうそのようにひんやりとしていた。汽車は苦しそうに汽笛を鳴らし、涸れたボラン川に沿ってゆっくり、ゆっくり、峠を登っていく。
 国境の町チャーマン。
「あのへんはアフガニスタンだよ」地平線の一角を指さしながら、汽車で一緒に坐っている人がそう言った。
 ほこりっぽいうすよごれた砂漠に近いこの町、通りを歩いていると、スイカやメロン、ぶどうの甘いかおりがそこはかとなく漂ってくる。
 私は我慢できずに、七五パイサ(二五円)の大きなスイカを買った。乾燥度が著しいので気化熱が大きく、買ったスイカを冷やす必要はない。割ってそのまま食べるだけで、ひんやりとした、なんともいえない舌ざわりを味わうことができる。
 だが、すぐさま激しい下痢、私はいささかあきらめ気味だった。もう、どうにでもなれ、といったすてばちな気持ちになる。下痢がはじまってから、すでに十日たっていた。
 バルチスタン地方の中心地クウェッタには、アフガニスタン国境一帯を警備する軍隊が続々と集結していた。風雲急を告げる印パ国境へ移動するのであろう。このところ毎日のように、この町からパンジャブ地方へ、軍専用列車が出ているとのこと。きょうも、数十台の軍用トラックとジープを積んだ貨物列車がラホールに向かっていった。
 私はバルチスタンの山々を越え、クズダール、ベラ経由のルートで、カラチに出ようと思った。しかし、その途中にはひどい山道があるそうで、何日ぐらいかかるのか、また、ほんとうにカラチまでバスに乗っていけるのか、いろいろな人たちに聞いてみたが、はっきりとした答を得ることはできなかった。でも道はあるのだ。道があれば必ず交通手段はあるはず。
 市場近くの広場からバスに乗った。ひと筋の舗装道路がバルチスタン砂漠のなかにはてしなく延びる。この辺の岩山はおもしろく、平原にぼこん、ぼこんと積み木を積むようにのっていた。山と平原の境い目は線を引いたようにはっきりしている。


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『極限の旅』(山と渓谷社、1973年)その3

 インダス川西岸のドクリ村から、馬車に揺られ三十分ほどで、インダス文明発祥の地、モヘンジョダロ遺跡に着く。強い日ざしに悩まされながら、不気味に静まり返った「死の町」を歩きまわった。
 よく整備された街路や下水溝、いくつもある井戸の跡や公衆浴場、大学の跡。どうしてこれが数千年も前に栄えた町の跡だと信じられようか。紀元後に作られたという小高い丘の上にある仏教のストーパからは、悠久の歴史を刻み続けてきたインダス川の流れがはるか遠くに望まれた。
 私がモヘンジョダロで最も気をひかれたのは、最盛期の復元図や発掘された石や銅製のシールに見られる牛車の姿に対してである。なんとその牛は、この地方の人々が現在使用しているものと全く同じではないか。
 遺跡に近い町々もモヘンジョダロと非常に似ている。裏通りを歩いていると、あたかも現代から突然紀元前の世界に引き戻されたような気がする。数千年という気が遠くなるほどの時の流れは、この地方の人たちにとって、いったいなんだったのであろうか。歴史とは人類にとってなんだったのであろうか。モヘンジョダロとその周辺の町々を歩きながら、私はさまざまなことを考えさせられた。
 ジャコババード周辺は西アジアでも、暑さが最も厳しい。学校でそう習ったのか「ここがアジアで一番暑いところだよ」と何人もの人が教えてくれた。一年を通じて一番暑い六月の平均気温三十六・八度、つまり日中はつねに五十度近いことになる。アフリカで最も気温が高いと思われるサハラ砂漠の南、マリ西部のカイで、一番暑い五月が三十四度。これをみても、いかにこのあたりの気温が高いかがわかる。
 バスを乗りついでやってきた私は、どくどくと流れ落ちる汗にいたたまれず、ジャコババードに着くやいなや駅の裏で裸になり、何度も水をかぶった。そのおかげで、やっと人心地がつく。
 ジャコババードで夜汽車に乗った。汽車はインドでは考えられないほどガラガラ。パキスタンに入ってすぐ感じた違いのひとつに汽車があったが、パキスタンではどこに行ってもひどい混雑はない。車内の大きな木製荷物棚に寝袋を敷き、寝る用意をする。夜が更けてもまだ暑く、汗が流れ落ちてしかたなかった。


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