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Author: 賀曽利隆
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六大陸周遊1973-74 [完全版] 012

徒歩40キロの国境越え

 インドネシア側の国境の町、アタンブアから国境を越え、ポルトガル領ティモールに入るのは大変なことだった。
 その間、車はまったく通っていないので、40キロを歩かなくてはならない。
「さー、これからが勝負だ!」
 といってイギリス人のデビッドと顔を見合わせた。
 昼過ぎにアタンブアを出発し、歩きはじめたが、暑さが厳しい。タラタラと汗が流れ落ちてくる。デビッドは壊れかけたトランクをかかえたり、頭にのせたりして歩いたが、なんとも歩きづらそう。そのため、休憩する回数が多くなった。
 歩いているときは辛いことばかりではなかった。小さな集落に着くと、フランシスさんという人の家に呼ばれた。すでに退役した軍人だが、太平洋戦争中は日本軍の一員として戦闘に参加したという。インドネシアの独立後は陸軍に入り、スマトラ、カリマンタン、セラウェシ、マルク諸島とインドネシア各地を点々とした。そんなフランシスさんとの出会いは楽しいものであり、聞いた話は心に残った。
 日が暮れ、アタンブアから20キロ歩いたところで、アタポポという小さな港町に着いた。ここはまだインドネシア領内だ。日中の暑さがあまりにもきついので、ほんとうは夜通し歩きたかった。だが、警察で止められた。「明日、キミたちのパスポートと荷物を検査する」といわれ、やむをえず警察の一室を借り、ひと晩そこで眠った。
 夜が明けても、すぐには出発できなかった。警察の署長が来るのを待たなくてはならなかったからだ。8時過ぎになって、やっと署長が来た。パスポートと荷物を調べられ、9時過ぎになって、「行ってもよろしい」ということになった。国境まであと15キロだという。
 ぼくたちが歩きだしたころには、すでに灼熱の太陽がジリジリと照りつけていた。のどの渇きがひどく、水筒の水はあっという間に空になる。小さな集落が点々とあって助かったが、集落に着くたびに水をもらった。
 すばらしくきれいな浜辺に出た。あまりの暑さに我慢できず、デビッドと裸になって泳いだ。透き通った海。しばし、焦熱地獄の苦しみを忘れることができた。
 国境に通じる小道は海岸を離れ、なだらかな丘陵地帯に入っていく。懸命になって歩きつづけ、インドネシア側の国境事務所に着いた。足はふらつき、熱射病寸前で、頭から何杯もの水をかけてもらった。ひと息ついたところで、飲み水をもらい、ガブ飲みした。ここで再度、出国手続きをする。アタンブアのイミグレーションですでに出国手続きをしているので、ここでの手続きは簡単なものだった。
 国境事務所の係官たちに「さよなら」をいってポルトガル領ティモール側のバドガデ(*いまGoogleアースではBatugadeだがママでOKか)に向かっていく。そこまで5キロだという。じきに干上がった川を渡る。その川には木の橋がかかっている。橋の中間がインドネシアとポルトガルの国境。橋を渡ってポルトガル側に入ると、これでほんとうのインドネシアとの別れになった。
 ぼくはインドネシアがすっかり好きになっていた。いつの日か、今回のスマトラ島からティモール島への「大スンダ、小スンダ列島横断」ルートよりも北、「カリマンタン(ボルネオ島)→セラウェシ島→マルク諸島→イリアン・ジャヤ(ニューギニア島)」のルートで旅したいと思った。
 ぼくとデビッドは最後の力を振りしぼって歩き、日の落ちる前に、ポルトガル領ティモールのバドガデ(*)の町に着いた。ぼくたちは大きな難関を突破した。

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ジャンル : 車・バイク

六大陸周遊1973-74 [完全版] 011

分断された島を行く

 フローレス島のエンデ港を出港したのは夜の10時。ティモール島のクーパン港に到着したのは翌朝の8時。さすがに動力船は早い。フローレス島からティモール島までは10時間の船旅だった。
 クーパン港に上陸して、「とうとう小スンダ列島の東端までやって来た!」と感動した。「ティモール」はインドネシア語で「東」を意味する。ティモール島は直訳すれば「東島」だ。
 船内では33歳の軍人、アブドラハマンさんと親しくなった。彼に「ぜひとも家に寄っていってほしい」と言われ、ベモ(乗合タクシー)で港から10キロほどの、クーパン市内のアブドラハマンさんの家に行った。
 5年ぶりの故郷だとのことで、お父さんもお母さんもアブドラハマンさんの顔を見ると、泣いて喜んだ。彼はカリマンタン(ボルネオ島)での共産ゲリラとの戦闘で、左足を切断した。相手方のチェコ製の機関銃にやられたのだという。
 アブドラハマンさんの家で食事をご馳走になり、クーパンを出発。ポルトガル領ティモールとの国境に向かっていく。
 ティモール島は分断された島で、西ティモールはインドネシアだが、東ティモールはポルトガル領。陸路で国境を越えるのは、きわめて難しいと言われていた。その国境越えの困難さに、あえて挑戦するのだ。
 ティモール島はフローレス島と比べると、はるかに道はよく、交通量も多い。アディーさんという40過ぎの人が運転するトラックで、国境まで乗せてもらった。カタコトの日本語を話せる人だった。オイサ村近くの平原を走っていると、アディーさんは太平洋戦争中のここでの戦闘を話してくれた。
「日本軍の兵士たちは、この平原にパラシュートで降下した。だけどアメリカ軍とオーストラリア軍が待ち伏せしていてね。日本兵は次々に撃ち殺された。ほとんど全員が死んだよ」と、アディーさんはいかにも無念だと言わんばかりの口調だった。
 インドネシアでは、いろいろな人たちから太平洋戦争当時の話を聞いた。だが不思議なことに、インドネシアの人たちは日本のことをあまり悪くは言わない。最初は、ぼくが日本人なので気をつかっているからだろうと思っていた。ところがそうでもないようだ。
「大東亜共栄圏」の建設を旗印に日本が欧米諸国と戦ったことが、インドネシアの人たちに勇気を与え、インドネシア独立の大きな助けになったと、多くの人たちが同じようなことを言った。それまでのオランダの統治時代がひどすぎたということか。
 国境の町アタンブアに着くと、アディーさんと別れる。ぼくたちはインドネシアを出国するためにイミグレーションに行った。胸がドキドキする。というのは、インドネシアのビザがとっくに切れているからだ。ここに来るまで何度も警察でパスポートをチェックされたが、幸いなことにビザ切れはみつからないで済んだ。
 だが、さすがというか、イミグレーションの係官はそうはいかなかった。ぼくのパスポートを見るなり、ビザ切れを指摘した。ビザの延長で20USドル(約6000円)を取られるのか…。しかし、なんともラッキーなことに、イミグレーションの係官は「ビザ延長の手数料として1500ルピア(約1200円)を払いなさい」といって、それで無事、出国手続きは終わった。
 スマトラ島のメダンからティモール島のアタンブアまで、なんとも長い旅路の「インドネシア横断」だった。

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ジャンル : 車・バイク

六大陸周遊1973-74 [完全版] 010

続・帆船の旅

 フローレス島に上陸してやれやれと安堵したのも束の間、村人たちに聞くと、なんとそこからは道がないのでどこにも行けないという。レオという町まで船で行けば、島の中心のエンデに通じている道があるという。
 ぼくたちはすごくラッキーだった。
 スラウェシ島のウジュンパンジャン(*ウジュン・パンダンではないか? また、現・マカッサルと付記する予定)からきている大型の帆船「チンタ・コモド号」(50トン)が、ちょうどレオに向けて出港するところだった。急遽、その船に乗せてもらえることになったのだ。
 乗組員の1人がメインの高いマストにスルスルッと登り、帆を張る。次にサブのマストにも帆が張られ、「チンタ・コモド号」はラブハンバジョ港を離れていった。何か、南海の海賊船に乗り込んだかのような気分になった。
「チンタ・コモド号」はフローレス島のあとは、スンバ島のビマ港、ジャワ島のスラバヤ港、カリマンタン(ボルネオ島)のバンジュ(*ャ?)ルマシン港、スマトラ島のメダン港とまわり、4ヵ月あまりの航海ののち、スラウェシ島のウジュンパンジャン(*ウジュン・パンダン?)港に戻るという。大航海ではないか。
 船長はソーロンさんという32歳の人。顔つきが日本人に似ている。船乗りになってすでに20年になるという。「インドネシアの海は知り尽くしている」と自信満々。潮風にさらされた顔は赤銅色に光り輝いている。乗組員はソーロンさんを含めて全部で13人だ。
 ラブハンバジョ港を出て2日目、朝のうちは風があって快調に進んだが、やがて風が止むと、「チンタ・コモド号」も帆のみなので、パッタリと止まってしまう。ただただ、じっと風を待つだけ。昼が過ぎ、午後3時くらいになったところで風が吹きはじる。船が進みはじめると、乗組員たちは大騒ぎだ。帆船が魚群の中に入ったという。小魚を餌にして、乗組員たちは2、30センチくらいの魚を次々と面白いように釣り上げた。全部で50匹以上は釣り上げただろうか。「チンタ・コモド号」は漁船へと大変身。乗組員たちは忙しげに、釣った魚を焼いたり、干物や燻製にした。
 うれしいことに、「チンタ・コモド号」に乗るころには、ぼくの目のまわりの傷も大分よくなってきた。毎日、デビッドに手鏡を借りて傷口のガーゼを取り替えていたが、潮風のおかげで化膿することもなく、傷口もふさがってきた。
「よーし、もうガーゼはいらない」
 と、赤チンを塗るだけで傷口の処置を終えた。右目をふさぐようにしてガーゼをしていたので、それが取れたときの解放感と言ったらない。世界が急に開けたようなものだ。
 ラブハンバジョ港を出て3日目。雲の切れ間から朝日が昇る。遠くにレオのカリンディ港が見えてきた。いいペースでカリンディ港に近づいていったが、なんと港を間近にしたところで、無情にも風はパタッとやんだ。船も止まってしまった。ところが、ここからがすごい。船長のソーロンさんの掛け声で、乗組員全員が懸命になって櫂をこいだ。50トンもの帆船を櫂だけで動かすのだ。
 浜辺近くまで来ると、船から小舟が下ろされ、ぼくたちはそれに乗り移った。ソーロンさんをはじめ、乗組員のみなさんが手を振ってくれている。こうしてフローレス島に上陸したが、「チンタ・コモド号」のみなさんとの別れは辛かった。旅は別れの連続だ。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 009

「アギン、バグース!」

 9月5日午後1時過ぎ、「ガディス・コモド号」は雑貨を積み、帆を上げ、サペ港を出港した。時間どおりの出港だったのでびっくりした。フローレス島のラブハンバジョ港(ラブハンは港の意味)までは約100キロの距離。サペ港に近いラメレ村に寄って水を積み込み、スンバワ島を離れていく。
 とはいっても風が弱く、なかなか思いどおりには進まない。ところが夕方になると風が強くなり、帆をいっぱいにふくらませ、帆船はぐっと速力を上げた。真っ赤な太陽が水平線のかなたに沈む。水色の空はみるみるうちに紺青色に変わり、やがて空一面にきらめく星空になった。「ガディス・コモド号」は星を目印にして暗い海を進んだ。浅瀬に来たところで、帆を下ろし、錨を下ろした。
「セラマッ・マラン(おやすみなさい)」
 乗組員はみんな思い思いの格好をして、狭いスペースの中で寝る。ぼくも体をエビのように曲げ、窮屈な格好でシュラフに入って寝た。船のまわりの海では、夜光虫がキラキラ光っていた。
 翌朝はまだ暗いうちに帆を張り、錨を上げて出発する。
 夜が明けると、すぐ近くにスギヤン島(*サンギアン島?)が見え、アピ山(1949m)という火山(アピは火を意味する)がツーンと尖ってそびえていた。小さな島なので、アピ山は標高1949メートルという数字以上の高さに見えた。船のすぐそばに30頭あまりのイルカの大群がやってきた。イルカたちはピョコーン、ピョコーンと飛び跳ねながら船のあとをついてくる。
 だが、そのような快適な船旅も朝のうちだけだった。
 日が高くなるにつれて風はやむ。帆はダラーンとたれ下がり、船はピタッと止まってしまった。やりきれないほどの暑さ。海面には波ひとつない。鏡のようなトローンとした海だった。
 退屈まぎれにパダハラン老人にインドネシア語を習う。
「サトゥ、ドゥア、ティガ、アンパット、リマ…」
 と、1から10までを繰り返し繰り返し、何度も口に出していう。
 1から10までの授業が終わると、パダハラン老人は今度は目を指して「マタ」、耳を引っ張って「テリガー」、口を指さし「ムールット」、口をあけ歯を見せながら「ギーギー」、頭をたたいて「ケパラ」、髪を引っ張って「ラムット」…と教えてくれた。それらをノートに書き、やはり何度も声を出して繰り返した。
 パダハラン老人は日本の歌も知っていた。太平洋戦争中に日本兵に歌わされたという。
「みよ とうかいの そらあけて…」
「しろじに あかく ひのまる そめて…」
「まもるもせめるも くろがねの…」
 と、なつかしさをにじませて海に向かって歌うのだ。
 頭上にあった太陽はいつしか水平線に近づき、暑さは幾分やわらいでくる。そのうちに待ちに待った風が吹いてきた。その瞬間、乗組員の顔に生気がよみがえり、
「アギン(風だ)、バグース(いいぞ)!」
 と、手をたたいて喜び合う。
 ダラーンと下がっていた帆は、みるみるうちに膨らんでいく。それとともに船は心地よい風を切って進みはじめる。
 コモドオオトカゲで知られるコモド島がはっきりと見えてくる。山がちな島。山肌にはほとんど緑が見られない。乾燥した島の風景だ。
 コモド島に沿って進んでいるときのことだった。船尾で釣り糸を流していたパダハラン老人は、突然、「ベサール(大きいぞ)!」と叫んで糸をたぐり寄せる。最初は信じられなかった。というのは、釣り糸に釣り針をつけただけのもので、餌もつけていなかったからだ。釣り糸は引っ張られて今にも切れそうだったが、パダハラン老人は「大丈夫。これは日本製だから」と自信満々だ。
 パダハラン老人は魚との格闘の末に、ついに5、60センチもある大物を釣り上げた。それをナイフ1本であっという間にバラバラにしてしまう。鮮やかな手さばきだ。魚料理の夕食はうまかった。それまでの赤米混じりのポロポロ飯と魚の干物、イモという決まりきった食事にいささかうんざりしていただけに、新鮮な魚の味は格別だった。
 夕日がコモド島の山の端に落ちていく。すばらしい夕焼け。空も海も燃えている。目をこらし、我を忘れて自然の織りなすショーに見入った。だが熱帯の華やかな夕焼けは、あっという間に色あせてしまう。そのあとには、夕空に星が2つ、3つと輝きを見せるのだった。
 こうして翌日も、翌々日もまったく同じような1日が過ぎていく。朝のうちは風が吹いて船は順調に進むのだが、昼近くなると、船はピタッと止まってしまう。そして夕方になると風がまた吹きはじめるのだった。
 スンバワ島のサペから、わずか100キロの距離に4日もかかって、「ガディス・コモド号」はフローレス島西端のラブハンバジョ港に着いた。パダハラン老人と3人の乗組員と、何度も握手をかわして船を降りた。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 008

帆船の旅

 スンバワ島東部の町、サペの警察でひと晩、泊めてもらったが、翌朝、目を覚ますとすぐにデビッドに手鏡を借り、目のまわりの傷をみる。よかった。昨日よりは、ひどくはなっていない。痛みも薄らいできている。
 シュラフから這い出ると、ぼくたちは食料を手にいれるためにパサール(市場)に行った。そこでバナナなどを買った。エリッヒはまたしても怒鳴り出した。そしてバナナを売っている露店のおばちゃんたちに向かって叫んだ。
「高すぎる。俺をだまそうとしているんだろう」
 ついに日独開戦だ。ぼくは完全に頭にきた。
「おい、エリッヒ、いいかげんにしろよ。高かったら買わなければいいだろう。ドイツにいるときも、いつもこうやって怒鳴りながら買っているのか。あんたは、いったい、何のために旅に出たんだ。こんなに会う人ごとに怒鳴っているんなら、さっさとドイツに帰ればいいだろ」
 ぼくもデビッドも、ここではっきりとエリッヒに言った。
「もう、あんたとは一緒に旅を続けたくない」
 エリッヒは「ラブハンバジョまで一緒に行こう。そこで別れる」と言った。
 スンバワ島のサペ港から隣のフローレス島のラブハンバジョ港まで行くのは簡単なことではない。船便はきわめて少ない。それも動力船ではなく、帆船だとサペの町の人たちに言われていた。そのために、インドネシア語をほとんど話せないエリッヒは、すでにかなりのカタコト語を話せるようになっていたぼくに頼って、とにかくフローレス島に渡ろうとしたのだ。何ともずるいヤツだ。日独開戦をしても、ちゃんと計算だけはしている。
 ぼくたちは警察に戻り、警官たちにお礼を言って、サペの町から乗合馬車に揺られてサペ港に向かった。サペ港は魚の匂いで満ちていた。石畳の道の両側には、高床式の家々が立ち並んでいる。造船所もある。そこでは50トンとか170トンというかなり大型の木造船がつくられていた。港には何十隻もの帆船が浮かぶ。ここでは主役がエンジンつきの船ではなく、帆船なのだ。ぼくは一瞬、タイムトリップしたかのような気分になった。
 サペ港では会う人、会う人、すべての人に、「ラブハンバジョに行く船はありますか」と聞いてみた。その結果、ついに「ガディス・コモド号」という船を見つけた。明日の午後1時に出港するだろうという。
 次に、その「ガディス・コモド号」を探す。これがまた、なんとも難しい作業だったが、やっとの思いで帆船の「ガディス・コモド号」にたどりつくことができた。ところがこの船、遊園地のボートをひとまわり大きくした程度のもの。これでほんとうに、フローレス島に渡れるのだろうかと不安になった。しかし今となっては、そんなことも言ってられない。
「ガディス・コモド号」の船長のパダハランさんに会った。
 日焼けした、しわだらけの顔の老人。ほんとうに明日の午後1時に出港するのかどうかを確かめるのが大変だ。
「パダハランさん、ベソ(明日)、ジャム・サト(1時)、シアン(午後)、ペラフー(帆船)ブランカット(出発)?」
 と聞くと、パダハラン老人は「うん、うん」とうなずいて、「ジャム・サト(1時)」と言った。時計も持っていないので、どうして時間がわかるのか、ちょっと不思議な気もしたが、明日の午後1時出港というのは、間違いなさそうだ。
 サペ港には食堂は1軒もない。日は暮れるし、腹は減るし、サペの町まで歩いていくのには遠すぎるし…で、ぼくたちは思案に暮れた。そんなときに、ありがたいことに村人が「ウチに来なさい」といって声をかけてくれた。飯と魚の夕食をいただき、家の片すみにシュラフを敷いて寝かせてもらった。
 翌朝、石を積み上げてつくった簡単な桟橋に行く。置いていかれるのが心配だったので、早めに船に乗せてもらった。乗組員は船長のパダハラン老人のほかに、28歳のミラーと17歳のセイフー、それと14歳のロシディーンの3人だ。彼らはじつに陽気で、楽しいフローレス島への船旅を予感させた。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 007

九死に一生を得た!

 トラックバスはドンプーを出発。スンバワ島東部の乾燥したサバンナ地帯を行く。ぼくは運転席の真上から、さらに高い、荷台の屋根に積まれた荷物の上に移った。眺めがさらによくなり、スンバワ島を一望しているかのような気分になった。サハラ砂漠をトラックに乗って縦断したときのシーンが鮮やかによみがえってくる。そのときも積み荷のてっぺんに座ったのだった。
 ところがこれが災いし、あと10キロぐらいで終点のビマに着くというところで、とんでもないアクシデントに見舞われた。突然、顔面を貫く激痛に襲われた。最初は何が起きたのか、さっぱりわからなかったが、声もたてられずにその場にうずくまった。顔を覆った手の指の間からはポタポタと血が流れ落ちてくる。
 道を横切る電線に顔をひっかけてしまい、目をやられてしまった。脳天から「ズッキーン、ズッキーン」と響いてくる強烈な痛みだ。目のまわりがザックリと切れ、まぶたを開けることもできない。「失明したのではないか」という恐怖に襲われる。あいにく少し前までは何人かいた乗客も、「暑いから」と下の座席の方に降りてしまっている。
 時間がたつにつれて、少しずつ、落ちついてきた。まず、そっと左目を開けて見る。大丈夫だ。左目は見える。次に、右目だ。右目を開けようとすると、全身がひきつるような猛烈な痛みに襲われ、開けることができない。これで右目をやられたのがわかった。もうしばらくしてから、今度はこじあけるようにして、右目を開けた。すると、どうだろう、右目も見えるではないか。はっきりとあたりの風景が見える。右目を電線にひっかけた瞬間、ぼくは無意識のうちに目をつぶっていたのだ。
 バスはビマに着いた。屋根から降りると、運転手や助手、他の乗客たちは血まみれになったぼくの姿を見て、驚きの声を上げた。デビッドとエリッヒは、すぐに病院にいかなくてはダメだと言った。
 ぼくはまず、傷がどんな具合なのか、見ることにした。運転手に鏡を借りた。左目を開けて自分の顔を見た。なんとも情けない顔になっている。右目のまわりがザックリと切れ、その傷は鼻から左目の上に延びていた。見た目にはひどい傷だったが、眼球自体はやられていないようなので、ぼくは病院には行かないことにした。これから先の長い旅を考えれば、病院代には一銭も払いたくなかったからだ。
 荷物の中から赤チンを取り出して傷口に塗りたくり、ガーゼをあてて絆創膏で止めた。赤チンが血と一緒に筋になって流れ落ちてくるが、いまさら気にしても仕方ない。心配そうな顔をしてぼくをとりまく人たちには作り笑いをして、
「いやー、もう大丈夫ですよ」
 と言った。
 ぼくたち3人はトラックを乗り換え、スンバワ島東端のサペに向かった。そこから次のフローレス島に渡るのだ。
 ビマからサペまでは、なんとも苦しい道のりだった。道がさらに悪くなり、揺れもひどくなる。トラックが大きく揺れるたびに、頭をブチ割られるかのような痛みに襲われた。ギューッと手を握りしめ、「一刻も早く、サペに着いて下さい!」と祈った。
 サペに到着すると、警察でパスポートを調べられた。ぼくは気が気ではなかった。というのは、インドネシアのビザの期限がすでに切れているのだ。ビザを延長するためには20ドルかかるといわれていたので、20ドルを払いたくないばかりに、「えーい、ビザ切れで行こう」と決めたのだ。幸いにも、サペの警察では、ビザ切れの件については一切言われなかった。
「助かった!」
 その夜は警察の一室で泊めてもらった。警官はぼくの顔を見てずいぶんと心配してくれた。消毒薬や塗り薬、新しいガーゼなどを持ってきてくれた。ありがたい。傷口を洗浄し、軟膏をつけ、新しいガーゼに取り替える。傷口の手当てが終わったところで、警官に言われた。
「キミはラッキーだったね」
 警官の話によると、トラックの荷台に乗った乗客が、電線に顔をひっかける事故は少なくないという。最悪の場合は電線が首に入り、死亡事故になるという。「キミは命を落とさなかったし、失明もしなかった。よかった、よかった」と、警官は我がことのように喜んでくれた。インドネシア人はほんとうに心やさしい人たちだ。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 006

日英独の3人の旅行者

 ロンボク島からスンバワ島に渡り、アラス港に到着。ここでも小舟に乗り換えての上陸だ。暑さが厳しい。小スンダ列島もスンバワ島まで来ると、交通がガクッと不便になる。アラス港から島の中心のスンバワ・ベサールまでは80キロほどの距離があるが、バスがわりのトラックに乗っていく。50人以上もの乗客がトラックの荷台に乗る。ぎゅうづめ状態だ。
 夕方、スンバワ・ベサールに到着。島の中心といっても、小さな町だ。ここでは1泊200ルピア(約160円)の「HOTEL SUCI」に泊まった。ホテルの宿泊者名簿を見せてもらうと、デビッドの名前があった。ついにここで、デビッドに追いついた。
 さっそくデビッドの部屋を訪ねた。「やー、やー!」と固い握手。2人で一緒に夕食にしようと、路地裏の食堂に行く。その日は1973年9月1日。ぼくの26歳の誕生日だ。デビッドに「誕生日、おめでとう!」と言われ、ワインのかわりに水の入ったコップで乾杯した。
「HOTEL SUCI」には、ぼくたち2人のほかに、もう1人、外国人旅行者がいた。ドイツ人のエリッヒだ。彼もぼくたちと同じようにインドネシアの島々を東に進み、オーストラリアを目指していた。インドネシアの島々を経由してオーストラリアに向かう旅行者はそれほど多くはないのに、こうして3人が出会ったのも何かの縁。「旅は道連れ」とばかりに、ぼくたち3人は一緒に旅することにした。
 30を過ぎたデビッドはすでにアフリカ以外の全大陸をまわっている。オーストラリアも今回が3度目で、オーストラリアのあとはニュージーランドに渡り、そこでしばらく資金稼ぎの仕事をするという。
 エリッヒは27歳。高校の地理の先生だった。仕事を辞め、旅に出てからすでに13ヵ月になるという。ヨーロッパ各国から西アジア、インド、インドシナ諸国をまわり、シンガポールからインドネシアにやってきた。オーストラリアのあとは南太平洋の島々をめぐるという。
 翌日の午前中はスンバワ・ベサールの町を歩いた。学校の校庭のような競技場では、スンバワ島の6地区の代表が集まっての格闘技大会が開かれていた。「闘牛」ならぬ「闘人」といったところで、素手に藁を巻いただけの2人がハデに殴りあう。大勢の観衆は大声援を送る。
 夕方の5時、スンバワ・ベサールを出発。スンバワ島東部の中心、ビマの町に、トラックを改造したバスで向かった。荷台の真ん中に荷物が積まれ、その両側に木のベンチが2列ある。乗客はその固い木のベンチに座る。荷台を覆うようにして鉄製の屋根があり、その上にも大量の荷物が積まれていた。
 荷台の中よりも、外の方がはるかに気持ちいいので、ぼくは運転席の真上に座った。悪路の連続なので、揺れがひどく、振り落とされないように気をつけなくてはならない。ぼくの隣にはマンシュールさんという50過ぎの人が座った。彼はぼくが日本人だとわかると、すごくうれしそうな顔をし、日本の軍歌を歌いはじめた。そして「キチクベイエイ(鬼畜米英)、テンノウヘイカバンザイ(天皇陛下万歳)、ダイニッポンテイコクリクグンバンザイ(大日本帝国陸軍万歳)」と大声で叫ぶのだ。
 ぼくは高い所が好きなので運転席の真上の屋根に座ったのだが、マンシュールさんは別の目的でここに座っている。カモシカを撃つためだ。夜になるとカモシカが飛び出してくるので、それをライフル銃で仕留めるという。日が落ちると古ぼけたライフル銃の弾をこめ、いつでも撃てるように身構えたが、なかなかカモシカは飛び出してこない。
 トラックバスはスンバワ島の山岳地帯を走っている。道は曲がりくねり、揺れも激しい。ウトウトするとトラックバスから振り落とされそうになるので大変だ。いつしか夜もふけ、やがて東の空が白みはじめた。マンシュールさんはとうとう1発も撃つことなく夜明けを迎えた。
 トラックバスはドンプーという町に着いた。ここでマンシュールさんは降りた。1時間ほど停まるというので、日英独のぼくたち3人は、食堂で朝食にした。ここでエリッヒは大声を張り上げ、
「エニーウエア、エニーボディー、チートミー!(どこでも、誰でも、みんなが俺をだます!)」
 という意味の言葉をドイツ語で叫んだ。
 ドイツ語など誰もわからないのに、彼はさらにドイツ語でペラペラとまくしたてた。まるで噛みつかんばかりの口調。エリッヒは100ルピア(約80円)のものを頼んだのに、食堂のおばちゃんは150ルピア(約120円)のものを持ってきたからだという。ぼくとデビッドはもうウンザリ。「またかよ」という顔で目を合わせた。
 スンバワ・ベサールでも、エリッヒは同じようにして何度も怒鳴った。彼はこの町に知人がいるといって、手帳に書いた住所を見せながら、「ジャラン××(××通り)はどこ?」と通りすがりの人に聞いてまわった。相手の人が「英語はわかりません」という顔をすると、「オー、インドネシア、ピープル、バッド!(インドネシア人はひどいヤツらだ)」と吐き捨てるようにして言う。そしてそのあとは、決まったようにドイツ語でまくしたてるのだ。
 市場で買い物をしても、食堂に入っても、5ルピアとか10ルピア、日本でいえば5円、10円にものすごくこだわり、ふた言目には「チートミー(俺をだましてる)」になる。エリッヒはぼくたちに何度となく「インドネシアの自然はすばらしいけど、人間は最低だ」と繰り返し言うのだった。
 デビッドはデビッドで、エリッヒをすごく嫌っていた。エリッヒはことあるごとにドイツとイギリスを比較し、「ドイツの方が上だ、ドイツ人の方がはるかに優秀だ」と強調した。
 デビッドがぼくに「エリッヒは英語だとエリックになる」と言ったときは、
「エリッヒはドイツ人の名前だ。イギリスとは関係ない」
 と言ってムキになって怒った。
 そんなエリッヒだったが、スンバワ・ベサールの教会に行ったときは、ころっと態度を変えた。そこには20年以上、この地で布教しているドイツ人神父がいたからだ。
 神父と話しているときのエリッヒは、まるで手のひらを返したかのように、素直な態度だった。教会で昼食をいただいたのだが、テーブルには教会自家製の白パンと黒パンが出た。ぼくとデビッドはほとんど白パンを食べたが、エリッヒはむさぼるように黒パンを食べつづけた。「久しぶりに食べるドイツの黒パンだ!」と言って、なんと目に涙を浮かべてた。
 そんなエリッヒだったが、ドンプーの食堂で怒鳴り散らす彼の姿を見て、日独開戦か、英独開戦は間近だな…と思った。ぼくにしてもデビッドにしても、もう我慢の限界だった。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 005

ウォーレス線を越えて

 ジャワ島東端のバニュワンギ駅前からバスでフェリー乗り場へ。10分ほどの距離だ。フェリー乗り場では、夜のバリ海峡を見る。対岸にはバリ島の灯。バリ島のギリマヌク港行きのフェリーは、それほど大きなものではなかった。5台のトラックと7台の乗用車、1台のバスでいっぱいになる。積み残されたトラックが、かなりの台数になった。
 夜のバリ海峡を渡り、バリ島のギリマヌク港に上陸。すぐさまバスで島の中心のデンパサールへ。さすがにインドネシア一の観光地、バリ島だけあって、デンパサールには高層ホテルが建ち並んでいた。ぼくはといえば、裏町の1泊400ルピア(約330円)の安宿「HOTEL CHANDRA」に泊まった。
 バリ島の朝は早い。まだ暗いうちから町はにぎわいはじめる。バスやトラック、ベモ(軽自動車の乗合タクシー)、バイク、馬車がけたたましい警笛を鳴らして大通りを走り過ぎていく。
 デンパサールからはバスで、次の島であるロンボク島への船が出るパダンバイへ。
 パダンバイの海の色は目がさめるよう。浜辺には色とりどりに塗られたカラフルな漁船がずらりと並んでいた。砂浜を歩き、岬近くで裸になり、真っ青な海で泳いだ。
 港の前には食堂が1軒、あった。中国の海南島出身の育我(イーウォア)さんの食堂。ここで100ルピア(約80円)のナシゴレン(焼き飯)を食べた。店にはほかには客もなく、船が出るまでの間、育我さんはぼくの話し相手になってくれた。中国語の簡単な会話を教えてもらった。育我さんは中国には帰るつもりはないといっている。インドネシアが「私の故郷」とも言った。華僑は強い!
 14時出港と聞いていたロンボク島行きの船は、予定を変更し、11時に出港。あやうく乗り遅れるところだった。船はパダンバイの桟橋を離れると、ロンボク海峡に出ていく。後方のバリ島の山々は厚い雲に覆われていたが、前方の洋上には雲ひとつない。沖の小島には見事な潮吹き岩があった。波が島にぶつかるたびに、岩間からはまるで噴水のように、ピューッと潮が吹き上げた。
 バリ島からロンボク島までは7時間の船旅。波が荒くなり、船は大揺れに揺れ、乗客の大半は船酔いをした。みんなグッタリし、あちこちでゲーゲーやっている。船酔いとは無縁のぼくだけが1人、元気だった。
 バリ島とロンボク島の間のロンボク海峡は水深が深い。世界の生物分布の重要な境界線であるウォーレス線は、このロンボク海峡を通っている。イギリスの生物学者ウォーレス(1823~1913年)が提唱したこの線を境にして、西側を東洋区、東側をオーストラリア区とした。
 船はロンボク島のアンペナン港を目指した。夕方、アンペナンの町並みが見えてきた。港には桟橋がなく、何隻ものはしけが船に横づけされる。乗客は我さきにとはしけに乗り移る。はしけは満員の乗客を乗せて浜辺へ。波が引いた瞬間に飛び降り、すぐさま走る。グズグズしていると、寄せる波をかぶり、全身ずぶ濡れになってしまう。
 アンペナン港の出口では、パスポートチェックがあった。警官に台帳を見せてもらうと、デビッドの名前があった。彼はぼくより1日早く、昨日、アンペナン港に着いていた。ロンボク島で彼に再会できるかもしれないと思った。
 アンペナンでは、かわいらしい女の子の客引きに手をひかれ、彼女の家でやっている民宿に泊まった。1泊150ルピー(約120円)という安さ。おまけに夕食は家族と一緒に食べた。食事代はタダ。夕食後は彼女の部屋で、日本の歌のカセットを聞いた。
「私、大好きなの」といって、吉永早百合の歌も聞かせてくれた。
 翌朝は彼女の見送りを受けて出発したが、後ろ髪を引かれるような思いだった。
 アンペナンからロンボク島の中心、マタランまでは町つづき。目抜き通りには中国人の店が建ち並んでいる。
 マタランからは、ベモに乗ってロンボク島を西から東へと横断する。島の東側には、リンジャニ火山(3726m)の裾野がスーッと延びている。裾野はそのまま海に落ちている。荒涼とした風景で、人も少ない。
 ロンボク島の東側にあるロンボク港から、次の島、スンバワ島に船が出ている。切符を買うときにパスポートをチェックされたが、そこで、デビッドがぼくよりも先にスンバワ島に渡ったことを知った。
 スンバワ島行きの船の出港時間になった。
 ロンボク港にも、アンペナン港と同じように桟橋はない。靴を脱ぎ、ズボンをまくり、泥浜にズボズボもぐりながら歩いた。水辺に置かれた小舟に乗り、沖に停泊している船に乗り移った。船はエンジンを始動させ、錨を上げて動き出した。
 ロンボク島とスンバワ島の間のアラス海峡を行く。ロンボク島は次第に遠くなっていったが、リンジャニ火山はいつまでも水平線上に小さく見えていた。

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

六大陸周遊1973-74 [完全版] 004

ジャワ島横断

 スマトラ島南端のタンジュンカランからはテレクベトゥン、パンジャンと3つの町がつながっている。そのうちのパンジャンからジャワ島へ、連絡船が出ている。
 1973年8月27日、夜明けとともに、バスでパンジャン港へ。朝焼けで、東の空は色鮮やかに燃えていた。ジャワ島のメラック港行きの連絡船は11時出港だというのに、すでに大勢の人たちが列をつくって並んでいた。
 港には連絡船の乗客相手の露店が何軒も出ていた。そんな露店のひとつで朝食にする。地面に座り、おかずつきの飯を3杯、食べた。1杯が25ルピア(約20円)。8時には連絡船の切符が売り出された。400ルピア(約330円)だった。
 10時、乗船。11時、連絡船は定刻通りにパンジャン港を出港。小島がいくつか見える。どの島も濃い緑で覆われている。
 連絡船はスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を行く。真っ青な海だ。
 船内ではポルトガル人の旅行者に会った。オリベイラさんという66歳の人。ぼくと同じように、ズッシリと重いザックを背負って世界をまわっている。頭こそすっかりはげ上がっているが、話していると、66歳という歳をすこしも感じさせない。
 オリベイラさんは日本にも来たことがある。
 2ヵ月ほど滞在し、北は稚内から南は種子島までまわった。
「ここがよかった、あそこがよかった」と、日本各地の地名がポンポンとオリベイラさんの口から飛び出してくる。
「日本を旅するのは鉄道が一番」
「日本の中では東北が一番」
 ともいっていた。
 前方のジャワ島が次第に大きく見えてくる。スマトラ島との見た目の違いの大きさに驚かされてしまう。海から見るスマトラ島はしたたるような緑色。ところがジャワ島は茶色一色だ。開発の違いもあるだろうが、それ以上に気候の違いが大きいようだ。スマトラ島はほぼ一年中、雨の降る熱帯雨林気候。それに対してジャワ島は雨期と乾期がはっきりと分かれるサバンナ気候。8月というと、ジャワ島は乾期の最中なのだ。
 スマトラ島のパンジャン港から5時間で、連絡船はジャワ島のメラック港に到着した。港に隣接してバス乗り場がある。客引きに引かれるままに、ぼくとオリベイラさんはジャカルタ行きの急行バスに乗った。ジャカルタに着いたときには、すでにとっぷりと日は暮れていた。バスターミナルでオリベイラさんと別れ、中心街を歩いたが、インドネシアの首都とは思えないほどの暗さだった。
 1000ルピア(約825円)払って「HOTEL SEMARANNG」に泊まったが、ひと晩中、蚊にやられた…。
 インドネシアからはポルトガル領ティモール経由でオーストラリアに渡るつもりにしていたので、翌朝はジャカルタのポルトガル領事館にビザをもらいに行った。そこでは、別れたばかりのオリベイラさんと再会した。
 さらに、そこではイギリス人旅行者のデビッドにも再会した。なんという偶然。彼は28歳で、マレーシアのペナン空港で会った。デビッドはきれいにひげをそり、世界を長く旅しているとは思えないほど、こざっぱりしていた。彼もメダンに渡り、スマトラをバスで横断するというので、話がはずんだ。デビッドはバスでスマトラ島を横断したあと、パンジャン港から夕方の連絡船に乗り、ジャワ島に渡ったのだという。ぼくたちはポルトガル領事館近くのカフェで夢中になって旅の話をした。
 ポルトガル領ティモールのビザを発給してもらうと、オリベイラさんとデビッドに別れを告げる。デビッドには「私もタカシと同じように、これから島づたいに東に行く。そしてポルトガル領ティモールからオーストラリアに渡るつもりにしているので、またどこかで会えるかもしれないな」といわれた。オリベイラさんには「ポルトガルに来たときには、ぜひとも我が家に寄りなさい」といわれた。そしてポルトガル北部の港町、ポルトの住所を書いてくれた。
 ジャカルタのガンビール駅から16時50分発のスラカルタ行き急行列車に乗り、ジャワ島中部のジョク(*グ?)ジャカルタに向かった。車窓を流れていく風景はスマトラ島とは大違いで、きれいに耕された水田がつづく。ジャワ島はアジアでも有数の人口密度の高いエリアなのだ。やがて日が暮れ、田園風景は闇の中に沈んでいく。
 ジョク(*グ?)ジャカルタ到着は午前3時37分の予定。乗り過ごさないようにと、緊張していたので、おちおち寝てもいられない。ところが4時になっても、5時になってもジョク(*グ?)ジャカルタには着かない。そのうちに夜が明けてしまう。列車がジョク(*グ?)ジャカルタ駅に到着したのは、4時間遅れの8時前のことだった。
 なぜ、ジョク(*グ?)ジャカルタ駅で下車したかというと、カンボジアのアンコールワットと並び称される東南アジア屈指の仏教遺跡、ボロブドールに行ってみたかったからだ。ボロブドール遺跡はジョク(*グ?)ジャカルタの北西約50キロのところにある。
 バスに乗り継ぎ、ボロブドール遺跡へ。入場料の25ルピア(約20円)を払って石段を登っていく。英語の案内板には、
「ボロブドール遺跡は9世紀に造られたもの。8層から成る安山岩の建造物で高さは32メートル。一番下の正方形の壇の一辺は128メートル。全部で72のストーパ(仏塔)があり、最上部のストーパが最大」
と書かれていた。
 東南アジア屈指の仏教遺跡といっても、訪れる人は少なく、ピラミッド状の遺跡を独り占めにしているような気分だ。
 ボロブドール遺跡のてっぺんからの眺めはすばらしいもので、北東にメラピ山(2911m)(*2014年現在、2930m)、北西にスンビン山(3371m)、南西にメノーレ連山を望み、山々に囲まれた盆地にはココヤシが茂り、畑ではタバコが盛んに栽培されている。そんな眺望を目に焼きつけたところで、ボロブドール遺跡のてっぺんで昼寝した。
 ジョク(*グ?)ジャカルタ駅に戻ると、列車でスラバヤへ。ジャワ島では首都のジャカルタに次ぐ第2の都市だ。ここでひと晩泊まり、翌日、バニュワンギに列車で向かった。厳しい暑さ。車窓からはポツン、ポツンと富士山型の火山を見る。地図を見ると、それらの火山はどれも3000メートルを超えている。山岳地帯に入ると、松林を多く見かける。山の斜面を切り開いたコーヒー園もところどころで見る。途中の停車する駅では、ものすごい物売りの攻勢。あまりのすごさに、列車の扉は閉められたまま。ジャワ島東端のバニュワンギ駅に到着したのは、スラバヤ駅を出てから7時間後のことだった。すでに日はすっかり暮れていた。
 ここから次の島、バリ島に渡る。スマトラ島とジャワ島は大スンダ列島になるが、バリ島からは小スンダ列島になる。今度は小スンダ列島の島々を東へ、東へと進んでいく。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

六大陸周遊1973-74 [完全版] 003

スマトラ島横断

 8月21日、ペナン島からマレーシア航空の851便で、インドネシア・スマトラ島のメダンに飛んだ。飛行機の小さな窓から、食い入るようにして濃紺のマラッカ海峡を眺めた。一筋の長い航跡を残して、大型タンカーがシンガポールの方向に進んでいた。
 飛行機は高度を下げ、厚い雲の中に入る。グラグラグラッと大きく揺れた。雲を抜け出ると、スマトラ島の長い海岸線が見えてくる。海岸沿いの平原の向こうには、山並みが連なっている。島とは思えないような雄大な風景。スマトラ島は面積が44万平方キロ(*2014年現在、47万平方キロ。要修正?)で、日本よりもはるかに大きい。
 このスマトラ島を皮切りにジャワ島、バリ島、ロンボック島、スンバワ島、フローレス島、ティモール島と、インドネシアの大スンダ、小スンダ列島を島づたいに東へ、東へと進んでいくのだ。
 スマトラ島に渡ってまっさきに感じたことは、
「なんて涼しいんだろう」
 ということだった。
 マレー半島の暑さが厳しかったので、よけいにそう感じたのかもしれない。
 メダンはスマトラ島ではパレンバンと並ぶ大きな町。ここからスマトラ島南端のタンジュンカラン(*現・バンダールランプン、と入れる?)まではバスで行く。その距離は日本列島縦断以上で、2000キロを超える。(*本州縦断なら超えるのはありえるが、本当に日本列島縦断で2000km程度か? また、メダン~バンタールランプン間も2000kmを超えてないように思える。要確認)
 40人乗りのオンボロバスで窓ガラスはない。そのかわりにビニールで窓をカバーしている。満員の乗客。うれしいことに、ぼくの隣に若い女性が座る。名前はソフニ。バスには2人の運転手と2人の助手が乗っている。2人の運転手は交替でバスを運転し、昼夜の別なく走りつづけるという。
 スマトラ島横断のバスは人ごみをかき分けるようにしてターミナルを発車。ごちゃごちゃと家が建ち並ぶメダンの町並みを抜け出ると、一面のゴム園が広がる。ゴム園が途切れると、今度は油ヤシ園。ゴムと油ヤシの林が交互に車窓に現れた。
 マラッカ海峡沿いの平原からスマトラ島中央部の高地に入っていくと、一段と涼しくなった。肌寒いくらいだ。山間にきれいなトバ湖を見る。バスは湖畔の道を走り、中央高地の峠を越え、インド洋岸に下っていった。天気が変わり、激しい雨が降っていた。
 夜になってシボルガの町に着く。バスは夜通し走りつづける。なにしろ窮屈な座席なので、隣のソフニといやでもおうでも抱き合うな格好で寝るのが、何ともうれしいことだった。彼女の体のあたたかさがジンジン伝わってくる。
 真夜中にバスはガクンと止まった。ぬかるみに車輪をとられ、立ち往生してしまったのだ。ザーザー降りの雨の中、我々、乗客はズブ濡れになってバスを押した。
 スマトラ島横断の第2日目。
 雨はやむ気配もなく、ずっと降りつづいている。気温は20度を超えているが、寒さすら感じるほどだ。
 バスは赤道を越えた。赤道の通過地点には簡単なモニュメントがあった。北半球から南半球に入ったのだ。別に世界が変わるわけでもないが、赤道を越えたというだけで、なにか胸がドキドキしてくる。
 ブキティンギを通り、夜になってスマトラ島のインド洋岸では最大の町、パダンに着いた。ここでメダンから乗った乗客の大半が降りた。ソフニも降りた。彼女とは握手をして別れたが、ぼくのメモ帳に住所を書いてくれた。ひと晩、抱き合って寝た!?(*縦中横処理せよ)だけに、忘れられないソフニになった。
 パダンを過ぎても雨は降りつづいた。スマトラ島のマラッカ海峡側とインド洋側では雨量が全然違う。マラッカ海峡側のメダンの年間降水量は2000ミリだが、インド洋岸のパダンはその倍の4000ミリにもなる。
 スマトラ島横断の第3日目。
 バスはインド洋岸から中央高地へと、山道をあえぎあえぎ登っていく。気温はグングン下がり、海岸地帯とは10度近くも違う。夜が辛い…。狭い座席で、ほとんど身動きもできない。その中で眠るのだから、思うことは「おもいっきり足を伸ばして寝たい!」ということばかりだった。
 スマトラ島横断の第4日目。
 目がさめるとすでに山影はない。バスはスマトラ島東部の広々とした平原の中を走っていた。地平線を赤く染めて朝日が昇る。天気がよかったのは早朝だけで、じきに雲に覆われてしまう。
 南シナ海に流れ出る川を何本も渡る。どの川も水量が豊か。悠々と流れている。川では村人たちが沐浴したり、洗濯をしている。ほとんどの川には橋がかかっていないので、フェリーで渡る。そのため川を1本渡るのに、ずいぶんと時間がかかった。
 ガタガタ道を走っているときに、ちょっとした事件が起きた。悪ガキが走ってバスの後部に飛び乗り、テールランプを盗った。運転手はバスを停めると、助手と一緒になって悪ガキを追ったが、逃げられてしまった。
 スマトラ島横断の第5日目。
 メダンと並ぶ大きな町のパレンバンに近づくと、油田から噴き出すガスを燃やす炎が、あちこちで見られた。日が暮れると、夜空を焦がす炎は不気味なほどだった。日本の援助でつくられたという大きな橋を渡ってパレンバンの町に入っていく。パレンバンまで来ると、「スマトラ島横断」も、やっとゴールが見えてくる。
 スマトラ島横断の第6日目。
 今日がいよいよ最終日。熱帯の巨木、マホガニーが空を突く森林地帯を見る。だが、それもごく一部で、伐採が激しすぎた結果なのだろう、森林が草原に変わってしまったところを多く見かける。草原の中に残る巨木の切り株が、なんとも虚しく寂しげだ。西空がうっすらとピンクに染まり、スマトラ島の山々が紫色になって沈むころ、バスはスマトラ島南端のタンジュンカランに到着した。ここが終点だ。
 ずっと固い座席に座りっぱなしだったので、尻が痛くてどうしようもない。
 バスの中ではあまりよく眠れなかったので、目が腫れぼったい。
「スマトラ横断」の6日間、ほとんど歩いていないので、バスから降りると、足がふらついた。
 その夜はメダンから乗ってきたバスのバス会社、ALSの事務所で寝かせてもらった。部屋の片すみにシュラフを敷いて、思いっきり足を伸ばして眠ることができた。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

六大陸周遊1973-74 [完全版] 002

出発点はタイのバンコク

 1973年の終戦記念日は、猛烈に暑い日だった。
 重いザックを背負い、水筒を肩からぶらさげたぼくは、羽田空港へと急いだ。
「これでしばらくは、日本ともお別れだな…」
 と思うと、いつもの見慣れているはずの東京がどこか知らない遠くの町に見え、なにか異国を旅している時のような新鮮な気持ちを感じた。
 長い旅に出る直前の、うれしいような、寂しいような、怖いような、揺れ動く複雑な心境だった。
 これから2年間の予定で、アジア、オーストラリア、アフリカ、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカという順に世界の6大陸をまわろうという「六大陸周遊計画」と名づけた旅が始まる。
 まずはタイのバンコクに飛び、マレー半島からインドネシアのスマトラ島に渡り、インドネシアの島々を東へ。東端のティモール島からオーストラリアに渡るのだ。
 17時45分発のパンアメリカン航空001便は、定刻よりも30分ほど遅れて羽田空港を出発した。暮色(*ぼしょく)に包まれた日本列島を眼下に見下ろしながら、「六大陸周遊」の出発点、タイのバンコクへと飛んだ。
 バンコクに到着すると、下町の安宿に泊まり、そこを拠点に町を歩いた。チャオプラヤ川の船にも乗った。まさに「水の都バンコク」。チャオプラヤ川の本流とその支流では、人々は川で体を洗い、洗濯をしている。野菜や果物、雑貨を満載にした船がひんぱんに行き交う。乗客を乗せた水上バスも行き来している。そのあと、バンコク市内のスズキのディーラーで、「サハラ縦断」(『極限の旅』中の1972年)に使ったのと同じバイク、スズキ・ハスラーTS250を借り、「バンコク→バンコク」でタイ国内をまわった。古都のアユタヤやクワイ川の「戦場にかける橋」が胸に残った。
 バンコクに戻り、バイクを返却すると、いよいよ出発だ。
 バンコク中央駅のフォアランポーン駅から急行列車でマレーシアのバターワースに向かった。超満員の乗客。車内には入れず、デッキに腰をかけ、流れゆく田園風景に目をこらした。広々とした水田。日が落ち、あたりが暗くなっても外を見ていた。すっかり暗くなり、何も見えなくなっても、不思議と満たされた気分だった。
「六大陸周遊」の旅に出た喜びがジワーッと胸にこみあげてくる。
 いくつかの駅に停まり、車内がすこしすいてきたところで通路にシートを敷く。夜がふけてきたところでシュラフにもぐり込んで眠った。窮屈な格好で、エビのように体をキュッと曲げて眠ったが、列車の規則正しいガタゴトン、ガタゴトン、ガタゴトン…という振動音が子守歌になり、ぐっすりと眠れた。
 目がさめたのは夜が明けるころだった。天気は悪く、低くたれこめた雨雲からは細かい雨が降っていた。列車はすでにクラ地峡を通りすぎ、マレー半島に入っていた。熱帯の赤色土壌、ラテライトが強烈に赤い。線路沿いにはゴム園を多く見かけた。
 昼前に南タイの中心、ハジャイに到着。乗客はゴソッと降り、やっと座席に座れた。そこから国境へ。国境のパダンベサール駅で列車は1時間ほど停車し、駅舎のイミグレーションでタイの出国手続きとマレーシアの入国手続きをした。タイからマレーシアに入り、終点のバターワース駅に着いたのは夕方。バンコクから24時間の列車の旅だった。
 フェリーで目の前のペナン島に渡る。島の中心のジョージタウンへ。安宿に泊まると、夜の町を歩いた。ジョージタウンには中国人が多く、にぎやかな目抜き通りに面して、何軒もの宝石店や金を売る貴金属店が軒を連ねていた。ここからインドネシアのスマトラ島に渡るのだ。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 001

第1章 アジア編


2冊の本のおかげだ!

 サハラ砂漠縦断を一番の目的とする「世界一周」(*電子書籍版『極限の旅1971-72』にあたる)から帰ると、すぐに次の計画をつくり上げた。というよりも、旅している最中に次の旅を計画していたというほうが正確だろう。それは「六大陸周遊計画」だ。アジア→オーストラリア→アフリカ→ヨーロッパ→北アメリカ→南アメリカという順番で、世界の六大陸をまわろうというものだった。期間はおよそ2年とした。ぼくの頭の中には、世界を駆けめぐることしかなかった。
 ほんとうは全コースをバイクで走りたかったが、大陸から大陸へとバイクと一緒に渡るのは多額の費用がかかってしまうので、今回はヒッチハイクをメインにし、その中でバイクの旅を織りまぜていくことにした。例えばアジアではタイのバンコクでバイクを借り、タイ国内をまわったあとバンコクで返し、オーストラリアではシドニーでバイクを借り、オーストラリアを一周したあとシドニーで返し、アフリカでは南アフリカのヨハネスバーグでバイクを借り、南部アフリカの一周を終えたあとヨハネスバーグで返し……という方法をとることにした。
 旅の資金ですごくありがたかったのは本の印税。この時期、ぼくは自分にとって最初の本となる『アフリカよ』(浪漫)と第2冊目になる『極限の旅』(山と渓谷社)をほぼ同時に書いた。
『アフリカよ』は「アフリカ一周」(1968~69年)を書いたものだが、そのきっかけはなんともラッキーなものだった。まさに「強運カソリ」を地でいくような話なのである。
「世界一周」(1971~72年)に旅立つ前に、『現代の探検』(山と渓谷社)で「アフリカ一周」のときの「ソマリア縦断」を書かせてもらった。
 そのとき『現代の探検』の編集長、阿部正恒さんから東京農業大学探検部OBの向後元彦さんを紹介された。向後さんを訪ねていった先は、偉大なる旅人であり民俗学者の故・宮本常一先生が所長をしていた、日本観光文化研究所(観文研)だった。そこでは向後元彦さんから宮本先生の長男、都立大学山岳部OBの宮本千晴さんを紹介してもらった。宮本さんとの出会いは、ぼくにとってはまさに運命的なものといっていい。
 世界を知りつくしている宮本千晴さん、向後元彦さんの話しはぼくの胸の中、奥深くにしみ込んでいった。それからというもの、宮本さんや向後さんの話しを聞きたくて、ひんぱんに観文研を訪ねた。
 観文研では『あるくみるきく』という月刊誌を出していた。ある日、宮本さんに、それに「アフリカ一周」を書いてみないかといわれた。『あるくみるきく』は毎月、特集形式で出していたので、それに書くということは本を1冊書くようなもの。自分にできるかどうか、自信がなかった。
 すると宮本さんは、「そんなに大げさに考えなくてもいい。旅の間で印象に残ったことをカードに書けばいい」と言ってくれた。そこで「世界一周」に旅立つまでに、全部で150枚くらいのカードを書いた。
 ぼくが出発してからというもの、それを向後元彦さんと早稲田大学探検部OBに伊藤幸司さんが整理し、編集してくれた。書いた本人がいないのだから、さぞかし大変な作業だったことだろう。その『あるくみるきく』の「アフリカ一周」は、ぼくがロンドンの「アエロス」でバイトをしているときにでき上がった。1冊送ってもらって、それを見たときのうれしさといったらなかった。
 ところが、その『あるくみるきく』の「アフリカ一周」に目を止めてくれた人がいた。作家の坂口安吾や壇一雄らと懇意にしていた編集者、故・八木岡英治さんである。ぼくが「世界一周」から帰るとまもなく、八木岡さんが訪ねてきた。会うなり『あるくみるきく』の「アフリカ一周」はおもしろかった、ぜひとも本にしましょうといってくれたのだ。そのようないきさつで『アフリカよ』は出来上がった。
 ところでゲラ(校正)が出たとき、八木岡さんはそれを作家の壇一雄に読んでもらった。壇さんはすごくおもしろがってくれたという。そして、本の前書きに、
「ここに青年の行動の原型があり、純粋な旅の原型がある。何か途方もなく大きな希望があり、夢がある。ぼくが今、二十歳で、この著者と同じことが出来ないのが、唯一、残念なことである」
 と書いてくれた。
 八木岡さんの話しによると、壇さんは『アフリカよ』のゲラを読むとすぐに、ぼくに会いたいといったという。今となっては何とも残念なことなのだが、壇さんに会うこともなく「六大陸周遊」に出発してしまった。
 もう1冊の本の『極限の旅』は、山と渓谷社の書籍編集部に移った阿部正恒さんが企画し、編集してくれたもので、「世界一周」を書いた。本の完成はぼくが「六大陸周遊」に出発してからのことだったが、阿部さんの一存で、なんと、本の印税を出発前に出してくれた。このようにして『アフリカよ』と『極限の旅』の2冊の本の印税を手にして「六大陸周遊」に旅立った。それは1973年8月15日のことで、「世界一周」から帰国してまだ1年もたっていなかった。それでも出発できたのは、この2冊の本の印税によるところがきわめて大きかった。

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