六大陸周遊1973-74 [完全版] 026

ブラドと走った2200キロ

 チャーターズタワーの町を過ぎると、交通量はガクッと減った。ときどき、思い出したように車が通るが、乗せてくれない。ヒッチハイクのきわめて難しい内陸部に入ったのだ。シドニーからずっと楽なヒッチハイクをしつづけてきたので、それがこたえた。
 日が高くなるにつれて、厳しい暑さになる。太陽が頭上に来るころは、まともに直射日光を浴びつづけているので、頭が割れるように痛む。日射病にかかったかのような辛さ。「地獄のあとは天国」。これは旅の法則だ。苦しんだかいがあり、午後になると、オンボロ車が停まってくれた。オイルがもるような車なので、どうせ近くまでだろうとタカをくくっていたら、なんと2200キロ先のキャサリンまで行くという。あのウォールさん一家と出会ったキャサリンだ。2200キロというと、日本だと東京から鹿児島、さらには沖縄の那覇あたりまで行く距離になる。
 乗せてくれたのはユーゴスラビア人のブラド。1947年生まれで、ぼくと同年。それだけに気があった。チャーターズタワーからキャサリンまで、4日間のブラドとの旅が始まった。
 目をキラキラと輝かせ、夢を見、夢を追いつづけている人に出会うと、無性にうれしくなるものだ。ブラドはそんな若者だ。
 彼はユーゴスラビアのザグレブで生まれた。ユーゴスラビアの貧困と不自由から逃れたくて、19歳のときに、オーストラリアに単身で移住した。バイタリティーに富んだブラドは言葉のハンデをものともせずに、いろいろなことに手をだしてきた。今は北部地方のビクトリア川を中心にして、ワニの密猟をやっているという。
「真夜中の川に行って、明かりひとつで川を下っていくんだ。ワニをみつけ、パーッとサーチライトで照らすと、ワニはすっかり動けなくなってしまう。そこを銃で狙い撃ちする」
 と、得意気に話す。1ヵ月で5000ドル(約200万円)も稼いだこともあるという。ブラドはその資金を元にして、オパールの原石を買い込んでいた。
「ワニの密猟はヤバイので、そろそろオパールに換えようと思っている。オーストラリア産のオパールを世界中に売るんだ」
 ブラドとはいろいろなことを話した。
 その中でもすごく印象に残っているのが、自由についてだった。
「人間にとって一番大事なものは自由だ。自由に自分の頭で考え、それを自由に行動に移せる、そんな自由だ。そうでなかったら、人間は人間とはいえないよ。ユーゴスラビアにいたときは自由がなかった。政治の批判はできないし、自分の将来の選択の自由もない。何を考えようと自由なのに、夢を抱く自由もなかった」
 それだからブラドはオーストラリアに来てよかったと言っている。しかしブラドはオーストラリア人に好意は持っていなかった。おそらく彼がオーストラリアにやってきたころは、英語も話せずに、オーストラリア人に冷たくされたと思い込んでいるからだろう。
「オーストラリア人といったって、もとはといえば、みんな自分と同じような移民。それなのに新しくやってきた移民をバカにして」
 ブラドの話からも、いろいろな民族の混ざり合ったオーストラリアの抱える悩みを見ることができる。オーストラリアはいろいろな民族の寄り合い所帯なので、ドイツ系はドイツ系で固まり、フランス系はフランス系で、イタリア系はイタリア系というように、民族ごとで固まっている。オーストラリア人の本家ともいえるイギリス人でさえ、イギリス国内の対立をそのままオーストラリアに持ち込み、イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人は、お互いに反目し合っている。
 幅の広いグレート・ディバイディング・レインジ(大分水嶺山脈)を越え、内陸部に入っていくと、乾燥した大地が果てしなく広がっている。車窓からは車にぶつかって死んだカンガルーをひんぱんに見かける。カンガルーは暗くなると、車のヘッドライトをめがけて飛び込んでくる。
 ブラドのオンボロ車にも、ルーバー(カンガルー・バー)がついている。ルー・バーというのは、車の前につける鉄製の頑丈なバーで、ぶつかたカンガルーをはね飛ばすようになっている。ルー・バーはカンガルーのためばかりでなく、牛と衝突したときも、車や運転者や同乗者のダメージを減らしてくれる。ブラドは買ったばかりの新車を牛にぶつけてしまい、車は大破、そこでやむなく100ドル(約4万円)でこのオンボロ車を買ったのだという。
 日が落ちても走りつづける。睡魔に襲われてくると、ブラドは道のわきで車を止めた。そしてシートを敷き、我々は降るような星空のもとで野宿した。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 025

大分水嶺山脈を越えて

 オーストラリア東海岸北部のケアンズからタウンズビルに戻ると、国道78号で内陸部に入っていく。チャーターズタワーの町までは、老人の車に乗せてもらった。老人はぼくが日本人だとわかると、さんざん日本を非難した。
「日本は危険な国だ。なにをしでかすか、わかったものではない。(太平洋)戦争のときもそうだった。私はあやうく日本軍の空襲でやられるところだった」
 太平洋戦争中、日本軍は激しくダーウィンを爆撃したという。そのころ老人はダーウィンに住んでいた。日本軍の空襲で家は焼かれ、命からがら逃げ延びた。日本軍の空襲では多数の死傷者が出たという。そのときの恐怖のシーンが老人の脳裏に焼きつき、いまだに離れないという。
 オーストラリアには猛烈な勢いで日本車が進出していた。老人の車も日本車だった。だが、老人は言った。
「私が日本を嫌っているのと、日本車が好きで乗っているのとは、まったく関係ないことだ。日本車はすばらしい。ほんとうにすばらしい。値段が安いのにもかかわらず、品質がきわめて高い。私はそれだから日本車に乗っている。ただ、それだけのことだ」
 老人は70を過ぎている。年などまったく関係ないかのようにぶっ飛ばす。もっともオーストラリアの国道をノロノロ走っている車などはないが。
 車はオーストラリアの東側を南北に連なる大分水嶺山脈(グレート・ディバイディング・レインジ)に入っていく。山脈といっても別に険しい山並みがつづくわけでもないが、あたりの風景は一変し、サトウキビ畑は完全に消えた。
 きれいな夕日を見る。雲ひとつない西の空はまばゆいばかりに輝き、やがて大きな夕日がゆっくりと山の端に落ちていく。チャーターズタワーの町に着いたときは、すでにあたりは暗かった。日本大嫌いの老人にお礼を言って車を下り、その夜は町外れで野宿した。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 024

熱帯圏に入っていく!

 マリーボロからは若者の車に乗せてもらった。背がすらりと高い。イアン、20歳。1200キロ北のタウンズビルまで行く。
 車はホールデンのワゴン車。ひどいオンボロ車。バッテリーは上がり気味で、エンジンがなかなかかからない。タイヤはツルツルで、おまけにブレーキのききも悪い。乗っているのが怖いくらい。だが、イアンはそんなこともおかまいなしに飛ばす。カーブにさしかかったときは身が縮むような思い。車は横滑りし、思わず「あーっ!」という声が出てしまう。日が暮れかかったころ、カンガルーが道に飛び出してきた。イアンは急ブレーキをかけたが間に合わない。カンガルーに激突かと、目をつぶってしまったほど。だが、幸いにも尻尾にヒットしただけで済んだ。カンガルーは大丈夫だったようで、ピョンピョン跳ねて逃げていった。イアンの車はといえば、片一方のヘッドライトが破損した程度のダメージで済んだ。
 南回帰線を越え、熱帯圏に入っていく。ロックハンプトン、マッケイと大きな町々を通り過ぎていく。イアンは夜通し走りつづけ、一睡もしない。夜が明けると、あたりは一面のサトウキビ畑だった。
 昼前にタウンズビルに着いた。イアンに誘われるままに、彼の家に行き、昼食をご馳走になった。イアンは母親、弟と一緒に住んでいた。お母さんはガンの手術で左腕を切断、弟の小学生のバーディは障害児で、なんとも気の毒な家族。しかしイアンに暗さは微塵もない。それから2日、彼の家で泊めてもらった。
 翌日は日曜日。一家と一緒に太平洋のマグネティックアイランドに行った。ここはタウンズビルにも近い島なので、ちょっとした観光地になっている。浜辺でイアン、バーディとボール投げをし、昼にはお母さんがつくってくれたお弁当を一家と一緒に食べた。
 イアンの家を発つときは、お母さんもバーディもぼくとの別れを惜しんでくれた。お母さんは「途中で食べなさい」といってお弁当を持たせてくれた。
 タウンズビルから370キロ北のケアンズへ。その間では全部で9台の車に乗せてもらった。そのうち20キロほど乗せてもらった車は、スピード違反でパトカーに捕まり、警官に切符を切られた。罰金は10ドル(約4000円)。かなりの額だ。運転している人に何か、すごく申し訳ない気持ちになる。もし彼がぼくを乗せなかったら、パトカーに捕まらなかったかもしれないと思ってしまうからだ。そんなぼくの顔を見て、「スピード違反は、キミにはまったく関係ないよ」と運転している年配の人は言ってくれた。
 道の両側には、行けども行けども、広大なサトウキビ畑が広がる。アルトゥールさんという老人の車に乗せてもらったときは、そんなサトウキビ畑の一角にある製糖工場を案内してもらった。工場には次々とトロッコ列車でサトウキビが運び込まれる。そのサトウキビが粗糖になっていく過程を、工場を歩きながらわかりやすく説明してくれた。工場見学が終わると、しぼりたてのシュガーケーン・ジュース(サトウキビジュース)を飲ませてくれた。
 ケアンズへの9台目はドイツ系移民のゲーリック・ロドラーさんの車だった。ケアンズに着いたのは夜の8時過ぎで、ゲーリックには「今晩はウチで泊まっていったらいい」と言われた。ありがたくそうさせてもらった。彼は40代の半ば。ドイツ人の奥さんと10代の2人の娘さんがいる。夕食をいただいたあと、世界地図を真ん中に置き、ロドラー一家とおおいに世界を語り合った。
 翌朝、ゲーリックにケアンズ港まで送ってもらった。船でグリーンアイランドに渡るのだ。グリーンアイランドは珊瑚礁のグレート・バリア・リーフ(大保礁)の島。南北2000キロにも渡って延びるグレート・バリア・リーフは世界最大の大保礁だ。
 船は1日1便。9時の出港。往復で2ドル(約800円)。グリーンアイランドは手軽に渡れる島なので、観光客も多い。外国人観光客の姿も見受けられた。
 1時間ほど船に揺られると、グリーンアイランドに到着。すばらしくきれいな海の色で、スーッと吸い込まれそうになる。島を取り巻く遠浅の海の向こうで、太平洋の波が白く砕けている。ここでは海中を展望するガラス張りのアンダーウォーター・オブザーバトリーや、船底がガラス張りになったグラスボートで、色鮮やかなサンゴや熱帯魚を存分に見ることができた。夢の世界のようだった。
 グリーンアイランドからケアンズに戻ると、ゲーリックが車で迎えに来てくれていた。もうひと晩、彼の家で泊めてもらった。かわいい2人の娘さんたちとの夕食はなんとも楽しいものだった。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 023

すさまじい豪雨

 ブリスベーンの中心街を歩き、そのまま国道1号を北へ。「シドニー~ブリスベーン」間の国道1号は「パシフィックハイウェー」だが、ブリスベーンを過ぎると「ブルースハイウェー」と名前を変える。
 ここでは信じられないような出来事があった。
「早く郊外に出よう!」
 と、急ぎ足で歩いているときのことだった。
 鉄道のガードをくぐったところに1台の車が停まっていて、運転している人がぼくを手招きし、「乗りなさい」というのだ。
「キミの歩いている姿を見て、きっとヒッチハイクしているんだなと思ったんだけど、あそこだと道幅が狭くって、車を止められなかった。それでキミが来るまで、ここで待っていたんだよ」
 なんともありがたいことではないか。
 彼はダニーといって、40を過ぎていた。だが、若いころにはヒッチハイクでオーストラリア中を旅した。ぼくの姿を見て「あのころの自分を思い出したんだよ」という。
 ダニーにはよくしてもらった。車中ではサンドイッチをもらった。腹をすかせているぼくを見て、それだけでは足りないと思ったのだろう、さらにハチミツのたっぷりかかったクッキーや白身の魚のフライも出してくれた。ダニーにはブリスベーンから50キロほど先まで乗せてもらったが、別れぎわにはオレンジをゴソッと袋に入れて持たせてくれた。「これから北に行くと、ものすごく暑くなるから」といって、帽子までくれた。
 ダニーと別れたあとは、ブリスベーンから280キロ北のマリーボロまで行く車に乗せてもらった。ブリスベーンを出るときは、きれいに晴れ渡っていたが、マリーボロに向かうにつれて天気は崩れ、やがて雨が降りだした。雨はあっという間に豪雨に変わった。まるで空が抜けたかのような降り方だ。
 丘陵地帯を走っていたが、道路は川に変わり、濁流が渦巻いている。車のワイパーはまったく役に立たず、前方はほとんど見えない。車は10キロ以下のノロノロ運転。そこまで速度を落としても、ボンネットを越えて、バケツでたたきつけるかのような雨水がフロントガラスを打った。
(オーストラリアはその年の年末から翌年の1974年にかけて、広範囲な地域で、記録的な大洪水に見舞われた。ブリスベーンもブリスベーン川の氾濫で大きな被害を受けた。ぼくはそのころはアフリカに渡っていたが、現地の新聞でオーストラリアの大洪水のニュースを見たときは、まっさきにこの豪雨のシーンが頭をよぎった。)
 マリーボロまで来ると、つい今しがたまでのすさまじい豪雨がまるでうそのように、空は晴れ渡っていた。抜けるような青空。強い日差しがさんさんと降りそそいでいた。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 022

ヒッチハイク編「オーストラリア一周」の開始!

 キャンベラを出発。ヒッチハイク編「オーストラリア一周」の開始だ。まずはシドニーへ。雨が降っている。雨に濡れながらキャンベラの郊外まで歩き、そこで車を待った。
 最初は80キロ先のグールバーンまで行く車に乗せてもらった。パイプオルガン奏者のデビッドの車。彼はスイスのバーゼルで5年間、音楽の勉強をした。32歳。独身。こうしていろいろな人たちに出会えるのが、ヒッチハイクの最大の魅力だ。
 きれいな田園風景の中を走る。ユーカリの林。牧場ではヒツジが群れている。グールバーンに着くと、デビッドはカトリックの教会に連れていってくれた。神父とは親しいとのことで、教会のパイプオルガンを弾いて聞かせてくれた。薄暗いドームにパイプオルガンの音色が響く。ステンドグラスを通して差し込む光りが、ムードを一段と盛り上げた。
 デビッドはグールバーンの町外れまで連れていってくれた。そこからシドニーまでは、ほとんど待たずに、テッドとシェーンの老夫婦の車に乗せてもらった。2人は1ヵ月間、キャラバンカーでオーストラリアをまわり、旅を終え、シドニーの家に帰るところだった。キャンベラから280キロのシドニーには、夜になって着いた。テッド、シェーンと別れ、夜のシドニーの町を歩き、建設中のビル内でシュラフを敷いて眠った。
 翌日の午前中はシドニーの中心街を歩いた。久しぶりに吸う大都会の空気にホッとする。東京生まれ、東京育ちの自分が、シドニーを歩きながら「都会っ子」だということを実感する。完成したばかりのオペラハウスに行き、そこからシドニー湾をまたぐハーバーブリッジを眺める。シドニーと対岸のノースシドニーを結ぶフェリーが湾内をひんぱんに行き来している。客船用の桟橋には、真っ白な大型客船が停泊していた。
 昼過ぎにシドニーを出発。電車に乗ってシドニーを離れた。中央駅からホンズバイ駅まで行き、そこから歩いて国道1号に出た。
 シドニーの北、160キロのニューカッスルまでは若い女性に乗せてもらった。30代前半のすごくきれいな人。彼女の香水の匂いに頭がクラクラしてしまう。映画のディレクターをやっているとのことで、着ているものや化粧の仕方、話し方など、彼女のセンスの良さはきわだっていた。
「タカシが次の車に乗せてもらいやすいように」といって彼女はニューカッスルに着くと、町を走り抜け、郊外まで連れていってくれた。別れるときは、思わず彼女の手をギュッと握りしめた。つかのまの淡い恋!?
 彼女のおかげで、すぐに、次の車に乗れた。テリーとロイの2人組が乗っていた。ニューカッスルから750キロ北のサウスポートまで泳ぎに行くという。2人は運転を交替しながら夜通し走りつづけ、翌、早朝にはサウスポートに着いた。
 10月初旬のシドニーはやっと春になったといったところで、雨も冷たく、夜も寒く、震えながら野宿した。ところがニューサウスウエルス州からクイーンズランド州に入り、南緯28度のサウスポートまで来ると、初夏のような陽気。寒さからはすっかり解放された。この一帯の太平洋岸はゴールドコーストと呼ばれ、オーストラリアでも屈指のリゾート地になっている。
 サウスポートからクイーンズランド州の州都、ブリスベーンまでは85キロ。その間もほとんど待たずに乗せてもらえた。オーストラリアでのヒッチハイクは楽だ。シドニーから1000キロのブリスベーンに到着したのは午前10時前。なんと1日もかからなかった。
1000キロといえば、東京からだと山口県の岩国あたりで、相当な距離になる。ところがオーストラリアだと1000キロというのは、東京から大阪どころか、名古屋ぐらいの感覚だ。オーストラリアでの距離感は、日本とはまるで違う。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 021

南アフリカのビザに泣く…

 オーストラリアの首都キャンベラではユースホステルに泊まり、貸自転車に乗って、ビザを取るために南アフリカ大使館に行った。アジア、オーストラリアのあとはアフリカだが、西オーストラリアのパースから南アフリカのヨハネスバーグに飛ぶ計画なのだ。
「きっと、何日か待たされるに違いない」
 と覚悟していたら、なんとビザ担当の書記官に、
「明日の午前中に来て下さい」
 と言われ、いささか拍子抜けしてしまった。
 その日は1日、自転車でキャンベラ見物をした。国会議事堂、官庁街、キャンベラ大学、キャンベラ駅と見てまわる。最後が「戦争記念館」。オーストラリア兵が出兵した数々の戦争の写真や絵画などが展示されている。その中には、太平洋戦争での日本軍との戦いのものも数多くあった。
 翌日、南アフリカ大使館を訪ねる。すんなりとビザをもらえるものとばかり思っていたが、ビザ担当の書記官に呼ばれ、
「あなたのビザは本国照会になった。返事が戻るまでには4週間ぐらいかかるので、そのころにもう一度、来て下さい」
 と言われた。なんということ。
 ぼくの計画ではシドニーに行き、バイクを借り、「オーストラリア一周」をする。そのあとヒッチハイクで大陸を横断し、西オーストラリアのパースから飛行機で南アフリカのヨハネスバーグに飛ぶというものだった。急遽、予定を変更し、先にヒッチハイクで「オーストラリア一周」をしてキャンベラに戻り、南アフリカのビザを取り、そのあとバイクで「オーストラリア一周」をすることにした。こうして「オーストラリア一周」は「オーストラリア二周」になった。
 そう決めると、気持ちが楽になった。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 020

首都キャンベラに到着!

 ポートオーガスタからは国道1号でアデレードに向かっていく。町外れにはアンポール(オーストラリアの石油会社)の24時間営業のガソリンスタンドがあった。そこのレストランでコーヒーを飲みながらサンドイッチを食べた。このおかげで、新たな力が湧いてきた。
 その日は日曜日。平日に比べると、ヒッチハイクが難しい。ところがすごくラッキーな1日で、アデレード方向に歩きはじめると、ほとんど待たずにメルボルンまで行く車が停まってくれた。男女2人ずつの若者たちが乗る車だった。
 ぼくは首都のキャンベラに直行したかった。そのことを彼らに告げると、なんと300キロ先のアデレードではわざわざ遠回りをし、アデレード郊外の国道20号で降ろしてくれた。この国道20号はアデレードとシドニーを結ぶ最短ルートで、キャンベラは国道20号から南に入ったところにある。アデレードからキャンベラまでは1250キロだ。
 彼らのおかげで、そのあとすぐに、なんとキャンベラまで行く車に乗せてもらえた。信じられないようなラッキーさ。ディーンと奥さんのエリスが乗っていた。2人にはぼくと同じくらいの年ごろの息子がいるという。だが2人はとてもそんな年には見えない。見かけも考え方も若々しかった。
 オーストラリア最大(*最長?)の川、マレー川流域を走る。この一帯は豊かな農地で、ブドウなどの果樹園も多い。北部地方の荒涼とした原野とは、きわめて対照的だ。空気もひんやりとして湿っている。吹く風も冷たく、40度、50度という猛烈な暑さに慣れた体には、寒さがひどく身にこたえた。
 南オーストラリア州からビクトリア州に入り、きれいなミルジュラの町を過ぎると、ニューサウスウェールズ州になる。
 国道沿いの露店で夫妻はごっそりとリンゴとオレンジを買った。ディーンは「タカシ、食べたいだけ、食べなさい」と言ってくれたが、ぼくが遠慮して手を出さないでいると、すぐにこう言った。
「ここはオーストラリアだからね。日本ではないんだよ。日本式の遠慮は通じない」
 ディーンは言語学者。大阪で開かれた学会に、奥さんのエリスを連れて行った。夫妻が日本で何に一番、驚いたかというと、「日本人の何か欲しくても、すぐには欲しいといわない遠慮深い性格」だったという。
 ディーンとエリスは交替で車を運転し、夜通し走りつづけた。ワガワガという町に着いたとき、24時間営業のレストランで夫妻に夕食をご馳走になったが、遠慮なしに、腹いっぱいいただいた。
 ディーンは「あと、もうひと息でキャンベラだよ」という。ワガワガを過ぎると、国道20号はメルボルンとシドニーを結ぶ国道31号に合流し、ヤスの町を過ぎたところで、キャンベラに通じる道に入っていく。
 ニューサウスウェールズ州から連邦政府直轄のACT(オーストラリアン・キャピタル・テリトリー)に入る。やがて遠くにキャンベラの町明かりが見えてきた。ディーンは寄り道をして、小高い丘の上で車を停めてくれた。そこからはキャンベラの夜景を一望できた。
 ディーンとエリス夫妻の家に着いたのは午前3時を過ぎていた。夫妻の家でひと晩、泊めてもらう。「タカシ、自由に使いなさい」といってひと部屋、用意してくれた。きれいなベッド。真っ白なシーツ。ぼくはディーンとエリス夫妻の家で死んだように眠った。
 こうしてオーストラリアの首都キャンベラに10月1日に到着したが、ダーウィンからは4500キロ。その間で使ったのは4ドル(約1600円)だけだった。
 ディーン、エリス夫妻の家では昼近くまで寝かせてもらった。夫妻と一緒に昼食を食べ、そのあとキャンベラの中心街まで車で連れていってもらった。そこで夫妻と別れたが、エリスはぼくをギュッと抱きしめると、「タカシ、気をつけて旅をつづけるのよ」といって頰にキスしてくれた。
 じつによく整備されたキャンベラの町を歩く。驚くほどきれいな町だ。小道1本1本まで、すべて計画通りにつくられている。だがその日は休日で人通りも少なかったこともあって、何か人間くささがなく、インドネシアの雑然とした町がなつかしく思い出されるのだった。
 ユースホステルに泊まろうと思い、ドライアンドラ通りを探した。しかし、なかなか見つけられず、通りがかりの家で、トントンとカナヅチを振って日曜大工している人に聞いた。すると「ちょっと待ってなさい。もうすぐ仕事が終わるので、車で送ってあげよう。ドライアンドラ通りまでは歩いたら大変だ」と、そういってくれた。
 その人はキャンベラ大学でドイツ語を教えているロン・ホッフさんだった。彼の車でキャンベラ郊外の樹林に囲まれたユースホステルに連れていってもらったが、夕方の5時まで待たなくてはならなかった。すると、「それまで、私の家にいたらいい」といって、ふたたび彼の家に戻った。
 ロンは野生動物にすごく興味を持っている。図鑑などを見せてもらいながら、オーストラリアの動物についてのおもしろい話を聞いた。ロンの奥さんは「我が家では、日曜日とか休日には、よく中国料理を食べに行くのよ。さ、一緒に行きましょ」と言ってぼくをも誘ってくれた。こうしてホッフ夫妻と3人の子供たちと一緒に中国料理店に行った。ロンは中国語(広東語)もかなり話せる。店の主人とは中国語で楽しそうな会話をかわした。「この店のオヤジは友人で、いいヤツなんだけど、ギャンブルに狂っていてね。それだけが玉にキズなんだ」とロンは言う。
 中国料理店では何種もの料理をご馳走になった。ぼくの食べっぷりがいいといって夫妻は喜んでくれた。ホッフさん一家と過ごした時間はなんとも楽しいものだった。明るくおおらかなホッフ一家の空気は、オーストラリアそのものといった感じがした。食事が終わると、そんなホッフさん一家にユースホステルまで送ってもらい、清潔感の漂うユースホステルに泊まるのだった。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 019

貨物列車から飛び降りる

 キングーニャは小さな町だが、この町には大陸横断のトランス・オーストラリアン鉄道の駅がある。その駅でひと晩、寝ることにした。その日は土曜日で、月曜日になるまでこの駅に停まる旅客列車はない。そのため駅には乗客はもちろんのこと、駅員も1人もいなかった。
 駅舎内のベンチにシュラフを敷いて眠った。久しぶりにぐっすり眠れた。夜中に、西のパース方向からやってきた貨物列車の停まる音で目がさめた。反対方向から来る列車との待ち合わせのようだった。
「ラッキー!」
 ぼくはガバッと飛び起きた。
 シュラフをすばやく丸め、ザックを背負い、その貨物列車に飛び乗った。その列車でポートオーガスタまで行こうとしたのだ。ぼくが飛び乗ったのは乗用車を専門に積む貨車で、上下2段に分かれた空の車両だった。
 シドニー方向から来た貨物列車とすれ違うと、ぼくの乗った貨物列車が動きだす。そのときの「ガシャガシャガシャーン」という連結器と連結器のぶつかり合う音がすごい。
 貨物列車は暗闇の中を相当なスピードで走る。キングーニャからポートオーガスタまでは約350キロ。列車がキングーニャを出発したのは午前1時ごろなので、夜が明けるころにはポートオーガスタに着くだろうという予測を立てた。
 ポートオーガスタまではノンストップで走るであろうと思っていたら、途中のウーメラ駅で貨物列車は停車した。トーチを手にした車掌が見回りにきたが、シュラフにもぐり込んで寝ていたこともあり、逃げる間もなく見つかってしまった。もうジタバタしてもはじまらない。
「どこまで行くつもりなんだ」
「ポートオーガスタまでです」
「いいか、キミは悪いことをしているんだぞ」
「はい、よくわかっています」
「ポートオーガスタに着いたら、ポリスに突き出してやる。金はちゃんと持っているだろうな。料金はポートオーガスタに着いたら払うんだ」
 なんともラッキーなことに、ウーメラ駅では降ろされなかった。
 そのまま貨物列車に乗りつづける。やがて白々と夜が明けてきた。荒野のはるかかなたに町の灯が見えてきた。
「ポートオーガスタだ。間違いない!」
 ぼくは貨車の鉄板の上に敷いたシュラフをクルクルッと丸め、身支度を整える。列車が大分、町に近づいた。すでにすっかりと夜が明け、あたりの風景がはっきりと見えてくる。大きなカーブにさしかかる。列車はガクンとスピードを落とす。
「今だ、今がチャンスだ!」
 ぼくはザックを投げ下ろし、すぐさま列車を飛び降りた。こういうことは、バイクの事故で慣れているのだ。うまく受け身をとることができ、ゴロゴロゴロンと転がり、右足をすこし痛めた程度で無事に立ち上がった。走り過ぎていく貨物列車を敬礼して見送る。車掌さんには何とも申し訳なかったが、「やったゼ!」とガッツポーズをとると、右足を引きずりながらポートオーガスタに向かって歩いた。
 思ったよりも距離があり、2時間ぐらいかかってポートオーガスタの町に着いた。公園の水道で顔を洗い、「フーッ」と、大きく息をつくのだった。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 018

大型トラックの運転手ティム、22歳

 オーストラリア中央部の蠅の多さには、泣きが入るほど。ほんとうに蠅がうるさい。ウワーッと、顔にまとわりついてくる。追い払っても。追い払ってもまとわりついてくる。頭にきてパーンと顔をたたいたら、一度に10匹以上の蠅を落とした。それほどの蠅の多さだった。
 暑さがきつくなりはじめたころ、ボルボの大型トラックに乗せてもらった。ラッキー。乾燥した原野を南下していく。やがてダーウィンからつづいた舗装路が途切れ、ガタガタのダートに入っていく。
 大型トラックの運転手はティム。22歳。すごくいいヤツだった。助手はいない。オーストラリアではあまりにも人手がないので、1000キロ、2000キロという長距離を走るトラックでも、たいてい助手は乗っていない。助手が1人どころか、2人も3人もいるインドネシアのトラックとは大違いだ。
 オーストラリアの長距離トラックの運転手たちは、助手のかわりに、助手席によく犬を乗せている。ティムもそうだ。犬を相手に、寂しさをまぎらわしているようだ。犬のために、ドッグフードの入った缶詰をごっそり積んでいた。
「コイツの方がオレよりも、食事代によけいかかるんだ」
 と、ティムは犬に目をやりながら言った。
 ティムは靴を一切、はかない。トラックの運転中だけではなく、トラックを降りて町を歩くときも裸足だ。裸足の方がはるかに気持ちよく、また健康にもいいという。
「日本にも裸足の人たちはいる?」
「いやー、見たことがないな」
「なぜ?」
「裸足で外を歩くと、なんとなく恥ずかしいし、それに道にはガラスとかクギが落ちていて危ないんだ」
 裸足の方が気持ちいいというのは、よくわかる。ぼくはそのとき、トラックの荷台に乗ってサハラ砂漠を縦断したときのことを思い出した。3週間の間、一度も靴をはかなかった。砂は焼けて、裸足で歩くと火傷しそうだった。トゲが刺さったりしたが、それでも靴をはかなかった。裸足の方がよっぽど気持ちよかったからだ。それだけにティムの言いたいこともよくわかった。オーストラリアでは、ティムに限らず、裸足の人たちをけっこう見かけた。
 オーストラリアの中央部は暑く、乾燥していた。すぐにのどが渇く。ティムはクーラーボックスから冷えたジュースやコーラの缶を取り出して飲むときは、ぼくにも必ず「飲みな」といって缶を手渡すのだ。
「ティム、もう、いいよ。なくなってしまう」
「かまわないよ。町に着いたら、また買えばいいのだから」
 ノーザン・テリトリー(北部地方)から南オーストラリア州に入ると、幾分、暑さはやわらいだ。その夜、鉱山町のクーバーペディーに着き、ティムはトラックを止めた。ここは世界でも最大級のオパールの産地。トラック内でひと晩眠ると、翌日は新たな積み荷を積み込み、昼近くにこの鉱山町に出発した。さらに300キロ南のキングーニャまで行くという。ティムのトラックはモウモウと土煙を巻き上げて走りつづける。大陸縦断の幹線ルートだが、すれ違う車はほとんどない。
 夕方、キングーニャに着いた。ティムと固い握手をかわし、ぼくはトラックを降りた。ティムはここからさらに西へ、ナラボー平原に入っていく。道はもっと悪くなるという。ティムのトラックが動きだす。ぼくは手を振って見送った。土煙を巻き上げて走るトラックはあっというまに小さくなり、やがて夕焼けの西の空に吸い込まれるかのように、その姿を消した。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 017

ヒッチハイクで出会う人々

 キャサリンでの3日目。朝から車を待ったが、昼を過ぎても乗せてもらえず、
「やっぱりオーストラリア縦断のヒッチハイクだなんて、無理だったのかなあ…」
 と弱気になりかかった。そんなときに、ついに、1台の乗用車が停まってくれた。
 隣町のマタランカまで行く車。驚いたことに、アメリカン・インディアンの人たちが乗っていた。ぼくが乗ってぎゅうづめになる。彼らはアメリカ人が経営する牧場で働いているとのことだったが、口々に「こんなところに日本人がいるなんて、ビックリしたなあ」という。ぼくも「こんなところでインディアンに会うなんて、すごくビックリしたなあ」と、いかにも驚いたという顔をした。彼らは車内での酒盛りの真っ最中。なんとも陽気なアメリカ・インディアンの人たちだった。
 きっとウォールさん一家の祈りのおかげなのだろう、このあとのヒッチハイクはまさにトントン拍子だった。
 マタランカからは700キロ南のテナントクリークまで、トムの車に乗せてもらった。彼はハンガリー人で、1956年のハンガリー動乱のあと、一家そろってオーストラリアに移住した。
 トムは35歳で独身。溶接工をしている。ひとつの町で数ヵ月働き、たっぷりと金がたまると、2、3ヵ月は旅をする。金がなくなると、また、数ヵ月働くという。トムの車にはキャンピング用具一式が積まれ、釣り竿が何本もあった。釣りが大好きなのだという。夜中の12時を過ぎたところで、車を荒野のまっただなかに停め、そこで眠った。
 翌朝は夜明けとともに走り出す。銅鉱山のあるテナントクリークには昼前に着き、そこでトムと別れた。
 テナントクリークの町中を歩いていると、なんともラッキーなことに1台の車がスーッと近寄ってきて、「アリススプリングスまで行くの?」と声をかけられた。「オー、イエス」とぼくがうれしそうな声を上げると、その車で500キロ南のアリススプリングスまで乗せてもらった。
 運転しているのはガッチリした体つきの、オランダ人のアルベル。オーストラリアには出稼ぎでやってきた。「あと2、3年働いたら国に帰るよ」という。アルベルの車はフォード・ファルコンの新車。広大な原野の中に延びるひと筋の舗装路を、猛烈なスピードで走る。スピードメーターの針は110マイル(176キロ)から120マイル(192キロ)を指している。南回帰線を越え、アリススプリングスまでの500キロを3時間もかからずに走りきった。
 アルベルにはアリススプリングスの中心街で下ろしてもらい、オーストラリア中央部で最大の町をしばらく歩いた。そして南のポートオーガスタを目指し、町外れまで歩いていく。日暮れが近づくと、急にひんやりとした風が吹き始める。
 そんなときに酔っぱらってフラフラ歩いている先住民のアボリジニの男にからまれた。
「オマエはどこに行く?」
「ポートオーガスタ」
「オマエはどこから来た?」
「ダーウィン」
「オーストラリア人か?」
「いや、違う。日本人だ」
「私はアボリジニースだ。知っているか?」
「知っている」
「ブラディー・ネイティブ(ひどい原住民)だ」
「そうは思わない」
「オマエは金を持っているだろ。すこし、くれ」
 ぼくが黙っていると、アボリジニの酔っぱらいは、ふらつく足でやにわに殴りかかってきた。男の奥さんなのだろうか、すこし遅れてやってきたアボリジニの女が「やめなさい!」といって男を止めた。彼女も男ほどではないが、かなり酔っていた。女は男の腕をかかえるようにして去っていった。
 キャサリンでもテナントクリークでもそうだったが、町でまともなアボリジニを見ることはほとんどなかった。たいていのアボリジニは昼間から酔っぱらっていた。ぼくにはそれが、あとからやってきて、力でもって彼らの土地を奪った白人への復讐のようにも見えた。また、オーストラリア政府は邪魔なアボリジニを滅ぼしたいために、彼らに金をバラまき、アルコール漬けにしているのだという話も聞いた。
 あたりは暗くなりはじめていた。ぼくはすっかりヒッチハイクする気をなくし、アリススプリングスの町の方向に戻っていった。すると、さきほどのオランダ人のアルベルの車が通りがかり、止まった。
「タカシ、どうしたんだ」
「今晩は、どこか、その辺で寝ようかと思って…」
 アルベルも野宿に付き合ってくれるという。彼の車に乗せてもらい、涸川に行った。砂地の河原にシートを広げる。降るような星空のもとで、アルベルのクーラーボックスに入っている冷えたカンビールを一緒に飲んだ。何本ものカンビールを空けたところで、アルベルは毛布にくるまり、ぼくはシュラフに入って眠った。
 翌朝、アルベルはアリススプリングスの郊外まで乗せてくれ、「ここで車を待ったらいい」といって、並木道のところで下ろしてくれた。ポートオーガスタまで、あと1350キロ。
「さー、気合を入れてヒッチハイクするぞ!」

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 016

ヒッチハイク開始!

 ダーウィンの中心街から郊外まで歩き、町外れで車を待った。オーストラリアはヒッチハイクでまわるのだ。ここからは大陸を縦断し、南海岸のポートオーガスタへ、そしてシドニーを目指す。
「さー、オーストラリアのヒッチハイク開始だ!」
 と、気合を入れた。
 ほとんど待たずに、320キロ南のキャサリンまで行くロードトレインに乗せてもらった。幸先のよいオーストラリアでのヒッチハイク。ロードトレインというのは2台、もしくは3台のトレーラーを引っ張って走る大型トラックだ。
 ロードトレインは果てしなく広がる原野の中を突っ走る。人の姿を見かけることはほとんどない。無数のアリ塚が、まるで墓標のようにあちこちに見える。夕暮れが近づくと、カンガルーがひんぱんに道路に飛び出してくる。ロードトレインといい、アリ塚といい、カンガルーといい、それらはまさにオーストラリアそのものだった。
 キャサリンに着いたときは、すでに日は暮れ、あたりは暗くなっていた。運転手にお礼を言ってロードトレインを降り、町外れまで歩く。大陸縦断のヒッチハイクはきわめて難しいと聞いていたので、暑さを避けて夜中に走るトラックに狙いをつけた。ところが交通量が少ないので、なかなかうまく乗せてもらえない。車に乗せてもらえないまま、いつしか道端で寝込んでしまった。
 目がさめると、東の空がほんのりと白みはじめていた。広大なオーストラリアの原野が姿を現し、やがて地平線を赤く染めて朝日が昇る。さわやかな朝の空気。だが、それもほんの一時で、すぐさま猛烈な暑さとの闘いになる。おまけに乾燥しているので、やたらとのどが渇く。水筒の水はあまりの暑さに湯に変わっているが、それでも飲まないよりはマシで、湯になった水を飲む。これが気持ち悪い。昼が過ぎる。太陽光線が強いので、頭が割れんばかりにガンガン痛んでくる。それでも炎天下に立ちつづけた。
 車に乗せてもらえないまま、時間だけが過ぎていく。日は西の空に傾き、やがて沈んでしまう。そんなときに自転車に乗った人が、ぼくの前で停まった。さらに驚いたことには「コンニチワ」と日本語で声をかけてくれた。ウォールさんという30代半ばくらいの人で、近くの熱帯植物の研究所に勤めているという。ウォールさんは奥さんとまだ小さな子供を連れて、北は北海道から南は九州まで、3ヵ月あまりも日本をまわった。特に北海道の礼文島と利尻島が忘れられないと言う。
 ウォールさんは背負ったザックの中からコカコーラのカンを取り出すと、「ドウゾ」と日本語で言ってぼくに手渡す。ぼくも「ありがとう」と日本語でお礼を言った。ウォールさんが立ち去ったあとも、その余韻がいつまでも残り、「今晩こそはヒッチを成功させよう!」という新たな元気が湧き出てきた。
 日中はものすごい数の蠅がまとわりついた。日が落ちると、今度はプーン、プーンと蚊の猛攻だ。たちまち顔や腕を刺され、ボリボリとかきむしる。そんなところへ、ウォールさんと奥さんが一緒に車でやってきた。奥さんは20代の、明るい感じのきれいな人。夫妻は「よかったら家に来ませんか」と言う。ぼくは「今晩こそは」といった思いが強かったので、最初は断った。だが、夫妻に「家では2人の子供が楽しみに待っているんですよ」と言われ、夫妻の好意をありがたく受けることにした。
 ウォールさんの家に行くと、キム君とアンジェル君という2人のかわいらしい男の子が出迎えてくれた。上のキム君が夫妻と一緒に日本に行った。日本ではたくさんの友達ができたと言うキム君は、「ほら、見て」と言って、おみやげに買った日本の箸で器用に豆をつまんで見せてくれた。夫妻は日本に行く前に、半年以上も日本語の勉強をした。カタコトの日本語だとは言っても、2人の、できるだけ正しい日本語を話そうという姿勢に心を打たれた。
 利尻島のユースホステルで教えてもらったのだと言って、奥さんは透き通ったきれいな声で、
「チエコハ トーキョウニハ ソラガナイトイッタ…」
 と、大好きだという「智恵子抄」の歌を歌ってくれた。そんなウォールさん一家と夕食をともにし、一晩、泊めてもらった。
 翌朝、朝食をご馳走になると、ウォールさんは自転車で研究所に行く。奥さんはぼくを車で前夜の場所まで送ってくれる。「お昼に食べてね」といって、サンドイッチやフルーツ、飲み物の入った紙袋を手に持たせてくれた。「タカシが無事にシドニーまで行けることを祈ってるわ」と言って、ぼくの頬にキスしてくれた。胸がジーンと熱くなるようなウォールさん一家との別れだった。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 015

第2章 オーストラリア編

ダーウィンが出発点

 1973年9月24日、ポルトガル領ティモールのバオカオ(*バウカウ?)空港から9時45分発のTAA(トランス・オーストラリア・エアーライン)機でオーストラリア北部のダーウィンに飛んだ。機内食のサンドイッチを食べ終わるころには、ダーウィンの北のバサースト島が見えてきた。山岳地帯が途切れなくつづくインドネシアの小スンダ列島の島々を見てきた目には、どこまでも平坦で、だだっ広いバサースト島の風景はすごく新鮮に映った。これから新たな世界に足を踏み入れていくのだという気分にさせてくれた。
 やがてオーストラリア大陸の一角が見えてくる。一面の赤茶けた大地。その中にまばらな緑が見える。圧倒的な広さ。大地と空の境はぼやけ、霞んでいた。
 バオカオ(*)空港から3時間ほどで、オーストラリアのダーウィン空港に着陸した。機内では乗客全員に2種類のマラリア用の錠剤が配られた。オーストラリア政府は多額の費用を投じ、ノーザン・テリトリー(北部地方)からマラリアを撲滅するのに成功したとのことで、インドネシアからマラリアが持ち込まれるのを警戒していた。
 飛行機を降り、ターミナルビル内のイミグレーションでの入国手続きが終わり、税関へ。そこでは「キミはバリ島には行ったかね」と聞かれ、つい、正直に「イエス」と答えた。これがまずかった。バリ島に長く滞在したあとでやってくる旅行者の多くが、ハッシーシや麻薬の類をオーストラリアに持ち込むといって大きな社会問題になっていた。そのような事情があったので、税関では徹底的に荷物を調べられた。正露丸のビンの中まで調べられた。オーストラリアはインドネシアから持ち込まれる麻薬に極度に警戒の目を光らせていた。
 空港から市内へ。まずは銀行で両替だ。10USドルが6・66オーストラリアドルになった。1オーストラリアドルは約400円。米ドルよりもはるかに高い。次にスーパーマーケットの「ウールワース」に行く。ぼくは食パンとニンジン、タマネギ、トマトの野菜を買った。デビッドは食パンとコンデンスミルクを買った。
「ウールワース」の清潔な店内、豊富な商品、きちんと整頓された陳列棚を見ていると、「うーん、これがオーストラリアか…」と唸ってしまう。インドネシアの島々では小さな店や露天市で買い物したが、それとはまるで違う世界だった。
「ウールワース」で買い物を終えたところで、インドネシアのスンバワ島からずっと一緒だったイギリス人のデビッドと別れた。何度も握手を繰り返した。いつも世界地図を広げては、飽きずに眺めていたデビッド。彼の口グセは「これからも、ずっと世界をまわり続けたい!」というものだった。ぼくもまったく同じ気持ちだったので、よけいにデビッドとは気が合った。
「タカシ、また、世界のどこかで会おう!」
 デビッドはダーウィンの町中に消えていった。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 014

オーストラリアへ

 ひと晩、海辺で野宿。
 翌朝は夜明け前に起き、町の中心にあるTAT(トランスポルト・アエロス・デ・ティモール)のオフィスまで歩いていく。TATに着くと、その前で、人が来るのを待った。ここからうまくオーストラリアに渡れることができるだろうか。
 7時過ぎになって中国人の職員がやってきた。すると、なんともうまい具合に、オーストラリア北部のダーウィン行きのTAA(トランス・オーストラリア・エアーライン)機が、9時45分に出発するという。ところが、TAA機が飛ぶのはディリ空港ではなく、200キロほど離れたバオカオ空港だという。
 それにもかかわらず、中国人の職員は、
「大丈夫、ダーウィンへの飛行機には乗れますよ」
 という。
 ぼくたちはジープでディリ空港に連れていかれ、そこでバオカオ空港行きの、10人乗りの小さなプロペラ機に乗り込んだ。飛行機は土煙を巻き上げてディリ空港を飛び立った。眼下にはポルトガル領のアトゥル島が見える。やがてインドネシアのウェタール島が見えてくる。そしてバオカオ空港に着陸した。
 ぼくたちはすぐさまダーウィン行きのTAA機に乗り換えた。9時45分、20人ほどの乗客をのせて、TAAのジェット機は定刻どおりにバオカオ空港を飛び立った。
 飛行機はティモール島の上空を飛んでいる。眼下には幾重にも重なり合った山々。じきに海岸線が見えてくる。ティモール島の南は、はてしなく広がるティモール海だ。もう島影はまったく見えなかった。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 013

ポルトガル領ティモールに入国

 国境の町バドガデ(*)には要塞があった。町中、軍人だらけ。そこではポルトガル人兵士のもとで、ティモール人兵士たちが訓練を受けていた。国境の橋を越えただけで、インドネシア語はほとんど通じなくなる。ポルトガルの植民地なのでポルトガル語が公用語だが、そのほかにいくつかの部族語がこの一帯では使われていた。そのうち、テトゥン語が一番、通用するようだった。
 ポルトガル領ティモールは植民地の構図を見事に見せていた。国を支配するポルトガル人のもとで中国人が経済の実権を握り、その下で、本来の国民であるはずのティモール人が小さくなっていた。
 バドガデ(*)に着いた翌々日、ポルトガル軍のトラックで20キロほど先のバリボーに行く。そこにポルトガル側のイミグレーションがある。バリボーのイミグレーションで入国手続きをしたが、ポルトガル人の係官は我々のパスポートをブラックリストに照合し、そのあとで入国印を押した。そのブラックリストには反植民地運動をしているような人たちが載っているのだ。
 バリボーからが、また、難関だ。35キロ先のマリアナまで、ほとんど交通量はない。イミグレーションの係官には「歩かなくてはならないだろう」と言われた。しかし、日中の暑さを考えると、なかなか足が前に出ない。デビッドと相談し、金を払ってでも、車に乗せてもらおうということになった。
 バリボーには何軒かの中国人商店がある。そのうちの一軒はジープを持っていた。その店に行き、「マリアナまで乗せてもらいたいのだが」と頼むと、1人600エスクード(約6000円)だという。高すぎる。
「よし、歩こう!」
 と決め、暑さを避けて、夕方になったら歩きはじめることにした。
 ところが、夕暮れが近づくと、急に天気が崩れた。ひんやりとした風がふきはじめ、あっという間に空は黒雲に覆われる。やがて雷鳴が聞こえてくる。雷鳴が近くなると、ザーッと雨が降りだし、稲妻が大空を切り裂くように駆けめぐる。パーッとあたりが閃光で光り輝いた瞬間、「ドカーン!」と爆弾が落ちたかのようなものすごい音がした。なんとぼくたちの目の前、10メートルも離れていない大木に雷が落ちたのだ。大木は真っ二つに裂け、モウモウと黒煙を上げている。あまりのすさまじい光景に背筋が凍りつき、ぼくたちは声も出なかった。
「マリアナまでは、なんとしても歩くゾ」
 と意気込んでいたが、この落雷を見て、その気持ちが急に萎え、
「雨が止むまで、もうすこし待とう」
 ということになった。
 ちょうどそのときに、1台のランドクルーザーがやってきた。中国人商人のもので、明日、ポルトガル領ティモールの首都、ディリまで行くという。商談成立。ぼくたちは2人で3ポンド(約2100円)で乗せてもらうことになった。さきほどのエスクードはポルトガルの通貨、ポンドはイギリスの通貨。エスクードやポンド、さらにはドルなどをごちゃ混ぜにして使っているのも、植民地らしかった。
 翌日は夜明けとともに出発。ガタガタの超悪路を行く。川には橋がかかっていないので、車の両側に噴水のように水を巻き上げて渡っていく。深い川では水没寸前だ。ポルトガルが、本国から遠く離れたティモールにはほとんどお金をかけていないことがよくわかる。
 バリボーからディリまでは、トラックだと2日かかると言われていた。だが、さすが四輪駆動のランドクルーザーだけあって、その道のりを1日で走り切った。こうして9月23日の夕方、ポルトガル領ティモールの首都、ディリに着いた。東京を発ってから34日目のことだった。

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Author: 賀曽利隆
Twitter:@kasori3000
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