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アフリカ縦断2013-2014(その2)

「ナイロビ→ケープタウン編」(2)

 2013年12月16日、「アフリカ縦断」の出発点、ケニアの首都ナイロビに到着した。赤道直下(南緯1度17分)のナイロビだが、標高1660メートルという高原に位置しているのでじつにすごしやすい。雨期と乾期はあるものの、一年中、日本の初夏のような気候。冬の日本からやってきたので、ナイロビ国際空港に降り立つと冬用の上着を脱ぎ捨て、半そで1枚になった。それが何ともいえずに気持ち良いことだった。

 今回の「アフリカ縦断」はぼくにとっては12回目の「アフリカ行」になるが、ナイロビはいままでのアフリカ旅では何度となく重要なポイントになった。

「アフリカ一周」(1968年~69年)ではナイロビを拠点にしてケニア、タンザニア、ウガンダの東アフリカ3国をまわった。「六大陸周遊」(1973年~74年)ではやはりナイロビを拠点にして東アフリカ、北アフリカ、アラビア半島をまわり、さらにナイロビから赤道アフリカを横断して西アフリカに向かった。「子連れ旅」(1977年~78年)では妻と生後10ヵ月の赤ん坊を連れてサハラ砂漠を縦断し、西アフリカから東アフリカへ。9ヵ月あまりの旅のゴールはナイロビだった。

 それだけにナイロビ国際空港に降り立ったときは、あまりのなつかしさで、胸がいっぱいになってしまった。
 入国手続きを終えてケニアに入国すると、まずは空港内の銀行で両替する。
 100USドルを両替すると8337シリング10セントになった。1ケニア・シリングは約1・2円。これが46年間の変化というものだ。

 1968年の「アフリカ一周」のときは、1ケニア・シリングは約50円。当時はケニア、タンザニア、ウガンダの東アフリカ3国のシリングは等価で、イギリスのポンドとリンクしていたので強い通貨だった。
 それに対して円は弱く、1ドル360円(固定レート)。ブラックマーケット(闇レート)で替えると、1ドルは400円とか410円、420円で、弱い円に泣かされた。今回は羽田空港で両替したが、1ドルは102円。1ケニア・シリングが約1・2円というのは、46年間で円は世界でも突出した強い通貨になり、ケニア・シリングはすっかり弱い通貨になってしまったことを意味している。

 ケニア・シリングを手に入れると、さっそく空港内の売店でコカ・コーラを買った。1本70シリング(約84円)。100シリングを払ったが、店のオバチャンは20シリングのコインと「これでね」といって飴玉をくれた。飴玉が10シリングのコインの代わりということなのだろう。

 我々はナイロビ国際空港から2台のトヨタのハイエースに乗ってナイロビ市内へ。何年ぶりかのナイロビは、さらにトヨタ車が増えていた。レクサスも走っていた。すれ違った10台の車を見ると6台がトヨタ、1台がレクサス、1台がミツビシ、1台がVW、1台がランドローバーという結果だった。

 驚かされたのは猛烈な交通渋滞。46年前のナイロビからは想像もできないような光景だ。片側2車線の幹線道路でナイロビの中心街に向かったのだが、反対車線には何キロにもわたって延々と渋滞がつづいた。ナイロビの中心街に近づくと、市内方向も渋滞に巻き込まれた。これは何も特別なものではなく、日常的な渋滞なのだという。

 ナイロビでの我々の宿はナイロビ郊外の「オソイタロッジ」。ナイロビ・ナショナルパーク沿いの道を走ったところにある。ナイロビ国際空港から2時間以上かかって「オソイタロッジ」に到着。宿の中庭には我々のバイク10台がズラリと並んでいた。

 バイクは各人の愛車で、横浜港からコンテナに積み込み、ケニアのモンバサ港に送った。それを現地の業者がカルネ(旅行用で使う車やバイクの無税通関帳)で通関し、モンバサ港からナイロビまではトラックに積んで運んだ。10台のバイクはまったく無傷。それがとってもうれしいことだった。

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ナイロビ国際空港に降り立つ!

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ナイロビの大渋滞

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うれしい愛車との再会!

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

アフリカ縦断2013-2014(その1)

「ナイロビ→ケープタウン編」(1)

 2013年12月15日。いよいよ「アフリカ縦断」出発の日を迎えた。我が家は神奈川県の伊勢原市にある。飛行機は成田発ではなく羽田発なので、すごく楽だ。妻と夕食を食べてから、家を出る。小田急→相鉄で横浜へ。横浜駅から羽田空港までは京急一本。伊勢原駅から2時間もかからずに、羽田空港国際線のターミナルビルに着いた。
 そこで、旅行社「道祖神」のバイクツアー「賀曽利隆と走るシリーズ」第18弾目の「アフリカ縦断」に参加するみなさんと落ち合った。
 翌12月16日、01時30分発のエミレーツ航空EK313便でドバイへ。飛行時間は約11時間。ドバイで乗り換えてケニアのナイロビに向かうのだ。今回の「アフリカ縦断」はぼくにとっては12回目の「アフリカ行」になるが、機内では最初の「アフリカ行」がしきりと思い出されてならなかった。

 ぼくが初めてアフリカに行こうと思いたったのは、ある日、突然のことだった。
 1965年、17歳の高校3年の夏休みに、クラスメイトの前野君、横山君、新田君と「おもいっきり、泳ごうぜ!」と、東京から房総半島の太平洋岸、外房海岸に向かった。 ぼくたちが目指したのは鵜原海岸。思い思いにテントや食料を持ち、キャンプをしながら泳ぐつもりでいた。その日は、真夏の太陽がギラギラ照りつける、とびきり暑い日だった。外房線に乗ったのだが、東京から千葉まで切れ目なくつづく市街地を抜け出し、広々とした水田風景が車窓に開けてきたとき、心の中がサーッと洗われるような思いがした。「広いなあ!」
 胸の中に溜まっていた重苦しいものから一時的にでも解き放たれたからだろう、思わずぼくの口からそんな言葉が飛び出した。この「広いなあ!」の一言が、我が人生を大きく変えることになる。40数年間にわたり、世界を駆けめぐってきた「生涯旅人カソリ」の原点がここにある。
「広いって、いいなあー」
「狭っくるしいところは、もう、たくさんだ」
「俺たち、もっと、もっと、自由でなくてはいけないよな」
「そうさ、自由さ。もっと、もっと自由でなくてはいけないよ」

 高校3年の夏休みというと、翌春にひかえた大学入試のため、寝る時間を削ってでも受験勉強をしなくてはならなかった。とくにぼくたちの世代、「昭和22年生まれ」というのは戦後のベビーブームで大量生産(!?)された団塊の世代のはしりなのだ。ベルトコンベアに乗せられて続々とつくられていく工業製品と同じで、それだから、まわりからは受験が大変だといわれつづけて大きくなった。
 ぼくは中学、高校とサッカーをやった。授業をさぼってでも、放課後のサッカーの練習だけには行った。それほど好きなサッカーだったが、高校3年生になる前にやめた。成績がどん底にまで落ち、もうこのままでは浪人しないことには大学に入れないと自分自身でわかったからだ。大学に入ってあれをしたいとか、これをしたいとか、卒業したら何になりたいといった希望はまったくなかったが、ただひとつ、浪人だけは絶対にしたくなかった。一日も早く社会に飛び出したかったのだ。

 受験勉強がはじまった。あさましいとしかいいようのない受験勉強だったが、試験の点数だけは上がった。それとともに、自分でもよくわからないいらだたしさ、むなしさを強く感じるようになった。
「なんで、こんなことをしてるんだろう」
「あー、サッカーをやめたのが、間違っていたのではないか」
 ぼくはある日、急ブレーキをかけるようにして立ち止まった。
「すべが見えてしまった」からだ。逃げたくても逃げることのできないレールに乗せられた自分の姿が鮮明に見えてしまった。それは一度落ち込んだら、もう二度と這いだすことのできない蟻地獄のようにも見えた。
「これではいけない、絶対にいけない」
 そんな背景があっての外房線の車中での「広いなあ!」だった。
「広いなあ!」の一言に端を発したぼくたちの会話はさらに広がり、いつも冗談をいってはみんなを笑わせる前野がいった。
「オイ、いくら広いといっても、アフリカなんか、こんなものじゃないぞ」
 さもさも見てきたかのような口ぶりだ。
「俺、アフリカに行ってみたいなあ」
 前野は今度は冗談とも本気ともつかないような口調でいった。
 前野の口から出た「アフリカ」が、ぼくの胸をギュッとつかんだ。アフリカと聞いた瞬間、映画や写真で見たことのある大自然が、稲妻のように頭の中を駆けめぐった。はてしなく広がる大草原、昼なお暗い大密林、灼熱の大砂漠といったアフリカの風景が次々にまぶたに浮かんだ。それは、もう、どうしても自分自身のものでなくてはならないように思えてきたのだ。
「アフリカか。アフリカ、いいなあ」
「行けないことなんて、ないよな」
「行けるさ。足があれば」
「そうさ、意思があれば。男ならば」
 そのような会話をかわしているうちに、どうしてもアフリカに行きたくなった。日本を飛び出し、広い世界をおもいっきり駆けまわりたくなった。
「よーし、アフリカに行こう。なー、俺たちアフリカに行こうじゃないか」
 ぼくたちは、しょっちゅう、冗談をいう。まるで、ほんとうのことのように冗談をいいあう。だが、そのときは違った。誰もが冗談っぽい話の中に、本気の部分を強く感じた。 外房海岸の鵜原から帰ると、ぼくの頭の中は「アフリカ」でいっぱいになった。

 夏休みが終わり、2学期がはじまると、ぼくたち4人は学校(都立大泉高校)に近い西武池袋線大泉学園駅前の喫茶店「カトレア」に集まった。ここで夏休みの間中考えていたおのおのの案をぶつけた。それら各自の案を3時間も4時間もかけてまとめたのが、次のような「アフリカ縦断計画」だった。
1、アフリカ大陸南端のケープタウンを出発点にし、東アフリカを経由してアフリカを縦断し、地中海のアレキサンドリアに出る。
1、アレキサンドリアからはさらに北アフリカを地中海沿いに走り、モロッコのタンジールをアフリカの最終地点とする。
1、ジブラルタル海峡を渡ってヨーロッパに入り、西アジアの国々を通り、インドから日本に帰ってくる。
1、全コースをバイクで走破する。
1、出発は3年後の春とし、2年間で計画を達成する。
1、計画の資金は誰の援助も受けずに、すべてを自分たちでまかなう。
1、大学の入試を終えたらすぐに資金稼ぎのバイトをはじめる。計画を達成するためには体を鍛えなくてはならないので、朝は新聞配達か牛乳配達をし、昼は別な仕事をする。
1、西アジア横断の資金はヨーロッパで仕事をして稼ぐ。

 以上のようなことをまとめると、ぼくたちは「カトレアの誓い」だといって、「アフリカ縦断」の実現を誓い合った。
 それから3年後の1968年4月12日、横浜港からオランダ船「ルイス号」に乗って「アフリカ縦断」に旅立った。4人のメンバーは賀曽利&前野の2人になっていたのが何とも寂しいことだった。そんな20歳の旅立ちのシーンが、つい昨日のことのように思い出されてくるのだ。

 ドバイでエミレーツ航空EK719便に乗り換え、12月16日14時55分、ナイロビ国際空港に降り立った。日本とケニアの時差は6時間。羽田から20時間余りをかけて「アフリカ縦断」の出発点ナイロビにやってきた。

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エミレーツ航空で羽田を出発

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アラビア半島の砂漠を見下ろす

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ドバイの町並みを一望!

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ドバイに到着

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ドバイで乗り継ぎ

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アフリカ大陸を見下ろす

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ナイロビの上空

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ナイロビ国際空港に着陸

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ジャンル : 車・バイク

六大陸周遊1973-74 [完全版] 036

ブリスベーンのベネットさん一家

 ニューサウスウエル州からクイーンズランド州に入り、ブルスベーンに到着。スズキの代理店の「MAYFAIRS」社に立ち寄る。ここではみなさんにじつによくしてもらった。「テレグラフ」紙と「サン」紙の新聞2紙の取材も受ける。日本人ライダーの「オーストラリア一周」が珍しいのだ。昼食にはチャイニーズレストランで腹いっぱいにご馳走になった。
 午後はノエル・ベネットさんがブリスベーン市内を車で案内してくれた。郊外のブリスベーン川に面したローンパインのコアラ・サンクチュアリーにも連れて行ってくれた。コアラがかわいい。コアラを抱いたシーンを写真に撮ってもらった。コアラのほかにカンガルーやウォルビー、エミューなどもいる。
 その夜はノエルの家で泊めてもらった。奥さんのパットはきれいな人。2歳を過ぎた女の子のポーリンがかわいらしい。そんなベネットさん一家との夕食は楽しいものだった。
 翌朝はトーストとゆでたまごの朝食のあと、みんなと一緒にノエル家を出る。ポーリンを幼稚園で下ろし、奥さんをブリスベーン市内で下ろし、「MAYFAIRS」社へ。朝刊を見せてもらったが、ぼくのハスラーでの「オーストラリア一周」の記事が大きく載っていた。「MAYFAIRS」社には、スズキ本社の横山さんが来ていた。オーストラリア各地のディーラーをまわっているという。
 午前中、ハスラーの整備をしてもらい、昼食はスズキの横山さんにご馳走になった。オーストラリアならではのぶ厚いステーキ。昼食後、横山さんやノエルらの見送りを受けてブリスベーンを出発した。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 035

バイク編「オーストラリア一周」の開始!

 11月6日の午後、シドニーのキャンベル・ストリートにあるスズキの代理店「HAZELL&MOORE」社でスズキ・ハスラーTS250を引き取った。「バンコク→バンコク」を走ったのと同じバイク。キック一発でエンジンがかかる。2サイクル特有のエンジン音が響く。体中がゾクゾクッと震えてくるほどだ。1971年から72年の「世界一周」に使ったのも、このハスラー250。その途中での「サハラ砂漠縦断」のシーンが蘇ってくる。
 さー、バイク編「オーストラリア一周」の開始だ!
 最初は肩慣らしのつもりで、シドニーにも近いブルーマウンテン周辺を走るつもりだったが、ジョージ・ストリートを反対方向に走ってしまい、そのままハーバーブリッジを渡って国道1号のパシフィック・ハイウェーを北へ。シドニーを離れるとまもなく雨。「出発したばかりだというのに…」と、少々、泣きが入る。
 ニューカッスルに近づくと土砂降りになった。トホホホ…。
 ニューカッスルからは内陸の国道15号を北上。その夜は雨に降られながら314キロ走り、ムスウェルブルックのエッソのガソリンスタンドの片隅で震えながら眠った。ヒッチハイクのときと同様、シュラフのみの野宿だ。
 翌日も雲の多い天気。大分水嶺山脈(グレート・ディバイディング・レインジ)の山並みを見ながら走る。トムワースの町を過ぎると、ニューイングランド地方の標高1000メートルを超える高原地帯に入っていく。きれいな高原の風景がつづく。ハスラーで切る風は冷たく、ブルブルッと震えるほど。だが、幸いにも雨には降られなかった。
 この地方の中心のアーミデールを通り、グレン・イネスを過ぎたところで、海岸地帯を南北に走るニューイングランド山脈の峠を越え、パシフィック・ハイウェーの国道1号に出た。ゆるやかな山並みが海岸近くまで迫っている。国道沿いに建てかけの家をみつけ、その中で寝たが、寒さのため夜中に何度も目が覚めた。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 034

奇跡の再会!

 キャンベラのユースホステルでは、イギリスのニューキャッスル生まれのフィリップと一緒になった。彼はオーストラリアに来てからすでに3年。シドニーに住んでいる。
 フィリップのワーゲンに乗せてもらい、翌日、シドニーへ。冬を思わせるような寒々とした天気。国道沿いのカフェでフィッシュ&チップスの昼食を食べ、シドニーに着くと、フィリップのアパートで泊めてもらった。夜はレストランでステーキを食べ、パブでビールを飲んだ。昼食代も夕食代もビール代も、すべてフィリップが出してくれた。ありがたくご馳走になっておく。
 翌日はシドニーでの休日。朝は10時過ぎまで眠った。こんなに寝たのはいったい何日ぶりのことだろう。午前中はコインランドリーで洗濯し、午後はフィリップとハーバーブリッジのすぐ下にあるルナ・パークに行った。フィリップはここで半年ほど働いたとのことで、タダで乗れるチケットをたくさん持っていた。それを使わせてもらい、ジェットコースターや回転飛行機、電気自動車と次から次へと乗った。そのあとノースシドニーの浜辺に行く。シドニーの中心部からわずか10数キロしか離れていないのに、すぐ近くに大都市があるとは思えないような自然の美しさ。きれいな浜辺が延びている。
 もうひと晩、フィリップのアパートで泊めてもらった。
 翌朝、フィリップはブリスベーンに向かう。朝食を一緒に食べると、彼のワーゲンでフェリー乗り場まで乗せてもらう。そこで別れた。さようなら、フィリップ。彼は北へ、ブリスベーンへ。ぼくはフェリーに乗り、シドニーの中心街へ。フェリーは朝の通勤客で混んでいた。
 シドニーの中心街を歩き、地図を頼りにキャンベル・ストリートの「HAZELL&MOORE」社を訪ねる。ここはスズキのニューサウスウエルス州の代理店。ここで「オーストラリア一周」のバイクを用意してもらうことになっている。ジェネラルマネージャーのシャノンさんに会うと、「明日までに整備して用意しておきましょう」とうれしいことを言ってくれる。バイクでの「オーストラリア一周」に出発できると思うと、胸がワクワクしてくる。
 シャノンさんはすぐに「モーターサイクル・ニューズ」社に電話した。そしてチーフ・エディターのジェフ・コラートンさんに会って欲しいという。ぼくのバイクでの「オーストラリア一周」を取材したいのだという。「モーターサイクル・ニューズ」社を訪ね、ジェフに会ったときはびっくりした。驚きの再会。なんと彼には4年前に会っているのだ。
 1969年4月、アフリカ大陸縦断を終え、ロンドンに着いたとき、『モーターサイクル』紙のジョン・エブローさんに取材された。そのときエブローさんの下で仕事していたのがジェフだった。
 彼はこのときのことをとってもよくおぼえてくれていた。
「(ロンドンの)ウォータールー・ブリッジの上で撮ったキミの写真、あの写真は忘れられないね」
 と言ってくれた。このような偶然の再会があるのも旅のおもしろさ。ジェフには昼食をご馳走になった、食事が終わると、コーヒーを飲みながらおおいに語り合った。
 ジェフと別れると、午後はシドニーの町をクタクタになるまで歩きまわり、夜はシドニー郊外のクーリングガイ国立公園にあるユースホステルに泊まった。泊まり客はぼく1人。管理人のニュージーランド人のビルと一緒にマグロのかんづめの夕食を食べ、ビールを飲んだ。いよいよバイクでの「オーストラリア一周」が始まる!

テーマ : ツーリング
ジャンル : 車・バイク

六大陸周遊1973-74 [完全版] 033

ヒッチハイク編「オーストラリア一周」終了!

「さー、キャンベラだ!」
 と、気分も新たにヒッチハイクを開始。国道1号を行く。1発でヒッチ成功!
 メルボルンまでは行くトラックに乗せてもらった。南オーストラリア州からビクトリア州に入り、州都のメルボルンに到着。オーストラリアでは例外的に、歴史を感じさせる都市。中心街を歩きまわったところで、フリンダー・ストリート駅から郊外電車に乗り、終点のタンデノン駅へ。近くのフットボール場の屋根の下で寝た。夜中に雨。屋根があるので雨も気にならない。屋根の下で寝られるありがたさをしみじみとかみしめた。
 翌日も国道1号を行く。一日中、雨…。おまけにヒッチもうまくいかない。辛い一日だ。何台かの車に乗り継ぎ、モーウェルの町に着いたところで、銀行で1万円を両替。あまりのレートの悪さに情けなくなる。1万円で22ドル09セント。1ドルは約455円だった。ダーウィンで両替したときは、USドルをオーストラリアドルに替えた。40USドルで26ドル65セント。1ドルは402円だった。それが日本円でオーストラリアドルに替えると、1ドルが455円になってしまう。あまりにも弱い円に泣きたくなるような思いだった。
 ビクトリア州からニューサウスウエルス州に入り、ベガの町で国道1号と別れ、キャンベラへの道に入っていく。何台もの車に乗り継ぐ。きつい勾配の山道をのぼりつめると、上は平坦な高原状の台地。スノーウィ山脈の玄関口の町、クーマへ。そこからはキャンベラまではイタリア人の運転するトラックに乗せてもらった。彼は開口一番、「オレはオーストラリア人ではない。イタリア人だ!」と胸を張って言う。かといって、今さらイタリアには戻れないとも言う。彼は21年前にユーゴスラビアとの国境の町トリエステから、新天地を求めてオーストラリアにやってきた。だが、21年ぐらいの年月では、彼をイタリア人からオーストラリア人にはできないようだ。
 11月2日午前11時、キャンベラに到着。ヒッチハイク編「オーストラリア一周」の終了だ。キャンベラを出発してから32日目のことだった。すぐにビザをもらいに南アフリカ大使館に行ったが、なんということ、まだ本国照会の返事は来ていないという。仕方がない。次のバイク編「オーストラリア一周」を終えてからもう一度、来よう、そのときはきっと大丈夫だと、落ち込んだ気分を立て直した。
 その夜はキャンベラのユースホステルに泊まった。1ヵ月ぶりの宿泊費を払っての宿泊。シャワーを浴び、洗濯をしてさっぱりした。
「キャンベラ→キャンベラ」の「オーストラリア一周・1万7464キロ」では全部で88台の車に乗せてもらった。使ったお金は22ドル。1日平均0・68ドルだった。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 032

エアーズロックを断念

 世界最大の一枚岩、エアーズロックはどうしても見てみたかった。エアーズロックまでヒッチハイクで行くのは無理だと言われていたが、それにチャレンジ。「ダーウィン→ポートオーガスタ」の大陸縦断ルートを、今度は南から北に向かう。
 多民族国家オーストラリアにふさわしく、最初はインドネシアのスラバヤ生まれのトムのトラック、つづいてウクライナ人のトラックに乗せてもらった。ウクライナ人とはいろいろと話した。とくに戦争の話題になったときの「いつも一般の国民が苦しめられ殺される」との彼の言葉が頭に残った。その夜はピンバで野宿。夜の寒さがきつかった。
 翌朝は寒さに我慢できず、シュラフを首に巻いて車を待った。ポリスの車が通りがかり、調べられた。パスポートはキャンベラの南アフリカ大使館にあるので、一瞬、まずいなと思ったが、ビザ担当の書記官の名刺を見せたらOK。ほっとした。
 1時間ほどたったところで、いったんは通りすぎていったキャラバンカーが、すこし先で停まった。運転手は車を下りて、「乗れ」と手招きしてくれる。車まで走っていった。アリススプリングスまで行く車。ところが運転手は「おこりんぼ」。ハンドルを握りながら、やたらとブツブツ文句をいう。そしてすぐに「バーステッド」、「ファッキン」、「ブラディー」と、ののしりの言葉を連発する。一人言なので、何に怒っているのか、よくわからなかった。こういうときは「さわらぬ神にたたりなし」で、黙ってじっと車窓を流れていく風景を眺めた。
 舗装路からダートに突入し、オパール鉱山の町、クーバーペディーでひと晩、泊まった。翌日、南オーストラリア州からノーザン・テリトリーに入った。すると急に暑くなる。
 クルゲラの町から70キロほど北の地点、エアーズロックに通じる道との分岐点で「おこりんぼ」さんの車を降りた。
 時間は午後3時。分岐点には「エアーズロック」の標識があるのみ。エアーズロックに向かう車はほとんど通らない。たまに来ても乗せてはくれない。エアーズロックに行けないまま、日が暮れてしまう。荒野での野宿だ。
 翌朝もただじっと、分岐点でエアーズロックに向かう車を待った。けっこう辛いヒッチハイク。あっというまに暑くなる。おびただしいハエ。分岐を示すドラムカンの影で横になり、顔をハンカチで覆ってひと眠りする。午後になると黒雲がモクモクと出はじめ、あっというまに空全体を覆い、強風が吹きはじめた。まるで嵐。強風はますます激しくなり、体ごと吹き飛ばされそうになる。稲光が大空を駆けめぐる。近くに雷が落ちたときは、一瞬、青ざめた。「やばい!」。この荒野の中では遮るものは何もない。
 午後3時になったところで、「エアーズロックは断念しよう」と決めた。
 そう決めたとたんに、マットレスや生活道具一式を積んでアデレードまで行くデビッドのホールデンの旧型車が通りがかり、乗せてもらった。チンタラチンタラ走る車で、なんと5日がかりでアデレードに到着した。
 アデレードで読んだ新聞には、サイクロンに襲われたアリススプリングスの記事が写真入りで大きく出ていた。ぼくがエアーズロックへの道で車を待ったのと同じころ、最大風速100マイル(166キロ)の強風が吹き荒れ、アリススプリングスだけで数百万ドルの被害が出たと報じている。あの嵐では仕方ないか…と諦めようとするのだが、エアーズロックに行けなかったのは残念でならなかった。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 031

ナラボー平原を行く

 午前中は西オーストラリア州の中心都市、パースを歩いた。のびやかな町並み。ハンバーガーとコーヒーの昼食を食べて出発。パースの郊外に向かって歩く。きついヒッチ。交通量は多いのだが、乗せてもらえない。車に乗せてもらえるまで歩きつづけるというのがぼくのやり方なので、パースの中心街から20キロ以上も歩いた。日が暮れかかったころ、やっと大型トラックに乗せてもらえた。日が落ちると、ググググッと寒くなる。そのトラックで720キロ先のサウスオーシャンに面した港町、エスペランスまで行った。
 エスペランス到着は翌日の昼前。トラックの運転手はジャック。エスペランスに着くと、大型トラックで港を案内してくれた。西ドイツのハンブルグからの貨物船や日本のKラインの貨物船が接岸していた。
 町中でジャックと別れると、国道1号で内陸のノーズマンへ。2台の車に乗せてもらい、ノーズマンに到着すると、そこからはナラボー平原を横断する。町外れで車を待ったが、乗せてもらえないままに日が暮れた。強烈な色彩の夕焼け。ひと晩、ぐっすり眠りたくて国道沿いのブッシュの中にシュラフを敷いて寝た。だが、あまりの寒さに何度も目がさめ、ほとんどひと晩中、ウトウト状態だった。
 夜が明ける。じつについていた。シュラフをまるめ、国道1号に出るなり、最初のトラック(冷凍車)でバラドニアへ。広大なナラボー平原に入っていく。バラドニアでもほとんど待たずに、グレッグのオンボロ車に乗せてもらった。
 バラドニアを過ぎるとまもなく、約120キロ、一直線の道になる。まったくカーブがない。直線路はナラボーの大平原をズバーッと貫いている。約120キロ走って最初のコーナーにさしかかったときは、グレッグと一緒に手をたたいて喜んだ。一直線の道をただひたすらに走るというのも、変化がなく、けっこう辛いものなのだ。
 西オーストラリア州から南オーストラリア州に入ったとたんに舗装路は途切れ、ダートになる。夜遅くにセドゥナの町に着いた。この町の手前、約80キロの地点からまた舗装路になった。町中に車を停め、車内で眠った。
 翌日は日の出とともに出発。昼過ぎ、ノーズマンから1500キロのポートオーガスタに到着。ここでグレッグと別れたが、彼はさらにブリスベーンまで行く。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 030

最長記録の2459キロ

 ブルームから10キロほど歩き、ポートヘッドランドへの道とのジャンクションで野宿。翌朝は夜明けとともに起きた。「早起きは三文の得」ではないが、起きるのとほぼ同時にダットサンのピックアップが停まってくれた。
ペンキ屋のジム。彼はダーウィンからやってきて、これからパースまで行くという。ラッキー。ブルームからパースまでの2500キロ近い距離を1台の車で行けるのだ。
 彼は6年前にイギリス・ヨークシャーのハルからオーストラリアにやってきた。
「オーストラリアに来れば、誰でも金持ちになれると思っていたんだけど、それはもう昔の話。ハルに帰りたいよ」
 と、ジムは「ハルに帰りたい!」を連発した。
 ブルームからポートヘッドランドまでは未舗装路。560キロ間にガソリンスタンドが1軒あるだけ。乾燥した風景がつづく。ジムとは途中で運転を交替した。
 ニューマン鉄山の鉄鉱石の積み出し港、ポートヘッドランドからはインド洋岸のルートを夜通し走り、翌日は南回帰線を通過した。そこには「Tropic of Capricorn」の表示板が立っている。
 カーナボンではNASAの大きなパラボラアンテナが目についた。
 ノーザンプトンに近づくと植生が変わり、緑がぐっと増え、野花が咲いている。広大な小麦畑も見られるようになった。
 さらに南下し、ジェラルドトンの町を過ぎると、気温がグッと下がり、肌寒くなる。
 第2夜目は国道沿いに車を停め、仮眠したが、寒くて目がさめてしまった。無数の星が青白く光っている。ジムも同じで、我々は運転を交替しながらほとんど寝ずに走りつづけ、夜明け前にパースに到着した。
 ブルームからパースまでジムには2459キロもの長い距離を乗せてもらった。これはブラドに乗せてもらった2200キロをはるかに上回るもので、1台の車に乗せてもらった距離としては、我がヒッチハイクの最長記録だ。
 パースの中心街で下ろしてもらったが、ジムとは固い握手を交わして別れた。

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六大陸周遊1973-74 [完全版] 029

自由奔放な空気

 夜が明けたところで出発だ。クヌヌラはオード川をせき止めた灌漑用のダムから水を引いてつくり出した広大な農業地帯の中心地。ホールズクリークからフィッツロイクロッシングに向かって歩いていく。おびただしい数の蠅。はらってもはらっても、まとわりついてくる。飛行場のわきを通る。そのとき、ものすごい数の鳥の群れを見る。一瞬、空が暗くなるほどの鳥の大群だった。
 オード川を渡っているときに、ティモール海のケンブリッジ湾に面したウィンダムまで行く車に乗せてもらい、ホールズクリークとのT字の分岐で下ろしてもらった。
 ホールズクリークまでは350キロあるが、すごくラッキーなことに、ほとんど待たずに次の車に乗せてもらった。若い男女5人の乗る車。それなのにぼくを乗せてくれたのだ。後の座席には女の子たち3人が乗っていたが、その中に割り込んで座らせてもらった。 彼女たちとはいやでもおうでもピッタリと肌を寄せ合い、彼女たちの体の暖かさがジンジン伝わってくる。なんと5人はパースまで一緒に行くとのことで、その途中のブルームで仕事をするという。舗装は途切れ、ダートに突入。ものすごい土ぼこりが車内に入り込み、彼女たちの顔はあっという間に真っ白になる。
昼過ぎにホールズクリークに到着。レストランで5人と一緒に食事をしたが、ぼくの分はみんなが払ってくれた。
 次に町、フィッツロイクロッスングへ。約300キロある。荒野には無数の蟻塚。まるで墓標のようだ。珍しく雲を見た。遠くの方では雨が降っている。夕方、フィッツロイクロッシングに到着。ここにはホテルがあって、パブがあって、郵便局があって、ガソリンスタンドがあってと、それだけ。とても町といえるようなところではない。
 昼と同じようにレストランで5人と一緒に夕食を食べ、そのあとはパブで飲んだが、自分の分はまたしてもみんなが払ってくれた。5人はホテルに泊まり、ぼくは車中で寝た。またしても蚊の猛攻を受け、ひと晩中、蚊との戦いであまりよくは眠れない。
 フィッツロイクロッシングを過ぎると舗装路になった。風景はほとんど変わらない。荒野が延々とつづく。ダービーの町に寄り、500キロ近くを走って、夕方、インド洋に面したブルームに到着した。5人はここでしばらく働く。男性2人は中国人の経営する漁業会社の船に乗り、女性3人はレストランで働くという。
5人はシドニーを出発した。みんなでお金を出し合って中古車を買い、それで旅に出た。途中、ブリスベーンで働き、マウントアイザで働き、さらにダーウィンで働いてここまでやってきた。ブルームで働いたらパースまで行くという。そんな5人に自由奔放な空気を強く感じるのだった。
 夕暮れのブルームで男性2人とは握手をかわし、女性3人とは熱き抱擁をかわして別れたが、いつまでも後ろ髪を引かれるような思いがした。

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ジャンル : 車・バイク

六大陸周遊1973-74 [完全版] 028

恐怖の酔っぱらい

 午後になって1台の車が停まってくれた。運転しているのは50過ぎの人。乗せてもらうなり、まずはアイスボックスに入ったカンビールをすすめられる。炎天下に立ちっぱなしだったので、一気に飲み干した。なんともいえずにうまいビール、だが、運転手はぼく以上に、2本、3本とたてつづけに飲んだ。それ以前にもかなり飲んでいるようで、危なっかしくて仕方がない。道を外れ、立木にぶつかりそうになったときは、思わず冷や汗が出た。「もう、これまで」と、ぼくが運転をかわった。そのとたんに、彼はグーグー、いびきをかいて眠ってしまうのだ。
 おまけに車のトラブルに見舞われた。オイルランプがつきはじめ、さらにラジエター水も減ってオーバーヒート寸前になる。からくもガソリンスタンドにたどり着き、オイルを足し、ラジエター水を補給し、給油した。ところがこのオッサン、金を持っていないのだ。ガソリン代とオイル代の9ドルは、ぼくが払うしかなかった。
 キャサリンから500キロのクヌヌラに着いたのは、夜も遅くなってからのことだった。酔っぱらいのオッサンは大分、酔いもさめたようで、何事もなかったかのように「じゃー、元気でな」と言い残して走り去っていった。その夜はクヌヌラの町の中心の広場で野宿したが、蚊にさんざんやられ、よく眠れなかった。

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