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「南米・アンデス縦断」(72)

 2008年1月25日、「オルリー・ホテル」のジュース、クロワッサン、パン、ハム、チーズ、フルーツポンチの朝食を食べ、メンバー最年少の「リョースケ君」と町歩きをしたあと、ブエノスアイレス中央駅から電車に乗り、終点のティグレ駅まで行った。

 そこからはパラナ川デルタ地帯のクルージング。迷路のような流れを楽しんだ。ティグレ駅に戻ると、駅前のレストランで夕食。今回最後のビフテキを食べた。

 翌26日、ブエノスアイレス滞在最後の日は中心街に近い自然保護区を歩き、ラプラタ川を眺めた。茶色い水平線。対岸のウルグアイ側はまったく見えない。手ですくって茶色い水を飲んでみると、若干の塩味があった。

 1月27日、ブエノスアイレス発23時50分のCO(コンチネンタル航空)052便に乗り込み、アメリカのヒューストンへ。機上の人となった瞬間、無性に「ブエノスアイレス→リマ」を走りたくなった。そうすれば「南米一周」になる。それと同時に1985年~86年の168日間で4万3402キロを走った「南米一周」のシーンが、次々と目に浮かんでくるのだった。

 ヒューストンでCO(コンチネンタル航空)007便に乗り換え、成田に到着したのは1月28日の15時45分。20時、神奈川県伊勢原市の自宅に到着。妻は鍋料理をつくって待ってくれていた。宮城県の鳴子温泉の地酒「初音」を飲みながら食べる熱々の鍋はまさしく日本の味だった。(了)

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ブエノスアイレス中央駅で電車に乗る

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終点のティグレ駅へ

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ティグレ駅の駅舎

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パラナ川のクルーズ船に乗る

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パラナデルタのクルージング

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パラナデルタのガソリンスタンド

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ティグレ駅の駅前通り

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ティグレ駅のレストランで夕食

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ブエノスアイレス中央駅に戻る

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ラプラタ川の流れ。茶色い水平線を見る

「南米・アンデス縦断」(71)

 1月24日、「オルリー・ホテル」の朝食を食べると、バイクを税関に持ち込み、そのあとはなつかしのブエノスアイレスを歩いた。

 アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは人口300万の大都市。まずはブエノスアイレスの中心、大統領府前の「5月広場」へ。ブエノスアイレスの町並みはこの広場を中心にして造られ、広がっていった。

 大統領府はピンクの建物で「カサ・ロサーダ」と呼ばれている。アメリカの「ホワイトハウス」風にいえば「ピンクハウス」になる。

 次にフロリダ通りを歩いた。「5月大通り」からサンマルティン広場までの約1キロの歩行者専用の通り。「歩行者天国」の通りの両側にはデパートやブティック、レストラン、カフェ、旅行社など、さまざまな店が並んでいる。ここでは大道芸も見られるし、路上でタンゴを踊る人たちも見られる。数多くの露店も出ている。

 サンマルティン将軍の騎馬像が立つサンマルティン広場は市民の憩いの場。大樹の木陰で気持ちよさそうに昼寝をする人。草原ではビキニ姿の女性が日光浴している。そこから近い鉄道のターミナル駅、レティロ駅に行き、その隣のバスターミナルを歩いた。

 圧倒されるようなバスターミナルの光景。アルゼンチンの各地へ長距離バスが次々と出ていく。アンデスのリゾート地、バリローチェ行きやフェゴ島の玄関口のリオガジェゴス行きのバスも出ている。全部で75番線まであるバスターミナルは、まるで大空港のターミナルを思わせた。

 最後にラプラタ川沿いのブエノスアイレス港へ。

「ブケバス」のターミナルでは、対岸のウルグアイの首都モンテビデオ行きの白い船が出ていくのを見送った。サッカーの強豪「ボカジュニアーズ」で知られるボカでは廃船の係留された港を歩いた。

 このボカ港はかつてはアルゼンチン随一の港だった。大西洋を越えてやってくる船はすべてこの港に着いた。当時は造船所もあり、ボカは船乗りや港湾労働者など大勢の人たちであふれかえっていたという。それが「ブケバス」のターミナルや客船のターミナル、延々とつづくコンテナヤードなどがある北港の「ダルセナ・ノルテ」に中心は移り、ボカ港は寂れていった。

 ところでぼくが初めて海外に飛び出したのは1968年4月12日のことだ。

 バイクでの「アフリカ大陸縦断」を目指して友人と2人、スズキTC250ともども、横浜港からオランダ船の「ルイス号」に乗り込んだ。カソリ、20歳の旅立ち。

「ルイス号」は日本から出た最後の南米への移民船。釜山、香港、シンガポールと寄港し、インド洋を越えてアフリカへ。そしてケープタウンから大西洋を越え、ブラジルのサントス、ウルグアイのモンテビデオを経由し、アルゼンチンのブエノスアイレスまで行く船だった。

 アフリカまでは40日にも及ぶ長い船旅。そのため船内で一緒になった日本人や韓国人、台湾人の人たちとは家族同様の親しさになった。

 ぼくたちは「アフリカ大陸縦断」を目指し、南部アフリカ・モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)で下船したが、港でのみなさんたちとの別れは胸をえぐられるほど辛いものだった。夜のロレンソマルケス港を出ていく「ルイス号」をいつまでも見送ったが、そのときぼくにとって「ブエノスアイレス」はどうしても自分のものでなくてはならない存在になり、「必ず南米を一周する、そのときはブエノスアイレスに行こう!」と、心に決めた。

 南米はぼくにとっては相性の悪い大陸だった。何度か「南米一周」を計画したのだが、そのたびに失敗…。5度目の正直で旅立ったのは、南部アフリカ・モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)港で、アルゼンチンのブエノスアイレス行きのオランダ船「ルイス号」を見送ってから17年後の1984年10月のことだった。

 コロンビアを出発点にしてスズキDR250Sを走らせ、反時計回りで南米を一周した。ブエノスアイレスに到着したのは1985年1月17日。とびきり暑い日だった。

 ターミナル駅のひとつ、オンセ駅に近い安宿の「コーラルホテル」に泊まったが、「南米を一周しよう、そのときにブエノスアイレスに行こう!」という夢を18年目に達成させた喜びで、ホテルの部屋で一人、「乾杯!」を繰り返したのだ。

 その時はブエノスアイレスを拠点に、「ブエノスアイレス→ブエノスアイレス」でまわり、チリのサンチャゴを目指した。ブエノスアイレスを出ると、はてしなく広がるパンパを行く。パンパとはケチャ語で「大草原」の意味。ブエノスアイレスを中心とする半径数百キロほどの扇形のエリアで、その面積は日本の2倍以上にもなる。パンパは桁外れの大平原。まるでローラーでならしたかのようにまっ平だ。

 いかに平らかを証明しているのが、アンデス山脈から流れ出る何本もの川。どの川も水量が豊富なのにもかかわらず、1本として大西洋に届かない。あまりにも平なので、パンパの湖に流れ込んだり、パンパの地下にもぐり込んでしまう。それだからパンパは平坦なだけでなく、水の豊富なところでもある。

 そんなパンパは世界有数の大穀倉地帯。小麦畑やトウモロコシ畑、大豆畑が地平線の果てまでつづいている。大牧場も見られる。夏のパンパはヒマワリの季節。それは見事な光景で、大平原はヒマワリの花の色、一色に塗りつぶされていた。風が吹くと、黄色一色の大平原は波立つようにして揺れた。

 ブエノスアイレスから800キロほど走ると、前方にアンデス山脈の山並みが見えてくる。山麓の町、メンドサに到着。枝を広げた街路樹が涼しげだ。メンドサはワインの産地としてよく知られているが、この町の周辺にはブドウ園が多い。メンドサからチリ国境に向かうと、平原からアンデスの山地へと風景は一変。ゴーゴーと音をたてて流れる急流に沿った道を行く。国境の手前では標高6959メートルの南米の最高峰、アコンカグアを見た。堂々とした山の姿。青空を背にした雪の輝きがまぶしかった。大空を悠々とコンドルが飛んでいた。

 アンデス山脈の峠がアルゼンチンとチリの国境。峠は全長3キロの長いトンネルで貫かれている。トンネルを抜け、チリに入り、首都のサンチャゴまで一気に走った。チリではアンデスの標高4765メートルのアグアネグラ(黒い水の意味)峠まで行った。日本風にいえば「黒水峠」のダートの峠道をおもしろく走った。

 首都のサンチャゴに戻ると、アルゼンチンのブエノスアイレスへ。アンデス山麓のメンドサから再度、パンパを駆け抜けた。復路では往路とルートを変え、コルドバ→サンタフェ→ロザリオ経由でブエノスアイレスへ。10日間で5137キロを走った「ブエノスアイレス→ブエノスアイレス」だった。

 ブエノスアイレスに戻ると、ふたたび、オンセ駅に近い「コーラルホテル」に泊まり、汗をたらたら流しながら、1日かけて町を歩いた。足はどうしてもラプラタ川のブエノスアイレス港に向かい、オランダ船の「ルイス号」が停泊したかもしれない岸壁に立ち尽くし、海のように広いラプラタ川を眺めつづけるのだった。

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「オルリー・ホテル」前のウルグアイ通り

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「オルリー・ホテル」の部屋からの眺め

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「オルリー・ホテル」の朝食

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バイクを税関に持っていく

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ブエノスアイレスの中心、大統領府前の「5月広場」

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「歩行者天国」のフロリダ通りを歩く

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石畳の道を歩く

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ターミナル駅の「レティロ駅」

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ボカ港の廃船

「南米・アンデス縦断」(70)

 2008年1月23日、「ホテル・バルカルせ」の朝食を食べ、8時、バルカルセを出発。州道28号でブエノスアイレスへ。快走路で交通量もそれほど多くない。アヤクーチョの近くを通り、ラ・プラタの手前でR2(国道2号)に入る。ブエノスアイレスまでは高速道路だ。

 DR-Z400Sのアクセル全開で走り、15時45分、「南米・アンデス縦断」のゴール、ブエノスアイレスに到着。ペルーのリマを出発してから53日目、1万2574キロを走ってのブエノスアイレス到着だ。

 2002年の「ユラシア大陸横断」、2004年~05年の「サハラ砂漠縦断」、2005年の「韓国往復縦断」、2006年の「シルクロード横断」を走破してきたDR-Z400Sは、今回の「アンデス縦断」も見事に走りきってくれた。

 ブエノスアイレスでは中心街の「オルリー・ホテル」に泊まり、まずはみなさんとシャンペンで乾杯。そのあとビール、ワインを飲み干し、ズラズラッと空瓶が並んだ。さんざん飲んだところで、ホテル近くの日本食の店「入り船」に行き、握りずしを食べながら再度の乾杯。ホテルに戻ると、さらに部屋での飲み会になった。

 我々はブエノスアイレス到着を心の底から喜び合った。
 
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バルカルセの夜明け

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州道28号でブエノスアイレスへ

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ブエノスアイレスに到着

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「オルリー・ホテル」に泊まる

「南米・アンデス縦断」(69)

 1月22日。ピザの食べ過ぎでひと晩中、苦しい思いをしたが、夜明け前にひと眠りすることができた。「眠り」の威力は絶大で、ずいぶんと体は楽になった。

 6時に起きると、1時間ほどバルカルセの町を歩いた。

 7時、「ホテル・バルカルセ」の朝食。ジュース、クロワッサン、コーヒーという朝食を食べると、体はさらに楽になった。これでもう大丈夫!

 今日はバルカルセの休日。
「パタゴン斉藤さん」とバスで大西洋のリゾート地、マルデル・プラタに行く。日本でいえば湘南海岸といったところか。マルデル・プラタの砂浜には大勢の人たちが押しかけていた。家族連れや年配の夫婦が目立った。

 町の広場ではカップルたちがアルゼンチンタンゴを踊っていた。そんなマルデル・プラタの光景を眺めながら、「パタゴン斉藤さん」とバーの歩道上のテーブルでビールを飲むのだった。

 マルデル・プラタからバルカルセへの帰りは2階建てのバス。座席指定なのだが、なんともラッキーなことに、我々の席は2階の最前列。流れゆく風景を存分に楽しんだ。

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ホテルの部屋から見るバルカルセ

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バスに乗ってマルデル・プラタへ

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マルデル・プラタのバスターミナル

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マルデル・プラタの中心街

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マルデル・プラタの果物店

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マルデル・プラタの海岸

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マルデル・プラタの広場

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2階建てバスからの眺め

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バルカルセに戻ってきた

「南米・アンデス縦断」(68)

 1月21日。「ホテル・アルゴス」で朝食を食べ、8時、バイアブランカを出発。トレスアリョスで国道3号と別れ、大農業地帯の中心地、バルカルセへ。

 交通量はガクッと減った。
 100キロ以上で走行していると、突然、首筋に猛烈な痛みを感じた。ハチにやられたのだ。あっというまに首が腫れた。

 地平線に向かって一直線に道が延びている。痛みを懸命にこらえて、地平線を目指して走りつづける。

 昼食のサンドイッチを食べ、ネコチェア、ケケンと通り、夕方、バルカルセの町に到着。「ホテル・バルカルセ」に泊まったが、ここでは2泊するのだ。

 夕食はみんなでピザ専門店に行き、ピザを食べた。ここでカソリ、無謀にも大食漢の石井君に挑戦し、ピザの食べ比べをした。まったくかなわなかったが、その夜はひと晩中、苦しむことになる。胃液が逆流するような気持ちの悪さに襲われ、ほとんど寝られなかった…。

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バイアブランカの「ホテル・アルゴス」

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「ホテル・アルゴス」の朝食

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国道3号を行く

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一面のヒマワリ畑

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同室の井染さんとビールで乾杯!

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夕食のピザ

「南米・アンデス縦断」(67)

 1月20日。目を覚ますとすぐに町歩きを開始。そのあと「ニジャール・ホテル」の朝食を食べ、ビエドマを出発。リオネグロ川を渡り、南緯40度線を越え、さらにリオコロラド川を渡った。

「リオコロラド」は直訳すれば「赤い川」。このリオコロラド川がアルゼンチンの心臓部ともいえる大平原の「パンパ」と不毛の荒野がつづく「パタゴニア」を分けている。

 リオコロラド川を渡ると風景は一変し、一面の大農地になる。収穫の終わった小麦畑が際限なく広がっている。大地を黄色く染めるヒマワリ畑も見られる。小麦の大貯蔵所には大型トラックが長い列をつくって順番を待っていた。

 昼食はガソリンスタンド内のレストラン。エンパナーダと骨つき肉を食べた。エンパナーダは中に牛肉などの詰め物をした揚げパンでアルゼンチン人の大好物。焼き上げたエンパナーダもある。

 16時10分、バイアブランカに到着。「ウシュワイア→ブエノスアイレス」間の国道3号沿いでは最大の都市だ。

「アルゴス・ホテル」に泊まり、夕食後は町を歩いた。中心街の広場に行き、そのあと鉄道の中央駅へ。寂れた中央駅は交通の主役が鉄道から長距離バスに変わったアルゼンチンの現状を象徴しているかのようだった。

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ビエドマの町を歩く

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ビエドマのセクシーな看板

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リオネグロ川

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リオコロラド川

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昼食のエンパナーダ

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夕暮れのバイアブランカの町

「南米・アンデス縦断」(66)

 1月19日、プエルト・マドリンを出発。国道3号を北上。広大なパタゴニアの荒野を突っ走る。天気は快晴。抜けるような青空には一片の雲もない。まだ南緯40度以南の世界だが、スズキDR-Z400Sで切る風はもう冷たくない。

 国道3号と国道251号の分岐点で昼食。レストランでビフテキを食べた。昼食後には15分の昼寝。いつものことだが、この短い眠りがすごく効く! 昼食後というのは一番、眠くなる時間帯だが、「15分寝」のおかげで居眠り運転することなくDRを走らせることができた。

 昼食後も国道3号を北へ、北へと走り、17時40分、ビエドマに到着。プエルト・マドリンから445キロ。町外れをリオネグロ川が流れている。「リオネグロ」は直訳すれば「黒い川」。対岸はカルメン・デ・パタゴネスの町になる。丘の上の大聖堂が目立って大きい。

 ビエドマの町中にある「ニジャール・ホテル」に泊まる。町をひとまわりしたところで食べ放題のチャイニーズレストランに入り夕食にする。チョリソー(サーロインステーキ)やソーセージ、サラダを食べたあと、さらにチャーハンや焼きそば、中華の惣菜を食べた。ついつい食べ過ぎてしまい、もう苦しいほどの満腹だ。

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「ホテル・ラ・ポサダ」の朝食

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プエルト・マドリンを出発

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昼食のビフテキ

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国道3号を北へ

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ビエドマに到着

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チョリソーを焼いている

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チャイニーズレストランの夕食

「南米・アンデス縦断」(65)

 1月17日、コモドロ・リバダビアを出発。国道3号を北へ。午前中は曇天で寒かったが、午後はきれいに晴れた。

 この日は450キロ北のプエルト・マドリンへ。ここは大西洋岸のリゾート地。「ホテル・ラ・ポサダ」に泊まった。夕食は町のレストランで。前菜は生ハム、メインディッシュはきしめん風の幅広スパゲティー。それにクリームシチュー風のホワイトソースをかけて食べる。

 翌日はプエルト・マドリンでの休日。大半のメンバーはバスツアーでペンギンやゾウアザラシが見られるバルデス半島に行った。ぼくは1984年~85年の「南米一周」でトンボ岬とバルデス半島には行ったのでパスし、終日、海岸で過ごした。

 午前中は閑散としていた砂浜だが、午後になるとけっこう多くの人たちがやってきた。

 日本の「海の家」のような施設がないので、女性たちは砂浜で着替える。大半の女性は下に水着を着ているが、中には堂々と生着替えをする女性もいる。下着のブラとパンツ姿で日光浴をする若い女性には思わず目が釘付け。若い女性たちの超ビキニ姿は目のやり場に困るほどだ。といいつつ、しっかりと見た。

 プエルト・マドリンの休日はよかった!

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プエルト・マドリンの町並み

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プエルト・マドリンで泊まったホテルの中庭

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夕食のきしめん風スパゲティー

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プエルト・マドリンで釣りをする人たち

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プエルト・マドリンの砂浜

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プエルト・マドリンの町の広場

「南米・アンデス縦断」(64)

 1月16日。ジュース、コーンフレーク、クロワッサン、フルーツポンチの「バイアホテル」の朝食を食べ、9時、サンフリアンを出発。

 国道3号を北へ。地平線に向かってひた走る。360度の地平線にグルリと囲まれていると、「地球って、円板なんだ!」と思ってしまう。それほどまっ平な平原がつづく。

 やがてゆるやかな丘陵地帯に入った。大型トラックが下り坂で横転し、道路をふさいでいたが、そこはバイクの強み、何なく事故現場のわきをすり抜けて大西洋岸へと下った。海の青さが目にしみた。

 16時45分、サンフリアンから440キロの大西洋岸の町、コモドロ・リバダビアに到着。「ホテル・アウストラル」に泊まった。「アウストラル」は南を意味している。時間がたっぷりあるので、さっそく町に出、町中から海岸と歩きまわった。

 スーパーでビールの大瓶(1リッター)を買い、海を見ながら好物のポテトチップスを食べ、ビールを飲んだ。夕食はレストランで「ミラネーゼ・ポジョ・アラ・ナポリターナ」を食べた。ポジョは鶏肉。ミラネーゼの上にハム&チーズがのっているのがナポターナ。それにライスが添えられている。夕食を食べ終えると、ふたたび町を歩いた。

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「バイアホテル」の朝食

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「バイアホテル」を出発

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前方には行けども行けども地平線!

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国道3号沿いのガソリンスタンド

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コモドロ・リバダビアに到着

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海を眺めていた2人の女の子

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コモドロ・リバダビアでの夕食

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ウシュワイア行きの2台のバス

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コカコーラの巨大な看板

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