1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
13
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
  01 ,2015

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


著者・管理人

Author: 賀曽利隆
Twitter:@kasori3000
Administrator:ウザワ・K

カテゴリー
Amazon
ブログ内検索 by Google
広告も社会の窓。
FC2ブログランキング
このブログが面白いと思ったらたまに(あるいは頻繁に!)クリックしてくださいね(ポチっとな)。それで何が起こるのかは僕も知らんけど…。
月別アーカイブ
小さな天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2カウンター
QRコード
QRコード
31

Category: 峠越え since1975

Tags: ---

Comment: 2  

カソリの峠越え(28)中国編(11):因幡の峠(パート2)
(『月刊オートバイ』1993年9月号 所収)

 鳥取県は昔の国名でいうと、東半分の因幡と西半分の伯耆の2つの国から成っている。そのうちの東半分、「因幡の峠」を越えようと、峠越えの相棒のスズキDJEBEL250を走らせて鳥取へ。東名→名神→中国道とエンジン全開だ。
 前月号でもふれたように、山崎ICで中国道を降り、R29で兵庫・鳥取県境の戸倉峠を越え、鳥取県の県都、鳥取に夕暮れ時に着いた。鳥取が「因幡の峠(パート2)」の出発点になる。
「それ、行け~!」
 とばかりに鳥取砂丘に急ぎ、砂丘のてっぺんに駆け登り、日本海に落ちていく夕日を眺めた。鳥取砂丘の感動を胸に刻み込み、R9を走り、鳥取・兵庫県境の蒲生峠に近い岩井温泉で泊まった。

岩井温泉の朝湯
 岩井温泉では「大和旅館」に泊まった。翌朝は目をさますとすぐに、Tシャツにビーチサンダルという格好で山陰の温泉町を歩いた。天気は快晴。5月下旬の空には雲ひとつない。蒲生川にかかる橋を渡る。川には錦鯉。川の上流に目を向けると、鳥取・兵庫県境の山々がゆるやかに連なっている。
 宿に戻ると朝湯に入る。ぼくは朝湯が大好きなのだ。
「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで…」
 とはよくいったもので、この3つと大好きだ。といっても朝寝は寝坊することではない。いったん起き、朝湯に入り、朝食を食べてから寝るのが朝寝。朝酒のうまさは夜飲む酒の比ではない。もっともツーリングの最中では朝酒は飲めないが。朝湯→朝酒→朝寝は最高の健康法だと思っている。
「大和館」の朝湯に入ったあとは、共同浴場「ゆかむり温泉」の朝湯に入った。「ゆかむり温泉」は朝早くから地元のみなさんでにぎわっていた。湯につかりながらみなさんのさりげない会話を聞くのが、何ともいえない旅の楽しみ。
「今、自分は岩井温泉にいる、鳥取にいる、山陰にいる!」
 といった旅の実感を味わえるのだ。
「ゆかむり温泉」の湯から上がり、「大和館」に戻ると、朝食が用意されていた。朝湯のあとの朝食はメチャうま。お櫃のご飯をひと粒も残さずに食べた。
「大和館」を出発。親切にしてくれた女将さんにお礼を言って走り出す。まずはR9で鳥取・兵庫県境の蒲生峠を目指すのだ。

山陰道の蒲生峠
 岩井温泉を出るとすぐにゆるやかに連なる山並みに入っていく。峠下には蒲生の集落。蒲生峠の峠名は蒲生からきている。ゆるやかなカーブが連続する峠道を登り、蒲生峠を貫く蒲生トンネル(1745m)に入っていく。トンネルを抜け出た兵庫県側には何軒かのドライブインが並んでいる。現代版「峠の茶屋」には、大型トラックが何台も止まり、にぎわっていた。峠に着くとひと休みしたくなるのは昔も今も変わらない。
 蒲生峠を下り、湯村温泉でDJEBELを止め、温泉街を歩く。湯元の「荒湯」は98度の高温湯。湯気がモウモウとたちこめている。
 山陰の名湯、湯村温泉は平安時代に慈覚大師によって発見されたといい伝えられているほど歴史の古い温泉。NHKのテレビドラマ「夢千代日記」の舞台となった温泉で、「荒湯」の近くには夢千代の像が建っている。
 温泉街を歩いたあとは共同浴場「薬師湯」(入浴料280円)に入る。湯上りに飲んだ冷たいリンゴジュースがうまかった。岩井温泉、湯村温泉と朝湯のハシゴ湯なので、少しふらつく体でDJEBELに乗り、来た道を引き返した。
 蒲生峠の兵庫県側の入口まで戻ると、左に折れ、R9の旧道に入っていく。2車線の舗装路だが、交通量はほとんどない。新道よりもはるかにタイトなコーナーをクリアし、R9との分岐点から1キロほどで兵庫・鳥取県境の蒲生峠に到達。切通しになった峠にDJEBELを止める。峠周辺の木々の緑がまぶしいほど。透き通るような空気。ウグイスがすぐ近くで鳴いている。
 標高335メートルの蒲生峠は昔からの山陰道の要地。江戸時代には鳥取藩などの大名行列がこの峠を越えた。
 京都を起点にする山陰道は丹波の亀岡、福知山、但馬の和田山を通り、蒲生峠を越えて因幡に入っていく。蒲生峠はまさに山陰への入口なのだ。
 蒲生峠を越えて鳥取県に入ると旧道を下り、蕪島の集落を通っていく。歴史を感じさせる古い家並みの残る集落だ。

古代山陰道の十王峠
 蒲生峠を下った蕪島で道は二又に分かれる。右に行くとR9の新道に合流し、蒲生から岩井温泉に行く。左に折れる道は十王峠を越える雨滝街道で、国府を通って鳥取に通じている。
 地図を広げてみればすぐにわかることだが、蕪島から鳥取まではR9よりも雨滝街道経由の方がはるかに距離は短い。そのため古代山陰道は海側のルートではなく、山側の十王峠を越えるルートを通っていた。十王峠を越えた国府はその名の通り、古代因幡の中心地になっていた。ここにある宇倍神社は因幡の一宮だ。時代が下って因幡の中心は鳥取へと移っていった。
 蕪島から雨滝街道を行き、十王峠を越える。峠道は車がやっと通れるくらいの狭路。覆いかぶさってくるような緑のトンネルが目にしみる。
 岩見町と国府町の境が標高430メートルの十王峠。「十王」といえば、死者たちを裁く10人の王のこと。閻魔大王もその一人。そんなオドロオドロしいというか、恐ろしげな名前のついているところが、街道の難所の峠らしい。
 十王峠を越えると道幅は広くなる。古代山陰道は現在は県道31号になっている。十王峠を下ったところが雨滝の集落。ここで雨滝に寄り道をする。県道31号から2キロほど行ったところにある高さ40メートルの滝。「日本の滝100選」にも選ばれているだけあって、なかなか見ごたえのある滝だ。
 雨滝と雨滝渓谷の風景を目に焼きつけ、県道31号で国府へ。因幡の一宮、宇倍神社を参拝し、鳥取へ。鳥取は城下町。鳥取城跡を見てまわった。鳥取藩は江戸時代、因幡、伯耆の2国を支配した。32万石の、山陰道では松江藩、萩藩と並ぶ大藩だった。

若桜からの峠越え
 鳥取からふたたびR9を走り、岩井温泉を通り過ぎていく。蒲生峠下の塩谷でR9を右折し、さきほどの県道31号に入っていく。十王峠を越え、雨滝の集落の手前で今度は左に折れ、河合谷林道に入り、展望抜群の河合谷高原へ。このあたりは「氷ノ山・後山・那岐山国定公園」の北端になる。
 河合谷林道で鳥取・兵庫県境の扇ノ山(1309m)の西側をぐるりと巻くようにして走り、次に扇ノ山林道でR29の八東町に下った。
 八束からR29で若桜へ。若桜鉄道終点の若桜駅前でDJEBELを止め、駅前の喫茶&レストランで昼食にする。エビフライランチを食べ、若桜を出発。若桜発若桜着の峠越えの開始。まずは鳥取・兵庫県境の桑ヶ峠に向かう。
 若桜の市街地を走り抜け、R29に出る。鳥取・兵庫県境の戸倉峠に向かってわずかに走った所で左折する。目印は「わかさ氷ノ山9㎞」の看板だ。この道は今年(1993年)の4月から国道に昇格し、京都府の宮津市と鳥取県の米子市を結ぶR482の一部になった。
 R482を8キロほど走ると、峠下の集落の春米(つくよね)に到着。目の前には氷ノ山スキー場。ここから4キロほど登るとダートに突入し、すぐに鳥取・兵庫県境の桑ノ峠に到達。大山(1729m)に次ぐ中国地方第2の高峰、氷ノ山(1510m)北側の峠だ。峠からは県境の稜線に沿って東因幡林道が走っている(残念ながら通行止め)。
 桑ノ峠を越えて兵庫県側に下っていく。途中、大きな崖崩れの現場があって通行止めになっていたが、そこはバイクの強み、工事しているみなさんに「すいませ~ん」を連発して通してもらった。
 桑ヶ峠から5キロ下ると舗装路に出た。和牛の産地として知られる美方町を走り抜け、村岡町の長坂でR9に出た。R9の春来峠のトンネルを抜け、湯村温泉を素通りし、蒲生峠の手前5キロの地点でR9を左折。県道262号に入っていく。
 R9との分岐点から11キロで二又にぶつかり、そこは右へ。すぐにダートに突入し、畑ヶ平林道を走る。兵庫・鳥取県境の峠に向かって一気に登っていく。登るにつれて山々には残雪が見られた。山菜採りの車が奥山まで入り込んでいる。
 ダートに入って10キロで県境の峠に到達。扇ノ山の東側になる。峠を越えて鳥取県側に入り、扇ノ山林道を下っていく。東因幡林道、河合谷林道との分岐点を過ぎ、17キロのロングダートを走り切って八東町でR29に出た。そして出発点の若桜に戻ったのだ。

我が思い出の地
 若桜ではまた若桜鉄道終点の若桜駅前でDJEBELを止め、駅前の喫茶&レストランでコーヒーを飲んだ。コーヒーを飲みながら、20年前のA子さんとの出会いが思い出されてならなかった。
 1972年の秋、スズキ・ハスラーTS250での「世界一周」を終えて日本に帰ってくると、「鈍行列車乗り継ぎ」の旅に出た。寝袋ひとつを持って駅泊したり、駅周辺で野宿しながらの旅だった。
 京都から山陰本線に乗り、鳥取への乗り継ぎのため、いったん福知山駅で降りた。ちょうどその時、福知山線で大阪からやってきたA子さんに出会ったのだ。楚々とした小柄な女性。大阪の専門学校の学生で、彼女の実家が若桜だった。
「お金がないので…」
 といって、A子さんも鈍行乗り継ぎで鳥取に向かうところだった。ぼくたちはすっかり意気投合し、福知山始発の鈍行列車で鳥取に向かった。車内ではA子さんと向き合って座り、夢中になって話した。
 鳥取に着くとA子さんは「鳥取砂丘を案内してあげる」というではないか。もちろん案内してもらった。バスに乗って鳥取砂丘まで行き、夕暮れの砂丘を彼女と手をつないで歩いた。夢を見ているような気分。それがぼくにとっての初めての鳥取砂丘だ。
 鳥取砂丘から鳥取市内に戻ると、夜の町を歩き、一緒に夕食を食べた。食事が終わるとA子さんは、
「ねえ、若桜に来ない? 家に泊まっていってもいいのよ」
 といってくれた。
 ぼくの気持ちは揺れ動いたが、結局、彼女とは鳥取駅で別れ、山陰本線の米子行きの列車に乗った。A子さんは因美線経由若桜線の若桜行きの列車に乗った。
「あれから20年か…」
 もしあの時、A子さんと一緒に若桜に行っていたら…。もしあの時、彼女の家に泊まっていたら…。
「鈍行乗り継ぎ」の旅から帰ると、A子さんとは何度か、手紙のやりとりをした。だがぼくはまた、「六大陸周遊」という長い世界への旅に出、A子さんとの関係はいつしか途絶えてしまった。
 若桜をなかなか立ち去りがたくて、もう1杯、コーヒーを飲んでから出発した。R29で鳥取へ。30キロほどの距離。夕暮れの鳥取に着くと、大きな夕日が千代川の川面を赤々と染めていた。

14

Category: 東アジア走破行

Tags: ---

Comment: 0  

東アジア走破行(8)旧満州走破行
「東アジア走破行」の第6弾目は2004年9月21日~10月4日の「旧満州走破行」だ。その一番の感動的なシーンは中国最北端の地に到着した時だ。

「おー、北極だ。おい、尚、ついに北極までやってきぞ!」

 中国・東北部、黒龍江省の中心都市、ハルビンを出発してから6日目のこと。軽騎鈴木製のQS110で1706キロを走り、中国最北端の地までやってきた。

 カソリ親子、感動を爆発させ、「神州北極」の碑の前で思いっきり万歳をした。

「神州」というのは「中国」のこと。中国では国の最北端を「北極」といっている。目の前を黒龍江(アムール川)が流れている。対岸はロシアになる。中露(中国・ロシア)国境を悠々と流れる大河、黒龍江はまさに大陸を実感させる。

 中国最北端の地を存分に味わったあとは、「北極村」を歩く。ほんとうの名前は漠河村なのだが、それを「北極村」といっている。「北極旅飯店(旅館&食堂)」で黒龍江の魚料理の昼食を食べ、「中国最北之家」に行き、中国最北のダートも走った。

 中国最北端の地に立ち、意気揚々とした気分で、中国最北の町、漠河に戻った。その夜は満月。仲秋の名月にはつきものの月餅を食べ、鹿の焼肉や揚げた川エビを肴にビールを飲んだが、なにしろ「北極」に立ったあとなので腹わたにしみるような味わい。何度も「北極」に乾杯した。

 漠河から内蒙古自治区へ。

 漠河出発の朝は気温が氷点下10度まで下がった。このあたりは北緯50度をはるかに超えている。サハリンの最北端とほぼ同じくらいの緯度になるのだが、予想したよりもはるかに寒かった。

 大興安嶺山脈の峠に向かっていくと、小雪がチラチラと舞っている。峠道の日陰のコーナーにはうっすらと氷が張っている。ツルッと後輪が流れ、ヒヤッとした。思わずバックミラーで後ろを走る尚に目をやったが、無事にコーナーをクリアした息子の姿をみてひと安心。このあたりが親だなあ…。

 さらに峠に向かって走っていくと、尚は「ピーピー」クラクションを鳴らして追ってくる。バイクを止めると、「お父さん、もうすこし止まってよ」と、ブスッとした口調でいう。ぼくとしては内蒙古自治区との境の峠まで、一気に走ってしまおうと思っていたのだが…。
「そうか、わるかったな」

 それにしても寒い。ぶ厚い冬用のグローブをしていても、指先は寒さのせいでジンジン痛んでくる。

 黒龍江省と内蒙古自治区の峠を越え、峠下の町に着くと、一目散に食堂に駆け込んだ。 予想をはるかに超えた寒さに徹底的に痛めつけられたカソリ親子、2人してオンドルの壁に手を当て、背中を当てて体を暖めるのだった。

 キャクダチから根河へ。その間では大興安嶺山脈の雪の峠を越える。このあたりでは9月中旬には初雪が降る。真冬になれば氷点下30度から40度ぐらいまで下がる酷寒の地。日本出発がもう何日か遅れていたら、大興安嶺山脈の峠は越えられなかったかもしれない。さすが、「強運のカソリ」、ギリギリのタイミングで大興安嶺山脈の難関を突破した。

 根河からハイラルに向かっていくと、大興安嶺山脈の山並みは遠ざかる。風景は森林から草原へと劇的に変わる。草原にはポツン、ポツンと牧畜民の蒙古族のパオ(テント)が見られた。

 そんな草原地帯を黒龍江の上流のハイラル川が流れている。上流とはいっても川幅は広く、すでに大河の風格があふれている。

 大興安嶺山脈を水源とするハイラル川は中露国境を流れるアルグニ川となり、ロシアから流れてくるシルカ川と合流して黒龍江になる。最後は間宮海峡(タタール海峡)に流れ出るが、大興安嶺山脈から間宮海峡まで全長4353キロ。黒龍江は世界でも有数の大河だ。

 ハイラルから満州里に向かう。やっと猛烈な寒さから開放された。一面の大草原。羊や馬の群れを見る。地平線に向かって一直線に延びる道を走りつづける。風景がデッカイ!

 満州里に近づいたところで砂丘を越えた。モンゴルのゴビ砂漠から延びる砂丘だ。バイクを道端に止め、砂丘のてっぺんに登った。この砂丘こそ、アフリカ大陸からユーラシア大陸へと延びる大砂漠地帯の最東端になる。
「すごいものを見た!」
 という気分に浸った。

 アフリカ大陸の大西洋から紅海まで東西5000キロのサハラ砂漠は紅海を越え、アラビア半島の砂漠からイラン、パキスタンの砂漠へとつづく。さらにカラコルム山脈を越え、タクラマカン砂漠からゴビ砂漠へとつづいている。その東端の砂丘に、「今、立っている!」と思うと、胸の中が焼けるように熱くなってくる。

「砂漠大好き人間」のカソリ、今までに世界の大半の砂漠をバイクで走破してきた。これからも世界の砂漠をもっと走りまわりたいと思っているので、砂丘のてっぺんでモンゴルの方向に目をやりながら、はるか遠くのサハラ砂漠に想いを馳せるのだった。

 満州里に到着すると、町を走り抜けて国境へ。中国側の漢字で「中華人民共和国」、ロシア側のロシア語で「ロシア」と書かれたタワーが鉄路をまたいでいる。その下を木材を満載にした貨物列車がロシア側から中国側へと通り過ぎていく。

 ハルビンからチチハル、ハイラルと経由し、満州里に至るこの鉄道は、ロシア側に入ると、チタでシベリア鉄道の本線に接続している。目の前の鉄路がイルクーツクからノボシビルスクと通り、欧亜を分けるウラル山脈を越え、モスクワからヨーロッパ各地に通じていると思うと、このまま国境を越えて「ユーラシア大陸横断」をしてみたいという衝動にかられた。

 中露国境には平原を切り裂くように地平線のかなたまで、両国を分ける鉄条網のフェンスが張りめぐらされている。国と国の利害がぶつかり合う国境の厳しさを見せつけるような光景だ。しかし国境というのはその向こうの世界への強烈なあこがれを抱かせる場所でもある。国境には異常なほどの執念を燃やすカソリ、満州里の中露(中国・ロシア)国境に立って大いに満足するのだった。

 国境を立ったあとは、満州里近郊の草原地帯にある蒙古族の「パオ・レストラン」で羊肉三昧の昼食。「サンバイノ(こんにちは)」と蒙古語であいさつすると、従業員のみなさんはニコッと笑う。思わずモンゴルで出会ったモンゴル人たちの笑顔を思い出した。国境という一本の線によって中国とモンゴルに分けられたモンゴル人だが、その笑顔は共通のものだ。

 満州里からハルビンに戻ると、中国最東端の地を目指す。ジャムスを通り、同江へ。

 中露国境を流れる黒龍江に、中国・東北地方最大の川、松花江が合流する地点の「三江口」はすごかった。川幅は3、4キロはあるだろう。対岸のロシアが霞んでいた。ちなみに「三江」というのは、黒龍江と松花江、ウスリー江の中国東北地方北部の三大河川のことである。

 ハルビンから915キロ走って中国最東端の町、撫遠に到着。中露国境を流れる黒龍江の河畔には「東極撫遠」の碑が建っている。「北極」と同じように、最東端は「東極」になる。

 だが、ほんとうの中国最東端の地はさらに東になる。撫遠から38キロ走ったところで、中国の道は尽きる。目の前を中露国境のウスリー江が流れている。対岸はロシア。そこから黒龍江とウスリー江の合流地点まで4キロほど歩き、中国最東端の地に立った。

「北極」、「東極」という「二大極点」に立つと、中国大陸をもっとバイクで走りたくなってくる。「南極」、「西極」にも立ってみたくなる。「中国・東極」の地でぼくは「また、次だな!」と、そう自分にいい聞かせた。これが旅のよさ。また新たな世界が広がった。

 10月16日、ハルビンに戻ってきた。全行程6216キロ。1日で一番走ったのは黒河から塔河までの494キロ。なんとそのうち465キロがダート。ラフな区間は穴ぼこだらけ。雨にぬかった区間はドロドロネチネチ。そんなロングダートも走り抜いたので、「よくやったな!」
 と、尚の肩をポンとたたいてあげた。

===
(詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』の連載「旧満州走破行2004」をご覧ください)

12

Category: 東アジア走破行

Tags: ---

Comment: 0  

東アジア走破行(7)中朝国境走破行
「東アジア走破行」の第5弾目は2003年の「中朝国境走破行」だ。

 2003年9月25日はぼくにとっては一生涯、忘れられない歴史的な日になることだろう。鴨緑江河口から図們江(朝鮮名 豆満江)河口を目指すバイクツアー「中国・北朝鮮国境を行く!」の出発の日だからだ。

 成田から意気揚々とした気分で中国・東北地方最大の都市、瀋陽に飛び、「中朝国境走破行」の幕が切って落とされた。

 翌26日、ツアー参加者の「七人の侍」のバイクとサポートカーのマイクロバスは瀋陽を出発。バイクは中国・斉南スズキ製の125㏄バイク、GS125の新車。リアにはスズキの旗がとりつけられている。旗をなびかせて走る姿は、戦国時代の武田軍の「風林火山」の旗指物に相通じるものがあり、バックミラーに映る「七人の侍」の姿には胸にジーンとくるものがあった。

 マイクロバスにはこのバイクツアーを主催した「ツアープランナーズ・オーバーシーズ」社長の藤間剛さん、車での27万キロの「世界一周」を成し遂げた大内三郎さん、世界242の国と地域をまわった荻野洋一さんの日本人3人と、「瀋陽・中国旅行社」副社長の王麗華さん、ガイド兼通訳の呂徳成さん、「斉南スズキ」メカニックの陳さん、広報の成さん、それと運転手の、中国人5人が乗っている。

「斉南スズキ」の2人は山東省斉南の本社から来てくれた。特筆すべきなのは王麗華さん。彼女の人脈と尽力のおかげで中国公安と中国東北軍から特別な許可を取ることができたのだ。

 遼寧省の省政府からの許可を得て、瀋陽から丹東までは、高速道路の「瀋丹高速」を走った(中国ではバイクでの高速道路の走行は禁止されている)。途中、本渓に寄り、北朝鮮との国境の都市、丹東に着いたのは日が暮れてからだった。

 丹東のICには公安のパトカーが我々を出迎えてくれていた。レクサスのパトカーの先導で中国辺境(国境)最大の都市、丹東の中心街に入っていく。

 17階建の高層ホテル「丹東国際酒店」でバイクを止め、荷物を置くと、レストランでの夕食。丹東到着を祝い、「鴨緑江」という名前のビールで乾杯した。ぼくは「鴨緑江」の名前にすっかり酔ってしまった。

 20歳のときに「アフリカ一周」をして以来、ぼくは20代の大半を費やしてバイクで世界を駆けまわったが、世界地図を見るたびに「鴨緑江」には目がいった。バイクで東京を出発し、朝鮮半島を縦断し、「鴨緑江を渡って中国に入りたい!」というのが、ぼくの30数年来の夢だったからだ。
「今、その現場にやって来た!」

 夕食には何品もの中国料理が出たが、最後を飾ったのは鴨緑江でとれたツァンギョという魚の料理。淡白な味わいの白身の魚。まずは味覚で鴨緑江を味わった。

 夕食を終え、ホテルの部屋に入ると、すぐに窓をあけて外を見た。手前の丹東はまばゆいばかりのきらめく夜景に包まれているが、黒々と流れる鴨緑江の対岸、北朝鮮の新義州の町には明かりひとつ見えない。世界が漆黒の闇の中に沈んでいる。
「明と暗」。
 鴨緑江をはさんだ2つの世界のあまりの違いの大きさには、言葉もないほどだった。

 翌日は鴨緑江にかかる橋を歩き、鴨緑江の遊覧船に乗って北朝鮮側の岸辺スレスレのところまで行った。丹東は河口から40キロほどの地点。ちょうど満潮なのだろう、鴨緑江は逆流し、河口から上流へと、渦を巻いて流れていた。

 丹東を出発。鴨緑江の岸辺の道を走る。対岸は北朝鮮。川に浮かぶ中州の大半は北朝鮮領だという。鴨緑江の一番下流のダム、太平湾ダムを過ぎたところで鴨緑江を離れた。

「鴨緑江よ、いつの日か、今度はバイクで越えてやるゾー!」
 と叫んで鴨緑江に別れを告げ、満族(満州族)自治県の寛甸、桓仁を通り、峠を越えて遼寧省から吉林省に入った。

 吉林省の通化でひと晩泊まり、白山、撫松と通り、延辺朝鮮族自治州に入る。

 二道白河に到着。この町が中朝国境の聖山、長白山(朝鮮名 白頭山)への玄関口。朝鮮では始祖檀君伝説の山であり、中国では清朝発祥の地とされている。ここでは現地ガイドの朝鮮族の女性、張成姫さんが我々を待ってくれていた。さっそく長白山へ。閉山間際のこの時期なので、山頂までいけるかどうか不安だった。

 長白山登山口の駐車場にバイクを止め、ここでパジェロに乗り換える。我々は超ラッキーだった。その前々日には雪が降り、山頂までは行けなかった。前日も残った雪が凍りついてアイスバーン化し、やはり山頂までは行けなかった。さすが「強運のカソリ」、わずかな隙間をついて長白山の山頂まで行くことができたのだ(これは後日談になるが、この夜、山頂周辺では雪になり、長白山はそのままシーズンを終えて閉山されたという)。

 中国と北朝鮮の国境に連なる長白山脈最高峰の長白山は標高2749メートルの火山。この山から黄海に向かって鴨緑江が、日本海に向かって図們江が流れ出る。東北地方を貫流する大河、松花江も長白山が源流になっている。

 我々が立ったのは外輪山のピークのひとつの天文峰(2670m)。眼下には大カルデラ湖の天池が広がっている。湖の中央が中国と北朝鮮の国境。天池を取り囲む外輪山の峰々は山頂周辺がうっすらと雪化粧している。北朝鮮側の将軍峰が一番高く、中国側で一番高いのは白雲峰(2691m)。山頂の気温は氷点下1度。吹き抜ける風は冷たく、耳がちぎれそう。そんな寒風に吹かれながらも熱い気分で天池を見下ろした。

 山頂から下ると、天池から流れ落ちる大滝の長白山瀑布を見た。標高1250m地点の大滝で高さは68メートル。3条になって流れ落ちている。この滝が黒龍江(アムール川)に合流する松花江の源だ。滝のすぐ下には温泉が湧いている。その夜は大滝に近い「長白山国際旅遊賓館」に泊まったが、豊富な湯量の大浴場は日本風。湯があふれ出る湯船にどっぷりとつかった。 

 長白山から延辺朝鮮族自治州の中心、延吉へ。さらに中朝国境の町、図們へ。そこからは中朝国境を流れる図們江に沿って走った。図們江の対岸は北朝鮮。手の届くぐらいの川幅でしかない。

 揮春でひと晩泊まり、中朝露3国国境の防川に向かう。揮春から46キロ地点、中国と北朝鮮を結ぶ橋のかかっている圏河までは2車線の舗装路。現地ガイドの張さんは揮春からバスに乗り、この橋を渡って北朝鮮に入り、羅津から清津まで行ったことがあるという。

 圏河から先はダート。中国の領土が針のように細長くなる地点には、「UN(国連)メモリアルパーク」の石碑が建っている。そこにバイクを停め、悠々と流れる図們江の川原に降りた。対岸は北朝鮮。漁をする小舟が見える。

 ここではびっくり。なんとぼくのすぐわきに男が1人いるではないか。まるで「渓流浴」でもしたかのようで、濡れた体を拭いている。一瞬、図們江を渡ってきた北朝鮮からの脱北者か!?とも思ったが、まったく荷物は持っていないし、堂々とした態度なので、図們江に沐浴に来た人なのだろうということで自分を納得させた。

 この地点の道の反対側はロシア領。錆びた鉄条網が張りめぐらされている。きっとみんなやっているからなのだろう、鉄条網にはたるんだ箇所があり、そこをくぐり抜けてロシア領に入った。ロシアへのビザなし入国(密入国?)!

「道一本が中国領」といったダートを走り、揮春から69キロ走って防川に着いた。ここはちょっとした観光地。軍の監視塔に隣りあって3階建ての土産物店がある。その屋上が「一眼望三国」の展望台。北朝鮮側には「朝鮮(チョーセン)」、日本海側には「日本海(ルーベンハイ)」、ロシア側には「俄羅斯(オロス)」と、上にハングル、下に漢字で書かれている。

 足下を図們江が流れている。
 右側の北朝鮮と左側のロシアを結ぶ鉄道の鉄橋がかかっている。
 その先の日本海は日の光を浴びてキラキラ光り輝いている。
 北朝鮮側の豆満江駅とロシア側のハサン駅がはっきり見える。

 ハサン駅の背後はゆるやかな山並み。その山並みの向こうはなつかしのザルビノ港だ。 前年の「ユーラシア大陸横断」の第一歩がザルビノ港だった。ロシアへの入国手続きでこの港に降りたとき、ぼくは地図上で見たザルビノ近くのロシア・中国・北朝鮮の3国国境に猛烈に心を揺り動かされ、「いつの日か、きっと3国国境に立ってやる!」と心に誓った。それからわずか1年で、その3国国境に立つことができた。

 名残惜しい防川を後にして延吉に戻る。ここで現地ガイドの張さんと別れ、敦化へ。敦化から吉林に向かう途中で威虎嶺を越えたが、この峠までが延辺朝鮮族自治州になる。

 吉林、長春と通り、10月2日、2590キロを走って瀋陽に戻ってきた。スズキGS125はヘッドライトやテールランプのバルブ切れ以外はトラブルもなく、完璧に走ってくれた。

11

Category: 東アジア走破行

Tags: ---

Comment: 0  

東アジア走破行(6)ユーラシア大陸横断
 2002年の「道祖神」のバイクツアー「賀曽利隆と走る!」の第7弾目、「ユーラシア大陸横断」では、ロシアのウラジオストクからユーラシア大陸最西端のロカ岬まで、1万5000キロを走った。そのうちの欧亜を分けるウラル山脈の峠までが第4弾目の「東アジア走破行」になる。

 富山県の伏木港からロシア船の「ルーシ号」にバイクともども乗り込み、ウラジオストクに渡り、7月2日に出発。シベリア横断の旅がはじまった。

「ユーラシア大陸横断」に参加した「ユーラシア軍団」の17台のバイクに、サポートカーが1台ついた。それには道祖神の菊地さんとメカニックの小島さん、それとロシア人通訳が乗った。

 ウラジオストクから770キロ北のハバロフスクまでは幹線国道のM60。交通量も多い。シベリアの大河、アムール河畔の都市、ハバロフスクを過ぎると、幹線国道はプッツンと途切れ、マイナーなルートになってしまう。おまけに豪雨。ビロビジャンという町では濁流が渦巻き、町中で川渡りをした。

 ビロビジャンを過ぎると、ダートに突入。ツルツル滑る路面だったが、さすが大陸のダート、荒野をズバーッと突き抜けているので高速で突っ走った。100キロのダートを走りきり、23時にオブルチェ着。クタクタになってたどり着いたオブルチェのホテルは一滴も水が出なかった。

 翌日は中国国境の町、ブラゴベシチェンスクに向かう。そこまで約400キロ。そのうち100キロがダート。降りつづく雨の中、前日同様、ツルツルのダートをひた走る。コーナーが怖い。ノボブレスキーという町を過ぎ、舗装路に変わったときはホッした。

 ブラゴベシチェンスクはアムール川に面している。対岸は中国の黒河(ホイヘ)の町。このブラゴベシチェンスク駅でバイクと車を列車に積んだ。チタまでの約1000キロは道らしい道がないからだ。

 ブラゴベシチェンスクからシベリア鉄道本線のベロゴロスク駅までの列車旅がよかった。ツンドラの大湿地帯やポプラの防雪林、シラカバ林などを見た。

 ベロゴロスク駅からチタ駅までの間では、シベリア鉄道沿いのダートを目をこらして見つづけた。雨がつづくときつそうだが、道の状態とガソリンの問題をクリアできれば、十分に走りきれそうな道に見えた。

 途中のスコウォロディーノ駅では、特別な感慨に襲われた。この町からはヤクーツクを経由し、はるか遠くのオホーツク海の港町、マガダンに通じるM56が出ているのだ。

「またいつか、シベリアを走りたい。そのときはハバロフスク→チタ間とスコウォロディーノ→マガダン間を走ってみたい!」

 チタからイルクーツクへ、M55を走る。ゆるやかな峠を越える。この峠はオホーツ海に流れ出るアムール川と北極海に流れ出るエニセイ川の水系を分ける分水嶺。海からはるかに遠いシベリアの内陸地だが、海が変わった。ここからはウラル山脈を越えるまでは、ずっと北極海とつながった世界になる。

 峠を越えると、はてしなくつづくタイガ(針葉樹)。チタから330キロのヒロックで泊まったが、鉄道大好き人間のカソリはシベリア鉄道のヒロック駅に行った。駅構内には木材専用列車、石炭専用列車、コンテナ専用列車など貨物列車が5本も停車していた。そのどれもが60両以上の長い編成。駅前を流れるヒロック川では、大勢の人たちが水遊びをしていた。短いシベリアの夏を謳歌しているようだった。

 このヒロック川はモンゴルから流れてくるセレンゲ川に合流し、バイカル湖に流れ込む。バイカル湖から流れ出る唯一の川がアンガラ川。それがエニセイ川の本流と合流し、北極海へ。エニセイ川は全長4130キロの大河だ。

 ヒロックからモンゴル国境に近いウランウデへ。タイガから大草原へと風景が変わる。緑一色の大草原、黄色い花、白い花の咲く大草原、あまりの風景の大きさに圧倒されてしまう。

 ウランウデからイルクーツクへ。その途中でバイカル湖を見た。海と変わらない大きさ。見渡す限りの水平線。M55を外れ湖岸へ。波が押し寄せている。こうして7月10日の夕刻、ウラジオストクから2700キロ走り、イルクーツクに到着した。

“シベリアのパリ”ともいわれるイルクーツクの町を歩いた。歴史を感じさせる町並み。アンガラ川の川岸に立つオベリスク。「郷土史博物館」を見学したが、シベリアに住む少数民族の生活用具の展示に目がいった。

 イルクーツクからはM53を西へ。サヤンスクでひと晩泊まり、シベリア有数の都市、クラスノヤルスクに向かった。その途中でダート国道に突入。道幅は広い。モウモウと土煙を巻き上げて走るトラックやバス、乗用車とすれ違う。路面の状態はまあまあで、フラットダートなので高速で走れた。ダート区間は何区間かあり、ダートの合計は約80キロ。「ウラジオストク→モスクワ」間で唯一のダート国道だ。

 クラスノヤルスクに到着。エニセイ川の本流に面している。北極海からは3000キロ近くも内陸に入っているのに、川幅は1キロ以上もある。堂々とした大河の風格だ。

 クラスノヤルスクからシベリア最大の都市、ノボシビルスクに向かうとすぐに、ゆるやかな峠を越える。その峠がエニセイ川とオビ川の水系を分ける分水嶺。オビ川もやはり北極海に流れ出る川で、全長は3680キロ。シベリアにはオホーツク海に流れ出るアムール川(全長4353キロ)と北極海に流れ出る3本の川、レナ川(全長4270キロ)、エニセイ川、オビ川という四大河川がある。

 こうしてシベリアを横断し、シベリアの大河に出会うたびに、
「今度はシベリア大河紀行をしてみたい!」
 という、新たな思いにとらわれた。
 川船に乗れば、シベリアの相当、奥地にまで行けそうだ。

 オビ川の本流に面したノボシビルスクに到着。ここで見るオビ川も川幅は1キロ以上ある。遊覧船に乗り、オビ川の船旅を楽しんだ。

 ノボシビルスクからはM51でオムスクに向かった。このM51はカザフスタンのペトロパウルを経由してウラル山脈の麓の町、チェラビンスクまで通じている。

 その途中ではヤマハの1200㏄バイク、ロイヤルスターでシベリア横断中の吉田滋さんに出会った。なんという偶然。吉田さんは1966年から68年にかけてヤマハのYDS250で「世界一周」した方。そのときぼくは20歳だった。

「アフリカ一周」に出発する直前だった。20以上もの質問事項をノートに書いて、それを持って帰国早々の吉田さんにお会いした。吉田さんはていねいにひとつづつの質問に答えてくれた。

 当時はバイクでの海外ツーリングの情報が皆無に近かった時代。吉田さんに教えてもらったことは「アフリカ一周」にどれだけ役立ったことか。吉田さんは30数年も前のそんなぼくとの出会いをおぼえていてくれた。

 吉田さんは大学を卒業するとすぐに「世界一周」に旅立ち、3年あまりの旅を終えるとヤマハに入社した。ヤマハ一筋で定年退職すると、今回のシベリア横断ルートでの「世界一周」に旅だった。ウラジオストクを出発点にしてシベリアを横断し、モスクワからサンクトペテルブルグへ、そしてフィンランドのヘルシンキに向かう。

 吉田さんは30数年前の「世界一周」のときにヘルシンキまで行ったが、モスクワまで走ることができずに悔しい思いをした。その悔しさを今回、はらそうとしているのだ。

 そんな話を聞いてぼくは胸がジーンとしてしまう。吉田さんはヨーロッパからアメリカに渡り、アメリカを横断して2度目の「世界一周」を達成させたいという。20代のときと60代のときの「世界一周」。なんてすばらしいことだろう。そんな吉田さんと固い握手をかわして別れた。

 オムスクに向かっていくと、カザフスタンの国境近くを通る。南からの熱風に吹かれ、地平線までつづく大草原を見ていると、カザフスタンなどの中央アジアの国々に無性に行ってみたくなる。

 ウラジオストクを出発してから20日目、7月22日にチェラビンスクからM5でウラル山脈に向かった。アジア側最後の町ミアスまで来ると、ウラル山脈のゆるやかな山並みがはっきりと見えてくる。峠を目指して登っていく。直線の長い峠道。チェラビンスクから124キロの地点で峠に到達。そこにはアジアとヨーロッパを分ける碑が建っていた。境の1本の線をまたぎ、「こっちがアジア、こっちがヨーロッパ」と気宇壮大な気分に浸るカソリだった。

===
(先にもふれたように、ここまでがカソリの第4弾目の「東アジア走破行」になる。ウラル山脈を越えるとモスクワ、ワルシャワ、ベルリン…を通ってユーラシア大陸最西端のロカ岬まで行ったのだが、詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』の連載、「ユーラシア大陸横断2002」を見てください)