東アジア走破行(10) 韓国往復縦断(2)

「東アジア走破行」第7弾目の「韓国往復縦断」(2005年10月)では、韓国最北端の地、北緯38度35分12秒、東経128度22分30秒の高城統一展望台で折り返し、束草に戻った。
 その途中では、日本海の海岸にある李承晩の別荘を見ていく。李承晩(1875年-1965年)といえば、かの悪名高き「李承晩ライン」で知られる韓国初代の大統領。この別荘は1953年以降、使われたものだという。
 それにつづいて金日成の別荘に行く。別荘近くの日本海の海岸は映画の舞台になったところで、そこでは韓国人の婦人3人がうれしそうに記念撮影をしていた。金日成(1912年-1994)といえば北朝鮮の独裁者。1948年から1994年までの長きにわたって北朝鮮を支配した。この別荘は1945年以降、使われたものだという。
 別荘内に展示されている朝鮮戦争(1950年-1953年)での北朝鮮の侵攻図には目を奪われた。それには「6・25」と赤字で大きく書かれているが、北朝鮮は1950年6月25日をもって韓国に侵攻した。怒涛のごとく南進し、あっというまに釜山近くまで攻め込んだ。韓国政府はあわや済州島に逃げ落ちるという寸前まで追い込まれたのだが、北朝鮮の侵攻図にはそれが描かれている。朝鮮戦争は1953年7月27日に停戦。しかしそれは終戦を意味するものではない。いまだに朝鮮半島に一発触発のきな臭さが漂うのは、朝鮮戦争が終結していないことが大きく影響している。
 金日成の別荘では1枚の写真にも目を引かれた。この別荘に遊びに来ていた金正日の写真だ。晩年の醜さからは想像もできないようなかわいらしい少年の姿が目に残った。
 それにしても李承晩と金日成という、今日の韓国と北朝鮮に大きな影響を与えた2人の人物の別荘が日本海の海岸のすぐ近くにあったというのは、何とも興味をおぼえる話ではないか。
 束草の「シップホテル」に戻ると、海沿いの食堂で夕食。キムチなどズラズラッと10皿の料理が並んだ。それをご飯とチゲと一緒に食べた。金属の箸と匙、ご飯の入った器も金属器。これが韓国の食の3点セット。韓国語でチョッカラという箸は長さが20センチにも満たない短いもので、なおかつ細い。この短い細い金属の箸に慣れるのには、なかなか時間がかかるものだ。一方の匙はスッカラといわれるが、匙面は楕円形で、柄は真っ直ぐになっている。長さは箸とほぼ同じ。韓国での箸と匙の使い方は、はっきりと分かれている。箸でおかずをつまみ、匙でご飯と汁をすくう。食堂でまわりの人たちを見ていると、箸よりもより頻繁に匙を使っているように見える。箸を使っているのが目に入らないくらいで、韓国における匙の重要性を思わせるような食堂での光景だ。
 食べ方で日本と大きく違うのは、ご飯と汁は各人に配られるがおかず類はみんなで一緒に食べることだ。直箸で口まで運ぶ。取箸や取皿はない。みなさんの食べ方を見ていると、ご飯や汁の入った器を手で持ったり、直接口をつけたりはしない。器は膳に置いたままで、匙ですくって食べる。熱伝導率の高い金属器を使ってきた韓国の食の習慣が、このような食べ方になったのだろうか。それとも、もともとこのような食べ方なので金属器が発達したのか。非常に興味をそそられる。
 夕食を食べ終わると、メンバーのみなさんと一緒にナイトマーケットを歩く。魚介類の夜市。生きのいい鮮魚が並び、生簀の活魚も売られている。露店の天ぷら屋を発見。おばちゃんの揚げたての天ぷらは超美味。我々はゴソッと天ぷらを買い、それを肴にマッカリや焼酎を飲んだ。

 翌日は夜明けとともに起き、海岸線を歩いた。きれいな朝日が日本海の水平線に昇る。町並みの向こうには韓国一の名峰、雪岳山の峰々が見える。なつかしの雪岳山。束草は雪岳山の玄関口になっている。
 雪岳山は太白山脈の主峰で、標高1708メートルの青峰山が最高峰。北の弥矢嶺と南の寒渓嶺を結ぶ稜線の東側が外雪岳、西側が内雪岳と呼ばれている。金剛山と並ぶ昔からの朝鮮の霊峰で、山中には神興寺や百潭寺などの古刹がある。束草からバスで終点の雪岳山国立公園入口まで行き、全長1100メートルのロープウェイで権金城の山上駅へ、そこから徒歩10分ほどの権金城の岩峰の頂上に立つというのが最もポピュラーな探訪コースになっている。
 1973年に来たときは雪岳山の岩峰のひとつ、蔚山岩に登った。梯子や鎖を使うけっこうきつい登りだったが、苦労して登ったかいがあった。山頂からの眺望はすばらしいものだった。見渡すかぎりの大展望は、今だに目に焼きついて離れない。足下に束草の町並を見下ろし、その向こうには日本海がはてしなく広がっていた。目を北に向けると、金剛山へとつづく山並みを一望し、はるかかなたには町並みが見えた。一緒に登った仁川から来たという大学生の5人組は、「あれは北朝鮮の高城だ!」と、口々にいっていた。
 韓国の山の表情はあの頃とはずいぶんと変わっていた。1973年当時は、やたらとはげ山が目立った。この30年余、韓国では植林に力を入れてきたが、その成果がはっきりと出ている。山々には樹木が茂り、かつてのはげ山も今では青々としている。
「シップホテル」に戻ると、前日と同じ食堂で朝食。前日と同じメニューに焼き魚がついた。
 束草を出発。海沿いの国道7号を南下。襄陽に向かっていく途中では国道の右手に連なる雪岳山の山々を眺めながらDR-Z400Sを走らせた。1973年の蔚山岩の山頂から眺めたシーンが、DRに乗りながら鮮やかに蘇ってくる。「またいつの日か、束草に来よう!」。そのときは雪岳山の最高峰の大青峰に登るのだ。
 襄陽から江陵、東海と日本海沿いの町々を通り過ぎていく。三陟からは国道38号で内陸に入り、太白山脈の山中の町、太白へ。ここは「東アジア走破行」第3弾目の「ソウル→北朝鮮」(2001年)の思い出の地だ。
 太白からは国道31号を南下し、江原道から慶尚北道に入る。太白山脈の山中に食堂を見つけ、昼食にする。ここではうどんを食べた。名古屋のきしめん風のうどんだったが、麺には腰がなくフニャフニャ。つづいてキムチと納豆でご飯を食べた。納豆を「チョングッチャン」といってたが、味噌と合わせたもの。日本の納豆とは味が違うが、韓国にも納豆があることを知って感激して食べた。日本と韓国はやはり似たような食文化圏にある。食堂の裏手には自然木を使った2段重ねのミツバチの巣箱があったが、これも九州山地の山中で見たものと似ていた。
 国道31号をさらに南下し、三者峠を越える。ここには「峠の茶屋」があって、韓国風のおでんを食べた。そのあと地元産のリンゴ、「ヒロサキ」を食べた。この地方のリンゴは小さいものだったが、日本の津軽のリンゴを入れてから、このような大きなリンゴが出来るようになったのだという。
 三者峠を越えると、英陽、青松と太白山脈の山中の町を通り、浦項へ。「韓国往復縦断」の往路編のときと同じように「ラマダアンコールホテル」に泊まり、韓国の名物料理、「サムゲッタン」の専門店で夕食にする。サムゲッタンは若鶏の腹の中に高麗人参やなつめ、糯米、栗、ニンニクなどを入れて煮込んだ料理。これを食べるとものすごく元気が出る。カソリ、さっそくサムゲッタンにかぶりつき、きれいに食べつくすのだった。

 翌朝の朝食はホテル近くの食堂で。朝食のおかずは全部で10皿出た。その中にはドングリの粉から作ったコンニャク状の「トトリーム」や桔梗の根の「トラジ」があった。トトリームは日本でも九州山地の山村に残っているカシの実の粉から作るカシノミゴンニャクとまったく同じもの。トラジは体にすごくいいという。
 浦項を出発し、迎日湾に突き出た岬、シャンギ串へ。ここには灯台があり、奇妙な手のモニュメントもある。韓国人はこの岬が韓国本土の最東端だといってるが、GPSで計測すると、それよりも南の地点が韓国本土の最東端地点になる。最東端地点の入口には「海成水産」という水産会社がある。ここは「東アジア走破行」第2弾目の「韓国一周」(2000年)で、カソリが韓国本土の最東端と確定したポイントだ。韓国人が最東端だといっているシャンギ串は東経129度34分10秒。カソリの確定した「海成水産」の脇の道を入った海岸は東経129度34分54秒。このようにかなりの差で「海成水産」の海岸の方が東になる。
 韓国本土最東端の地点に立ったあとは、海沿いの道を走って蔚山の町に入っていく。
 ここは韓国最大の財閥「現代」の企業城下町。現代造船や現代重工、現代自動車などの大工場群がつづく。なお「現代」だが日本語では「ゲンダイ」、英語では「ヒュンダイ」、韓国語では「ヒョンデ」になる。
 蔚山からは国道14号で釜山へ。10月14日16時、釜山港の国際フェリーターミナルに到着。「釜山→釜山」の「韓国往復縦断」は1178キロになった。国際フェリーターミナル内の食堂で最後の食事。カルビ、ビビンバ、プルコギ、鍋と、我々はたら腹食べた。
 いよいよ韓国に別れを告げるときが来た。出国手続きを終え、関釜フェリーの「はまゆう」に乗船。船は定刻通り、20時に釜山港を出港。船が釜山港フェリー埠頭の岸壁を離れると、我々はビールパーティーを開始した。350ml(170円)と500ml(220円)の缶ビールをガンガン飲みながら、「韓国往復縦断」の思い出話に花を咲かせた。 10月15日8時、関釜フェリーの「はまゆう」は下関港に到着。下船したところで「韓国往復縦断」のメンバーのみなさんと別れた。ぼくはここから日本海に沿って新潟へ。

 まずは下関の唐戸市場に行きすしを食べる。日本に帰ってきたらコレが一番。アナゴ、赤イカ、タイ、ヒラマサ、サバ、アジ、ヒラメ、カイバシラと8種取って1050円。それを下関名物の「フグ汁」(500円)を飲みながら食べた。
 下関駅前から日本海沿いの国道191号を行く。本州最西端の毘沙ノ鼻に寄り、難解地名の特牛(こっとい)を過ぎたところで角島に渡り、本州最西北端の川尻岬に立った。川尻岬の近くにはなぜか中国の楊貴妃の墓がある。長門ではB級グルメの「焼鳥」を食べ、萩では海辺の萩城跡を歩き、須佐の食堂で「焼肉定食」を食べた。
 山口県から島根県に入り、益田で国道9号に合流。浜田を通り、出雲市駅前の「東横イン」に泊まった。

 出雲市駅前の「東横イン」では「おにぎり&味噌汁」の朝食を食べてから出発。出雲大社を参拝し、出雲神話の舞台にもなっている稲佐の浜でDR-Z400Sを止め、波静かな日本海を眺めた。日御碕に到着すると、まずは日御碕神社を参拝し、次に200円を払って日御碕灯台に登る。さすが日本一のノッポ灯台、息を切らして162段の階段を登っていく。高さ43メートルの灯台の上からの眺めは絶景だ。灯台を降りると、「まの商店」で「海鮮丼」(1200円)を食べた。朝獲りだというヒラマサがメチャうま。プリンプリンした食感がたまらない。
 日御碕から出雲大社に戻ると国道431号で松江へ。その途中では一畑薬師に寄っていく。仁王門、本堂、観音堂とまわったが、ここでは「合掌低頭」が胸にしみる。ぼくの好きな言葉だ。
 トローンとした湖面の宍道湖を見ながら走り、松江の町に入っていく。松江といえば松江城。慶長5年(1600年)に堀尾氏が築城した松江城は現存する日本の「12天守」のひとつ。城主は堀尾氏のあとは京極氏から松平氏へと変っていく。
 松江からさらに国道431号を行く。中海を見ながら走り、途中、隠岐へのフェリーが出る七類港に立ち寄った。国道431号に戻ると、境水道を跨ぐ境水道大橋の下をくぐり抜け、島根半島東端の地蔵崎へ。岬への入口が美保関。昔からの港町。DRを止めて漁港を歩き、古い町並みを歩き、美保神社を参拝した。美保関から地蔵崎へ。そこには美保関灯台が建っている。岬の断崖上に立つと、水平線のかなたに隠岐が霞んで見えた。
 地蔵岬で折り返し、境水道大橋を渡って鳥取県に入り境港へ。幅の狭い境水道が島根・鳥取の県境になっている。境港の隠岐へのフェリーターミナルに寄って国道431号を南下。皆生温泉を過ぎたところでは、日吉津温泉「うなばら荘」(入浴料450円)の湯に入った。無色透明の湯には苦味がある。浴室からは夕日に染まった美保湾が眺められた。 日吉津温泉からは国道9号のナイトラン。大山町の食堂「おおさか」で「焼き魚定食」(1150円)を食べ、鹿野温泉の国民宿舎「山紫苑」に泊まった。

 鹿野温泉の国民宿舎「山紫苑」の朝食を食べて出発。国道9号に近いJR山陰本線の浜村駅前でDR-Z400Sを止める。駅前には「貝がら節発祥の地」碑。つづいて国道9号の展望台、龍泉台でDRを止める。そこからは日本海の白兎海岸を一望。鳥取を過ぎたところで鳥取砂丘へ。砂丘のてっぺんまで歩き、日本海を見渡した。鳥取砂丘近くの砂地の畑では名産のラッキョウの紫色の花が咲いていた。 
 国道9号から国道178号に入り、鳥取・兵庫県境を越えると、日本海の海岸線を行く。浜坂を通り、余部鉄橋の下を走り抜け、香住からは県道11号に入る。県道11号からの眺めはすごい。海に落ちる断崖の連続する風景。円山川河口の津居山漁港から城崎温泉へ。ここではJR城崎温泉駅前の「さとの湯」(入浴料800円)につかった。
 円山川沿いに豊岡まで走ると、国道178号で河梨峠を越えて京都府に入った。
 波静かな久美浜湾から丹後半島に入り、日本海を見ながら走る。丹後半島最北端の教ヶ岬に到着。駐車場にDRを止め、岬の突端の灯台まで歩いた。ここは近畿最北の地。岬の展望台からは日本海に落ちていく真っ赤な夕日を眺めた。
 経ヶ岬からは若狭湾岸の道を南下し、伊根温泉の「桜泉荘」に泊まった。大浴場、露天風呂と入り、湯上がりの生ビールを飲んだあと夕食。タイ、イカ、アジ、サワラ、ダイリキ(カンパチの子供)とすべて地魚の刺身の盛合わせはうまかった。

 翌朝は朝湯に入り、湯から上がると朝食。温泉卵、煮物、酢の物、漬物、海苔のほかに一夜干しのカレーの焼き魚が出た。
 伊根温泉を出発。いよいよDR-Z400Sでの「韓国往復縦断」、最後の日だ。
「いくぞDRよ!」
 海岸沿いの道を走り、「浦島太郎伝説」の宇良神社を参拝。「徐福渡来の地」といわれる新井崎に寄り、伊根湾沿いに舟屋の並ぶ伊根の集落に入っていく。若狭湾の定置網でのブリ漁で知られる伊根は興味をそそられる。
 国道178号を南下。丹後の一宮、籠神社を参拝し、リフトに乗って傘松公園に登る。そこから日本三景の天橋立を見下ろした。
 宮津を通り、舞鶴に到着。「とれとれセンター」では若狭湾の海の幸を満喫。まずは生ガキを食べる。つづいてイカ、エビ、サザエ、ホタテの海鮮焼き。これら全部を合わせても1500円。鮮度抜群の海鮮焼きだ。
 舞鶴では引揚記念公園内にある「引揚記念館」を見学。ここには数多くの戦後の引揚者の資料が展示されている。引揚者を乗せた引揚船といえば「興安丸」だ。下関と釜山を結ぶ関釜連絡船の新鋭船だった「興安丸」による引揚者数は17891名。全部で22回、引揚船としての航海をした。中国大陸や朝鮮半島、シベリア、樺太からの引揚者は舞鶴港に上陸した。
 ところで関釜連絡船は昭和10年代に入り、日本の大陸への進出が加速度的になると、次々に新造船が造られていく。昭和11年には当時の日本としては最優秀船として海運界から注目された7000トン級の「金剛丸」型が就航し、さらに昭和17年には8000トン級の「天山丸」型が就航。「興安丸」はその第2船目として造られた。そのあとに「崑崙丸」も就航している。
 これら関釜連絡船の新鋭船の船名を見ると、当時の日本の大陸進出に賭けた想いを見ることができる。「金剛丸」は朝鮮半島の金剛山に由来している。「天山丸」は中央アジアの天山山脈に由来している。「興安丸」は北東アジアの大興安嶺山脈に由来している。そして「崑崙丸」はヒマラヤ山脈の北側に延びる崑崙山脈に由来しているのだ。
 舞鶴からは国道27号を行く。京都府から福井県に入り、小浜を通り、敦賀へ。
 16時、敦賀に到着。下関から800キロ。敦賀では「日本海さかな街」で「海鮮丼」(1580円)を食べた。タイ、マグロ、ハマチ、アジ、ヒラメ、サバ、サケ、タコ、イカ、ウナギ、イクラと何と11種もの具がのっている。これを最後に敦賀ICで北陸道に入り、福井、金沢、富山と走り、新潟県に入る。糸魚川、直江津と過ぎ、米山SAでDRを止めた。夜の日本海を見たが、それが最後の日本海になった。
 長岡JCTで北陸道から関越道に入り、東京へ。環8経由で東名に入り、伊勢原の我が家に到着した時には白々と夜が明けていた。

東アジア走破行(9) 韓国往復縦断(1)

「東アジア走破行」の第7弾目は2005年10月の「韓国往復縦断」。この年の5月1日、韓国へのバイク持込が解禁になった。「道祖神」はそれを記念して「賀曽利隆と走る!」シリーズの第11弾目として「韓国往復縦断」を企画した。
こうしてぼくは2005年10月8日、大きな期待を抱いて自宅前からスズキDR-Z400Sで走り出し、「韓国往復縦断」へと出発した。
「さー、釜山へ!」
 旅立ちで、これほど高揚した気分になることもそうはない。
 胸がいっぱいに膨れ上がり、秦野中井ICで東名に入っても、「釜山へ、釜山へ!」と何度も「釜山」を口にした。まわりを走っている車、1台1台に、「ぼくはこれから、釜山まで行くんですよー!」と、いいたくなるような気分だった。
 東名→名神と走りつないで大阪へ。大阪では鶴橋のコリアンタウンの食堂で冷麺を食べたが、「東アジア走破行」第2弾目の「韓国一周」(2000年)を思い出し、韓国ツーリングへの期待がいやがうえにも高まった。大阪南港19時10分発の名門大洋フェリー「ふくおか2」で新門司港へ。翌朝の8時には新門司港に着いた。
 まずは九州最北端の部崎に立ち、午前中は北九州をまわった。そして関門海峡を渡り、昼過ぎに関釜フェリーの出る下関港国際ターミナルに到着した。
 2005年5月1日に韓国へのバイクの持ち込みが解禁されたといったが、これは歴史的な出来事といっていい。韓国は「近くて遠い国」といわれてきたが、我らツーリングライダーにとっては「近くてとてつもなく遠い国」だった。韓国にバイクを持ち込むのは至難の技だったからだ。それがこの歴史的な解禁によってパスポートと国際免許証、バイクの国際登録証があれば日本のナンバープレートのままで、下関港から関釜フェリーに乗り、バイクともども韓国の釜山港に渡れるようになった。新たな海外ツーリングの幕開けといっていい。
 集合場所の下関港国際ターミナルには、参加者のみなさんが日本各地から次々にやって来た。最年長は73歳の松浦善三さん。山形県東根市からGL1500のサイドカーで1400キロ走っての到着だ。
「一生に一度は自分の家から海外にバイクで行くのが私の夢だったんですよ」
 と、松浦さんは熱く語った。
 マジェスティーの島田利嗣さんは62歳。一緒に「南部アフリカ」、「サハラ縦断」を走った仲間。東京から日本海ルートで、2泊3日のツーリングを楽しみながら下関までやってきた。
 旧車バハの新保一晃さんとは「ユーラシア横断」、「アラスカ縦断」、「南部アフリカ」、「サハラ縦断」を一緒に走っている。通称「新ちゃん」。バイク大好き人間だ。
 XRバハの伴在哲さんとは「サハリン縦断」、「ユーラシア横断」、「南部アフリカ」を一緒に走った。通称「伴ちゃん」。やさしい性格をしている。
 セローの椋原眞理さんは母親だとは思えないほど若く見える。
 児玉真喜子さんはタンデムでの参加。
 こうして全部で11台のバイクと「道祖神」の菊地優さん、女性通訳の国定富さんの総勢13名で「韓国往復縦断」を走るのだ。
 下関港での出国手続きはスムーズに終わった。関釜フェリーの職員が我々につきっきりで案内してくれたおかげだ。
 イミグレーションではパスポートに「KANMON(関門)」の出国印が押され、カスタム(税関)ではバイクの一時輸出入申告書に下関税関の輸出許可印が押された。
 いよいよ関釜フェリーの「はまゆう」(1万6187トン)に乗船。「はまゆう」は定刻の19時に下関港のフェリー埠頭を離れていく。さっそく自販機の500㏄の缶ビールで参加者のみなさんと乾杯。下関港を出ると缶ビールは無税になるので1本220円。そのあと船内のレストランでみなさんと一緒に夕食。ぼくは「豚カルビー定食」(1000円)を食べた。
「はまゆう」は釜山港を目指し、玄界灘を北西へと進む。冷たい風に吹かれながら甲板に立っていると、暗い波間に漁火が点々と見えた。「おー、何だ何だ、あれは」と声が出るくらいの異様な明るさ。波の荒い玄界灘なので船はけっこう揺れた。
 まったく船酔いしない「船旅大好き」のカソリ、その揺れはなんとも心地のよいものだった。船の揺れがおさまったころ目がさめた。時間は午前2時。まばゆいばかりの釜山の町明かりが見えていた。「はまゆう」は釜山港の港外に停船。すぐ近くには五六島の灯台の灯が見える。関釜フェリーの下関から釜山までの正味の航行時間は8時間ほどでしかない。
 2005年10月10日8時、関釜フェリーの「はまゆう」は釜山港のフェリー埠頭に接岸。岸壁にDR-Z400Sで降り立ったときは「やった、ついに釜山に着いた!」
という気分。釜山港でもそれほど時間がかからずに入国手続きを終えた。
 税関を出て、釜山港の国際フェリーターミナル前に11台のバイクをズラズラッと並べたときは、何ともいえず晴れがましい気分になった。
「道祖神」の菊地さんと通訳兼ガイドの国定さんの乗った車の先導で、我々は釜山の町を走り始めた。バイクに乗りながら、大通りのハングルの看板やヒュンダイ、デーウ、キアなどの韓国車を見ていると、海を渡って韓国にやってきたという実感がする。
 釜山名物の渋滞にはまると、手を振ってくれたり、
「イルボン(日本)か?」
 と、声をかけてくれる人もいるほど11台のバイクの車列は目立った。
 韓国第2の都市、釜山を走り抜け、国道14号に入ったところでぼくが先頭を走り、車が最後尾についた。バックミラーに映る10台のバイクの長いラインには胸がジーンとしてしまう。
 国道沿いの食堂で昼食。記念すべき「韓国往復縦断」の第1食目だ。ここでは「ソモリ・クッパ」を食べた。牛の頭でダシをとったという白っぽい色のスープ。その中にご飯が入っている。辛味はまったくない。濃厚な牛のエキスが舌に残る。日本でもおなじみのクッパだが、これはまさに韓国食。韓国ならではのクッパにうれしくなってしまう。金属器の箸と匙。これもまさしく韓国の食文化だ。
 釜山から国道14号で韓国の大財閥、「現代」の企業城下町、蔚山へ。バイクで走りながら「現代」の工場群を見る。その中でも、急成長をとげている現代自動車の工場が目立った。工場の近くには完成車がズラーッと並んでいた。壮観な眺めだ。
 蔚山からは国道7号を北上し、慶尚南道から慶尚北道に入り、「新羅千年の都」慶州に到着。新羅の歴史は次のようなものだ。
 660年に百済を滅ぼした新羅は、668年には高句麗を滅ぼし、「三国時代」にピリオドを打って朝鮮半島統一を成しとげた。しかし8世紀の後半になると、王位継承争いや農民の反乱などで国が乱れてしまう。9世紀末には西部に後百済が、北部には後高句麗が建国され、朝鮮半島は混乱の「後三国時代」に突入する。918年になると開城の豪族だった王建が後高句麗を倒し、国号を高麗と改めた。935年に新羅はその高麗に倒されてしまう。伝承によれば新羅の建国は紀元前57年なので、高麗に滅ぼされるまでの1000年間、慶州は新羅の都だったことになる。なお高麗は翌936年に後百済を倒して朝鮮半島を統一。高麗時代はその後、1392年に李朝の祖、李成桂に滅ぼされるまでつづく。ちなみに英語の「KOREA」は高麗に由来している。
「さー、慶州めぐりの開始だ!」
 まずは慶州郊外の吐含山中腹にある世界遺産の仏国寺に行く。
 新羅時代の751年に創建された古刹だが、1593年の壬辰倭乱でほとんどの木造の建造物が燃えてしまった。その後、何度か再建された。1970年から73年にかけては大規模な修復工事がおこなわれ、その直後の1995年に世界遺産に登録された。
 入口の一柱門で拝観料の4000ウォンを払い、大伽藍の寺の境内に入っていく。四天王像が立つ天王門をくぐり抜け、まっすぐ歩いていくと正面には石垣の上に建つ紫霞門が見えてくる。その左手には安養門。城壁を思わせるような堂々とした石垣。寺全体が要塞のようにも見える。
 紫霞門の奥に大雄殿、安養門の奥には極楽殿。本殿のそり上がった屋根の大雄殿には、本尊の釈迦牟尼像がまつられ、その左右には弥勒菩薩像と羯羅菩薩像が並んでいる。
 紫雲門と大雄殿の間には、石造りの相塔、釈迦塔と多宝塔が立っている。大雄殿に向かって左側に3層の石塔の釈迦塔、右側には手のこんだ造りの多宝塔。さすがに新羅仏教美術の極致といわれる国宝の多宝塔と釈迦塔だけのことはあって、この双塔には目を吸い寄せられてしまう。何人もの人たちが双塔の下で記念撮影している。
 仏国寺から慶州の市内に入っていく。慶州は回りを山々に囲まれた盆地の町。東に吐含山、北に玉女峰、南には南山があり、兄山江が西側を流れている。慶州は四方を天然の砦に囲まれた要害の地だ。古墳公園を歩く。新羅王朝の王族の古墳群で、7基の王陵をはじめとして全部で23基の古墳が復元保存され、地下にはなお250基もの古墳が眠っているという。宮崎県の西都原古墳群とよく似た風景の古墳公園だ。
 次に640年前後に建てられたという東洋最古の天文台で知られる石造りの瞻星台を見る。高さ9メートル。上部がすぼんだ円筒形をした瞻星台は、まさに慶州のシンボルといっていい。土台となっている礎石は4方向に3つずつ計12個が置かれ、これが4季と12ヵ月を表し、361個の花崗岩を28段に積み上げたその数は太陰暦の1年の日数を意味している。新羅時代の占星学者は塔中央部の窓から入る光の長さや、塔内側の底部の水鏡に映る星の動きなどから天体観測をしていたという。「新羅千年の都」だけあって慶州は心に残った。
 そんな慶州に別れを告げ、釜山から150キロの浦項へ。町中の「ラマダ・アンコールホテル」に泊まった。ホテル近くの「太白山」という店で焼肉パーティー。韓国ビールで乾杯。そのあとは焼酎を飲みながら焼肉を腹いっぱい食べた。さすが韓国、メチャクチャうまい焼肉だ。飲みながら、食べながらのみなさんとの話はおおいにはずんだ。
 翌朝はホテル6階の部屋からすばらしい日の出を見た。浦項は製鉄の町。世界でも最大級の製鉄所(POSCO)の高炉を赤々と染めて朝日が昇った。
 浦項からは国道7号を北上。平海の町の手前で、釜山を出発して以来、初めて日本海を見た。我々は海岸にバイクを停め、「おー、日本海だ!」と、喜びの声を上げた。
 国道7号で東海岸を行く。山々が海まで迫る東海岸は、平野の広がる西海岸に比べると、国道の交通量が全然、違う。ガクンと少なくなり、通り過ぎていく町々の数も少なくなる。地図を広げてみればすぐにわかることだが、韓国の背骨となる太白山脈の山々は、東海岸のすぐ近くを南北に連なっている。半島の脊梁山脈があまりにも東海岸にかたよりすぎているのだ。その太白山脈に北から金剛山、雪岳山、王台山、太白山といった高峰群がそびえている。この太白山脈の東側は急傾斜で流れ出る川は距離も短く、平野をつくる間もなく、すぐに日本海に流れ出る。ところが西側はゆるやかな傾斜で、そこから流れ出る韓国の三大河川、漢江、錦江、洛東江は流域には幾つもの盆地をつくり、下流には穀倉地帯の平野をつくって黄海や朝鮮海峡の海に流れ出る。国道7号の交通量が少なく、国道沿いに町や村が少ないのは、このような地形的な理由によるところがきわめて大きい。
 蔚珍を過ぎたところで慶尚北道から江原道に入った。国道沿いの食堂で昼食。ビビンバを食べた。日本と違うところは具の入った器とご飯の入った器が別々に出てくることで、自分でご飯を入れ、かきまぜて食べる。器も箸も匙もすべて金属。先にもふれたことだが、この金属製3点セットが韓国の食文化を象徴している。
 国道7号をさらに北上し、東海岸を行く。海岸線には途切れることなく鉄条網のフェンスが張られている。ところどころには監視所があり、銃を構えた兵士が監視している。国道7号には突然、滑走路に変わる区間もあった。
 三陟、東海と通り、江陵と通り過ぎた海岸には北朝鮮の潜水艦が展示されていた。1996年9月18日、この地で座礁した北朝鮮の潜水艦だ。武装スパイや乗組員ら39名が上陸したとみられ、11月7日に大規模な捜索を終了するまで、北朝鮮人民軍上尉1人を逮捕、その他は全員が射殺、または死体で発見された。韓国軍に射殺されたり、仲間内での射殺だという。韓国側も反撃を受けたり、誤射などで兵士、民間人合わせて16人が犠牲になった。北朝鮮は9月22日に「訓練中に機関故障で漂流」と発表して以降、潜水艦と乗務員、遺体の無条件返還を求め、報復を示唆する声明なども出して南北関係は険悪化した。この地は韓国現代史の舞台なのだ。
 ほぼそっくりそのまま残った北朝鮮の潜水艦は見学できる。艦内には日本製の機器も使われている。はたしてどの程度のレベルの潜水艦なのか。潜水艦のあとは朝鮮戦争の資料館を見学した。
 江陵から襄陽に向かっていく途中の大明で、38度線を通過。そこには「北緯38度線碑」が建っている。「大明38度線休憩所」の「38度線レストラン」で「38度線の日本海」を見ながらコーヒーを飲んだ。38度線というと朝鮮半島の軍事境界線だが、西海岸の板門店あたりでは38度でも、東海岸では38度30分あたりが軍事境界線になっている。それはおいて「38度線越え」はハラハラドキドキするものだ。第2次大戦後、ベトナムの北緯17度線、ベルリンの壁、朝鮮半島の38度線と、戦争の遺物のような境界線が残ったが、最後まで残り、いつ解決するのかわからないのが朝鮮半島の38度線。朝鮮民族の悲劇を象徴している38度線を越え、襄陽の町を通り過ぎ、釜山から450キロの束草に到着。海辺の「シップホテル」に泊まった。
 夕食は海鮮料理店で。ワカメスープ、アサリスープ、煮魚、刺身の盛合わと海鮮三昧の食事。最後はチゲ鍋。食後はメンバーのみなさんと漁港近くの露店を歩き、イカやエビのフライを肴に焼酎を飲んだ。
 翌朝は夜明けとともに海岸を歩き、日本海の水平線に昇る朝日を見た。
 朝食はホテルの近くの食堂で。ご飯と干しダラ入りの味噌汁のほかに、キムチやメンタイコ、塩辛、ノリなど全部で9品のおかずが出た。これらは食べ放題。何度でもおかわりできる。最高にうまい白菜のキムチを腹いっぱい食べられるのが韓流だ。
 午前中は束草をめぐる。漁港に行き、手動の渡し舟で対岸に渡り、市場を歩いた。熟柿や栗が韓国の秋を感じさせる。キムチを漬ける甕が山積みにされて売られている。もうじき、キムチを漬ける「キムジャン」の季節がやってくる。韓国ではキムチを漬け込む季節をキムジャンと呼んでいるが、その季節になると市場には白菜や大根が山積みにされ、このようにキムチを漬ける甕が売られる。この甕をオンギといっている。
「キムジャンのキムチでないと、ほんとうの味がでないのよ」
 といって、韓国の主婦たちはこの季節にこぞってキムチを漬ける。
 キムジャンになると、日本で冬のボーナスが支給されるのと同じように、韓国ではキムジャン・ボーナスが支給される。それこそ一家総出でキムチを漬けるので、学校や会社ではキムジャン休暇があるという。韓国人にとってのキムチの漬け込みは早春のジャン(味噌と醤油)の仕込みとともに、「人家二大行事」といわれるほど重要なことなのだ。
 束草の「シップホテル」に戻ると、韓国最北の地、高城の統一展望台を目指して出発。杆城を通り、韓国最北の町、巨津へ。この間の海岸地帯には白鳥、金剛山、三浦、松池湖、巨津といった海水浴場があるが、38度線以北の海岸ということで、国道7号沿いや海岸線には2重、3重の有刺鉄線が張られている。厳重な警備網とそのなかにある海水浴場のアンバランスさが軍事境界線に近い韓国北部の日本海岸をよく表してしている。
 巨津からさらに北へ。最後の海水浴場の花津浦に立ち寄る。海水浴の季節はとっくに終わっているので、砂浜に人影はない。北朝鮮国境近くの村の食堂で昼食。この地方独特の細麺の冷麺を食べる。ソバ粉の素麺といったところ。それにゴマ油と酢、砂糖をふりかけて食べるのだ。
 束草から70キロ、釜山から520キロ走り、ついに韓国最北端の高城統一展望台に到着した。すばらしい天気で展望台からは朝鮮半島第一の名山、金剛山の峰々が一望できた。澄みきった秋空を背に、主峰群がくっきりと見えた。金剛山の分水嶺を境にして西側は外金剛、東側は内金剛といわれ、その山並みが海に落ちたところが朝鮮半島随一の海岸美を誇る海金剛になる。これらはすべて北朝鮮領内になるが、「東アジア走破行」の第3弾目、2001年の「ソウル→北朝鮮」で見た海金剛の海岸美や金剛山の山岳美が目に浮かんでくるのだった。
著者・管理人

Author: 賀曽利隆
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