著者・管理人

Author: 賀曽利隆
Twitter:@kasori3000
Administrator:ウザワ・K

電子で復刊!
カテゴリー
Amazon
ブログ内検索 by Google
広告も社会の窓。
最近のコメント
RSSフィード
FC2ブログランキング
このブログが面白いと思ったらたまに(あるいは頻繁に!)クリックしてくださいね(ポチっとな)。それで何が起こるのかは僕も知らんけど…。
カソリお役立ちリンク
管理人推奨リンク

東アジア走破行(11)シルクロード横断

 2006年の「道祖神」のバイクツアー、「賀曽利隆と走る!」の第12弾目、「シルクロード横断」が「東アジア走破行」の第8弾目になる。

 8月16日に東京を出発し、神戸港からスズキの400㏄バイク、DR-Z400Sともども中国船の「燕京号」に乗り込んだ。天津に渡り、シルクロード玄関口の西安へ。そこから一路、西へ西へと走った。

 天山山脈南麓のコルラからタクラマカン砂漠を縦断し、崑崙山脈北麓のニヤへ。
 ニヤからシルクロードの西域南道でホータン、ヤルカンドと通り、中国西端の町カシュガルへ。

 カシュガルからはフェルガナ山脈のトルガルト峠(3752m)を越えてキルギスに入った。このトルガルト峠までのコースが「東アジア走破行」になる。

「シルクロード横断」ではその後、キルギス→カザフスタン→ウズベキスタン→トルクメニスタンと中央アジアの国々を走り、さらにイランからトルコへ。東京から1万3171キロを走破し、10月10日にゴールのイスタンブールに到着した。

「タクラマカン砂漠縦断」では延々とつづく大砂丘群を見ながら走った。その途中では砂丘のてっぺんに立ち、際限なく広がる大砂丘群を一望した。

 中国西端の町、カシュガルからはトルガルト峠に向かう前に、パキスタンとの国境のクンジェラブ峠に通じるカラコルムハイウエーを南下し、標高3600メートルの地点にある神秘的なカラクリ湖まで行った。湖の北側にはゴングール峰(7719m)、南側にはムスタックアタ山(7546m)がそそりたち、抜けるような青空を背にした雪山の白さはまぶしいほどだった。

 トルガルト峠を越えたキルギスのイシククル湖(クルは湖の意味)越しに見た夕日を浴びた天山山脈のズラズラッと連なる雪山群の眺めは、強烈に目の底に残った。

「シルクロード横断」では天山山脈をはじめ崑崙山脈、カラコルム山脈、パミール高原と、中央アジアの大山脈を間近に眺めることができ、「カソリの世界地図」の空白の部分を埋めることができた。とくにその中でも、天山山脈の大きさには驚かされた。最初に出会ったのは中国・新疆ウイグル自治区に入ってまもなくのことで、シルクロードのオアシス、ハミの近郊だった。砂漠に落ちる前山の向こうにトムラッチ峰(4880m)を見た。山頂周辺の雪が陽炎のように揺れていた。

 中国とキルギス国境のトルガルト峠は、天山山脈とパミール高原の接続部の峠。キルギスの首都ビシュケクで見た天山山脈の風景もすばらしいもので、カザフスタンからウズベキスタンへの道は砂漠に落ちていく天山山脈の西端を越えている。

「シルクロード」はぼくにとっては特別な世界。小学校4年生のときのことだが、国語の教科書でスウェーデンの探検家、スウェン・ヘディンの「タクラマカン砂漠横断記」を読んだ。それにすっかり感動し、その後、小学校の図書館にあった子供向けの中央アジア探検記を全巻、読んだ。そして「(大人になったら)中央アジアの探検家になるのだ!」と心ひそかに決めた。

 シルクロード全域の踏破というのはその時からの夢であり、憧れだった。

「シルクロード横断」の途中でぼくは59歳の誕生日を迎えたが、シクロードへの憧れを抱いてから49年目にして、10歳の少年時代の夢を果たすことができたのだ。

===
(詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』の連載、「シルクロード横断」をご覧ください)

カソリの峠越え(34) 中国編(17):江川の峠(パート2)

(『月刊オートバイ』1992年11月号 所収)

 前回の「江川の峠(パート1)」では、広島県の三次を出発点にして中国地方最大の河川、江川本流の峠を越え、また三次に戻ってきた。
 三次盆地の中心、三次はまさに「江川の町」といったところで、江川本流の可愛川と支流の神野瀬川、西城川、馬洗川が三次で合流している。まるであっちからも、こっちからもといった感じで大きな川が流れ込み、江川となって中国山地を突き破り、日本海に流れ出ていく。
 今回の「江川の峠(パート2)」では、支流の神野瀬川と西城川の峠を越えようと思う。

まずは赤名峠だ!
「江川の峠(パート2)」の出発点はJR三次駅。駅前に相棒のスズキDR250Sを止め、待合室で自販機のカンコーヒーを飲みながら地図を見る。
「よーし、この峠を越えよう、この峠も越えよう」
 とプランニングしているときは無上の喜びを感じてしまう。
 三次駅はJR芸備線の駅だが、そのほか江川河口の江津に通じる三江線と瀬戸内海の福山に通じる福塩線がここから出ている。だがどの路線もローカル線なので、待合室にはのんびりとした空気が漂っている。それが何ともいえずにいい。
 さー、出発だ。
 キック一発、DRのエンジンをかけると、アクセルをひと吹かしして走りはじめる。三次の中心街をひとまわりしたあと、R54に入る。前回は三次から南へ、上根峠を越えて広島まで走ったが、今回はR54を北へ、広島・島根県境の赤名峠を目指すのだ。
 神野瀬川の支流、布野川に沿って走り、三次盆地から山間に入っていく。谷間には点々と集落がつづく。季節は5月の下旬。田植えの終わったばかりの水田がきれいだ。やがて赤名峠への登りがはじまる。ゆるやかな登り。DRのアクセルを開き、速度を上げて一気に登りつめると赤名峠のトンネル。広島・島根県境の赤名峠は標高580メートル。山陽と山陰を結ぶ昔からの重要な峠で、トンネルを抜けると島根県の赤来町だ。
 島根県側を下っていく。R54沿いには赤白のスノーマーカーが点々と立っている。赤名峠を境にして島根県側はかなりの雪が降るのだろう。
 峠を下った赤来町の中心地が赤名。赤名峠は赤名にちなんだ峠名だ。赤名からさらに頓原町の頓原まで下り、そこで折り返し、再度、赤名峠を越えて三次に戻った。

神野瀬川に沿って
 三次の中心街にある食堂で昼食にする。ここでは「ワニ」を食べた。ワニといっても、アマゾンやナイルにいるワニではない。日本海から入ってくるフカのことをワニといっている。ワニの刺し身を食べたが、正直いってそれほどうまいものではなかった。それでも、「おー、これがワニか!」といった旅の感動があった。三次ではワニを食べたいと思っていたからだ。おもしろいことに、広島県内でもワニを食用にしているのは江川の流域だけで、瀬戸内沿岸でワニを食べることはない。島根県の日本海側でも食べない。ワニはまさに広島県内の江川を象徴するかのような食べ物だ。
 三次から今度は江川支流の神野瀬川に沿って走る。広々とした三次盆地の水田地帯から中国山地の谷間に入っていく。DRのエンジン音を響かせ、神野瀬川の流れを見ながら走る。
 沓原ダムという小さなダムに出た。地図を見ると、沓原温泉という温泉がある。しかし一軒宿の温泉は木造の建物は朽ちはて、今は誰もいない。「ちょっとひと風呂、浴びていこう」と思っていただけに残念だ。
 神野瀬川の両側に迫る山々はいよいよ険しくなる。
 神野瀬川源流の高野町に入ると、高暮ダムのわきを通り、ダム湖を見ながら走る。渇水で水量が減り、湖底が見えているダム湖は痛々しい。
 高野町の中心、新市に着く。このあたりになると、谷間を抜け出し、ゆるやかな山並みに囲まれた小盆地の風景に変わる。

神野瀬川源流の峠越え
 高野町の新市から、神野瀬川の源流地帯の峠を越える。まずはR432の王貫峠。7キロほどで広島・島根県境の王貫峠に到達。中国山地は全体がなだらかな山並みなので、新市からの峠道もゆるやかな登りだ。
 R432の広島県側は2車線の峠道だが、王貫峠を越えて島根県側に入ると、とたんに狭路の峠道に変わる。広島と島根という両県の経済力の違いをこれみよがしに見せつけているようで、あまり気分のいいものではない。
 王貫峠を下っていく。峠道はかなり急な下り坂。高野町の新市から20キロ、仁多町の三成に着く。歴史を感じさせる古い町並みがつづく。町の中央を斐伊川が流れている。島根県の東半分は旧国でいうと出雲になるが、斐伊川は出雲国最大の川。出雲神話の八岐大蛇伝説でよく知られている。
 三成で折り返し、再度、王貫峠を越えて高野町の新市に戻った。
 次に高野町の新市からさらに神野瀬川の流れに沿って走り、源流の峠、俵原越に向かっていく。神野瀬川の流れはどんどん小さくなり、最後はチョロチョロと流れる小川に変わる。そして俵原越に到達。俵原越も王貫峠同様、広島・島根県境の峠だ。峠の周辺は樹林がうっそうとおい茂っているので、見晴はよくない。
 俵原越を越えて島根県側に入り、狭路の峠道を下り、さきほどの仁多町の中心、三成の町に出た。王貫峠越えの時と同じように三成で折り返し、俵原越をもう一度越え、高野町の新市に戻った。
 神野瀬川源流の最後の峠は王居峠。これで「おおいだわ」と読む。中国地方では峠のことを「たわ」とか「たお」という場合が多い。
 さて、すっかりなじみになった高野町の新市を出発。R432を走り、俵原越への道との分岐を過ぎると、じきに王居峠に到達。峠のすぐ地下まで民家がある。峠上には王居峠神社がある。
 R432の王居峠は高野町側はゆるやかな地形だが、峠を越えた比和町側は険しい地形で急勾配の峠道に変わる。峠を境にして、神野瀬川の水系から、江川のもうひとつの支流、西城川の水系へと変わる。峠を下っていくと前方には中国山地の山々が重なり合い、比婆山が見えてくる。峠下の比和町の中心、比和まで下ると、比和温泉の「あけぼの荘」に泊まった。比和町営の温泉宿で、1泊2食が5000円という安い宿泊料金がありがたかった。

「鬼の舌震」って何?
 翌日は比和温泉から王居峠、俵原越と越えて島根県に入り、仁多町の中心、三成まで下る。この近くのは「鬼の舌震」という名所がある。その名前にひかれて行ってみた。
 斐伊川の支流、馬木川沿いの駐車場にDRを止めると、遊歩道を歩き、「小天狗岩」や「ほんど岩」といった奇岩を見ていく。この奇岩のそそり立つ峡谷が「鬼の舌震」だ。
「鬼の舌震」は出雲神話の舞台で、案内板には次のような説明が書かれている。

**
 阿井の里に美しい娘が住んでおり、この娘を慕って日本海に住む悪いワニが夜な夜な川をさかのぼってきた。娘はこのワニを嫌って大岩で馬木川をせき止め、姿を隠してしまった。しかしワニの娘に対する気持ちは変わらず、その後も幾度となく、川をさかのぼってきたとのことです。この「ワニの慕ぶる」が転訛して「鬼の舌震」になったといわれています。
**

「ワニの慕ぶる」が「鬼の舌震」になったというのは、こじつけの感がしないでもないが、ワニには興味を引かれる。三次の食堂で「ワニの刺身」を食べたが、ワニというのはフカのことだ。
「因幡の白兎伝説」でもワニが登場する。白兎はワニを海に並ばせ、その上をピョンピョン飛び跳ねて海を渡ろうとしたのだが、そのワニもフカのこと。しかし、「鬼の舌震」のように、海から遠く離れた山奥深くまでフカがやってくるとは考えられないので、きっと何か、別なものだろう。それでは、それは何なのだろうと考えてみた。
 ワニには渡来人という意味もある。大陸からやってきた渡来人は海岸地帯から山中へと入り、そこで土着の日本人と衝突したという話は各地で聞いたことがある。この一帯ではタタラ製鉄が盛んにおこなわれていたが、それにたずさわる肌の色の違う渡来人もやってきて鬼と呼ばれたという話も聞いたことがある。
 日本人ならば誰もが知っている鬼も、よくよく考えてみると謎だらけ。「ワニとオニ」は何ともおもしろいではないか。いろいろと考えさせられた「鬼の舌震」だ。
 それと斐伊川といえば八岐大蛇伝説の舞台。高天原を追われた須佐之男命は出雲にやってきた。斐伊川の上流から流れてくる箸を見て、人が住んでいるに違いないと、上流へとさかのぼっていく。すると1軒の家があり、年寄夫婦と美しい娘が泣いていた。「この山の奥に八岐大蛇が住んでいます。頭が8つあって、目がホウズキのように真っ赤に燃えています。尾も8つで、背中には木が生えています。8人の娘がいましたが、7人まで八岐大蛇に食べられてしまいました。今度はこの娘の番なのです」という話を聞くと、須佐之男命は策略をめぐらして八岐大蛇を退治し、美しい娘(奇稲田姫)を妻にするという話。このような伝説に興味を持つのは、ツーリングをよりおもしろくする、すごくいい方法だといっていい。

三井野峠のループ橋
 仁多町の中心、三成に戻ると、R314で島根・広島県境の三井野峠に向かっていく。斐伊川に沿って走り、仁多町から横田町に入る。峠下の板根からは今年(1992年)の4月23日に完成したばかりのループ橋を登っていく。日本のループ橋というと、伊豆半島の天城峠、九州の加久藤峠が有名だが、三井野峠のループ橋もそれらに負けてはいない。高低差170メートルの2重のループだ。
 ループ橋を登りきって三井野峠に到達。斐伊川の源の峠で、峠上は広々とした高原の風景。JR木次線の駅があるし、スキー場もあるし、ちょっとした町並みもある。ここは中部地方のR156の蛭ヶ野峠とそっくりな地形。蛭ヶ野峠の周辺は蛭ヶ野高原といわれているが、三井野峠の周辺は三井野原高原といわれている。
 JR木次線の三井野原駅近くの食堂で昼食にする。ここでは出雲名物の割子そばを食べた。3段に重ねた円形の器にそばがはいっているのだが、それを1段づと、そばにツユをかけて食べていく。
 同じ日本でも、東日本だとそばのうまいところはいくらでもあるが、西日本だと限られてしまう。その中にあって出雲は昔からのそばの名産地。とくに三瓶山の山麓でつくられるそばの味には定評がある。
 食堂の壁には出雲の方言が貼られていた。
「だんだん」は「ありがとう」
「ばんじまして」は夕方のあいさつ
「ちょんばし」は「少し」
「まくれる」は「ころぶ」
 日本各地の方言はおもしろい。
 ところで三井野峠のすぐ東側には三国山(1004m)。旧国名でいえば出雲・伯耆・備後の三国国境だが、現在では鳥取・島根・広島3県の境になっている。

西城川に沿って
 三井野峠を越えて広島県に入る。ループ橋がひつようなくらい急な登りの島根県側とはうってかわって、広島県側はゆるやかな下り。国道のわきをサラサラ音をたてて小川が流れているが、これが江川の支流、西城川の源流だ。
 西城川に沿って下り、一軒宿の比婆山温泉の前を通り、R183に合流する。このあたりになると西城川は成長し、かなりの水量の川になる。
 西城川に沿ってR183を走り、西城の町に入っていく。西城川は大河の風格を漂わすくらいの大きな川になっている。そんな西城川を見ながら走り、庄原まで行った。
 庄原からはR432で朝出発した比和温泉のある比和へ。王居峠の下で国道と分かれ、広島と島根の県境に連なる比婆山の麓を通っていく。比婆山は中国山地を代表する山のひとつだが、吾妻山(1240m)や烏帽子山(1225m)などの山々を総称して比婆山と呼んでいる。
 さきほどの比婆山温泉に出ると、一軒宿の「熊野湯旅館」に泊まった。この地方ではよく知られている熊野神社が近い。翌日はR183で出ると、西城、庄原とは逆方向の鍵掛峠に向かう。地元の人たちは「かっかけ」と呼んでいる。広島・鳥取県境の鍵掛峠を越えて鳥取県に入ると日南町の中心の生山まで下り、そこで折り返した。
 R183を引き返し、もう一度、鍵掛峠を越える。広島県に入ると西城、庄原を通り、三次に戻った。「江川の峠」の最後となる次回の「江川の峠(パート3)」も、三次が出発点になるのだ。

カソリの峠越え(33) 中国編(16):江川の峠(パート1)

(『月刊オートバイ』1992年10月号 所収)

 今回の「峠越え」の舞台は、中国地方最大の河川、江川(江の川)だ。この川はきわめて特異な流れで、中央分水嶺の中国山地を突き破り、瀬戸内海側から日本海に流れ出る。このような川は日本中を探しても、ほかにはない。あえて言えば、四国の吉野川があるくらいだ。吉野川も四国山脈の南側から北側へと、四国の脊梁山脈をブチ破って流れている。さて今回から3回にわたって、江川をとりまく山並みの峠を越えていく。中国山地は全体にゆるやかで越えやすく、そのため峠の数も多いが、それらの江川を峠をひとつ、またひとつと徹底的に越えてやろうと思っている。

まずは「地球元気村」だ!
「江川の峠」に出発したのは1992年5月16日。目的地の中国地方の江川に行く前に、山梨県早川町の「地球元気村」に寄っていく。
 神奈川県伊勢原市の自宅から峠越えの相棒のスズキDR250Sを走らせ、相模湖ICで中央道に入り、甲府昭和ICで高速を降りる。まっすぐ早川町に行くのではおもしろくないので、櫛形山林道→丸山林道と、林道経由で行くことにした。
 櫛形山林道入口近くの自販機でカンコーヒーを飲んでいると、なんとワンダバダ長沢さんのヤマハのDTが止まる。驚いたことに『オートバイ』誌の本多さんやカメラマンの落合さんもやってくる。みなさんも地球元気村に行くところだった。
「旅は道連れ」とばかりに、一緒に櫛形山林道→丸山林道を走り、夕闇が迫るころ早川町の地球元気村の会場に着いた。
 じつはぼくは講師ということで呼ばれていたのだが、1時間あまりの話を終えたあとは参加者のみなさんと焚火を囲んで大宴会。あっというまに日付が変わり、大宴会がお開きになったのは夜が白々と明けかかるころ。それから1時間、焚火のわきでゴロ寝。目をさますとキャンプ仲間の田崎さんと連れだって、目の前を流れる早川で「渓流浴」。身も心もさっぱり。朝食を食べると、20人あまりの参加者のみなさんと一緒にロングダートの雨畑井川林道を走った。山梨・静岡県境の山伏峠ではズラリとバイクを並べて昼食。弁当を食べながら、話はおおいにはずんだ。静岡県側の井川で折り返し、もう一度、山伏峠を越えて夕方、地球元気村に戻った。そこで連泊するみなさんと別れ、R52で韮崎へ、韮崎ICから中央道→名神→中国道と夜通し、高速道を走った。猛烈な睡魔との戦だ。

真っ平なR54の上根峠
 三次ICで中国道を降りると、「江川の峠」の拠点となる三次の町に入っていく。眠くて、眠くて死にそうになるくらい眠い思いをして三次まで走りつづけたが、
「いよいよこれから、峠越えがはじまる!」
 と思うと、眠気などいっぺんに吹き飛んでしまう。人間の体というのは不思議なものだ。
 三次盆地の中心地、三次はまさに「江川の町」。ここで江川の本流と、支流の神野瀬川、西城川、馬洗川が合流する。まるであっちからも、こっちからも…という感じで大きな川が三次に流れ込んでくる。それだけに三次は昔から、大水害に泣かされてきた。
 ところで全長194キロの江川は中国地方最大の河川だが、三次よりも上流は可愛川(えのかわ)と呼ばれている。この可愛川に沿ってR54を走りはじめる。
 R54は太平洋(瀬戸内海)側の広島と、日本海側の松江を結ぶ幹線で、交通量が多い。天気は晴天。DRのエンジン音も快調だ。可愛川の流れを見ながら気分よく走れる。
 甲田、吉田と通り、八千代町に入る手前で可愛川と別れ、R54は支流の簸ノ川沿いの道になる。そのまま簸ノ川に沿って走る。簸ノ川は次第に小さな流れになり、やがて上根峠に到達。そこには大きな「分水嶺」の案内板が立っている。日本海に流れ出る江川の水系と瀬戸内海に流れ出る大田川の水系を分ける分水嶺だ。
 上根峠は本州を二分する中央分水嶺の峠なのに、ほぼ真っ平な地形をしている。
「えー、ここが峠?」
 と、首をかしげたくなるほど。
「ここが峠ですよ」
 と教えてもらわないことには気がつかないまま、スーッと下っていってしまう。
 平坦な峠の風景を目に焼き付け、可部へと下っていく。広島側の下りは急勾配。可部の町を走り抜け、広島の中心街まで行ったが、上根峠から広島の中心街までは20キロもない。日本海に流れ出る江川の水系は、広島のすぐ近くまで来ていることに驚かされてしまう。

江川支流の峠越え
 広島の中心街から可部まで戻ると、JR可部線の可部駅近くの食堂で昼食。カソリの定番「ラーメン・ライス」を食べ、R54を引き返し、再度、上根峠を越える。
 八千代町の中心、佐々井を過ぎたところでR54を左折し、江川本流の可愛川に沿って走る。土師ダムのわきを通り、千代田町に入る。同じ「えのかわ」でも、可愛川から江ノ川に名前が変わる。
 千代田でいったん江川の本流を離れ、支流の峠を越えていく。
 まずは支流の冠川に沿ってR261を南下し、明神峠を越える。峠のあたりだけがスポーンと抜けたような地形で、ゆるやかな登り。中国道も国道のすぐわきを通っている。峠が千代田町と広島市の境。さすが100万都市の広島だけあって、広島市に入ると急に交通量が増える。急勾配の峠道を下るとR191に出た。大きく蛇行して流れる大田川に沿ってR191を走り加計へ。険しい山並みが町の背後まで迫っている。
 加計で大田川の本流を離れ、R433で千代田に向かう。加計の町を出るとすぐに山中に入り、国道とはとても思えないような狭い道を走る。
 豊平町に入り、ひとつ目の峠を越えると道幅は広がった。
 豊平町の中心地を過ぎると、2つ目の峠を越える。国道のわきには「分水嶺」と彫り刻まれた立派な石碑が建っている。それには「山県郡豊平町中原 標高509m」とある。それとは別に、「陰陽分水嶺」と表示されたポールの立っている。陰陽分水嶺というのは、日本海側の山陰と瀬戸内海側の山陽を分ける分水嶺という意味だ。
 これらR433の2つの峠には名前はついていない。
 2つ目の峠を下っていくと、江川本流の江ノ川の支流、志路原川の流れに出る。志路原川の流れに沿って下り、千代田に戻った。

広島・島根県境の峠
 千代田では中国道の千代田ICにも近い千代田温泉に泊まった。ここは日本一の温泉。何が日本一かというと、信じられないのだが1泊2食2700円で、ぼくの知るかぎりでは「日本一安い温泉宿」なのだ。
 それもただ安いだけではない。温泉は黄土色した鉄分を多く含んだ放射能泉で、みるからに体に効きそう。地元の人のみならず、遠方からの人もやってくる。食事にしても夕食には5品の料理が出たし、部屋も大部屋でゴロ寝というのではなく、一人一人の個人用の部屋で気分よく眠れた。
 翌朝は朝湯に入り、朝食を食べて出発。千代田からR261を北へ、広島・島根県境の中三坂峠に向かった。
 その前に、R261を右折し、R433で千代田町と美土里町の境の峠まで行ってみる。深い森の中を曲がりくねって登っていくR433は、とても国道とは思えないような狭い道。交通量もほとんどなく、時たまブラインドのコーナーで対向車とすれ違った時などはヒヤッとした。名無しの峠まで登ったところで引き返し、R261に戻った。
 ふたたびR261を北へ、千代田町から大朝町に入る。浜田道の大朝IC入口の交差点を右折。そこで江川本流と別れ、中三坂峠に向かっていく。峠近くの鳴滝温泉(入浴料700円)に入ったあと、広島・島根県境の中三坂峠を貫くトンネルを抜けて島根県に入った。
 島根県側を下り、JRバスの田所駅まで下ったところでR261を右折し、もうひとつの島根・広島県境の峠、亀谷峠を登っていく。
 亀谷峠を越える道は亀谷林道なので、
「よーし、これでダートを走れるぞ!」
 と期待したが、残念ながら全線が舗装されていた。
 島根・広島県境の峠には「従是南 安藝国」と彫られた石碑が建っている。R261の中三坂峠にしても、この亀谷林道の亀谷峠にしても、旧国名でいうと安芸国(広島県の西半分)と岩見国(島根県の西半分)の国境の峠ということになる。
 広島県側へと亀谷峠を下り、杉林を抜け出ると、谷間の水田地帯に入った。田植えの終わった水田の美しさといったらなく、「おー、これぞ日本!」と、思わず声が出た。

江川源流の三坂峠
 中三坂峠、亀谷峠と2つの広島・島根県境の峠を越え、ふたたびR261の大朝IC入口の交差点に戻ってきた。今度はその交差点を直進し、県道5号を行く。いよいよ、三次からずっと追いかけてきた江川源流の三坂峠に向かうのだ。大朝の町並みを抜け、江ノ川の流れに沿って走る。江ノ川の流れはみるみるうちに小さくなり、サラサラと水音をたてて流れる小川に変わる。
 谷間に点々とつづく集落が途切れると山中に入り、やがて三坂峠への登りがはじまる。そして標高555メートルの三坂峠に到達。峠はスノーシェルターで覆われている。冬にはかなりの雪が降るという。この三坂峠こそが中国地方第一の大河、江川の源なのだ。
 今でこそ時代から取り残され、忘れられてしまったような峠だが、かつてはこの地方では一番重要な峠だった。江戸時代、岩見の浜田藩の大名行列はこの三坂峠を越えていた。 ところでR261の中三坂峠と亀谷林道の亀谷峠、県道5号の三坂峠のこれら広島・島根県境の3峠は「三三坂」と呼ばれていた。
 安芸と岩見を結ぶ3つの三坂峠という意味だ。
「三三坂」を区別するために、県道5号の三坂峠は「市木三坂」、R261の中三坂峠は「中三坂」、亀谷林道の亀谷峠は「亀谷三坂」と呼ばれていた。
「市来三坂」は島根県側の峠下の集落が市木、「亀谷三坂」の島根県側の集落が亀谷、「中三坂」は「三三坂」の真ん中なのでそれぞれの名がある。

三坂峠の「お蓮と勘兵衛の墓」
 三坂峠を越え、島根県側の瑞穂町を下ったところには、「お蓮と勘兵衛の墓」がある。そこに立つ案内板には次のように書かれている。
「浜田藩下役人同心某の妻、お蓮と、使用人の勘兵衛が恋仲になり、駆け落ちして三坂峠を越え、芸州の大塚(三坂峠の峠下の集落)まで逃げたが、後を追う夫某に捕まってしまう。2人は晴れて夫婦にしようという夫某の甘言にだまされ、この関所まで連れ戻されたが、それぞれ首を切られてしまった。夫某はその首を持って市木の代官所に立ち寄り、弔料を置いて浜田に帰った。お蓮と勘兵衛を哀れに思った市木の庄屋は、村人たちとともに2人を手厚く葬ったという」
 三坂峠を舞台にした男と女のなんとも悲しい物語だが、それとともに三坂峠を越える街道が関所を置くほど重要だったことがわかる。
 三坂峠を下り、峠下の市木の集落に入っていく。街道沿いには古い家並みがつづく。それとは対照的に、集落のすぐ後には浜田道の巨大な橋脚が林立している。
 市木からR261に出ると、国道沿いのねこ湯温泉でひと晩、泊まった。ここはおじいさん、おばあさんの老夫婦が細々とやっている一軒宿の温泉だ。
 老夫婦の話が心にしみた。
「ここは山の中ですから、いろいろな動物がやってきます。キツネ、タヌキ、イノシシ、そしてクマもすぐ近くまで来ます。サルも。サルは私たち夫婦をバカにして、悪さをするのですよ。ニワトリは放し飼いにしています。夜は木に止まって寝ています。生んだタマゴを集めるのはちょっと大変…」
 朝食には、その放し飼いにしているニワトリの生んだタマゴが出た。自然そのまんまのタマゴといった感じで、感動も一緒に味わった。
「今ではすっかり村の人口も減りました。年寄りの一人暮らしが増えました。昔は年寄夫婦と子供夫婦、孫たちが一緒に住むのがあたりまえだったのだけど、時代がすっかり変わってしまいました」
 ねこ湯温泉を出発する時、おばあさんはマタタビ酒を持たせてくれた。
「これはね、とっても体にいいのよ。元気が出ます。昔からまた旅(マタタビ)に出られるなんていいますよ」
 ねこ湯温泉の老夫婦に別れを告げ、R261で中三坂峠を越えて千代田へ。こうして江川本流の峠越えを終えると、R54で出発点の三次に戻るのだった。 

最近の記事
月別アーカイブ
小さな天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2カウンター
QRコード
QRコード