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東アジア走破行(16)環日本海ツーリング(1)

「東アジア走破行」の第13弾目は、2011年の「道祖神」のバイクツアー、「賀曽利隆と走る!」第15弾目の「環日本海ツーリング」だ。

 我が愛車、スズキの400㏄バイク、DR-Z400Sを走らせて東京から新潟へ。新潟から日本海に沿って北上し、稚内まで行った。稚内からはサハリンに渡るのだ。

 稚内ではガソリンを満タンにした。サハリンのガソリンは質に問題アリとのことで、タンクには目一杯入れた。また入国時の放射能チェックは相当、厳しいということで、これでもか、これでもかというぐらいに高圧でDRを洗浄した。これで準備完了だ。

 稚内港前の「氷雪荘」に行く。
「氷雪荘」には「環日本海ツーリング」に参加するメンバーが次々にやってくる。総勢13名。その中には新保さんがいる。新保さんとは2002年の「ユーラシア横断」を皮切りに、2003年の「アラスカ縦断」、2004年の「南部アフリカ」、2004年-2005年の「サハラ縦断」、2005年の「韓国縦断」、2007年-2008年の「南米・アンデス縦断」、2009年の「チベット横断」を一緒に走っている。

 竹口さんとは「南部アフリカ」、「サハラ縦断」、「南米・アンデス縦断」、「チベット横断」、新谷さんとは「韓国縦断」、河守さんとは「チベット横断」を一緒に走っている。なつかしの篠塚さんとも再会。篠塚さんは2000年の「サハリン縦断」に参加したのだが、何と稚内出発当日、バイクのエンジンが突然かからなくなり、そのままバイクを置いてサハリンに渡ったという悲劇の主人公。「今回はリベンジですよ」といっている。紅一点の大堀さんは前年の道祖神ツアーでサハリンを走っている。

「シルクロード横断」、「南米・アンデス縦断」を一緒に走った小林さんはひと足先にサハリンに渡り、我々とはコルサコフ港で合流することになっている。

 多士済々の「環日本海ツーリング」のみなさんと南稚内の「雑魚や」に行き、前夜祭の宴会開始。ここは稚内市役所の渡辺さんオススメの店。その日は日曜日にもかかわらず、渡辺さんのおかげで店を開けてくれた。「これが日本食の食べ納め!」とばかりに、我々はおおいに飲み、おおいに語りながら新鮮な北海の幸の数々を食べ尽くした。「氷雪荘」に戻ると、ちょうどうまい具合に花火大会が始まった。夏の夜空を彩る花火を見上げながら夢はサハリンへと飛んでいく。

 2012年8月8日6時30分、「氷雪荘」の朝食。これが最後の日本食ということで納豆、海苔、半熟卵…の食事をしっかりと味わって食べた。7時30分、「氷雪荘」を出発。道祖神の菊地さん、「環日本海ツーリング」の参加者のみなさんと一緒に稚内港・サハリン航路のフェリー埠頭へ。コルサコフ港に行くハートランドフェリーの「アインス宗谷」はすでにフェリー埠頭に接岸している。ターミナルビルには続々と乗船する人たちがやってくる。稚内市長をはじめとする稚内市のサハリン訪問団や猿払村の村長を団長とする学校の生徒たちが目を引く。

 我々はまずはバイクの出国手続き。ナンバープレートを国際ナンバーにつけ替える。稚内税関の職員がやってきて、1台1台のバイクのエンジンナンバーとフレームナンバーを確認し、「自動車一時輸出入申告書」に不備がないのを確認して書類にスタンプを押していく。今回はカルネを使わないので、この「自動車一時輸出入申告書」でもって、バイクの日本出国、日本入国をすることになる。

 税関での審査が終るとイミグレーションでの人間の出国手続き。こちらはじつに簡単で、パスポートにポンと「WAKKANAI」の出国印が押された。税関、イミグレーションでの手続きが終ると、バイクを走らせ、フェリーの車両甲板にのせる。フェリーが日本のハートランドフェリーなので、じつに手際よくバイクを1台づつ固定していく。

 ハートランドフェリーの「アインス宗谷」は定刻通り、午前10時、稚内港を出港。さすが日本のフェリー、1分と遅れることがない。これがどれだけすごいことか、後でよくわかることになる。「アインス宗谷」は2623トン。223名の乗客とトラックなら18台、乗用車なら45台を乗せられる。全長77メートル。速力は17ノット、時速約32キロ。船内のビールの自販機は税金がかからないので1本100円。甲板でサッポロの生を飲みながら、離れゆく稚内を眺めた。

 稚内港を出ると、ノシャップ岬から日本海へと続く海岸線がよく見える。礼文島、利尻島も見える。目の向きを変えると、今度は日本最北端の宗谷岬からオホーツク海へと続く海岸線を一望。「アインス宗谷」はサハリンのコルサコフ港を目指して宗谷海峡を進んでいく。

 日本最北端の宗谷岬が見えなくなると、今度は進行方向の左手にサハリン最南端のクリリオン岬が見えてくる。宗谷岬からクリリオン岬まではわずか43キロでしかない。それほど近い日本とサハリンなのだが、時差は1時間ではなく2時間もある。

 日本時間の12時になったところで昼食。サハリン時間ではもう14時だ。道祖神の菊地さんのはからいなのだろう、昼食は日本食の弁当だ。食べ終わったところで、自販機の100円ビールを飲みながら甲板に立ち尽くし、サハリンの島影を眺めた。

「アインス宗谷」はアニワ湾に入り、日本時間の15時30分、コルサコフ港に到着。稚内からは5時間30分の航海。サハリン時間では17時30分になる(ここからの記述ははすべてサハリン時間にする)。

 コルサコフは日本時代の大泊。不凍港で戦前までは稚内港との間を稚泊航路の連絡船が行き来し、北海道と樺太を結ぶ大動脈になっていた。

 コルサコフ港に到着してもすぐには降りられない。これがロシア時間というもので、時間だけがどんどん過ぎていく。コルサコフ港に夕日が落ちる頃になってやっと下船開始。我々は愛車ともどもコルサコフ港の埠頭に降り立った。さんざん待たされたあとだけに、サハリンに上陸できてうれしい。

 コルサコフ港での入国手続きは延々と時間がかかった。じっと辛抱して待つしかない。我々の手続きは最後になったので、よけいに時間がかかった。辛抱したかいがあってまずはイミグレーションでの入国手続きが終了。つづいて税関での検査。ここで問題発生。メンバーの1人が放射能チェックでひっかかったのだ。まるで空襲警報のような音が検査場内に鳴りひびき、彼の持物全部が別室で調べられた。ガイガーカウンターで荷物ひとつづつを調べられたとのことだが、その結果、放射能源は何とバイクカバー。その数値は0・39マイクロシーベルト。それを聞いたとき、「0・39」ぐらいでこれだけ大騒ぎするのかと驚いた。

「環日本海ツーリング」の前には東北の太平洋沿岸を走った。爆発事故を起こした東電の福島第1原発の20キロ圏は立入禁止で国道6号は通行止になっていた。その迂回路として国道399号で阿武隈山地を北上。浪江町の津島から峠を越えて飯舘村の長泥に下った。この一帯は原発爆発事故の影響をモロに受けたところで、5月11日の時点で津島は20マイクロシーベルトを超え、長泥は10マイクロシーベルトを超えていた。それでも国道399号は通行止にはならず、普通に通行できたのだ。

 津島や長泥の放射線量はコルサコフの税関を大騒ぎさせた「0・39」とは桁違い。コルサコフの税関職員が10とか20という数値を知ったら、きっと腰を抜かさんばかりに驚いたことだろう。放射能チェックでひっかかった荷物は没収され、日本に送り返されることになった。サハリンでは処分できないのだという。たかだか「0・39」なのに…と思ったが。バイクの方は全車が放射能チェックにひっかかることもなく、無事に受け取れた。

 まずはサハリンの第1歩、港周辺を歩き、2、3軒の店をのぞいて見てまわる。店内を一目、見ただけで2000年の「サハリン縦断」のときよりも、はるかにモノが豊富になっているのがわかった。この10年余、サハリンは石油景気、天然ガス景気で湧いた。

 コルサコフ港には通訳兼ガイドの東さんが我々の到着を待ち構えてくれていた。我々よりも先にサハリンに渡り、サハリン南部をまわった小林さんがセローに乗ってやってきた。ワジムさんの運転するサポートカーもやってきた。

 コルサコフ港に到着してから3時間後の20時30分、州都のユジノサハリンスクに向けて出発。DR-Z400Sには「頼むぞ!」とひと声かけ、サポートカーについて夜道を走る。「コルサコフ→ユジノサハリンスク」はサハリン一番の幹線だが、2000年の「サハリン縦断」のときと比べると、道幅は広くなり、交通量も格段に多くなっている。ユジノサハリンスクまでは43キロ。21時30分の到着だ。

 ユジノサハリンスクでの宿は「ベルカホテル」。かつてのサハリンでは想像もできないような快適なホテル。部屋に荷物を入れると、レストランで夕食だ。道祖神の菊地さんの発声で「乾杯!」。いやー、ビールがうまい。

 夕食はロシアの伝統的なスープ「サリャンカ」からはじまった。トマト風味のスープで上にサワークリームがのっている。中身は牛肉やベーコン、サラミ、野菜類。ロシア料理にはかならずついてる香辛料のオクロップ(フェンネル)の葉が特有の香りを漂わせる。つづいてビート(砂糖大根)のサラダ、そしてメインディッシュのステーキ。前夜の稚内での「魚三昧」の食事とはガラリと変わって「肉三昧」。これが宗谷海峡をはさんでの食文化の違いというもの。レストランでの夕食を終えると、有志で集まり、ウォッカパーティーになった。こうしてサハリンの夜は更けていった。

 翌朝は夜明けとともに起き、早朝のユジノサハリンスクを歩いた。霧がたちこめ8月とはいってもひんやりしている。目抜き通りを走る車の9割以上は日本車だ。以前のようなポンコツの中古車ではなく、新車、もしくは新車のような中古車も多く見られた。ボルガなどロシア製のオンボロ車はすっかり影をひそめていた。

 ユジノサハリンスクはサハリン州の州都。日本時代の豊原だ。サハリン州はサハリン本島のほか千島列島などを管轄している。サハリン州の人口は54万人、そのうちユジノサハリンスクの人口は20万人。サハリンは南北に細長く、約950キロに達する。それに対して東西の幅は狭く、最大で約160キロ、最少では26キロでしかない。面積は7万6400平方キロで北海道の約9割ほどになる。

 ユジノサハリンスクの町並みは碁盤の目状で、日本時代につくられた町並みとそれほど変わりがない。「小札幌」といったところだ。そんなユジノサハリンスクの町並みを1時間ほどプラプラ歩き、「ベルカホテル」に戻った。

「ベルカホテル」で朝食を食べると、午前中はマイクロバスでの市内観光。まずは郊外のスキー場の展望台に登る。ここは昔の旭ヶ丘の展望台。ここからはユジノサハリンスクの市街地を一望する。ススヤ川流域に開けた碁盤の目状の町並みが、まるで地図を見ているかのようによくわかる。日本時代の樺太庁はこの地に豊原の町を造り、樺太統治の拠点にした。それが今のユジノサハリンスクの町になる。スキー場にはロープウエーが建設中で完成間近。我々はその試運転中のロープウエーに乗せてもらえた。

 展望台を下った山裾には戦勝記念碑がある。そこから小道を歩いたところが樺太神社跡。豊原駅(現ユジノサハリンスク駅)から東に延びる大通りは神社大通り(現コムニスチーチェスキー大通り)と呼ばれ、突き当たりに樺太神社があった。今でも山中に石段の跡などが残っている。樺太神社跡で手を合わせ、戦勝記念碑に戻るとコムニスチーチェスキー大通りを直進し、ユジノサハリンスク駅前でマイクロバスでの市内観光は終了。そこからはプラプラ歩いて「ユジノサハリンスク探訪」を開始した。

 まずはレーニン広場へ。ロシア本土では大半のレーニン像が倒されたのにもかかわらず、ユジノサハリンスクでは健在。見上げるような巨大なレーニン像がそのまま残っている。噴水のあるレーニン広場は市民の絶好の憩いの場になっている。

 次にユジノサハリンスク駅近くの自由市場を歩く。野菜売場、果物売場、水産物売場と見てまわったが、物は豊富で市場内には活気があふれている。目立つのは在サハリンの朝鮮人たち。とくに女性。彼女たちはサハリン経済を牽引しているかのような元気さだ。

 自由市場の様子は20年前とは大違い。1991年に来たときは、あまりの物不足でサハリンの人たちがかわいそうになるほどだった。自由市場には貧弱な野菜が並び、魚、肉はほとんどなく、木イチゴの実が目についた程度。当時、サハリンでは餓えが心配されていたほど。あのときの自由市場の光景が目に焼きついているので、物のあふれかえる2012年の自由市場は「サハリンは変った!」と実感させるものとなった。自由市場には大勢の買物客がやってくるので、その周辺には数多くの露店も出ている。そこでは細々としたものが売られているが、ロシア料理に欠かせない香辛料のオクロップが目についた。

 自由市場とその周辺の露店群を見てまわったところで昼食にする。「カフェメトロ」という店に入った。そこはセルフサービスの店。好きなものを取って食べるようになっている。黒パンとビート、ボルシチ、肉団子、マッシュポテトを食べた。

 昼食後は目抜き通りのコムニスチーチェスキー大通りを歩き、サハリン州政府の庁舎前を通り、「サハリン州郷土資料館」を見学する。純日本風の城郭を思わせるような建物。昭和13年(1938年)に建てられた樺太庁の郷土館をそのまま使っている。入口には2つの狛犬が並んでいる。旧樺太神社のものか。館内には北緯50度線上に置かれていた日本と旧ソ連国境の2つの標石が展示されている。それには「大日本帝国 境界」と彫り刻まれている。興味を引かれたのはニブヒ(ギリヤーク)族などの北方民族のコーナー。彼らの紋様は北海道遺産にも指定されているアイヌの紋様にそっくりだ。

「サハリン州郷土資料館」の見学を終えると、さらにコムニスチーチェスキー大通りを歩き、コムサモーリスカヤ通りとの交差点に出る。このコムサモーリスカヤ通りを南に行けばサハリン上陸の地のコルサコフだ。

 交差点のすぐ近くにはロシア正教の教会がある。ロシア正教の教会というと日本でいえば東京・御茶ノ水のニコライ堂や函館のハリストス正教会がよく知られているが、ともに異国情緒を漂わせている。本家本元のロシア正教の教会を見て、「ここはもう異国の地だ!」と、改めて思い知らされた。ここを最後に「ユジノサハリンスク探訪」を終え、「ベルカホテル」に戻った。

 ホテルのレストランでみなさんと一緒に夕食。ちょっぴり豪華にシャンペンで乾杯。そのあとロシア産のワインを飲んだ。夕食はサラダにはじまる。それにはロシア料理には欠かせない香辛料のオクロップがのっている。次に炒飯。これにもオクロップがのっている。最後は水餃子のペリメニで、これにもオクロップがのっている。ロシア料理にオクロップは欠かせない。

 ところで餃子というと中華料理を連想するが、水餃子のペルメニはロシアの国民的料理といっていいほど一般的。シベリア経由の「ユーラシア横断」(2002年)では何度、食べたか知れない。日本人の大好きな焼餃子を食べた記憶はまったくなく、すべてが水餃子のペリメニだった。ちなみに中国でも餃子といえば水餃子と蒸餃子が主で焼餃子はそれほど食べられてはいない。それなのになぜ日本では焼餃子が主流になったのか、じつにおもしろいことだと思う。

 翌朝も夜明けとともに起き、1時間ほどユジノサハリンスクの町を歩き、「ベルカホテル」に戻った。そして朝食。道祖神の菊地さんは自由市場で買ったというキムチをみんなに出してくれた。それを試しに黒パンの上にのせて食べてみるとけっこういける。名づけて「キムチ黒パン」だ。

 9時、ユジノサハリンスクを出発し、ホルムスクに向かう。この道は1991年の「サハリン周遊」で往復したルート。そのときに比べると格段に道がよくなり、交通量も多くなっている。ホルムスクまでの標識もしっかりしている。途中には食事もできる「カフェ」もできている。

 ユジノサハリンスクからホルムスクまでは100キロ。その手前でホルムスク峠を越える。切通しになった2車線の新道がズバッと切り裂くようにして峠を越えているが、ここでは旧道で昔の峠に登った。そこにはロシアの戦勝記念碑が建っている。

 このホルムスク峠は日本時代の熊笹峠。熊笹峠の名前どおり、峠は一面、クマザサで覆われている。見晴らしのよい峠で日本海がはるか遠くに見渡せる。

 熊笹峠は日本軍とソ連軍の激戦の地。昭和20年8月15日の終戦後、ソ連軍は真岡(現ホルムスク)を攻撃し、真岡に上陸した。そのソ連軍に対し、熊笹峠に陣地を構えていた日本軍は激しく高射砲を浴びせかけた。そのため上陸したソ連軍は熊笹峠の日本軍を徹底的に攻撃し、日本兵の死体が要塞内で折り重なったほどだという。

 このときのソ連軍の真岡上陸で、当時の真岡郵便電信局の9人の電話交換嬢は、「みなさん、これが最後です。さようなら…」と、最後の言葉を残して集団自決した。稚内港を見下ろす稚内公園には樺太に眠る同胞の慰霊碑の「氷雪の門」があるが、その隣の「九人の乙女の碑」は真岡郵便電信局の9人の電話交換嬢の慰霊碑だ。

 ホルムスク峠から日本海に下り、ホルムスクの町に入っていく。ここから我々は連絡船に乗って間宮海峡(タタール海峡)を渡るのだ。

東アジア走破行(15)台湾往復縦断

「東アジア走破行」の第12弾目は2011年の「台湾往復縦断」。5月26日から8日間、台湾のスズキ、台鈴工業の125㏄スクーター、「TEKKEN(鉄拳)125」で1155キロを走った。台北の台鈴工業本社前を出発点にし、台湾南部の中心都市、高雄で折り返した。往路は「海編」で台北から台中、台南と台湾の西海岸を南下し高雄へ。復路は「山編」で高雄から阿里山、拉拉山と台湾山脈(中央山脈)沿いに北上して台北に戻った。

 とくに印象に残ったのは後半の「山編」だ。
 高雄を出発した日は関子嶺温泉に泊まった。日本の蔵王温泉を思わせるような高地の温泉。「関子嶺統茂温泉會舘」に泊まったのだが、ここの大浴場も露天風呂も泥湯。大浴場には裸で入り、混浴の露天風呂には水着で入った。水着着用がちょっと日本の温泉とは違うところだが、灰色の湯にどっぷりとつかっていると、九州・阿蘇の地獄温泉「清風荘」の泥湯、「すずめの湯」に入っているかのような錯覚にとらわれた。湯の色、湯の質も似ている。

 台湾有数の観光地、阿里山には大陸からの観光客がどっと押し寄せ、ちょっとしたブームになっていた。阿里山から台湾最大の湖、日月潭に下ったが、ここも大陸からの観光客でおおにぎわい。大陸からの観光客をねらった大きなホテルがオープンしたばかりで、このように台湾の観光地はどこも大陸からの観光客で大変なにぎわいだった。

 日月潭から埔里(プーリー)へ。この町は「台湾のへそ」。町中に「台湾中心碑」が建ち、そこには「山清水秀」と彫り刻まれている。

 埔里は1999年9月21日の台湾大地震(台湾では「921大地震」といわれている)の震源地に近く、町は大きな被害を受けたが、今は復興し、人口10万の町に大地震の痕跡はほとんど見られない。M7・6のこの大地震では2000人以上の死者が出た。

 台湾では今回の東日本大震災の発生と同時に全国的な義援金の募金活動がはじまり、早々に100億円を超える多額の義援金が送られ、日本でも大きなニュースになった。台湾のみなさんは日本の一大事を心から心配してくれたのだ。

「日本は一昨年の台風のときや10年前の921大地震のときにいち早く支援してくれたから、今度は台湾が日本を助ける番」という話を各地で何度も聞いたが、とくに埔里での募金活動はすごかった。町をあげての募金活動だったという。

 そういう話を聞くにつけ、日本はもっと、もっと台湾を大事にしなくてはいけないと思うのだ。世界中を探しても、台湾以上に親日的な国はないし、台湾人以上に、日本大好きな国民はいない。

 埔里から台湾山脈高地の清滝へ。日本でいえば八ヶ岳の清里といったところ。台湾でも人気の山岳リゾート地、清滝では「日光清滝」というペンションに泊まった。そこのベランダからの眺めは最高で、幾重にも重なり合った山々を一望した。

 清滝からの道がすごかった。山上道を登り、太魯閣国立公園に入り、標高3090メートル地点の展望台でTEKKENを停めた。TEKKENは125㏄とは思えないようなパワフルさで、何なく3000メートル地点を越えてしまう。

 展望台からの眺めは絶景。中央山脈から雪山山脈へと連なる何峰もの3000メートル峰を一望する。右奥には台湾の最高峰、玉山(3952m)が見えている。

 台湾は日本以上の山国で、玉山を筆頭に3000m峰は何と133峰を数える。ちなみに日本で3000m峰というと9峰でしかない。台湾の3000m峰の大半は台湾の脊梁山脈の中央山脈にあるが、雪山山脈にも雪山とか大雪山といった3000m峰がある。

 標高3090メートルの展望台からさらに登りつづけ、ついに標高3275メートルの峠、武嶺(ウーリン)に到達。「嶺」が峠を意味するので、日本風にいえば武峠になる。 日本の自動車道の最高所峠というと山梨・長野県境の大弛峠。標高は2360メートル。武嶺はそれよりも1000メートル近くも高い。台湾にはきっと武嶺よりも高い峠があるはずだ。

 武嶺を下った環山という山間の村では山地民タイヤル族の小学校を訪ねた。全校生徒39人という小学校だが、低学年から高学年までの全員が日本の「東北大地震(トンペイ・ターティツァン」を知っている。先生たちを含めてみなさんが「東北(トンペイ)」を心配していた。

 ここでは高学年のみなさんは華やかな色どりの民俗衣装に着替え、タイヤル族の唄を歌い、踊りを披露してくれた。地元の年配のみなさんも集まり、日本語のきれいな歌を歌ってくれた。給食を生徒たちと一緒に食べて別れたが、一生、忘れることのできない環山のタイヤル族の小学校だ。

 最後は拉拉山の山上の宿「京仁山荘」に泊り、台北に戻ったが、昨年の「台湾一周」につづいての今年の「台湾往復縦断」。「台湾をもっともっと走りまわりたい!」という熱い想いを胸に抱いて日本に帰ってきた。

東アジア走破行(14)台湾一周

「東アジア走破行」の第11弾目は2010年の「台湾一周」。6月17日、成田空港から9時40分発のチャイナエアラインCL107便の台北行きに乗り込んだ。成田を飛びたってから3時間後、台湾が見えてきた。長年の夢だったバイクでの「台湾一周」がいよいよ始まるのだ。

「台湾一周」に初めて想いを馳せたのは1968年のこと。「アフリカ大陸縦断」を目指して4月12日、横浜港でオランダ船の「ルイス号」に乗り込み、南部アフリカ・モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)港に向かった。友人の前野幹夫君と一緒だ。2台のバイク、スズTC250も乗っている。カソリ、20歳の旅立ちだ。

 横浜港を出港した「ルイス号」の乗客は、約100人のブラジルに移民する台湾人と、日本で農業実習を受けて帰国する4人の日系ブラジル人、南米を一人旅しようとしている日本人青年が5人、それとアフリカ南部のモザンビークで下船するぼくたち2人だった。 台湾人は誰もが感じがよかった。年配の人たちは、ほとんどの人たちが日本語を話し、若い世代の人たちの中にも、日本語を勉強している人が何人もいた。そんな台湾人の中でぼくは同世代の女性の素琴と仲良くなった。彼女は甲板で台湾の歌を聞かせてくれたが、澄んだ歌声と抑揚のあるもの悲しいリズムが胸にしみた。

 素琴は話も上手だ。
「さー、みんな、お話をしてあげるから来なさい」
 と声をかけると、何人もの子供たちが集まってくる。目を輝かせて素琴の話を聞く子供たちの姿が印象に残った。

「ルイス号」は横浜港を出たあと、名古屋港に寄港し、神戸港に入港した。神戸では日本に里帰りした5人の日系ブラジル人と、ボリビアに移民する約20人の沖縄人が乗り込んだ。当時の沖縄といえば、まだ日本に復帰する以前のことなので、とうとう日本人移民は1人も乗らなかった。

「ルイス号」はこの航海が最後になった。日本から南米への移民がほとんどなくなったからだ。すでに太平洋からパナマ運河経由の日本船の移民船もなくなっていた。「ルイス号」は日本から出た最後の南米移民船ということになる。

 1960年代の後半というのは、日本が高度経済成長の道をまっしぐらに突っ走り、まさに絶頂期にさしかかろうかという時代であった。

「ルイス号」は韓国の釜山港に寄港し、そこで100人ほどの韓国人移民が乗り込んだ。釜山港を出ると、香港、シンガポール、ポートセッテンハムと寄港し、インド洋を南下。モーリシャス島に寄港し、南回帰線を越えると、水平線上にマダガスカル島が霞んで見えた。ぼくたちの目的地のアフリカがもうすぐそこだ。

 モザンビークのロレンソマルケス港に着く前夜、大勢の人たちが甲板に集まり、ぼくと前野のために、お別れパーティーを開いてくれた。素琴は台湾の歌を歌ってくれた。なにかというと「コリアン・ナンバーワン(韓国は世界一!)」をくり返していた韓国人青年は、しんみりとした韓国の歌を歌ってくれた。歌の上手な前野はお礼だといって声をふりしぼり、暗い海に向かって歌った。いつになく寂しげな前野の歌声だった。

 沖縄の16歳の少女、幸枝ちゃんはぼくのほほにキスしてくれた。
「がんばってね。アフリカで病気になったり、怪我したりしないでね」
 と、目に涙をいっぱい浮かべて別れの言葉をかけてくれた。
 ぼくはこのとき、いたたまれないほどの別れの辛さを味わった。

 1ヵ月以上の船旅で、家族同様に親しくなった多くの人たちとの別れ。それまでは人との別れが辛いものだとは思ってもみなかったし、そのような別れを知らなかったこともある。

 横浜港を旅立つときも、見送りに来てくれた家族や親戚、友人たちとの別れの辛さは微塵もなく、
「これで日本を飛び出していけるゾ!」
 と、雲の上をフワフワ歩くような気分だった。

 横浜港を出港してから37日目の5月18日、「ルイス号」はモザンビークのロレンソマルケス港に到着した。モザンビークは当時はポルトガル領で、ポルトガル人のイミグレーションの係官が乗船し、入国手続きは船内でおこなわれた。モザンビークへの入国手続きは簡単に終わり、ぼくたちはあっけないくらいにアフリカの大地に降り立った。バイクの通関には日数がかかるといわれ、「ルイス号」の出港の日までそのまま船内で宿泊させてもらい、1日3度の食事も船内の食堂で食べさせてもらった。

 5月21日、「ルイス号」のみなさんとのほんとうの別れになった。
 日が落ち、暗くなったところでぼくたちは下船する。「ルイス号」は2度、3度と汽笛を鳴らし岸壁を離れていく。甲板ではみんなが懐中電灯を振ってくれている。
 ぼくたちは声のつづくかぎり叫びつづけた。
「さよーならー、さよーならー!」

「ルイス号」は暗い海に出ていく。懐中電灯のいくつもの明かりがだんだん小さく、遠くなっていく。やがて「ルイス号」はポツンと見える点のような明かりになり、暗い波間の向こうに消えていった。

 このときぼくは決心したのだ。
「アフリカ大陸縦断」を終えたら「南米を一周しよう!」、さらに「台湾も韓国も一周しよう!」と。
「南米一周」を成しとげたのはそれから16年後の1984年。
「韓国一周」はそれから31年後の2000年。
 そしてついに42年後の2010年、「台湾一周」を実現させたのだ。

(詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』の連載、「台湾一周」をご覧ください)

東アジア走破行(13)広州→上海

「東アジア走破行」の第10弾目は2009年12月1日~12月12日の「広州→上海2200キロ」。この中国ツーリングはいろいろな意味で、すさまじいものだった。またそれを成しとげたことによって自分が新たなステップを踏み、別な世界に昇っていったような気もするのだ。

 12月2日、広州に到着。人口1500万の広州はすさまじいばかりの大気汚染。息をするのも苦しいほど。世界第2の工業生産地帯、珠江デルタの中心都市だけあって、町は車の洪水だ。いたるところで大渋滞がつづく。

 そんな広州を出発点にし、スズキの125ccスクーター、アドレスV125Gを走らせ、国道324号で上海を目指した。驚いたことに国道324号沿には途切れることなく市街地がつづいた。ちなみにこの国道は福建省の福州から広東省の広州を経由し、雲南省の昆明に至る全長2600キロもの国道だ。

 福建省に入るとわずかに田園風景を見たが、すぐに廈門へとつづく市街地に入っていく。さらに泉州から省都の福州へと市街地がつづく。広州から福州までは1220キロ。福州からは国道104号→国道320号で上海まで行くのだが、その間もほぼ同様で、なんと「広州→上海」の2200キロ間がメガロポリスになっている。「ボストン→ワシントン」、「東京→大阪」などを上回る世界最大のメガロポリスといっていい。

 人口1600万の上海は世界一の工業生産地帯、長江デルタの中心都市。広州からつづいた大気汚染は途切れることはなく、ついに中国では抜けるような青空を一度として見ることはなかった。民族の存亡にもかかわるようなすさまじい大気汚染なのだが、それをあまり気にも留めない中国人に驚きを感じてしまった。

 福建省でひとつうれしかったのは、空海の中国上陸地点である霞浦に行けたこと。郊外の赤岸には「空海大師記念堂」が建っている。

 それにしても空海は強運な人間だ。804年の第17次遣唐使船に乗ったのだが、4隻のうち2隻は嵐で沈没。空海の乗った船は沈没をまのがれ、この地に漂着した。空海は上陸の許可が下りるまでの40日間、霞浦に滞在したのだ。なお、そのときの4隻のうち1隻だけは予定通り、寧波港に到着。その船には最澄が乗っていた。アドレスではこの年の4月から5月にかけて「四国八十八ヵ所めぐり」をしたので、自分の頭の中では四国と中国がつながった気分。次ぎの機会にはぜひとも、霞浦→福州→長安(西安)と空海の足跡をたどろうと思った。

 福建省から浙江省に入り、楽清の町でひと晩、泊まった。
 その翌日(12月10日)のこと。朝から雨が降っていた。50キロほど走ったところで、ゆるやかな峠を越える。時速60キロほどで2車線の峠道を上り、ブラインドになった左コーナーにさしかかった。すると何と、雨で滑り、スピンしたトラックが自分の目の前に飛び込んできた。
「あ、やったー!」


 その瞬間、次ぎ次ぎに頭の中から指令が飛んでくる。
「目をつぶるな」、「ここでは死ぬな」、「どうすれば助かるか考えろ」。

 トラックが自分の目の前で横向きになって止まるのと、アドレスで突っ込むのとはほぼ同時だった。すさまじい音とともにアドレスは吹っ飛ばされた。

 衝突の瞬間、ぼくは一瞬たりとも目を閉じることなく、目をカーッと見開いたままトラックに突っ込んでいった。そのときどうすれば助かるか、それだけを考えていた。

 トラックの中央部には人間が滑り込めるスペースがある。そこに賭けたのだ。転倒し、右手、右膝で受身をとりながら、ものすごい勢いで滑り込んだ。その結果、思惑通り、そのスペースにすっぽり入り込むことができた。

 トラックを降りてきた運転手はぼくの姿が見えないので、顔が青ざめるくらいの恐怖心を感じたという。さらにそのあとトラックの下から這い出してきたのでさらに恐怖心は増し、膝がガタガタ震えたという。

 それにしてもラッキーだった。

 トラックが止まるのと、それに衝突するのはほぼ同時だったが、ほんの1、2秒という、わずかな時間差があった。トラックの方が先に止まったのだ。この「1秒、2秒」でいろいろなことが見えるし、いろいろなことが考えられるし、いろいろなことが実行できる。そのおかげで助かったようなものだ。

 それともうひとつラッキーだったのは、トラックの側面には日本のような巻き込み防止のバーがついていないことだった。百戦練磨のカソリ、全身を強打したのにもかかわらず、右手で防御し、頭だけは打たなかった。

 すさまじい痛みの中で道路上に立ち尽くし、警察が来るのを待った。その間にいろいろなことを考えた。12月10日が自分の命日になってもおかしくないような状況だったが、こうして生き延びられたことに感謝した。「生きている!」という実感。だが、すぐに考え直した。「いや、生きているんではない、生かされているんだ」。ぼくはこのとき悟りの境地に入ったかのような心境になった。何か、目に見えない大きな力によって守られ、「オマエはまだ生きていろ!」といわれたような気がした。

「自分にはまだまだやりたいことがいっぱいある。よし、次は中国一周だな」
 と、事故現場で「中国一周計画」をプランニングするのだった。

 中国警察の動きは速かった。10分もしないうちに2台のパトカーがやってきた。事故現場を調べ、すぐに楽清の市民病院へ。右手、右膝をやられたが、骨には異常ナシ。右膝を2針縫う程度で済んだ。次に警察署で事故の調書がとられる。トラックの運転手が「すべては自分の責任です」と最初からいっているので、ここでもまったく問題ナシ。まるで警官が裁判官でもあるかのように、賠償金として5000元(約75000円)を払うようにと運転手に命令した。

 調書に右手人差し指で捺印したあと、運転手は「私には子供が4人いまして…」と泣きついてくる。一人っ子政策の中国で、何で4人も子供がいるの?といいたかったが、まあ、仕方ない。病院代の2000元を払うということで和解した。

 事故でメチャクチャになったアドレスだが、それは前面のみ。エンジンのある後部はまったく無傷。エンジンもかかる。そんなアドレスに乗り、グローブのように腫れあがった右手でハンドルを握り、天台、紹興、杭州と通り、翌12月11日14時45分、上海に到着した。広州から2252キロだった。


(この「広州→上海」は近日中に連載を開始しますので、ご期待ください)

東アジア走破行(12)チベット横断

 2009年の「道祖神」のバイクツアー、「賀曽利隆と走る!」の第14弾目の「チベット横断」が第9弾目の「東アジア走破行」になる。

 7月1日に日本を出発し、北京から西安へ。西安から中国製のバイクで蘭州→嘉峪関→敦煌とシルクロードを走り、敦煌からチベット高原に向かった。

 青海省のゴルムドから青蔵公路(国道109号)でチベットのラサへ。その間では崑崙山脈を越えていく。我が憧れの「崑崙」。標高4767メートルの崑崙峠に立ったときは「おー、崑崙!」
 と、喜びを爆発させた。

 さらにそのあと標高5010メートルの風火峠を越えた。風火峠を皮切りに、5000メートル級の峠越えがはじまる。
 風火峠を下ったダダでは長江との出会いがあった。

 長江最上流部のダダ川にかかる青蔵公路の橋が、長江最初の橋ということになる。この夜は最悪。ダダの町の標高は4521メートル。「長江源賓館」に泊まったのだが、高山病にやられ、息苦しくてほとんど寝られない。横になれないのだ。仕方なくホテルのロビーのソファーに座っていた。この格好だと、すこしは楽に息をすることができた。

 ダダを出ると、青海省とチベット自治区の境の峠、標高5231メートルのタングラ峠を越える。つづいて標高5170メートルの峠越え。高山病にすっかりやられてしまったので、何とも辛い峠越えとなった。

 眠れない、食べられないという高山病の状態でラサに到着。するとあまりの空気の濃さに高山病は一発で治った。普通に歩けるようになり、普通に食べられるようになり、普通に寝られるようになった。といってもラサの標高は3650メートル。富士山ほどの高さはあるのだが、4000メートル、5000メートルの世界から下ってくると、まるで天国のように感じられた。

 ラサからシガツェ、ラツェを経由し、標高5248メートルのギャムツォ峠を越えてチョモランマのベースキャンプへ。標高5000メートルのロンボク寺に泊まったのだが、その日の夕方、チョモランマにかかっていた雲はきれいにとり払われ、その全貌を見ることができた。モンスーンの季節でチョモランマを見るのはほとんど無理だといわれていただけに、もう狂喜乱舞で夕日を浴びたチョモランマを見つづけた。

 ティンリンで泊まった日は快晴。目の前の平原の向こうには標高8201メートルのチョーユーが聳えたっていた。神々しいほどの山の姿。その左手には標高7952メートルのギャチュンカン。チョモランマも見えていたが、堂々としたチョーユー山群に圧倒され、ここでは脇役でしかなかった。

 ティンリンからは標高8012メートルのシシャパンマへ。「ヒマラヤ8000メートル峰の奇跡」はさらにつづき、チベッタンブルーの抜けるような青空を背にしたシシャパンマの主峰を見ることができた。シシャパンマの大山塊を左手に見ながら走りつづけたが、雪山の白さ、間近に見える氷河の白さはまぶしいほど。そして「チベット横断路」の新蔵公路(国道219号)のサガの町に出た。

 チベット(西蔵)と新疆ウイグル自治区を結ぶ新蔵公路は劇的に変わった。すっかり道がよくなっているのだ。何本もの川には橋がかかり、川渡りをすることは一度もなかった。ヤルツァンポ川と別れ、標高5216メートルのマユム峠を越えると、聖山のカイラスが見えてくる。聖湖のマナサロワール湖も見下せた。

 チベット西部のアリ地区に入ると、何と舗装路が延々とアリ(獅河泉)の町までつづいていた。
 アリからは5000メートル級の峠越え。崑崙山脈の標高5248メートルの界山峠を越え、つづいて標高5205メートルの峠を越えた。この峠が最後の5000メートル級の峠で、風火峠から数えて9番目になる。

 チベット自治区から新疆ウイグル自治区に入る。世界第2の高峰K2(8611m)の登山口のマザーを通り、4000メートル級、3000メートル級の2つの峠を越え、タクラマカン砂漠のオアシス、カルグリックへ。

 そこはチベット高原とはあまりにも違う世界。熱風の吹きすさぶ一望千里の大砂漠を走り抜けていく。こうして西安を出発してから31日目の8月11日、中国最西端の町、カシュガルに到着。全行程7000キロ余の「チベット横断」を中国製のオンボロバイクで走り抜けた。

(詳しくは当サイト『賀曽利隆オンザロード』 の連載、「チベット横断」をご覧ください)

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