東アジア走破行(18) 環日本海ツーリング(3)

 タタール海峡(間宮海峡)の港町、ワニノを出発。ロシア沿海州の中心都市、ウラジオストクを目指す。この日の目的地はアムール川流域のリドガだが、トラブル発生。「ワニノホテル」までやってきた我々のサポートカーのトラックは、リアのバネが折れたとのことで急きょ、修理工場へ。そこでカソリのスズキDR-Z400Sが先頭を走り、みなさんのバイクがそれにつづき、最後を道祖神の菊地さんと通訳兼ガイドの東さんの乗る車がついた。サポートカーは修理が終わり次第、我々を追いかけてくるとのことだ。

 ワニノからはバム鉄道終点のソビエツカヤ・ガバニへの道を行き、その手前で右折。ワニノ近郊のガソリンスタンドで全車、満タンにした。

 ロシア沿海州(プリモルスキー)にはシホテ・アリニ山脈が南北に連なり、海岸線にはまったくといっていいほど道はない。そのためワニノからシホテ・アリニ山脈を越えてアムール川の流域を走り、ハバロフスクからウラジオストクに向かうことになる。

 ワニノからシホテ・アリニ山脈の山道に入っていく。とはいってもなだらかな山並みなので、ゆるいカーブの連続で勾配もゆるやか。何本もの山脈が走っているのでいくつもの峠を越える。この一帯は絶滅が心配されるアムールトラの生息地になっている。シホテ・アリニ山脈の最高峰、タルドキーヤニ山(2077m)の北側を通っていくが、峠から山並みを眺めた限りではどの山がそうなのか、よくわからなかった。

 ワニノから80キロの峠にはガソリンスタンドがある。ここが「ワニノ→リドガ」間の唯一の給油ポイントなのだが、またしてもトラブル発生。ガソリンスタンドのガソリンの残量がわずかしかなく、3、4台のバイクにしか、給油できないという。そこでタンク容量の少ないDRとXRLバハ、KLX250、ランツァの4台に入れた。4台に入れ終わったところでガソリンスタンドのガソリンはカラッポになった。「ワニノ→リドガ」間は300キロ。何としてもリドガまで全車、走りきらなくてはならない。予備のガソリンを積んだサポートカーはいつ来るのかわからないので、当てにすることはできないからだ。旅は冒険の連続だ。

 ワニノから80キロの峠を越えるとダートに突入。ダートといっても幅広で走りやすい。ダートには滅法強いスズキDR-Z400Sなので、ほとんど速度を落とすことなく、100キロ以上で走れる。日本の林道とはまるで違う高速ダート。すれ違う車も高速走行なので、その瞬間、ビシバシと小石混じりの泥を跳ね上げられる。跳ね上げられた小石でヘッドライトが割られないように速度を落とし、右側に避けて走った。

 道のド真中で記念撮影できるほど交通量極少だが、とはいっても高速で走る四駆や乗用車、トラックなどを追い越すときはちょっと大変。対向車には十分気をつけ、気合を入れてアクセルを開いた。それと、このルートで気をつけなくてはならないのは木橋。見通しの悪い木橋が大半で、橋の幅は極端に狭くなり、板の吹っ飛んだ痛みの激しい木橋も多い。ワニノから176キロ地点の森の中に、ポツンとカフェがある。「ワニノ→リドガ」間で唯一のカフェ。ここで昼食にする。これぞロシア料理といったスープの「ボルシチ」と「マカロニ&ビーフ」を食べた。食べ終わると食後のコーヒーを飲みながらの歓談。これが何ともいえずに楽しい時間だ。

 カフェを出発し、リドガに向かう。ほんとうはここでサポートカーと合流したかったのだが、修理に手間取っているようでついに到着しなかった。こうなったら、1台もガス欠することなく全車が無事、リドガに着けるのを願うばかりだ。

 シホテ・アリニ山脈を横断するダートを走り、やがてアムール川の水系に入っていく。アムール川の支流はあっというまに大きな流れになり大河の様相。さすが世界の大河、アムール川だけあって、シホテ・アリニ山脈から流れ出る支流にも大河の風格が漂っている。我々はついにシホテ・アリニ山脈の山中のダートを走りきり、2車線の舗装路に出た。「ワニノ→リドガ」間のダート距離は100キロ超。舗装区間が着々と伸びているので、おそらく近いうちに「ワニノ→リドガ」間の全線が舗装路になることだろう。そのときは「稚内→コルサコフ→ホルムスク→ワニノ→リドガ→ハバロフスク」というこのルートが脚光を浴びるようになるのは間違いない。ハバロフスクからはイルクーツク、ノボシビルスクとシベリアを横断し、ウラル山脈を越え、モスクワまで一直線で行ける。モスクワからはさらにヨーロッパの国々へ。新たなユーラシア横断時代の幕開けだ。

 ワニノを出発してから9時間後の17時、ついに我々はリドガに到着した。ワニノからの距離は336キロ。1台のバイクもガス欠することなくガソリンスタンドで全車、満タンにした。我々は意気揚々とした気分でリドガの町に入っていった。

 アムール川流域の町、リドガでは、ハバロフスクとコムソモリスク・ナ・アムーレを結ぶ街道沿いの「スラブヤンカ・モーテル」に泊まった。ここには宿泊施設のみならず、レストランもある。ハバロフスクとコムソモリスク・ナ・アムーレの中間地点にあるリドガなので、次々に長距離バスがやってきては止まる。乗客たちはここで食事をしたり、コーヒーを飲んだりする。道標ではリドガからハバロフスクまでは214キロ、コムソモリスク・ナ・アムーレまでは184キロとあった。

 モンゴル高原の源流からタタール海峡の河口まで、アムール川沿いにバイクで走るのは、ぼくの夢。ロードマップを見ると、コムソモリスク・ナ・アレーナからさらに500キロほど下流の町、ボゴロドスコエまでは道がある。その先で道は途切れてしまうが、さらにアムール川の河口ではニコラエフスク・ナ・アムーレの町を中心にして道路が四方に延びている。世界の大河、アムール川は、ニコラエフスク・ナ・アムーレの町まで深く切れ込んだタタール海峡(間宮海峡)北端の海に流れ出ている。アムール川流域のボゴロドスコエからは、タタール海峡(間宮海峡)最狭部に面したラザレブまで道が通じている。対岸のサハリンまではわずか7・3キロ。ラザレブの海岸からは、きっとサハリンがはっきりと見えることだろう。今回、我々はリドガから南へ、ハバロフスクを目指すのだが、ぜひとも次回はここから北へ、アムール川の下流からさらに河口一帯をまわりたいと熱い気分で思った。

「スラブヤンカ・モーテル」のレストランで夕食。スープを飲んだあとのメインディッシュはカツレツ。スープにはロシア人の大好きなスメタナ(サワークリーム)が浮かんでいる。日本の「とんかつ」の原型といっていい「カツレツ」はロシアの代表的な料理のひとつになっている。その夜は辛かった。さんざん蚊にやられた…。

 翌朝はいつも通り夜明けとともに起き、早朝散歩を開始。モーテル前の広い駐車場には何台もの長距離バスや大型トラックが止まっている。乗用車も次々にやってくる。大繁盛の「スラブヤンカ・モーテル」だ。我々のウラジミールさんの運転するサポートーカーのトラックも真夜中に到着した。

「スラブヤンカ・モーテル」の周辺には家一軒ない。ハバロフスクとコムソモリスク・ナ・アムーレを結ぶ街道沿いには途切れることなく森林地帯がつづいている。

 2時間ほど歩き、モーテルに戻ると朝食。黒パンと目玉焼き、ハンバーグを食べる。目玉焼きにはソバの実が添えられていた。

 9時、出発。ハバロフスクへ。ハバロフスクとコムソモリスク・ナ・アムーレを結ぶ街道はアムール川の東側を通っているが、川からはかなり離れているので見ることはできない。そこで街道を右折し、10キロほど走ってトロイツカヤの町まで行き、アムール川の河畔に出た。さすが世界の大河。対岸ははるかに遠い。アムール川の全長は4416キロで世界第9位、アジアでは長江、オビ川、エニセイ川、黄河、メコン川につづいて第6位の長さになる。DR-Z400Sを川岸に止めるとカソリ、小石の散りばめられた河原に立ち、「やった!」のガッツポーズ。特別な想いでアムール川を見る。その瞬間、各地で見たアムール川のシーンが走馬灯のように目に浮かんでは消えていった。

 ぼくが初めてアムール川に出会ったのは1977年。列車でシベリアを横断したときのことだ。横浜から船でナホトカに渡り、そこからシベリア鉄道に乗った。ハバロフスクに泊まり、町中を流れるアムール川を見たときは、「おー、これがアムール川か!」と世界の大河に感動した。ハバロフスクからさらにイルクーツクに向かったが、その途中で列車はアムール川最大の支流、シルカ川に沿って走った。

 シベリア横断から20年後の1997年には「モンゴル周遊3000キロ」を走った。 首都のウランバートルを出発するとバイヤン峠を越えた。モンゴル語で峠は「ダワ」という。日本語にすごく似ている。峠には石が積み上げられている。それを「オボウ」という。旅の安全を祈って「オボウ」のまわりを3回、時計回りに回る。バイヤン峠を越えると、大草原の中につづくダートを走る。草原の緑が目にしみる。その中には点々と牧畜民のゲル(テント)を見る。ヒツジやヤギ、ラクダ、馬などの家畜の群れも見る。その草原地帯をゆるやかに流れるケルレン川がアムール川の源流だ。ケルレン川は中国の内蒙古自治区の呼倫湖に流れ込む。呼倫湖から流れ出るアルグン川は中露国境を成し、最大の支流、シルカ川を合わせてアムール川になる。アムール川の中国名が黒龍江だ。

 2002年の「ユーラシア横断」ではロシアのウラジオストクに上陸し、ハバロフスク近郊でアムール川にかかる完成して間もない橋を渡った。ハバロフスクからは中国国境を走り、アムール州の州都、ブラゴベシチェンスクに到着すると、アムール川対岸の中国・黒龍江省の黒河の町を眺めた。

 2004年の「旧満州走破行」では中国・黒龍江省の省都、ハルビンを拠点にして旧満州を走ったが、まずは黒河に行き、今度は黒龍江対岸のブラゴベシチェンスクの町を見た。さらに中国最北の漠河村まで行った。そこは「北極村」。中国では国の最北端を北極という。黒龍江のたもとには「北極」の碑が建っている。内蒙古自治区に入ると、アムール川上流のケルレン川が流れ込む呼倫湖やアルグン川に合流するハイラル川を眺めた。ともにとてつもなく大きい湖だし、とてつもなく大きな川だ。ハルビンに戻ると東へ。黒龍江省の同江では黒龍江と松花江の合流地点、撫遠では黒龍江とウスリー江の合流地点を見た。黒龍江(アムール川)の川幅はこのあたりが一番、広くなっている。黒龍江とウスリー川の合流地点は中国・最東端で「東極」と呼ばれている。そこに中国・公安の目をかいくぐって立った。そんなアムール川に今回の「環日本海ツーリング」で再会した。

 トロイツカヤの町を流れるアムール川沿いに走り、アムール川の流れをしっかりと目に焼き付けたところで、コモソモリスク・ナ・アムーレとハバロフスクを結ぶ街道に戻る。そして我々はハバロフスクを目指して走った。森林地帯が途切れると、アムール川流域の大湿地帯に入っていく。地平線のはてまでつづくかのような大湿地帯。見渡す限りの草原の中に何本かの流れが見える。道路は盛土されているが、大水の時には冠水しそうだ。大湿地帯を抜け出るとまた森林地帯がつづいた。

 森林地帯が途切れたところが、「リドガ→ハバロフスク」間では一番大きな町のマヤック。ここにはガソリンスタンドがある。マヤックを過ぎると交通量が多くなった。道路沿いにバイクを止めて小休止。少数民族ナナイ族の住むというシカチェイリアン村に寄っていこうということになり、地図を見てその位置を確認する。シカチェイリアンはマルウィシェーボという町の近くにある。ハバロフスクへの道を走り出す。道標だけが頼りで走り出したのだが、記されているのはロシア文字の「キリル文字」だけ。キリル文字はまったく読めないカソリ、それらしき地名のところでDRを止めると、後続のバハに乗る新保さんに「これってマルウィシェーボとシカチェイリアンかなあ」と聞いてみる。大当たり。新保さんはキリル文字が読めるのだ。1日も早く、ロシアの道標が英語のアルファベットでも表記されますようになってほしい。その時はきっとロシアも変るだろう。

 ハバロフスクに通じる幹線を右折し、マルウィシェーボの町に通じる道に入っていく。舗装路沿いには森林がつづく。数キロ走ったところで右折し、アムール川に出たところがシカチェイリアン村。ここに少数民族のナナイ族が住んでいる。ナナイ族の若者や子供たちを見ると、あまりにも日本人に似ているので驚かされてしまう。「こんにちは」と日本語で話しかけたくなるほど。ちょうどキリスト教のボランティアたちが来ていてお祭り騒ぎ。子供たちはバイクに乗ってやってきた我々の前でナナイ族の歌を聞かせてくれた。シカチェイリアン村にあるナナイ族の資料館を見学。壁一面に描かれた絵には、アムール川の漁労民が舟に乗り、槍で大魚を突き刺している様子が描かれている。魚肉を焚き火で焼いている様子も描かれている。ナナイ族はアムール川とともに生きてきた漁労民だ。

 2004年の「旧満州走破行」では中国最東端の地まで行ったが、そこで出会った少数民族のホジェン族もナナイ族と同一の民族。やはり黒龍江の漁労民だ。普段はサケやマスなどを獲っているが、彼らはチョーザメの仲間の皇帝魚をも獲る。最大級の皇帝魚になると体長10メートル、重さは何と2トン近くに達するという。乱獲がたたって今では超大物の皇帝魚は激減したとのことで500キロぐらいが大物になっているが、それでも重さ500キロの魚といったらすごいではないか。ホジェン族はそんな黒龍江の誇り高き漁労民。ナナイ族の資料館に描かれている大魚も、この皇帝魚のようだ。

 ロシア領内に住むナナイ族、中国領内に住むホジェン族は名前こそ違うが、アムール川(黒龍江)沿いに住む同一の民族。ナナイ族の人口は約1万人、ホジェン族は約5000人。国境を越えて住む2つの民族にはものすごく心ひかれるものがある。ナナイ族とホジェン族はほんの1例でしかないが、世界にはこのように「国境線」という目に見えない線でもって、ズタズタに分断されてしまった同一民族の例があちこちにある。シカチェイリアン村では少数民族ナナイ族の資料館を見学したあと、アムール川の河原まで行き、悠々とした流れを見た。

 ハバロフスクへの街道に戻ると、道路沿いのカフェで昼食。アゼルバイジャン人のやっている店。我々の人数分の料理はつくれないが、スープなら出せるという。「いいですよ、それで」ということで、黒パンとスープのみというシンプルな昼食を食べた。ハバロフスクに近づくと一気に交通量が増えた。あいにくの雨。雨具を着てハバロフスク市内に入っていく。

 ハバロフスクは人口60万人。ハバロフスク地方の州都になっている。まずは郊外の日本人墓地に行く。広い墓地の一角が日本人墓地になっている。中央には「日本人墓地」と漢字で記された墓石が立ち、その周辺には約300人の日本人の墓がある。大半は終戦後の強制抑留、強制労働で死んでいった人たちだ。

 旧ソ連が日ソ不可侵条約を破棄し、日本に対して宣戦を布告したのは終戦間近の昭和20年8月8日。広島に原爆が投下された後の事だ。なんとも卑怯な宣戦布告としかいいようがないが、まあそれはおいて終戦後、ソ連は約58万人もの日本人をシベリアに強制抑留した。各地の収容所に抑留された多くの日本人は、シベリアの厳しい冬の寒さや苛酷な強制労働で死んでいった。そのような日本人の墓地がシベリアの各地の広い地域にある。

 次に中心街のレーニン広場に行く。そこに我々はバイクを止め、ハバロフスク到着を喜びあった。広場に集まっていたコスプレの若者たちも一緒になって喜んでくれた。ハバロフスク到着のセレモニーを終えると、アムール川に近い高層の「インツーリストホテル」へ。ここが我々のハバロフスクでの宿。連泊することになっている。部屋に入るとカンビールで乾杯。これで2002年の「ユーラシア横断」とつながった。

 2002年の「ユーラシア横断」では富山県の伏木港を出発し、ロシア船で日本海を渡り、ウラジオストク港に上陸。ウラジオストクからハバロフスクにやって来た。そしてイルクーツク、ノボシビルスクを通り、ウラル山脈を越え、モスクワからヨーロッパの国々を通り、ユーラシア大陸最西端、ポルトガルのロカ岬にゴールにしたのだった。このとき、今回のDR-Z400Sで1万6000キロを走ったが、そのDRはすでに10万キロを超えている。

東アジア走破行(17)環日本海ツーリング(2)

 サハリン西岸最大の港湾都市、ホルムスク(真岡)の人口は5万人。サハリンでは第2の都市になっている。我々はホルムスク駅前でバイクを止めたが、ここは正確にいうとホルムスク北駅。ホルムスクにはもうひとつホルムスク南駅があるが、今は使われていないようだ。このホルムスク北駅とホルムスク南駅の間にロシア本土のワニノの渡る鉄道連絡船の出るフェリー埠頭がある。我々はバイクともどもこのフェリーに乗ってワニノに渡るのだ。フェリーは1日1便。出港は14時とのことだが、それが夕方に延びた。

 ホルムスク駅構内のカフェでパンとスープ、ジャガイモと豆を添えた肉料理を食べたあと、ホルムスクの南へ、日本海の海岸まで行ってみる。

 フェリー埠頭前を通り、ホルムスク南駅前を過ぎると跨線橋で線路をまたぐ。この鉄道はサハリンの西海岸を縦貫する西部本線で南はネベリスク(本斗)からシャフタに通じている。稚内と姉妹都市になっているネベリスクは戦前、稚内から稚斗連絡船の出ていた港町。稚内と大泊(コルサコフ)を結ぶ稚泊航路の連絡船は1日2便で、稚内と本斗を結ぶ稚斗連絡船は1日1便だったという。

 西部本線の跨線橋の上からは旧王子製紙真岡工場がよく見えた。1991年の「サハリン周遊」ではホルムスク港に上陸したが、そのときは王子製紙の工場がそのまま使われ、工場からは黒い煙が立ち登っていた。今は煙突から煙は立ち登っていないが、その一部はまだ使われているようだ。王子製紙の工場はオホーツク海側の敷香(ポロナイスク)工場が最大で、2000年の「サハリン縦断」の時には王子製紙の工場がそのまま使われていた。サハリンの西海岸では、ホルムスクの北の野田(チェーホフ)と泊居(トマリ)、それと恵須取(ウグレゴルスク)に王子製紙の工場があった。このように王子製紙は日本時代の樺太に大きな足跡を残している。

 旧王子製紙の工場前を走り過ぎ、しばらく行くと舗装路は途切れ、ダートに突入する。海を右手に見る地点でバイクを止め、我々はここを「日本海最北の地」とした。新潟からホルムスクまで日本海に沿って走ってきたが、日本海の境界は別に線が引かれている訳でもないので、どこまでが日本海なのか、特定するのは難しい。

 日本国内では津軽半島最北端の龍飛崎と北海道最南端の白神岬を結ぶ線が境になっている。その線よりも西側が日本海になる。北海道とサハリン間では日本最北端の宗谷岬とサハリン最南端のクリリオン岬を結ぶ線が境になっている。やはりこの線よりも西側が日本海になる。稚内港から乗ったフェリー「アインス宗谷」は日本海の稚内港を出港し、宗谷海峡を越え、オホーツク海側のコルサコフ港に入港したが、難しいのは日本海の北端だ。 日本海の北端はタタール海峡(間宮海峡)との境ということになるが、タタール海峡の南端がどこであるかを見極めるのが非常に難しい。そこで我々はホルムスクをタタール海峡の南端とし、ホルムスクからネベリスクに向かって見た初めての海を最北の日本海ということにした。

「ここが日本海の一番北!」と高揚した気分で狭い砂浜を歩き、その記念だとばかりに岸辺に浮かぶ日本海最北のコンブをむさぼり食った。地球をガブリとかみしめるような味がした。

 最北の日本海を見たあと、ホルムスク(真岡)に戻り、レーニン像の建つレーニン広場でバイクを止めた。ホルムスク市民のみなさんは目ざとく我らのバイクを見つけて集まってくる。ロシア語で質問されたが、「スパシーバ(ありがとう)」と「ハラショー(すばらしい)」、「ニェット(ノー)」ぐらいしかロシア語を知らないカソリ、「これからフェリーでワニノに渡り、ハバロフスクに向かっていきます」と身振り手振りを交えていうと、みなさんは「わかった、わかった」という顔をした。

レーニン広場では広場前のショッピングセンターを見てまわり、観客席のついたサッカー場をぐるりとひとまわりしてみた。レーニン広場に戻ると、イギリスの高級車ジャガーでシベリアを横断してきたロシア人チームがやってきた。モスクワを出発し、ウラル山脈を越えてシベリアを横断。ワニノからフェリーでホルムスクに渡り、これからユジノサハリンスクに向かうという。ゴールはウラジオストク。彼らは「モスクワ→ウラジオストク」をテレビ番組で流しているとのことで、我々も写真をとられ、インタビューに答えて取材に協力した。

 レーニン広場からはホルムスクの中心街を走り、ホルムスク港を見下ろす高台へ。そこにある真岡神社跡を歩く。石段はそっくりそのまま残り、手水鉢や「馬頭観世音」と彫り刻まれた石柱も残っている。真岡神社跡は今では「サハリン船舶会社」の敷地になっている。手入れの行き届いた会社内のきれいな庭園を歩いたが、北海道遺産にも指定されている「螺湾ブキ」のような大きなフキが見られた。

「ホルムスク探訪」を終えてホルムスク駅に戻ってきた。するとロシア本土のワニノ港に向かうフェリーの出港はさらに遅れ、夜になるという。時刻表などあってなきがごとしなので、出港時間はあてにならないと覚悟していたが、ここは日本とはあまりにも違う世界。最初は午後2時頃の出港だと聞いていたが、それが夕方になり夜になった。ほんとうに夜に出るのか、それも疑問だ。

 我々は急きょ、フェリー埠頭近くの「ホルムスクホテル」に入った。ホテルの駐車場にバイクを止めると、歩いて船会社に行く。そこでは10枚近い書類に1人づつサインをする。大仕事だ。それを終えるとホルムスク駅のカフェで夕食。オランダ製ビールで乾杯。そのあとスープとライス&チキンの夕食を食べた。

 ホルムスク駅からは夕暮れのホルムスク港を見ようと、目抜き通りのソビエツカヤ通りを歩く。大通りに面してホルムスク郵便局がある。ここが稚内の「九人の乙女の碑」の舞台になった真岡郵便電信局跡。昭和20年(1945年)8月20日、真岡は旧ソ連軍の猛攻を受けた。戦火の中、最後まで真岡郵便電信局を死守した9人の女性電話交換嬢はもはやこれまでと、「みなさん、これが最後です。さようなら…」の言葉を残し、青酸カリを飲んで集団自決した。我々日本人が絶対に忘れてはいけないのは、旧ソ連軍は8月15日の終戦以降、日本領樺太に攻めてきたということだ。これが昔も今も変らないロシアの体質。戦後日本の最大の幸運は北海道が旧ソ連に占領されなかったことだ。もし北海道が旧ソ連に占領されていたら、歯舞、色丹、国後、択捉の北方四島と同じように、戦後60余年たっても日本に返還されることは絶対になかったといっていい。

 ホルムスク港を一望する港公園まで行く。そこで明かりの灯りはじめた港を見ていると、日本人グループのライダーがやってきたことを聞きつけて、ホンダのアフリカツインに乗ったロシア人ライダーのオレッグが来てくれた。しばし英語を交えてのバイク談義を楽しんだ。

「ホルムスクホテル」に戻ると、ワニノ行きのフェリーの出港はさらに遅れ、夜明けになるという。そこでホテルでひと眠りして、真夜中の2時起床ということになった。ホルムスクからワニノにフェリーで渡るのは大変なこと。青森から津軽海峡フェリーで函館に渡るようなわけにはいかないのだ。

「ホルムスクホテル」ではさんざん蚊にやられ、何度も目がさめてしまった。真夜中の午前2時、起床。蚊にやられたので何とも目覚めが悪い。それでも「さー、これでタタール海峡(間宮海峡)を渡ってワニノだ!」と思うと、元気が湧き出てくる。
 ホテルの駐車場から我々は各自のバイクに乗って走り出す。道路をはさんで反対側のフェリー埠頭へ。車両乗場の近くにバイクを止めた。あとはひたすら夜明けを待つ。耐えがたいほどの長い時間。ついに夜が明けた。だが出港はさらに遅れ、朝の7時頃になるという。もうガックリ…。

 明るくなったところで我々の乗るフェリー「サハリン7」を見てまわった。6時過ぎになると積み込まれていた大型トラックが「サハリン7」から降りてくる。しかしスムーズにはいかない。何度もハンドルを切り返し、やっとという感じでの降り方。日本のフェリーとは大違い。つづいて貨物列車が降りてくる。この「ホルムスク-ワニノ」間のフェリーは鉄道連絡船。大陸は広軌でサハリンは狭軌とゲージが違うので、ホルムスク港には台車交換場がある。船内の線路は広軌だ。

 ホルムスク港の出港はまたまた遅れ、8時になるという。もうこうなると、なるようになれという気分。大型トラック、つづいて貨物列車が乗船し、最後に我々のバイクが乗船した。各自持参のロープでバイクを固定し、ついにバイクを乗せた。我々は「サハリン7」の乗客用乗船口にまわり、こうして船上の人となる。「サハリン7」の出港は午前9時。最初聞いていたのは前日の午後2時なので、じつに19時間遅れてのホルムスク出港となった。

「サハリン7」はホルムスク港を出港。ホルムスク港が遠ざかり、港外に出ていく。ロシア製カンビールを持って甲板に立ちつくし、タタール海峡(間宮海峡)の海上からホルムスクの港と町並みを眺めた。遠ざかっていくホルムスクを見ていると、1991年の「サハリン周遊」が思い出されてならなかった。そのときは稚内港でロシア船の「ユーリー・トリフォノフ号」(4600トン)にバイクともども乗り込んだ。最初はコルサコフに向かう予定だったが、稚内港を出ると、急きょ、行き先がホルムスクに変更された。ということでホルムスクに上陸し、ユジノサハリンスクに向かったのだ。

 ユジノサハリンスクを拠点にしてサハリン南部をまわり、最後にまたホルムスクに戻ってきた。そして「ユーリー・トリフォノフ号」に乗船した。それは1991年8月19日のことで、出港したのは15時15分だった。「ユーリー・トリフォノフ号」がホルムスク港の港外に出たとき、船内は騒然とする。ソ連にクーデターが発生し、ゴルバチョフ大統領がクリミアで軟禁されたというニュースが飛び込んできたからだ。緊迫した時間が過ぎていく。船はこのまま稚内に向かうのか、それともホルムスクに引き返すのか…。まさに手に汗を握るような時間の経過だった。

 何ともラッキーなことに、「ユーリー・トリフォノフ号」はホルムスク港を出たということで、そのまま日本海を南下し、稚内港に向かうことになった。速力をガクンと落として海上に漂っていた船は再度、速力を上げた。もし1991年8月19日のクーデターがもう30分、早く発生していたら、船はホルムスク港を出港することなく、そのまま港に停泊しつづけたことだろう。そのときはいつ稚内に帰れたことやら…。クーデターは結局、失敗に終った。だが世界最大の連邦国家、ソ連邦は8月19日を機に、一気に崩壊への坂道をかけ下っていく。ぼくはサハリンのホルムスクで、世界の現代史の大きな一場面に出くわしたのだ。

「サハリン7」はロシア本土とサハリンの間のタタール海峡(間宮海峡)に出ていく。ホルムスクの町並みがいつまでも見えている。「サハリン7」はすぐにタタール海峡(間宮海峡)を横切るのではなく、サハリンの沖合いを北上。ホルムスクを出発して1時間ほどすると、「ワニノ→ホルムスク」のフェリーとすれ違った。

 ぼくは船の甲板から海を見るのが好きだ。ロシア製ビール「バルチカ7」のロングカンを飲みながら、タタール海峡(間宮海峡)の青い海と青く霞むサハリンの山並みを眺めつづけた。サハリンの西海岸にはホルムスクの北にチェーホフ(野田)、トマリ(泊居)、イリインスク(久春内)といった町々が点在しているが、「サハリン7」はその沖合いを通っていく。1991年の「サハリン周遊」ではホルムスクからチェーホフへとタタール海峡(間宮海峡)沿いの道を走った。バイクに乗りながら、何度、「間宮海峡を越えたい!」と思ったことか。あれから20年、今、その夢をかなえている。

「サハリン7」はサハリン西岸の沖を北上し、イリンスク(久春内)沖を過ぎたあたりで進路を北から北西に変え、タタール海峡(間宮海峡)を横断する。ロシア本土とサハリンの間のタタール海峡(間宮海峡)は長さ660キロ。一番幅の狭いところではわずか7・3キロでしかない。ところでタタール海峡だが、なぜ「タタール」なのか、よくわからない。タタールといえばウラル山脈よりも西のタタール人の国、ロシアのタタールスタン共和国を連想する。首都はカザン。きれいな町だ。そのタタールとタタール海峡がどういう関係なのか。かつてアジア系のタタール人はユーラシア大陸の広範な地域にすんでいた。その東に住んでいたのが韃靼(だったん)人。韃靼海峡がタタール海峡になったという説もあるらしい。

 タタール海峡は日本では間宮海峡といわれている。幕府の命を受けて樺太を探検した間宮林蔵が文化5年(1808年)に発見し、シーボルトがヨーロッパに伝えたことによるものだ。宗谷岬には間宮林蔵の像が、宗谷岬近くには間宮林蔵の渡樺の地碑が建っている。間宮林蔵の探検によってロシア本土とサハリンの間の海峡が発見され、サハリンが島であることがわかったのだが、この地方に住む北方民族はそのはるか以前から海峡の存在を知っていたし、サハリンが島であることも知っていた。

「サハリン7」がサハリン沖を離れ、海峡横断ルートに入ったところで船内のレストランで黒パンとスープ、サラダの昼食。そのあとは我ら何人かのメンバーとの飲み会を開始。ビールとウオッカを飲み、地図をテーブルに置いてさんざん日本海を語り合った。そして船室で爆睡だ。

 目をさますとすぐに甲板に上がった。「サハリン7」の進行方向の水平線上には、かすかにロシア本土が見えている。やがて海岸線に沿って長く延びるシホテアリニ山脈のなだらかな山並みが見えてくる。山々がそのまま海に落ち込んでいるので海岸線に道路はなく、集落もない。 タタール海峡の夕暮れ。水平線上のワニノの町明かりが見えてくる。「サハリン7」は町明かりに向かって突き進み、ホルムスク港を出てから10時間後の19時にワニノ港に到着した。

 ロシア本土に上陸すると港近くの「ワニノホテル」に泊まった。翌朝は夜明けとともに起き、ワニノの町を歩いた。
 ワニノはタタール海峡(間宮海峡)のワニノ湾に面したロシア極東の港町で人口4万人。1874年にこの一帯の地図を作った探険家ワニノの名前に由来している。

 バム鉄道(バイカル・アムール鉄道)がワニノを通っている。バム鉄道はワニノの南15キロのソビエツカヤ・ガバニが終点になっている。「ワニノ探訪」の第一歩はワニノ駅。「ワニノホテル」の前がワニノ駅だ。ソビエツカヤ・ガバニに通じる道を渡り、跨線橋を渡って駅構内に入っていく。前日の「サハリン7」で一緒だった若者たちと再会。彼らは駅舎内でひと晩眠り、アムール川沿いの町、コムソモリスク・ナ・アムーレ行きの列車を待っていた。

 コムソモリスク・ナ・アムーレとワニノ間の鉄路が完成したのは1945年。この鉄道の完成によってワニノは急速に発展した。バム鉄道のワニノ駅は、シベリア鉄道終点のウラジオストク駅やその支線終点のナホトカ駅、バム鉄道終点のソビエツカヤ・ガバニ駅よりも東に位置し、ユーラシア大陸最東端の駅になっている。

 ところでバム鉄道(バイカル・アムール鉄道)だが、シベリア鉄道のタイシェット駅で分岐し、バイカル湖の北を通り、タタール海峡(間宮海峡)のワニノからソビエツカヤ・ガバニに至る全長4324キロの鉄道。日本でいえば青森駅から鹿児島中央駅まで行って帰ってくるような距離。あらためて大陸の大きさを思い知らされる。ブラーツクのアルミやヤクート炭田の石炭などはバム鉄道でワニノに送られ、日本に輸出されている。

 ワニノ駅の待合室のベンチに座っていると、バム鉄道起点駅のタイシェットがなつかしく思い出されてならなかった。2002年の「ユーラシア横断」では、今回使用しているDR-Z-400Sでウラジオストクに上陸。ユーラシア大陸最西端のロカ岬を目指し、ハバロフスク、チタ、イルクーツクと通ってタイシェットに到着したのだ。

 タイシェットでは駅前ホテルに泊まった。ペリメニ(水餃子)とオリーブ入りサラダの夕食のあと、タイシェット駅に行った。ちょうどモスクワ発北京行きの12両編成の列車が到着したところだった。チタでシベリア鉄道と分れ、国境の満州里からハルビンを経由して北京まで行く列車。最後尾の1両はハルビン行きになっていた。

 駅前ホテルに戻ると、カフェでビールを飲んだ。そこではターニャとイラ、2人のロシア人女性と一緒になった。ぼくはターニャにすっかり気に入られたようで、手をつかまれ、スピーカーから流れてくる大音量の音楽に合わせて彼女と踊った。夜がふけてきたところで、ターニャに「ドスビダーニア(さよなら)」といって部屋に戻ろうとした。するとターニャは「まだ、帰っちゃダメよ」といって、ぼくをギュッと抱きしめ、豊満な胸をゴリゴリッと押しつけてくる。そして「ブチュッ」という感じでキスするのだ。まわりのギャラリーはやんやの喝采。ワニノ駅の待合室で、10年前のそんなシーンが蘇ってくる。それがぼくにとってのバム鉄道だ。

 さらにワニノの町を歩く。ワニノ駅前から真っ直ぐ行く道はバム鉄道の終点、ソビエツカヤ・ガバニに通じているが、灯台の立つ交差点を右に折れるとワニノの中心街。早朝の灯台はまだ明かりを投げかけていたが、いかにも港町ワニノを感じさせる光景。世界広しといえども交差点の灯台というのはそうあるものではない。ワニノの灯台から登っていく坂道の両側には高層住宅が建ち並んでいる。その1階は商店街。坂道を登りつめたところがロータリーの交差点で周囲は公園になっている。そこにワニノ市役所がある。

 1時間ほどワニノの町を歩き、「ワニノホテル」に戻ると朝食。クレープとオムレツを食べた。さー、アムール川を目指して出発だ!
著者・管理人

Author: 賀曽利隆
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