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世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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Category: 東アジア走破行

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東アジア走破行(20)環日本海ツーリング(5)
 我々がウラジオストク港に到着したのは14時。ギリギリ「セーフ!」といったところだ。港内に入り、韓国の東海から日本の境港まで行く韓国船のフェリー「イースタンドリーム号」の停泊する岸壁前でバイクを止めた。ウラジオストクの道路工事区間で泥まみれになっていたが、洗い流さなくてもいいということで助かった。バイクの手続きも乗船手続きも、すべて「道祖神」の菊地さんとガイドの東さんがやってくれるので、我々はウラジオストク港で解放された。船の手続きがおおいに心配だったので、ほっとした気分だ。

 ウラジオストク港からシベリア鉄道のウラジオストク駅へ。港と駅は隣接していて道を1本、渡るとウラジオストク駅。長いプラットホームには20両編成のソビエツカヤ・ガバニ行きの列車が停車していた。この列車はシベリア鉄道でハバロフスクまで行き、支線でコムソモリスク・ナ・アムールへ。そこからバム鉄道でシホテ・アリニ山脈を越え、我々のロシア本土上陸地点のワニノを通り、終点のソビエツカヤ・ガバニまで行く。列車に乗り込む人たちの姿を見ていると、思わず飛び乗りたくなるような衝動にかられた。

 ウラジオストク駅のホームには第2次大戦中に活躍した蒸気機関車が展示されている。その先にはキロポスト。モスクワまでのキロ数の「9288」が表示されている。

 20両編成のソビエツカヤ・ガバニ行きが発車。列車がウラジオストク駅のホームを離れ、見えなくなったところで古典的なウラジオストク駅の駅舎を歩いた。この駅舎は19世紀後半に造られた純ロシア様式で異国情緒を漂わせている。

 こうしてウラジオストク駅を歩いていると、1977年に列車でシベリアを横断したときのことが思い出される。ロシア船「バイカル号」で横浜港からナホトカ港に渡り、シベリア鉄道の支線から本線へ、そしてハバロフスク、イルクーツク、ノボシビルスクを通ってウラル山脈を越え、モスクワまで行った。その当時、ウラジオストクは軍港ということで、外国人の立入は一切禁止されていた。立ち入ることのできないウラジオストクということもあって、よけいに憧れはふくらみ、何としてもシベリア鉄道の終点駅であり、始発駅でもあるウラジオストク駅を見たいと思った。ぼくにとってウラジオストク駅というのは長年に渡る憧れの地だったのだ。

 ところで日本海に面したロシア沿海州の港町ウラジオストクは日本語ではウラジオストックとかウラジボストークなどとも表記されるが、ロシア語ではウラジヴォストークで、ウラジは「支配する」、ヴォストークは「東方」を意味する。ロシアの東方支配の拠点として造られた町でその歴史は新しい。1860年に町の建設が始まり、1870年代にはロシア極東の主要な港湾都市になった。さらにロシア極東艦隊の根拠地になっていく。

 19世紀の後半にはシベリア鉄道の日本海側起点駅、ウラジオストク駅が完成する。日本語ではかつて「ウラジオ」といっていたが、それはウラジオストクを漢字で「浦塩(潮)斯徳」と書いていた名残。「浦塩斯徳」を短くした「浦塩」の呼び名が定着したからだ。ぼくが子供の頃は「ウラジオ、ウラジオ」といっていた。ラジオのNHK第2で「ウラジオ、気温0度、風力2」というような天気情報を聞いていた記憶がある。なぜか韓国のモッポー(木浦)とソ連のウラジオ(浦塩)の地名が子供心に残り、「ウラジオ」と聞くと、遠い異国の地を連想したものだ。

 ウラジオストクの町の建設がはじまった1860年は「北京条約」の締結された年。対ロシアとの北京条約は11月14日に結ばれた。1858年にロシアと中国は「アイグン条約」を締結した。この条約によってロシアと中国の国境はほぼ確定した。アムール川(黒龍江)右岸を中国領、左岸をロシア領とし、さらにウスリー川から日本海・オホーツク海に至る外満州(今の沿海州)は両国の共有地にした。そのことは前にもふれた。

 1860年の北京条約では1858年のアイグン条約が確認されたが、それのみならず、ロシア・東シベリア総督、ムラビエフの武力を背景とした豪腕で、両国の共有地の外満州を一方的にロシア領にしたのだ。衰退した中国・清朝はロシアに領土を強奪された。「強盗ロシア」の面目躍如といったところだが、その北京条約締結前からロシアはウラジオストクの町の建設をはじめていた。日本海の不凍港はロシアにとっては喉から手が出るほど、欲しいものだった。中国では今だに超不平等条約の北京条約は無効だという声が強く、とくに旧満州(中国東北部)では、各地でけっこう激しい領土返還運動がおこなわれている。

 今回の我々のルートはワニノに上陸し、シホテ・アリニ山脈を越え、アムール川の右岸地帯を走り、ハバロフスクからウスリー川沿いにウラジオストクへ、というもの。本来はこのルートのすべてが中国領内になる。ハバロフスクも中国領内に造られた町なのだ。国力が弱まると、領土はむしりとられていく。その典型を見るような地域を我々はバイクで走ってきたわけだが、国と国の関係というのはそういうもの。「ワニノ→ハバロフスク→ウラジオストク」というのは、弱肉強食の世界を記述した教科書のようなものだ。

 ウラジオストクはムラビエフ・アムールスキー半島南端の町。ムラビエフ・アムールスキー半島は広大な領土を自国領としたロシア東シベリア総督、ムラビエフにちなんだ半島名で、領土強奪の親分の名前がウラジオストクの半島名になっている。ムラビエフは1859年に黒船7隻を率いて江戸湾にやってきた。日本国内の混乱を見抜いてのことだが、江戸の町がロシアに強奪されなくてほんとうによかった。もし強奪されていたら、今ごろ東京は「ムラビエフ」になっていた。

 シベリア鉄道の終着駅、ウラジオストク駅は離れがたく、しばらくは何するでもなしに待合室のベンチに座わっていた。長距離列車の出発案内板には、14時30分発のハバロフスク行きと15時30分発のモスクワ行きが電光掲示されている。「いやー、たまらん、モスクワ行きの乗りたい!」と思ってしまう。

 待合室のベンチを立ち上がると、駅舎内の時刻表や料金表、近郊の路線図などを見てまわった。ロシア語の表示のみなので、「これは到着の時刻だな」、「これは発車の時刻だな」と、自分勝手の推測をしながら楽しんだ。シベリア鉄道本線のウスリースクまで行く列車、ウスリースクからやってくる列車の本数は断トツで多い。

 近郊路線図は興味を引かれた。シベリア鉄道のウゴリナヤ駅で分岐する支線が日本海の港町ナホトカに通じている。思わず1978年の列車でのシベリア横断を思い浮かべたが、「そうか、あのときはこの路線を通ったのか」と、妙に納得した気分になった。ナホトカからさらに路線が延びているのにはちょっと驚かされた。「まだその先、路線がつづいていたのか」といった驚きだ。

 名残おしいウラジオストク駅をあとにし、駅舎を離れる。駅前はタクシー乗場、バスターミナルになっている。駅前通りを歩いていく。今や世界中で大ブーム、というよりも、すでに世界中に定着したかのような「スシバー」の店がある。24時間営業の酒店がある。そして海を見下ろす高台の上にある「アジムットホテル」に到着。ここが我々のウラジオストクでの宿になる。

「アジムットホテル」にチェックインすると、すぐさまホテルを出発し、「ウラジオストク探訪」を開始。「アジムットホテル」は海を見下ろす高台に建つホテルだが、まずはその海を見下ろした。ウラジオストクは日本海のピヨトール大帝湾の奥に位置しているが、前にもふれたように、ムラビエフ・アムールスキー半島の先端部に町は出来ている。半島は海を2つの湾に分けているが、東側がウスリースキー湾で西側がアムールスキー湾になる。「アジムットホテル」前から見下ろす海は西側のアムールスキー湾になる。

 もうすこしウラジオストクの地形を語ると、ムラビエフ・アムールスキー半島の先端に鍵型に切れ込んだ海が金角湾で、そこにウラジオストク港がある。対岸はルースキー島。半島と島の間の海峡は東ボスポラス海峡になる。ボスポラス海峡といえばトルコのアジアとヨーロッパを分ける海峡だが、それにちなんでこの海峡を東ボスポラス海峡とした。地球を手玉にとるような、気宇壮大な気分にさせてくれる海峡名ではないか。サハリンとロシア本土の間の、訳のわからないタタール海峡よりはよっぽどいい。

「アジムットホテル」からアムールスキー湾の海岸に下り、遊歩道を歩いていく。海辺の公園を抜けるとヨットやボート専用の小港に出る。そこの岸壁では何人かの人たちが釣りをしていた。岸壁の突端に立つと、アムールスキー湾対岸の中国国境、北朝鮮国境へとつづくロシア本土の山並みが見えた。

 アムールスキー湾の海辺を歩いたあとは、ひたすらウラジオストクの町を歩いた。市内地図もないので、足の向くまま、気の向くままに歩きつづけた。バイクでウラジオストクまでやってきあとの町歩きは楽しい。ロシア正教の教会をのぞき、表通りから路地裏へと入っていく。1階は店、2階が住居になっている建物。そんな建物の店も1軒づつ見ていく。居酒屋の類はまだ店を閉めている。「ドブルジェニー(こんにちは)」とひと声かけて、街角のタバコ屋にも入ってみた。でっぷり太った店のオバチャンのニッコリと笑った笑顔が忘れられない。しかし、タバコを吸わないカソリ、「ドスビダーニア(さようなら」といってすぐに店を出た。

 歩きながらウラジオストクが「アジア極東の町」であるのと同時に、「ヨーロッパ最東端の町」であることをも強く感じるのだった。

 ウラジオストクの町歩きはさらにつづく。目抜き通りの交通渋滞はものすごい。M60(国道60号)でウラジオストクの市内に入ってくるときの大渋滞を思い返したが、この10年あまりの車の増え方には目を奪われてしまう。走っている車の大半は日本車。それも10年前と比べると、新車、もしくは比較的新しい車が格段に多くなっている。

 ウラジオストクはムラビエフ・アムールスキー半島という半島突端の町なので、道路の新設、増設はなかなか難しい。交通渋滞はこれからのウラジオストクのかかえる一番大きな問題になりそうだ。この難問をどう解決していくのか。中心街のバス乗場も大勢の人たちで込み合っていた。満員のバスが次から次へと出ていくの飽きずに眺めていたが、「ウラジオストクには地下鉄が必要だな」と思ったりもした。雨がけっこう激しく降ってきたところで「バス停ウオッチング」を終了。濡れながら歩き、「アジムットホテル」を目指した。

「アジムットホテル」に戻ってくると、中国人旅行者が大挙してやってきた。黒龍江省ナンバーの観光バスやマイクロバスでやってきた人たちが多い。ホテルのロービーには大声で話す中国人たちの中国語が飛び交う。怒号も飛び交う。ちょっとした戦場のような様相だ。

「アジムットホテル」のレストランで夕食。我らメンバーは、無事、ウラジオストクに到着したので喜びの「乾杯!」。「それにしてもあの道、すさまじかったねえ!」と、話題はもっぱらウラジオストクに入るM60の「大渋滞」。それと「泥ハネ」だ。過ぎてしまえば忘れられない思い出になる。そんな体験の共有が、我らメンバーの連帯感をいっそう強いものにする。夕食を食べ終わると、まだ十分に明るいので、ウラジオストク駅、ウラジオストク港まで歩いていく。ありがたいことに天気は回復していた。

「アジムットホテル」を出ると、まぶしいくらいの夕日がアムールスキー湾をキラキラと黄金色に染めていた。ウラジオストク駅まで行くと、シベリア鉄道の20両編成の電気機関車と先頭車両を見、最後尾の車両までホームをプラプラ歩いた。ウラジオストク駅の次はウラジオストク港。ターミナルビルのテラスから夕暮れの港を一望。目の前に停泊している我々の乗るフェリー、「イースタンドリーム号」には明かりが灯りはじめていた。

 2012年8月17日。いよいよウラジオストク出発の朝を迎えた。夜明けとともに起き、「アジムットホテル」からウラジオストク駅まで歩いていく。駅舎内のガランとした待合室で何するでもなしにしばらく過ごし、次に跨線橋の上から4面7線のホームを見下ろした。まだ人影はまばら。そこにライトを灯けた電気機関車が入線してくる。つづいてウラジオストク港へ。ターミナルビル2階のテラスは絶好の展望台。そこから金角湾奥のウラジオストク港を一望する。停泊しているフェリー「イースタンドリーム号」の前には、我々のバイクがズラリと並んでいる。8時前に「アジムットホテル」に戻り、バイキングの朝食を食べた。

 いよいよ「アジムットホテル」を出発し、ウラジオストク港のフェリーターミナルへ。乗船まで時間があるのでターミナルビル内のみやげもの店などをのぞいていく。奥には鳥取県の「ビジネスサポートセンター」があった。ウラジオストクからのフェリーが鳥取県の境港まで行くからなのだろう。何の用もないのに中に入ると、案内の若いロシア人女性が日本語で話しかけてきてくれた。「こんにちは、さようなら」で「ビジネスサポートセンター」を出たが、ロシア美人に出会えてすごく得した気分になった。

 ターミナルビル内のレストランで昼食にする。ケース内にはいろいろな食べ物が並んでいたが、小銭程度のルーブルしか持っていないのでグッと我慢し、見るだけにした。注文したのはハンバーガーとグラスビールのみ。これで220ルーブル(約616円)。手持ちのルーブルをすべて使いきると、「あー、これでロシアとも、お別れだなぁ…」という気分になった。そんな寂しさを紛らわすように、ゆっくりとビールを飲みながらハンバーガーを食べた。

 ついにウラジオストクを離れる時がやってきた。13時、乗船手続き&出国手続きを終えると、鳥取県の境港行きのフェリー「イースタンドリーム号」に乗船。船内の売店に直行し、カンビールを買う。売店では日本円が使える。バドワイザーが1本400円と安くはないが、缶には1ドル紙幣が貼り付けてある。1ドルのキャッシュバックということで、実質的には1本300円ほどになる。そんなバドワイザーを持って甲板に上がった。

 カンビールを飲みながら船上からウラジオストクを眺める。これがたまらない。ウラジオストク港は前にもいったように鍵型に奥深くまで切れ込んだ金角湾にある。フェリーターミナルのすぐ近くの埠頭には白い客船が停泊している。その先は軍港。停泊しているロシア極東艦隊の艦船が数隻、見える。金角湾の対岸やルースキー島に渡るフェリーが頻繁に行き来している。それらのフェリーは人や車を満載にしている。これもダイナミックに動くウラジオストクの一面だ。

 金角湾をまたぐ橋が建設中。爆発的に発展するウラジオストクを象徴するかのような大橋の建設工事だが、さらにもう1本、東ボスポラス海峡をまたいで対岸のルースキー島に渡る大橋も建設中。これら2本の橋は韓国企業が造っている。韓国のウラジオストクへの進出ぶりには目を見張らされるものがある。ウラジオストクでは2012年9月にAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議が開かれる。その会場がルースキー島。これら2本の大橋はそれに合わせて完成させるという。新国際空港も完成間近。APECの開催はウラジオストクを大きく変えようとしていた。

「イースタンドリーム号」に乗船してから2時間後の15時、ウラジオストク港を出港。ターミナルビルがみるみるうちに離れていく。ウラジオストクの町並みが遠ざかっていく。ウラジオストク港の埠頭が遠ざかっていく。「イースタンドリーム号」はタグボートに引かれ、金角湾から東ボスポラス海峡に出ていく。タグボートは海峡に出たところでウラジオストク港に戻っていった。東ボスポラス海峡を跨ぐ建設中の大橋がよく見える。この大橋はルースキー島連絡橋。2本の橋脚間の距離が1104メートルで、完成すれば日本の本四連絡橋のひとつ多々羅大橋を抜いて、世界最大の斜長橋になるという。斜長橋とは塔から斜めに張ったケーブルで橋桁を支える構造の橋。つり橋の一種といえる。日本では横浜ベイブリッジや青森ベイブリッジが斜長橋だ。

「イースタンドリーム号」はルースキー島をまわり込むようにして、東ボスポラス海峡から日本海のピヨトール大帝湾に出ていく。ルースキー島を離れたとき、「ドスビダーニア(さようなら)、ウラジオストク!」、「ドスビダーニア(さようなら)、ロシア!」と叫んでやった。

「イースタンドリーム号」は日本海のピヨトール大帝湾を南下。ウラジオストクもルースキー島も遠くなった。ピヨトール大帝湾のルースキー島の南には点々と小島が点在しているが、それらはすべてが無人島のようだ。

「イースタンドリーム号」の乗客の大半は韓国人で、そのほかロシア人がちらほら見られた。日本人は我々のほかには2、3人といった程度。韓国人はツアー客が多いようだ。

 甲板に日本海の地図を広げて見ていると、何人かの韓国人がやってきて激しい口調で何かいっている。ぼくはすぐにピンときた。「わかった、わかった」という顔をして、「日本海」の下に「東海」と書いた。それを見て韓国人たちは納得の表情を浮かべて立ち去った。何という狭量なナショナリズム。韓国では日本海のことを東海といっている。日本から見たら西海ではないか。それを世界中で「日本海を東海にしろ!」と声高に叫びまわっている。韓国人は本気なのだが、我々の目から見たら何とも滑稽な話で、おかしな民族だと思ってしまう。

 このような例は世界中のあちこちにある。例えば「ペルシャ湾」はペルシャ人のいい方で、アラビア人は「アラビア湾」といっている。中朝国境の「白頭山」も、中国人は「長白山」といっている。韓国が中国に、「長白山を白頭山にしろ!」と抗議したというような話は聞いたことがない。日本海の呼称問題は、要は「日本」が気にくわないだけのことだ。長い日韓の歴史でいえば、韓国人にとって日本は蛮族の住むところぐらいでしか見ていなかった。こともあろうに100年前、そんな蛮族の国、日本に韓国は併合され、民族の誇りはズタズタにされてしまった。それが現在までズーッと尾を引いている。しかし今日、韓国は世界でも有数の経済大国になった。「もうそろそろ狭量のナショナリズムは捨て去りましょうよ」と、船上の韓国人たちにいいたかった。

「イースタンドリーム号」は韓国の東海港を目指して日本海を南下。甲板から飽きずに日本海を見ていると、同じように海を見ていた韓国人のチェ・ジュンホさんに声をかけられた。日本語の上手な方。話をしているうちに、チェさんは韓国・慶尚北道の金泉にある金泉高校の先生であることがわかった。金泉はチェさんの故郷。この地で生まれ、この地で育った。大邱と大田のほぼ中間に位置する金泉は、この地方の商業の中心地。韓国の新幹線KTXも停まるという。

 チェ先生は全部で18人の生徒をひきつれてウラジオストクへ研修旅行に行った、その帰りなのだという。18人の生徒というのがすごい。小中高生の18人で韓国全土から来ている。全員が読書感想文のコンクールで入賞したみなさん。ウラジオストクの研修旅行というのは、入賞のご褒美なのだ。全員が将来の韓国を背負う韓国の頭脳といっていい。「ぼくは今まで40数年間、バイクで世界を駆けめぐってきました」といっただけだが、チェ先生には、「カソリさん、明日、ぜひとも生徒たちに話をして下さい」と頼まれた。ぼくが日本語で話し、それをチェ先生が韓国語に通訳してくれるという。チェ先生の人柄の良さもあってカソリ、「いいですよ!」と快く引き受けた。

 チェ先生と別れると、レストランで夕食を食べ、ふたたび甲板へ。夕日に輝く日本海を見る。やがて真っ赤な夕日が日本海の水平線に落ちていく。「イースタンドリーム号」は北朝鮮沖の暗い海を南下したが、このあたりが一番西の日本海になる。

 翌朝は目をさますとすぐに甲板に上がり、夜明けの日本海を見た。どんよりとした曇空。水平線上には厚い雲がかかっている。日本海には波もなく、「イースタンドリーム号」は穏やかな航海をつづけている。船内のレストランで朝食を食べ、約束の9時にチェ先生やほかの先生方、小中高生18人が待つ部屋に行く。カソリの講演会の開始だ。題して「六大陸を駆ける!」。

 ぼくが初めてバイクで海外に旅立ったのは20歳のとき。それを思い立ったのは17歳のときのことで、「ちょうどみなさんと同じ年の頃でした」と、高校生に向かっていった。小学生の高学年の頃は夢中で「中央アジア探検記」を読み漁り、「大きくなったら中央アジアの探検家になるんだと思っていました」と、今度は小学生たちに向かっていった。それをチェ先生がていねいに韓国語に通訳してくれる。カソリとチェ先生は絶妙のコンビ。さすが「読書感想文コンクール」で入賞した韓国全土から選ばれた優秀な生徒たちだけあって、カソリの話、チェ先生の話に耳を傾け、じっと聞いている。

「結婚して子供が3人できてからもずっと世界をまわっています、人間、ほんとうにその気になれば、なんでもできます、みなさん方もどうぞこれから一人一人の道を歩んでいってください」といったような話でカソリの1時間あまりの講演会は終った。チェ先生や同行の先生方、18人の小中高生のおかげで、忘れられない日本海の船旅になった。

「イースタンドリーム号」はウラジオストクを出港してから22時間後の11時に韓国・東海岸の東海港に入港。鳥取県の境港に向けての出港は18時。半日ほどの時間があるので東海の町をひとまわりする。

 まずは焼肉店での「焼肉パーティー」。うれしいことにカルビー食べ放題。たら腹、肉を食べた。ビールを飲み、焼き肉を食べながら、「環日本海ツーリング」の話題で盛上がる。旅の最後を飾るたまらない時間。同じ体験を共にした仲間なので話題には事欠かくことはない。広い店内にほとんど客はいないのでじつにゆったり、まったりできた。

 次に中心街にある市場を歩く。そこでは韓国人の生活の息吹き、匂いを感じとれる。韓国人は店で買物をするよりも、市場で食料品などを買うことが多い。そのため町中を歩いていても魚屋とか肉屋、八百屋、米屋といった食料品店をあまり見かけない。東海は日本海の港町なので、市場では魚介売場をメインに歩いた。鮮魚売場ではタチウオが一番、目についた。韓国人がタチウオをよく食べるという証明。そのほかタラやスケトウダラ、タイ、サバ、ヒラメ、イシモチなどが並んでいる。イカ売場では生簀の中の活イカと切り身にした塩辛用のイカを売っている。ホヤがうまそう。タコも。市場で一杯、やりたくなるような気分だ。

 市場歩きを終えると、幹線の国道7号に出た。国道7号は釜山から朝鮮半島の東海岸を縦貫し、東海から北へ、江陵、束草と通って北朝鮮国境の高城統一展望台までつづいている。なお北朝鮮側でも日本海側のこの道は国道7号で、韓国国境から元山、咸興、清津と通って中国国境まで通じている。国道7号を走っている車は「韓国車」オンリー、といった感じ。近年の韓国車はすごくよくなっている。これから先、ますます日本車との激突が激しくなることだろう。韓国車は日本車との対決の中で生き残っていけるのかどうか、これは見ものだ。韓国車の動向から目が離せない。そんなことをも考えながらの「東海探訪」を終えて東海港に戻った。

 18時、「イースタンドリーム号」は定刻通り、東海港を出港。さすが韓国のフェリーだけのことをはある。出港時間が次々に変更され、10何時間も待たされたサハリンのホルムスク港からロシア本土のワニノ港に行くフェリー「サハリン7」が思い出されてならなかった。同じフェリーなのに「イースタンドリーム号」と「サハリン7」ではあまりの違い。「イースタンドリーム号」は東海港の岸壁を離れると、港内をゆっくりと進み、やがて港外へと出ていく。日本海に出ると速力を上げ、それとともに韓国・東海岸の山々が次第に遠くなっていく。朝鮮半島が遠くなっていく。何ともいえない寂しい気分に襲われる。日が暮れると甲板から船内に戻り、「環日本海ツーリング」のメンバーたちとの飲み会がはじまった。みなさん方も旅の終わりを感じて心なしか寂しそう。旅の終わりというのは寂しいものなのだ。

 翌朝、夜が明けるとすぐに甲板に上がった。日本海の水平線上には隠岐の島々が見えている。隠岐は島前の中ノ島や西ノ島、知夫里島、島後などから成る群島だが、それらの島々がくっつき合い、ひとつになって見えている。そんな隠岐を甲板の手すりにもたれかかって飽きずに眺めた。やがて前方には出雲神話の故郷、島根半島が見えてくる。その右端(西端)が日御碕、左端(東端)が地蔵崎になる。「イースタンドリーム号」は地蔵崎を目指して、穏やかな日本海を進んでいく。地蔵崎がどんどん大きくなってくる。地蔵崎の美保関灯台がはっきりと見えてくる。

「日本に帰ってきた!」
 という実感が胸に熱くこみあげてくる。

「イースタンドリーム号」は地蔵崎をまわり込んで美保神社のある美保関のすぐ近くを通り、幅の狭い境水道に入っていく。前方には境水道大橋。橋の左手の境港の町並みも見えてくる。そして境水道大橋の下をくぐり抜け、境港のフェリー埠頭の岸壁に到着。時間は9時。韓国の東海から15時間の日本海の船旅だった。境港に上陸するとメンバーのみなさんと別れ、日本海に沿って新潟まで走り、最後は北陸道→関越道で東京に戻った。

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Category: 東アジア走破行

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東アジア走破行(19)環日本海ツーリング(4)
 ハバロフスクに到着したのは2011年8月13日。翌8月14日はハバロフスクに滞在した。ポリッジ、ピラフ、ヌードル、ソーセージ、ハム、チーズ、スープの朝食を食べ、「ホテルインツーリスト」を出発点にして、その周辺を歩いてまわった。川岸の展望台に立つと、悠然と流れるアムール川を見下ろす。対岸に渡る渡船を見る。遊歩道が川岸に長くつづいているのが見える。

 展望台にはムラビヨフ・アムールスキーの銅像が建っている。ムラビヨフ・アムールスキーは東シベリア総督として、1858年、清国との間にアイグン条約を結び、アムール川左岸をロシア領土とした。このあたり一帯の公園はムラビヨフ・アムールスキー公園と呼ばれ、百貨店などが建ち並ぶハバロフスク市内の最も大きな目抜き通りも、ムラビヨフ・アムールスキー通りと呼ばれている。

 ムラビヨフ・アムールスキーは1809年、サンクトペテルブルグに生まれ、1847年に東シベリア総督に任命された。ロシアと清国の間で結ばれたアイグン条約は、アムール川をロシアと清の国境であるとした。ロシアの得た新領土はアムール川左岸の一帯(外満州)の広大なエリアで、プリアムーリエ(現在のアムール州)、および現在のハバロフスク地方の大部分を含んでいる。この功績でムラビヨフは「アムールスキー伯爵(アムール川伯爵)」の称号を得た。

 1860年の北京条約によってアイグン条約は確認されたが、ロシアはさらにその時、より多くの領土(ウスリー地方と沿海州の南部)を獲得した(分捕った)。中国ではいまだに「このエリアは中国固有の領土」といっている。まあそれはさて領土欲の権化のような人物が尊敬されるのは、なにもロシアに限ったことではない。それは世界共通のことなのである。

 ところで「アイグン条約」は中国・黒龍江省の「愛琿」の地名に由来している。愛琿は中露国境を流れる黒龍江右岸の町。古くからの河川交通の要衝の地で、黒龍江を通して各地とつながっていた。17世紀後半、清朝はロシアの侵入を防ぐため、愛琿に築城。この地を対ロシア交渉の拠点とした。アイグン条約は1858年に結ばれた条約だが、それより150年以上も前の1689年に、清朝はロシアと「ネルチンスク条約」を締結した。この条約はロシアのチタに近いネルチンスクで締結された条約で、これによって両国の国境線の一部が確定。「アイグン条約」はそれにつづくものだ。

 1858年、ロシア・東シベリア総督のムラビエフはロシアの軍事的な威嚇の下で、ロシア有利の国境画定のアイグン条約を結び、アムール川(黒龍江)の右岸が中国領、左岸がロシア領とした。さらにウスリー川から日本海に至る一帯を両国の共有地にした。

 アイグン条約締結2年後の1860年、北京条約によってアイグン条約は確認され、ロシアは両国の共有地としたウスリー川から日本海に至る一帯を一方的にロシア領にした。「泥棒ロシア」としかいいようがない領土の略奪。衰退した清朝はロシアの餌食になった。愛琿のその後だが、義和団事件(1899年~1901年)の時にロシア軍に侵攻されて町は壊滅。ドサクサにまぎれて侵攻するのはロシアの昔からの得意技。常套手段といっていい。それ以降、この地方の中心は黒河の町に移った。黒龍江(アムール川)をはさんで黒河の対岸はロシア・アムール州の州都ブラゴベシチェンスクになる。

 2004年の「旧満州走破行」ではハルビンから小興安嶺山脈を越えて黒河に行き、さらに黒龍江沿いにバイクを走らせ愛琿まで行った。愛琿では「愛琿歴史陳列館」を見学したが、そこではネルチンスク条約からアイグン条約、北京条約へと、清国の領土がロシアによってむしり取られていく様子(歴史)がじつによくわかる。

「ムラビヨフ・アムールスキー公園」を歩き、展望台からアムール川を見下ろしたあとは、公園とは道をはさんで反対側にある「ロシア軍極東軍管区歴史博物館」を見学。屋外には軍用車両や高射砲、歴代の戦車、現在の主力戦車のT80、ミグ17戦闘機などが展示されている。屋内の展示では旧満州での日本軍との戦闘が目を引いた。

 ソ連軍が参戦したのは終戦間近の昭和20年(1945年)8月8日。150万の兵力が怒涛のごとく旧満州の全域になだれ込んできた。主力は東方のウラジストク周辺の部隊と西方のモンゴルに駐屯していた部隊。東方からはハルビン、新京(長春)へと攻め、西方からは大興安嶺山脈を越えて奉天(瀋陽)へと攻めた。日ソ間の戦闘は終戦後の9月までつづいた。100万の兵力の日本軍(関東軍)は敗走に敗走を重ねて10万人近い死傷者を出し、60万人もの兵士が捕虜になり、その後、シベリア各地に抑留された。「極東軍管区歴史博物館」の展示を見ていると、旧満州での日ソ戦がつい昨日のような臨場感でもって迫り、ロシアの脅威にしばらくは立ちすくんで動けなかった。

「ロシア軍極東軍管区歴史博物館」の見学を終えると、ロシア正教の教会前から石段を下り、アムール川の川岸の遊歩道を歩く。ここはハバロフスク市民の憩いの場。露店でロシア人の大好きなクワスを買って飲みながら、アムール川の悠々とした流れを眺めた。クワスといえばロシア人の国民的飲料。ユジノサハリンスクでも大ジョッキで飲んだが、ライ麦などを発酵させた弱いアルコール飲料で、ビールをさらに弱くしたようなもの。それをロシア人たちはジュースがわりに飲んでいる。

 クワスを飲み終わったところで、アムール川の遊覧船に乗船。アムール川のクルージングはハバロフスクでのメインイベントだ。今度は船内の売店で買ったカンビール、アサヒのスーパードライを飲み、ホットドッグを食べながら、アムール川の流れと川岸につづくハバロフスクの町並みを眺めた。アムール川の「アムール」はギリヤーク語の「ダムール(大河)」に由来するというが、まさに大河。まるで海を行くようだ。

 ハバロフスクはアムール川とウスリー川の合流地点の右岸にできた町。1963年3月2日、アムール川に合流するウスリー川の中州、ダマンスキー島(珍宝島)でソ連軍の警備兵と中国人民解放軍の兵士との間で武力衝突が発生した。それが引き金になって両国は激しく対立し、核兵器を使っての全面戦争という瀬戸際までいった。世界中がかたずを飲んで見守ったが、コスギン・周恩来会談でかろうじて全面戦争は回避された。この地はまさに世界中に大きな衝撃を与えた現代史の現場なのだ。

 その後、1991年の中ソ国境協定でソ連極東の大部分の国境が確定し、ソ連側の譲歩でウスリー川の珍宝島は中国領になった。このときの中ソ国境協定でも国境が確定されずに残ったのは、アムール川の3つの島。1島はアムール川上流、アルグン川のアバガイト島(阿巴該図島)、もう2島はアムール川とウスリー川合流地点のタラバーロク島(銀龍島)と大ウスリー島(黒瞎子島)。これら3島の帰属は解決困難な問題と思われていたが、2004年10月14日、ロシアのプーチン大統領と中国の胡錦濤国家主席の首脳会談で政治決着し、最終的な中露国境協定が結ばれた。この結果、アルグン川のアバガイト島(阿巴該図島)は中露両国に分割され、タラバーロク島(銀龍島)の全域と大ウスリー島(黒瞎子島)の西半分が中国領に、大ウスリー島(黒瞎子島)の東半分はロシア領土になった。ロシア側の譲歩によって、最終的な中露国境が確定した。それは1689年のネルチンスク条約から315年後のことだった。

 このように2004年10月14日は中露両国にとっては記念碑的な日だが、何とその前日の2004年10月13日、ぼくは「旧満州走破行」で中国東端の町、撫遠から中国・軽騎スズキ製の110㏄バイク、QS110で「中国東極」(中国最東端の地)まで行った。黒龍江(アムール川)とウスリー江(ウスリー川)の合流地点が東極になっていた。その地に立ち、「やったぜー!」と万歳して「中国東極」への到着を喜んだ。その翌日から対岸の大ウスリー島(黒瞎子島)が国境になり、その結果、「中国東極」も若干、東にずれた。ということでぼくは最後の1日に旧中国最東端の地に立ったことになる。

 アムール川のクルージングを終えると、ロシア正教のウズベンスキー教会の前からハバロフスクの目抜き通り、「ムラビヨフ・アムールスキー通り」を歩きはじめる。レーニン広場までつづく2キロほどの大通り。車道も歩道も道幅が広く、ゆったりと歩ける。強い夏の日差しがカーッと照りつけている。頭がクラクラするほどの暑さで、露店のアイスクリームを食べながら歩いた。

 大通り沿いには中央デパートをはじめとして、様々な店が並んでいる。「サッポロ」という日本食のレストランがあった。世界を席捲している「サムスン」のショップはロシア風の建物の中にあった。ムラビヨフ・アムールスキー通り沿いにはみやげ物店もある。そのうちの1軒、大きなみやげ物店に入ると、マンモスの牙の彫り物に目が吸い寄せられた。ロシアならではのマトリョーシカや琥珀の製品、カラフルなホフロマ塗りなどが売られている。壁一面にかけられた絵画がロシアを感じさせた。

 ハバロフスクの町歩きを終え、「ホテルインツーリスト」に戻ると、我々メンバー全員はタクシーに乗ってアムール川の河畔へ。モーターボートの船着き場に隣接したレストランでのバーベキュー・パーティーだ。おおいに飲み、うまい肉をたら腹食べた。我らのガイド、東さんがロシアン・ビューティーを連れてきてくれたこともあって、バーベキュー・パーティーは盛上がった。

 バーベキュー・パーティーが終わりを告げる頃、ロシア人ライダーがビッグバイクに彼女を乗せてやってきた。日本人ライダーが大挙してやってきたと聞いて、我々に会いに来てくれたのだ。今度は国境を越えてのバイク談義で盛上がる。我らライダーにとっては国籍も人種も関係ない。「バイク大好き!」というだけで十分に気持ちが通じ合うのだ。

「ホテルインツーリスト」に戻ると、東さんがさきほどのユリア、オクサーラ、ナターシャ、カチューシャの4人のロシアン・ビューティーを連れてくる。彼女たちをまじえての2次会開始。「ホテルインツーリスト」前のロシア風居酒屋でウオッカを飲むほどに、ハバロフスクの夜は更けていった。

 翌朝は夜明けとともに起き、ロシア正教のウズベンスキー教会前の広場から石段を下り、アムール川の河畔を歩いた。アムール川の上空には大きな月が浮かんでいた。「これが最後だ!」とアムール川の流れをしっかりと目に焼きつけ、「ホテルインツーリスト」に戻り、バイキング形式の朝食を食べた。

 8時、ハバロフスクを出発。市内のガソリンスタンドで給油し、ウラジオストクに通じるM60(国道60号)を南下。2車線の舗装路で交通量はけっこう多い。ビッグバイクに乗ったツーリングライダーを見かける。荷物満載の「シベリア横断中」を思わせるバイクともすれ違った。ビッグバイクでのツーリングライダーを見ると、ロシアでのこの10年あまりでの経済的な発展を強く感じた。2002年の「ユーラシア横断」ではツーリングライダーを見ることはほとんどなかったからだ。

 ところでM60は「ハバロフスク→ウラジオストク」間の幹線国道だが、ウラル山脈以東のシベリア横断ルートは東麓のチェラビンスクから日本海のウラジオストクまではM51→M53→M55→M58→M60と5本の国道でつながっている。

 M51は「チェラビンスク→ノボシビルスク」、M53は「ノボシビルスク→イルクーツク」、M55は「イルクーツク→チタ」、M58は「チタ→ハバロフスク」、そしてM60が「ハバロフスク→ウラジオストク」になる。シベリアにはもう1本、M56がある。M56はスコボロディーノでM58と分岐し、ヤクーツクを通り、オホーツク海のマガダンに至るルート。M58はいつの日か走破したいルートだ。

 それにしてもロシアという国がいかにシベリアをおろそかにしてきたかが、これらM51からM60を見ればよくわかる。ウラル山脈以東の広大なシベリアの幹線国道はこれだけ。そのシベリア横断国道にしても、全線が開通したのはつい最近のことでしかない。同じロシアでもウラル山脈以西のヨーロッパ側になると、首都モスクワを基点にして放射状の幹線国道が四方八方に伸びている。国土の10分の1にも満たないエリアに幹線国道が網の目状に張りめぐらされているのだ。2002年の「ユーラシア横断」は、ウラル山脈を境にしてのアジア側ロシアとヨーロッパ側ロシアのあまりの違いを見せつけられた旅でもあった。

 M60(国道60号)を南下する。この国道は中国国境のすぐ近くを通っている。国境をアムール川の支流、ウスリー川が流れているが、川の流れは見えない。国道沿いには森林地帯がつづき、その中を一直線に切り裂いてM60が延びている。直線区間が長く、カーブもゆるやか。大陸を実感させる道。国道沿いのカフェで小休止したときは、ちょっと近くの村まで行ってみたが、M60とはうってかわって穴ぼこだらけのダート道。ガタガタいわせながら村の中に入った。

 M60をさらに南下し、24時間営業のガソリンスタンドで給油。いつものようにオクタン価95のガソリンを入れた。ほかに92、80もある。80だとエンジンがやられそう。以前、南米ではオクタン価70というガソリンを入れたことがあるが、エンジントラブルを起こすのではないかとヒヤヒヤし通しだった。

 M60沿いのガソリンスタンドでの値段は95が1リッター29ルーブル80カペイカ(約83円)、92は28ルーブル50カペイカ(約79円)、80は26ルーブル85カペイカ(約75円)で、95と80では日本円で10円近い差があった。ここではスズキの650㏄バイクに乗るロシア人のツーリングライダーに出会った。モスクワを出発してから15日目とのことで、「今日中にはウラジオストクに着く」といっていた。彼の話によると「モスクワ→ウラジオストク」は15日ぐらが普通だという。その間は約1万キロ。1日平均約600キロになるが、シベリア横断ルートならば楽に走れる走行距離。ロシア人のツーリングライダーと話していると、新たな「ユーラシア横断」への夢が無性にかきたてられるのだった。

 ハバロフスクからウラジオストクに通じるM60(国道60号)沿いのガソリンスタンドでは、スズキの650でシベリア横断中のロシア人ライダーに会った。わずかな時間でしかなかったが、カタコトの英語をまじえての彼との会話は心に残った。ウラジオストクに向かって走り去っていく若きロシア人ライダーを見送ったあと、我々もM60を南下していく。

 中国国境の町、ダリネレチェンスクに近づいたところで昼食。国道沿いのカフェに入った。「カフェ」はロシアツーリングではきわめて重要。文字通り、コーヒーを飲んでひと休みするところだが、大半のカフェはレストランをも兼ねている。「15人分」と聞いてカフェの女主人は「さー、困った」という顔をしたが、我々のガイドの東さんがうまく女主人をまるめ込んでくれたおかげで全員、昼食にありつけた。女主人は15人分のボルシチと7人分のピロシキ、8人分の肉料理を用意してくれた。ボルシチも肉料理もロシアの家庭料理の味がした。

 ハバロフスクから350キロのダリネレチェンスクは2002年の「ユーラシア横断」で泊まった町なのでなつかしい。M60はダリネレチェンスクの町中には入らず、バイパスで町の東側を通過していく。ダリネレチェンスクを過ぎたところでバイクを止めて小休止。目の前に見える丘の向こうは中国。このあたりは中露国境のすぐそばだ。

 ハバロフスクからダリネレチェンスクまでの中露国境をアムール川支流のウスリー川が流れている。ダリネレチェンスクの周辺で何本もの川が合流し、大河、ウスリー川になる。そのうちの1本はロシア・中国にまたがる大湖、ハンカ湖から流れてくるスンガチャ川だ。ハンカ湖は面積4403平方キロ。琵琶湖の6・5倍もの広さがある大湖で、その北側は東アジアでも有数の大湿地帯。ラムサール条約の登録地で丹頂鶴などの繁殖地になっている。かつてはトキも生息していたという。

 ハンカ湖に流れ込む川は20本以上もあるが、流れ出るのはスンガチャ川1本だけで、中露国境を流れ、ダリネレチェンスクの西側でウスリー川に合流する。ロシア沿海州のシホテ・アリニ山脈からはホール川やアニュイ川、ビキン川など何本もの川がウスリー川に流れ込んでいる。ウスリー川は全長897キロ。信濃川の2・5倍の長さがある。ウラジオストクのすぐ近くまでがウスリー川の水系で、ロシアの沿海州はウスリー川とともにあるといっていい。

 1860年の北京条約でロシアはウスリー川以東の地(今の沿海州)を手に入れたが、満州国の時代には、この川をはさんで日本の関東軍とソ連軍が対峙していた。「ハバロフスク→ウラジオストク」間というのは、このようなウスリー川紀行でもある。M60を走っていると、残念ながらウスリー川の流れを見ることはできないが、次の機会にはぜひともハンカ湖やその周辺、シホテ・アリニ山脈のウスリー川源流地帯を走ってみたい。

 ハバロフスクから580キロ走ってスパースク・ダリニーの町に到着。ここでひと晩、泊まった。町の入口にあるガソリンスタンドで給油したあと、洗車場で全車、洗車してもらう。ウラジオストクからのフェリーに乗せるためだ。我々はピカピカになったそれぞれの愛車に乗って町の中心のレーニン広場へ。きれいな花々で囲まれた広場の中央にはレーニン像が建っている。レーニン広場に面した「ロトスホテル」が今晩の宿。部屋に荷物を入れると、夕暮れの町を歩いた。この町には古き良きロシアを感じさせるものがある。

「ロトスホテル」に戻ると、我々は夜の町を歩き、シベリア鉄道のスパースク・ダリニー駅近くのレストランに入った。まずはロシアン・ビールの「バルチカ」で乾杯。そのあとスープ、サラダ、チキンカツレツの夕食を食べる。チキンカツレツの上にのったトロッとしたチーズが美味。そんなチキンカツレツを食べながら、「カツレツ」はロシアの国民食だとあらためて実感する。レストランの裏をシベリア鉄道の列車が通り過ぎていく。その音が旅心をいたく刺激するのだった。

 2011年8月15日7時、スパースク・ダリニーの「ロトスホテル」を出発し、ウラジオストクに向かう。外はまだ暗い。夜明け前の出発になったのは、バイクの出国手続きに相当、時間がかかるため。ウラジオストク港にはできるだけ早く到着したかった。ライトの明かりを頼りに走り、M60(国道60号)を南下。やがて夜が白々と明けてくる。

 8時、街道沿いの24時間営業のカフェで朝食。スープとピロシキを食べる。ピロシキといえば日本でも人気の揚げパン。中には肉やジャガイモ、野菜が入っている。ロシアには揚げピロシキだけでなく、焼きピロシキもある。もともとは東欧の料理で、それがロシアに定着したようだ。

 朝食を食べて元気をつけたところで、さらにM60を南下。10時、スパースク・ダリニーから140キロのウスリースクに到着。このあたりがアムール川の支流、ウスリー川と日本海に流れ出る川を分ける分水嶺になっている。といっても山々が連なる山地ではなく、ゆるやかな起伏が連続するどちらかというと平原に近いような地形で、その中にウスリースクの町がある。M60はそのままウスリースクの町中に入っていくので、抜け出るまでが大変。何度も道に迷い、そのたびに止まり、道標などで道を確認した。ウスリースクは活気のある大きな町だ。ウスリースクはまた交通の要衝の地。シベリア鉄道が通り、中国からの鉄道、北朝鮮からの鉄道がここで合流する。

 ウスリースクからウラジオストクまでは100キロ。しかしこの100キロが難行苦行の連続だ。ウスリースクを過ぎると交通量は飛躍的に増大した。4車線化の工事をしているので大渋滞の連続。おまけに雨が降ってきた。工事区間は泥地獄のようなズボズボヌタヌタの悪路。そのためヘルメットのシールドには前を行く車の跳ね上げる泥がべったりとこびりつき、視界ゼロの状態になる。「もう、こうなったら裸眼だ!」と決め、オーバーに言えば失明覚悟で走った。目の中にはズブズブと泥が突き刺さり、まぶたの開け閉めができなくなるほど。それでも工事区間の悪路を走りつづけた。

 やっとの思いでウラジオストク市内に入ると、今度はまったく動かない大渋滞にはまり込む。これが今のウラジオストク。10年前とは比べものにならないくらい車が増えている。バイクだけなら何とかなるのだが、サポートカーとサポート用のトラックを待たなくてはならないので、我々は渋滞すり抜けという訳にはいかなかった。

 14時、ウラジオストク港に到着。このときばかりは心底、ホッとした。失明覚悟で走ったのだが、顔にこびりついた泥を洗い流すと、まぶたはまた元通りに開け閉めできるようになった。人間の体はじつによく出来ている。まるで地獄のようなウラジオストク到着になったが、我々は「(ここまでの環日本海ツーリングで)ウラジオストクが一番の難所!」といって笑った。