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「広州→上海2200キロ」(18)

 12月11日8時、桐郷の「銭塘新世紀大酒店」のレストランでの朝食。ここで食べたワンタンはうまかった。

 朝食のワンタンを食べながら、カソリ、食文化に想いを馳せた。
「ワンタン」は漢字で書くと「饂飩」になる。「ウドン」も漢字で書くと「饂飩」。つまり「ワンタン」と「ウドン」はまったく同じ漢字ということになる。

「ウドン」が中国から日本に伝わったのは奈良時代から平安時代にかけてのことだといわれている。そのとき日本人は「ウドン」と「ワンタン」をとり違えてしまったようだ。その結果「ウドン」は名前と中身の違うものになり、千何百年もの間、違うままできた。

 中国各地には「饂飩」の看板を掲げた店がある。「饂飩」は北京語では「フォントン」、上海語では「ユントン」、広東語では「ワンタン」になる。中国語というのはこのように、地方によってずいぶんと発音が違ってくる。

 それはさておき「饂飩屋」に入って、出てくるのは「ウドン」ではなく「ワンタン」。「饂飩」は「雲呑(ウンドン)」ともいうが、「雲呑屋」の看板を掲げた店に入っても、出てくるのはやはり「ワンタン」。ウドンというのはワンタンのことなのである。

 バイクツーリングの一番の良さは、このようにいろいろなことに興味を持ち、普段考えないようなことにも思いを馳せ、好奇心がより旺盛になることだとぼくは思っている。心が豊かになり、もっともっと知りたいという気持ちが旺盛になる。桐郷での朝はまさにそれだった。

 9時、桐郷を出発。国道320号で上海へ。

 桐郷の町はすっぽりとスモッグで覆われていた。天気が晴れなのか、曇りなのか、まったくわからない。大気汚染は広州から上海まで、途切れることなくずっと続くのだ。

 中国・沿岸の大気汚染はあまりにもすさまじい。何しろ息ができないのだから。これでは13億の中国人の存亡にかかわると心底、心配したが、当の中国人たちはほとんど気にしていないように見受けられた。それがまた、すごいことだと思った。

 嘉興の町の食堂で昼食にする。ここではスズメや豚の脳みそ、牛足、牛の胃袋、アヒルの血を固めたものなどを食べたが、中国人は何でも食材にしてしまう。

 14時45分、浙江省と上海市の境に到着。広州から2252キロの地点。

 中国のバイク旅をものすごく難しくしているのが、大都市へのバイクの乗り入れ禁止だ。ここに来るまでも広州や厦門、福州、温州、杭州などはバイクの乗り入れ禁止都市だった。そういうところでは、大都市を大きく迂回しなくてはならない。

 上海ではどうしても中心街に入っていかなくてはならないので、浙江省と上海市の境を「広州→上海」のゴールにした。ここで車を1台チャーターし、アドレスを荷台に積んで上海の中心街に入っていく。
「アドレスよ、ご苦労さん!」

 アドレスのおかげでぼくは夢を見た。

「60代編日本一周」(2008年~2009年)ではアドレスで3万6000キロを走ったが、アドレスと一緒に走れば走るほど、我が夢は世界を駆けめぐるのだった。こうして上海に到着してすぐに思ったことは、今度は「中国一周」をしたいということだった。さらに日本から南へ、台湾、フィリピン、ボルネオ、インドネシアを走ってみたいと思った。アドレスは限りなく夢をかきたててくれた。これがたまらない!

 日本人が多く住む上海の中心街の虹橋まで行き、「百威大酒店」に泊まった。

 虹橋の周辺は今では世界でも最大の日本人居住エリア。5万人近い日本人が住んでいるという。日本食のレストランがあちこちにあり、「エレガンス」や「かぐや姫」といったクラブも多数目についた。

 夕食はホテル近くの上海料理店で。二村さん、宋さん、楊さんと、まずはビールで乾杯。そのあと「酔っぱらいガニ」や「蒸しスズキ」、牛肉料理、タケノコ料理などの上海料理を食べた。最後は上海炒飯だ。

「広州→上海」の2200キロでは最初から最後まで、とことん食べ歩いた。最後の上海で上海料理を食べながら、ぼくの夢はさらに「中国一周」へと飛んでいく。

「そのときはもっと、もっと、食べ歩くぞ!」
(桐郷→上海73キロ)

◇◇◇
 翌12月12日、「百威大酒店」の朝食を食べたあと、虹橋の中心街をプラプラ歩いた。ここには日本の領事館があり、「ファミリーマート」などのコンビニがあり、「吉野屋」や「松屋」もあった。

 10時30分、上海・虹橋空港へ。ここで中国人スタッフの宋さん、楊さんと別れた。 13時05分、上海を出発。日本航空のJL8878便は離陸するとスモッグの中に突入し、上海の町並みはまったく見えなかった。

 機上の人となると、さっそく中国の地図を広げ、いままでの「中国ツーリング」を振り返ってみるのだった。

 ぼくが初めてバイクで中国を走ったのは1994年のこと。そのときは中国西部のタクラマカン砂漠を一周した。二村さんはその時も同行してくれたのだ。「タクラマカン砂漠一周」を皮切りに1999年の「チベット横断」、2003年の「中朝国境を行く」、2004年の「旧満州走破行」、2006年の「シルクロード横断」、2009年の「チベット横断」、そして今回の「広州→上海2200キロ」へとつづく。

 16時40分、羽田空港に到着。東京の空は透き通っていた。上海の空とはあまりにも違う。その違いの大きさに驚かされる。
「(東京の空は)こんなにもきれいだったのか」

 真っ赤な夕日が羽田空港の向こうに落ちていく。

 羽田空港内のラーメン店で二村さんとまずはビールで乾杯。そのあと日本のラーメン&餃子を食べて、「広州→上海2200キロ」の旅を終えるのだった。(了)

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桐郷の「銭塘新世紀大酒店」で食べた朝食のワンタン

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広州から2252キロを走って上海に到着

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上海の中心街

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早朝の上海を歩く

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スモッグに覆われた上海の虹橋空港を出発
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「広州→上海2200キロ」(17)

 12月10日7時、朝食。楽清のホテル「東海暇日賓館」のレストランで、朝粥と炒飯を食べ、8時出発。アドレスV125Gのエンジンをかけ、「さー、行くぞ!」と、いつものようにひと声かけて走り出す。アドレスは今日も快調だ。

 国道104号を北へ。朝から雨が降っている。時速60キロから70キロぐらいで2車線の峠道を上り、ブラインドになった左コーナーにさしかかった時、何と雨で滑り、スピンしたトラックが自分の目の前に飛び込んできた。絶体絶命のピンチだ。

「あ、やったー!」。
 その瞬間、次々に頭の中から指令が飛んでくる。

「目をつぶるな」、「ここでは死ぬな」、「どうすれば助かるか考えろ」。

 トラックが自分の目の前で横向きになって止まるのと、アドレスで突っ込むのとはほぼ同時だった。すさまじい音とともにアドレスは吹っ飛ばされた。

 衝突の瞬間、ぼくは一瞬たりとも目を閉じることなく、目をカーッと見開いたままトラックに突っ込んでいった。そのときどうすれば助かるか、それだけを考えていた。

 トラックの中央部には人間が滑り込めるスペースがある。そこに賭けた。転倒し、右手、右膝で受身をとりながら、ものすごい勢いで滑り込んだ。その結果、思惑通り、そのスペースにすっぽり入り込むことができたのだ。

 トラックを降りてきた運転手はぼくの姿が見えないので、顔が青ざめるくらいの恐怖心を感じたという。さらにそのあとぼくがトラックの下から這い出してきたのでさらに恐怖心は増し、膝がガタガタ震えたという。

 それにしてもラッキーだった。トラックが止まるのと、それに衝突するのはほぼ同時だったが、ほんの1、2秒という、わずかな時間差があった。トラックの方が先に止まったのだ。この「1、2秒」でいろいろなことが見えるし、いろいろなことが考えられるし、いろいろなことが実行できる。そのおかげで助かったようなもの。

 それともうひとつラッキーだったのは、トラックの側面には日本のような巻き込み防止のバーがついていないことだった。百戦練磨のカソリ、全身を強打したのにもかかわらず、右手で防御し、頭だけは打たなかった。

 すさまじい痛みの中で道路上に立ち尽くし、警察が来るのを待った。その間にいろいろなことを考えた。12月10日が自分の命日になってもおかしくないような状況だったが、こうして生き延びられたことに感謝した。「生きている!」という実感。だが、すぐに考え直した。

「いや、生きているんではない。生かされているのだ」。
 ぼくはこのとき悟りの境地に入ったかのような心境になった。

 何か、目に見えない大きな力によって守られ、「オマエはまだ生きていろ!」といわれたような気がした。

「そうか、自分にはまだまだやりたいことがいっぱいある。よし、次は中国本土一周だな」と、事故現場で「中国一周計画」をブチ上げるのだった。

 二村さんや宗さんが素早く連絡してくれたおかげなのだが、中国警察の動きはじつに速かった。10分もしないうちに2台のパトカーがやってきて、事故現場を調べ、すぐに楽清の市民病院に連れていかれた。右手、右膝をやられたが、骨には異常ナシ。右膝を2針縫う程度で済んだ。次に警察署で事故調書がとられた。トラックの運転手が「すべては自分の責任です」と最初からいってるので、ここでもまったく問題ナシ。

 まるで警官が裁判官でもあるかのように、運転手は賠償金として5000元(約75000円)を払うようにと命令した。それぞれが調書に右手の人差し指で捺印したあとで、運転手は「私には子供が4人いまして…」と泣きついてくる。一人っ子政策の中国で、何で4人も子供がいるの?といいたかったが、まあ、仕方ない。病院代の2000元を払うということで和解した。

 事故でダメージを受けたアドレスだが、それはフロントのみ。エンジンのあるリアはまったく無傷で、エンジンもかかる。そんな強靭なアドレスに乗り、グローブのように腫れあがった右手でハンドルを握り、再度、楽清を出発した。

 臨海を通り、天台へ。遠くには天台山の山並みが青く霞んで見える。天台山というのはいくつもの山々の総称で、最高峰は標高1136メートルの華頂峰。ここには国清寺をはじめとして多くの寺があり、昔は中国仏教の一大中心地になっていた。日本からも多くの僧が渡り、この地で修行した。

 日本の天台宗の開祖、最澄は遣唐使船で寧波に渡り、天台山で修行を重ね、帰国して天台宗を開いた。国道104号は内陸を通っているが、海沿いのルートを行けば、その寧波を通っていく。

 天台の食堂で昼食にする。ご飯とスープ、ソラマメ、タチウオ、イカやキノコ、ジャガイモなどの煮つけ、炒めたモヤシといったメニュー。タチウオのあんかけが美味でご飯を何杯もおかわりした。

 天台からは紹興酒で有名な紹興を通り、杭州へ。
 ところで福州から杭州までの国道104号だが、この道は「空海の道」なのだ。

 遣唐使船で遭難し、霞浦近くの赤岸に漂着した空海(弘法大師)だったが、遣唐使船はさらに福州まで行った。そこで上陸した空海の一行は唐の都、長安(西安)を目指した。陸路で温州を経由し杭州へ。このルートこそ、アドレスで走ってきた現在の国道104号なのである。空海の一行は杭州から大運河の船運で洛陽まで行き、最後は陸路で長安の都に入っていった。

 杭州で北京に通じる国道104号に別れを告げ、上海に通じる国道320号に入っていく。中国の国道というのは1本がきわめて長い。この国道320号も上海が起点で杭州、貴陽、昆明と通り、なんとミャンマー国境までつづいている。全長3000キロをはるかに超える。さすが大陸だ。

 杭州からはナイトランで上海へと向かい、その途中の桐郷で泊まった。宿は国道沿いの「銭塘新世紀大酒店」。ロビーには大きなクリスマスツリーが飾られていた。

 夕食はホテルのレストランで。酢豚や豆腐料理、アヒル、豚の胃袋、日本の素麺にそっくりな細麺などを食べた。
(楽清→桐郷388キロ)

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楽清の「東海暇日賓館」の朝食。朝粥と炒飯を食べる

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楽清の事故現場。あやうく命を落とすところだった

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小雨に霞む天台山の山並み

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天台の食堂で昼食

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昼食のタチウオのあんかけ

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杭州からはナイトランで上海に向かう

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桐郷で泊まった「銭塘新世紀大酒店」

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