FC2ブログ
1
4
5
7
13
14
15
18
20
22
24
25
26
27
28
29
30
31
  03 ,2019

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


著者・管理人

Author: 賀曽利隆
Twitter:@kasori3000
Administrator:ウザワ・K

カテゴリー
Amazon
ブログ内検索 by Google
広告も社会の窓。
FC2ブログランキング
このブログが面白いと思ったらたまに(あるいは頻繁に!)クリックしてくださいね(ポチっとな)。それで何が起こるのかは僕も知らんけど…。
最近の記事
月別アーカイブ
小さな天気予報

-天気予報コム- -FC2-
FC2カウンター
QRコード
QRコード
23

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(13)
■2013年3月9日(土)晴「伊勢原→白米鉱泉」357キロ(その2)

 3月9日12時、東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬を出発。国道6号に出ると、JR常磐線の勿来駅前でスズキの250ccバイク、ビッグボーイを止める。駅前には「八幡太郎義家」で知られる源義家の像が建っている。
 勿来駅前の「朝日屋食堂」で昼食にする。ぼくは駅前食堂が大好きなのだ。
「朝日屋食堂」は駅前旅館の「朝日屋旅館」に隣りあっている。
 ここでは豚汁定食(850円)を食べた。大きな丼に入った豚汁はボリューム満点。それとタコの刺身を追加で注文したが、歯ごたえのある新鮮なタコの食感がたまらない。
 駅前食堂での昼食に満足したところで、いわき市の「林道走破行」の第1弾目を開始する。まずは「いわき勿来編」だ。
 福島県の太平洋側は「浜通り」と言われている。阿武隈川流域の中通りに対しての浜通りになるのだが、このエリアは一年を通してバイクで走れる。「東北の湘南」と言われるほど気候は温暖で、雪はほとんど降らない。とくに浜通り南部のいわき市は雪の降らないところとして知られている。このいわき市は知られざる「林道天国」なのだ。それこそ数えきれないほどの林道が網の目状に延びているし、おまけに通行止めなどのうるさい規制はほとんどなく、自由自在に走れるのが何ともいい。
 JR常磐線の勿来駅前から国道6号→国道289号で常磐道のいわき勿来ICの前を通り、四時川にかかる四時大橋を渡ったところで国道を左折し川部へ。ここから「いわき勿来編」の林道群を走りはじめる。
 第1本目の目兼横川林道の入口は川部近くの蛭田川にかかる山王橋。ここまでは常磐道のいわき勿来ICから5キロほどでしかない。山王橋の手前を右折し、0・8キロ走ると待望の目兼横川林道のダートに突入。路面は整備されていて走りやすい。最初の分岐は左へ、次は右へ、その次も右へ。ダート突入から3・6キロ地点の分岐を右に行くと、5・3キロ地点で切通しになった峠に到達だ。夏に走った時はここでウリ坊に出会った。ヨチヨチ歩きのウリ坊のかわいらしい姿が目に浮かんでくる。
 仏具山南側の峠を越え、ゆるやかな峠道を下っていく。仏具山林道との分岐点を過ぎ、弥太郎林道との分岐のT字路を右折すると横山だ。まずは第1本目の林道、ダート7・6キロの目兼横山林道を走った。
 この横山が「いわき勿来編」の林道の拠点になっている。四時川の川岸には東北電力の小さな発電所がある。それに隣合って家が一軒ある。以前は店屋をやっていた。このエリアの林道を走る時は必ずここでバイクを止め、パンを買って食べ、店のオバチャンと話したものだ。その店が今はない。それが寂しい。
 横川から第2本目の弥太郎林道を行く。0・6キロ地点でダートに突入。そこから0・1キロ地点の目兼横川林道との分岐点を直進し、渓流に沿って走る。ビッグボーイでの快適なダートラン。ダート突入地点から3・0キロ地点で藤ノ木沢林道との分岐点に出る。ここまでは幅広の走りやすい林道。路面もよく整備されている。
 藤ノ木沢林道との分岐点を過ぎると道幅は狭くなり、路面も若干、荒れてくる。以前はこの分岐から先は大荒れだった。大粒の石がゴロゴロし、路面には深い亀裂が何本もできていた。それも今は昔。福島・茨城県境の峠を目指して上っていく。
 福島・茨城県境の峠に到達。茨城県側に入ると熊ノ倉林道になる。峠から0・2キロ下ると舗装路に出る。花園渓谷沿いに走る県道27号だ。
 第2本目の弥太郎・熊ノ倉林道はダート6・6キロ。ここまでの連続ダート距離は14・2キロになった。
 県道27号に出たところで折り返し、3・3キロのダートを走り、藤ノ木沢林道との分岐まで戻る。そこには木の鳥居が立ち、階段を登ったところには山神をまつる祠がある。大山祇神社だ。この一帯の杉林は見事。きれいに枝打ちされた杉は空に向かって真っ直ぐに伸びている。雪国だとなかなかこうはいかない。この杉の美林ひとつを見ても、「いわき勿来」が雪の降らないところだということがよくわかる。
 大山祇神社前から藤ノ木沢林道に入っていく。0・8キロ地点で峠を越え、2・1キロ走ったところで四時川にかかる橋を渡る。そこは四時川林道の入口だ。
 第3本目の藤ノ木沢林道のダートは2・9キロ。ここまでの連続ダート距離は20・7キロになった。
 第4本目の四時川林道のダートに突入。四時川渓谷沿いの林道だ。四時川渓谷は落葉樹林なのでまだ冬枯れの風景だったが、紅葉の季節は目を見張るようなすばらしさ。紅葉美と渓流美の両方を見ながら走れる。新緑の季節もすごくいい。
 四時川は阿武隈高地南端の朝日山(797m)を源にしている。四時川に沿って走りつづけると、次第に細い流れになり、やがて福島・茨城の県境を流れる川になる。このあたりは茨城県最北の地でもある。四時川の上流は関東と東北を分けている。
 四時川林道のダート7・4キロ走りきると舗装路に出る。右に行けば国道289号、直進すれば小集落で行止りになる。ここまでの連続ダート距離は28・1キロだ。
 舗装路に出たところで折り返し、四時川林道→藤ノ木沢林道→弥太郎林道と走り、横山に戻った。ここから目兼横川林道経由で第5本目の仏具山林道へ。仏具山林道との分岐に到着。T字路から0・8キロの地点だ。仏具山の山頂直下の峠に向かって登っていく。この登り区間はおもしろく走れる。適度に路面は荒れ、タイトなコーナーが連続する。ブラインドのコーナーでは対向の木材満載のトラックに要注意。
 目兼横川林道との分岐点から3・9キロ地点が峠。峠を越えるとすぐに分岐に出るが、そこを左に折れ、舗装路を登ったところが仏具山(670m)の山頂になる。仏具山からの展望を楽しんだところで分岐に戻り、国道289号へと下った。
 急勾配の下りはダート→舗装→ダート→舗装と斑模様の林道になる。最後のダート区間を下って国道289号に出ると、その角にはライダーにも人気の「おやじがんこそば」がある。
 第5本目の仏具山林道は5・5キロのダート。ここまでの連続ダートは47・7キロになった。その間、雪はほとんどなかった。これはすごいことだ。この季節だと、東北のみならず、日本のほとんど林道はまだ雪に埋もれて走れない。「いわき勿来」の林道群のすごさは、一年中、走れるということだ。
 これら「いわき勿来編」の林道5本は『ツーリングマップル東北』に詳しく出ている。 さー、オフロード派のみなさん、『ツーリングマップル東北』を持って「いわき勿来」に行きましょう。50キロ近い連続ダートを走れるエリアなど、日本中を探しても、そうそうあるものではない。
 国道289号に出ると、常磐道のいわき勿来ICに近い白米鉱泉「つるの湯」へ。ここはカソリの定宿。いつも夜の10時とか11時とか、遅い時間の到着なのだが、この日は18時とまだ若干、明るい。宿の小さめな湯船につかり、湯上りのビールで「鵜ノ子岬→尻屋崎」の旅立ちに乾杯だ。そのあとで刺身や煮魚、餃子などの夕食を食べた。

21

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(12)
■2013年3月9日(土)晴「盛岡→白米鉱泉」357キロ

「東日本大震災」の2年後の東北太平洋岸を見ようと、3月9日4時、神奈川県伊勢原市の自宅を出発。相棒はスズキの250ccバイクのビッグボーイ。ほぼ新車でブルーのカラーリングが太平洋をイメージさせる。
 2010年の「林道日本一周」ではビッグボーイで92本の林道を走った。全走行距離は1万2667キロ。そのうちのダート距離は469・9キロだった。
 ビッグボーイというと、洒落た街乗りバイクのイメージが強いが、このように林道もガンガン走れる。今回はまず、いわき市の林道を走るのだ。 
 ビッグボーイはポジションの取り方がじつに楽なバイクなので、長距離走行に疲れないのがすごくいい。気負わずに自然体で林道を走れるので、まわりの風景を楽しめるし、自分と自然が一体になったかのような陶酔感を味わえる。ライトが明るいのでナイトランが楽。とくにハイビームの明るさは特筆すべきもの。燃費が良いのでタンクの小ささはあまり気にならない。給油警告灯が点灯しても50キロ以上は走れるので安心だ。
 高速道路での高速走行は想像した以上に楽で、最初のうちは100キロ走行だったが、そのうち110キロになり、120キロの長時間走行も大丈夫。粘り強いエンジンで熱ダレしない。それとチェーンが見た目以上にしっかりしている。そのおかげでチェーン調整をほとんどしないで長距離を走れる。このようにビッグボーイは林道ツーリングのみならず、長距離ツーリングを存分に楽しめるマシンなのだ。
 ところで今回の東北太平洋岸の全域を走る「鵜ノ子岬→尻屋崎2013」だが、2011年の東日本大震災によってもたらされた大津波は、想像を絶する被害を各地にもたらした。その様子を刻々と入ってくるニュースの映像で見ながらカソリ、正直いって体がまったく動かなかくなてしまった。あまりにもすさまじい映像の連続だったからだ。
 太平洋沿岸というと東北というよりも、日本の中でもぼくの一番好きなエリアといってもいいほどで、何度となくバイクで走ってきた。
『ツーリングマップル東北』でも2011年版(2010年取材)の表紙は浜通り(福島)だし、2010年版(2009年取材)は南三陸海岸(宮城)だ。
 そんな自分の一番好きな世界が大津波に襲われたという衝撃は大きく、やっと動こうという気になったのは震災2ヵ月後の2011年5月11日のことだ。まずは大津波に襲われた東北太平洋岸の全域を見ようと、第1回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走った。鵜ノ子岬(福島)は東北太平洋岸最南の岬、尻屋崎(青森)は東北太平洋岸最北の岬になる。
 あまりにもすさまじい大津波の被害を目の当たりにして、
「これはもっともっと、しっかりと見なくては!」
 と、つづいて大震災3ヵ月後の6・11、大震災半年後の9・11に第2回目、第3回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走った。それのみならず年末まで間で、浜通りとか仙台市の海岸一帯、石巻・女川…といったように「鵜ノ子岬→尻屋崎」のパートを何度か走った。 そして思ったことは、
「これからは鵜ノ子岬→尻屋崎を定期的に走ろう!」
 ということだった。
 この時点で「鵜ノ子岬→尻屋崎」は「峠越え」や「温泉めぐり」、「岬めぐり」などと同じようにカソリのライフワークになったのだ。
 2012年3月11日には大震災1年後の「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走り、夏にも走った。そして2013年の3月11日を迎えたのだ。ということで今回が第6回目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になる。

 さー、北へ。厚木ICから東名に入る。首都高を経由し、常磐道の三郷料金所へ。
 夜明けの常磐道を北へ、北へと走り、友部SAで朝食。「たまり醤油ラーメン」(650円)を食べた。ツーリングで食べる「朝ラーメン」は元気が出るものだ。
 我が家を出発してから4時間後の9時、230キロを走って北茨城ICに到着した。
 国道6号に出ると、大津漁港へ。岸壁は震災で崩れたり、陥没したままだが、やっと復興の兆しが見え始めている。漁港の一角では「市場食堂」が営業を再開し、市場食堂の隣の「よう・そろー」の物産館はまもなくリニューアルオープンする。残念ながら「北茨城市漁業歴史資料館」の方は、まだしばらくは閉館がつづくようだ。
大津漁港からは小半島をぐるりと一周する。南端の岬、鵜島ノ鼻を通り、大津岬灯台を見る。大震災で被災したが、震災1年後には新しい灯台が完成した。灯台の下には水仙の花が咲いていた。五浦岬では駐車場にビッグボーイを停め、岬まで歩いた。そこからは海越しに、やはり震災1年後に再建された「六角堂」を見る。
 五浦岬からは「六角堂」のある茨城大学美術文化研究所まで行き、「天心遺跡」(入園料300円)を見学。日本文化の近代化に大きく貢献した岡倉天心(1863~1913年)がこの地に移り住んだのは40歳の頃。「天心遺跡」には天心記念館や天心邸があり、海岸の岩場の上に六角堂が建っている。この六角堂が天心遺跡のシンボル。この近くには「天心記念美術館」もある。
 北茨城の最後は平潟漁港。鵜ノ子岬の南側で、ここが関東最北の漁港であり、関東の太平洋岸最北の地になる。大地震で鵜ノ子岬突端の岩山は崩れ、大岩が散乱していていたが、それがきれいに取り除かれていた。アンコウ漁で知られる平潟漁港も大きな被害を受けたが、漁港の岸壁のかさ上げ工事が行なわれていた。大震災2年目にしてやっと動き出したという感じで、元通りの平潟漁港の姿を取り戻そうとしている。平潟漁港の魚市場で、水揚げされたばかりの大物アンコウを持たせてもらった何年か前の日が、懐かしく思い出されてくるのだった。
 北茨城の平潟漁港からいったん国道6号に出ると、茨城県から福島県に入る。関東から東北に入ったのだ。すぐに国道6号を右折し、勿来漁港でビッグボーイを止めた。鵜ノ子岬北側の漁港で、ここが東北太平洋岸最南の地になる。
 テトラポットで守られている堤防の上に立ち、岩山が海に落ち込む鵜ノ子岬を眺める。岩肌にはくっきりと大津波の痕跡が残されている。ポッカリと開いた海食洞の大穴からは、鵜ノ子岬南側の平潟漁港が見えている。
「鵜ノ子岬→尻屋崎2013」の開始だ!

19

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(11)
■2012年3月20日(火)雪のち晴のち一時雪 「盛岡→東京」632キロ

 夜明けとともに雪の盛岡を歩いた。チラチラ雪が降っている。
 盛岡駅前から歩きはじめ、開運橋を渡ったところでは凍った雪道に足を滑らせてたてつづけに2度、3度と転倒した。バイクでなくてよかった。目抜き通りの商店街を抜け、盛岡城跡まで歩いたところで折り返し,盛岡駅前に戻った。
「東横イン」の「おにぎり&せんべい汁」の朝食を食べ、9時に出発。出発時間を遅らせたのは、すこしでも雪がとけてから走ろうと思ったからだ。
 出発を1時間、遅らせたのは大成功。その間に天気が変わり、青空が広がり、日が差している。路面の凍りついた雪もシャーベット状になっている。
 盛岡駅前から国道4号に出ると、もう路面に雪はない。スズキV-ストロームを前日とはうってかわって高速で走らせることができた。
 10時45分、花巻に到着。
 花巻では宮沢賢治命名の北上川の「イギリス海岸」を見る。そして丘陵地帯にある「宮沢賢治記念館」(入館料350円)を見学する。ここでは地元のライダー和田福助さんに出会った。
 和田さんには「カソリさん、頑張って!」
 と、「魚肉ソーセージ&リポビタンD」の差し入れをいただいた。
 花巻からさらに国道4号を南下。
 前沢では前沢温泉「舞鶴の湯」(入浴料500円)に入り、「牛の博物館」(入館料400円)を見学。そのあと博物館前のレストランで前沢牛を食べた。一番安いメニューの「前沢牛の南部鉄器焼き」だったが、それでも4000円…。
 前沢では武内さん一家と再会。一緒に平泉まで行き中尊寺を参拝。平泉で武内さん一家と別れた。
 18時、一関ICで東北道に入り、一路東京へ。
 もう大丈夫とばかりに夜の東北道を飛ばした。東京までは一気に走るつもりでいた。ところが宮城県に入り、仙台を過ぎた頃から雪が降り始めた。白石を過ぎるとかなりの雪。またしても恐怖の高速道路での雪だ。
 辛くも国見峠を越えて福島県に入ったが、峠を下った国見ICで高速を降り、国道4号を南下した。福島、郡山と通り、雪が止んだところで白河ICで再度、東北道に入った。 最後の最後まで雪に泣かされた3月の東北だったが、関東に入ると見上げる夜空は一面の星空。24時、東北道の浦和料金所に到着。盛岡から542キロ。ここから首都高→東名で神奈川県伊勢原市の我が家に到着したのは2時。V-ストロームでの走行距離は2775キロになった。

17

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(10)
■2012年3月19日(月)雪のち晴のち雪 「田老→盛岡」335キロ

 ひと晩中降った雪は明け方には止んだ。まずはひと安心。朝湯に入り、朝食は古山夫妻と一緒に食べる。食べ終わったところで古山夫妻と別れた。
  8時、「グリンピア三陸みやこ」を出発。ありがたいことに青空が広がっている。スズキのV-ストロームを走らせ、まずは国道45号へ。その間の雪は心配したほどでもなかった。ところが国道45号を北上するにつれて路面の雪が多くなった。下り坂が恐怖。速度をガクッと落として走った。ツルンツルンのアイスバーンでは足を着きながら走った。 小本を通り、田野畑村に入っていく。
 いよいよ最大の難関、国道45号の最高所にもなっている閉伊坂峠に挑戦だ。
 長い登りがつづく。雪との格闘の連続だ。気温は0度近いのだが、暑くて汗が出るほど。峠の頂上に到達したときは思わず「ヤッタ!」のガッツポーズ。しかし峠道の下りは登りよりもさらに大変だ。たえずバックミラーで後続車を確認しながら走った。後続車が来るといったん路肩に避け、車の流れが途切れたところでふたたび峠道を下った。
 閉伊坂峠を下ると雪が消えた。
 普代村、野田村と国道45号の路面に雪はなかった。
 久慈からさらに国道45号を北上。岩手県から青森県に入り、11時30分、八戸に到着。八戸は青空が広がり、国道45号に雪はなかった。
 八戸から国道45号→国道338号で下北半島に向かっていく。
 三沢を過ぎると天気は急変。空はあっというまに鉛色に変わり、そのうち雪が降り出す。雪は激しさを増す。猛烈な西からの風が吹きはじめ、吹雪になった。V-ストロームがフワッと舞い上がりそうになるほどの風の強さだ。
 ラムサール条約の登録地にもなっている仏沼まで行ったところで断念、ここを最後に東京に戻ることにした。尻屋崎まであと100キロの地点。ゴーゴーと吹き付ける吹雪の中で立ち尽くし、3月の東北の自然の厳しさをかみしめた。
 三沢まで戻ると、「三陸温泉」(入浴料250円)の湯に入り、湯から上がると休憩室で昼食。koshiさんの差し入れの魚肉ソーセージやチーかま、ぴり辛ちくわ、温泉卵を食べた。これは朝、出ようとすると、V-ストロームのハンドルに掛けられたビニール袋に入っていたものだ。手紙と先日の写真も添えられていた。
 最後にカンコーヒーを飲み、「リポビタンD」を飲み、出発。カンコーヒーもリポDもkoshiさんの差し入れだ。
 三沢から八戸に戻ると雪は止み、何事もなかったかのように青空が広がり、日が差していた。
 15時20分、八戸北ICで八戸道に入った。
 八戸道→東北道で一気に東京まで走るつもりでいた。
 ところが東北の3月はそれほど甘くはなかった。軽米ICを過ぎた頃から雪が降りはじめ、九戸ICを過ぎるとかなり激しい雪になった。路面はあっというまに白くなる。
「これはもうダメだ…」
 と路肩に出て、ハザードランプを点滅させて速度を落として走った。
 次の一戸ICで高速を降り、国道4号を南下。雪は一段と激しさを増す。とにかく転倒しないように走ったが、ここでの最大の難所は国道4号最高地点の十三本木峠(中山峠)越えだ。この十三本木峠を死にもの狂いで越えた。我ながらよくぞ越えられたと思うほどの雪の峠越えだった。
 沼宮内、渋民と通り、盛岡市内に入るともう大雪の様相。ボソボソバサバサと降っている。からくも盛岡駅前に到着。駅前の「東横イン」に飛び込みで行って泊まれたときは、心底、「助かったー!」と声が出た。

16

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(9)
■2012年3月18日(日)晴のち雪 「気仙沼→田老」157キロ

 スズキ二輪のMさんと「スズキきずなキャリイキャラバン」のみなさんと一緒に、早朝の気仙沼を歩く。海岸地帯はまだ復興とはほど遠い状態だが、瓦礫のとり除かれたあとに花壇がつくられ、草花の芽を出しているのを見てほっと救われた。
 7時、朝食。8時、出発。
 今日の目的地は大船渡。「スズキきずなキャリイキャラバン」のみなさんの乗った車をV-ストロームでフォローする。
 宮城県から岩手県に入り、陸前高田を通り、9時、大船渡の「オートランドリッキー」に到着。国道45号と国道107号の交差点に店がある。ここは新しい店で、元の店は大津波で流された。「オートランドリッキー」の三条社長はそれにも屈することなく、すぐさまこの新しい店を立ち上げた。お客さんの所有している土地と建物を借り、それを新店舗にしたのだ。
 さらにうれしいことに、震災1年を前にして三条社長は借りていた土地と店舗を買い取り、名実ともに自分の店にした。隣接した土地には何年か後にはビルを建て、立派なショールームにしたいと熱をこめて語ってくれた。
 大津波にも全く負けていない人の話を聞いてぼくも心が熱くなった。
 大船渡からも、大阪モーターサイクルショー会場のスズキブースのMC原智美さんに携帯で電話し、大船渡の状況や「オートランドリッキー」の様子などを話し、三条社長にも登場してもらった。このような携帯でのトークショーを午前1回、午後2回、合計3回やったが、これが最後だ。
 三条社長には昼時、「ニュー香園」という中華料理店につれていってもらったが、そのついでに大船渡の町中を案内してもらった。大船渡にも仮設の商店街や屋台村が誕生し、復興の芽生えを感じさせた。
「スズキきずなキャリイキャラバン」はバイク、スクーターの無料点検だけでなく、電動スクーター「E-レッツ」の試乗会も兼ねている。それになんと神奈川県からやってきた古山夫妻が車に乗って来てくれた。旧知の古山夫妻は日本のみならず海外もバイクで走っているが、今回は車での東北旅。カソリが大船渡の「オートランドリッキー」いるという情報を聞きつけて来てくれた。
 さっそくE-レッツを試乗した2人だが、「新しい世界をのぞいたような気分!」とその印象を話してくれた。ぼくは今晩、田老の「グリーンピア三陸みやこ」に泊まるつもりにしていたが、古山夫妻もそれに合わせて「グリーンピア三陸みやこ」に泊まるという。 15時30分、「オートランドリッキー」での「スズキきずなキャリイキャラバン」の活動終了。みなさんとは大船渡で別れ、V-ストロームを走らせ、国道45号を北へ。
 釜石、大槌、山田を通り、夕暮れの宮古に着いた。
 宮古を過ぎるとまたしても雪…。前回ほどの降り方ではなかったので無事、田老の「グリーンピア三陸みやこ」に到着することができた。湯につかり、湯から上がる頃、古山夫妻もやってきた。一緒に夕食を食べ、そのあとはぼくの部屋での飲み会。ビールを飲みながら2人の東北旅の話を聞いた。

12

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(8)
■2012年3月17日(土)晴のち雨 「松島→気仙沼」117キロ

 前日と同じように夜明けとともに起き、「松島センチュリーホテル」の朝湯に入り、湯から上がると松島を歩いた。天気予報は雨だったが、青空が広がっているのがうれしい。 7時、朝食。8時30分、スズキ二輪のMさんとホテルを出る。そして「スズキきずなキャリイキャラバン」のみなさんの乗った車がホテルにやってきてV-ストロームで後ろについて走った。
 今日の目的地も石巻。「スズキきずなキャリイキャラバン」は石巻の中心街、合同庁舎前にある「山口輪業」に行った。ここは石巻の海岸から4キロ近くも離れているのに大津波に襲われ、「山口輪業」は全壊した。社長の山口さんは目の前の合同庁舎に逃げ込み、その後は5、6キロも離れた避難所暮らしがつづいた。
 山口社長のバイク店にかける想い、情熱はすごいもので毎日、避難所から「山口輪業」まで通い、店のあとかたづけをした。全国から駆けつけてくれたボランティアの人たちにはずいぶんと助けられたという。
 すべてを流されてしまったので一からの出直しだったが、「俺は日本一の借金大魔王」といって笑い飛ばすような豪快な山口さんは借りられるだけのお金を借りて、被災後、何と1ヵ月で仮店舗をオープンさせたという。まさに「不屈の男」だ。
 前日と同じように、ここ「山口輪業」から大阪モーターサイクルショー会場のスズキ・ブースのMC原智美さんに携帯で午前1回、午後2回、合計3回、大津波に襲われた「山口輪業」の様子やその復興の具合を話し、山口社長にも登場してもらった。
 それにしても不思議な気分だったのは、「アナログのカソリ」といわれるくらいで、「携帯などは絶対に持たない!」といってたのに、こうして携帯で石巻から大阪モーターサイクルショーに来てくれているみなさんに話しかけていることだった。
 天気予報は当り、午後から雨になった。
 15時30分、「スズキきずなキャリイキャラバン」はバイク、スクーターの無料点検を終え、「山口輪業」を出発。気仙沼へと向かっていく。冷たい雨の中の走行は辛いものがあるが、「雪にならなくてよかった!」と天に感謝した。
 気仙沼に到着したのは18時30分。高台上の「ホテル望洋」に泊まり、スズキ二輪のMさんや「スズキきずなキャリイキャラバン」のみなさんと一緒に夜の気仙沼を歩き、仮設の「復興屋台村」にある「はまらん家」という店に入った。まずはみなさんと生ビールで乾杯。これがうまい。気仙沼名物の「はまらん焼」を食べながら、さらに乾杯を繰り返した。

11

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(7)
■2012年3月16日(金)晴 「松島→松島」59キロ

 夜明けとともに起き「松島センチュリーホテル」の朝湯に入る。湯から上がると早朝の松島を歩いた。まだ人出のない「日本三景」の松島を存分に楽しんだ。
 7時、朝食。8時30分、スズキ二輪のMさんとホテルを出る。
「スズキきずなキャリーキャラバン」のみなさんの乗った車がホテルにやってきて、V-ストロームで後について走る。
 目的地は石巻。万石浦から県道234号を行ったところにある「石巻バイパス仮設住宅」に行った。ここには236戸あるとのことで、石巻や女川の被災者が住んでいる。
 バイクやスクーターはみなさんにとっての重要な足。スズキはそれらを無料で点検している。まさに東北の復興支援への応援だ。
 カソリは何をするかというと、ここから大阪モーターサイクルショー会場のスズキ・ブースに携帯で電話し、MCの原智美さんに現地の様子、「スズキきずなキャリーキャラバン」の活動の様子などを午前中に1回、午後2回、合計3回、話すのだ。
 すごくよかったのはここではいろいろな話を聞けたことだ。
 女川の尾浦の漁師さんの話は興味深かった。
 銀ザケ、ホタテ、カキ、ホヤの養殖が尾浦の漁業の4本柱だったが、大津波ですべてが全滅した。とくに出荷直前の銀ザケの被害が大きかったという。
 同じく女川の尾浦の漁師の奥さんは海は怖くて見られない、松島の遊覧船も怖くて乗れない、瓦礫の山を見ると気持ちが暗くなってしまう、この1年は毎日のように泣いていると、いっていた。
 日本中から来てくれたボランティアの人たちに助けられた、家が流されたとたんに親戚の人たちがすーっと離れていった、1日も早く以前のような家に住みたいといった話も聞いた。身につまされるような被災者のみなさんの声だ。
「石巻バイパス仮設住宅」での活動は15時30分で終了。「松島センチュリーホテル」に連泊するのでみなさんと別れ、V-ストロームを走らせ、石巻、奥松島をまわって松島に戻った。
 その夜は「松島センチュリーホテル」近くの「さんとり茶屋」でスズキ二輪のMさんと夕食をともにする。タコの唐揚げ、カキの殻焼き、ホッキの刺身などを食べながら地酒の「小僧山水」をしこたま飲んだ。

10

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(6)
■2012年3月15日(木)雨のち晴 「大船渡→松島」298キロ

「富山温泉」の朝湯に入り、7時30分、出発。出がけに社長の富山さんから、「よく来てくれた」といってヤクルトを5本もらった。宿泊費が3000円だというのに…。このあたりにも東北人の心の暖かさを感じた。
 国道45号沿いの「ローソン」で幕の内弁当を食べ、碁石岬へ。
 今日はスズキV-ストロームを走らせ、三陸海岸の岬めぐりをするのだ。
 末崎半島突端の碁石岬に立つと、右手には広田半島の広田崎、正面には長々と横たわる唐桑半島が見える。その突端が御崎だ。
 次に大船渡市から陸前高田市に入り、広田半島南端の広田崎へ。そこからはウミネコの椿島が見える。
 陸前高田からは国道45号を行き、宮城県に入り、唐桑半島突端の御崎へ。
 御崎には御崎神社が祭られ、そこから先は自然遊歩道になっている。うっそうと茂るタブやツバキなどの照葉樹林によって、岬突端への小道は昼でも暗い。
 黒潮の影響で、このあたりまで暖地性の照葉樹林が北に延びてきている。
 小道のわきには苔むした鯨塚があった。その昔は供養塔の塚が立つほどの鯨を捕った。 岬先端の灯台の先には、黒色粘板岩の岩場が幅30メートル、長さ100メートルにわたって海に突き出ている。「八艘曳」と呼ばれる岩場で、御崎神社の祭神が8艘の船を従えてこの岩に上陸したという。まさに「御崎」なのだ。
 気仙沼から国道45号で南三陸町の志津川へ。ここでは往路では入れなかったバス・ラーメンの「蔵八ラーメン亭」で「広東麺&餃子」(1150円)を食べた。ちょっとした旅行気分で食べられた。
 南三陸からは国道398号で雄勝を通り女川へ。
 女川からはコバルトラインで牡鹿半島に入っていく。震災直後から通行止になっていたコバルトラインは今は半分くらいまでは通行できる。
 牡鹿半島の中心、鮎川の町は地震と大津波で全滅したが、1年たってもそれほど変らない。鮎川から御番所山の展望台まで行き、目の前の金華山を眺めた。
 鮎川からは牡鹿半島西岸の県道2号で石巻へ。
 石巻からは国道45号を走り、20時、松島に到着。「松島センチュリーホテル」の大浴場にどっぷりとつかった。ここは松島温泉の湯だ。
 スズキ二輪のMさんと落ち合うと、一緒にホテルの近くの居酒屋へ。まずは生ビールで乾杯。牛タン、刺身を肴にして飲むほどに、中国談義にも花を咲かせた。2008年のスズキ・アドレスV125Gでの「広州→上海」の中国ツーリングにはMさんも同行してくれたのだ。

09

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(5)
■2012年3月14日(水)晴のち曇 「田老→大船渡」163キロ

「グリンピア三陸みやこ」の朝湯に入る。大浴場の湯にどっぷりつかる。温泉でないのがちょっと残念。朝食を食べ、7時44分のバスで三陸鉄道北リアス線の田老駅に戻る。田老駅前に到着したのは7時58分。あたりは一面の雪景色で路面の雪は凍りつきアイスバーン状態だ。ツルツル滑るので歩くのも楽でない。
 この道を走って北に向かうのは無理だ。
 じつは明日(3月15日)の夜、スズキ二輪のMさんと松島で落ち合うことになっている。その後、3日間、「スズキキャリー・キャラバン」に同行して石巻、大船渡とまわることになっていた。
 ぼくの最初の予定では東北太平洋岸最北端の尻屋崎まで行き、そこから松島まで戻るつもりでいた。ところがこの雪では尻屋崎まで行けるかどうかわからない。そこで田老から松島まで戻り、石巻、大船渡での「スズキキャリー・キャラバン」のイベントを終え、大船渡から再度、尻屋崎を目指すことにした。
 田老から松島までは往路では見られなかったところ、行けなかったところを2日がかりで走ることにした。
 まずは田老だ。
 気温が上がるまで田老を歩く。大津波に襲われ、壊滅状態の田老の町の端から端まで歩き、10時に田老駅に戻ってきた。わずか2時間だが路面の雪はかなりとけ、アイスバーンはシャーベット状になっている。
「それ、行け!」
 と、気合を入れて出発だ。
 スズキV-ストロームを走らせ、国道45号で宮古へ。
「進むも地獄、戻るも地獄」とはまさにこのことで、いくら路面の雪がとけてきたとはいえ、宮古までの国道45号にはかなりの雪が積もっていた。日影に入るとパリンパリンのアイスバーン。その間はいったん路肩に出、後続車が途切れたところで足を着きながら低速で走った。田老から宮古までは15キロでしかないが、わずか15キロを1時間近くかけて走った。
 宮古に到着すると宮古漁港をまわり、山田へと国道45号を南下する。
 ありがたいことに宮古を過ぎると路面の雪は消え、難所のブナ峠も路面にはまったく雪はなかった。
 山田に到着すると「いっぷく食堂」で定食。「焼き魚定食」(800円)を食べた。山田にも雪はなく、
「これなら行けるかもしれない」
 とばかりに、本州最東端のとどヶ崎を目指した。岬入口の姉吉は今回の大津波では38・9メートルという最大波高を記録したところだ。しかし甘かった。この姉吉への道も雪との格闘の末に断念…。山田に戻った。
 山田からは大槌、釜石と通り、大船渡で泊まることにした。
 18時、大船渡に到着。
 するとまるでそれに合わせるかのように、不気味なサイレンが町中に鳴り響いた。津波注意報が発令されたという。幸い大きな津波は押し寄せてこなかったようだが、ここでは宿探しが大変。町中を走り、「つつみ旅館」、「大船渡プラザホテル」、「ホテル丸森」…と営業している旅館やホテルを片っ端から当ったが、どこも満員だ。
 大震災から残った旅館やホテルは数が少なく、日本中からやってきた復興事業関連の長期滞在者でどこも満杯状態なのだ。宿がとれず、内陸の遠野とか一関、北上、花巻に宿をとって大船渡まで通う人たちも多くいるという。
 すごくラッキーだったのは地元の人に富山温泉を教えてもらったことだ。
 富山温泉というのは大船渡の近郊にある一軒宿の温泉で、日帰り湯がメインだが、何人かは泊まれるという。ダメモトで行ってみると、うまい具合に泊まれた。
 さっそく湯に入り、湯から上がったところで部屋で夕食。カンビールを飲みながら、スーパーの握りずしを食べた。いやー、助かった。ここは素泊まりで3000円。湯は十分によかった。「富山温泉」というのは、温泉を掘り当てた富山さんの名前から取ったものだという。

08

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(4)
■2012年3月13日(火)晴のち雪 「石巻→田老」230キロ
 民宿「小滝荘」の朝食を食べ、7時出発。スズキV-ストロームを走らせ、相川漁港へ。ちょうどそこでは三陸産ワカメの水揚げが始まっていた。みなさんの生き生きとした表情が印象的。やっとワカメを採れるようになったという喜びが満ちあふれていた。
「写真を撮らせてくださーい!」と声を掛けると、漁師の奥さんは「兄さん、ちょっと待っててね。今、家に帰ってツケマツゲしてくるから」という。何という明るさ、茶目っ気。その一言で全員、大爆笑。
 その奥さんは「あそこの大鍋でさっと茹でて食べなさい」といて採れたてのワカメをポンと投げてくれた。いわれたとおり、グラグラ煮立った大鍋にワカメを入れるとコンブ色のワカメがその瞬間、きれいな緑色に変る。それをむさぼり喰った。じつにうまいものだ。港に揚げたワカメはこのようにしてさっと茹で上げるという。
 相川漁港のワカメ採りのみなさんに別れを告げ、漁港近くの相川小学校に行く。3階建の校舎は3階まで全滅していたが、70余名の生徒全員は学校の裏山に駆け登り、一人の犠牲者も出さなかった。これはすごいことだ。
 相川から国道398号を北上し、石巻市から南三陸町に入る。神割崎の真二つに割れた「神割伝説」の大岩を見て、大津波を連想させる地名の「波伝谷」を通り、国道45号に合流した。
 志津川湾を見ながら志津川の町へ。
 以前は「海の畑」を思わせる志津川湾だったが、養殖筏は大津波で根こそぎやられ、まる裸にされたような海になってしまった。そんな志津川湾に少しづつだが、養殖筏が増えはじめている。志津川湾を見下ろす弁天崎の南三陸温泉「観洋」は無傷で残り、震災直後は避難所になっていてが、今は営業を再開している。温泉のほとんどない三陸海岸なだけにここは貴重な存在だ。
 志津川の町中に入っていくと、震災から1年が過ぎたというのに茫然としてしまうような光景が広がっている。復興にはほど遠い光景。その中にあってポツンと1軒、仮店舗で営業を始めた店があった。その店の前でV-ストロームを停め、自販機のカンコーヒーを飲んだ。それと目についたのは「蔵八ラーメン亭」というバスのラーメン屋。残念ながらまだ営業時間前で食べられなかったが…。
 志津川につづいて歌津の町に入っていく。ここも壊滅状態。海沿いを走る国道45号の高架橋は落ちたままだ。そんな歌津の町並みをJR気仙沼線の歌津駅から見下ろした。線路が流された気仙沼線の開通の見込みはまったくたっていない。「ウタツギョリュウ」の化石が展示されていた「魚竜館」も大きな被害を受けたまま閉鎖されている。南三陸町というのは2005年10月に志津川町と歌津町が合併して誕生した町だ。
 国道45号で南三陸町から気仙沼市に入っていく。元吉の手前で津谷川の河口にかかる小泉大橋の仮橋を渡った。この仮橋の完成以前は、狭い迂回路に入り、大きく迂回しなくてはならなかったが、こうして三陸海岸幹線の国道45号が普通に通れるようになると、復興に向かって一歩づつ進んでいるのを実感できる。
 気仙沼では潮吹岩で知られる岩井崎に寄り道した。国道45号から岬までの道沿いは大津波にやられたままで、生々しい大津波の爪痕を見せている。岩井崎の食堂や土産物店、旅館もすべて破壊されていた。それが何とも不思議なことに、岬の突端に建つ第9代横綱の秀ノ山像は無傷で残った。ここはまさに「奇跡のポイント」だ。
 岩井崎をあとにして、気仙沼の中心街に入っていく。
 JR気仙沼線の南気仙沼駅周辺は大津波に激しくやられたところで、大震災から1年がたち、やっと水が引きはじめている。遅れていた瓦礫撤去が本格的に始まったという状態。それが気仙沼駅の周辺になるとまったく大津波の被害を受けていない。ほんのわずかな高さの違い、地形の違いでこれほどまでの差が出るのが津波の被害だ。
 気仙沼湾は奥深くまで切れ込んだ海。その海を突っ切って何隻もの大型の漁船が陸地に乗り上げた。大震災2ヵ月後の時点では折り重なった乗り上げ船の下をくぐり抜けていく迷路のような道もあったが、今ではその大半はとり除かれている。
 気仙沼では仮設商店街の「復幸マルシェ」が完成し、その中にある食堂「団平」で昼食。「釜あげうどん」(600円)を食べた。
 気仙沼から国道45号を北上。県境を越え、宮城県から岩手県の陸前高田市に入っていく。
 気仙川の河口にかかる気仙大橋は大津波で流された。そのため陸前高田の町に入っていくのには、気仙川沿いにさかのぼり、大きく迂回し、国道343号→340号で荒野と化した陸前高田の町中を走り抜け、気仙大橋の対岸に渡らなくてはならなかった。大変な時間のロスだった。それが仮橋の完成で、今では震災以前と同じように陸前高田の町に入っていけるようになっている。
 今回の大震災では一番、といってもいいような大津波の被害を受けた陸前高田は壊滅状態。瓦礫はほとんど撤去され、うず高く積まれていた瓦礫の山も大分、処分されていた。しかしあまりにもすさまじくやられたので、復興の芽すら見られないというのが現状だ。「日本三大松原」に次ぐくらいの高田松原は全滅し、7万本以上もあった海岸の松はすべて流された。その中でかろうじて残ったのが「奇跡の松」。何としても生き延び、陸前高田の復興のシンボルになってもらいたいものだったが、潮をかぶった松は残念ながら立ってはいるものの枯れてしまった。
 陸前高田から通岡峠を越え、大船渡市に入っていく。
 国道45号から海沿いの道に入り、魚市場でV-ストロームを停めた。魚市場は再開されている。魚市場が再開されると町は活気づく。魚市場前にはコンビニの「ヤマザキ」が新しくオープンしている。
 JR大船渡線(運休中)の線路に沿って走り、大船渡の中心街へ。瓦礫はほとんど取り除かれている。大船渡駅の周辺が大船渡の中心街だったが、町は壊滅状態。さらに大船渡線の線路に沿って走り、盛駅へ。そこが大船渡線の終点だが、盛駅の駅前通り周辺は大津波の影響をほとんど受けていない。ここでもわずかな高さの違い、地形の違いによる大津波の被害の有無、濃淡を見せつけられた。
 大船渡から県道9号で綾里へ。綾里漁港では岸壁にいた漁師の話を聞いた。その人は大地震の直後、船を沖に出して無事だったという。このあたりの海はすぐに深くなるので港外に出れば高波やられることはないという。何度となく大津波に襲われてきた綾里の人ならではの話だ。
 地盤沈下した綾里漁港の岸壁は70センチ、かさ上げされていた。それでも綾里漁港の復興はまだまだ先だという。
「2年、3年ではどうしようもない。20年、30年でも無理だな。元通りになるまでに50年はかかるな。その頃にはまた次の大津波がやってくるよ」
 といって笑った漁師さんだが、その言葉は胸に残った。
 綾里漁港前の高台上の家々は無事、その下の家々は全滅という1本の線を境にして明暗を分けていた。高台上の家々は昭和三陸大津波(1933年3月3日)のあと、高台に移転して造られた。高台下の家々は最近になって造られた。
 三陸鉄道南リアス線の綾里駅前には明治三陸大津波と昭和三陸大津波の被害状況が克明に記されている。それには「津波の恐ろしさを語り合い、高台に避難することを後世に伝えてください」と書かれている。
 綾里は今回の大津波でも40メートル超の最大波高の大津波に襲われたが、「津波教育」が徹底しているおかげで死者は30人ほどですんだ。ちなみに明治三陸大津波では旧綾里村では1269人もの死者を出している。
 国道45号に合流すると羅生峠を越え、吉浜湾の吉浜へ。ここまでが大船渡市になる。 吉浜では吉浜川の河口に行った。堤防は大津波にやられ、かなり破壊されている。それにもかかわらず吉浜の集落にはほとんど被害が出ていない。その理由は綾里と同じで、昭和三陸大津波のあと、集落を高台に移したからだ。そんな吉浜の河口からは「津波石」が見つかった。昭和三陸大津波の記録が彫り刻まれていた「津波石」が今回の大津波で土砂が取り除かれ、地表に姿を現したのだ。
 吉浜からは鍬台峠を越え、釜石市に入る。
 国道45号の峠はすべて長いトンネルで貫かれているが、峠を越えると海が変る。
 鍬台峠を越えると唐丹湾になる。唐丹湾岸の小白浜の海岸は巨大防潮堤がなぎ倒された現場だが、高台下の瓦礫はきれいに撤去されていた。この破壊された巨大防潮堤を見ると、大津波のすさまじさを実感するが、その反面、半分はきれいに残っているので工事に手抜きはなかったのか…という疑問にもとらわれる。
 釜石市内に入ると釜石港へ。地盤が沈下した影響で釜石港周辺はかなりの地域が浸水したままだ。そんな釜石港の堤防を突き破って3000トン級の大型貨物船、パナマ船籍の中国船「アジアシンフォニー」が乗り上げた。今回の大津波を象徴するかのような乗り上げ船。その中にあって最大の「アジアシンフォニー」も、昨年の10月には日本最大級のクレーン船によって吊り上げられ、海に戻された。しかし釜石港の復興はまだまだ遠いものがあり、閉鎖された港内には入れなかった。
 釜石から大槌、山田と通り、宮古へ。
 大槌、山田ともに大きな被害を出したところだ。
 山田では山田漁港周辺の巨大防潮堤を見てまわった。防潮堤は残ったのに、山田の中心街は壊滅状態。大津波はこの巨大防潮堤を軽々と乗り越えたいった。
 山田では車に乗ったkoshiさんに出会った。いままでに何度となく会った人。koshiさんと一緒に宮古まで行く。天気は崩れ、雪になった。ブナ峠が難所だったが、無事に越えられた。
 宮古に到着したのは日が暮れたころ。かなりの雪でボソボソ降っている。
 宮古の町を過ぎたところでkoshiさんと別れた。
 宮古からはナイトラン。雪の国道45号を行く。気温が急激に下がり、雪が激しくなる。あっというまに路面は真っ白になる。
「ヤバイ!」
 このままでは転倒だ…。V-ストロームの速度を落とし、路肩をソロソロと走る。トンネルを抜け出た下り坂が恐怖。
「あー、もうダメだ…」
 と何度、思ったことか。
 田老に近づいた。そのときV-ストロームのすぐ後を走ってくれている車に気がついた。何とkoshiさんが心配して戻ってきてくれたのだ。
 田老に到着。とにかく三陸鉄道の田老駅まで行こうと思った。それが簡単ではない。国道45号を左に折れ、わずかに下らなくてはならない。
「ここは勝負だ!」
 ツルツルの雪道を清水の舞台から飛び降りるような気持ちで下り、ついに転倒することなく田老駅に着いた。
 雪はより激しくなり、もうまったく身動きがとれない。こういうときのためにキャンピング用具一式を持ってきていたので、田老駅の駐車場でひと晩、寝ようと思った。
 するとkoshiさんは「バイクを置いて、グリーンピアまで行ってみましょう」という。V-ストロームを田老駅の駐車場に置くと、koshiさんの車に乗せてもらい、田老の「グリーンピア三陸みやこ」まで行った。すると何ともラッキーなことに泊まれた。
 レストランで一緒に食事したが、koshiさんは地獄で出会った仏のような人だった。

06

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(3)
■2012年3月12日(月)晴 「相馬→石巻」201キロ
 相馬市の蒲庭温泉「蒲庭館」の朝湯に入り、大広間での朝食。この近くには東北電力の原町火力発電所があり、その復旧工事の作業員のみなさんで宿はほぼ満員。温泉卵、のり、塩ジャケの朝食を食べ、8時出発。カソリのV-ストロームが先を走り、斎藤さんの四駆がフォローする。
 県道74号で相馬の町中に入り、県道38号で松川浦に向かう。国道6号の相馬バイパスを横切ると、その途端、大津波に襲われた被災地に入っていく。この国道6号のバイパスという1本の線を境にして、世界がガラリと変ってしまうのだ。それでも松川浦へとつづく被災地一帯の瓦礫は撤去され、乗り上げ船や散乱していた車の残骸はもうほとんど見られない。
 松川浦の漁港は「東日本大震災」から1年たってずいぶんと変わっていた。折り重なるようにして陸地に乗り上げた無数の乗り上げ船は1隻も見られない。目抜き通り沿いのホテルや旅館、食堂の何軒かは営業を再開している。新しいビルの建設も始まっている。漁港には数多くの漁船が集結し、松川浦全体に活気を感じた。
 松川浦漁港を拠点にしての漁が再開され、元通りの賑わいが戻ることを願うばかりだ。 風光明媚な松川浦は北側の原釜と南側の磯部との間にある長さ7キロの潟湖。北端が海への出口で、そこには全長519メートルの斜長橋、松川浦大橋がかかっている。
 松川浦大橋を渡ったところが鵜ノ尾岬。そこから南へ、松川浦東岸の砂嘴が磯部まで延びている。砂嘴上の道は大洲松川浦ラインと呼ばれる快適な2車線の海浜道路。「日本の渚100選」にも選ばれている大洲海岸を通っていく。大洲海岸には大洲公園もある。
 大津波の直撃を受けた大洲海岸の一帯だけで500人近い犠牲者が出た。
 今回の大津波は松川浦東岸の砂嘴をズタズタに寸断してしまった。ものすごい津波の破壊力だ。大津波は地図をも変えてしまった。砂嘴沿いに今、仮設の道路が造られているが、それが完成したらまた大洲松川浦ラインは復活するのだろうか…。
 松川浦大橋は通行止なので、そこから海岸近くの県道38号を北上していく。相馬市から新地町に入ると、新地の火力発電所前を通るが、この石炭火力の発電所は操業を再開している。
 新地に到着。海沿いの町並みは消え去り、JR常磐線の新地駅は跡形もない。高さ21メートルの大津波に襲われた新地の海岸一帯には家一軒、残っていない。まさに荒野の風景。その中に立って、言葉もなかった。
 福島県道38号はそのまま県境を越えて宮城県の県道38号になるが、県境の手前の川にかかる橋は落下したままで通行不能。そこでいったん国道6号に出て宮城県に入った。 国道6号で山元町を通り、亘理町に入っていく。
「亘理」といえば、亘理伊達家の城下町。伊達成実以来、亘理伊達家は15代つづいた。明治維新を迎えると、城下の士族たちは北海道に渡り、伊達紋別の新地を開拓した。JR常磐線の亘理駅は亘理城を模した造りだし、駅前には郷土資料館がある。郷土資料館ではそんな城下町としての亘理の歴史を見ることができる。
 亘理からは県道10号を行く。
 まずは阿武隈川河口の荒浜へ。ここは阿武隈川船運の拠点としておおいに繁栄した。伊達藩の時代は塩釜と並ぶ2大港になっていた。その荒浜が大津波の直撃を受けて壊滅的な被害を受けた。荒浜漁港に行くと、港はずいぶんと整備され、漁も再開されていた。ちょうど漁を終えた漁船が戻ったところでスズキが水揚げされていた。
 漁港の前には仮設の「鳥の海ふれあい市場」がオープンした。マイクロバスでやってきた津波ツアーの観光客たちが海産物を買い求めていた。「東日本大震災」から1年、今ではこのような津波ツアーの大型バスやマイクロバスをかなり見るようになっている。
 荒浜漁港は阿武隈川の河口ではなく、河口の潟湖、鳥の海に面している。その海への出口近くに温泉施設の「鳥の海」がある。大改装して4階建にして間もないのだが、1階部分はほぼ全滅。津波から1年たっているが、再開の見込みはまったくないという。「鳥の海」の前には巨大な瓦礫の山がいくつもできていた。
 荒浜を出発。県道10号に戻ると、亘理大橋で東北第2の大河、阿武隈川を渡り、岩沼市に入っていく。県道20号との交差点を過ぎると仙台空港の滑走路下のトンネルに突入。「東日本大震災」の2ヵ月後に来たときは、このあたり一帯はすさまじい状況になっていた。車の残骸が散乱しているだけでなく、軽飛行機の残骸も何機も見られた。それらの残骸はきれいさっぱりなくなっていた。
 仙台空港の滑走路下のトンネルを抜け出ると名取市に入っていく。
 仙台空港は名前は「仙台」でも岩沼市と名取市の両市にまたがる空港。震災直後の仙台空港はターミナルビルも滑走路も津波に襲われて浸水し、当分の間は無理だと思われたが、なんと2ヵ月もたたずに再開された。仙台空港にいかにすごい津波が押し寄せたかは、その近くの海岸一帯の松林を見るとよくわかる。海岸線の松林はことごとくなぎ倒されている。
 県道10号をさらに北上し、名取川河口の閖上へ。
 高さ20メートルの大津波に襲われた閖上の惨状はすさまじいもので、まるで絨毯爆撃されて町全体が焼き払われた跡のようだ。瓦礫がきれいに撤去されているので、今ではきれいさっぱりと何も残っていない。
 伊達政宗の時代に掘られたという貞山堀を渡り、潟湖の広浦まで行った。ここは荒浜の鳥の海と似た地形。残った橋で対岸に渡ったところには、以前泊まった「サイクルスポーツセンター」がある。建物は残ったが、1階は大津波が駆け抜けた痕跡が生々しく、とても再開できそうには見えなかった。
 ここまで同行してくれた斎藤さんは閖上を最後に、名取ICで高速に入り、横浜の自宅へと戻っていった。
 名取川河口の閖上から県道10号を北上して仙台へ。
 仙台港周辺も大津波で大きな被害を受けたところだが、大半の工場は操業を再開している。ここでは仙台港のフェリー埠頭でV-ストロームを停めたが、ちょうど太平洋フェリーの「いしかり」が名古屋港に向けて出港するところだった。
 県道10号から国道45号に合流し多賀城へ。
 多賀城では陸奥の国府跡、多賀城跡を見る。多賀城跡は無事。「奥の細道」ゆかりの壷碑も無事だ。
 今回の大津波は死者2万1959人を出した明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」同様、日本の史上最大といわれる869年の「貞観の大津波」に迫るものだといわれている。「貞観の大津波」で陸奥の国府は全滅した。多賀城跡だけでの比較でいえば、やはり1150年前の「貞観の大津波」の方がより大きな津波だったということになる。 多賀城から国道45号で塩竃へ。塩竃では奥州の一の宮、塩竃神社を参拝した。
 塩竃から松島へ。日本三景の松島は大津波の被害はそれほどでもなく、シンボルの五大堂や国宝の瑞厳寺にもほとんど被害は見られない。国道45号沿いの土産物店などもいつも通りの営業で、松島湾の遊覧船も運航している。松島湾に浮かぶ無数の島々が、松島を大津波から守ってくれた。
 松島からは海沿いの県道27号を行く。松島町から東松島市に入るとそこは「大塚」。JR仙石線の陸前大塚駅が海岸にある。駅も駅前の家並みもまったく無傷で、大津波の痕跡は見られない。その次が「東名」。ここには東名駅がある。
「大塚ー東名」間はわずか2キロでしかないが、この2キロが同じ松島湾岸を天国と地獄を分けている。ゆるやかな峠を越えて東名に入ると信じられないような惨状。大津波から1年になるが、復興とはほど遠い惨状をそのまま残している。
 東名から野蒜へ。ここも大津波をまともに受けたところ。JR仙石線の野蒜駅前でV-ストロームを停めた。駅前の県道27号の信号は倒れたままだ。無人の野蒜駅構内を歩き、おそらく2度と使われることのないであろうホームに立った。
 野蒜をあとにすると、県道27号から鳴瀬川の堤防上の道を走り、国道45号に合流。東松島市の中心、矢本を通り、石巻市に入っていく。
 石巻では海岸地帯を走った。
 旧北上川の河口をまたぐ日和大橋を渡り、石巻漁港へ。
 漁港周辺の水産加工場や冷凍倉庫はことごとくやられたが、震災から1年がたったというのに、まだ瓦礫がそのまま残っているような状態。
「もう再開しているのではないか…」
 と期待した魚市場の「斉太郎食堂」だが、魚市場には近づくこともできない。石巻魚市場の再開までにはまだまだ相当な時間がかかりそう。石巻の被害は甚大だ。
 石巻からは国道398号で女川へ。渡波で牡鹿半島に入っていく県道2号と分岐するが、この一帯も大津波に激しくやられた。
 ところが万石浦沿いになるとほとんど被害は見られない。石巻市から女川町に入っても、無傷の家並みがつづく。V-ストロームに乗りながら、
「なぜ、どうして?」
 と、思わず声が出てしまう。万石浦沿いの方がはるかに大きな被害が出ても不思議でないような地形だからだ。
 このように津波のメカニズムは不思議だらけだ。
 JR石巻線の浦宿駅前を過ぎると、万石浦を離れ、ゆるやかな峠を登る。峠上には女川高校がある。そこまで全く大津波の痕跡はない。ところが女川高校前を過ぎ坂道を下り始めると、全壊した家々が見られ、全滅した女川の中心街が眼の中に飛び込んでくる。あまりにも無惨な光景。ここでは倒壊してひっくり返ったビルを何棟も見る。
 しかし3・11から1年がたち、女川の町の瓦礫はほとんど撤去されていた。
 女川から国道398号で三陸のリアス式海岸を行き、ふたたび石巻市に入る。
 旧雄勝町雄勝の公民館の屋根上に乗ったバスは3・11から1年を機に下に降ろされたが、雄勝湾の一番奥の雄勝の町には何も残っていない。女川同様、町が消え去った。瓦礫が撤去されているので、よけい異様な光景に見える。まるで遺跡を見るかのようだ。
 雄勝から釜谷峠を越えると東北一の大河、北上川の河畔に出る。そこには新北上大橋がかかっている。橋の一部が流されたので、長らく通行止がつづいたが、今は普通に通行できるようになっている。
 新北上大橋たもとの右手には、今回の大津波では一番の悲劇の舞台になったといっていい大川小学校がある。ここでは80人以上の生徒や先生方が亡くなった。
 大川小学校は北上川河口から約5キロの地点。太平洋から5キロも内陸の地まで、これだけの大津波が押し寄せるとは…。
 新北上大橋を渡り、旧北上町に入っていく。
 2005年4月、平成の大合併で石巻市と雄勝町、北上町、牡鹿町、河南町、河北町、桃生町の1市6町が合併し、今の石巻市が誕生した。石巻市は今回の「東日本大震災」では最大の被害を出したところだが、合併後、いまだにまとまりを欠く新石巻なだけに復興への道のりは遠い…。
 その夜は旧北上町の国道398号沿いの民宿「小滝荘」に泊まった。飛び込みで泊めてもらったのだが、夕食も用意してくれた。
 夕食後、宿の方に話を聞いた。
 1年前の3月11日も寒い日だった。大津波から逃げて生き残った人たちも、その夜の寒さを乗り越えることができず、何人もの人たちが凍死した。3月11日は東北ではまだ冬同然の寒さなのだ。
 北上川河口の堤防上では大勢の人たちが津波見物をしていた。「どうせ4、50センチぐらいの津波だろう」とタカをくくっていた。それが20メートルを超える大津波で車もろとも流された。
 北上川沿いの旧北上町の庁舎は避難所になっていた。避難してきた人たちの中には吉浜小学校の生徒たちもいた。大津波はその庁舎を一気に呑みこみ、80名近くが死亡した。 民宿「小滝荘」は高台にあるので無事だったが、ここには相川小学校3年生の空君がいる。相川は海辺の集落。相川小学校も海岸のすぐ近くにある。
 それにもかかわらず、空君を含めて70余名の生徒、全員が無事だった。地震発生と同時に生徒たちは先生方と一緒に小学校の裏山を駆け登った。足下まで迫る大津波の恐怖との戦いだった。その3日前に相川小学校では津波の避難訓練がおこなわれた。先生や生徒たちは避難訓練通り、迷うことなく裏山に登ったのだ。
 相川小学校の裏山は、大川小学校の裏山よりもはるかに急だ。生徒たちは励ましあい、木の根や草の根につかまって山肌をよじ登った。
 同じ石巻市内の大川小学校と相川小学校、この2つの小学校はあまりの明暗を分けてしまった。

03

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(2)
■2012年3月11日(日)曇のち晴 「いわき→相馬」263キロ

 四倉舞子温泉「よこ川荘」で迎えた3・11の朝。「東日本大震災」から1年がたった。渡辺哲さんと一緒に「よこ川荘」の周辺を歩く。隣の温泉旅館「なぎさ亭」は大津波に襲われ、3階建の建物の1階部分が全滅。瓦礫はほとんど撤去されたが廃業した。舞子浜の海岸線を走る県道382号を渡り、海岸に出た。冬を思わせるような冷たい風が吹き、太平洋の水平線上には厚い雲が垂れ込めていた。
「この海が1年前、牙をむいて襲いかかってきたのか…」
「よこ川荘」に戻ると納豆と目玉焼き、塩ジャケの朝食を食べ、8時、出発。
 カソリのV-ストロームが先を走り、渡辺さんのセローがそれにつづく。
 国道6号から県道41号に入り、県道35号との交差点まで行ったところでバイクを停め、ここで渡辺さんと別れる。自販機のカンコーヒーで渡辺さんと乾杯。それは同時に大津波で亡くなった大勢の方々への献杯でもあった。
 渡辺さんは県道35号を北へ、カソリはそのまま県道41号を走り、国道399号に出た。この国道399号は、爆発事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所の20キロ圏で通行止になっている国道6号の、最短迂回路になっている。
 小川の町から北上し、一気に山中に入っていく。
 国道399号を北上すると、周囲はあっというまに雪景色に変る。前日は東北の広い範囲で大雪が降った。峠道にさしかかると、路面は雪とツルンツルンのアイスバーン。とてもではないが、V-ストロームで走行できるような状態ではなかった。国道399号は通行止にこそなっていなかったが、地元の人に聞くと、チェーンを装着した四駆でも走れるかどうかのような路面状況だという。
 国道399号はこの先、いくつもの峠を越えていわき市から川内村、田村市、葛尾村、浪江町と通って飯舘村に通じている。狭路の区間は舗装林道のような道。交通量も極めて少ない。そんな国道399号を走り、飯舘村から八木沢峠を越える県道12号で南相馬市の原町に出るつもりでいた。
 いやー、まいった…。
「鵜ノ子岬→尻屋崎」の東北太平洋岸ツーリングは出だしから大きなピンチを迎えた。
「国道6号が走れれば、何ということもないのに…」
 改めて爆発事故を起こした東電福島第1原発に胸にこみあげてくるような怒りを感じた。東電福島第1原発の爆発事故によって福島県太平洋岸の「浜通り」は完全に分断され、メチャクチャにされてしまった。「東日本大震災」から1年たったというのに、浜通りの南から北に行くのはいまだに大変なことなのだ。
 怒っていても仕方ない。
 とりあえずは来た道を走り、いわき市の四倉に戻った。
 四倉の海岸にV-ストロームを停め、しばし太平洋を眺めた。
 気分が落ち着いたところで、『ツーリングマップル東北』を見ながらのプランニング。その結果、「男は度胸だ!」と、高速道路に賭けることにした。というのは前日の大雪で磐越道の小野ICから先はチェーン規制がかかっていたからだ。
「北に行くのには、もうそれしかない」と決めた。あとは「なるようになれ!」だ。
「いままでも、いつも、そうしてきたではないか」
 いわき四倉ICで常磐道に入る。いわき中央ICまでは1車線区間。この間に雪はまったくなかった。いわき中央ICを過ぎたいわきJCTから磐越道に入る。ここから東北道の郡山JCTまでは全線が4車線。東北道に出られるかどうかが、大きな賭けだ。
 磐越道を走りはじめる。最初のうちはまったく雪がない。高速性能抜群のV-ストロームなので、存分にその走りのよさを楽しんだ。
 いわき三和ICを過ぎたあたりから雪景色に変わった。だが幸い天気は回復し、日が差してくる。高速道の路面には雪はない。大量の凍結防止剤がまかれているのでアイスバーンもない。それでも速度を落とし、突然、現れるかもしてないアイスバーンに最大限の注意を払った。
 いよいよ小野ICに近づいてくる。V-ストロームのハンドルを握りながら胸がドキドキしてくる。この先チェーン規制がかかっていたら、ここで高速を降り、下道の国道348号で行くしかないのだが、阿武隈山地の雪の峠を越えられるとは思えなかった。
「ラッキー!」
 磐越道の小野ICから先のチェーン規制は解除されていた。さらに郡山JCTまでの間も路面に雪はなく、アイスバーンもなかった。
 郡山JCTで東北道に入り、福島西ICへ。この間も問題なく走れた。
 福島西ICで東北道を降りると福島市内へ。そこからは国道115号で浜通りの相馬に向かう。
 福島の市街地を過ぎ、最初の峠を越えるが、無事、通過した。峠周辺は雪景色だが、路面に雪はなかった。
 最大の難関は霊山(825m)越えだ。
 ここでは幸いなことに気温が上がり、かなり強い日差しになったので路面の雪はシャーベット状になっていた。そのおかげでタイヤのグリップがあり、転倒することもなく走れた。霊山直下のゆるやかな登り坂を慎重に走りつづけ、ついに伊達市と相馬市の境の峠に到達。峠周辺はかなりの積雪だが、路面に雪はなかった。アイスバーンもなかった。
 阿武隈山地の名無しの峠を下っていくと、周囲の雪はスーッと消えていく。山地から平地に下り、まもなく開通する常磐道の相馬IC(南相馬IC~相馬IC間は4月8日に開通)の近くを通り、相馬市の中心、中村の市街地に入っていく。そしてJR常磐線の相馬駅前でV-ストロームを停めた。大きな難関を突破したのだ。
「勝ったな!」
 カソリ、賭けに勝ったのだ。
 相馬駅前では宮城県大崎市の武内さんから携帯に電話をもらった。
 2010年の「林道日本一周」のとき、わざわざ秋田県の横手駅前まで来てくれた人。奥さんとお子さんたちと相馬まで来たとのことで、「一緒に昼食を食べましょう」という。すぐさまぼくは『ツーリングマップル東北』にも載っている国道6号沿いの「白瀧」で会いましょうと返事をする。
 相馬駅前からV-ストロームを走らせ「白龍」へ。そこで武内さん一家と落ち合った。みなさんと一緒の楽しい食事。ぼくは名物の「ほっき飯」を食べた。
 このあと武内さん一家は松川浦へ。そこで「東日本大震災」の発生した14時46分を迎え、家族全員で黙祷するという。
 ぼくは相馬市の「白龍」から国道6号を南下。南相馬市に入ったところで14時46分を迎え、V-ストロームを路肩に停めると1分間の黙祷をした。
 その瞬間、神奈川県伊勢原市の自宅にいたときの、1年前のあの揺れの大きさが蘇ってきた。M9・0という超巨大地震(M8・0以上は巨大地震、M9・0以上は超巨大地震と呼んで区別している)のすさまじさで、震源地からはるか遠く離れているのに震度5強の強い揺れだった。いままで体験したことのないようなユサユサユサユサとした揺れが長くつづいたのだ。
 南相馬市では国道6号の通行止地点まで行った。そこが爆発事故を起こした東京電力福島第1原子力発電所20キロ圏の北側になる。
 国道6号の通行止地点で折り返し、海沿いの県道260号→県道74号を行く。沿道には延々と大津波の被災地がつづくが、すでに大半の瓦礫が撤去され、はてしなく広がる無人の荒野を行く。もう何と表現していいのかわからないが、日本であって日本でないような光景だ。
 そんな県道74号沿いの蒲庭温泉の一軒宿「蒲庭館」で泊まった。ここは「東日本大震災」の2ヵ月後の5月11日にも泊まった宿。若奥さんはぼくのことをおぼえていてくれた。そのときに聞いた若奥さんの話は忘れられない。
 高台にある学校での謝恩会の最中に、巨大な「黒い壁」となって押し寄せてくる大津波を見たという。大津波は堤防を破壊し、あっというまに田畑を飲み込み、集落を飲み込んだ。多くの人たちが逃げ遅れ、多数の犠牲者が出てしまった。この地域だけで250余名の人たちが亡くなったという。
「地震のあと、大津波警報が出たのは知ってましたが、どうせ4、50センチぐらいだろうと思ってました。まさかあんな大きな津波が来るなんて…」
 3・11から1年後、今回聞いた若奥さんの話も深く心に残った。
「被災したみなさんは1年たってもまだ現実を受け入れられないのです。悪夢を見ているのではないか、朝、目をさませば、また元の村風景、元の家、元の生活…が戻ってるのではないかって思っているのです。あまりにも一瞬にして多くの人命と財産を失いましたから…」
 そんな話を聞いた直後にけっこう大きな地震に見舞われた。ガガガガガッと電気ドリルか何かでコンクリートに穴をあけるような衝撃。3・11から1年たっても頻繁に余震に襲われているという。
 刺身や焼き魚、貝のグラタン…などの夕食を食べ終わった頃、一緒に「シルクロード横断」や「南米・アンデス縦断」を走った斎藤さんが、車を走らせ、横浜から来てくれた。「カソリさん、明日は途中まで一緒に走らせてくださいよ」という斎藤さん。「どうぞどうぞ」と答えるカソリ。
 2人で大津波で犠牲になったみなさんの冥福を祈り、まずはビールで「献杯」。そのあと深夜まで我々の温泉宿での宴会はつづいた。

02

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

Tags: ---

Comment: 0  

「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(1)
 早いもので、まもなく東日本大震災から8年目の3・11を迎える。この日付に合わせて、大津波に襲われた東北太平洋岸の全域を見ようと、毎年、「鵜ノ子岬→尻屋崎」をバイクで走っている。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南端の岬。尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬。
 8年目の3・11に出発する前に、ここまでの「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」を振り返ってみよう。

===
■2012年3月10日(土)雨のち曇 「東京→いわき」280キロ

「東日本大震災」1年後の東北太平洋岸を見ようと、2012年3月10日10時、東京・新宿の「スズキワールド新宿」を出発。バイクはスズキのニューモデルのV-ストローム650ABS。「スズキワールド新宿」の高橋店長に見送られてカソリ、山手通りを走り出した。
 すぐに首都高に入り、三郷の料金所からは常磐道を北へ。V-ストロームの高速性能は抜群。アクセルを軽くひねるだけでキュィーーーンという心地よいエンジン音とともに一気に加速する。
 いわき勿来ICで常磐道を降りると、東北・太平洋岸最南端の鵜ノ子岬へ。この岬を境にして南の関東側は平潟漁港、北の東北側は勿来漁港になっている。
 勿来漁港の岸壁にV-ストロームを停めると、すぐにヤマハのセローに乗った渡辺哲さんがやってきた。渡辺さんのセローはすでに13万キロを超えている。渡辺さんもセローもツワモノだ。渡辺さんは今日一日、同行してくれるという。
 渡辺さんの実家は楢葉町。爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏内ということで、いまだ自宅には戻れない。すでに大津波から1年もたっているというのに…。そんな大変な思いをしているのだが、そこはライダー特有の明るさとでもいおうか、渡辺さんと話しているとかえって元気をもらってしまうほどなのだ。
 鵜ノ子岬を出発点にして渡辺さんとの浜通り(福島県の太平洋側)の旅がはじまった。 東北・太平洋岸最南端の鵜ノ子岬を出発。カソリのV-ストロームが先頭を走り、渡辺さんのセローが後を走る。
 カソリ&渡辺の「浜通り旅」の始まりだ。
 国道6号を走り、小名浜に向かう。震災2ヵ月後に走った時は段差が連続した国道6号だが、今ではすっかり道がよくなり、走りやすくなっている。
 国道6号から小名浜に向かう道も大半が新たに舗装され、段差や亀裂、陥没箇所がなくなっている。震災から1年、道路だけ見れば完全に復興しているかのように見える。
 信号もすべて点灯している。震災後、しばらくは信号の消えた交差点で各地からやってきた警察官が交通整理していた。そんな光景がなつかしく思い出される。
 いわき市最大の漁港、小名浜には活気がわずかながらも戻っていた。東北最大の水族館「アクアマリン」は奇跡の復活をとげた。かつての人気スポット「いわき・ら・ら・ミュウ」も再開し、そこそこの人を集めて海産物を売っていた。「市場食堂」も店舗を新しくして営業を再開。そこで「マグロの漬け丼」(1350円)を食べた。
 と、ここまではよかったのだが…。
 小名浜漁港の岸壁で漁師さんたちの話を聞いたとたんに気持ちは暗くなる。魚市場も再開しているとのことだが、水揚げされる魚はほとんどない状態だという。「小名浜」というだけで、まったく買い手がつかないというのだ。金華山沖で獲ったカツオを小名浜漁港で水揚げすると、「キロ100円だよ…」といって漁師さんは嘆いた。福島県沖で獲れたのではないのに…。東電福島第一原発の原発事故の風評被害の大きさに、いいようのない怒りがこみあげてくる。
 小名浜からは三崎、竜ヶ崎、合磯岬、塩屋崎…と4、5キロの間隔で連続する岬をめぐる。それらの岬は漁港とセットになっている。竜ヶ崎の中之作漁港、合磯岬の江名漁港、塩屋崎の豊間漁港…と。それらいわき市内の漁港はどこも閑散としていた。漁は再開できるような状態なのだが、風評被害で漁師さんたちは漁に出て魚を獲っても、水揚げできないのだ。原発事故の影響の大きさを目の当たりにするような光景の連続だ。
 塩屋崎の南側は豊間、北側は薄磯で、ともに大津波に襲われ集落は全滅した。いわき市内では最も甚大な被害を受けたところで、300人を超える人たちが亡くなった。
 しかしすでに瓦礫は撤去(集積した瓦礫の大きな山は残っている)され、家々の土台が残っているだけで、一面の広野にしか見えない。これが震災後1年の風化といものなのだろう、あの大津波に襲われた直後の生々しさ、すさまじいばかりの光景は、まるで幻であったかのようにさえ思えた。
 豊間と薄磯の両集落は全滅したが、岬の灯台の下に立つ美空ひばりの『みだれ髪』の歌碑は無傷で残った。ここはまさに奇跡のスポット。
「暗らや涯なや塩屋の岬 見えぬ心を照らしておくれ ひとりぽっちにしないでおくれ」の歌碑は大津波に相通じるようなものがあり、思わず涙ぐんでしまう。
 この奇跡のスポットをひと目見ようと、観光バスやマイクロバスが次々にやってくる。大津波の被災地を巡る観光バスを数多く見るようになったのも、震災後1年という時間を強く感じさせた。
 塩屋崎の灯台は高さ50メートルほどの海食崖の断崖上に立っているが、いまだに立入禁止になっていた。
 塩屋崎からは最後の岬、富神崎を通り、舞子浜を北上。松林の中の県道382号を走る。県道382号は夏井川にかかる橋に大きな段差ができ、長らくその区間が通行止めになっていたが、今は通行可。海岸には大きな瓦礫の山がいくつもできている。
「(この瓦礫の処理が)一日も早く終わりますように!」
 と願わずにはいられないような光景だ。
 四倉で国道6号と合流し、波立海岸へ。短いトンネルで抜け出たところが岬。波立岬といってもいいようなところなのだが、岬に名前はついていない。国道沿いの「波立食堂」は大津波に押しつぶされたが、反対側の「波立薬師」は無傷で残った。それ以上に驚かされるのは岬の岩礁に立つ赤い鳥居が残ったことだ。なぜ、どうして…といいたくなるが、鳥居には何か目に見えない力があるのだろうか。それとも鳥居の形に何か秘密があるのだろうか。今回の大津波の被災地では、いくつもの鳥居が同じようにして残った。
 波立海岸から久之浜へ。町並みは壊滅状態。ここでは大津波に襲われ、それに追い討ちをかけるように大火に見舞われた。その中にあって秋葉神社(稲荷神社)だけが残った。荒野と化した被災地にポツンと残った神社。ここでもまたしても、「なぜ、どうして?」と声が出てしまう。秋葉神社は火除けの神だが、まるでそれを証明するかのように、大津波から残っただけでなく、大火も秋葉神社の手前で止まっているのだ。これはもう「神の成せる業」としかいいようがない。
 国道6号を北上。いわき市から広野町に入り、広野町と楢葉町の町境まで行った。
 そこが爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏で、警察の車両が国道を封鎖し、一般車両は通行止になっている。同行の渡辺さんの家はここからすぐのところにあるのだが、行くことはできない。
 この東電福島第1原発の20キロ圏を折り返し地点にし、国道6号を戻っていく。
 久之浜では小学校の校庭の一角にできた仮設の商店街に立ち寄った。そこの「からすや食堂」で夕食にする。ラーメンライス&餃子を食べた。ラーメンも餃子もじつにうまかった。この店は夫婦でやっている。もともとの店は久之浜の町中で、秋葉神社の近くにあったという。2人も秋葉神社が残ったのは不思議だといっている。我々が最後の客で、2人は店の電気を消すと車で仮設住宅のある勿来に向かっていった。
 久之浜から四倉に戻り、今晩の宿、四倉舞子温泉の「よこ川荘」に到着。温泉に入ったあと、渡辺さんと大広間でビールを飲んだ。
「よこ川荘」は海岸近くの宿で、大津波をまともに受けた。震災直後の姿を見た渡辺さんは、「よこ川荘はもう無理ですよ…」と、わざわざ電話をくれたほど。それが全国からやってきたボランティアの支援もあって、おかみさんは見事に宿を再開させた。
「大広間の50畳もの畳を全部、私が運び出したのよ!」
 というおかみさんの話は今や伝説だ。
 そのおかみさんは、「これ、食べなさい」といってマグロやカツオ、ホタテ、タコの刺身を持ってきてくれた。それを肴に渡辺さんとしこたま飲んだ。というよりも飲まずにはいられないような気分。復興からは、はるかに遠い震災1年後の浜通りだった。