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世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(18)
■2013年3月13日(水)晴「蒲庭温泉→宮戸島」191キロ(木)(その2)

 名取市の閖上を出発。県道10号で名取川を渡り、仙台市に入る。そして県道10号を右折して荒浜へ。
 東日本大震災当日の2011年3月11日、ぼくは家にいた。超巨大地震の発生後はテレビの画面に釘付けになった。大津波による被害の情報が次々にもたらされる中で、ものすごいショックを受けたのは「浜に200人ほどの死体が打ち上げられている」というニュースが流れた時だ。
「これはとんでもない災害になってしまった…」
 と実感したが、それがこの仙台市若林区の荒浜だった。
 県道10号沿いの荒浜小学校の4階建の建物はまだ残っていたが、それ以外には家一軒見られない。一面の荒野の中に貞山堀が一直線になって延びている。日本最大の運河、貞山堀は伊達政宗の夢の跡。海岸には大津波から2年後の3月11日に開眼供養が行なわれた聖観音像が立っている。石碑には荒浜の全犠牲者の名前と年齢が彫り刻まれているが、2歳とか4歳、5歳…といった子供達の名前が胸にグサッと突き刺さってくる。あまりにも酷い現実だ。
 仙台港周辺も大きな被害を受けたところだが、大半の工場はすでに操業を再開している。小名浜同様、ここでも臨海工業地帯の復興は速い。
 県道10号から国道45号に合流し多賀城へ。多賀城では陸奥の国府、多賀城跡まで行った。多賀城跡は無事。「奥の細道」ゆかりの壷碑も無事だ。
 今回の大津波は死者2万1959人を出した明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」同様、日本史上、最大といわれる869年の「貞観の大津波」に迫るものだ。
「貞観の大津波」で陸奥の国府は全滅した。多賀城跡だけでの比較でいえば、やはり1150年前の「貞観の大津波」の方がより大きな津波だったということになる。
 多賀城から七ヶ浜半島に入っていく。半島全体が七ヶ浜町になっているが、海岸地帯は大津波に襲われて大きな被害を出し、100人近い犠牲者を出した。そのような海岸のすぐ近くでも高台の家々は残っていた。
 七ヶ浜から塩竃へ。塩竃では奥州の一の宮、塩竃神社を参拝した。塩竈神社の参拝客は震災直後に比べたら、はるかに増えている。それだけ周辺の被災地が落ち着きを取り戻したからなのだろう。
 塩竃漁港は東北太平洋岸の漁業基地だが、震災のすぐ直後から魚市場は再開された。松島湾内に位置する塩竃は、七ヶ浜半島や松島湾の湾口に連なる桂島や野々島、寒風沢島といった浦戸諸島の島々に守られたおかげで、それほど大きな被害を受けずにすんだ。
 塩竃から松島へ。松島も大津波の被害はそれほどでもなく、シンボルの五大堂や国宝の瑞厳寺も無傷で残った。国道45号沿いの土産物店はいつも通りの営業で、松島湾の遊覧船も運航していた。
 復興一番乗りの松島は、大津波から2年後ということもあって、観光客はかなり戻ってきているように見受けられた。この日は平日にもかかわらず、若いカップルたちの姿を多く見かけた。
 松島からは海沿いの県道27号を行く。
 松島町から東松島市に入るとそこは「大塚」。JR仙石線の陸前大塚駅が海岸にある。駅も駅前の家並みも無傷。大津波の痕跡はまったく見られない。その次が「東名」で、ここには東名駅がある。
「大塚ー東名」間はわずか2キロでしかないが、この2キロが同じ松島湾岸を天国と地獄を分けた。ゆるやかな峠を越えて東名に入ると信じられないような惨状だ。大津波から2年になるが、依然として復興とはほど遠い光景をそのまま残していた。
 東名を流れる東名運河は石巻港と荒浜港(亘理町)を結ぶ運河の一部。北からいうと北上運河、東名運河、貞山運河(貞山堀)の3運河で石巻港と荒浜港が結ばれていたが、現在は運河としての役目を終え、灌漑用の水路になっている程度でしかない。
 太平洋と平行して流れるこれらの3運河が大津波襲来の際、どのような働きをし、かかわったかをすごく知りたいものだ。この運河のおかげで大津波がすこしでも弱まったのか、それとも逆に被害を拡大させたのか。
 東名から野蒜へ。ここも大津波をまともに受けたところ。JR仙石線の野蒜駅前でビッグボーイを停めた。駅前の県道27号の倒れた信号は撤去されていたが、架線の垂れ下がった野蒜駅はそのまま残っていた。錆びた線路もそのままだ。駅前のコンビニも店内が足の踏み場もないようなメチャメチャの状態で残っていた。東名から野蒜一帯を襲った大津波は松島湾からではなく、石巻湾の方から野蒜海岸の防潮堤を乗り越えて押し寄せてきたという。
 野蒜駅前からさらに県道27号を行く。鳴瀬川河口の堤防上のT字路を右折し、野蒜海岸を行く。大きな被害を受けた防潮堤は仮の修復工事が行なわれていた。東名、野蒜を襲った大津波はこの防潮堤を乗り越えたのかと思うとぞっとした。
 野蒜海岸から短い橋を渡って宮戸島に入る。よほど気をつけていないと、気がつかないような短い橋だ。震災ではこの橋が落下し、宮戸島は孤立した。松島四大観の筆頭、「壮観(大高森山展望台)」の下を通り、里浜から月浜、大浜と通って室浜へ。「日本三大渓」のひとつ、嵯峨渓のある室浜が県道27号の終点になっている。
 宮戸島の集落は松島湾の内海に面した里浜と太平洋の外海に面した月浜、大浜、室浜の4つの集落から成っている。人口はほぼ1000人。月浜、大浜、室浜はかなりの被害を受けた。大津波の直後は東名や野蒜で大きな被害が出たこともあり、宮戸島に入る橋が落下したこともあり、宮戸島の状況が東松島市の市役所には届かなかった。一時は1000人の島民全員が絶望視された。ところが実際には1人の犠牲者も出さなかった。これはすごいことだ。まさに「奇跡の島」。大地震の直後、「津波が来る!」ということで、島民全員がすばやく避難したからだ。
 宮戸島の島民のみなさんは、小さい頃から「地震が起きたら津波が来る」と頭にたたき込まれているという。避難してからがじつにすごい。無事だった家を中心にして島の米を集め、すぐに炊き出しが始まった。そのため島は孤立したが、救援隊が入ってくるまでの何日間かを島民のみなさんは互いに励ましあい、助け合って全員が生き延びたのだ。
 宮戸島では民宿「桜荘」に泊まった。窓を開けると、目の前には絵のように美しい松島湾が広がっている。この海が大津波の直後は瓦礫の海と化した。一面に埋め尽くされた瓦礫のせいで、海なのか陸なのか、わからないほどだったという。
「桜荘」の夕食はご馳走だ。刺身の盛合わせ、カニとツブ貝、キンキ(金目)の焼き魚、しめ鯖、サーモンの和え物、ワカメの辛し味噌和え、貝やエビなどの海鮮鍋と海の幸三昧。さらにそのあとカキの殻焼き、ホタテの貝焼き、カレーの唐揚げが出た。こんなにすごいご馳走なのに1泊2食の宿泊費は7870円だった。

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Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(17)
■2013年3月13日(水)晴「蒲庭温泉→宮戸島」191キロ(木)(その1)

 蒲庭温泉「蒲庭館」の朝湯に入り、朝食を食べ、8時出発。相馬から松川浦へ。松川浦では海苔の養殖が始まっていた。漁船は岸壁に停泊したままで、まだ本格的な漁の再開とはいかないようだ。鵜の尾岬に渡る松川浦大橋は通行止がつづいていた。
 松川浦からは海沿いの県道30号を行く。新地の石炭火力の発電所前を通り、大津波で壊滅した新地の町跡をビッグボーイで走り抜けていく。瓦礫はきれいに撤去されているが、その中に家々の土台だけが残っている。県道30号の宮城県境近くの橋は落ちたままだ。
 JR常磐線の新地駅に行ってみる。大津波に襲われてグニャッと折れ曲がった跨線橋は撤去され、線路も撤去されていた。駅前の瓦礫の山は消え去り、新しい土地の造成工事が始まっていた。見上げるような、かなりの高さの造成地。その上に復興住宅の建ち並ぶ日が待ち遠しい。
 国道6号で福島県の新地町から宮城県の山元町に入る。ここでもJR常磐線の坂元駅まで行ってみる。坂元駅は一段高くなっているので、ホームは残った。ホームが防波堤の役目をしたからなのだろう、駅前の案内板も残っていた。
 この一帯では「国交省 海岸工事」のゼッケンをつけたおびただしい数のダンプカーが走りまわっていた。福島県よりも宮城県の方が、はるかに海岸線の復興工事が進んでいるように見える。福島県では東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故が大きな足かせになっているようだ。
 坂元駅につづいて次の山下駅にも行ってみる。山元町は山下村と坂元村が昭和30年(1955年)に合併してできた町。山下駅が旧山下村の駅、坂元駅が旧坂元村の駅ということになる。山下駅の周辺のかさ上げした宅地造成はかなり進み、すでに新しい家が建ち始めている。それは目に見える東北太平洋岸の復興の姿だった。
 山下駅前から国道6号に戻り、北へとビッグボーイを走らせる。
 山元ICを通る。常磐道の延伸は進み、仙台方面からだと山元ICまで完成している。この山元ICは国道6号のすぐ脇なので簡単に出入りできるのがすごくいい。
 福島県内の常磐道は相馬ICと南相馬ICの間が完成している。相馬ICと山元ICの間が1日も早くつながって欲しい。そうすることによって、相馬地方の復興にはきっと大きな弾みがつくことであろう。
 国道6号で亘理町に入っていく。ここからは太平洋沿岸ルートの県道10号を行く。この県道10号は三陸海岸への絶好の抜け道になっている。
 亘理でも亘理駅に立ち寄った。常磐線は仙台から亘理までは開通している。鉄道が復旧すると、町には活気が蘇る。
 伊達支藩の城下町の亘理だけあって、駅舎の隣りには亘理城を模した造りの郷土資料館がある。伊達成実以来、亘理伊達家は15代つづいた。明治維新を迎えると、城下の士族たちは北海道に渡り、伊達紋別の新地を開拓した。郷土資料館ではそんな城下町としての亘理の歴史を見ることができる。
 亘理駅前から阿武隈川河口の荒浜へ。ここは阿武隈川船運の拠点としておおいに繁栄した港町。伊達藩の時代は塩釜と並ぶ2大港になっていた。その荒浜が大津波の直撃を受けて壊滅的な被害を受けた。震災直後は荒浜中学校の広いを敷地を自衛隊の災害復旧支援の大型車両が埋め尽くしていたが、それがまるで幻だったかのように今は何もない。校舎も取り壊されて広々とした更地になっていた。
 荒浜漁港に行くと港はずいぶんと整備され、漁も再開されていた。荒浜漁港は阿武隈川の河口ではなく、河口南側の潟湖、鳥の海に面している。その海への出口近くに温泉施設の「鳥の海」がある。大改装して4階建にして間もなく大津波に襲われた。建物は残っているが、再開の見込みはまったくないという。「鳥の海」の前にあった巨大な瓦礫の山はきれいに撤去されていた。
 県道10号で阿武隈川を渡り、名取市に入る。県道10号沿いの「KUMA食堂」で「カレーライス」(500円)を食べた。安くてボリュームがあってうまいカレーライス。「KUMA食堂」は県道10号のおすすめ食堂だ。
 昼食のカレーライスでパワーアップしたところで、県道10号をさらに北へ。仙台空港の滑走路の下をトンネルで抜けていく。震災直後はこの区間は通行止になっていた。周辺はすさまじいほどの惨状だった。大津波によって破壊された軽飛行機が何基も折り重なり、沼のような水溜りには何台もの車が沈んでいた。それもまるで幻だったかのように、今では痕跡すら見ることもできない。
 名取川河口の閖上へ。震災前まではにぎわった漁港で、「閖上朝市」で知られていた。 高さ20メートル超の大津波に襲われた閖上の惨状はすさまじいばかりで、まるで絨毯爆撃をくらって町全体が焼き払われた跡のようだ。ここだけで1000人近い犠牲者を出している。そんな閖上だが、瓦礫はきれいに撤去され、今ではきれいさっぱりと何も残っていない。港近くの日和山に登り、無人の広野と化した閖上を一望した。
 日和山というのは日和待ちの船乗りが日和見をするために登る港近くの小山のことで、酒田や石巻の日和山はよく知られている。日和山があるということは、閖上も古くから栄えた港町だったことを証明している。
 江戸時代の閖上は、伊達政宗の時代に掘られたという貞山堀を通して、阿武隈川河口の荒浜と七北田河口の蒲生の中継地として栄えた。ちなみに蒲生にも標高6メートルの日和山があった。「元祖・日本で一番低い山」として知られていたが、今回の大津波で蒲生の日和山は根こそぎ流され、山が消えた。
 ところで閖上(ゆりあげ)の地名だが、伊達政宗は豊臣秀吉から贈られた門を船で運び、ここで陸揚げしたことに由来しているという。閖上の日和山には高さ2・5メートルの木柱が2本、立っている。1本には富主姫神社、もう1本には閖上湊神社と書かれている。これは2つの神社の、神が宿るための神籬だ。
 もともと「日和山富士」とか「閖上富士」といわれた日和山には、日和山富士主姫神社がまつられていた。大津波は日和山をも飲み込んだので、日和山富士主姫神社は流された。日和山から600メートルほど北にあった閖上湊神社も流された。この両神社は閖上のみなさんにとっては心の故郷。ということで、日和山に両神社の仮設の社ということで2本の神籬が立てられたのだ。閖上の貞山堀にかかる橋にはカーネーションの白い花が並べられていた。
 貞山堀の橋を渡ったところには、
「ふるさと閖上 大好き」
 と大きく書かれた看板が立っていた。
 閖上漁港に行くと、仮設の魚市場が完成していた。漁港の岸壁は工事中。対岸では瓦礫処理の焼却場が大きな音をたてて稼動していた。その音は「閖上復興」への音のようにも聞こえた。

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Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(16)
■2013年3月12日(火)晴「四倉舞子温泉→蒲庭温泉」260キロ

 6時前に起き、四倉舞子温泉「よこ川荘」の朝湯に入り、早朝の海岸を歩いた。穏やかな海。やがて太平洋の水平線上に朝日が昇る。
「よこ川荘」に戻ると、渡辺哲さん、古山里美さんと一緒に朝食を食べ、7時に出発。渡辺さんはここからいわき市内の会社に出社し、古山さんは宮城県の東松島市に向かっていく。カソリは「浜通り」を北上する。
「よこ川荘」のおかみさんは手を振って我々を見送ってくれた。
「また来ますよ~!」
 おかみさんにひと声かけて走り出す。海沿いの県道382号から国道6号の四倉の交差点に出たところで渡辺さん、古山さんと別れた。
 カソリは国道6号を北へ。スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせる。トンネルを抜け出ると波立海岸。国道の脇にある波立薬師を参拝。ここも大津波に襲われた所だが、波立薬師は残った。目の前の弁天島の赤い鳥居も残った。
 波立海岸から久之浜へ。ここは大地震、大津波の後、さらに津波火災の大火に見舞われ、海岸一帯の町並みは全滅した。その中でポツンと秋葉神社の祠だけが残った。
 国道6号をさらに北上し、広野町から楢葉町に入る。今は楢葉町の全域に行けるようになっているが、住民はまだ戻っていない。住めるような状態ではないのだ。ここが渡辺さんの住む町。いわき市内からわずかな距離でしかないのに自宅に戻れず、さぞかし悔しい思いをしていることであろう。
 楢葉町を北上し、富岡町との境まで行く。そこが一般車両の通行止地点。警察車両が出て、警官が車を1台1台止めている。そこから先は許可証を持った車だけが入っていける。
 楢葉・富岡の町境で折り返し、国道6号の1本東側の県道244号を行く。県道244号の楢葉・富岡の町境は無人のゲートだ。
 国道6号、県道244号という2本のルートで楢葉・富岡の町境まで行ったところで、波倉の集落を抜け、太平洋岸に出る。大津波で破壊された堤防の向こうに東京電力福島第2原子力発電所がある。福島第2は楢葉町と富岡町の2つの町にまたがっている。堤防がメチャクチャになっていることからもわかるように、福島第2も大きな被害を受けるところだった。
 もし福島第2が福島第1と同じような規模の事故を起こしていたら、「浜通り」は、というよりも日本はさらに大変なことになっていたのは間違いない。紙一重の差で残った「福島第2」もやはり「奇跡のポイント」といっていい。
 楢葉町と富岡町の町境一帯にはおびただしい数の工事車両が出動し、各所で除染作業をしていた。道路沿いには刈り取られた草木などを詰めた黒い袋が無数、置かれていた。それらの除染用袋の集積場には大型のクレーン車が出て、黒い袋を山のように積み上げていた。その光景を見て、「これをどうやって処理するのだろう」と、素朴な疑問にとらわれてしまうのだった。
 楢葉町の海岸地帯を離れ、阿武隈山地の山裾を走る県道35号に出る。この道は国道6号のバイパス的なルートで、震災以前はかなりの交通量があった。それが今では無人の荒野を行くかのようで、すれ違う車はほどんどない。
 県道35号の楢葉町・富岡町の境は開閉式のゲート。そこには警察官が出ていた。ここではバイクを止められ、免許証を調べられた。その場での警察官のチェックだけではなく、パトカーの無線を使って警察本部に免許証を照合している。このように「浜通り」の被災地でパトカーに止められると、必ずといっていいほど免許証を無線で照合して調べられる。これがわずらわしい…。
 県道35号から乙次郎林道経由で川内村に向かう。楢葉町に入れるようになったので、乙次郎林道も走れるようになった。林道入口から0・9キロ地点でダートに突入。舗装化の進む乙次郎林道だが、それでもまだ3区間のダートの合計は11・0キロと10キロを超えている。それが何ともうれしい。「林道の狼カソリ」は、10・0キロのダート距離をロングダートの目安にしているからだ。
 川内村に入ると滝谷林道が分岐するが、滝谷林道は通行止になっていた。また乙次郎林道に接続する小田代林道は全線が舗装路になっていた。
 川内村には村民が戻ってきている。人の生活のにおいがする。建設中の新しい家を見る。居酒屋もオープンしている。道路沿いの線量計の数値も「0・505マイクロシーベルト」と小数点以下まで下がっている。桃源郷のような山間の村、川内村が震災以前のような姿に戻ることを願うばかりだ。
 川内村からは国道399号を北上。田村市、葛尾村と通って浪江町に入る。川内村と田村市の境は名無し峠。田村市と葛尾村の境は掛札峠、葛尾村と浪江町の境は登館峠で、峠が市町村境になっている。
 浪江町の次は飯舘村だが、長泥地区が封鎖されているので、大きく迂回しなくてはならない。国道114号で水境峠を越えて川俣町に入り、川俣町の山木屋から飯舘村に入った。飯舘村は大半の村民が避難しているので人影はない。
 村役場に立ち寄り、線量計を見る。「0・59マイクロシーベルト」という数値で震災直後に来たときと比べると、大幅に下がっている。
 飯舘村からは県道12号で八木沢峠を越えて南相馬市に入った。
 国道6号に出たところにある道の駅「南相馬」でビッグボーイを止めた。長い長い迂回路だった。楢葉町から国道6号で来れば、南相馬までは1時間ほどなのに、それをを4時間以上もかけてやってきた。分断された国道6号の影響はあまりにも大きい。「浜通り」はひとつなのに、それが北と南に分断されてしまったのである。
 道の駅「南相馬」のレストラン「さくら亭」で昼食の「たんめん」を食べたところで、国道6号を南下し、浪江町との境まで行ってみる。南相馬と浪江の市町境が通行止地点で警察が1台1台の車を止めている。次に海沿いの県道255号で浪江町との境まで行ってみる。そこには無人のゲート。小高神社のある小高まで戻ると、海沿いの県道260号を行く。この道は大津波の影響で何ヵ所かで通行止になっている。
 道の駅「南相馬」に戻ると、今度は北へ。海沿いの県道74号で南相馬市から相馬市に入り、蒲庭温泉の一軒宿、「蒲庭館」に泊まった。この一帯の磯部地区では250人もの犠牲者を出したが、「蒲庭館」は残った。
 蒲庭温泉の湯につかり、湯上りのビールを飲み干したところで夕食。宿のおかみさんは震災当日の話をしてくれた。
「あの日は午後5時から、中学校の卒業式のあとのお別れ会がウチでおこなわれる予定になってました。PTAの会長さんら50人ほどが集まっての宴会になるはずでした。それがあのような大津波に襲われてしまって…。PTAの会長さん一家は6人全員が亡くなりました。お別れ会を夕方の5時ではなくて午後の3時ぐらいから始めていたら、みなさん、助かったのに…」といっておかみさんは嘆くのだった。

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(15)
■2013年3月11日(月)晴「いわき遠野→四倉舞子温泉」115キロ

「東日本大震災」から2年後の3月11日の夜明けをいわき市入遠野の「遠野オートキャンプ場」で迎えた。寒い朝だ。おまけに昨夜来の猛烈な風が吹きまくっている。
 東京を出る前に見た新聞では、3月7日現在での「東日本大震災」の死者は15881人、行方不明者は2676人と出ていた。まだ2676人もの大勢の方々が行方不明というのが、何とも重く胸にのしかかってくる。震災から2年もたつと遺体の収容はきわめて難しいとは思うが、日本の国力をあげて、1人でも多くの犠牲者を発見して欲しいと願うばかりだ。それが復興への道の第一歩というものだ。
 明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」では21959人もの死者を出したが、行方不明者はわずか44人でしかなかった。これはすごいことだと思う。明治政府は軍を総動員して遺体の発見に全力をあげたという。
 それに対して昭和8年(1933年)の「昭和三陸大津波」では、死者1522人に対して行方不明者はそれよりも多い1542人になっている。津波での犠牲者の発見がいかに難しいかを物語る数字ともいえる。
 さー、朝食だ。
 季節はずれの「遠野オートキャンプ場」には我々しかいない。『U400』編集の谷田貝さんが作ってくれた具だくさんの「朝うどん」を食べる。これが腹わたにしみ込むようなうまさ。そのあとは焚き火を囲んでモーニングコーヒー。谷田貝さん、武田さんとの話がはずむ。この時間が楽しい!
 日が高くなってきたところで「遠野オートキャンプ場」を出発。名残おしい遠野を後にし、県道14号でいわき湯本温泉へ。共同浴場「さはこの湯」に入り、湯から上がると近くの食堂で「タンメン」を食べた。
 東京に戻る谷田貝さん、武田さんとはここで別れ、カソリはいわき湯本ICで常磐道に入り、スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせる。いったん南へ。次のいわき勿来ICで高速を降り、東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬へ。鵜ノ子岬北側の勿来漁港の岸壁に立った。ビッグボーイのニューカラーのブルーが東北の青い海によく映える。
「さー、行くぞ、ビッグボーイよ!」
 東北太平洋岸最北端の尻屋崎を目指して北へ、まずは小名浜へと、ビッグボーイを走らせる。
 小名浜海岸の臨海工業地帯の復興は速く、大津波の被害の痕跡は注意して見ていないと気がつかないほど。道路も新たに舗装され、段差はなくなり、消えた信号もない。通行止め区間もほとんどなくなり、海沿いの県道239号のごく一部の区間が通れないだけだった。
 小名浜の臨海工業地帯から小名浜漁港へ。魚市場は再開されているものの、風評被害をまともに受けて水揚げされる魚も少なく、小名浜漁港は閑散としていた。
 ここで運命の14時46分を迎えた。町中に鳴り響くサイレンの音に合わせ、海に向かって1分間の黙祷をした。
 2年前の2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするM9・0という超巨大地震が発生した。M9・0以上の大きな地震をM8・0以上の「巨大地震」と区別して「超巨大地震」というが、日本では記録されたことがないような大きな地震だった。明治三陸大津波をひき起こした地震はM8・5、昭和三陸大津波をひき起こした地震はM8・1なので、それらをはるかに上回っている。
 三陸海岸には昭和35年(1960年)にも「チリ沖地震津波」が押し寄せ、岩手県の大船渡などが大きな被害を受けたが、このときのチリ沖地震はM9・5。20世紀以降では世界最大の地震になっている。
 小名浜を出発。ここからは三崎、竜ヶ崎、合磯岬、塩屋崎、富神崎といわき市の岬をめぐる。岬と漁港はセットのようなもので三崎には小名浜漁港、竜ヶ崎には中之作漁港、合磯岬には江名漁港、塩屋崎には豊間漁港、富神崎には沼ノ内漁港がある。
 これら岬の風景は大津波以降も何ら変わりが無いが、中之作漁港にしても江名漁港にしても豊間漁港にしてもかつてのにぎわいはなく、どこもひっそりとしている。東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故による風評被害の大きさを見せつけられる光景だ。
 美空ひばりの歌碑の建つ塩屋崎を境にして北側が薄磯海岸、南側が豊間海岸になるが、ともに堤防を乗り越えた大津波によって、豊間も薄磯も大きな被害を受けた。いわき市内では最大の被災地だ。
 豊間では大勢の人たちが集まって盛大な慰霊祭が行なわれていた。次々にやってくる人たちが祭壇に花を供え、海に向かって手を合わせている。慰霊祭の会場や堤防の上にはキャンドルが置かれている。その数は3500にもなるという。地元のみならず、日本各地から送られたキャンドルもある。日が暮れると、いっせいに火が灯されるという。薄磯の方ではすでに慰霊祭は終ったのか、人の姿はほとんど見かけない。堤防のすぐ下の新しい慰霊塔に手を合わせた。
 塩屋崎の北に富神崎がある。
 富神崎の南側が薄磯で大津波の直撃を受け、集落は全滅した。すさまじいやられ方だ。多くの犠牲者も出ている。ところが岬北側の沼ノ内の集落はほとんど無傷のように見える。堤防のすぐ内側に家々が建ち並んでいるが、壊れた家は1軒もないし、ここでは1人の犠牲者も出ていない。地元のみなさんは富神崎が集落を守ってくれたといっている。
 沼ノ内を過ぎると、潮風を切って太平洋岸を走る。新舞子海岸の松林の中を走る。この道は県道382号。地震直後は夏井川にかかる橋に大きな段差ができ、しばらく通行止めがつづいたが、今ではきれいに舗装されてそれもわからなくない。
 今晩の泊まりは四倉舞子温泉の「よこ川荘」。おかみさんにまずはお礼をいう。震災の復旧工事や放射能測定の業者のみなさんが泊まり、ほぼ満室だったにもかかわらず、かなり無理して部屋を空けてくれたのだ。
「よこ川荘」には『ツーリングマップル東北』を持って東北各地をまわっている古山里美さんと、地元、楢葉町の渡辺哲さんが来てくれた。
 夕食の膳ではまずはビールで犠牲者のみなさんに「献杯」。夕食を食べながら渡辺さんには浜通りの現状をいろいろと聞く。古山さんには今日1日まわったところの話を聞いた。
 大広間での夕食だったが、同じテーブルで食事をしている女性がいた。震災2年後ということで、札幌からやってきた小田原真理子さんだ。何と小田原さんは被災地のみなさんに「鎮魂の舞踊」を見てもらいたくてやってきた。札幌にはご主人とお子さんたちを残してきたという。そんな小田原さんは食事がすむと「アベマリア」と「ラブ」の2曲に合わせて「鎮魂の舞踊」を踊ってくれた。一心不乱になって踊りつづける小田原さんの姿は感動的で、我々のみならず、「よこ川荘」のおかみさんもすっかり心を奪われてしまったようだった。
 小田原さんと別れ、部屋での飲み会を開始する。被災者の渡辺さんの差し入れだ。
 渡辺さんの実家は楢葉町。爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏内ということで、いまだに自宅には戻れない。すでに大津波から2年もたっているというのに家族がバラバラになってしまった。そんな大変な思いをしているのだが、そこはライダー特有の明るさとでもいおうか、渡辺さんと話しているとかえって元気をもらってしまう。気持ちがいつも前向きなのだ。
 渡辺さんの差し入れをすべて飲み尽くしたところで飲み会終了。渡辺さんとは枕を並べて寝た。明日は「よこ川荘」からバイクで出社するという。

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Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(14)
■2013年3月10日(日)晴「白米鉱泉→いわき遠野」175キロ

 3月10日。白米鉱泉「つるの湯」の朝湯に入り、朝食を食べ、7時30分に出発。いわき勿来ICで常磐道に入り、スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせ、いわき湯本ICへ。ここで『U400』編集長の谷田貝さんとカメラマンの武田さんに落ち合った。今日は『U400』(5月号)の取材で、「いわき遠野」の林道を走るのだ。こうしてビッグボーイでの「林道走破行」第2弾目、「いわき遠野編」が始まった。
 ところで東北には2つの「遠野」がある。岩手県の遠野と福島県の遠野でともに「林道の宝庫」という共通点がある。福島県の遠野は勿来同様、いわき市内にある。常磐道のいわき湯本ICから10分ほどで着くいわき遠野は、林道ツーリングには絶好のエリアなのである。
 3月上旬というと、日本各地の林道はまだ深い雪に埋もれているが、さすが「東北の湘南」のいわき市だけあって、いわき遠野の林道群に雪はほとんどない。たまに残雪の林道に出くわすと、適度に面白く雪中ランをできるので、いいことずくめなのだ。
 折松の集落から入っていく折松・硯石林道を第1本目にして全部で5本の林道を走ったが、それら5本の林道はすべてつながっている。ダート走行だけにこだわってルートを選択すれば、50キロ超の連続ダートが可能になる。
 いわき遠野は岩手県の遠野と同じように民話の宝庫。「カッパ伝説」が伝わり、いわき遠野版の「遠野物語」もある。上遠野には中世の山城跡が残されている。民俗・歴史的にみてもじつに興味深い。
 いわき遠野は入遠野と上遠野の2つの地区から成っている。我々が目指すのは入遠野。常磐道のいわき湯本ICから県道14号を行くと、上遠野の町並みを通り過ぎたところで県道20号との分岐に出る。右折して県道20号を北へ。清流の入遠野川に沿った道になる。アユで知られる入遠野川にはアユの簗場があるほど。そのすぐ先には温泉宿の「中根ノ湯」がある。ここは入浴のみも可。いわき湯本ICから10キロほど走ると入遠野の町に到着。ちょっとショックだったのは1年前にはあった旅館兼食堂がなくなっていたことだ。この入遠野の町がいわき遠野の林道走行の拠点になる。
まずは第1本目の折松林道へ。来た道を戻り、左折して折松の集落へ。そこから折松林道に入っていく。しばらくは舗装林道がつづくが、林道入口から2・5キロ地点で待望のダートに突入。そこから1・1キロ地点の分岐を左折し、ゆるやかな山並みの稜線近くを通っていく。展望ポイントからは入遠野の田園風景を見下ろす。折松林道では何度か猪に遭遇している。かわいらしいウリ坊に出会ったこともある。ダート5・9キロの折松林道を走り切ると、硯石林道とのT字路に出る。ここを右折。硯石林道を1・7キロ走ったところが鶴石山林道との分岐。直進が鶴石山林道で、硯石林道は左に折れる。
 以前はこの分岐から先はかなりラフなダートだったが、今ではすっかり整備されて走りやすくなっている。鶴石山林道との分岐から2・5キロ走るとT字路に出る。そこが硯石林道の終点。折松・硯石林道のダート距離は10・1キロ。我ら「林道派」にはうれしい10キロ超のロングダートだ。
 硯石林道の終点は渓流にかかる橋。橋を渡ったところでT字路に出る。右が官沢林道で左が盤木沢林道。まずは右折し、官沢林道に入っていく。ゆるやかな登りのストレートな区間がつづく。ここではビッグボーイでの快適なダートランを楽しめる。路面はほどほどにラフ。自由自在に山中を駆け抜けていく気分がたまらない。この一帯は林業地帯で杉の植林も多く、盛大に杉花粉を飛ばしているが、山中に入ると花粉症のきつい症状がそれほど出なくなるのが不思議だ。峠に近づくと状況は一変。北側斜面のコーナーは残雪に覆われている。雪中ツーリングの開始。ここではビッグボーイの足着き性の良さにおおいに助けられた。両足ベタ着きですこしづつ登っていく。アイスバーンの区間は何とも走りにくい。ビッグボーイのタイヤのパターンがロードに振ってあるのでツルツル滑ってしまうのだ。路肩に逃げ、雪と草地の境目を走ったが、それでも何度かスタックし、ヒーヒーハーハー肩で大きく息をする。そんな難関をついに乗り切り、峠に到達。峠のゆるやかな下りの残雪は難なく突破し、官沢林道の5・2キロのダートを走りきって舗装路に出た。
 官沢林道を走り切るとT字の舗装路に出る。このT字路を右に行けば国道49号のいわき三和に出る。いわき三和も林道の宝庫で網の目状に何本もの林道が走っている。その大半はこの舗装路と県道135号の間に集中している。
 さて官沢林道終点からはT字路の分岐を左へ。狭路の舗装路を走り、県道20号に出る。遠野トンネルの近くだ。県道20号はいわき遠野の林道走行では一番、重要なルートになるので、しっかりと頭に入れておかなくてはならない。県道20号に出ると左へ。入遠野方向に1キロほど走ったところが、第4本目の盤木沢林道の入口になる。県道20号のヘアピンカーブから林道に入っていく。林道の入口からダートなのがうれしい。盤木沢の谷を右手に見ながら走るが、樹林に隠れて深い谷は見えない。この林道の周辺には落葉樹が多い。3月の初旬だと冬枯れの風景だが、5月になると新緑がまばゆいほどに輝く。夏の深緑、秋の紅葉も目に残る。盤木沢林道は官沢林道の南側になるが、官沢林道のような残雪の区間はまったくなかった。ちょっとした高度の違い、方角の違いによって雪はずいぶんと違ってくる。盤木沢林道の3・5キロのダートを走りきり、硯石林道、官沢林道、それと盤木沢林道の3本の林道の合流地点に戻ってきた。
 盤木沢林道、官沢林道、硯石林道の3本の林道の合流地点から、硯石林道に入り、2・5キロ走ると、鶴石山林道との分岐点に出る。ここを左折し、鶴石山林道に入っていく。林道の入口は短い舗装路。すぐに二又の分岐になるが、左は牧場への道。鶴石山林道は右に入っていく。この分岐からダートが始まる。牧場に沿った稜線近くの道を行くと、やがて鶴石山(767m)が見えてくる。山頂には電波塔。鶴石山周辺からの眺めの良さが鶴石山林道の魅力だ。樹林が切れたあたりでビッグボーイを止め、牧草地の向こうに、幾重にも重なりあった阿武隈山地のゆるやかな山並みを眺めた。穏やかさを感じさせる風景。鶴石山の山頂周辺に雪はほとんどない。
 鶴石山から下っていくと、コーナーは短い舗装路になっている。日渡高野林道との分岐を過ぎ、二本川林道との分岐に出る。この分岐はT字路。右が鶴石山林道、左が二本川林道になっている。ところが右の鶴石山林道は崩落で通行止。そこでダート1・4キロの二本川林道を走り、高野の集落に出た。ダート8・0キロの鶴石山・二本川林道。分岐でそのまま鶴石山林道を走ってもやはりダート距離は8・0キロだ。県道20号から盤木沢林道→硯石林道→鶴石山林道→二本川林道と、4本の林道を走りつなぐと14・0キロのロングダートになる。
 国道49号に出ると長沢峠を越え、国道349号→県道20号で入遠野に戻り、「遠野」のオートキャンプ場で泊まった。谷田貝さんが作ってくれたキャンプ料理を食べながらおおいに飲み明かした。武田カメラマンとは一緒にサハラ砂漠を縦断し、生死を共にした仲間なので、「サハラ談義」で盛上がった。