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日本食べある記(11)ますずし

(『市政』1994年10月号 所収)

呉東と呉西
 富山といえば、なんといっても“ますずし”だ。富山市内はもとより、富山県内の旅館に泊まると、ますずしがひと切れとかふた切れ、夕食に出ることがよくある。

 また、駅弁のますずしは、全国駅弁コンテストで常に上位に顔を出している。私の大好物でもあり、日本一の駅弁だと思っている。

 列車で北陸本線を旅するときはもちろんのこと、バイクで北陸路を旅するときも富山駅まで行き、ますずしの駅弁を買い、待合室で食べることがよくある。

 ますずしの駅弁を食べていると、
「あー、今、富山に来ているんだ」
 と、しみじみとした旅の実感を味わうことができるのだ。

 今回はますずしを目当てに、富山に行った。
 東京・上野駅発23時58分の急行「能登」に乗る。列車が発車すると、いつものようにカンビールを飲みながら、車窓を流れていく東京の夜景を眺める。荒川を渡って埼玉県に入り、大宮を過ぎるころには眠りに落ちた。

 目を覚ますと、うっすらと夜が明けていた。
 トンネルが連続する親不知を通りすぎ、富山県に入る。やがて列車は、早朝の、広々とした富山平野をひた走る。平野の向こうには、まるで衝立を立てたかのように、残雪の立山連峰の山々が連なっている。

 立山連峰や後立山連峰を水源とする黒部川や常願寺川といった水量豊かな川を渡り、急行「能登」は、6時09分、富山駅に到着した。

 富山駅近くのビルの屋上に登り、富山の町並みを見下ろす。目を東に向けると、市街地の向こうには青々とした水田地帯の富山平野が広がり、さらにその向こうには、さきほどの立山連峰の山々が連なっている。最高峰の立山や薬師岳が見える。

 目の向きを西に変えると、足元を飛騨の山々を水源とする神通川が流れ、その対岸には、呉羽丘陵がまるでナマコのような形で横たわっている。

 2000メートル峰、3000メートル峰の連なる立山連峰とは違って、呉羽丘陵は標高100メートル前後の小丘である。この小丘が越中を二分している。呉羽丘陵を境にして東が呉東、西が呉西と呼ばれ、富山が呉東の、高岡が呉西の中心都市になっている。

10万石の城下町
 富山駅前から大通りを南に歩く。
 富山は富山藩10万石の城下町。だが戦災で市街地の大半を焼失したこともあって、城下町特有の迷路のような町並みではなく、新たな都市計画のもとにつくられたモダンな町並みが特徴だ。

 市の中心、県庁に隣り合った富山城跡に行く。濠や石垣、再建された天守閣や櫓を見てまわる。
 富山城は、戦国時代にはすでに築かれていたということだが、本格的な城下町づくりがはじまったのは、織田信長の武将佐々成政が越中に入ってからのことである。

 その後、豊臣秀吉の時代になると、佐々成政は国替えとなり、加賀、能登の二国を支配する前田利家が越中全域をも領地とし、加越能三国を支配する大大名になった。

 前田氏は、関が原の戦いをうまく切り抜け、徳川家康の時代になると、加越能三国120万石という、全国でも最高の石高を持つ大名として君臨するのである。

 寛永16年(1639年)、前田氏3代目の利常は、長男の光高に跡をつがせる際に、次男利次に富山10万石、三男利治に大聖寺7万石を分封し、この時点で富山藩が誕生した。富山藩、大聖藩の両支藩は、本家加賀藩の金沢を中心にして両翼に位置し、これら3藩の形成は前田氏が外様大名であったのにもかかわらず、幕末までそのままの形で維持された。

 さきほどの呉東と呉西だが、富山人には呉東と呉西の対抗意識が今でもけっこう強くある。同じ越中の国でありながら、なにかとその2つの地域は対比される。

 歴史的には呉西のほうが早くから開けていた。
 奈良時代以降、越中の国府は高岡の港、伏木に置かれた。伏木は古来、日本海の海上交通の要衝で、海路を通して都の先進文化がいち早くこの地に伝わった。それに対して呉東は、都からは遠く離れた僻遠の地であった。

 そのような古くからの歴史的な背景があって、富山藩が誕生した。呉羽丘陵を境にして、越中が加賀藩と富山藩に二分され、そのことによってよけいに呉東と呉西の対抗意識に拍車がかかったようだ。

富山のますずし
 富山城跡から富山駅に戻り、売店で待望のますずしの駅弁を買う。それを持って、駅待合室で食べる。
 ますずしは、味はもとより、見た目に美しい。蓋をあけると、笹の葉の緑色、マスの切り身の薄紅色、それと日本の米どころ富山平野でとれる越中米の白色と、配色が絶妙で、思わず食欲がそそられてくるのである。

 ますずしの味を十二分に堪能したあと、富山駅に近いますずし店で、つくるところを見せてもらう。店頭にはマスがずらりとぶら下がっている。その向こうでは、ますずし用の切り身にしている。

 ますずし用のマスは、もともとは、富山平野を流れる神通川のマスが使われていた。
 神通川のマスは秋に産卵し、ふ化してから一年半は神通川で生育する。その後、日本海に下り、約一年間は海で生息し、初夏になるとふたたび神通川に戻ってくる。この時期のマスが旬で、脂がのっており、一番美味だといわれている。

 したがって、ますずしも本来は5月から7月にかけて食べるものとされていた。ところが近年は、各地でとれた冷凍のマスを使っているので、一年中、賞味できるようになった。

 ところで私は、夏のサハリン(旧樺太)に行ったことがある。ちょうどマスの産卵の時期で、オホーツク海から川へと登るマスが、群れをなして押し寄せていた。河口の川面はマスの群れで盛り上がっていた。内陸に入っていくと、産卵を終えたマスの死骸が河原を埋めつくしていた。

 その光景を見たとき、私は信州の秋山郷で聞いた話を思い出した。
 ダムのできる以前の大正期までは、マスの産卵の季節になると、日本海から信濃川本流、そして支流の中津川を登ってくるマスは群れをなし、あまりにも捕れすぎるので、畑の肥料にしたほどだという。

 かつての神通川でも、当然、同じような光景が見られたはずだ。一時期に、大量に捕れる魚だからこそ、ますずしづくりのような技術が発達したのだろう。それがまさに“すし”で、本来のすしというのは、発酵を利用した魚肉や獣肉の保存方法であり、保存食なのである。

 さて、ますずしのつくりかたであるが、まずマスを三枚におろし、皮をはぎ、骨を取りのぞき、それを幅六センチくらいに横切りにして酢に漬ける。その一方で、炊きあげたご飯に酢、塩、砂糖などで味つけしてすし飯をつくっておく。

 次に、木製の、直径20センチほどの丸い器に笹の葉を敷き、すし飯を盛る。その上に、マスの切り身を扇をくるりと回したような形の円形に並べ、笹の葉でくるみ、蓋をする。重しをかけ、2、3日もすると味がなれ、ますずしができあがる。

 容器の上下に竹を二本づつ渡し、ヤマフジのつるでしばり、蓋がずり落ちないようにすると、日持ちがいいので遠方にも送ることができる。もっとも昨今はヤマフジのかわりに、太めの輪ゴムを使っているが。この容器は、家庭でも簡単に押しずしをつくれるので重宝がられている。

 ますずしにほのかな香りをつけ、腐るのを防ぐ役目をも果たしている笹は、立山連峰の山笹で、夏の土用の間にとっておき、天日に干して保存しておく。使うときに熱湯に通すと、青々とした鮮やかな色彩が戻ってくるという。

 この富山のますずしは、言い伝えによると、江戸時代中期の亨保年間(1716~1736年)に、吉村新八という富山藩士が考案したことことになっている。

 吉村新八は、それを富山藩3代目藩主の前田利与に献上したところ、その味がすっかり気にいり、富山藩はますずしを幕府への献上品にした。ますずしの日持ちのよさが、それを可能にしたといえる。ときの8代将軍徳川吉宗は、ますずしをたいそう気にいり、それ以来、ますずしは富山の名産品になったのだという。

 とはいっても、ますずしは、それよりもはるかに古い時代からつくられていた。
 神通川には、マスだけではなく、アユやコイ、フナ、ウグイなどの川魚が豊富に生息していた。この地方では、古くからそれらの川魚を利用して、なれずしをつくっていた。塩した川魚を飯に2、3ヵ月漬けこんで発酵させ、なれずしをつくるのだ。

 同じようにして、ますずしも、2、3ヵ月をかけてつくるなれずしだった。それが酢を使うことによって発酵を早め、さらに酢と塩、砂糖で味つけしたすし飯を使い、2、3日でできる早ずしに変わっていったのだ。

 冒頭でもふれたことだが、ますずしといえば、現在では富山第一の名産品である。わざわざ富山で途中下車して、ますずしを買っていく人も少なくない。駅構内はもちろんのこと、町を歩いていても、ますずしの看板をよく見かける。そんなますずしが富山で商品化されたのは明治17年のことだという。

テーマ : 国内旅行
ジャンル : 旅行

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