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「南米・アンデス縦断」(71)

 1月24日、「オルリー・ホテル」の朝食を食べると、バイクを税関に持ち込み、そのあとはなつかしのブエノスアイレスを歩いた。

 アルゼンチンの首都ブエノスアイレスは人口300万の大都市。まずはブエノスアイレスの中心、大統領府前の「5月広場」へ。ブエノスアイレスの町並みはこの広場を中心にして造られ、広がっていった。

 大統領府はピンクの建物で「カサ・ロサーダ」と呼ばれている。アメリカの「ホワイトハウス」風にいえば「ピンクハウス」になる。

 次にフロリダ通りを歩いた。「5月大通り」からサンマルティン広場までの約1キロの歩行者専用の通り。「歩行者天国」の通りの両側にはデパートやブティック、レストラン、カフェ、旅行社など、さまざまな店が並んでいる。ここでは大道芸も見られるし、路上でタンゴを踊る人たちも見られる。数多くの露店も出ている。

 サンマルティン将軍の騎馬像が立つサンマルティン広場は市民の憩いの場。大樹の木陰で気持ちよさそうに昼寝をする人。草原ではビキニ姿の女性が日光浴している。そこから近い鉄道のターミナル駅、レティロ駅に行き、その隣のバスターミナルを歩いた。

 圧倒されるようなバスターミナルの光景。アルゼンチンの各地へ長距離バスが次々と出ていく。アンデスのリゾート地、バリローチェ行きやフェゴ島の玄関口のリオガジェゴス行きのバスも出ている。全部で75番線まであるバスターミナルは、まるで大空港のターミナルを思わせた。

 最後にラプラタ川沿いのブエノスアイレス港へ。

「ブケバス」のターミナルでは、対岸のウルグアイの首都モンテビデオ行きの白い船が出ていくのを見送った。サッカーの強豪「ボカジュニアーズ」で知られるボカでは廃船の係留された港を歩いた。

 このボカ港はかつてはアルゼンチン随一の港だった。大西洋を越えてやってくる船はすべてこの港に着いた。当時は造船所もあり、ボカは船乗りや港湾労働者など大勢の人たちであふれかえっていたという。それが「ブケバス」のターミナルや客船のターミナル、延々とつづくコンテナヤードなどがある北港の「ダルセナ・ノルテ」に中心は移り、ボカ港は寂れていった。

 ところでぼくが初めて海外に飛び出したのは1968年4月12日のことだ。

 バイクでの「アフリカ大陸縦断」を目指して友人と2人、スズキTC250ともども、横浜港からオランダ船の「ルイス号」に乗り込んだ。カソリ、20歳の旅立ち。

「ルイス号」は日本から出た最後の南米への移民船。釜山、香港、シンガポールと寄港し、インド洋を越えてアフリカへ。そしてケープタウンから大西洋を越え、ブラジルのサントス、ウルグアイのモンテビデオを経由し、アルゼンチンのブエノスアイレスまで行く船だった。

 アフリカまでは40日にも及ぶ長い船旅。そのため船内で一緒になった日本人や韓国人、台湾人の人たちとは家族同様の親しさになった。

 ぼくたちは「アフリカ大陸縦断」を目指し、南部アフリカ・モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)で下船したが、港でのみなさんたちとの別れは胸をえぐられるほど辛いものだった。夜のロレンソマルケス港を出ていく「ルイス号」をいつまでも見送ったが、そのときぼくにとって「ブエノスアイレス」はどうしても自分のものでなくてはならない存在になり、「必ず南米を一周する、そのときはブエノスアイレスに行こう!」と、心に決めた。

 南米はぼくにとっては相性の悪い大陸だった。何度か「南米一周」を計画したのだが、そのたびに失敗…。5度目の正直で旅立ったのは、南部アフリカ・モザンビークのロレンソマルケス(現マプト)港で、アルゼンチンのブエノスアイレス行きのオランダ船「ルイス号」を見送ってから17年後の1984年10月のことだった。

 コロンビアを出発点にしてスズキDR250Sを走らせ、反時計回りで南米を一周した。ブエノスアイレスに到着したのは1985年1月17日。とびきり暑い日だった。

 ターミナル駅のひとつ、オンセ駅に近い安宿の「コーラルホテル」に泊まったが、「南米を一周しよう、そのときにブエノスアイレスに行こう!」という夢を18年目に達成させた喜びで、ホテルの部屋で一人、「乾杯!」を繰り返したのだ。

 その時はブエノスアイレスを拠点に、「ブエノスアイレス→ブエノスアイレス」でまわり、チリのサンチャゴを目指した。ブエノスアイレスを出ると、はてしなく広がるパンパを行く。パンパとはケチャ語で「大草原」の意味。ブエノスアイレスを中心とする半径数百キロほどの扇形のエリアで、その面積は日本の2倍以上にもなる。パンパは桁外れの大平原。まるでローラーでならしたかのようにまっ平だ。

 いかに平らかを証明しているのが、アンデス山脈から流れ出る何本もの川。どの川も水量が豊富なのにもかかわらず、1本として大西洋に届かない。あまりにも平なので、パンパの湖に流れ込んだり、パンパの地下にもぐり込んでしまう。それだからパンパは平坦なだけでなく、水の豊富なところでもある。

 そんなパンパは世界有数の大穀倉地帯。小麦畑やトウモロコシ畑、大豆畑が地平線の果てまでつづいている。大牧場も見られる。夏のパンパはヒマワリの季節。それは見事な光景で、大平原はヒマワリの花の色、一色に塗りつぶされていた。風が吹くと、黄色一色の大平原は波立つようにして揺れた。

 ブエノスアイレスから800キロほど走ると、前方にアンデス山脈の山並みが見えてくる。山麓の町、メンドサに到着。枝を広げた街路樹が涼しげだ。メンドサはワインの産地としてよく知られているが、この町の周辺にはブドウ園が多い。メンドサからチリ国境に向かうと、平原からアンデスの山地へと風景は一変。ゴーゴーと音をたてて流れる急流に沿った道を行く。国境の手前では標高6959メートルの南米の最高峰、アコンカグアを見た。堂々とした山の姿。青空を背にした雪の輝きがまぶしかった。大空を悠々とコンドルが飛んでいた。

 アンデス山脈の峠がアルゼンチンとチリの国境。峠は全長3キロの長いトンネルで貫かれている。トンネルを抜け、チリに入り、首都のサンチャゴまで一気に走った。チリではアンデスの標高4765メートルのアグアネグラ(黒い水の意味)峠まで行った。日本風にいえば「黒水峠」のダートの峠道をおもしろく走った。

 首都のサンチャゴに戻ると、アルゼンチンのブエノスアイレスへ。アンデス山麓のメンドサから再度、パンパを駆け抜けた。復路では往路とルートを変え、コルドバ→サンタフェ→ロザリオ経由でブエノスアイレスへ。10日間で5137キロを走った「ブエノスアイレス→ブエノスアイレス」だった。

 ブエノスアイレスに戻ると、ふたたび、オンセ駅に近い「コーラルホテル」に泊まり、汗をたらたら流しながら、1日かけて町を歩いた。足はどうしてもラプラタ川のブエノスアイレス港に向かい、オランダ船の「ルイス号」が停泊したかもしれない岸壁に立ち尽くし、海のように広いラプラタ川を眺めつづけるのだった。

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「オルリー・ホテル」前のウルグアイ通り

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「オルリー・ホテル」の部屋からの眺め

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「オルリー・ホテル」の朝食

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バイクを税関に持っていく

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ブエノスアイレスの中心、大統領府前の「5月広場」

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「歩行者天国」のフロリダ通りを歩く

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石畳の道を歩く

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ターミナル駅の「レティロ駅」

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ボカ港の廃船

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