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東アジア走破行(18) 環日本海ツーリング(3)

 タタール海峡(間宮海峡)の港町、ワニノを出発。ロシア沿海州の中心都市、ウラジオストクを目指す。この日の目的地はアムール川流域のリドガだが、トラブル発生。「ワニノホテル」までやってきた我々のサポートカーのトラックは、リアのバネが折れたとのことで急きょ、修理工場へ。そこでカソリのスズキDR-Z400Sが先頭を走り、みなさんのバイクがそれにつづき、最後を道祖神の菊地さんと通訳兼ガイドの東さんの乗る車がついた。サポートカーは修理が終わり次第、我々を追いかけてくるとのことだ。

 ワニノからはバム鉄道終点のソビエツカヤ・ガバニへの道を行き、その手前で右折。ワニノ近郊のガソリンスタンドで全車、満タンにした。

 ロシア沿海州(プリモルスキー)にはシホテ・アリニ山脈が南北に連なり、海岸線にはまったくといっていいほど道はない。そのためワニノからシホテ・アリニ山脈を越えてアムール川の流域を走り、ハバロフスクからウラジオストクに向かうことになる。

 ワニノからシホテ・アリニ山脈の山道に入っていく。とはいってもなだらかな山並みなので、ゆるいカーブの連続で勾配もゆるやか。何本もの山脈が走っているのでいくつもの峠を越える。この一帯は絶滅が心配されるアムールトラの生息地になっている。シホテ・アリニ山脈の最高峰、タルドキーヤニ山(2077m)の北側を通っていくが、峠から山並みを眺めた限りではどの山がそうなのか、よくわからなかった。

 ワニノから80キロの峠にはガソリンスタンドがある。ここが「ワニノ→リドガ」間の唯一の給油ポイントなのだが、またしてもトラブル発生。ガソリンスタンドのガソリンの残量がわずかしかなく、3、4台のバイクにしか、給油できないという。そこでタンク容量の少ないDRとXRLバハ、KLX250、ランツァの4台に入れた。4台に入れ終わったところでガソリンスタンドのガソリンはカラッポになった。「ワニノ→リドガ」間は300キロ。何としてもリドガまで全車、走りきらなくてはならない。予備のガソリンを積んだサポートカーはいつ来るのかわからないので、当てにすることはできないからだ。旅は冒険の連続だ。

 ワニノから80キロの峠を越えるとダートに突入。ダートといっても幅広で走りやすい。ダートには滅法強いスズキDR-Z400Sなので、ほとんど速度を落とすことなく、100キロ以上で走れる。日本の林道とはまるで違う高速ダート。すれ違う車も高速走行なので、その瞬間、ビシバシと小石混じりの泥を跳ね上げられる。跳ね上げられた小石でヘッドライトが割られないように速度を落とし、右側に避けて走った。

 道のド真中で記念撮影できるほど交通量極少だが、とはいっても高速で走る四駆や乗用車、トラックなどを追い越すときはちょっと大変。対向車には十分気をつけ、気合を入れてアクセルを開いた。それと、このルートで気をつけなくてはならないのは木橋。見通しの悪い木橋が大半で、橋の幅は極端に狭くなり、板の吹っ飛んだ痛みの激しい木橋も多い。ワニノから176キロ地点の森の中に、ポツンとカフェがある。「ワニノ→リドガ」間で唯一のカフェ。ここで昼食にする。これぞロシア料理といったスープの「ボルシチ」と「マカロニ&ビーフ」を食べた。食べ終わると食後のコーヒーを飲みながらの歓談。これが何ともいえずに楽しい時間だ。

 カフェを出発し、リドガに向かう。ほんとうはここでサポートカーと合流したかったのだが、修理に手間取っているようでついに到着しなかった。こうなったら、1台もガス欠することなく全車が無事、リドガに着けるのを願うばかりだ。

 シホテ・アリニ山脈を横断するダートを走り、やがてアムール川の水系に入っていく。アムール川の支流はあっというまに大きな流れになり大河の様相。さすが世界の大河、アムール川だけあって、シホテ・アリニ山脈から流れ出る支流にも大河の風格が漂っている。我々はついにシホテ・アリニ山脈の山中のダートを走りきり、2車線の舗装路に出た。「ワニノ→リドガ」間のダート距離は100キロ超。舗装区間が着々と伸びているので、おそらく近いうちに「ワニノ→リドガ」間の全線が舗装路になることだろう。そのときは「稚内→コルサコフ→ホルムスク→ワニノ→リドガ→ハバロフスク」というこのルートが脚光を浴びるようになるのは間違いない。ハバロフスクからはイルクーツク、ノボシビルスクとシベリアを横断し、ウラル山脈を越え、モスクワまで一直線で行ける。モスクワからはさらにヨーロッパの国々へ。新たなユーラシア横断時代の幕開けだ。

 ワニノを出発してから9時間後の17時、ついに我々はリドガに到着した。ワニノからの距離は336キロ。1台のバイクもガス欠することなくガソリンスタンドで全車、満タンにした。我々は意気揚々とした気分でリドガの町に入っていった。

 アムール川流域の町、リドガでは、ハバロフスクとコムソモリスク・ナ・アムーレを結ぶ街道沿いの「スラブヤンカ・モーテル」に泊まった。ここには宿泊施設のみならず、レストランもある。ハバロフスクとコムソモリスク・ナ・アムーレの中間地点にあるリドガなので、次々に長距離バスがやってきては止まる。乗客たちはここで食事をしたり、コーヒーを飲んだりする。道標ではリドガからハバロフスクまでは214キロ、コムソモリスク・ナ・アムーレまでは184キロとあった。

 モンゴル高原の源流からタタール海峡の河口まで、アムール川沿いにバイクで走るのは、ぼくの夢。ロードマップを見ると、コムソモリスク・ナ・アレーナからさらに500キロほど下流の町、ボゴロドスコエまでは道がある。その先で道は途切れてしまうが、さらにアムール川の河口ではニコラエフスク・ナ・アムーレの町を中心にして道路が四方に延びている。世界の大河、アムール川は、ニコラエフスク・ナ・アムーレの町まで深く切れ込んだタタール海峡(間宮海峡)北端の海に流れ出ている。アムール川流域のボゴロドスコエからは、タタール海峡(間宮海峡)最狭部に面したラザレブまで道が通じている。対岸のサハリンまではわずか7・3キロ。ラザレブの海岸からは、きっとサハリンがはっきりと見えることだろう。今回、我々はリドガから南へ、ハバロフスクを目指すのだが、ぜひとも次回はここから北へ、アムール川の下流からさらに河口一帯をまわりたいと熱い気分で思った。

「スラブヤンカ・モーテル」のレストランで夕食。スープを飲んだあとのメインディッシュはカツレツ。スープにはロシア人の大好きなスメタナ(サワークリーム)が浮かんでいる。日本の「とんかつ」の原型といっていい「カツレツ」はロシアの代表的な料理のひとつになっている。その夜は辛かった。さんざん蚊にやられた…。

 翌朝はいつも通り夜明けとともに起き、早朝散歩を開始。モーテル前の広い駐車場には何台もの長距離バスや大型トラックが止まっている。乗用車も次々にやってくる。大繁盛の「スラブヤンカ・モーテル」だ。我々のウラジミールさんの運転するサポートーカーのトラックも真夜中に到着した。

「スラブヤンカ・モーテル」の周辺には家一軒ない。ハバロフスクとコムソモリスク・ナ・アムーレを結ぶ街道沿いには途切れることなく森林地帯がつづいている。

 2時間ほど歩き、モーテルに戻ると朝食。黒パンと目玉焼き、ハンバーグを食べる。目玉焼きにはソバの実が添えられていた。

 9時、出発。ハバロフスクへ。ハバロフスクとコムソモリスク・ナ・アムーレを結ぶ街道はアムール川の東側を通っているが、川からはかなり離れているので見ることはできない。そこで街道を右折し、10キロほど走ってトロイツカヤの町まで行き、アムール川の河畔に出た。さすが世界の大河。対岸ははるかに遠い。アムール川の全長は4416キロで世界第9位、アジアでは長江、オビ川、エニセイ川、黄河、メコン川につづいて第6位の長さになる。DR-Z400Sを川岸に止めるとカソリ、小石の散りばめられた河原に立ち、「やった!」のガッツポーズ。特別な想いでアムール川を見る。その瞬間、各地で見たアムール川のシーンが走馬灯のように目に浮かんでは消えていった。

 ぼくが初めてアムール川に出会ったのは1977年。列車でシベリアを横断したときのことだ。横浜から船でナホトカに渡り、そこからシベリア鉄道に乗った。ハバロフスクに泊まり、町中を流れるアムール川を見たときは、「おー、これがアムール川か!」と世界の大河に感動した。ハバロフスクからさらにイルクーツクに向かったが、その途中で列車はアムール川最大の支流、シルカ川に沿って走った。

 シベリア横断から20年後の1997年には「モンゴル周遊3000キロ」を走った。 首都のウランバートルを出発するとバイヤン峠を越えた。モンゴル語で峠は「ダワ」という。日本語にすごく似ている。峠には石が積み上げられている。それを「オボウ」という。旅の安全を祈って「オボウ」のまわりを3回、時計回りに回る。バイヤン峠を越えると、大草原の中につづくダートを走る。草原の緑が目にしみる。その中には点々と牧畜民のゲル(テント)を見る。ヒツジやヤギ、ラクダ、馬などの家畜の群れも見る。その草原地帯をゆるやかに流れるケルレン川がアムール川の源流だ。ケルレン川は中国の内蒙古自治区の呼倫湖に流れ込む。呼倫湖から流れ出るアルグン川は中露国境を成し、最大の支流、シルカ川を合わせてアムール川になる。アムール川の中国名が黒龍江だ。

 2002年の「ユーラシア横断」ではロシアのウラジオストクに上陸し、ハバロフスク近郊でアムール川にかかる完成して間もない橋を渡った。ハバロフスクからは中国国境を走り、アムール州の州都、ブラゴベシチェンスクに到着すると、アムール川対岸の中国・黒龍江省の黒河の町を眺めた。

 2004年の「旧満州走破行」では中国・黒龍江省の省都、ハルビンを拠点にして旧満州を走ったが、まずは黒河に行き、今度は黒龍江対岸のブラゴベシチェンスクの町を見た。さらに中国最北の漠河村まで行った。そこは「北極村」。中国では国の最北端を北極という。黒龍江のたもとには「北極」の碑が建っている。内蒙古自治区に入ると、アムール川上流のケルレン川が流れ込む呼倫湖やアルグン川に合流するハイラル川を眺めた。ともにとてつもなく大きい湖だし、とてつもなく大きな川だ。ハルビンに戻ると東へ。黒龍江省の同江では黒龍江と松花江の合流地点、撫遠では黒龍江とウスリー江の合流地点を見た。黒龍江(アムール川)の川幅はこのあたりが一番、広くなっている。黒龍江とウスリー川の合流地点は中国・最東端で「東極」と呼ばれている。そこに中国・公安の目をかいくぐって立った。そんなアムール川に今回の「環日本海ツーリング」で再会した。

 トロイツカヤの町を流れるアムール川沿いに走り、アムール川の流れをしっかりと目に焼き付けたところで、コモソモリスク・ナ・アムーレとハバロフスクを結ぶ街道に戻る。そして我々はハバロフスクを目指して走った。森林地帯が途切れると、アムール川流域の大湿地帯に入っていく。地平線のはてまでつづくかのような大湿地帯。見渡す限りの草原の中に何本かの流れが見える。道路は盛土されているが、大水の時には冠水しそうだ。大湿地帯を抜け出るとまた森林地帯がつづいた。

 森林地帯が途切れたところが、「リドガ→ハバロフスク」間では一番大きな町のマヤック。ここにはガソリンスタンドがある。マヤックを過ぎると交通量が多くなった。道路沿いにバイクを止めて小休止。少数民族ナナイ族の住むというシカチェイリアン村に寄っていこうということになり、地図を見てその位置を確認する。シカチェイリアンはマルウィシェーボという町の近くにある。ハバロフスクへの道を走り出す。道標だけが頼りで走り出したのだが、記されているのはロシア文字の「キリル文字」だけ。キリル文字はまったく読めないカソリ、それらしき地名のところでDRを止めると、後続のバハに乗る新保さんに「これってマルウィシェーボとシカチェイリアンかなあ」と聞いてみる。大当たり。新保さんはキリル文字が読めるのだ。1日も早く、ロシアの道標が英語のアルファベットでも表記されますようになってほしい。その時はきっとロシアも変るだろう。

 ハバロフスクに通じる幹線を右折し、マルウィシェーボの町に通じる道に入っていく。舗装路沿いには森林がつづく。数キロ走ったところで右折し、アムール川に出たところがシカチェイリアン村。ここに少数民族のナナイ族が住んでいる。ナナイ族の若者や子供たちを見ると、あまりにも日本人に似ているので驚かされてしまう。「こんにちは」と日本語で話しかけたくなるほど。ちょうどキリスト教のボランティアたちが来ていてお祭り騒ぎ。子供たちはバイクに乗ってやってきた我々の前でナナイ族の歌を聞かせてくれた。シカチェイリアン村にあるナナイ族の資料館を見学。壁一面に描かれた絵には、アムール川の漁労民が舟に乗り、槍で大魚を突き刺している様子が描かれている。魚肉を焚き火で焼いている様子も描かれている。ナナイ族はアムール川とともに生きてきた漁労民だ。

 2004年の「旧満州走破行」では中国最東端の地まで行ったが、そこで出会った少数民族のホジェン族もナナイ族と同一の民族。やはり黒龍江の漁労民だ。普段はサケやマスなどを獲っているが、彼らはチョーザメの仲間の皇帝魚をも獲る。最大級の皇帝魚になると体長10メートル、重さは何と2トン近くに達するという。乱獲がたたって今では超大物の皇帝魚は激減したとのことで500キロぐらいが大物になっているが、それでも重さ500キロの魚といったらすごいではないか。ホジェン族はそんな黒龍江の誇り高き漁労民。ナナイ族の資料館に描かれている大魚も、この皇帝魚のようだ。

 ロシア領内に住むナナイ族、中国領内に住むホジェン族は名前こそ違うが、アムール川(黒龍江)沿いに住む同一の民族。ナナイ族の人口は約1万人、ホジェン族は約5000人。国境を越えて住む2つの民族にはものすごく心ひかれるものがある。ナナイ族とホジェン族はほんの1例でしかないが、世界にはこのように「国境線」という目に見えない線でもって、ズタズタに分断されてしまった同一民族の例があちこちにある。シカチェイリアン村では少数民族ナナイ族の資料館を見学したあと、アムール川の河原まで行き、悠々とした流れを見た。

 ハバロフスクへの街道に戻ると、道路沿いのカフェで昼食。アゼルバイジャン人のやっている店。我々の人数分の料理はつくれないが、スープなら出せるという。「いいですよ、それで」ということで、黒パンとスープのみというシンプルな昼食を食べた。ハバロフスクに近づくと一気に交通量が増えた。あいにくの雨。雨具を着てハバロフスク市内に入っていく。

 ハバロフスクは人口60万人。ハバロフスク地方の州都になっている。まずは郊外の日本人墓地に行く。広い墓地の一角が日本人墓地になっている。中央には「日本人墓地」と漢字で記された墓石が立ち、その周辺には約300人の日本人の墓がある。大半は終戦後の強制抑留、強制労働で死んでいった人たちだ。

 旧ソ連が日ソ不可侵条約を破棄し、日本に対して宣戦を布告したのは終戦間近の昭和20年8月8日。広島に原爆が投下された後の事だ。なんとも卑怯な宣戦布告としかいいようがないが、まあそれはおいて終戦後、ソ連は約58万人もの日本人をシベリアに強制抑留した。各地の収容所に抑留された多くの日本人は、シベリアの厳しい冬の寒さや苛酷な強制労働で死んでいった。そのような日本人の墓地がシベリアの各地の広い地域にある。

 次に中心街のレーニン広場に行く。そこに我々はバイクを止め、ハバロフスク到着を喜びあった。広場に集まっていたコスプレの若者たちも一緒になって喜んでくれた。ハバロフスク到着のセレモニーを終えると、アムール川に近い高層の「インツーリストホテル」へ。ここが我々のハバロフスクでの宿。連泊することになっている。部屋に入るとカンビールで乾杯。これで2002年の「ユーラシア横断」とつながった。

 2002年の「ユーラシア横断」では富山県の伏木港を出発し、ロシア船で日本海を渡り、ウラジオストク港に上陸。ウラジオストクからハバロフスクにやって来た。そしてイルクーツク、ノボシビルスクを通り、ウラル山脈を越え、モスクワからヨーロッパの国々を通り、ユーラシア大陸最西端、ポルトガルのロカ岬にゴールにしたのだった。このとき、今回のDR-Z400Sで1万6000キロを走ったが、そのDRはすでに10万キロを超えている。

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