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東アジア走破行(20)環日本海ツーリング(5)

 我々がウラジオストク港に到着したのは14時。ギリギリ「セーフ!」といったところだ。港内に入り、韓国の東海から日本の境港まで行く韓国船のフェリー「イースタンドリーム号」の停泊する岸壁前でバイクを止めた。ウラジオストクの道路工事区間で泥まみれになっていたが、洗い流さなくてもいいということで助かった。バイクの手続きも乗船手続きも、すべて「道祖神」の菊地さんとガイドの東さんがやってくれるので、我々はウラジオストク港で解放された。船の手続きがおおいに心配だったので、ほっとした気分だ。

 ウラジオストク港からシベリア鉄道のウラジオストク駅へ。港と駅は隣接していて道を1本、渡るとウラジオストク駅。長いプラットホームには20両編成のソビエツカヤ・ガバニ行きの列車が停車していた。この列車はシベリア鉄道でハバロフスクまで行き、支線でコムソモリスク・ナ・アムールへ。そこからバム鉄道でシホテ・アリニ山脈を越え、我々のロシア本土上陸地点のワニノを通り、終点のソビエツカヤ・ガバニまで行く。列車に乗り込む人たちの姿を見ていると、思わず飛び乗りたくなるような衝動にかられた。

 ウラジオストク駅のホームには第2次大戦中に活躍した蒸気機関車が展示されている。その先にはキロポスト。モスクワまでのキロ数の「9288」が表示されている。

 20両編成のソビエツカヤ・ガバニ行きが発車。列車がウラジオストク駅のホームを離れ、見えなくなったところで古典的なウラジオストク駅の駅舎を歩いた。この駅舎は19世紀後半に造られた純ロシア様式で異国情緒を漂わせている。

 こうしてウラジオストク駅を歩いていると、1977年に列車でシベリアを横断したときのことが思い出される。ロシア船「バイカル号」で横浜港からナホトカ港に渡り、シベリア鉄道の支線から本線へ、そしてハバロフスク、イルクーツク、ノボシビルスクを通ってウラル山脈を越え、モスクワまで行った。その当時、ウラジオストクは軍港ということで、外国人の立入は一切禁止されていた。立ち入ることのできないウラジオストクということもあって、よけいに憧れはふくらみ、何としてもシベリア鉄道の終点駅であり、始発駅でもあるウラジオストク駅を見たいと思った。ぼくにとってウラジオストク駅というのは長年に渡る憧れの地だったのだ。

 ところで日本海に面したロシア沿海州の港町ウラジオストクは日本語ではウラジオストックとかウラジボストークなどとも表記されるが、ロシア語ではウラジヴォストークで、ウラジは「支配する」、ヴォストークは「東方」を意味する。ロシアの東方支配の拠点として造られた町でその歴史は新しい。1860年に町の建設が始まり、1870年代にはロシア極東の主要な港湾都市になった。さらにロシア極東艦隊の根拠地になっていく。

 19世紀の後半にはシベリア鉄道の日本海側起点駅、ウラジオストク駅が完成する。日本語ではかつて「ウラジオ」といっていたが、それはウラジオストクを漢字で「浦塩(潮)斯徳」と書いていた名残。「浦塩斯徳」を短くした「浦塩」の呼び名が定着したからだ。ぼくが子供の頃は「ウラジオ、ウラジオ」といっていた。ラジオのNHK第2で「ウラジオ、気温0度、風力2」というような天気情報を聞いていた記憶がある。なぜか韓国のモッポー(木浦)とソ連のウラジオ(浦塩)の地名が子供心に残り、「ウラジオ」と聞くと、遠い異国の地を連想したものだ。

 ウラジオストクの町の建設がはじまった1860年は「北京条約」の締結された年。対ロシアとの北京条約は11月14日に結ばれた。1858年にロシアと中国は「アイグン条約」を締結した。この条約によってロシアと中国の国境はほぼ確定した。アムール川(黒龍江)右岸を中国領、左岸をロシア領とし、さらにウスリー川から日本海・オホーツク海に至る外満州(今の沿海州)は両国の共有地にした。そのことは前にもふれた。

 1860年の北京条約では1858年のアイグン条約が確認されたが、それのみならず、ロシア・東シベリア総督、ムラビエフの武力を背景とした豪腕で、両国の共有地の外満州を一方的にロシア領にしたのだ。衰退した中国・清朝はロシアに領土を強奪された。「強盗ロシア」の面目躍如といったところだが、その北京条約締結前からロシアはウラジオストクの町の建設をはじめていた。日本海の不凍港はロシアにとっては喉から手が出るほど、欲しいものだった。中国では今だに超不平等条約の北京条約は無効だという声が強く、とくに旧満州(中国東北部)では、各地でけっこう激しい領土返還運動がおこなわれている。

 今回の我々のルートはワニノに上陸し、シホテ・アリニ山脈を越え、アムール川の右岸地帯を走り、ハバロフスクからウスリー川沿いにウラジオストクへ、というもの。本来はこのルートのすべてが中国領内になる。ハバロフスクも中国領内に造られた町なのだ。国力が弱まると、領土はむしりとられていく。その典型を見るような地域を我々はバイクで走ってきたわけだが、国と国の関係というのはそういうもの。「ワニノ→ハバロフスク→ウラジオストク」というのは、弱肉強食の世界を記述した教科書のようなものだ。

 ウラジオストクはムラビエフ・アムールスキー半島南端の町。ムラビエフ・アムールスキー半島は広大な領土を自国領としたロシア東シベリア総督、ムラビエフにちなんだ半島名で、領土強奪の親分の名前がウラジオストクの半島名になっている。ムラビエフは1859年に黒船7隻を率いて江戸湾にやってきた。日本国内の混乱を見抜いてのことだが、江戸の町がロシアに強奪されなくてほんとうによかった。もし強奪されていたら、今ごろ東京は「ムラビエフ」になっていた。

 シベリア鉄道の終着駅、ウラジオストク駅は離れがたく、しばらくは何するでもなしに待合室のベンチに座わっていた。長距離列車の出発案内板には、14時30分発のハバロフスク行きと15時30分発のモスクワ行きが電光掲示されている。「いやー、たまらん、モスクワ行きの乗りたい!」と思ってしまう。

 待合室のベンチを立ち上がると、駅舎内の時刻表や料金表、近郊の路線図などを見てまわった。ロシア語の表示のみなので、「これは到着の時刻だな」、「これは発車の時刻だな」と、自分勝手の推測をしながら楽しんだ。シベリア鉄道本線のウスリースクまで行く列車、ウスリースクからやってくる列車の本数は断トツで多い。

 近郊路線図は興味を引かれた。シベリア鉄道のウゴリナヤ駅で分岐する支線が日本海の港町ナホトカに通じている。思わず1978年の列車でのシベリア横断を思い浮かべたが、「そうか、あのときはこの路線を通ったのか」と、妙に納得した気分になった。ナホトカからさらに路線が延びているのにはちょっと驚かされた。「まだその先、路線がつづいていたのか」といった驚きだ。

 名残おしいウラジオストク駅をあとにし、駅舎を離れる。駅前はタクシー乗場、バスターミナルになっている。駅前通りを歩いていく。今や世界中で大ブーム、というよりも、すでに世界中に定着したかのような「スシバー」の店がある。24時間営業の酒店がある。そして海を見下ろす高台の上にある「アジムットホテル」に到着。ここが我々のウラジオストクでの宿になる。

「アジムットホテル」にチェックインすると、すぐさまホテルを出発し、「ウラジオストク探訪」を開始。「アジムットホテル」は海を見下ろす高台に建つホテルだが、まずはその海を見下ろした。ウラジオストクは日本海のピヨトール大帝湾の奥に位置しているが、前にもふれたように、ムラビエフ・アムールスキー半島の先端部に町は出来ている。半島は海を2つの湾に分けているが、東側がウスリースキー湾で西側がアムールスキー湾になる。「アジムットホテル」前から見下ろす海は西側のアムールスキー湾になる。

 もうすこしウラジオストクの地形を語ると、ムラビエフ・アムールスキー半島の先端に鍵型に切れ込んだ海が金角湾で、そこにウラジオストク港がある。対岸はルースキー島。半島と島の間の海峡は東ボスポラス海峡になる。ボスポラス海峡といえばトルコのアジアとヨーロッパを分ける海峡だが、それにちなんでこの海峡を東ボスポラス海峡とした。地球を手玉にとるような、気宇壮大な気分にさせてくれる海峡名ではないか。サハリンとロシア本土の間の、訳のわからないタタール海峡よりはよっぽどいい。

「アジムットホテル」からアムールスキー湾の海岸に下り、遊歩道を歩いていく。海辺の公園を抜けるとヨットやボート専用の小港に出る。そこの岸壁では何人かの人たちが釣りをしていた。岸壁の突端に立つと、アムールスキー湾対岸の中国国境、北朝鮮国境へとつづくロシア本土の山並みが見えた。

 アムールスキー湾の海辺を歩いたあとは、ひたすらウラジオストクの町を歩いた。市内地図もないので、足の向くまま、気の向くままに歩きつづけた。バイクでウラジオストクまでやってきあとの町歩きは楽しい。ロシア正教の教会をのぞき、表通りから路地裏へと入っていく。1階は店、2階が住居になっている建物。そんな建物の店も1軒づつ見ていく。居酒屋の類はまだ店を閉めている。「ドブルジェニー(こんにちは)」とひと声かけて、街角のタバコ屋にも入ってみた。でっぷり太った店のオバチャンのニッコリと笑った笑顔が忘れられない。しかし、タバコを吸わないカソリ、「ドスビダーニア(さようなら」といってすぐに店を出た。

 歩きながらウラジオストクが「アジア極東の町」であるのと同時に、「ヨーロッパ最東端の町」であることをも強く感じるのだった。

 ウラジオストクの町歩きはさらにつづく。目抜き通りの交通渋滞はものすごい。M60(国道60号)でウラジオストクの市内に入ってくるときの大渋滞を思い返したが、この10年あまりの車の増え方には目を奪われてしまう。走っている車の大半は日本車。それも10年前と比べると、新車、もしくは比較的新しい車が格段に多くなっている。

 ウラジオストクはムラビエフ・アムールスキー半島という半島突端の町なので、道路の新設、増設はなかなか難しい。交通渋滞はこれからのウラジオストクのかかえる一番大きな問題になりそうだ。この難問をどう解決していくのか。中心街のバス乗場も大勢の人たちで込み合っていた。満員のバスが次から次へと出ていくの飽きずに眺めていたが、「ウラジオストクには地下鉄が必要だな」と思ったりもした。雨がけっこう激しく降ってきたところで「バス停ウオッチング」を終了。濡れながら歩き、「アジムットホテル」を目指した。

「アジムットホテル」に戻ってくると、中国人旅行者が大挙してやってきた。黒龍江省ナンバーの観光バスやマイクロバスでやってきた人たちが多い。ホテルのロービーには大声で話す中国人たちの中国語が飛び交う。怒号も飛び交う。ちょっとした戦場のような様相だ。

「アジムットホテル」のレストランで夕食。我らメンバーは、無事、ウラジオストクに到着したので喜びの「乾杯!」。「それにしてもあの道、すさまじかったねえ!」と、話題はもっぱらウラジオストクに入るM60の「大渋滞」。それと「泥ハネ」だ。過ぎてしまえば忘れられない思い出になる。そんな体験の共有が、我らメンバーの連帯感をいっそう強いものにする。夕食を食べ終わると、まだ十分に明るいので、ウラジオストク駅、ウラジオストク港まで歩いていく。ありがたいことに天気は回復していた。

「アジムットホテル」を出ると、まぶしいくらいの夕日がアムールスキー湾をキラキラと黄金色に染めていた。ウラジオストク駅まで行くと、シベリア鉄道の20両編成の電気機関車と先頭車両を見、最後尾の車両までホームをプラプラ歩いた。ウラジオストク駅の次はウラジオストク港。ターミナルビルのテラスから夕暮れの港を一望。目の前に停泊している我々の乗るフェリー、「イースタンドリーム号」には明かりが灯りはじめていた。

 2012年8月17日。いよいよウラジオストク出発の朝を迎えた。夜明けとともに起き、「アジムットホテル」からウラジオストク駅まで歩いていく。駅舎内のガランとした待合室で何するでもなしにしばらく過ごし、次に跨線橋の上から4面7線のホームを見下ろした。まだ人影はまばら。そこにライトを灯けた電気機関車が入線してくる。つづいてウラジオストク港へ。ターミナルビル2階のテラスは絶好の展望台。そこから金角湾奥のウラジオストク港を一望する。停泊しているフェリー「イースタンドリーム号」の前には、我々のバイクがズラリと並んでいる。8時前に「アジムットホテル」に戻り、バイキングの朝食を食べた。

 いよいよ「アジムットホテル」を出発し、ウラジオストク港のフェリーターミナルへ。乗船まで時間があるのでターミナルビル内のみやげもの店などをのぞいていく。奥には鳥取県の「ビジネスサポートセンター」があった。ウラジオストクからのフェリーが鳥取県の境港まで行くからなのだろう。何の用もないのに中に入ると、案内の若いロシア人女性が日本語で話しかけてきてくれた。「こんにちは、さようなら」で「ビジネスサポートセンター」を出たが、ロシア美人に出会えてすごく得した気分になった。

 ターミナルビル内のレストランで昼食にする。ケース内にはいろいろな食べ物が並んでいたが、小銭程度のルーブルしか持っていないのでグッと我慢し、見るだけにした。注文したのはハンバーガーとグラスビールのみ。これで220ルーブル(約616円)。手持ちのルーブルをすべて使いきると、「あー、これでロシアとも、お別れだなぁ…」という気分になった。そんな寂しさを紛らわすように、ゆっくりとビールを飲みながらハンバーガーを食べた。

 ついにウラジオストクを離れる時がやってきた。13時、乗船手続き&出国手続きを終えると、鳥取県の境港行きのフェリー「イースタンドリーム号」に乗船。船内の売店に直行し、カンビールを買う。売店では日本円が使える。バドワイザーが1本400円と安くはないが、缶には1ドル紙幣が貼り付けてある。1ドルのキャッシュバックということで、実質的には1本300円ほどになる。そんなバドワイザーを持って甲板に上がった。

 カンビールを飲みながら船上からウラジオストクを眺める。これがたまらない。ウラジオストク港は前にもいったように鍵型に奥深くまで切れ込んだ金角湾にある。フェリーターミナルのすぐ近くの埠頭には白い客船が停泊している。その先は軍港。停泊しているロシア極東艦隊の艦船が数隻、見える。金角湾の対岸やルースキー島に渡るフェリーが頻繁に行き来している。それらのフェリーは人や車を満載にしている。これもダイナミックに動くウラジオストクの一面だ。

 金角湾をまたぐ橋が建設中。爆発的に発展するウラジオストクを象徴するかのような大橋の建設工事だが、さらにもう1本、東ボスポラス海峡をまたいで対岸のルースキー島に渡る大橋も建設中。これら2本の橋は韓国企業が造っている。韓国のウラジオストクへの進出ぶりには目を見張らされるものがある。ウラジオストクでは2012年9月にAPEC(アジア太平洋経済協力会議)首脳会議が開かれる。その会場がルースキー島。これら2本の大橋はそれに合わせて完成させるという。新国際空港も完成間近。APECの開催はウラジオストクを大きく変えようとしていた。

「イースタンドリーム号」に乗船してから2時間後の15時、ウラジオストク港を出港。ターミナルビルがみるみるうちに離れていく。ウラジオストクの町並みが遠ざかっていく。ウラジオストク港の埠頭が遠ざかっていく。「イースタンドリーム号」はタグボートに引かれ、金角湾から東ボスポラス海峡に出ていく。タグボートは海峡に出たところでウラジオストク港に戻っていった。東ボスポラス海峡を跨ぐ建設中の大橋がよく見える。この大橋はルースキー島連絡橋。2本の橋脚間の距離が1104メートルで、完成すれば日本の本四連絡橋のひとつ多々羅大橋を抜いて、世界最大の斜長橋になるという。斜長橋とは塔から斜めに張ったケーブルで橋桁を支える構造の橋。つり橋の一種といえる。日本では横浜ベイブリッジや青森ベイブリッジが斜長橋だ。

「イースタンドリーム号」はルースキー島をまわり込むようにして、東ボスポラス海峡から日本海のピヨトール大帝湾に出ていく。ルースキー島を離れたとき、「ドスビダーニア(さようなら)、ウラジオストク!」、「ドスビダーニア(さようなら)、ロシア!」と叫んでやった。

「イースタンドリーム号」は日本海のピヨトール大帝湾を南下。ウラジオストクもルースキー島も遠くなった。ピヨトール大帝湾のルースキー島の南には点々と小島が点在しているが、それらはすべてが無人島のようだ。

「イースタンドリーム号」の乗客の大半は韓国人で、そのほかロシア人がちらほら見られた。日本人は我々のほかには2、3人といった程度。韓国人はツアー客が多いようだ。

 甲板に日本海の地図を広げて見ていると、何人かの韓国人がやってきて激しい口調で何かいっている。ぼくはすぐにピンときた。「わかった、わかった」という顔をして、「日本海」の下に「東海」と書いた。それを見て韓国人たちは納得の表情を浮かべて立ち去った。何という狭量なナショナリズム。韓国では日本海のことを東海といっている。日本から見たら西海ではないか。それを世界中で「日本海を東海にしろ!」と声高に叫びまわっている。韓国人は本気なのだが、我々の目から見たら何とも滑稽な話で、おかしな民族だと思ってしまう。

 このような例は世界中のあちこちにある。例えば「ペルシャ湾」はペルシャ人のいい方で、アラビア人は「アラビア湾」といっている。中朝国境の「白頭山」も、中国人は「長白山」といっている。韓国が中国に、「長白山を白頭山にしろ!」と抗議したというような話は聞いたことがない。日本海の呼称問題は、要は「日本」が気にくわないだけのことだ。長い日韓の歴史でいえば、韓国人にとって日本は蛮族の住むところぐらいでしか見ていなかった。こともあろうに100年前、そんな蛮族の国、日本に韓国は併合され、民族の誇りはズタズタにされてしまった。それが現在までズーッと尾を引いている。しかし今日、韓国は世界でも有数の経済大国になった。「もうそろそろ狭量のナショナリズムは捨て去りましょうよ」と、船上の韓国人たちにいいたかった。

「イースタンドリーム号」は韓国の東海港を目指して日本海を南下。甲板から飽きずに日本海を見ていると、同じように海を見ていた韓国人のチェ・ジュンホさんに声をかけられた。日本語の上手な方。話をしているうちに、チェさんは韓国・慶尚北道の金泉にある金泉高校の先生であることがわかった。金泉はチェさんの故郷。この地で生まれ、この地で育った。大邱と大田のほぼ中間に位置する金泉は、この地方の商業の中心地。韓国の新幹線KTXも停まるという。

 チェ先生は全部で18人の生徒をひきつれてウラジオストクへ研修旅行に行った、その帰りなのだという。18人の生徒というのがすごい。小中高生の18人で韓国全土から来ている。全員が読書感想文のコンクールで入賞したみなさん。ウラジオストクの研修旅行というのは、入賞のご褒美なのだ。全員が将来の韓国を背負う韓国の頭脳といっていい。「ぼくは今まで40数年間、バイクで世界を駆けめぐってきました」といっただけだが、チェ先生には、「カソリさん、明日、ぜひとも生徒たちに話をして下さい」と頼まれた。ぼくが日本語で話し、それをチェ先生が韓国語に通訳してくれるという。チェ先生の人柄の良さもあってカソリ、「いいですよ!」と快く引き受けた。

 チェ先生と別れると、レストランで夕食を食べ、ふたたび甲板へ。夕日に輝く日本海を見る。やがて真っ赤な夕日が日本海の水平線に落ちていく。「イースタンドリーム号」は北朝鮮沖の暗い海を南下したが、このあたりが一番西の日本海になる。

 翌朝は目をさますとすぐに甲板に上がり、夜明けの日本海を見た。どんよりとした曇空。水平線上には厚い雲がかかっている。日本海には波もなく、「イースタンドリーム号」は穏やかな航海をつづけている。船内のレストランで朝食を食べ、約束の9時にチェ先生やほかの先生方、小中高生18人が待つ部屋に行く。カソリの講演会の開始だ。題して「六大陸を駆ける!」。

 ぼくが初めてバイクで海外に旅立ったのは20歳のとき。それを思い立ったのは17歳のときのことで、「ちょうどみなさんと同じ年の頃でした」と、高校生に向かっていった。小学生の高学年の頃は夢中で「中央アジア探検記」を読み漁り、「大きくなったら中央アジアの探検家になるんだと思っていました」と、今度は小学生たちに向かっていった。それをチェ先生がていねいに韓国語に通訳してくれる。カソリとチェ先生は絶妙のコンビ。さすが「読書感想文コンクール」で入賞した韓国全土から選ばれた優秀な生徒たちだけあって、カソリの話、チェ先生の話に耳を傾け、じっと聞いている。

「結婚して子供が3人できてからもずっと世界をまわっています、人間、ほんとうにその気になれば、なんでもできます、みなさん方もどうぞこれから一人一人の道を歩んでいってください」といったような話でカソリの1時間あまりの講演会は終った。チェ先生や同行の先生方、18人の小中高生のおかげで、忘れられない日本海の船旅になった。

「イースタンドリーム号」はウラジオストクを出港してから22時間後の11時に韓国・東海岸の東海港に入港。鳥取県の境港に向けての出港は18時。半日ほどの時間があるので東海の町をひとまわりする。

 まずは焼肉店での「焼肉パーティー」。うれしいことにカルビー食べ放題。たら腹、肉を食べた。ビールを飲み、焼き肉を食べながら、「環日本海ツーリング」の話題で盛上がる。旅の最後を飾るたまらない時間。同じ体験を共にした仲間なので話題には事欠かくことはない。広い店内にほとんど客はいないのでじつにゆったり、まったりできた。

 次に中心街にある市場を歩く。そこでは韓国人の生活の息吹き、匂いを感じとれる。韓国人は店で買物をするよりも、市場で食料品などを買うことが多い。そのため町中を歩いていても魚屋とか肉屋、八百屋、米屋といった食料品店をあまり見かけない。東海は日本海の港町なので、市場では魚介売場をメインに歩いた。鮮魚売場ではタチウオが一番、目についた。韓国人がタチウオをよく食べるという証明。そのほかタラやスケトウダラ、タイ、サバ、ヒラメ、イシモチなどが並んでいる。イカ売場では生簀の中の活イカと切り身にした塩辛用のイカを売っている。ホヤがうまそう。タコも。市場で一杯、やりたくなるような気分だ。

 市場歩きを終えると、幹線の国道7号に出た。国道7号は釜山から朝鮮半島の東海岸を縦貫し、東海から北へ、江陵、束草と通って北朝鮮国境の高城統一展望台までつづいている。なお北朝鮮側でも日本海側のこの道は国道7号で、韓国国境から元山、咸興、清津と通って中国国境まで通じている。国道7号を走っている車は「韓国車」オンリー、といった感じ。近年の韓国車はすごくよくなっている。これから先、ますます日本車との激突が激しくなることだろう。韓国車は日本車との対決の中で生き残っていけるのかどうか、これは見ものだ。韓国車の動向から目が離せない。そんなことをも考えながらの「東海探訪」を終えて東海港に戻った。

 18時、「イースタンドリーム号」は定刻通り、東海港を出港。さすが韓国のフェリーだけのことをはある。出港時間が次々に変更され、10何時間も待たされたサハリンのホルムスク港からロシア本土のワニノ港に行くフェリー「サハリン7」が思い出されてならなかった。同じフェリーなのに「イースタンドリーム号」と「サハリン7」ではあまりの違い。「イースタンドリーム号」は東海港の岸壁を離れると、港内をゆっくりと進み、やがて港外へと出ていく。日本海に出ると速力を上げ、それとともに韓国・東海岸の山々が次第に遠くなっていく。朝鮮半島が遠くなっていく。何ともいえない寂しい気分に襲われる。日が暮れると甲板から船内に戻り、「環日本海ツーリング」のメンバーたちとの飲み会がはじまった。みなさん方も旅の終わりを感じて心なしか寂しそう。旅の終わりというのは寂しいものなのだ。

 翌朝、夜が明けるとすぐに甲板に上がった。日本海の水平線上には隠岐の島々が見えている。隠岐は島前の中ノ島や西ノ島、知夫里島、島後などから成る群島だが、それらの島々がくっつき合い、ひとつになって見えている。そんな隠岐を甲板の手すりにもたれかかって飽きずに眺めた。やがて前方には出雲神話の故郷、島根半島が見えてくる。その右端(西端)が日御碕、左端(東端)が地蔵崎になる。「イースタンドリーム号」は地蔵崎を目指して、穏やかな日本海を進んでいく。地蔵崎がどんどん大きくなってくる。地蔵崎の美保関灯台がはっきりと見えてくる。

「日本に帰ってきた!」
 という実感が胸に熱くこみあげてくる。

「イースタンドリーム号」は地蔵崎をまわり込んで美保神社のある美保関のすぐ近くを通り、幅の狭い境水道に入っていく。前方には境水道大橋。橋の左手の境港の町並みも見えてくる。そして境水道大橋の下をくぐり抜け、境港のフェリー埠頭の岸壁に到着。時間は9時。韓国の東海から15時間の日本海の船旅だった。境港に上陸するとメンバーのみなさんと別れ、日本海に沿って新潟まで走り、最後は北陸道→関越道で東京に戻った。

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