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  08 ,2019

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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06

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(3)
■2012年3月12日(月)晴 「相馬→石巻」201キロ
 相馬市の蒲庭温泉「蒲庭館」の朝湯に入り、大広間での朝食。この近くには東北電力の原町火力発電所があり、その復旧工事の作業員のみなさんで宿はほぼ満員。温泉卵、のり、塩ジャケの朝食を食べ、8時出発。カソリのV-ストロームが先を走り、斎藤さんの四駆がフォローする。
 県道74号で相馬の町中に入り、県道38号で松川浦に向かう。国道6号の相馬バイパスを横切ると、その途端、大津波に襲われた被災地に入っていく。この国道6号のバイパスという1本の線を境にして、世界がガラリと変ってしまうのだ。それでも松川浦へとつづく被災地一帯の瓦礫は撤去され、乗り上げ船や散乱していた車の残骸はもうほとんど見られない。
 松川浦の漁港は「東日本大震災」から1年たってずいぶんと変わっていた。折り重なるようにして陸地に乗り上げた無数の乗り上げ船は1隻も見られない。目抜き通り沿いのホテルや旅館、食堂の何軒かは営業を再開している。新しいビルの建設も始まっている。漁港には数多くの漁船が集結し、松川浦全体に活気を感じた。
 松川浦漁港を拠点にしての漁が再開され、元通りの賑わいが戻ることを願うばかりだ。 風光明媚な松川浦は北側の原釜と南側の磯部との間にある長さ7キロの潟湖。北端が海への出口で、そこには全長519メートルの斜長橋、松川浦大橋がかかっている。
 松川浦大橋を渡ったところが鵜ノ尾岬。そこから南へ、松川浦東岸の砂嘴が磯部まで延びている。砂嘴上の道は大洲松川浦ラインと呼ばれる快適な2車線の海浜道路。「日本の渚100選」にも選ばれている大洲海岸を通っていく。大洲海岸には大洲公園もある。
 大津波の直撃を受けた大洲海岸の一帯だけで500人近い犠牲者が出た。
 今回の大津波は松川浦東岸の砂嘴をズタズタに寸断してしまった。ものすごい津波の破壊力だ。大津波は地図をも変えてしまった。砂嘴沿いに今、仮設の道路が造られているが、それが完成したらまた大洲松川浦ラインは復活するのだろうか…。
 松川浦大橋は通行止なので、そこから海岸近くの県道38号を北上していく。相馬市から新地町に入ると、新地の火力発電所前を通るが、この石炭火力の発電所は操業を再開している。
 新地に到着。海沿いの町並みは消え去り、JR常磐線の新地駅は跡形もない。高さ21メートルの大津波に襲われた新地の海岸一帯には家一軒、残っていない。まさに荒野の風景。その中に立って、言葉もなかった。
 福島県道38号はそのまま県境を越えて宮城県の県道38号になるが、県境の手前の川にかかる橋は落下したままで通行不能。そこでいったん国道6号に出て宮城県に入った。 国道6号で山元町を通り、亘理町に入っていく。
「亘理」といえば、亘理伊達家の城下町。伊達成実以来、亘理伊達家は15代つづいた。明治維新を迎えると、城下の士族たちは北海道に渡り、伊達紋別の新地を開拓した。JR常磐線の亘理駅は亘理城を模した造りだし、駅前には郷土資料館がある。郷土資料館ではそんな城下町としての亘理の歴史を見ることができる。
 亘理からは県道10号を行く。
 まずは阿武隈川河口の荒浜へ。ここは阿武隈川船運の拠点としておおいに繁栄した。伊達藩の時代は塩釜と並ぶ2大港になっていた。その荒浜が大津波の直撃を受けて壊滅的な被害を受けた。荒浜漁港に行くと、港はずいぶんと整備され、漁も再開されていた。ちょうど漁を終えた漁船が戻ったところでスズキが水揚げされていた。
 漁港の前には仮設の「鳥の海ふれあい市場」がオープンした。マイクロバスでやってきた津波ツアーの観光客たちが海産物を買い求めていた。「東日本大震災」から1年、今ではこのような津波ツアーの大型バスやマイクロバスをかなり見るようになっている。
 荒浜漁港は阿武隈川の河口ではなく、河口の潟湖、鳥の海に面している。その海への出口近くに温泉施設の「鳥の海」がある。大改装して4階建にして間もないのだが、1階部分はほぼ全滅。津波から1年たっているが、再開の見込みはまったくないという。「鳥の海」の前には巨大な瓦礫の山がいくつもできていた。
 荒浜を出発。県道10号に戻ると、亘理大橋で東北第2の大河、阿武隈川を渡り、岩沼市に入っていく。県道20号との交差点を過ぎると仙台空港の滑走路下のトンネルに突入。「東日本大震災」の2ヵ月後に来たときは、このあたり一帯はすさまじい状況になっていた。車の残骸が散乱しているだけでなく、軽飛行機の残骸も何機も見られた。それらの残骸はきれいさっぱりなくなっていた。
 仙台空港の滑走路下のトンネルを抜け出ると名取市に入っていく。
 仙台空港は名前は「仙台」でも岩沼市と名取市の両市にまたがる空港。震災直後の仙台空港はターミナルビルも滑走路も津波に襲われて浸水し、当分の間は無理だと思われたが、なんと2ヵ月もたたずに再開された。仙台空港にいかにすごい津波が押し寄せたかは、その近くの海岸一帯の松林を見るとよくわかる。海岸線の松林はことごとくなぎ倒されている。
 県道10号をさらに北上し、名取川河口の閖上へ。
 高さ20メートルの大津波に襲われた閖上の惨状はすさまじいもので、まるで絨毯爆撃されて町全体が焼き払われた跡のようだ。瓦礫がきれいに撤去されているので、今ではきれいさっぱりと何も残っていない。
 伊達政宗の時代に掘られたという貞山堀を渡り、潟湖の広浦まで行った。ここは荒浜の鳥の海と似た地形。残った橋で対岸に渡ったところには、以前泊まった「サイクルスポーツセンター」がある。建物は残ったが、1階は大津波が駆け抜けた痕跡が生々しく、とても再開できそうには見えなかった。
 ここまで同行してくれた斎藤さんは閖上を最後に、名取ICで高速に入り、横浜の自宅へと戻っていった。
 名取川河口の閖上から県道10号を北上して仙台へ。
 仙台港周辺も大津波で大きな被害を受けたところだが、大半の工場は操業を再開している。ここでは仙台港のフェリー埠頭でV-ストロームを停めたが、ちょうど太平洋フェリーの「いしかり」が名古屋港に向けて出港するところだった。
 県道10号から国道45号に合流し多賀城へ。
 多賀城では陸奥の国府跡、多賀城跡を見る。多賀城跡は無事。「奥の細道」ゆかりの壷碑も無事だ。
 今回の大津波は死者2万1959人を出した明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」同様、日本の史上最大といわれる869年の「貞観の大津波」に迫るものだといわれている。「貞観の大津波」で陸奥の国府は全滅した。多賀城跡だけでの比較でいえば、やはり1150年前の「貞観の大津波」の方がより大きな津波だったということになる。 多賀城から国道45号で塩竃へ。塩竃では奥州の一の宮、塩竃神社を参拝した。
 塩竃から松島へ。日本三景の松島は大津波の被害はそれほどでもなく、シンボルの五大堂や国宝の瑞厳寺にもほとんど被害は見られない。国道45号沿いの土産物店などもいつも通りの営業で、松島湾の遊覧船も運航している。松島湾に浮かぶ無数の島々が、松島を大津波から守ってくれた。
 松島からは海沿いの県道27号を行く。松島町から東松島市に入るとそこは「大塚」。JR仙石線の陸前大塚駅が海岸にある。駅も駅前の家並みもまったく無傷で、大津波の痕跡は見られない。その次が「東名」。ここには東名駅がある。
「大塚ー東名」間はわずか2キロでしかないが、この2キロが同じ松島湾岸を天国と地獄を分けている。ゆるやかな峠を越えて東名に入ると信じられないような惨状。大津波から1年になるが、復興とはほど遠い惨状をそのまま残している。
 東名から野蒜へ。ここも大津波をまともに受けたところ。JR仙石線の野蒜駅前でV-ストロームを停めた。駅前の県道27号の信号は倒れたままだ。無人の野蒜駅構内を歩き、おそらく2度と使われることのないであろうホームに立った。
 野蒜をあとにすると、県道27号から鳴瀬川の堤防上の道を走り、国道45号に合流。東松島市の中心、矢本を通り、石巻市に入っていく。
 石巻では海岸地帯を走った。
 旧北上川の河口をまたぐ日和大橋を渡り、石巻漁港へ。
 漁港周辺の水産加工場や冷凍倉庫はことごとくやられたが、震災から1年がたったというのに、まだ瓦礫がそのまま残っているような状態。
「もう再開しているのではないか…」
 と期待した魚市場の「斉太郎食堂」だが、魚市場には近づくこともできない。石巻魚市場の再開までにはまだまだ相当な時間がかかりそう。石巻の被害は甚大だ。
 石巻からは国道398号で女川へ。渡波で牡鹿半島に入っていく県道2号と分岐するが、この一帯も大津波に激しくやられた。
 ところが万石浦沿いになるとほとんど被害は見られない。石巻市から女川町に入っても、無傷の家並みがつづく。V-ストロームに乗りながら、
「なぜ、どうして?」
 と、思わず声が出てしまう。万石浦沿いの方がはるかに大きな被害が出ても不思議でないような地形だからだ。
 このように津波のメカニズムは不思議だらけだ。
 JR石巻線の浦宿駅前を過ぎると、万石浦を離れ、ゆるやかな峠を登る。峠上には女川高校がある。そこまで全く大津波の痕跡はない。ところが女川高校前を過ぎ坂道を下り始めると、全壊した家々が見られ、全滅した女川の中心街が眼の中に飛び込んでくる。あまりにも無惨な光景。ここでは倒壊してひっくり返ったビルを何棟も見る。
 しかし3・11から1年がたち、女川の町の瓦礫はほとんど撤去されていた。
 女川から国道398号で三陸のリアス式海岸を行き、ふたたび石巻市に入る。
 旧雄勝町雄勝の公民館の屋根上に乗ったバスは3・11から1年を機に下に降ろされたが、雄勝湾の一番奥の雄勝の町には何も残っていない。女川同様、町が消え去った。瓦礫が撤去されているので、よけい異様な光景に見える。まるで遺跡を見るかのようだ。
 雄勝から釜谷峠を越えると東北一の大河、北上川の河畔に出る。そこには新北上大橋がかかっている。橋の一部が流されたので、長らく通行止がつづいたが、今は普通に通行できるようになっている。
 新北上大橋たもとの右手には、今回の大津波では一番の悲劇の舞台になったといっていい大川小学校がある。ここでは80人以上の生徒や先生方が亡くなった。
 大川小学校は北上川河口から約5キロの地点。太平洋から5キロも内陸の地まで、これだけの大津波が押し寄せるとは…。
 新北上大橋を渡り、旧北上町に入っていく。
 2005年4月、平成の大合併で石巻市と雄勝町、北上町、牡鹿町、河南町、河北町、桃生町の1市6町が合併し、今の石巻市が誕生した。石巻市は今回の「東日本大震災」では最大の被害を出したところだが、合併後、いまだにまとまりを欠く新石巻なだけに復興への道のりは遠い…。
 その夜は旧北上町の国道398号沿いの民宿「小滝荘」に泊まった。飛び込みで泊めてもらったのだが、夕食も用意してくれた。
 夕食後、宿の方に話を聞いた。
 1年前の3月11日も寒い日だった。大津波から逃げて生き残った人たちも、その夜の寒さを乗り越えることができず、何人もの人たちが凍死した。3月11日は東北ではまだ冬同然の寒さなのだ。
 北上川河口の堤防上では大勢の人たちが津波見物をしていた。「どうせ4、50センチぐらいの津波だろう」とタカをくくっていた。それが20メートルを超える大津波で車もろとも流された。
 北上川沿いの旧北上町の庁舎は避難所になっていた。避難してきた人たちの中には吉浜小学校の生徒たちもいた。大津波はその庁舎を一気に呑みこみ、80名近くが死亡した。 民宿「小滝荘」は高台にあるので無事だったが、ここには相川小学校3年生の空君がいる。相川は海辺の集落。相川小学校も海岸のすぐ近くにある。
 それにもかかわらず、空君を含めて70余名の生徒、全員が無事だった。地震発生と同時に生徒たちは先生方と一緒に小学校の裏山を駆け登った。足下まで迫る大津波の恐怖との戦いだった。その3日前に相川小学校では津波の避難訓練がおこなわれた。先生や生徒たちは避難訓練通り、迷うことなく裏山に登ったのだ。
 相川小学校の裏山は、大川小学校の裏山よりもはるかに急だ。生徒たちは励ましあい、木の根や草の根につかまって山肌をよじ登った。
 同じ石巻市内の大川小学校と相川小学校、この2つの小学校はあまりの明暗を分けてしまった。

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