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  08 ,2019

世界を駆けるバイクライダー・賀曽利隆(かそりたかし)。 20歳でのアフリカ一周から、60歳還暦での「300日3000湯」ツアーまで、そしてその先へ・・・。地球をくまなく走り続けるカソリの”旅の軌跡”をまとめていきます。


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08

Category: 鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018

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「鵜ノ子岬→尻屋崎2012~2018」(15)
■2013年3月11日(月)晴「いわき遠野→四倉舞子温泉」115キロ

「東日本大震災」から2年後の3月11日の夜明けをいわき市入遠野の「遠野オートキャンプ場」で迎えた。寒い朝だ。おまけに昨夜来の猛烈な風が吹きまくっている。
 東京を出る前に見た新聞では、3月7日現在での「東日本大震災」の死者は15881人、行方不明者は2676人と出ていた。まだ2676人もの大勢の方々が行方不明というのが、何とも重く胸にのしかかってくる。震災から2年もたつと遺体の収容はきわめて難しいとは思うが、日本の国力をあげて、1人でも多くの犠牲者を発見して欲しいと願うばかりだ。それが復興への道の第一歩というものだ。
 明治29年(1896年)の「明治三陸大津波」では21959人もの死者を出したが、行方不明者はわずか44人でしかなかった。これはすごいことだと思う。明治政府は軍を総動員して遺体の発見に全力をあげたという。
 それに対して昭和8年(1933年)の「昭和三陸大津波」では、死者1522人に対して行方不明者はそれよりも多い1542人になっている。津波での犠牲者の発見がいかに難しいかを物語る数字ともいえる。
 さー、朝食だ。
 季節はずれの「遠野オートキャンプ場」には我々しかいない。『U400』編集の谷田貝さんが作ってくれた具だくさんの「朝うどん」を食べる。これが腹わたにしみ込むようなうまさ。そのあとは焚き火を囲んでモーニングコーヒー。谷田貝さん、武田さんとの話がはずむ。この時間が楽しい!
 日が高くなってきたところで「遠野オートキャンプ場」を出発。名残おしい遠野を後にし、県道14号でいわき湯本温泉へ。共同浴場「さはこの湯」に入り、湯から上がると近くの食堂で「タンメン」を食べた。
 東京に戻る谷田貝さん、武田さんとはここで別れ、カソリはいわき湯本ICで常磐道に入り、スズキの250ccバイク、ビッグボーイを走らせる。いったん南へ。次のいわき勿来ICで高速を降り、東北太平洋岸最南端の鵜ノ子岬へ。鵜ノ子岬北側の勿来漁港の岸壁に立った。ビッグボーイのニューカラーのブルーが東北の青い海によく映える。
「さー、行くぞ、ビッグボーイよ!」
 東北太平洋岸最北端の尻屋崎を目指して北へ、まずは小名浜へと、ビッグボーイを走らせる。
 小名浜海岸の臨海工業地帯の復興は速く、大津波の被害の痕跡は注意して見ていないと気がつかないほど。道路も新たに舗装され、段差はなくなり、消えた信号もない。通行止め区間もほとんどなくなり、海沿いの県道239号のごく一部の区間が通れないだけだった。
 小名浜の臨海工業地帯から小名浜漁港へ。魚市場は再開されているものの、風評被害をまともに受けて水揚げされる魚も少なく、小名浜漁港は閑散としていた。
 ここで運命の14時46分を迎えた。町中に鳴り響くサイレンの音に合わせ、海に向かって1分間の黙祷をした。
 2年前の2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするM9・0という超巨大地震が発生した。M9・0以上の大きな地震をM8・0以上の「巨大地震」と区別して「超巨大地震」というが、日本では記録されたことがないような大きな地震だった。明治三陸大津波をひき起こした地震はM8・5、昭和三陸大津波をひき起こした地震はM8・1なので、それらをはるかに上回っている。
 三陸海岸には昭和35年(1960年)にも「チリ沖地震津波」が押し寄せ、岩手県の大船渡などが大きな被害を受けたが、このときのチリ沖地震はM9・5。20世紀以降では世界最大の地震になっている。
 小名浜を出発。ここからは三崎、竜ヶ崎、合磯岬、塩屋崎、富神崎といわき市の岬をめぐる。岬と漁港はセットのようなもので三崎には小名浜漁港、竜ヶ崎には中之作漁港、合磯岬には江名漁港、塩屋崎には豊間漁港、富神崎には沼ノ内漁港がある。
 これら岬の風景は大津波以降も何ら変わりが無いが、中之作漁港にしても江名漁港にしても豊間漁港にしてもかつてのにぎわいはなく、どこもひっそりとしている。東京電力福島第1原子力発電所の爆発事故による風評被害の大きさを見せつけられる光景だ。
 美空ひばりの歌碑の建つ塩屋崎を境にして北側が薄磯海岸、南側が豊間海岸になるが、ともに堤防を乗り越えた大津波によって、豊間も薄磯も大きな被害を受けた。いわき市内では最大の被災地だ。
 豊間では大勢の人たちが集まって盛大な慰霊祭が行なわれていた。次々にやってくる人たちが祭壇に花を供え、海に向かって手を合わせている。慰霊祭の会場や堤防の上にはキャンドルが置かれている。その数は3500にもなるという。地元のみならず、日本各地から送られたキャンドルもある。日が暮れると、いっせいに火が灯されるという。薄磯の方ではすでに慰霊祭は終ったのか、人の姿はほとんど見かけない。堤防のすぐ下の新しい慰霊塔に手を合わせた。
 塩屋崎の北に富神崎がある。
 富神崎の南側が薄磯で大津波の直撃を受け、集落は全滅した。すさまじいやられ方だ。多くの犠牲者も出ている。ところが岬北側の沼ノ内の集落はほとんど無傷のように見える。堤防のすぐ内側に家々が建ち並んでいるが、壊れた家は1軒もないし、ここでは1人の犠牲者も出ていない。地元のみなさんは富神崎が集落を守ってくれたといっている。
 沼ノ内を過ぎると、潮風を切って太平洋岸を走る。新舞子海岸の松林の中を走る。この道は県道382号。地震直後は夏井川にかかる橋に大きな段差ができ、しばらく通行止めがつづいたが、今ではきれいに舗装されてそれもわからなくない。
 今晩の泊まりは四倉舞子温泉の「よこ川荘」。おかみさんにまずはお礼をいう。震災の復旧工事や放射能測定の業者のみなさんが泊まり、ほぼ満室だったにもかかわらず、かなり無理して部屋を空けてくれたのだ。
「よこ川荘」には『ツーリングマップル東北』を持って東北各地をまわっている古山里美さんと、地元、楢葉町の渡辺哲さんが来てくれた。
 夕食の膳ではまずはビールで犠牲者のみなさんに「献杯」。夕食を食べながら渡辺さんには浜通りの現状をいろいろと聞く。古山さんには今日1日まわったところの話を聞いた。
 大広間での夕食だったが、同じテーブルで食事をしている女性がいた。震災2年後ということで、札幌からやってきた小田原真理子さんだ。何と小田原さんは被災地のみなさんに「鎮魂の舞踊」を見てもらいたくてやってきた。札幌にはご主人とお子さんたちを残してきたという。そんな小田原さんは食事がすむと「アベマリア」と「ラブ」の2曲に合わせて「鎮魂の舞踊」を踊ってくれた。一心不乱になって踊りつづける小田原さんの姿は感動的で、我々のみならず、「よこ川荘」のおかみさんもすっかり心を奪われてしまったようだった。
 小田原さんと別れ、部屋での飲み会を開始する。被災者の渡辺さんの差し入れだ。
 渡辺さんの実家は楢葉町。爆発事故を起こした東電福島第1原発の20キロ圏内ということで、いまだに自宅には戻れない。すでに大津波から2年もたっているというのに家族がバラバラになってしまった。そんな大変な思いをしているのだが、そこはライダー特有の明るさとでもいおうか、渡辺さんと話しているとかえって元気をもらってしまう。気持ちがいつも前向きなのだ。
 渡辺さんの差し入れをすべて飲み尽くしたところで飲み会終了。渡辺さんとは枕を並べて寝た。明日は「よこ川荘」からバイクで出社するという。

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