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「オーストラリア2周」前編:第3回 メルボルン→アデレード

 (『月刊オートバイ』1997年3月号 所収)

 オートバイ・ツーリングのおもしろさは、いろいろなところで、いろいろな人たちに出会えることだ。
 タスマニア島一周を終え、メルボルンに戻るフェリーでは、初めて日本人ライダーに出会った。メルボルンでは3年がかりで「世界一周」した女性ライダーの話を聞いた。
 そんな思い出を胸に、メルボルンから大陸を西へ、アデレードへと向かう。行く手には広大な世界が広がる!

日本人ライダーとの初の出会い!
「タスマニア島一周」では、さんざん寒さに悩まされたが、メルボルンへのフェリーが出るデボンポートに着くころには、あたたかな日差しが射し込め、ホッと一息つくことができた。
「ありがたい‥‥」
 我らライダーには、太陽が一番。何よりもの贈りものだ。
 来たときと同じ、真っ白な船体の「スピリット・オブ・タスマニア号」(3万1350トン)に、スズキDJEBEL250XCともども乗り込んだ。
 Kデッキのキャビンに荷物を入れ、さっそくシャワーを浴びる。ジーパンに着替え、バーに行き、地図を見ながらキューッとビールを飲む。
「今、旅している‥‥」
 といった、しみじみとした幸福感を味わえる瞬間だ。

 18時、フェリーはデボンポートを出港。
 いったん部屋に戻ったあと、さあー、食事だと、レストランへ。
 そのとき通路で、
「カソリさんですよねー」
 と、声をかけられた。
 ハンターカブのホンダCT110で、「オーストラリア一周」中の植松幸史さんだ。
 ぼくにとっては記念すべき!?最初の日本人ライダーとの出会いになる。CT110といえば、オーストラリアではポストマンの郵便配達用のオートバイだ。
「一緒に夕食を食べようよ」
 ということになり、もうひとりの日本人旅行者、バスで旅しているバスダーの永野達夫さんも加わって、3人でワインを飲みながら食事した。

 植松さんは日本の「ラフ&ロード」で仕事して旅の資金を稼ぎ、シドニーでCT110を買ってここまできたが、僕と同じように冬の寒さに泣かされた。
 熱を出して何日も寝込んだこともあるという。
 彼には後に、“王様”というラウンドネームがつくのだが、“王様”とはこのあとアデレードで、グレンダンボで、シドニーでと、この広い大陸で3度も再会することになる。 永野さんはグレハン(グレイハウンド)の「オーストラリア一周」パスを買い、時計回りで大陸を一周中。このパスは時計回りか、反時計回りの一方通行で、途中での逆回りはできないという。
 彼には後に“磯野カツオ君”というラウンドネームがつくのだが、やはりアデレードで再会することになる。
 このような旅人同士の出会い、再会が「オーストラリア一周」の大きな魅力になっている。

メルボルン湾を一周
 船底のKデッキ(一番安いクラス)では、オーストラリア人ライダー、メルボルンのマイケル・ミールメーカーさんと隣同士のベッドになった。
 彼はDUCATI900SSを走らせ、冬のタスマニア島を一周したのだが、
「いやー、寒かったよー」を連発する。
「寒い、寒いよー」が、我々のあいさつ言葉だ。
 マイケルには、いろいろなことを教えてもらった。地図を広げ、ビクトリア州のツーリングコースの情報も、彼から得ることができた。

 翌朝、「スピリット・オブ・タスマニア号」がサウスメルボルンの港に着くと、1日がかりでメルボルン湾をぐるりと一周することにした。
「メルボルン湾一周」は、マイケルおすすめのツーリング・コースなのだ。
 メルボルン湾というのは、僕が勝手につけた名前で、正しくはポートフィリップ湾(ベイ)という。
「メルボルン湾一周」は、東京から横浜に行き、三浦半島に入り、久里浜からフェリーで金谷に渡り、千葉を経由して東京に戻る「東京湾一周」のようなものだ。
 メルボルンから、反時計回りでメルボルン湾を一周する。
 R1のプリンセス・ハイウエーでジーロンへ。その間はフリーウエーだ。ジーロンの海辺のレストランで昼食。羊肉のゴッソリ入ったラムカレーを食べた。
 ジーロンはビクトリア州でも有数の大きな町。ここからベラリーン半島に入っていく。その先端がクイーンズクリフ。要塞の残る歴史的な町だ。

 ベラリーン半島のクイーンズクリフからは、2時間に1本のフェリーで、対岸のモーニングトン半島のソレントに渡る。
 フェリー代は16ドル、日本円で約1360円になる。
 このあたりは、メルボルン湾からバス海峡への出口にあたる。東京湾でいえば、浦賀水道といったところだ。タスマニア島への行き帰りのフェリーもここを通った。
 40分あまりのフェリーの旅を楽しみ、モーニングトン半島のソレントに到着。そこからは海沿いのルートでメルボルンへ。
 ベラリーン半島やモーニングトン半島は、三浦半島や房総半島に比べるとはるかに半島全体がなだらか。さすがに大陸の半島は違う。夕暮れとともにメルボルンの中心街に戻ったが、全行程200キロの「メルボルン湾一周」は心に残るものだった。

世界一周の日本人女性ライダー
「メルボルン湾一周」から戻ると、日本人女性の熊田敦子さんを訪ねた。
 彼女はマイルス・ノットさんと一緒に住んでいた。熊田さんはすごい人なのだが、相棒の高橋宏彰さんと、なんと3年がかりで「世界一周」をなしとげたのだ。
 1992年6月、イギリスに2台のホンダCT110を送り出し、ロンドンをスタートし、ヨーロッパ→アフリカ→アジア→オーストラリア→南米→北米と、世界の6大陸10万5000キロを走り、アラスカのアンカレッジをゴールにした。
 アフリカ大陸縦断が大きな難関だった。
 モロッコからモーリタニアへのサハラ越えでは、国境で何日も足止めを食らった。カメルーンでは強盗に襲われ、ザイールでは暴動に巻込まれ、ウガンダでは雨期の悪路に立ち往生した。そんな困難にもめげずにアフリカ大陸南端のケープタウンに到着したのだ。
 1993年の正月をアフリカで迎え、94年の正月をインドのカルカッタで迎え、95年の正月を南米・ペルーの片田舎で迎えた「世界一周」だった。

 熊田さんは自転車での「日本一周」を思い立ち、東京でのOL生活にピリオドを打って旅立った。沖縄の西表島でオートバイで「日本一周」中の高橋さんと出会い、それがきっかけで2人は「世界一周」をすることになった。高橋さんは、片足が義足というハンデを乗り越えての「世界一周」だった。
 石川県の山代温泉に住んでいる高橋さんから、オーストラリアへの出発前に手紙をもらい熊田さんの住所を知った。
 マイルスも熊田さんに負けず劣らずのツワモノ。
 ヤマハのテネレでアジアを横断し、ヨーロッパを走り、アフリカ大陸を縦断した。やはり10万キロ以上走っている。その旅の途中で熊田さんに会ったのだ。
 マイルス&アツコは、いいコンビなのだ。

 2人に誘われパブに行った。パブでは食事もできる。ぶ厚いステーキを食べ、そのあとは、夜中の12時過ぎまでビールを飲んだ。話が尽きないのだ。
 ひと晩、マイルス&アツコの家に泊めてもらい、翌日は3人でマイルスのお母さんの農場に行く。メルボルンの北100キロほどのところにある。牛、馬のほかに愛犬のビーグル犬がいる。マイルスのお姉さんのカーリーとボーイフレンドのマイケルもやってくる。 日が暮れると、農場でのバーベキュー。
 焼きたてのソーセージをパンの上にのせ、トマトソース(ケチャップ)をかけて食べるのだが、これがうまい! 
 ビーフ、チキン、ポークの、ジューッと音をたてて焼き上がった肉を肴にビールを飲んだが、これがまた、うまい!

 見上げる夜空は満天の星空。天ノ川がよーく見える。
 英語ではミルキーウエーだが、その言葉通りで、まるでミルクを流したかのような無数の星。その中に南十字星が光り輝いている。
 このあたりには、よくコアラがやってくるという。
 コアラの鳴き声というのは、あのかわいらしい姿とは似ても似つかないもので、
「グヒェー、グヒェー」
 という、ロバの鳴き声とブタの鳴き声をミックスしたようなすさまじいものだという。ぜひとも、その鳴き声を聞きたいものだと思ったが、残念ながらコアラはやってこなかった。
 名残おしい農場だったが、10時過ぎにマイルスのクルマでメルボルンに戻り、そしてもう1晩、マイルス&アツコの家に泊めてもらった。

 翌朝は、オレンジジュースとコーンフレイク、トーストの朝食をごちそうになる。
 トーストにベジマイト、ハニーをつけて食べていると、アツコさんに、
「カソリさんは、もう、立派なオーストラリア人。日本人ってなかなかその味になじめないんですよ」
 と、ほめられた。
 2人の見送りを受け出発。マイルスとアツコさんは、家の前で、いつまでも手を振りつづけてくれた。そんな2人の姿がバックミラーから消えていく。

グレートオーシャンロードを行く
 さーて、アデレードだ。
 メルボルンからR1でジーロンへ。そこからR1よりも1本南の、海沿いのグレート・オーシャン・ロードを行く。
 このグレート・オーシャン・ロードは間違いなくオーストラリアのツーリングコース・ベスト10に入るようなルートなのだ。
 その日は日曜日ということもあって、ツーリング・ライダーとひんぱんにすれ違う。
 オートバイの大半は、大排気量のロードタイプ。サイドカーがけっこう多い。ピースサインを送ってくれるライダーもいる。

 トーキー、ローンとオシャンリゾートを通り、アポロ・ベイで昼食。ここからポート・キャンベルまでが、グレート・オーシャン・ロードのハイライトといったところだ。
 大陸がそのままストーンと海に落ち込み、断崖をつくっている。
 ポート・キャンベルに近づいたところに、“12人の使徒”と呼ばれる12の岩がある。日本でいえば、南紀の橋杭岩のようなもの。それぞれの岩が聖人に見えるので、“12人の使徒”の名がある。
 その先に“ロック・アード・ゴージ”がある。ゴージといえば、峡谷のこと。断崖が波に浸食され、切り立った峡谷をつく出している。この風景は、日本にはちょっとない。なお、“ロック・アード”というのは、この断崖の沖合で難破した船の名前である。
 ポート・キャンベルでは、海岸にDJEBEL250XCを止め、夕日に照らされた海を眺める。透き通った海と夕空。絵のように美しい風景だ。こうして、200キロあまりのグレート・オーシャン・ロードの走りを楽しみ、R1のプリンセス・ハイウエーに合流した。

ポリスとプールの女の子
 ビクトリア州の西の町、ポートランドからは、R1のナイトランでサウスオーストラリア州に向かう。
 天気は崩れ、ドカーッと雨に降られる。冷たい雨。雨を抜け出ると、今度は霧。体の芯まで凍りつくような冷たい霧に泣かされる。視界が悪く、仕方なくゴーグルをはずし、裸眼で走った。
 霧がはれたところで、道のわきにひそんでいるパトカーを発見。
 DJEBEL250XCのライトはきわめて明るく、なおかつ照射範囲が広いので、螢光塗料で書かれたPOLICEの文字をすばやくキャッチすることができたのだ。
 思ったとおりだ。バックミラーの中に、ポツンと車のライトが映り、ドンドンと近づいてくる。そしてある程度の距離を置いて、ピタッと後につかれる。DJEBELの速度を90キロ前後にキープして走る。このあたりのR1の速度制限は110キロなので、速度違反で捕まることはないが、あまり気持ちのいいものではない。

 10キロあまりも、パトカーにピタッとつかれたが、やっと追い抜いていった。
 ホッとした。
 追い抜いていったパトカーに、
「やー、ご苦労さん!」
 と、手を振ってあげたいような気分だ。
 そのすぐ直後のこと。対向車が猛烈なスピードでカッ飛んでくる。150キロは楽に超えているだろう。パトカーはキュキューッとブレーキ音をきしませてUターンし、赤青灯を点滅させ、その車を追っていった。
 オーストラリアのポリスカーは、対向車のスピードチェックもやっている。

 メルボルンとアデレードを結ぶ一番の幹線はR8なので、州境近くの、それも夜間のR1はほとんど交通量がない。自分ひとりが、ただひたすらに走っているといった感じなのだ。カンガルーの飛び出しに怯え、強烈な睡魔と闘いながら、ビクトリア州からサウスオーストラリア州に入る。ここで、30分の時差がある。
 21時30分、州境近くのマウント・ガンビエールの町に到着。
 メルボルンから560キロ。
 町の入口にあるモーテル「ジュビリー・モーター・イン」に泊まる。1泊40ドル。日本円で約3400円だ。
 ここの旦那と奥さんは、ともに“お人好し”を絵にかいたような人。日本語を知っているといって、
「サヨナラ、サヨナラ」
 と、あいさつをする。
「“さよなら”は別れのときのあいさつで、出会いのあいさつは“こんにちわ”、夜だと“こんばんわ”なんですよ」
 そう教えてあげると、夫婦は声をあげて笑った。

 ここにはインドアの温水プールがあるとのことで、奥さんは
「ぜひとも入りなさい」
 といってくれる。
 部屋で熱い湯のシャワーを浴び、生き返ったところで、その温水プールに行く。水着に着替え、15メートルくらいのプールで思いっきり泳いだ。すごーく気持ちいい!
 まさか、ほかには誰も来ないだろうと思っていたら、若いカップルがやってきた。このプールには、更衣室はない。プールサイドで着替えるのだ。
 目が点になってしまうというのはこのことで、女の子は躊躇することなく服を脱ぎ、なんと白い下着のパンツの上にTシャツという恰好でプールに入ったのだ。彼女は水着を持っていなかった。
 彼女はひと泳ぎすると、プールサイドに上がったが、それはあまりにも刺激の強すぎる光景‥‥。
 濡れて透けたTシャツごしに、彼女の豊かな胸のふくらみと、プチュンと突き出た乳首が、はっきりと見えてしまうのだ。たまらないゼ、おい、おい!!
 こんないい思いをしたマウント・ガンビエールから450キロ走り、翌日、アデレードの町に到着した。

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■コラム1■カソリのワンポイント・アドバイス
 オーストラリア人は、アメリカ人と同じように、ハンバーガーが大好きだ。
 それを証明するかのように、「マクドナルド」はオーストラリア最大の外食チェーンになっている。もうひとつのハンバーガー・チェーンの「ハングリー・ジャックス」もオーストラリアの外食チェーンの5本の指に入る。
 ちなみにオーストラリアの外食チェーンの御三家といえば「マクドナルド」、「KFC(ケンタッキー・フライドチキン)」、「ピザハット」で、アメリカとまったく同じだ。「マクドナルド」や「ハングリー・ジャックス」は、シドニーやメルボルンのような大都市には何店舗もあるし、ちょっとした町にはたいてい、ある。
 またハイウエー沿いのロードハウスにも数多くの店舗がある。

「マクドナルド」や「ハングリー・ジャックス」などのハンバーガー・チェーン店は、たしかに便利でなおかつ安いのだが、はっきりいってまずい。
 うまいハンバーガーを食べようと思ったら、チェーン店ではない店の、ホームメードのハンバーガーを食べることだ。
 焼き立てのハンバーグをはさんでくれるし、焦げ目のちょっぴりついたパンの味もすごくいい。さすがオーストラリアの“国民食”と思わせるだけの味のよさがある。
 おすすめはビッグ・ハンバーガーだ。
 それをハンバーガー・ウイズ・ア・ロットという。
 文字通り、いろんなものの入ったハンバーガーで、ベーコンやチーズ、エッグ(目玉焼き)、パイナップル、トマト、レタス、オニオン、ビートなどがはさまっている。値段は5ドル前後。日本でいえば、ラーメンを一杯食べるくらいの値段だが、これひとつで十分に満腹になる。
 ハンバーガー・ウイズ・ア・ロットは、厚さが10数センチにもなるぶ厚いもので、最初のうちは慣れなくて具をポロポロこぼしてしまう。ところが、「オーストラリア一周」の旅に慣れてくると、ほとんどこぼさずに上手に食べられるようになる。オーストラリアを離れて一番なつかしくなるのは、この味だ。

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■コラム2■1973年版の「オーストラリア2周」

ヒッチハイクでの「オーストラリア一周」
 1973年の「オーストラリア一周」ではシドニーを出発点に、そして終着点にして、大陸を2周した。最初の1周目はヒッチハイクで、2周目は、2サイクル250㏄のオフロードバイク、スズキ・ハスラーTS250を走らせた。
 2周とも反時計回りで大陸を回った。
 ヒッチハイクでの「オーストラリア一周」では全部で88台のクルマに乗せてもらった。 そのときのヒッチハイクの仕方というのは、クルマに乗せてもらうまで歩くという方法で、毎日、20キロぐらいは歩いた。30キロ以上歩いた日もある。
 さすが、オーストラリアと思わせたのは、何台ものクルマに1000キロ以上の長い距離を乗せてもらったことだ。1台の車に2000キロ以上、乗せてもらったこともある。途中で運転を変わるという条件で乗せてもらったこともある。
 なにしろ、超貧乏旅行だったので、宿泊費は完璧にゼロ。毎夜、野宿をしたが、クルマに乗せてくれた人の家に泊めてもらったことも何度かあった。それも、食事つき。ヒッチハイクには、このような、うれしいオーストラリア人との出会いがつきものなのだ。

ユーゴ人のブラド
 2000キロ以上の長距離を乗せてくれた1人に、ユーゴ人のブラドがいる。
 彼は僕と同年代の青年で、19歳のときに、新大陸のオーストラリアに単身で移住した。ユーゴの貧困と不自由さから逃れたかったという。
 彼はノーザンテリトリーの熱帯雨林地帯でワニの密猟をやっていた。
「真夜中の川を明かりひとつで下っていくんだ。ワニを見つけてパーッとサーチライトを照らすと、ワニはまったく動けなくなってしまう。そこを銃でねらい撃ちにするんだ。1ヵ月で、5000ドル、もうけたこともあるよ」
 と、得意気に話してくれた。

 当時の5000ドルというのは、大変な額のお金。オーストラリア・ドルはアメリカ・ドルよりもはるかに高く、1ドルは402円だった。ちなみに現在(1996年)は90円前後。今回の「オーストラリア一周」に出発した96年5月は1ドルが85円だった。
 ブラドはワニの密猟でもうけた金を貯め、それを資金にしてオパールの原石を買いあさっていた。
「ワニの密猟はヤバイので、もうそろそろ、それをやめて、オパールを世界中に売りまくる」
 といっていた。

 ブラドはオーストラリアにやってきてよかったといったが、その反面では、彼はオーストラリア人を嫌い、憎んでもいた。彼にいわせると、オーストラリア人は調子がよくて、ずるくてまったく信用できないという。
 おそらく、彼がオーストラリアに来たころは、英語もあまり話せず、この国に慣れていなかったこともあり、まわりの人たちに冷たくされていると、思い込んだからだろう。
「オーストラリア人とはいっても、もとはといえば、自分と同じ移民なのだ。それなのにヤツらときたら、新しく移民してきたオレたちをバカにして」
 と、ブラドは怒っていた。

 ヒッチハイクしていると、オーストラリアが、いろいろな民族の混じりあった国だということがよくわかる。というのは、いろいろな民族の人たちに乗せてもらったからだ。
 日本人は海外に出ると、日本人だけでかたまるとよくいわれるが、それは何も、日本人に限ったことではない。
 ドイツ系はドイツ系でかたまり、フランス系はフランス系で、イタリア系はイタリア系で‥‥と、民族ごとにかたまり、おたがいに他民族のことはよくいわない。
 ブラドにしても、途中で立ち寄った友人たちのすべてが、ユーゴ人だった。

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

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