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『アフリカよ』(1973年7月31日・浪漫)第一章(その6)

南シナ海をこえて
 北回帰線を越え南シナ海に入り、船は香港にむかう。水平線のむこうに、かすかに中国大陸が見える。漁をしているのであろう、独特の帆をつけた小舟がたくさん見える。
 昼食を知らせる鐘の音で目をさます。船は香港に近づいていた。九竜(クーロン)や香港島のニョキニョキと空に伸びた高いビルがやたらと目につく。ルイスは沖に停泊した。昼食のあと、ランチで九竜に渡った。まずぼくたちが驚いたのは、女の子の足だった。ぶかっこうな足ばかり見て二十年も育ったぼくたちにとって、スラッと伸びた中国の女の子の足は驚異だった。物のない釜山からきたので、香港の豊富なものが、ひときわ目についた。九竜の中心街を歩きまわっていったん船に戻り、夕食のあとは香港島に行った。五時間も歩き、クイーンズピアーから、夜中の最後の便のランチでルイスに戻った。そのあとは、まばゆいばかりの香港の夜景を見ながら、甲板で酒盛りである。
 次の日は、午前中は九竜の中心街を見てまわり、午後は歩いて歩いて、歩きまくった。メインストリートのネイザン通りをどこまでも行き、タイポー通り、ランチェン通りと行くと、九竜の町並みや港、景徳飛行場などが、一望のもとに見わたせる高台にくる。歩き疲れて草の上で眠ってしまった。頭の上を飛ぶジェット機の爆音で目をさまし、サンポーコンのスラム街に行く。あたり一面に漂うなんともいえない強烈な臭い、狭い道の両側に続く露店。そこでは、野菜、魚、雑貨、生きたにわとりやあひる、洋服、布、おもちゃ、となんでも売っていた。人、人、人……耳がへんなふうになってしまいそうな、いろいろな音が混ざりあった雑音、そこには日本のスラム街では見られないような明るさがあった。ぼくはそこに、すでに日本では見ることのできなくなってしまった東洋独特のバイタリティー、といったようなものを見たような気がした。のどがかわいたので、露店でパイナップルを食べると、ひときれ五セント(当時で約三円)、おなかがすいたので油っこい味つけのそばを食べると、一ぱい一〇セント(約六円)といった具合。(こんなところで、一年ぐらい住みたいな)、そう思った。
 その次の日、九竜駅から九広鉄道で、中国との国境にむかう。九時三十分発の十二両編成の緑色のジーゼルカー。油麻地(ユマテ)、沙田(シャティン)、大学站(ユニバーシティステーション)、大埔※(※=左にさんずい、右に上からウ冠、ハ、吉:タイポーカウ)、大埔墟(タイポマーケット)、粉嶺(ファンリン)と通って上水(シェウンスイ)に十時三十分に着く。国境の駅、羅湖(ローウー)まで行きたかったが許されず、上水で降り、バスに乗った。元朗(ユェンロン)行きのバスに乗って途中で降り、そこから歩き、香港領新界と中国を分ける深※(※=土へんに川:シャンチュン)河を見下す高台に行った。おだやかな田園風景が広々と広がる。その中に、やさしい感じの山々がいくつか見えた。そんな風景をぶちこわすかのように、バリケードが幾重にも張りめぐらされていた。ぼくは小さい頃から、中央アジアに異常なほど興昧を持っていた。ヘディンやスタイン、ヤングハズバンド、大谷探険隊などの探険記を、目を輝かせ、夢中になって読みふけったものだ。いつしかぼくは、チベットやタクラマカン砂漠、天山の山々、さらにはトルファンの盆地からゴビ砂漠へと、アジア大陸の奥深い一帯をさまよう自分自身の姿を思い浮かべては、幼い心をときめかせていた。目の前に広がる中国大陸を見ていると、有刺鉄線を越え、川を越え、はるかかなたの、アジア大陸の奥地を目指して、流浪の旅を続けたい、そんな強い衝動にかられた。夢みるようなぼくの感傷を破るかのように、子供たちがやってきた。
「金、おくれ」
「ないよ」
「うそつけ」
「ほんとにない」
「ケチンボー、ケチンボー」
 子供たちは日本語でケチンボーと言った。だれが教えたことやら。
 四月二十四目、ルイス離岸。南シナ海をシンガポールヘ。赤道に近づく気配。とにかく暑い。一日中ベッドでごろごろ。日が沈んで、星がおおう夜になると甲板に上がって汐風に吹かれる。
 四月二十八日早朝、シンガポール。香港を出てから四日目である。きびしい日射しに慴伏(しょうふく)したように日中は閑散としているが、太陽の退散とともに、町じゅうはにわかに湧きはじめる。イギリス大帝国が東半球制覇のために打ちこんだ楔であった大要塞、植民地主義の象徴であったなごりの華やかさというものだろう。港を目の前にしたシーサイドパークの一角には、日本軍のシンガポール占領時代を思い出させる記念塔が建っているのだ。
“Memorial to the civilian victims of Japanese occupation, 1942~1945”と刻まれてあった。
 シンガポール港では、盗難がとても多いとのことで、全員が交替で盗難防止のために見張りをすることになった。夜中の二時頃おこされて、二時間ほど寝ずの番をするのだから楽ではない。
 ルイスがシンガポールを出港する前の日、ぼくはバスでジョホールに行った。気味が悪いほど赤い熱帯性赤色土。マレー半島とシンガポール島の間のジョホール水道にかかる唯一の橋を渡ると、マレーシアのジョホール。その橋を、クアラルンプールから来た汽車が、シンガポールにむかって進んでいった。
 ルイスは五日間、シンガポールに停泊したが、その間ぼくたちは、毎日毎晩、シンガポールの町をさまよい歩いた。
 五月二日夕刻、船はシンガポールを離れる。マラッカ海映。島々をあかあかと染める夕日。それはほんとうに染めているのだ。見ているこっちの眼まで染まりそうな強烈さ。
 ポートセッテンハム、ペナンと寄港し、インド洋に入る。インド洋に入ったことは、船の揺れかたでわかった。豪快ともいいたいほどの揺れかたで、たちまち船酔いする人が続出する。食事の鐘が鳴っても食べられない人ばかり。食べものはほとんど残ってしまう。ぼくはどうしたかというと、不思議にも酔わない。そのころはすっかり食事になれていたので、ずうずうしくも、ひとりでモリモリ食べる。船酔いしないのは鈍い証拠だなどと口だけ一人前に悪態つく人の顔ときたら、気の毒でふためとみられたものではない。いつも明るいおてんばぶりでぼくたちをたのしませてくれる海※(ハイウン)も、この時ばかりは真青な顔でかたなしだ。その大荒れは二日ほどで峠をこえて、一同胸をなでおろしたが、こんどはブラジルの田村さんが盲腸になった。「ボニーヤン」というのはポルトガル語でビー玉のことだそうだが、そのボニーヤンという愛称そのままのふっくらとした田村さんが盲腸だと聞かされて、さすがにまいってしまった。ブラジルのサントスまで散らし続けるしかないそうだ。
 人ごとではない。ぼくもじつは盲腸をもって来た。出発前に「盲腸を切ったら」となんどか言われたが、がんばってそのままつけて来ている。もしアフリカの奥地で盲腸にでもなったら、それこそ田村さんどころのさわぎではない。そんなことに今ごろ気づいても、どうすることもできるわけがない。
 五月八日、赤道通過。インド洋の船旅はひたすらに暑く、ものうく、単調だ。長いのだ。やることもないままに、マージャンをしたり、甲板ですもうをとったり。やっと日が沈み、甲板に生気がよみがえる。大声をはりあげて歌う人、踊る人。水平線につづく、おそろしいような星の明るい輝きに、ぼくはいつまでも見入っていた。
 朝だ。いつものように六時前に起き、甲板に上がった。すばらしい虹を見つけた。見ていると、もう一本べつの虹ができて二本になった。びっくりするほど鮮やかな色彩と実在感がある。どうもその虹にむかって船は進んでいるようだ。だんだんと虹が近づき、とうとう手が虹の根もとに届くような、というところで虹は二つともスーッと消えてしまった。インド洋のまぼろし。ものすごい速さでとびかう飛魚たちが、朝日を浴びて、キラキラと輝いていた。
 五月十四日、モーリシャス島のポートルイス。

(解説)
 モーリシャスは二ヵ月ほど前に独立したばかりで、面積は沖縄に毛のはえた程度。人口密度がきわめて高い。複雑な人種構成が大きな問題。人口の半数をインド人が占め、残りはアフリカ系、ヨーロッパ系、中国系の人たち、その他混血、先住民族はいないそうだ。人種構成が複雑なのだから、当然宗教も複雑になる。ヒンズー教、キリスト教、仏教、自然崇拝となんでもそろっている。モーリシャスの独立が決まると、民族どうしの対立がいっぺんに火を吹き、大暴動がおきた。ぼくたちが島をめぐったときも、バスや建物に生々しい銃弾の跡を見た。
 この国の産業といったら砂糖きびだけ、といった感じ。日本商品のはんらんは、こんな小さな島国にも押し寄せていた。日本製乗用車、オートバイ、ラジオなどがやたらと目についた。ポートルイス港は日本漁船の基地である。韓国や台湾の漁船とならび、日の丸をつけた日本の漁船が数多く見られた。のちにロンドンのYMCAに泊ったとき、この町から来たという中国人留学生に会った。この人がゆううつそうに語った言葉が耳にのこった。
「モーリシャスは悩みの多い国なんだ。おまけにソ連にもねらわれているんだからやんなっちゃう」
 ソ連はインド洋の軍事的な基地としてモーリシャス島を重要視している。ぼくたちがポートルイスに着いたとき、ソ連の情報収集船と思われる船が二隻停泊していた。このような動きに対して、南アやモザンビークは特に神経質になっている。
(以上解説)

テーマ : 海外旅行記
ジャンル : 旅行

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